全力で投げ捨てる

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SQ4
キャラクター紹介
ピルグリム タルシスの冒険者達 その他の人々
序章
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第五迷宮
20 21 22
終章
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世界樹の迷宮IV 伝承の巨神

キャラクター紹介

ピルグリム

好奇心旺盛でお人好しが集まるギルド。なんでもかんでも首を突っ込む。

アティ
女、19歳。とある理由で家出した、北国貴族のお嬢様。丁寧な口調で物腰柔らかだが頑固。機械いじりが得意。
マオ
男、28歳。アティの家に住み込む医者で、彼女を連れ戻しに来た。田舎出身。一歩退いているように見えて心配性。
エリザベス
女、20歳。家系代々辺境伯に仕える騎士。口やかましいが面倒見はいい。父の仇を探している。
ドミニク
男、18歳。タロットと呼ばれる民族で、旅の冒険者。女好きだがそれ以外の感覚はまともなツッコミ。
ニーナ
女、年齢不詳(幼女)。喋らないちびっこ迷子。声は出る。食欲旺盛で何でも食べようとする。トラブルメイカー。

タルシスの冒険者たち

ピルグリムに関わる冒険者たち

カナン
女、二十代前半。追われる身の元暗殺者。無愛想で人を寄せ付けない雰囲気を持つが、流されやすく乗せられやすい性格。
リップル
女、18歳。明るいムードメイカー。タロットであり、理想の相手を探して旅をしている。
ミミ
女、16歳。タルシスに住む医術士見習いの少女。おっとりしている。
ロイ
男、16歳。タルシスに住む剣術に長けた少年。ミミの幼馴染、怒りっぽい。
パーシヴァル
男、三十代。タロットだが地方領主に仕える騎士で、任務を受けてタルシスに来た。実直で真面目。
グウェイン
女、年齢不詳。印術使いでパーシヴァルの相棒。タロット嫌い。
シュメイ
男、年齢不詳(人間で言えば二十代後半)。ウロビトの学者。博識であるがウロビトの中でも変人と評判で、人里離れたところで生活していた。
デイルムース
男、38。ナイトシーカーとは思えないほど気弱なナイフ使い。吾輩。
グレン
男、年齢不詳(人間で言えば四十代)。何かと豪快なイクサビトのモノノフ。禁を犯し里を追放されたが、細かいことは気にしないオッサン。
ルカ
男、二十代。帝国に仕える砲剣士。軽薄な性格だが実力は確か。

その他の人々

ピルグリムに関連深い人々。

ホルン
女、二十代。心優しい憂国の帝国騎士。ルカとは面識がある。皇子に忠誠を誓う。
ユングヴィ
男、二十代。技術支援担当の帝国騎士。ホルンの双子の兄。ちょっとへたれ。

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序章

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序章・前

 屋敷の窓から見える巨木―――というにはあまりに巨大すぎるそれを、彼女はずっと眺めて大きくなった。
 両親があの大樹の内側にある迷宮に挑み、それを踏破したという話は、一体誰から聞いたのだったか。心躍る冒険譚は語り部の好きなように肉付けされ、人々の耳に伝わり口から伝わっていく。中には大きく事実と異なるものもあっただろう。そのうちのどんな物語も、彼女は好きだった。
 だが、彼女自身が物語の一部となることは、けして許されなかった。

 それも、半年前までのこと。


「あれがタルシス!?」
 都市に近づいているせいで、街道にも人が増えてきた。駆け抜けていく馬車の天幕の後ろから身を乗り出して、乱れる黒い短髪をかきあげ、アティは叫ぶ。
 馬車の中から男の声がかかる。
「風車が見えるか?」
「えっと……あ、はい! あっ!! 気球!」
 天高く昇っていく、球のような影。吹く風を物ともせずに、ぐんぐん遠ざかっていく。
 きっとあれが目指す先に、世界樹の迷宮があるのだ。
「おじさま、気球です、気球!」
「はいはい、良かったな」
「んもう」
 気のない返事に、アティは膨れ面で天幕の内側に戻る。
 薄暗い中座っている同行者の“おじさま”は、「それより」と人差し指をアティの鼻先に向けた。
「分かってんだろうな? タルシスに着いたら、そこでおさらば、赤の他人だ。俺を見かけても絶対に声をかけるなよ」
「はい。そういうお約束でしたから」
 半年前、家を飛び出したものの行く当てのないアティを拾い、それからずっとタルシスに向かう旅の中、冒険者のイロハを教えてくれたのがこの人だった。
「―――本当にありがとうございました。ここまで来られたのも、おじさまのおかげです」
 丁寧に頭を下げるアティに、彼は心底鬱陶しそうに手を振る。もっともこれはポーズで、本当の彼はとても紳士的なのだ―――とアティは思っている。
「言っておくがここからが本番なんだぞ。世界樹の迷宮ってのはな、外の世界をぶらぶらするよかずっと危険なところなんだ」
「けれど、タルシスの世界樹は周辺も、魔物が跋扈する未開の地なのでしょう? 世界樹そのものに辿り着いた冒険者は、開発が始まって以降ひとりもいないとお聞きしています」
「それどころか、あの北崖を越えた奴すらいねーっつう話だけどな。……ま、お嬢様が適度に観光して帰るにゃ、丁度いいんじゃねえの」
「またそういうことを」
 むうとむくれるアティ。半年の間ずっとこうやって馬鹿にしてこられたが、別れの瞬間までこのままらしい。
 が、“おじさま”は珍しく笑顔で、アティの頭をぽんと叩いた。
「あんたが“お嬢様”で終わるか否かも、これからが本番だけどな」
 彼なりの激励だと気づいて、アティもにっこりと笑みを返した。


 さて、話はそれからいきなり、一週間後にスキップされる。
 これまでの経緯を短縮して述べよう。
 タルシス到着直後、“おじさま”と別れたアティはいきなりタチの悪い冒険者に騙され、身ぐるみを剥される。
 実は半年前にも同じ目に遭っているアティだが、その時助けてくれた“おじさま”はもういない。しかし運の良いことに代わりはいた。城塞騎士こと、おてんば騎士娘エリザベスである。
 彼女の家系は代々タルシスに仕える下級騎士である。エリザベスの父もその役目を担っていたが、彼の死後は娘が引き継いだ。他の冒険者都市に比べればけして治安は悪くないタルシスだが、悪漢はどこの街にも存在する。たまたま運の悪くそれに遭遇した善良な人々を守ること、それがエリザベスの使命だった。
 本来なら助けて終わる仕事なのだが、被害者であるアティは無一文になったあとだった。自分とほぼ同い年の若い娘を、荒くれ冒険者どものうちに身一つで投げ出すわけにはいかない―――正義感の強いエリザベスが、彼女を自宅に招く決断をするのに、そう時間はかからなかった。

 とかく以来数日、アティはエリザベスと、その母と一緒に生活している。
 冒険者ギルドにはまだ、行ってもいなかった。


「おばさま、お洗濯物、こちらに置いておきますね」
 台所で料理中のエリザベスの母に声をかけ、アティは庭先から取り込み畳んだ洗濯物を、テーブルに置いた。
 気持ちのいい陽光が傾きつつある。そろそろ、エリザベスが日の仕事を終えて、家に帰ってくるころだ。
 正義感強く誰よりも真面目に働く彼女だが、彼女の上司も同僚も、そのあまりの彼女の頑張りに少しばかり辟易していると、エリザベスの母は言っていた。このさい、長い休みでもとればいいのにという話だったが、彼女は首を縦に振らないだろう。
 しかし明日だけはエリザベスの仕事も休日なので、いよいよ冒険者ギルドについてきてもらう約束になっている。エリザベスの母もエリザベスもアティを案じてくれているが、この予定ばかりは変更するわけにはいかない。
 アティは冒険者になる、そのためにタルシスに来たのだから。
「あら、卵がないわ」
「あっ、私が買ってきます!」
 かといって、今ある自分に手抜きはしないアティであった。


 提灯の橙の光が柔らかく、褐色肌の手元を照らし出している。
 ごくりと息を呑む観客に目を配らせて、ドミニクはオールバックの額を叩いた。
「さて、お立合い。まばたきは済ませたかい?」
 ぺろりと唇を舐めると、左手で銅貨を弾いた。
 天井高く舞い上がった銅貨が、落下に入る―――その刹那、高速で番え放たれた矢が、銅貨を壁に縫い付けた。
 びいん、と鳴る矢柄。落ちてこない銅貨に、一瞬の沈黙のち観客が一斉に沸いた。
 が。
「こら! お店を壊さないでちょうだい!!」
 この酒場―――“踊る孔雀亭”名物の美人女将が悲鳴めいた声を上げた。矢は落ちてこないのだから、壁に突き刺さっているのである。ドミニクはぺろと舌を出すと、ソファの背をひょいと跳び越えた。
「悪い悪い―――お代と修理費は、ギャラリーから貰ってくれよ。じゃあな!」
 とは言いつつ、ちゃっかりギャラリーの分は賭け金と称して、いくらか先に預かっているのだが。
 夜のタルシスに飛び出して、ドミニクはそのまま駆け出した。坂道の多い街だが、そう急な道ではない。じょじょに賑わう大通りを避けて、裏道に入る。追っ手を気にしているわけではなく、単なる癖だった―――そう、“タロット”はあまり表立った道を好まない。いや、歩けない。それがタロットとして生を受けた者の定めだった。
 裏通りをしばらく走ったところで、ドミニクは足を止めた。束ねたしっぽのような金髪が、一拍遅れて翻る。彼が身を隠した角の先の行き止まりから、人の声がしたからだ。しかも、複数人。
「もう一度言うぞ」
 チンピラのような冒険者たちに囲まれた、黄ばんだ白衣の男が溜息を吐いた。
 彼は赤い髪に手を突っ込んでがしがしやると、懐から何かを取り出して、目の前のチンピラに掲げてみせる。
「―――この絵の彼女を知っていると聞いて、あんたに会いに来たんだ。何処にいるか知っていたら、教えてくれないか?」
 ドミニクの位置からでは見えないが、それはどうやら絵らしい。
 チンピラはしかし、よく見もせず鼻で笑う。
「確かにそのお嬢さんのことは知ってるぜえ……おサイフの中身をちょいと、お借りしたからな」
「ほう?」
 白衣の男の横顔、眉が跳ねあがったのが見えた。
「あんたはお嬢さんの知り合いか? ……これ以上教えてほしいなら、あんたもサイフを置いていくんだな」
 じりじりと、周りのチンピラが白衣の男ににじり寄る。
 正面のリーダー格含め、四対一。
 これでは不利だ。というより、白衣の方は戦えるように見えない。
「ま、男ならサイフだけで許してやっても―――」
 先手必勝と言わんばかりに、チンピラの手の甲に刃が突き刺さる。
「っつう!?」
 矢を番えていたドミニクは、目をぱちくりとした。いくら自分が早撃ちと言っても、まだ射ってもいない。
 ところが―――その刃はナイフだった。随分細く鋭い。
 白衣の男が投げたものだと気づいたのは、彼の目が鋭く次の獲物を見据えていたからで。
「ぐえっ」
 飛んだ短剣は、白衣の背後のチンピラ二号の肩に命中した。
「てめ―――」
 三号が槌を振り上げたので、ドミニクは慌てて、今度こそ矢を射った。それが掠った三号の手から武器が滑り落ちる。その隙に戦場に躍り出て、ドミニクは彼に体当たりした。三号は顔面から壁にぶつかり悶絶する。
 身を起こせば、白衣の男はドミニクに目もくれず四号の首筋にナイフを刺し、未だ苦悶の声を上げる一号ににじり寄ったところだった。ドミニクが倒した三号はさておき、二号も四号も投げナイフで一撃でやられて、地面に沈んでいる。ぴくりとも動かないのが、ドミニクの血の気を引かせた。
 一方の白衣の男は、一号の胸倉を掴んだ。
「俺はあまり荒事は好かないんだが……」
「ひっ!」
 一号の首筋に、鈍い光を放つ銀の短剣が添えられる―――それだけきちんと柄があり、装丁もしっかりした普通の“短剣”だ。
「三度目の正直だ。彼女は何処にいる? “もしも”の話でも考えたくはないが、彼女がサイフだけで済まない目に遭っていたとしたら―――」
「し、知らねえ! 本当だ、サイフ盗ったところでタルシス騎士に見つかっちまって、俺たちゃすぐ逃げたんだ、そこからは知らねえ! 本当だよ!!」
 白衣の男は目を細めると、懐から素早く抜いた投げナイフの方で、チンピラ一号の首を切った。ドミニクは悲鳴をあげそうになったが、良く見れば薄皮一枚切っただけだったらしい―――それでも、一号は白目を剥いてひっくり返る。
 いよいよ、白衣の男はドミニクを振り返った。
「おい」
 ドミニクは頬が引きつるのを感じた。コイツはやばい。タロットの本能が言っている。あと、足元に横たわる死屍累々も。
「……金髪に褐色肌。タロットか」
「ん? ……あ、ああ」
 てっきり嫌な顔されると思いきや、白衣の男は無表情だった。むしろ先ほどまでの鬼気迫る空気はどこへやら、何となく生気の失せた顔で、ぼりぼりと頭を掻く。
「助かった。よく分からんが、援護を」
 毒気を抜かれて、ドミニクは肩を竦める。
「あ、え、ええと。喧嘩、あんたの方が不利だと思ったんだよ。要らない助けだったと思うけど……」
 そこでぐるりとチンピラどもを見渡し、
「死んで、るの?」
「まさか。ちょっと眠ってもらっただけさ」
 投げたナイフを回収しながら、白衣の男は答える。先端を指さすところを見るに、何か即効性の睡眠毒でも塗ってあるのだろう。よく見ればナイフはメスに見えなくもない、白衣の男は医者らしかった。診療されたくねえけど。
「ところで君、この子をこの街のどこかで見かけなかったか?」
 改めて医者が見せてきたのは、直毛の長い黒髪を垂らし、微かに笑む少女の絵だった。端的に言えば可愛いし、好みだ。なので正直に答えた。
「おいらが知ってたら、多分プロポーズしてるよ」
「だろうな。タロットなら」
 溜息を吐きながら、医者は絵を仕舞い込んだ。探し人ながら“彼女”が美少女であることを自覚しているらしい。持ち前のいたずら心が首をもたげてきて、ドミニクはつい、要らない一言を付け足した。
「その子、あんたのコレ?」
 立てた小指の上を、投げナイフが通過していく。
―――冗談が通じない野郎は、タロットの男が一番苦手とするたぐいだ。

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序章・後

 アティもまた、夜のタルシスを駆けていた。
 卵を買い出しに行くだけのつもりだったのに、エリザベスの母にあれもこれもといろいろ頼まれてしまい、全てをそろえるのに少し時間がかかり過ぎてしまった。この分では夕食はおろか、エリザベスの帰宅にも間に合わない。
 雑貨屋の店じまいに滑り込んで、何とか最後の一品、卵を購入することに成功する。さすがに疲れた溜息をつきながら店の軒先に出れば、小雨が降りだしていた。
「まいりましたね……早く帰らないと―――うん?」
 独り言のさなか、スカートを引く何かに気づいて、アティは足元を見下ろした。
 道に降りる階段の途中で、幼い少女がアティのスカートを掴んでいた。
「あら……」
 周囲を見渡すが、人通りはない。アティは幼女の視線に屈みこんだ。
「可愛いおじょうさん、あなたのお父様かお母様は?」
 幼女はゆっくりと、途方に暮れた様子で首を横に振った。
「では、お連れの方は?」
 幼女は唇をへの字にしたまま、首を傾ぐ。
「分からないのですね……まあどうしましょう。迷子さんです」
 帽子越しに幼女の頭を柔らかく撫で、アティは彼女を連れて再び雑貨屋に引っ込んだ。が、雑貨屋にもこの幼女に見覚えはないらしい。そのうち今度こそ店じまいするからと、完全に追い出されてしまった。
「どうしましょう……私もこの街に来たばかりで、憲兵さんたちの詰所がどこにあるのか知らないのです……」
 所在なくきょろきょろしているうちに、ぐうー、と訴えるような音が長々と鳴る。
 幼女の腹の虫であった。アティは再度彼女のそばにしゃがむと、ポケットから飴を取り出した。
「はい」
 笑顔で差し出せば、高速でてのひらの上から消え去る、飴。
 アティは目をぱちくりとやった。
「よほどお腹が空いていたのですね……かわいそうに」
「あっ、アティ!」
 ばしゃばしゃと水を跳ねさせて、足音が近づいてくる。アティが顔を上げれば、紫がかった黒髪のツインテールの女性が駆けてくるところだった。
「べス!」
「全く何処に行ったかと思ったよ! 買い物行って、戻ってこないって母さんが言うから探しに……ん? 何、その子」
 べスことエリザベスにじろっと見下ろされ、幼女はさっとアティの背後に隠れる。アティは弁明するように告げた。
「ああ丁度良かったです、べス。あの、この子迷子みたいなんです」
「迷子? こんな時間にィ?」
 ずい、と遠慮なく顔を近付けるエリザベスに、幼女は迷惑そうだ。
「―――まいったなー、屯所に預けてもいいけど、今の時間はおっさんどもしかいないしね」
「あと、お腹を空かせているみたいで……」
 会話の途中でばりばりという音が聴こえてきたので、アティとエリザベスは顔を見合わせる。
 アティの抱える袋の内側に顔を突っ込むように、幼女が中のものを貪っている。
「き、きゃー! 一体どういう食べ方をしているんですかー!?」
「というかうちの食糧! ……し、しかもすごい力だし……っ、は、な、れ、ろっ!! ギャー!」
 エリザベスの手に噛みつく幼女。まるで餓えたケモノかピラニアのようだ。
「あ、アティ! こいつ家に連れて帰るよ! このままだと買い出し分全部食われちまう!」
「了解です、べス!」
 ハムをしゃぶっている幼女を抱きかかえて、アティはエリザベスと共に、小雨の中に身を投げ出した。


 そうしてエリザベスの家に連れ帰ったわけだが、買い出し分どころか家の中にある食糧を全て食い尽くす勢いで、幼女の食欲はなかなか収まらなかった。胃袋だけの容量なら、屈強な成人男性をはるかに超えているに違いない。
「それで? この子、名前なんて言うの」
 腹を満たして満足したのか、アティの膝にしがみついて涎を垂らしつつ寝息を立てている幼女に、げっそり疲れた顔でエリザベスが尋ねてくる。
「そういえば、聞いていませんわ」
「っていうか、一言も喋らないよね、この子」
「ええ……」
 撫でた頬も、着衣も少し薄汚れている。だが捨て子にしては良い身なりだ。検分する間に、腰のベルトの後ろに何かが刺さっているのを、アティは見つける。
「……ステッキですか?」
「何だろうね、どっかで見たような……」
 三又の中心に大ぶりの翡翠色の石が付いている。ランプにかざしてみると、白く濁った光が目に届く。
「これ、触媒です」
「しょくばい?」
「ええ。錬金術で用いるものと同じです、こんな大ぶりのものは滅多に見ませんけど―――」
「むー!!」
 ばちんと目を覚ました幼女が、突然暴れ出した。彼女はアティの手からステッキを取り返すと、自分の背中に隠すように手を回す。
「んな……」
「ごめんなさい、勝手に触ってしまって。大事なものだったのですね」
 幼女は威嚇するようにアティたちを睨み付けていたが、やがてしゅんとしたようにステッキを身体の正面に戻した。その柄に刻まれた文字に、アティは気付く。
「ニーナ?」
「えっ?」
 エリザベスが聞き返してくる。一方で、幼女はぱあと顔を明るくした。
「もしかして、あなたのお名前はニーナというのですか?」
 大きく頷いて見せる幼女―――否、ニーナ。その頭を抱きしめて、アティは言った。
「良かった、お名前が分かって。大丈夫、明日になったらきっとお連れの方も見つかりますからね」
「というかうちには置いておけないしね、これ以上」
 また買い出しに行かないと、とエリザベスは肩を落とした。


 翌日。
 冒険者ギルドに行く前に、と、屯所に足を運んだアティとエリザベス、そしてニーナだったが、ニーナの引き取り手はあっさり見つかった。
「まあーニーナ! 探したのよー、どこに行っていたの!」
 大仰に涙を流しながら、身なりの良い恰幅ある女性がニーナに抱きつこうと跪く―――が、ニーナはアティの背後に隠れてしまった。
「ははは、照れることなどないぞ、ニーナ!」
 女性の隣に立つ、これもまた立派な紳士が朗らかに笑う。が、ますますニーナはアティにしがみつく。
「ニーナ?」
「ははん、ちびっこ。さては、アティに懐いちゃったんでしょー」
 エリザベスが乱暴にぐりぐりと頭を撫でると、ニーナはそれを迷惑そうに睨みつけた。彼女の手を払おうと小さな両手を掲げたところで、女性に捕まえられて引きずりだされる。そのまま、ニーナは女性の腕の中に無理矢理収まった。
「ニーナ、良かったですね。ご両親がお迎えに来ていらして」
「本当にありがとうございます。この街の兵士さんがたは良いかたばかりですわね、あなた」
「ははは、全くそのとおりだ。では、我々はこれで」
 現れたときと同じ唐突さで、夫妻は去っていく。抱きかかえられたままのニーナは、大きく腕を突っ張って、眉を下げた表情で扉の向こうへと消えた。
 手を振って見送ったアティも、唇を噛む。
「ああ、行ってしまいました……寂しいです……」
「そう? あたしはすっきりしたけどね。子供はキライだよ」
 大きく伸びをしてそう言うと、エリザベスはニーナたちが消えていったのと、逆側の出入口を指した。
「じゃ、冒険者ギルドにいこっか」
 アティは一度だけニーナが出ていった扉を振り返ったが、間もなくエリザベスに続いた。


 カーゴ交易場は商人の取引場だ。冒険者であるドミニクが足を運ぶには少々場違いな気もしたが、これも仕事だ、仕方ない。
「おう、タロット! それはこっちだ! ……全く、腕力ねえなあ、おまえらは」
「うるせ」
 弓を引く力はあるのだから、単に重いものを長時間持ち続ける力がないだけだ。商人の荷を指定されたところになんとか運び終え、ドミニクは大きく伸びをした。交易場の外には、整備中と思しき気球が散見する。それを羨ましい思いでドミニクは眺めていた。
 ドミニクはまだ、タルシスの大地を探索する許しを得ていない。気球を与えられた冒険者として活動するには、ギルドを組む必要があるのだ。しかし、タロットであるというだけで、こと女性がいるギルドには参入を断られてばかりである。そうこうしている間に路銀もつき、こうやって荷運びのアルバイトをしているというわけだ。
 早くおいらも、自分の気球が欲しいもんだ―――そう眺めていた視界の隅を、小さな子供が走り過ぎていく。
「ん?」
「てめー、何ぼんやりしてんだ! 働け!」
 親方の怒声に、一瞬気を取られた。
 目を瞬くも、子供の姿はどこにもない。
「や、何か今、子供が……気のせいかな?」
 商人の商談所に、子供がいるはずがない。
 いい加減親方が怒髪天を突く様相だったので、ドミニクは大人しく仕事に戻った。


 ようやく休憩をもらって、ドミニクは交易場の隅、木箱が積まれた影に座り込んだ。ここからは整備される気球艇がよく見える。試験をするのか、バルーンを膨らませて今にも飛び立ちそうな一つのそれに、ドミニクはうっとりと目を奪われる。
 すると。ぎゅるりらー、と腹の虫が鳴った。
 ドミニクのものではない。ふと音の方向―――自分の隣を見れば、十にも満たない年頃の女の子が腹を抑えてぐったりしていた。
 同時に、先ほどの子供の影は見間違いではなかったと悟る。
「おい?」
 ドミニクが手に持っている袋の臭いを嗅ぐように鼻をひくひくさせ、幼女は身を乗り出してくる。鼻ざといとでも言うべきか。この中にはドミニクの昼食が入っているのである。
「やらねーぞ。っていうか、親は―――っでえ!」
 皆まで言わさず、幼女はドミニクの手にかぶりついた。いきおい落ちた袋をキャッチ、そのまま中身に飛びついていく。
「あーあー、おいらの昼飯……」
 哀れっぽい声を上げれば、ドミニクの昼食をむさぼっていた幼女の手と口が止まる。ドミニクは力なく片手を振った。
 身なりは悪くないが、多分、親のいない浮浪児か何かなのだろう。ここには忍び込んで来たに違いない。そう思うと、一食ぐらい恵んでやってもいい気がしたからだ。
 案の定幼女はそれきり、ドミニクを省みた風もなく完食する。次いで、腰の後ろからステッキを取り出すと、柄のところを指さした。
「ん? ニー、ナ……名前か?」
 幼女―――ニーナは首肯した。とても満足そうな笑顔だ。
「……おいらの昼飯はうまかったか?」
 にこにこと笑いながら、こくこくと頷く。
 ドミニクは溜息を吐いた。まあいいや。
 しかし、ニーナははっと表情を変え、首を巡らせた。同時に、ドミニクの耳にも間延びした女性の声で“ニーナ”と呼ぶ声が届く。
 木箱の山の隙間から覗けば、太い女性とひょろながい男性、どちらも高級身分の装いの二人組が徘徊しているのが見えた。
「親御さん、探してるぜ」
 なんだ、親がいたのか―――と思いつつニーナを見下ろせば、彼女はぶんぶんとかぶりを振った。ドミニクの腕を引っ張って、両親らしき男女がいるのとは逆方向に行こうとする。
「おい?」
 ニーナは幼い顔に、必死の形相をのせている。
 男女の声が近づいてくる。ドミニクは中腰で立ち上がった。
「あれ、親じゃねえの?」
 確かめるように尋ねた。
 ニーナは声には出さなかったが、口の動きで答えた―――“ちがう”と。
「……こっちだ」
 かわってニーナの手を引いて、ドミニクは歩きだした。紳士淑女の二人組が入ってきたのとは逆方向の出口、整備される気球が多数安置されているところへ。
「本当の親は?」
 早足で移動する間に尋ねれば、ニーナはかぶりを振る。
「……しかし何だって、あんな連中に追われてんだよ」
 ニーナはステッキを握りしめた。
 たしか、この街の冒険者で、同じようなステッキを持っている者たちを見たことがあるような気がする。
 ただ、彼らがいざ冒険の場で、それをどういう風に使うのか、ドミニクには見当がつかない。
「いたぞ!」
「やべっ」
 ドミニクはニーナを抱えあげ、気球の間を縫うように走り出した。
 それを指さす“両親”は大仰に騒ぎ立てる。
「娘がタロットに連れていかれる!」
「誘拐だ、誘拐だ!」
 どっちがだ、第一いくらタロットでもこんなガキんちょ相手に―――と思うが、こちらの事情など周りに伝わるべくもない。それに、身なりもそれなりの紳士と、素性も知れないタロットじゃ、みんな向こうを信じるだろう。
 現にそのとおり、騒ぎは徐々に拡大し、いつの間にやらドミニクが誘拐犯のようになっている。気球を回り込んでは逃げる、追いかけっこだ。
 破裂音。
「くっ」
 足に鋭い痛みが走り、ドミニクはニーナごと前のめりに投げ出された。
 ふくらはぎに裂傷がある。近づいてくる紳士が杖状の飛び道具を向けていることから、弾がドミニクの足を掠めたらしかった。立ち上がれない傷ではない。
 しかし、ドミニクが体勢を整えるより先に、ニーナが紳士と彼の間に立ちはだかった。
 掲げたステッキの中央の石に青い光が輝いた。ニーナがそれを振り下ろした地面に、つららのような霜柱が走り、紳士の足が瞬く間に凍り付く。
 印術だ。
―――そうだ、思い出した。あのステッキは、印術師が持つものだ。
「このクソガキ!」
 おおよそ娘にかけるものとは思えない言葉を唾棄しながら、淑女が傘を振り下ろしてくる。ドミニクは慌てて矢を射った。淑女の手を打ったそれが、彼女から傘を奪い取る。
 が、再び破裂音が場を引き裂いた。
 ニーナが力を失い、くずおれる。
「ニーナ!」
 叫びながらも、ドミニクは二射目を紳士の手に命中させた。仕込み杖が転がる。
 ぐったりとしたニーナに、まさか撃たれたのかとドミニクは真っ青になったが、少女に外傷は見あたらなかった。衝撃で失神しただけらしい。ドミニクは背後にあった、気球のゴンドラの内側にニーナを横たえる。
 振り返ったところで丁度、足の束縛を抜け出していた紳士が、杖の先端をドミニクの頭に突きつけた。
「さて、娘を返していただこうかね」
「……あんたら、実の親でもない上にこの嫌われよう。とことん親に向いてないと思うぜ」
 憎まれ口を叩けば、傘で手痛い一撃を加えられ、ドミニクはよろよろと膝をついた。
 淑女が、ドミニクを見下ろして言う。
「タロットの分際で。ニーナは口が利けないんだ、その上あんたの言うことを信じるやつなんていやしないよ」
 ドミニクは痛みを堪えつつ、口角を上げる。
「だろう、なっ!」
 紳士の顎を蹴り上げながら、すぐ背後のゴンドラの壁を乗り越える。淑女の傘がゴンドラのへりを叩いた。
 彼らがゴンドラに乗り込んでくるよりも早く、風のように、ドミニクの放った矢が気球艇を地に留めていたロープの一本を切った。
「くっ」
 ゴンドラが傾く。ロープは四本あるのだ―――ゴンドラに引っかけられたらしい、淑女の悲鳴が壁の向こうに消える。ドミニクは素早く、残りのうち二本を切った。ゴンドラの尻を地面につけたまま、旋回する気球艇。
「俺の気球が!」
 港長の悲鳴がどこからか聞こえた。
「―――まだ整備中だぞ、飛べるもんか!」
「うわっ!」
 激しく跳ね上がったゴンドラが地面の端、崖っぷちに引っかかる。切り立った崖の下は街だ。それも、相当下方にある。
 斜めいたゴンドラからいきおい、ニーナの身体が投げ出される。
 ドミニクは必死にそれを捕まえた。
「くっ」
 もう片方の手でたぐり寄せた、気球のバルーンとゴンドラを繋ぐロープにしがみつき、ドミニクはかろうじて落下を免れる。
 ニーナを引き上げ、ゴンドラの内側に身を寄せるも、気球はいよいよ崖下に向けてゆっくりと下降し始める。バルーンは破けてはいないようだが、じょじょにしぼみ、崖中途の岩に引っかかり、下降が止まった。
 降りることも登ることもできず、ただ風にあおられ、ぎしぎしと気球は不安げに揺れる。


 交易場で起こっている大騒ぎに、下方から見上げる人々も徐々に気づきだしていた。
 エリザベスが冒険者ギルドで見つけた知り合いと話し込んでいる間に外に出たアティは、崖中途に引っかかる気球と、そのゴンドラの中にいる人物を見上げて飛び上がった。
「まあ、ニーナ!」
 野次馬の群れを抜けて、アティは崖に近づいた。ニーナと見知らぬ男の子が一人、頼りなく揺れるゴンドラになすすべなく、その内側で立ち尽くしている。強風の拍子に気球が崖から投げ出されれば、二人とも地面に激突する目に遭うだろう。
 岩崖はわずかだが凹凸がある。アティは足場の一つに手をかけた。武装している兵士や大の男性なら崩れてしまうだろうが、彼女の体重くらいなら支えられるようだ。
 アティは崖を登り始めた―――“おじさまに崖の登り方を教わっていてよかった”と思いながら。


 アティの姿が見えないことに気づき、エリザベスはあたりを見渡した。
 いつも多くの人でにぎわう冒険者ギルドだが、ことさら今日は何故か騒がしい気がする。屈強な冒険者たちが怒鳴るように言葉を交わすのをすり抜けて、エリザベスはギルド内を、アティの姿を探し回った。
「すみません、そこのお嬢さん」
 そんな中呼びかけられて、エリザベスは邪険に応じる。
「何。今、忙しいんだけど」
「それは失敬」
 触らぬ神にたたりなしといった様子で、相手はすぐに手を引っ込めた。
 ちらと見れば、冒険者ギルドには不釣り合いな白衣を着た男だ。
「―――人を捜しているんだけど、心当たりがあるか聞きたくて」
「いいけど、ちょっと後にしてくれる? 今―――」
「おい、女の子が!」
 騒がしさの原因は外にあるらしい。交易場がある方向の窓を指さした男に、ギルド内の注目が一斉に集まる。
 エリザベスはそばに立っていた冒険者に話しかけた。
「何があったの?」
「交易場から、整備中の気球が人入りで転がり落ちたのさ。今は崖の途中で引っかかってる。それの救助のために、崖を登ってる奇特な奴がいるらしい」
「へえ……」
 何となく嫌な予感がして、エリザベスは人の波を割って歩きだした。向かうはもちろん、外。
 冒険者ギルドを出たところで振り返ると何故か、あの白衣がついてきていた。
「……何?」
「いや。ちょっと嫌な予感がして」
 エリザベスはそれを無視して、正面の崖を向いた。
 視認できた気球艇は、ゴンドラを傾けて崖に張り付いている。そのゴンドラに乗っている二人のうち一人と、ゴンドラに手を伸ばすアティの姿に、エリザベスは口から心臓が飛び出そうになった。
「アティ! ニーナ!」
「俺の勘はよく当たるんだよ」
 呆然と呟く白衣の男を、エリザベスはきっと睨みつけた。
「あんたは何なのさ、さっきから!」
「いやね。あの黒髪の女の子が、俺の探し人なの」
「えっ」
 白衣の男は目を細めた厳しい表情で、崖を見つめていた。


「大丈夫ですかっ、ニーナ!」
 アティがゴンドラにたどり着いた瞬間、ニーナが首に縋り付いてくる。
「わわっ」
「おい、危ないぞニーナ!」
 さらに傾くゴンドラ。高さがあるためにニーナの身体はまだゴンドラの中だが、彼女を引き出そうとすればそのまま、ゴンドラは崖から滑り落ちてしまうだろう。
「あんた、ずいぶん勇敢だね。名前は!?」
 ニーナと一緒にいた少年が呼びかけてくる。アティは丁寧に答えた。
「アティと申します。あなたは?」
「おいらはドミニクって呼んでよ、アティちゃん。髪切った?」
「えっ?」
 聞き返す間もなく、矢継ぎ早に褐色の少年―――ドミニクは続ける。
「あんた、まるで天使か戦乙女に見えるよ。うまいこと助かったら、おいらとデートしない?」
「まあ」
 ウインクまで飛んできて、アティは目をぱちくりとした。
「おい! 聞こえるか!?」
 崖の上から男の声がする。
「港長だ。気球艇整備の責任者」
 ドミニクが早口にそう言うので、アティは頭上に返事をした。
「は、はいっ! 聞こえています!」
「よし。……いいか、虹翼の―――ええい、バーナーに火をつけて、気球を上昇させろ!」
「で、でも、気球はしぼんでしまっています!」
「中の空気が冷えただけで、球皮は無事のはずだ! バーナーの位置は分かるか!?」
「これか?」
 ドミニクが、横倒しになってしまっている金属樽のようなものをゴンドラの内側で発見し、それを立て直す。
「―――結構重てえ」
「バーナーに火がついていませんわ!」
「火種はないか!?」
 アティは右腕の籠手を握りしめた。
「……どんな火でも、よろしいのでしょうか!?」
「勢いがあった方がいいが、このさい何でもいい!」
「分かりました!」
 アティはドミニクを見た。
「―――少し、それから離れてください!」
「アティちゃん、何する気さ?」
 アティはドミニクにニーナを預けると、腰の剣を抜いた。バーナーに向け構える。
 籠手を操作し、発動に備える。
 ニーナが反応した。
「むー!」
「はあっ!」
 アティが振りおろした切っ先から、炎が迸る。
 火を巻く剣打の直撃を受けたバーナーだが、着火した炎の勢いは強くない。
 焦って、アティはドミニクに叫んだ。
「ドミニク、バーナーを何かで攻撃してください!」
「ええっ!?」
 よく分かってないようながら、言われるがままにドミニクは弓矢でバーナーの火を射った。
 打撃にリンクして炎の術式が反応し、バーナーの炎が吹き上がるように巨大になった。
 その勢いを得て、みるみる、気球は元の膨らみを取り戻していく。
「アティちゃん、乗れっ!」
 浮き上がっていくゴンドラの中から差し出されたドミニクの手に、アティは掴まった。
 崖を離れ、気球は空高く舞い上がる。
 崖下からの歓声。
「わあ……」
 アティはタルシスの街、その向こうに広がる広大な大地、そして―――遠くの岩壁と青空の隙間から頭を出すような、薄緑の影を見つけた。
 あれが、世界樹。
 気球の高度が下がっていく。というより気球艇は再び大きく傾いていた。
 交易場で気球艇を見上げていた人々が、悲鳴を上げ散開する。
 木箱の山をけちらして、気球艇は交易場に突っ込んでいった。
 気球艇が止まる。ゴンドラの中に身を引き込んでいたアティと、ドミニクとニーナは着地の衝撃ですぐには立ち上がれなかったが、無事には無事だった。
 最初に身を起こすことが出来たアティが、ぐしゃぐしゃになったバルーンの内側から、外に這い出た。
 バーナーの火が消えている。落下はこれが原因らしい。
「やはり、この籠手の術式の火は長持ちしませんね」
 独り言のようにアティは呟いた。
 父のアタノールを見よう見まねで軽量化したものだが、まだまだ改良の余地は大きいようだ。
「ニーナあああ!!」
 その声に顔を上げると、ニーナの母が身体を揺らして駆けてくるところだった―――が、当のニーナは威嚇するようにステッキを掲げた。
 どうも様子がおかしい。
「ニーナ、お母様ですよ?」
 ニーナはぶんぶんとかぶりを振る。
「そ、いつら、は、ニーナの両親じゃ、ねーらしい……」
 よろよろと、ゴンドラの内側からドミニクが立ち上がる。
 辿り着いていたニーナの母はさっと顔を青くしたが、厳しく言い募った。
「んまあ。失礼な! あなた、タロットの言い分とわたくしの言葉と。どちらを信じるのです!?」
「えーと……」
 交易場の人々は周囲の惨状の収拾に大わらわで、こちらのことには無関心らしい。周りを見渡しても、誰の助けも得られそうにない―――とアティが思っていたところで、駆けてくる二つの影を見つける。
「アティ! あんたって子は……」
「ベス! ……と……」
 エリザベスと、もう一つの影―――赤髪の医術師の姿に、アティは瞠目した。
「マオ! どうしてここに……」
 マオは口を開こうとして―――驚いたように動きを止めた。
 ほぼ同時に、アティの顎に杖の先端が突きつけられる。
 横目に映ったのは、ニーナの“父親”だ。彼はまっすぐ、マオを睨んでいた。せわしなく眼球を動かして、マオに向かって噛みつくように叫ぶ。
「なっ、なんでお前がここにいる!?」
「それはこちらの台詞だ、詐欺師ども。……いいから、その女性を離せ」
 どうやら、“両親”とマオは知り合いらしい。
 事態が掴めず、目を白黒させるアティ。そもそもどうしてマオがここにいるのだろう。が、とりあえず出てきた言葉はこれだった。
「まあ、ではニーナのご両親というのは真っ赤な嘘ですのね」
「うー!」
 一瞬マオの視線が下降し―――ニーナを見たのだろう―――アティに戻る。
「そいつらは子供をさらって売り飛ばす詐欺師どもですよ。隣の国で俺が警察に突きだしたのですが、脱獄でもしたんですかね」
「お、おまえら、この状況で普通に会話するな!」
「はん。悪事がばれた以上、大人しくお縄についた方がいいと思うよ」
 マオの隣で、エリザベスがにやりと笑う。
 いつの間にか、アティたちの周りをタルシスの兵士たちがぐるりと取り囲んでいた。
「―――後ろは崖だし、もう飛べる気球艇は残っていないけど?」
 詐欺師夫妻は真っ青な顔でうなだれ、観念した様子で武器を取り落とした。


 その後。
 ニーナ誘拐に気球艇墜落と、一連の事件の事情聴取から解放されたのは、日もとっぷり暮れてからだった。
「何はともあれ、一件落着ってとこだな!」
 包帯やら絆創膏やらだらけになりつつ、豪快に猪肉にかぶりついて、ドミニクは言い放った。
「あのねえ……」
 フォークを握りしめ、エリザベスが頭を抱える。
「―――おかげで交易場はしばらく閉鎖、気球艇用に保管されていた動力源は全部パー、あたしとあんたは責任を問われてそれぞれ職場を無期限休職―――これのどこが一件落着なのよ!?」
 エリザベスなど居合わせただけの、ほとんどとばっちりである。むしろ、これにこじつけて休ませたといった方が正しいくらいだ。
 まあまあと宥めるアティをよそに、彼女はテーブルに握り拳を叩きつけて、突っ伏した。
「ああー、もう……父さんの墓前になんて報告すればいいのよ……」
「おいらと一緒に冒険者でもするかい?」
「タロットとなんて、絶対イ・ヤ!」
 エリザベスの弁に、ドミニクはむっとしたように言い返す。
「あのな、おいら達にだって好みはあらぁ―――ってことで、アティちゃん。デートはいつにする?」
「えっ」
 ニーナの口元を拭いていたアティは、急に自分に話がふられたので驚いた。
 エリザベスは憮然とした表情で、ドミニクを睨みつける。
「アティにコナかけるんじゃないよ、この歩くワイセツ一族」
「ひっでえ! いいかげん、差別で訴えるぞ!」
「……その。タロットというのは?」
 アティの呟きに、エリザベスとドミニクは二人同時にまばたきした。
「ああそうか、マオっておっさんが言ってたけど、あんたはお嬢様なんだっけ」
「う……」
「タロットっていうのはね。おいらみたいに小柄かつ、金髪で褐色の肌が特徴の、流浪の民のことさ」
「流浪っていうか、行く先々で女に手を出して、子種を落としていく一族柄だから嫌われてるんだけどね」
「だーかーら、タロットは一夫一妻制! 誤解と偏見は差別のもとだぜ。なあ、アティちゃん!」
 すかさずアティの手を握ろうとするドミニクの腕を、エリザベスが叩き落とす。
「そういう軽薄な態度が助長させてんでしょうか!」
「けっ」
「と、ところで」
 満足そうに十皿目を平らげたニーナの口元を拭いてやりつつ、アティは周囲を見渡した。
「―――マオが戻ってこないのですけど」
 事情聴取は五人一気にされたので、この酒場にも五人で訪れた。が、マオは早々に席を立ったきりだ。
「そのうち戻ってくんじゃない? あのおっさん、あんたを探してたって言ってたし」
「でも。……探しに行ってもいいでしょうか?」
 エリザベスはやれやれと首を横に振った。
「どうぞ。ただ、あんまり遠くに行くんじゃないよ」
「ありがとうございます、ベス。ニーナをお願いしますね」
 そわそわと去ったアティの後ろ姿を見送り、ドミニクはにやりと笑う。
「アティちゃんはニーナの、あんたはアティちゃんの、保護者みてーだな。っていうか、オカン」
「うっさい」
 ドミニクの目から星が散った。


 マオは酒場を出てすぐに発見できた。デッキの柵によりかかり、煙草をふかしている。
 アティに気づいたのか、生気のない碧眼がこちらを見た。
「あ、あの」
「……半年ぶりですね、お嬢様」
 もじもじするアティをよそに、マオは平時と変わらない。
「―――俺がここに来た意味は、分かりますか?」
「私を捜して……」
「旦那様は、たいそう心配されておられます」
 わざわざ強い調子でマオはそう言った。アティは少し落ち込む。
 やはり彼は、父の命令だから自分を連れ戻しにきたのだ。
「帰りますよ」
「ま、待って!」
 背を向けようとするマオに、アティは必死に続けた。
「私は、戻りません」
「……お気持ちは分かりますがね」
 アティが家出した理由を、マオは分かっているとでも言いたげに顔をしかめた。
 だけど、そうじゃない―――本当は何も分かってない。
 そう言いたいのを堪えて、アティはマオが“分かっている”方の理由を口にした。
「お母様が亡くなってすぐ、結婚なんて。私は道具じゃありません!」
 アティは国に帰れば高級貴族の娘だ。それも成人していて、兄弟がいない。家を守るため、相応しい血筋の夫を迎えるのは当然だろう。
 だけど。
「―――私、自分の目で世界を見てみたかったんです」
 一瞬だったが、気球艇から目の当たりにした光景が忘れられない。
 旅をしてきて、ようやくスタートラインに立ったような気分だった。誰も辿り着いた事のない世界の果て、世界樹の迷宮へ続く道のはじまりに。
「私の父や母も、きっとこんな気持ちだったのですね」
「……もう満足したでしょう」
「いいえ!」
 ずいとマオの鼻先に指を突きつけて、アティは告げた。
「―――私はまだ“見た”だけに過ぎません。私を追ってきたのが、あなたで良かったです、マオ。お父様であればもう御年ですし、無茶をさせるわけにはいきませんでしたから」
「お嬢様……まさかとは思いますが、冒険者になるつもりだったんではないでしょうね」
「そのまさかです」
「アティ」
 どきりとした。
 マオは昔から、アティに話を聞かせたいときは名前を呼ぶ。わざとなのだろう。深々と溜息を吐いて、彼は繰り返した。
「満足したでしょう。……今日みたいな事故、あんなものは序の口です。迷宮への旅はより致命的な危険が付きまとう。あなたに何かあったら、俺はどうお父上に申し上げればいいんです」
「半年間。この街に辿り着くまで、私は冒険者になるための修業をしてまいりました。今日のように、そう簡単には死にません」
「“過信する初心者ほど虎の尾を踏む”、ですよ。……というか半年かかったと言いましたね。ラガードからここまではせいぜい、かかって一か月なんですが」
「えっ」
 マオの目つきが険しくなる。
「あんた、タルシスに着くまで半年も何をやっていたんですか。修業って……」
「いえ、その……親切な“おじさま”に、剣の使い方や冒険者の心得を習いながら……」
「はあ……」
「あっ、でもそんなにすぐ着くものなら、どうしてマオは半年かかったんです?」
「あんたを探して周辺諸国を行脚してたからに決まってるでしょうが」
 頭を抱えて、マオは低い声で呟く。
 何かに納得したような、それでいて脱力しきったような表情で、
「なるほど、どうりで半年も見つからないわけだ……ホントに仕方がないな、あの人は……」
「あ、あの、マオ。別に私やましいことは……」
「んなこたァ顔を見れば分かります。……むしろ、お屋敷にいたときよりお元気そうだ」
 もう一度嘆息して、マオは顔を上げた。自嘲気味にだが、口角が上がっている。
「―――最後に見たあなたは、ずいぶん塞ぎこんでいましたからね。それは、良かった」
「あっ……」
 アティはここでようやく、思い至った。
 父だけではない。マオも、自分のことを心配してくれていたのだと。
 思いつめた風のアティが突然行方をくらませて、半年間も見つからなかったのなら、それはきっと真面目な彼を不安がらせたことだろう。
「ご、めんな、さい」
 マオは答えなかったが、静かに微笑んでいた。
「……あー、お取込み中すみませんけど」
 突然声がかかって、アティは肩を跳ねさせる。
 振り返れば、口をもぐもぐさせている(何か食べているらしい)ニーナ、半目のドミニクとエリザベスがそれぞれ立っていた。
「べス、どうかしましたか?」
「どうもこうも、そこのおっさんを探しに行ったはずのあんたまで何十分も帰ってこないんじゃ、心配になるでしょうが」
「ご、ごめんなさい」
「オイ、誰がおっさんだ」
 マオが不本意そうに顔をしかめる。エリザベスはそれを無視したように、アティに続けた。
「だいたいあんたたち、どういう関係なのよ?」
「え? えーっと……」
「俺はアティお嬢様の家に仕えてる、医者だ。家出したお嬢様を探すため派遣された、以上」
「医者? やっぱあんた医者だったのか」
「っていうか医者がお嬢様探しに派遣されるの?」
「マオ……先生は、私が小さい頃から医学生としてうちに寄宿していたので、他のどなたより懇意なんです。父からの信頼も厚くて、それで……」
「いいだろ、もう。お嬢様は連れて帰る。世話になったな」
「え!」
 突然のマオの言葉に、ドミニクが目を皿のようにする―――が、彼が何か言うより早く、エリザベスが前に出た。
「そうは問屋が卸さないわよ。あんたたちにも手伝ってもらうからね、コ・レ!」
 エリザベスが突き出したのは、一枚の羊皮紙だった。
「……“請求書”?」
「“虹翼の欠片”ってのは何だ」
 口々に読み上げるアティとマオに、エリザベスは憤然と返した。
「虹翼の欠片は、この街の気球艇を飛ばすために使われている動力源よ。さっきあんたたちが交易場を荒らしたおかげで、ストック分がぜーんぶおじゃんになったって言うから、それを弁償しろっていう請求書がうちに来たってわけ!」
「ご、ごめんなさい」
「それで、何処に行けばこれは手に入るんだ?」
「街の近くに古い採鉱場がある」
 ドミニクが肩を竦めた。
「―――掘り尽くされ長らく使われてなかったせいで魔物が住んでいるらしいが、最近また虹翼の欠片が掘れるってんで、冒険者だけに解放されてるんだ。気球艇はほとんど冒険者しか使わねえからな」
「では、冒険者登録をしなければ、そちらには入れないので?」
「そうなるね」
 アティはマオを見上げた。
 マオは目を伏せている。
「……やめなさい、そういう、期待に満ちた目で見るのは」
「でも、タルシスの冒険者でなければ、“虹翼の欠片”は手に入らないのでしょう?」
「依頼を出すとか、いろいろあるでしょ。他に、手段なんて」
 邪険に言うマオをよそに、エリザベスは続ける。
「まだあるよ。……いろいろ話した結果、あたしもこいつも、このままじゃおまんま食い上げってことでね。引き取り手が結局見つからなかった、この暴食娘の食いぶちのこともあるし。腹をくくって、冒険者ギルドを組もうかってことになったのさ」
 エリザベスがドミニクを顎でしゃくる。頷くドミニクの隣で、ニーナが手に持っていた最後のまんじゅうを口に放り込んだ。
「どうせ乗りかかった船だしね。あんたたち二人も、一緒にどう?」
「喜ん―――」
「こら」
 アティの口を手で塞いで、マオはエリザベスを見た。
 沈黙。
 しばらくそのまま睨みあったのち、マオは諦めたように低く告げる。
「……“弁償”が終わるまでだ」
「……いいさ。とりあえずは」
 勝ちを悟った様子で、にやりと笑うエリザベス。
 マオの手から解放され、アティはエリザベスの手を取る。
「ありがとう、べス! あなたと一緒に冒険ができるなんて、夢のようです!!」
「まあね……あたしもね、なんで面倒事に巻き込まれるのが分かってて、面倒見ちゃうかな……ハハ」
「うー」
 食べるものがなくなったニーナが、不機嫌そうにドミニクの手を揺らす。
「しっかし、そうと決まれば早速ギルド名を考えないとな!」
 ドミニクは指を弾いた。
「―――そうだ! 先人にあやかって、こんなのはどうだ? “クック―――”」
「却下」
「却下です」
 皆まで言わせないマオとアティに、ドミニクはまた目を皿のようにした。


「タルシスヒーロー、ブックマーカー、ラスティーアロー、うーん……」
「あんた、まだ考えてるの?」
 エリザベスの家、エリザベスの部屋にて。
 三人並んで雑魚寝している真ん中で、アティは宙に手をかざしながらぶつくさと、ギルド名を考え続けている。
「うー」
「ホラ、ニーナもうるさいってさ」
「むー」
 寝返りを打った少女は幸せそうに涎を垂らしているので、寝言のようだが。
「ごめんなさい、べス。でも、どうしても決まらなくて……」
「何でもいいけど、さっさと寝なさいよ」
 エリザベスは背中を向けてしまった。
 アティは再度、漆喰の天井を見つめる。
「メリフェーラ、ディアフレンズ、アララギ……ねえ、メガネなんていかがです? べス」
 小声で呼びかけるも、エリザベスの背中は規則的に上下するだけで、返事は返らない。
 アティは諦めて、ひそやかに床から抜け出した。窓辺に寄る。
 マオとドミニクは宿に泊まっている。ギルドを組むなら、みんなで同じ宿に泊まった方がいいのかもしれない、エリザベスの母も、エリザベスの収入がなくなった状態で三人を泊めるのは難しいと言っていたし―――ぼんやりと見上げた夜空に、筆跡のような白い軌跡が走る。
「あっ」
 寝床を振り返ったが、二人はすやすやと眠っている。起こすのはやめて、アティはひとりでこれを楽しむことにした―――流れ星だ。
 願いごとは特にない。二つあったけど叶ってしまったから。一つは冒険者になること、もう一つは―――マオと再会すること。
 家出したとき、一緒に置いてきたつもりの想いだった。けれど彼はそれを持ってきてしまったらしい。全く、置いていくのにどれほど苦労したか、アティの気も知らないで。
 同時に、問題は何一つ解決していないのだということに、アティは気付く。なし崩し的に冒険者になったけれど、これからどうするのか。冒険を続けて、アティは何を見つけるのか?
 それはまだ、分からない。
 分からないから、見つけに行くのだ。
 アティは空に手をかざした。薄ぼんやりと、散りばめられた星の光が指先を縁取る。その先を掠めるように、流れ星がまたおちる。
 落ちる。
 閉じた瞼に浮かぶのは、気球から見た、世界樹の翠。
「ピルグリム……」
 私たちは巡礼者だ。
 夜も変わらず、北の果てをやさしく照らしている、あの光を目指す。
 私はまだ辿り着いていない。スタートラインに立ったばかりの旅人なのだから。
 新しい旅の始まりを、アティは微笑んで迎え入れる。
―――そう、彼らに相応しい名前、ピルグリムを冠して。

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第一大地

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第1話

「さあ、私たちの冒険の始まりです!」
 タルシスの玄関、街中へと続く坂道の下端に集合したピルグリムを代表して、アティが気合を入れる。勿論視線は、遥か彼方にぼんやり浮かぶ、世界樹だ。
「ていうか別に世界樹の迷宮に挑むわけじゃないんだけど」
「それで、これから行く“森の廃鉱”はどのくらい危険なんだ?」
 タルシス周辺の地図をエリザベスに返却しながら、マオが呟いた。それを受け取りつつ、エリザベスは小さく肩を竦める。
「何と比べるかに寄るね。街の中に比べりゃ危険だし、世界樹の迷宮に比べりゃいくらか安全さ」
「でも、魔物は出るって酒場の噂で聞いたぜ」
 坂の上からずるずるとニーナを引きずりながら、現れたドミニクが口を挟む。
「―――ごめんよ、なかなかコイツ捕まんなかった」
「どこにいたんだい?」
「市場の木箱の中」
「げっ……それ、中身全部食いつくしたとかじゃないだろうね」
「心配しなくても、木箱の持ち主っぽい出店の人間には見つかってねーから平気平気!」
「どこが平気なのさ……」
 明るい調子のドミニクの一方で、どんどん沈んでいくエリザベス。
 そんなやりとりをよそに、マオが言った。
「おい、さっさと行こうぜ。あんたが道案内をしてくれるんだろ?」
 エリザベスはタルシスの兵士(今は元が付くが)なので、目的地までは彼女が先行してくれることになっている。
 当の彼女は紫のツインテールをやれやれと振ると、盾を担いで、石畳を歩き出した。
「あんたたちといると疲れるわ」
「私は楽しいですよ?」
 フォローするようにアティが言うと、ジト目がこちらを向いたが、視線以上の何かが返ってくることはなかった。


 “森”の名が付くとおり、廃鉱は採鉱場と思えないほど草木に満ちた空間だった。タルシス周辺は魔物が多く、そのせいで未開の土地も多いのだが、それにしてもこの“森の廃鉱”は街から徒歩ですぐ辿り着いてしまうほどの距離にあるのだ。
「ここも魔物が出るんだろ?」
「そうさ。ま、大抵出たってバッタやアルマジロの類だけど」
 明るい緑の道を進んでいきながら、エリザベスはきょろきょろと周囲を見渡す。
「―――そうでないやつも住み着いてるからね。用心はしてよ……って言ってる矢先に、そこの二人は」
 草むらに屈みこんでいるアティとニーナを見つけ、彼女は頭を押さえた。ドミニクが声をかける。
「何やってんだ?」
「ニーナが何か見つけたみたいで……あっ」
 アティが拾い上げた金色は、細い鎖で繋がれたネックレスだった。
「うー」
「はは、食いモンじゃなくて残念だったな」
「ロケットがついていますね」
「開けてみたら?」
「あー、それはちょっと待ってくれないかな」
 突然割り込んだ男の声に、わいわいとロケットに群がっていた四人が振り返る。
 マオの隣に、見知らぬ男が困り顔で佇んでいた。
「い、いつの間にっ」
「随分前からいたぞ」
 落ち着いたマオの返答に、びしっとエリザベスが指先を突きつける。
「先に言いなさい、そういうことは!」
「開放されている森なんだから、他の冒険者がいてもおかしくないだろうが」
「えっと……お取込み中のところ悪いんだが、それ、俺のでね。良かったら返してくれないか」
「まあ、大事なものでしたのね」
 取り上げることに不服そうなニーナの頭をぽんぽんと撫で、アティは男にネックレスを差し出す。
「―――どうぞ。勝手に中を覗こうとしてごめんなさい」
「いやいや、そもそも落とした俺が悪いんだし」
「オッサンも冒険者か?」
 上から下まで男を睥睨して、ドミニクがぽつりと呟いた。
 男は所々メッキの剥げた鎧をおざなりに着けている以外は、タルシスの街中を歩いていそうな軽装だ。背丈ほどの重そうな大きな袋を負っているものの、武器らしきものも見当たらない。
 その活気のないどよんとした目が、笑みの形に緩んだ。
「そうさ。俺はワールウィンド。あんたら、ひょっとして虹翼の欠片を弁償するために来た冒険者かい?」
「よくお分かりで!」
 目を輝かせるアティ。その後ろでエリザベスが肩を落としていた。
「はは、交易場に行ったら見るも無残なことになってたからさ。なかなかないね、ああいうのは。……まあ虹翼の欠片は気球を飛ばすために必要なものだけど、そんなにたくさん要るものじゃないから、頑張って」
「お詳しいのですね」
「ここでアレ見つけたの、俺だからね」
「“冒険者の街”立役者だし? あんたは街で有名ね、ワールウィンド」
 どこか刺々しいエリザベスの一言で、ワールウィンドがにわかに苦い顔になる。
「街の治安を預かる人には迷惑な存在だろうさ。……お詫びじゃないけど、これをあげるよ」
 ワールウィンドが手渡してきたのは、一枚の羊皮紙。
「おおざっぱにだけど、採鉱場の場所を書いてある地図だよ。良かったら使って」
「わあ、ありがとうございます!」
 喜色満面で受け取るアティ。覗き込んだドミニクは口角を上げる。
「どうせなら、完成したやつ欲しいなあー」
「誰も足を踏み入れたことのない場所の地図を書く、予行演習だと思ってさ。冒険者なら、こういう小さな“迷宮”を探索するとき地図を書く癖をつけた方がいいからね」
「もういいでしょ。行くよ」
 エリザベスが踵を返し、森の奥へと進む道に戻っていく。それを続々と追いかける仲間たちに、アティは慌ててワールウィンドに向き直った。一礼する。
「あの、ありがとうございました!」
「いいっていいって」
「アティ! 置いていくよ」
「はっ、はい!」
 駆け出そうとしたアティを眺めながら、ワールウィンドはぼそりと呟いた。
「仲良くやりなよ。それが一番問題だから」
「は……」
「は・や・く!」
「す、すみませんっ」
 走りながら振り返ったワールウィンドは、小さく手を振っていた。


「……で、虹翼の欠片を手に入れるのに“頑張ら”ないといけないんだったな?」
 森の廃鉱にある水辺まで至ったピルグリムは、天然の通路を抜けたところで立ち尽くしている。
 目的地と思しき虹翼の欠片の採鉱場は、ワールウィンドから貰った地図上の位置からしても、掘り返された土の様子からしても、目と鼻の先だ―――が、その付近には“彷徨う狒狒”の姿が二匹も確認できる。
「まーさっき一匹だけなら何とかなったし、今度もいけるんじゃねーの?」
 ドミニクののん気なひと言に、エリザベスがキッと眦を上げる。
「何とかなったって、単に見つからないように逃げてきただけじゃないの!」
「だからさ、今回も見つからないように上手く逃げながら採掘したらいいんじゃねえの?」
「ドミニク、素晴らしい思いつきですね!」
「へへへ」
 先の一匹もそうだったが、“彷徨う狒狒”はたとえ人間が視界に入ったとて襲い掛かってくるような魔物ではないようだった。ただ、水辺周辺は彼らの縄張りであるようで、縄張りを荒らしているとみなされると攻撃してくるらしい。
 採鉱場は水辺からやや距離がある。過去に採掘されたことがあるのだから、“彷徨う狒狒”の脅威に遭わず、作業することは可能なのだろう。
 ドミニクの言うことにも一理あると思ったのか、エリザベスは渋々「そうね」と言った。
「あたしが見張りに立つよ。危ないと判断したら、すぐ引き上げるから。いい?」
「おう」
「私も手伝います!」
 さっと採鉱場に駆けていったドミニクの後に続いて、アティはスコップを取り出した。
「―――こんなこともあろうかと、用意しておいたんです」
「うー!」
 ニーナの手にも、一回り小さなスコップが握られている。
「わー頼もしいなー……センセーはやんねえの?」
 採鉱場脇の岩にもたれかかるマオは、一瞥しただけでそっぽを向いてしまう。
「……つくづくあのオッサン、慣れ合う気ねえな」
「すみません、普段はあんな感じではないのですけど」
 採鉱場はなだらかに落ち込む穴のような形状になっている。岩盤の色が違う部分にそっと触れると、崩れるようにぼろりと石が落ちた。
「―――魔物が出る森、ですから。少し神経質になっているのかも……これじゃありませんよね?」
「どれどれ」
 港長から借りた、虹翼の欠片の絵図と見比べるドミニク。肩を竦めた。
「違うっぽい。もっと白いみたいだし」
「スレート石」
「えっ?」
 こちらを見ぬまま、マオは淡白に繰り返した。
「それはスレート石です。……急いだ方がよろしいかと。警戒されているようだ」
 マオの視線の先には、遠巻きにこちらを窺う“彷徨う狒狒”がいた。アティは岩盤に向き直った。
「い、急ぎます!」
「もう一匹の方も、気付いてるみたいだよ」
 エリザベスの固い声に押され、アティたちは無言で硬い土壁を掘る。
「あうー」
「どうしました? ニーナ」
 ニーナはスコップごとアティにそれ―――軽そうな白い石を差し出した。ドミニクが「おお」と声を上げる。
「でかした、ニーナ。コイツっぽいぞ」
「どのくらい必要なんですか?」
「この麻袋に入るだけでいいっつってた。急ごう」
 ニーナが掘っていたあたりにスコップを挿し込むと、虹翼の欠片は壁からはがれるように落ちてくる。一心不乱に掘るアティたちの意識を、鋭い声が呼び戻した。
「一匹近づいてくるよ!」
 エリザベスだ。じりじりと穴の坂道まで後退してくる彼女の背中を見つけ、ドミニクは虹翼の欠片を入れた麻袋を持ち上げる。
「ひとまず離脱しよう」
「待ってください、もう少しっ……」
 大きな破片を掘り出していたアティは、土壁の揺れを感じて剣の柄に手を伸ばした。ぱらぱらと土が舞う。
「くっ……」
 顔を上げれば、エリザベスが構えていた盾にぐっと重心をかけたところだった。穴の中からでも視認できるほど接近していた“彷徨う狒狒”は、いたずらに突進してくるでもなく、ぐっとエリザベスの盾に向かって握り拳を振りかざす。
「させるか!」
 いつの間にか弓矢を構えていたドミニクは、叫ぶと同時にそれを放った。狒狒の膨れ上がった二の腕に突き刺さった矢に、魔物は怒りの咆哮を上げる。
「やべえ」
「採れましたっ」
 掘り出したそれを麻袋に放り込んで背負うと、アティはニーナの手を取って立ち上がった。
「逃げましょう!」
「アティちゃん、後ろっ!」
 穴から抜け出したアティに迫る、重いが速い足音。振り返った瞬間、それがたたらを踏んで、尻餅をついたのが見えた。もう一体の“彷徨う狒狒”の爪先に刺さる細身のナイフ。マオの姿が土煙の中、狒狒の背後に浮かぶ。
「ニーナ、こっちです!」
 蹲った狒狒を回り込むようにして、ニーナの腕を引っ張りながらアティは駆ける。後ろを振り返る余裕はなかった。マオに押し出されるように天然の扉を潜ると、緑の絨毯に膝をつく。
 心臓がばくばくと音を立てているようだ。息が弾んでいるのは勿論のこと、指先が震えている。あんな近くで、あんな大きく凶暴な魔物を見たのは初めてだ。
「大丈夫ですか?」
 マオが覗き込んでくる。黙って頷き、アティは立ち上がる。いつの間にか、エリザベスとドミニクも脱出できていたらしい―――そこで、ドミニクの腕が真っ赤に染まっているのを見つけ、アティは悲鳴を上げた。
「ドミニク、怪我を……」
「ちょっと掠った程度なんだけど……いてて」
「庇いきれなくて、悪かったね」
 殊勝に呟くエリザベスに、ドミニクは明るく返した。
「何のこれしき、ってね! へーきへーき」
 うそぶくドミニクだが顔色は悪い。彼をその場に座らせると、アティはマオを振り返った。
「マオ、治療を―――」
 だが。
 アティが絶句してしまうほど、マオは冷たい目で怪我人を囲むアティたちを見つめていた。どころか、アティが声をかけた途端に目を逸らしてしまったので、アティは眉をひそめる。
「マオ?」
「……俺は手伝いませんよ」
「は!?」
 声を荒げたのはエリザベスだ。掴みかからん勢いでマオに詰め寄ると、
「どういうつもりさ。あんた医者なんでしょ!?」
「まあね。だが俺が手を貸す義理もない。そうだな……虹翼の欠片は入手できたんだし、お嬢様をこれで連れ帰っていいってんなら、応急処置くらいはしてやる」
「はあ!?」
「ま、マオ」
 彼が冷徹にそんなことを吐き捨てることが信じられなくて、アティは頭を殴られたような衝撃の中にいた。
 アティの屋敷にいた頃は、下町の方へよく降りていって、医者にかかるお金のない人たちを無償で診てあげていたような人が。
 半年間でこんなに人は変わってしまえるものなのか―――見たことのないような目が、アティを見返している。
 扉の向こうでは、未だ興奮収まりきらぬ様子の獣の雄叫びが響いている。
 引き返すにしろ、数時間はかかる道のりだ。ドミニクもけして命に係わる怪我ではないとはいえ、弓士の彼には将来に係わる怪我なのは違いない。
「マオ、お願いです……」
 自分でも驚くほどか細い声。
 それでも、マオは譲らない。
「大人しく帰ると誓って下さい。……こんなもんじゃ済まないと、もう身に染みて分かったはずだ」
 滲んだ声に、アティははっと気づく。
 私は冒険者になるために、タルシスを訪れたのだ。
 戦いは恐ろしい。自分が危険に晒されるのも、親しい人が傷つくのも。そういった全てを受け入れ、そして立ち向かっていく覚悟と勇気がない、私は未だにただのお嬢様のままだ。
 師である“おじさま”の言うとおり、少しのスリルを味わっただけで、私は―――
「……いやです」
「お嬢様」
 ドミニクをちらと一瞥し、アティは敢然とマオに向き直った。
「あなたの提案は拒否します、マオ。けれどこのギルド、ピルグリムに所属する仲間として、彼を見捨てるような真似はできません」
「アティ、ここはお屋敷じゃありません。あなたのわがままは通用しない世界だ」
「知っています。そのわがままを押し通すつもりなら、あらゆる手段を使わなければならない場所であることも」
 これも、おじさまに教わったことだ。
 アティは自分の剣をすらと抜くと、その刃を自らの左腕に押し当てた。
「なっ……」
 さすがにマオの表情が強張る。
―――私は卑怯だ。
 だけどそう言われても、押し通さなければならないことがある。
「ドミニクの治療を行ってください、マオ。仲間のためなら、私は自分が傷つくことをいといません……」
 誰も何も言わない。
 自分が間違っていることに対する、不安―――それに耐えるように、アティは微動だにしない。
 やがて、眉をひそめた無言の表情が、アティを見据えた。
―――刹那のそれが溜息に変わると、彼は自分の鞄の口を開ける。
「……腕診せろ」
「やってくれんの?」
 いたずらっぽい表情で問うたドミニクに、マオは険の抜かれた表情で淡白に応じる。
「縫う傷だ。やせ我慢するな」
「いでで」
 ドミニクの腕を掴んだのはいくぶん乱暴に見える手つきだったが、マオは彼の側に膝をつくと、慣れた風に処置を開始した。
 それを見届け、アティは剣を収める。
「ったく」
 エリザベスに睨みつけられ、アティは肩を落とす。
「お騒がせして、すみません」
「あのオッサンも大概だけど、あんたもあんただよ、アティ! 誰かのために傷ついてもいいっていうのは、こういうことじゃないからね!」
「はい、ごめんなさい……反省しています、ベス」
 あまりにアティが俯いていたせいか―――それともニーナが「うーっ」と唸ったせいか―――エリザベスは少し眉を下げると、腰に手を当てて嘆息した。
「ま……とりあえず治療が済んだら、街に戻りましょ」
 何だかんだで地図も出来たことだし、とエリザベスは羊皮紙で顔を扇いだ。


 ドミニクの傷は、見た目ほど深いものではなかったらしい。アティたちが交易場に虹翼の欠片を届けに行ったところ、気球を新しく飛ばせられるようになるまでもうしばらくかかると言っていたので、ドミニクの傷が癒えた頃になるかもしれない。
「交易場、場所を移すと港長がおっしゃっていましたね」
 交易場からの帰り道、リンゴアメにむしゃぶりつくニーナの手を引いて歩きながら、アティは呟いた。
 夕焼け空に気球の影が浮かんでいる。方角からして、今日の探索を終えた冒険者たちかもしれない。
「ま、元々引っ越すつもりだったのが早まっただけじゃない? むしろぶっ壊してくれて解体の手間が省けたって港長が笑ってたじゃない。あれくらい大らかがいいよ、あんたも相当“気にしい”だね」
 一度自宅で鎧を外してきたため、身軽そうなエリザベスがあくび混じりに言う。
「―――そんなことより。あんたたちはこれからどうするの?」
「私は……皆さんさえよければ、一緒に冒険を続けたいです」
「そりゃ構わないけど」
 エリザベスは眉をひそめた。彼女の言わんとするところは分かる。
 問題はマオだ。
「彼は……私に付き合わされたわけですから。無理強いはできません」
 男性陣が取っている宿に着いたら、話をしなければならない。
 アティは決意していた。


「いっただきまーす!」
 宿に着くなり飛んできた、とりあえずメシ食おうぜ、というドミニクの提案に従って、アティたちは彼が勧めた酒場“踊る孔雀亭”に足を運んでいた。異国情緒漂うたたずまいだが、客層は粗野な冒険者たちも多い。というより、元々冒険者の情報交換が盛んにおこなわれている店であるらしい。
「私、こういうお店に来るの、初めてです……」
「だろうな。けどなかなかおもしれーだろ?」
「はい!」
 目を輝かせるアティ。が、その隣に座るエリザベスは冷ややかだ。
「あんたの目当てはああいう“おねえさん”でしょ?」
 店の中心にはステージがあり、艶やかな衣装を身に纏った踊り子が、観客に囃し立てられている。
 ドミニクは口元の油を拭いながら、人差し指を振った。
「違う違う。この店のお目当てっつったら、当然女将さんだよ」
「あら、光栄ね」
 背後から呼びかかった声に、ドミニクは愛想笑いのように相好を崩した。
「噂をすれば!」
 立っていたのは、褐色肌の美女だ。宝石に彩られた豪奢な服装もまた、異国の雰囲気を匂わせている。
「お久しぶり、ドミニク。あなたが私の店を壊してくれた以来ね」
「壊すだなんて人聞きの悪い……へへへ、何ならお詫び代わりに身体でご奉仕しても」
「はいはい。同席しているのはあなたの仲間たちかしら?」
 女将と目が合い、ウィンクが飛んできた。アティはきょとんとしたが、間もなく我に返る。
「初めまして、アティと申します。ドミニクと一緒に冒険者ギルドを組んでいます」
「ふふ……そう。あなたたちが交易場を壊した話を聞いて、どんな子かしらと思ったのだけど、こんなにかわいい女の子がたくさんいるだなんてね」
「だろー、おいらの日頃の行いが報われたってもんさ」
「あんたは黙ってな」
 エリザベスに耳を摘ままれるドミニク。
「ゆっくりしていって頂戴。冒険者ならまた、私からお仕事をお願いすることもあるかもしれないから、そのときはお願いね」
 去っていく女将の後姿を見ながら、アティは呟いた。
「よく御存じでしたね……」
「ここは食いモンだけじゃなくって、情報もメニューに載ってるからな。今のも、気球を手に入れてから出直してこいってことなんだと思うぜ」
「そうなの?」
「まあ……普通冒険者に回ってくる依頼といえば、気球がないと行けないような魔物の巣や世界樹の迷宮に用があることが多いからね」
「あの……ところで」
 ミートソースだらけのニーナの口元を拭いつつ、アティは気になっていたことを切り出した。
「―――またマオがいないんですけど。宿に行った時点でいませんでしたし、もしかして……」
 彼が挨拶もなしに街を出て行くとは考えにくいが。しかし怒らせてしまったらしく、あれから一言も口をきいていないので、アティは少し不安になっていた。
 しばらく会えないないなら、会えないなりに、話をしておきたい。
 ドミニクが肉を噛みきり、口を開く。
「ああ、それなら―――」
「すまん、遅くなった」
 噂をすればといったところで、ドミニクの後ろの通路に現れたのはマオだった。白衣を脱いでいる姿を久々に見たので、何となくアティは家を思い出した。何だか懐かしい。
「どこに行ってたの?」
「手紙を出しに」
「マオ、あの、私、マオに話が……」
「その前に何か注文したら?」
 アティの向かいに着席したマオに、エリザベスがメニューを渡す。自分のことで余裕がないことに気づかされた気がして、アティはまた小さくなった。
「……ご実家に手紙を出してきました」
 注文を終えたあと、マオの方から切り出した話題は、そんな内容だった。
「え?」
「あなたのお父上に。“しばらく戻りません”と」
「そんな。だって、あなたは……」
 虹翼の欠片の弁償が終わった今、マオがタルシスに留まる理由はない。
 アティのわがままに付き合う義務はないのだ。
 ところが、マオはまた溜息を吐いた。
「申し訳ありませんがあなたを五体満足でお父上のところにお返しするまで、同行しますよ、俺は。あなたがまた何をしでかすか、分かったもんじゃないですから」
「し、しでかす……」
「あれはオッサンがすぐ治療してくんなかったのが悪いんじゃねーの?」
 おいらはアティちゃんの味方、とドミニクが澄ました顔で言う。
 マオはますます顔を歪めた。
「あれしきで怪我するお前が一番悪い」
「ええ!? そう来る!?」
「じゃ、盾役なのに守りきれなかったあたしも悪いってことで」
 挙手したエリザベスは、半目で続ける。
「しかしずいぶん仲良くなったもんね、男ども」
「男は男同士、通じるもんがあるのさ」
「一緒にするな」
「さっきからひでえ!」
「むーう」
 五人が囲むテーブルの上から食べ物がなくなったので、ニーナが不平を漏らしている。
 無意識にメニューを手に取り、アティはニーナに見せた。
「……どれがいいです?」
「あう!」
「あーダメダメ、絶対もったいないの頼むから。あたしが注文するわ」
「うー!」
 給仕に声をかけるエリザベス。不平を唱えるニーナの頭は、彼女にむんずと掴まれていて、ニーナは短い手をぐるぐる回すばかりだ。
「……あの」
 アティはぼそりと呟くように、口火を切った。
「私、少し混乱してます……てっきり、マオは帰ってしまうものだと思っていました。それに。その……いろんなことが起こったものだから、その」
「の、わりに立派な啖呵切ってたけどね」
「それは! その……」
「アティちゃん困ってんじゃん、やめなよ女子ィ~」
「気持ち悪い裏声を出すな!」
 エリザベスが鳥肌を立てている。
 ふとマオと目が合い、アティは息を呑んだ。
「……ごめんなさい」
「いえ。そのかわり、俺も勝手にやらせてもらいます」
 どこか吹っ切ったように、そのわりに拗ねたような口ぶりでマオが言うものだから、アティはくすりと笑ってしまった。

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第2話

「よーし、準備はいいかー」
「こっちはいつでも!」
 慌ただしく最後の点検が行われている中、アティはがちがちに緊張しながら、窓の外を眺めている。
「前に乗った気球と、全然違います……」
 バルーンが持ち上げるのはゴンドラではなく、アティが今居る船だ。中は操縦席の後ろに小さい部屋が一つあり、船の外、甲板から梯子で降りてくる構造になっている。部屋には窓もいくつかあるが、基本的に乗降は、甲板から行う構造のようだ。
「そりゃ、あれは運転調整用だもの。これくらい頑強でないと、とてもじゃないけど魔物の出る大地なんて乗り出せないさ」
 エリザベスがよく知った風に言う。事実、彼女は街の兵士だったので、何度かこうした“本物の”気球艇に乗ったことはあるのだろう。
「それにしても……」
 つい去来した不安を―――飲み込んで、アティは当たり障りのないことを口にした。
「飛ぶ、んですよねこれ」
「あはは、当たり前でしょ」
 笑い飛ばすエリザベスは甲板の様子を窺いに、梯子を昇っていってしまった。
 アティはきょろきょろと部屋の中を見渡した。まだ何も物がない、木板が打ちっぱなしの殺風景な部屋だ。床に座り込んでお菓子を貪るニーナがぽろぽろ屑を零す姿を見ると、絨毯が要るなあと感じる。小さい部屋でも、いろんなものを置けば、きっと快適な空間が出来上がるだろう。
―――これではまるで、気球というよりも飛行船だ。
 ふるさとの世界樹の上にそびえるその城を、アティは絵本で読んで知っている。実物を見たことはないが、実物を見たことがある両親の話では、それは遥か昔に滅んだ世界に存在した、いわばロストテクノロジーのかたまりだ。幸いにも、ふるさとのそれは発見されて以降もひそやかに語り継がれるだけの物語に落ち着いたが、“機械”と呼ばれるそれらをよく知るアティは、興味と同時に畏怖の思いがあった。この“気球艇”も、まるで同じだ。
 無意識に自分の籠手を握りしめ、じっと見つめていた窓が、揺れる。
「わっ」
 気球が動いたのだ。アティはニーナの手を取ると、それが飴を取りこぼしたことにも気づかず梯子に指先をかけた。
「離陸するんですか!?」
「そうだよ!」
 エリザベスやマオ、ドミニクは甲板の上で風に煽られていた。なびく髪に応じて揺れるロープ。はためく球皮は、火にくべられた“虹翼の欠片”から発生する気体を煙突から取り込んで膨らみ、逞しくそびえている。
 地面がゆっくりと遠ざかる。
「無理はするなよ。手筈通りに。浮き上がったら火は消すんだ。風に乗り始めたら、操縦桿で操れるようになるから!」
 追いかけてくる港長の大声が、早くなる歩調に追いつかなくなる。
「―――よし、行ってこい!」
「わあ……」
 思っていたよりも早い調子で、ぐんぐんと気球艇は高度を上げていく。街がはるか下方になって、このままどんどん空が近づいていくのに不安になって、アティは火を見た。
「ま、まだ消さなくていいんでしょうか」
「んー、もうそろそろかな」
 ドミニクは交易場で働いていたので、気球艇の動かし方の基本は修得しているらしい。アティも一応講習は受けたが、実際に飛ばすのは初めてなので、緊張が先に立つ。
「世界樹の方向に飛ばせばいいんだよな?」
「待って、地図を見た方がいいですっ」
 タルシスの側には大河がある。世界樹の迷宮の入り口は、その上流にあるのだそうだ。
「―――直進すると、魔物がたくさん生息している山があると……」
「うわっ、何だアレ」
 河の向かい岸を指さすドミニク。目に入ったのは、アティたちが乗るこの気球艇ほどの大きさはあろうかという巨大な跳獣の魔物の群れだ。水辺に集まっている様子が空中からは見え、彼らはこちらに気づいていないようであるが、あまりに接近しすぎれば縄張りを荒らす侵入者として見なされるに違いない。
「本当に、街の目と鼻の先に多くの魔物が生息しているのですね……」
「ま、タルシスの北部に生息地が多いってだけさ。分かったら迂回して、河沿いを北上しましょ」
「わあ、滝ですよ! ほらほら」
 ニーナの脇を抱え上げ、河に合流する巨大な滝を示すアティ。
「あうー」
「興味ないんじゃない?」
 興奮するアティをよそに、ぶら下げられているニーナは不機嫌そうだ。
「魔物だけじゃなくて、そのエサになるような野生動物とか魚とか、自生してる野菜とかもありそうんじゃねえ? もうちょい進んだら、降りて食材調達しようぜ」
「まあ……持参した食材だけで、この大食娘の胃袋が持つとは思えないしね」
 エリザベスが言うが早いか、風の音などもろともしない腹の虫が“ぎゅるりらー”と鳴いた。


 密度の高い緑が鬱蒼と茂っている。“森の廃鉱”よりも薄暗い印象を抱くその森は、北に高々とそびえる岸壁の裂け目、北風が勢いよく吹き込んでくる地点に佇んでいた。“碧照ノ樹海”と呼ばれる、この迷宮の入り口で出会った兵士たちの話によると、北壁の近くには謎の遺跡があり、そのすぐそばに存在することが、この樹海が“世界樹の迷宮”と呼ばれている所以らしい。言い伝えでは森の奥には世界樹へ至る道が隠されているとされているそうだが、真偽のほどは定かではない。何故なら、この迷宮を踏破した者が、いないからだ。
「ところどころ、人工のものと思しき扉や柱がありますね」
 慎重に歩を進めながら、アティは周りを見渡す。春めいた雰囲気があるのは、実際の季節がらか、それとも名の知らぬ花々が足元を彩っているからか。
「ニーナ、大丈夫ですか?」
「むう」
 ほとんど生のベビーキャロットをこりこりと齧っているニーナが小さく頷く。彼女を振り返っていたアティは、突然立ち止まったマオに気づかず、その背中に激突した。
「いたた……マオ、すみましぇん」
「……大物がいますね」
 前方の分岐点を険しい顔で見つめる彼に、エリザベスが不審げに通路を覗き込む。
「何にも見えないけど?」
「まだ先だ。待ち構えているというか……そんな感じがする」
「勘?」
「まあな。ぼんやりとしか分からなくてすまないが」
「いいえ……」
 “森の廃鉱”では手ひどい洗礼を浴びたのだ。二度とああいうことがないように、危機の可能性には最大限身構えた方がいい。
「それ、本当?」
 一方で、エリザベスはひどく不審がっているようだ。眉をひそめて、マオをねめつけている。
 ドミニクが飄々と言った。
「先に進んでみれば分かる事じゃね?」
 案の定、小さな水辺を抜けた刹那、びりびりと森の木々が揺れた。
 飛び去っていく青い蝶々の群れ。それらを追う余裕はなく、目を凝らした通路の先に何かいる。
 熊だ。それも、上半身が筋肉で膨れ上がった、見るからに乱暴者そうな。
「……あれかしら」
「位置からして、そうだな」
「へー、先生すげえな」
 ちゃんと“大物”じゃん、とドミニクが小さく口笛を吹く。マオは肩を竦めた。
「“勘”だからな。偶然さ」
「先生さあ、そういう医者っぽくないとこ多いよな」
 ドミニクの軽口を聞き流しながら、ピルグリムは散策する。簡素な木板で他の道が阻まれていて、大熊のいる方向に進むしかないらしい。
「誰が打ったんだかね、こんな進路妨害の板」
「地下一階はそれこそ冒険者なら誰でも入れるようなところだからね。中には、根性が腐ったやつもいるんじゃない」
「クマさんの側に、抜け道がありますよ」
 魔物がそっぽを向いているうちに、素早く抜ければ先に進めるかもしれない。
 ピルグリムの五人は足音を立てないように、そっと大熊に近づいていく。
「あと少し……」
「っくしゅん!」
―――盛大に響いたのは、エリザベスのくしゃみだ。
 やってしまったと言わんばかりに目を見開き、彼女は呟いた。
「ごめん」
 大熊の目がぎょろりとピルグリムを向く。
「横道に走れ!」
 ニーナを先に行かせ、駆け出す。大熊は“森の廃鉱”にいた狒狒を彷彿とさせる俊敏さで迫りくる、やがて追いつかれると勘付いたエリザベスが、盾を構えて立ち止まった。
「ベス!」
 が、大熊は道の途中で速度を緩めると、ついには足を止めた。ひくひくと鼻を動かす様子にエリザベスの盾の後ろから警戒していれば、首根っこを引っ張られた。
「二人とも、今のうちに。奥に扉があります」
 マオが顎でしゃくった先には、立派な装飾の施された人工の石扉。小さく頷き返し、アティはマオに従う。
 扉を抜けた後、ゆるゆると安堵の息が出た。
「はあ、一時はどうなることかと……」
「悪かったね」
 むず痒そうに鼻をさするエリザベスに、マオが怪訝な表情をした。
「アレルギーか?」
「あれる……何だって?」
「あー……いい。説明がめんどい」
「何よ。そんなだからあんたの言う事、ちゃんと聞く気にならないのよね」
 きつめの一言に、マオは目を丸くする。
「……それは失敬」
「喧嘩すんなよー」
「喧嘩じゃないわよ!」
 ドミニクの茶々に、エリザベスが噛みつく。
「ん? そこにいるのは、エリザベスじゃないか?」
 鼻をぐしゅんと鳴らすエリザベス。声がしたパンヤの木の陰から現れたのは、甲冑を着たタルシスの兵士だ。
「―――やっぱりそうだ。お前、突然騎士を辞めたと思ったら冒険者になってたのか」
「ふん……いろいろと事情があるのよ」
 兵士に会うたび同じ感想を告げられ、エリザベスはやや辟易しているようだ。ともあれ今まで兵士たちがその点を深く追及してくることはなかったが、この兵士は違った。
「やっぱり女の身にはきつかったか? 跡取りがか弱い一人娘じゃ、冥府のお父君はさぞお嘆きだろうな」
 エリザベスは激しく兵士を睨みつけたが、耐えるように拳を握っただけで、何も言い返さない。
 空気が変わろうとする一瞬を突いて、ドミニクが口を開いた。
「なー、兵士さん。おいらたちが通ってきた道のところどころを木の板が塞いでいたんだけど、心当たりはないかい?」
 扉の向こうにあった大熊の気配は薄らいでいる。兵士はドミニクに向き直ると、がしゃりと鎧を鳴らすように肩を竦めた。
「塞ぐも何も、あそこは元々壁だったんだよ。この森、遺跡みたいだろ?」
「ええ、まあ」
「魔物は昔からよく出ていたんだけどね。どこからともなくあの熊どもが住み着いて、遺跡をまあ壊す壊す。熊どもは多分もっと地下から出てきたんだと思うんだけど、いかんせんこの迷宮の地下二階より下は長いこと立ち入り禁止で、誰も行ったことがなかったからさ。本当のところは分からないんだよね」
「立ち入り禁止って、何でだい?」
「そりゃ、魔物がぐっと強くなるからさ。そんなところにホイホイ入られても、僕らは助けに行けないし。何より人間の味を魔物に覚えられりゃ、街が危ないから」
「まあ、確かに。で、あの木板は結局のところ、あんたたち兵士が打ってたってところ?」
「気休めにもならないけどね。“森の破壊者”の腕力つったら、そこの木くらい平気でへし折れるくらいだもの」
 兵士が指したのは、胴回りが人間の数倍はあろうパンヤの木だ。
「まあ、恐ろしいです」
「だろ? 僕も中継地を守るって任務じゃなきゃさっさと帰りたいよ」
「兵士のお仕事も大変ですのね」
 アティの言葉に同意するように頷きながら、兵士は提げていた袋の口を開いた。
「ところで、きみたち。武器や道具の不足はないかい? 僕は冒険に必要なものを街から持ってきて、冒険者の手助けをしているんだよ。良かったら見ていって」
「わあ、親切にありがとうございます」
「不足なものなんてないね。アティ、行くよ」
 エリザベスに首根っこを引っ張られ、アティは仰け反った。
「ええっ!? でもベス、折角ですし……」
「いいから、先に進むっ!」
 アティを押して歩きながら、エリザベスはひそひそと続ける。
「あのねえ、ああいう手合いはこっちの足元を見て法外な値段をふっかけてくるに違いないんだから、いちいち相手にしない!」
「で、でも本当に役に立つものでしたら……」
「“街から持ってきて”って言ってたでしょ? 街にあるものは街で準備するのが冒険の基本さ」
「うう……」
 正論過ぎてぐうの音も出ない。
「アティちゃんは好奇心旺盛だなあ」
「ううっ、ドミニクまで」
 悪気のなさそうな満面の笑顔が返ってくる。追い打ちのように、マオが続いた。
「安心しろ、ギルドの台帳は俺が管理しているから」
「ああマオっ! もしかして、このことを予期して……」
「それは勿論、お嬢様のことですから」
「あうう……マオが積極的に、ギルドのことを手伝ってくれるようになったと喜んでいたのに……」
 歩きながらがっくりと肩を落とすアティ。
 その瞬間またマオの背中にぶつかって、呻き声を上げる。
「ま、マオ?」
「静かに……また、“大物”がいますよ」
 ひらけた水辺の向こう岸を指さして、マオはそう呟いた。


「誰かいるな」
 木々の影に覆われた水辺は暗く、こんな遠方からでは何かが動いているということしかわからない。
「マオ、“誰か”というのは」
「“森の破壊者”以外に……ひとり、いえ、ふたりいます」
「なあ、それってあの大熊に襲われてるってことじゃないのか?」
 ドミニクの言葉に、アティは息を呑んだ。
「す、助太刀しましょう!」
「単に戦っているだけかもしれないよ? もう少し様子を見てもいいんじゃない」
「う……そ、そうですね」
「いや」
 森の中を風が走る。
 揺れる枝葉の漏れ日が照らしたのは、“森の破壊者”に対峙する男。
 兵士と思しき鎧の誰かを背負った、それはワールウィンドだった。
「助けましょう!」
「ま、コレは正しいわね」
 ピルグリムは武器を抜くと、水辺を回り込むように、ワールウィンドへ辿り着く。
 ワールウィンドはこちらを向くと、三白眼を軽く見開いた。闖入者に威嚇するように、“森の破壊者”は雄叫びを上げる。
「こっちだよ、クマ野郎!」
 盾の表面を叩き、エリザベスが挑発する。それを追いかける“森の破壊者”の背後に素早く回り込み、アティは籠手を起動させた。
「はあっ!」
 リーチの長い腕が背中を払おうとするのを跳びあがって回避し、そのまま、防御の薄い丸まった背中に剣を突き下ろす。肉を断つ感覚に次いで現れるのは、剣を伝って噴き上がる、炎。
 痛みに絶叫しながら、“森の破壊者”は縦横に身体を震わせる。アティは剣を握っていることもままならず、振り落されて熊の背中を転がる。
「アティちゃん!」
 すんでのところで踏み潰されずに済んだのは、ドミニクが追い打ちのように矢を放ってくれたからだ。前向きにたたらを踏んだ“森の破壊者”の爪が、パンヤ木の太い幹を砂糖細工のように粉砕する。
「わお」
「あうー!!」
 ニーナが一際大きな声を上げるのと、陽光に冷気が射し込むのはほぼ同時だった。まるで氷の女神がその胸元に抱き込んだかのように、“森の破壊者”の足元と長い腕が瞬く間に凍りつく。
 もう一度。
 大熊の爪が弾き、転がった剣を拾い上げ、アティは“森の破壊者”に斬りかかった。狙うは首の付け根。硬い毛と皮膚に覆われたそれを、火を纏った鋭い剣が貫いた。
「くっ」
 なおも抗う巨体を沈めんと、ドミニクの援護だろう矢が“森の破壊者”に何本も突き立つ。徐々にその抵抗は弱まっていき、首が完全に項垂れたとき、アティは剣を抜いた。
「はっ……」
「アティ!」
「大丈夫?」
 高揚から来る震えを飲み込むように、アティは乾いた喉に唾液を送り込む。大丈夫だ。
 “森の破壊者”の巨躯から降りようとしたが、足が絡まってしまって、顔面から緑の絨毯に着地する。草が生えているとはいえ地面は地面、打った顎が痛い。
 勝った。
 自分より大きな、強力な魔物を自分の力で倒したのは、ほとんど初めてだ。
「立てますか? 怪我は?」
 いち早く近づいてきていたマオが、心配そうにアティのそばに膝をつく。アティはほとんど無意識に、ふにゃりと笑った。
「何とか、なるものですね」
「……お元気そうでなにより」
 マオはそう無愛想に言うと、アティを引っ張り立たせた。
「あっ、そういえばワールウィンドさんは?」
「あそこにいますよ」
「助かったよ。ありがとう」
 汗をかいた顔に少しばかり安堵の色を乗せて、ワールウィンドは微笑んだ。が、その背に負ぶわれた土気色の顔色をした兵士はぐったりとしていて、意識もないようだ。
「怪我人か?」
「悪いが、立ち話をしている暇はないんだ。下の階にエラい魔物が出たらしくてね」
「俺は医者だ。ここで出来る限りの応急処置をしよう」
 鞄を下ろして告げるマオに、ワールウィンドは目を丸くする。
「……きみたちは、良い奴だな。この地ではみんな、そのように助け合って暮らしているのかい?」
 目元を緩め、彼は続けた。
「しかし、この彼は俺に任せてくれ。知らせを持ち帰るためにも、今は急がせてもらう」
「お気をつけて……」
「きみたちも。手練れの兵士がこのザマだ、手に余ると感じたらすぐに帰還するようにな」
 ワールウィンドはそのまま走り去っていく。
 彼の背を見送るピルグリム。やがて、辺りを物色していたドミニクが「あっ」と声を上げた。
「階段がある。ここから地下二階に進めるみたいだぜ」
「どうする? まだ、道具や体力には余裕があるけど―――」
 エリザベスの言葉を遮るように、声高に主張する腹の虫。
 皆が一斉に振り返ったのは、ニーナ―――ではなく、アティだ。
「す、す、すみません……安心したら、急に」
「ま、ちょっと一息入れましょうか」
 エリザベスは口端を上げた。


 昼食を摂ったピルグリムは、地下二階に降りて探索を進めた。予想した通りそこは“森の破壊者”の巣窟だったが、彼らに出くわさないように巣穴を迂回すれば、相手にするのは土着の魔物たちだけで済んだ。
 しかし道中出くわした兵士からの話によれば、“森の破壊者”よりも一回りは巨大で、凶暴な魔物が地下二階の奥で暴れているらしい。その魔物に襲われた兵士隊の判断で、これより先の道は一時立ち入りを禁じられているという。その頃には疲労の色も濃くなっていたピルグリムは、一端街に引き返すことを決めた。
 タルシスの広場では、血気盛んな冒険者や兵士たちが集会を開いていた。地下二階に現れた魔物と、その犠牲となった兵士隊のことは、速報として街に伝えられていたらしい。
「討伐任務が出るかもね、この分じゃ」
 集会の様子を尻目に、すっかり日も落ち街灯が照らすばかりとなった石畳の上を、エリザベスがゆっくりと歩いていく。そのあとを、ニーナの手を引きながらついていきながら、アティは口を開いた。
「大がかりな、討伐隊が出動することになるということですか?」
「いやいや、街にいる兵士はこれ以上出せないでしょ。無駄死にさせるようなもんだし……」
 エリザベスは小さく溜息をつくと、ぽつりと呟いた。
「父さんがいてくれたら、良かったんだけど」
 それは無意識の呟きだっただろう。
 アティは、エリザベスの父のことを深くは知らない。彼女は今彼女の母と二人暮らしだが、父は元々タルシスの騎士で、数年前亡くなった。それだけだ。
 エリザベスの父は、腕が立つ騎士だったのだろうか? 生きていたら、兵士隊やピルグリムに助言をくれただろうか。―――瞬きする間にアティの頭をそういった思考が巡り、霧散していく。口に出して、エリザベスに確かめるという手段もあったが、アティはそうしなかった。死からは、数年。されど、数年。いたずらに傷の治りを検めるには、短すぎる月日だ。
 何より治った傷を確かめることも、エリザベスは嫌がるだろう。
 アティも最近母を喪ったから、臆病になってしまう。
「ベス。私、明日統治院に行って、領主さまにお目通りしようと思ったんですけど」
「奇遇だね。あたしもそうしようかと考えてた」
 振り返った顔はにっと口角が上がっていた。
「―――男連中はもう宿に帰っちまったし、明朝合流してからみんなで行けば、いいね」
「はい。……いいですよね、ニーナ」
 ニーナは、帰りの道中で見つけたさくらんぼに夢中のようだ。頬袋のように種を蓄えている姿に微笑みつつ、アティは前を向く。
「あのさ」
 エリザベスはいつの間にか立ち止まっていた。
「―――あのおっさんのことだけど」
「ベス、マオが聞いたら悲しみます。ちゃんと名前で呼んであげてください」
「あー……マオのことだけど。あいつ、今日地下二階で会った兵士の治療をしてあげていたじゃない」
「はい」
 それがどうかしたのかと首を傾げて続きの言葉を待っていれば、エリザベスは渋い顔になった。
「ちょっとまだ信用できないところがあったんだけどさ。……本質はちゃんと、医者、なんだね」
「それは、もちろん!」
 強い調子で言い切ってから、エリザベスが示した意図に気づき、アティははっと息を呑んだ。
「―――あのときは、私がしり込みしたからで!」
「分かってる、本気でドミニクを放置するつもりなんてなかったでしょうよ。今ならちゃんと、それが理解できるってことを言いたかっただけ」
 肩の荷を下ろしたように、また溜息をつくと―――エリザベスはよくこうするが―――近場の壁にもたれかかり、腕組みのまま彼女は続けた。
「ごめんね。ちゃんと謝りたかったんだ。……あたし、ちょっと人間不信なんだ」
「え?」
「お節介なくせにね。……父さんが死んでから、気持ちに余裕がなくてさ。今日会ったボッタクリ兵士みたいのもいるし……」
 弱々しく吐露された言葉に、アティはエリザベスの肩をがっしりと掴んでいた。
「ベス! 私はベスの味方です!!」
「へ?」
「上手くは言えないですけど……私、ベスは正しい人だと思います。正直で、清らかです。でもそういう人は、困ったことやつらいことを抱え込みやすいと、私の母が言っていました」
 エリザベスの目を覗き込み、アティは一口に告げる。
「―――私はベスの友達です。ベスが間違っていると思ったら遠慮なく言います、ベスが私に言ってくれるとおりに。でも、今回のベスは間違っていません! だから、自分を責めないで下さい。大丈夫です」
 にっこりと笑みを浮かべて手を離す。「あっ」とアティは言葉を付け足した。
「良ければ“ごめんなさい”は直接、マオに言ってあげてください。ああ見えて結構、彼も“気にしい”なんです」
「……そうだね、そうする」
 柔らかい表情が返ってきたので、アティは頷いた。
 ニーナがぶんぶんと繋いだ手を振ってくる。どうやらさくらんぼも尽きてしまったらしい。
「ふふ、帰りましょうか」
「そだね」
 隣に並んで、アティたちは再び歩き出した。

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第3話

 タルシスの広場には、早朝から多くの住民が集合していた。
 広場の中心には、白塗りの大仰な立札が掲げられている。この設えは、タルシスの領主こと辺境伯が治めるマルク統治院による触れに違いない。滅多なことでは出されないそれに、住民たちは緊張感をもって、見物しに来ていた。
「世界樹を目指すっていう施策を告知して以来だね、こんなの」
 人だかりの一角を担いながら、エリザベスがぼそりと呟いた。立札に近づいて詳しい内容に目を通すべきではあるが、大体のことは把握している。昨日碧照ノ樹海に現れた、赤毛の大熊の討伐に関することだ。
 ひしめきあう人の波を押し分け、立札へ向かおうとする流れを、ドミニクが逆流してくる。混雑から吐き出されるようにしてピルグリムの仲間たちの前に戻ってきた彼は、まるで水の中から顔を出すように深呼吸した。
「やっぱり、エリザベスちゃんの言うとおりだったよ。討伐任務、冒険者の有志を募る内容だった」
「ま、そうなるわね」
 エリザベスが肩をすくめたので、アティは目を輝かせた。
「予想的中、さすがです、ベス!」
「それで? 受けないとどうなるんだ」
 ニーナが朝市の野菜売り場に突入していかないよう、手を繋いでいるマオが淡泊に尋ねた。
 ドミニクは頬を掻く。
「んー、もちろん有志ってことは、冒険者登録している全員が強制参加、ってわけじゃないと思うけど。碧照ノ樹海の地下二階に続く階段は作戦のために封鎖されるらしいから、討伐が終わるまで先には進めず、足踏みすることになるだろうね」
「他の冒険者に、かなり差をつけられるだろうってことか。……って、あんたはさっきから何食ってんの」
「え?」
 見咎められたことに顔を赤くして、アティはごまかすように笑みを浮かべた。
「―――ドライフルーツです。ニーナが食べているところを見て、ちょっと興味が……」
「って、また何か食べさせてるの?」
 エリザベスが眉を跳ね上げさせる。ニーナが手にしている紙袋を見つけたためだ。
「食い物与えている間は大人しいからな」
 しれっとマオが言うので、エリザベスはあきれ顔だ。
「ベスもいかがです? 美味しいですよ」
「こんな砂糖漬けみたいなの食べさせていると、デブになるよ」
「その分運動するから、かまわないだろ」
「あ、あのー、ニーナの事ですよね。私の事じゃないですよね、それ……」
 睨み合う二人の会話に入っていけずアティが呟けば、その様子を見ていたドミニクがからからと笑った。
「まーまー。いつものケンカはそのへんにして、そろそろ統治院に行こうぜ」
 この後、ピルグリムの皆で辺境伯に謁見する予定になっている。
 ドミニクはそれに付け加えた。
「“任務”の詳しいつもりも、そこで聞いてさ。おいらたちでも参加できそうだったら、受領しようぜ」
「まあ……既に腕利きだらけで討伐隊が編成されていれば、あたしたちの出る幕はないわけだしね」
 そうなることを祈るよ、とエリザベスは呟いた。


 ところが。
「諸君らは実に勇敢だな」
 タルシスの統治者、辺境伯は愉快そうに口髭を撫でた。
「―――触れを出したのは今朝の話でね。まさかこんなに早く、兵士隊の仇を討とうと名乗り出てくれる冒険者がいようとは」
「と、いうことは?」
「うむ、諸君らが最初の、任務受領ギルドだ」
 それどころか今日は、冒険者がただの一人も私に会いに来てくれなくてね、と辺境伯は寂しげに続ける。
 ピルグリムは顔を見合わせた。
「……まだ受けるって、決めたわけじゃないよ」
「おお君は、亡き父君のあとを継いで騎士になった娘だったな。……最近目にしないと思ったら、冒険者になっていたのか。いや、まあそれも良かろう」
「あのー」
「かつての仲間であった兵士たちの仇を討ちたいと思ってくれたのか。いやはや、ありがたいことだ。無念のうちに散った彼らにも、その心意気は届いているだろう」
「もしもし?」
「見たまえ、壮健な若者たちではないか。冒険者を一過性の嵐のように言う者もいるがね、私は諸君らを信じている。此度の任務も、世界樹に至る道の開拓の一部。いわば街のためだ。それに諸君らのようにみずみずしい冒険者が手を挙げてくれる……なんと素晴らしいことだ」
 突然演説を始めた辺境伯に、ピルグリムは棒立ちだ。
 窓に歩み寄っていた辺境伯は、こほんと喉を整えると、ようやくピルグリムを向いた。
「―――だからといって、強制はせぬ。安心したまえ」
 こちらの話を聞いていなかったわけではないらしい。
 ほっとしたように、エリザベスが口を開く。
「良かった。まだ少し、考えさせ―――」
「感動しました!」
 アティが躍り出た。
「―――辺境伯さまがそこまで私たちのことを評価してくださっていたなんて! 私の出生地もかつては冒険者の街と呼ばれていましたが、街の人々と冒険者が相互に助け合い、尊重しあう街ほど素晴らしいものはありません!」
「おお、そうか。ならば君は冒険者の街と冒険者、双方の気持ちが分かるからこそ、こうして前向きに街のことを考えてくれるのだな」
「タルシスの皆さまは、流れ者の私にとても親切にしてくださいましたもの。私にできることでしたら何でも恩返しにやらせていただきます!」
 今にもがっしと手を取り合いそうな二人の応酬に、エリザベスは頭を抱えた。


「で、結局任務、引き受けることになったな」
 からからと笑うドミニクの隣を歩きながら、アティは肩を落としていた。
「すみませんでした……」
 ヒートアップしてくると周りが見えなくなるのは、自分の悪い癖だと分かっているのだが。
 しかしドミニクは明るく答える。
「いいさ。どのみち受けないと先に進めないんだし。だいいち先生とエリザベスちゃんは、無理だと思ったら絶対拒否るでしょ」
「う……そうですね」
「そうそう。それより……」
 ドミニクは人通りのまばらな広場を見渡す。青々とした快晴の広がる、春にしては汗ばむ陽気だ。朝市はとうに畳まれていて、真っ当な職の人々は労働に勤しんでいる時間帯である。
 アティとドミニクがなぜ二人きりでここにいるかと言えば、空腹のあまりに飛び出していったニーナを探すためにほかならない。
 ちなみにマオとエリザベスは、任務の受領手続きのため統治院に居残りだ。
 ドミニクはにやりと口角を上げ、アティの手を取った。
「邪魔者もいないし、デートだデート!」
「えっ、えっ?」
 でもニーナが、という言葉をアティが舌にのせるより先に、ドミニクは彼女の手を握って歩き出してしまう。
「おいら、アティちゃんのために、おしゃれなカフェとかちゃんとチェックしてたんだぜ」
 アティのために、と言われると、弱い。かといってニーナを放っておけば、また人さらいに連れていかれるかもしれないのだ。
 ずんずん道を進んでいくドミニクに、アティは石畳に足を踏ん張って、彼の歩みを止めることに成功した。
「ど、ドミニクっ、ニーナを先に探してからにしませんか?」
「ニーナ見つけたら、デートにならねえだろ?」
「でも、ニーナが心配です……」
 眉を下げるアティに、ドミニクは「しかたないなあ」とアティの手を離した。虚空を見上げて、にっと笑う。
「じゃ、今度絶対に二人きりでデートな」
「はいっ」
「約束」
「約束です」
「ん」
 小指を差し出すドミニクに、アティは首を傾いだ。
「それは?」
「えっ、知らねーの? 指切り」
 ドミニクは片手でアティの手を取ると、自分の小指とアティの小指を絡ませた。
「こうやってさ、“指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます”ってやるんだ」
「指切り!? 針千本!?」
「物のたとえだから。ホントにやるわけじゃねーから」
 それにしても、とドミニクは怪訝げだ。
「確か、アティちゃんの地方の風習だと思ったんだけどな。知らねーんだ」
「はい……」
「まあ、アティちゃんはお嬢様だし」
「い、言わないでくださいっ」
 世間知らずな自覚はあるのだ。
 再びニーナを探して歩き出しながら、アティはドミニクの慣れた様子―――短い滞在のうちに、女の子とデートするためのカフェまで見つけているなんて―――に、彼がほうぼうを旅してきたと言っていたことを思い出した。アティとほとんど年齢も変わらないのに、大人びた風なのはそのせいだろうか。
「ドミニク、あなたはどれくらい旅をして、タルシスに来たんです?」
 頭の後ろに手を組んで、ドミニクは首だけ振り返った。
「どれくらいって、距離? 期間?」
「ええと……期間で」
「旅してた年月なら、五年くらいかな」
「五年!?」
「タルシスをずっと目指していたわけじゃないけどね。おいらたちは成人したら、自分の嫁さんを探して旅に出るのさ」
「ええと、タロット、でしたか?」
「そうそう。タロットは流浪の民って言われるけど、ちゃんと集落があるんだよ。一族で旅をするなんてむしろまれでさ、旅をするタロットの大抵はおいらみたいな独り身なの」
「へえ……」
 といっても、アティがタロットを知ったのはドミニクが初めてだ。
「嫁さんが出来ないと村に帰れないからさ、バカやる連中もいて。それでタロットってのは悪名で知れ渡ってんだ」
「でも、ドミニクはいい人です」
「はは、ありがと。ついでに言っとくと、デートのこと、先生には黙っててね」
「はい」
 肯定の言葉を返したのに、ドミニクは苦い顔になった。
 というよりも、眉を下げた、困り顔に。
「ドミニク?」
「アティちゃんの……その、物わかりの良さと言うか。鵜呑みにしやすさは問題かなあ」
「えっ?」
「何でもないよ、先生は苦労してんだろなって話」
「あう……」
 ドミニクは踵を返すと、閃いたように指を弾いた。
「ニーナなら、メシ食わしてくれるところにいるかもな。孔雀亭とか」
「あっ、行き慣れてますしね」
「そういうこと。さ、デートの約束もうまく取りつけたことだし、おいらたちも腹ごしらえしに行こうぜ!」
 ドミニクに腕を引かれて、アティは石畳を駆け出していった。


 風馳ノ草原を抜け、再び碧照ノ樹海に降り立ったピルグリムは、警戒を滲ませながら、より暗く鬱蒼と茂る地下二階の歩を進めていく。
 地上に程近かった、地下一階とは違う。安易に逃げ出すことの出来ない緑の迷宮の中に、思い出したように響く獣の声。黄緑の木漏れ日が揺れ、鳥が飛び去っていく。ふと、マオが立ち止まった。
「魔物がいますね」
 先を行くエリザベスが振り返る。
 彼の言葉には耳を傾けるべきだと、以前の経験から学んだからだろう。
「何がいる?」
「そこまでは、俺には分からん。ただ……猛った感じじゃない」
「というと」
「安らいでいる。とても穏やかな感じだ。……ひょっとして、巣にいるのかもしれないな」
 地下二階にいる“森の破壊者”の数は、地下一階の比較にならない。巣窟というのは文字通りで、ここいらは彼らの縄張りなのだ。
「出来るだけ、見つからないように、見つけないように行きましょう」
 目的のためとはいえ、自分たちは侵入者の側なのだ。
 声を潜めて呟いたアティに、エリザベスもマオも同意するように頷く。
 大熊たちの気配に気を払いながら、注意深く奥へと踏み込んでいく。
「この辺りですね」
 先頭を進むアティがふと足を止めたのは、前回引き返した地点。魔物に襲われた兵士隊と出くわした場所だ。
「扉があるよ」
「何かいますか?」
 扉を指さして尋ねれば、マオは難しい顔をしていた。
「……恐らく、一体。あまり凪いでいる様子ではないな」
「すげーあいまいだな」
 ドミニクの揶揄に、マオは平然と答える。
「俺は訓練を受けた兵士じゃないんだ。こんなに距離があれば、あいまいにもなるさ」
「気配を察知できるだけで、十分すごいと思いますけど……」
「それで、先に進むの、進まないの?」
 エリザベスが扉に手をかけながら言う。
 アティははっと気づいた。
 仲間の全員が、自分を見ている。
「え、ええと……私が決めてしまって、いいものなんでしょうか」
「今更だけど、あたしはあんたがリーダーだと思ってたよ?」
「おいらもアティちゃんに従うぜー」
「マ、マオ」
「お好きなように」
「うー」
 気合十分と言いたげに、ニーナが手を繋いでいるアティの腕を振る。
 仲間たちから激励を受けて、アティは息を呑んだ。おそるおそる扉の前に立ち、それに触れた手に力を込める。
「……いきましょう」
 いざ、戦いの場へ。


 舞う土煙の中を、二本足で踏ん張りながら、アティは目を凝らしている。
 鮮血の毛皮を纏う大熊の魔物―――“血の裂断者”との死闘の最中だ。五対一とはいえ“森の破壊者”とは比べ物にならない強力に、アティは少しばかり怯んでいる。この土煙が晴れた先、大熊の姿を捉えたらすぐに、攻撃に動けるだろうか―――
 しかしそんな甘い考えを黒く塗りつぶすかのように、視界を切り開く紅の爪。
「あうっ」
 咄嗟に盾を掲げたものの、軽く薄い皮盾に真正面から大熊の一撃を受け止める力はない。弾き飛ばされ転がるアティ。“血の裂断者”は躊躇うことなく迫りくる。
 痛みは走ったが、半ば反射的にアティは動いた。集中力と戦士の勘が、大槌のような衝撃を回避する。間近に跳ね上がった泥と草から逃げるように、アティは何とか足の裏で土を踏み、蹴った。
 悲鳴。“血の裂断者”が振り上げた腕を警戒するも、逞しい二の腕に突き刺さっている矢に、アティはハッと気づいた。風のように追撃の矢が彼の爪先を掠る。
 魔物がそれに気を取られた刹那、アティは地を蹴っていた。
 作動させた籠手から炎が吹き上がる。
 その勢いのままに、アティは斬り上げた。
「アティちゃん!」
「大丈夫、です」
 上がる黒煙に、驚いたような形相を浮かべながらドミニクが駆けてくる。蹲るアティは籠手の調整を手早く行いながら、魔物の動きを窺っていた。
 命中したはずだ。しかし“血の裂断者”の動きは俊敏で、唸り声を上げながら四つん這いに、奥の通路に向かって姿を消してしまった。
 アティは周囲を見渡す。仲間たちに怪我はないようだ。
「お嬢様、立てますか」
「はい……」
 差し伸べてくれるマオの手を取り、アティは多少よろめきながら、何とか立ち上がった。どうやら一番ダメージが大きいのは自分らしい。
「逃げられたか」
「……今なら追いかけられるよ」
 エリザベスが指すのは、点々と続く赤黒い痕跡―――“血の裂断者”が残した血の跡だ。
「追撃しましょう」
「無理はしない方が―――」
「今逃がせば、向こうも回復してしまうでしょう。私たちは幸い損傷がありませんし、今とどめを刺すべきです」
「おお……アティちゃんの口から“トドメ”という言葉が……」
「えっ、えっ、何か変ですか」
「いや」
 何故か感嘆するドミニクを押し退け、マオがアティの顔を覗き込む。急に距離が縮まったので、アティはどぎまぎしながら仰け反った。
「な、何か」
「……分かりました、追いましょう」
 渋い表情を浮かべたままマオの顔が離れていく。どうやら目視で状態を確認しただけらしい。
「そうと決まれば、さっさと行こう」
 エリザベスが、広間の奥を親指で示した。 


 いいか、この世で敵に回しちゃならんものがいくつかある。
 野営の焚火の向こう。酒が回っていると、“おじ様”は饒舌になった。そのわりに至極真面目な顔で語られた、言葉。
―――気をつけろよ。帳面に向かってる経理係、徹夜明けの酒場でばったり出会った同業者、包丁持って料理してる女房。
 あとは手負いか、子持ちの獣だ。
 その忠告をふと、アティは思い出していた。


 ぼんやりとした思考の膜を乱暴に引きはがして、地響きと土煙がアティを揺るがす。
「っ」
 最後のあがきをするかのように、どうと倒れた赤毛の大熊は、アティに向かって鮮血色の爪を跳ねさせ―――そして、動きを止める。
 呆然と剣を握りしめ、立ち尽くしていたアティの唇から、言葉がこぼれた。
「勝っ……た?」
「今度こそ」
 ほうぼうから近づいてくる仲間たち。
 “血の裂断者”を囲んで遠巻きに様子を窺う彼らのうちから、マオが進み出て、魔物の首筋にそっと手を押し当てた。固く、血に強張った毛を掻き分け、静かに時間を待った彼は、皆が見守る中やがて立ち上がった。
「事切れていますね、完全に」
「じゃあ……」
 アティは喜ぶというより、安堵の笑みを浮かべた。
「終わったー! あー疲れたっ」
「しぶといやつだったよ、ホント」
 口々に感想を言い合いながら、ドミニクやエリザベスたちはその場に座り込んだ。
「おい、気を抜きすぎるなよ」
「そーいう先生だって、声に覇気がねーぞ」
「……ヤニが切れた」
 なんとなくそわそわした風だったのはそれでだろうか。もちろん樹海の中で煙草に火をつけるわけにはいかないマオは、手持ちぶさたを解消するべく“血の裂断者”の検分を始めた。
「あ、私も手伝―――」
 そのとき。
 森全体を揺らすような咆哮。いや、文字通り少しは揺れたのかもしれない―――草木の間から飛び立つ鳥や獣の影があった―――刹那の放心のあと、ピルグリムに緊張が走る。
 脅威がまだ、残っている。
 マオほどの感覚を持たずとも、突き刺すような殺気が轟いた一瞬をアティは理解していた。そう、頭で理解していても、死闘を乗り越えた身体はもうがたがたで、技能を発揮できるほどの集中力ももはやない。この殺気が実体をもって襲い掛かってくれば逃げ出すことさえ難しいほどに、ピルグリムは疲弊している。
 誰もが息を呑んだ森は、しかし、波が引くように穏やかな雰囲気を取り戻していった。咆哮がまるで空耳だったとでもいわんばかりに残された静寂に、アティは口を開く。
「大……丈夫でしょうか?」
「さあ」
 口調はいつも通りだが、どことなく固い動きで、エリザベスがマオを振り返る。
 “血の裂断者”の傍に膝をついたままだったマオは、視線に気づくとかぶりを振った。
「近くに大きな気配はない」
「では……」
「少なくとも奇襲されるおそれは、ないな」
 アティは今日何度目かの溜息を吐いた。もう本当に、限界まで張りつめている緊張の糸がぷっつんと切れそうだ。
「けど、何か妙な鳴き声だったよね?」
 気だるそうに手首を回しながらエリザベスが言う。いつも気丈な彼女には珍しいが、彼女も疲れ切っているということだろう。
「なんか、おいらたちがコイツを倒したの、見ていたみたいだったな」
「ただの偶然かもよ」
 まだ気になるのか、きょろきょろと落ち着かない様子で周りを見渡すドミニクに、大熊の紅色の爪を持ち上げていたエリザベスが「ちょっと、手伝ってよ」と呼びかける。ニーナが自分ほどの大きさの爪をよろよろと支えているところを見つけて、アティは慌てて駆け寄った。
「ニーナ、危ないですっ」
「これを片付けたらご飯だよ、って吹き込んだからね」
 いつになく勤勉に荷運びを手伝うニーナの姿に、エリザベスはにやりと笑う。
「大分扱いに慣れてきてんな、ニーナの……」
「そりゃ、一緒に暮らしてるしね」
「いいなあ~おいらもアティちゃんとエリザベスちゃんの間に挟まって寝―――あだっ」
「馬鹿言ってないで手伝いな」
「エリザベスちゃんそれ武器! 対魔物用のハンマーだから!」
 日常的な賑やかな会話に、何事もなかったかのような錯覚が起きる。
 今は穏やかな緑の森の扉の向こうには、まだ未知の魔物がいるのかもしれない。
 おそれを感じて息を呑みつつも、アティは好奇心を抑えきれずにいた。


 碧照ノ樹海から外に出ると、外はすっかり暮れてしまっていた。
 遠く望む大河は、星を反射してきらめいている。虫の鳴く声に包まれた草原の闇は、樹海の中のような恐ろしさはないまでも、眠りにつく準備をしているかのようだ。
「今から気球に乗って、街に戻るとどのくらいかかるでしょう?」
「あー、やめておいた方が良いよ」
 一際赤々と明るい焚火を取り囲み、迷宮の入り口すぐそばで野営する兵士たちは、タルシスから派遣された調査隊だという。周辺地域の哨戒も兼ねているそうだが、こんな僻地にまで侵入してくる他国の兵隊などそうはいない。世界樹が見える北の山脈もそうだが、西も東も高い山に囲まれているタルシスの領地は、広大で豊かだがその分未開の地が多く、強力な土着の魔物も数多く内包している。
「―――真っ暗な中を進まなきゃいけないだろ。河沿いを戻るにせよ、ちょっと風に流されて西に行きゃ、山のどこかにぶち当たる危険は警戒しなきゃならない。それに気球の灯りは魔物を引き寄せる。いざ着陸したら魔物に取り囲まれてましたーなんてこともあり得るぜ」
「やっぱり、夜の移動は昼以上に危ないのですね」
「そりゃあねえ。悪いことはいわねえから、野営にした方がいいよ。樹海の入り口は比較的、視界もひらけていて安全だしな」
 俺たちもいるし、と、兵士は張った胸をどんと叩く。
 アティは手を叩いた。
「まあ、頼もしい」
「そいつはいいんだけど。食糧とかはどうするのさ?」
 討伐対象を追撃したため時間が遅くなっただけで、元々野営の予定はなかった。エリザベスの言葉に、アティは口角を引きつらせる。
「気球に戻れば……少しは」
「重たくなるからって、そんなに積んでないよ。せいぜい、ニーナのおやつ分くらい」
「あう」
 視線を兵士にやれば、彼は慌てたようにぶんぶんとかぶりを振った。
「こっちも、余裕はなくて。遭難者用に残しておかなければいけないし……」
「ですよね」
 ぽんと、ドミニクが手を叩いた。
「魔物を食えばいいんじゃね?」
「ええっ」
「地下一階に出る魔物くらいなら、すぐ倒せるしさ。おいらちょっと行ってくる!」
「ど、ドミニ―――」
「待ちな!」
「ぐえ」
 首根っこをエリザベスに引っ掴まれ、ドミニクは舌を突き出した。
「魔物つったって、バッタだのネズミだのしか出ないだろーが! 狩るだけ無駄だから!」
「ンなこたねえって! 見た目がグロイだけで旨いかもしんねー、だ、ろっ」
「あっ」
 エリザベスの手をすり抜けて、ドミニクは迷宮の入口へ走り出してしまう。
「ま、待ってください、ドミニク!」
 苦戦する魔物ではないが、さすがに彼ひとりにはしておけない。
 アティは兵士の手からカンテラを引っ掴むと、ドミニクを追って走り出した。


 数十分後。
 ドミニクとアティは、グラスイーターや森ネズミ、ボールアニマルなどの魔物を抱えて野営場に引き返していた。得意げな笑顔のドミニクと、疲れた表情のアティがなんとも対称的である。
「へっへー、ざっとこんなもんだぜ」
「まあ、手早いことは認めるけど……」
「うわっ何だコレ」
 アティが奪い去ったカンテラを回収しに来た兵士が、獲物を見て呻く。
「―――ゲテモノばっかだな。冒険者は普段こんなんばっか食ってやがるのか?」
「ンなわけないでしょ。コイツが勝手に―――」
「ああ、タロットか」
 妙に納得した様子で、兵士は頷いた。
 エリザベスは意表を突かれたように、目を丸くする。
「―――タロットって何でも食うんだろ? お前らもよく付き合うよな」
 そう言い置いて、兵士は去っていく。
 その後姿を見送る、エリザベスは渋い顔だ。
「ご、ごめん」
 狼狽えたように呟いたのは、ドミニクだ。
 俯き加減で視線を地面に落としながら、彼は口角だけの笑みを浮かべた。
「お、おいら、人と野営すんのって、あんま慣れてなくて……」
 珍しく意気消沈したような声音に、アティは気付く。
 ドミニクは、長く旅をしてきたと言っていた。出身の里を出て五年間。彼の年の頃を思えば、とても長い年月だろう。
 だがそれはタロットとしての旅。
 ひとりの誰かを見つけるための、孤独な旅だったのだ。
「あのね」
 呆れたようにエリザベスが溜息を吐くので、ドミニクは困ったときのように眉を下げた。
 エリザベスはどこか、怒っているような口調でまくしたてる。
「―――こんなに狩ってきたんだから、ちゃんと食べられるんだろうね。狩るだけ狩って放置、だなんていくら魔物でも許されないからね!」
「え? あ、う、うん」
 目をぱちくりとして、ドミニクは頷いた。
「―――エリザベスちゃんたちの口に合うかは分からないけど、残ったらおいらが全部食うし」
「あんたが食べられるんだから、あたしたちに食えないわけ、ないでしょ! とにかく調理しないと」
「普通に調理するだけで食えるのかな?」
「知るか!」
「ボールアニマルは解体して……串焼きにでもするか。ネズミも食えそうだな。グラスイーターは……どうすればいいんだ」
 丸々と肥えた森ネズミの尻尾を持ち上げて、ぶつぶつとマオが呟いている。
 彼は、目を丸くしたエリザベスとドミニクの視線に気づくと、半目で口を開いた。
「味は保障せんぞ」


「うめー!」
 タルシス兵の野営場の一部を拝借し、ピルグリムは遅い夕食に舌鼓を打っていた。
 大方が肉(魔物)料理だが、樹海のそばには食用の草や木の実が生える背の低い木も群生しており、ありあわせにしては豪勢な食卓が出来上がっている。
「エビみたいだ。バッタも意外とうめーんだな!」
「う……気にしないようにしてたんだから、大声で言わないでよ」
 そう言うエリザベスは、自身が食べているものを努めて見るまいとしているらしい。
「でも、本当に美味しいです。さすがマオですね」
「食材としては及第点未満ですがね」
「手厳しいです……」
「ま、食えるだけマシというところですよ」
 マオも旅慣れているだけあって、魔物のうちでも食べられるものとそれ以外の区別はおおよそつくらしい。大概のものなら毒抜きも出来るということを、実家にいたとき、父が料理した際の爆心地となったキッチンを片しながらぼやいているところを聞いたことがある。
「―――ですが、グラスイーターは次からやめましょう」
「はい……」
 味は悪くないが、見た目が非常にグロテスクになったそれを、ニーナが吸い込むようにたいらげていくのが救いだ。
「で、今夜はここで間借りして休むとして。明日からどうする?」
 考えないようにしたのか、エリザベスが話題を切り替えてくる。
「とりあえず、街に戻りましょう。道具も足りなくなってきましたし……」
「食糧と道具の補充か。今度はたっぷり、気球に乗るだけ詰めてな。それで、地下三階を攻略すると」
「ええ、そうですね」
 “血の裂断者”を倒した直後に轟いた、嘆きとも怒号ともつかぬ咆哮が気にかかるが、どのみち地下三階も大熊たちの根城であることに変わりはないのだ。進んで、確かめるしかない。
「そうと決まれば、さっさと片して休んじまおうよ。せっかくだし、気球で辺りの探索もしたいね」
「いい考えです、ベス!」
 ニーナが煮汁一滴残さず食べ尽くしたのを見つけて、アティは彼女の頭を撫でてやる。
「―――私、野宿するの久しぶりです!」
「えっ、アティちゃん野宿とかしたことあんの」
「はい! タルシスに向かう道中はずっと、おじさまと交代で火の番をしていましたから!」
 南タルシスは野犬が多くて火を絶やせなかったんです、とにこにこと語るアティに、マオが額を押さえる。
「……お嬢様たちは気球艇の中でお休みください」
「ええっ」
 抗議の色すら浮かべたアティの悲鳴に、マオはあきれ顔で嘆息した。


 翌日、街に戻ったピルグリムは買い出しを終えると、再び出立まで自由時間を設けることになった。
 調べものがあると言ってマオが離れた隙に、ドミニクがアティの手を掴んで、人ごみに紛れてしまう。
「ドミニク?」
「デートしようぜ、って言ったろ?」
 雑踏の向こうに置いてきてしまったが、ニーナはエリザベスと一緒のはずだ。憂うことは何もないはずで、アティは小さく頷いた。
「分かりました! 受けて立ちます!」
「そ、そんなに気合入れられると、逆にへこむんだけど……」
 苦笑いというより引き笑いで、ドミニクは呻いた。
「アティちゃんはさ、デートとかしたことないの?」
 市場が開いている時間なので、タルシスの街の大通りを行き交う人も多い。はぐれないようにとアティの手を優しく握ったままのドミニクは、からかうようにそう言った。
「えっと……こんな風に街を歩くのは、ないです」
 アティは―――不本意ながら―――いわゆる“お嬢様”だったから、付き合いの一環で、親同士の会話中に異性と散歩したことくらいはある。それでも、立派なお屋敷の中庭や、せいぜいが貴族街のご近所をうろつく程度で、こうやって自由な街歩きをしたことはない。
 振り返るドミニクの目が、いたずらっぽく細まる。
「先生とも?」
「うっ」
 図星を突かれて、顔がかっと赤くなるのを感じつつ、アティは弁解した。
「マオに連れられて、街の外に出たことくらいはあります! ま、まあ私も子どもでしたし、お花で遊んでいた思い出ばかりで、デートってほどじゃありませんでした、けどっ……」
 声がどんどんしぼんでいくのが自分でも分かる。彼にとってはデートではなくて、確実にただのお守りだ。
 ドミニクはきょとんとしたように大きな目を見開いていたが、不意に噴き出した。
「はは、アティちゃんってホント分かりやすいよな」
「ええっ」
「いいぜ、おいらそういうコ好きだし」
 からからと笑うドミニクを、アティは熱い頬を押さえて睨みつける。
「ドミニク、からかってます?」
「そんなことないって。……あ、この店だ」
 ドミニクが示したのは、花壇に囲まれた石造りの建物だ。入り口や窓辺のそこかしこで、春爛漫の香り漂わせる、パンジーが咲き誇っている。
 赤や白、黄など種々に彩られた看板は、この建物がカフェであることを示していた。
「まあ、素敵です!」
「だろ?」
 得意げに胸を張るドミニクが掴んだままの腕を引っ張って、アティは駆け出した。
「うおっ」
「入りましょう、ドミニク!」
 ドミニクはにやりと笑うと、大きく頷いた。


「ったく、どこ行ったんだか……」
 夢うつつのニーナを負ぶさりながら、エリザベスはタルシスを歩き回っていた。そのあまりの剣呑さは、目が合った通行人が彼女のために道をあけるほどである。
 ふと気づけばアティとドミニクがいなくなっていた。ニーナに昼食を食わせるために一度家に帰ったものの、待ち合わせの時間までしばらくあるから、彼らを探しがてら街中を散策していたのだ。ニーナは相変わらず食い散らかすだけ食い散らかして、満足した今はエリザベスの背中で寝息を立てている。
「あーもう、帰ろうかな……ん?」
 南中の太陽の影になる、広場の一角。にぎわいをみせる昼下がりからはぐれるように、建物の入り口の階段に腰かける二人―――アティとドミニクを見つけて、エリザベスは眉尻をつり上げた。
「あんたたちっ! どこに行ってたんだよ!」
「ベス……」
 どことなく繕ったような、力ない笑みがアティに浮かぶ。怪訝に思ったエリザベスが視線を滑らせれば、ドミニクも似たような顔をしていた。
「何? なんかあったの?」
「ええと……」
「店を追い出されたんだよー」
「え?」
「おいらのせいで」
 アティが両手を振る。
「ドミニクのせいじゃないです!」
「んー」
「何なの? 話が見えないんだけど」
 ついていけないと言わんばかりに眉をひそめれば、アティは両手の人差し指をくっつけながら続けた。
「その、お店の人が“また揉め事があると困るから”って」
「あー」
 ドミニクの金髪と褐色肌を見つけてのセリフだろう。
 当の本人は不機嫌そうというより、やりきれなさそうに唇を尖らせた。
「まったく、迷惑だよねえ。どこのバカが何をしでかしたのやら」
「昨日からついてないね」
 タルシスは余所者の往来が多い街だから、その余所者に対して良い感情を持たない住民は少なからずいる。勿論そういった住民が大半ではないのも事実だ。運が悪かった、と思うしかない。
 同調したようなエリザベスの呟きに、ドミニクは肩を竦めた。
「まあね」
 それで少し溜飲を下げたのか、ドミニクは大きく伸びをすると、にっといつものような笑みを浮かべた。
「―――おいらはとにかく、アティちゃんには悪いことしちまったなーって。今度先生とでも行っておいでよ」
「いいえ、“デート”はドミニクとの約束ですから! 埋め合わせは必ず、しましょう」
「デート?」
「いやいや、こっちの話だよ」
 聞きとがめた言葉を軽くいなそうとするドミニク。が、エリザベスにごまかしは通用しない。
「ったく、やっぱりロクな真似しないんだから」
「なんだよ、おいらがアティちゃんとデートするくらい勝手だろ」
「やることがせこいのさ、抜け駆けまでして。どうせアティが断れないようにうまく言いくるめたんだろ」
「うっ」
 苦い顔になったドミニクに、エリザベスは溜息をついてやった。
「あたしに大食娘押し付けて。天罰だよ、天罰」
「ん~? エリザベスちゃんがおいらとデートしたかったって聞こえるけどな~? ―――あでっ!」
 ドミニクの脳天に拳を振り落とした姿勢のまま、エリザベスはがなる。
「調子に乗るな!」
「お嬢様?」
 大荷物を抱えた背の高い影が近づいてくる―――マオだ。
「マオ! すごい荷物です」
「さっき買い逃したものを買い足したのと、昨日のようなことにならないように、せめて調味料を増やそうと。……なんだおまえら、そろいもそろって」
 アティ以外の面々に今気づいたと言わんばかりのマオの反応に、エリザベスは口角を引きつらせる。
「そう大きな街でもなし、うろついてたら出会うわさね……」
「どうせだし、孔雀亭にでも行くかー」
「うー」
 孔雀亭という言葉に反応してか、食い意地の張った娘がエリザベスの背中で目覚める。
 ひとり状況が掴めない様子のマオが不思議そうな顔をしていたが、どうやら異を唱える気はないようだ。
「ま、こんな一日もいいか」
 休みであって、休みでもないような一日。
 気候も穏やかな昼下がりは、滔々と過ぎていった。

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第4話

 やめとけよ、そんなところに行くのは。
 何度か繰り返したやりとりだったが、意志は固いらしい。黙ってかぶりを振る姿に、彼は手を伸ばす。
―――ああ、これは、夢だ。
 何度も繰り返して見ている夢だ。
「だからさ、いい加減にそっちが諦めろって」
 あっけらかんとした声。こちらの心配など意にも介さないような、若く、不遜な自信に溢れている。
 止めなければ。そうでなければ―――夢の先の“現実”を知っている彼は、必死に言い募る。だが、もう言葉は届かない。届くはずがない。
「誰かを自分の命がけで助ける点は同じだろ」
 分かったような口ぶりで、その覚悟は揺るがない。
 屈託ない笑顔が浮かぶ。
「俺はマオよりよっぽどバカだけど、マオみたいになりたいって―――」


 やめてくれ。
 だったらお前は、それで良かったっていうのか。
 俺はそんな割り切りのいい、大人じゃないんだ。


「おっさあああん!!!」
 どんどんと拳を叩きつけるような音がひたすら続いている。いい加減ドアが壁から離れるか、朝帰りの客に怒鳴りこまれそうだ。
 ため息をつきながら思い切り扉を引けば、扉を叩く姿勢のまま凍り付いたドミニクがマオを見上げていた。呆けた顔に、眉根が寄る。
「グッモーニン」
「朝からうるさい奴だな」
 渋面がますます渋くなる。
「集合時間になっても先生が出てこねえから、呼びに来たんだよ!」
「……そいつは失礼」
 思い出したように、テーブルに置きっぱなしの懐中時計を見れば、たしかにそんな時間だ。
「―――悪かった、すぐに支度する」
「頼むぜ~おいら、女の子たちに伝えてくっから」
 気にしていない風に笑顔に戻って、扉の前から消えるドミニク。少年の大人びた態度に自嘲とばつの悪さを覚えながら、マオは室内に引っ込んだ。鏡の前に立つ。そこに映った自分は、顔色が悪かった。
 昨日の疲れが残っている気がする。宿に戻った記憶はあるのに、時刻が思い出せない。ままあることだ。それに、夢見がよくない。
『マオみたいになりたいって―――』
 反芻される声。
 声の主を想起してしまいそうで、振り切るように鏡から離れた。
 感傷はいらない。今はただ、今日生き抜くことだけを考えるべきだからだ。


「遅い!」
 いらいらを隠そうともせず石畳を爪先で叩くエリザベス。視線の先は宿屋の出入り口だが、さすがの彼女も突入までは思いとどまっているようだ。それも時間の問題かもしれないが。
 朝市で買った、自身の背丈の半分ほどのフランスパンを、豪快に噛みちぎるニーナ。マルク統治院へ続く階段に座り込みながら、ぼんやりとしていたアティは、ふとため息をついた。
「マオのお寝坊も相変わらずですね」
「寝起きが悪いってこと? いつもはあんなに神経質なのに」
 呟きに反応したエリザベスに、アティは頷いて見せた。
「国にいたときは、よく夜遅くまで出歩いていました。今も、そうなのかもしれないです」
「夜遊びか……どうしようもないね、あの不衛生医者」
「ふ、不衛生ではないと思いますけどっ」
「どうだか」
 医者のくせにコレもやるじゃない、とエリザベスは二本指を唇に近づけた。
「……煙草も、昔は吸っていなかったと思うんですけど。何年か前から、ふと夜中にふらっといなくなるようになって」
「ストレス溜まってるのかもよ? お嬢様があまりに手がかかるから」
「うっ」
「冗談よ、冗談」
 だからそんな顔しないの、と鼻先を指で弾かれ、アティは釈然としない気分でエリザベスを見上げる―――と。
「マオ!」
「ん? ようやくお出まし?」
 宿からドミニクと連れたって現れたマオに、アティは立ち上がった。マオはいつものように猫背気味で、アティに近づいてくる。
「申し訳ありません。大変お待たせしました」
「全くだよ。遊びに行くわけじゃないんだから、しゃきっとしな」
「悪かった」
「マオ、具合が悪いのですか? あまり顔色がよくありません」
 アティが声をかければ、マオはぎょっとしたように頬を撫でたが、無愛想に言った。
「そうですか? いつもどおりですよ」
「本格的に地下三階を潜ろうって言ってたところなんだから、夜中出歩くのも少しは自重しなさいな」
 エリザベスの説教に、マオは殊勝に頷いた。
「じゃ、早速迷宮に向かおうぜ」
 ドミニクの仕切り直しで、交易場に足を向ける一行。
 かすかな不安を拭いきれないままに、アティもそれに続いた。


「結構進んできたね」
 道中採集や採掘といった作業を挟みながら、ピルグリムは地下三階の秘境へと足を運んでいた。ここまで来ると土着の魔物も赤毛の熊の仲間にも随分慣れてきた。
「はーいはいはい、おいらの提案でそろそろ休憩ー」
 疲れちったーと跳ねながら片手を挙げるドミニクを、額の汗を拭うエリザベスが睨みつける。
「元気じゃないの」
「そう言うエリザベスちゃんは結構、お疲れみたいだけど」
 びっと向けられた両手の人差し指を、エリザベスがむんずと掴んだ。
「喧嘩売ってんのかアンタは」
「痛い痛い痛い!! そ、そうじゃなくても前衛の女の子たちは少し休んだ方がいいと思っただけだよ!」
 関節が曲がらない方向に指を曲げられていたドミニクは、それを取り返すと涙目で叫んだ。
「あうー」
「私もまだ元気ですけど……」
 ニーナが訴えた方向にアティは振り返る。
 四人からやや離れて後方、木に片手をついて、マオが俯いている。
「マオ、大丈夫ですか?」
「大丈夫……です……」
「全っ然そうは見えないよ」
 地下三階に入ってから、どんどん顔色が悪くなっていって、今は土気色を通り越し真っ白だ。
「うーん、引き返しましょうか」
「いや……少し休めば、治ります」
「医者なのに自分の体調不良も分かんないの?」
 辛辣なエリザベスの弁に、ドミニクが苦笑する。
 その場に座り込んでしまったマオは、深く嘆息しながら答えた。
「何というか……獣の臭いがきついんだ」
「臭い?」
 地上からは相当潜ってきたので、さすがにムッと湿気た空気が篭っている。しかし風がないわけではないし、獣や泥や濡れた木々の臭いにはもう慣れてしまって、アティはほとんど感じないほどだ。しかし、マオは呼吸をするのもつらそうに見える。
「気配が濃い。かなりの数の魔物が、向かう先に固まっている」
「それで、気分が優れないと?」
「そうですね……あまり、こういった体験がないので。すぐに慣れると思います」
「人より“勘”が良いってのも大変なんだな」
 マオの本職は医者で、それはこういった未開の地に赴き、魔物の大群を相手にする職業ではない。元より彼は世界樹の迷宮に自分の意志で挑んでいるわけではないのだ。わがままに付き合わせている自覚はアティにもあったが、きちんと理解していなかったことを思い知らされたような気がして、マオのつらそうな表情に胸が痛んだ。
「マオ……」
「大丈夫です。とはいえ昔……もっときつい現場に行かされたこともありますから」
 マオはゆっくり立ち上がると、数歩前に出た。まだ顔色は悪いが、足取りはしっかりしている。
「―――すみませんでした。進みましょう」
「もういいの?」
「ぼんやりしていた大きな気配が、個々に認識できるようになってきた。……群れのようだ。そのうち一体、存在感が飛びぬけている奴がいる。いわゆる“ボス”でしょうね」
「では、そのボスを倒せば任務完了ということでしょうか?」
 アティの言葉に、エリザベスが首を捻る。
「そんな簡単なことでいいの?」
「簡単じゃねえとは思うけど。それに、そんな強そうな気配の主なら、いなくなれば少なくとも勢力は弱まるんじゃ?」
「はじめて赤熊の魔物を倒した時……森を揺るがした咆哮、もしかしてそのボスのものなのでは……」
「謎は多いが、先に進んで奴を目の当たりにすれば解決することばかりでしょう」
 何事もなかったような素振りで歩き出すマオに、慌ててアティは追いすがる。
「赤熊の群れのボスですよ!? 不調の時に挑んで勝てる相手じゃありません!」
「俺は主戦力ではないですから、やってみなければ分かりませんよ」
「けれど、何も今無理をする必要は……」
「次来たときも、“慣れる”まで時間かかるんだったら同じことじゃない?」
 エリザベスがマオに加勢する。
「―――本人が大丈夫って言ってるんだから、仮にも医者なんだし、大丈夫でしょ」
「ベスまで……」
 ドミニクがアティの肩を優しく叩く。
「どうしてもマズそうなら、逃げ帰りゃいいんだって」
 あくまでも首を縦に振りたくはないアティだったが、三人はどんどん前に進んでいってしまう。
「むう」
 ただひとり、アティと手を繋いでいるニーナだけは、おやつがなくなった不機嫌顔で佇んでいる。
「……ニーナは、どう思います?」
「う?」
 と、ニーナは空いている方の腕を突っ張るように伸ばした。どうもアティに頭を下げろと言っているようなので、屈んでやる。
 ふと、髪を柔らかく触れる感触。
 ニーナは背伸びをしながら、手袋を嵌めた手で、わしゃわしゃとアティの頭を撫でていた。
「あうむ」
「……ありがとうございます。ニーナは優しいですね」
 そのうち「置いていくよ!」というエリザベスの声が響いたので、アティとニーナは慌てて駆け出した。


 結局、その日は赤熊の頭領に挑むことなく、ピルグリムは樹海の入り口へと戻ってきていた。
「まさかネクタルとかメディカだとかの、薬品類をまるごと家に置いてくるだなんてね」
「すみません……」
 肩を落とすアティ。からからとドミニクが笑う。
「ついでに糸もなかったしな」
「それに関してはアンタが悪い」
 鋼の手刀がドミニクの頭頂に落ちる。
 轟沈する少年の姿に、とっさに自身の頭を隠したアティは叫んだ。
「でっ、でも、やっぱりこういうときは強敵に挑んではいけないという神様の思し召しなんですよ!」
「そのセリフ、引き返す原因を作った張本人が言う?」
「ごめんなさい……」
 気球艇を停泊させている地点に戻ると、何故だかたむろしている人影があった。哨戒の兵士はさておき、同業者の姿も多い。
「何かあったの?」
 森の枝葉の下に佇む彼らは、まるで何かから姿を隠しているかのようだ。ご丁寧にピルグリムや―――他の冒険者のものと思しき気球艇までも下生えの中に引きこまれていることを発見し、驚く。
 声をかけた冒険者は、迷惑そうに青空を顎でしゃくった。
「竜が出たのさ」
「竜?」
 目をぱちくりとして聞き返すアティ。隣で、「あー」とエリザベスが苦い顔をした。
「―――ベス、ご存知なのですか?」
「タルシスの住民なら知らないはずがないよ。この辺りが未開拓な原因の一つだからね」
「おい、竜がまさか、こんな人里に近いところに現れるのか」
 マオの言葉に、エリザベスは小さく溜息を吐いた。
「北東の岸壁の向こうあたりに、ドでかい竜の巣がかなり昔からあるみたいなのよ。さすがにタルシス周辺の地域にまで降りては来ないけど、北部……つまりこの樹海の近くだと、ごく稀に上空を飛んでることがあって」
「あっ……気球艇は危ないですね」
「そういうこと。あんなのにぶつかったら、ひとたまりもないよ」
 淡々と説明するエリザベスが、ぎょっと目を剥いた。
「ちょ、ちょっとアンタ」
 エリザベスの視線の先を振り返ったアティは、マオが人ごみを掻き分け、森を出ようとしているところを発見する。
「マオ?」
「ちょっと、竜の姿を拝みに」
「危ないよ! いくらこんな地表には降りてこないって言ったって、飛んでいる周りはすごい風が吹くんだから!」
 エリザベスの注意喚起を聞きながら、アティはマオを追いかけていく。マオが気にかかったのもあるが、アティも竜を見てみたかったからだ。
 だが、隣に並んだとき、マオは想像よりずっと思いつめたような表情をしていた。
「竜が、どうかしましたか?」
「……いえ」
「兄ちゃん、ドラゴンフォロワーかァ? やめとけ、結構今日のは遠いぜ」
 同じように、森の切れ目に立っていた冒険者の男にそう言われて、アティは首を捻る。
「ドラゴンフォロワーって何ですか?」
「竜が落とす結晶を拾う奴らさ。そりゃ稀少な宝石だっつうんで、高値で売れるらしいぜ」
 しかしマオはそれが目的ではないらしく、上空を探すように視線を彷徨わせている。
 木々の隙間を抜ける風音が強くなる。
「わわっ」
「ほら、おいでなすった、ぜっ!」
 刹那、耳を撃ったのは空気の塊のような、風。
―――音はさながら、目も開けていられないほどだ。叩き折られ飛んでいく枝の向こうに一瞬だけ見つけた影は、紅の筋のように雲を引き裂いて、消えて行った。
「い、今のが……」
「“偉大なる赤竜”って呼ばれているわね、タルシスでは」
 追いついてきたエリザベスが答えた。
「―――どう? ちゃんと見えた?」
「ちょっとだけですけど。すごく大きいですね」
「あいつは……この辺りの地域にしか現れないのか?」
 マオの問いに、エリザベスは肩を竦める。
「多分ね。ま、積極的に人を襲うわけでもないから、天災みたいなもんさ」
「……天災、か。そうだな」
「マオ?」
「それで、いつ気球艇は飛ばせるようになるんだい?」
 にょきっと下から生えるように、ドミニクの頭が出てくる。彼がニーナの手を握っているのを見つけて、アティは安堵した。
 側に立っていた兵士が答える。
「うーん、あと数時間は無理だろうね」
「そんなに!?」
「ま、天災みたいなもんだから」
 彼もタルシス出身なのか、あっけらかんとそう答えた。


 ようよう街に戻ってきた頃には、すっかり日が暮れてしまっていた。
「何とか夜になる前に、帰ってこれて良かったなー……っと」
 セフリムの宿に着くなり、二階へ引っ込んでいこうとするマオをドミニクは追いかける。
 女性陣とは別れた後だ。男性陣二人は同じ宿だが相部屋ではないので、二階の客室に入ってしまえば、別行動になってしまう。
 案の定階段の上で掴まえたマオは、怪訝な顔で振り返った。
「何だ?」
「いや、釘をさしておこうと思って」
 にっと笑って、ドミニクは続けた。
「くれぐれも“夜歩き”は自重してくれよ。ドアが外れるまでノックするの、おいらイヤだかんな」
「……おまえに迷惑はかけない」
「そーいう問題じゃないっつーの。先生、アティちゃんよりは世慣れてるみたいだけど、カモられやすいタイプだからな。人が良いっつうのか」
「何が言いたい?」
「訪問診療だろ?」
 息を呑む音。
「―――医療器具持って、夜遊びはねえよ」
 同じ宿だから、出ていく姿など何度も見ている。
 マオは一瞬の驚きを封じ込め、鉄面皮でドミニクを見据えていた。続ける。
「冒険者の街なんて聞こえはいいけど、要するにゴロツキばっかで、真っ当な医者にかかれない奴も多い。もし本当に貧しい人のために行っていることなら正しいことだけど、言っちゃ悪いがそんなもん片手間にやるべきだ。……目的はなんだ? ただの正義感? まさか、先生が金だなんて言うわけないよな」
「だとしたら?」
 今度はドミニクが目を剥く番だった。
「マジで? アティちゃんち金持ちじゃねえの?」
「何故そこでアティが出てくる。俺は田舎出のしがない医者だ」
「でも、アティちゃんちのお抱え医者なんだろ?」
 はあ、とマオは疲れたように頭を抱えて溜息をついた。
「……医者を続けるにも、色々と入用でな。メスが一本いくらすると?」
「あーあー、分かった。そういうことにしといてやるよ」
 話す気がないとみて、ドミニクは詰問を打ち切ることにした。ないとは思うが、女性陣にあることないこと吹き込まれて、ドミニクの立場が不利になることは避けたい。
「―――おいら、樹海で足を引っ張られるのはゴメンだぜ。それに、アティちゃんは本気であんたを心配してんだ」
「分かっている。……無理はしないさ。今朝は、悪かったな」
 言い残し、部屋に入っていくマオ。閉じられた扉からして、話の続きは望めないだろう。諦め、ため息一つドミニクは階段を降りようと―――して、踏みとどまった。
「なあ! さっきの、心配してんのアティちゃんだけじゃねえからな!」
 廊下に向かってがなった直後、扉を内側から叩く音が一発、響いた。


 どたばたと騒がしい足音。
 激しいノックがその直後に響いて、マオはベッドから上体を起こした。窓の外は変わらず暗闇だ。腹の上の本をそこいらに放り出し、鳴り止まない扉を開ける。
 立っていたのは、肩で息をするエリザベスだ。
「ごめ、こんな、遅くに」
「どうした?」
 揺れる紫のツインテールは、苦しげな顔を上げた。
「気球艇が、事故ったって……また、竜が出て……」
 事情を察して、マオは部屋に一端引っ込んだ。椅子に掛けていた白衣と鞄をひったくるように取り上げながら、話を続ける。
「怪我人は街に運ばれているのか? 何人くらい?」
「糸で街に帰ってきたところ。正確な数は分からないけど、五人よりは多いと思う。いくつかの気球艇が竜から逃げようとして、団子になったみたい。落ちた先で、魔物にも襲われたって」
「踏んだり蹴ったりだな。他の救護は?」
「街の診療所に手当たり次第。けど、ここが一番近くて……」
「分かった」
 早口のやりとりをしながら、二人は早足で宿を出て、街の広場に向かう。タルシスの一番大きな病院は、受け入れるには時間がかかるそうだ。
 夜も深い広場は、持ち込まれたらしき臨時の明かりによって煌々と照らされ、さながら野戦病院のように無数の人々が横たえられていた。一面を見渡し、マオは呟く。
「数は多いが、まだそこまで大した被害じゃなさそうだ」
「そう? もっと増えるよ」
「“竜の被害としては”さ」
 その言葉に、エリザベスの眉が寄る。
「あんた―――」
「おーい! あんた、医者なら手伝ってくれ!!」
 呼ばわる声に、マオはエリザベスに手を振り、駆け出した。


「昨日は大変でしたね~……」
 欠伸をかみ殺すアティ。彼女もエリザベスの手伝いで、負傷者の搬送を夜中じゅうおこなっていたのだ。目の下のクマを擦りながら、セフリムの宿の前で座り込んでいるため、放っておけば眠りに落ちてしまうかもしれない。
「眠そうだね」
「ううー……エリザベスはどうしてそんなに平気なんですか……」
「慣れてるからかもね。騎士時代は、昼夜問わずの招集なんてしょっちゅうだったし」
 そのとき、宿の扉が開いた。ドミニクが眉を下げた困惑顔で、頭を掻く。
「ダメだ。先生、宿にそもそも戻ってねえみたい」
「昨日の竜騒ぎのとき、治療に回ったっきり行方不明ってこと?」
「そんな……」
 青くなるアティに、エリザベスは安心させるように肩を竦めた。
「心配ないよ。怪我人が移送されたどこかの病院にでも詰めてるのさ」
「ど、どうして言い切れるんです?」
「それ以外に考えようがないような気もするけど……」
 苦笑いするドミニク。エリザベスはアティに言ってやった。
「だってあの先生、竜災害に慣れているようだったからさ。経験があるんだろ?」
 アティはきょとんと目を丸くするばかりだ。
「えっと……」
「違うの?」
「確かに私の故郷にも竜はいますけど、人里に下りてくるなんてことはまずありませんでしたから」
「ふうん……でもあの口ぶりじゃ、そう思えたけど」
「先生、見た目によらずミステリアスだなあ」
 遠い目をしてドミニクが呟いたので、その視線を手繰ったアティが「あっ」と声を上げた。
 覚束ない足取りで坂道を下ってくるのは、誰であろうマオ本人だったからだ。
「すまん」
「こんな時間まで診療を?」
「まあ、そんなところです」
 受け答えはしっかりしているが、さすがに疲労の色が濃いようだ。昨日の探索時よりもずっとやつれたようにすら見える。エリザベスはまた肩を竦めた。
「お疲れ様。ま、今日の探索は取りやめだね」
「マオはおやすみにして、四人で採取だけでも行きますか?」
「何言ってんの。アティ、あんたもそんな顔して樹海なんて行けるわけないでしょ」
 指摘してやれば、アティは驚愕したように頬を掴んだ。ドミニクはまだ苦笑いをしている。
「エリザベスちゃんもお疲れっしょ?」
「まあね。……大丈夫、焦ることはないよ。あの“ボス”を倒してくれる連中が他にいるなら、それはそれでいいし」
「えーっ! それは良くねえって!!」
「何でさ」
 目を丸くしたエリザベスに、ドミニクはにやにやといやらしい笑みを浮かべる。
「だってさあ……モテそうじゃん」
「はい解散」
「訊いといてそれ!?」
 やんやかんやと言いあうエリザベスたちを横目に、マオが疲れた溜息を吐いた。眉間を揉んでいる彼に、アティが気遣わしげに声をかける。
「ゆっくり休んでください。ええと……」
「何か訊きたそうな顔をしてますね」
「えっ」
 虚を突かれたように目を丸くしたアティに、マオが己の頬をつつくように指さした。
「書いてあります」
 アティは照れたように俯いたが、やがてか細い声で呟いた。
「あのう……変なことを尋ねますけど、私たちの住んでいた街の近くに、竜が出たことなんてありましたか?」
「ありましたよ」
「ええっ」
 仰け反るアティに、マオは鉄面皮のまま平然と続けた。
「一度だけですが」
「そ、そんな……私ちっとも知りませんでした」
「貴女が知らないだけです」
 ばっさりと切り捨てられて、アティはしゅんと肩を落とした。

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第5話

 辺境の街タルシス。
 太陽の光を浴びた、黄味がかった緑の瓦屋根が立ち並ぶ。暖かい風が髪を揺らして吹き抜けていった先には、広大な緑の平原と、東西北と連なる岩のような山々。そして。
 白雲の切れ間にうっすらと浮かぶのは、一本の樹。
 北の景色を見渡せば、その大樹を見失うことはない。大樹自身がほのかに発光しているかのようだ。切り取られた一枚の絵のような風景に、大樹の大きさは錯覚を呼ぶ。まるですぐそこに立つ一本のただの木のようにも見えるが、あの大樹があるのはここから想像も及ばぬ程北へ進んだ先だ。そして今のところ、そこに至る道を見つけた者はいない。あそこまでたどり着いた者すら、この世に存在しないのだそうだ。
「世界樹……」
 カナンが唇に乗せた呟きは、再度吹きつけた風に流されていった。家々を飾る花が揺れる。本当に穏やかな街だ。明るさと希望に満ちた、豊かな街だ。
 だがそんな風に見えても、冒険者という名の余所者の集う場所に影が落ちぬはずはない。
 カナンはその影を求めて、タルシスを訪れた一人だ。


「おまえみたいなのがこの街に来るとはな。タルシスも堕ちたもんだね」
 嫌味のように聞こえるが、他意はないのだろう。煙草の灰を落とす老爺の節くれだった指の動きを何とはなしに追う。この指が間接的に、無数の人間を地獄に突き落としてきたことを、カナンは知っているからだ。そしてそれをこの男が自覚していないとも思えなかった。
 老爺に連れてこられたのは、倉庫を間借りしたような、小汚い酒場だった。煤けた臭いがするのは、隣に民家の焼け跡があったせいかもしれない。夜も深いのに、辛気くさい空気だ。
 紫煙を吐きだし、彼は淡白に言った。
「―――どうだい、良いところだろう。気に入ったか」
「残念ながら、初めてじゃない」
「ほう?」
 老爺はあるのかないのか分からない薄い眉を上げた。
「それでここに来たがったのか。にしても、係わりがあるなら逃げる先に選んじまって良かったのか?」
「問題ない」
 短い問答に、老爺は満足しなかったようだ。しかめ面になったものの、しかし何も言わない。代わりに木製のテーブルに煙草の火を押し付けて、椅子を蹴るように立ち上がる。
「じゃあな。金の分、俺は仕事をしたからな。……ったく、こんな年寄りに金を押し付けて、高飛びを手伝えっつうんだ。悪魔め」
「助かった。長生きしてくれ」
「ぬかせ。死神業が廃業なら、とっととてめえの骨も埋めるんだな」
 悪言を吐き捨て、老爺は折れ曲がった腰を杖で支えながら、よろよろと去っていった。その背中を微笑みながら見送ったカナンは、ふと自分の指に目を落とした。
 テーブルを這う、細長く血色の悪い指。
 剣と毒を操り、直接的に無数の人間を屠ってきた指だ。


 冒険者になるために、タルシスを訪れたわけではない。
 ただふと、自分のやっていることが嫌になって、どこかに逃げようと思ったのだ。
 簡単に逃げられるとは思っていない。近い将来、必ず見つかる。それが分かっていて、あの老爺に金を握らせた。わずかな時間だけでも、人殺しから遠ざかることができる人生が欲しかった。
 のに。
「―――」
 鬼気迫る青白い顔を見上げながら、カナンは溜息を吐いた。
 右腕一本で捻り上げた男は、最後のあがきとでも言わんばかりに、宙に浮いた足をじたばたと暴れさせているが、そのもがきも少しずつ収まっていった。ぐりんと白目が剥かれたのを確認し、カナンは男を足元に放る―――同じように力なく地面に這いつくばる、数人の身体の上に。
 どさり、と音が鳴った。それに反応するように瞬きした、少女の大きな目がゆっくりと、カナンを見た。まだぼんやりとしている目だ。彼女は垂れ下がっていた肩の紐を押し上げると、はっと我を取り戻したように立ち上がった。カナンが立ち去ろうとしたからだろう。
「あのっ……危ないところを助けていただき―――」
 少女の言葉を無視してカナンは歩き続ける。
 背後で「わぷっ」と声が上がった。肩越しに振り返れば、少女が顔面から地面に突っ伏している。転がっている男どものどれかにでも引っかかったのだろう。
「待ってえ~……ぜひお礼をぉ……」
「要らない。あなたも早く立ち去れ」
 そしてそのまま、カナンは足音もなくその場を辞した。


 翌日の新聞の隅に、その事件は小さく載っていた。
 流浪の民―――タロットの婦女子を狙った暴行事件が相次いでいたが、その犯人が捕まったとの見出しだった。なるほど、街一番の新聞でこの程度の扱いならば、タルシスも案外治安の良い街ではなくなっているのかもしれない。
 宿の軽食堂で朝食後のコーヒーを嗜んでいたカナンは、来客を告げる扉の音に気付いてはいたが、入ってきた人物が自分に向かってくることに気づいて表情を歪める。
 当の本人はにこにこと上機嫌で、カナンの正面に立った。
「おはようございます」
「……タロットだったのか」
 昨晩は暗くて、肌の色まで気付けなかったのだ。ツインテールの明るい金髪に浅黒い肌―――タロットの特徴を備えた少女は昨日と変わらぬ格好だ。断りも入れずにソファ席、カナンの隣に着席する。
「目立つのはお嫌いかと思いまして、あなたのことは自警団に話していません」
「助かるね。それでわざわざ何の用かな」
「ボクたちは義理堅いんです」
「義理堅いならもう襲われないように、せめて露出を抑える努力くらいしたらどうなんだ」
 成長途上の身体に、下着と飾りだけをつけたような出で立ちだ。カナンですら目のやり場に困る。ところが少女はきょとんとしたもので、こう返した。
「だって、こうでもしないと男の人の目を惹けないんだもの」
「は?」
 にっこりと微笑むと、少女は続けた。
「あっ、でもあなたがそう望むのなら、服でも何でも着るよ。考えてみれば、これからは誰かの目に留まる努力をするんじゃなくて、あなたに気に入ってもらえるようにしなくちゃいけないね」
「何を言って―――」
「じゃ、改めましてよろしくお願いします」
 カナンの言い分を遮って、少女はまくしたてた。
「―――あなたのお嫁さんになろうと思って、やってきました。まずは自己紹介からね。ボクはリップル。あなたのお名前は?」


「だからついてこないでくれ」
「あっ、もしかしてあなたもタロットに偏見があるクチ? 大丈夫だよ、タロットは一夫一妻で浮気なんて絶対にしないし、相手にはとことん尽くして大事にして望む限りのことをする義理堅い一族で―――」
「望む限りに、ついてこないでくれって言ってるんだが」
「それはダメ」
「だいたい」
 石畳を早足の爪先で叩きながら、振り返らずにカナンは言う―――コンパスが短いために半ば駆け足でついてくる、タロットの少女リップルに。
「何度も言ったが、私は女だ」
 そう―――厚着をし、男装めいた格好をしているからよく誤解されるが、カナンの性別は女だ。嫁がどうこう、歩いている間に子供が何人というところまで話が膨らんだが、物理的に不可能な話である。
 が、リップルは聞く耳を持たない。
「ボクはあなたが女性であろうと男性であろうと気にしないから、いいよ!」
 タロットが伴侶を求めて、一人旅をする一族であることはカナンも知っている。そのいわれから、男は乱暴者、女はふしだらだと揶揄されていることも。昨晩のような、タロットの女を狙った犯罪も多い。が、実のところこの少女のような者がタロットの大半ならば、誤解を生んでも仕方がないのではないかと思わなくもない。というか誤解ですらないのかもしれない。
「それに……」
 二人の歩みが裏通りに差し掛かったところで、カナンは足を止めた。
 くるりと振り返れば、リップルの細い肩を力任せに壁に押し付ける。
「私が、躊躇なく人を傷つけられる人間なのを知っているだろう」
 リップルは怯えるというより驚いた顔をしていた。
「―――きみを鬱陶しく思った私が、何をするか考えなかったのか?」
 冷たく言い放つと、カナンは彼女を解放した。
 勿論これは脅しで、白昼堂々乱暴を働く気はカナンにはなかった。もっともその気になれなくなったから、カナンはタルシスに来たのだ。昨晩の成らず者どもに使った薬も、せいぜい頭の中身がトコロテンになるくらいで、命を奪うほどの効果はない。そしてそのトコロテン薬すら、この娘にはもったいないと思えた。
 再び足早に歩き出すカナン。リップルが追ってくる気配は今度こそなかった。


 人間誰しも生きていくには、仕事をしなければならない。
 人殺しを辞めたカナンだが、新しい職を見つけるには骨が折れた。冒険者になるのが最も手っ取り早い手段に思えたが、どこかのギルドに入れてもらうにしろ、冒険者としての登録が必要になってくる。そんなことをすればカナンを探している連中に見つかるかもしれないし、ギルドにも迷惑がかかる。
 結局のところ選んだのは、フリーランスとして冒険者の真似事をすることだった。聞けば、冒険者でなく傭兵を選ぶ者は、タルシスでも少なくないらしい。冒険者ギルドの元締めや領主は頭を痛めている存在だそうだが、街の者にとってはそうでもない。どこに行っても、日の当たるところでできない頼みごとというものは、あるのだ。
 カナンに回ってくる仕事も、結局はそういうたぐいだった。
 焼け跡。元は出入口の扉があったのだろう、階段状になっている石にちょこんと腰かけている少女はカナンを見つけると、立ちあがって一礼した。
「お世話になります」
 ポニーテールに眼鏡。大人しそうな外見。どこにでもいそうな少女だ。眼鏡の内側の目が、不安と警戒を湛えてカナンを見ている。
 件の老爺を経由した依頼だが、彼が仲介人ではない。だから後味が悪い依頼にはならないだろうと、カナンは踏んでいた。そもそも、あの老爺が仲介していれば、カナンは請けていない。
 黙っていれば、少女が話し出す。
「私はミミといいます。この、火事になってしまった診療所に住み込みで働いていました」
 出火当時、彼女は外出していて無事だった。
 診療所の者たちも、命だけは助かった。ところが治療に使う薬剤が足りない。タルシスじゅうを駆けずり回って集めた材料も、あと一種類だけないのだそうだ。
「ここから北西にある大きな滝の近くに、“小さな果樹林”と呼ばれる小迷宮があるんです。竜血樹脂はそこで採れます。その護衛をお願いしたいのです」
「何故正規の冒険者に頼まない?」
 特にフリーランス―――もといモグリの冒険者に依頼すべき内容でもない。ミミは目を伏せたが、はっきりとした口調で答えた。
「……先日、“小さな果樹林”に調査に入った兵士隊が全滅してしまったため、今は立ち入り禁止になっているんです」
「タルシス北部は魔物の生息地だ。よくあることだと思うが?」
「調査隊は今、世界樹の迷宮に現れた赤熊の魔物の対応におわれていて、小迷宮の魔物にまで手が回らないんです。得体の知れない魔物が小迷宮にいるならば、それこそ冒険者を派遣すればいいとお思いかもしれませんが、辺境伯さまはそういったことをよしとされない方で……」
「薬の材料なら、人命がかかることだろう。そんな慈悲深い領主なら、直談判すれば無理を通してもらえそうなものだが」
 黙り込んでしまったミミに、カナンは肩を竦めてみせる。
「―――そんな顔をしないでくれ。少し神経質な性質でね。しかし、きみのような普通のお嬢さんが、私のような者に依頼する理由が知りたいだけなんだ」
「理由……ですか」
 ミミは俯いたまま、語ろうとする。
 落ちた沈黙。肌寒い風がタルシスの街を抜ける。
 カナンは嘆息した。
「……私は気球を持っていない。足はあるのか?」
「は、はい。診療所の気球がありますので……」
「明朝早くに出ることにしよう。ただし、運転手はつけてくれ」
「はい!」
 ほっとしたようにようやく浮かんだ笑みに、カナンもつられて口角を上げた。


 罠にかけられ、魔物の巣窟で人知れず殺されるのかもしれない。
 己の所業を鑑みれば、それもまあよしと思ってカナンはミミの依頼を引き受けた。ところが翌朝、待ち合わせの交易場に足を運んでみれば、そんな予想を斜め上にぶっとばしたような人物が待っていた。
 カナンを見つけて、嬉しそうに手を振るのはツインテールのタロット。
「カナンちゃーん!」
 リップルとか言ったか。屈託ない笑みにがっくりと肩を落としながら、見るからに困り顔のミミに近づいていく。
「これは……」
「あの。カナンさんのお知り合いとのことで……私とカナンさんの二人だけで行くのもなんだと思いまして」
「知り合いは知り合いだが―――」
「安心して、ボク、剣も弓も使えるから! 伊達に世界を旅してきてないよ!」
 武装はしているが、露出の多さは相変わらずだ。本当に話を聞かないな―――脱力したまま、カナンはリップルに言った。
「帰れ」
「嫌! カナンちゃんも役に立つことが分かれば、ボクのこと見直すでしょ?」
「さない。というか、その“カナンちゃん”というのは何だ」
「いきなり夫婦というのもなんだから、まずはお友達からと思って」
 かみ合わない二人の会話に、ミミはますます困惑を深めるように眉を下げていく。らちがあかない。カナンはやれやれと首を左右に振ると、ミミの肩を叩いた。
「出発しよう」
「え? でも……」
「時間のムダだ。いてもいなくても変わらないだろう。きみに頼むのもせいぜい、道案内だ」
「は、はい」
「やったー!」
 はやくも疲労を覚えながらの出立となった。


 ところが、頭痛の種は現地にも蒔かれていた。
 カナンたちが乗った気球が着陸する前から視認できていた“小さな果樹林”だが、その森の傍らには小さな気球があったのだ。立ち入り禁止の小迷宮に、第三者が既に降り立っている。いよいよカナンは覚悟をしたが、とんでもない肩透かしを食らうことになる。
 気球から降りたカナンたちを迎えたのは、仏頂面の黒髪の少年だった。
 その姿に、ミミが飛び上がる。
「ロイ!」
 二人はどうやら知り合いらしい。少年へ駆けつけていったミミをカナンは制止しようとしたが、周りに他の人影も気配もなかったため、放っておいた。そのうちに彼女の甲高い怒声が聞こえてくる。
「こんなところで何やってるの!? ここは立ち入り禁止って言われたじゃない!!」
「その言葉、そのままそっくりおまえに返してやるよ。いったいぜんたい何の真似だ?」
 ロイと呼ばれた少年は、じろりとカナンとリップルに視線を遣った。
「―――冒険者まで雇って」
「そんなの、ロイのお父さまが心配だからに決まっているじゃない……お薬を塗っていないと、一日中悲鳴を上げ続けるような痛みだって」
「調査隊が改めて編成されるまで待てって話だったじゃないか。辺境伯のご厚意を無駄にするのか?」
「待てないわよ! ロイだって、だからここにいるんじゃないの?」
「俺はおまえが先走ったことをしないように、兵士に頼んで見張っていたんだよ!」
 痴話喧嘩が始まった。カナンは腕組みをして、気球にもたれかかってそれが終わるのを待つ。同じように手持ちぶさたらしいリップルが寄ってきた。
「カナンちゃんは冒険者登録をしていないの?」
「していたら、こんなところにはいないな」
「だよねー」
「おまえは? この街の冒険者ではないのか」
 目をぱちくりとしたリップルが、感嘆したように呟いた。
「カナンちゃん、ボクに興味が出てきた?」
「……訊いた私がバカだった」
「うん、冒険者じゃないよ。だってタロットを入れてくれるギルドなんてロクな目に遭わないだろうし」
 あ、カナンちゃんは別だよ、とリップルは目元を緩ませる。
「―――カナンちゃんとだったら、ギルド組みたいな」
「……私は冒険者にはならない」
「それでもいいよ」
 冗談じゃない―――と言おうとして、目の前の痴話喧嘩が終了したのを見た。正確には、ロイを杖で殴り倒したミミが森の中に駆けていって、ロイがよろよろと立ちあがろうとしているのを見た、だが。
「ミ、ミ……」
「追いかけた方がいいのか?」
 呟くカナンに、ロイは眦をつり上げた。
「当たり前だ! あんたら、ミミに雇われた冒険者だろ!?」
「冒険者じゃないが、雇われたところは合ってるな。……きみもゆっくり来い。行くぞ、リップル」
「えっ」
 喜色を浮かべるリップルに、カナンは淡白に返した。
「見直させてくれるんだろう?」


 ミミはすぐに見つかった。
 勢い込んで小迷宮に踏み入ったはいいが、小とはいえここは迷宮、前後も分からぬ草木に不気味な遠吠えが響く森とあっては、自然と足が止まってしまったようだ。そのおかげで追いついたカナンは、それでもミミが引かぬ様子であることを感じ取ると、彼女に先行して歩き出す。
「あっ……」
「りゅうけつ……なんとかを探すんじゃなかったのか?」
「は、はい!」
 ミミの顔に安堵の笑みが咲く。隣をすり抜けたリップルが、仏頂面で言った。
「カナンちゃん。そういう、気の振りよくないと思うの」
「は?」
「ミミ……」
 草むらを掻き分けて、現れたロイはまだ顔色が悪かった。ばつが悪そうにしながら、それでも進もうとするミミを見て、ロイは観念したように叫ぶ。
「もう、分かったよ! ただしおれもついて行くからな!」
「だって。カナンちゃん」
「……好きにしろ」
 足手まといがもう一人増えたところであまり変わらない。
 言葉にはしなかったが、カナンの表情からそれを読み取ったようで、心外そうにロイは眉を歪めた。
「兵士採用試験には受かってんだ。文句ないだろ」
「好きにしろと言った」
 背後から舌打ちが聞こえてくる。リップルが寄ってきて耳打ちした。
「カナンちゃん、オトコには辛辣だね?」
「気のせいだ」
 “小さな果樹林”は名にしては広く、入り組んでいる。河が近いせいか林の切れ目には水場がいくつかあり、魔物や動物の気配も濃い。
 こちらに気づいて逃げる動物と、襲い掛かってくる魔物。戦闘能力のないミミはさておき、ロイとリップルはそれぞれ、自負するだけあって魔物と戦うことには慣れているようだった。ロイは正面切って敵に突撃していったと思えば、盾を使った立ち回りも熟知している。リップルは剣と弓を使い分け、味方を鼓舞しながら援護を加えるのが得意なようだ。
「おい、小鹿がいるぜ」
 こちらに尻を向け、水場に頭を突っ込む小柄な鹿を草藪から発見し、ロイが剣を構える。
「―――鹿肉って滋養にいいんだっけ」
「やめといた方がいいんじゃない?」
 口を出したのはリップルだ。
「―――あの鹿の模様、見たことある。魔物の仔だよ」
「コドモだろ。大丈夫だよ」
 ロイは肩をすくめるや否や、身を躍らせた。
「あっ」
 止める間もなく小鹿に打ち掛かったのを見て、リップルも飛び出していく。
「―――んもー、止めたのにー!」
 小鹿の背後から襲い掛かった二人だったが、小鹿は水場のせいで行き場を失い逃げられないようだ。
 二人だけで問題ないだろう。遠目に彼らを見守る姿勢で、カナンは嘆息した。
「あの……」
 ミミが話しかけてくる。視線だけをそちらに向けると、聞く体勢になったことを了解したようにミミは続けた。
「今更なんですけど……依頼を引き受けてくださって、ありがとうございます」
「礼なら、目的のものを見つけて無事に帰ってから言ってくれ。謝金と一緒にな」
 ミミはきょとんとすると―――ふっと柔らかい笑みを浮かべた。出会って初めて見せた笑顔だ。
「……何故、正規の冒険者を雇わないのかとお聞きになりましたね」
 意を決したように、ミミは堅い声になった。
 カナンは黙って続きを促す。ミミは滔々と言葉を紡いだ。
「竜血樹脂を治療に用いるのは、タルシスでは禁じられているんです。服薬を過つと、健康を害する恐れがあって……」
「医者が用いる分には問題ないのでは?」
「希少なものですから、医者だけが管理するというのも問題になるんでしょう。偉い方の詳しい事情までは分かりません」
「それを持って帰り、治療に使用したことが知られれば、きみたちもタダで済まないんじゃないのか」
「……覚悟はしています」
 カナンさんたちには、ご迷惑のないようにしますから、とミミはカナンを見上げた。
 カナンの立場では既に、立ち入り禁止の迷宮に足を運んだ時点で、否やを言うわけにはいかない。分かっているのかいないのか―――カナンは嘆息する。
「……先を急ごう」
「はい」
 リップルたちが小鹿にとどめを刺したのを確認すると、カナンは歩き出した。


 到着した採取場で、ミミは目当ての竜血樹を探す。とはいえ、かなり独特な形状の樹だ。すぐに見つかったそれに向かって、ミミは駆け出していく。
「わー、シアの実もいっぱい落ちてるねー」
「拾っていいが、あまり遠くに行くなよ」
「はーい」
 リップルは諸手を上げると、自分の道具袋にシアの実を詰め込んでいく。
 採取場の入り口にふと目を向けたカナンは、ロイが盾と剣を構えた背をこちらに、そろそろと歩き出しているのを見つけて声を上げた。
「おい」
「っ……なんだよ」
 振り返った少年の剣の切っ先が狙っているのは、またしても水辺でくつろいでいる小鹿だ。
 カナンの無言に耐えられなくなったように、ロイはキッと睨みつけてくる。
「さっきの奴は折角倒したのに、持ち運べないからってそのままにしてきちまっただろ。竜血樹脂が採れたらすぐに帰るんだから、今度こそ……」
 血の匂いは魔物を引き寄せる。
 ただでさえ採取中の無防備なところへ、自殺行為だ―――しかしカナンは何も言わず、シアの樹に背中を預けた。何を言っても、こういうタイプには無駄だからだ。
 ロイは不審がりつつも、小鹿に向かう。
 やがて、リップルとミミが戻ってきた。
「いっぱい採れたよ~」
「では帰―――」
「う、うわああああ!」
 悲鳴。そして、草むらに何か重いものが転がる音が続く。
 耳でそれらを聞きながら、カナンはロイの姿を探した。しかし振り返っても、入り組んだ木々の中ではすぐに発見することが出来ない。
 いや増す緊張感に、ミミが青白い顔で採取物を取り落とした。
「ロイ?」
 薄緑の影からゆっくりと進み出たそれは―――大角とたてがみを携えた青い鹿だ。
 片角の先端には、ぐったりとしたロイが引っ掛かっている。
「ロイ!」
 血の滴る指先から、剣が落ちた。
「来るな!」
 カナンは鋭く制止の声を上げると、投剣を構えた―――が、ロイの身体に当たりそうで、じりじりと大鹿の魔物―――“狂乱の角鹿”との距離が詰まるばかりだ。
 注意深く観察する。意識だけは手放していないらしいロイには、出血はひどくとも目視で致命的と判断できる傷はない。傍目に死んでいれば攻撃しやすいが、さすがに依頼人の手前、彼女の幼馴染を見捨てるような行動は避けたい。弓矢の援護がないところから、リップルも同じ意見のようだ。
 カナンは投剣を収めると同時に、双剣を抜いた。駆け出す。
 “狂乱の角鹿”を跳び越え、刃を滑らせる。首を狙えれば良かったが、ロイが邪魔だ。
 そのロイの身体が、草むらに落下する。
 カナンが狙ったのは、魔物の角だ。
 片角を斬り落とされた鹿の足元に、今度こそ投剣を放ちながら、カナンはロイの首根っこを掴んだ。魔物はたたらを踏んだが、そう長時間足止めは出来ない。カナンが渾身の力でロイを引っ張って退避させる間、リップルが足止めの役目を引き継いだ。こんな状況にもかかわらず適正な判断で動ける分、彼女の方がロイなどよりよほど、使える。
「ロイ、ロイ!」
 幼馴染に飛びつき、取り乱すミミの頬をはたく。
 唖然とする彼女に、叩きこむように言葉を投げた。
「カバンから薬と包帯を出せ。きみがやるんだ。いいな?」
 返事を聞く間も惜しんで、カナンは再び“狂乱の角鹿”に向かう。
「リップル、さがれ!」
 呼ばわり、弓矢から剣に武器を持ち替えていた少女に代わって前に出る。
 角を折られ、子供を狩られた魔物は、怒りの矛先をカナンに向けたように頭を上げた。
 攻撃が来る―――回避の姿勢を取った刹那、“狂乱の角鹿”は大きく振り上げた前脚を、地面に叩きつけた。
「カナンちゃ―――」
 リップルの声がかき消されるように、唐突に頭の中が真っ白になった。

―――いやね、物乞いの子よ。
―――生きてる価値もないような奴が、人を殺すんだから皮肉だねえ。
―――大した才能だ。言い訳と臆病の勘だけは一人前だな。
―――抜けるのは勝手だがな、おまえがいなくなっても仕事はなくならねえんだ。

「カナンちゃん!」
 はっと、カナンは我を取り戻す。
 一瞬、呆けていた―――その一瞬だと思っていた間に、カナンを覗き込むリップルが傷だらけになっていることに、瞠目する。
 顔を強張らせていたリップルは、ふと安堵したように表情を緩めた。
「ああ、良かった。……大丈夫? 気持ち悪かったりしない?」
「一体……」
 振り返れば、“狂乱の角鹿”は舌を出して横たわっている―――絶命しているようだ。
 リップルは笑顔で答えた。
「カナンちゃん、混乱しちゃってたんだよ。でも、あの鹿はカナンちゃんがほとんど一人で倒しちゃったの。すごいね!」
「……そうか、混乱……」
 頭の中でわんわんという唸りがまだ止まず、恐怖や猜疑が浮かんでは心を責めたてる。深呼吸で動揺をどうにか沈めながら、冷静さを取り戻す儀式のように、カナンは周囲を見渡した。
 横たわるロイと、彼を見下ろすミミ。ロイの顔色は青白いが、呼吸をしているようだ。ミミの不安げな目が、カナンを見た。
「……彼は?」
「大丈夫です。失血はありますが、深い傷はなくて……命に別状はありません」
「それは良かった」
「ただ……」
 ミミは、泣き出すのを堪えているかのように顔を歪めた。
「―――竜血樹脂をほとんど使ってしまいました」
「……そうか」
 もうこの迷宮に、竜血樹脂を採れる場所はない。


 タルシスに戻り、ロイを診療所へ送り届けたカナンは、夕暮れの街を足音も立てずに歩いていた。
「待ってください!」
 追いかけてきた声は予想の通り、ミミだ。
 立ち止まってやれば、彼女は急く息のまま言葉を紡ぐ。
「―――あの、報酬を……」
「要らない。“竜血樹脂を採りに行く道中の護衛”だからな。結局目的のモノは手に入らなかったし」
「で、でも……」
「つまらん意地さ。……その金を持って、“蛇の爪亭”の―――いや」
 仲介の老爺を思い浮かべていたカナンは、その薄気味悪い顔を、首を払って打ち消した。続ける。
「やめておこう。今回で、十分痛い目を見ただろうしな。坊主の治療費にでも当ててやれ」
 そしてそのまま振り返らずに、カナンは歩き去った。


―――しばらく石畳を進んだところで、待ち伏せをする影が路地から生えていることに気づく。
 カナンが足を止めると、ここを通りがかることが分かっていたかのように、リップルが顔を出した。
「へっへー、カッコつけちゃって」
「……何の用だ」
「ん? だってボク、カナンちゃんのパートナーだし」
「勝手に決めるな。私に連れは要らん」
「でもカナンちゃん、お金ないんでしょ?」
「当面の活動費はある」
「それにホラ……ボクを傷物にしたの、誰だっけ?」
 相変わらず露出の多い格好だが、リップルの小麦色の肌にはあちらこちらに、痛々しい傷あとが残る。聞けば、混乱していたカナンを止めるため、ついた傷なのだそうだ。
「……傷物というのは」
「カナンちゃん、そういう責任感のないタイプだったんだ? あの医術士の女の子には優しかったのにぃ、自分のために傷ついた女の子のおねだりは無視しちゃうんだ!?」
「あーもう」
 カナンは深々と嘆息した。まとわりつくリップルをよそに、つかつかと歩き出す。
「―――勝手にしろ!」
「はーい、勝手にしまーす!」
 心底幸せそうに応じ、リップルはカナンを追いかけた。

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第二大地

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第6話

 “踊る孔雀亭”の噂話は、今やピルグリムで持ちきりだ。
 長らく拓かれなかった北壁を越え、新たな大地を発見した。世界樹へ至る道は、魔物と迷宮に阻まれているものの、続いている。信じられてはいたが噂話でしかなかったそれを真実とし、タルシスを拠点とする多くの冒険者や、冒険者を支援する街の人々に希望を与えたギルドの名は、タルシスじゅうに広まることとなった。
―――と書くと、何やら美談のようだが。
 遅い晩飯を進めるマオの目の前に、にこにこと機嫌のいい笑みでアティが座っている。“踊る孔雀亭”は冒険者が多いごちゃごちゃとした繁華街にあるから、エリザベスの家に泊まっている彼女が夜半にお立ち寄ることなんてまずないだろう。訪問診療を終えたマオがやっと一息を入れようとしたところを、狙ってでもいない限りは。
「……何か、注文します?」
 居たたまれなくなって、マオは尋ねた。
 アティはきょとんとしたが、やがてきょろきょろと周りの様子を見渡して、
「そうですね。ただ居座るだけなのもなんですし」
 メニューを渡せば、口角に笑みを浮かべたまま、彼女はそれに目を落とした。
 マオは溜息を吐いた。彼女はよく、こういう謎の行動力を発揮する。いちいち心配するのも追いかけるのも馬鹿らしくなるくらいだが、いちおう保護者として訊いておかねばなるまい。
「それで? 何の御用で、こんな時間にこんな場所までいらしたんですか」
「それは勿論、マオに会うため、です」
「わざわざ休日に押しかけなくても、明日の朝には会うでしょうに」
「だって、みんながいるでしょう。極めて個人的な要件ですから、二人だけで話がしたかったんです」
「極めて個人的な、ねえ……」
 胡散臭い言い回しを繰り返せば、アティは小さく咳ばらいをした。
「いいですか。私たちは、北の岸壁の狭間に吹く突風を止め、その先にある大地を発見しました。統治院は“丹紅ノ石林”と名付けたそうです。確かに、赤い土の断崖絶壁が林のように高く立ち並んでいる大地ですから、よく合ってますね」
「はあ」
 煙草に火を点け、マオは流し聞いていた。アティの話が脱線するのは良くあることだ。
 アティは自分で話をずらしていることに気づいた様子で、再びこほんと咳をする。
「それで……もちろん探索は続けるんですけど」
「そうですね」
 新しい大地にも未知なる迷宮が存在し、世界樹への道は続いているのだろう。碧照ノ樹海で発見した石版は北壁の風を止ませたが、丹紅ノ石林にも北側に険しい山があることから、それは予想がついていた。アティは元より他のメンバーも乗り気だったし、マオも特に反対しなかった。しても無駄だと分かっていたからだ。
「そこで、マオにお願いが一つ」
「聞くだけ聞きましょう」
 う、とアティは一瞬躊躇った。
「私のこと、“お嬢様”って呼ぶの、やめていただけませんか」
「……はあ。今更ですね」
「その敬語もです。どうにも、遠慮されているように感じると言うか……」
 マオは灰皿に灰を落とした。
「お嬢様も敬語でしょうに」
「私のは癖です。マオだけでなく、みんなにも使っていますし……そう、平等にしてほしいんです。みんなと同じに」
「同じに……」
 マオの脳裏に咄嗟に浮かんだ最近の出来事は、屋台のものをつまみ食いするからとニーナの首輪から伸びた紐を握っていたこと(あれは相当街の人から後ろ指をさされた)と、アティに姑息なセクハラを働くドミニクに短剣を投げて前髪をひと房切り飛ばしたことだ。かろうじてエリザベスだけは、お互いにマトモな人間関係であるとマオは思っているが、多方面に迷惑な連中ばかりなので、実際のところ、ギルドの良心としての連帯感があるくらいなものなのだろう。アレと平等にしろと言うアティの心情が、マオには理解できない。
「……理由は?」
「えっ」
「あなたを“お嬢様”扱いしない理由です。俺にとってあなたは恩人の娘で、少なくともご実家にお戻りになるまで俺はあなたの後見人のつもりです。その上で、あなたを特別扱いしてはならない理由が何かおありですか」
「や、やっぱり、特別扱いしてます?」
「せざるを得ないのでね」
 アティは眉を八の字に下げ―――しかし、すぐ表情を引き締めると、至って真剣に答えた。
「私たちは碧照ノ樹海を突破しました。けれど、世界樹到達への道の第一歩を踏み出したにすぎません。慢心は敵です。分かっていますけど、ギルドの名前は否応なく有名になります。そうしたとき、“お嬢様”がギルドにいるのはまずいと思ったんです」
 よもや遠く離れた北国の“お嬢様”だとは思うまいが、アティの生まれを妙なことに利用しようとする動きがあってからでは遅いと。
 有象無象の思惑を持つ者たちがいる中で、例えば辺境伯と冒険者の良好な関係を崩そうと考える者がいないとは限らない―――誰かの悪意を事前に察知し、利用されないよう予防線を張る。いかにも貴族然とした考え方だが、マオはそれを指摘しないでやった。アティが自分を利用される可能性を理解しているなら、野暮というものだ。
「……分かった。そういうことなら」
 アティの表情が分かりやすく明るくなる。ひっそりと息を吐いて、マオは煙草の火を消した。
「話は終わりか?」
「はい。……ふふ、懐かしいですね、こういうやりとり」
 嬉しそうなアティをよそに、マオは上着を手に取って立ち上がる。アティは慌てたように、つられて席を立った。
「えっえっ」
「それはそうと、こんな時間に酒場にいるのは問題だ。エリザベスが探しに来るぞ」
「大丈夫です、ここに来ることはちゃんと言ってますから……」
「ということは、ひとりでここへ?」
「え、ええ……」
 マオは頭を抱える。アティは剣帯している。彼女の腕前を知っているからこそ、エリザベスは行かせたのだろうが―――孔雀亭が懇意にしている酒場という信頼もある―――それとも、自分があまりに過保護なのだろうか。
「送る」
「ええっ!? 結構ですよ! マオ、疲れているでしょうし」
「周りへのパフォーマンスはさておいてもな、本質的に俺があんたの保護者なのに変わりはないんだ」
「でも」
「俺の体調を気遣うのなら、夜中にこんなトコ来るのはやめてくれ……」
「あらー、“こんなトコ”とは随分ね」
 口を挟んだのは、孔雀亭の女将だ。褐色肌に照りかえるような美しい黒髪を靡かせて、テーブルを挟んで立つ二人の間に割り込んでくる。
「―――むしろ夜の孔雀が、うちの店の真骨頂よ?」
「……それは理解している」
「女将さん、こんばんは。良い夜ですね」
「ええ、良い夜ね。デートには最適」
 にこりと笑んだ女将に、アティはぶんぶんとかぶりを振る。
「で、で、デートなんてそんなっ」
「ふふ、赤くなっちゃって。かわいいわね」
「丁度いい。会計を頼む」
 淡白に告げれば、女将は一瞬渋面になったが、すぐいつもの薄い笑みを浮かべた。
「ねえ、あなたたちと話がしたかったのよ。……あの北壁を越えたって本当?」
 マオとアティは顔を見合わせる。
 女将は笑顔を崩さない。噂の出所を確かめに来た、というところだろう。
「越えたと言うより……北部の岸壁には谷があって。強烈な北風と入り組んだ地形のせいで、今まで誰もその先に行けなかったんですけど、風を止めたことで気球艇で進めるようになったんです」
「ふうん、あの気球艇でね……それで、世界樹はどうなっていたの?」
「あ、いえ、まだ世界樹には辿り着いていないです」
「いいわね。詳しく聞かせてもらえる?」
 アティがマオを見上げた。許可を窺うような目つきだ。
 時刻を考えれば、アティだけ先に帰したい。が、二人が出て行ってまたこの店に戻ってくるとは女将は思わないだろうし、わざわざ人の少ない時間帯を選んで話しかけにきたのだろうから、同じチャンスを待つのは二度手間だろう。元より、情報を提供しないつもりはない。孔雀亭の不興を買うのだけは避けたかった。
「……軽めの酒を二杯くれ」
「いいわよ。サービスするわ」
 ウインク一つ、上機嫌に女将は厨房へ戻っていった。


 ピルグリムの気球艇はゆっくりと第二大地“丹紅ノ石林”を進んでいる。文字通り、林のように岩山が天を突いて立ち並ぶ上、気球艇の進む先は霧に覆われている。
「こりゃー、どこ向いてんのかも分っかんなくなるなあ」
 操舵をしながら、ドミニクがぽつりと言った。退屈そうに尻をぷりぷり振るので、方位磁針を見ているエリザベスは心底うっとおしげに嘆息する。
「あんたは前向いてなさい。……まだしばらく面舵」
「はいよ」
 気球艇“セレンディピティ”は、第二大地の磁軸から北東を目指している。北部には乗り越えられない岩山がそびえていて迂回するしかなく、河沿いに北西へ進んだ先では、蟷螂のような魔物に追い回されてしまったためだ。
 入り組んだ岩山の中を、慎重に進んでいく。下方には鬱蒼と茂る緑の闇が広がり、木々の背からして、気球艇が飛ぶにもギリギリの高さといったところだ。
「これで行き止まりだったら、どうすんだよお~」
「情けない声を出すんじゃない。行き止まりだったら……蟷螂のいる辺りを探索するしかないね」
「げっ」
「もしくは西側のワニみたいなのがいるところか―――」
『べっ、ベス!』
 張り巡らされた配管を通して、焦ったアティの声が響いた。彼女はデッキにいるはずだ。エリザベスはこちらから向こうに話しかけるための伝声管を探して、手繰り寄せる。
「何?」
『お、大きな魔物が近づいてきます! もふもふ―――』
「は?」
 音声が途切れて、唐突な揺れが操舵室を襲った。
「うおっ!?」
 体勢を崩したドミニクが、操舵輪にしがみつく。操舵輪が動き、気球艇の進行方向が取り舵いっぱいに向いた。
「ちょ、ちょっと―――うわっ」
 続けて大きな揺れ。先の一回と同じく、突き上げるような震動だ。
 再び伝声管に取りついて、エリザベスはがなりたてる。
「アティ! 一体何が起こってるの!? ―――ドミニク、あんたは面舵いっぱい切ってなさい!」
「ンなこと言われたってえ~~」
 ドミニクは足を突っ張って操舵輪を面舵方向に戻そうとしているが、力が足りないらしい。気球艇がどんどん傾いていく。
『巨、大なヒツジさんが、体当たり……してきてま、きゃあ!』
「もうちょっと高度上げられないのー!?」
 もはや操舵輪に全身で抱きついているドミニクが叫ぶ。だが“セレンディピティ”の持つ動力では、魔物の手が及ばない上空に浮上することは不可能なのだ。
『ベスっ―――おい、全員何かに掴まれっ!』
 アティではなくマオの声が伝声管を伝わった瞬間、これまでとは比較にならない衝撃が“セレンディピティ”を襲う。
「あっ、ごめん」
 ドミニクの呟きに、エリザベスが正面を見ると―――
 窓の向こうには、赤い岩壁が眼前に迫ってきていた。


「……ィ、アティ!」
「う、うーん……お母様、あともう少しだけ」
「……寝ぼけている場合じゃないぞ、アティ」
「ハッ」
 寝返りを打ったところで覚醒したアティは、がばりと身を起こし―――鈍痛のする首を押さえる。
「いたたた……」
 傍らに膝をついていたマオが、気遣わしげにアティを見下ろしてくる。
「ムチ打ちかな。かなりの衝撃だったから」
「あ……そ、そういえばっ」
 アティは改めて周りを見渡す。
―――鬱蒼と茂る青緑が呼吸を圧迫してくるかのようだ。湿った苔の感触は、背を預けていた細長い木から伝わってくる。曇天には霧が立ち込めており、重苦しいこの森の雰囲気に拍車をかけていた。
 その中に存在する、木と木の間に渡された、奇妙な紋様入りの装飾が付いた扉。ドミニクとエリザベスがその傍に立っている。ニーナは、と姿を探せば、アティにもたれかかるようにすやすやと寝息を立てていた。
 アティは安堵の息を吐いた。
「良かった、皆さん無事だったんですね」
「……喜ばしいことばかりじゃないがね。後ろ」
「え?」
 マオが指を差したのは、アティと木の背後―――陥没した森の中央にめり込んだ“セレンディピティ”だった。
「あっ……」
「本当、よく無事だったもんだ」
 マオが肩を竦める。船は上から折られた木の枝で覆われており、一瞥した限りではどの程度壊れているか見当がつかない。
「―――きみが意識を失っている間に、魔物に見つからないように球皮は畳んで、艇本体もカモフラージュしておいた。着陸が派手だったわりに木がクッションになったみたいで、致命的な損傷はないが……」
「ないが?」
「さすがにもう一度飛ぶには、修理が要るだろうな」
「センセ~、アティちゃーん」
 ドミニクが近づいてくる。彼は装飾が付いた扉を指しながら、
「あそこ、鍵かかってないから先に進めるみたいだぜ」
「様子を見に行くか?」
「えっと……アリアドネの糸などもないんですか?」
 アティは血の気が引く思いで、おそるおそる尋ねた。タルシスの街に戻る手段が完全に失われたのならば、慎重にならねばなるまい。
 が、マオはあっさりと答えた。
「道具類も無事だ」
「な、なら一度街に帰って立て直した方が……」
 言いかけて、アティは気付く。今このまま帰っても、気球艇の修理代がない。修理できないなら、徒歩で行ける範囲の小迷宮で小金稼ぎをするしかないのだ―――再び気球に乗って第二大地に来るまで、どれだけの日数がかかることになるか。
 マオはそれに思い至っていたらしく、アティに頷いてみせる。
「墜落する直前に確認した磁軸の方位から、ここが地図上のどのあたりかは分かります。少し進んで、危険そうならすぐに糸を使いましょう」
「は、はい……」
「ニーナ、起きろ」
「むう」
 ニーナを揺り起こすマオ。その様子を眺めながら呆けていたアティは、ぱちんと我が頬を張った。ぼんやりしていられない。どれだけショックなことが起こってもここは未開の地、襲い掛かってくるのは全て生身の現実なのだから。
 手始めに立ちあがり、アティはマオを見上げた。
「マオ」
「はい?」
「敬語は禁止です」
「……ああ」
 マオはどうでも良さそうに生返事で答えると、ニーナの首根っこを引っ張って無理矢理立たせた。寝ぼけたニーナが噛り付いてくるのを、カバンで防御している。
 アティは、エリザベスたちによって開かれた扉に近づいた。ところどころ褪せているが、紋様は彩色されている。人工物なのに間違いはないだろう。
 扉の前に立った瞬間途端、ムッとした空気が鼻先を掠めた。反射的に身を引く。臭いはないが、何となく息苦しさを感じた。
「す、すごく……空気が籠っている感じがしますね」
「森の中なのに?」
 エリザベスが同じように扉の向こうを覗き込み、顔をしかめた。
「うん……まあ、呼吸できないほどじゃなさそうだけど」
「むー!」
「わわっ」
 スカートを思い切り引っ張られて、アティは何事かと肩越しに足元を見る。
「……ニーナ?」
 ニーナが足を突っ張って、アティのスカートを握りしめている。
「どうかしたんですか?」
「うー! あうー」
 頭を撫でようとすると、ぶんぶんとかぶりを振るニーナ。手袋が滑って、引っ張っていた勢いのまま仰向けにひっくり返ったので、アティは狼狽える。
「に、ニーナ!」
「放っておきな。おおかた、また腹でも減ったんでしょ」
「そろそろ進もうぜー」
「魔物がいるな」
 マオの一言に、全員が彼を振り返る。
「―――はっきり分かるのは、一体だけだ。……用心しよう」
「はい」
 不安を押し隠し、アティは頷いて見せた。


 やっぱり何か変だ、と感じたのは、森の中を散策し始めてすぐだった。
「おい、なんか妙じゃねえ?」
 その言葉を発したのはドミニクだったが。
「―――鳥の鳴き声すらしねえよ。こんな静かな森、不気味すぎる」
「それに、どんどん息苦しくなってきてない?」
 エリザベスがそう言った途端、アティの背後でどさり、と音がする。
「ニーナ!」
 振り返れば、マオがぐったりとしたニーナを支えていた。仰向けになった少女の顔色は土気色だ。
「し、しっかりして―――っ」
 アティもまた、襲い掛かってきた立ちくらみに膝をつく。まずいと思うより早く、意識が急速に収斂していく。
 くらくらする。
 冷たい苔と土と泥の感触の中に、アティは沈降していった。


「……げんが、こんなところに……」
「……ぶ魔物に乗って……」
「う……?」
 冷たく固い地面の上で、アティは目を覚ました。
 覚束ない思考の中、横倒れになっていた身体を動かそうと地に腕を付けば、すぐそばに白衣の背中があることに気づく。アティは起き上がりながら、彼女を庇うようにしゃがみこむそれの肩越しに、人影があることに気づいた。
 一目見て、ぎょっとする。
 人のようだが、ヒトではない。
 まず異常なのは、体躯の細さだ。肩幅が狭く、枝を思わせるひょろ長い手足には、骨と皮しかないように見える。そして皮膚は灰色を帯びていて、白髪の隙間から覗く顔はやせ細り、血が通っていない木か何かのようだ。
 ふとその青い大きな目が、アティを見た。
「わっ」
 声を上げたことで、マオがアティを振り返った。押されてやや後ずさった手が、柔らかいものを踏んだ。驚いて視線を向ければ、うなされているドミニクの顔を押しつぶしている。ニーナとエリザベスもまた、折り重なるように横たわっていた。三人とも意識はないものの、呼吸は正常だ。
 ほっとする間もなく、声が降る。
「これで、全員か?」
 触れたものを裂くような冷たい女の声だ。
 はっとして、アティは再び、異常な風体の―――アティたち五人を取り囲んでいる―――人々を見やった。数にしておよそ十人足らず。敵意は感じないが、皆弓矢で武装している。彼らのほとんどは薄布一枚を纏っただけの非常に質素な恰好をしているが、ただひとり、自分たちの身長の倍はあろう錫杖を持つ者だけが、宝石のついた飾りを身に着けていた。見るからに、その―――彼か彼女かが、代表者であるようだ。
 その、杖を持つ者が口を開いた。アティたちを指先で示すと、開いた手のひらをこちらに向け、
「言葉が通じないのか? ……貴様たちは、五、人か」
「あっ……はい、そうです」
 最初の発言者は、この者―――声からして女―――だったのだ。アティが応じると、マオがじろりと睨みつけてくる。彼はまだ警戒しているようだが、アティは理解していた。
「―――あなたたちが、私たちを助けてくださったのですね?」
「そうだ。そして貴様たちは、あの空を飛ぶ魔物に乗ってきた……人間どもだな」
「魔物……えっ」
「おそらく気球艇のことだ」
 マオが、アティにしか聞こえないほどの小声で告げてくる。
 女のぎょろりとした目を見返して、アティは慌てて答えた。
「はい、そうです。でもあれは魔物ではなく、気球艇と言って、乗り物です。生き物じゃありません」
「キキュウテイ? ……まあ、いい。この森は普段人通りがない。空より見慣れぬ魔物飛来せりと、騒いでいた哨戒どもに感謝することだな」
 女は仲間を一瞥したのち、抑揚のない声で続ける。
「気分はどうだ」
「えっと……」
 マオを見上げると、彼は小さく肩を竦めた。
「意識を失っていたのは長い時間ではないようだ、としか」
「この地を蝕む石の呪いに当てられたのだ」
 女は、藍色の小さな石を見せつけるように指先に挟んでいた。それを、近くの草むらに無造作に投げ捨てる。
「―――もっとも、石の放つ瘴気だけですぐ致命傷を負うことはあるまい。毒蜥蜴が近くにおらねばの話だがな」
「あ、あの。あなたたちは一体?」
「私の名はウーファン」
 そう名乗った女は、ここで初めて表情らしきものをみせた―――顔をしかめる。
「ウロビトの方陣師を束ねる者だ。貴様たちは……」
 そして何かを悟ったかのように、もとの無表情に戻る。
「……人間どもよ。創造主への敬念故、この度は私の判断で貴様たちの命を救った。だが一度きりだ。早々にこの地より立ち去るがいい」
 錫杖で地を強く打つと、ウーファンの仲間たちはアティたちから離れていく。立ち去るつもりだろう。追いたいが、未だ目覚めぬエリザベスたちを置いていくわけにもいかない。アティはしびれが残る身体を動かし、座したままウーファンに呼びかける。
「ま、待ってください!」
「貴様たちとの縁は、聖樹の護りの時点で断ち切られた。修復も再会も我らは望まぬ。立ち去れ」
 這うように追おうとしたアティだったが、頭を動かすと吐き気を覚えた。ふらついた肩を支えてくれたマオも、よく見れば青白い顔色をしている。
「大丈夫か?」
「私は……ま、マオこそ」
「身体から毒が抜けきるまで時間がかかる。あまり動かない方が良い」
「ええ……」
 眩暈がなくなった頃に顔を上げれば、すでに異形の人の姿はなかった。
 ウーファンたちが去っていった森陰を見やり、アティは息を吐いた。
「ウロビト、と仰っていましたね」
「いくつか気になる言葉を口にしていたが、考察は後回しだ。糸を使おう」
「あっ、待ってください!」
 アティはそろそろと這いながら、ウーファンが立っていたあたりの草むらに頭を突っ込んだ。道具袋を探っていたマオがぎょっとして顔を上げる。
「おい?」
「えっと……ありました! これ!」
 アティが取り上げたのは、ウーファンが言っていた“呪いの石”だ。藍色というより黒や灰色に近く、少し粉っぽい。掲げれば、マオはしかめ面をしていた。
「おいおい……どうするんだ、そんなもの」
「持って帰ります。分析すれば、毒の原因が何か分かるでしょうし」
 まさか本当に呪いのはずがない。おそらく森の中では、この石を原因にした化学反応が起こり、有害ガスが発生しているのだろう。
 石単体で、臭いは感じない。
 アティは予感を持って、呟いた。
「何かに使えるかもしれません」


 満身創痍の“セレンディピティ”を連れてタルシスに戻ったピルグリム(というより飛空艇)を見て、港長は文字通り悲痛な慟哭の声を上げた。彼にとって飛空艇は子供のようなものなのだ―――とはいえ船本体に頬ずりして泣く姿には、さしものアティもちょっとは引いた。
 問題の、飛空艇の修繕費用については、意外なところから解決した。辺境伯が、冒険者の飛空艇に限り、無償で修繕を行うという触れを出したのだ。というのもこの件は、世界樹の迷宮探索によって潤い始めた街にとっても死活問題で、最悪全ての冒険者の飛空艇が飛べなくなってしまえば、新規開拓どころか既存の利益を保てなくなってしまう。そんな経緯で、ピルグリムの杞憂をよそに、“セレンディピティ”はただちに飛べるようになった。
 アティが持ち帰った“藍夜の破片”は、なんと港長曰くの「気球艇をもっと高くまで飛ばすのにうってつけ」の燃料だったらしく、修繕のついでに“セレンディピティ”の動力に組み込まれた。すぐにできると言うので、アティは許しを得て、港長の作業をそばで見学していた。近くでよく見れば見るほど、気球の仕組みは精巧で、洗練されていることが分かる。動力機構を眺めながら、思わず感嘆の息をつくアティに、港長が機嫌よく話しかけてきた。
「おお、これの良さが分かるのか」
「機械いじり、趣味なんです」
 アティはにっこりと微笑んだ。アティの右手にある籠手は、錬金術師である父のアタノールをもとにアティが自作したものなのだ。
「―――この機構は、タルシス固有のものですか?」
「先代港長、つまり俺の親父が作ったってことに、世間的にはなってるけどな」
「世間的には?」
「……ここだけの話、ホントは誰が作ったのか分からねえんだよ」
「えっ」
「十年以上昔の嵐の日、北の空からでっかい、金属の塊みたいなのが降ってきてな……」
 はじめは、竜が巻き上げた何かかと思われた。だが解体した結果、中から明らかに人の手で造られたと思しき機構が出てきた。それが空を飛ぶための乗り物だと判明したのは、実にそれから五年も経ってからだ。
「話が進んだのは、その仕組みで実際に飛ばせるようなやつを、作ろうってなってからだな」
「懐かしい話をしているね」
「あっ」
 ドックを仕切る柵の向こう側から話しかけてきたのは、ワールウィンドだ。気だるげに片手を挙げて、挨拶してくる。
「そっち、行ってもいいかい」
「どーぞ」
 港長の言葉に、ワールウィンドは軽々と柵を飛び越え、アティたちに近づいてきた。港長は作業に戻りながら続ける。
「さっすが旦那。耳が早いね」
「何のことだい?」
「とぼけるなよ。どうせ、“藍夜の破片”の噂を聞きつけてきたんだろ?」
「ははは、お見通しか」
「そうなんですか?」
 体調が回復してすぐ、アティはここに来たのだ。しかしアティの驚きなどさして気にしていないように、ワールウィンドは小さく肩をすくめる。
「情報っていうのは、どこからか必ず漏れるものなんだよ」
「それで、さっきの話だけど。ワールウィンドの旦那だったよな、確か。“虹翼の欠片”が燃料として使えるって言ったの」
「そうだったっけ?」
「おいおい……とにかく、燃料が見つかってから、実際に気球艇を飛ばすまでは早かったな。……それからだ。辺境伯が冒険者を集めだしたのは」
 アティがタルシスの噂を知ったのも、この数年のことだ。タルシス北部の開発が本格的に始まってから、まださほど年月が経過していないということだろう。
「―――世界樹を目指すとか、それも嘘じゃないだろうが……あの夢見がちな辺境伯は、気球艇を作った奴らに会いたいんだろうさ」
「それは君も一緒じゃないのか?」
「それはそれ、だぜ」
 港長は照れたように笑うと、「さあできた」と、動力炉に優しく手をついた。
「本当は、こいつの性能はまだまだこんなもんじゃない。誰が乗っていたかは知らないが、大したシロモノだよ」
「君たちが旅を続ければ、いずれ出会うことができるんじゃないか?」
 アティはぎょっとした。ウロビトのことが脳裏をよぎったからだ。
 ウーファンたちと遭遇した出来事は、マオとアティの二人だけしか知らないし、仲間たちにすらまだ話していない。
 ただの思い過ごしだ―――アティは笑みを浮かべて、大きく頷いてみせた。
「そうですね! きっと……私も、気球艇を造った人たちに会ってみたいです」
「よし。その意気だ! 頼むぜ、ピルグリム!」
 港長にばしっと背中をはたかれ、アティは仰け反った。

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第7話

 靄がかったしんとした緑の中に、椿のような花が一面に咲いている。
 苔色に塗りつぶされ、張り巡らされた木の根の隙間にある、思い出したような地面を慎重に踏みながら、ピルグリムの五人は“深霧ノ幽谷”を進んでいる。
「まるで夢の中のような光景ですね……」
 首を巡らせ、いくら進んでも変わらない景色に、アティは感嘆の息を吐いた。
 それも、タルシスがある第一大地の迷宮とは全く異なる。風景は勿論、採取出来るものも魔物も、何もかもがだ。同じなのは共にこの地に降り立った気球艇と、仲間たち―――別の場所から持ち込んだものだけだ。
「―――幻想的です」
「うっとりするほど、良いところかね?」
 隣を歩くエリザベスが眉を寄せた。
「―――じめじめしていて、長居すると盾がカビそうだよ。鎧の中は結露しているし。出てくる魔物だって混乱キノコやら爆発植物やら、いやらしいのばっかじゃないか」
「で、でも雰囲気が……」
「あたしは一時間で飽きたけどね」
 うんざりしたように言うエリザベスに、後方からドミニクの声が飛んでくる。
「そんな水を差すようなこと言わないであげようぜ? アティちゃんはエリザベスちゃんより、よっぽど感受性豊かってこと」
「喧嘩売ってる?」
「もっとおおらかに行こうぜってことさ! 先は長いんだ……おっ?」
 ドミニクは、一行から外れて立ち尽くしていたマオに気づいて足を止める。
「―――先生?」
「……何かいる」
 眉をひそめるマオの視線の先―――ピルグリムは集まって目を凝らすが、木陰と濃霧に沈んだ闇があるようにしか見えない。
「また先生にしか分からないって、アレ?」
「事情を知らなきゃ、精神疾患かなんかかと思うね」
「シッ」
 ひそひそ言葉を取り交わすドミニクとエリザベス。アティは唇に指を寄せて、
「何か聞こえませんか?」
 見上げた空は背の高い木の、枝葉に覆われてしまっている。靄をうっすらと揺らすような微かな音が、確かにアティの耳には届いている。
 幼い、少女の歌声だ。
「こちらから……」
「アティ?」
 聞こえるうちにと、つられるように声のする方へアティは歩き出す。ドミニクとエリザベスは顔を見合わせていたが、マオがアティのあとに連なったので、それに従った。ニーナは既にアティの手を握っている。
「ええと……」
 岐路でたたらを踏むアティに、マオが右の道を指す。
「気配はこちらです」
 アティは喜色を浮かべた。
「はい!」
「ちょっと、得体のしれないもののところに向かっていいわけ?」
「まー、他に当てもないわけだし、いいんじゃない?」
 エリザベスたちの会話を聞きながら、アティはマオの指した道を進んでいく。
 やがて、そこだけ気まぐれに森が穴をあけたような、ひらけた空間に出た。
 緑の絨毯の上、倒れた木。その切り株の上に座るのは、ニーナと同じ年の頃ほどの、少女。
 歌を奏でる唇の動きがふと止まり、伏せられていた瞼が、開いた。
―――息をひそめ立っていたアティたちを、その瞳が見つけて息を呑む。
「あなたたちは……」
「危ない!」
 少女の背後の靄に、突然映し出された黒い影を見つけ、アティは叫んだ。
 振り返った少女が驚き、悲鳴を上げるのと同時に駆けつけ、影に躍りかかる。
「はあ!」
 が、剣は空を切った。
 手ごたえもない。影はゆらりと揺らめきながら、すっと後ろに下がる。まるで本当に影だけの存在のようだが、頭の部分に目のような輝きがある。その、顔と思われるものがにいと笑った―――ように、見えた。
「その子を安全な所へ!」
 後衛にそう訴えながら、アティは再度影に斬りかかる。
 空振り。いや、確かに影を捉えてはいるが、実体がないのだ―――ところが、影が突き出した腕に、反射的に受け止めた盾は重さを感じた。
「くっ」
 アティは一旦距離を取る。
 視線を巡らせ、周囲の状況を確認した。例の少女はマオと共にいる。真っ青な顔色で、彼女はぼそりと呟いた。
「どうしてこんなところにホロウが……」
「ホロウ?」
 眉をひそめてオウム返しに呟くマオに、少女はハッとした様子で声を張り上げた。
「あれは、ホロウというの! ええと……足元を束縛してしまえば、攻撃が通るはず!」
「足だな。よーし」
 ドミニクは舌なめずりをすると、影の魔物―――ホロウの足元を狙って矢を射抜いた。
 地に突き刺さりしなる矢。まるでスカートの裾を縫い付けられたかのように、ホロウは身動きを止める。
「やあああ!」
 アティが今度こそ叩きつけた刃は、ホロウを肩口から斜めに切り裂いた。柔らかいが、確かに何かに斬りつけた手応えに、風が鳴るような甲高い悲鳴を上げて影が激しく移ろいだ。
「むう!」
 アティが飛びのいたタイミングで、地面から生えた氷の槍が影を串刺しにする。
 完全に凍り付いた影が、鏡のような氷の中で溶けるように霧散するのを、アティは見ていた。
「倒した……のでしょうか?」
「気配は―――」
「気配は消えたわ。大丈夫だと思う」
 そう答えたのはマオではなく、彼に守られた少女だった。
 少女は深呼吸すると、幾分平静を取り戻したかのような柔らかい表情で続けた。
「危ないところを助けていただき、ありがとうございました。あなたたちも……人間、なんですか?」


「本当だったんだ。この場所で待っていたら人間が来るって、世界樹の言葉通り!」
「世界樹?」
 聞き返した呟きにも耳を貸さぬほど、少女は興奮して頬を紅潮させながら、アティににじり寄る。
「あっ、自己紹介が遅くなってごめんなさい。わたしはシウアン、里では“巫女”と呼ばれてるの。あなたたちのお名前は?」
「ええと……私はアティと申します。そちらから向かってエリザベス、ニーナ、ドミニク、そしてマオ。……私たちはタルシスという街から来た、ピルグリムという冒険者ギルドです」
「タルシス? 街って……冒険者ってなあに?」
「ええと……」
 “里”という言葉といい、タルシスの街を知らないことといい、少女は何者なのか?
 じゃれついてくるような少女―――シウアンの両腕を取りながら、アティは困惑する。
 すると、足早な足音が近づいてきた。南にある小道に目を向ければ、錫杖を手に息を上げた女性が、茫然と立ち尽くしたところだった。
「ウーファン!」
「貴女は……」
 アティはマオと顔を見合わせた。
 気球艇が墜落した先で毒ガスに襲われたとき、助けてくれた一団のリーダーだった女性だ。
 こんなところで会うなんて、とアティは言葉を紡ぐ前に、ウーファンの目つきが鋭く、憎々しく睨むようなものであることに気づいた。その唇から低い、唸るような言葉が漏れる。シウアンがはっと叫んだ。
「だめっ、ウーファン!」
 シウアンが、地面を足で踏みつけた。
 その瞬間、ほのかに光を放っていた苔から色が失せ、元通りの緑に戻る。今何が起こったのか、問う間も待たずに、つかつかとウーファンが近づいてきた。
「人間に敬意など払うべきではなかったか。ここまで入り込んだ上に、かような真似を……巫女から離れろ!」
「ま、待って!」
 再度ウーファンが錫杖を構える。ピルグリムとウーファンの間に、シウアンが割って入った。
「―――ウーファン、話を聞いて。この人たちはわたしを助けてくれたの!」
 そう、ホロウが出たのよ、と付け足すシウアン。勢いのまま言葉が飛び出すのを落ち着かせるように、彼女はまた深呼吸した。
「それにね、ほら。この人たちはわたしと同じ人間なのよ、人間! ボウケンシャって言うんですって! ねえ、わたしもっとこの人たちとお話したいわ。助けてくれた人たちですもの、いい人たちよ。ね、いいでしょう?」
 ウーファンの服の裾を握りしめ、言葉を重ねるシウアン。少女が言い募るにつれ、ウーファンの顔がどんどん渋い色に染まっていくが―――その色は不快の色ではない。困惑の色だ。
「ねーウーファンってば!」
 駄々をこねるシウアンに、ウーファンはとうとう根負けしたように、深々と嘆息した。
「……分かりました」
「やった!」
「ただ、お話は里で。……こんな浅い階層でホロウに出会うなど、今までになかったことでにわかには信じがたいですが……」
 じろりとピルグリムを睨むウーファンの錫杖を、シウアンが引っ張る。
「本当よ!」
「……巫女が言うならば信じましょう。用心に越したことはありません。そちらで礼も用意させます」
「ありがとう、ウーファン」
 嬉しそうなシウアンを見つめるウーファンの目は柔らかい。
 が―――次に再びピルグリムを見たウーファンは、氷のような目つきをしていた。
「ただし……貴様らが里に辿り着けたらの話だ」
「えっ」
「聞いての通り、我々の里はこの森にある。隠し道ゆえ、ここからでは複雑な道程だがな。だが巫女の願いは叶えられねばならぬ。……貴様らも聞きたいことがあろう?」
「ええ、それは……」
 枝のように細い体躯を持つ、ウロビトと名乗るウーファンたちが何者か。
 “世界樹の声”を聴く、この巫女シウアンは何者か。
 ウーファンはふんと鼻を鳴らすと、踵を返した。
「精々迷わぬことだ」
「ちょ……ウーファン、痛いっ! 何怒ってるの?」
 手を引かれるシウアンは必死に振り返る。
「普段はこんな風じゃないんだけど……ごめんね! 絶対来てね! 待ってるから!」
「巫女」
「いたいってば、ウーファン!」
 二人はそのまま、白靄と木陰の中に消えていく。
「……行ってしまいましたね」
 静寂が戻った“深霧ノ幽谷”に、アティの囁きが響かず消える。
「そうだね」
「追いかけんの?」
 ドミニクの問いに、アティは彼女たちが去った闇を見つめたまま頷いた。
「行きましょう。興味深いキーワードを、たくさん口にされていましたし」
「それはそうと。アティちゃん、なんかあの女の人……ウーファンさんだっけ? どっかで会ったことあるのか?」
「えっ」
 どきりとして、ドミニクを見れば、彼は頭の後ろに腕を組んだままにっと笑った。
「いや、なんか知ってそうだったから」
「“瘴気の森”で倒れた俺たちを、介抱してくれたのが彼女たちだ」
 答えたのはマオだった。ドミニクはぱっと腕を離して瞠目する。
「えっ」
「あの異常に細い体躯のやつらが複数いた。ウーファンは彼らを束ねる者だと名乗った。自分たちは“ウロビト”だと」
「何それ。この辺の原住民ってこと?」
「そこまでは」
 エリザベスの言葉に肩を竦めるマオ。
 アティは深々と頭を下げた。
「ごめんなさい、秘密にするつもりはなかったんです。ただ、言うタイミングがなくて。その時目が覚めていた、私とマオだけがおそらく、彼らのことを知っています」
「まあ……街でこんな話出来ないもんな」
 ドミニクは理解を示すように頷いた。エリザベスも同様のようで、頷いたのち尋ねてくる。
「統治院に報告しないの?」
「報告をするにせよ……もう少し、全容が明らかになってからだろうな」
 そう答えるマオは、真っ直ぐウーファンたちが立ち去った方角を見ている。
「先に進みます?」
「そうするほか、ないね」
「うー……」
「ニーナ?」
 ピルグリム全員の意志が揃ったところで、と思った矢先に、ニーナが不機嫌な顔でアティの手を握っている。
 おなかが空いたのかと思いきや、彼女のもう片方の手には、出がけに持たせたトウモロコシがある。どうしたのかと首を傾ぐと、ドミニクが乾いた笑いを浮かべた。
「はは、ひょっとしてニーナ。シウアンちゃんに嫉妬したんじゃね?」
「えっ」
「むー!」
 ドミニクを睨んで声を上げたニーナ。トウモロコシが青く光ると、ドミニクの半歩隣から氷の柱が立ち上がる。
「うわっ! と、トウモロコシ杖でも印術打てるのかよ!」
 もっと別のところでそういう能力使えよ、と動揺した風のドミニクに、エリザベスとマオが白い目を向けている。
「ニーナ」
 まだ不愉快そうにアティの脚にすがりつくニーナに、アティはふへへ、と相好を崩すと、そのかわいらしい帽子を優しく叩いた。
「―――ニーナ。あなたは気になりませんか? 彼女がどうしてウロビトのみなさんと共に、こんな迷宮の奥地で生活しているのか」
「うー……」
「一緒に行きましょう、ニーナ」
「むう」
 納得したようにぱっと彼女が離れたので、アティは微笑んでみせた。


 霧深い迷宮を進んで行けば、シウアンたちの“里”はすぐ見つかった。
 一際厚い扉の前に立つ、錫杖を持ったウロビトの姿にエリザベスたちが息を呑む。前に出たアティがウロビトの兵士たちに事情を話せば、扉はあっさりと開かれた。
 天然の木の壁に覆われた里はさほど広くはない。きょろきょろと物珍しく見渡すピルグリムを、里のウロビトたちはほとんどが警戒しているようだった。ただ幼い子供たちだけが、興味深そうにピルグリムを見返している。
「里に人間が足を踏み入れたことはありません」
 案内役のウロビト兵が、柔らかい口調で言った。
「でも、シウアンは“人間”なのでは?」
 アティの問いに、彼は微かに笑む。
「彼女は“巫女”です。貴方達とはまた、違いますよ」
 その言葉に、アティは仲間たちと顔を見合わせる。
 が、問い詰める間もなく、案内役は足を止めた。番傘を傾けられたベンチに座っていた少女が、ぴょんとそこから飛び降りて、アティたちに駆けつけてきたからだ。
「みんな! 来てくれたんだ!」
「ご機嫌よう、シウアンさん。お誘いいただきありがとうございました」
「シウアンでいいよ。ふふ、本当に嬉しい。迷わずに来られたでしょう?」
 そう言ってシウアンが立てた指先に、蛍のような光が降る。
 迷い道を案内するように舞っていた、同じ光を思い出して、アティは「まあ」と口を覆った。
「貴女のおかげでしたのね。ありがとうございます。仰る通り、迷いませんでした」
「良かった! ねえ、美味しいものの準備もしてあるの。こっちにどうぞ!」
 アティの手を引いて、シウアンが先頭立って歩き出す。
「―――丁度良かった。あのね、今、ウーファンは留守なの」
 番傘の下には、ピルグリムの人数分の食事の準備があった。座すように促され、ピルグリムは大人しく従う。
 陶器に盛られた果実や種は、見たことのないものばかりだ。器には飲み物が注がれていく。
 シウアンはにこにことしている。素直にいただきますと言って、アティは赤漆の上品な器に唇を寄せた。
「あ、美味しい……」
「でしょう!?」
「はい、とっても美味しいです」
「アティ……」
 が、仲間たちは食べ物に口をつけるどころか、器に手を伸ばしてもいない。ニーナすら、エリザベスに抑えつけられてよだれを垂らしている。
「えっ、えっ」
「ええと……」
 気まずい笑顔をシウアンが浮かべる。
 アティはそこでようやく、ピルグリムを窺うような視線と、張り詰めた空気があることに気づく。
 里に入るとき、警戒されている―――と感じたのは気のせいではなかったのだ。
「―――も、もしかして、食べ物が少し違ったりした……?」
「いいえ! 美味しいのは嘘ではないですよ」
 アティは仲間の制止の視線を無視して、果物に手を伸ばした。
 少しだけ、シウアンの強張った笑みが柔らかくなる。
「そ、そうなら良かった……わたし、里以外の人間の食べるものって分からなくて」
「この里には、シウアン以外に人間はいらっしゃらないのですか?」
「ええ。人間は、ずっと昔にいなくなっちゃったって、ウーファンが言ってた。だからわたし、みんなに会うまで人間はわたしひとりなんだって思ってたの」
「そうだったのですか……」
「ね、みんなのお話聞かせて。タルシスっていう、街のことも聞きたいな!」
 ずいとアティににじり寄ってくるシウアン。
 アティは果物を口に運ぶと、仲間たちを見た。
「皆さんも食べましょう。美味しいですよ!」
「あうー」
 エリザベスとマオが顔を見合わせる。
 すると、ドミニクが青色の果物に手を伸ばした。意を決した風に噛り付くと、その表情がみるみる驚きに変わる。
「ホントだ、うめえ!」
「でしょう?」
「あうっ」
 我慢の限界を迎えようとしているニーナが暴れ出すのを予知してか、ドミニクがその口に果物を突っ込んだ。
「おらっ」
「ちょっ、汁垂れてくる! 汁!」
 ニーナを膝に乗せていたエリザベスが狼狽える。その隣のマオは溜息を吐くと、飲み物を口にした。
「……ふふ」
 ピルグリムの賑やかなやり取りに、シウアンの顔がほころんだ。
 ようやく浮かんだ年相応の笑顔に、アティもつられて微笑む。
―――それから、シウアンの知りたがるがまま、アティたちは外の世界のことを話した。そのすべてに、“巫女”と呼ばれる少女は目を輝かせて聴き入る。
 話の片鱗から見えてきたのは、シウアンは巫女として、ウロビトたちに大事がられ、重宝されてきたということだ。里を出て散策することはあっても、この森から外に出ることはほとんどないという。
「いいな。わたしも、みんなの街に遊びに行ってみたい」
 ぽつりと呟くシウアンは、どこか寂しげだ。
 幼いながらに役目を与えられ、同世代の仲間もいない。貴族として深窓で育てられたアティにも、シウアンの心境には心当たりがあった。
 自由が欲しい。
 思うがまま、世界を見、聞き、学びたい。
 今、条件付きながら解放された身のアティには、まるで後ろを振り返ったところにいる自分を見ているかのようだった。
「“巫女”って、具体的に何をしているのです?」
 アティの問いに、シウアンが口を開く。
「えっとね―――」
「巫女よ。その者らの問いに答える必要などありません」
 冷たく降った声に、ピルグリムとシウアンは驚き見上げる。
「ウーファン!」


 息を弾ませ、番傘の日陰に立ち入ってきたウーファンは、シウアンの袂に辿り着くと、キッとピルグリムを睨みつけた。
「……巫女に何を吹き込んだかは知らぬが……よくぞぬけぬけと顔を見せたものだな」
「ウーファンっ」
 ウーファンの怒気に息を呑みながらも、アティは座したまま、ゆっくりと告げた。
「私たちは、シウアンの招待を受けて参上しました」
「詭弁を……」
「貴女が不在の時にご訪問してしまったのは偶然です。少しだけ、お話をさせていただきました。もしお気分を害されたならごめんなさい。でも本当に、少しだけです」
 立ち上がり、頭を下げるアティに、ウーファンは鼻白む。
 そしてシウアンとピルグリムを見比べるように視線を彷徨わせると、溜息を吐いた。
「……人間よ、貴様たちはかつてこの地で起こったことを知らぬと見える」
「はい」
 ウーファンの紫とも青ともつかない不思議な色の瞳が、アティを見た。
「貴様たちとて成果なしでは帰れぬだろう。……私が知る全てを語ってやる。さする後、この里を黙って立ち去れ」
「そんな……」
 異を唱えようとしたシウアンを、ウーファンで目を制す。
「巫女は沐浴のお時間でしょう。この者たちの相手は、私がいたします」
「ちょ、ちょっと……」
「誰か!」
 ウーファンが声を張り上げ、杖で地を叩くと、侍女らしきウロビトが数名入ってきた。そのまま、シウアンは連れて行かれる。
「ええっ!? う、ウーファン! ちょ……みんな、ごめんね!」
「シウアン……」
 ずるずると引きずられるように姿を消したシウアン。
 アティは鉄面皮のウーファンを真っ向から見据えた。
 ウーファンは、シウアンの前だったからか―――僅かばかりに残っていた、柔らかさを捨てきった、凍るような目つきでアティを睨みつけている。
「……どうして巫女は貴様たちなどに心を開くのだ……」
「この里には、あの子以外に人間はいないとお聞きしました」
 アティの言葉に、ウーファンは眦を吊り上げる。
「そうだ。何故いないかを教えてやろう。……貴様ら人間は、己が手で創造した我々を見捨て、この地から逃げ出したからだ!」
 息を呑むアティ。
 “瘴気の森”でウーファンたちに助けられたとき、彼女は「創造主への敬念ゆえ」と言っていたことを思い出す。
 ウーファンの話は続く。―――何百年も、何千年も昔。かつて人間たちは、世界樹の麓に住んでいたという。そして世界樹の世話をするため生み出された存在のひとつこそ、ウロビトなのだと。世界樹がもたらす豊かな恩恵を受け、人々は共に平穏に暮らしていた。
 しかし、世界樹を覆い隠すような脅威―――“巨人”があるとき現れる。世界樹の恵みもまた消え去り、多くのいのちが失われた。
 ウロビトは他の造られたいのちと共に、巨人を打ち倒した。
 だが、巨人を恐れた人間たちは、戦わずして世界樹の大地を捨て、創造物たるウロビトたちを捨て、逃げ出していた―――
「……貴女達ウロビトが、私たちをどう見ているのか。それは理解しました」
 里に入った当時から今に至るまで、拭えない不審と警戒に満ちた目。それは、一度逃げ出した人間たちが、戻ってきたことに対する驚きの発露なのだろう。
「でも何故、シウアンがここにいるのですか?」
 アティの問いに、ウーファンは忌々しげに答える。
「巫女は貴様らとは違う。世界樹の声を聞き、その神託を我らに与えてくださる唯一の人間だ」
「けれど―――」
「その巫女を、ホロウの手から守ってくれたことには礼を言おう。これを」
 ウーファンは手にしていた巻物を、アティの手に無理矢理受け取らせる。
「―――だが、我々は我々を見捨てた、貴様たちの祖先を許すことは出来ない。貴様たちがどういった目的で、再びこの地に足を踏み入れたのかを理解するつもりもない。分かったなら……立ち去り、二度とこの里に足を踏み入れるな」
「そんな……少しだけでいいんです。話を聞いて下さい! 貴女にも、シウアンにも。私たちに、貴方達を脅かすつもりはありません!」
 そう告げたアティだったが、ウーファンはいよいよ青白い顔を怒りに歪めた。
「そうはいくか。人間の好きにはさせん!」
 どんと錫杖が地を突いた。
 その瞬間―――赤い光が紋様を描くように地を走り、アティたちの足元を貫いた。
 途端、身体の自由を失って、アティは膝をつく。
「な……」
「っ」
 立ち上がろうとしていた仲間たちも同じように、まるで見えない何かに上から押し潰されるかのような重圧に耐えている。
 ただ一人立つウーファンは、つんと五人を見下して告げた。
「巫女は渡さぬ。我らと共に生きることこそ、巫女の幸せなのだ。―――客人のお帰りだ!」
 声に応じるように、ウロビトの兵がやってくる。里に入るとき没収された武器を無理矢理装備させられ、動けぬまま引きずられるように、アティたちは里の出入口の門へと連れて行かれる。
「っ、離せ!」
「うおっ」
 腕を振り回して、エリザベスがウロビト兵に抵抗する。それを見ていたウーファンが彼女を睨みつけると、エリザベスは無表情で卒倒した。
「べ、ベスっ!」
「ふん。伊達に五人だけで、森の外をうろついているだけはあるか」
 ウーファンの呆れたような感心したような声が背後から聞こえるが、振り返ることすらままならない。
 何かの術なのだろうか。見当がつかない。混乱するうちにピルグリムは、門の外に五人まとめて放りだされる。
「ぶわっ」
「いたたた……」
 鈍く重たい音がして、目の前で門が閉ざされる。
 頭を抑えながら立ち上がり、アティははたと気づいた。
「あら? 身体が動くようになっていますね!」
「いつつ……ったく、お客だったっての、こっちは!」
 エリザベスが叫んだと同時に、門の内側からどんどんと叩く音がした。
「ごめんね、大丈夫!?」
 くぐもって聞こえてくる声は、聞き覚えのあるものだ。
「シウアン?」
「ああ……何てこと、するの。ひどいよ。ごめんね、ごめんね……」
 シウアンと思しき声は今にも泣きそうだ。アティは門まで近づいていく。
「こちらこそ、折角おもてなしをしていただいたのにごめんなさい」
 出た声は、精一杯張り上げたつもりだったのに、震えていた。
「ウーファン! ……」
 こちらの声は聞こえていないらしい。
 悲鳴のような甲高い抗議をしながら、シウアンの声が遠ざかっていく。
 やがて静かになる。取り残されたピルグリムは、各々溜息を吐いた。
「……アティちゃん、どうする?」
「どうしましょう……」
 ウーファンの言うことが本当なら、裏切られたと感じているウロビトたちの、人間への不信感は相当根深いものだろう。彼らにとって大切な巫女のいのちを、なりゆきとはいえ助けたピルグリムですらこの仕打ちを受けるのだ。
 かといって、今この場で知ったことを秘密にしておくことは出来ない。いずれはピルグリム以外の冒険者も、この里に辿りつくだろうからだ。
「一度引き返して、統治院へ行こう」
 そう提案したのはマオだった。
「―――冒険者がこの地に派遣されているのはタルシス領主の意向だ。彼の判断を仰ぐべきだろう」
「そ、うですね。そうしましょう」
「じゃ、樹海磁軸にまで戻るかー」
 各々の武器を拾い、ぞろぞろと来た道を引き返していくピルグリム。その後を追おうとのろのろ歩き出すアティに、マオが声をかけてくる。
「……大丈夫か?」
「な……何がです?」
 笑顔で応じても、マオは無表情だ。
「あんたはこういう場面に慣れていないだろうと思ってな」
「ど、どういう意味ですか」
「心を砕いて、誠意を持って対応したのに。ああまで手酷く突っぱねられたなんてこと、そんなにないだろ?」
 アティは言葉に詰まる。
 何と答えていいのか分からずに、黙って俯いてしまったアティの頭に、大きな手が触れる。
「ここまで来たのも、別にあんたのせいじゃないさ」
「……はい」
「さあ、戻ろう」
 ぐりぐりと乱暴に撫ぜられて、涙が出そうだった。

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第8話

「なるほど……そんなことが」
 マルク統治院にて、ピルグリムの報告を聞いた領主は、興奮を隠せぬ様子で言葉を漏らした。
 アティたちは、ウロビトの里で得た情報を全て、隠すことなく伝えた。一方で、ウーファンが語った、世界樹と人間、そしてウロビトたちを含む『歴史』については、タルシス領主ですら預かり知れぬ内容だったようだ。
 彼は真剣な顔で髭をさすると、こう告げてきた。
「……明日の朝、もう一度ここに来てくれまいか」
「と仰いますのは?」
「現状ではわからぬことが多すぎる。それを打破するために、当事者であるきみたちの力を借りたい。……任務を授けよう」
 だがその前に、時間が欲しい、と領主は続けた。
「私の方でも準備が必要だ」


―――そして翌日。
 領主から授けられた親書を手に、ピルグリムは再び、ウロビトの里を目指して鬱蒼とした森の中を進んでいた。
「大丈夫でしょうか……」
 アティたちは親書に書かれた内容を知らない。領主から受けた任務は、ただこれを、巫女に手渡すというだけだ。冒険者を信頼していないからではなく、親書を読んだ巫女―――ひいてはウロビトたちからの非難を、自分たちが浴びないようにという配慮からであることを、アティは理解している。
 だから不安に思うのは別のことだ。
 日もあけず訪ねてくる冒険者を、ウロビトたちはきっと良いように思わないだろう。
 親書を渡すどころか、門すら開かれない可能性が高いのでは―――アティの心配を、マオがかぶりを振って否定する。
「いくらウロビトでも、こちら側のトップの言葉を門前払いはしないさ」
「で、でも……」
「彼らは自分たちの生活を、脅かされることを恐れている。逆に言えば、それを守るためには対話が必要なことも分かっているのさ」
 目をぱちくりとしたアティに、エリザベスが呆れたように追討した。
「仮にタルシスと戦争になったら、困るのはウロビトってこと」
「戦争なんて!」
 悲鳴と同時に飛び上がったアティ。遠くで鳥が羽ばたいていく音が聞こえた。
「―――せ、戦争なんて、あの領主様は……」
「そりゃ、うちに戦意なんてないさ。でも、そんなことウロビトには分かんないだろ? そもそも、今更になって『人』が来るなんて思っていなかった裏返しが、昨日の混乱さ。だから、冷静な話し合いの機会は必ず持たれるよ。大丈夫」
「そ……そうですね」
 アティの頭に浮かぶのは、怒りと憎しみに燃えるウーファンの瞳だ。
 彼女だけではない。ウロビトの不思議な色を帯びた幾対もの目が、蔑み、批判、怯えを―――アティたちに訴えかける。
「……アティ?」
「わっ」
 目の前で振られた手に驚く。エリザベスが怪訝そうに、
「樹海の中でぼんやりするんじゃないよ?」
「は、はい。すみません!」
 なんとか口角を上げて応じる。
 やがて見えてきた木製の門に、アティはごくりと息をのむ。
「……なんか、様子、おかしくねえ?」
 ドミニクはそう呟くや否や、門番を警戒して隠れていた下生えから一人飛び出し、門へと近づいていく。
「―――おい、来てみろよ!」
 止める間もなく風のように門に触れた彼の呼び声に、アティはエリザベスと顔を見合わせた。
 門番がいない。どころか、門が半開きになっている。
「中に入れるんじゃ?」
「い……いいんでしょうか? 断りもなく……」
「断る相手がいないんじゃ、仕方ねえもんよ。行こうぜ!」
 先走って門の中に入っていったドミニクの姿が見えなくなった途端、「いてっ」という彼の声が聞こえた。
「ど、ドミニク!」
「言わんこっちゃない」
 とはいえ見捨てるわけにもいかず、慌ててウロビトの里の中に踏み込んだアティは―――目を丸くした。
 尻餅をついたドミニクが、唖然と見上げていたのは、ワールウィンドだったからだ。
「どうしてこんなところに!?」
「そりゃ君、俺も冒険者だからねえ」
 のんびりと答え、ワールウィンドはゆっくりと周辺を見渡した。
 ドミニクは彼にぶつかっただけだったらしい。助け起こしながらワールウィンドの視線を追って、里の中が酷く荒らされた後であることに気づく。
 傷ついて蹲る若いウロビトたち。なぎ倒された柱や木、穴の開いた地面を言葉もなく睥睨するピルグリムをよそに、変わらない口調でワールウィンドは続けた。
「どうも、この里の『巫女』という存在がさらわれたらしい」
「シウアンが?」
 ほうシウアンというのか、とワールウィンドは場違いに暢気だ。
「地下に巣くうホロウという化け物が、彼女を里から無理に連れ去ったそうだ」
「そ、それってどういうことですか?」
「うん? 小さいホロウは君たちも見たことあるんじゃないか」
「そうじゃなくて、なんでアンタがそんなことまで知っているのって訊きたいの」
 胡乱に言ったエリザベスに、ワールウィンドは目をぱちくりすると、肩をすくめた。
「混乱に乗じて、里の中をウロウロしていたのさ。俺みたいな不審人物にすら、誰も注意を払わない。おかげで盗み聞きし放題だったよ」
 彼の言葉通り、前回手ひどく追い出されたはずのピルグリムすら、里の中にいることを咎める者は誰もいない。
 里は今は疲れ果てたように、静まり返っている。
「いい加減にしろ!」
 その静寂を裂いて、里に響き渡った甲高い声は、ピルグリムが知ったものだった。
 建物の一つから転がり出るように、ウーファンが現れる。追ってくる人々を振り払い、彼女は敢然と叫んだ。
「巫女の神託にどれ程助けられたか忘れたのか! 私は行くぞ!」
「お待ちなさい、ウーファン! 長老会議の結果を―――」
「そんなもの、待っていられるか!」
 叩きつけるように唾棄すると、ウーファンは足早に、緑深くなっていく里の奥へと消えていった。
「里の奥に、さらに地下に続く階段があるらしいね」
 アティのそばで、そっとワールウィンドが囁く。
「―――巫女をさらったホロウの親玉は、あの先だ」
 ウーファンが消えていった闇を、ワールウィンドの手袋が指し示した。
 アティははっと、彼を振り返る。
 ワールウィンドはまた、どうでも良さそうに肩をすくめてみせる。
「君たちは、巫女に用事があるんじゃないのかい」
「何故それを……」
「顔を見れば分かるさ」
 ワールウィンドは「俺はもう少し里を見てくるよ」と言い置いて立ち去る。
 アティは仲間を振り返った。
「どうしましょう……」
「どうするもこうするも」
「ワーさんがお見通しだったみたいに、親書は『巫女』に渡さなきゃ、なんだろ?」
 ドミニクは頭の後ろで腕を組んだ。
「―――なら、探すっきゃねえよなあ」
「だねえ」
「どのみち、シウアンちゃんのこと、心配じゃね?」
「心配です!」
 拳を握ったアティに、ドミニクはにっと笑う。
「迎えに行ってやろうぜ」


 『深霧ノ幽谷』地下二階は、仄かに発光する森の青が、より鬱蒼とのしかかるような空気を生み出している。
 ウロビトが暮らす地下一階ほど、森の手入れがされていない、という印象を受けた。苔生した地面には水が溜まり、先を急ぐアティたちの足を取る。
 ぽつりぽつりと、下生えに身を潜める、傷ついたウロビトたちを見かけた。彼らの中には、ウーファンに先立って巫女を捜索していた者も、元々この森の警護を担当していた者もいた。できる限りの手助けをするピルグリムに、情報をくれる者も。
「ホロウは巫女様を森の奥深くに連れ去った。ホロウクイーンの胸に抱かれた巫女様は、眠っておられるようだった」
「こんなことは初めてだ。ホロウは我々に関心がない。巫女様を傷つけるようなことを、したこともない。ただ、ホロウの幻術に惑わされた者は、二度と深き霧の迷い道から戻れぬと聞く」
「巫女様は……巫女様は変わられた。物静かで、忍耐強く、凛とされていた巫女様が……今はまるでただの子供のように、駄々をこねておられた。お前たちが次に訪れたら、きちんと歓迎するようにと」
 ウロビトたちの抑揚のない声に綴られる言葉は、しかし偽りの混じらぬものばかりだろう。
「ウロビトってさ、まるで自分たちは人形ですって顔をしているくせに、全然そんなことないのな。シウアンちゃん助けるのにしても、一枚岩じゃねえみたいだし」
 何人目かのウロビトと別れた後、ふとドミニクがそんなことを言う。
「保守的なのさ。あまりに変わらなさすぎて、不測の事態になったら総崩れ」
 エリザベスの口ぶりに、ドミニクは苦笑いする。
「辛辣ぅ~」
「ウロビトにとっては大事なんじゃないのかね? 巫女様は。ねえアティ」
 隣を歩くアティが反応しないので、エリザベスはその顔をのぞき込む。
「―――アティ?」
「……えっ、あっ、はい! な、なんでしょう?」
 浮かんだ作り笑いを無視して、エリザベスは己の籠手を外すと、遠慮なくアティの前髪の下に素手を突っ込んだ。
「あひゃっ!?」
「熱はないね」
「な、何ですか、ベス!」
 非難の声を上げるアティから手を離し、エリザベスはびしと人差し指を突きつける。
「ここは樹海! 言ってるっしょさっきから、ぼ・うっ・と・すんなって!」
「う……ご、ごめんなさい」
「調子悪いなら帰るよ」
「だ、いじょうぶですっ」
「まーまー、エリザベスちゃん」
 ドミニクが二人の間に入る。
「―――アティちゃんがなんか思い詰めてるのなんて、今に始まったことじゃねえって」
「ウッ」
「アンタだって結構辛辣よね」
「そ、そう?」
 エリザベスにまでそう言われ、ドミニクは目をぱちくりとする。
「―――お、おいらはアティちゃんの味方だぜ?」
「ありがとうございます、ドミニク……いいえ、私が悪いんです。集中し切れていなくて」
「おおかた、ウーファンのことだろう?」
 それまで黙っていたマオの言葉に、アティは息をのむ。
 数歩先を歩いていた彼は、それに気づいたかのように振り返った。青白い森の明かりが、横顔を照らす。
「―――言ったろう。ここまで来たのも、別にあんたのせいじゃない」
「はい……」
 里を飛び出していったウーファンの姿が、アティの目に焼き付いている。
 あんなに巫女を想っている彼女に、余計な迷惑をかけた。シウアンは、アティたちと出会って突然変わったという。停滞し、ひっそりと暮らしていたウロビトたちの静かな生活に一石を投じてしまったのは、紛れもなく自分たちだ。
「私、知らない土地を旅するのは、約束された驚きに満ちた宝箱を開けるようなものだとばかり、思っていたんです」
 ウロビトの、冷ややかな視線。
「―――でも、ここでは私たち、侵略者なんですね……」
 その事実は、冷たさの降りる森の底に、虚ろに響いた。
「ま……今は、そんなこと言ってる場合じゃねえけど、なっ!」
 言葉尻を切り捨てて、ドミニクが矢を放った。
 いつの間に番えていたのか、射られたそれはアティの視線の先の草藪を撃った。
 ―――草藪が、陽炎のように揺らいだ。
 何もなかった空間から、ホロウの姿が出現する。
 かしずくような姿勢の魔物の透明な裾を、ドミニクの矢が地に縫い付けている。反射的に剣を抜き、構えていたアティは、その姿を目視すると地を蹴った。
「はっ!」
 叩きつけるように、刃を振り下ろす。
 それに呼応するように、仲間たちが次々と加勢に入る。猛攻を受けたホロウは瞬く間に、断末魔を残してかき消えた。
「はぁ、びっくりしました」
「その割に容赦なくボコってたけどね」
 スンと鼻を鳴らし、エリザベスは言った。
「―――真面目にやれるんなら、文句はないさ」
「あ……はい!」
「それとこれとは別ってね―――まだ来るよ!」
 アティとエリザベスの間を裂くかのように、ホロウの武器―――ウーファンたちが持っていた『錫杖』に似た―――が空間を貫く。
 アティは敵の手元とおぼしき部位を狙って斬りつけたが、あえなく剣は素通りしていった。悔いる間もなく、再び顕現した錫杖が、アティの顔面を狙う。
「うっく」
 すんでの所でかわすと、逆に相手の武器を、腕と剣の柄を使って挟み込んだ。体を捻ると、武器を奪われまいとしたのか、ホロウの姿がくっきりと現れる。
 アティは片脚を軸に、もう片脚を振り上げた。
「てや!」
 思い切りホロウを蹴り上げる。
 腹を狙ったはずだったが、まるで底のない泥に踏み込んだような感触が、蹴足を襲う。冷気の塊に包み込まれたような感覚のまま、しかしアティは地面に足を―――絡め取ったままだったホロウを、叩きつけた。転がるホロウ。その、紫色に浮かび上がった背中の文様めがけ、剣を突き下ろす。
「―――」
 声もなくホロウが霧散する。
「っ、ぐう!」
 ほぼ同時に背中に鋭い痛みが走る。
「アティ!」
 マオの声が響く。痛みの次に襲ってきた冷たさを振り払うように体ごと反転すると、杖を向けていたホロウが、闇に溶けていくところだった。
「させるか!」
 ドミニクが射った矢が、ホロウをその場に留まらせる。
 刹那、ニーナが放った炎が直撃する。火柱となった仲間をものともしない様子で、数体のホロウが闇から姿を現した。
「くそ、きりがないね」
「おいらもそろそろ弾切れだよ~」
 ホロウの足を封じる矢は、特殊な繊維を漉いた羽に、術式を込めたものだ。たとえ矢は回収できても、術式を再装填しなければ使えないため、戦闘中はほとんど使い切りになる。
「アティ、治療を」
 蹲るアティの脇に手を伸ばすマオを、アティはやんわりと制した。
「戦いのさなかに、鎧を脱ぐわけには……いきません」
「だが―――」
「うおっ」
 ホロウの術式に弾き飛ばされたニーナを、ドミニクが両手で受け止める。
 じりじりと、五人は包囲されつつあった。ホロウは無尽蔵に沸いてくる。
「くっそー……」
「一時退却しよう、アティ」
「で、でも……」
 アリアドネの糸はあるが、ここまで辿り着いておきながら、
という思いが戸惑わせた。
 しかし、仲間たちを見渡すと、傷の大小はあれど、みな似たり寄ったりの疲れ具合だ。
 気絶したニーナを足下に庇いながら、アティは小さく頷いた。
 道具袋に手を伸ばした矢先―――ニーナがむくりと起き上がる。
「あうっ」
 彼女が甲高く吠えた刹那、薄暗闇が消し飛ぶほどのまばゆさが目を灼いた。
「なっ」
 光は複雑な模様を描いて、地面に宿る。
 その瞬間、光の中に数体のホロウが浮かび上がった。隠れる場所を失ったかのように、揺らめくホロウたち。魔物の群れの向こう側に、錫杖を掲げる細い立ち姿を見つけ、アティはその名を呼んだ。
「ウーファンさん!」
 聞こえたはずだが、女は応じない。
 睨みつけるような目つきのまま、光の刻印―――方陣というらしい、術式を維持し続けている。
 何人かのウロビトとすれ違ったが、ウーファンはそのうちでも別格の術者であるらしいことは、この一瞬だけでアティは理解した。敵味方入り乱れる戦場でありながら、ウーファンはホロウだけの足を封じ続けている。アティたちは光に驚きこそしたが、自由の身だ。
「ニーナ、術式を!」
「うー!」
 アティの指示に応じ、声を上げたニーナの杖が青白く輝く。
 振り下ろしたそれから放たれた炎が、蛇のようにホロウたちに襲いかかった。一面、広がった朱にホロウが飲み込まれていく。
 アティは立ち上がると、ニーナの術式で倒しきれなかった一体に躍りかかった。
「やあ!」
 一撃で消滅するホロウ。
 ピルグリムの仲間たちが掃滅戦を行う最中、方陣の光はどんどん薄まっていった。いち早くそのことに気づいたアティは、膝をついたウーファンに駆け寄っていく。
「ウーファンさ―――」
 だが、ウーファンは錫杖を振り上げた。
 アティを警戒するように掲げられた武器と、その向こうに見える切れ長の瞳。
 アティは怯んだ。
―――自分たちは、侵略者だ。
 その言葉が脳裏をよぎる。
 だが、ウーファンの体がぐらりと揺らいだのを見て、反射的に腕を伸ばす。
「ウーファンさん!」
 驚くほど細く軽い身体を受け止める。ウーファンは顔を上げたが、その目に先程の力はなかった。
 アティは意を決して、その脚に腕を通して、横抱きに持ち上げる。
「な!?」
「大人しくしていてください!」
 ほとんど終息しつつある戦場を横切り、アティはマオのもとへ辿り着く。
 珍しく目を丸くしていたマオの前でウーファンを下ろすと、アティは頷いてみせた。
「後はお願いします、マオ」
「こ、こら、アティ!」
 きみの治療が先だ、と叫ぶ声を無視して、アティは再び戦場へと身を投じた。


 ウーファンにはほとんど怪我らしい怪我はなかったが、疲労の色は濃い。
「大丈夫ですか?」
 勿論それはピルグリムも同じ事だ。ホロウを一掃した彼らは、マオの治療を受けながら休息を取っていた。
 意識がはっきりしないようだったウーファンも、徐々に顔色が良くなってきた。
「貴様ら……」
 首をもたげたウーファンに、アティが笑顔を返せば、彼女はぐったりと再びこうべを垂れた。
「助けてくださって、ありがとうございました」
「……その点はお互い様だ。これで、周辺にいたホロウは一掃されただろう。しばらくは安全のはずだ。今のうちに……」
「先に進まないと、って? まだマシになった、って程度の顔色だよ。もう少し休みな」
 エリザベスが手渡してくれたマグカップを受け取り、アティはウーファンに差し出した。訝しむような目が見上げてくるのを、
「エンドウ豆のスープです。マオの手作りなんですよ」
 ウーファンはゆっくりと、青い唇をマグカップにつけた。
「……おいしい」
「でしょう?」
 自分が美味しいと思うものを、人にも美味しいと言ってもらえることは、嬉しいことだ。
 無防備なウーファンの横顔に、巫女の笑顔が重なる。
「……私もウロビトの里でいただいた果物、美味しかったと思いました」
 ハッと顔を上げたウーファンに、微笑み返す。
 アティの精一杯の勇気のつもりだったが―――伝わったのだろうか、ウーファンはゆるゆると唇を開いた。
「分かっていたのだ。……何故貴様たちに対し冷静でいられなかったなど。私はただ貴様たちに、嫉妬していただけなのだ」
 顔をそらし、ウーファンは苦々しく告げる。
「―――貴様たちに心を開く巫女を見て、必要以上に巫女としての振る舞いを求めすぎてしまった。この惨状はその報いだ。私の醜い嫉妬の発露で、傷ついた巫女の心の乱れが、この森深くに潜むホロウを呼び寄せた」
「ウーファンさん……」
「……貴様たちは私を都合のいい女だと思うだろうが、頼みがある」
 ウーファンは力なく立ち上がると、マグカップを置いた地面に這いつくばった。
「―――事が済んだ後、私に出来ることなら何でもしよう。だから……巫女を助けてくれないか」
「頭を上げてください、ウーファンさん」
 アティはそっとウロビトの細い肩に手を置いた。
「―――私たちは最初から、そのつもりです。……それは、彼女が『巫女』だからではありません。ウーファンさんだって、そうでしょう?」
 そして、空いた片手をウーファンに差し伸べる。
「一緒にシウアンを助けにいきましょう、ウーファンさん。シウアンだってきっと、ウーファンさんを待っているはずです」
「シウアンが……」
 ウーファンは一瞬躊躇うように目を伏せる。
 だが、すぐに力のこもった眼差しがアティを見た。
「分かった。私も共に行こう」


 ウーファンとアティのやりとりを、遠巻きに、しかし目をそらさず見守り続けるマオの肩を、エリザベスは小突いてやった。
 案の定、咎めるような視線が振り向くが、肩を竦めて返す。
「警戒しすぎだってのさ。気になるなら、もっとそばで威圧感放ってなよ」
「別に……」
「殺気がダダ漏れだぜ、先生」
 軽食を摂っていたドミニクまでも、ニーナの口元を拭きながらそう言うので、いよいよマオの眉が寄る。
「―――ま、気持ちは分からねえでもないけど。アティちゃんはホント、良い子だな」
「お花畑っつうのよ、ああいうのは」
 だが、どうにも世間に擦れておらず、真っ直ぐなのは、ウーファンも同じのようだ。
 案外、アティとウーファンは気が合うかもしれない。
「で、ホントにあの女を連れて行くの?」
「何故俺に訊く?」
 問い返してきたマオに、エリザベスは胡乱な目を向けた。
「―――リーダーはアティだ。アティが連れて行くと決めたなら、そうなんだろうな」
「あんた、こういうときに真っ先に反対するじゃない」
「反対する必要があればの話だ。なりゆきとはいえ、ウロビトに恩を売っておくのは悪くない」
「恩を売る、ときたか~……先生」
「何だ」
「いいや、なんか先生とアティちゃんって対照的だよな。あ、良い意味でね」
「皆さん!」
 ウーファンとの話が済んだ様子で、アティが仲間たちの輪のもとに近づいてくる。これからの戦略を話し合うためだろう。
 彼女に続くウーファンの表情は、いつものような鉄面皮に戻っている。だが、まとう雰囲気は少しだけ柔らかい気がした。

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第9話

 さて、その頃のタルシスはと言えば。
 長らく謎であった北の険しい山脈を越えた先に、人間とは異なる姿をした―――いわゆる『亜人』が存在したという知らせが、街中を騒然とさせていた。
 曰く、身の丈が人の倍はあり、木のように細く白い体躯を持ったものであるとか。曰く、影のように神出鬼没で、人に悪意を持って襲いかかってくるものであるとか。曰く、それに恐れをなしたタルシス領主が、亜人の長に仲裁の伝令を走らせたとか―――噂話の枚挙に暇がない。
 そのひとつひとつの真偽を確かめるつもりはない。ただひとつ、領主が使いをやったということだけは、真実であるようだった。
 集合場所とした、汚い場末の酒場で受けた、リップルからの報告に、カナンは鷹揚に頷く。
「よし。それだけ分かれば十分だ」
 にこにこと機嫌良い褐色肌の幼い笑顔に、金髪のツインテールが応じるように揺れる。
「うふふ、館で働いている女中さんが、お使いギルドの名前も教えてくれたから、裏付けもばっちり!」
「そうか」
「……むう」
 言葉少なに応じるカナンに、リップルはどこか不満げだ。
「何だ? 何か言いたげだな」
「むー……ボクの情報収集、カンペキだったでしょ?」
「まあ……それなりにはな」
 リップルは頬を膨らませて、身を乗り出してきた。
「だったらちゃんと、褒めてもらわないと!」
「……褒める?」
 こくこくと頷くリップル。
「私が、きみをか?」
「そう!」
 ずい、と、綺麗に髪を分けた頭頂部を差し出してくるリップル。撫でろ、ということらしい。
 なんともいえない気分のまま、そっとそれを二、三回撫でてやれば、顔が崩れたような笑みをリップルが浮かべた。
「むっふっふ」
「よく分からん……」
「カナンちゃんたら、釣った魚には餌をやらないタイプ? ボクはやっぱりちょっとしたことでも、褒めてもらえると嬉しいなあ~なんて」
「きみを釣った覚えはないが」
「いいもん、そのうちボクがいないと生きていけないようにしてあげるから! ボクはカナンちゃんをサポートしてあげるけど、やっぱ夫婦っていうのは対等にお互い支え合うものじゃない?」
「夫婦ではない。だいいち、私は女だしそういう嗜好もないと何度言ったら―――」
 不毛な言い合いのうちに、酒場の出入り口の扉が開く。入ってきた人影を見て、カナンは立ち上がった。
「仕事だ」


 カナンと組むようになってから、何だかんだと彼女は良く、リップルに仕事を振ってくれるようになった。
 カナンの仕事は分かりやすい。冒険者ギルドが存在するこの街において、あえてそれに所属せず、ギルドに依頼できない厄介事を引き受ける『冒険者』だ。勿論、非合法である。
 剣呑な雰囲気とは裏腹に、カナンは表立って血生臭い仕事には関わらない主義のようだ。彼女の技術は戦士というよりは明らかに―――人に向いた殺意を、間接的に具現化するようなそれだというのに。
 いや、どういった経緯があるのかは知らないが、リップルは彼女があえて今の仕事に甘んじている風なのを、好ましく思っていた。
 タルシスで冒険者まがいの仕事をやる上で、最もネックとなるのが、気球艇の存在だ。気球艇で、北の山壁を越える許しを得ているのは公認の冒険者だけで、それ以外はタルシスの住民ですら、おいそれと亜人の住むという第二大地に降り立つことはままならない。
 だから今こうやって―――依頼人が用意した気球艇に乗り、魔物の巣を目指しているのもよくあることなのだ。
(そーれにしたってぇ……)
 甲板で風に煽られながら、リップルは操縦室の窓を振り返った。
 依頼主はどこぞの騎士であるらしい。印術師の少女を連れていて、年端もいかぬその子はなんと、彼の相棒として共に派遣された身なのだという。
 その少女が今、リップルの隣で、リップルと同じようにため息をついている。騎士とカナンが仕事の話をするというので、気を利かせて出てきたリップルに、ついてきた形だ。
 名はグウェインというらしい。女の子にしては珍しく短く切った青い前髪から、青い切れ長の瞳が―――リップルを見上げている。
「うう……」
 なんだか根負けした気がして、リップルは口を開いた。
「ええと……な、何かご用ぅ……?」
「あなた、タロットよね?」
 単刀直入に響いた涼やかな声に、リップルは困り顔のまま頷いた。
 タロットは褐色肌に金髪を持つ。流れの一族ながら、その特徴故にタロットだと見破られやすい。
 操縦室を振り返り、リップルは言った。
「えっと……パーシヴァルさん、だっけ。あなたのお連れさんも、そうよね」
 依頼主である騎士もまた、褐色肌に金髪というタロットの特徴を兼ね備えている。
 ところが―――それを指摘した瞬間、グウェインの顔が、少女にあるまじき表情を浮かべた。
「ええ、そうよ。ホント、吐き気がする」
 どすりと、リップルの胸に特大の刃物が突き刺さったような気分だった。
 旅先で結婚相手を見つけるタロットは、地方によってはそれはもうこれでもかと言わんばかりに迫害されている。男は乱暴者、女はふしだらだというのが、世間の通説だ。
 グウェインは親の仇でも見るような目になっていた。
「―――あんな男と組まされるだけでも最低な気分だったのに、こんな鬱屈な樹海の上を、臭いガスを嗅がされながら飛ぶなんて、もう最悪よ。その上、同行者までタロットだなんて」
「ううう……」
 暴言を吐かれることは慣れているが、面と向かって悪口を聞かされるのは気が滅入る。
「タロットの女は破廉恥っていうのは本当だったのね」
 ギロリと音がするような視線が、リップルの薄い衣服を貫くように睥睨する。
「こ、こ、これは……ボク、踊り子(ダンサー)だから―――」
「その姿で踊って、男を誘惑するためなんでしょう? ああ、汚らわしい。娼館の商売女だって、もう少しマシな身なりだわ」
「ううう」
「グウェイン」
 そのとき、操縦室の出入り口が開いた。
 パーシヴァルが顔を覗かせている。
「―――話は済んだ。冷えてきただろうし、リップルさんも一緒に中に入ってくれ」
「ああ、やだ、やだ。追い出されたと思ったら今度は入れ? 言われなくたってそうするわよ!」
 パーシヴァルが扉を開けたまま保持していた出入り口を、グウェインはつかつかと入っていく。
 入れ替わりにカナンが出てきた。動かないままだったリップルを置いて、パタンと閉じた扉に、リップルは深々とため息をつく。
「? どうした」
 やつれた顔をしていたリップルを珍しがってか、カナンが首を傾いだ。
「カナンちゃん……パーシヴァルさんって、野獣みたいだったり乱暴者だったりした?」
「いいや。騎士らしく、立ち居振る舞いは礼儀正しいし、至って丁寧な態度だったが」
「だよねえ……」
 ぐでり、とリップルは湿り切った洗濯物のように、手摺りに寄りかかった。
 あんなあからさまな態度で接されたら、パーシヴァルもたまったものではないだろう。リップルは特にタロットである自分を嫌だと思ったことはないが、一方的に嫌われていることを表にされると、傷つくものは傷つく。


 気球艇で辿り着いた小迷宮は、大地全体の雰囲気に違わず、苔のような緑に覆われた森だった。
 だが一方で、森全体が脈打つ生き物であるような不気味さを湛えている。一歩足を踏み入れた途端に漂ってきた、呼吸のように生ぬるく緩やかな風にうなじを撫でられ、リップルは身震いをする。
「ヒエッ……」
 思わず首筋を手で覆う。振り返ると、ばちんと音がするかのように、パーシヴァルと目が合った。
「えへへ」
 誤魔化すように笑えば、口角を上げるだけの笑みが返ってくる。
 不愛想だが、カナンの言っていた通り、紳士的な人物であるようだ。
 意を決して、リップルは口を開いた。
「その、失礼な質問だとは思うんですけど……パーシヴァルさんってタロットなのに……騎士なんですか?」
 パーシヴァルは目を瞬く。
「あ、いえ、その、いきなりですみません!」
「いや……」
 彼はそのまま目元を緩めた。
「よく言われるから。生粋のタロットの人も、そう思うんだな」
「生粋?」
「私はタロットの母を持つが、私自身はタロットではないんだ。今仕える主が治める街で生まれ育った」
 次は、リップルが瞬く番だった。
 総じてタロットというのは小柄で身軽な一族だ。パーシヴァルのように身の丈があって、屈強な男性を、里で見たことがないくらいには。
 タロットは旅先で結婚し、里に帰る。だがまれに、そうしない者もいるということだ―――様々な理由で。
「そうだったんですね。……すみません、興味本位で変なことを訊いちゃって」
「かまわないよ。私も、実のところタロットの人と話をするのは初めてなんだ。母は私を生んですぐ亡くなったし」
「それは……大変でしたね」
「興味はあったんだけどね。タロットという民族に」
 遠い目をするパーシヴァルに、リップルは拳を握る。
「ボクで良ければ、タロットが本当はどんな人たちか、ぜひ説明させてください!」
 鼻息が荒くなっている自覚はあったが、リップルは前のめりになるのを抑えきれなかった。
「―――外見だけでタロットだって言われるの、嫌かもしれない……でも、ボクはタロットだからって、嫌だと思ったことはないんです。だから、ちょっとでもその気持ちを分かってもらえたらって……」
 ちらと窺ったパーシヴァルは、優しく微笑んでいた。
「大丈夫。私は幸いなことに、この外見でそれほど酷い目にあったことはないんだ。どちらかといえば、自分の源流を知りたいという意味での興味かな。だから、ぜひ色々と教えてほしい」
「本当!?」
 顔を上げたリップル―――だったが、パーシヴァルとの間に、ずいと印術師の杖が差し出される。
「ちょっと、何ぐずぐずしているのよ。さっさと行くわよ」
 フンと鼻を鳴らし、グウェインがそっぽを向きながらそう言った。
「では、名残惜しいが話は後で」
「あ……はい」
 パーシヴァルはあっさりとグウェインの後ろをついていく。
 リップルの視線の先では、こけかけそうになるグウェインを、パーシヴァルが肩の上に抱え上げていた。
―――パーシヴァルは、タロットの出自ではない。
 ということは、彼を外見だけでタロットとみなし、グウェインはあのような辛辣な態度を取り続けているのだろう。
「でも、仕事の相棒を組むくらいなんだもの。タロットじゃないって、グウェインさんに説明しなかったのかな?」
「何をぶつぶつ言っている?」
 最後尾を進むリップルを、カナンが振り返る。
「な、何でもない」
 カナンは、グウェインのタロットたちに対する剣呑な態度には気付いているだろうが、興味がないようだった。婚約者(仮)としては、ちょっとくらい庇っていただきたいところだが、相手は一応依頼人だ。実害がないのだから、理不尽だとはいえ、ここはリップルがぐっと我慢するべきだろう。
「呆けるな。……誰かいる」
「えっ」
 パーシヴァル(とその肩に乗ったグウェイン)は既に歩を止めていた。
 何の変哲もない、苔生した倒木に、カナンが鋭い声を投げる。
「何者だ。出てこい」
 糸を張るような緊張感の中―――倒木の向こうに、ひょこんと白い房が立った。
 何かと思う間もなく、眉根を寄せた男の顔が、その下から現れる。
「な―――」
 リップルたちは誰もが絶句していた。
 現れた『彼』は、人とは思えないほどにやせ細った体躯をしていたからだ。木の肌を思わせるような肌の色、花糸のように白い髪、花弁のような服装―――樹海の中においては神秘的ですらある姿をした『彼』は、ゆっくりと唇を開いた。
「うわ、ニンゲン」
 見かけに反して、ずいぶん俗っぽい言い回しが飛び出す。
「―――わー、ニンゲンって久しぶりに見たねえ。どっから来たの? 北? それとももしかして、南?」
「……カナンどの、あれは?」
 『彼』の早口を無視して、パーシヴァルが『彼』を指さす。
「恐らく、冒険者に発見されたというこの大地の先住民だ。確か、ウロビトというらしいが―――」
「あー、そうそう。よく知ってるね! そこまで知っているってことは、もしや里の方が見つかっちゃったのかな? 侵略されてたり? うわー」
「……良くしゃべる奴だな」
「大人しくなさい」
 パーシヴァルを蹴るようにその肩から飛び降り、グウェインが印術師の杖をウロビトに向ける。
「―――あんたが口を開いて良いのは、こちらの質問に答えるときだけよ。あなた何者? ここで何をしていたの?」
「そっちこそ、何しに来たの? ここは言っておくけどロクな場所じゃないよ」
 ずい、と掲げた杖が更に前に突き出されたので、ウロビトは顔をしかめる。
「うへー、こわ……僕はシュメイ。お察しのとおりのウロビト、ただしはぐれ者。ここには研究のために」
「研究?」
「ビッグモスの巣があるんだ。見て」
 彼は手にしている長い杖で、手近な木の枝を押し上げた。
 ずろん、と人間の頭ほどはありそうな極彩色の丸い物体が、ぬるぬるとした液体に包まれて落ちてくる。
「うええあ」
「これは孵化しない卵だね。奥にびっしりある卵じゃないと、意味がない」
 喉を掻きむしりたくなりそうな気持ち悪さにリップルが駆られているところで、カナンが冷静にパーシヴァルを見た。
「きみたちが目的にしているのはあれか?」
「……のようだな」
「うえええ」
 パーシヴァルは比較的落ち着いているが、グウェインはげんなりと青い顔をしていた。
 リップルの視線に気付いた彼女は、こほんと咳払い一つ、杖を構えたままウロビト―――シュメイを睨みつける。
「その卵がある場所まで案内なさい」
「何をする気? ビッグモスはこの辺の森の生態系に深く関わっているんだ。もし卵を根絶やしになんかしたら―――」
「あなたに説明する義理はないわね」
 冷たく言い切ったグウェインに、飄々としていたシュメイの目つきが変わる。
「そう。なら―――」
「気をつけろ!」
 空気が変わったことを勘づいたカナンが警告するが、シュメイは躊躇わずに杖を地に突き刺した。
 投刃をしようとしたカナンの動きが―――ひたと止まる。
 光が、森の土に刻印するかのように広がっていた。魔法陣のようなそれの上に立つ、リップルたち四人は、指先一つ動かせない。
「待てっ」
 そのうちに、シュメイは闇深い森の奥底へと走り去ってしまった。
 さほど時間の立たぬうちに、光は消え、同時に動けるようになる。脱力して湿気た地面の上に膝をついたリップルは、パーシヴァルの低い声を遠くで聞いていた。
「警戒させるようなことを言う必要はなかったのではないか? 我々の目的は、蛾の卵を一つ拝借するだけだろう」
「なに? わたしが悪いって言いたいわけ?」
 グウェインが眉尻を上げる。パーシヴァルはそれを見て、
眉尻を下げた。
 言い争い―――グウェインが一方的に言い募っているだけだが―――が始まったので、リップルはカナンに質問の矛先を向ける。
「蛾の卵を取っていくだけなのに、わざわざカナンちゃんに頼んだの?」
「樹海で得たものは基本的に冒険者のものだが、領主の許可のなく街の外に持ち出すことは違法でね。だからみんな、得た物は街の市場で換金するんだ」
「うん」
「魔物の取引は冒険者であっても禁じられている。街の外に持ち出すのなんて、もっての外だ」
「ああ、なるほど……」
 パーシヴァルはタルシスではない、他の土地の領主に仕える騎士だ。おおかた、主に無茶を言われて蛾の卵を取りに来たとかなのだろう。
「それにしても、妙な術を使っていたな。ウロビトの技か?」
「一瞬だったけど、身体が全く動かなかったよね。どこに行ったんだろ?」
 ふむ、とカナンは風向きを確認する。リップルもまた、注意深く周囲を見渡した。
 倒壊した木々が多いためか、見晴らしは悪くないが、霧が濃い。かろうじて目をこらした先に、巨大な翅を広げて空中に浮かんでいる、ビッグモスの姿が確認できる。彼らは音に敏感らしいので、潜んで進めば見つかることはないだろう。
「あいつの居所なら掴んでいるわよ」
 グウェインはそう冷ややかに言った。振り上げた杖の先に、白い煙のようなものが空中に浮かんで、くゆんでいる。
「さっき、飛ばしておいたの。これを辿っていけばいいわ」
「それも印術?」
「ええ。わたし、天才だから」
 事も無げに言う少女に言葉を返す間もなく、盾を担ぎ直したパーシヴァルが続けた。
「FOEの居場所は私が先頭で歩哨しながら把握しよう。時間が惜しい」
「分かった。彼を追っていけば、安全に巣の奥に辿り着けるだろうからな」
 カナンが諾と答えたからには、リップルも先に進む以外の選択肢はない。
 命が生まれないとシュメイが言った卵を通り過ぎ、一同は巣を進んでいく。


「も、もうこの辺りでよくない……?」
 実のように卵がなった木を青白い顔で振り返り、グウェインが呟く。
 霧が濃い。隣に立つカナンの外套の裾すらも曖昧だ。見失わないようにとぎゅっと彼女の腕を掴めば、やんわりと解かれた。抗議に唇をとがらせるが、カナンは見てもいない。
 グウェインの持つ杖先の煙も、ほとんど上を向いて立ち上るばかりだ。
 湿度のせいか、額を拭いながらパーシヴァルが呟く。
「しかし、どれが孵化する卵か分からんな」
「教えてあげようか」
 白い闇から浮かぶ静かな声に、全員が臨戦態勢を取る。
 うっすらと輪郭をかたどったのは、シュメイの姿だった。そして彼の背後に広がる光景に、リップルは絶句する。
―――それは、一面の目玉のようだった。まるで壁全体が目玉の群れであるかのように、おびただしい数の卵がびっしりと、シュメイの背後に広がっている。
「う、うわー……」
 緊迫した空気をよそに、思わず呻いてしまったリップルに、シュメイは肩をすくめる。
「なんだい、これが目当てで来たんだろう」
「それはそうだけど、こんなに沢山はいらないというか……」
「やれやれ」
 シュメイは深々とため息をついた。
 暢気に会話を交わしているのは、またしても身体が動かないからだ。足下に濃く漂う霧に紛れてよく見えないが、また光の陣が張られているに違いない。
「―――ニンゲンというのも、期待外れもいいところだなあ。全くもって知性の輝きを感じないよ」
「何ですって」
「最初に言ったろう、ここはロクな場所じゃないって。ビッグモスは大人しいけれど、魔物は魔物だ。僕は魔物の研究をしているからここにも足を運ぶけど、普通はウロビトだってこんなところに来やしない。それがたまたま出会ったのがニンゲンだっていうんだから、僕だって期待くらいするさ。まさか、野蛮な侵略者だとは思わなかった」
「この辺りは、ウロビトにとっても未開の地なのか?」
「どうかな」
「ということは、助けも来ないというわけか」
 音もなく。
 枯れ枝を思わせるウロビトの首筋に、無機質な金属光沢が押し当てられる。
 シュメイは、自らの術にかかってしまったかのように、一切の身動きを止めた。
 彼の背後に肉薄したカナンが、冷淡に告げる。
「―――ここで、きみが死んだとしても」
 からん、と、がらんどうの空間に、シュメイの手から滑り落ちた杖が立てた音が響き渡る。
(か、カナンちゃん、やりすぎじゃない!?)
 内心で、リップルは慌てていた。先程パーシヴァルが言っていたとおり、シュメイを警戒させて敵対する理由は何もないのだ。
 目だけを動かして、シュメイはカナンを睨んだ。
「よく動けたね」
「一度食らえば対策は打てるさ。きみの視界に入らないようにするだけだ」
 カナンは事も無げに言うと、シュメイの襟首を取ったまま、器用にも彼の杖を拾い上げる。
「―――敵対するつもりはない。これはお返ししよう」
 そう言ってあっさりとシュメイを解放し、杖を差し出すカナン。
「ちょ、ちょっと!」
 非難の声を上げたのはグウェインだ。
 戸惑ったように眉根を寄せていたシュメイは、しかしカナンが己を突き飛ばしたためにたたらを踏んだ。
「その分、働いてくれ」
 シュメイを庇ったカナンは、濃霧から姿を現したビッグモスに投刃する。
「み、見つかっちゃったの」
「先程、杖が落ちたときに派手な音がしたからな」
「きゃああ!」
 戦闘になってしまえば、音のする方向にビッグモスは押し寄せる。
―――悲鳴はグウェインのものだ。
 振り返ったリップルとパーシヴァルの視界には、鮮烈な炎が舞い上がった。
「グウェイン!」
 近場の木を焼く炎を物ともせず、パーシヴァルは声のした方向へ消えていく。
「パーシヴァルさん!」
 一斉に魔物が動いたためか、あっという間に、周囲が白霧に染まる。リップルは武器を構えたが、四方のどこからでも襲われる可能性のある状況に、少しずつ恐怖が募った。
 戦闘の音が遠ざかる。不安に思いながらそちらに向かおうと振り返ると、ビッグモスの複眼と目が合った。
「~~~!」
 グウェインのような絶叫こそ耐えられたものの、驚愕で仰け反った一瞬の隙に、かぎ爪のついた腕が頭上から迫る。
「―――っ」
 身が軽くて助かった。首筋の産毛を撫でるかのような間一髪で引き裂かれるのを回避すると、リップルは転がるように駆けだした。
「か、か、カナンちゃん! 助けてー!」
 大声は魔物を呼び寄せると知っていたが、とてもではないが独りで立ち回れる状況ではない。
 すると呼び声に応じたかのように、視界の隅でカナンの長い銀髪が翻った。さすがはカナンちゃん、ボクの運命の人だけある―――なんて軽口を叩く余裕もなく、音もなく霧の中に消え去りそうになった彼女に、走って追いつく。
「カナンちゃん!」
「撤退するぞ。見ろ」
 霧の片隅で上がっていた炎が、見る間に燃え広がっているのが分かる。卵の壁を焼き、狼狽えるように為す術なく周辺を舞うビッグモスを、退けるような炎。
 その起点となる場所に、ぐったりとしたグウェインを全身で抱くように、パーシヴァルが跪いていた。グウェインの杖から放たれる柔らかな輝きが、二人を炎から守っているかのようだ。
 お互いをかばい合っているようにも見える姿に、思わず立ち止まったリップルの尻を、撫でていく感触。
「ひうわっ」
「うーん、黄昏れてる場合じゃないよ」
 シュメイだ。どことなく意気消沈している。頭から立った髪房も、しんなりとしていた。
「―――もうこの巣はしばらくダメだね。ああ、かわいそうなビッグモス」
 そう言う彼の胸元が、妙に膨らんでいる。
 なんとなく例の極彩色の卵に形状や大きさが似通っている気がするが、服の上からでは分からないということにしておこう。
 代わりに、リップルは半目で応じた。
「どさくさに紛れて今、おしり触らなかった?」
「ウロビトの挨拶さ。ニンゲンの女の子って柔らかいね!」
 いかにも適当なことを言いながら、シュメイは杖で地を叩いた。
「とにかく脱出しよう。抜け道はこっちだよ」
「案内してくれるの?」
「こんなところできみたちと揉めても無意味でしょ」
 シュメイは飄々と言った。


 外は夜闇に落ちていた。全員で、脱出したばかりの小迷宮―――燃えさかる炎の塊を遠目に眺める。迷宮の外をさまようFOEも、炎を恐れてか今は見当たらなかった。
 炎は森を焼き尽くすまで収まらないかもしれない。誰も何も口を開かなかった。
 リップルは気まずい思いで、シュメイに話しかけた。
「ねえ、生態系がどうとか……あれって大丈夫なの?」
「まあ、問題がないわけじゃないと思うけど。見て」
 シュメイが指し示したのは、真っ直ぐ立ち上る黒煙とは別に、東の空へと消えていく雲のような黒い影だ。
「―――巣をあきらめて、成虫が飛び去っていく。またどこか、この大地の同じような森で巣を作るのさ。自然っていうのは存外逞しいよね」
「魔物を自然と言って良いのかどうかは疑念だが……」
「おや、ニンゲンには僕たちと異なる概念があるのかな」
 渋い顔をしたパーシヴァルに、シュメイは肩をすくめる。
「―――それで、結局君たちの目的は達成できたのかい?」
 ビッグモスの卵を持ち帰るというやつだ。リップルもカナンも、炎に飲まれる卵の群れに近づくことすら出来なかった。印術で加護を得ていたパーシヴァルも、グウェインを抱えて逃げたため同じだろう。
 鼻の穴を膨らませて、シュメイが服の中に隠していた卵を取り出す。カナンやパーシヴァルたちが胡乱な目をしているのをよそに、
「これが欲しいかい?」
 と言った。
「……何が望みだ」
 カナンの問いに、シュメイは嬉々として答える。
「ニンゲンにも集落があるだろう? そこに連れて行ってくれ」
「軽々しくそんな願い事をしてもいいのか? 我々にとって、きみたちウロビトは見つかったばかりの『新種』も同然だ。飛んで火に入る夏の虫、解剖されるかもしれんぞ」
「野蛮と言ったのを気にしているのか? なに、僕はウロビトといってもはぐれ者で変わり者でね。自分が解剖されるかなんてくだらない心配より、未知なる地で出会うものを調査する方にしか好奇心が沸かないんだ」
「ウロビト全体に対する興味を招くことになってもか?」
 カナンの再三の脅しも、シュメイには無駄なようだ。
「結構。きみたちは知らないかもしれないがね、これ以上ニンゲンがウロビトをこねくり回すことなんてないんだよ。き
みたちが僕らを最適化(・・・)したんだからな」
「は?」
「いや、過ぎた話題だ。忘れてくれたまえ。……さあ、どうする?」
 カナンは問うような視線を、パーシヴァルに投げる。
 城塞騎士は褐色肌の顔をゆがめた。
「我々にとっても、案内人はきみだ。好きにしたらいい」
「責任は取らんぞ」
 吐き捨てたカナンに、ぽんと卵を渡すシュメイ。事は決したらしい。
 気球艇は森から離れた場所に隠してあるので、無事だろう。移動か―――というところで、リップルはパーシヴァルたちを見た。
 パーシヴァルが抱きかかえたグウェインは、脱出寸前から意識を失ったままだ。印術を使いすぎて疲弊したのだろうということだが、安らかに眠っているように見える。
 穏やかな寝顔を見下ろすパーシヴァルもまた、優しい目をしていた。
 リップルはふと、先程から気になっていたことを口にする。
「パーシヴァルさん、あんなにグウェインに嫌われてるのに、どうしてそこまで守ってあげるの?」
 パーシヴァルの目が瞬いた。
 瞬いて―――苦笑するように撓む。
 任務の相棒だから、とか、そういう理由にしては、グウェインの方も明け透けがなさすぎる。
 じっと答えを待つリップルに観念するように、小さな声でパーシヴァルは言った。
「私とグウェインは、父親が同じでね」
「え……」
「だから、異母兄妹というわけだ。もっとも、グウェインはそれを知らないが」
 リップルは言葉を失っていた。
 グウェインがそれを、知らないはずがない、と根拠のない確信が込みあがる。
 だが同時に、それを主張することの無意味さもまた、理解していた。真実かを確かめたところで、傷つくのはパーシヴァルとグウェインだ。リップルは無関係なのだから。
 黙ってしまったリップルに、パーシヴァルは少女を両腕に抱いたまま、器用にも自身の胸元に手を当てる。
「もしもグウェインがきみに、失礼な真似をしていたのなら……心から謝罪する」
「い、いえ! ボクはそんな……」
 語尾を溶かしながら、ああ、そうだ、と手を打った。
「―――さっき出来なかった、タロットの話を……帰り道の気球艇の中で、してもいいですか」
「ああ」
「良かったら……グウェインにも、聞いてもらいたいです」
 パーシヴァルは小さく頷いた。


「ふわー」
 リップルたちを乗せた気球艇は北壁を南下し、第一大地に入った。気球艇も使える樹海磁軸は第二大地にあるのだが、冒険者登録をしていないリップルたちは使用できないのだ―――帰り道をゆっくりと飛ぶ気球艇の甲板で、受ける風が心地いい。
 探索疲れと、その後の熱弁を振るった疲れもあって、眠気を連れてくる風だ。
「そんなところで寝たら、真っ逆さまだぞ」
 背後からかかった声に、ふにゃりとリップルは相好を崩した。振り返るだけの力はなかったが。
「カナンちゃ~ん」
「ご苦労だった。……今のお前の話も興味深いものだったと言ってな。追加の報奨が出た」
「ホント?」
「ああ。……地方の雇われ騎士にしては羽振りの良いことだ」
 カナンの弁に、リップルも思うところがないわけではない。
 二人が兄妹だという話のように、彼らが嘘をついていないまでも、言っていない真実はまだあるのだろう。
 が。
「―――深入りはするなよ」
 心を見透かしたように、カナンがぴしゃりと続ける。
「どうでもいいことだ。所詮、もう二度と関わることのない他人なのだから」
「うん……」
 リップルのもやもやした胸のうちに、ストンと落ちるものがあった。
「―――それって、カナンちゃんにとってボクはどうでもよくない、身内だってことでいい?」
「はあ?」
 心が弾む。先までの疲れと眠気はどこへやら、両腕を広げて捕まえようとした痩身は、ひらりと避けられてしまったが。
「ああん、もう。照れなくていいのにィ~」
「調子に乗るな!」
 半ば本気で抱きつけるのではと期待していたリップルは、ちぇ、とそっぽを向いた。
―――リップルにとっても、カナンはどうでもよくない、大切な人だ。
 血の繋がりがある関係が歪なこともあるように、赤の他人同士でもお互い思い合うことが出来る。
 カナンのことは、まだ分からない部分がほとんどだが、彼女が隠していることを話してくれようとくれまいと、一緒にいたいと思うのだ。
 そこへ、ふと。
 頭をそっと、おそるおそる、という風に撫でてくる手。
―――驚いてそちらの方向に顔を向けると、同じように、目を見開いたカナンが片手を挙げていた。
「いや……その、仕事の手伝いを……してくれたから、な」
『ボクはやっぱりちょっとしたことでも、褒めてもらえると嬉しいなあ~なんて』―――リップル自身がぼやいた言葉なのに、今の今まで忘れていた。
 口角が上がるのが抑えきれない。
「やっぱり、カナンちゃん大好き!」
 不意を打ったつもりだったが、やはりリップルの腕は悲しいことに虚空を抱いたのだった。


***


「シウアン!」
 『影の女王』―――ホロウクイーンと呼ばれた魔物が断末魔を上げて、闇の中へと吸い込まれるように消えていく。
その足下、ドレスの内側に隠されていたかのように横たわる少女―――シウアンを見つけて、ウーファンが駆けだしていった。
 強敵を打ち倒したピルグリムは疲労困憊である。ウーファンも同様だろうに、それどころではないといった様相だ。
「シウアンはいかがですか?」
 巫女を抱えて安堵の息をついたウーファンを、そっと、アティが覗き込む。
「意識を失っているだけのようだ」
「診せてくれ」
 どっこらせ、とウーファンたちの傍らに屈み込んだマオに、ウロビトの眉が寄る。
 それに気付いたマオは、胡乱に答えた。
「―――俺は医者だ」
「おー、ついに先生が乱入した」
 それを遠目に眺めていたドミニクが、当人たちには聞こえぬように囃す。エリザベスは嘆息した。
「こっちは、何かないか探しておきましょ」
「エリザベスちゃんはいいの?」
「は?」
「いや、アレ」
 ドミニクが指差したのは、目を覚ましたシウアンがウーファンと抱擁を交わしている場面だった。
「……何が?」
「いや、このままだったらシウアンちゃん、連れて帰ったりする流れになるんじゃない?」
 タルシス領主からの手紙に何が書いているのかは知らないが、恐らくタルシスとウロビトの里の親交についてだろう。アティなら、シウアンやウーファンを、自らタルシスの街を案内すると言いかねない。
 エリザベスは深々と、またため息をついた。
「ま、そうなるだろうね。多分……」
「エリザベスちゃんは反対かい?」
「別に? アティが面倒みるんなら、好きにすればいいよ」
 と言いつつ、あたしも世話させられるんだろうけど。
 が、ドミニクが気にしていたのは、そういったことではないようだ。
 彼は、いつもの軽薄な笑みを浮かべたまま肩を竦める。
「人間不信って言ってたからさ。ウーファンちゃんなんて一時敵対心むき出しだったろ? あんまり落ち着かないんじゃないかなって思ったんだけど、杞憂だった?」
「……あー」
 そんなことも言ったな、とエリザベスはツインテールを飾る白いリボンに触れる。
 視線の先では、ウーファンに寄り添うシウアンに対抗するかのように、ニーナがアティの腰にしがみついていた。
「―――そうだね。あんたの言うとおりだわ。気が抜けてたのかも」
「あ~、おいらはヤブ蛇するつもりじゃなかったんだけど」
「そうじゃないよ。少しは人間不信もマシになったのかなって意味さ」
 気まずそうだったドミニクが目をぱちくりしたので、エリザベスは鼻を鳴らした。
「―――どうだっていいだろ。あっち、なんか落ちてるよ」
 靄がかっているため、開けた場所でも遠くが見えづらい。
 示した方向に自ら歩き出すエリザベスの背後で、ぽつりと言葉が落ちた。
「おいらたちは信用してもらってるってことで、いいのかな?」
―――振り返れば、目を泳がせつつもドミニクが、笑う。
 なんだかそれが妙に気に触って、言わなくてもいいようなことを、口走った。
「あたしが人間不信になったのはね。父親が原因さ」
「エリザベスちゃんの父ちゃん……って、タルシスの城塞騎士だったっつう?」
「ええそう。父さんは、仲間に裏切られて殺されたからね」
 ドミニクが息をのんだ音に、カッとなってしまったことをすぐに後悔する。
「ま……あんたらのことは信用してるよ」
 努めて冷静にそう言って、会話を打ち切った。
―――お喋りなくせに、ドミニクは黙り込んでしまったらしい。こういう、余計な気を回されるから、父親のことを話すのは嫌なのだ。
 だがエリザベスの中で、父の死がずっと杭のように、胸に刺さり続けているのも事実だ。
 信用しているというのなら、自分も信用してもらえるように、心を明かしてみせるべきだろう。
 無言で周囲を物色していたうちに、エリザベスは意を決して顔を上げた。
「あのさ―――」
「ベス、ドミニク! 聞いてください!」
 と。
 喜色満面のアティが近づいてくる。
「シウアンがぜひタルシスに行って直接辺境伯にご挨拶したいと言うんです。これはもう、私たちが連れていってあげるしか―――あら?」
 己に向けられた、二人分の胡乱な視線に気付いたらしい。アティは愛想笑いのような笑みで首を傾いだ。
「わ、私……また何か、おかしなことを言いました?」
「何でもないよ。あんたはそれで良いってだけ」
「?」
 力のない笑みを浮かべてドミニクを振り返れば、彼は満面の笑みを返してくれた。

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第三大地

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第10話

 女と山の気候は移り気だなんて言葉はあるが、街の気候だって大概だと、リップルは思う。
 ついさっきまでカラッと晴れていたのに、空から大粒の涙がぽつぽつ来たと思ったら、いつの間にやら大泣きだ。
 誰の家とも知れない軒先で雨宿りをしながら、リップルは買い出しの大荷物を背負い直す。金色のツインテールから滴る水を鬱々と見ていた。
 褐色肌に金の髪。リップルは、タロットと呼ばれる民族の出だ。タルシスに流れ着き、冒険者のまねごと―――登録されていない冒険者なので文字通り―――をして数ヶ月になる。結婚相手を求めて旅をする、未婚のタロットにしては長い滞在だが、リップルが心に決めた相手はここで仕事をしているのだから当然だ。そして数ヶ月もいれば、大抵のことには慣れてくる。
「あーあ。タルシスでこんな大雨、滅多にないのになあ」
「そうなのかい? ええと……きみたちの呼ぶ、『丹紅ノ石林』じゃ、この程度の雨なんてしょっちゅうだったけどなあ」
 のんびりと応じる男の声に、リップルは濡れた前髪の隙間から、案外高いところにある彼の顔を覗き込む。
 目深にフードを被り、顔を隠している彼の肌色は、浅黒いタロットの肌から血の気だけをすっぽり抜いたような色をしている。顔立ちや身体は柳のように細い。彼は『ウロビト』という、旅人であったリップルですら、他で見たことがない珍しい民族なのだそうだ。
 名の通り植物のような外見をしているので、ふとこんなことが口をつく。
「もしかして雨が少ないと、ウロビトって枯れちゃうの?」
 彼は目を丸くすると、眉をひそめた。
「さあ……僕は丹紅ノ石林から出たことがなかったし、他の土地にウロビトが住んでいるかも知らないし」
「大丈夫? シュメイさん、枯れちゃわない?」
「うーん……やばそうになったら、故郷に帰してもらおう」
 彼―――シュメイは、全く深刻さを思わせない口ぶりで答えた。
 丹紅ノ石林の小迷宮で偶然出会ったシュメイを、成り行きでタルシスに連れてきたのはつい先日のことだ。ウロビトについて、その特異な存在が未知の大地で『発見』されたということは、耳の早い界隈には既に広まりつつある。一方で、ウロビトとタルシスの正式な交流は、まだ始まっていない。噂では、タルシス領主がウロビトの代表に親書を送ったらしいが、真偽のほどは不確かなままだ。
 つまり。シュメイはウロビトとして、大手を振って街中を歩くことが出来ないのだ。はぐれウロビトとはいえ、連れてきた責任があるとは、リップルの旦那様の弁だ。故に、身を隠せるような外套を用意し、外に出るときは供連れで、彼を保護してやっているのである。
 単なる好奇心で『人間』の街であるタルシスにやってきたシュメイだが、今の生活もそれなりに楽しんでいるらしい。街を練り歩いては、リップルたちを質問攻めにしてくる。
「それはそうと、いつまでここで立ちんぼなんだい?」
 雨の中で飛び出していきそうなシュメイ。木の枝のような腕を掴みながら、リップルはわめいた。
「買った物がずぶ濡れになっちゃうじゃない! もー、遅くなったのはシュメイさんが交易場に寄りたいなんて言ったからだからね?」
「いや、もしかしたらそろそろ、僕以外のウロビトがタルシスに現れる頃ではないかと思ってね」
 淡々と呟かれたそれに、リップルははっとする。
―――はぐれウロビトとはいえ、同胞ゼロで異人扱いの今の状況は、シュメイにとってとても心細いのではないだろうか。普段全くそんなそぶりを見せないがために、気付くことが出来なかったが。
 気遣わしい視線をそっと投げれば、遠い目をしながらシュメイは言った。
「―――だって、他のウロビトが来たら、人間しかいないこの原風景が失われてしまうじゃないか。面白くなくなるからどうにか追い返せないかと」
「ろ、ろくでもないこと考えてた……」
「人間の街は面白いからね。たとえば、ホラあれ」
 シュメイが指差したのは、濡れた石畳の上に広がるぼろ布―――だとリップルは思っていたが、よく見ると投げ出された四肢が見える―――だ。
「ちょ……あ、あれ」
「行き倒れ? フロウシャ? 面白いねえ。人間は所属が異なる人間を同胞と認めないんだよね、だからああいうのを放っておく文化が」
「ありません!」
 リップルは荷物を置いて、行き倒れに走り寄る。
「ちょっと! 大丈夫ですか?」
「ウ……ウウ」
 行き倒れの上げたうなり声から、男性であるのが分かった。近づいてみると、かなりの大柄だ。真っ黒でボロボロの外套の下敷きの身体が、水を吸って重そうに持ち上がる。
「立てる? 怪我でもしてるの?」
「はら、が……」
「おなか?」
 ごろりと仰向けに転がった男は、無傷の腹を抱えて呻いた。
「へった……」
「はらがへった」
 オウム返しに目を瞬いたリップルに、シュメイが男を覗き込んでくる。
「空腹を訴えているのかい?」
「そうみたい……」
 これはまた古典的な。
 生憎だが、本日の買い物リストに食糧は入っていない。リップルは、浅い川のようになっている石畳に寝転がる男に対し、彼が見上げる曇天を指差した。
「雨水飲んでたら、ちょっと空腹ごまかせるよ!」
「さ、先程から……試したが……むしろ腹が痛くなってきて……」
「胃腸が弱いのだねえ」
「とりあえず、病院行く?」
 男は弱々しく、長い黒髪を振るように首を傾けて拒否する。
「で、でかい病院はちょっと……」
「結構元気そうだねえ」
「じゃ、秘密を守ってくれる町医者に行こう」
 ぽんと手を打って、訝しむ男と不思議そうなシュメイをよそに、リップルは提案した。


「『深霧ノ幽谷』が踏破されたらしい」
 そう口火を切った情報屋に、カナンは眉をひそめた。
「天気予報を聞きに来たわけではないのだがね」
「街の平和な便りだって、重要な情報さね。……というか、仮にも『冒険者』には大ニュースじゃないのかい」
 拍子抜けした、という表情の情報屋は、酒場のカウンターに立ち並ぶ、古びた椅子に身を沈める。
 カナンは冷たく返した。
「本当にそれだけなら、もう帰るぞ」
「まあ、そう急くなよ。こんなのどかな街で隠居しておいて。大して忙しくもないくせに」
 うそぶく情報屋を睨みつければ、なれなれしい笑みが浮かんだ。
「―――忠告しておいてやろう。タルシスの開拓(・・)は、周りの
国家も興味津々だ。中には、耳として放たれた連中もいる。その中には、アンタが会いたくない奴らもいるかもな」
「……どういう意味だ?」
「そのままの意味さ。より詳しく知りたいなら……」
 親指と人差し指をすりあわせる情報屋を無視して、カナンは店を出た。


 柔らかく湿気た風が抜けていく。雨が降っていたらしい、濡れた石畳に歩を進める。溜息が出た。
 人殺し業に嫌気がさして、タルシスに逃げてきたカナンだったが、この辺境は予想よりもずっと平和だった。それゆえに、置かれた環境の中で、微睡んでいたようなところもあった―――それが、少しだけ覚めたような気がしていた。
 やはり、過去から逃げ切ることなど出来ないのだろう。
 それでも、今は自分の決めたように、やるしかない。通い慣れつつある坂道を下り、下町の簡易診療所の戸を開ける。
「失礼するぞ」
 奥から聞こえてくる声は、なにやら騒がしい。
 それとなく目をやったカナンは―――その光景に立ちくらみを起こしそうになった。
「い、い、か、ら! 口を開けなさいいいい!」
「いいい嫌だー! 匙の上で酸化還元現象みたいな音を立てながら青緑に変色していく薬なんて絶対おかしいだろおおおお」
 ベッドの上で暴れる成人男性―――声からしてそうだろう―――に、馬乗りになる見知った少女二人。
 そのうちの一人、リップルが叫んだ。
「ミミさん早く! 両肩を確保したわ! ひと思いに!」
「はー!」
「ギエー!」
 青みがかった萌葱色のポニーテールを揺らして、眼鏡の少女―――ミミが、手にしていたスプーンを男の口に突っ込んだ。
 嚥下したらしい。青白いを通り越して人間の皮膚の色としてあり得ない顔色になった彼は、口から藤色の煙を吐いて気絶する。その有様を見て、リップルとミミはハイタッチを交わした。
「やったわ! 大成功!」
「助かったわ、リップルさん。これで彼は、ありとあらゆる痛みから解放されるはずよ」
「彼は単に腹痛と空腹を訴えていたのではなかったかな? 人間の治療って難解だねえ?」
 ベッドのカーテンの影から姿を現したシュメイの首が思いっきり傾いでいる。
「あれっ、カナンちゃん?」
「あら、カナンさん。いらっしゃいませ」
 カナンは戸惑いながら、少女たちの向こうで泡を吹いて横たわる男を見下ろす。
「その男は……」
「この人? 道端で落ちてたから拾ってきたの。おなかが痛いけど大きい病院は嫌だって言うから」
「でも、ちょうど良いところだったわ。新薬を作ったところだったから」
「ううん、顔色は悪いままだけどねえ」
「デイルムース」
「えっ?」
 コートの裾に潜ませていた短剣の柄を指先で握る。リップルが慌ててその腕にしがみついてきた。
「ちょ、ちょっとカナンちゃん!?」
 異変を察知したミミまで、もう片方の腕に抱きついてくる。
「カナンさん、落ち着いてください! このお薬が効くのは内臓の痛みだけなので! 外傷には効きませんから!」
「そういう問題かなあ」
「う……」
 ベッドに横たわる男―――デイルムースの瞼が痙攣する。視線がカナンを捉えて、驚いたように、細い目が見開かれた。
「カナン……か?」
 チッと舌打ちすると、カナンはリップルに掴まれた腕を捻って束縛を外し、呆然とカナンを見ている男に短剣を投げつける。
「ほごっ」
―――ただし、柄を向けて。
 額に直撃を受け、再びひっくり返っていくデイルムース。
 目をぱちくりとやる少女たちとシュメイをよそに、カナンは深々と溜息をついた。
「何というか……お前は相変わらずだな、デイルムース」


「兄弟弟子?」
「そうだ」
 またしても怪しい薬でミミと格闘しているデイルムースをよそに、カナンはリップルたちに事情を話す羽目になっていた。
「それって……シーカーの?」
「ああ」
 事実としては『同じ暗殺者集団に所属していた』が正しい。そんなことまで話すつもりは毛頭ないが。
「ってことは、あの人……デイルムースさんもシーカーってことよね? それにしてはなんか、抜けてるっていうか」
「まあな……」
―――素人の小娘二人に捕まるような男を、同僚と思って欲しくはない。
 聞けば、腹を減らして行き倒れているところを、リップルたちが拾ってきたという。
「何のためにタルシスに?」
「冒険者をやるためなんじゃないの? カナンちゃんみたく」
「それだけはないな」
 ところが。
「カナン」
 ベッドから這い出て、床に落ちたデイルムースは目を丸くしていた。
「―――今のは本当なのか。その、冒険者をしているという」
「非合法だけどね!」
 カナンが口を開くより早く答えたリップルに、眉を寄せる。
「お前は黙っていろ」
「カナンさんたちは、第二大地を探索できるほどの凄腕なんですよ」
「ミミまで……」
 デイルムースは目を瞠ると、そのまま、カナンの足下まで這ってくる。
「た、頼みがある! 俺を、『銀嵐ノ霊峰』に連れて行ってくれ!」


 話は数日前にさかのぼる。
 巫女を連れてタルシスに戻ったピルグリム一行は、その日のうちにマルク統治院へ向かった。
 親書の内容も、このときの巫女と辺境伯の会話の詳細も知らないピルグリムだったが、話し合いは特に波乱を呼ぶこともなく決着した。巫女は付き添いのウーファンと共に、辺境伯が手配した気球艇に乗り、第二迷宮にあるウロビトの里へと帰っていった。
「冒険者が探索することは、容認していただいたみたいです。これで、ワールウィンドさんも大手を振って、ウロビトの里を歩くことができますね!」
「そりゃどうも……」
 カーゴ交易場で出くわしたワールウィンドは、アティの言葉に苦笑いを浮かべる。
 巫女たちを見送った空は、いつの間にかゆっくりと日暮れに向かっていた。アティの仲間たちの姿は既に無く、ワールウィンドと随分長話をしてしまったのだと、気付いて恥ずかしくなる。
「すみません、つい……」
「いやいや。俺としちゃ、貴重な話を聞かせてもらえて助かったよ。『深霧ノ幽谷』でのきみたちの活躍ぶりは、見事だった」
「ええと」
 今更ながら、ワールウィンドはどこまで知っているのだろう。
 乗り場の待合で長テーブルに頬杖をついている眼前の男を、アティは改めて、不思議な心地で見つめる。
 その視線に気付いたワールウィンドは、怪訝に眉を上げた。
「なんだい。俺の顔に何か付いているかい」
「いっ……いいえ」
 かぶりを振り、アティは繕うように続ける。
「ワールウィンドさんは、いつでも落ち着いていらっしゃいますね」
「うん」
「どんなことが起こっても、どういう事態に発展しても。私は……ウロビトという未知の種族が未開の地に住んでいることにも、彼らが私たちを一度は拒絶したことにも……動揺ばかりしていたのに」
「俺だって、未知の種族がいることには心底驚いたさ。その後のごたごたで……ウロビトが因縁を吹きかけてくることは、予想がついていたがね」
「そうなんですか。どうして?」
 首を傾いだアティに、ワールウィンドは頬を掻く。
「閉鎖的で視野を狭く生きている連中は、どうしても排他的になってしまうものさ」
「……そうですね、そうかもしれません」
 アティは、自分が住んでいた世界を思い出して、そう答えた。古い国のしきたりに囚われ、新しい風を厭う貴族たちの姿は、幼いときから嫌というほど見てきた。
「―――でも、ウロビトの皆さんは、最後には分かってくれました」
「あれは、巫女救出の件があったからだろう。それに、ウロビト全員が彼女の味方ってわけじゃない」
「それでも、一歩くらいは前進したと思うんです」
「まあ、あそこまで掛け値なしに彼らのために身を投じればね」
 ワールウィンドは溜息交じりに、
「そんなんじゃ、信頼している誰かに裏切られたとき、うんと傷つくよ」
 きょとんとするアティに、ワールウィンドは口の端だけの笑みを浮かべる。
「それで? 丹紅ノ石林の『次』には行けるようになったのかい」
「え、ええ! ウーファンさんが……」
 ホロウクイーン戦の最中、ドミニクがめざとく見つけていた石板を見せると、ウーファンが「これは貴方たちが持って行くべきだ』と譲ってくれたのだ。
 丹紅ノ石林にもあった、祭壇に石板を捧げれば、きっと谷の向こう―――さらに北へ、世界樹への道は拓かれることだろう。
「―――ウーファンさんもシウアンも、私たちが世界樹を目指すことを、応援してくれていますから」
 シウアンから「世界樹によくないものが近づいている」という不吉な預言を聞かされたということは、さすがにワールウィンドには話せない。
 ワールウィンドは神妙な顔をしていたが、ふと表情を緩めた。
「そうだな。俺もだよ」


 そういったいきさつで、第三大地『銀嵐ノ霊峰』の探索は解禁となっていた。
 カナンたちはモグリの冒険者だ。道さえあれば、その道を通る許可などなくても、勝手に進んでいく。首尾良く、第三大地の樹海磁軸を使用できる気球艇を押さえることはできた。
「が、すぐには入らない」
「なんで?」
 リップルが首を捻る。
 彼女らを乗せた気球艇は今、タルシスを出て、第一大地を北上していた。
「―――デイルムースさんの依頼が『タルシス北部開拓の最新情報を持ち帰る』っていう、テキトーな感じのだから?」
「適当とはなんだ、適当とは」
 操舵室の壁に張り付いているデイルムースが、青白い顔で弱々しい反論の声を上げる。その隣に立つシュメイが、あっけらかんと言った。
「医術士の娘の言うとおり、酔い止めを持ってきた方が良かったんじゃないかい?」
「あんな、水に触れた途端に体積が十倍に膨れあがるものを口の中に入れられるか! ウッ……」
 甲板に出て行くデイルムース。リップルがその背に言葉を投げた。
「外に向かって吐いちゃダメだからね!」
「それで、わざわざ『風馳ノ草原』から出発した理由はなんだい」
「……『銀嵐ノ霊峰』は見つかりたて。それも、数日前という状況だ。恐らく、そこに到達できるだけの実力を持ったギルドすら、片手に足りるほどだろう」
「なるほど。タルシスの冒険者を取り仕切っている組織に、怪しまれるって?」
「その通りだ」
 カナンは舵を切る。
 気球艇が大きく旋回し、第二大地に繋がる細い道へと侵入していく。
「わわっ」
 いきおい、リップルがたたらを踏んで、くるりと一周すると、優雅なポーズをつけた。笑んでいた顔が、何かを思い出したかのように曇る。
「―――デイルムースさん、今ので落ちてないかな? ちょっと見てくるね」
 戻ってこない彼が気になったのか、外に飛び出していくリップル。
 甲板へ繋がる戸が蝶番を鳴らして閉じたとき、シュメイが言った。
「そもそも、彼の依頼を受けて良かったのかい」
「……きみが言う言葉じゃないな」
「僕と君たちは運命共同体だろう?」
 悪びれもなく肩を竦めるシュメイ。いつからそんなことになった、と渋面をしてみせても無意味だろう。代わりに、深々と溜息を吐いてみせる。
「デイルムースが何を考えていようと、奴に出来ることなどいくらもないさ」
「リップルちゃんと二人きりにさせても?」
「リップルの方が強いだろうな」
「……それを聞いて俄然、きみたちに興味が湧いてきたなあ」
 口角を上げるシュメイ。
「きみにかかれば、私たちも観察対象だな」
「間違ってはいないね」
 ウロビトの魔物学者は、大げさぶって頷いた。

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第11話

 女と山の気候は移り気だなんて言葉があるが、世界樹に至る道以上に気まぐれなものはないだろう。
 『丹紅ノ石林』を通り過ぎ、『銀嵐ノ霊峰』に入った。北上するにつれて下がっていった気温は氷点下を割り、大地の名の通り、一面の銀世界に加えて吹雪が視界を奪っていく。
「平和な空の旅……とはいかなさそうだな」
 全員が操舵室に再び集合し、この気球艇に唯一あるストーブに身を寄せ合っていた。進路を決めかね、立ち往生している。第三大地の地域地図などまだ存在しないも同然なのだ。いくらアリアドネの糸ですぐ引き返せると言っても、やみくもに進めば、大地に生息するFOEに激突する危険があった。
「だけど、デイルムースさんの言う『最新』の情報はここにあるんでしょ?」
 膝を抱えて地図を見下ろすリップルが、壁際の毛布の塊に声をかける。
「た、たぶん……」
 歯の根が合わないらしい。震えてくぐもった声が毛布の下から聞こえてくる。
「大丈夫?」
「デイルムースは放っておけ。それより……」
 もう一つある毛布の塊―――デイルムースの物より一回り大きい―――を見下ろしたカナンは、これ見よがしの咳払いをした。
「シュメイ」
 こちらは返事すらない。
「ウロビトってやっぱり寒さに弱いんだね?」
 長髪をかきあげ、カナンは渋面を作る。
「シュメイ、きみの意見を参考にしたいのだが。……目と鼻の先に小迷宮があるのが見える。だが、動いている影も近い」
「それってFOE?」
「はっきりとは視認できないが……恐らくな」
 魔物の研究家を自負するなら、別大地のFOEであっても、生態を予想することは出来るのではないか、と期待したカナンであったが、毛布から跳ねた髪の先端を―――次いで、胡乱な表情を乗せた首から上だけを出したシュメイは、弱々しくかぶりを振る。
「当たらないように気をつけようねとしか、言えないよね」
「肝心なときに役に立たんな」
「まあまあ。冬場の植物って根っこしか生きてないから仕方ないよ」
 よく分からないフォローを入れてくるリップルを無視し、カナンは気球艇の舵を切る。
「結局、小迷宮を目指すの?」
「険しい山が入り組んでいて、この先に進むにはあのFOEを回避するしかない。小迷宮で、少し調査を進めておきたいからな」
「そ、そんな無理に進んで、大丈夫なのか」
 震える声でデイルムースが訴える。カナンはにべなく告げた。
「誰の依頼で無茶をしていると思っているんだ、馬鹿め」
「そ、そ、そこまでしなくてもいいと……」
「『最新』なんでしょ? だったら、やっぱり『銀嵐ノ霊峰』の迷宮の様子くらい見ておかなきゃ、じゃない?」
 リップルの言葉に、デイルムースはしかし、不安そうな顔のままだ。
 無視して、カナンは気球艇を進める。
―――それにしても、吹雪が酷い。
 FOEにはぶつからずに済んだものの、不具合が起こったのか、気球艇は突然高度を上げられなくなってしまった。
 一行はなんとか、小迷宮に不時着する。


「外は寒いですけど、中はとても暖かいですね!」
 気球艇を降りる際、わざわざ着てきた外套を脱ぎながら、アティがのんびりと言った。
 初めて訪れる迷宮でも、一事が万事がこの調子だ。警戒して、ピリピリしている空気が弛緩していくように感じる。エリザベスは、その脱力を逃がすように溜息を吐くと、盾を構え直した。
「あんた、ほ・ん・と直らないね」
「えっ? ……あ、え、ちゃんと、緊張はしてますよ!」
「アティちゃんはいいんだって、それで」
 からからと笑うドミニク。エリザベスは目をつり上げる。
「あんたらが甘やかすからでしょーが!」
「あんた『ら』とはなんだ」
 珍しく会話に参加してくるマオを睨む。
「あんたとそこのタロット以外に誰がいんのよ」
「うわっ、なんか今日のエリザベスちゃんは、いつにもまして辛辣! さては女の子の―――ま、待って待って! 顔面に向かって槌を振りかざすのはヤバいよ! 死ぬ!!」
「死ね!」
「ニーナだっていますよ! ねー」
 頭ほどの大きさの雪の塊にかぶりついているニーナの手を、ぶんぶんと振るアティ。
 ニーナは、この話題に全く興味がないらしく、食べられるものがないか、きょろきょろと周りを見渡していた。
「うー!」
 ニーナの鋭い叫び声に、全員が反応する。
 魔物だ。
「みなさん、戦闘準備を!」
「いつでもいいぜ!」
 狭い鍾乳洞内をふらふらと飛ぶフォレストバットに狙いを定め、ドミニクが矢を放った。
「やあ!」
 蝙蝠に先導されるように、暗闇から現れたはさみカブトに、アティが剣を振り下ろす。金属同士を擦る音がして、魔物の甲羅から炎が吹き上がった。それをめがけて、エリザベスは槌で追撃する。
 剣よりもずっと広い面積で、叩きつけられた金属によって、高熱の甲羅にヒビが入った。泡を吹くはさみカブトから素早く離れた二人を確認したニーナが、印石の杖を掲げる。
「むー!」
 外の冷気に引き戻されたかのように、洞窟内の温度が下がる。
 何もないところから発現した鋭い氷の塊が、無数に放たれる矢のように、魔物の群れに襲いかかった。
「おおー」
 大げさなほどの攻撃に、ドミニクが感嘆の声を上げる。ニーナは心なしか、胸を張っているようだ。
 氷の雨が止む。動かなくなった魔物―――の残骸に近づいたマオが、小さく顔をしかめた。
「素材が取れないな。何が何だか」
「ちょっとだけやりすぎましたね、ニーナ」
 アティに頭を撫でられて、ニーナはちろりと舌を出す。
「っていうか、こんな気候に住んでる連中に、氷はあんまり効果がないんじゃない?」
 ニーナの印術が弱点を突くと、杖の印石が輝き出すが、それもなかった。胡乱に指摘したエリザベスに、今度は思いっきり舌を突き出すニーナ。
「何よ。間違ってないでしょうが」
「まあまあ、ニーナは氷の魔法が一番得意なんだし」
「うー!」
 フォローを入れたドミニクの脚を、ニーナは両手を振り回してぽかぽかと攻撃する。
「えっ、なんでおいら怒られてるの?」
「魔法じゃなくて、印術です。ね、ニーナ」
「むう」
 鷹揚に頷く少女に、ドミニクも胡乱な目になる。
「どっちでも似たようなモンじゃん」
「魔法じゃありません。ちゃんと、種も仕掛けもあるんですから! 錬金術や星術は装置に頼って触媒の力を増幅していますけど、印術は印石という、触媒を加工した石を使って術式を添付させているんです。発動に装置は必要ありませんが、媒介となる石と、印術の素養が先天的に必要で―――」
「アティ」
「はい?」
 語っていたアティに、マオが道の先を示す。
「先に進もう」
「あっ、はい……」
 既に歩き出しているエリザベスたちに気付いて、アティは肩を落とした。
―――第三迷宮『金剛獣ノ岩窟』。
 エリザベスたち、ピルグリム一行は、第三大地の行く手を阻む吹雪の中を、ドミニクの驚異的な視力で障害を避けながら進み、雪深い谷の奥に隠された、この迷宮に辿り着いていた。
 迷宮内はところどころ水が貯まっているが、中の気温が高いため凍りついてはいない。どころか、周辺の雪の影響があるのか、第二大地以上に湿気が高い。金属の鎧で身を守っているエリザベスにとっては、あまりありがたくない環境だ。
「それにしても、何故こんなに暑いんだろうね」
「地下に温泉でも湧いてるのかな?」
「もしそうなら、毒ガス……ええと、丹紅ノ石林にあった瘴気の森のような場所があるかもしれません。気をつけ―――ニーナ?」
 ぷいとアティの手を離して、走って行くニーナ。
 彼女の身の丈はあろうか、岩壁からはがれ落ちたような薄さの真っ赤な岩が、地面に突き立っている―――それに気を取られたらしい、ニーナが興味津々で手を伸ばす。
―――刹那、甲高い悲鳴を上げた。
「ニーナ!」
 駆けつけたアティが、驚いて尻餅をついたニーナを慌てて抱き起こす。
「―――大丈夫ですか!? 怪我は……」
「うー……」
 ニーナは握り込んだ手のひらを開く。
 分厚い布手袋の指先が、焦げて穴があいてしまっていた。怪我はないようだ。
 改めて岩を振り返る。岩と呼称するには妙に色鮮やかで、まるで生き物のようにも見える。
「……なんでしょうね、これ」
 バックパックから水筒を取り出したドミニクが、それに向かって水を振りまいた。
「おお」
 謎の塊に触れるより早く、空中に放り出された水滴が音を立てて蒸発する。
「―――な、なんだこりゃ!」
「これ自体から発熱しているようだな。見ろ」
 マオが指差したのは、赤いそれが突き立つ地面だ。
「地面に影響がないということは、発熱しているのはどこか一部分なんだろう。足下を崩せば、通れるようになるんじゃないか」
「通れるって?」
 顔を上げたドミニクに、マオは肩をすくめる。
「気付いていなかったのか? 先に進もうにも、通路のそこいらじゅうにコイツが刺さっている」
「げ」
 洞窟内は広い。が、改めて見渡せば、至る所に同じくらいの大きさの謎の塊がある。
「ベス、お願いできますか?」
「……っ、武器が届く範囲まで、近づけないよ」
 槌はリーチが短いので、当てようと思うと腕が燃え上がりそうなほどの熱気が襲ってきた。下手をすると、この熱気だけで火傷しそうだ。
「ニーナ……」
「むぅ」
 ニーナは杖を掲げると、印術で発生させた巨大な氷の塊を打ち込んだ。
「うー!」
 が、謎の塊にぶつかって、跳ね返るばかりだ。
「むうー!」
 塊は相当硬いらしい。ニーナは何度か試していたが、次第に疲れてきたのか、アティの膝に抱きついて拗ねてしまった。
「欠片めっちゃおいらのとこに飛んでくるんだけど! わざとじゃないよね!?」
「……なら、これを試してみるか」
 唐突にマオが取り出したのは、キャンプ用の骨組―――ではなく、氷で出来た棒。
「つららじゃないの。長いね」
「この気温なのに、全然溶けていませんね」
「そこで拾ったからな」
 彼が顎でしゃくった水辺の天井から、鍾乳石に混じってつららが何本かぶら下がっている。
「よく見ると、なんか普通の氷よりきらきらしてんな」
「触媒の成分が入っているらしい。水辺に、それらしい小さな石が転がっている」
 青い水面に、星のようにチラチラと目に入ってくる銀光がある。
「ということは、この触媒……というか既に印石だと思いますが、これに氷の力が備わっているのでしょうか?」
「エリザベス、打ち込んでみてくれ」
「ちょ……」
 ぞんざいに手渡され、エリザベスは躊躇いながら、素手で受け取る。
 確かにひんやりとはしていたが、氷ほどの冷たさはなかった。不思議な感覚だ。
 十分な距離を置いて、赤い岩に棒杭を押し当てる。槌で思い切り、棒杭をたたき込んだ。
 何度か繰り返すと、ひび割れた岩が粉々になった。もっとも、氷銀の棒杭も同じように砕け散ってしまったが。
「一個壊すのにつき一個、って感じだけど。使えそうだね」
「ありがとうございます、ベス!」
「これ、毎回あたしがやるの?」
「まあ、その辺りは臨機応変に行こう。とりあえず、何本か棒杭を持って行った方が良さそうだな」
 つららをもぎ出すマオの後ろ姿を見ながら、エリザベスはぽつりと零した。
「なんだかんだ、あいつもやる気じゃないの」
「ベス? マオのことですか」
 ニーナの口に金平糖を放り込み、大人しくさせていたアティに、エリザベスは視線を投げる。
「ここに来る前、また散々ごねてたじゃないの。『そこまでしてやる義理があるのか』とかなんとか」
 巫女の言う『世界樹に迫る脅威』が、何かはっきりしない上に、いわゆる『お告げ』というものを信じない人間は少なからずいる。エリザベスもそうだが、マオもまたその典型だ。だが可能性の段階でも、タルシスに対する脅威ともなり得るものを見過ごせないエリザベスと違い、危険を冒して脅威を確認しに行く義務は、この街の兵士でも何でもない、マオたちにはない。
 だがお人好しのアティは当然、巫女からの頼まれ事ならと二つ返事で了解した。彼女が冒険に出るなら、その保護者であるマオもついて行かざるを得ない。多分、それで機嫌を損ねていると思っていたら。
 ドミニクに、棒杭を落とすために弓矢で狙う地点を指示しているマオを盗み見る。
 アティは小さく笑った。
「私……マオは、きっと冒険が好きだと思っているんです」
「ふうん?」
「以前少しお話ししましたけど、私の故郷にも世界樹の迷宮と呼ばれる大迷宮があって。マオは、それに挑戦したことがあるんです」
「そうなの? 意外だね。そういうのに興味があるヤツには微塵も見えないから」
「……数年前から、マオはあまり世界樹に興味を示さないようになりました。その代わり、街を離れて、旅というか……周辺の国や街を彷徨うようになりました。まるで……何かを探しているみたいに」
 私の故郷の世界樹にはなかった物なんでしょうね、と、自嘲するようにアティが呟く。
 エリザベスは、ドミニクが以前言っていたことを思い出していた。最近はなりを潜めているが、一時期マオは寝る間を惜しんでまで、訪問診療をしていた、と。部屋は違うが、男たちは同じ宿に泊まっているので、夜に宿に戻っていないことが分かりやすいのだという。
 そういえば、一度『風馳ノ草原』で竜が出たとき、竜に妙に興味津々で、竜災害にも慣れた様子だった。
「……ホントに、何か探してるのかもよ」
「エリザベスもそう思いますか?」
 アティはどこか、心配そうだ。
「あんたは訊いたこと、ないの」
「何をですか?」
「マオが何を探してるのか。ずっと一緒にいるんでしょ」
 エリザベスの言葉に―――アティは虚を突かれたかのように目を丸くして―――へにゃりと力なく笑った。
「そんな、訊けませんよ」
「なんで?」
「マオはそういうの、絶対に教えてくれませんから」
 どこか寂しそうなアティ。
「よっし、そろそろ出発するぜ!」
 両腕いっぱいに氷銀の棒杭―――どうやって持って行くというのか―――を抱えたドミニクが呼ばわる。
 溜息一つ、会話を打ち切って、エリザベスたちは彼らに合流する。


「うーん……」
 リップルたちが不時着した小迷宮は、吹雪を凌げる程度にしか役立ちそうにない。
 というのも、この洞穴内部は蝙蝠の魔物が無数に巣くっているらしく、ひび割れた壁面を通り抜けるようにどこともなく飛んでくる。さほど気温が高いわけでもないし、この分では気球艇にいるのとあまり変わりはなさそうだ。
 といっても、気球艇の燃料も残り少ない。カナン曰く、外気の温度が極端に低いため、気球に暖かい空気を送り込むための効率が、いつもよりもかなり落ちているのだそうだ。船の中を暖めるための動力も元をたどれば同じなので、第三大地に入った時点から、妙に寒かったのはそのせいなのだろう。
 こんな気候の中を飛ぶのなら、もっと効率の良い燃料にするなり動力炉にするなりの改良が必要だったようだが、この気球艇はもらいものだ。もしかしたら、改良ができなかったから手放したのかもしれない―――今更のような課題だが、今はもっと致命的な問題がある。
 それは、アリアドネの糸が起動しない、ということだ。
「なんでだろうね? いつも通りの手順なのに」
 気球艇の周りをぐるぐる行き来しながら、リップルは顎を掴む。カナンは用心深いので、糸は何本か持ってきているが、そのすべてが動作しない。今更ながらに、リップルは冒険者にとって文字通り命綱のこれが、どういう原理でもって動いているのか、さっぱり知らないことを痛感していた。
「これも、気球艇の不具合に関係してるのかなー……」
「おーい」
 小迷宮の入り口から、手を振るシュメイ―――その後ろに、カナンとデイルムースが続いて近づいてくる。
「おーい! おかえり!」
「どうだい、アリアドネの糸とやらの様子は」
「全然ダメ! そっちは?」
 シュメイは口角を横に引っ張るような、不自然な笑みを浮かべた。
「採れるものは鉱石ばっかりだよ」
「ええー……食べ物は?」
 張り付いた笑みのまま、シュメイは―――デモンホッパーの脚を持ち上げる。
「ちょ、ちょっ!」
「知らないの? 昆虫って栄養価が高いんだよ。さすがにこんな大きいバッタを見たのは初めてだけど」
「そういう問題じゃなくてー!」
 しかも、ただ方陣で動きを封じているだけらしく、まだびたびたと元気に動いている。
「なんだ、タロットならもっと酷いものを食べているんじゃないのか?」
 デイルムースに何気なくそう言われて、さすがのリップルもカチンときた。
「そんなわけないでしょー! 昆虫食べる文化がある人もいるかもだけど、タロットはそうじゃありません!」
「だから『もっと酷いもの』だと言ったろう」
 腹が減って気が立っているときに、ともっと頭に血が上りかけたリップルの肩を、ぽんとカナンが叩く。
「蝙蝠とバッタと、得体の知れない甲殻類しかいないようなんだ。蝙蝠は伝染病の媒介にもなるからな。シュメイと相談して、これになった」
「え、あ……そうなの」
 冷静に事情を説明され、勢いが収まっていく。
「嫌なら食わなくて良いぞ」
「カナンちゃんが食べるなら、食べます」
「そうか」
 あっさりとカナンが頷いたところから、食べるつもりなのだろう。
「あのぅ……ボク、食べるのはとにかく、捌くのはちょっと……」
 調理器具を取りにか、船へと歩を進めようとしていたカナンが振り返る。
「それはシュメイと私でやろう。携帯食の準備をしてくれ」
「はいっ」
 カナンに頼りにされるのは嬉しい。頑張ろう、と振り返ったところで、デイルムースの胡乱な視線に気付く。
「な、何よ」
「君は随分……カナンに信用されているんだな」
 言葉の割には胡散臭いものを見るような目だ。リップルは胸を張る。
「そりゃ、共に死線を潜ってきた中ですもの。それにボクはカナンちゃんの未来のお嫁さんだからね!」
「お嫁さん……?」
 デイルムースは一瞬首を傾いだが、すぐに元の表情に戻る。
「―――まさかカナンがタロットと一緒にいるとは思わなかった」
 また馬鹿にされたのかと、湯を沸かす支度をしながらリップルは眦をつり上げる。
「あのね、ボクにはちゃんとリップルって言う立派な名前があるんだから」
「どうやって誑かしたんだ?」
「ねえ、話聞いてる?」
 こめかみを引きつらせて、リップルは深呼吸する。
 一方で、デイルムースはどこか虚ろな表情をしていた。リップルの支度をただ、眺めているだけで、傍らに座ったまま手伝おうともしない。
「カナンが供連れだとは……想像もしていなかった」
 ぽつりと零された言葉に、リップルは―――つばを飲み込んだ。
 そういえば、リップルはカナンのことをほとんど何も知らないのだ。
 デイルムースは、カナンの過去を知っている。彼女のことを聞き出す随一のチャンスではないか。
 だが―――リップルはかぶりを振る。
 こういうのは何だか、フェアではない気がする。
 本人の口から、本人が話したいと思った事を聞くべきだろう。
 そう心の中で結論づけた矢先に―――デイルムースが口を開いた。
「君は、カナンがどういう人間か知っていて一緒にいるのか?」
―――どういう人間って?
 聞き返したい言葉を飲み込み、リップルは答えた。
「口じゃ冷たいこと言うけど流されやすいし、困っている人を放っておけない、すごく優しい人よ」
 デイルムースはしばらく無言に落ちた後、聞き取れるかどうかの声で呟いた。
「……そうか」


「気になるなら、早いこと出て行ったらどうなんだい」
 僕もいい加減方陣を張り続けるのに疲れてきたよ、と、船の出入り口に張り付くカナンの背中に、シュメイが声をかけてくる。
「盗み聞きっていうのは、ニンゲンの文化でも歓迎されないんじゃないのかい」
 沈黙を保ったまま、カナンは外―――リップルとデイルムースの様子を窺っている。二人は湯を沸かすための焚火を挟んで、話をしているようだ。
「……わざと二人きりにして、きみはまるで試そうとしているかのようだ」
 振り返る。
 壁にもたれかかりながら、シュメイはカナンを見下ろして微笑んだ。
「試されているのは、彼の方? 彼女の方?」
「……何の話だ」
「妄言さ。聞き流してくれ。ただ―――」
 その時。悲鳴のようなものが、カナンの耳に届いた。
 外から。女の声―――
 そこまで認識するより早く、カナンは戸の外へ飛び出していく。
「ただ、きみが『試す』ってことができる性格なら、の話だよねえ」
 溜息交じりのシュメイの呟きを、聞くことがないまま。


「どうした!」
「か、か、か、カナンちゃん……」
 消えた焚火のそばで尻餅をつく二人に辿り着き、カナンは既に構えた双剣の切っ先と顎を上げた。
 灯りがなくなったせいで真っ暗だが、夜目の効くカナンは、焚火を踏み潰すように立つ、二本脚の巨大な影を捉えていた。
 人かと思ったが―――明らかに大きすぎる。何より、頭のシルエットは獣のそれだ。
 今にも剣を振らんとした時、それは―――口を開いた。
「待て!」
 腹の底から響くような、低い大声。
 だが確かに、意味成す人の言葉だ。
「―――待て。もしや、貴殿らは『ヒト』ではないか?」
「その前に、お前は何者だ」
「かような問いをするということは、貴殿は相当目が良いようだ」
 軽く驚いたように、影は答える。
「―――剣を引いてもらいたい。敵対する気はない」
「信用できると思うか?」
「焚火を消したのは、わしの姿を見れば魔物と勘違いするだろうと思うてのことだ。……いや、信用できぬのは理解できる。だが見てわかるじゃろう、わしは丸腰だ」
「……足を退け」
 言われた通り、影は焚火跡から退いた。
「リップル、火を」
「う、うん……」
 言われた通り、再び薪に着火するリップル。
―――炎に明らかにされた影を見て、再び絶句する。
 そこに立っていたのは、獅子の頭を持つ人間だった。


 ピルグリムが交代で氷銀の棒杭を打ち込んだ、正体不明の赤い塊―――の親玉のような塊―――が、音を立てて崩れていく。
 軽く小山ほどの大きさはあったそれが、少しずつ瓦解するにつれ、どこからともなく流れ込む冷気が増えているかのようだ。
「さっむ!」
 ドミニクが、己の二の腕をさする。
「この……赤い小山が、洞窟内を暖めていたんでしょうか?」
 砕かれ、欠片となったそれらは、発熱を維持することが出来ないらしい。
「見て」
 小山の傍らにあった水辺が、みるみるうちに凍りついていく。
「うわっ……つまり、水が凍るだけの気温ってことね」
 ドミニクが吐き出した息は真っ白だ。
 寒いのか、抱きついてきたニーナを抱き返しながら、アティは仲間を見渡した。
「どうします? 防寒着をほとんど置いてきてしまいましたし、一度気球艇に戻った方が良いと思いますけど」
「そうだな。……俺は、先程見かけた奇妙な男が気にかかる」
 マオが言及したのは、金剛獣ノ岩窟の別の入り口にいた、牛頭の兜を被った大男のことだ。
 小川の向こうにいたが、こちらには気付いていたようだった。一方で、声をかけられるほどの距離ではなく、行き止まりであったため、そのときは引き返すしかなかったのだが。別の入り口とはいえ、凍結はそこまで及んでいるかもしれない。
「じゃ、気球艇でそっちの入り口に移動しよう」
―――全員一致で、そうなったものの。
「驚いた。なんだあの魔物は思っていたが、よもや外からの客人であったとはな!」
 朗らかに笑う牛頭―――兜ではなく生頭が―――の男に、ピルグリムは全員言葉を失っていた。
 予定通り、防寒済みで別の入り口に向かい、やはり凍りついていた小川の上を渡った先の出来事である。
「あー……すごい、人の言葉を喋ってる」
「はっはっは、似たようなことを言われたことがあるな。十年ほど前だったかな。人間が最後にこの里に足を踏み入れたのがそのくらいだ」
「里?」
「おお、そうだ。疲れておろう。参られよ! 里へ案内しよう」
―――男はキバガミと名乗った。
 小川を渡ってすぐ、岩で出来た通路の先に、くりぬいたような広い空洞が広がっていた。所々に装飾が施された岩の柱があって、あちらこちらに火が灯されているためか、驚くほど明るく、暖かい。
 何よりピルグリムが驚いたのは、その里の住民たちの姿だ。
 見かける里人すべての頭が、獣のそれにすり替わっている。毛の生えた四肢と体躯、ずんぐりしたそれらの形からして、どちらかといえば、人間の大きさの獣が二足歩行をしている、といった体に近い。彼らの名は、イクサビトといった。頭の種類は複数あって、馬であったり狼であったりウサギであったりと、実に様々のようだ。
 先導してくれた牛頭―――キバガミは、この里の長であるという。豪快に見えて隙のない歩き方、腰に提げた立派な獲物―――刀という片刃剣で、タルシスではあまり見ないが、アティは故郷で見たことがある―――からして、手練れであることは読み取れた。ウロビト同様、魔物の出没するダンジョン内で何故か生活しているところからして、戦う術を持っていることは当然なのかもしれないが。
 里の奥に通されると、火を焚く設備の上で、何かの鍋がぐつぐつ言っていた。
「おお、準備をしてくれていたか」
 キバガミは人払いをかけると、鍋の向こうに座した。
「―――ちょうど昼餉の時間であったのだ。客人よ、座られよ」
「ええと……」
 ウロビトのときと、同じような状況だ。
 アティは意を決して、先んじて座した。その様を見た仲間たちが、めいめいの表情を浮かべながらも続く。
 馬面の兵士が近づいてきて、鍋をかき混ぜるキバガミに耳打ちする。
「なに、もう一人客人が来たと?」
 顔を見合わせるアティたち。だが、この迷宮の探索は開放されているので、他の冒険者かもしれない。
「私たちはかまいませんので、お通ししてください」
「む、そうか。ならばここへ」
―――そうして連れてこられた、くたびれた風情の髭の顔に、アティは目を丸くした。
「ワールウィンドさん?」
「やあ。やっぱり、きみたちだったか」
 わずかに安堵を滲ませて、ワールウィンドは片手を挙げる。
「あんた……」
「失礼するよ」
 怪訝な―――むしろ、警戒するような―――目を向けるエリザベスをよそに、彼はアティの隣に座る。
「ふむ、お主らは顔見知りであったか。なら、話は早いな」
「これはなんだい、どういう状況?」
「お鍋をごちそうになろうというところです」
「ごちそう……」
「良い鮭が獲れたのでな。……ほら」
 鍋の中身が盛られた器を手渡される。
 これも躊躇せず、アティは口に運んだ。鮭のほぐし身と野菜の甘みの滲んだスープに、身体の芯から温まる。
「ニーナもおいしいですか?」
「むー」
 アティの呼びかけも顧みず、がつがつとよく食べるさまに、キバガミが目を細める。
 その牛の顔に浮かぶ笑みは、嘘偽りのないものだと思えた。
「……お主らは、我らの同胞には既に会われたのか?」
「ええと……イクサビトは、キバガミさんが初めてです」
「我らではない。『同胞』だ」
「あっ……」
 もしかして、とアティは口を覆った。
「ウロビトの皆さんのことでしょうか?」
「ふむ、そうだな。我らは『知恵に長けた同胞』と呼んでいる」
 やはりそうか、とキバガミはうんうん頷いている。
「あの……先程、十年前にも、人間がこの里を訪れたとおっしゃっていましたけど」
 アティと同じように鮭鍋を口に運んでいたワールウィンドが、わずかに顔を上げた。
 キバガミは鷹揚にかぶりを振る。
「それは、お主らとは別の人間だ。だが、我らの創造主が人間であることに変わりはない。数百年前より、外の世界から来た人間にイクサビトの歴史を語れ……と人間の言葉が残されている」
「人間が、創造主……」
 ウロビトの里でも、似たような話を聞いた。
 一方で、タルシスの街で歴史書を読み返したが、北部の山脈の向こうに、人間が生み出した種族を住まわせて世界樹を守らせた、などという記述は一切なかった。当然だ。
 ウロビトとイクサビトを生んだ『人間』とは何者か?
―――アティの疑念をよそに、キバガミの話は進んでいく。
 彼の話のうち、ウロビトの伝承とは決定的に違う点がひとつあった。
「我らはあの大樹を、悪魔の樹と呼んでおる」
―――世界樹のことを、イクサビトは崇拝するどころか、世界を滅ぼす巨人であると告げたのだ。
「巨人は歩くだけで地が裂けた。そして近づく者には呪いで、身体を樹や草に変えてしまうのだ」
 どこか苦渋にも似た色を滲ませて、キバガミは続ける。
「だが、我らの祖は戦いを諦めなかった。巨人を不死たらしめる三つの象徴を奪い取り、巨人を眠りにつかせたのだ」
「それが、今の世界樹だと?」
「左様」
 三つの象徴とは、ウロビトの持つ『心』、イクサビトが持つ『心臓』、そして人間が持つ『冠』という宝。
「冠……」
 タルシスにそんなものがあるのだろうか。
「ウロビトの、心っていうのも気になるね」
「そうですね。……ワールウィンドさん?」
 俯いていた彼を覗き込み、アティは小さく息をのんでしまう。
 眉をひそめ、目を眇めた厳しい表情がそこにはあった。
―――まるで知らない人間のようだ。
「あ、なんだい?」
 一転。アティの死線に気付いた彼は、いつもの無頼漢らしい表情に戻る。
「ええと……『冠』と『心』、心当たりはありませんか?」
「ふむ……」
「宝はどこかに保管されておるだろう。巨人が再び目を覚まさぬよう、おのおのの里に持ち帰ったはずだからだ。……だが、それを探してどうする?」
 キバガミの声が警戒を帯びたことに気付いて、アティは慌てて弁明する。
「いえ、私たちの目的は……世界樹に辿り着き、世界樹に近づく脅威を退けること、なんです」
「脅威とは?」
「分かりません。でも、世界樹を目指して旅を続けます。それは変わりません」
 キバガミは牛頭を捻り、黙り込む。
「……どのみち、今日はもう遅い。何なら、この里に泊まっていかれよ」
「えっ、そんな。そこまでしていただくわけには……」
「その子の様子を見るに、甘えた方がいいんじゃないか?」
 ワールウィンドに指摘され、アティは自分にもたれかかるように、ニーナが瞼を閉じているのを見つける。
「に、ニーナ」
「戻るなら、アリアドネの糸があるよ」
 冷たくあしらうエリザベスに、ドミニクが肩をすくめる。
「もっかい、ここまで来るの結構面倒じゃね?」
「それに、わざわざ引き留める理由があるんじゃないか?」
 ワールウィンドの弁に、キバガミは己の耳の付け根をばりばりと掻いた。
「お主らの中に……医術の心得がある者がおられると見込んでひとつ、頼みがあるのだ」
 マオが眉を上げる。
「―――ある病に冒された者が我らの中にいる。それは……巨人の呪いによるものだ」
「巨人の呪い……」
 反芻するワールウィンドをよそに、キバガミはマオを見た。
「人間の治療方法で治る手立てがあるか、相談させてもらいたい」
「それは、かまわないが……」
「本当か」
「アティ」
 是非を問うマオの視線に、アティは力強く頷いた。


「ハッハッハ! そうか、知恵の同胞よ! だからデモンホッパーをぶら下げておったのか!」
「はっはっは、まさかもうちょっと上流に、普通の魚や普通の鳥が住んでいる森があるなんて、盲点だったよ。さすが生命力に長けたイクサビトなだけあってよく知っているね」
 焚き火を囲んで、シュメイと意気投合する獅子頭―――もとい、グレンと名乗った『イクサビト』。
 彼ら半獣半人の種族は、ここよりもっと北にある迷宮の中に里を持ち、この大地一帯を根城としているらしい。グレンはその中でも『はぐれ』のイクサビトなのだと自称した。シュメイも似たようなことを言っていたから、はぐれ者同士気が合うのかも知れない。
 グレンはリップルたちの窮状を聞くと、自分が持っていた食糧や火種を分けてくれた。焚き火を供にし、こうしてお互いについて話をしていたというわけだ。と言っても、カナンとデイルムースは黙りっぱなしで、バッタよりずっと人間らしい食事に手を付けるそぶりもないし、喋っているのはほとんどがシュメイなのだが。
「ほれ、どうした。手が止まっておるぞ」
「ん」
 持っていた木の器―――これもグレンがどこからか持ってきた―――に何杯目かのスープをよそわれ、リップルは辟易する。
「もー、こんなに食べられないよー」
「何を言う。かような小さく細っこい身体をしていては、この山越えには保たんぞ」
「山越えって……別に歩いて越えるわけじゃないんだけど」
「む、わしはここまで徒歩で来たぞ」
「ほんとぉ?」
 しかし、考えてみればウロビトもイクサビトも気球艇など持ち合わせているはずがないのだから、小迷宮への移動手段は限られている。
「そ、そうでなくても馬とかさ……」
「こんな豪雪で魔物どもにも出くわすとなれば、獣なんぞただの食糧じゃ」
「まあ、ここは銀嵐ノ霊峰の入り口の小迷宮だからね。そのうち他の冒険者も通るから、無理に先に進もうとせず、救助してもらえばいいんじゃない」
「でも、アリアドネの糸が動かないんだよ?」
「さっき見てみたけど、凍りついてるみたいだったよ」
「えっ……」
 絶句したリップルに、シュメイは焚き火に手をかざしながら言う。
「日が昇れば多少、気温も上がるだろうし。もう一度試してみよう」
「うん……そうする……」
 シュメイは、寒さに死にかけていたと思えないほどの溌剌さだ。グレンとは旧知の仲であったかのような打ち解けようで、いつもの調子で話をしている。
「……グレンさんは、どうしてこんなところで一人で生活しているの?」
 獅子の目が丸くなる。何となく猫みたいで愛嬌があった。
「―――シュメイさんは魔物を研究する学者だって言って、ウロビトの里から離れて生活してたのよね。グレンさんもそんな感じなのかな、って」
「ふむ……」
「あ、話したくないならいいの。ごめんなさい」
「いや、構わぬ。ただわしは、貴殿のような年端のいかぬおなごが、かような苛烈な地に足を運ぶ理由も気になっておってな」
「えっ」
 自分に話を振られるとは思っていなかったリップルが仰け反ると、グレンは立派な髭を扱きながら笑った。
「否、それも無理には聞かぬ。ただ、わしの事情を話したなら、教えてもらえると対等になろう、と思ったのだ」
「……うん。そうね。グレンさんの話を聞きたいから、ボクから話すよ」
 リップルは息を吸い込むと、蕩々と己のことを話し始めた。
 人間の中でも、タロットという部族出身であること。部族の決まりで、結婚相手を探して旅に出たこと。辿り着いたタルシスでカナンに出会い、カナンにふさわしい相手になるため、彼女の仕事を手伝っていること……興味がないのか、カナンの話になっても、彼女は何も言ってこなかったのが残念だったが。
「ふむ……その齢にして、苦労を重ねておったのだな」
「そうなの。カナンちゃんがなかなか振り向いてくれないからぁ~」
 こんな風に視線を送ったところで、話に乗ってこない。いつもは少しくらい反応してくれるのに、と唇をとがらせた。
「次は、グレンさんよ」
「うむ。わしは、いわゆる破戒僧というやつじゃ」
「ハカイソー?」
 聞き覚えのない単語を反芻すると、グレンは鼻先を揺らすように頷いた。
「イクサビトにも信じ、守護するものがある。わしはそのために戦う兵士じゃった。僧兵というやつだな。しかし、戒律を破ってしまったがために、破門されてしもうたのじゃ」
「里を追い出されちゃったってこと?」
「平たく言うとそうだな」
「何をしでかしたんだい?」
 口を挟んだシュメイに、グレンはかつかつと笑う。
「はっは、遠慮せんのう」
「だって、里を追い出されたんだから、相当悪いことをしたんだろう? そんなの興味が沸くに決まっているじゃないか」
 シュメイの言葉に、グレンは更に大笑いする。よく分からない笑いのツボだ。
「残念だが、同胞が期待しているほど非道な行いではない。わしの罪は……聖域を侵そうとしたことじゃ」
「聖域? イクサビトの?」
「そう。聖域を侵犯し、北の山の封印を解こうとした罪じゃ」
 そう言って、グレンが酒瓶で指したのは―――世界樹だ。
「もしかして、世界樹を目指そうとしたの?」
「その通り。まあ、さすがのわしもあの山は徒歩では渡れんわい」
「やってみたんだ……」
「力不足を痛感したのじゃ。身一つで御山に挑むには修業が足りんと、こうして麓の山を往復して我が身を鍛えているというわけよ」
「努力の方向が間違っている気がする……」
 冒険家気質なのか。それとも、そこまでして、世界樹を目指す理由があるのか。
 何となく、そこまでは訊くことが出来なかった。


 宛がわれた部屋でニーナを寝かしつけると、アティはそっと外に出た。
 廊下に当たる細い通路にも、壁には均等な感覚で火が点けられていて明るい。キバガミと話すマオの背中を見つけて、アティは近づいた。
「私たちも、ご一緒してもいいですか? ニーナは、ドミニクが一緒にいてくれますし」
 アティの後ろには、エリザベスが立っている。
 マオが見上げたキバガミは、複雑な表情をしていた。端的に言えば、困っている顔だ。
「……興味本位、というのは」
「申し訳ありません。『巨人の呪い』と仰った言葉が、気にかかって」
 それと病がどう結びつくのだろうか。
 ウロビトの伝承との食い違い。世界樹は敵なのか味方なのか? それを見極めるためにも、『呪い』を我が目で見て、理解する必要がある。アティはそう思っていた。
「あたしはただの付き添い。あんたたちが信用できるか、分からないからね」
「ベス!」
 キバガミを真っ直ぐ見つめるエリザベスに、彼は難しい顔で頷いた。
「……分かった。ついてこられよ」
「アティ」
 マオが手招きし、歩きながら耳打ちしてくる。
「―――こういう土地での『呪い』と呼称される病は、伝染病である可能性が高い。俺よりも患者の側には近づくな」
「は、はい」
「あと念のために、これを」
 手渡されたのは、口鼻を覆う布だ。
 渡してきたマオの装備は、手袋をしているくらいだ。自分の分をアティにくれたのなら、本末転倒だろう。
「い、いりません。マオが付けてください」
「必要があればな。念のため、と言った」
「もう……」
「仲が良いな」
 キバガミにからかうように言われ、アティは「え」だの「あう」だの、意味のなさない言葉を漏らした。
「―――お主らは、ここまでどれくらいの時間、共に戦ってきたのだ?」
「ええと……私と彼は、ここの麓の街に来る前からの知り合いで。十年ほどは、一緒にいると思います」
「十年。そうか……であれば、今のようなケンカも絶えぬであろうな」
「そうですね。どちらかといえば、私が怒られてばかりですけど」
「貴女が無茶ばかりするからでしょう」
 思わぬ反論に、アティは目を剥いた。
「そ、そんなことありません! マオが心配性なだけです! 絶対そうです」
「着いたようだ。これ以降は静かにしよう」
「も、もう……」
 藍色に染められた垂れ布をめくり、キバガミが三人を室内に入るよう促す。
「これは……」
 平らな岩の上に作られた寝床に、ニーナくらいか、それよりも年下の、イクサビトの子供たちが数人横たわっている。
 彼らの様子を見て、アティは口を覆ってしまった。獣の毛が生えた体躯にはツタのようなものが絡まり、樹脂にも似たかさぶたが、点々と張り付いていたからだ。
「……この病は数百年前、巨人を倒した以降からずっと続いているものだ。ゆえに、『巨人の呪い』と口伝されている」
「……近づいても?」
「直接触れぬように」
 やはり、感染するのだろう。子供の一人に近づき、触診を始めたマオを眺めるキバガミ。
「何百年も、こんな病気に苦しめられてきたのですか」
「流行には周期があるようでな。拙者が、物心ついてからは……十年前に突然流行り、今に至っても猛威を振るい続けておる」
「そんなに、長い間……」
「おかげで、この里も随分子供の声が減ってしまった」
 悲しそうに、キバガミは呟いた。
「―――身体ができあがる前の子供や年寄りといった、弱い者から病に倒れる。どのような薬草も祈祷も、気休めにしかならないのだ。一度病にかかった者は……数ヶ月から数年をかけてゆっくりと蝕まれ、やがて樹と草にその姿を変える」
「それって……死ぬってこと?」
 子供たちの耳に入らないような小声で、エリザベスが言う。
 キバガミは、小さく頷いた。
「いかがかな」
「……俺も初めて見る病気だ」
「人間の世界に、似た病はないのか?」
「似た症例はあるにはあるが……皮膚の硬化や、動植物の寄生によるものだ。それとは全く違うだろう。この病はまるで……そう、人が樹そのもの……全く別のものに変容していっているかのようだ」
 厳しい表情で、マオはかぶりを振る。キバガミが溜息をついた。
「やはり、同じか」
「感染経路は?」
「分からぬ。十年間世話を続けているが感染せぬ拙者のようなものもいれば、同じ里内とはいえ、この部屋に立ち入ったこともない子が突然病に倒れることがある」
「治療法がないと言っていたな。ここから少し離れた土地や、水を替えてもダメなのか?」
「水?」
 アティの疑問に、マオは補足する。
「風土病と言ってな。土地や風習が病の原因となることがあるんだ。人が生きていくのに必要な栄養素が元々少ない土地であったり、土壌や地下水脈が原因で、生活水が汚損されていることもある」
「我らは、守人としてこの里に根付いておる。ここから出て行くことは出来ん。水は……この雪と氷に閉ざされた大地にいる限り、おそらくあまり変わらないだろう」
「このすぐ南、ウロビトの里やタルシス近辺で、このような病が流行った記録がないかを洗い出してみよう。もしかすれば、解決策があるかもしれない」
 マオはキバガミを見上げる。
「いや、そこまでする必要はないさ」
 唐突に降った声に、その場にいた全員が出入り口に視線を向ける。
 そこに立っていたのはワールウィンドだ。
「あれ? あんた、帰ったんじゃ」
「『巨人の呪い』ってのに、少し心当たりがあってね。……どうぞ」
 ワールウィンドに促され、室内に入ってきた小さな影に、アティは声を上げた。
「シウアン!」
 それは、ウロビトの巫女ことシウアンだった。少女は緊張した面持ちから、アティたちを見つけて安堵したように顔をほころばせる。
「巫女?」
「なんでこんなところに」
 しかも、ウロビトの供もいないらしい。睨みつけたエリザベスに、ワールウィンドは肩をすくめる。
「そんな怖い顔をしないでくれよ。この子と君たちの力があれば、この病は治すことができるんだから」
「どういうことだ?」
 ワールウィンドはキバガミに話しかける。
「呪いっていうのは、巨人の血とか、そういうものらしくてね。巨人、つまり世界樹の声が聞ける『心』である巫女が『心臓』に働きかければ、呪いは祓うことができる」
「『心臓』……」
 イクサビトの里にあるという、巨人の『心臓』のことだろう。
「ものは試しだ、ってことでね。彼女を連れてきたのさ」
「ピルグリムのみんなが、わたしの力を必要だって聞いたの。わたしにしかできないことがあるって。ウーファンたちも来ているけど、大人数で病室に押しかけるのは良くないかなと思ったから、外で待ってもらっているわ」
「あたしたちが、ねえ……」
 胡散臭いものを見る目になったエリザベスに、ワールウィンドは両手を掲げる。
「緊急事態さ。勘弁してくれよ」
「まさか、この少女が治療を行うと?」
「そのまさかだ。心臓はこの里の近くには、少なくともあるんだろう?」
 ワールウィンドとキバガミが言い合う隙間に、こっそりとシウアンが病の子供に近づく。それに気付いて、マオが彼女の肩を掴んだ。
「危険だ」
「大丈夫だから、お願い。試させて」
「何を根拠に―――」
「信じて欲しいの」
 背筋を伸ばし、毅然とした態度で、シウアンは言った。
「―――わたし、世界樹の声が聞ける以外に能がないと思ってた。戦う事もできないし、世界樹を助けに行くこともできない……でもみんなが里に現れて、わたしの世界は広がったの。わたしにもできることがあるって、そう思えるようになった。だからわたし、やってみたいの」
「マオ」
 アティはそっと、マオの腕を掴む。
 マオは眉を寄せたまま、シウアンの肩を離す。
「気遣ってくれて、ありがとう」
 シウアンは花が綻ぶように微笑むと、イクサビトの子の枕元に跪いた。
 瞑想する彼女に応じるように、見覚えのある小さな明かりがぽつぽつと周辺に灯る。
 空間を暖かく照らすそれらが、やがてイクサビトの子に至ると―――うなされていた苦渋の表情が和らぎ、穏やかな寝息が聞こえてくる。
 シウアンは瞼を開くと、頬まで垂れた汗を拭った。
「だめ。世界樹にお願いしてみたけれど、これ以上は無理だって」
「治療したわけではないのか?」
「うん。……痛いのを鎮める、くらいかな。病気が進むのは、少しだけ遅らせられたと思うけど」
「それだけでも、十分な進歩だ」
 感嘆したように、キバガミは溜息をつく。
「―――失礼した。ウロビト……同胞の『巫女』殿と仰いましたかな。拙者はこのイクサビトの里の長、キバガミと申す」
「こちらこそ、無断で大切な病室を覗いてしまった上に、ご挨拶が遅れてごめんなさい。シウアンです」
 シウアンは丁寧に、腰を折ってお辞儀した。
「ちょっと、こっち」
 ワールウィンドを引っ張って、エリザベスが部屋の隅に向かう。
「―――あんた何考えてるのよ! 勝手にあたしたちの名前まで出して、巫女なんか連れ出して!」
「大体、何故あなたがそんなことを知っていたんだ? ワールウィンド」
 マオに問われ、ワールウィンドは頬を掻いた。
「丹紅ノ石林を歩き回っていたら、ウロビトが伝説の巨人とどう戦ったか書かれた本を見つけたのさ。そこに、病の対処法についても記載があった」
「……そんな説明で、納得できると思う?」
 低く唸るエリザベスに、アティは腕を伸ばす。
「ベス。ワールウィンドさんは、親切でシウアンを連れてきてくださったのに」
「親切? そんなわけないだろ。何か裏があるのさ」
「そんな……」
 二の句を継げなくなる。エリザベスの頑ななまでの、ワールウィンドへの冷たい態度に、どうして彼女がそんなことを言うのか、アティには理解ができなかった。
「治療には『心臓』が必要と言ったな」
 マオの視線が、シウアンに投げられる。こくこくと彼女は小さな顎を縦に振った。
「世界樹にもっと近い物が手元にあれば、治療に近い事は出来ると思う……」
「だ、そうだ」
 マオが矛先を向けたのは、押し黙っていたキバガミだった。
「……巨人の心臓は、この迷宮の地下深くに祀られておる。強大な魔物に守られたそれに触れることは、禁忌中の禁忌なのだ……」
 だが、とキバガミは鼻の根元にしわを寄せる。
「子らの未来を守ることができるのならば……」
 キバガミはイクサビトの里の長なのだ。禁忌に手を伸ばすのには、葛藤があることだろう。
「……すまぬが、一晩もらえるだろうか」
「はい、わたしは構いません」
「重ね重ね、感謝する。……客人に部屋の準備を!」
 イクサビトの誰かを呼ばわりながら、キバガミは病室の外に出て行った。
「とりあえず、俺たちも病室で騒ぐのはよそう」
 ワールウィンドに促され、一行は外に出る。
 イクサビトの里の中には、シウアンの言ったとおり、彼女についてきたウロビトが数人いた。ウーファンとも軽く挨拶を交わすと、ピルグリムは与えられた部屋に引っ込む。
「シウアン、病気の子供たちを看ると言っていましたけれど……無理をしていないか、心配です」
「先生もついていったんだろ? 大事にはならないって」
 それより、と。ニーナの寝台に腰掛けていたドミニクは、渋い顔になった。
「―――おいらがいない間に、随分な騒ぎになってたんだな。仮に、心臓を取りに行くってなったらどうするんだ?」
「それは勿論行くに決まってます!」
「こんな胡散臭い話にのれるはずないさ」
 両極端な答えを、アティとエリザベスが口にする。
「ど、どうしてですか、ベス!」
「さっきも言ったけど。あたしはワールウィンドの言葉を信用してないからね」
「どうしてですか? ワールウィンドさんは今までも、私たちを助けてくれていたのに。今回だって、イクサビトのためにわざわざ、巫女を―――」
「それがおかしいって言ってんのさ。そもそも巨人やその呪いのことを知っていたなら、何故統治院に報告しないの? 『冠』は人間が持って帰ったのなら、タルシスにあるのかもしれないのに」
「それは……」
「あいつは自分が必要なときにしか、自分の情報を提供していないんだよ。そんなやつ、信用できるもんか」
 吐き捨てるようなエリザベスの言い方に、アティは鼻白む。だがすぐに自分を持ち直すと、かぶりを振った。
「きっと、理由があるんです」
「理由? どういう」
「訊けば教えてくれます!」
 躍起になるアティを、エリザベスは鼻で笑う。
「あたしたちの名を出してまでこんな夜半に、巫女を連れてきたヤツが?」
 シウアンが言っていた―――『世界樹に迫っている脅威』という言葉が、アティの脳裏をよぎる。
 それについえ、ワールウィンドに話したことはない。だが、何らかの理由で彼が脅威のことを知っていて、回避しようとしていたのだとしたら?
 だが、それならば、アティたちと立場は同じはず。情報共有しようとするだろう。
 もし、ワールウィンドが、脅威を及ぼそうとしている側ならば―――
「おい、何を喧嘩しているんだ」
 扉代わりの垂れ幕をめくって、マオが室内に入ってくる。
「―――外まで大声が聞こえていたぞ」
「あー……ちょっとね」
 ドミニクが頭をばりばりと掻く。
 アティは、自分が考えてしまった恐ろしい可能性を、ぶんぶんと頭を振って打ち消していた。ワールウィンドはいつでも、ピルグリムの冒険を支援してくれていた。他の冒険者を救助したり、ウロビトの里を救うためのヒントをくれたり。そんな彼を、一瞬でも疑うなんて。
「アティ?」
 マオに覗き込まれていることに気付いて、アティははっと顔を上げた。
「な……何でもありません。ごめんなさい、夜更けにうるさくして」
「……とにかく、あたしは反対だからね」
 自分に宛がわれた寝台に乗り上げたエリザベスは、天井から吊されたカーテンを音を立てて閉めてしまう。
「何の話をしていたんだ?」
「……仮に。心臓を取りに行くことになったらどうする、って話」
「ああ……」
 マオは生返事を返す。まるで「またか」と言われているようで、アティは身を竦めた。
 ギルドの探索について、エリザベスやマオとぶつかることは少なくはない。アティがのんびりとしていて、緊張感や警戒心がないからだと、二人にはよく叱られる。
 だが、今回ばかりはアティにも譲れない。
 ワールウィンドの真意が分からないままに、彼を疑ってかかるのは嫌だった。
 それに、イクサビトの子供たちのいのちがかかっているのだ。
「仮の話で体力を消耗するのは無駄だ。今日のところはもう休もう」
 マオの言葉に異を唱えるものはいなかった。

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第12話

 翌朝。
「おい、いつまで寝ている」
 気球艇の船の中で休んでいたリップルを起こしに来たカナンに、彼女はぼんやりと焦点の合わない視線を返した。
「カナンちゃん、また、てつや……?」
 声が掠れている。寝起きの悪い方ではないはずだが、まだ意識がはっきりしていないようだ。
「こんな気候なのに、薄着で寝るやつがあるか」
 ツインテールを解いたリップルの長い金髪の下には、いつもの踊り子の装束とほとんど変わらない、下着姿があった。腕まで垂れ下がっている紐を肩に戻してやりながら、カナンは呆れた溜息を吐く。
「早く支度をしろ。アリアドネの糸の試験をする」
「ふぁい……」
 ふらふらと頭を左右に振りながら、服を脱ぎ始めるリップルを置いて、カナンは船を出る。
「ちゃんと起きた?」
「ああ」
 シュメイはカナンの目の下を指差す。
「きみ、寝てないでしょ? 火の番なんて交代で良かったのに」
「……そういうわけにもいかん」
 虚ろに返したカナンに肩をすくめて、シュメイはデイルムースを向いた。
「きみはよく寝ていたなあ」
「え、あ……そ、それはそうだ。夜間に体力を消耗してどうする」
 胸を張るデイルムース。
―――やはり、こいつに見張りなど不要だったか。
 カナンが警戒していたのは、火があるとはいえ雪原の中心で居眠りができるグレンではなく、デイルムースだった。この期に及んでも、彼の真意が読めないからだ。
―――私を狙ってきたわけではないのか?
 シュメイは少なからず、勘づいている。デイルムースとカナンの間に走る緊張した空気のことを。だが、カナンが何も話さないから、訊かないでいてくれるだけだ。
 リップルが船から下りてくる。昨日よりも厚着をして、ふらふらとした足取りだ。
「リップル?」
 ふと雪に足を取られたのか、もつれたのか、リップルの身体がぐらりと揺らぐ。
 カナンが駆けつけてそれを抱き留めるより早く、太く逞しい腕が、リップルを抱き支えた。
「おお。大丈夫か」
「グレンさん……」
 ぐったりと彼に寄りかかっているリップルに、グレンは「ぬ」と、もう片方の手をリップルの額に当てる。
「失礼……む、これはいかん」
「どうした?」
 近づき、リップルを注視する。褐色肌が紅潮して、吐く息も荒くなっている。
「体調が優れぬようだな」
「リップル」
「ごめんなさい、ちょっと……休んでたら治ると思う」
「無理をせず、船の中で休んでいろ。糸を確認したら呼びに戻る」
「まあ、そんなに時間のかかる調整じゃないし。そこで待っててよ」
 シュメイはそう言うと、アリアドネの糸を広げる。
「うーん……」
「どうだ?」
「……仕組みは、丹紅ノ石林や深霧ノ幽谷にある磁軸と、そう変わりはないと思うんだけど。力不足というのかなあ。なんだか、不自然に機能が失われているような感じだ」
「故障か」
「それにしては、二本とも機能しないのはおかしいと思うけどね」
 参ったな、とカナンは空を仰いだ。
 吹雪が収まっているどころか、快晴と言っても差し障りがない。気球艇を再び飛ばしたところで、大地の中心に見える、巨大な磁軸まで辿り着ける保証はない。かといって、何の装備もないカナンたちが、グレンのように徒歩でそこまで迎えるとは到底思えなかった。
「……他の冒険者が通りがかるのを、待つしかないか」
「リップル、船の中で寝てなよ。あとでカナンがご飯を持って行ってくれるから」
 シュメイの言葉に、カナンは眉をひそめた。
「何故私が」
「ふぁい……」
 グレンから離れ、覚束ない足取りでふらふらと船に戻っていく後ろ姿に、カナンはその細い腕を取った。
「カナンちゃん?」
「道中で倒れられて、悪化されたら困るからな」
「ふふ」
「寄りかかるな、重い」
 突き刺さる視線を無視して、リップルを引っ張るようにしてカナンは船に戻る。
―――ごねるリップルを寝床に横たわらせ、船の出入り口に戻ると、そこにはデイルムースが立っていた。
「……何の用だ?」
「あの獣人が、追加で物資を融資してくれるらしい」
 木箱を持ち出そうとしていたようだ。床に置かれた空のそれを一つ持ち上げたカナンに、デイルムースは淡泊に言った。
「……物資を奪うという手もあるだろう?」
 カナンは鼻で笑った。
「くれると言っているものを、無理に奪う必要がどこにある?」
「昨夜、突然現れた時点で、そうすべきだった」
「……何が言いたい」
 視線を投げると、デイルムースはゆっくりとかぶりを振る。
「お前らしくない、カナン」
 どこか失望したような目で、彼は続ける。
「俺の知っている貴女はもっと、合理的で洗練された刃のような人だった」
「……中々詩的な表現だ。お前らしい、デイルムース」
「からかうな。冗談じゃない」
 箱を持ち上げて表へ出ようとするカナンに、デイルムースは噛みついた。
「こんなところで冒険者の真似事なんて、どういうつもりなんだ。ましてや、タロットの小娘や得体の知れない異種族なんて連れて」
「お前には関係なかろう」
「ある!」
 無視して通り過ぎようとしたカナンを腕で遮り、デイルムースは吠えた。
「―――俺がどういう気持ちで、ここまで……」
「……戻ろう。シュメイたちが待っている」
「カナン、今からでも遅くない。ギルドに戻ろう」
 ギルド、という単語に、カナンは無意識に足を止める。
 ギルド―――暗殺者の。
「カナン!」
 デイルムースの腕を叩きつけるように払い、カナンは外に出る。
―――誰が、あんなところに。
 反射的な拒絶だったが、デイルムースは衝撃的だったようだ。目を瞠っている。その顔を見ているのも嫌で、視線をシュメイたちのいる焚き火に向ける。
 こちらの空気など気付いた風もなく、談笑している異種族の二人。甘くなった自覚はないし、自分と異なる外見をした者たちに対する偏見はない。大多数からはみ出しているとはいえ、真っ当に生きている彼らの方が、よほど人間らしい。
 近づいてきたカナンに、グレンが気付く。
「嬢は大丈夫か」
「……寝かせてきた。放っておいても治る」
「そうとは限らぬ。暖かくして、滋養のあるものを食わねば」
「それでこのご馳走なわけかい?」
 どこから持ち込んできたのか、焚き火には肉やら野菜やら魚やら、様々な食材がかけられていた。汁物もあれば、食べにくそうな、魚丸々一尾というものもある。今のリップルはとてもではないが、食べられないに違いない。
「それにしても、手慣れているねえ」
「イクサビトは父親が、子供らのために狩り場での食事を作るものだからの」
 乳白色の鍋を混ぜながら、グレンはぽつりと言った。


 イクサビトの里は色めきだっていた。
 地下三階に巣くう『ホムラミズチ』を十数年ぶりに討伐し、祀られた『心臓』を手に入れるという儀式が行われるからだ。
 本来、ホムラミズチの討伐は、次期族長を決めるために行われるものらしい。それだけの強敵だということだ。
―――すべてが伝聞なのは、イクサビトの戦士たちが出払い、もぬけの殻となった里で、ウーファンに説明を受けたからだ。
「まったく、私たちを探索に参加させるという発想はないのか」
 途方に暮れたように、溜息を吐くウーファン。
「でもキバガミさんは、この試練に挑戦する戦士をまず選定するって言ってたよ」
 留守番になったシウアンが補足する。アティを見上げて、「ピルグリムも、キバガミさんに挑戦したらいいんじゃないかな? きっと、みんななら勝てるよ!」
「そうです、ね……」
 顔色を窺うように、アティはエリザベスを振り返る。
「……ワールウィンドは?」
「そういえば……さっきまではいたんだけど」
 きょろきょろと周囲を窺うシウアンに、アティは手を打った。
「私、少し探してきますね!」
「あ、ちょっと!」
 エリザベスが追いかけてくる。
「―――ったく、すぐ一人でうろうろするんじゃないよ」
「すみません……」
「……あたしも、ごめん」
「ベス?」
 エリザベスはばつが悪そうな顔で―――ゆっくり深呼吸すると、口を開いた。
「昨日は、言い過ぎたよ。またイライラしちゃって。あんたに八つ当たり」
「ベス……」
 アティは、エリザベスの正直さが美徳だと思っている。彼女が人を疑うのは、いつでもアティたち、仲間のためなのだということも、分かっている。
 両手で彼女の手を握り、アティは答えた。
「ベス。私は、あなたの言葉を信じています。あなたの行動の正しさも」
 微笑んでみせた。
「ワールウィンドさんに会ったら、聞いてみましょう」
「……そうだね」
 そうして、イクサビトの里を歩き回る。
 里から一歩でも外に出てしまうと、魔物がうろついているらしい。十年間流行り続ける病を含め、こんな過酷な環境下であっても、イクサビトが他の土地で生きることはかなわないのが―――『心臓』を守り続けているからなのか。
 もしそうなら、彼らに『心臓』を祭壇から降ろさせるには、並々ならない決意が必要だったに違いない。
―――里の外れの、灯りも乏しい一帯に、ワールウィンドは一人で佇んでいた。
 膝丈もない石が、広い空間にぽつりぽつりと、均等な感覚で並べられている。手入れされたそれらの側に添えられた、花や食べ物や木のおもちゃを見つけて、アティはここが何の場所なのかを理解した。
 石の側には、この石の下に眠っている戦士のものと思しき刀や棍といった武器が突き立っている。
 そのうちの一つ―――明らかに、イクサビトのものとは違うと分かる両手剣を正面に、ワールウィンドは立っていた。
「……ああ、君たちか」
 以前アティたちが迷宮で拾い、返却したロケットをぱちんと閉じる。
「―――どうするんだい? 君たちは、巨人の心臓の探索に参加するのかな」
「その前にひとつ、ワールウィンドさんに聞きたいことがあります」
「……なんだい」
「ワールウィンドさんは、どうしてここまでイクサビトの皆さんのために尽力されているのですか?」
 ワールウィンドは首飾りを握り込むと、苦笑のような表情になった。
「……イクサビトの病を治したいという善意の現れ、じゃだめなのかい」
「い、いいえ」
 狼狽えるアティに、エリザベスがずいと前に出る。
「訊き方が悪かったね。……あんたは何のために、世界樹の迷宮に挑んでいるんだい」
 アティははっと息をのんだ。
 この問いは、ワールウィンドも驚いたらしい。目を瞠ると―――ふと、微笑んだ。
「そう来るとは思わなかったな。……答えにくい」
 視線を傍らの墓石に落とし、彼は続けた。
「……詳しくは言えないが、イクサビトを助けたのは、何らかの形で彼らの恩に報いたかったからなのさ」
「恩……ね」
「そう。正直言って、そこに打算があることは認めるよ」
 弾かれたように、アティはワールウィンドを見た。
 彼に張り付いた笑みは、ほんの少し、寂しそうだった。
「―――君らには迷惑をかける。すまないと思っているよ」
「ワールウィンドさん……」
「縁があれば、下層で会おう」
 いつも持ち歩いている大袋を背負うと、彼は奥の出口と思しき方向に去って行く。
「待ちな!」
 それに気付いて、エリザベスが鋭く声をかけた。
「あんたを信じている人間がいるんだ。それを裏切るような真似、すんじゃないよ」
 ワールウィンドは何か言いたげに振り返りかけたが、片手を挙げるだけで、そのまま歩いていってしまった。


「こらこら、だからダメだと言っているだろう」
「どうした」
 のっそりと奥から現れたキバガミを見つけて、馬面のイクサビトの兵士が、ほっとしたように溜息を吐く。
「ああ、長。ちょうど良いところに。お客人が……」
「キバガミさん、私たちも地下の探索に参加させてください!」
 アティの申し出に、面食らったように、キバガミの小さな目がぱちくりと瞬きをする。
「―――ウロビトの皆さんも手伝ってくれると言っています。みんなで力を合わせれば、ホムラミズチという恐ろしい魔物も倒せると思うんです」
「……申し出はありがたいが、ホムラミズチだけでなく、ここより下の魔物は危険なものばかりだ」
「私たちは、幾つもの危険を乗り越えてここに辿り着きました。きっとお役に立つと思います」
 キバガミは目を覆うと、天井を仰ぐ。
「冒険者、と言ったな。お主らは皆そのような生き方をしておるのか? ……いのちが幾つあっても足りぬぞ」
「ええ、それが冒険者です」
 胸を張って、アティは言い切る。
 キバガミの静かな―――しかし燃えるように激しく厳しい色を帯びた隻眼を見据える。
 やがて観念したように、彼はこう言った。
「……よかろう。しかし拙者はイクサビトの戦士……モノノフどもの実力は把握しているが、お主らの技量や力のことは知らぬ。我が里に辿り着くのだから相当の実力者ではあろう。その力、拙者と立ち会い見せてもらえぬか」
「では、キバガミさんとの立ち会いに勝てば……」
「うむ。下階の探索を許そう」
 ずん、と、キバガミが獲物の棍を床に降ろす。
 それは、降ろしただけで地が揺れるほど、質量を感じさせる鉄の塊だった。人間がこれを振り回すことはできまい。相当な筋力がキバガミに備わっていることは明白だった。
 ゆっくりと、獣の胸が上下する―――赤いたてがみが炎のように、噴気を帯びたような気がした。
「―――ただし、拙者は全力を出す。お主らも手加減は無用だ!」
「はい!」
「えっ、え、戦闘準備?」
「っていうか、五対一なの?」
 剣を抜いたアティの背後で、仲間たちの慌てた声が聞こえる。
「五対一……でよろしいんでしょうか?」
 構えはそのままに、首を傾ぐアティ。
 キバガミは鷹揚に頷いた。
「お主らは、五人で一つの力なのであろう。ならば、一丸となって望むが良い」
「分かりました!」
「あ、え、やるのね」
「全く……」
 仲間たちが武器を抜く音がする。
―――イクサビトの里の広場の外れなので、通りがかりの人々の視線を遠巻きに感じる。だが、深呼吸をしてそれらを意識の外に追い出すと、アティはキバガミを見据えた。
「それでは、お願いいたします」
―――思えば、自分よりも強大な人と相対することは、最近なかったような気がする。
「やあ!」
 渾身の力で両手剣を打ち込む。
 勿論受け止められる―――が、返す刃でアティは素早く再び斬りつけた。起動させた籠手の機能で、炎が吹き上がる。剣に纏わったそれにキバガミは一瞬身を引いたが、すぐにもう一手の武器―――刀を突き出してくる。
「させるか!」
 後方から飛ぶ矢。
 引き下がるように地を蹴ったアティを、キバガミが追ってくる。間合いの広い棍棒を避けきれない―――しかし、アティの前に飛び出したエリザベスの盾が、鉄の塊を真っ向から受け止めた。
「ニーナ!」
「あう!」
 地面すれすれを飛んだ氷の粒が、キバガミの足下を凍りつかせる。
「む……」
 アティはキバガミの死角に回り込むと、剣を切り上げた。
「ふんっ!」
―――気合いとともに、キバガミの筋肉が膨れあがる。
 アティが打ち込んだ刃は、キバガミの腕の筋肉に食い込んだ。
「なっ……」
「アティ!」
 驚愕に気を取られた一瞬で、全身を捻るように繰り出された重い一撃が、アティを弾き飛ばす。
 だが―――アティはなんとか、倒れず体勢を整えた。すんでのところで、キバガミの反撃を盾で受け止めることに成功したのだ。
 数歩分の、間合いの外にははじき出されてしまった。改めて切っ先を向けながら、キバガミの様子を窺う。炎のように立ち上る覇気のせいか、足下の氷が音を立てて割れていっている。動きを止めていられるのも、あと少しの間だけだろう。
(……強い)
 予想はしていたが、それ以上に。
 だが、アティは心当たりがある。自分より大きく、強い相手に、どのように立ち回るべきかを、学んだことがある。魔物にすら応用できたそれを、二本足で立つ―――ひと相手にできないはずがない。
 アティはゆっくり一度、深呼吸した。
 キバガミに重なって見える影。
―――アティに、世界で振るう剣を教えてくれた人。
(おじさま……)
 思えば、遠くまで来た。
 どんな脅威が相手であっても、この剣がある限り、自分自身を信じることができる。
「……っ、参ります!」
 アティは再び、前進するために地を蹴った。


 再び吹雪いてきた。
―――日が暮れてきてしまった。あまりに天気が悪く、カナンたちは気球艇の中に閉じ込められてしまっている。視界がはっきりしないため、上空を気球艇が通過していったのかどうかは定かではないが、この小迷宮に立ち寄る冒険者がいなかったことだけは確かだ。通りがかる獣一匹見かけなかった。
 グレンは物資を調達してくると言い残し、一人、雪嵐の中を外に出て行ってしまった。慣れている様子だったが、カナンたちなら、たちまち冷気に体温を奪われてしまうことだろう。
「同胞、帰ってこないねえ」
 つまらなさそうに言いながら、暖気を発生させている装置に張り付いているシュメイ。
 リップルは、時折部屋に様子を見に行っているものの、体調は良くなるどころか悪化しているようだった。グレンが外に出たのもそのためで、何故かは分からないが、彼は随分とリップルのことを気に揉んでくれているらしい。
「……少し、外に出てこよう」
 突拍子もなくそんなことをデイルムースが言い出すので、カナンは眉を上げた。
「馬鹿者。こんな吹雪の中出て行けば、遭難するぞ」
「そうだが……」
 ごほんと咳払いをし、デイルムースは視線を外した。
「さ、先からこの船の便所の水が流れんのだ……」
 カナンはよほど胡乱な目で、デイルムースを見ていたらしい。彼はこうわめいた。
「し、仕方ないだろう! 生理現象だ!」
「何も言ってなかろう。……分かった、すぐに戻ってこい」
 手を振って追い出す。
―――そうしてデイルムースが外に出て行って、数十分程度が経過した。
「帰ってこないねえ」
「……そうだな」
 額を抱えて嘆息すると、カナンは剣を手に取った。
「ミイラ取りがミイラになる、って知ってる?」
「知らん」
「探しに行った人が、探される人になるって意味さ」
 振り返ったカナンに、毛布の塊になっているシュメイが続けた。
「気をつけた方がいい。あまり良い気配はしない」
「それは、ただの勘か」
「そうだね。でも、用心するに越したことはない。僕までここを離れるわけにはいかないだろう」
 リップルが眠る部屋を一瞥し、シュメイは懐から何かを投げてよこした。受け取って見下ろせば、起動符らしい。
「……何だこれは」
「方陣を織り込んだ符だよ。それが発動すれば、僕には分かる」
 それだけ言うと、シュメイは毛布の内側に完全に引っ込んでしまった。
「お前……」
「グッドラック」
 ウロビトの言葉なのかカナンには理解できなかったが、細長い腕だけが振るように出てきたので、恐らく『幸運を』とかそういう意味だろう。
 満を持して、船の出口の扉を開ける。
 吹雪は、ランタンの灯りがすきま風で消えない程度には、落ち着いているようだった。だが、すっかり日の落ちた周辺はほぼ闇に近く、夜目が利くカナンですら、数歩先までしか視認できない。
 外套で我が身を風から庇いながら、ゆっくりとカナンは船の周りを散策し始める。デイルムースはそう、遠くへは行っていないだろう。まずは船を一周するように、移動を始める。
―――いつだったか、こんな雪の中を、歩いて逃げたことがあった。
 暗殺者ギルドに所属していた頃。少女で未熟だったカナンは、任務の際に負傷した腕を庇いながら、雪の中を自力で逃亡したのだった。誰も助けてはくれなかった。
 迫り来る追っ手。
 流した血による死の気配。
 凍りつくような寒さ。
―――ここで倒れても、誰も気付かないだろうと思われるほどの、静けさ。
 人を殺した。自業自得だ。
 それでも、必死だったのだ―――
―――物思いに沈んだ一瞬を、痛みが現実に引き戻す。
「くっ」
 すんでのところで、腕ごと持って行かれるのを回避したカナンは、隠し持っていた短剣を気配の方へ投げつける。
 当たらなかった。カナンは灯りを投げ捨て、気配に向かって剣を突き出したまま猛然と突進していく。
 間合いに入った。外套のうちで抜いていたもう一本の剣を振り抜く。
 敵は、足下が深い雪だということをものともしない機動力でカナンの剣を避けると、再び間合いを開けた。
 待ち伏せしていただけあって、自分に有利な環境を作っていたらしい。
「……やはりか」
 暗闇と凍りつくような風の隙間に浮かぶのは、デイルムースの黒だ。
 表情までは分からない。ただ、寒さに凍えているようではあった。
「凍死の可能性がある場所に誘い込むなぞ、愚かとしか言いようがないな。やはりお前は、暗殺者失格だ」
「カナン……」
 デイルムースは片刃剣を構えようともしない。
 カナンはそれを見据えて、二刀を掲げた。
「初手を失した時点で、お前の負けだ。デイルムース。……私を消すよう命じられてきたのか?」
 答えはない。風の音が、声を掻き消しているわけでもあるまいに。
 じり、と雪を踏みつける。
「―――思いとどまれ。そうすれば、何もなかったことにして……帰してやる」
 デイルムースは大きく息を吐いた。
 呼吸を整えるためかと思ったが―――違う。
 溜息だ、と理解して、カナンは訝しむ。
 いや、訝しむよりも、早かった、
「っ」
 身体が傾いている。
―――平衡感覚を失って、雪の中に落ちる膝。力が入らない。
 剣を手放すことだけは耐えられたが、二刀になかばしがみつくように、カナンは背中を丸めた。音が突然遠くなったように、頭の中で響く。
「哀れだな、カナン」
 デイルムースはしかめ面のまま、カナンを見下ろしている。
「―――これほどまでに勘が鈍っていたとは」
「貴様……」
「いつだか分かるか? ……教えてやろうか。あの獣人が出て行く前に、最後に摂った食事だ」
 本当に気付かなかったのか、という声さえ滲む。
 そもそも、あの食事は全員で摂ったはずだ。―――シュメイやリップルも。今頃。
 震える足を叱咤し、カナンは立ち上がる。
 デイルムースはいよいよ、片刃剣を抜いた。
「大人しくしていろ。一刀で首を刎ねてやる」


 もう何度目になるか分からない、金属がぶつかり合う音。
 引き下がったアティは、見開いた目でキバガミを捉える。
「どうした。息が上がってきておるぞ」
 キバガミの挑発に、アティは微笑む。
 頭の先からつま先まで、汗が流れているかのようだ。かろうじて剣を振るうための呼吸を保ててはいるが、『かろうじて』にすぎない。
 時間がかかりすぎだ。
 剣はけして軽いものではない。振るうたびに疲労は少しずつ蓄積していく。防戦一方ではないが、攻めきれない。そのせいで、焦りばかりが募る。
 時間は残りわずかだ。
―――アティはキバガミを見据える。
 キバガミとて疲労を感じていないはずはない。だが、キバガミの―――いや、もしかするとイクサビトの技なのか、彼の周りだけに独特の空気がある。アティの体力とは比較にならない耐久力が、彼にはあるのだろう。
(このままでは、勝てない)
 考える時間もない。攻めに転じなければ攻められる―――
「待った!」
 ぐっと足を踏み入れたアティの腕を、後ろから誰かが掴んだ。
「えっ」
「たんまたんま! 作戦会議!」
 そう言って、アティをずるずると引きずっていくのは、ドミニクだ。彼はキバガミを見ると、
「ちょっとだけタイム! あんたも回復しといていーぜ!」
「……はっはっは」
 キバガミは笑うと、武器の構えを崩す。
「ど、ドミニクっ」
 やっとのことで後ろ向きに引きずられる体勢を取り戻し、アティは振り返った。仲間たちが自分を見ていることに、きょとんとする。
「え、えーと……」
「あんたね、一人で前に出すぎ」
 エリザベスに額を突かれ、アティは反射的に目を閉じる。
「はい」
 次の瞬間、頬に触れた冷たさに目を開ければ、無表情のマオが水筒を掲げていた。
「水を飲んでください。脱水になりますよ」
「は、はい」
「じゃ、まずエリザベスちゃんが囮になってよ」
「安直すぎるでしょーが。あんたがやりなさい」
「斬新すぎない!?」
 額の汗を拭いながら水を飲み、アティはぼんやりと、エリザベスとドミニクの賑やかなやりとりを聞いていた。
 集中力を切らしてはいけないと思うのに、心のどこかが弛緩していく。
 焦り。
「落ち着け、アティ」
 今度は頭に、柔らかく暖かい手のひらが乗った。
 子供の頃から馴染んだ感触。
―――マオの手だ。
「あっ、あの、今私すごく、汗をかいてますのでっ!」
 思わず振り払うと、目をぱちくりとしたマオは、胡乱に言った。
「……それだけ元気なら、言うことはないな」
 引っ込んでいった大きな手に、残念なような気分になりながら、アティはごまかすように笑った。
 だけど、少し心が軽くなった気がする。スカートを引くニーナの手に、笑みを深めた。
「大丈夫、やれます」
「よっし、じゃあこの作戦でいくよ!」
「嘘だろおお」
 ピースをしているエリザベスと、開いた自分の手のひらを掲げてうなだれるドミニク。
「……では、そろそろ再開しても良いか?」
 キバガミの低い声に、アティは大きく頷いた。
「はいっ、お待たせいたしました!」
「アティ」
 エリザベスが作戦を耳打ちしてくる。アティは剣を構えながら、答えた。
「了解しました。どんと来い、です!」
「いくよ!」
 エリザベスとドミニクが同時に駆け出す。
 キバガミの咆哮。―――たてがみが、再び燃えるように赤く染まる。怯むことなく突っ込んだエリザベスが、槌を振りかざす。
「てい!」
 真っ向から受け止めるキバガミの鉄棍―――それが、滑るように振り抜かれる。
「ふん!」
「ひええっ」
 死角から肉薄していたドミニクが、一つ括りの髪先を残して間一髪屈み、横殴りの鉄棍を回避する。同時に、懐に入り込んだ彼は真上に矢を射った。
 キバガミの肩口に、矢が突き刺さる。
「ぬう!」
「うー!」
 すかさず、ニーナが振るった杖の動きに応じるように、霜柱がキバガミの足を奪う。
「アティちゃん、今―――うわっ!」
 矢の刺さった逆側の腕が、むんずとドミニクの首根っこを掴んだ。
 そのまま投げ捨てられたドミニクが、盾ごとエリザベスを巻き込んでひっくり返る。
「ドミニク、ベス!」
「いけ、アティ!」
 転倒した二人に向かって駆けていきながら、マオが叫ぶ。
 刹那の躊躇を切り捨てて、アティはキバガミに向かって地を蹴った。大一番だ。
 キバガミは己の腕に刺さった矢―――片腕に力が入っていないところからして、痺れ矢だろう―――を引き抜いて、刀に持ち替えた。
 肉薄しなければ、受け止められる。
 間合いに入ってもなお、アティは剣を振り抜かない。猛然と、全身が一つの武器であるように、速度を上げて突っ込んでいく。
「むん!」
 ついに、キバガミが刀を振った。
―――アティは踏み切り、跳び上がる。
 キバガミはまだ、振り切ってはいなかった。機を逃すまいとして、焦りすぎた。空気を裂いて舞い戻る刃を受け止めれば、弾き飛ばされる。
 アティは籠手を起動させる。
―――空中の不安定な姿勢が、籠手が噴き出した炎によって回転する。キバガミの振った刃の上を滑るように、アティは身を捻る。
―――一閃。
 確かに振り切った刃は、キバガミの胸を袈裟斬りする。
―――よろよろと。
 後退ったキバガミは、ぐらりと体勢を揺るがし、ついには膝をついた。
 その胸元から、提げられていた金の首飾りが、ばらばらになって崩れ落ちる。
「……見事なり!」
 顔を上げたキバガミがそう叫んだので、アティは膝から頽れた。
「か……勝ちましたか?」
「うむ。お主らの勝利だ。お主らの力を疑った無礼、許されよ」
 へたり込むアティ。既にキバガミはすっくと立ち上がり、柔和な笑みを浮かべながら、アティに手を差し伸べた。これでは、どちらが勝者か分からない。
 キバガミの手を取り、引っ張り立たせてもらう。膝が笑っている。
「ご、ごめんなさい……キバガミさん、傷は大丈夫ですか?」
 キバガミは機嫌が良さそうに、胸元を撫でた。
「なに、イクサビトは丈夫なのだ。あとで良い。そんなことよりも、良い太刀であったぞ」
「そ、そうですか? そうですか……」
 褒められたはずだが、素直に喜べない。おろおろするアティをよそに、キバガミは咳払いした。
「一つのことに真っ直ぐに研ぎ澄まされている。だが……あまりに純粋すぎる」
「純粋、ですか」
 その言葉を、アティは反芻する。
―――冒険者になってから、誰かに剣を評されたのは初めてだ。
 キバガミはゆっくりと牛頭を縦に振ると、続けた。
「鉄だけでも素晴らしい刀は作れる。しかし、そういった刀は脆いのだ。思わぬ力が加えられると簡単に折れてしまう。……お主には、混ぜ物が必要だな」
 きょとんとするアティに、キバガミはにっと笑んだ。
「様々な金属を混ぜた刀は、そうそう折れぬ。幸い、個性的な粒ぞろいのようだ」
 キバガミの指先を振り返れば、伸びているドミニクを介抱する仲間たちの姿があった。
「あ……」
「研鑽せよ。お主らは、もっと強くなるだろう」
 言葉がすぐに出てこなかったアティは、やっとのことでこう言った。
「ありがとうございました!」
「こちらこそ、よろしく仕る。これからが本番だ」
 キバガミはそう答えて、髭を撫でた。

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第13話

 デイルムースにとって、カナンはいわゆる『憧れ』だった。
 物心ついたときから、使い走りの徒弟としてギルドに出入りしていたデイルムースにとって、そのギルドにいた物静かな少女は、粗野な男たちの集団のうちで、一際美しく見えた。
 はじめは台所係だと思っていた。それが、通ううちにそのギルドは人を殺す商いをしていて、少女もその一員だということを知った。
 たまらず、デイルムースは志願した。自分もそのギルドに入りたいと。今にしてみれば、密かに憧れていた少女の側にいたかったというよりは、『少女ができるのなら、自分にも』という思いがあったのだろう。
 普通の人間にはできないことをすれば、生きていくには易い金が手に入ると、安直に考えていた。
 結局大金は手に入らないまま、ずるずると惰性で仕事を続けていた。少女の名を覚え、同じ仕事をこなすにつれ、彼女がいかに重宝される存在で、自分がそうでないかを味わうようになった。
 同じところに来たはずなのに、追い抜かすどころか、追いかけ続けている。
―――彼女と自分の差は何なのか。
 だが、待ち続けた転機は訪れる。ある案件を皮切りに、彼女が突然失踪したのだ。
 案件は達成されていた。ギルドの面子は保たれたのだから、目を瞑ろうという意見。ギルドに育てられた恩を踏みにじった、背信だという意見。
 最後には、暗殺者ギルドの内実を知る彼女を、このまま逃がすわけにはいかないという結論に至る。
 デイルムースは当然、追っ手に志願した。
―――そして今、標的として再会したカナンは、雪の中無様に膝をついている。
 つまらない、とデイルムースは感じていた。
 容易な罠に引っかかり、動けなくなっている。こんなものだったか。
―――もしデイルムースの説得に応じるのなら、いのちだけは助けてやってもいいと思っていた。だが、こうも突っぱねたのだから、これは自業自得だろう。
 探し物は、殺した後でゆっくり見つければいい。
 一刀で首を刎ねると言ったが、いささか自信がなかった。だが、女の首は細いし、多分いけるだろう。
 項垂れるように、長い銀髪を差し出すカナンに、刃を振り降ろす―――
「っ」
 力任せのそれは、掲げられた片手剣の刃に阻まれた。
 気付かなかった。後退り、間合いを取ったデイルムースを、顔を上げたカナンが睨む。
 だが顔色は土気色で、目にもいつもの覇気はない。そのことに再び勇気を得て、デイルムースは口角を上げた。
「そんな面で……」
 構える剣先を、力一杯払い除ける。まともに立っていられる状態ではないだろう、カナンはその一撃で、簡単に倒れ伏した。ひゅーひゅーと洩れる細い息。
 デイルムースは這いつくばったカナンの肩を踏みつけた。
「殺す前にひとつ、話してもらおうか。……この街、タルシスでの……数年前の任務のことだ」
 カナンは目を見開く。
「―――お前の標的だった騎士が持っていた手記をどうした」
「……そんな大昔の、話、を今……」
 咳き込むカナン。デイルムースはいらだち混じりに、彼女の肩を蹴った。転がるように、仰向けになる、細い身体。
「お前は知っていた。知らされていたはずだ。……タルシスで発明されたはずの気球艇には、元になる存在があったことを。ある日突然空から降ってきたそれには、今の気球艇技術では解明されていない未知の機構があるそうだ」
 いわば、気球艇のオリジナル。それを初めて見つけた巡回兵が、己の目で見たものを事細かに書き綴った記録。
「―――もし手記にそのことが書かれていれば、そして気球艇技術を狙う他国に売りつければ……相当な金になる。お前はそれを持ち逃げしようとしたんだろう」
「し、らん」
 苦しげなカナンの言葉の続きを待つ。
「―――そんなものを、持っていたとして。とうに、ギルドに渡している」
「嘘を言うな!」
 剣先を目先に突きつける。
 いっそ、これを白い顔に突き立ててやったら、どんな表情になるだろうか。
「―――お前は、あるはずの手記をないと報告したから逃げたんだ。金の算段がついたから。だから……」
「お前はそう聞かされたのだな、デイルムース」
 溜息。
 まるで、諦めのような―――雪に散らばる銀髪の中心で、カナンの金瞳は真っ直ぐ、どこかを見ている。
 デイルムースではなく。
 腹の底が煮立つ気配がして、デイルムースは剣を振りかぶった。
「いつもいつも、馬鹿にするな! お前は俺に今生かされているんだ。いつでも殺せるんだ!」
「なら、やるがいい。そのために来たんだろう?」
「手記をよこせ!」
 カナンは瞼を伏せる。
「だから、そんなものはないんだ。デイルムース。金に目が眩んだお前が私の話に耳を貸さぬよう仕向けた、ただの口実―――」
「うるさい!」
 カナンの肩をめがけて、刃を振り下ろす―――はずが、己の右肩に走った鋭い痛みに、デイルムースはいきおい剣を手放した。
 うめき声を上げて、尻餅をつく。対照的にいつの間にか、カナンは胸を押さえて立ち上がっていた。
「今回限り、見逃してやる……気球艇に戻れ、デイルムース。リップルたちの、治療を、しなければ……」
 そうしてよろよろと背を向けるカナン。
―――デイルムースは衝動に突き動かされるように叫びを上げながら、その背に襲い掛かった。
 唐突に、音が途切れる。
―――己の喉から、見慣れた片手剣が生えている。
 その刃渡りに滴る血までを認識できたか、デイルムースには定かではない。


 ホムラミズチ討伐に参加することを許されたピルグリムは、領主の許しを得た方が良いというエリザベスの提案に従って、一度タルシスの街に戻った。
 第三大地の厳しい気候から、遭難している冒険者も少なからずいるそうだ。金剛獣ノ岩窟を探索中の者もいるらしいが、ころころと変わる洞窟内の気温に目を白黒させているという。どうも、あの熱気を放っている謎の物質は、魔物があちらこちらに移動させているらしく、ピルグリムが苦労して破壊した、地下一階の山も、再建されてしまったと聞いた。
 再び降り立った金剛獣ノ岩窟、その地下三階で合流したキバガミから、ようやく謎物質の正体を知ることが出来た。
「ホムラミズチの鱗?」
「左様。生え変わりが早く、洞窟に住む魔物が暖を取るため巣から盗んでいくようだ。狩りのため、ミズチ自ら矢のように射ってくることもある。霊脈を打ち、洞窟を活性化させて暖めているという者もおるが……はっきりせぬな」
「あんなものに当たったら、ただでは済まなさそうですね」
「そもそも、おっさんはホムラミズチを見たことがあるの?」
 ドミニクに問われ、キバガミは力強く頷いた。
「十数年前に、一度な」
「……それってもしかして、前回ホムラミズチが倒されたという時期でしょうか?」
「如何にも。イクサビトの長は、あれが荒ぶり里を滅することがないよう、あれを捩じ伏せる力を持つ者が務める習わしだ。……とはいえ、当時の拙者にも無二の仲間がおったから、成し遂げられたようなものだが」
「じゃあひょっとして、その人とおっさんだけで今回も倒せるんじゃ……」
 キバガミは目を伏せ、かぶりを振った。
「そうはいかぬ事情があってな。……しかし、今回は代わりにお主らという心強い味方がおるではないか」
「はい。私たちも、キバガミさんと一緒なら百人力です!」
 アティは笑顔で応じる。
「―――それに、ウロビトの皆さんも協力してくださるとウーファンさんが仰っていました」
 ウロビトにとっても、イクサビトは同胞だという認識のようだ。
「ウロビトの代表どのは、お主たちがウロビトを助けたように、同胞として力を貸すと言って下すった。……お主たちのまっすぐさは変わらぬのだな」
 キバガミの言葉に、アティは曖昧に微笑む。
「ウロビトの皆さんは、かつて世界樹の一大事に逃げ出した人間たちを信じられないと言っていました。……心から分かり合える友になれて、良かったと思います」
「そうだな。だが友だからこそ、真には分かり合えぬこともある」
「……キバガミさん?」
 キバガミは牛の顔の目を細める。これが彼の微笑みであることを、この数日内にアティは理解するようになっていた。
「違いを認め合うこともまた、重要なことだ。お主たちの純粋さは、無意識にそれを可能にしているのやもしれんな」
 そう語ったキバガミは、どこか寂しそうだった。


 暗闇の底の白を染めていく黒を見下ろして、カナンは早い息を鎮めていた。
(死体の処理より……気球艇に戻る方が先か)
 リップルたちの容体を見なければ。
 不思議と身体は素直に動いた。カナンは体質的に毒の効きが悪いが、効かないわけではない。デイルムースの盛った毒が、見立てより少なかったのだろうか。
 船の中に戻ったカナンは、毛布に埋もれるシュメイに近づいた。眠っていると思ったが、その何とも言えない色の瞳が、カナンを見上げる。
「……術式は役に立ったようだね?」
 言われて、懐に入れていた、シュメイの起動符を取り出す。文様は消えており、既に術式が発動した後であることが読み取れる。
「方陣には身体を癒すものもあってね。毒の効果を抑制させる程度のものだが……効果はあったようだ。じわじわと効いてくるような毒で命拾いしたね」
「解毒は?」
「方陣は船を中心に張っている。一晩も経てば、毒は抜けるだろうから僕やあの子は問題ないさ。きみもここで休むと良い」
「……効果は船の周囲にも及ぶのか?」
「まあ、それなりは。……何をする気だい?」
「後片付けだ」
 日が昇り切る前に、死体を隠さなければならない。
「体調を崩しても知らないよ」
 というシュメイの忠告にも耳を貸さず、「リップルを頼む」とだけ言い置いて、カナンは外に出た。
―――他の冒険者に見つかれば面倒だ。
 そう思っていたばかりなのに、死体の傍に立つ白く大きな影を見つけて、カナンはひそやかに息を吐く。
「これは……」
 案の定、戸惑いを隠さずに振り返ったグレンに、カナンは剣を構えた。
 それですべてを悟ったのだろう、グレンの表情が引き締まる。
「……獣人には効かぬ毒とみえる」
「何の咎があって、己が仲間を殺めた」
「それは裏切り者だ。私たち全員に毒を盛った。お前は無事なのか?」
「……毒下しを常備しておる。少し体調が戻るまで、休んではおった。良からぬものを貴殿らに食わせたのではないかと気が気でなく戻ってきたのだが……」
「シュメイが今、治癒の術を施している。船の中に入れ」
「……貴殿は?」
「それの始末をする」
 死体を切っ先で指示すると、グレンはあからさまに気色ばんだ。
「人の遺体を何と心得る」
「裏切り者の死体だ。それに、死したものは肉と血と骨の塊にすぎん」
「……貴殿は、肉として食われる生き物を当然と是とする性格かの」
「血肉が役に立つだけ、牛豚の方が崇高だ」
 言って、剣を収める。
 死体に手を伸ばすと、退けられた。
「何を……」
「おなごの体躯では一苦労であろう。手伝おう」
「……人の遺体じゃなかったのか」
「貴殿らの事情は分からぬし、知りたくもない。ただ、彼はここで弔う必要があるのだろう?」
 タルシスに死体を持って帰るわけにはいかない。
 カナンは大人しく、グレンが死体を担ぐのを見ていた。
 小迷宮に放置することも考えたが、死体には刃による傷がある。見つかれば厄介なことになるだろう。万年雪を掘り返すわけにもいかず、結局、小迷宮の目立たない場所に埋めた。
 跪き、手を合わせ、祈りの姿勢を取るグレン。
「……巻き込んで悪かったな」
 その丸まった背に、思わず声をかける。グレンは立ち上がると、カナンを見下ろした。
「……実はな。わしも裏切り者じゃ」
 突然何を言い出すのかと見上げれば、静かな獅子の目と目が合った。
「―――わしの故郷、イクサビトの里のことよ。……わしらの里では、正体不明の流行り病で女子供がばたばたと死んでおってな」
「……それを見捨てて、逃げ出したとでも言うのか?」
「その通りよ」
 呵々と笑うが、その表情は自嘲じみている。
「―――里を棄てねば、未来はない。そういう病なのだ。だが、わしらイクサビトには使命がある。たとえ一族郎党があの地で果てても、運命として受け入れねばならぬ」
「そんなもの、犬にでも食わせればいい」
 下らないと一蹴したカナンに、グレンは笑みを深めた。
「わしもそう思った。だが、里を棄てることは、すなわち先祖への裏切りになる。……わしにとっては愚かしいばかりでも、使命に殉じる覚悟のある者を責めることはできなんだ」
 そうして誰一人救うこともできず、失意のうちに、里を去ったのだと。
「―――わしは、守らねばならなかったものが、すべて病の露となった」
 獅子のたてがみに覆われた首をぐるりと回し、グレンはカナンを見た。
「貴殿には守らねばならぬものが、あるかの」
「ない」
「……ならば、何故この男を殺した?」
 既に半身を雪に埋めた、小さな石を見下ろすグレン。
 咄嗟に答えることができなかったカナンの肩を、獣人の手が叩く。
「譲れぬもののために牙を剥くことは恥ではない。既に己がうちに生まれたものと向き合うことができねば、この老いぼれのようになるぞ」
「私は……」
 零れるように口から出た言葉。
「私は、独りの方がいい」
「……そうか」
 グレンはあらぬ方向に視線を向けると、言った。
「ここは寒すぎていかんな。ひとまず、貴殿らの船とやらに入れてもらえぬか」
「……ついてこい」
 外は再び、吹雪き始めていた。


 ホムラミズチの間は、人々が持ち込んだ灯りで大げさなほどに煌々と照らされている。
 無数の鱗が行く手を阻む魔物の巣の奥に、まるで何かの祭壇のように積まれた鱗の山がある。
「あの奥に『心臓』がある」
 キバガミはアティの肩に手を置くと、こう続けた。
「拙者たちが全力でホムラミズチを食い止めよう。そのうちに、お主らは心臓の間へ行くのだ」
「わ、私たちも皆さんと一緒に戦います!」
 そのためにここに来たのだ。剣の柄を握りしめるアティに、しかしキバガミはかぶりを振る。
「嫌な予感がするのだ。……無論、我らが負けるなどとは微塵も思わぬ。ただ……武人の勘と言うべきかな。それを否定してきてほしいのだ」
 心臓を確保できたら戦いに参加してくれ、とキバガミは譲らない。
「どうしましょう……」
 続々と、イクサビトは勿論、ウロビトや、ウィラフ、キルヨネンという冒険者の姿も増えてきた。
 人の群れを一瞥するエリザベス。
「ま、信用してもらってるってことじゃない?」
「それは光栄ですけど……」
「誰かに奪い去られる可能性もあるってことだ。こんなに人がいるとな」
 マオの呟きに、アティは返す言葉がない。
 やがて、キバガミの大声が洞窟内に轟く。奮起をいざなう言葉。高揚する、周囲の人々の緊張感。いよいよ、という感覚が、髪先から爪先までを巡る。
「行くぞ!」
 やがて雄叫びを合図に、一斉に皆がホムラミズチに向かう。
 警戒を見せていたホムラミズチは、折り曲げていた四肢をぐいと伸ばすと、体躯と同等ほどの大きさの尾を振り回した。人の子ほどはあろうかという、鋭い鱗が空を切る。飛んでくるそれに当たらぬよう頭を下げて走り、アティはまっすぐ、鱗の山へと向かう。
「アティ!」
 アティの身体を庇うように、盾で鱗を受け止めたエリザベス。たたらを踏んだアティに、彼女は鋭く怒鳴った。
「行きな、早く!」
「ベス、あとで!」
 短く、届いたか分からない言葉を交わし、アティは走り抜ける。
 鱗の山は、上階で見たものとは比較にならない大きさだった。キバガミの指示で、事前に集められていた氷銀の棒杭を、イクサビトたちが打ち込んでいく。
「ニーナ、あれを凍らせることはできませんか?」
「むう……」
 山を見上げて、唇をとがらせるニーナ。やがて、印石の杖を掲げて深呼吸をする。
「皆さん、山から離れてください!」
「……うー!」
 一際大声を上げたニーナの全身が青く光る。
 少女を中心に、洞窟の外を想起させるような冷気が辺りを包んだ。霜柱が走り、山の根元に至ると、急激に凍りついた鱗が音を立てて割れていく。
 胸を張るニーナ。響いていた、人々の歓声が怒号に変わる。
 異変に気付いたホムラミズチが、尾を振り上げたからだ。
「ニーナ!」
「おっと!」
 間一髪、ニーナに向かって叩きつけられた尾は地を打った。彼女をさらったドミニクが、アティにウインクを飛ばす。
「先に行ってなよ。ニーナがいたら、上手くあいつを弱らせられそうだ」
 ドミニクが顎でしゃくったとおり、みるみる増していく洞窟内の冷気に、ホムラミズチはか細く鳴いた。わざわざ鱗を撒いて暖かくしていると言っていたから、寒さに弱いのだろうか。
 そんなことを思う間もなく、アティは崩された山の一部を駆け上る。熱気と冷気の入り交じる中、頑丈な探索用のブーツで鱗をざくざくと割りながら、山の向こう側へ。
 ようやく、空間を見つける。一気に山を降りようとした途端、足を滑らせた。
「わあっ……」
「っと、危ない」
 自分の背丈ほどの高さを滑落する寸前、アティの手首を掴んだのはワールウィンドだった。
「気をつけなよ」
「あ、ありがとうございます!」
 何とか踏みとどまったアティは、彼の手を借りながら山を下りきった。
「心臓を早く見つけないと……」
 ホムラミズチの鱗を砕いたせいか、呼気が白く舞う。ぽっかりとあいた空間の中心に、樹が絡みついた檻がある。
 アティは己の剣で、樹を切り払った。内側から放たれるような紅の光が、徐々に露わになる。
「これが……」
 脈打つように明滅する、拳大の石―――宝石。
 手に取ることを躊躇した一瞬、耳に馴染んだ声が響く。
「アティ!」
「マオ」
 咄嗟にそれを手に取り、アティは振り返る。
 アティを通り過ぎていくワールウィンドの後ろから、氷の山を下ったマオが近づいてきた。
「無茶を……」
「ごめんなさい、マオ。これ」
 両手で宝石を包んで差し出せば、マオは反射的に顔を背ける。
「それは……」
「マオ?」
 マオは何か、信じられないものを見たような目をしていた。ややして、青い顔で息をのむ。
「それが、イクサビトの言う『心臓』か」
「ええ、おそらく……」
「得体の知れない気配を感じる。無機物に対して……こんなことは初めてだ」
 マオは先天的に気配に敏感だ。『勘』が鋭いと、彼自身は表現しているが、探索中に人や魔物の存在を察知することができるものだとしか、アティも思っていなかった。
「おーい、こっちにも何かあるぜ」
 いつの間にか奥に行っていたワールウィンドの声に、二人は『心臓』が安置されていた台を離れる。
 ワールウィンドが指差していたのは、洞窟の行き止まりに作られた、明らかに人工物の台。人の手の形に石を切り出したそれに、アティは声を上げる。
「碧照ノ樹海や、深霧ノ幽谷にあったものと、同じですね」
 今までの大地の台には、北の山脈間に吹き荒れる風を収めるための、石板が供えられていた。
 だが、この台に石板は見当たらない。
「先に進むための鍵があると思ったのですが……」
「ないわけだ。うーん……世界樹も目前なのにねえ。ま、イクサビトが管理しているのかもしれないし」
「そうですね。とりあえず、戦いに戻りましょう!」
 『心臓』を布で包み、道具袋にしまい込もうとして、アティは自分を見つめるマオの視線に気付いた。
「マオ、大丈夫ですか?」
「ああ、問題ない。……気味が悪くはあるが。早くイクサビトに渡してしまおう」
 ふいと目を逸らせてしまったマオに、それ以上言葉を続ける気はなさそうだった。


 ホムラミズチとの戦いは苛烈を極めたが、三種族の連携のもと、討伐は成功した。
 キバガミから、アティが得た宝石こそ『心臓』だということが確認できた。彼もこれに触れるのは初めてだったそうで、不思議そうに光にかざしていた。
 そしてすぐに、『心臓』を得た巫女によって、イクサビトの子供たちの治療が行われた。形は違えど、石を媒介に力を発揮する巫女は、巫女というよりも―――アティにとってはなじみ深い、印術師のようだった。
 端から見ているだけでも分かる。奇跡のような力が、患者たちから病の脅威を退けていった。
―――治療は成功したのだ。
「イクサビトと人間の永遠の友好に! 乾杯!」
 キバガミの一声で、イクサビトの里の宴が始まる。
 イクサビトの病人たちは、病の特徴であった植物の破片が消し去られ、経過を看ることになった。力を消耗した巫女は、今は別室で休んでいる。
「―――旅人殿にも感謝を。その知識なしに、巫女殿をこの里にお連れすることはなかったろう」
 主役の一人のはずのワールウィンドは、宴会場となった広場の片隅にいる。木のグラスをわずかに持ち上げた。
「本当に良かったです。ホムラミズチとの戦いでも、大きな被害はなく……病気も、終息していくといいですね」
「ああ」
 そう言葉を零すアティだったが、どこか元気がない。
 巫女を休ませウーファンに後を頼んで、なんとか乾杯に間に合ったマオは、彼女の浮かない様子に気がついていた。エリザベスは相変わらず、ワールウィンドの動向に目を光らせているし、ドミニクは相変わらず暴飲暴食のニーナに振り回されている。
「……石板がなかったことについてですか」
「え」
 図星、というように目を丸くしたアティに、やはり、とマオは溜息を吐いた。
「……う、その。手がかりがなくなりましたね」
「イクサビトの長に心当たりは?」
「彼らは、あの祭壇があったことすら知らなかったそうです。北に至る道筋は……やはり、分からないと」
「ちょうどいいんじゃないか」
 投げやりに、マオは言った。
「―――そろそろ、引き上げる頃合いでしょう」
「なっ」
 目を瞠るアティ。思った通りの反応だ。
「……先に進む方法はない。なら、ここで終わりだということです。ウロビトを助け、イクサビトを助けた。これ以上ない成果でしょう」
「で、でも……」
「いいですか、アティ。父君はお言葉には出しませんが、とても心配しておられます」
「お父様が……」
 マオが頻繁に、アティの実家へ手紙を送っていることはアティも知っているだろう。返事も来ているのだ。
「それに、あなたは貴族の娘です。家を守るという役割があります」
 アティは十九歳になった。故郷の国でなら、そろそろ嫁がねばならない年齢なのだ。
 アティは憂鬱そうに呟く。
「結婚だなんて……」
「あなたの父君が必死に守ってきた、母君の家でしょう?」
「そう、です、けど……」
 アティはマオを一瞥すると、すぐに目を逸らした。
「誰かと結婚して、家を継いで、家を守る。貴族の娘なら、当然のつとめです。でも、今の私に何ができるでしょう? たとえ避けられない使命だとしても、家に閉じこもるだけの生き方だけは嫌なんです」
「こんなところで、他に行く当てもない連中に混じり、いのちをすり減らすだけでそれが見つかると?」
 マオの言葉に、アティは小さく息をのんだ。
「―――あなたのしていることは、ただの逃避だ。自分でもよく分かっているだろう」
 アティは黙り込んでしまう。こうなると、アティはもう何も言わない。子供のころからの悪い癖だ。
 アティは、義肢を作成する技術者の父に似て、機械いじりが得意だ。その技術をもって、屋敷に引きこもるばかりではない生き方を選ぶこともできるはずだ。
「……はい、よく分かっています」
 一方で、アティは返事をした。
「―――あなたに迷惑をかけていることも。ですから、故郷に……戻るというのも、マオが望むなら、了承します」
 顔を上げ、マオの目を見返してくる。
 その紫瞳が潤んでいる。我慢している、という目だ。この子供っぽい、分かりやすい表情をする彼女を、深く傷つけたくはなかった。
「あなたの人生です。あなたのために選びなさい」
「……はい」
 しゅんとこうべを下げるアティの肩に、唐突にドミニクが腕を回してくる。
「二人だけで何の話ぃ? 先生ったらまた湿っぽくなる話をしてるんじゃねーの?」
「絡んでくるんじゃない」
 アティから無理やり引きはがす。
「ドミニク、お酒臭いですよ」
 渋面のアティに、マオに首根っこを掴まれながらもドミニクはご機嫌に言った。
「なあ、アティちゃーん、おいらとも飲もうぜ!」
「わ、私、お酒はちょっと」
「こんの、酔っ・ぱ・ら・いが!」
「ぐっふ!」
 エリザベスのドロップキックがドミニクの背骨に決まる。顔面から着地した彼に、アティが小さく悲鳴を上げた。
「ドミニク! ああ、岩の床を顔でスケートするなんて……」
「いい加減、酒癖と女癖の悪さを直せ!」
 吠えるエリザベスたちに、ひっそりと嘆息すると、マオは一団からそっと離れた。
「マオ?」
「ちょっと」
 宴の席からも離れて、里の出入り口に向かう。
 見張りの馬のイクサビトが、マオに気づいて会釈した。
「おや、お客人。いかがされましたかな」
「煙草を吸っても構わないか」
「ああ、どうぞ」
 イクサビトにもこの文化はあるようだ。紙巻を取り出して、近くの松明から火を拝借する。
 煙を吐き出すと、腹の底に敷いていたもやもやとした気持ちも、一緒に口から出ていくようだった。勿論そんなものはまやかしで、苦みと一緒に残るのは、煮え切れない『冒険』の結末への、不満だ。
 わずかな時間で良いと思っていた。誰かのため、自分のために夢中になっている間は必死でも、充実した時間だ。それを、前向きな気持ちでアティと、過ごせて良かったと思う。彼女自身が自分で向き合わねばならない問題からも気をそらせただろうし、マオ自身、そうだった。
 だが所詮、現実逃避だ。
「む……」
 里の入り口の灯りが届かぬ薄暗がりに目を凝らした見張りが、水の溜まった石床を駆けていく。
「旅人殿!」
 その口が呼んだ名に、マオはぎょっとする。
 見張りは暗がりへ寄っていく。マオの目では、そこにあるらしき人影を捉えられないが、集中すれば確かに気配があることが分かった。
 薄い気配と―――もうひとつ?
 見張りがそれに肉薄する。
「旅人殿、と、巫女ど、の」
 見張りの足元の水たまりに、赤黒い水滴が混じる。
―――その脚が力を失って、跪く。
「っ!」
 一瞬、目が合った。
―――普段の飄々とした気配はなく、澄んだ冷徹さだけを孕んだ視線。一切の隙を見せない動きで、ワールウィンドは巫女を抱えたまま、瞬く間に闇へと身を翻した。その足音が遠ざかっていくのを追うのは危険すぎる。倒れた見張りに辿り着いていたマオは、彼を抱き起こした。
「おい、しっかりしろ!」
「う、う……」
―――真一文字に切り裂かれた着物をどす黒く、血が染め上げている。
「誰か来てくれ! 誰か!」
 ホムラミズチの鱗を破壊され、火から遠ざかった金剛獣ノ岩窟に吹く冷たい風は、マオの視線の先にある闇に吸い込まれるように、その傍らを通り過ぎていく。
 広がる暗澹に、ただ目を奪われていた。

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第四大地

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第14話

 ワールウィンドには、すぐさま追っ手がかけられたが、『金剛獣ノ岩窟』の入り口に係留されていたはずの彼の気球艇は、夜半の吹雪の中、既に飛び立った後だった。
 宴の空気は消え去り、残されたのはイクサビトの動揺とウロビトの慟哭、そしてアティたち冒険者の疑念だけ。
 イクサビトの見張りを救護したマオが、厳しい顔つきで部屋から出てくる。
「どうですか?」
「急所は外されていた。出血は派手だが、いのちに別状はない」
「そうですか……」
 安堵の息を吐くアティ。
 続いて、部屋から出てきたキバガミに、ウーファンが近づいていく。
「我々も捜索に加わろう」
「ならぬ。ホムラミズチが倒れている間、里を除いた洞窟内の温度は外と大差はない」
「奴は既に外に出たのだろう」
「洞窟の外は吹雪いている模様、より危険だ。気持ちは分かるが、いたずらに犠牲を増やすような真似はさせられぬ」
「では、私たちが気球艇で―――」
「よしな。ドミニクがべろんべろんなのに、吹雪の中を飛ぶのは自殺行為だよ」
 アティの言葉を遮るエリザベス。
 ウーファンは眉を顰め―――しかし口を紡いで項垂れる。その姿に、アティは耐えきれず、声をかけた。
「夜が明けたらすぐ……気球艇を飛ばします。シウアンは必ず無事に、取り戻しますから」
 肩を抱くと、ウーファンは弱々しくだが、確かに頷いた。
 そこへ、慌ただしくイクサビトの戦士たちが現れる。
「長、やはり『心臓』もありません」
「そうか……」
 キバガミもまた、沈痛な面持ちで言葉を失う。
―――長い、長い一晩になった。


 宣言通り、夜明けを待って気球艇で発ったピルグリムは、進路を北に取った。
「石板を確保したのは、ワールウィンド以外にありえないだろう」
 マオの言葉に、今度ばかりは沈黙すると思えたアティだったが、こんなことを言いだす。
「ワールウィンドさんは、どうして私たちに何も言わず出ていったのでしょう」
「は? またあんた、『ワールウィンドさんにも事情があってー』なんて考えてるんじゃないでしょうね」
 エリザベスに冷たく言い募られ、アティは俯く。
「巨人の心臓の探索について、彼は打算があると言っていました。同時に……イクサビトに恩がある、とも。そんな人が、自己保身のためだけに私たちを騙し討ちにするとは―――」
「いい加減にしなよ」
 アティの胸倉を掴まんとする勢いで、エリザベスは彼女に詰め寄った。
「―――あいつに傷つけられた人はいっぱいいるんだ。どんな事情があっても、それだけは覆せない事実だよ」
 今度こそ、アティは口を噤む。
「あー、お取込みのところ悪いな、お二人さん。正面を見てくれ」
 ドミニクの声に、前方に目をやったピルグリムは次々と声を上げた。
「山脈の風がやんでいる……」
「通り抜けられるみたいね。やっぱあいつが石板も持ってたんだ」
「むう」
「……どうする? アティちゃん」
 ピルグリムのリーダーはアティだ。進むか、戻るかはアティが決めねばならない。
「進みましょう。シウアンのこと、ワールウィンドさんのこと……私たちには、見届ける義務があります」
 一拍の沈黙。
「決まりだな」
 ドミニクがそう言うと、気球艇が旋回する。
 無風の谷は昏く、操舵手がドミニクでなければ山にぶつかってしまいそうだ。空気がじわじわと暖かく、そして乾燥していく。
 やがて、光が差したとき―――目の前に現れたのは、巨大な陸橋だった。
「えっ」
『あーあー、そこの飛行……いや、気球艇。赤と緑と黄色のおまえ! 止まりなさい!』
 突然響き渡った声に、マオが操舵室から飛び出していく。
「マオ?」
 アティはそれを追いかけた。移動中もずっと聞こえてくるその男性の声は、表に出るとはっきりした。アティは理解する。
 目の前に三隻、無骨な黒っぽい色をした、気球艇が浮かんでいる。
 一隻あたり、こちらの三倍はあろうかというほどの大きさだ。大砲のようなものが船の側面や前面に備えられており、その砲首のどれもが、セレンディピティに向けられている。
『あっ、人が出てきた……こっちの声、聞こえてるよねー? ちょっとばかし風が強いけど!』
 聞こえていますと手を挙げようとしたアティの腕を、マオが掴んだ。
「馬鹿、問答無用で撃たれたらどうする」
「えっ、でも……」
 セレンディピティはゆっくりと停まった。着陸はせず、三隻の気球艇―――否、戦艦の前に空中で静止している。
『よしよし。あー、君たち、ローゲル卿を追いかけてきたんだろう? 悪いけど、引き返してくれないかな。話をしたいから、君たちの代表者を連れてきてくれ』
「代表者って……ローゲル卿?」
「少なくとも『代表者』は辺境伯のことだろう」
 アティはマオと言葉を交わす。こちらの声など聞こえているはずはないだろうが、戦艦から発されているだろう『声』はこう続けた。
『ここから先は我々帝国領だ。君たちが無理に進行すれば、叩き落として捕虜にする。賢明な判断を願うよ』
―――帝国。
 アティはハッと、マオを見た。
 セレンディピティが風に流されるかのように、少しずつ動いていた。
「ドミニク!」
 すぐに操舵室に戻ったアティは、舵を切ろうとしていたドミニクに呼びかける。
「―――引き返しましょう」
「えー? でも、あいつら隙だらけだからよ。図体でかいし、港長自慢の推進器を使えばすり抜けられるぜ」
「相手の装備を見たか? 武装している。脅しじゃない」
「それに、無理に進めば外交上の問題になります。ここはタルシスではなく、別国家の領土だと彼らは主張していますから」
 マオとアティが矢継ぎ早に説得するも、ドミニクはぽかんとした顔だ。
 エリザベスが頭を掻く。
「あー、とりあえず辺境伯にお伝えしなきゃ。あたしたちが勝手に判断しちゃまずいってことさ」
「そ、そっか……」
「一晩与えたのがまずかったかな」
「いいえ。後で問題になるより、ここで足止めされて良かったと思います」
『伝えたからねー。えっと、辺境伯だっけ? うちのお偉いさんが会いたいって言ってるからさ。連れてきてね、よろしく』
 雑音混じりの暢気な声が、場違いに響いていた。


 タルシスに帰還したピルグリムは、その足でマルク統治院を訪ねた。早朝にもかかわらず対応してくれた辺境伯だったが、彼も事の成り行きを懸念したらしく、熱心に話を聞いていた。
「……イクサビトの里は救われたのだな。諸君もご苦労だったね」
「けれど、シウアン……巫女は攫われてしまいました。ワールウィンドさんは、さらに北の大地に向かったとみられていますが、『帝国』と名乗る武装した気球艇に、道を阻まれてしまいました」
「帝国……」
「はい。そしてその大地は、帝国領であると」
 辺境伯は彼にしては難しい顔で黙り込んでいた。腕に抱いたマルゲリータが、気遣わしげにくぅんと鳴く。
「……帝国側は、私との会合を望んでいるのだな」
 頷くアティに、辺境伯は唸る。
「ワールウィンドは、その『帝国』と何らかの関わりがあるのは間違いなかろう。巫女殿のこともある。もちろん、喜んで赴こう」
「危険です、辺境伯様」
 エリザベスの言葉に、彼は茶目っ気たっぷりにウインクをした。
「なに、諸君が護衛をしてくれるのなら、百人力だ」
「なっ……たかが冒険者の力を過信しすぎです!」
「エリザベスちゃんも、今はその『たかが』よ~?」
 ドミニクの軽口を、ひと睨みで黙らせるエリザベス。
 辺境伯はマルゲリータをひと撫でした。
「まあ、諸君らにも事情があるだろう。無理にとは言わないが……」
「す、少しだけ、時間をいただけませんか」
「アティちゃん?」
 驚いたような声を上げるドミニクを一瞥し、アティは続けた。
「あまり猶予がないのは分かっていますが……少しだけ、考える時間をください」
「構わないとも。急がば回れとも言うしな。このところ忙しくて、ロクに休んでいないのではないかな? 一日くらい、じっくり街で身も心も癒やしてくれたまえ」
「はい……ありがとうございます」
―――そうして、統治院を後にしたピルグリムだったが、外に出た途端、ドミニクがアティを覗き込んでくる。
「どうしたんだ? アティちゃんらしくねーな」
「えっと……何がでしょう?」
「いつものアティちゃんなら「お任せください! 私たちが辺境伯様を万全にお守りいたします!」とか何とか、エリザベスちゃんたちが止める間もなくノリノリで言っちゃうと思ってたのに」
「わ、私、いつもそんなにノリノリでしょうか」
「ま、今回ばかりは特別だからね。国と国の会談でしょう? 冒険者の出る幕はないわよ」
 切り捨てるエリザベスに、ムッとしたようにドミニクが反論する。
「シウアンちゃんを助けようってのは、おいらたちの勝手じゃんか。そもそも辺境伯がおいらたちに護衛して欲しいって言ってるわけだし」
「辺境伯が言ってるだけでしょ。できるわけないじゃん、そんなの」
「……アティ?」
 仲間たちの会話を聞いていたアティは、ぱっと顔を上げて、笑う。
「すみません、私……統治院に忘れ物をしてしまいました」
「へ?」
「馬鹿ねー、なら取りに―――」
「いえ! 皆さんは先に、孔雀亭へ。私もすぐに追いつきますので!」
 口早に言うと、アティは素早く身を翻す。
―――振り返りもせず来た道を走り戻っていく背中を、ぽかんと見送りながら、ドミニクが呟いた。
「先生、今度は何を言ったんだよ?」
「うー」
「……別に、何も」
 マオはこめかみを掻きながら、そう答えた。


「おや、忘れ物でもしたのかな」
 一人で現れたアティを、辺境伯は笑顔で迎え入れてくれた。
「お時間があれば、少しだけお話をさせていただけませんか」
「友人たちには聞かせられない話かね?」
 押し黙ってしまったアティに、辺境伯は椅子を勧めてくる。
「―――意地悪を言ったな。ぜひ聞かせてくれたまえ。最近はとみに、諸君とゆっくり話す機会がなくなって残念に思っていたのだ」
「……失礼いたします」
 腰を下ろした椅子には、柔らかいクッションが敷いてあった。貴族の調度品らしい。久しぶりの感覚が、なんだか懐かしいような気もして、溜息が出た。
「……辺境伯様は、私たち冒険者のように、気球艇に乗ってタルシス北部の樹海に行ってみたいと思われたことはありませんか?」
「あるとも」
 即答だった。アティは口元で微笑む。
「私は、自国では貴族の位を授かっている家の娘です。なので、恐縮ですが辺境伯様のお気持ち、よく分かるつもりです」
「ははは、見透かされていたか」
 そう笑う辺境伯は、とても優しい人だと、アティは思う。彼は己の立場と使命を果たすには、どう振る舞うのが最も適しているのか、常に考えているのだろう、とも。
 アティは目を伏せた。
「私は自分が貴族なのか、冒険者なのか、分からなくなることがあります」
「……冒険者をしていることに、罪悪感のようなものがある?」
「そう……なのかもしれません。ある人に言われました。私が役目を放棄し、自分に関わりのない土地で冒険者をしていることは、私が自身の人生から逃避しているだけなのだと」
「……ふむ」
「己を鑑みても、そう思います」
 腿の上で拳を握り込み、アティは続けた。
「辺境伯様の護衛を仰せつかり、国同士の重要な対話の場に同行させていただくのは、大変光栄です。けれど、私は今に至っても、自分のあるべき姿にまだ迷っているのです。そんな人間に、このような重要な役目が務まるでしょうか?」
 アティの告白に、辺境伯はゆっくりと答えた。
「護衛は諸君らでなくても良いだろうと思う」
 だが、と言葉は続く。
「諸君を推したのは、ウロビト・イクサビトの両陣営からも信頼が厚いからだ。巫女を取り戻す執念が諸君らには宿っている。私独りが会見に臨むのではなく、諸君らが供にいるのなら、彼らは安心できるだろう。そういった信頼を、諸君は自身の選択と行動によって勝ち得た。……君にとってはただ逃避のための旅だったとしても」
「いえ、そんなつもりはなくて……逃避という言い方は、皆さんに対してとても失礼だと分かっています」
 目を逸らした先にあったものを、たまたま偶然拾ってきたような気がする。
 辺境伯はかぶりを振った。
「諸君は常に全力で、出会ってきた人たちと向き合ってきたはずだ。だからこそ今の信頼がある。この実績は、君の旅は逃避ではなく、戦いだったからだと、思うことはできないかね?」
「戦い……」
「そう。人生と向き合うための戦いだ」
 顔を上げたアティに、辺境伯は柔和に言った。
「―――誰しも道を迷うことはある。今をもがくことで、見えてくるものが必ずあるはずだ。それは決して逃避ではない。君自身を信じてあげなさい」
「……ありがとうございます」
 頭を下げながら、アティは答える。
「―――勇気を、いただいたように思います。私は、背中を押してもらいたかったのでしょうね」
「若い冒険者の力になれたのなら、何よりだ」
 辺境伯は頷くと、急に声を潜めた。
「―――実のところ、私ももう少し若ければ、君のように自ら剣を取り、世界樹の謎に立ち向かいたかったのだけどね」
「まあ」
 護衛というのも方便で、と辺境伯は本当か嘘かも分からないことを言う。
「それは叶わないから、せめて諸君らの代表者の顔をして、諸君らの旅の末席に加えて欲しいというお願いなのだよ」


「逃避、ねえ……」
「何つうかさ。もう、傷つける気しかないじゃん。先生サイテー」
「うるさいな」
 昼間の踊る孔雀亭は閑散としている。冒険者は皆、おのおのの探索に出ているのだから当然だ。踊り子もいないので、ともすれば食堂のような雰囲気ですらある。
 孔雀亭の女将は、昼間の客も拒むことはない。採れたて新鮮な情報を持って帰ってきている、ピルグリムならなおさらだ。
 そんなわけでドミニクたちは、アティを待ちがてら昼食を摂っている。
「いいや、この際だから言わせろ。先生はアティちゃんに厳しすぎるんだよ。全く乙女心が分かっちゃいない。家に帰ったら、お家を継ぐとかいう以前に、好きでもない男と結婚させられるんだぞ?」
「旅先で結婚相手を見つけるタロットにとっちゃ、とんでもない話ってわけね」
 厚焼きタマゴのサンドイッチをニーナの口に押し込みながら、エリザベスが吐き出した胡乱な言葉に、ドミニクはぶんぶんかぶりを振った。
「おいらがアティちゃんを攫って、自由気ままな冒険者の旅を続けさせてやろうかな」
「なんでそうなるのよ」
「だいいち、先生はなんとも思わねえわけ? 兄妹同然なんだろ?」
 矛先をマオに向ける。ここに着いてから、彼は紅茶を啜るばかりで、一向に食事をしている風には見えなかった。
「―――おいらなら、あーんなかわいい子、放っておかないけどなあ。嫁になんかやるもんか」
「……アティは俺にとって、恩人の娘だ。それ以上でも以下でもない」
「あ、あのな。先生がそんな、だから……」
 ドミニクは尻すぼみに言葉を切ると、生唾を飲んだ。
―――入り口からゆっくりと、歩いて近づいてくるアティの姿を見つけたからだ。彼女はドミニクの視線に気付くと、
「お待たせしました」
 にこりと笑うアティ。
「アティちゃん、今の話、聞いて……」
「何がですか?」
「い、いや」
「それ以上でも、以下でもない」
「グワー」
 反芻されて、仰け反るしかないドミニク。
 アティは微笑みを貼り付けたまま、マオを見る。
「護衛のお話、受けることにしてもよろしいでしょうか?」
「あっ、や、やっぱりそういう方向になったんだね!」
 自分でも白々しいと思うほどの口調でドミニクが言うと、エリザベスに睨まれてしまった。
「辺境伯の主張が通ったの?」
「はい。忘れ物ついでに、辺境伯様のご意志を確認してきました。ウロビトやイクサビトからの信頼の厚い私たちに、ぜひ頼みたいと」
「なるほど。それは断りにくいわ」
 エリザベスまでもが納得したにもかかわらず、マオは渋い顔だ。
「故郷には?」
「もうしばらく、戻りません。あのときとは状況が変わりましたし……今の私は、戦いの最中だということに気付きましたから」
「戦い?」
「とにかく。無理に私に付き合う必要はないんですよ、マオ」
「何度も言っているように、俺の仕事は―――」
「私を無事にお父様の元に帰すこと、でしょう。お気になさらず。私は放っておかれても、いずれ勝手に帰ります。あなたもご自分の捜し物とやらを優先させてください」
 ぴしゃりとそう言われてしまったときの、マオの鼻白んだ表情たるや。
―――思わず爆笑してしまって、ドミニクはあとでぐちぐちと嫌みを言われたのだった。


 その日の日没前、再びセレンディピティを飛ばしたピルグリムは、会合の正式な申し合わせを、門番である戦艦に行った。
 こちらから彼らに届くほどの声を上げることはできないため、辺境伯が記した親書入りの荷物を降ろすことにした。どのみち、翌日には彼を連れてくる。門番は用心深く、ピルグリムが姿を見せている間は荷物を取りに行く様子もなかったが、意図は伝わったようだった。
―――マオは戦艦の動きを、食い入るように見つめていた。
 戦艦に乗っているのは、『帝国』の使者だろう。だが、初めてその存在―――具体的には声を聞いてから―――のマオは、少しおかしい。
 やはり、あんなことを言うべきじゃなかったかもしれない。
 と、アティの胸中を後悔が占めていた。そもそも、本当に彼が捜し物をしているとも限らないのに。確かめたわけでもないのだから、何を言っているのかと思われただろうか。それとも、核心をついてしまったから、傷つけてしまったのだろうか。
 それでも一応、辺境伯の護衛任務にはついてきてくれるつもりがあるようだ。エリザベスの母が用意してくれた、暖かな寝床に潜り込みながら―――目に入った窓の外の世界樹を、アティは見上げる。
 明日は、きっと謎が明かされる。
 それを知ったとき、アティはまだ戦いに向かう心を折らずにいられるだろうか?
 誰かのためではなく、自分のために。
―――世界樹の灯りを見つめていると、あれが何なのか、確かめたい想いが沸き上がる。
 『私ももう少し若ければ』と言った、辺境伯の声が蘇るようだった。
 私にはまだもう少し、時間がある。それを冒険に費やすことが、私自身以外の選択であるだろうか?
 シウアンをウーファンの元に帰してあげたい。それも、アティの心の底に横たわる真実だ。
(大丈夫)
 アティはごろりと横になると、無理にでも眠るべく、瞼を閉じた。

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第15話

 翌日。
 辺境伯―――と何故か港長―――を乗せたセレンディピティは、北を目指していた。
 戦艦が告げた会合場所は、この大地の入り口すぐそばにある『南の聖堂』という建物。
 周辺は何隻もの戦艦に守られていて、きっとこの大地にも魔物がいるだろうとも、ネズミ一匹入ってこられない雰囲気があった。
 それはつまり、ここから抜け出すには彼らの許しが必要だということだ。
「安心しな。セレンディピティはいつでも飛べるようにしておいてやるよ」
「港長、そのために一緒に来たの?」
「まあな。つうか逆に大変だったみたいだぜ、兵士を置いてくるの」
「連れてきたら良かったんじゃ?」
「兵士じゃ辺境伯を守りきれないさ。そのためにあんたらがいるんだろ」
 しっかり頼むぜ、と港長に肩を叩かれて、エリザベスは渋い顔をする。
「そんなに信頼されてもねえ……」
「エリザベスちゃんは自信がないわけ?」
「そうじゃないの。慎重なんだよ」
「そうですね……私も、ここまで厳重な警備だとは」
 逃がすまいとされているかのような、緊張感がある。
 そんなアティたちの背中を、ばしんと港長が叩いた。
「ほら、だから俺がいるんだっつってるだろうが。さっさと行ってこい!」
「は、はい!」
 エリザベスを先頭に、辺境伯を守るようにピルグリムは気球艇から降りていく。
 厳つい鎧に身を固めた兵士たちがそこらじゅうにいたが、そのうちの一人、黒い甲冑が足早に近づいてきた。
「ようこそ、帝国領へ。こちらの要求を飲んでくださり感謝します」
 女の声だ。甲冑に包まれた手が、辺境伯に握手を求めてくる。エリザベスがその前に立ちはだかった。
「無礼者。せめて、兜を脱ぎなさい」
「……確かに、仰るとおりね。失礼いたしました」
 水牛を象ったような兜が外される。
―――途端、直毛の長い銀髪が溢れる。
 現れた白い肌の人間の女性が、わずかに口元に笑みを湛えた。
「これでよろしい?」
「……タルシス領から参りました。私たちはピルグリムという冒険者です。こちらは冒険者を統括しておられる、タルシス領主です」
 アティが挨拶をすると、女性は頷いた。
「ええ、存じています。……辺境伯、奥に我が帝国の皇子がお待ちです。そちらまで案内いたします」
「皇子……」
 ざわつくピルグリムをよそに、辺境伯は緊張した面持ちながら、敢然と答えた。
「お願いしよう。……ここは、帝国の建築物なのかな? 図書館のような施設に見えるが」
「ご案内いたします」
 女性は踵を返すと、建物の中に向かって歩き出す。
「ひゃー、クールビューティ」
「感じの悪い女だね」
 ドミニクとエリザベスがひそひそと声を交わす。
 帝国の兵士たちを通り過ぎながら観察する。彼らの鎧はほとんど同じ形だったが、色が違う者もいるようだった。兜を被っていて中身は分からないが、案内の女性同様、人間なのだろう。
 ある扉が開かれた途端、その向こうで待っていた人物に、アティはあっと声を上げた。
 髪を後ろになでつけるように整えており、帝国の兵士の鎧に身を包んではいるものの、間違いなくワールウィンドだ。
 別人のように鋭い目つきに、呼びかけることすらはばかられた。
 彼はアティたちに一目もくれず、辺境伯に声をかける。
「遠方よりご足労いただき、ありがとうございます。辺境伯」
「……ワールウィンドか。巫女殿はご無事なのか?」
「……別所に貴賓として休んでおります」
「辺境伯様、皇子がお越しです」
 小部屋の奥、入ってきた扉と向かいの壁にある扉が兵士たちによって開かれる。
 鎧と外套を身につけた青年が、扉の向こうから歩いてくる。その堂々とした振る舞いから、彼が皇子であることは明白に知れた。
「よくぞ参られた、タルシス辺境伯よ。余はバルドゥール。我が帝国皇帝アルフォズルの長子にして、皇帝の代理人である」
 握手を求める手に、辺境伯が応じる。
 皇子―――バルドゥールは、感慨深そうに目を細めた。
「―――貴公ら人間の同胞と再会できたこと……帝国の代表として、心から喜ばしい」
 だがその感情の発露は一瞬で、手を離したバルドゥールはすぐに凜然した空気に戻る。
「正式な話し合いは、奥の間で二人きりで行いたい」
「それは……」
「中を見れば分かるとおり、出入り口はこの扉一つだ」
 異を申し立てようとしたエリザベスに、ローゲルが奥の間を指して言う。
「辺境伯」
 再度促され、辺境伯は足下の忠犬を抱き上げ、掲げた。
「では、護衛はひとりだけ」
「……かまわない」
「殿下」
 案内役の女性を手で制止し、バルドゥールは辺境伯を促した。
「何、私は心配いらぬよ。諸君らも、彼から聞きたいことがあるだろう?」
 小声でそう言い残し、不敵に微笑むと、辺境伯は皇子と共に奥の間へと姿を消した。
「……ワールウィンドさん」
 残されたピルグリムは兵士に包囲されてるも同然だ。その中で、アティはワールウィンドに言葉をかける。
 無視されるかと思われたが、その唇は開いた。
「俺の名はローゲル。代々皇帝家に仕える帝国騎士だ」
「ああ……そうだったんですね。では、タルシスに落ちた最初の気球艇というのも、ワールウィンドさん……いえ、ローゲルさんが乗っていらしたんですね?」
「そうだ。十年前、使命を与えられた俺は、結界を越えて南に向かった」
 谷に吹き荒れる風は、封印の結界だったのだ。
「タルシス近郊で墜落して以降、冒険者のふりをしながらずっと……巨人の『心臓』と『心』を狙っていたんですか」
 アティの言葉にも、ワールウィンド―――いや、ローゲルと名乗った帝国騎士は動じない。
「『心臓』を持ち去ったのも、貴方でしょう?」
「……そうだ」
「一体、何の目的でそんなことを? イクサビトを傷つけ、ウロビトの信頼を裏切りシウアンを攫ってまで、貴方は何を成し遂げようとしたのです?」
 声が震えているのを隠しきれない。
 ローゲルはわずかばかり、目を細めた。
「百年以上前から、帝国が抱えている問題を解決するためだ。そのためには、三つの宝をそろえて世界樹の力を利用する必要がある」
 アティの脳裏に、シウアンの警告、『世界樹を脅かす存在』が蘇った。
「帝国は、世界樹の脅威を知っているのですか?」
「……帝国は、世界樹の麓に住んでいた人間たちの末裔だ。ウロビトの語った『聖樹の護り』、あれは世界樹で発生した事故に他ならない。帝国は事態の収拾のための一部の人員、及びイクサビトとウロビトを残して、この『絶界雲上域』より北に避難した」
「ウロビトは……人間は巨人から逃げた、と」
「そしてイクサビトは、人間は共に勇敢に戦ったと言っていたな。前者は帝国の、そして後者はタルシスの先祖というわけだよ」
 大きく息をのむアティ。入れ替わりのように、エリザベスが声を荒げる。
「あんた、最初から全部知っていたんだね」
「そうだ。……辺境伯が価値を知らなかった『冠』の一方で、『心』と『心臓』の入手は困難だった。故に、両方が同じ場所に揃った好機を見逃さず、行動に移したんだ」
「あんたって奴は……」
「エリザベスちゃん、どーどー」
 今にも殴りかかりそうなエリザベスを抑えるドミニク。
 一方で、アティは気付いていた。自嘲するように言葉を並べ立てるローゲルの表情から、鉄面皮がはがれ落ちていることに。
 多くの人を傷つけ、欺いた『ワールウィンド』は、ローゲルだった。だが、『ワールウィンド』はすべて、偽りだったのだろうか? カーゴ交易場で、気球艇の苦労話について港長と語り合い、イクサビトの子供たちのために奔走した戦った彼は、すべて裏切るための布石だったのだろうか?
 彼自身、今の状況に心の整理がついていないように見える。
 十年間、共に戦う仲間もおらず、ただ信念だけを杖に彼はここまで到達したのだ。
「……大変、だったんですね」
 思わずぽつりとそう零したアティに、ローゲルの目が見開かれる。
「……やっぱり心底変わってるな、きみは」
 困ったようにそう呟くが、瞬きひとつ、帝国騎士の顔に戻ってしまう。
「殿下は今、事を荒立てた理由と世界樹の必要性を辺境伯にご説明されている。……俺一人に責任を負わせることもできた。だが殿下はそうなさらなかった……殿下が望まれるのは、共存の道だ」
「ローゲル様、お話が」
 案内してくれた女性兵士が、ローゲルの元にやってくる。
 ローゲルはピルグリムから離れる直前、こう言った。
「すべてが終わったら、巫女も、心臓も返そう」
―――ローゲルは離れたが、帝国兵士たちに囲まれている状況は変わらない。居心地の悪さが続く待ち時間で、ピルグリムはひそひそと言葉を交わす。
「アティ、あんたもう黙ってなよ」
「えっ」
「言うに事欠いて、大変だったんですね、って何なのアレは」
 胡乱にエリザベスに言われて、アティは首を竦める。
「あれはつい……口から出たというか」
「あ!」
 会話を遮るような声に、アティは振り返った。
「―――もしかして、あんたらかい? あの入り口に置いてある気球艇に乗ってきた、護衛って」
 馴れ馴れしく近づいてきた青い鎧と兜の帝国兵士から、聞き覚えのある声がする。
「えっと……?」
「もしかして、大地の入り口で警告を繰り返していたのはお前か?」
 マオに言われて、兵士はぴっと人差し指を立てる。
「そうそう、僕僕! てっきり聞き分けのないおっさんばっかり乗ってると思ってたからさあ、びっくりしたよ。若いんだね!」
「何なの、あんた」
「まあまあ」
 青い鎧の帝国兵士は、少しばかり周りを気にするように表情の見えない兜を被った頭を巡らせると、ずいと首を近づけてきた。
「―――辺境伯が出てきたら、すぐに逃げろ」
「え」
「来た道は確保してある。気球艇に向かって一目散に走れ」
 そしてぐいと後ろのめりになると、また大声になった。
「そういうわけだから。機会があったらゆっくり観光でもしていってよ!」
 そのまま離れていこうとする彼に、アティは慌てて声をかけた。
「待って! 貴方は―――」
「ルカ! あなた、ここに来るのなら言伝など頼まず自分で言いなさい!」
 青い鎧の帝国兵士に、先程ローゲルを連れ去った銀髪の兵士が怒り心頭の様子で詰め寄ってくる。
「ちょ、ホルン。お客の前だよ」
「いいえ、関係ありません。あなたね、今日という今日は」
「ちょ、や、やめてって!」
 面頬を指先でゴツゴツと突かれ、弱り切った様子で、ルカと呼ばれた兵士が兜を外す―――
 その瞬間、マオの顔色が変わったのをアティは見た。
「ルーカス!」
「へ?」
「えっ」
 きょとんとしたのは、兜の下から現れた赤毛の青年と、彼に詰め寄っていた女性兵士だ。
―――次の瞬間、奥の間の扉が音を立てて開く。
 出てきたのは辺境伯一人だ。珍しく怒気を孕んだ表情で足早に歩いている。
「辺境伯!」
 遅れて、バルドゥールが追うように姿を現す。
「―――理想郷を生み出すための計画だ。我らは同じ祖を持つ人間であろう? 手を取り合い、協力するべきではないのか」
 にわかに混乱する室内に、言い放つように辺境伯は声を荒げた。
「そのために巫女を……ウロビトやイクサビトを犠牲にしろと言うのか!」
 二人を挟んで、ピルグリムと対角上にいたローゲルが、はっとバルドゥールを見た。
 皇子は力なく溜息をつきながら、やれやれ、とかぶりを振った。
「……そなたも執政者なら、何がタルシスにとって最善の選択であるか、理解できぬか」
「できん。手にかけた屍の上に理想郷を築くことが、最善の選択であるはずがない」
「……貴公には、より詳しい説明が必要と見える」
 バルドゥールの声は冷え切っていた。
「―――ローゲル、辺境伯をお引き留めしろ」
 アティは仲間たちと、目配せをする。
―――最悪の事態だが、護衛の務めを果たさねばならない。「……はっ」
 承知の返答をしたローゲルは、しかし一拍躊躇した。
 その隙に、彼らの前に躍り出したアティたちは、辺境伯の腕を掴む。
「行きましょう!」
 マオとドミニクが、出口の扉前にいた帝国兵士たちの足下に、短剣と矢を放つ。彼らがたたらを踏んだ瞬間に、ピルグリムは猛然と走り出した。
「逃がすな!」
―――駆動音。
 最後尾を走るアティの目の前に、身体を覆い尽くすほどの影が落ちる。
「っ」
 振り返ると、子供の全長ほどはあろうかという刃渡りの、鉄の塊のような剣が、唸りを上げていた。
 ローゲルが剣を振り下ろす。
 刃ともつかぬそれが叩きつけられる寸前、アティとそれの間に、エリザベスが滑り込む。
「ベス!」
「ぐ―――」
 受け止めたはずの盾が砕け散る。
 鎧を打たれたエリザベスの身体を支えきれずに、アティは吹き飛んだ。
「アティちゃん!」
 ドミニクの放った矢に、鎧の重量を思わせない動きでローゲルは後ろに下がる。その隙にエリザベスの肩をドミニクに背負わせ、アティは告げた。
「時間を稼ぎます。急いで!」
「アティちゃ―――」
「追いつきますから、すぐに!」
 ドミニクは頷くと、負傷したエリザベスを連れて移動を始める。
「うー!」
 二人の足取りは重いが、ニーナが兵士たちの足を凍らせてくれているから、逃げ切れるだろう。
 アティは己の剣を構え直すと、ローゲルに剣先を向けた。
「時間を稼ぐ……か」
 ローゲルは己の剣の機関を起動させると、独特の構えを取った。
「―――賢明な判断だ」
「やああ!」
 上段からアティは斬りかかる。
 ローゲルの特殊な剣は見た目以上の重量があるらしい。剣を振り回すように彼はアティを打ち払った。アティは空中で一回転すると、籠手を起動させる。噴き出した炎が、落下するアティの援護となる。
「はあ!」
 今度は真正面から打ち合うが、刃が切り結んだ地点から、籠手の起こした炎がローゲルの剣に乗り移った。
「ふっ」
 間合いを取る。ローゲルは後ろを振り返ると、側に兵士や皇子がいないことを確認し、こう告げてきた。
「行け」
「えっ……」
「先程連絡が入った。殿下も間もなくここを退かれるだろう。君たちを足止めする必要がなくなったということだ」
「見逃してくださるということでしょうか?」
「今回だけだ」
 剣を降ろして背を向けるローゲルを、しかしアティは呼び止める。
「待ってください。シウアンは、巫女はどうなるのですか?」
「……こちらも事情が変わった。はっきりと答えることはできない」
「ワールウィンドさん!」
 その名で呼ぶと、ローゲルは深く、深く息を吐く。
「……彼女を案じるなら、木偶ノ文庫に向かえ。君たちが正しいと信じるのなら、全力で俺たちを止めてみろ。……そのときは全力で相手になる」
「いたぞ、捕らえろ!」
―――去るローゲルと入れ替わりに、帝国兵士が駆けてくる。
 アティは剣を収めると、仲間たちを追って走り出した。


「おーい、こっちだこっち!」
 セレンディピティ号の下で港長が手を振るのを見つけて、ドミニクは安堵の息を吐いた。
「あー、死ぬかと思った……」
「あうー」
 ニーナもさすがに疲れたようだ。
「大丈夫かね」
 ドミニクの背中でぐったりとしているエリザベスを見て、辺境伯が船から顔を出す。ドミニクはがなった。
「オッサンは出てきちゃダメだって! 引っ込んでなよ!」
「あ、んた、辺境伯に……口の利き方……」
「エリザベスちゃんも大人しくしてなって! ……って、先生は?」
 マオの姿がない。港長は肩をすくめた。
「辺境伯を連れてきた医者なら、気にかかることがあるから先に行ってろって、引き返しちまったよ」
「マオが?」
 そう言いながら、アティは来た道を振り返る。
「―――私、ちょっと探してきます!」
「急いでな。俺は出す準備をしてくる」
 港長が気球艇に引っ込んだのを、ドミニクはエリザベスとニーナを連れて追いかけた。
「ったく、先生のやつ……」
 最後に現れた帝国兵士の顔を見て、彼は何か驚いているようだった。
 アティのことを言えない。よっぽどマオの方が、物事を顧みない性格だ。帰ったら、とっちめてやらなければ―――そう思った矢先に、マオが一人で戻ってくる。
「先生! アティちゃんが今、先生を探しに行ったぜ」
「会わなかったぞ」
 単純な道の行き交いだと思っていたが、図書館のように本棚が入り組んだ作りをしているので、意外にも同じ道を通りにくい構造なのかもしれない。
「先生、一体どうしたんだよ?」
 黙り込むマオが再び気球艇から離れようとしたので、ドミニクは手を掴んだ。
「―――よせ、もうミイラ取りがミイラになるだけさ。船の中に入ってなよ」
「だが……」
「先生も怪我してんじゃん」
 黄ばんだ白衣を染める赤を指摘してやれば、マオは渋面を作る。
「なんなら、おいらが探して……」
「おい、帝国兵が来たぞ!」
 甲板に出ていたらしい港長が指差した先、建物の入り口から一斉に兵士たちが飛び出してくる。
「なっ……」
 ドミニクはマオの腰を肩に担ぐ。
「おい!?」
「港長、船を出してくれ!」
「お……おう!」
「離せ、ドミニク!」
「離したらあんた、あん中に突っ込んでいくだろーが!」
 小柄なタロットの身で、小さくもない暴れる成人男性を持ち上げるのは至難の技だが、ドミニクは器用に船への階段を上りきる。船内部へのハッチに辿り着くと、その側に備え付けてある伝声管に怒鳴りつけた。
「出してくれ!」
『了解』
「お前!」
 ハッチの内側にマオの身体を投げ飛ばす。徐々に地面から離れていく気球艇から、帝国兵士たちを見下ろして、ドミニクは息を吐いた―――が、瞬間頬を殴りつけられた。
「ってーな!」
「アティを見捨てたのか」
 飛び降りんばかりに動揺したマオの表情に、ドミニクは地団駄を踏んだ。
「冷静になれって。あんな状況でもうできることはない」
「今すぐ降ろせ。探しに行く」
「あのねえ、悪いけどおいらも腹立ってるからね。先生が勝手な行動を取らなければ、アティちゃんは間に合ったんだ」
 血の流れる肩を掴みあげてそう言えば、さすがにマオは黙り込んだ。
 地面に投げられた視線。宛なく何かを探すように彷徨う目に、ドミニクは静かに問いかけた。
「おいらたちの任務、何だったか覚えてる?」
「……辺境伯の護衛だ」
「ここはおいらたちが知らない大地だ。アティちゃんが言ってたけど、アリアドネの糸はここではまだ使えないんだろ。敵は戦艦で追いかけてくる。おいらたちはまだ任務の最中だ」
 飛び降りる事も考えたが、いくら港長がいても、全力で逃げるには、複数人で連携して運転する必要がある。エリザベスとマオは怪我人だし、ニーナは子供だ。
「大丈夫。向こうの兵士にも……よく分からないけど味方がいるみたいだし、アティちゃんはすぐには殺されないよ」
「……っ」
「分かったら、今おいらたちに出来ることをしよう。先生も手伝って」
「……ああ」
―――ドミニクは今一度振り返り、背後で離陸していく戦艦を睨んだ。


「っ」
「一人確保!」
 アティを埃っぽい床に押さえつけ、高らかに叫ぶのは、例の青い鎧の兵士だ。
 彼は上からのしかかったまま、アティの顔を覗き込む。
「馬鹿だな。なんで戻ってきた?」
「あなたに……話がありまして」
「ほー。嬉しいなあ」
 言葉は軽いが、押さえつける腕は一向に緩む気配がない。
「もう一人いました!」
 無理矢理顔を上げたアティが見つけたのは、兵士に首根っこを掴まれて、宙づりになっている幼女の姿だ。
「ニーナ?」
 ひらひらのスカートを振るように足をばたつかせる。杖を取り上げられてしまって、帝国兵の固そうな手甲に噛みついていた。
「こ、こら! 暴れるな!」
「これで全員かな?」
「あとの者には逃げられたようね。今、戦艦部隊が追いかけています」
 銀髪の女性兵士が近づいてくる。目を細めて、アティを見下ろした。
「……どうするのです?」
「ま、とりあえず捕虜かな」
 青い鎧の兵士はにやりと笑って言った。
「―――これでちょうど、数も揃ったところだしね」

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第16話

 命からがら帰還したピルグリムに対する評価は、さんざんなものだった。
 曰く、冒険者ごときが出しゃばった報いだの、所詮運だけの『実力者』だの、酷いものでは、帝国と結託して辺境伯を陥れたという噂まであった。
―――ドミニクがタロットだという点も、悪い風を呼んだ。
 大事にはならなかったのは、取りなしてくれた辺境伯が無傷だったことと、イクサビトやウロビトからも擁護があったからだ。
「拙者らイクサビトは、ピルグリムを信じておる」
 タルシスに応援に駆けつけたキバガミは、わざわざエリザベスの家を訪ねて言った。
「―――状況は最悪だが、イクサビトはいつでも力を貸す心づもりだ。遠慮なく頼ってくれ」
「……ありがとう。アティも喜ぶと思うわ」
 療養中のエリザベスは、彼らが見舞いによこした大量の魚に口角を綻ばせた(エリザベスの母は目を白黒させていたが)。
―――そう、骨折を負ったエリザベスが最も重傷だったとはいえ、周囲からの容赦のない視線に晒され、ピルグリムの三人はいずれも似たり寄ったりの状態だったのだ。
 動けない彼女をおいて、比較的軽傷のドミニクとマオは、情報収集に徹していた。とはいえ、第四大地は帝国が厳重に警備しており、ほとんど動けない。
「北の水道橋を越えられたら、なんとかなりそうなんだけどな」
―――マルク統治院にて。古びた地図をローテーブルにばさりと広げ、港長は言った。
「水道橋?」
「ここですよ」
 辺境伯に見えるよう、東西を結ぶ水道橋をペンで囲む。
「―――今の気球艇の浮力じゃ、この高さは届かない。今使っている気体なら計算上得られると思うんだが、いかんせん化合する温度が重要でね」
「でも、帝国の連中はそこを飛び越えてるじゃん?」
「おっ、いいとこ突くねえ。奴らも使っている特殊な炎が、あの『絶界雲上域』に存在するのさ」
 港長は『南の聖堂』の西にある地点を丸で囲む。
「―――『風止まぬ書庫』。帝国の祖先の遺産である、『黒き者の炎』が安置されている場所さ」
「港長さ……あんな短期間でよくそこまで調べたね……」
「あー、実はセレンディピティの整備をしているときに、帝国の奴が一人近づいてきてさ。べらべらとよく喋ってくれたんだよ。本まで貸してくれてさ」
 ほら、と港長が取り出した本は、古びているが気球艇の技術について記されているらしい。ぱらぱらと頁を繰るが、文字があまり読めないドミニクにははなはだ無用の長物だ。
「その帝国兵って、青い鎧のちゃらそうな奴じゃなかった?」
「ああ、言われてみればそんなだったような……」
 ドミニクはマオと顔を見合わせる。


 タルシスの夕暮れは美しい。
 マルク統治院からの帰り道、ドミニクは先をとぼとぼと歩くマオに、返事はないと分かっていながらしゃべりかけ続ける。
「今回の件でさ。おいらたち、意外とアティちゃんの実直さっていうか、素直さに助けられてたんだなって思ったよ」
 タロットに対する偏見を差し引いても、イクサビトや、巫女を奪われているウロビトは辛抱強くピルグリムを支援してくれている。タルシスの街に彼らが降りてきていて、他の冒険者とも親交を深めていることも、街の人々のピルグリムの評価を底上げする一因となっているようだ。
「……辺境伯が言っていた、大地の浄化っていうやつ。いつから始まるのかな」
 帝国―――皇子の目的は、巨人の『心臓』、『心』、そして『冠』を合わせて世界樹の力を呼び覚まし、荒れ果てた帝国の領地を浄化させることだという。
 ちなみに話にほとんど出なかった『冠』だが、燃料として虹翼の欠片が使えるということを発見したワールウィンドに、辺境伯が褒美として家宝を与えたことがあるらしいが、皇子曰くそれが『冠』なのだそうだ。
 皇子はこうも語った―――世界樹は、過去同じように大地を浄化しようと試みた、帝国とタルシスの祖先である人間の叡智の結晶なのだと。
 だが大地の浄化には副作用がある。その強すぎる力は人間にも及んでしまうのだ。イクサビトを蝕んだ『巨人の呪い』とは、その片鱗にすぎない。浄化がひとたび発動すれば、イクサビトの里、ウロビトの里はおろか、タルシスすら巻き込まれてしまう可能性がある。
「でも、ワーさんは『事が済んだら巫女も心臓も返す』みたいなこと言ってたよな。なんか矛盾だらけだ」
「……そもそも、あの帝国騎士が真実を話しているとは思えないだろう」
 返事があったことに軽く驚きつつ、ドミニクは答えた。
「あっちも全然、一枚岩じゃないみたいだったしな」
 今度は無言だ。
 ドミニクは意を決して、話題を変えた。
「先生は、あの青い鎧のやつの顔に見覚えがあるのかい」
 答えはない。期待していたわけではないが。
 ところが、視線を足下に落とした瞬間、低い声がこう応じた。
「……エリザベスがいるところで話す」
 ドミニクはぱっと顔を上げたが、丸まった背中が見えるばかりだ。
「まさかの、知り合いなの?」
「……そんなわけはない」
「知り合いに似てるってこと? なんか呼んでたよな? えーっと……」
 記憶がこんがらがっていて、すんなり出てこない。
 マオはいつの間にか立ち止まり、振り返っていた。
「ルーカスというのは、俺の弟の名前だ」


「っくしゅ!」
 肌寒くなってきた。「うー」と気遣わしげな声を上げてアティにすり寄ってくるニーナの頭をさすってやる。
「よしよし。ニーナは寒くないですか?」
「むぅ」
「印術師の格好は、暖かそうでいいですね」
―――アティたちは今、どこかに移送されている最中だ。
 機械が動いている音が聞こえている。小窓が手の届かないような高さにあるだけで、両手を広げるだけで精一杯の広さの横幅に、アティが寝そべるだけで鉄格子に足が当たってしまう縦幅しかない牢だ。例の青い鎧の兵士に戦艦の中にあるここへ連れてこられて、窓の光の移り変わりからして一日半くらいは経ったと思う。時折食事を差し入れられる以外は、やることがない。
 ニーナは食事の量が全く足りないようで、アティの分を分けてやってもずっと腹をすかしていて可哀想だ。
「皆は今頃、どうしているんでしょうね……」
 怪我をしていたエリザベス、彼女を連れて行ってくれたドミニク、探しに来たはずが一緒に囚われることのなかったマオ。
 彼らが無事に辺境伯をタルシスに送り届けたと信じている。それでも、彼らの身を案じてしまうのは、どうしようもない。
 そこへ、足音が近づいてきた。
 今日の食事は終了している。ニーナが唸り声を上げたので、何か特別な訪問者か、とアティは身構える。
 現れたのは、例の青い鎧の兵士だった。
「やあ。元気にしているかい」
「貴方は……」
「僕はルカ。……ごめんね、もう少し早く顔を見せようと思ったんだが。うちも色々慌ただしくて」
 同じ船に乗っていたのか。今は鎧を脱いでいる彼は、帝国兵士の制服なのか、いささか派手な服に身を包んでいる。その膝が折られ、あぐらの形になって、アティたちの鉄格子の向こうに座った。
「で、元気?」
「もう少し、ご飯をいただけると嬉しいです」
「ははは、それだけは勘弁だな。うちはもう、兵士たちが満足に食っていくだけの食糧も採れないんだ」
 ルカは明るく笑うが、笑い事ではない。
「うち……とは、帝国のことでしょうか?」
「そうさ。君たちにとっては、卓越した技術力を持っている強国に見えるだろうが、もう滅びかけているんだよ。国民はわずかな大地の実りを求めてちりぢりになってしまって、ここ『絶界雲上域』に残る国民は、バルドゥール殿下の『計画』を手伝う兵士だけなのさ」
 それを皮切りに、ルカは帝国の窮状について、彼が知る限りのことを語ってくれた。皇子の計画『大地の浄化』についても。彼の父である皇帝アルフォズルは、十年前ローゲルと共に、計画の鍵となる三種の宝を探す決死行に参加し、行方知らずになったままなのだそうだ。
「計画が発動すれば、この辺一帯は一面の緑だ。人間だってタダじゃ済まない」
「貴方は……それを、止めようと?」
「さあ、どうだろうね」
 ルカは立ち上がると、鉄格子を両手で掴み、アティを見下ろした。
「―――止めたいのかもしれないし、そうでないのかもしれない」
「なら何故、そんな話を私にしたのですか?」
「そもそもこの話が真実だと何故思う?」
 答えに窮するアティを、ルカは嗤った。
「―――君たちを騙して安心させて、儀式の生け贄にするつもりなのかもしれない。君たち以外の仲間は皆殺しだ。タルシスの技術力じゃ、『こちら側』に渡ってくることは不可能だから、事実上ゲームセット。そう思わない?」
「……私は、貴方はそんな人ではないと思います」
 正直に答えると、ルカの眉が寄った。
―――どこかで見た顔に似ている。
「何故かは分かりませんが、貴方は優しい人だと。そう思います」
「……そこまで信用されてると、逆に不気味なんだけど?」
「ごめんなさい。そういえば、申し遅れましたね。私はアティ。ご存じの通りタルシスの冒険者で、ピルグリムというギルドの者です。こちらはニーナ……あれ?」
 ニーナはいつの間にか、寝息を立てていた。アティにしっかりしがみついただけだったので、気付かなかった。
 寒くないよう彼女に毛布をかけてやっていれば、ルカがそっと鉄格子から離れ、元来た道へと引き返そうとしていた。
「待って、ルカさん」
「ルカでいいよ。……明日はもう少し、飯を増やせるか頼んでみるよ、一応」
「ありがとうございます。……あの、私たちがどこに運ばれているのかだけでも、教えていただけませんか」
 ルカは少し考えるように上を見ると、答えた。
「『木偶ノ文庫』。つっても、君たちには分からないだろうね。心配しなくても、明日のうちには地面の上に立てるよ」
 そう言って、今度こそ彼は去って行った。
 一人残された気分になって、アティは窓を見上げる。
―――ルカは一体、何者なのだろう。帝国の中で、どういう立場の人なのだろう。
 ニーナの寝顔を見下ろして、アティは独り言つ。
「そういえば、ニーナ。あなたはどうして、ここまで私たちの旅についてきてくれたのでしょう?」
 ムニャムニャ言っている彼女は、すっかり夢の中だ。
 涎を垂らしたニーナを膝に抱き、壁にもたれかかる。
「随分遠くに来たと思ったけれど、知らないことばかり増えていくような気がします」
 溜息混じりの言葉は、戦艦の駆動系から洩れる音に掻き消された。

 
 マオにはさっぱり、剣術の才能がなかった。
 その代わり、彼には詰め込めるだけ詰め込める頭があった。小さい頃から『神童』だの何だの言われて育ったマオは、十を幾つか越えた頃には田舎を出て、都会のラガードで高等学問を修学していた。
 一方で、剣の才に秀でていたのが六つ年下の弟だった。時々田舎に帰っていたマオは彼をかわいがっていたが、弟も田舎に満足はしていなかったらしく、元冒険者である父母の友人に頼み込んで、騎士の訓練を受けていた。その友人が、かの有名な、魔物ばかりを討伐して回る私設騎士団の団長であったとは、弟が騎士団員試験に合格した後で、団長にもらったと短剣を自慢していた弟から、知ったマオである。
 その頃マオはジレンマを抱えていた。世話になっていた、パトロン貴族の奥方が、病で倒れたのだ。ラガードの風土病だった。どうにかして治せないものかとあちこちの資料をあさり、この街に存在する禁忌とも言える、世界樹の迷宮にも足を踏み入れた。それでも、治せる術は見つからなかった。
 人間一人治せないのに、何が神童だ。自暴自棄になっていたマオは、家出をして冒険者の真似事をしたこともあって、パトロン夫妻には要らぬ気苦労をかけていたことと思う。若く、馬鹿だった。その罰が当たったのだろう。
 ある日、ラガードの近郊で竜が出た。
 人の里を荒らすたぐいの竜だった。たまたま居合わせた例の騎士団が、それの退治に向かったのはいいが、数日音沙汰がない。ラガードで調査隊が組まれ、マオもその一員に参加した。昔から、勘は鋭い方だったが、ひどく、嫌な予感がしたのだ。
―――予感は的中した。
 戦場となった村は、全滅していた。騎士団の人員と思しき残骸が、冬も間近の乾いた農村のあちらこちらに、転がっていたのを、よく覚えている。
 竜の顎と思われた歯の隙間に腕を突っ込むように、幼い頃から付き合いの深い、騎士団長が死んでいた。
 彼が握っていたのは、少年の左腕。
 肘から根元のないそれの、指先に引っかかっていた短剣を見つけたところで、マオにはどうすることも出来なかった。


「……それで、あの青い鎧と、どう結びつくの」
 乾いた声で、何とか言葉をひねり出した風のエリザベス。
 セフリムの宿の食事処だが、エリザベスはいつものツインテールをほどいていた。まだ万全とは言いがたいらしい。酒場でないところがいいと場所を指定したのはマオだが、確かにここで暖かいコーヒーを飲む方が、酒に流すよりも良かっただろう。
「ルーカスによく似ていた」
「……それだけ?」
「それだけ、だな」
 心底自嘲したような笑みが、マオの顔に張り付く。
―――どうしようもない、と言いたげだ。
 そう、どうしようもないのだろう。父を、突然殺されるという形で失ったエリザベスには、その感覚の片鱗が理解できる。どうしようもない。数年経った今でも、家にいると、何事もなかったかのように父が帰ってくる気がすることがある。そんなことがあるはずがないと分かっていても、『もしかして』と想う心の情動を、理性で止めることができないこともある。どうしようもないのだ。
―――マオの弟は腕以外、見つかっていないのだという。
「今の話、アティちゃんは……」
 ドミニクの問いに、マオは力なく首を左右に振る。
「こんな話、誰かにしたのは初めてだ」
「……アティのご両親は、知っているんでしょう?」
「ああ。結局、奥様は亡くなってしまったがね」
「なんつうか、皆色々あるんだなあ」
 ぼんやりと呟いたドミニクは、次の瞬間ぶんぶんとかぶりを振った。
「あ、その、なんかゴメン」
「謝ることか?」
「そりゃそうよ。冒険者なんてやってんだから、ひとつやふたつ、人に言えないことだってあるでしょうよ」
 エリザベスはフォローのつもりだったが、ドミニクは胡乱に言った。
「アティちゃんや、ニーナにも?」
「……分からないけど、あるんじゃない? そりゃ」
 適当に返答すると、不満そうな顔をされたが無視だ。
「それはそうと、『風止まぬ書庫』の件だ。まだ探索に入った冒険者はいないらしい。魔物が出るかもしれないが、俺たちはどうする?」
「三人か……ま、おいらがカモフラージュしていけば、なんとかなるんじゃない?」
「……っていうか、『それはそうと』でいいの」
 エリザベスが話を蒸し返すと、マオは「ああ」と生返事をした。
「迷惑をかけたからな。俺の事情を話しておいた方が良いと思ったんだ。……少なくともアティたちを取り戻すまでは、協力して欲しい」
「それは、勿論そうするつもりだけど」
 はあ、とテーブルに向かって、エリザベスは溜息を吐く。
「……分かったわ。今度あんたが勝手な行動を取ろうとしたら、ぶん殴って止めてあげる。それでいい?」
「ああ。それで頼む」
「じゃ、おいらは二人が喧嘩したら、遠くで眺める役する」
 ひょいと片手を挙げたドミニクは、エリザベスとマオの視線に―――ごまかし笑いを浮かべた。

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第17話

 戦艦から降ろされたアティたちは、巨大な図書館の中に通されていた。入り口を見るばかりでは、どれほどの広さがあるのかも分からない。『南の聖堂』と同じように、途方もない量の本と本棚が、絡みつく蔓と共に迷宮を作り出しているようだ。あとで聞いたところによれば、この場所こそがいわゆる第四迷宮であり、『木偶ノ文庫』らしい。
「ここでは、もう少しご飯をもらえるといいですね」
「うー」
 とはいえ探索できるはずもなく、捕虜生活は続くのだ。牢まで護送したのは、ルカではなかったが。
「あの、ルカはどちらへ?」
 名前を出すのはまずかったかと思われたが、尋ねた帝国兵は特に気にした風もなく答えた。
「彼は別任務だ。皇子のお気に入りだから、忙しいのさ」
「へえ……」
 すごい人なんですね、とニーナに声をかけると、ニーナは歯を剥いて「いー」と言った。どうやら、彼女は彼がお気に召さないらしい。結局、食事の量は増えなかったからだろうか。
「数年前に皇子付きの近衛騎士が拾ったのが、めきめきと頭角を現してね。やっかみも多かったが……昔の話だな」
「あら、どうしてです?」
 数年前なら、むしろこれからが、組織の中での彼の戦いなのではないだろうか。
 首を傾ぐアティに、眼鏡をかけているその帝国兵は、口角を上げた。曖昧な笑みにも見える。
「敵である君に、こう悠長に世間話をするくらいは、帝国の終焉は近いということさ」
「敵だなんて。帝国の皆様は紳士的でしたし、私はそう思っていません」
「……君は変なヤツだな」
 本気で呆れた風に溜息をつくと、帝国兵は眼前に迫っていた檻―――蔦まみれの鉄格子に気付かないほど暗い―――を開け、アティとニーナを押し込んだ。
 鍵をかけた後、眉根を寄せた顔が格子越しに近づく。
「―――君たちには申し訳ないが、ここで冒険は終わりだ。私たちには時間もなければ、食糧もない。最終調整が終わるまで、君たちが生きていればまた会おう」
「……武器だけ渡して放逐してくだされば、この魔物だらけの迷宮でも、少しは長生きできると思いますよ」
「それはできない。ここには、殿下がいるからね」
―――君たちは、殿下を止めに行くだろう?
 そっと檻から離れていく帝国兵。アティは鉄格子を掴んだ。
「待ってください! ……貴方のお名前を教えていただけませんか?」
 一瞬不思議そうな顔をして、眼鏡の兵士は名乗った。
「ユングヴィだ。さようなら、異国のお嬢さん」
 とぼとぼと独りで去って行く後ろ姿を見送るばかりだ。
―――事実上の死刑囚を連れてくるだけの役回り。何と損なことだろう。
「むー」
 ぐいとスカートを引くニーナ。暗闇に溶け、見えなくなった兵士を諦めたアティは、ニーナの視線に屈み込む。
「ごめんなさい、ニーナ。今、食べるものはないんです」
「むーう!」
 違う、と言いたげに、掴んだままのアティのスカートをぶんぶんと振ると、ニーナは檻の奥―――蔦が天窓を覆い尽くしているらしく何も見えない闇―――へと身体を投げた。
 首を傾ぎつつ、後を追ったアティは―――あっと声を上げた。
 ニーナの側に、倒れ伏した華奢な人間の身体が見えたからだ。
「大丈―――きゃっ!」
 破裂音。一瞬地面を走った光に、アティは上げてしまった悲鳴を今更のように抑えるように、口元を覆った。
「う……」
 倒れている―――と思われた少女が身じろぎをする。よく見ると、黒い外套の上に身を横たえているらしい。蔦が生い茂っていて、よく分からない。植物を避けるように少女の顔に手を伸ばして、アティは気付く。
 蔦は、この少女から生えているのだ。
「動くな」
―――ひたと顎に沿うように、後ろから添えられた細い刃。
「……冒険者か」
 振り向くだけの裕度を与えられ、アティは首だけを動かして、後ろを見た。立っていたのは、剣を握る長髪の人間の女性。そして―――ウロビトとイクサビトの男性がひとりずつ。
 そのうち、ウロビトの男性が口を開いた。
「カナン、解放してあげなよ。丸腰だし、彼女たちも牢屋にぶち込まれただけみたいだ」
「ふむ、お仲間ということだな」
 獅子のイクサビトが立派なたてがみを撫でる。そのうちに、剣を構えていた女性が、それを納めた。
「お仲間とは? 皆さん、今どちらから……」
「それは勿論、牢屋の外から」
 ウロビトが胸を張る。
「―――ここは遺跡と言っていいほど古くて、あちこちガタガタだからね。帝国兵もこんなところに気を配ってないみたいだ」
「わしらは貴殿……ら、か。ここに先に捕らえられた、哀れな囚人じゃ。まあ、メシを食わねばならぬので、しばしば脱獄させてもらってはいるがの」
 イクサビトはニーナを覗き込んだが、彼女はアティの背後に隠れてしまった。呵々と笑い、彼は臥せったままの少女の傍らにあぐらをかく。
「―――しかし、ここも随分な迷宮じゃな。数日歩き回って分かったことは、出口は兵隊が塞いでおるということと、よしんば外に出られたとて、跋扈しておる魔物に踏みつぶされるということくらいじゃ」
「むうー」
「こ、こら、ニーナ」
 ニーナが背中からイクサビトのたてがみを引っ張る。彼は獅子の顔を柔和に崩した。
「おお、どうしたかの」
「うー」
「あの、この子は喋るのが苦手で―――」
 言葉を掻き消すほどの大きさで、アティの腹が鳴いた。
「す、すみません……」
 穴があったら入りたい。イクサビトは目をぱちくりとやると、声を上げて笑う。
「はっはっは、まずは自己紹介を兼ねて、昼餉とするか!」


 三人で探索を続けることに抵抗があったのは確かだ。
 一方で、ウーファンとキバガミがそれぞれ、探索への参加を打診してくれたが断ってしまった。
「あーあ。ウーファンちゃんと一緒にいられると思ったのにな」
 気球艇を操舵しながら愚痴を垂れるドミニクを、エリザベスが睨みつける。
「声をかけられたとき、アンタだって乗り気じゃなかったくせに」
「それはおっちゃんのときだろー」
「とりあえず、できるだけ魔物との戦闘は避けよう」
 マオの言葉に、二人ともが頷く。
「……先生もなんで、賛成しなかったんだよ?」
「俺は三人で十分だと思ったからだ」
 飄々と言われて、ドミニクはぐうの音も出ない。
「建物が見えてきたけど、あれ、帝国の気球艇じゃない?」
 正面を向けば、エリザベスの指差す方角に、『南の聖堂』ほどの石造りの円堂と、その陰に停泊している戦艦が見えた。
「どーする?」
「このまま進む以外にないだろう。どのみち、向こうからこちらも見えているだろうしな」
「その割に、他の連中の姿はないね」
 水道橋の脚の隙間から見える向こう側の光景には、戦艦がうようよしている。最小限の兵を残して、ほとんどあちら側に行ってしまったようだ。
「―――もしかして、狙い目だったかも」
「どうかな。着陸するぜ」
―――だが、セレンディピティが建物の側に着陸しても。
 様子を窺いながら三人が外に出てきても。
 一向に戦艦からの反応はない。
「……誰も乗ってないんじゃない?」
「だとしたら、中にいるってことか」
「『黒き者の炎』を警備してるのかも」
 あり得る話だ。
 だとするなら、いざ鉢合わせても逃げる準備をしなければと、糸を握りしめて建物―――『風止まぬ書庫』へと立ち入る三人。
―――魔物は出てくるものの、人がいる気配はない。
「本当に、こんなところに遺産があるの?」
 うんざりとエリザベスは言った。ごうごうと耳鳴りがするほどの風に吹き飛ばされて、この道を通るのはもう四度目だ。
「おちおち地図も開いてられないな」
「文句言わねーの。アティちゃんがいたら『この風はどこから来ているのでしょう。外に出たら調べてみませんか』とか言い出してそうじゃない?」
 顔を見合わせたエリザベスとマオは、次々に嘆息した。
「……言いそうね」
「そうだな」
 それは、『余計なことを言い出しそう』という嘆息ではなく、彼女がこの場にいないことを自覚したかのような嘆息だった。
―――魔物との戦闘はできるだけ避けているとはいえ、逃げられないこともある。
 奥に進めば進むほど、逃げて探索が巻き戻るのを防ぐため、戦わざるを得ない場面が増えていた。メデューサツリーの大群に絡みつかれたドミニクは、倒したそれらの枝をエリザベスとマオが何とか切り払っている最中、ニーナのことを考えていた。
「印術って、普段あんま意識してなかったけどやっぱすげえんだな……」
「そうね。タルシスでも、印術師はあまり見かけないもの」
 普通の人間は、野営のための小さな火ひとつ灯すのも重労働だというのに。ニーナがいれば、メデューサツリーは一瞬で木炭になっていただろう。
「……二人とも、同じところに捕まってるのかな」
「なら、いいけどね。腹が空いたからって、変なもの食ってないだろうかな」
 しみじみと会話する二人に、マオがこう告げる。
「二人とも、探索に集中した方がいいんじゃないか」
 息をのんだように黙り込む、ドミニクたち。マオは笑い混じりだったので、そのまま深く、息を吐いた。
「先生ったら意地が悪いな」
「いや、俺もアティのことを考えていた。……この迷宮のことを話したら、きっと来たがるだろうなと」
 曖昧な笑みを浮かべるマオ。
―――二人のことが気がかりなのは、皆同じだ。
 ようやく抜けた風の回廊の先、靴音の響きが変わる。窓から差し込むわずかばかりの光で暴かれた薄暗がりから、火の揺らめきの明るさが、埃がたまった廊下を進む、ピルグリムの足下を照らし出す。
 その光に、人影がひとつ。
―――身構えた三人の前に、両手を掲げた男が現れる。
 彼は帝国兵の証である、特徴的な青い鎧に身を包み、へらりと笑った。
「よう。予想に違わず、すぐに来たな」
「あんたは……」
「僕の名はルカ。あんたたちはピルグリムだろ?」
 肩をすくめて、青い鎧の帝国兵―――もとい、ルカは続けた。
「アティが話してくれた。タルシスという街から来た、冒険者、だっけな」
「彼女はどこだ」
「『木偶ノ文庫』だよ」
 ルカはまっすぐ、三人の背後を指差す。
「―――水道橋の向こう、この大地『絶界雲上域』の中心に位置する遺跡さ。おたくらはこれを取りに来たんだろう?」
 続いて、己の後ろを顎でしゃくるルカ。人が数人両手を伸ばして抱きついても、腕を回しきれないほどの胴回りを持つ火壺の中心で、炎が燃えさかっている。このだだっ広い空間は、これを維持するためだけの部屋のようだ。
「これが『黒き者の炎』?」
「らしいぜ。これが、水道橋を越える気球艇の力となっているそうだ。僕も、人から聞いた知識だけど」
「それで? おいらたちはこれを取りに来たんだけど」
「そうだろうね」
 ドミニクは渋い顔になった。
「―――止めたりしないの?」
「止める? なんで?」
 両手をぱっと広げたルカは、床に突き立てた武器―――ローゲルが持っていたのと同じ大剣―――を抜く素振りすらみせない。
 エリザベスが、堪えきれないといったように、前に出る。
「あんたたち帝国と、あたしたちは敵同士でしょうが!」
「敵になった覚えはないけど?」
「帝国の皇子は、ここより南の大地に住む人々を、滅ぼしかねない術式を発動させようとしている。それは、帝国の総意じゃないのか」
 マオの言葉に、ルカは軽薄な笑みを浮かべたまま目を細めた。
「彼は、帝国の皇帝の代理人だ。皇帝は十年間行方不明のまま。なら、彼の意向は帝国の総意だろうね」
「君はそれに逆らうつもりか?」
「皇子から、『タルシスから来る冒険者に黒き者の炎を渡すな』なんて命令は受けてない」
「……へりくつだ」
 沼に杭というやつだ。会話にまるで手応えがない。ドミニクがサジを投げかけたとき、マオが口を開いた。
「なら、どういう命令を受けて君はここにいる?」
「……ここに来たのは、命令じゃない。僕の意志だ」
「君は『予想に違わずすぐに来たな』と言った。俺たちがここに辿り着くことを予想していたんだ。港長にここのことを吹き込んだのも君だろう。何のためにそんなことをした?」
 矢継ぎ早の質問に、ルカはあさっての方向を見た。眉が上がっている。
「……帝国はもう滅びかけでね。百年も前からじわじわ死に向かっていたのが、いよいよ末期なんだ。変な病気も流行ってるし」
「木や草が身体から生えてくる病か?」
「そう、それ。……参ったことに、かび臭い死を受け入れる奴らが大半なんだよ。皇子に賛成の連中も反対の連中も、古くさい固定観念に凝り固まってしまって、どうあがいても結局はこのまま死ぬもんだと思ってる」
 にやりと笑って、ルカはマオを見た。
「―――僕はそういうのが嫌いでね。どうせなら、希望を見て死にたいじゃないか」
「俺たちが皇子を止めることが希望になると? 皇子が悲願を達成した方が、帝国が救われる可能性は上がるんじゃないのか」
「どうだか。皇子自身が絶望しているんだから」
 肩を竦めると、ルカはかつかつと歩いて、『黒き者の炎』への道を空ける。
「―――僕が話せるのはここまでだ。あとは、君たち自身が『木偶ノ文庫』で帝国の絶望を見てくるといい」
 遠慮なく―――ただしルカの様子を窺いつつ、ドミニクは松明を火壺に近づける。まだかなり距離があったのに、ぼんと大きな音がして、松明に明るい火が移った。
「……アティは無事か?」
「気になるなら、早く行ってあげなよ」
 立ち去ろうとしているらしいルカに、マオは問いを投げ続ける。
「じゃあ最後の質問だ。……ルーカスという名前に心当たりはないか?」
 部屋の入り口に差し掛かったルカは、訝しげに振り返る。
「ないけど」
「……そうか」
 甲冑を履いた足音が、次第に遠ざかっていく。
 静かになった『黒き者の炎』の間で、ドミニクが慰めるようにマオの肩を叩いた。
「先生。あいつ、両手ともあったよ」
「分かってる」


「はー!」
 上段から機械人形―――『プロトボーグ』に斬りかかったアティの両腕を、鉄を殴りつけたような衝撃が襲う。
「いっ……」
「ふん!」
 いつもの剣でなく、拾いものの剣では勝手が異なる―――言い訳がましく、受け身を取り損ないかけたアティの隙を補うように、横殴りの槌が機械人形の胴を薙ぐ。
 アティの剣では傷一つつけられなかったそれが大きく陥没して、『プロトボーグ』は壁まで吹き飛ばされた。
「まあ」
 着地したアティが見上げると、大槌の主である獅子―――グレンは胸を張る。
「さて、仕上げだ」
 機械人形はなかなか起き上がらない。叩きつけられて動きが鈍ったのかと思いきや、彼の足下に広がる光の陣がその動きを止めているらしい。
 杖を掲げて方陣を維持する、ウロビト―――シュメイが声を張る。
「今のうちだよ」
「むー!」
 ニーナが両手を掲げると、空気が裂けるような轟音と同時に雷が魔物に落ちた。
 ブスブスと焦げ臭いが立ち上り、『プロトボーグ』はがくんと首と腕を落として、動かなくなった。
「すごいです、ニーナ!」
「ぬーん」
 ふんぞり返るニーナに、惜しみなく拍手を送るアティ。
「いや、本当にすごい。印術師は媒介となる杖がなければ術が使えないものと思っていたよ」
 同じように手を叩いていたシュメイに、アティは目をしばたかせた。
「印術のことをご存じで?」
「タルシスの書庫で原理を読みかじった程度さ。彼女はまるで魔法使いのようだね」
 アティの膝にまとわりつくニーナを抱き留めながら、アティは答える。
「印術を使うには、遺伝的に特殊な因子が必要ですが、具体的なことはまだ解明されていないと聞いています。私には、ウロビトの方陣も魔法のように思えますね」
「ふむ、原理が分からないものはみなそう見えるものなのだろうな。こういう類いのものも」
 言って、シュメイは『プロトボーグ』の頭、つるりとした金属のおもてを撫でる。
「―――機械と呼ぶのか。あの、空飛ぶ乗り物と同じかな」
「いいえ、それよりずっと……高等な技術によって作られたものです」
 アティの故郷にも、似たような機械人形が守っている迷宮がある。だが、発見されて二十年以上も経過しているのにもかかわらず、それと同じものを作り出せた者はいない。今の機械技術では、自動で動く精巧な機械人形は、複製すらできないのだ。
「……先程見かけた、警備兵のような機械人形とは別種のようですね」
 まるで侵入者を探し回っているかのようだった。見つかると、周辺で石像のように待機している機械人形を応援に呼ぶ。先に一度見つかったが、扉の向こうまでは追いかけてこないようで、何とか逃げ切ることができた。
「だが、奥に来てしまった。後戻りは出来ぬぞ」
 グレンが振り返った先には、イクサビトの子供たちと同じ病に冒された少女―――リップルを背負う、夜賊の女性の姿がある。
「カナンよ、いつでも交代するぞ」
 グレンの申し出にも、カナンは答えない。
―――グレンたち四人は、辺境伯を連れてくるようにとアティたちが追い返された直後に、『絶界雲上域』を訪れたそうだ。それも、気球艇ではなく徒歩でというから驚く。
 詳細は聞いていないが、とにかくそれで、帝国に囚われてしまったらしい。ここ『木偶ノ文庫』に移送されたのは、恐らく青い鎧の帝国兵―――ルカの指示だろう、とはシュメイの弁だ。
「彼は僕たちを見て、何かを思いついたようだった。君が言う『ルカ』と、僕たちの見た彼が同一人物なのかは分からないけど」
 特徴からしてきっとそうだろう。鎧の装丁を除けば、全体的に地味な印象を受ける帝国兵のうちでも、彼は一際目立っていた。
 アティが連れてこられた牢に、彼らを護送したのもルカだった。彼は牢が壊れていることを告げ、こうも言ったという。
「その子の病を治したいと思っているなら、この迷宮の奥を目指せ」
 その子とは、当然リップルのことだ。
―――イクサビトの里での顛末を知らないグレンたちは、何のことを指しているのか分からなかったそうだが、アティには理解できる。ユングヴィが言っていたとおり、ここには皇子がいるのだ。彼が、巫女を連れているのだろう。
 だから、その話を聞いたとき、奥を目指そうと提案したのもアティだ。
 グレンたちは四人だったが、リップルを連れて行けば、彼女を守りながら戦うことになり、自由に動けるのは二人だけだ。そんな状態で、魔物と罠が待ち受ける迷宮を進んでいけるはずがなく、リップルを安全な牢の中に残して、三人で周辺の地理の把握に努めていたらしい。地下一階の地図がおおよそ出来上がったところで、アティとニーナが合流した。
 戦闘に四人参加できるなら、リップルを連れて下層に進むこともできるだろう。
―――そして今に至る。
 グレンとシュメイとはすぐに打ち明けたが、カナンがどういう人物なのか、アティにはまだよく分からなかった。聞けば、リップルも明るい少女なのだという。同じ年頃の友人がエリザベス以外にいないアティは、彼女たちとも話がしてみたい。
 シュメイはグレンの着物の裾を引くと、獣の耳元に某か囁いた。グレンが大きく頷いて、アティたちに告げてくる。
「わしらは少し先の道を見てくる。アティたちとカナンは、ここで待機じゃ」
「えっ」
「すぐ戻る」
「あっ、その」
 有無を言わさず去って行く、グレンとシュメイ。
 置き去りにされたアティは、ニーナに微笑む。
「お、おなかすきましたね……」
「あうー」
 ニーナはあまり興味がなさそうに、壁を埋め尽くす本棚から垂れ下がる藤の花に噛みついては、埃を吐き出している。
「カナンさん、その……」
 ちらりと視線をやったカナンは、リップルを負ぶったままあさっての方向を見ていた。
 カナンの頭はアティより頭一つ分高いところにあるため、表情が窺えない。
 意を決して、アティは口を開く。
「その、お二人は、どういう経緯でシュメイさんたちとお知り合いに?」
 当たり障りのない話題を、と思って選んだ質問だったが、カナンは金瞳をちらとアティに向けただけで、またそっぽを向いてしまう。
「あの、今までの迷宮には、樹海磁軸があったんです。リップルさんのこと、心配ですけど……磁軸が見つかったら、タルシスに一度引き返された方が」
「タルシスの町医者に診せたが、彼らでは治せないと言っていた」
 カナンが答えた。抑揚のない口調で、
「―――この病は伝染病だ。タルシスに流行らせるわけにはいかん」
 アティははっと彼女を見た。無表情のまま、何の感情も浮かんでいない顔だ。
「貴女たちが『絶界雲上域』を目指したのは、巫女のことをご存じだったからなのですか」
「……風の噂で耳に挟んだだけだ」
 それ以上、情報の出所や詳細を話すつもりはないようだ。ぴしゃりと言って、カナンはそれより、と視線をアティに向けた。
「―――磁軸が見つかれば、君こそ街に引き返すべきじゃないのか」
「……私が奥に行こうと言ったのに、貴女たちだけを置き去りにするわけにはいきません。それに、私にも仲間がいますから。彼らはきっと、ここを目指すでしょう」
―――難しい顔をしていたカナンに、アティは微笑む。
「カナンさんは優しい方なんですね」
「は?」
 整った顔が余計に曇ったので、アティは両手を振った。
「その。リップルさんのこともそうですし、タルシスに病を広めてはならないというお心遣いも、覚悟がなければできないことだと思いまして」
「それがどう『優しい』などと結びつくんだ」
「カナンちゃんは……やさしい、よ」
 背中のリップルがそう言うので、ますます渋い顔になるカナン。
 アティはくすくすと笑う。
―――不器用なだけだ。近寄りがたいという雰囲気なだけで、中身は普通の人。
 カナンからはそういう印象を受ける。
「共に戦っていただいて、ありがとうございます」
「利害が一致しているだけだ。それ以上でも以下でもない」
「供連れが貴女たちで良かったと思います。とても心強いです」
 本心からそう言ったのに、カナンはどこか、居心地の悪そうな顔をしている。
「……何故そこまで他人を信用することができる?」
 どこかうんざりと言ったカナンに、アティは答えた。
「誰かに信じてもらうには、まずは私が信じなければ」
 そもそも、カナンたちとは出会ったばかりだ。すぐに信用を得るのは難しい。こうして、戦いの場で自らの働きを見せていく他はない。これは共同戦線なのだから。
 マオたちがいてくれたら、と思ってしまうのは事実だ。
 正体の分からぬものに立ち向かうのは恐ろしい。それでも、共に進むこの人たちを信じると決めたのは、自分なのだ。
―――カナンは黙り込んでしまい、じっとアティを見つめている。
「おーい」
 そのとき、本棚の角から、シュメイが顔を出した。
「―――二人とも、こっち来てよ」
「むうっ」
「あーごめんごめん、君とリップルもね」
 ニーナの抗議を軽くいなしつつ、シュメイは通路を進んでいく。
 誘われるままに進んだ道の先は本棚で埋められ、行き止まりだった。見慣れてきた、何の変哲もない『木偶ノ文庫』の風景に見える―――ただひとつ、それにもたれかかるように座り込み、項垂れている帝国兵の姿を除けば。
 その傍らに、グレンが立っていた。彼は帝国兵の兜に手を伸ばす。すると、帝国兵の右手が、力なく持ち上がったではないか。
「う……う」
「大丈夫ですか?」
「触らない方が良い」
 伸ばした手をシュメイに杖で退けられ、アティは狼狽えた。
「でも……」
 彼の鎧は、一般的な帝国兵のもので、名を知っている兵士ではなさそうだが、何故こんなところにいるのか。
「よく見たまえ」
 シュメイが杖で指し示したのは、帝国兵の左腕だ。
 アティは息をのむ。葉の生えた蔦が、それに巻き付いていたからだ。
「貴様らは……侵入者か……」
 帝国兵は右手で傍らを探る。剣を求める手つきだ。アティは思わず言った。
「やめてください、戦う意志は私たちにはありません」
「では何のために、ここまで来たのだ……周囲は我が国の艦隊が警邏して、いるはず。どのように、入り込んだ」
「まあ、そういうのはいいじゃない。君こそ、お仲間から離れてどうしてこんなところに?」
 シュメイは問いかけを投げながら、杖で床を叩く。白い光が一瞬紋様を象り、消えた。
「―――気休めだけど。少し、身体が楽になったろう」
「何の、つもりだ……」
「僕らは弱い者虐めをしにきたわけじゃない。帝国のこと、君たちがここで何をしようとしているのか……知っていることを教えて欲しいだけだ」
 ひゅーひゅーと細い息を吐いていた帝国兵の呼吸が、徐々に落ち着いてくる。
「……殿下がここに残された人員はわずかな技術士官のみだ。それも、たいした役に立つわけでもない私のような」
「そんな……巫女は、貴方たちの病を癒やせるはずです」
「ああ、らしいな。だが、癒やしたところで無駄だ。殿下が世界樹の力を発現すれば、この迷宮にいる人間は巨人の呪いから逃れられない」
 同じ事をルカが言っていた。一方で、話を聞いていたグレンの髪が逆立つ。
「あの呪いを、考えもなく振りまくつもりなのか。何という……!」
 アティはそっとカナンを盗み見た。
 背にリップルを負ぶったままの彼女は、しかし無表情のままだ。
「考えもなく……か。世界樹の呪いなく、大地を浄化することなど不可能という結論に至った我々の絶望も、貴様らにとってはそう見えるのだろうな」
 自嘲するように、声をくぐもらせる帝国兵。
「何をせずとも、ただ死に行くばかり。浄化を敢行したとて、生き残るものはどれだけか……どちらに進んでも、待つのは終焉だ。我々の絶望を、止められるのなら止めてみるがいい」
 引きつった笑いが響く。
「……もう行こう」
 立ち尽くすグレンの肩を、シュメイがそっと叩いた。

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第18話

「いいか、くれぐれも無理はするなよ。気球艇が丈夫になったわけでも、速度が増したわけでもないんだ」
 念を押すにしても繰り返しすぎだ。港長の言葉に、ドミニクが何度も頷く。
「分かってるよ。ただ水道橋を越えられる高さを飛べるだけってだけで十分さ。あとは上手くやるよ」
 とはいえ、水道橋を越えたところで、艦隊を組んだ帝国の戦艦が待ち伏せている。
 作戦は単純だ。他の冒険者の気球艇を囮にしている間に、ピルグリムは『木偶ノ文庫』に突入する。ただそれだけ。
 アティがいれば反対しそうなものだが、ここに彼女はいない。
 協力してくれるのは、ウィラフとキルヨネンだ。作戦の立案者は辺境伯だが、何度か大地で物々交換をしたりと、ピルグリムと交流のあった彼女らは、快く参加してくれたらしい。
「ここまで信用してもらえるって、逆に緊張するな」
 と言いつつ、嬉しそうに操舵室に入ってきたドミニクに、エリザベスは眉を上げた。
「浮かれるのはまだ。アティとニーナを見つけてから」
「正確に言えば、巫女を奪取してからだな」
 畳みかけるように言われて、ドミニクはしかめ面をする。
「そうなんだけどさ……『任せる』って街とかのえらい人から言われると、嬉しくなるじゃん。おいらってば、行く先々で邪険にされてきたからさあ、タルシスは実力主義って感じで良いところだと思うよ」
「まあ……実績主義なのは否めないけど。どちらかといえば、辺境伯がお人好しなんでしょ」
「そこは、おいらの操船技術が優れてるー、とか言って欲しいとこだったな!」
「いや、突入まではお前が要なのは確かだ。頼むぜ」
 マオに真顔で言われてしまい、ドミニクはむずがゆそうな笑みを浮かべた。
「で、でも真正面から褒められると恥ずかしい……あー胃が急に痛く」
「気持ち悪い顔。どっちなのよ」
「どっちかと言えば、女の子には褒められたいです!」
 照れ隠しのように相好を崩したドミニクに、エリザベスは心底呆れた嘆息で応じた。


 時折の休憩を挟みながら、アティたちは『木偶ノ文庫』の探索を進めていた。
 この地下図書館は、天井まで覆い尽くした植物と本のせいで、外からの光がほとんど差し込まない。そのくせ、どこかしこに灯された明かりが、迷わない程度に足下を照らしてくれる。これは、皇子のために帝国兵たちが用意したものなのかもしれない。
「わあ、すごい」
 突然目の前に開いた吹き抜けの廊下に、アティは思わず手すりまで駆け寄った。地下一階では、本棚の陰に隠れて見えなかった部分だろう。吹き抜けの上下には相当な空間が広がっているようだが、さすがに暗くて見えなかった。
「今更ですけど、この図書館の所蔵も、かつては人々の知識として活用されていたのでしょうね」
 休憩のたびに側にある本を開いていたアティだったが、異国の言葉であったり、あるいは読めそうでも内容が専門的すぎて理解できなかったりすることが大半だった。物語や詩があるかもという期待も、段々と薄くなっている。ここはきっと、文学的な価値を期待されていない図書館なのだ。
 涼やかな風が、短く切りそろえた髪を撫でていく。ふと、吹き抜けを挟んだ、向かいの廊下が見えることに気付いた。
「あっ、道が―――」
 グレンたちに教えてあげようとした刹那、ニーナが叫ぶ。
「うーっ!」
「ニーナ?」
 彼女が必死に指を差すのは、向かいの廊下をまさに、歩いてきた人影だった。
―――鎧と外套に身を包んだ青年と、彼に引きずられるように歩く少女。
 帝国の皇子バルドゥールと、巫女シウアンにほかならない。
「シウアン!」
「おお、危ないのう!」
 腿あたりまでしかない、錆びた手すりを越えんばかりに身を乗り出したアティを、グレンが背後から支えてくれる。
 アティに気付いたシウアンが、同じように向こう岸で走り寄ろうとして―――皇子をふりほどけないでいた。
 皇子の手元には、ローゲルが持っていたような大剣が握られている。表情までは読めないが、声はよく通った。
「タルシスの者か。如何にして侵入した?」
「どのような手段でも使います。巫女を返していただくためなら」
「それは出来ぬ。世界樹の力の発現は、皇帝アルフォズル陛下と全ての帝国民の悲願である」
「巫女やイクサビト、ウロビト……ここにいる貴方の忠実な兵士たちを犠牲にしてでもですか?」
「……そうだ。未熟な余では、力の完全なる制御は成らぬ」
「あなたの目的のためにみんなを巻き込んでしまっていいの?」
 口を開いたのはシウアンだった。彼女は敢然と、己を掴み捕らえている皇子を見返す。
「―――あなたのお父さんはそんなことをしたかったの?」
 にらみ合う皇子とシウアン。皇子の声は、虚ろに響く。
「……その方は余を恐れぬな。無知故か、それとも―――」
 そこで、彼は酷く咳き込んだ。
―――アティは見た。
 皇子の口元から、花弁のような、葉のようなものがひらりと落ちたところを。
「バルドゥール……」
 シウアンが気遣わしげに彼を覗き込んだのを、振り払うように皇子は腰を伸ばす。
「……っ、余には時間がない」
 乱暴にシウアンの手を引き、皇子は廊下を横切っていく。
「痛い、離して! 別に逃げたりしないから……」
 シウアンの訴えを無視する皇子。アティは思わず声をかけた。
「バルドゥール! 必ず貴方を止めてみせます」
「やってみるがいい。余の騎士が、貴公らの道を断ち切るべく待っている」
 皇子は来た道を一瞥すると、続けた。
「―――もっとも、そこまで辿り着くことができれば、だが」
「何ですって―――」
 その刹那、突き飛ばされるような揺れがアティを襲う。
 地震だ。とっさにニーナを抱きかかえ、揺れに耐える。ところがそれは長くは続かず、塵や本が降ってきた程度で止まる。幸いにも、多くの本は落ちず、本棚も倒れてはいないようだ。
 ところが、聞く者を不安に突き落とすような音が、吹き抜けに飲み込まれるように響き渡る。
―――これは、機械人形に捕捉されたときと同じ、警告音だ。
 周囲に機械人形は見当たらない。こんな狭い通路で戦うのは危険だろう。
「移動しよう、アティ」
「は、はい」
 いつの間にか、皇子たちはいなくなってしまっていた。
―――ところが、扉を通り抜けても、警告音は鳴り止む気配がない。
「もしかして、皇子が何かしたのかな?」
「いや……そういう素振りはなかったが」
 亜人たちの会話を聞いていたアティの耳に、涼やかなカナンの言葉が届く。
「私たちの他に、侵入者があったのかもしれん」
 ぱっとアティが顔を上げると、カナンと目が合ってしまった。
「えっと……」
 見透かされているように静かな目だ。しどろもどろになりながら、アティは続けた。
「もしかしたら、タルシスの冒険者?」
「監視をかいくぐって辿り着いたのなら、たいしたものだね」
 口笛を吹きつつ、シュメイは「見つかってるけどさ」と付け足した。
「うー!」
 ニーナがアティのスカートを引く。先に進もうということだろうか。
「ええと……誰かが辿り着いたのなら、確認したいところですが、事は一刻を争うようですから。先に進みましょう」
「そうだね」
 異論のある者はいなかった。
―――ところが。
「あら、まあ」
 いくつか扉を抜けた先にあった光景に、アティは目をぱちくりとした。
 そこは、先程見たのと同じ吹き抜けの間であった―――そ
う、あった(・・・)、だ。
 まず、天井はなくなっていた。正確に言えば、天井から地下一階になっていたところは、大穴が空いていた。では吹き抜けが空まで見えるようになったのかと言えばそうではなく、その部分に気球艇が突き刺さっていたのだ。それも、見覚えのある、というより慣れ親しんだ―――セレンディピティが。
 本棚の破片や本が、斜めに突き刺さる気球艇のあちこちから降ってくる。アティから見えているのは気球艇のバルーンの部分で、船は偶然にも後尾側にあるハッチをこちらに向けたまま、開いている。
「これは……」
 船の中までは見えない。気球艇を飛ばすために必要な火も消えてしまっているようだ。
「ウー」
 呆然とするアティのスカートを引くニーナが、通路の行き止まりを指差している。
「もしかして……」
 期待を胸に通路を覗き込めば、暗がりに固まるようにぐったりとしていた三人を見つけて、アティは飛び上がった。
「マオ、エリザベス、ドミニク!」
「アティ、ニーナ……」
 エリザベスが力なく応じる。
「―――あー、気持ち悪っ……なにが『おいらを信じて』よ。無事だったのが奇跡だわ」
「だ、だから大丈夫って言ったでしょ」
「どこが大丈夫なんだ……」
 どうやら、本当に気球艇で空から突っ込んできたらしい。アティは目を丸くしたまま、三人に近づいていく。
「マドラがあるなら、使いましょうか?」
「勿体ないからいい」
 一番最初に立ち上がったのはマオだった。彼はそれでもまたヨロヨロとしていたものの、アティの肩を掴んで顔を覗き込んでくる。
「な、何です?」
「よく、ご無事で……」
 それだけ言うのがやっと、と言う様子でぐったりと頭を落とすマオ。アティは微笑んだ。
「それは、こちらの台詞ですね」
「うん? 彼らは、アティたちの仲間かい」
 ぞろぞろと、シュメイたちが駆けつけてくる。
「はい、そうです。これで合流できましたね」
「合流って言っていいのかなこれは……」
「アティ、そちらの方たちは?」
 ピルグリムの仲間たちに、グレンやシュメイの紹介をするアティ。気付けばグレンがリップルを背負っていて、カナンの姿がない。
「カナンさんは?」
「様子を見てくると言って、離れたが」
 警告音は未だにけたたましく響いている。空からこんなものが降ってきて、建物に穴を開ければ当然だろうが。
「ベス、帝国兵の艦隊は?」
「ウィラフたちが囮の協力をしてくれて、あたしたちは撒いたはずだけどね。この騒ぎだと、追いかけてきちゃうかも」
「あーもう、ごめんなさい」
「ドミニクのせいではありませんよ」
「お取り込みのところ悪いんだけどさ。これ、通路巻き込んでない?」
 シュメイの一言に、ピルグリムは一斉にセレンディピティを振り返る。
―――セレンディピティの気球部分の最後尾が、直線に走る通路の真上に乗っている。他を見ても、ここに辿り着くまでに来た迷路に行くための道以外はなさそうだ。
「あーごめんなさいー」
「謝って済むなら、こんな遺跡に警邏用の機械人形なんて置かないよねえー」
 シュメイがドミニクの傷を抉る。なるほど、それでカナンは様子を見てくると言ったのだ。
 程なくして、セレンディピティの後尾と倒れた本棚の隙間をすり抜けるようにして、カナンが向こう岸から器用に通り抜けてきた。
「どうです?」
「あちらの通路に損壊はない。ここを通ればなんとか進めるだろう」
「むう、わしはどのように通ればよいやら……」
 リップルを背負って、足場の悪い空間を無理矢理通るのは至難の業だ。
 突然の合流だったが、グレンたちがタルシスの街に戻りたがらないことだけは伝え、とりあえずの体で作戦会議が始まる。
「アリアドネの糸を使いたいところですが、この分だと再び戻ってくるのは難しいでしょうしね」
「そうね……」
「ベス?」
 エリザベスは上の空だ。
 その視線の先には、外套を染め上げる埃をはたき落としていた、功労者であるカナンがいる。
「……あなた、夜賊よね?」
 カナンはエリザベスに一瞬視線を投げただけだ。だが、眉根を寄せたエリザベスはふらふらと、彼女に近づいていく。
「どこかで……会ったことある?」
「なーなー、ちょっとまずいぜ!」
 積み荷を取りに行くついでに偵察に行くと言って、気球艇の萎みかけのバルーンを登っていたドミニクが、這うように戻ってくる。
「―――やっぱり、見つかっちまってたみたいだ。戦艦が側に着陸しようとしてる!」
 外の様子が見えたのだろう。
 顔をしかめたグレンが、重々しく答える。
「むう。わしは先に進まずに、きゃつらを攪乱する役回りを負うとしよう」
「そんな、危険です」
「どのみちこの細い道を、わしのような厳つい男は通れまい。そこの、医術士殿くらい細身なら分からぬがな。ははは」
 細身と称されたマオだが、ドミニクはさておき、彼は標準的な成人男性の体格だ。案の定本人も不服だったようで、
「あんたが規格外なだけだと思うが」
「おお、気分を害したのなら許されよ。十年前に見た人間の成人男子は、もう少し体格が良かったものでな」
「同胞が残るのなら、僕も残ろう」
「私もだ」
 カナンが同意したので、アティは目を見開く。
「で、でも、リップルさんが……」
「病人を背負って、こんな道は通れまい」
「へっ、リップル? 今リップルって言った?」
 今更のように、グレンの背中に乗せられたままのリップルに近づいたドミニクが、その顔を覆う草木を持ち上げた。
「わっ、本当だ! なんでこんなとこに?」
「お知り合いだったのですか、ドミニク」
「いとこだよ。……あらら、こんなになっちゃって」
 随分軽い調子だが、ドミニクは渋い顔だ。
「……ピルグリムだけで先に進もう」
 マオの発言に、積極的に異を唱える者はいなかった。そうならざるを得ない。この状況では。
 アティはドミニクを見た。
「本当にいいのですか?」
「リップルのこと? まあ心配だけど、心配だからって側にいても仕方ないしさ。おいらたちに出来ることをやらなきゃ。さっき聞いた話からして、この先も楽な道じゃねーんだろ」
「そうですけど……」
「それに、リップルの奴……自分はちゃっかりいいヒト見つけてるじゃん」
 にたりと笑って、ドミニクはカナンを振り返る。
「ドミニク、カナンさんは女性ですよ」
「そうなの!?」
 ドミニクはもう一度カナンを見ると、「じゃ、おいらがもらっちゃおうかな……」と呟いた。
 マオたちが持ってきた糸は、五本あった。一本あればギルドとしては事足りるはずだが、その数がなんとなく、自分とニーナのことを考えてくれていたようで、アティは嬉しくなる。
そして振り分けられた自分の分を念のため、とカナンに手渡す。
「どうしようもなくなったときは、これを使ってください」
「……貰っておく」
 受け取ってくれた。笑みを浮かべるアティに、カナンは続ける。
「君の信じたとおり、君の仲間は現れたな」
「えっ? あ……はい。ぐ、偶然ですけど」
 合流の仕方を考えたら、少し恥ずかしい。一方で、カナンはエリザベスを向いた。
「君はタルシスの騎士だな」
「……そうね」
 警戒するような目を向けるエリザベスに、カナンは言った。
「全てが終わったら、君に話さなければならないことがある。だが今は……彼女のために見逃して欲しい」
 カナンが視線を送ったのは、リップルだ。
 エリザベスの表情はそのとき、複雑に変遷した。まず面食らったような、そして怒り、それを耐えるように。
「……分かった」
 とだけ絞り出す。
 そのやりとりにただならぬ気配を感じたが、アティは何も口にすることが出来なかった。もはや二人とも、アティにとっては他人と言うほど遠い人間ではないはずなのに、そして彼女らは他人であるはずなのに、目の前で取り交わされた約束―――保証が、途方もない不安を抱かせる。
 だが―――ドミニクの言うとおりだ。今は、やるべきことを果たさねばならない。
「皆さん、ご無事で」
「そちらこそ。短い間だったが、心強い道中であったぞ。貴殿らの旅が実りあらんことを!」
 グレンの朗々とした別れの言葉に背を押されながら、ピルグリムは道を渡っていく。

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第19話

「エリザベスちゃーん、またすげー皺寄ってる」
 小さな焚き火を囲むピルグリム。ドミニクの、文字通り指を差す指摘に、エリザベスは邪険にそれを払う。
「……なんだか、短い間に仲良くなりましたね。三人とも」
「……そう?」
 アティは微笑む。
「はい。結束が増したというか。嬉しいですけど、少し寂しいです」
「あんたが余計な心配することはないと思うけど?」
「そうそう。アティちゃんを確保できなかったときの、先生の荒れよう」
 マオがすさまじい目つきでドミニクを睨みつけているが、そんな表情をそもそも見たこともなかったアティは、くすりと笑う。
「私だって、ニーナともっと仲良くなりましたよ。ね、ニーナ?」
 問いかけたニーナはアティの膝を枕にして、すやすやと眠りに落ちている。久しぶりに満腹になるまで食事を摂れて、満ち足りた表情だ。
―――気球艇の墜落によって多少光量が増したとはいえ、日没後は元通りになってしまった。先を急ぐ道程だったが、地下迷宮は思いのほか長かったことに加え、道の途中には確実に戦うことになるだろう相手がいる。無理をすることなく、ピルグリムは数時間の休息を取ることを選んだ。
 カナンたちと別れてすぐ、再び崩落の音と振動が、アティたちの元まで届いていた。
 もしかして、帝国兵の足止めをするために、塞がりかけた通路を完全に落としてくれたのかもしれない。
「エリザベスちゃん、さっきカナンちゃんと何か意味深な話をしてたじゃん。あれは何だったの?」
「ん……帰ってから話すよ」
 言葉を濁すエリザベス。が、ドミニクは唇を突き出した。
「水くせーの。先生はちゃんと話してくれたのにさ」
「ドミニク」
「あっ」
 エリザベスが窘めたが、手遅れだった。
 アティは首を傾ぐ。
「話すって、何をですか?」
 えっと、とドミニクは曖昧な笑みを浮かべる。ばつが悪そうに、水を飲んでいるマオに視線を送ったのを見て、アティは理解した。
「あ、また私の知らないところで、仲良くなったんですね?」
「え、あ、そうそう」
「仕方ないですね。……ニーナも寝てしまいましたし、私も仮眠をいただいてよいですか?」
 わざと明るく言いながら、アティは話題をずらす。
「俺の弟の話だ」
 そこへ、マオが口を開いた。
「―――行方不明、なんだ。それが、例の青い鎧の帝国兵によく似ていた、って話さ」
 その言葉に、アティは息をのむ。
「まあ……」
 続きがなかなか出てこない。一方で、頭の中の符丁が繋がっていくのを感じる。故郷にいたときから、否、五年も前から度々ふらりと旅に出ていたマオ。それは、弟を探すためだったのか。
 『南の聖堂』からの脱出劇で、マオがいなくなったのも、弟によく似たルカを探すため。
 エリザベスやドミニクは、忍ぶように黙りこくっている。
「ルカは……数年前に召し上げられ、バルドゥール皇子直下の部下として働いているそうです」
「詳しいね」
「はい、同僚の方に少しだけ話を聞く機会があって」
「おいらたちもルカに会ったよ。『風止まぬ書庫』って小迷宮でさ。アティちゃんたちがここにいるって話もあいつから聞いたんだ。まさか、探索してるとは思わなかったけど」
 囚われた牢屋が壊れていることも、彼は知っていた。ピルグリムをここに誘い、最初から、皇子たちを追わせるつもりだったのだろう。
「彼は私たちに、皇子を止めて欲しいのだと思います」
 うつむき、アティは続けた。
「私たちのことも助けてくれました。悪い人ではありません」
 帝国の人々も、それぞれが様々な想いを抱えて生きている。皇子を信じる者、皇子を止める者を信じる者、そこに清濁はない。
 だからこそ、己の正しさを信じなければならない。何故この道を選んだのかを、常に旗にかざしながら。
「出来るなら……みなが救われる道を、と思いますが。難しいのでしょうね」
「……ルカのことは、一旦忘れよう。すまない、混乱させるようなことを言った」
 マオの言葉に、アティはかぶりを振る。
「いいえ。話してくれて、ありがとうございました」
 ひとつ、胸のつかえが取れたような気分だった。


 翌朝早くに辿り着いた広間に、彼は独りで待っていた。
「やはり来たか、ピルグリム」
 アティを捉えると、苦笑気味に、
「君は捕らえたという報告を聞いたけどね」
 と呟く。
「はい。捕まりましたが、逃げました」
「そうか。まあいい」
「私たちでない方が、良かったでしょうか」
 ふと浮かんだ質問を口にすれば、彼―――ローゲルはかぶりを振る。
「誰が来ようと同じ事だ。……ここで始末させてもらう」
 言って、大剣に取り付けられた突起を捻る。
―――まるで鍵のようだ。動力機関が起動した音がして、大剣が命を吹き込まれたように震える。
 アティは思わず、生唾を飲んだ―――こんな場面でなければ、その立ち上がる一連の美しさに、惜しみない賞賛を送っていただろうに。
 だが悲しいかな、あれは兵器で、『敵』の道具だ。
「参ります!」
 己を奮起するように叫ぶと、アティは地を蹴った。
 どのような兵器かは、前回目の当たりにした。正面から城塞騎士が受け止めた盾が、砂糖細工のように破裂する様を。
 ならば。
―――受け止めなければ良いのだ。
「ふっ!」
 今、アティの手には、ドミニクたちが気球艇に積んでいてくれた、予備の籠手がある。
 起動させ、炎を吹き上げる。切り結ぶ瞬間に速度を上げ、刃を滑らせながら、ローゲルの鎧の付け根を狙った。
(いける―――)
 だが、肩口の向こうに見えた猛禽のような目に、アティの背筋を冷たいものが走る。
「っ」
 アティは咄嗟に上体を大きく逸らせた。
 大剣が、本来描くはずだった軌跡から、大きく横にずれる。
 受け止めるには至らなかったが、大剣の剣背に殴りつけられ、アティは壁に打ちつけられる。
「アティ!」
「ううー!」
 振り下ろしたニーナの杖―――これも、気球艇に積んであったもの―――先から、雷が迸る。フルアーマーを思わせない動きで、ローゲルは半身に避けた。
 その手のうちで、大剣が湯気を上げる。彼は小さく舌打ちをした。
 駆け寄ってきたマオの手を借りて、アティは素早く立ち上がった。
「大丈夫か」
「ええ」
 短く答えると、再び剣を構える。
―――弾き飛ばされただけなのに、すさまじいエネルギーだ。
 だが。剣の刃の変化を、アティは見ていた。まるで鍛鉄のように赤く染まり、熱気を吹き上げている。あの技は、速攻性がない。つまり連発できないのだろう。
「剣が冷え切るまでが勝負です。―――ドミニク!」
「お、おう!」
「腕を狙ってください! ニーナは攻撃を。足止めは私とエリザベスが!」
「任せな!」
 エリザベスが前に出る。それを追い、アティも踏み込んだ。
 槌と両刃剣。その双方からの攻撃を、ローゲルは腕一本で捉えていた。
―――正確には、間合いに辿り着く前に、振り払われていた。
 大剣は恐ろしくリーチが長い。機械を刀身に組み込み、刃が太くなっていることも、攻撃範囲を広めていた。おそらくただの鉄の塊よりは重いであろうそれを、ローゲルは片腕一本で取り扱っている。
 帝国はこれを切り札として、魔物と戦ってきたのだろう。
 身を低くして、何度も矢のように打ち込む。時折援護に飛んでくる本物の矢は、アティたちのついでのように、叩き落とされていた。
 キバガミと刃を交えた時を彷彿とさせるが、ローゲルはそれより俊敏で、強固な鎧をまとっている。
 何より、全く隙がない。
―――強い。
 時折交わる視線が、本物の殺意を帯びている。
 大きく飛びずさり、間合いを取る。
 肩で呼吸するアティたちを睥睨し、ローゲルは口を開いた。
「次はこちらから行くぞ」
 薬莢のようなものが大剣の背から飛び、刀身の色が戻る。
「気をつけて! あの攻撃が来ます」
 アティは籠手を起動させ、防御の構えを取る。
(隙がない。でも、なければ作ればいい)
 じりじりと後衛を守る位置に移動しながら、身を固くするニーナに呼びかける。
「得意な聖印を使って下さい」
「あうー」
 ニーナは了承したようにこくこく小さな顎を縦に振ると、杖を掲げた。
「む!」
 杖を起点にして打ち上げられた光が、破裂し部屋全体に広がる。
 まるで『金剛獣ノ岩窟』のような冷気が充満する中を、ローゲルが近づいてくる。間合いに入る前に自ら飛び込んでいき、アティは籠手を起動させた。
 金属同士が叩きつけられる音がして、アティの刃を受け止めた大剣が、見る間に凍りつく。
「ベス!」
 振り払われる瞬間に叫ぶ。エリザベスが振り上げた槌は、確かに大剣を打った。
 なんとか体勢を整えて着地すると、アティは剣を突きの構えに持ち替えた。
―――狙うは、大剣の露出する駆動部。
 だが、切っ先は刺さらず、剣背に阻まれる。
―――そこへ、飛来する矢。
 ドミニクが放ったそれが、ローゲルの鎧の間接部を、ついに貫く。
「ぐっ」
 初めて、ローゲルの表情に苦悶の色が浮かんだ。
 好機だ。アティは引き下がらずに、再び突きの姿勢を取った。剣を右手に持ち替え、全身の膂力をもって、矢のように肩から先を送り出す。
 ローゲルもまた、左腕一本に持ち替えた大剣を振り下ろす。
―――二つの剣が交錯する。
 激突の末、アティの剣は、大剣の中に埋め込まれた配線を引きちぎっていた。
 火花が飛ぶ。
 間一髪、ローゲルの剣はアティの左腕を掠めていた。
―――女の身の柔らかさと小ささが、功を奏した。
「く、うっ」
 だが剣の機能を止めただけだ。アティは素早く剣を引き抜くと、動かない左手を放置し、右手で斬りかかる。
 ローゲルの反応も早い。片や刀身が大きく防御に優れた剣、片や小回りの利く細身の両刃剣。
 だが少しずつ、反応速度に差が生じる。室内に充満する冷気に、関節がきしむ音。
 全身に金属を纏っていれば、気温差によって生じる身体への負担も大きい。
「やあ!」
 右腕を払い上げ、遂にアティはローゲルの正面、懐に入り込むことに成功する。
 反射的にか、上体を大きく逸らせるローゲル。アティは地を蹴ると、脚を振り上げた。
 脚を痛めるのも気にせず、思い切りその胴体を蹴りつける。
 ローゲルは呆気にとられたような表情のまま、仰向けに床に倒れ込んだ。右の肩口を踏みつけ、アティは真上から切っ先を彼の鼻先に突きつける。
「君みたいな娘が、こんな戦い方をするなんてね」
「お嬢様だと……侮られて、いたなら、心外です」
「侮る? まさか」
 ローゲルが顔を刃に近づけたので、アティはぎょっとした。
 つい剣を引いてしまった隙に、ローゲルは左手でアティの剣先を払うと、アティの体重などものともせず起き上がる。
「くっ」
 鎧ごと掴み上げられ、身体が宙に浮く。アティは脚をばたつかせた。
「アティ!」
 ローゲルは右手で握りしめた大剣を振り上げる。
 その瞬間、アティは掴み上げられたローゲルの左腕を逆に掴むと、背中を思い切り仰け反らせた。振り上げた両脚を彼の左腕に巻き付けると、脇に添えた爪先を支点に、肩の関節を捻り上げる。
「ぐあっ」
 束縛が緩んだ。身体を離すと、側転の要領で地に手をついて剣を回収し、間合いをあける。
 ローゲルは左腕をだらりと下げると、呆れたように言った。
「君は本当にお嬢様か?」
「それはそれで傷つきます!」
 ローゲルの構える剣は、いつのまにか刀身が真っ赤に染まり、ニーナが張った氷の聖印の効果を打ち消すほどの熱気を放っている。様子がおかしいと気付いたアティにか、ローゲルは口角を上げた。
「君たちに俺は殺せないが、俺は君たちを殺すことが出来る」
「まさか……」
「力で及ばぬなら、いのちを盾にするまでだ」
―――剣の機構を暴発させるつもりか。
 あれだけのエネルギーを持つのだ。それを、制御なしで解放すれば、この部屋一帯がタダでは済まないだろう。アティは歯を食いしばる。
 正念場だ。
「アティ」
 マオが呼ばわる。
「―――あの剣を止められるのは、あなただけだ。奴から剣を全力で引き離す。その後は、頼まれてくれるか」
 仲間たちの顔を見渡して、アティは頷いた。
「分かりました」
「話は終わったか」
 アティはローゲルを睨みつける。
「いのちを盾にするなど、騎士のあるべき姿ですか」
「何と罵られようと、殿下には指一本触れさせない」
「あの孤独な皇子を置き去りにすることが、貴方の掲げる忠義の旗なのですか」
 ローゲルもまた、アティを睨みつける。
「お喋りは仕舞いだ。……来るなら、来い」
 狼煙のように、複数の矢が打ち上げられる。
 まともに当たるのを避け、移動して回避するローゲル。その軌跡を追うように床に落ちる矢、真逆から、ローゲルに向かっていくエリザベス。
「はあっ」
 エリザベスは槌ではなく、盾で彼を押し戻すように踏ん張った。女性とはいえ城塞騎士、ローゲルは押し切る事が出来ずに、再び後方に飛ぶ。
 それを追う投剣。体勢が整わず、避けきれないと判断したローゲルは、その場に留まり大剣を払う。
「うー!」
 彼の足下を、無数の氷弾が撃つ。
―――ローゲルの膝が、傾いだ。
 今だ、とエリザベスが槌を振りかざす。一方で、ローゲルは払いの姿勢から右腕を打ち下ろす。盾ごとエリザベスを両断する気か―――そう思われたとき、ローゲルの右腕がぴたりと動きを止める。
「なっ」
 ローゲル自身も驚愕に目を見開く。
―――氷弾の着弾跡は、まるで陣を描くように白く光を放っていた。
 方陣だ。
「ニーナ」
「むう」
―――いつの間に、修得していたのか。
 エリザベスの槌が、ローゲルの右手を直撃する。
 その手から、大剣が滑り落ちた。
 今だ。大剣を確保するためにアティは駆け出す。ローゲルは動かない右手を振り回してエリザベスを遠ざけると、大剣に手を伸ばした。すんでの差で大剣の柄を確保したアティは、ローゲルの腕を避け、怒りのままに拳を握った。
「いい加減にしなさい!」
 繰り出した拳が、ローゲルの顔面に直撃する。
「ぐっ……」
 よろよろと後退り、尻餅をつくローゲル。アティはもう脇目を振らず、大剣に飛びつくと、引きちぎれたコードをたぐり、大剣の機構部分に埋め込まれた非常停止スイッチを引っ張り出すと、ボタンを押した。作動しない。それに繋がるコード自体が、このちぎれたコードなのだ。
 コードの端部を、己の籠手の出力系に締結する。
「これで、止まって……」
 祈るような思いで籠手を制御する。
 カチリと大剣の内部の機構が動く音がして、触れぬほどに熱されていた刀身が開いて、白い煙が吐き出された。
「……はー……」
 上手くいったらしい。
 ローゲルを振り返れば、彼はしばらく暴れていたらしい、エリザベスやドミニク、ニーナが節々にしがみついていた。上体を起こした姿勢で、呆然とこちらを見つめるローゲルを見返し、アティは立ち上がった。
「貴方は十年前、何のためにタルシスに向かったのですか?」
 動力を引き抜き、ただのがらくたと化した大剣を、その足下に投げる。
「―――貴方と共に、厳しい旅路に漕ぎ出した人たちもいたのでしょう。その人たちは、今の貴方と同じように、無駄にいのちを投げ出すような事をしたと思いますか?」
 ローゲルは答えない。
 アティは重ねた。
「イクサビトの里にあったお墓は、彼らのうちの誰かのものではないのですか」
 エリザベスが、はっとアティを見、そしてローゲルを見た。
 彼は観念したかのように、深く息を吐く。そして、鼻で笑った。
「参ったな。君たちには全て、見られていたんだった」
 その指先が、何かを堪えるかのようにこわばる。
「―――あれは……あの墓に突き立っていた剣は、アルフォズル陛下のものだ」
 やっとのことで吐き出された声は震えていた。
「俺は陛下をお守りできなかった。なら、せめて殿下だけでも、お守りしなければ筋が通らない」
「思想に蓋をすることが、貴方の騎士の在り方だと?」
「君に何が分かる……」
 じりと睨みつけられ、しかし、アティは敢然と見つめ返す。
「私にも仲間がいます。彼らは、私が間違っていると思えば助言をくれ、悩んでいれば共に悩みを分かち合ってくれる優しい人たちです。……バルドゥールにとっての今の貴方は、ただ言うことを聞くだけの駒です」
 目を細めるローゲル。アティは続けた。
「過酷な旅に力尽きた皇帝を、手厚く葬ったイクサビトたち。シウアンを慈しみ、愛情を注いできたウロビトたち。私たちにも優しさと誠意で接してきた、そういった人たちを踏みにじる道が正しいと。……今の貴方は目も耳も塞ぎ、ただバルドゥールの行いを機械的に肯定しているだけです」
「……そう、だな。君の言うとおりだ」
 ローゲルの呟きが、恐ろしく空虚に響く。
 アティは眉をひそめた。
「私たちは今から、彼を止めに行きます。貴方たち帝国の隣人として、彼の悩みを分かち合うために。……貴方自身の正しさは、貴方が自分で決めて下さい」
 そして、ローゲルから離れた仲間を見渡した。
「行きましょう」
「身体は大丈夫か?」
「はい。……移動しながらでも治療できる傷だと思います。もうあまり、時間は残されていないでしょうし。皆さんは大丈夫ですか?」
「あんたが一番ボロボロよ」
 エリザベスに肩を叩かれる。
―――部屋を立ち去る寸前、床に座って虚空を見上げるローゲルを振り返ったアティに、ドミニクが言う。
「いいの? 放っておいて」
「はい」
「……何か意外ね。あんたがああいう手厳しいこと言うの」
 ま、気持ちは分かるしスカッとしたけど、と言うエリザベスに、アティはいたずらっぽく笑った。
「実は受け売りなんです」
―――マオはどこか気まずそうに、明後日の方向を向いていた。


 治療や休憩もそこそこに、ピルグリムはなおも『木偶ノ文庫』を進んでいく。
 地下三階は、上階以上に機械人形が多く、道も入り組んでいたが、大きく迷わずに済んだのは―――蛍のような光が、常に導いてくれたからだ。
 シウアンが呼んでいる。その確信を胸に、ピルグリムは歩を進める。
「これが終わったら、本当に一度お屋敷に戻ってもらいますからね」
 アティの治療を本当に歩きながら済ませたマオの言葉に、アティはくすりと笑う。
「敬語になってますよ、マオ」
「あんたが『お嬢様』の自覚を失いかけているようだからな」
 きょとんとするアティに、マオは畳みかけるように続ける。
「何ですか、あの戦い方は。まるで傭兵か暗殺者みたいな」
「だって、おじさまに教わったんですもの。若い娘は身体が柔らかいから、それを生かした戦い方をせよと。剣だけが己の武器ではありません。私は騎士ではないですから」
「だからってあんな……頼むから、お父上の前で披露しないでくれよ」
「当然です!」
 答えた後にアティは、額を抱えるマオを覗き込む。
「あのぅ……がっかりしました?」
「何が」
 ぶっきらぼうな応答に、尋ね難い質問を舌に乗せる。
「はしたない娘だなあと思われたなら、少し自重します」
 マオが溜息を吐いたので反省していたら、彼はこんなことを言った。
「いえ、冒険者としては正しい」
「……まあ」
 そして咳払いひとつ。
「分かってくれ。俺だって複雑な気持ちなんだ」
 そうしてせかせかと歩いていってしまう。
「ねえ、どういう意味だと思います?」
 手を繋いで歩いていたニーナは、にんじんを齧りながらどうでもよさそうに「ウー」と答えた。


 城のダンスホールを思わせるほどの広間の中心を割る谷に、橋が渡されている。
 その、向こう。ぐったりとしたシウアンを横抱きに立つ皇子は、背中越しにぽつりと呟いた。
「……余の最強の騎士でも、止めることは叶わぬか」
 アティは答えた。
「己の目的のために、誰かを巻き込めるのはやめなさい」
 振り返った皇子は、視界に入れるのも忌々しいという目をしていた。
「一介の冒険者風情が。弁えよ」
「いいえ。私たちはタルシス辺境伯に、貴方がしようとしていることを止めよと仰せつかっています」
「……辺境伯か。ならば伝えよ。大地の問題は貴公らにとって対岸の火事では済まぬ。数十年のうちに、タルシスも間違いなくこの渦中に沈む。目の前の情に流され、大義を見失うな、と」
「情? ウロビトやイクサビトの住処やいのちを差し出すことが、貴方にとっての大義なのですか」
 皇子の瞳が、ギラリと光る。さながら、人の上に立つ者の迫力をもって。
「あれらは世界樹を育て、守るために造られたいのち」
 誰かが、小さく息を飲んだ。
 それが皇子の腕に抱えられたシウアンだと気づいたとき、皇子は続きを口にした。怖ろしいほど、落ち着いた口調で。
「世界樹をその目的のため使うだけなのに、何故それらが『犠牲』だと考える?」
「……本当にそんな風に思ってるの?」
 シウアンの声は、弱々しく、か細い呼吸の合間に続く。
「世界樹が教えてくれた。ウロビトもイクサビトも、昔の人が世界を少しでも良くするために作った友達だって。造られたからといって、死ぬために生まれてきたわけでも、人間の勝手で犠牲にしていいわけでもない」
 蛍のような光が、シウアンを慰めるように優しく、彼女の周りを舞った。
「世界樹だって、嫌がってる……」
 皇子はシウアンをそっと降ろすと、祭壇にもたれさせた。
「……造られたからといって、か」
 そうぽつりと言うと、ピルグリム―――否、その背後に向かって固い声をかける。
「不出来は目を瞑る。疾く始末せよ」
 アティが振り返れば、立っていたのはローゲルだ。
 驚くアティたちをよそに、彼は傷だらけの鎧に真新しい大剣を構え、近づいてくる。
「げっ、挟み撃ちかよ……」
 弓を構えたドミニクを、しかしローゲルは素通りする。
「あれっ」
 つかつかとピルグリムを通り越し、彼は橋を渡ろうとした。
「止まれ」
 皇子の命に従い、その歩みが止まる。
―――皇子は訝しむように、眉間にしわを寄せた。
「……何のつもりだ」
「畏れながら、殿下」
 その場に傅き、しかし絞り出すようにローゲルは告げた。
「―――巫女の言う通りです。計画には、見直しが必要だとご進言申し上げます」
「……聞かぬ」
 ローゲルは顔を上げた。
「誰かを犠牲にして成就する悲願などあってはなりません」
「黙れ」
「そのようなことを、陛下は望まれておられたでしょうか」
「黙れ、聞かぬと言っている!」
「どうか、どうか今一度お考え直しください、殿下……」
 膝をつき、胸に手を当てた姿勢のまま、深くこうべを垂れるローゲル。
 アティは見ていた。皇子の唇が戦くように空ぶるのを。
 大きな目がこれ以上なく見開かれ、一歩、じりと音を立てて彼の脚が後退るのを。
―――彼はローゲルの姿に何を見出したのか。
「お前も……お前まで、僕から離れていくのか、ローゲル!」
 腹の底からの叫びが喉からほとばしる。
 ローゲルが腰を上げる。
「殿下―――」
「うるさい!」
 広場に轟く、皇子の悲鳴めいた声。
 そのとき頭上に生まれた影に、エリザベスが咄嗟にローゲルの腕を引く。
「ベス!」
 眼前の橋に降ってきたのは、人間の体躯の数倍はあろうかという機械人形だ。
―――エリザベスもローゲルも、尻餅をついてはいるが無事のようだ。
 憤怒の表情を浮かべていた皇子は、不意に背を向けた。
「……いいさ。どうせ、僕は十年前から独りだった。今更お前なしでもやり遂げられる。僕は……お父様の代わりに、皆を守るんだ。独りでも、僕が……」
 自分に言い聞かせるようにそう呟きながら、皇子はふらりと奥の祭壇に向かう。
「バルドゥール殿下!」
 その背に向かうローゲルの叫びに応じるように、シウアンが皇子に手を伸ばす。
「僕に触れるな!」
 皇子は彼女を振り払った。
―――その瞬間、祭壇に辿り着いた皇子から閃光が迸る。
 あまりの眩しさに目を覆った途端、ドン、と何かが投入された音がする。
「おい、アイツ動き出したぞ!」
 ドミニクの焦り声。彼の指先では、機械人形―――否、守護者とも呼ぶべき機械兵が立ち上がろうとしている。
 どさ、という音。今度は橋の向こうから。
 目を向ければ、シウアンがうつ伏せに倒れ込んでいた。
「シウアン!」
 アティはその名を叫んだが、守護者のせいで、近づくことすらできない。
 少女の最も傍にいる皇子は、ぴくりとも動かなくなった彼女を、目だけで見下ろす。
 そして、己の過ちを悟った様子でかぶりを振った。
「―――」
 心が砕けたような絶叫が上がる。
―――深い、悲痛な絶望。
 耳朶にこびりつくような、哀しみ。
「アティ!」
 マオが飛びついてくる。
 身体が床に叩きつけられる―――二人まとめて投げ出された地点すれすれに、守護者の柱のような腕が突き立っていた。
「ぼんやりするな」
「ご、ごめんなさい」
 身を起こしたアティの肩を掴み、マオは顔を覗き込んでくる。
「気持ちは分かるが、頭を切り替えろ。……いけるか?」
「はい」
「よし」
 ポンと背中を叩かれると、力が湧いてくるようだった。
―――今すべきことは、ただ一つ。
 アティは剣を抜き放つ。
 ふと耳に届いた駆動音に目を向ければ、エリザベスとドミニクに挟まれて立つローゲルが、大剣を起動させていた。
「ローゲルさん」
「微力ながら、君たちの手助けをさせてもらいたい」
 頷く彼に、アティは顔を綻ばせた。
「はい、是非お願いします!」
「うわー、言うと思った」
「もうこの流れ、慣れっこだよね」
「むー」
 肩を落とすエリザベスとドミニク。
「えっ、どうしてですか」
「おい、お喋りは後だ。来るぞ!」
 マオの言葉に、全員が緊張する。
―――守護者は両腕を振り上げた。

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第五迷宮

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第20話

 『揺籃の守護者』を打ち倒した時、バルドゥールとシウアンの姿はもうどこにも見当たらなかった。
 バルドゥールは行ってしまったのだろう。
―――もう二度と引き返せないところへ。
「ったく……帝国の連中はどいつもこいつも、自爆自爆ってよ」
 頭を失い、頽れた『揺籃の守護者』の上に座るドミニクの言葉に、ローゲルが眉をひそめている。
「戦っているさなか、また地響きがしましたね」
「今回は気球艇が降ってきたわけじゃないようだ。……祭壇の奥は通路だったようだが、瓦礫で塞がってしまっている」
 『揺籃の守護者』の亡骸を乗り越えて、向こう岸から戻ってきたマオに、アティは目をぱちくりとした。
「……何だ?」
「いえ、何だか冒険者らしくなってきましたね、マオ」
 マオは胡乱に告げる。
「一応、あんたより冒険者歴は長いんだぜ」
「それはそうと、皇子様を探さなきゃ。一旦外に出ましょ」
 親指で出口を指差すエリザベス。ドミニクが大剣―――砲剣という名前らしい―――を構える真似をした。
「外に出たら、帝国兵でいっぱいかもよ」
「いや……人の気配は感じない」
 マオは集中するように瞼を閉じていたのを開くと、ローゲルを見た。
「あんたはどうするんだ」
 ローゲルは、兵士に借りてきたと言っていた砲剣を担ぐと、出口へ向かう。
「巫女の意識を奪ったということは、この迷宮での『調整』は済んだとみていいだろう。後は、『冠』、『心臓』、『心』を全て世界樹に組み込めば……世界樹は起動する」
「そうなれば、おしまい、ってことね……」
 エリザベスの呟きに頷くと、ローゲルはピルグリムを振り返った。
「俺は帝国兵の中で、俺の意に賛同してくれる仲間を募る。その上で、情報を集めるつもりだ。君たちはタルシスに戻ってくれ」
「はい。辺境伯にも、状況をご報告しなければ」
「……今更だが、こんなことに巻き込んでしまってすまなかった」
 眉を下げるローゲルに、アティはゆっくりとかぶりを振る。
「私こそ、貴方をけしかけるような言葉をぶつけて、申し訳ありませんでした。深い事情も知らないで……きっと、貴方たちを酷く傷つけたと思います」
「皇子の件は、俺が負って当然の責だ。君のせいじゃない」
「でも……」
「出来るなら、最後まで協力して欲しい」
 真剣なローゲルの眼差しに、アティは頷く。
「ええ。勿論です。私たちは共に戦う仲間なのですから」
 その言葉に、ローゲルは少しだけ、微笑む。ワールウィンドだった頃の面影を浮かべて。


 アリアドネの糸でタルシスに戻ってきたちょうどその時、街は騒然としていた。
 北の空を指差して叫ぶ人たち。
―――夕暮れに染まる空を背景に、世界樹が折れていく。
 それは、彼の地で起こっている事象を推測できるアティたちにとっても、衝撃的な光景だった。
 タルシスの街のシンボルでもあった世界樹の光が、消える。
―――何か、不吉なことが起ころうとしている。
 そんな漠然とした不安感が、タルシスに夜を連れてくる。


「そうですか……ありがとうございました」
 踊る孔雀亭の女将に頭を下げ、アティは踵を返す。
―――外は重苦しい曇天だ。
 いつもは仄かに明るい北の空も、今はどっぷりと灰色に沈んでいる。
 気分が萎えそうなのを、アティは出かけた溜息を飲み込んだ。
―――こんな調子ではだめだ。
 タルシスに帰還したその日に辺境伯へ報告し、ウーファンとキバガミに巫女の奪取に失敗したことを謝罪した、その翌日。
 さすがに今日は一日休みだ―――と言い渡されているものの。
 じっとしているのは性分に合わない。アティは、『木偶ノ文庫』で別れたカナンたちがタルシスに戻ってきていないか、聞き込みをして回っていた。
―――結果は、推して知るべしだが。
 タルシスはそう大きな街でもない。数日留守にしていただけで、ひどく懐かしくなったアティは、あちらこちらに顔を出していた。中には港長のように事情を知っており、心配してくれていた人もいて、改めてこの街の暖かさを知る。
 そもそも、カナンたちはリップルを連れている以上、タルシスには戻らない可能性も高い。
 それでも探さずにはいられない―――彼女たちの無事を祈る者もここにはいるのだと、主張するかのように。
 次はどこへ行こう。
 広場に続く道に差し掛かったところで、怒鳴り声が耳に届いた。
「よくもその鎧に剣を携えて、この街に顔を出せたものだな……!」
 裏道からは、今にも掴みかかりそうな勢いのウロビトを、仲間らしき人間が必死に止めているのが見えた。
「―――巫女様と世界樹を返せ、この卑怯者ども!」
「分かってるさ。だから、共同戦線を張ろうって言いに来てるのに」
 その声に、アティははっとする。
「貴様ら帝国の者など、信用できるものか! タルシスから出て行け!」
「傷つくねえ、僕個人が君たちに何をしたって言うんだい」
 言葉の割には飄々と響くその声の主を確認したくて、アティは少しだけ、諍いの場に顔を覗かせる。
―――そのとき、ばっちり目が合ってしまった。
 青い鎧に身を包み、ウロビトに怒鳴りかかられている、赤毛の青年と。
 彼の顔と碧眼が喜色に笑む。
「やあ、アティ!」
「ルカ!」
 驚きながらもその帝国兵―――ルカに近づくと―――そのままぐいと引き寄せられて、アティは目を白黒させた。
 気付けばがっちりと、抱きしめられている。
「戻ってこられていたようで何よりだ! 心配してたんだよ」
「る、ルカ」
 混乱覚めやらぬうちに、ルカは身を離す。
「『木偶ノ文庫』で別れたきりだったからねえ。君たちも、事態の解決に手を貸してくれるんだろう?」
「えっと、あの」
「ピルグリムか……」
 ウロビトは臍を噛むと、「そのような者と付き合うな。ロクな事にならないぞ」と言い捨て、己の仲間を連れて歩き去ってしまう。
 呆気にとられていたアティは、腕を引かれて我に返った。
「ちょ、ちょっと、ルカ」
「うーん、やっぱり思っていたとおり、君は有名人だね」
 腕を引かれながら路地に入り込んだところで、アティはルカの手を振り払った。
「もう、いい加減に離して下さい」
「悪い悪い。……しかし、この格好は目立つね」
 ルカはその場で、鎧を脱ぎ始める。
「え!? あ、ちょっと、ルカ!?」
 正確に言うと、鎧を着るための専用の衣服ごと脱ぎだしたので、アティは顔を覆った。
「よっと。これで良いだろ」
 帝国兵が着込んでいる服の、特徴的な膨らみがブーツや籠手の内側にしまわれ、ルカの装備は軽鎧のようになった。
「武器だけはどうしようもないな……あ、そうだ」
 はい、とルカは己の砲剣を、アティに手渡した。
 思わず受け取った後に、アティは目を剥く。
「ええっ」
「僕が持っていると、また難癖つけられるから預かっておいてよ。……ちょうどいいや。観光してみたかったんだよね。タルシスを案内してよ」
 暢気に、そして勝手にそう決めるルカに、アティは途方に暮れる。
「ええと……色々言いたいことはあるのですが、ひとつだけ。何故貴方がタルシスに?」
「ああ、ローゲル卿から聞いてない? 帝国にも彼の思想に共感……というか、皇子の計画を阻止したい一派がいてね。辺境伯に合流するローゲル卿についていくっていうから、さらにそれについてきたの」
 その言葉に、唖然としていたアティは、声をうわずらせる。
「では、ルカも私たちと共に戦って下さるのですか?」
「君は、何と戦うつもりだい?」
 ルカはにやりと笑う。
―――アティは答えに窮する。
 その一瞬で、ルカはぱっとアティの手を取っては、踵を返して歩き出す。
「よし。じゃあ、まず旨い酒が飲めるところから―――」
「待って!」
 腰を落としたアティは脚を踏ん張って、男の引きずる力に耐えた。
 振り返るルカに、精一杯渋面を作る。
「条件があります。……私に、砲剣の使い方を教えて下さい」
「いいよ」
「ええっ」
 決死の思いで言ったのに、あっさりと了承され、アティは鼻白む。
「まあ、一通り街を見てからね」
 最早抵抗する気も失せ、ずるずるとアティは引きずられていった。


 半日ほど街巡りに付き合ったアティだったが、結局砲剣は教えてもらえず時間切れとなった。
 また来るから、と申し訳なさそうにはしていたので、アティは彼を信じることにした。忙しいのは嘘ではなさそうだったし、彼の息抜きになったのならそれはそれで良かった。
 ルカにもカナンたちのことを訊いてみたが、心当たりはないらしい。ただ、気になることを言っていた。
「君の仲間の、ツインテールの女の子が、別の酒場であの背の高い女の人のことを聞いて回ってたよ」
―――カナンたちと別れる寸前に、エリザベスとカナンがしていたやりとりのことを思い出す。
 『全てが終わったら、君に話さなければならないことがある』―――というカナンの言葉に、エリザベスは頷いていた。
 何でもないやりとりのはずなのに、もやもやと引っかかる。エリザベスが彼女を探していると聞けば尚更だ。だが、直接エリザベスに事の次第を確かめるのは、憚られた。
 そうこうしている数日のうちに、ピルグリムは辺境伯に招集される。
―――正式にローゲルの申し出を受け入れ、帝国の一部の騎士や兵士たちと共同戦線を張ることになったという。
 ローゲルの行いを許したわけではないが、今は協力する。その決断を辺境伯がするだけの信用を得るために、彼はこの数日で得た『絶界雲上域』での情報を、惜しみなくタルシスに提供したそうだ。辺境伯がピルグリムに明かしたその情報によれば、枯れ落ちた世界樹の虚から、遺跡が見つかったのだという。遺跡の正面の扉は封印によって閉ざされており、その封印を解く鍵が、遺跡から延びる迷い道の中にあるのだと。
 世界樹の迷宮は、まだ続いている。
 鍵を探して封印を解く。―――冒険者には新しい任務が与えられた。
 ピルグリムもまた、第五迷宮『煌天破ノ都』へと向かった。味方となった帝国の戦艦に回収してもらい、修理されたセレンディピティに乗って。


 急がなければならない道中ではあるが、焦りは禁物だ。
 『煌天破ノ都』から、『木偶ノ文庫』へ。そして、『金剛獣ノ岩窟』に繋がる道を進んだ。ここまでくれば、想像が付く。今までの迷宮は最も深いところで、一つに繋がっているのだと。
「あ、ピルグリムだ!」
 タルシスの街に戻った矢先で、イクサビトの子供が手を振ってきた。振り返すアティを見ていたドミニクが、ふとこんなことを言った。
「最近、イクサビトとウロビトが増えたよなあ」
「ええ。万が一……に備えて、弱い者たちを里から移動させていると聞きました」
 これは、宣言通り再会した、ルカが言っていたことだ。タルシスの気球艇よりも大人数を輸送できる、帝国の戦艦を使っているという。帝国そのものや、里から離れることに拒否感がある者は少なくなく、長たちによる説得が続けられているそうだ。
「アティちゃん、最近ルカと会ってるだろ」
 ルカのことをぼんやりと考えていたアティを見透かしたように、ドミニクが言った。
「はい。砲剣を教えていただいています」
 既に、実戦の武器も切り替えている。機構があまり複雑でなく、重さも見た目ほどではない初心者向けの砲剣だ。これもルカに教えてもらったものだが、初めて使う割には手に馴染んでいる。
 素直に答えれば、しかしドミニクは唇を尖らせる。
「アティちゃん、今のままでも十分すぎるほど強いと思うけど。まだ強くなりたいんだ?」
「強くなりたい……どうでしょうね」
 キバガミの助言、『混ぜ物をせよ』という言葉を実践してみたかっただけかもしれないし、装置でもある砲剣を己の手で弄ってみたかっただけかもしれない。
 一方で、この剣の使い手であるという、バルドゥールに近づけるような気もしていた。
―――ところが、ドミニクはこんなことを言い出す。
「……アティちゃんが好きなのって、先生じゃなかったっけ?」
 カーゴ交易場を出ようとしていたアティは、ぴたりと足を止める。
「そ、そ、そんなこと、私、言ったことありません!」
「いやー、おいらショックだわ。なんつうか、アティちゃんっておいらとかアイツみたいな軽薄男は興味ないと思ってたのに? おいらじゃなくてアイツがいいの?」
「あ、アイツって……ルカはそんな対象じゃありません」
「じゃ、おいらはそういう対象に見てくれる?」
 アティは咳払い一つ、こっそりと周りを窺いながら―――マオたち三人は外に出てしまった―――答えた。
「ドミニクもマオも、大切な仲間、です」
「……そういうのさあ。おいら、良くないと思うんだよなあ」
 半目で肩を落とすドミニクに、「そう言われても」とアティは首を傾いだ。
「―――だって、アティちゃんにはあんまり時間がないんだろ。故郷に帰れば、また『貴族の娘』と『お家のかかりつけ医』に逆戻りだ。そうなる前に、何とかしなきゃ」
「何とかって……」
 アティは勢い、紡ぎかけた言葉を飲み込む。
 そして、笑みを浮かべた。
「―――ドミニクは、この人ひとり、という恋をしたことがありますか?」
「あるよ。今だって、アティちゃんに恋してる最中さ」
 大げさに両手を広げた即答に、アティは笑みを深める。
「ドミニクの恋はどういったものでしょう?」
「アティちゃんのことを想うと夜も眠れなかったり、デートしたりしたいし、アティちゃんに似合いそうな花をプレゼントしたいー! って、ワクワクしたりする気持ちかな」
 言葉を紡ぎながら、ドミニクは大ぶりに動いてみせる。その様子を見ながら、アティは少しだけ、寂しくなった。
「私にとって……恋は、つらいものです」
「つらい?」
 信じられない、という目のドミニク。
 アティは答えた。嘘偽りなく。
「この気持ちを棄てられたらと、何度も思います」


 アティはルカと待ち合わせをしているからと言って、独りで冒険者ギルドへ向かってしまった。
 ついていきたい気持ちはあったが、ドミニクは遠慮しておいた。代わりに、アティを見送った後、繁華街へと消えていこうとしていたマオの後ろ姿を見つけて、捕まえる。
「よう、先生! メシ行こうぜ」
 マオはどこか気まずそうな顔をした。のぞき見でもしていたのだろうか。こういう、隠しきれない素直なところは、アティとよく似ている、とドミニクは思う。だが二人は兄妹ではないし、恋人でもない。
「―――アティちゃんはルカとデートだってよ」
「……そうか」
「あれっ、心配じゃないの?」
 マオは、くたびれた白衣から煙草を取り出して火をつける。
「アティ本人に聞いている。特訓を受けていると」
「でも気にならない?」
「……妙に突っかかるな」
 じろりと睨みつけてくるマオが、煙をひとつ吐いたところで、ドミニクは口を開いた。
「先生もあいつと話したいこと、あるんじゃないの」
「ないな」
「じゃあもしかして、逆に会いたくないとか」
 煙草に唇を寄せて、マオは呟いた。
「そうだな」
―――マオの弟が、ルカとよく似ているという話を思い出す。
 帝国兵のルカが、行方不明の弟のはずがない。だが、もしかして。そう思ってしまうのだろうか。
 彼を知る機会があるたびに、弟のことを思い出してしまうのが、つらいというのだろうか。
 感じ方は人それぞれ違う。当事者に生半可な気持ちで、そんな言葉はかけられない。だが、ここでもドミニクは、先程アティに感じたのと同じ違和感を覚えた。
―――ドミニクなら、むしろはっきりさせてしまいたい。
「アティちゃんはさ、先生のことが好きじゃん」
 マオは思い切り噎せ込んだ。
「―――先生はアティちゃんが心配だって言うけど、実際結構放任主義なとこ、あるよな。……上手く言えないけど、もっとさ、アティちゃんにもルカにも、前向きになった方がいいとおいらは思うよ」
「一体何なんだ、さっきから」
 マオは煙草の続きを諦めたのか、通りすがりの水入りバケツに放り込んだ。足早に歩き出したそれについていく。
 ドミニクもすばしっこいほうだが、歩き出すとリーチの差が如実に響いてくる。何とか横に並べば、白衣のポケットに手を突っ込んで、猫背気味に前を見たまま、マオは答えた。
「俺が止めたところで、アティは戦いから逃げない。だったら、つべこべ言わない方が良いと思っているだけだ」
「そういうこと言ってんじゃないんだけど」
 ようやく回り込んで、ドミニクは続けた。
「アティちゃんが、恋をするのはつらいって言うんだ。女の子にそんなこと言わせるの、可哀想だろ」
 マオは目を丸くしていたが、溜息一つ、腕を突っ張った。
「どけ」
 自分の背後にあるものが、『踊る孔雀亭』の入り口扉だったことに、ドミニクはそのとき気付いた。
 ドミニク越しに扉を開けながら、マオが見下ろしてくる。
「お前だって自分が自分だという理由で、どうにもならなかったことくらいあるだろ」
 そして店に入っていくのを、ドミニクは言葉の意味を考えながら付いていく。
 孔雀亭の中も、様々な人種の人々でごった返していた。タロットの姿だってある。彼らはどちらかといえば、タロット同士で集まっている傾向にあるが。
 マオの座った、入り口にほど近いソファ席の向かいに腰掛け、「いつもの」と女将に呼ばわる。
「珍しいわね、あなたが舞台に背を向けるなんて」
 からかいを含んだ声で言われて、ドミニクは確かにそうだ、と、既に踊り子がパフォーマンスを始めている高台を振り返った。が、今はこちらが優先だ。マオに視線を戻す。
「それって言い訳だよ」
 さすがは孔雀亭、すぐに運ばれてきた一杯目をあおって、ドミニクは苦い顔をした。
「うわー、強い」
「……お前に言われたくはないな」
 同じように、しかし平然と杯を飲み干すと、マオは続けた。
「女の尻を追いかけているだけのタロットには」
「そういうこと言っちゃう?」
「タロットであることを言い訳にするなよ。お前はただ、誰かに本気になったことがないだけだ」
「……それ、アティちゃんにも訊かれたなあ」
 虚空を見上げて、ドミニクは思案する。
―――確かに。タロットである物珍しさに寄ってくる女の子はいたが、親しくなる前に大抵自然消滅してきたし、それ以外はそつなく躱されてきた。
 タロットであることを言い訳にしてきたつもりはない。だが、仕方がないと思う心は本当になかっただろうか。
 ドミニクが考えている間に、マオの酒は進む。それに気付いて、肩を竦めてみせた。
「明日も探索だぜ~」
「分かってるさ」
「先生がそう言うとき、大抵分かってないんだよなあ。……恩人の娘、ねえ。絶対それだけじゃないくせに」
 呆れたようにごく小声で言って、ドミニクは低いテーブルに無理矢理頬杖をついた。
 正直、面倒くさい。頑なになってしまって、多分、ドミニクが何を言っても通用しないのだ。とはいえ、言葉が返ってくるようになったのは随分進歩だろう。
―――ならあんたは、アティと弟、どちらか選ばねばならないときが再び来たら、またアティを置き去りにするのか。
 さすがに言えなかった言葉を、ドミニクは酒と一緒に飲み込んだ。


 冒険者ギルドで待ち合わせのはずが、ルカの姿が見当たらない。
 ギルド長に聞いても、今日は姿を見ていないと言う。彼は仕事で街の外に出ていることも多いため、仕方がない。それでもよほど残念そうな顔をしていたのか、ギルド長が「ならばワシが稽古をつけてやろう」と打診してくれた。
 この上なく魅力的な提案だったが、冒険者ギルドの職員の辟易した表情をアティは見つけてしまった。
 さらに、彼の後ろをエリザベスが通過していったのも、拍車をかけた。
「大変申し訳ありません。是非、次のお約束とさせて下さい」
 深くこうべを垂れると、アティはエリザベスを追いかけた。冒険者ギルドの屋外廊下を歩きながら、階段を下り、街の出口の方―――タルシスは小高い丘のような形の街なので、つまりは坂道を下る―――へと向かっていく。
「ベス!」
 階段の手すりから身を乗り出して彼女を呼べば、エリザベスは驚いたような表情を浮かべて振り返る。
「アティ? ドミニクと一緒だったんじゃないの」
「ギルドに用事があって。……ベスこそ、どうしてこちらに?」
 エリザベスが眉を顰める。
「あたしもギルドに用事があったんだよ」
「ええと……ルカと待ち合わせをしていたんです。前に話したでしょう、砲剣の使い方を学んでいるって」
 今日は会えませんでしたけど、と付け足す。
 エリザベスは視線を外した。
「そう」
「エリザベスは……えっと、当ててみてもいいですか」
「いいよ」
「もしかして、カナンさんを探していたんですか?」
 恐る恐る言ったアティにエリザベスは苦笑いを浮かべた。
「カナンっていうんだね、あいつ」
「名前も知らないのに探していたんですか?」
 思わずそう言えば、エリザベスは胡乱な目になった。
「とりあえず降りてきなよ」
 アティは手摺りを乗り越えるか悩んだが、結局普通に階段を下りていった。人通りのない、薄暗い石の坂の中腹に、仁王立ちしていたエリザベスが、石垣の傍らに腰を下ろした。ここをこのまま降りれば、街門の前に出る。もしかしたら、門を守る兵士に、カナンのことを聞きに行くつもりだったのかもしれない。
 アティはエリザベスの傍らに腰を下ろす。
「……前に見たときは、別の名前だったと思う」
 ぽつりと、エリザベスは言葉を漏らす。
「―――父さんが死ぬ前に、何度か姿を見かけたことがあるの」
「エリザベスのお父様は……」
「殺されたんだと思ってる。アイツに」
 アティは小さく息を飲む。
「それは……どうして、そう思うんです?」
「父さんが……見つかった現場から、あいつが逃げていくのを見たっていう証言があるんだ」
 淡々と語るエリザベス。
 アティは、カナンを想起する。表情が薄く、考えていることが読めない端正な顔。一方で、考えることを他人任せにしているわけではない。彼女は彼女の意志で、病に冒された少女を救おうとしていた。
 そんな女性が人を殺すのだろうか。殺人者の心理は、アティには分からない。被害者や、遺族の想いを慮ることはできても。
「カナンさんに……彼女に会って、話を聞きたいと?」
「まあ、それだけじゃないけどね」
 エリザベスは大きく深呼吸した。
「……捕まえるんじゃなくて、本当は同じ目に遭わせてやりたい」
 震える声で紡がれた言葉に、アティは密かに緊張する。
「―――木偶ノ文庫であいつを見たとき、殴りかかりそうなのを抑えるのでいっぱいいっぱいだった。あいつの言葉なんか、信用できるもんか。……でも、あんたたちがいたから。だから踏みとどまったんだ」
 堰を切ったかのように、身を縮めて、エリザベスは言葉を吐き出す。
 アティはその肩を抱いた。
「それは、私たちがいたからじゃありません。エリザベスが正しい人だからです」
「正しい? あんたの言う正しさって何?」
 顔を上げ、エリザベスは目を見開く。
「―――あたしなんて、内心矛盾だらけよ。疑わしいだけであいつがやったなんて証拠はほとんどないのに」
 くしゃり、とその顔が歪む。
「捕まえて、統治院に引き渡して、裁判にかけて……それが正しいはずなのに。分かってるのに―――次あいつを見たら、自分を抑えられないかもしれない」
 ついに両手で顔を覆ってしまったエリザベスを、アティは抱き寄せる。
「殺してやりたい。父さんを殺しておきながら、自分は誰かを助けたいなんて許せない。見逃すんじゃ、なかった」
―――自分と同じように柔らかく、あたたかい身体。
 でもアティより小さく細い。
 先陣に立って、無茶をするアティたちを守るエリザベス。その優しい、普通の少女の心に刺さる杭の片鱗が、肩を濡らす涙を通して痛いほどに染みこんでくる。
「大丈夫……大丈夫です」
 突き動かされる心のままに、アティは言葉を選ばず口にする。
「エリザベスの正しさを、私は信じています。貴女の選んだ道も、これから選ぶ道も間違いではありません」
「そん、なの」
「大丈夫」
 身動きが取れないくらいに、彼女を抱きしめる。
―――アティのこれは、独りよがりだろう。そんなことくらいは、アティにだって分かる。自己矛盾に苦しんで、結論を出せずに悩み迷うことは、アティにだってあるからだ。
 一番信じたいのに、一番信じられないのは、自分自身だ。
 そのせいで、アティはまだ、道を選びきれないままでいる。


 酷い顔だから寄るな、と突き放してきたエリザベスと別れ、すごすごと大通りへ向かう道すがらである。
 アティの渡したハンカチで盛大に鼻をかみ、しかし恥ずかしそうに小さな声で、「ありがと」とエリザベスは言った。力になれたということは、少しでも彼女の心が軽くなったということだろうか。
 物思いに沈むアティの肩を、すれ違いざま男が叩いた。
「やあ、アティ」
「……ルカ!」
 一拍遅れて振り返り、息をのんだアティに、ルカはウインクを返す。
「ごめんごめん、遅くなって。今からでもいいかい?」
「はい、是非お願いします!」
 最近はタルシスにおいても、帝国兵が大手を振って歩いている姿をよく見かけるようになった。
 イクサビトやウロビトの長や長老陣の働きかけで、若い者たち同士の衝突も減っているように思う。
―――それでもアティは最初の遭遇以来、ルカが鎧を着た姿を見たことがない。
「ルカは、今日はどちらに?」
「タルシスの周りを気球艇で飛んでただけだよ。竜がいるんだね、この近くには」
 街門を出て、街道沿いにある空き地での稽古の最中である。 のんびりとあくびをするルカ。
「帝国に竜はいないのですか?」
「……いないことはないけど、ほとんど見ることはないね。もし竜が頻繁に見られるほど側にいれば、それこそ気球艇なんてなくても、あの山脈を越えてこられただろうに」
 アティは目をしばたいた。
「竜は、大地を隔てる山脈を越えられるのですか?」
「……可能性があるなら、竜くらいだろうって話だよ」
 ルカは繕うように早口で言うと、話題を変えてきた。
「―――それにしても、アティは飲み込みが早いね」
 重みに耐えきれず、砲剣の刀身を地に降ろしたアティに、ルカはそんなことを言った。
「そう……でしょうか?」
「言われたことはない? ……僕が点火装置(イグニッション)の使用法なんて習ったのは、砲剣を持って半年は経ってからだったよ」
「でも、ルカは仕えて数年でバルドゥールの直属の騎士になったのでしょう。そちらの方が、成りがたいと思います」
「あんなもんの方が、口八丁手八丁っつってね。どうにでもなるのさ」
 飄々と言うルカだが、稽古の最初に模擬戦的に交えた剣の実力は本物だ―――とアティは感じていた。そして彼の手管には、どこか懐かしさもある。
「ルカの剣の師匠は、どんな方なんですか?」
「会ったことあるでしょ」
 肩を竦めるルカに、アティは目を丸くする。
「ええと?」
 帝国兵に知り合いはほとんどいない。戸惑っていれば、ルカは頭の両側面を垂直に撫でるような仕草をした。
「銀髪の女騎士」
「あ! 南の聖堂でお会いした、クールビューティさん……」
 辺境伯とバルドゥールの会合の場まで、案内してくれた女性だ。
「ホルンというんだ。頭が固くて昔気質なのがたまにキズだけど、悪い人じゃないんだよ」
 肩口で結んだ赤毛を指先で弄るルカに、アティは頷いた。
「ええ、そう思います。ホルンさんも、タルシスに?」
「いや、彼女はいのちを賭しても殿下を護るよ。そういう女だ」
 北の山脈に視線を送りながら、目を細めるルカ。
―――気安く見える彼もまた、様々なものを抱えてここにいるのだ。師と敵対することが分かっていて、アティに剣を教示してくれている内心は、いかほどのものなのか。
 精悍な横顔は、確かにマオに似ている。
―――遠くを見つめていた碧眼が、ふとアティを向いた。
「なんだい、見惚れちゃった?」
「え。……その。私の仲間が、貴方によく似ているので」
「ふうん」
 ルカは鼻を鳴らすと、アティを覗き込んだ。
「アティはその人が好きなの?」
「え! どうしてそんな話になるんですか!」
 先程ドミニクと交わした会話が脳裏をよぎり、思わず声がうわずった。ルカの眉が寄る。
「そんな恋する目で見られたら、僕ァ誤解しちゃうじゃないか」
「えっ……」
「それとも誤解じゃないのかな?」
「ええっ」
「……冗談だよ」
 砲剣ではなく自分がオーバーヒートしたアティを見て、ルカは溜息を吐いた。
「―――好きな人に似ているんだと言われても複雑だなあ。素直に喜べない」
「い、言ってません。あの……マオ、ええと、ルカが似ている私の仲間なんですけど、彼には行方不明の弟がいるんです」
 白状するように、アティは言葉を紡いだ。
「ほう」
「勿論、ルカが彼の弟ではないことは分かっています。私は会ったことがありませんが……それでつい、重ねてしまって」
「分かんないよ? 僕、ホルンに拾ってもらうまでの記憶がないから」
 アティはきょとんとする。
 相変わらず本当か嘘か分からない口調で、ルカはぼんやりと呟いた。
「もし僕がこちら側に拾われていたなら、事はずっと単純だったろうになあ」


 『深霧ノ幽谷』、『碧照ノ樹海』の隠し通路を抜け、ピルグリムは王の承認と思しき四つのギミックの起動を成功させた。
 再び『煌天破ノ都』の入り口に顔を見せれば、帝国兵やイクサビトやウロビト、タルシスの兵士たちも皆が隔てなく、歓声を上げていた。やはり、固く閉ざされていた奥への扉が開いた、ということらしい。
「それにしても、バルドゥールはここをどうやって通過したのでしょうね」
「殿下は『冠』を身につけておられた。あれこそ、玉瑛樹の主であることの証だったために扉が開いたというだろう」
 居合わせたローゲルの言葉に、アティは首を捻る。
「玉瑛樹?」
「君たちの呼ぶ、世界樹のことだ」
 帝国の古い文献に残る名だそうだ。
 ローゲルは部下の兵士たちと共に、遺跡に他の異変がないか確認すると言ってその場を辞した。つまりは、この先にいるはずのバルドゥールを、ピルグリムに託したということだ。
 ローゲルが引き連れた兵士の中に、ルカもユングヴィもホルンもいない。
「……行きましょう」
 アティたちは最後の迷宮を進んでいく。

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第21話

 羽ばたきカブトを砲剣で粉砕しながら、呪いバッタの大群をニーナの方陣で一網打尽に捕獲しながら、ピルグリムは進んでいく。
 ラフレシアの並ぶ迷い道を乗り越えた先、薄暗い闇の中をがしゃん、と、金属を打ち鳴らすような音が響いた。
 既に日が沈んでいる。雲の隙間から洩れた月明かりが照らしたのは、帝国兵の全身鎧だった。動いている。兜のうちからは弱々しい息が漏れ、細身の砲剣をもはや杖のように立つ姿に、アティはかぶりを振った。
「もう、やめてください」
「バル、ドゥール、でんか、には」
 妙にくぐもった声だ。
 兜の首筋から延びる銀色の髪―――明かりによって、その鎧が黒色を帯びていると気付いて、アティは呼ばわった。
「ホルンさん?」
 帝国兵の歩みが止まる。
 アティは仲間たちが怪訝な目を向けてくるのもよそに、彼女に近づいた。
「ホルンさん、ですね?」
「ふれ、るな」
 遂に膝をついた帝国兵の項垂れた頭から、兜が落ちる。
 その下から出てきた、誰とも判別できない、緑に覆われた顔。
「―――かんせん、する」
 アティは伸ばしかけた手を彷徨わせたが、最早目も見えていないだろう、彼女が砲剣を探そうとする手つきを見つけて、その身体を支えた。
「安静になさってください」
 そっと横たえると、彼女はすぐに身体を起こそうとする。
「でんか、のもと、に」
「参ります。でも、戦うためではありません」
 震える籠手の指先を握る。
「―――貴女のことは、ルカから聞きました。貴女はいのちを賭してもバルドゥールを護るだろうと」
「ルカ、あの、うらぎりもの」
「私たちと志を同じくする仲間です。彼も、貴女を気に病んでいました」
 彼女―――ホルンは花びらを吐き出すと、嗄れた声で言った。
「あれ、に、こころやすく、しては、なりません」
「ホルンさん、もう……」
 アティたちが開けた抜け道から、こうした帝国兵たちの救助のために動いてくれていたウロビトやイクサビトたちが現れる。ホルンも彼らが収容してくれることだろう。
 ホルンはアティの手を握り返した。
「あなたが、だれでも、いい。でんかを……おま、もり、して……」
 その手が力なく落ちる。
 身体を揺さぶりそうになったアティの腕を、マオが止めた。彼は素手で蔦や葉の間に指を突っ込むと、首筋に触れる。
「脈はある。呼吸もまだしているから、とりあえず運び出して貰おう」
「は、はい……」
 胸を押さえて息を吐いたアティの肩を、マオが叩く。
「大丈夫か?」
「少し、驚いただけです。平気」
「なら進もう。……皇子はこの中だろうから」
 眼前の短い跳ね上がり橋を、ドミニクたちが降ろしている。
 橋が降りた先に、扉はない―――が、入り口のように石造りの壁にぽっかり空いた穴の向こうに見えたものに、アティは思わず剣の柄に触れた。
―――それは、顔だった。
 巨大な顔。人のようで人のものではない。それが、壁のように絡み合う、木のように太い蔦の間に、のっぺりと付いている。
 だが、呼吸しているように、わずかに動いている。
―――生きているのだ。
 その手前にいるのは、『冠』を戴くバルドゥール。
 彼もまた、緑に冒された姿で佇んでいる。
「ここまでにしましょう、バルドゥール」
 アティの呼びかけにも、彼は応じない。
 微動だにせず、意志の持たない者のような虚ろな目で、こちらを見つめるばかりだ。
「シウアンは……?」
 周囲を見渡そうとしたアティ。
「うー!」
 突然悲鳴のような叫び声が響いた。
 眼前で炸裂音。咄嗟に飛び退ったアティは、砲剣で我が身を庇いながら、前を見た。
 バルドゥールがいつの間にか、砲剣を床に叩きつけていた。
 その軌跡はどうやら、彼が意図したものから外れたようだ。砲剣の放つ熱に溶けていく、氷の塊が刀身についている。
「よくやった、ニーナ」
 マオに褒められている声が背後で聞こえる。
 バルドゥールの血走った目が、アティを捉えた。
「救世の灯火、余が消させはせぬ」
「まだそんなことを……」
 バルドゥールの砲剣の突きを受け払い、アティは息を吸い込んだ。
「貴方を信じ、ここまで来た騎士たちのことを何とも思わないのですか!」
「彼の者の復活こそ、我が父、そして散っていった騎士たちの悲願。彼らが信じた未来を、余は守る!」
 強い語気と共に打ち込まれた剣は、末期の病に冒されているとは思えないほどの力だ。
 まるで、背後の世界樹―――否、巨人が、彼に力を与えているかのようで。
 今のバルドゥールは人ではなく、魔物でもない。
 ただ、己の『希望』に向かって突き進む怪物だ。
「見るがいい、楽園への導き手の復活だ!」
 吼えるバルドゥールに呼応するように、背後の顔―――巨人が口を開いた。
 『煌天破ノ都』が揺れる。緑色の瘴気が吹き出し、天井を砕いた巨人がゆっくりと、立ち上がっていく。
「そんな……!」
「遅かったってこと!?」
 気を取られかけた前衛の二人を、バルドゥールの腕から延びた、蔦が絡め取らんと襲いかかる。
 それを、背後からの投剣と矢が払い落とした。
「集中しろ、そいつを片付けるのが先だ!」
 バルドゥールは薄く笑う。
「……『冠』を通じ、巫女が余の言葉を聖なる言葉に置き換え、彼女に囁いている。もっとも、もう余が止めよと言ったところで、彼女は止まらぬがな……」
「では、戦うことは無駄ではありませんか」
 アティの弱腰に、しかしバルドゥールは射殺すほどの眼光を向ける。
「貴公も剣を持つ者なら肌で分かるだろう。相手の強さを知るが故に、ここで倒しておくべき宿敵というものの存在を!」
「くっ……」
 アティはバルドゥールの砲剣をすんでのところで回避しながら叫ぶ。
「こんなところで貴方と戦うのは、本意ではありません!」
「ならばタルシスへ帰るが良い」
「それもできません」
「冒険者風情が。出過ぎた真似をするからであろう。覚悟なき戦いなど、刃を交える以前に勝敗の決したようなものよ!」
「うあっ!」
「アティ!」
 バルドゥールの刃は腕を掠っただけだったが、灼けるような痛みが残った。傷の様子を見ないアティに、マオが走り寄ってくる。
 応急処置に、しかしバルドゥールは追撃を加えなかった。
―――明らかに手心を入れられている。
 彼は、砲剣の切っ先をアティに向けた。
「その方の覚悟、そしてタルシスの希望という重み、如何ほどか? ……帝国のつるぎを以て、余に刃向かうという浅慮は如何ほどか」
 マオが離れる。
 アティはバルドゥールを睨みつけると、己の砲剣の鍵を回した。駆動音。
―――アティの全てを賭けて。
 この剣を、嘲弄することは許されない。
「この剣の重みは貴方とシウアンを想う人々の願い。そして、貴方に立ち向かう我が身の覚悟は、タルシス、ウロビト、イクサビト、帝国全ての人々の希望です」
「よくぞ嘯いた!」
 バルドゥールの砲剣が、同じく火を噴く。
―――どちらかの希望が砕け散るまで、戦いは終わらない。


 ぱらぱらと落ちてくる塵と、断続的な揺れ。
 頭上を見上げながら、グレンが呟いた。
「ここも長くは保たぬか」
 そして振り返り、カナンに声をかける。
「それでまだ見つからんのか、例の男は」
 リップルを背負ったまま、カナンはゆっくりとかぶりを振る。
 カナンたち一行は、ある依頼を受けて『煌天破ノ都』の一角に侵入していた。依頼も何も、帝国の護りが突破され、タルシス兵やら何やらが侵入してきた『木偶ノ文庫』から脱出するのを、手助けしてくれた帝国兵―――ルカが、強引に頼んできたのだ。
 幸い、この大地はひどく乾燥しているものの、野営が難しい環境ではなく、長らく遺跡として人の手つかずだったこともあり、たかだか四人の食糧には困らなかった。しばらくそうして身を潜めながら、『依頼』に取り組んでいたのだが。
「『金髪眼鏡の帝国兵』なんて、ざっくりしすぎだよね」
 野戦病院さながら、広間に並べられた帝国兵―――その誰もがリップルと同じ病に冒されている―――の顔をひとつひとつ覗き込みながら、シュメイが呟く。
 そう。蔦や葉が生い茂り、顔の区別が難しくなった兵士のうちから、たった一人を探し出せ、というのがルカの依頼だった。
 そもそも元々の髪の色も、性別すら判別が付きにくい者もいる。
 また降る遺跡の欠片に、肩を竦めるシュメイ。
「そろそろ諦めた方がいいんじゃない?」
「いや」
 カナンは通路を見ていた。
「ほら、早く歩いてくれ。あんまり手荒にしたくないんだ」
「だから、普通に歩くと言っているだろう。腕を取るのをやめてくれ」
 揉め合う男の声が聞こえてくる。
 やがて広間に入ってきたのは―――タルシスとイクサビトの兵士、そして、彼らに囚われた帝国兵。
 帝国兵は外見から言えば、例の病を発症していないようで、金髪に眼鏡の男性だった。
「あ」
「おお」
 シュメイとグレンが口々に唸る。
―――奥に向かったというピルグリム以外にも、冒険者の出入りはある。なので、カナンたちがここでウロウロしていても、警戒はされない。むしろ『煌天破ノ都』を探索する中、行き倒れた他の冒険者や兵士、帝国兵を拾ってくるので、ここで任務にかかっている兵士たちとは顔見知りだった。
 なので、カナンはつかつかと、眼鏡の帝国兵を捕らえた兵士の側に寄っていく。
「彼は?」
「ああ、どうも皇子の足として戦艦を動かしていた兵士らしい」
「抵抗はしないと言っている。離してくれないか」
 と言いつつ、捻られた腕を揺らす眼鏡の帝国兵。特徴的な鎧を身に纏ったままなので、苦しいのだろう。
 彼の目を覗き込み、カナンは告げた。
「君がユングヴィか」
「へ? あ、ああ。そうだが―――」
 首肯したのを確認し、カナンは短剣を抜くと、ユングヴィの背後に立つ兵士たちに投げつけた。
「うわっ」
 シュメイのうめき声などどうでもいい。ユングヴィを拘束し連行していた兵士たちが、次々と床に頽れる。
 意識はあるはずだ。カナンは屈み込み、そのうちの一人に声をかけた。
「たかだか数分麻痺する程度の毒だ。動けるようになったら、病人を連れて脱出しろ。ここは危険だ」
 口早に告げ、唖然としているユングヴィを見る。
「ついてこい。君に拒否権はない」
「何なんだ、一体」
「グレン」
「承知」
 グレンはユングヴィの腰を掴んで、肩の上に担ぎ上げた。
「ちょ、何をする!?」
「暴れるようなら、君にはもう少し長いこと麻痺してもらうことになるが?」
「はい、じゃあ合図送るね」
 言って、シュメイが錫杖で床を叩く。
 瞬時に広がった光が、迷宮を駆け巡る。興味深そうに、グレンが目をしばたいた。
「ルカ殿はこの迷宮におるのか?」
「そう聞いてるよ。ま、僕たちも出口に向かおうか。本当にやばそうだ」
 断続的だった揺れが、継続的になっている。
 グレンが眉をひそめて、呟いた。
「ピルグリムが無事なら良いが」


 オーバーヒートを繰り返しながら切り結び、アティの体力は限界に近い。
 だがそれは、バルドゥールも同じようだった。肩で大きく息をしている。呼吸が戦いのための整え方に、そもそもなっていないのだ。やはり、病が彼に負わせたものは大きいのだろう。
 それでも、こちらとしては互角以下の戦いだ。
 バルドゥールは濁った目でこちらを見据える。
―――彼の砲剣の駆動音が変わる。
 アティははっとした。点火装置(イグニッション)を使う気だ。
 意を決して、己の砲剣の起動鍵に指をかける。やるなら今しかない。深呼吸をして、緊張による身体のこわばりを和らげる。
―――大丈夫だ、やれる。
 アティは鍵を、捻りながらより深く突き刺した。
 バルドゥールはその一連の動きに、驚いたように目を見開くと―――口角を上げる。
「来い」
「参ります!」
 両の砲剣が、正面からぶつかり合う。
 ドライブの勢いを背負う一撃同士は、破壊的な衝撃波を生んだ。腕とも手とも、肩ともつかぬ痺れが襲い来る。
 気がついたとき、アティは壁にもたれかかっていた。
「つ……」
 背中で洩れる声に、誰かを巻き添えにしたことを知り、慌てて立ち上がろうとするが―――まだ力が入らない。
「ご、めん、なさい」
「大丈夫か?」
 マオだ。壁への激突からアティを守ろうとしてくれたらしい。彼はアティの肩を後ろから掴むと、立ち上がる手伝いをしてくれる。
 砲剣は、奇跡的に手放していなかった。オーバーヒートにはなっていない。まだいける。
 そのことに気付いたマオが、訝しげに砲剣を指した。
「それは……」
「はい。まだいけます」
 脚にも痺れが残っていたが、アティは立ち上がった。同じように、壁際まで飛ばされて膝をついていたバルドゥールが立ち上がる。
「参ります」
「アティ!」
 呼び止めるように響いた声を無視して、アティは走り出す。
「っ!」
 素早く迎撃姿勢を整えたバルドゥールがドライブの構えを取った。
 アティは気にせず、二撃目のドライブを打ち込む。
 衝撃。次はまともに受け止めずに受け流すつもりだった。だが、激突の瞬間、バルドゥールが身体を斜めに捻る。
「あっ」
 アティは身体が浮き上がるのを感じる。
―――跳躍しても到達できないほどの高さまで打ち上げられる。
 それを見上げて、反動を踏ん張って耐えたバルドゥールが、再度構えを取った―――見たことがない。酷使された砲剣から、赤い煙が立ち上っている。
 本能的な危機を悟るが、空中では身動きが取れない。守りに徹し、ダメージを抑えるべきか―――迷った一瞬を切り裂くような速さで、バルドゥールの肘を矢が貫いた。
「ぐあ!」
 刹那、アティは砲剣を振り上げるように身体を回転させる。
 打ち上げられたときと同じ速度になるべく、落下が始まる。
―――これで、終わらせる。
 構えを崩したバルドゥールに、上空から叩きつけるようにドライブを放つ。
「―――」
 バルドゥールの砲剣が砕け散る。
 信じられない。そう見開かれた目が、しかし再び闘志を湛えたのを見て、着地したアティは素早く膝を伸ばし、痺れの残る腕で懸命に砲剣を支えた。最早正しい構えは保てず、全身で振り回しているような形だ。それでも、バルドゥールを追い詰めるように、一歩、踏み込む。
「はあああ!」
―――刃の残った剣を弾き飛ばすように、下から上へ。
 斬り上げたアティの砲剣が、バルドゥールの額を飾る『冠』を、砕いた。
「―――」
 遠くから、誰かの歓声らしきものが聞こえる。
 剣を振り切った姿勢で、アティは膝をついた。耳の奥で聞こえる酷い呼吸音は、自分のものか、バルドゥールのものか。血まみれの額を押さえて後退り、アティを睨みつける目が爛々と輝いている。まだ彼は、諦めていない。
 ならこちらも、倒れるわけにはいかない―――
 立ち上がろうとしたアティの膝を、しかし、突然の揺れがより深く沈ませた。
「―――」
 意識せず前のめりに倒れかけた身体を、エリザベスが支えてくれる。
 そのとき、彼女の腕越しに、アティは見た。
―――バルドゥールの足下に、無数の亀裂が走るのを。
 そして、床の崩落と共に、彼の身体が奈落に飲み込まれるのを。
「バルドゥール!」
「―――」
 誰かが何かを言っている。アティの伸ばした手は、エリザベスに抱え上げられたせいで届かない。
―――否、そうでなくても、届かなかったろう。
 恐ろしい揺れの中、低いうなり声のような、悲鳴のような轟音が部屋に充満する。
 それを聞きながら、アティは意識を失った。


「あー! こっちも行き止まり!」
「こっちも!」
「あうー」
 気絶したアティを背負いながら、エリザベスはともすれば噛みそうな揺れの中でがなる。
「なんで糸忘れて来てんの!」
「だって、磁軸すぐそこなんだもん」
 ドミニクが指差した樹海磁軸の部屋までの道は、しかし瓦礫に潰されている。
「万事休すってやつ?」
 暢気に頭上を見上げた―――もはや天井は半分くらいなくなっている―――ドミニクが、瞠目して叫んだ。
「あれ!」
 ドミニクが懸命に指差すが、イマイチ見えない。マオやニーナも同様のようだ。業を煮やしたドミニクは器用に瓦礫をよじ登り、崩落した天井の隙間から顔を出すと、「おーい!」と両手を振った。
「ドミニク?」
「よっし、気付いた! ……エリザベスちゃん、登れる?」
「もう。一体、何なのよ」
「帝国の気球艇だよ!」
 すると、天井がなくなった部分に影が落ち、何かが降ってきた。暗くて分かりづらいが、触れた感覚で分かる。縄梯子だ。
「掴まれって?」
「すごい操船技術だな」
 気球艇は風に煽られやすく、空中での位置が安定しないのが普通だが、そこから降ろされているらしき縄梯子はほとんど揺れていない。
 全員が縄梯子に掴まり、天井の上まで登りきると、帝国の気球艇―――もといいつもの戦艦は、ゆっくりと動き出した。慌てて梯子を登りきる。
 船底にある出入り口には、笑顔のルカが立っていた。
「やあ、お疲れ様! みんな無事?」
「やっぱりあんたか!」
 ドミニクが吼える。
 戦闘直後の這々の体で、タラップの側に身体を投げ出すピルグリムの面々に、ルカは言った。
「悪いね。アレが動き出しているから、巻き込まれないようにさっさと移動しようと思ったんだ」
 ルカが親指で示したのは―――『煌天破ノ都』の背後に直立する、巨大な、樹―――否、蔓の絡んだ腕と、顔がついている。
 あれが―――『楽園への導き手』。
「って、めちゃくちゃデカいな」
 顔だけでセレンディピティのバルーンくらいはありそうだ。
 手すりにもたれかかり、同じように巨人を見ていたルカが口を開く。
「とりあえず、この大地の外れに向かうよ。……情報交換といこう。君たちには、休息も必要だろうしね」
 異を唱える者はいなかった。


「……そうか。殿下は瓦礫の下に……」
 ピルグリムから事の次第を一通り聞き、ルカは溜息を漏らした。
 が、次の瞬間いつもの食えない表情に戻る。
「ま、それはそれ。殿下のことだから死んでないよ多分」
「多分て」
「今はアレを止める方が先だろ」
 ルカが顎でしゃくった先―――気球艇の窓越しに、巨人が立っているのが見える。
 帝国の戦艦もとい、気球艇に収納されたピルグリムは、ブリーフィングルームらしき場所に案内されていた。もっとも、物々しい机や椅子はなく、床の上に敷かれた絨毯の上に各々が座り込むという、セレンディピティの船にもあるような空間になっている。外観には到底似つかわしくない空間なので、恐らく、ルカが改装したのだろう。
 問題は、ここにルカとピルグリム以外に、リップルを連れた三人がいることだ。
「つか、カナンちゃんたちはなんでここに?」
 ドミニクが問えば、カナンは鉄面皮のまま応じた。
「我々はそこの彼の依頼を受けて、『煌天破ノ都』の中で動いていた。崩落が始まったので合流したんだ」
 その後、ごく小声で「何故タロットは人をちゃん付けで呼びたがるのだ?」と聞こえた気がするが、気のせいだろう。
「そこの彼って……」
 カナンの視線は、ルカを向いている。
「依頼って何よ」
 エリザベスの詰問に、ルカは肩を竦めた。
「実は僕、気球艇の操船については専門外でね。飛ばして降ろすくらいはなんとかできるんだけど、複雑な動かし方は専門の奴に頼もうと思って。カナンたちに探して、連れてきてもらったんだ」
 言い終わるのが早いか否や、出入り口の扉が開いた。
「ルカ。自動操縦に切り替えたぞ。これでいいな」
「おっ、ありがとう。お疲れ~」
「全く……」
 疲れた顔を覗かせたのは、金髪で眼鏡をかけた、長身の男性だ。
 鎧こそ纏っていないものの、服装で帝国兵であることが分かる。彼は、室内の人数に戦いたように言葉を失った。
 ルカは明るく言った。
「彼はユングヴィ。殿下の運転手」
「帝国第一艦隊所属特別強襲部隊筆頭操舵手だ! そう呼べといつも言っているだろうが!」
「ま、要するに操船専門の技術者だよ」
 なるほど、『絶界雲上域』の強風をものともしない、卓越した操船は彼の手によるものだったのだ。
「……でも、バルドゥールの運転手ってことは敵なんじゃ?」
 胡乱なエリザベスの呟きを、ルカは笑顔で受け止める。
「そういえば、君たちがホルンを助けてくれたんだったな。ありがとう」
 ユングヴィの顔色が変わる。
「ホルンは―――」
「彼女なら別ルートで護送されているよ。救出された帝国兵は、『南の聖堂』に全員収容されている」
「そうか……」
 話が読めないでいる冒険者たちに、ルカはにこにこと笑顔のままで補足する。
「ユングヴィはホルンの弟さんだ」
―――なるほど。ホルンは『煌天破ノ都』で会ったときに知れたように、バルドゥールに深い忠誠を誓っている。実のところ、あのときのアティと彼女の会話はよく聞き取れなかったドミニクだが、あんな姿になりながらもバルドゥールを護ろうとした、その心酔具合は相当なものだろう。
 ユングヴィは彼女を心配して、ローゲルやルカたちと同じ道を進まずに居残った、ということなのだ。ならば、ルカの要求に従い、タルシスのために帝国の気球艇を飛ばすことにも、そこまで抵抗がなかったのかもしれない。
「……帝国の人間がみんな、殿下かローゲル卿かで二元された思想を持つわけじゃない」
 ルカは低く言って、ユングヴィを振り返った。
「とりあえず、今は休んでくれ。これからが本番だから」
「そうさせてもらおう」
 ユングヴィはよろよろと、ブリーフィングルームを去って行く。
 エリザベスが眉根を寄せた。
「これからが本番?」
「君たちはあの巨人を倒しに行くんだろう?」
 事も無げに言って、ルカは口角を上げた。
「―――あれに近づくのに、脚が要るんじゃないのか」


「―――」
 薄ぼんやりとした視界に、マオが映っている。
 彼は心から安堵したように溜息を吐くと、額にまとわりつく髪を払うように、頭を撫でてくれた。子供みたいでこそばゆいが、優しく、懐かしい感覚だ。
 小さいとき、マオの勉強の邪魔をする自分をよくこうやって、彼が構ってくれたことを思い出す。
「―――」
 その唇が動くが、何を言っているのかが分からない―――正確には、耳の間でごうごうと風が唸るような音が鳴っていて、周りの音が聞こえない。
 異変を察したマオが、医者の顔に変わる。


「アティちゃんの耳が聞こえない?」
「そうだ。今はとりあえず、個室で休ませている」
 ブリーフィングルームに姿を現したマオは、険しい顔でルカを見た。
「―――心当たりは?」
「……砲剣のドライブは、人間が素手で扱える、ギリギリで設計されている。だが、ドライブ同士をぶつけることは想定されていない。帝国の同志討ちでしかあり得ないからね」
 それはそうだ。ルカの言葉を掬い、マオが続ける。
「同じ、もしくは近い仕組みの力がぶつかれば、共振が起こる可能性がある。相当の衝撃波が発生してもおかしくはないはずだ。……君はこうなる可能性が分かっていて、アティに連続ドライブの打ち方を教えたのか」
 ルカは口笛を吹いた。
「イグニッションを使ったのか。さすがだね」
「そうでなくても君は、俺たちが皇子と剣を交えることを予測していたはずだ」
 マオは目を細める。その表情はどこか、困惑が滲んでいた。
「―――アティが望んで学ぶことに異論はない。だが、リスクもあることを教えておいてくれ」
「イグニッションを使いこなせるとは思ってなかったよ。彼女の冒険心は本物だね」
「茶化さないでくれ。……その様子だと、君は危険性を認識していたな?」
「一時的なものだ。すぐ治るよ」
 マオは何か言い募ろうとし、口を噤む。
 そして言葉を選んだ様子で、こう尋ねた。
「今更だが。君の目的は何だ?」
 ここでようやく、ルカはマオを見返した。
 向かい合うとよく分かる。二人はよく似ていた。
「―――皇子の計画を止めるため、タルシスを援護したいのならローゲルと行動を共にしたらいい。君は単独で動いているんだろう? 何故そうしない」
「さっきも言ったけど……帝国の人間が、殿下かローゲル卿かで二元されているわけじゃない。僕ァ、ローゲル卿がいまいち苦手でね。それだけの理由だよ」
「本当にそうか?」
 突っかかるマオに、ルカの目つきが変わる。
「……どういう意味だい」
「このまま君を信用して良いのか、正直迷っているところだ」
 マオは淡々と言った。
 あわや一触即発か―――と思われたその時。扉が開いて、寝起きと思しきアティが着の身着のままで部屋に入ってきた。
「アティ」
 振り返ったマオが、慌てて彼女の腕を取る。平衡感覚も失われているのか、アティは支えがないと歩けないようだった。
 アティはルカを見つけると、柔らかく笑んだ。
「ルカ、あなたがわたしたちを、たすけてくれたのですね」
 耳のせいか、ゆっくりとした口調で舌足らずだ。いつの間にか笑顔になっていたルカは、手を振って彼女に応じる。
「アティ、部屋に戻れ」
 身体を押し返そうとするマオの背をぽんぽんと叩き、アティは言った。
「まって。ひとつだけ」
 そしてマオの身体越しにルカを覗く。
「―――マオからじょうきょうは、ききました。このふねは、おおきすぎますから。セレンディピティをかいしゅうしましょう」
「おいらたちの気球艇のことだよ」
 ドミニクが補足する。
 ルカは自分の顎を掴むと、しばらくして両手で大きく円を象った。アティの顔が花開くように笑み、そのままずるずるとマオに引きずられて、部屋から出て行く。
 それを見送り、ルカは嗤った。
「……君たちのお姫様は、僕の作戦に乗り気のようだ」
「お姫様じゃなくて、リーダーよ」
 エリザベスは一連の会話に呆れたように嘆息すると、カナンたちに目をやった。
「―――あんたたちはどうするのさ」
「……君たちの援護を。この丈夫な気球艇なら、攪乱くらいはできるだろう」
 答えたカナンは、エリザベスを見据える。
「―――君との約束は必ず果たす」
「……ふん」
 エリザベスは鼻を鳴らすと、マオを追ってか、部屋を出て行ってしまう。
 ドミニクはやれやれと、適当に置かれたクッションに身を沈めた。
「険悪だなあ。かえって疲れちゃうよ」
「ふむ。個々の事情を慮れば、やむを得ぬところもあるじゃろうがの」
 そう言う獅子のイクサビト―――グレンという名だったか―――だが既に横に寝そべり、寛いだ様子だ。鬣の上に乗ったニーナが、寝ながら彼の三つ編みを口に入れているのを見つけ、何とも言えない気持ちでそれを引き剥がす。
「……リップルは?」
「個室のひとつに休ませておる。容態は……『煌天破ノ都』にいた者たちと、そう変わりはないな」
 そっか、とドミニクは息を吐いた。この人たちはリップルを投げ出さず、ここまで連れてきてくれたのだ。
「……あんなの倒せると思う?」
 リップルを助けるにはシウアンの力が必要だ。
 だからではないが、『楽園への導き手』に挑み、あれのどこかにいるであろうシウアンを引き剥がす必要がある。今まで幾度となく、己より大きな魔物と戦ってきたとはいえ、あれの大きさは規格外だ。
 ふむ、とグレンは寝ながら髭を扱くと、こんなことを言ってきた。
「貴殿は相手の大きさで、戦いを選ぶのかの」
「そういうつもりはないけど。……あれはちょっと引くでしょ、普通」
「だそうだが、同胞よ」
 話を振られたウロビト―――シュメイは、瞑想を解いたように片目を開けた。
「倒せない魔物は存在しない。竜でさえも。それは、力不足の言い訳だね」
「手厳しいなあー」
「『楽園への導き手』の核は巫女だ。……彼女の姿勢を見たまえ。両手を挙げて、顔の前を守っているようにも見えるだろう? 恐らくあの不気味な顔面の内側に、巫女がいるのさ」
 窓の外―――さすがに相当離れたためもう視界に巨人はいない―――を指差すシュメイに、うんうんとグレンは頷く。
「さすがは魔物学者であるな」
「見れば想像つくんじゃない? 個人的には、油を撒いて点火してみたいけど、さすがに巫女が危ないかなあ」
 発想が常軌を逸しているような気もするが、とりあえず、前向きに対策を検討していることは伝わってきた。
 今頃アレを見ながら、同じように慌てふためき、あるいは冷静に、頭を捻っている人たちは大勢いるだろう。
―――きっと何とかなる。
 ドミニクは思う。アティではないが、結局そう信じること以外に、立ち向かう心を強く保つすべはないのだ。


 しばらく、宛がわれた個室から外に出ることを許されなかったアティは、筆談でマオから情報を引き出していた。
 巨人が『煌天破ノ都』の側に立っているために、バルドゥールの捜索はまだ行われていないらしい。
 セレンディピティは無事に回収された。無傷とはいかなかったが、港長が『絶界雲上域』まで来てくれたらしく、短時間で修理が終わった。
 これでいつでも、決戦に向かうことができる。
 一方で、もう大丈夫だとアティが何度主張しても、マオは中々首を縦に振らなかった。
「マオの心配性は治りません」
 そんな彼の目を盗んで、度々アティの部屋に来てくれたのがルカだった。
『あの人だね。アティの好きな人』
 紙の上で紡がれる丸い文字に、アティは渋面を作った。
「またそういう……」
『誰かを想うことは悪いことじゃないよ。隠さないで』
 ルカは、床に降ろしていた大きな包みを開く。
―――真新しい砲剣が、無骨な刀身を露わにした。
『プレゼントだよ』
「まあ」
 マオの気配がないことを、廊下を覗いてまで確認し、アティは砲剣を構えた。以前のものよりしっくりと腕に馴染む。
「これは?」
『紫電。僕が持っているのと同じ砲剣だ。試作器だけど、使い勝手は悪くない。僕が教えた戦い方をしているのなら、点火装置の発動後の反動も幾分今よりはマシになるはずだ』
 アティはそっと、砲剣の剣背を撫でる。
「ありがとうございます。……最高の贈り物です」
『マオだっけ? 君の好きな人に怒られちゃった。君が話しているよりずっと、彼は君のことが大事なんだね』
 アティはきょとんとしたが、ふと口角が上がるのを感じる。
「それは、彼にとって私が妹のようなものだからです」
 心に浮かんだ問いを、投げるように口にする。
「―――もし……マオが貴方のお兄さんだったとしたら、いかがですか?」
 ルカは面食らったような顔をした。難しい表情のまま、紙に向かう。
『あんな、こっちの事情も聞かずに事を押し並べてくるお兄さんは嫌だな。なんて言うか、反論を聞いてくれない感じがする』
 人好きのする印象がある彼だが、珍しく辛辣な評価が並ぶ。
 文字を追ううちに、不意に声が聞こえた。
「変わらないよな」
 アティは思わず紙から顔を上げそうになって―――堪えた。
 読み終えたタイミングまで待って、ゆっくりと顔を上げ、彼の目を見て笑顔で言った。
「そうですよね」


 タルシスの気球艇は、帝国のそれを元にされただけあって、動かすための機構は同じだ。結局、セレンディピティにはユングヴィが乗り込み、操船を担当し、巨人に肉薄させる。一方で、ピルグリムは巨人を討伐する。そういった役割分担となった。
 念のため、カナンたちを載せた帝国の気球艇が、巨人の注意を逸らせる役回りを担う。丸二日経ってもあまり動きのない巨人だったが、それは巫女が内側で彼女を留めてくれているからなのだろう。戦いになれば、どうなるかは分からない。
 今までにない緊迫感をもって、船は進んでいく。
「では、私たちは甲板に上がります」
 操舵室のユングヴィに、アティは声をかける。もう窓いっぱいに巨人の顔があって、側に掲げられた巨人の手は、ゆらゆらと揺れていた。セレンディピティに反応しているのだ。
「ご武運を」
 堅い表情でアティを振り返った彼に、微笑んで返す。
「貴方も無事で。きっと、戻ります」
―――『絶界雲上域』は今日も風が強い。
 広がる荒野と青空を背景に、『楽園への導き手』はそこに立っていた。足下は既に影響を得ているのか、何の植物か分からない緑が、『煌天破ノ都』の一部や遺跡、地面を飲み込んでしまっている。
―――アティたちが、この病にいつ倒れるとも分からない。
 これが最初で最後の戦いだ。
 仲間を見渡し、アティは言った。
「行きましょう」

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第22話

 ついに始まった。
 セレンディピティよりも遙かに下方を飛ぶ戦艦から、あらん限りの砲弾が発射される。それは『楽園の導き手』の脚を狙っていたが、撃ち込んでも撃ち込んでも、すぐに蔦が張って再生を始めるのできりがない。
「揺れるのう」
 砲弾の再装填を手伝いながら、グレンが呟く。
 予想の通り、動き出した巨人の足止めで手一杯だ。もっとも、巫女がいる可能性の高い顔面になど砲弾を撃ち込めば、巫女がただでは済むまい。
 一際大きい揺れが戦艦を襲う。『木偶ノ文庫』で何度も聞いた、警告音が船の中で響いた。
「今度はなんじゃ」
『あー、あー、こちらルカ。乗組員の皆さんにお知らせ。どうやら機関部の近くに、巨人の指が突き刺さりました』
「なんと」
 呟く間に、廊下がどんどん傾いていく。船ごと持ち上げられているのだ―――それに気付いたのは、窓越しにセレンディピティが、そして『楽園への導き手』の顔が映ったからで。
『ごめん、墜落する』
 持ち上げた戦艦の重さに耐えかね、へし折れる巨人の手。
 それを巻き添えに、グレンたちの乗った戦艦は地面に投げ出された。


「っ、ルカ、皆さん!」
 砲剣を『楽園への導き手』の右目に突き刺し、アティは背後を振り返る。
 黒煙を噴き上げ、戦艦が『木偶ノ文庫』を取り囲む遺跡へと突っ込んでいく。
―――作戦に入る前、全員に変位磁石が配られた。
 きっと脱出できているはずだ、と信じ、アティは眼前にある顔面に向き直る。
 突き刺さったまま、より深く突き刺すように、ドライブを発動させた。
―――激しい揺れがアティを襲う。振りほどかれないように必死に耐えれば、顔面が上を向いた。
「くっ」
 砲剣を引き抜き、バランスを取りながら立つ。よく見れば、顔面は上を向いた訳ではなく、『開いた』ようだった。
 顔面によって蓋をされていた空間が、表に出たのだ。
 アティは崖から飛び降りるように、その空間に身体を投げ入れる。まるで口の中のようなそこには、シウアンがぐったりと貼りつけにされていた。
「シウアン!」
 名を呼んでも、青白い顔の瞼は閉じられたまだ。
 アティは砲剣を構える。既に、点火装置の効果時間は終わってしまった。オーバーヒートしている砲剣で、どこまで戦えるだろう。
―――弱気になってはだめだ。
「はあ!」
 シウアンが繋がれた植物の蔓を叩き切る。
「アティちゃーん!」
 セレンディピティが近づいた。甲板から身を乗り出したドミニクが、追撃のように矢を放ってくれる。
「気をつけて、腕が再生します!」
 腕で行く手を阻まれれば、セレンディピティは近づくことができない。腕に乗り移り、少しずつ顔に近づいていたアティだったが、仲間たちはまだ船の上だ。
「何とか、攻撃が届く範囲に……」
 ところが。
 ゆっくりと顔面が動いた。口が閉じようとしているのだ、と気付いたときには遅い。
―――アティを飲み込んだまま、口は閉じられてしまった。暗闇に取り残され、アティは戸惑う。内側から攻撃をするしかない。
 蔓は、巨人の喉に向かって伸びており、舌の上に乗った赤い眼球のような球体を経由して、シウアンの身体を下から支えている。
 球体は触れると温かい。
 アティは唐突に察した。
 これは、巨人の『心臓』だ。
―――もしかすればこれが、弱点なのだろうか。
 『楽園への導き手』の内側にいて、シウアンを見つけて、想う。世界樹もまた苦しんでいるのだと。人間の都合で生み出され、封印され、そしてまた人間の都合で復活する。
「ごめんなさい。でも、貴女には眠っていてもらわなければ」
 剣を構えたアティは、真っ直ぐ、砲剣を球体に突き刺した。
―――喉の奥から迸るような、悲鳴。
 ともすればまた、聴覚を失いそうだ―――アティは気付く。足下が不安定に揺れている。これは、巨人の舌が動いているのだ。
 巨人の口が再び開く。
「あっ」
―――まるで吐き出されるように。
 口の外へ。空中へ、アティは放り出される。


「っ……」
 身を起こしたカナンは、周囲の風景に眉をひそめる。
 リップルを確保した上で、変位磁石は何とか、起動したはずだ。リップルは確かに、己の腕に抱き込まれるように横たわっている。今いる場所はどこからどう見ても『煌天破ノ都』だ。てっきり、大地の磁軸に飛ばされるものと思っていたが。
「巨人は……」
 巨人は攻撃に押されるかのように、やや北に移動していた。
 ルカやグレン、シュメイの姿はない。もしかすると、別の場所に飛ばされた可能性がある。確実に脱出できていると、今は信じるしかない。
 こうしていても、らちがあかない。リップルを背負い、カナンは『煌天破ノ都』の入り口へ向かおうかと顔を向けた。
「カナン、ちゃん」
 そのとき、背中で弱々しい声がした。
「リップル?」
「あっ、ち」
 草葉に覆われた指先が、『煌天破ノ都』の奥を示す。
「出口とは真逆だぞ」
「いいの、おねがい……」
 カナンは顔をしかめたが―――リップルの望み通り、入り組んだ通路を進む。
 道中魔物に出くわすことがあったが、それらは軒並み緑に覆われ、まるで長い年月の末に苔生したかのように力なく横たわっていた。緑色の煙のようなものが、天井を失い、差し込む陽光のうちで舞っている。
―――長居すればいずれは、カナンも彼らと同じ道を辿るだろう。
 それでもいいような気がしていた。
 背中の温かみが、重みが、カナンの足を迷宮の奥へと誘う。どこにも行けないのなら、もうここで全て、終わりにしてしまえばいい。
 そう思いながら歩を進め、辿り着いた場所は瓦礫の山だった。
 巨人が出てきた穴だろう。この一帯は深すぎて、光が届かないらしい。深淵を覗き込んで、気付いた。
 誰かが立っている。
「カナンちゃん……」
 絞り出すように、リップルが呼ばわる。
―――違う。
 お前はこれを止めようとしたのか。
 カナンはそっとリップルを、残った床の上に横たえた。
 愕然としながら、しかし、カナンは瓦礫の山を降りていく。
 その男が立つ場所まで。
 彼は最初から、カナンたちに気付いていたようだった。
「気持ちよさそうに気絶してたから、起こさなかったのに」
「そこで何をしている、ルカ」
「……ちょっと、散歩だよ」
 言葉こそいつもの調子だが、表情からは色が抜け落ちていた。
 彼の足下に転がる、誰かの身体を見つける。
「それは……皇子だな?」
「うん。意外とすぐに見つかったね」
 うつ伏せに倒れるバルドゥールはぴくりとも動かない。
「―――生きてるよ」
 心を読んだかのように、ルカは言った。
 そして、バルドゥールを見下ろす。
「今はね」
 彼は砲剣を携えていた。
 本能的に、カナンは剣を構える。
「皇子を見つけて、保護する……つもりではなさそうだな」
「やっぱりそう見える?」
「もういいだろう。他に聞く者もいない。……お前の目的とやらを、話したらどうだ」
「……確かに君なら、皆には秘密にしておいてくれそうだ」
 唇に人差し指を寄せ、ルカは続ける。
「―――僕の任務は、バルドゥール皇子殿下の暗殺だ。帝国議会から、そのように仰せつかっている」
「……暗殺者が、標的を前に依頼内容をべらべら喋るなど、三下もいいところだな」
「話せって言ったの君だよ? ……でも、そう思う? 僕も正直、向いてないと思うんだよ。君ならその辺、すげなくやれそうだな」
 言いつつ、無造作に砲剣を持ち上げた彼に、カナンは短剣を投擲した。
―――奇をてらうことのない直線的な軌道は、砲剣の刀身だけで振るい落とされる。だがその分、凶器がバルドゥールに振り下ろされる時間は稼げた。
「この瞬間のために、お前は私たちを利用していたのか」
「利用とは人聞きが悪いな。色々とお膳立てしてあげたのは僕なのに」
「目的の明かせぬ善意は、ただの裏切りだ」
 間合いに近づくが、ルカは己の優位を把握していて、一向にその場から動く気配がない。
「君はそんなに、バルドゥール殿下にご執心だったかな?」
「私なら見逃すと思って、ここに転移させたのか?」
「この一連の茶番には、目撃者が必要不可欠だからね」
 ウインク一つ、ルカは砲剣を肩に担ぐ。
「―――皇子直属の部下が、皇帝の意を汲めぬほど乱心の皇子を嘆き、後の帝国を悲観して殺害する……いかにも、偉い人が書きそうなシナリオだろ」
「三文役者も真っ青の芝居だな」
「そう言うなって。……僕が単独で動いていることには、ローゲル卿も勘づいている。冒険者と協力することで隠れ蓑にしてきたが、それも限界だ。間もなく、巨人との決着もつくだろう。ここで終わらせるべきなんだよ」
 再び砲剣の切っ先がバルドゥールを向く。
 カナンは投擲した短剣を追って、地を蹴った。
 投剣が振り払われるより早く、長剣でそれの柄を押し込む。砲剣を破壊されることを警戒したルカは、上滑りに回避行動を取った。
 カナンはもう一本の長剣を抜いていた。脇の下から、掬い上げるように一閃。バランスを崩していたはずのルカは、驚異的な反応速度でそれを回避する。
 だが、バルドゥールから引き剥がす事には成功した。
 足下の彼を庇うように立つカナンに、ルカは目を細める。
「君を選んだ理由はもう一つある」
 言って、砲剣の切っ先を斜め上―――リップルがいるはずの、崖の上に向ける。
「―――この距離でも、ドライブを使えば木っ端微塵だ」
「私を脅しているつもりか?」
 カナンは肩を竦めた。
「―――やればいい。元々この身には、何も守る者はない」
「こんなところまで連れてきておいて、守る者はないって言い切っちゃうの?」
「構わない。何故なら、私もここで死ぬつもりだったからな」
 ルカの眉が寄る。
 それは意外さにか、それとも驚愕にか―――地を蹴ったカナンは、短剣を投げながら、長剣を振りかざす。
「くっ!」
 顔面を狙う投擲は防がざるを得まい。だが、ルカは砲剣を起動させるとそのまま、カナンに斬りかかってきた。目を細める。機動性では、歴然とした差がある。
 そして生憎、手心を加えてやれるほど、カナンは器用ではない。
 左腕を打ち上げる。その甲冑の隙間、左の腕の肘を、カナンの刃が貫いた。
「―――」
 しかしルカの表情は、苦痛にはゆがまない。
 振り払うように左腕で殴りつけられ、カナンは飛びずさる。
 口の中に滲んだ血痰を吐き出す。ルカは左腕を右腕で操作する―――左肘から先がぼとりと、突き刺さるカナンの剣を巻き添えに落ちた。
「特に珍しくも何ともないだろ……義手だよ」
 ルカは肩で息をしながら、カナンを見た。


 変位磁石を使う間もなかった。
 落下したアティは、しかし、柔らかい感触に受け止められて目を瞬く。
「あら?」
 水色の毛皮のような絨毯の上にいる。
 気付けば、視線の先にセレンディピティがいた。ほぼ並列に甲板に立つ仲間たちが、皆一様に唖然とした顔でこちらを見ている。
―――否。一人足りない。
「ニーナ?」
 むー、とも、うー、ともつかぬ鈴のような鳴き声が響いた。
 それは、アティが乗っている―――セレンディピティほどの大きさの、水色の竜から聞こえている。
「え、ええええ!?」
 ぐんと飛ぶ速度が上がり、竜は旋回する。
 気球艇では到達不可能な高度。振り払われないよう必死だったアティは、遠く延びる川と山脈の向こうに、タルシスを見つけた。
「わあ……」
 そんな場合ではないのに、夕暮れに沈む美しい景色に目を奪われる。
「アティちゃーん!」
 ドミニクの呼ぶ声。
 はっと自分を取り戻したアティは、竜の背中をぽんぽんと叩いた。
「ええと。助けてくれてありがとうございます……でなくて。あの、その―――わっ!」
 竜が急降下する。
 それが通過した後に、アティは気付いた。目の前を飛ぶ、新たに沸いた小蠅を打ち下ろそうとした、巨人の手が空を切ったのだ。
 竜が雄叫びを上げ、炎を吐き出した。顔面を焼かれた巨人はもがき苦しみ、大きく口を開ける。
「今です!」
 竜の背から飛び降りたアティは、砲剣を振り掲げた。
 仰け反るようにして晒された『心臓』に向かって、全身全霊をかけて、ドライブを叩き込んだ。


―――大地全体に轟くような悲鳴。
 同時に襲ってくる、揺れ。
 足下が崩れている。
「殿下!」
 再び崩落に巻き込まれていくバルドゥールを見て、ルカが叫ぶ。
―――だがもう間に合わない。
 カナンもまた膝をつく。ルカは、残った右腕でカナンを立ち上がらせると、崖に向かった。こちらは幸い腕を使わなくても登れる程度の崩落で済んでおり、なんとかリップルに辿り着いたところで、次第に揺れが収まってくる。
「……終わったか」
 その場に座り込んだカナンは、深呼吸した。息苦しかった緑の瘴気が消え、風に乗って空気が浄化されていくのを感じる。
―――傍らのリップルの髪に触れたとき、いつもの蔦が引っかかる感触が、するりと抜けていく。
 驚いて彼女を見れば、肌にまとわりついていた草木が全て、枯れ落ちるようにはがれ落ちていった。
「呪いは……解けたのだな」
 穏やかに眠るリップルに、カナンは溜息を吐いた。
 ルカを見れば、彼はバルドゥールが飲み込まれた瓦礫を見下ろしていた。その厳しい顔つきが、カナンの視線に気付いた途端、読めない笑みに変わる。
「失敗したね。もう一回探さなきゃ」
「諦めろ。時間切れだ」
「そうだね……」
 ルカは深く溜息を吐いた。
 踵を返そうとする彼の肩を、立ち上がったカナンは掴む。
「逃げるな」
「逃げるよ。失敗したとはいえ、まだチャンスはある」
「そうじゃない。……私は賭けをしていた」
「賭け?」
「そう。……彼らが負けるようなら、潔くここで死のうと。だが、ピルグリムは勝った。それだけが事実だ」
 そしていずれ、ここにやってくるだろう。
「―――私には贖罪が残っている。だから、私は生きなければならない」
「贖罪……」
「お前も私と同じだろう。どちらの道も己の絶望しかないのならせめて、誰かの希望となる道を選べ」
 カナンは続ける。
 己に言い聞かせるように。
「お前に死の運命を押しつけた者たちの希望か。それとも、お前を信じて戦った者たちの希望か。……選択肢があることから目を背けるな」
 ルカは目を見開くと―――不意に、幼い子供のような、戸惑いの表情を浮かべた。
 深い事情は分からない。だが、この男は多分、誰かをひどく傷つけることには慣れていないのだろうと、カナンは思う。
―――きっと彼は、誰かを守って生きてきた側の人間だ。
「カナン、ルカ、リップル!」
「おお、みな無事か!」
 シュメイとグレンの呼ばわる声が聞こえる。
―――カナンの長い旅もようやく、ここで終わりを告げる。


「シウアン!」
 巨人―――いや、世界樹が差し出した腕に着地し、アティはシウアンを抱きしめる。
 十分な広さがあるためか、セレンディピティもまた、そこに降り立った。仲間たちが降りてくる。
「アティ!」
「怪我はないか?」
「はい。皆さんも……」
 そこで、アティは世界樹の指先を旋回する、水色の竜に向き直る。
「ニーナ?」
 彼女はそれに答えるように、高くひと鳴きした。
「……この大地には、邪悪な竜が封印されているんだって」
 シウアンは「世界樹が教えてくれたの」と言い置いて続ける。
「その子は多分、竜の封印を見守るために来た子なのね」
 『楽園への導き手』が大地を冒せば、邪竜の封印が揺らぐかもしれない。そんな危惧があったのだろうか。
「そうなんですか? ニーナ……」
 ニーナは再び高く鳴くと、くるりと空中で身を捻った。
「待って!」
 彼女がどこかに行こうとしていることを察して、アティは世界樹の手のひらから身を乗り出す。シウアンが慌てた。
「落ちちゃうよ、気をつけて!」
「待って下さい、ニーナ。行かないで!」
 悲しそうに鳴く竜は、その場でくるくると回る。
 アティは必死に訴えた。
「貴女が竜でも何でも構いません。貴女のことを、もっと教えて下さい。どうしてここに来たのか。貴女の使命は何なのか。私たちにも、貴女のお手伝いをさせて欲しいんです」
 こんな形でお別れを言うのは、寂しすぎる。
「―――お願いです、ニーナ……貴女が私たちを助けてくれたように。一緒に……考えましょう?」
 ニーナは一際高く鳴くと、強く翼を打った。
 強風がアティたちを煽る。
 それに目を覆った途端―――影が少女の形を取って、天から降ってきた。
「ニーナ!」
 落ちてきた小さな身体を、アティは力一杯、抱き留める。

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終章

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終章・前

 『煌天破ノ都』でバルドゥールが発見された知らせは、すぐにタルシスじゅうを駆け巡った。
 世界樹による危機が去ったものの、帝国を覆う暗雲は晴れない。だが旗印を失わなかったことで、タルシスに捕縛された帝国兵は落ち着きを取り戻しつつあった。いずれ再びバルドゥールと辺境伯の会合が開かれることだろう―――今度こそ、お互いに手を取り合う未来が待っている。
 エリザベスは、帝国から流入する移民の対処に大わらわのタルシスのため、城塞騎士の職に復帰していた。
 というか元々籍は置いたままだったので、緊急招集されたようなものだ。忙しさのあまり、一つ屋根の下に住んでいるアティたちともあまり顔を合わせていない。
 そんな中で面談希望者がいたのだから、驚いた。
 何かあったのかと仕事を抜け出して、向かった冒険者ギルドに待っていた顔を見て、二重に驚く。
―――その銀髪の夜賊は、エリザベスを見て小さく会釈した。


「君に話があると言っただろう。……てっきりアティたちといるものと思っていたから、探すのに手間取った」
 人気のないギルド裏に連れ出されたエリザベスは、苛々とした様子で答える。
「それはこっちの台詞よ。今までどこにいたの」
「リップルを撒いていた」
「撒いて……」
 絶句するエリザベスをよそに、カナンは懐から小さな冊子を取り出す。
「これを」
 黄ばんで薄汚れた紙束だ。濡れた跡があり、バリバリになっている。
 怪訝にそれを透かしたりしていたエリザベスに、カナンは続ける。
「きみの父君の形見だ」
 その一言に、エリザベスは凍りつく。
「……何を言っても言い訳に聞こえるだろう。だが、私の独り言だと思って聞き流してくれ」
 そうして、カナンは語る。
―――数年前。気球艇の未公開の技術について記された書物を持つ兵士がいるとの情報を受け、カナンはタルシスを訪れた。
 その兵士は己の持つ情報の、重要性についてよく知っていた。当時、発見された気球艇に興奮し、欲望のままに書き残したノートのことも、悔いるように話してくれた。これは懺悔だと。己の欲のせいで殺されるとしても、自業自得だと。
 だが、周辺諸国にノートにある情報がばらまかれるのはまずい。タルシスに迷惑がかかる。だからノートは燃やしてくれ。彼はそう言った。実のところ彼のいのちに興味はなく、ノートだけに関心があったカナンは、彼を騙すつもりで了承した。ノートだけを、奪うつもりで。
―――その情報を聞きつけた別の悪漢が、兵士を襲うまでは。
「そうしてきみの父君はいのちを落とした」
 既にノートを受け取っていたカナンは、血だまりに沈む兵士を見つけて愕然とした。さらには、追ってきた兵士の仲間たちに姿を見られてしまい、行方をくらませるしかなくなる。
「あとは君の知っている通りだ」
 エリザベスの父を殺した悪漢がノートの存在を知ったのは、もしかしたらカナンのせいなのかもしれない。
 誰のせいだと問われれば、カナンの責ではない、とは言い切ることはできない。
―――仮にエリザベスの父がノートを受け渡すことを拒めば、カナンは彼を殺して奪い取っていただろう。
 カナンは所詮そういう人間だ。人を傷つけ、殺すことに躊躇いはない。
―――リップルを守り、助けたいと思ったのは事実だ。
 アティの信用―――いや、信頼に報いたいと思ったのも事実だ。
 だが、今までにしてきたことを、なかったことにはできない。
 今まで殺害した全ての人の報いを受けるつもりで、カナンはここに来た。
―――だが。
 カナンに、冊子が投げつけられる。
「要らない」
 立ち上がったエリザベスは、無機質に言った。
「―――つまらないわよね。それ、帝国が出てきた今となっては、無意味なわけでしょう。そんなもののために、父さんは死んだの」
 だが、声は震えている。
 カナンが何も言えないでいると、エリザベスは続けた。
「あんただって、今更何。それならなんでもっと早く言わないの。結局ずっとそれを持ってたって、何にもならないじゃない」
 ノートを手に入れられなかった―――と。
 カナンは暗殺者ギルドの上役にそう報告した。それからだ。人を殺す仕事に、嫌気が差したと感じるようになったのは。
「―――今出てきて、本当のことを話して、それで贖罪のつもり?」
「いや。然るべきところで罰は受けるつもりだ」
 だから、タルシスの兵士にエリザベスが戻ったタイミングが最適だったとも言える。どのみち、ここに来てからも一人、カナンは殺めている。
 エリザベスは大きく息を吐いた。
「何それ。結局、自分が楽になるためじゃない」
 エリザベスの言葉が胸に突き刺さる。
―――だが、カナンが他にどうすることができるというのだろうか。
 エリザベスは射殺すような目で―――真っ赤に腫らした目で、カナンを睨みつける。
「私は絶対にあんたを許さない。どうあっても。どうすれば許してもらえるかなんて、考えても無駄なくらいに。あんたが心から反省していたとしても、あんたはずっと、その罪を背負って生きて、そして死になさい」
 カナンは息を飲んだ。
―――どうあっても、赦されない。
 それは途方もない、暗闇に置き去りにされたような気分だった。
「じゃ、あたしは行くから」
 動けなくなったカナンを置き去りに、エリザベスは階段を上っていく。


「はー……」
 クリームソーダを混ぜて、リップルは先程から溜息をついてばかりだ。
「どうした。折角の甘味が溶けておるぞ」
 向かいで熱い茶を啜りながら、グレンが言う。
「だってさあ。カナンちゃん、またどっか行っちゃったもん」
「ふむ。あれは夜賊だからのう。本気を出せばいつでも、お主ごとき撒いてしまえるじゃろう」
「それ! ……もう、病気の時はつきっきりでいてくれたのにぃ」
「しかし、お主も今は落ち着くところを見つけたのであろう」
 リップルは今、タルシスの小さな診療所の手伝いをしている。快癒したときに訪問したのに立ち会ったが、眼鏡の少女が我がことのように涙を流して喜んでいたのが、印象的だった。
「ん~、でもやっぱり旦那さんはカナンちゃんがいい……」
「ま、彼女も結局最後は、君のところに帰ってくるよ」
 タルシスの図書館で借りた本をめくり、シュメイは呟く。
「……恋愛経験乏しそうな、シュメイさんに言われてもぉ~」
「失敬な。僕はもてにもてて仕方なかったから、女たちを刺激しないように里を出たんだ」
「ハッハッハ、同胞よ。以前聞いた話と全然違うぞ」
 乾いた笑い声を上げるグレン。リップルは、すっかりアイスと混ざってしまったソーダをまだ混ぜた。
「そういえば、二人はそれぞれの里に帰ったりしないの?」
 シュメイとグレンは顔を見合わせると、同時に唸る。
「僕はそもそも、魔物を研究するために里を出たわけだしね。いろんな冒険者の気球艇に乗り合わせてもらって、何故大地ごとにこうも特色の違う魔物がいるのかを研究しようと思っているよ」
「わしは……わしの失ったものは、病が消え去った今も、戻っては来ぬからの。わしの代わりに病を討ち果たしてくれた者たちがいる以上、残りの生はみなの供養に充てるつもりじゃ」
「あ、じゃあヒマな時は僕を手伝ってよ、同胞」
 片手を差し出すシュメイに、グレンは嬉しそうに笑む。
「勿論じゃ、同胞よ!」
「あーあ、男同士は単純で良いよね……」
 ずこーとストローを吸いながら、リップルは虚空を見上げた。
「カナンちゃんがボクを助けてくれたように、ボクもいつかちゃんと、カナンちゃんの助けになれたらいいのに」


「おーい、ドミニク! 今度はそっちだ!」
「へいへいへーい」
 軽い口調で返事をしつつ、ドミニクは西から東へ、だだっ広い交易場を走り抜ける。
 帝国の移民をタルシスが受け入れることになって、カーゴ交易場も兵士たちに負けず劣らず大忙しだった。空前絶後の冒険者ブームで、彼らの気球艇の発着だけでも大変なのに。
「悪いな、ドミニク。今日も手伝ってもらって」
 荷物置き場の陰で休んでいたドミニクを、交易場の職員が覗き込んでくる。
「いいよ、おいらも今はヒマだし。こっちを弾んでもらえればいいんで」
 そう言って親指と人差し指で輪っかを作ると、「馬鹿言うな」と頭を殴られる。
「いてっ」
 バウンドして、ぽてんと膝の上に落ちたバスケットに、ドミニクは目をしばたかせた。
「何コレ」
「ま、それがボーナスってやつだ」
―――たまには俺たちとも一緒にメシを食えよ。
 そう言い置いて、職員は去って行く。
 後ろ姿を見送って、ドミニクは「へへ」と鼻の下を擦った。
「おっ……旨そうじゃん」
 開けたバスケットにはサンドウィッチが入っていた。
 大口を開けて、それを迎え入れようとしたところで―――視線を感じて目だけを動かす。
 木箱の山に隠れるように、ぽつんと座っていたのはニーナだ。
「何だ、ニーナか。……どうした? アティちゃんから伝言でもあんの?」
 アティはアティでやることがあるようで、なかなか五人揃っての探索はできない。ニーナはヒマを持て余しているのだろうか。その頭を撫でてやりながら、ドミニクは言う。
「アティちゃんが言ってたろ。おいらたちもお前の力になってやりたいって。アティちゃんだけじゃなくて、エリザベスちゃんや先生や、おいらだって勿論そうだ。困ったことがあったら、どうにかして伝えてくれ」
 澄んだ丸い目にじっと見つめられ、ドミニクは明後日の方向を向く。
「ま、おいらも……真実の愛、っつうの? 一世一代の恋をしようってやる気が出たわけだし。どんと来い―――って、あれ?」
 いつの間にか、ニーナがいない。
 それどころか、サンドウィッチと、それが入っているバスケットもない。
「ハッ……」
 腹の鳴る音に、振り返れば。
 木箱の山の向こうで―――むしゃむしゃと、バスケットごと中身を食い散らかすニーナがいた。
「そ、そういうお願いじゃないやつで頼むよ! おいらの昼飯が~!」
 カッコ良く言ってしまった手前、ドミニクは頭を抱えて叫ぶことしかできなかった。


 タルシスの街は、小高い丘になっている。
―――とはいえその上から望めるのは北の山脈と、世界樹くらいなものだ。
「帝国に戻らなくて良いのか」
 マルク統治院を背にしていたルカに、聞き覚えのある声が呼びかけてくる。
「えーっと……何だっけ?」
「マオだ。是非覚えてくれ」
 ルカが振り返るのを待たず、マオは彼の隣に並ぶ。
―――生ぬるい風が、丘の下方の風見鶏をくるくると回している。
「……帝国の騎士たちが、きみを探していたぞ」
「そりゃ、命令違反に規律違反、そのほか諸々ひどいことをしでかしたからねえ」
「そうじゃない。『圧倒的に人手が足りないから、とっとと戻ってきて手伝え』だそうだ」
 ルカは思わず、鼻で笑う。
「……時々、帝国の斜陽は土地の疲労がなくても起こったんじゃあないかって思うよ」
「俺もそう思う。このしばらくで、彼らから話を色々と聞いていてな」
 マオが煙草を取り出したので、ルカは眉をひそめた。それに気付いて、マオは訝しんでくる。
「何だ、嫌煙家か?」
「そんなもの吸う奴に、ロクな人間がいなかったもんで」
「らしいな。帝国の偉い連中も吸っていたのか」
 だがルカの言葉は無視して、マオは煙草に火をつけると、紫煙をくゆらせる。
「……おい」
「ホルンさんから、きみを拾ったときの状況も色々と聞いた」
 マオは前を向いたまま、淡々と続ける。
「―――淡く、薄い青に光る竜が側にいたそうだ。心当たりは?」
「覚えているわけがないだろ。僕はそのとき、混乱の極みにいたんだぞ」
「そりゃそうだろう。にしても、帝国の技術者は腕がいい」
 ひらひらと左腕を振るマオに、いらだちが募る。
「で、結局何をしに来たんだ、あんたは」
「帝国も少しずつ変わっていくだろう。それを見守るのも悪くないと思うぞ」
 きょとんとしたルカは―――首を捻る。
「はあ?」
「お前、それなりに出世してるんだろ」
「何言って……」
 ルカは気付いた。
―――明るく響く声が、わずかに震えている。
「別にいいじゃないか。理想と違っても。そこもそれなりに、人々を守るための剣が振るえる場所だ」
 煙草を吸い込んで、マオは煙を吐き出す。
 その表情は、髪に隠れて読めない。
「そうして……帝国がもう少しマシになったら。休みでも取って……ここからずっと東にある、エトリアという街に、行ってみてくれ」
―――そこにも世界樹の迷宮があるんだ。
 ルカは目を細める。
 煙草を一本吸い終わったマオは、現れたときと同じ唐突さで、踵を返した。
 気配が一歩一歩、遠ざかっていく。
「……覚えておくよ」
 ぽつりと。
 聞こえるほどの大きさの声で、ルカは応じる。
「……ああ」
 そしてそれきり、気配は振り返らなかった。

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終章・後

『―――お父様へ』
 そんな書き出しで始まる手紙を、書いては丸めて投げ、書いては丸めて投げる。
 いつの間に部屋に入ってきたのか、呆れた顔のマオが入り口に立っていた。
「紙が勿体ないですよ」
「ひゃ、ま、マオ!」
 帰ってきたなら言って下さい、とアティは飛び上がる。
 アティはマオの下宿を借りて、書き物をしている最中だった。エリザベスの家に籠もるのは気が引けるからと言って、しばらく図書館に通っていたのだが、残っていることに気付かれずに鍵をかけられ、行方不明扱いになって以来、マオの監視が続いている。
「そんなに俺に見られたくないんなら、さっさと書けばいいでしょうに」
「だって……なかなか、言葉が見つからないんですもの」
 話したいことが沢山あるのだ。
 タルシスで出会った人々と出来事を、アティは全て、文字にして書き起こしている最中だ。これを読んだのちの人々が、同じような困難に立ち向かうとき、しるべとなるような本がいい。そう願いを込めて。
「マオ。私ね、まだタルシスでやりたいことがあるんですけど……」
 マオは深々と、これ見よがしの溜息を吐く。
「どうせ俺が止めても、聞かないんでしょう」
「私が無茶をできるのは、マオのおかげですから!」
「はいはい」
 疲れた様子でベッドにダイビングしてしまったマオに、アティは頬を膨らませる。
「だって、お父様から来た手紙にも書いてあったんですからね。『タルシスの世界樹の迷宮を攻略した功績があれば、彼を貴族位に推薦できる』って。これって、マオのことですよ」
「何だって?」
 アティがひらひらと振った手紙を、マオが乱暴にひったくる。
「『―――なお、きみが怪我をしたり病気をしたり、ないとは思うが万が一、いや億が一にもそういうことがあったときは速やかに報告すること。場合によっては即関係各位に通達し、必要な手続きを取るから心配は』、『無用だ』……」
「マオのおかげで上手くやってるって、ちゃんと評価してもらえているんですよ。ね?」
「いやこれは、外堀を埋められてきている……」
「マオ?」
「まさかあの人、最初からこのつもりで……」
 ぼすんと後ろ向きにベッドへ倒れていったマオを訝しみながらも、アティは大きく伸びをした。
「でも。冒険者をやってみて、私が冒険者に向いていないということがよく分かりました」
 自由気ままに振る舞うにも、勇気と覚悟が必要だ。
 アティはずっと、タルシスの人々のためという免罪符を背負って立っていた。こんな重責を誰かに押しつけず、自分のためだけに戦うことなんて、アティには無理だ。
 己の人生の逃避ではなく、戦いの時期なのだと、何故今分かるのだろう。
 それは過ぎ去ってから、振り返って述懐するものなのだ。
「でも、新しい野望は生まれましたよ」
「野望、ですか」
 のっそりと身を起こしたマオに、アティは力強く頷く。
「帝国にも、私の故郷と同じように、失われた遺産があります。機械人形も、世界樹もその技術の一端です。それらが誤って使われたとき、今回のような大災害に繋がりかねない事件が起こります」
 『楽園への導き手』を再び停止させてしまったせいで、タルシスや帝国の土地の問題は再び棚上げになってしまった。
 これから人々が解決していくべき問題もまた、大きい。
「―――世界に散らばる謎や古代の知識、遺産を蒐集し、管理する組織を作ります。誰もが幸せになるように。誤った力の使い方をせぬように」
 それは途方もない夢だが、今のアティなら何だか、できるような気がしていた。
 書き物机に手をついて、マオがふっと笑う。
「コーヒーを入れてきましょうか」
「マオ、敬語はだめですよ」
「分かった分かった」
 そのまま宿部屋を出て行くマオを見送って、アティは窓辺に近づく。
 青空に、うっすらと緑に輝く世界樹が、美しく映えていた。
―――あの麓に広がる大地に、無数の知識が眠っている。
 アティはふと天啓を得て、再び書き物机に舞い戻る。休憩をしようと思っていたが、それはマオがコーヒーを持ってきてくれてからにしよう。
「名前は、そう。木偶ノ文庫、風止まぬ書庫、でなくて、そう、金鹿図書館から貰って―――」
 青い葉が一つ、窓の外の風に乗って飛んでいく。
 その風はやがて、世界へと繋がり―――また、どこまでも遠くへ。まるで巡礼するように、別の世界で吹く風となっていくことだろう。
 そんなこともつゆ知らず。ちっぽけな宿屋の一角で、アティはまず筆を取ったのだった。





【タルシス編・終わり】