全力で投げ捨てる

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キャラクター紹介
クッククロー ミドガルズ ニヴルヘイム その他の人々
序章
序章・前 序章・後
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終章
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世界樹の迷宮II 諸王の聖杯

キャラクター紹介

クッククロー

エトリアから人探しに来たギルド。エトリアの世界樹を踏破しているためある程度有名。若いメンバーが多い。

レオン
男、年齢不詳。クッククローのリーダー(戦闘指揮)で、変わり者。 
アリル
女、17くらい。施薬院で働く孤児だったが、ノアを追ってきた。一応サブリーダー。優柔不断。 
クルス
男、20歳。いいとこの坊ちゃんだが、坊ちゃん扱いが嫌で家出し、エトリアに来た。敬語使い。真面目。 
アイオーン
男、25歳。触媒を集めるためにエトリアに来た温和な学者。体力がなく若干気が弱い。
ライ
男、16歳。所属していた小悪党ギルドが壊滅し、クッククローに転がり込んだ勢いでついてきた。単純バカで一本気。
カリンナ
女、16歳。ライとの出会いが縁でクッククローに参入、彼に誘拐されてハイラガまで来た。内向的で感情が薄い。
ファルク
男、15歳。ノアの弟。自由に動けない彼女の人質としてギルドに参加。ライとは犬猿の仲。気質はノアに似て淡白だがまだ子供。
ルミネ
女、年齢不詳。レオンの旧知で、彼の過去を知る人物。発言は下品だが食えない性格。
ヒューイ
オス、1歳未満。カリンナの飼い犬。ひと月程度で巨大に成長したため、採集要員で探索に参加する。無邪気。
イーシュ
24歳。エトリアでの禍根を失い、気晴らしという名目でついてきた。脳天気で女たらし。現在別行動中。

ミドガルズ

ハイ・ラガードで実力派と名高いギルド。非常に戦闘的で、魔物討伐の依頼を中心に活動する。

ユーア
女、二十代。ミドガルズ・ギルドのリーダー。物理術式を駆使して前衛で戦う。言葉は男言葉。
エリオッド
男、二十代。心優しい青年。ユーアの幼馴染。
シグー
男、二十代。軽い性格。斧チェイス型。ユーアの自称恋人。
ジュエル
女、年齢不詳。ユーアを崇拝している。

ニヴルヘイム

貴族をパトロンにして探索を行うギルド。実力は平均的だが、探索頻度は高い。予算も潤ってる。

ディー
男、二十代。飄々。ガーネットの保護者。ニヴルヘイム・ギルドのリーダー。
アルマ
女、15歳。お嬢様。ニヴルヘイムのパトロン。
レッカ
男、年齢不詳。アルマの家に昔から仕える武士。何かと豪快。
ペグ
男、三十代。巫剣特化。無口。アルマになつかれている。
ガーネット
女、15歳。ディーの被保護者の野生児。
ティゲル
♀、4歳。アルマの飼い猫(?)

その他の人々

クッククローに関連深い人々や、街の人たち。

コユキ
女、19歳。エトリアでクッククローと一悶着あった少女。頑固。
リュウ
男、24歳。収集専門のフリーランス冒険者。明るく前向きで嫌味のない性格。
マルシル
男?、15歳。利発な少年で、カリンナと同じ能力を持っている。
ケイナ
男、年齢不詳。マルシルの従者で物静かな男。
オープスト
男、年齢不詳。ペグの師匠。気苦労が耐えない様子。
フロリアン
女、21歳。自由騎士団の騎士。
カラシニコフ
♂、年齢不詳。フロリアンの同僚で、頼れる垂れパンダ。
コタロウ
男、年齢不詳。古風な喋り方をする。ハイ・ラガードの有力貴族に雇われている凄腕の傭兵。

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序章

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序章・前

<ある聖騎士の場合>

「だから、それは違うと言っているでしょう!」
 テーブルに掌を叩きつけ、彼は叫んだ。
 睨む先には厳しい顔をした父と、兄の姿がある。二人は同時に深々と嘆息した。
「何度言っても同じことだ。お前は、我が一族の誇りを忘れたのか」
 兄が、怒りに震えながら呟く。その隣の父が、心底呆れたように続けた。
「下賤の者に感化されおって。もういい」
 踵を返して、父は部屋を出て行ってしまう。
「父上……」
 その背を見送った兄が、きっと彼を睨みつけた。
「せっかく父上のお心添えで、騎士団に入れたというのに、お前は! 恩知らずめが。恥を知れ!」
「何と言われようと、僕は……僕の気持ちは変わりません。お二人が認めてくださらないのなら、僕にも考えがあります」
 彼は背を向けると、早足に扉へと向かった。
「何処に行く」
「決まっているでしょう」
 ぴたと立ち止まると、クルスは兄を見据えた。
「―――騎士団に辞表を出しに行くのです」


<ある医者の卵の場合>

 忘れ物はないか、もう何度も確認した。
「いいかい、手紙は一週間に一度必ず出すんだよ。こっちからもちゃんと送るからね」
 おばさんが両手を握りながら、昨日と同じ事を繰り返す。暖かい手の感触に、彼女は微笑んだ。
「うん。大丈夫だよ」
 初夏だというのに、少し肌寒い早朝。彼女は今まさに、旅立とうとしていた。
 道の繋がる丘の中腹から、よれよれの白衣を着た養父が降りてくる。彼は少女の正面で立ち止まると、小さく溜息を吐いた。
「先生、どうしたの?」
「ん……ああ、いや、何でもないよ」
 丘の向こうには、彼女の仲間がいたはずだ。あまり明るくない彼の表情に眉を顰めると、彼は少女の頭を撫でた。
「寂しくなると思ってね」
 その言葉に、少女の顔が僅かに曇った。
 対照的に、彼は明るく笑う。
「心配はしていないよ。何かあったら、いつでも帰ってきなさい。ここは、お前の家だからね」
 はっと頭を上げた少女は、満面の笑みを浮かべた。
「はいっ!」
 そして、見送りの面々の顔を見渡すと、大きく息を吸い込み、アリルは言った。
「いってきます!」


<ある錬金術師の場合>

「一年も潜って、残ったのはこれだけか」
 テーブルの上に並んだ石を眺めて、彼は大きく息を吐いた。
 大きいのが三個と、小さいのが数十個。これらは彼の研究に必要な触媒であるが、どれ考えてもこれだけの量では、もって数ヶ月といったところだ。
 もう一度嘆息すると、彼はそれを片付け始めた。
「仕方がない。あとしばらく、彼らに付き合うとするか」
 本当の目的はそれだけではないのだが、アイオーンはおくびにも出さなかった。


<ある吟遊詩人の場合>

 彼の存在を認めて、錬金術師は意外そうに眉を上げた。
「なんだ。君も行くのか」
「残ると思ってた?」
 にっこりと笑って、彼は馬車の荷台から飛び降りた。
 馬車は、必要最低限の荷物が積まれた状態で、夜明けの道に沿うようにひっそりと佇んでいる。街の有力者が好意で用意してくれたものだった。
 旅立つと告げた際の、街の人々の表情が忘れられない。今までどれだけ自分達がこの街に愛され、そして愛してきたのか、よく分かった瞬間だった。
「残んないよ」
 遥か草原を越えて続く道を望みながら、イーシュは告げた。
「僕はもう、この街を赦せたからね。もうちょっと先まで行ってみようと思って」


<ある剣士の場合>

 彼女の保護者が厳しい顔つきで丘を登ってくるのが見えたから、彼はこっそりと仲間から離れた。
 察しの良い方には気付かれたが、ウインク一つ見逃してくれる。
 苦笑を返しつつ、彼は元凄腕の冒険者に向かった。
「馬鹿者が」
 開口一番そう言われて、ただ笑うしかない。
「街を出るなら、何故もっと早く言わん。しかもこんな朝早くに……逃げるようじゃないか」
「そのとおり。借金で首が回らないから、逃げるんだよ」
 冗談で濁すと睨まれたので、肩をすくめてみせる。
「―――ま、大事にはしたくなかったしな」
「何が大事だ」
 珍しくぶっきらぼうに吐き捨てると、相手はこう続けた。
「あの子は、生まれ育った街に別れを告げる間もなかったんだぞ」
 丘の下で、唯一彼らの出立を知る施薬院の面々に囲まれている少女を見遣り、彼は唸った。
「あー……そりゃ、悪かったよ」
「謝るくらいなら最初からするんじゃない。大体……」
 小言を続けようとして開いた口が、閉じる。代わりに諦めたような嘆息が、唇から漏れた。
「いや、もういい……そんな気遣い、期待するだけ無駄だったな」
「ははは、ようやく気付いたか」
「偉そうに言うな!」
 老齢ながら覇気のある声で一つ吼える。と、離れたところにいる仲間たちが、驚いた様子でこちらを見た。
 なんでもない、という風にそちらに手を振ると、眼鏡を押し上げ、彼は呟いた。
「……とにかく」
「何だよ」
「頼んだぞ」
 ぽん、と肩を叩き、彼は踵を返した。
 寂しげに見えたその背に、レオンは呼びかける。
「先生も達者でな。長生きしろよ」
 手を上げただけで振り返りもせず、キタザキは丘を下っていく。


「さて、と」
 アリルが丘を登ってきたのを見て、レオンは呟いた。
「そろそろ出るか」
 馬車の方に振り返ると、イーシュが敬礼の真似をする。
「それにしても、本当、急だったよね」
「あん?」
「ま、こんな手紙が来ちゃ、すぐ出るしかないか」
 イーシュが振り上げた文には、乱暴な字で『ノアさんはっ見、けどおれたちもピンチ、助けて』とだけ書いてある。
 レオンは頭をがしがしと掻くと、顔をしかめた。
「何ヶ月もかけやがって」
「途中で遊んでいたんだろうな」
 珍しく、アイオーンがレオンに同意する。イーシュは苦笑した。
「まあまあ。ちゃんと報告をくれただけでも、よしにしようよ」
「いや。これはお仕置きだな」
 真顔で言うレオン。
「何するつもりだよ……」
「お待たせーっ!」
 元気に張り上げられた声が、彼らの会話を遮る。
 三人が既に乗り込んでいた馬車の後ろから、アリルが顔を出した。
「もういいのか?」
 レオンが訊くと、彼女は笑みを浮かべる。
 微塵も後ろ髪が惹かれる要素はない。そう言っているような笑顔だった。
「うん」
「よし、じゃあ……」
 御者席にはアイオーンが座っている。そちらに目を遣ると、アイオーンは小さく頷いた。
「出すぞ」
「アリルさーん!!」
 馬車が大きく揺れ、動き出した瞬間に、大声が響く。
 馬車の掛布を捲って後ろを見遣ると、丘の下から走ってくる少女の姿が目に入った。
 シリカだ。
「なんで……」
 知らせなかったはずなのに、と呟くアリル。するとシリカの後ろから、続々とエトリアの住民、そして冒険者達が姿を現した。
「レオンさん、アイオーンさん、イーシュさん!」
「ココちゃん!」
 執政院の眼鏡を押しのけて、桃色ツインテールのバードが顔を出す。
「お元気で! いつでも、帰ってきてくださいねー!!」
 さらに体勢を崩した眼鏡の後ろから、青髪の青年が現れる。
「キディ」
「おい! 勝ち逃げは許さんと、クルスの野郎に言っておけ!!」
 顔を真っ赤にして叫んだ後、彼はふいと人ごみに紛れていった。
 今度こそ、と起き上がろうとする眼鏡を、十歳くらいの少年が馬跳び風に飛び越える。
「兄ちゃん姉ちゃん、ありがとー!!」
 苦笑しながら現れた少年の母親が、深々と頭を下げる。もうすっかり体は回復したようだ。
 視線を動かすと、サクヤが目に入った。目を擦りながら小さく手を振っているその隣で、ガンリューが苦笑している。そして施薬院の面々の中に、車椅子のウィンデールと、その傍らに立つビクトリアが大きく手を振っているのが見える。
 執政院の眼鏡がようやく立ち上がったところで、その正面にキタザキが立った。
「レオン!」
 一瞬、喧騒が止む。レオンがびくりと背筋を伸ばすと、キタザキの眼鏡が光った。
「―――アリルを泣かせたら、承知せんからな」
 何故かにやけ顔のイーシュと、不思議そうなアリルが両脇から見上げてくる。キタザキの手に強く握られている杖に気付いて、レオンは息を呑むと、口角を引きつらせてこくこくと頷いた。
 鷹揚に頷いてキタザキが去ったところで、執政院の眼鏡が再びよろよろと前に出るが、喚声やら怒号やらにかき消されて、何を言っているかさっぱり聞こえない。
「ああ、あ」
 アリルが小さく呻いた。馬車が速度を上げるにつれて、街のみんなの姿が遠ざかっていく。
 ちょっとだけ鼻を啜ると、アリルは大きく息を吸い込んだ。
「みんなー!!」
 身を乗り出して、アリルは叫ぶ。
「いってきます!! またねーーー!!」
 大きく手を振るアリル。聞こえたのかどうかは分からないが、喧騒がより大きくなったような気がした。
 エトリアの人々が、街が、完全に視界から消えてなくなるまで、アリルはずっと手を振り続けていた。


 丘のふもとの、林の中。馬車が去っていった方向をじっと見つめていた女が、ふと呟いた。
「……行ったか」
 凭れていた木から背を離すと、刀を手に歩き出そうとする。
 関心の薄そうなその表情に、傍らにいた赤毛のカースメイカーの少女が首を傾げた。
「寂しくなる……かしらね?」
 女はその一言に驚いたように目を見開くと、引き締めていた口元をふっと緩めた。
「さてね」
 それにつられたように、少女も微笑む。
「いつかきっと、また会えるわ」
 そう小さく呟かれた言葉は木々を揺らす風に乗り、朝焼けの空へと流されていった。


 ハイ・ラガード公国。
 その中心に大樹を抱いた、北方の小国である。
 その歴史は古く、建国の物語が伝説となり、神話に重なるほどであったが、辺境にあるためか、古くから軍事にも商業にも秀でているとはけして言えない国であった。
 周辺諸国の不穏な情勢の中、時の大公はとある噂を耳にする。
 南方に存在するというエトリア樹海、通称“世界樹の迷宮”に、非常な人の集まりがあると。
 大公は考える。エトリアは、下火になっているものの、世界樹からもたらされる珍品とそれを求める冒険者によって潤った街だと聞いていた。天空に未知を頂くと伝承されるこの国の大樹とて、冒険者の好奇心をくすぐるのには、十分な謎を備えているのではないか―――
 そうして、ついに大公が世界中の冒険者に向けて触れを出したのは、数年前のことだった。


 眼前に立ちはだかる、巨大な樹。
 まさに世界樹と呼ぶにふさわしい貫禄を備えた大樹は、天空を覆うようにその枝葉を広げている。雲を破ってどこまでも伸びるその容貌は、エトリアにあった世界樹とはまた異なった、数千年前からの運命を示しているのだろうか。
 到着したクッククロー一行を正面門の前で待ち構えていたのは、渋面で仁王立ちをした褐色の少年だった。
「お・せ・え」
 彼は酷くいらついた様子で、馬車から飛び降りたレオンに食って掛かる。
「手紙を出したのは、一月も前だぞ! なんで、到着までにこんな時間かかってんだ!?」
 しかし、レオンは笑みを浮かべると、少年の手をそっと取った。
「ほう。だがその報告が来たのは、おまえらが財布持ってエトリアを出てから、半年近く経っていたんだがな」
 薄ら寒いその笑顔に、さしもの少年も身を引く。
 が、時既に遅し。
「―――半年も何してやがった、このクソガキがあああああ!!!」
 絶叫。レオンは高速で脚払いをかますと、少年の頭を掴んで地面に叩きつけた。
「ふべっ!」
「ふん」
 少年は成す術なく顔面から激突した。レオンは手をパンパンと払うと、鼻を鳴らす。
 馬車から降りた彼の仲間達は、口角を引きつらせて呆然と立っていた。
「れ、レオン……」
「おい、こら、ライ」
 レオンは少年―――ライの首根っこを右手で掴むと、白目をむいたままの彼をひょいと持ち上げる。
「お前、何事もなかったら、連絡を寄越す気すらなかったろ。え?」
「ぐ、ぐるじいっで」
 じたばたと暴れるライ。レオンはわざとその体をふらふらと揺らしている。
「レオン、降ろしてやれ。まず事情を聞こう」
 アイオーンが彼らの間に割り込み、困ったように言った。
 レオンは小さく嘆息すると、ライを支えていた手をぱっと手を離す。尻餅をついたライは、苦しげに顔を歪めていた。
 そこで、ふと気付いたようにアリルが呟いた。
「そういえば、カリンナちゃんはどこ? 姿が見えないけど……」
 心配そうな彼女に、ライはばつが悪そうな表情になった。
「ピンチっていうのは、その事なんだよ」
「何だと?」
 レオンが眉をひそめると、ライは数歩彼から離れ、橋の向こうにある巨大な門を指差した。
「とりあえず中に入ろうぜ。詳しい話は、そこでしてやるよ」
「させていただきます、だ。馬鹿野郎」
「あいでっ」
 レオンに頭を小突かれた―――そんな軽い音ではなかったが―――ライは、涙目で彼を睨みつけた。
 そして、しゅんと眉を下げる。
「リーダー」
「盗んだ金の話ならあとでたっぷり聞く」
「ち、違うって……その、身体……」
 歩きながらそう指摘したライに、レオンはぽんと手を打って、立ち止まる。
「あー」
「もういいのか?」
 心配そうな声ににっと笑ってみせると、レオンは身を縮めたライに手を伸ばし―――白髪頭をわしゃわしゃと混ぜた。
「おう、おまえが血をくれたおかげさ。ありがとな」
 ライは目をぱちくりとさせ、視線を逸らすと、頬を赤らめる。
 照れているらしい。馬鹿にしたようにレオンが笑うと、ライはまた歯向かう。
 二人のやりとりに呆れているイーシュとアイオーンから少し離れて、アリルだけが―――複雑な表情で、彼らを見つめていた。


 薄暗い。
 冷たい。
……わおーん。
 視界を覆ったのは、青い毛皮の小さな子犬。舌をぺろりと出して、へっへっへっと自分を見つめている。
 子犬を抱き上げ、のそりと身を起こした少女は、きょろきょろと周りを見渡した。
 ここは、どこだろう。そう思ったとき真っ先に目に飛び込んできたのは、鉄格子。
 醒めた頭が徐々に状況を飲み込んでいく。
 そうだ、わたしは捕まっていたんだ。
 揺れる土壁に触れ、彼女ははっとした。誰かが近づいてくる。
「カリンナ!」
 鉄格子の向こうにある階段から駆け下りてきたのは、見慣れた褐色の少年。カリンナは微笑んだ。もっとも、口角はあまり上がってくれなかったのだけれども。
「ライ……」
 ライに続いて現れるのは、クッククローの懐かしい人たち。
 ああ、もう大丈夫だ。表情は変わってくれなかったが、安堵感が心に広がる。
 胸に抱く子犬は、よく分かっていなさそうにくうん、とだけ鳴いた。


 ライとカリンナがこの国―――ハイ・ラガードに到着したのは一月と少し前だ。
 ノアの手がかりを探して各地を放浪していた二人は、“世界樹の迷宮”と呼ばれる樹海がこの国にあると聞いたのだ。エトリアと同じ名を持つそれなら、ノアに繋がる何かがあるかもしれない―――予感は的中した。
「ノアさんに似た人を見たことがあるってヤツがいてさあ」
 中央市街に戻ってきたクッククロー一行は、ライの話に耳を傾けていたが、そこでレオンが口を挟んだ。
「ノアに似た……って、なんで分かるんだよ」
「そりゃ、これを見せたからだよ」
 ライが取り出したのは、一枚の絵だった。ノアの胸像が精巧に描かれたそれに、一行は息を呑む。
「こんなもの、どこで……」
「カリンナが描いたんだよ。こう見えても、カリンナは絵が上手いんだぜ」
「へえ」
 カリンナはさっとライの背後に隠れた。無表情ではあるが、照れているらしい。
 ライは話を続けた。
「それで案の定、そいつは悪党だったわけだけど」
「ずいぶん飛躍したな」
「想像はつくだろ? ガキだと思って舐めてやがったのさ。樹海で見たとか言ってよ、おれたちを迷宮の中に入れて、使い捨てしようとしやがったんだよ」
 もちろんライは彼が嘘をついていたことには気づいていた。だが本当にノアのことを知っているかもしれず、一応エトリアに助けを求める手紙を出しはしたものの、大人しくそいつの言うことにしたがって迷宮に潜ることにしたのだ。冒険者としてハイ・ラガード樹海に興味もあった。
「で、なんでカリンナが牢獄にいたんだ?」
 中々話が進まないことに苛立ったように、レオンが言った。彼らは今なけなしの旅費から保釈金を払い、カリンナを冷たい地下牢から救出してきたところなのである。
 ライは彼から数歩離れて、渋面を作った。
「ラガードの世界樹にも、冒険者ギルドがあるんだ。つまり、冒険者は登録制ってわけ」
「あー、おまえらは無許可だったわけか。いつぞやのコユキと一緒だな」
「そういうこと。おかげで詐欺師には逃げられるし、おれたちは衛士に捕まるし、ノアさんの手がかりは結局見つからないし。踏んだり蹴ったりだぜ」
「だが何故、君だけ釈放されていたんだ?」
 アイオーンが一行を代表して疑問を口にする。ライは公国の入り口までクッククローを迎えに来た。本当なら彼もカリンナと一緒に土牢に入っていなければいけないはずである。
 ライはさらに数歩レオンから離れると、にんまりと笑った。
「そりゃまー、おれは逃げ足が速いから」
「ようするにカリンナちゃんをほっぽって、自分だけ逃げたわけだ」
 イーシュが引きつった笑みを浮かべる。ライはそれに苦笑いで応じつつレオンを窺ったが、彼は何か考え事をしているようだった。胸をなでおろす。
「でも……ライは何度も会いに来てくれたから」
 カリンナがライを見上げてくる。幸い衛士に顔を見られなかったライはカリンナを安心させるため、彼女の元に通った。彼女が抱えている犬も、寂しくないようにライが差し入れたものである。
 ライは鼻の頭を掻くと、頭の後ろで腕を組んだ。
「しかし、みんなギリギリセーフだったよ。カリンナが捕まったのが一週間前で、あと数日したらおれたち一文無しでこの国から追い出されるところだったんだから」
「待て。文無しってどういうことだ」
 墓穴を掘ったことに気づき、ライはさっと青ざめた。
 かなり距離をあけていたにもかかわらず、レオンの腕がその胸倉を掴み引き寄せる。
「―――お前、ギルドの金を盗っていきやがったはずだろ」
「そ、そ、それがさー、半年ぶらぶらしてたら、け、けっこう……使っちゃって、あは、はは」
「カリンナちゃんの保釈金も払えなかったほどってこと? ライくん、今いくら持ってるの?」
 アリルに尋ねられ、ライは宙ぶらりんの状態で懐から財布を取り出すと、彼女に投げた。その中身を覗いたアリルとイーシュが呻く。
「ほとんど入ってないわ……」
「ど、どんな生活してたんだよ……」
「とにかく、だ」
「ぶべっ」
 石畳に投げつけられ、ライは悲鳴を上げる。冷たい声が降った。
「探索を始めるぞ。冒険者ギルドに行って、登録しよう」
「え、も、もう?」
「このままいくと、数日で街の外で野宿になるぜ」
「おれ、全額は持って出てきてねえぜ? リーダーたちこそ半年でどんだけ金使ったんだよ!」
 驚いて声を上げると、レオンの壮絶な目つきと目が合い、ライは思わずごくりと息を呑む。
 街内の地図を持っているらしいアイオーンと先導して歩き出すレオンの背を見送るまで、ライはしばらく立ち上がれなかった。イーシュが差し出した手に掴まって起き上がると、苦い顔をしたバードの青年は肩をすくめる。
「レオン、すっごく君たちのことを心配していたんだよ?」
「……それは、悪かったよ。でも……」
「君が持っていかなかった残額は、ほとんど全部レオンとアイオーンの治療費に当てちゃったのさ。装備や道具をあらかた売って、それでも首が回らなくて……レオンなんて、退院したその日から仕事してたしね」
 穏やかな語り口のイーシュから目を逸らし、ライはようやっと小声で呟いた。
「ごめんなさい」
「うん。もう少し落ち着いたら、レオンにも言いなよ。絶対に殴られるだろうけど」
「覚悟はしとく……」
 ライは肩を落とした。

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序章・後

「クッククロー……ね」
 帳簿を捲っていたギルド長は、フルフェイスの兜の頭をゆっくり横に振った。
「―――ない。まだ、冒険者として登録されていないようだな」
「そうですか……」
 頬を掻くと、その青年は踵を返そうとした。簡素な旅装束の外套が翻る。しかし、ギルド長は続けて声をかけてくる。
「クッククローというのは、エトリアの樹海を踏破したギルドの名だな?」
「はい、そうですが」
「私も、近々彼らがこの国の世界樹に挑戦しに来るらしいという噂を聞いている。まだほんの一月ほど前の話だ」
 鎧をまとった肩を竦めると、ギルド長はこう締めくくった。
「続報を耳にしたら、心に留めて置こう」
「ありがとうございます」
 丁寧に一礼して、青年は冒険者ギルドを後にした。
 外に出ると、西日が目に突き刺さった。長居したつもりはなかったが、もうすぐ夜になるらしい。当てが外れたのは残念だが、とりあえずは今日泊まる宿を定めねばなるまい―――そう思って歩を進めようとした瞬間、何かが彼にぶつかった。
「わっ」
「す、すみません!」
 それは濃紺の鎧を着込んだ少女だった。思わず抱きとめていた手をぱっと離すが、少女は自分の来た道をしきりに振り返ると叫んだ。
「き、来たっ」
「え?」
 少女は、長身の彼に隠れるようにその背に回る。するとタイムリーに、数人の男が角を曲がって現れた。格好からして冒険者らしい。
「くそ、冒険者ギルドか……」
「手こずらせやがって」
「な、何ですか、そっちが悪いんでしょう! わたしは衛士ですよ!」
 青年の影から少女が吠え立てる。そのうちに、赤い顔の男が剣を抜いた。
「痛い目みたくなかったら、さっさと命令書をよこすんだな」
「渡すもんですか。これは、あなたたちがいけないことをしていたから発行した、正式な命令書なんです。ぎ、ギルド長から仰せつかってるんですからあ」
「ンなもん知るか! こっちはこれでおまんま食ってんだ! 探索が出来なくなると困るんだよ!!」
 青年は首をひねりながらも、かなりの憶測を交えて話を整理する。
「つまり、あなたたちは何らかの不正をしたせいで発行された、ギルド登録を抹消する命令書を、衛士である彼女から奪おうとしている、ということで宜しいのでしょうか」
「そ、そうです!」
 衛士の少女はこくこくと頷くと、いつの間にか全員武器を抜いている三人の男を指差した。
「―――あの人たち、冒険者登録をしていない子どもを、樹海で無理矢理働かせたりしていたんです! 犯罪者ですよ!」
「なるほど、それは相当悪いですね」
 少女の大声のせいで、衆目が集まりつつある。放っておいても収束するかと思われた事態だったが、青年の予想に反して、男たちのうち鷲鼻の特徴的な男が、雄たけびを上げながら斧を掲げ、突進してきた。
 青年はタイミングを見計らい、背にいた少女を抱いて、真横にそれを避ける。斧は冒険者ギルドの壁に突き刺さった。外れない武器に戸惑う鷲鼻の男の脇を蹴ると、青年は体勢を崩した彼の顎に、自分の腰帯に下げていた剣の柄を叩き込んだ。
「てめっ」
 白目を剥いて昏倒していく鷲鼻の男。短く非難の声を上げた赤い顔の男が武器を構えなおすより早く、青年はその懐に飛び込むと、体当たりした。
 その隣に立っていた髭面の男が、筒のような何かをこちらに向かって構えた。それが何かを考えたわけでなく、青年は反射的に、赤顔から奪い取った小さなラウンドシールドを掲げた。爆発音の後に走った衝撃。木製の盾が砕け散り、とっさに身をかがめた青年の金髪の一部が弾け飛ぶ。
「くっ……」
 盾の残骸を投げ捨て、青年は髭面に向かった。幸い髭面は筒に何かが詰まったのか、それを覗き込んでいるところだったので、がら空きだった腹に蹴りを叩き込んだ。成す術なく髭面は吹っ飛んでいく。
「う、動くな!」
 その声に振り返る。建物の壁を背にした赤顔の男が、衛士の少女の腕を捻り上げ、フルアーマーから唯一覗くその頬にナイフの切っ先を向けていた。
 どこかで見たような光景だ。
「そんなことをしても無駄です。大人しく投降したほうが身のためですよ」
「うるせェ!」
 赤い顔がすっかり茹蛸のようになってしまっている。かなり興奮しているらしい、刺激するのは危険だ。
「たすけ、てくだ、さい……」
 怯えた目を向けてくる衛士の少女に、笑みを返した。
「大丈夫、安心してください。正義は必ず勝ちますから」
「何が正義だコラァ! 武器を捨てやがれ!!」
「分かりました」
 剣帯を外すと青年は―――半身を引いた。
 生まれた空間を通過していった銀色が、赤顔の男の手からナイフを奪い去る。
 赤顔が驚く間もない。青年は一足で間合いを詰めると、少女を引き倒しながら、赤顔の顎を剣鞘で突き上げ、壁に押し付けた。
 首を取られ、赤顔の男は目を瞠ったまま動けない。
「五十点」
 その声に溜息一つ、青年は振り返らぬまま、言った。
「見ていたなら、もっと早く助けてください」
「やなこった」
 にやにやと笑いながら近づいてきたのは言わずもがな、よく見知った赤髪の剣士―――レオンだ。
 彼は自分の銀の短剣を回収すると、近くでのびている鷲鼻の男を検分する。
「しかし、お前もよくこういうのに絡まれるな」
「僕が寄せ付けているような言い方、しないで下さい」
「まあ、今回はちゃんと返り討ちに出来て良かったじゃねーか」
「嫌味ですか?」
「クルス」
 ようやく駆けつけた―――というより、表の騒動に今になって冒険者ギルドが気づいたのだが―――衛士に赤顔の男の身柄を引き渡したところで、呼びかけてきたのは、黒髪の錬金術師。青年―――クルスは、錬金術師に握手の手を差し出した。握り返される。
「お久しぶりです、アイオーンさん。……アリル、イーシュさん。それにライとカリンナも……合流できていたんですね、良かった」
 続々と現れた、数ヶ月ぶりに再会する仲間たちに、クルスは顔を綻ばせる。そのうちのライが、あっと声を上げた。
「こいつら、おれたちを騙した連中だ!」
「え? そうすると、樹海で無理矢理働かされた子どもって……」
「あ、あの」
 衛士たちの間から、クルスたちが助けた少女が現れ、ぺこりと頭を下げる。
「助けていただいて、その、ありがとうございました」
「いえいえ、騎士として当然のことをしたまでですから」
 つい癖のようにそう答えると、少女は目を丸くした。
「騎士さん? あら、冒険者の方だとばっかり……」
「ええ、今はそうです。“元”騎士ですから」
「お、騎士団はついに辞めてきたか」
 からかうようなレオンの言葉に、クルスは引きつり笑いを返した。
「その話はあとで」
「みなさん、お仲間ですか? ギルドのお名前は? わたし、絶対あとでお礼をしに行きます!」
 クルスとレオンはきょとんと顔を見合わせる。
 と、どちらともなく苦笑いが浮かんだ。
「その前に、冒険者登録をしても構わないですか?」
 衛士の少女は目をぱちくりとした。


 無事冒険者登録を終えたクッククロー一行は、中央市街にほど近い、“鋼の棘魚亭”という小さな酒場で夕食を嗜んでいた。
「ホント、持つべきは正義感の強い仲間だよねー」
 イーシュの言のとおり、クルスが助けた衛士の少女のはからいで、クッククロー七人の冒険者登録は無償で行われたのだ。
 だが問題は残っている。
「コレ」
 ギルド長から渡された要綱を眺めていたレオンが、渋面で言った。
「―――期限付きってどういうことだ?」
「期限?」
 その羊皮紙を受け取ったアリルも同じような顔になる。
「―――“仮登録を済ませた冒険者ギルドは一週間以内に、最初の試練に挑戦することを義務とする。これを突破できなかったギルドは登録を抹消され、冒険者の権利も全て失効する”だって」
「では、今の僕たちは仮登録ということですか」
「“最初の試練”の内容は何だ?」
「えっと……“世界樹の迷宮の初階に立ち入り、その地図を完成させること”」
「なーんだ、楽勝じゃん」
 ストローを噛みながら呟いたライに、クルスが渋い顔を向ける。
「そうでしょうか?」
「何、クルスくん弱気だなあ」
「いえ……記述が少し、気になって」
 眉根を寄せたまま、クルスはアリルから渡された要綱を見つめる。
「―――一週間以内に“挑戦する”ことが義務なんですよね? 突破まではいくら時間がかかってもいい、という意味なんでしょうか」
「一度やる気を見せたら、それでいいってこと?」
「もっと分かりやすい意味じゃねえの」
「というと?」
 レオンはにやりと笑うと、答えた。
「樹海に入ったら、地図が出来上がるまで出られない」
「まさか……死人が出ますよ」
「でも“しょかい”って地下一階のことだろ? それくらいやっぱ楽勝じゃねーの」
「ここの樹海は潜るのではなく“登る”んだそうだ。だから、地下は付かないな」
「あ、そっか……じゃ、一階か」
 まとまりのなくなってきた会話に、レオンは息をつく。
「とりあえず全員が無事に合流できた今、俺たちクッククローはこれから、ハイ・ラガードの世界樹の迷宮の踏破を目標に行動するわけだが―――」
「それと、ノアさんの捜索ですね」
 クルスが口を挟む。忘れかけてたのに、とレオンが呟くのを、耳ざとい彼は聞き逃さない。
「―――結局、例の冒険者たちからノアさんの情報を聞き出すことは出来なかったんですか?」
「公国の近くで見かけたことはある、らしいよ。ただ本当にノアさんの出身地がラガードなのかどうかは分からないし、あまり当てにはならないみたい」
 アリルの返答に、アイオーンが唸る。
「なら、また振り出しか……」
「ああ、そのことなんだけど」
 イーシュが挙手する。彼は咳払い一つ、続けた。
「僕、少しの間探索を休んで、別行動をしてもいいかな?」
「なんで?」
「ちょっとこの周辺……公国と、その周りの国に関して情報を集めてみようと思ってさ。ハイ・ラガードは小国だし、ノアさんを探すならそれくらい範囲を広げてみた方がいいでしょ? 何せ僕たちはこの国のことを全然知らないわけだからね。それに……」
 イーシュは苦笑交じりに言った。
「さすがに食い扶持を減らさないと、やっていけないよ」
「お前一人で大丈夫か?」
「うん、定期的に報告しに戻るつもりだし」
「じゃ、頼む」
 軽い調子で片手を挙げたレオンに、イーシュは満面の笑みを返した。
「任せといてよ」
「イーシュさん、お気をつけて」
「危ないと思ったら、すぐ身を引くといい……まあ、エトリアで似たようなことをやっていたのだから杞憂だろうが」
「じゃ、そっちの情報収集はイーシュに一任する。残りの六人は持ち回りで樹海探索だ、いいな?」
 各々の意を確認するように視線を配ったレオンは、ふっと口角を上げた。
「何だよ、そんな真剣な顔して聞く話か? ……ああ、問題にするなら最優先のものが一つだけあったな」
「何です?」
 レオンは笑みを深めた。
「今夜泊まる宿を探すことさ」


 これもまた幸いなことに、鋼の棘魚亭の主人の紹介で、クッククローは今晩の宿を見つけることが出来た。夫婦で営んでいるこれもまた小さな宿屋だったが、彼らは長旅に疲れた一行を温かく迎えてくれた。
 あてがわれた宿部屋で少ない荷物の整理をしていると、アリルはカリンナがずっと窓の外を見ていることに気づいた。
「カリンナちゃん?」
 無言の彼女が示したのは、宿の隣に立つ木の下でうずくまる、青い毛皮の子犬だ。
「あの子……カリンナちゃんが拾ってきたの?」
「ライが……わたしが捕まっているときに、さびしくないように、って」
 かすかに笑みの形に動いたカリンナの表情に、アリルは笑みを返す。
「カリンナちゃん、ライくんのこと……大好きなのね」
 カリンナはためらいなく、こっくりと頷いた。―――この愛らしさといったら! アリルが真っ赤になるだろうライを想像していると、カリンナは口を開いた。
「ライはわたしを助けてくれたから……」
 その言葉に、アリルはカリンナの両手を取って、にこりと笑った。
「なんだか……分かるわ、その気持ち」
「アリルちゃん?」
「うん……でも、きっとライくんもカリンナちゃんのこと、大好きよ。それだけじゃなくて」
 アリルはカリンナの背に手を回すと、ぎゅっと抱きしめた。
「―――私だってカリンナちゃんが大好き!」
 カリンナは驚いたようだったが、おずおずと、しかしアリルの肩に手を添え、小さく「うん」と呟いた。


「あら、クルスくん」
 共用の洗面所に行く途中、廊下ですれ違ったクルスはにっこりと微笑んだ。
「久しぶりですね、アリル」
「ふふ、数ヶ月ぶり。元気だった?」
「ええ。アリルも、みんなも……お変わりないようで、何よりです」
 階段を見下ろす踊り場の手すりにもたれかかり、アリルはクルスを見上げた。
「クルスくん……その、おうちは、どうだったの?」
 尋ねると、クルスは少し困ったような顔をしたが、答えてくれる。
「やはり、分かってはもらえませんでした」
「じゃあ……」
「僕の方から三行半を突きつけてきました。騎士団にも、辞表を提出しましたし」
 クルスは諸手を挙げた。
「―――今現在、僕は“元”騎士、無職です」
「冒険者じゃないの?」
「まあ一応はそうですけど……ずっとこのままというわけにはいきませんから」
 彼はアリルの不安を見透かしたように、笑みを浮かべた。
「ああ、突然クッククローを辞めるようなことはしませんよ。とりあえず、探索をしながら再就職先を探します」
「そっか……そうだよね」
 “ずっとこのまま”ではいられない。
 クルスに言われて初めて、アリルはそれを理解した。
「アリル?」
「え、な、何?」
 物思いに沈みそうになっていたアリルを引き戻したクルスは、くすりと笑った。
「アリル、僕はあなたともう一度会えて、一緒に冒険が出来ることが今は何より嬉しいです」
「え……あ、うん、私も。一時は……みんなバラバラになっちゃうかと思ったから」
 ノアの裏切りのことは当然ながら未だにしこりとして心に残っている。そしてその解決を目的に再び皆が収束しているということは、皮肉な事態だ。
 しかしクルスは苦笑いを浮かべた。
「そういう意味じゃないんですけどね」
「え?」
「何でもありません。……おやすみなさい、アリル」
「うん、おやすみ……」
 男部屋の方向へ去っていくクルスを見送り、アリルは階段を下りていく。


 洗面所の前には、アイオーンとライが立っていた。構図としては、ライがアイオーンの義手を眺めている、といったところだ。
 アリルが近づいていくと、二人は彼女に気づいた。
「アリルちゃん、これ。アイオーンの手! すっげー!」
「うん、すごいよね」
 右手の一部が義手になった後、アリルは彼の“実験”の付き添いで、エトリアの樹海に何度か足を運んでいる。そこで見た術式の精度は、以前より遥かに向上していた。
「ただ、今はあまり触媒が残っていないからな。すぐ以前ほどの威力の術式は撃てないだろう」
「え、そうなの?」
「これから探索を進めながら……義手の調整もしていかなければならない。課題は多いよ」
 てのひらに目を落とし、指をゆっくりと動かしながら、アイオーンは呟いた。
 エトリアにいる間、アイオーンはたとえば、施薬院の助手ウィンデールの義足を製作するなどしていた。彼の錬金術師としての腕はこういうところで生かされるものであって、本当なら戦闘技術に応用させたくはないのだという話は、ノアからアリルは聞いたことがある。アイオーンとノアは二人きりで会うことも多く、込み入った話もよくしていたようだ。
「おれさあ、アイオーンやアリルちゃんの難しい話はよく分かんないけど……アイオーンの研究? が、もうちょっと評価されてもいいんじゃないかなーと思うよ、マジで」
 ライの言葉に、アイオーンは小さな笑みを浮かべた。


 裏庭に人の気配を感じて、アリルは洗面所から宿のフロントを抜け、表玄関から裏庭に向かう。
 やはりというか何と言うか、そこにいたのはレオンだった。
 剣を振っている。彼がこうやって鍛錬しているのを見つけるのは難しい。施薬院に入院していたときにたまに見つけてキタザキに怒られていたのだが……そう、意外と彼が努力家だと知ったのは、つい最近のことなのだ。
 裏口と思しき扉の前で座り込み、アリルはしばらくレオンを眺めていた。
 と、溜息一つ、彼は唐突に動きを止める。
「さすがにな。ンなとこにいりゃ気づくよ」
「えっへへ」
 呆れたようなその言葉に、アリルはごまかし笑いを浮かべた。
 見られると集中できないらしく、レオンは鍛錬を止めて近づいてきた。アリルの隣にどかりと腰を下ろす。
「……身体、大丈夫?」
「何をどう見たら、異常があるように見えんだ」
「でも分からないんでしょ、気配」
 レオンは黙り込む。こうやって都合が悪くなったり、図星をつかれたときに二の句がつげなくなるのは彼らしい。
 以前のレオンなら、アリルが彼の鍛錬しているところを見つけることは不可能だっただろう。彼には人間離れした第六感があり、ほぼ正確に、ある程度の範囲まで近づいた相手の位置や動きを把握することが出来ていたからだ。
 だが今のレオンにその力はない。失われた原因はほとんど間違いなく、刺されて重傷を負ったことだ。凶器の短剣は彼自身の所有物だが、異常に銀色に輝く刃先には鞘由来の神経毒があり、それが直接的にレオンが死に掛けた要因を作った。
 レオンの感覚が“人並み”になってしまったことを知っているのは、クッククローでは当人とアリルだけだ。それを他に話さないでいられるくらい、樹海探索にも戦闘にもほとんど支障はない。だが、長期間の探索となるとまだ分からない。他の後遺症が出てくる可能性だってあるのだ。
 アリルはそれを心配している。想いを伝えてこそいないが、アリルはレオンが好きなのだ。だから医者として出来る限りのことはしてあげたいし、彼の思うがままやらせてあげたいとも思う。
 アリルの気持ちを知ってか知らでか、レオンは再び立ち上がった。
「どうしたの?」
「休憩終わり。お前は戻って寝ろ」
「……分かった。レオンも早く休んで」
「ああ」
 おやすみ、と言い置いて、アリルは表玄関に向かう。

 満点の星空はエトリアより綺麗に見える。ハイ・ラガードはエトリアよりもずっと北に、そしてずっと高地にあるのだ。
 明日から訪れる新しい日々が、実り多く楽しいものであるように―――アリルは流れる星に祈った。


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第一階層

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1F

 衛士に置き去りにされると、にわかに樹海の静けさが際立ってきた。
 初めに声を発したのはレオンだった。
「暑いな」
 手で顔を扇ぎだした彼に、クルスが肩を竦める。白銀の鎧がガチャリと鳴った。
「エトリアの世界樹の、一階層と二階層を足して割ったような森ですね」
「密林じゃないが、普通の森って感じもしないなあ……」
 ゆったりとした二人の会話に痺れを切らせて、ライはイライラとつま先で苔を叩いた。
「何でもいいけど、さっさと先に進もうぜ」
「そんなに急くなよ。つかお前らは一度、ここに入ったことがあるんだろ?」
 ライとその傍に寄り添うように立つカリンナを交互に見たレオンに、少年は唇を尖らせた。
「だからもっと先に行きたいんだよ」
「そういうのは、地に足つけてから言うもんだ―――ほら、おいでなさったぜ」
 いつの間にか抜いていた剣先で、レオンは目の前の不気味な色をしたカタツムリとハリネズミを指した。


 何度か戦闘を行い、地図を埋めながら歩を進めていたクッククローは、自然が作った扉を前に立ち止まった。
「へへ、やっぱ一階なんて楽勝だな」
 擦り傷だらけで鼻を擦るライに、クルスは苦笑いする。
「楽勝は言いすぎだと思いますけど……たしかに腕を上げましたね、ライ」
「え、え? ほ……ホント?」
 褒められたのにもかかわらず目を丸くするライ。
 カリンナの白い足に絆創膏を張っていたアリルが、立ち上がってこう言った。
「ねえ、少しこの辺りで休憩していかない? みんな疲れているみたいだし」
「まだ入樹して一時間ほどしか経っていませんよ……と言いたいところですが、久しぶりの樹海はやはり堪えますね」
 クルスが力ない笑みで応じる。長旅の直後に休む間もなく探索を開始したのだから、堪えて当然だろう。
 物音にレオンが目を向けると、蔓の絡んだ扉をライがこじ開けたところだった。
「おい、勝手に―――」
「おー、花畑だぜ!」
 ライの言葉に、レオンは眉をひそめながら彼の後を追って扉の中に入る。
 ぷんと、甘いにおいが香る。色とりどりの花が、陽だまりに群生しているのを見て、レオンは思わず背後を振り返った。
 レオンたちのあとに続いた三人のうち、目が合ったクルスが苦い顔をしている。
「……嫌な予感がしますね」
「……お前もそう思うか」
 はしゃいだライが、カリンナの手を引いて、歓声と共に花畑に飛び込む。一層引き立つ鼻を刺す香りに、誘われてくるものが記憶によみがえる。
「お前ら、遊んでねーでとっととここを出るぞ」
「へ、なんで? 休憩するんじゃなかったのか?」
「さっきからヤな予感しかしねえんだよ。エトリアで似たような花畑で―――」
 レオンが中途半端に切った言葉に、ライが顔を上げる。
「花畑で?」
 レオンは自身の背後を振り返っていた。ライは立ち上がってその視線を辿り―――呻き声を上げる。
「―――花畑で、どうしたって?」
 ライが改めて尋ね返してきたので、レオンは半笑いで“それ”を指差した。
「あいつらに酷い目に遭わされた」
 すなわち、無数の毒アゲハを。

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2F

 ハイ・ラガードの冒険者の酒場は、エトリアのそれにも負けないくらい賑わっている。
 だが、喧騒に掻き消されそうに静かなテーブルも、勿論存在していた。
 男二人でちびちびと薄いぶどう酒をやっている、クッククローの彼らもその一つだ。
「なかなか、情報が集まらないな……」
 グラスを傾けながら、うんざりとした顔でレオンが呟く。
「さほど広くはないとはいえ、街であるエトリアと違ってここは国だ。それに加えての冒険者達の流入で、人口は膨れ上がっている」
 設計図に何かを書き込みながら、アイオーンは淡々と答える。
 二人を除いた他のメンバーは、ハイ・ラガードの広場に繰り出していた。観光気分の者もいれば、真面目にノアを捜している者もいるだろう。
 命からがら初任務をクリアし、ひとまず臣民として認められた後の、一瞬の休息時間のようなものである。
「やっぱ、地道に土台を作るっきゃない、か……」
 人の集まるところには、その分影が落ちやすい。だが情報屋などに人捜しを頼むには、まず人脈、そして金が必要になってくる。前者は別行動のイーシュ、後者はレオンたちの管轄だ。
「冒険者らしく樹海に潜りながらな」
「ああー……めんどくせー」
 頭を抱えて、レオンは机に突っ伏した。軽くテーブルが揺れたせいで、上に乗っていたものが転がり、アイオーンが渋面を作る。
「―――何かちょっとでもいいから、手がかりが向こうから飛び込んできやしねーかなー……」
 彼がそう呟いた瞬間、酒場の扉を顔面で開けたライが飛び込んできた。


「いっつ……」
 強打した鼻を押さえながら顔を上げると、ちょうど、正面にレオンが見えた。
 彼は目を丸くして、言った。
「痛そー」
「痛ェよ、くそっ」
 ふと、扉が開く気配がする。ライが慌ててレオン側に這うと、そこから姿を現した少年は、酷く冷たい目つきでライを見下ろした。
「邪魔だよ」
 冷たい目をした少年だ。雪国らしいファーの付いた緑色のコートと帽子を被っている。
「てめえ……」
 ライは上目で少年を睨みつける。と、レオンが渋い顔で呟いた。
「ガキんちょが酒場に来るなよ」
 しかし、少年はレオンの言葉を鼻で笑い飛ばすと、尻餅をついている状態のライを指した。
「こいつだってガキじゃないか」
「んなっ……」
 顔を朱に染め、握りこぶしでライは立ち上がる。レオンは彼を見上げるとぽつりと言った。
「ホントだ」
「ぅおい!」
 少年は、叫んだライをうるさげに睨むと、レオンを見た。
「赤暗色の髪に、隻眼の男……あんたがレオン?」
 ライは今にも殴り掛からんとした勢いを、アイオーンに押さえ付けられる。
 レオンは薄く笑った。
「人に名を訊く時は、まず自分から名乗れ、坊主」
 面白がるようなその表情にも関わらず、少年はわずかにひるんだ様子で、顔を顰める。
「……ぼくはファルク。あんた達はエトリアから来た、クッククローってギルドだろ?」
「そうだ。ちなみに、俺がレオンってのも正解だ―――んで、御用向きはなんだい?」
 ファルクと名乗った少年を見返し、レオンは尋ねる。
「これを」
 ファルクは持っていた封筒を差し出した。
 質の高い紙に首を傾げつつ、レオンは乱暴に封を破り、中身を引っ張り出す。丁寧に連ねられた文字に目を通すにつれ、その表情がますます歪められていった。
「リーダー?」
 レオンは無言で、ライの背後にいたアイオーンにそれを手渡した。やがて彼も似たような表情で手紙から目を離す。
「これは……」
「ライ」
「え?」
「よくやった」
 思いもかけない労いの言葉に、ライは目を白黒させる。
「ど、どういうこと?」
 値踏みするようにファルクを見ているレオンは答えない。仕方なくアイオーンを振り返ると、彼はやや硬い声で言った。
「彼は、ノアの弟だそうだ」
 茶色い髪に、吊りあがった眦。
 挑戦的で無愛想な態度は、彼女を髣髴とさせる。
「へえ、確かに似てるや…………ってええええええええ!!?」
「うるせえ」
 レオンに殴られ、ライは小さく悲鳴を上げる。
「アイオーン」
 レオンは抗議するように睨んだライを無視して、アイオーンに呼びかける。
「―――ノアはやはり、この国、もしくは近くにいるらしい」
「文面からすると、そうだな」
「姉さんは、事情があって家から出ることが出来ない」
 二人の会話を割って、ファルクが続けた。
「あんた達がここに来ることは、予見していたよ。だから、ぼくを派遣したんだ。自分の代わりにね」
「家……?」
 ライが首を捻ると、少年は素っ気無く答えた。
「ぼくの一族は、この国……正確に言うと、公国が所属する連合でも有数の貴族なんでね」
「ふーん」
 レオンは、返却されたノアからの手紙にもう一度目をやった。ライから見ても、それは確かに貴族が遣り取りする類の紙のようである。ライは難しい字が読めないので、盗み見ても内容は把握できないが。
「手紙の内容は知っているか?」
「勿論」
「そうか」
 レオンはファルクの返事を聞くと同時に、立ち上がった。
「じゃ、早速冒険者ギルドに行くか」
「え、ええっ!?」
 一人、話が見えないライはうろたえる。彼の困惑を読み取ったレオンはぽんと手を打つと、ファルクを指した。
「ノアは、自由には動けないらしい」
「うん」
「だからあいつを人質として、ギルドへ入れろと書いてある」
「うん…………ええええええええ!?」
「うるせえ」
 再び殴られたライは、涙目で頭を押さえる。
 レオンはそれも気にせず、仏頂面で立っているファルクに尋ねた。
「ねーちゃんがレンジャーってことは、お前もそうなのか?」
「ぼくはガンナーだよ」
 ファルクは鉄製の筒のようなものを腰のホルダーから取り出すと、掲げて見せた。
「この、銃という武器を用いて戦う、砲撃士……まあ、エトリアみたいな田舎では知られていないと思うけどね」
 ファルクは銃を戻すと、ふっと笑った。ライはその態度に、拳を握る。
「ば、馬鹿にしやがって……」
 だがファルクは不意に暗い表情になって、続けた。
「ぼくらの国では、武功を立てなければ家門を維持できないんだ。言い換えれば、武功のある者は家の責任全てを負わされる……姉さんはそれで、あんたたちに会いに来ることも出来ないのさ」
「軟禁状態というわけか」
「そういうことだね」
 アイオーンの言葉に、ファルクは軽く頷く。
 レオンは小さく肩を竦めた。
「貴族ってのは難しいな。ま、それはいいとして、お前。ちゃんと戦えるんだろうな?」
 どう見てもライより年下にしか見えない少年に、レオンは揶揄するように尋ねる。
 と、ファルクは不敵にこう答えた。
「なんなら、試してみようか?」
 いつの間にかその手に握られていた銃に、レオンは楽しげに口角を上げた。


「あんなヤツをギルドに入れるなんて、リーダーは一体どういうつもりなんだよ!」
 レオンとファルクが冒険者ギルドに向かうのを見送って、呆然としていたライは我を取り戻すなり、アイオーンに詰め寄った。
 アイオーンは、ノアからの手紙の概略を説明してやる。
「彼は……ファルクは、ノアが自主的に差し出した、彼女に対する“人質”だ。彼女の裏切りについても、エトリアの世界樹を踏破した証についてもいずれ、彼女は決着をつけに来るつもりなのだろう」
「それが分かってんなら、鼻持ちならねークソガキを仲間にしなくても別にいいじゃんか。なんならあのクソガキを脅して、ノアさんのところに乗り込んだって……」
「この国にとって、俺たちは一介の冒険者だ。どんな因縁があろうと貴族に喧嘩を売れる立場にはないよ」
「だからって、言われるがままにすんのか!?」
 机を折らん勢いで拳を叩きつけるライ。ちょうどそこに、目を丸くしたクルス、アリル、カリンナが帰ってくる。
「ど、どうしたんですか?」
 彼らが留守にした間に起こった出来事を、アイオーンはかいつまんで説明する。
 任務の報酬で購入してきたらしい備品を机の上に置くと、クルスは口を開いた。
「それはまた……意外な展開ですね」
「おかしいと思わねえ!?」
 テーブルにつっぷしていたライががばりと顔を上げる。クルスは苦笑いした。
「レオンの決断の早さと行動力はすこぶる熟知してますけど、僕たちに相談くらいして欲しいですね」
「そこじゃねえ!」
 再び机に額をぶつけるライを、クルスは不思議そうに首を傾いだ。次いで、同じような表情のアリルと顔を見合わせる。
 アイオーンは助け舟を出した。
「ノアの弟がギルドに入ることについて、どう思う?」
「私は……別に、その子がいいなら」
 アリルが頷くのにつられたように、カリンナもこっくりと首を動かす。
「僕も構いませんよ」
 淡々とクルスは続けた。
「ノアさんが裏に他の思惑を持っていたとしても、僕たちには圧倒的に情報がありませんしね。何はともあれ、この国をよく知っている、なおかつ彼が貴族であるということ、それは利用できます」
 冷静に言葉を並べる彼を、思わずアイオーンは凝視する。
 視線に気づいたクルスがアイオーンを見た。
「何です?」
「いや……君も染まってきたな」
 クルスはなおも怪訝に眉をひそめたが、何も言わなかった。
「……なんでみんな、そんなあっさり受け止められるんだよ……」
 ライが呻いたそのとき、その背後の扉が開いて、レオンとファルクが連れ立って現れた。アイオーンはそれに声をかける。
「登録は済ませたのか?」
「ああ」
「レオン、僕たちにも彼を紹介してください」
 クルスの言葉に、レオンは首肯する。
 その自然なやりとりを、ライは信じられないという表情で見つめていたが、くしゃりと顔をゆがめると、椅子を蹴って立ち上がった。
「ライ?」
「冗談じゃねえ! おれは認めねーからな!!」
「ライくん!」
 ライはそのまま酒場の外へ飛び出していってしまった。アイオーンはつられたように立ち上がりながらも、レオンに目を遣る。
「追った方がいいか?」
「いや、かまわん。放っとけ。感情的になってもどうにもならないってことぐらい、あいつだって分かっているはずだ」
 レオンの評に、アイオーンはちらりと隣に座すカリンナを一瞥する。彼女は表情の読み取れないうつろな瞳で虚空を見上げていた。
 沈黙が降りた場で、ファルクが不満げに呟く。
「来る前から分かっていたことだけど。ぼくって、歓迎されてないよね」
「……いや、歓迎するぜ。ようこそ、クッククローへ。俺たちは、お前のねーちゃんが愛想尽かせて出ていった冒険者ギルドさ」
 レオンの軽口に、笑い声など一つも起きなかった。

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3F

 目を覚ましたライは、夜が明けてなお薄暗い宿部屋を見渡した。
 窓辺に寄ってみるも、外はどんよりと曇っていた。加えて室内には誰もいない。空っぽであることを訴える腹を抱えつつ、ライは昨日の出来事を思い出す。と、同時に不愉快さに眉をひそめた。
「……とりあえず、下におりるか」
 昨日はあのクソ生意気なガキの顔を見るのがいやで宿部屋に戻ると、そのまま不貞寝してしまったのだ。
 宿の食堂にはクッククローのメンバーがいた。エトリアの頃と違って同じ宿には女性陣も寝泊りしているので、当然食事のときもアリルとカリンナがいる。ライに気づいて手を振るアリルと、それを真似るように手をわきわきとさせるカリンナに軽く笑い返すと、ライは意を決してレオンの正面に座す。
「今日からファルクも探索に入るぞ」
 当然のように降ってきた声に、ライは唇を尖らせる。
「おれはまだ、あいつを認めたわけじゃねーぞ」
「別にいいさ。おまえが納得しようとしまいと、世の中ってのは勝手に回るんだ。早めに割りきっちまった方がいくらか建設的だぜ」
 言外に「大人になれ」と言われているような気がして、ライは眉間の皺を深くした。“助言”に素直に迎合するほどライは愚かではないし、己の主張をあっさりと曲げてしまうことも癪に障る。
「あいつはどこにいるんだ?」
「ファルクは、この国にある別荘で生活しているらしい。あと少ししたら現れるだろう」
「けっ、お貴族さまのご別宅住まいってわけか。いいご身分だぜ」
 同じく貴族の出であるクルスが露骨に渋い顔をするが、何も言わない。舌を出して毒づいていたライは彼の表情に気づかぬまま続けた。
「樹海探索だって、どーせ金持ちの道楽だろ」
「誰の何が道楽だって?」
 冷たい声はライの背後からだ。振り返ると、昨日と同じ格好をした少年が、凍るような目つきでライを見下ろしていた。
「違うのかよ」
 負けず劣らず睨みつけてやると、少年―――ファルクは深々と溜息をついた。
「ゲスの勘繰り。好きに想像してろよ」
「ンだと」
「揃ったな。じゃ、今日の探索メンバーを決めるか」
 のんびりと割り込んできた声に、ライはその主に目を向ける。
「リーダー、おれはこいつと組むのだけはごめんだぜ。信用できるか、こんなやつ!」
「ぼくだっておまえのようなゲスに命を預けたくないね。ま、どのみち選択権はないわけだけど……」
 少年たちの当てつけ合いを半眼で聞いていたレオンは、溜息一つ答えた。
「ライ、カリンナは残れ。あとの五人は探索だ」
「リーダー!」
「俺の中ではな、ライ。おまえとファルク……おまえら二人の信用度は同レベルだ。財布はどこにも預けず、俺たちが管理する。この意味が分かるか?」
 何も言うことが出来ずにいると、レオンは身を乗り出し、ライの目を覗きこんで、低い声で告げた。
「―――分かったらとっとと“大人”になれ、クソガキ」


 それからしばらく、ライとファルクを同行させぬように上手くパーティを組みながら、クッククローは順調に探索を進めていった。
 ファルクは非常に無口な少年で、樹海探索は単なる使命であるとしか思っていないような淡白さで仲間とも接していた。すなわち、必要最低限の会話と、接触。
 探索が終わればすぐに姿を消し、待ち合わせには必ず時間通り現れる。
 ライとは対照的なほど、自己主張のない少年だ。
 クルスやアリルはそれを気がかりに思っているようだが、レオンはそれでいいと思っていた―――探索に支障をきたさぬ限りは。
 辿り着いたのは三階。任務を受けて、彼らは奥の部屋へと足を踏み入れようとしていた。


「うわ、これは酷いな」
 扉を開いた直後に立ち止まったレオンに、アリルは訝しげに首を傾げた。
「どうしたの? 後ろ詰まってるんですけ……ど」
 鼻を刺す甘い臭気に気付いたか、アリルが目を瞠った。初めて嗅ぐものではなかろう。これは、死臭だ。
「見ないほうがいい」
 言うと、レオンはアリルの顔の上半分を手で塞いで、彼女と似たような顔で立っているクルスに押しつけた。
 そして身に着けていた飾り布を外すと、一番近くにあった遺体をそれで覆い隠す。
「生き残りがいると思うか?」
 ふと尋ねれば、傍らにいたアイオーンが唇を引き締める。
「……まあ、一応捜そう」
 そう呟いて目を凝らすと、視界の悪い森の奥、新たな獲物を求めて彷徨う魔物の姿がうっすら見えた。


「た、助けてくれっ」
 一際巨大な鹿の魔物から上手く逃げおおせた一行の元に、血だらけの衛士が転がってきた。
「大丈夫ですか!?」
「あ、ああ、ありがとう……」
 アリルが駆け寄り、その手当てを開始する。レオンは側に膝をつくと、尋ねた。
「あんたの他に、生き残りは?」
「お、奥に仲間が一人……あとは皆やられた。あの魔物どもにやられっちまった。畜生、精鋭ばっかりだったのに、こんな……」
「分かった。あんたの命が助かっただけでも十分だ。脱出するぞ」
 泣き崩れる衛士の肩を叩きながら言うレオンに、アリルがはっと顔を上げる。
「レオン。まだ、もう一人生きている人がいるんでしょ?」
「そいつはもう駄目だ。見ろ」
 レオンが顎でしゃくった先、奥へと続く細い道筋には、大鹿の魔物が続々と押し寄せてきていた。
「そんな……!」
「急げ。間に合わなくなる」
 ライが衛士を支えて立ち上がらせる。皆黙ってレオンに従おうとしているのを見て、アリルはもう一度、生き残りの衛士がいる方向を見遣った。
 ほんの僅かだが、道がある。
 まだ間に合う。
「アリルさん!?」
 ファルクの叫びに、レオンは振り返った。
 アリルが鹿の視界に入らない草むらを抜けて、小部屋の方へ入っていったのが見えた。
 そしてちらりと、その先に蹲る衛士の姿も。
 アリルが彼に寄り添った瞬間、小道を抜けた魔物の角がぐいと下がり、臨戦態勢に入る。
「あの馬鹿……」
「レオン!」
 レオンは剣を抜くと、駆け出した。
 魔物が二人に迫る。
―――間に合わない。
 レオンは剣を振り上げると、それを魔物に向かって思い切り、投げつけた。
 刺さりはしなかったものの、剣は魔物の側頭部に命中した。呻きを上げてよろめく魔物に、アリルと衛士が気付く。
「走れ!」
 鋭いレオンの怒号に、彼女らははっと顔を上げて、移動し始めた。急いでいるようだが、怪我人を支える少女に速度は出ない。その間にも、魔物が体勢を整えてしまう。
 レオンは舌打ちすると、もう一人の衛士を背負ったクルスとアイオーンに先を急がせ、アリルたちの方へ走った。そして彼女らとすれ違いざま、転がっていた剣を拾うと、再度魔物に投げつけようとして―――振り上げられた角が眼前に迫っているのに気付く。
「ぐ……」
 レオンは間一髪、地面に体を投げ出す。仰向けになった全身の上空を、鋭い風が切り裂いていった。
 銃声。魔物の体が大きく揺らぐ。
「レオン、抜け道だ!」
 銃を構えるファルクの背後から、アリルたちが通ろうとしている草むらを指してアイオーンが叫んだ。
「いよっしゃ!」
 レオンは素早く魔物の下から抜け出すと、転がるように全速力でそちらに駆けた。
 しんがりの彼が狭い抜け道を突っ切ったところで、草むらから角の先端が同じ勢いで現れる。
 凄まじい咆哮。何度か頭突きを繰り返したところで無駄だと悟ったのか、魔物の気配はゆっくりと去っていった。
 完全に諦めたのだと知覚してから、レオンは深々と嘆息した。


 任務の完了を公宮に伝え、宿屋に帰ってきたレオンはファルクの様子がおかしい、とのアリルの言に眉を顰めた。
「みんなの手当てをしようと思ったんだけど……」
 ファルクが、一人ロビーに残ったままでいるらしい。いつもはすぐ去る彼を今日ばかりはと宿屋に連れ帰ったのだが、ほとんどそれに抵抗する様子もなかったのをレオンは思い出す。
 包帯を持って項垂れる彼女の頭にぽんと手を乗せると、レオンはファルクのいるロビーへ向かった。
「ファルク」
 声をかけながら近づいていくと、ソファに腰掛け、こちらに向けた背を丸めているファルクが目に入る。
 正面に回りこんで、顔を覗き込んでも反応が無い。目を開いたまま、俯いて、ぼんやりとしている。
(ははあ……クルスの奴と同じ症状だな)
 レオンは腰に手をやると、言った。
「お前、死体を見たのは初めてか」
 ファルクの肩がぴくりと震える。
 やはり、とレオンは思った。あの時、魔物に食い散らかされた遺体がアリルの視界に入らないようにはしたが、ファルクのことにまで気が回らなかった。
(そうだよな、こいつ、一応貴族の息子だもんな)
 惨い死体など、目にした事が無くて当たり前である。
「……別に慣れろとは言わんが」
 レオンは頭を掻きながら、続けた。
「探索を続ける以上、ああいう場面には何度も遭遇する」
 ファルクは俯いたままだ。レオンは慎重に言葉を探したが、あまりいい言い方が見つからなかった。
「俺達にも、ああなる危険性がある。だがまあ……あんまり深刻に考えないこったな」
 すると、ファルクが顔を上げた。
「深刻に考えるなだって? あんな……あんな風に死ぬのは、ぼくは嫌だ!」
「じゃ、やめるか?」
 あっさりとレオンが返すと、ファルクは絶句する。
 レオンは再び髪に手を突っ込むと、なるべく柔らかい口調で続けた。
「……俺だってあんな死に方したくねーよ。けど、他にやりようが無いから進むしかないんだ……それに幸い、俺達は独りじゃないだろう?」
 樹海に潜る時、独りではない。助け合える仲間がいる。
「お前、さっき俺やアリルを助けてくれたじゃないか。同じさ。お前ももう少し、仲間を信じろ」
 ファルクの後ろに見える柱の影から、アリルとクルス、カリンナが覗いている。心配そうな三つの顔に、レオンはこっそり苦笑いを漏らした。
「信じろって……どうすればいいんだよ」
 拗ねるように呟いたファルクの頭に、レオンはぽん、と手を置いた。
「そのうち分かるさ。お前の姉ちゃんが、そうだったようにな」

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4F

 冒険者ギルドは、いわゆる日雇い冒険者のたまり場でもある。
 彼らは特定のギルドに属すことなく、ただ依頼を受けてギルドに手を貸し、日金を稼ぐ。
 この丸テーブルで会話する男女も、そうした契約を結んだ二人だった。背の高いとんがり帽子を被った、艶やかな黒髪の女が余裕げに、男の方を見つめている。
「なら、私がここにいる必要はなくなったのねー?」
 柔らかく微笑んで、彼女はそう尋ねた。
 対する男は世話しなく周囲を見渡した後、人目を憚るように、目前のテーブルに革袋を乗せた。
「ありがとう」
 袋の中身を確認した女が囁く。そのおっとりとした口調、寛いだ雰囲気にも関わらず、男は弾かれたように立ち上がり、そそくさとその場を去った。
 女は袋を懐にしまい込むと、ひとりごちた。
「さて。これからどうしようかしらー………あら?」
 ふと顔を上げた彼女は、ギルドに入ってきた一団に目を奪われた。
 いや、正確に言えば、彼女が注目したのはそのうちの一人。
 黒みかかった赤い髪。そして―――本当は開くくせに、悪癖のように閉じられた左の目。
 彼女はにいと笑うと、そこを辞した。


 何故だか分からないが、ずっと嫌な予感はしていたのだ。
 そしてそこで見た影に、自分の予感が当たったことを悟る。
 レオンが瞠目した一瞬を、アリルは見逃さなかった。
「レオン?」
「いや、何でもない」
 相手は自分に気付かず―――いや、気付いていないわけがない。あれはわざと無視をしたのだ―――出ていったので、レオンは嘆息した。
「こんなところで……」
 レオンはそれを振り切るようにかぶりを振ると、傍らで不思議そうにしているアリルの頭をぽんぽんと叩いた。


「ちょっといいかしらー」
 話しかけてきた女に、イーシュはふにゃりと相好を崩した。
「何でしょう? 美しいお嬢さん」
「あらー、お嬢さんだなんて。お上手ねー」
 頬に手を当てて、女は嬉しそうに言う。
 イーシュは胸に手を当てて、大袈裟に腰を折った。
「こんな美女に声をかけていただけるなんて、光栄の至り。僕にご用件なら何なりと」
「ええ。あなたは、クッククローというギルドの人だと聞いたのだけどー」
 ちらりと背後を振り返り、女はそう告げる。彼女の視線の先にいたのはこの酒場の亭主。こちらを向いている顔の鼻の下が伸びていた。
 イーシュは女の目が揺るがないのを見て取った後、明るく答えた。
「そうですとも。冒険者に見えない?」
「そんなことないわー。だって、あなたはバードでしょう」
 イーシュの手の中にある楽器に目を落として言った女は、にっこりと微笑んだ。
「クッククローに、折り入ってお願いがあるのー。リーダーの人に会えないかしら?」


「んで」
 仏頂面を通り越して不機嫌面。
「―――ここに連れてきたってか……」
 人のいい笑顔二つ分を目前に、レオンはがっくりと肩を落とした。
 ここはフロースの宿のロビーである。既に夜はとっぷりと更け、クッククローの面々以外に人影は無い。
「あははは」
「笑いごとじゃねえ」
 明るく笑い声を立てたイーシュをレオンが睨みつけると、傍らに立っていた女がこう言った。
「あらー、お友達とは仲良くしないと駄目よ、レオンちゃん」 
「ちゃん付けで呼ぶな!」
 一声吼えたレオンの目が、きつく女を射抜いた。
「―――何をしにきた、ルミネ」
「だから、お願いがあるって言っているじゃなあい」
「断る」
「んもうー」
 二人のやり取りを、離れた階段の上から傍目に見ていたアリルが、ぽつりと呟いた。 
「……お知り合い、なんでしょうか……」
「そのようだな。親しげに見える」
 アイオーンがひっそりとそれに応じる。と、ライが面白がるような表情を乗せて、首を割り込ませてきた。
「リーダーの昔の知り合いって、俺、初めて見たぜ」
「私も……」
 アリルが同意すると、アイオーンは首を傾げる。
「俺達の中で、エトリアに来る前のレオンを知っている者はいないのではないのか?」
「そうなの?」
 ライは目を丸くしたが、すぐまたにやけた笑い顔に戻ると、言った。
「じゃ、貴重な生き証人なんじゃ―――」
「話ぐらい聞いてくれてもいいじゃないー」
 ルミネと呼ばれた女の言葉に、三人は彼女らの方へ視線を返した。
 踵を返したレオンに、ルミネが追いすがっている。
「いやだ。帰れ」
「レオンちゃんってばー意地悪ねえ」
 レオンは鬱陶しそうに彼女の腕を振り払うと、深々と嘆息した。
「いい加減にしろよ、ばーさん! 俺達ゃ年寄りの気紛れに付き合っていられるほど暇じゃ―――」
 レオンが言い終わるより早く。
 その体が宙に浮き、次いで、地面に叩きつけられる。
 建物全体が揺れた気すらした。
 ギャラリーは口をぽかんと開き、誰も何も発せないでいる。
 ルミネはレオンが顔面からめり込んでいる床を見下ろすと、にこやかに言った。
「誰が、ばーさんですって?」
 耳が痛くなるほどの静寂の中、響いた涼やかな声に応えられるものは一人として存在しなかった。


「おー、いち。くっそ、あのアマ。手加減ってもんを知らんのか……いててて」
 首を鳴らしながら、レオンはぶつぶつと呟いていた。
 その様子を見ながら、クルスは湿布薬などの残骸を片付け、男部屋に常設してある救急箱を棚の上に返した。
 クルスはレオンが投げ飛ばされた現場には居合わせなかったが、事の顛末はアイオーンから聞いていた。今、彼は悶絶したレオンの代理として無理矢理依頼を受理させられた後、アリルらと共に別の宿へルミネを送りに行っている。
「でも、残念ですね」
「何が?」
 まだ痛そうに関節を動かしているレオンに、クルスは揶揄するように言った。
「貴方が投げ飛ばされるところ、僕も見たかったです」
「けっ」
「それに、投げ飛ばした方の依頼人の女性も」
 レオンを投げられるのだから相当の腕前なのだろうが、黒髪のすごい美女だったとライやアリルが言うものだから、クルスも少なからず興味が湧いていた。
 だがレオンは、それこそ正気かと問うような表情になって言う。
「確かに外面はいいが、中身は最悪だぞ。見た目より歳食ってるし、ってかばーさんだし」
「レオン、女性に対してそんな評価をするのは如何なものかと」
「うるせえ。お前も、理不尽に何度も投げ飛ばされれば分かる」
 何度も、というところでクルスは目を丸くした。
 レオンはぷいと顔を背けてしまったが、クルスは浮かんだ疑問をそのまま口にする。
「古いお知り合い、なんですか」
「まあな」
 彼はベッドにごろりと仰向けに寝転がると、呟いた。
「―――全く、何故今頃になって……」
 その後の言葉は、クルスには聞き取れなかった。


 ルミネの依頼はごく簡単なものだった。
「私の亡くなったお友達の奥さんがねえ、ご病気で、もう長くないのよー。それでお友達がプロポーズの時に渡したお花を、探してきて欲しいってご家族にお願いされちゃって」
「樹海にしか咲かない花なんですか?」
「そういうわけじゃないんだけどー……季節が悪いのよー」
 ハイ・ラガードもやや初秋に入り始めた頃だ。その花は春に咲くらしいので、既に枯れてしまっているだろう。
「それで、樹海というわけか」
「確かに、何でもありそうですもんね。樹海は……」
 アリルはアイオーンと顔を見合わせて呟く。
 レオンが苛立たしげに言った。
「それだけで、本当に見つかるもんかね?」
 不機嫌を隠そうともしない彼に、ルミネは眉をひそめる。
「真面目に捜してくれる気、あるのー?」
「ない。俺はキマイラ退治に行きたい」
「んもうー」
「あの二人、どういう関係なんでしょうね」
 仲が良いのか悪いのか、よく分からない遣り取りを遠巻きに眺めつつ、クルスがぼそぼそと声を出す。
「親しい間柄なんでしょうけど……」
「だが少なくとも、レオンは彼女を好意的には見ていないようだな」
 アイオーンが囁くと同時に、レオンがルミネの腕を振り払った。あまりの邪険に、クルスが助け舟を出す。
「レオン、女性に対して扱いが乱暴すぎます」
「あん?」
「あら! 優しい坊やねー」
 ルミネが嬉しそうに手を叩いた。
「ぼ、坊や……ですか」
「レオンちゃん。あなたのギルドの子はあんなに可愛らしいのに、どうしてあなたはそんなに愛想がないのー?」
 ルミネの言葉に、アリルたち三人は唖然とする。
 レオンのこめかみに青筋が浮かんだ。彼は何かに耐えるような表情で、低く唸る。
「知るか。つか、ちゃん付けはやめろ」
「ほら、すぐそうやって突っかかるー。レオンちゃん、いつの間にそんな子になっちゃったのー?」
「あ、あの……すみません」
 アリルは勇気を出して、不穏な空気漂う(主にレオンの周りだけなのだが)中に割って入り、手を上げた。
「何かしらー」
 ルミネは満面の笑みを崩さない。
「る、ルミネさんは、レオンと一体どういう関係なんですか?」
「え?」
 まさかそれを訊かれるとは思っていなかったという顔で、ルミネはレオンを見上げる。
 彼は仏頂面のまま明後日の方向を見ている。ルミネはすぐに笑顔に戻ると、アリルに向き直った。
「それはね―――」
「あっ、あの花ではないですか?」
 クルスが声を上げる。彼の視線の先、通路の一角には確かに、聞き及んだ特徴を持った、青く小さな花が咲き乱れていた。
「あらー、あれだわ」
 すぐに見つかって良かったわー、とルミネが手を打つ。クルスはそれに微笑みを返した。
「綺麗な花ですね」
 が、側に立っていたアリルは何故かじっとりとクルスを見ていた。こころなしか非難の視線である。
「アリル、何か?」
「……クルスくん、空気読めてない」
「ど、どういう」
「目当てのものは見つかったんだ、とっとと採集して帰ろうぜ」
 レオンが会話に割り込む。彼はまた腕を取ろうとしていたルミネを振り払うと、足早に青い花に近づいていく。
 彼が屈もうとした瞬間、手を伸ばしたその向こうの草むらが揺れた。
「レオン!」
 注意を喚起する声を上げ、クルスが走った。ほぼ同時に気づいた様子で、レオンが剣を構える。それが完全な形になるより早く、揺れた草むらから白煙のようなものが噴出した。レオンとクルスがそれに巻き込まれて見えなくなる。
「危な―――」
「行っちゃだめ、危険よー」
 思わず駆け寄ろうとしたアリルの肩を掴んだのはルミネだ。口元を、どこからか取り出したハンカチーフで押さえている。
 アイオーンが籠手を掲げ、出力を加減した風で、こちらに及ぼうとした煙を吹き飛ばした。
 もやが晴れた先に、レオンとクルスが膝をついている様子、そして傍に舞う奇妙な鳥の姿が複数見えた。
「クルスくん、レオン!」
「サイミンフクロウよー。あの粉煙幕に催眠作用があるから、気を付けてねー」
 襲いかかってきた魔鳥を、アイオーンが炎で焼き払う。その隙にアリルとルミネは前衛の二人に駆け寄った。完全に眠らされてはいなかったが、意識がはっきりしない。
「あっ」
 アイオーンの術式から逃れていたサイミンフクロウが引き返してくる。アリルはとっさに杖を掲げて防御の姿勢を取ったが、それより早く動いた影があった―――ルミネだ。
「仕方ないわねー」
 彼女は、握力を失ったレオンの手から剣を取り上げると、片手でそれを構えた。アリルはその光景に目を疑う。レオンの剣は元々両手剣なのだ。それを片腕で持つということは、少なくとも彼と同じ筋力があることを意味する―――この、女の細腕に。
「えいっ」
 かわいらしく作ったような掛け声と同時に、ルミネはサイミンフクロウの脚を斬り飛ばす。バランスを見失ったそれが反撃に出るより、ルミネの剣が胴を貫く方が早かった。
「あと何羽かしらー」
 サイミンフクロウの粉が飛ぶ。アリルは慌てて自分の口元を布で覆ったが、まともに食らったはずのルミネは平然としていた。彼女は霧の向こうに消えていく。
 剣戟の音と鳥の断末魔が、見えない視界の中響いていた。
 やがてそれも収まりきった後、アイオーンが歩いて近づいてくるのが見える。
「大丈夫か」
「は、はい」
 その間、アリルは必要な処置を済ませていた。アイオーンがアリルに辿りついたとき、丁度レオンとクルスが我を取り戻す。
「……くそ、油断した」
「すみません……」
「いや、問題ない。それより彼女は―――」
「ここにいるわよー」
 レオンの剣を肩に担ぎ、ルミネは悠然と引き返してきた。かすり傷一つない。どこか汚れた気配があるのは、返り血飛沫のせいだろう。
「これ、返すわねー」
 ルミネはレオンのあぐらの真ん中に、無造作に剣を突き刺した。乱暴な所作に、レオンが呻く。
「情けないわねー、もうちょっとしっかりしなさいな」
 ルミネの言葉に、レオンはそっぽを向いて舌打ちしたが、何も言わなかった。
 するとそれが腹立たしかったのか、ルミネは唐突に拳を落とした。レオンが避けたので不発に終わったが。
「あらー」
「あら、じゃねえよ。つか勝手に人の剣を使うな、ハナからてめーで持って来い」
「私は依頼人よ? あなたこそ、この程度の敵に不覚を取ってどうするのー。あと剣だけど切れ味が悪いわ、きちんと手入れしてる?」
 アリルたちが青い花の採集作業を行うすぐ隣で、二人の不毛なやりとりが続いている。どんどん言葉が荒く、ヒートアップしているような気がするが。
 するとルミネがレオンの剣を抜いた。アリルは驚いて声を上げかけたが、ルミネが剣を振るった先は―――草むらだ。
 見ると、引き抜いた剣先にサイミンフクロウがいた。
「気を付けて、まだいるわー」
 アリルの視線に気づいたルミネがおっとりと呼びかけてくる。
 自分の剣を構えたままのルミネに、レオンが渋面を作った。
「おい、俺の剣返せ」
「嫌よー」
「……クルス」
「嫌ですよ。僕も使いますし」
 自身の剣帯にぶらさがる柄を押さえて、クルスはかぶりを振った。
 顔をしかめていたレオンは、腰の後ろの銀の短剣を引き抜き、わらわらと現れたサイミンフクロウの迎撃を始めた。といっても短剣なので有効範囲は狭く、ほとんど殴るか蹴るかの応戦である。
「レオン、これ使う?」
 四人に囲まれるような形で青い花を守っているアリルは、自分の杖をレオンに差し出した。どうせ殴るならリーチの広いほうがいいだろう。
「サンキュ」
 同じことをレオンも思ったらしく、大人しく杖を受け取った。ルミネの隣に並び、いつもの剣を振るうように、杖で魔鳥を殴打する。
 二人の様子を後ろから見ていて、アリルは気づいた。
「ルミネさんとレオンって、似てるね」
「あ?」
 戦いが終わった後、疲れた様子のレオンが眉をひそめる。ルミネは笑っていた。
「それは、そうでしょうねー」
「何の話だよ?」
「戦い方ですよ」
 クルスが口を挟んだ。
「剣の使い方というか、基本の型というか」
「当然よー、だってレオンに剣を教えたのは私だもの」
「ええっ!?」
 クルスとアリルは顔を見合わせる。
 この返答は予測していなかった。
 ルミネは二人の驚きをよそに、油断していたレオンの腕をぱっと取って、振りほどけないようしっかりと組む。
「それ以外にも……あんなことやこんなことも、ね?」
 レオンは今日何度目かの舌打ちをした。


 その日、無事に青い花の採集を終え、ルミネと別れた後も、レオンは始終不機嫌だった。
「ってことは、あのルミネって人、リーダーの師匠なのか」
 女の師匠っておれと同じだな、とライがエビフライを頬張りながら呟いた。
 視線の先にはカウンターで呑んでいるレオンとアイオーンの後ろ姿がある。それを遮るようにぬっと、この酒場―――鋼の刺魚亭の亭主の髭面が現れた。彼はどかどかと、クルス、ライ、アリル、カリンナがついているテーブルに、追加の料理をのせていく。
「へへ」
 注文したのはライであるらしい。
「よく食べるね、ライくん」
 アリルが目を瞠る。羊肉のグリルがみるみるライの口に吸い込まれていった。
「腹が減ってはいくさは出来ぬってね」
「もう今日はあと寝るだけだと思いますが……」
 ミルクを飲みながら、呆れた顔でクルスは呟いた。探索帰りの彼でさえ、とっくに満腹だ。
 ライはフォークを振ると、話を戻した。
「そういえばリーダーって冒険者になる前、何やってたんだ?」
「さあ……」
 アリルが首を傾ぐ。クルスはそれを意外な心地で見た。レオンの性格からして自分から話すことはないとしても、アリルはてっきりそれを尋ねているものと思っていたからだ。
 クルスはちらとカウンターを窺う。まあ、話してもレオンは咎めはしないだろう。
「レオンは元傭兵ですよ」
「へえー、なんかフツーだな。たしかに戦争とか行ってそうだ」
 ラザニアを頬張るライが、ぽろぽろ米粒を零しながら呟く。クルスは眉をひそめた。
「口の中のものを食べてから喋ってください」
 ふとアリルを見ると、彼女はグラスを握って俯いていた。
 その、思いつめたような表情に、クルスはぎょっとする。
「アリル、どうかしました?」
「え? う、ううん」
 ぱっと上げた顔に、つくろったような笑みが広がる。腑に落ちぬものを感じながらも、クルスは追究しなかった。
「レオンといえば……最近、少し変ではないですか?」
「リーダーはいつも変わりモンだろ」
「いや、そうではなくて……」
 クルスは虚空を見上げた。今日の出来事を思い出す。
「なんだか、不注意が増えたような気がするんですよ。今日も草むらから出てきた魔物に不意を食らってましたが、いつもの彼なら、あのくらいの魔物の気配はすぐ分かると思うんです」
「あー確かに、こないだの探索でもそんなことがあったよ。f.o.eの数も分かんないって言ってたな」
 何かを嚥下しながらライが同意する。その隣のカリンナが、のみ込む動きを頷くと勘違いしたような動作で首肯していた。
「アリルはどう思います?」
「え……うん、そう、だね……」
 随分歯切れの悪い返事だ。クルスの中で違和感がいや増す。
「アリル、調子が悪いなら―――」
「あっ、あれ、ルミネさんじゃね」
 ライがスプーンでカウンター席を指した。レオンとアイオーンに手を振りながら、赤紫のワンピースを着た長い黒髪の美女が近づいていく。
 何か話しているようだ。レオンは露骨に顔をしかめると、彼女から逃げるようにこちら、つまりクルスたちのいるテーブルに移動してくる。
「冗談じゃない。今でも十分カツカツなんだ」
「お金ならあるわよー、ほら」
 レオンを追って、ソファに座したルミネは、テーブルの空きスペースに重そうな革袋を載せた。
「わお」
 ぱっと伸ばしたライの手を、レオンが打つ。
「いって!」
「いくら積まれても断る。帰れ」
「だから言ってるじゃない、定宿を追い出されちゃったのよー」
 ルミネの言葉に、クルスはアリルと顔を見合わせる。
「どういうことですか?」
「私はずっとこの国……ハイ・ラガードでフリーの冒険者をしているのだけれどー、さっき定宿でトラブルがあって、荷物をまとめて出てきちゃったのー。宿で仕事を斡旋してもらっていたから、他に頼りもないしー、あなたたちの宿を紹介してもらえないかしらと思って」
「フリーって、つまりはモグリの冒険者じゃねーか。そんな奴泊める正規の宿なんざねえよ。大体、その“トラブル”ってのも、どうせあんたがてめえで起こしたんだろ」
 レオンの言い草に、クルスは顔をしかめる。
 が、ルミネは微笑みながら応じた。
「あらー、宿の全員を兄弟にしてあげただけよ」
「いちいち下品な言い方すんな!」
 レオンが吼える。
 その言葉には、さしものクルスも頬が引きつった。
 意味が分かっていないらしいアリルとライ、そしてカリンナがぽつりと呟く。
「きょうだい……?」
「正確に言うとね、あ―――」
「子供にいらんこと教えるな!」
 だん、とレオンがテーブルに拳を叩きつけた。ライが口をつけていたパスタごと、彼から離れていく。
「何よー、あなたもそうなクセして」
 ルミネの平然とした態度に、レオンは盛大に顔を歪めて絶句した。
 まるで爆撃のようなルミネの一言一言に、クルスはレオンが何故これほど彼女と関わるのを嫌がっているか、なんとなく理解できてきた。
「イーシュさんみたいな方ですね……」
「いや、あいつのが数倍マシだ……この魔女め」
「お褒めの言葉として戴いておくわー」
 にこにこしているルミネに、レオンは疲れた顔で吐き捨てた。
「いい加減にしてくれよ、ねえさん」
 何気ない言葉。
 しかしそれを聞いた瞬間、アリルの表情が変わったのがクルスには分かった。
 やっぱり様子がおかしい。
 だがそれを追及する間もなく、ルミネが目を細めて呟いた。
「ようやく、そう呼んでくれたわねー」
 レオンは彼女を睨みつけたが、やがて諦めたように肩を落とす。
「俺を困らせて何が楽しいんだか……」
「ふふ……でも本当に、あなたたちの力になりたい気持ちはあるのよ。見たところ、治療が出来るのはそこのお嬢さんだけでしょう?」
「あ……はい」
 アリルが頷く。
 ルミネはレオンに向き直った。
「あなたに迷惑はかけないわー。私は私で勝手にやるから……そうね、私の手が必要なときは呼んでちょうだい」
「勝手にやられちゃ、紹介する俺たちが迷惑こうむるんだよ。そこまでやるならギルドに入れ」
「あなたの?」
「俺たちの、だ」
 レオンは振り返ってアイオーンを呼んだ。
 彼がテーブル席に来ると、レオンはクッククローの面々をを見渡して尋ねる。
「そんなわけで、こいつをギルドに入れてもかまわないか? 実力は俺が保証する……というか今日樹海で見たとおりだ」
「ルミネさんは、レオンとどういう繋がりなの?」
 樹海で答えを聞き損ねたアリルの質問に、レオンは少し逡巡したのち答えた。
「昔、俺がエトリアに来る前……同じ傭兵隊にいた元仲間だ」
「うーん……説明としては不十分ねー」
「あんたは黙ってろ」
 ルミネの茶々に、レオンは吐き捨てる。これ以上、説明を付け加えるつもりはないようだ。
「宿代は自分で持てよ。同行動を取るのはあくまで探索だけだ」
「つれないわねえ……」
 反対意見はあがらない―――というより、皆がルミネに圧倒されて、呆けたようになってしまっているだけかもしれないが。
 しんと静まり返った場に、ライが麺を啜る音だけが響いている。
 やがて、ルミネはにっこりと笑んだ。
「そういうことだから、よろしくねー」
―――こうしてまた一人、クッククローには変わり種が増えていく。

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5F

 その人が、話しかけてきたのは恐らく、ただの偶然だろう。
「おや、君は」
 図鑑から目を離し、クルスが顔を上げると、その男は嬉しそうに言った。
「やっぱりそうだ。クッククロー・ギルドの」
「貴方は……」
 長髪に、品の良い笑顔。
「確か、フロースガルさん……」
 ここは公宮の中にある資料館である。それゆえ武装こそ解いているものの、樹海で抱いた爽やかな印象そのままの青年に、クルスはぽかんと口を開けていた。
「覚えていてくれて嬉しいよ。ええと……」
「僕はクルスです。その節はお世話になりました」
 椅子から立ち上がり、杓子定規に頭を下げたクルスに、フロースガルは慌てたように言った。
「いや、あれは冒険者として当然の事をしたまでだよ」
 結局、君達は生き残りの衛士を見事に救出してくれたんだから、と彼は続ける。
「それにしても君達は凄いね。こんな短期間に、もう四階まで上ってしまうとは。さすが歴戦のギルドだ」
「いえ、そんなことは……」
 照れたクルスは頬を赤く染める。フロースガルはそれに気付かず、続けた。
「エトリアの樹海もきっと手ごわい相手だったんだろうね。―――あ、座っても?」
「ええ。どうぞ」
 フロースガルはクルスの正面に座すと、にっこりと微笑んだ。
「君達の、エトリアでの武勇譚を聞かせてもらってもいいかい?」
 気になっていたんだ、と言うフロースガル。クルスはちらりと窓の外に目をやった。
 メンバーとは日没に酒場で落ち合う約束だが、まだ陽は高い。
 クルスはフロースガルに微笑み返すと、物語を紡ぐべく口を開いた。

 ―――結局、クルスが図書館を出たのは、陽もたっぷり暮れた後だった。


「ベオウルフは……フロースガルは、仲間を百獣の王に殺されている」
 兜の奥から淡々と響く声。
 百獣の王討伐の任務を受けたと話すと、ギルド長は独り言のように言った。
「だが仲間の仇を討つべく……クロガネと共に、再び挑むつもりのようだ。気持ちは分からないでもないが、二人きりで倒せるような相手だとは思えない」
「確かにな」
 あっさりと同意したレオンに、クルスは眉を顰める。
 と、その表情に気付いたレオンが肩を竦めた。
「―――本当のことだろ?」
 クルスは嘆息する。この男には、相変わらず他人を慮る心が抜けているらしい。
 二人のやり取りを気にした風もなく、ギルド長はこう締めくくった。
「復讐も仇討ちも、成す者が死んでしまえば意味がない。……お前達も無駄に倒れぬよう注意するんだな」


「浮かない顔をしているね」
 突然かかった声に、クルスは手の中の便箋を握り潰してしまった。
 フロースガルの前で、慌ててそれをポケットに仕舞い込む。怪訝そうながら彼が正面に座ったのを認めると、クルスは目を伏せたままそれとなく、口を開いた。
「フロースガルさんは……騎士団出身なのですか?」
「うん?」
 首を捻ったフロースガルに、クルスは両手を振った。
「いえ、やはりいいです。変なことを訊いてしまって―――」
「そうだよ。いや、出身と言うよりも……逃げ出したと言った方が正しいかな」
 その言葉に、はっとクルスは顔を上げる。
 目が合ったフロースガルは、自嘲気味に微笑んだ。
「貴族のしきたりとか……そういうのが昔から苦手でね。腕っ節しか取り得がなかったから、騎士団に入ったんだけど……窮屈なのは変わらなかった」
 彼の語る言葉が、クルス自身の身に染みる。
「―――耐え切れなくなって、団を飛び出したのは随分前だけど。しばらくふらふらした後に辿り着いたのが……ここ」
 フロースガルは笑顔に戻ると、人差し指で下を指した。
 対照的に、クルスは落ち着かない気分で俯く。
「……さっきの手紙、家の方からかい?」
 フロースガルが遠慮がちに尋ねた。クルスは下を向いたまま、小さく頷いた。
 内容はほとんど読んでいない。読む前に潰してしまった。だがどうせ、騎士団の名誉だの家の名がどうだのといった、いつもと同じ用件に違いなかった。
「そうか」
 そして、しばらくの沈黙が降りる。
「……フロースガルさん」
「なんだい?」
 顔を上げたクルスはしかし、彼と視線を合わせないようにしながら言葉を紡ぐ。
「その……騎士団を抜けて、後悔しませんでしたか?」
 ちらりと目を上げて見たフロースガルは、少し驚いていた。
 だがすぐ表情を和らげると、こう返した。
「君は、今の君を後悔しているの?」
 目を丸くしたクルスに、フロースガルは続ける。
「―――僕は、しなかったね」


「乗り込むぞ」
 身を刺すような殺気が放たれている部屋を目前にしながら、レオンはそう言った。
「クロガネちゃん、ちょっと待っててね」
 クロガネの応急処置を―――本当に、気休めにしかならないものだったが―――終えたアリルが、大きな耳の近くで囁く。血に濡れた黒狼は、返事をするように弱々しく鳴き声をあげた。
 クッククローがここに到着した時にはもう、手遅れだった。横道に逃げ、哀しげに吼えるクロガネは致命的ともいえる深い傷を負っていた。クルスは周辺をくまなく捜したが、クロガネの主人の姿は、どこにも見当たらなかった。
 誰も、何も話さない。やがて静かにクルスたちが立ち去ろうとした矢先、クロガネは渾身の力で立ち上がった。
「立っちゃ駄目!」
 震えるその足に、アリルが悲痛な声を上げる。駆け寄った彼女に、クロガネは咥えていた何かを差し出した。
「えっ……これ……」
「見せてください」
 クルスは、目を白黒させるアリルから半ば奪うようにそれを受け取る。
 それは、所々赤黒く汚れた地図だった。
 目前の広間まで描かれたその地図は、恐らく、ベオウルフで用いられていたものだろう。
 クルスは真っ白になった頭で、黒狼を見上げた。
 彼は細い、だがはっきりとした声で、高く吼え続けている。
「行こう」
 肩に手を置かれ、クルスははっと我に返った。
 振り返ると、レオンがいつもと変わらない、無表情で立っていた。
「―――この先に、百獣の王がいるのに間違いないんだな?」
 彼の視線は、クロガネを向いている。
 だがクロガネは、ただひたすら吼え続けていた。
 レオンはクルスの肩をぽんと叩くと、踵を返した。
「気を引き締めろ。戦えなくなるようなら、置いていくぞ」
 その一言に、クルスはぐっと口元を引き締める。
 そして振り返ることなく、レオンに続いた。


「ここに来て、色々なことがあったけど……」
 フロースガルは目を伏せ、呟く。クルスは彼が樹海の魔物によって仲間を失ったということを思い出したが、それを察されないように唇を噛む。
 しかし彼は、微笑みすら口角に浮かべて、続けた。
「楽しいことは、その中でも多すぎるほどだったよ。今までは味わえなかった喜びも、ね」
 そこでふと、獣の鳴き声のようなものが聞こえてきた。
 空耳かと思ったが、フロースガルが振り返った先の窓を見て、クルスは納得した。
 窓縁をかりかりと掻いているのは、黒く大きな狼。
 フロースガルに付き従う、クロガネという名の獣だった。
 フロースガルは困ったように笑うと、窓に近づいていった。
「ごめんごめん、昼には出るって言ったのにな」
 彼の謝罪の言葉に、クロガネは抗議するように、しかし周りを憚ってか、小さく鳴いた。


「クロガネちゃん……」
 百獣の王を倒し、クッククローは再びクロガネの元まで戻ってきていた。
 彼はクルスたちの姿を―――五人とも満身創痍ではあるが―――確認すると、長く長く一声吼え、そしてゆっくりと崩れ落ちていった。
 アリルは目を真っ赤にして、膝に乗せた大きな頭を撫でている。クロガネの顔には、満足そうな表情が乗っていた。


 戦いの仔細と、その結果の証拠を公宮に届け、任務は完了した。
 宿部屋に戻ったクルスの手の中には、今日もまた届いた紋入りの封筒がある。
 読まずに捨ててやろうか。いや、そんなことをすれば、誰かに見つけられて中身を読まれるかもしれない。レオンやライあたりならやりかねない……
 結局、普通に開いて、目を通すことにした。
 自分のベッドに腰を下ろし、文字を追う。クルスは深く溜息を吐くと、手紙を破り捨てた。
「まだ、手紙来てんのか」
 いつの間にか眼前に立っていたレオンが、感心するように言った。
「お前、一回家に帰ったんだろ?」
「帰ったせいで、手紙攻撃が来るようになったんですよ……」
 クルスがそう力無く呟くと、レオンは乾いた笑いを漏らす。
「何がおかしいんですか」
「いや……いいじゃねえか、忘れられてるよりはマシだろ」
「たまには忘れて欲しいです……」
 こんな事をしても、実家へ戻る気がますます失せるばかりなのに。
 心底嫌そうにクルスがそう呟くと、レオンはにい、と笑う。
「だったら、お前から手紙を出してやればいいじゃねーか」
 レオンの言葉に、クルスは盛大に顔を顰める。
「そんな事をしたら、ますます手紙が来るじゃないですか! 大体、何を書けば―――」
「いや、減るさ」
 確信めいた返答のち、クルスが何か言うよりも早くレオンは続ける。
「何を書くかだって? んなもん、“僕は生きてます”の一言だけでいいんだよ」
 どうでも良さそうにそう言うと、彼は眠たげに大あくびした。

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第二階層

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6F

「うえっへっへっ」
「何だ、気持ち悪ィな」
 宿部屋で武器の手入れをしながらにやにやしていたライは、げんなりした表情のレオンに向き直った。
「聞いてくれよ、リーダー! ……シトト交易所にさ、おれが使ってる鞭はどれだって、買いに来る客がいるんだって!」
「ああ……」
 クッククローは先日、一階層最後の強敵キマイラをくだし、第二階層に入った。キマイラ戦にはライも同行したので、街の噂になっているのだろう。エトリア時代にはよくあった話だ。
 ライはそれで浮かれているらしい。大事そうに鞭を置く。
「それだけじゃねえぜ。酒場の話題だってクッククローでもちきりさ! げへへ、おれも有名になったってことだよな」
「いちいち調子に乗ってんじゃねえぞ。まだ先は長いんだから」
 ため息をつきながら、レオンは言った。ライはそれに唇を尖らせる。
「また説教かよ」
「するか、めんどくさい。足だけは引っ張んなっつう意味だ」
「あ、リーダー出かけるのか?」
「腹減った。もうそろそろ探索組も帰ってくるだろ」
 窓の外の日はようやく暮れ始めた。ハイ・ラガードは昼が長いのだ。
 酒場に足を向けたレオンのあとを、ライがついてくる。
「リーダー、探索に出てねえとホント暇そうだな」
「うん、暇」
 宿の小さな玄関を身を屈めて潜る。ライは呆れたように言った。
「せっかくエトリアよりでかい街にいるんだから、趣味でも見つけりゃいいのに」
「俺の趣味は樹海散歩だよ」
「悪趣味だなー」
 こじんまりとした庭を横切ろうとしたところで、元気のいい吠え声が近づいてくる。
「どわっ」
 毛玉―――そんな可愛いサイズではなく、文字通り毛塊のような―――に組み付かれ、ライがひっくり返る。飛び退き、反射的に腰の剣の柄に手を添えていたレオンは、毛玉の正体に目を丸くして呟いた。
「犬?」
「あーでででで! ちょ、離れろっ、ヒューイっ!」
 ヒューイと呼ばれた犬―――四つん這いになった熊ほどの大きさもある犬は、ライを踏みつけながら、嬉しそうに「わんっ」と鳴いた。
「何だコイツ」
「カリンナの飼い犬だよ、おれにはちっとも懐いてねーけど……いだいって! 引っ張んな!」
 悲鳴を上げるライの言うとおり、ヒューイはじゃれているというよりライで遊んでいる。犬が現れた方向に目をやると、なるほど、首輪の紐が繋がれた杭が外れていた。
 レオンは首を傾げた。
「しかし、コイツこんなにでかかったか?」
 ハイ・ラガードに一行が訪れて、まだ数か月も経っていない。カリンナが連れていた犬は子犬だったはずだ。
「知るかよ、ひと月で急激に成長期がきたんじゃねーの!」
「こんなにでかいと……あっ、最近アイオーンが食費食費つってんのは、おまえのせいか!」
 もみくちゃになった犬とライのそばに屈みこみ、レオンは呻いた。
「そうそう、めちゃくちゃ食うんだよコイツ」
「それはおまえもだろーが。……そうか、この犬のせいか……」
 よく分かっていないらしい犬は、レオンと目が合うと「わん?」と首を傾いだ。


 この日のクッククローの探索は樹海特産物の収集が目的だったのだが、クルスはとても渋い顔をして報告を行っていた。
「……そんなわけで、収穫はこちらです」
 革袋がひとつ、酒場のテーブルに乗せられる。そろりと伸ばされた褐色の少年の腕を打って、レオンは革袋を取り上げた。中身を覗き、呻く。
「こんだけかよ」
「リュウさん一人じゃ、やっぱり大変だよ」
 紅茶を啜りながら、ファルクが呟く。
 リュウは、フリーランスの樹海採集専門の冒険者だ。エトリア時代のブルームのように、資金繰りの厳しいクッククローのサブメンバーとして探索に参加してくれている。
 しかし、エトリア当時よりも大所帯になってしまったハイ・ラガードのクッククローは、リュウ一人で採集できる資源ではとても賄いきれないのだ。
「―――もう一人、採集要員がいてもいいと思う」
「うーん、しかしこれ以上外部から雇うのにも、金が……」
「つか、なんでおめーがここにいんだよ」
 ライはひき肉のスープから引き抜いたスプーンを、斜め前に座すファルクに突きつけた。盛大に飛んだ赤色のスープにファルクはしかめ面をするが、淡々と答える。
「ぼくもクッククローの一員なんだけど? 会議に参加して、何が悪いのさ」
「ぬぁーにが一員だよ。今まで散々誘われても顔出しすらしなかったお貴族様がよ、どういう心変わりだ」
「みんなが話し合う場で、無関係の事を取り上げてひとりくちゃくちゃ汚らしく食べ続ける奴に言われたくないね」
「ああん?」
「おまえら、それ以上やるなら外に放り出すぞ。話が進まねえ」
 拳を握ったライの隣で涼やかにそう警告すると、レオンはクルスに向き直った。
「―――リュウは何て言ってた?」
「やはり、自分一人ではこれ以上は難しいと……」
「うーん」
 元々採集技能を持たないクッククローのメンバーたちが訓練したところで、得られるものは今と五十歩百歩だろう。やはり、誰か追加人員を入れるしか―――
 そこでふと、レオンはここに来る前の出来事を思い出した。
「犬……」
「え?」
「カリンナの飼っている犬、あれ、何かに使えないかな」
 カリンナを見ながら呟くと、彼女はいつものようにぼんやりとした顔をしていた。
「犬って、ヒューイのことですか?」
「そう。あれだけでかい犬なら、樹海に連れて行っても大丈夫じゃないか? 現にベオウルフにもいたし、犬」
「たしかに……力も随分強くなってますしね」
 顎を掴んで虚空を見上げるクルスに、レオンは口角を上げた。
「なんか完全にギルドが飼ってる犬みたいになってないか?」
「僕やアリルも、カリンナが探索中でいないときは遊んであげたりしてますよ。……カリンナ、どう思いますか? 飼い主は、あなたですし」
 カリンナに注目が集まる。彼女は小首を傾げながら、口を開いた。
「つれていっても……いいけど、わたしも、行く……」
「問題はヒューイが命令を聞くかだな」
 アイオーンの言うとおりだ。樹海は外の世界とは違う。魔物を前に普通の動物が、パニックを起こさずにいられるかどうか。
「カリンナがいれば大丈夫だと思うぜ。な?」
 ライが顔を覗き込むと、カリンナはちいさく頷いた。
 レオンはエールを口に運ぶと、呟いた。
「ま、働かざる者、食うべからずっていうしな」
「動物にも適用されるんですね、それ……」
「人間も動物だろ? 生きとし生けるものは平等なんだよ」
「リーダーが言うと嘘くさいな」
「やかましい」
 欠伸をかみ殺しながら、レオンは続けた。
「じゃあ、明日早速試してみるか」


 赤い森を駆けながら、ヒューイは鼻をくんくん動かして、周りをきょろきょろと見渡している。
「一応、落ち着いて、きては、いる、みたい、だなっ」
 レオンはその、綱ほどの太さのある首紐を引っ張っていた。ヒューイの上にはカリンナが乗っているが、それでもぐいぐい前に進もうとするヒューイを押さえるのは大変だ。
「ほらほらレオン、頑張ってー」
「なんで、あんたまで、乗って、んだよ!」
 カリンナを後ろから抱くようにしてヒューイに座るルミネは、ひらひらとレオンに手を振っていた。
 探索メンバーは、ヒューイがほとんど知らない顔である。クルスやアリルといった、ヒューイが普段から見知った相手が樹海に連れて行くことも考えたが、命令できる立場の人間が複数いるとヒューイが混乱する可能性があった。ライは彼に馬鹿にされているので論外で、そうなるとメンバーは限られてくる。
「アイオーン、付いてきてるかっ」
「な、なんとか」
 レオンは一人遅れて走るアイオーンを振り返った。ヒューイは常に駆け足のため、移動はマラソン状態なのだ。体力のない彼にはきついだろう。事実、アイオーンはばてつつあるようだ。
「カリンナ、少し、休憩にしよう!」
 レオンが呼びかけると同時に、カリンナはひらりと地面に降りた。ヒューイはそれに気づき、少し行き過ぎたところから戻ってきて、カリンナの周りをぐるぐると回りだす。
 カリンナと同じように地面に下り立ったルミネが、肩で息するレオンに近づいてきた。
「この程度で値を上げるなんて、年取ったわねー」
「そ、う、思うなら、あんたも、一緒に、走れ!」
「嫌よー。それで、採集場まではあとどれくらいなのー?」
「お、俺じゃなくて、アイオーンに訊いてくれ」
 親指を向けたアイオーンは、へなへなと道に崩れ落ちていた。あらあらーと言いながら、ルミネはレオンを振り返る。
「回復させてあげたほうがいいかしらー?」
「そうしてやってくれ……つかこの調子じゃ、到底半日も保ちそうにないな」
 だが、早足のせいで目的地まではもうすぐらしい。僅かながら体力が回復したアイオーンが見せてくれた地図によれば、あと数分で採集場に辿りつくはずだ。
「―――いや……予定の採集場を回ったら、さっさと街に戻るかな」
 アイオーンの顔色を一瞥し、レオンは独り言のようにぽつりと言った。


 一方で、留守番組は宿のロビーにて、カードゲームに興じていた。
 しとしとと降る窓の外の雨音を背中で聞きながら、クルスは正面の真剣な顔のアリルが持つ、二枚のトランプのうち一枚を抜き取る。
「あっ」
 非難するような声。クルスが抜いたのはダイヤのエースだったので、彼女の手元に残ったのはジョーカーだったのだろう。
 抜いたものと自分の手札、同じ絵柄の二枚を中央のテーブルに置き、クルスは右隣のライに向き直った。
 ライはソファに仰け反った格好から腕だけを伸ばし、クルスの一枚だけ残った手札を乱暴に抜く。自分の持つ、これもまた一枚だけのカードを一応確認し、二枚をテーブルに放った。
「あーがり」
「ああー、また負けちゃった」
 残念がるアリル。だが、ライは生欠伸をかみ殺した。
「つまんねー」
「も、もう一回! 今度こそ、負けないから!」
「ぼくは抜けるよ」
 持参していた本に目を落としていたファルクがぽつりと言った。
 彼はゲームの早い段階であがり、それからずっとこうして本を読みふけっていたのだ。左隣に座す彼に目をやり、クルスは困ったような口調でこう言った。
「もう一回くらい、やりませんか?」
「結構。というか、特に用事がないなら帰ってもいいかな?」
「おー、帰れ帰れ」
 耳の穴をほじくりながら、鷹揚にライが告げる。それをクルスがいさめる間もなく、ファルクはじろりと本から目を上げてライを睨んだ。
「おまえに命令される筋合いはないね」
「じゃあお願いしてやろーか? “ファルクお坊ちゃまー、後生ですのでお帰り下さいませー”」
 ひれ伏すような動作をしながら、挑発のようにライが棒読みする。ファルクは顔をますますしかめた。
「ま、まあまあ」
 みるみる険悪な雰囲気と化していった二人に、アリルが口を挟んだ。かろうじて笑顔だ。
「さすがにトランプばっかりじゃ、退屈よね。ほ、他のゲームでもしましょっか」
「そ、そうですね」
 クルスもそれに応じて身を乗り出した。頑張って口角を上げる。
「ファルクくんは、何なら参加してくれる?」
「何でも乗り気じゃないんだけど」
「おれはポーカーが良いな。賭けるやつ」
 ライの言葉に、ファルクは露骨に鼻を鳴らした。
「すぐ金に走るんだな」
 かちんと来た様子で、ライはすぐに言い返す。
「ハ、何でも持ってるお貴族様にはわかんねー感覚だろうな」
「ギルドの金を盗むような奴に言われたくないね」
「……んで、それをおまえが知ってんだよ」
 クルスはアリルと顔を見合わせた。
 ファルクは事もなさそうに、本に目を落としながら答えた。
「別に。会話から容易に推測できることさ……リーダーに信用されてないんだろ、おまえ」
「んだと!」
 ライは猫のようにテーブルを跳び越えると、ファルクに食らいかかった。ソファがひっくり返る。アリルが悲鳴を上げた。
「ライ!」
 二人の動きに阻害され、クルスは近づけない。ファルクは押し倒された瞬間に、身を屈めていた。転倒するソファから逃れるように立ち上がろうとするが、その頬をライの拳が殴りつける。
「っ」
 なおも組み付こうとするライと揉みくちゃになる。ファルクが腰のホルダーに手を伸ばした―――クルスは叫ぶ。
「やめろ二人とも!」
 遅かった。
 乾いた銃声が響く。
「きゃあああ!」
 銃弾の突き刺さった天井から漆喰が降る。
 間一髪それを回避していたライは、片頬に負った一線傷に血を滲ませていた。だが睨みつける金の瞳は怯んでいない。銃を構えたままのファルクに馬乗りの状態のまま、また拳を振り上げる。
「やめ―――」
 そこに、宿の玄関戸が開いた音がした。ばたばたという足音。ロビーを抜けて玄関へ走った宿の女将の後姿が見える。
 また銃声。はっとしてクルスが少年たちに目を向けると、二人は組み合いながら、殴る蹴るの応酬を続けている。銃のトリガーにはファルクの指先が引っ掛かっており、暴発したようだった。
「おい、何やってる!!」
 玄関から駆けてきたのはレオンやアイオーンたちだった。鎧や髪が雨に濡れている。タイミングよく樹海から戻ったところらしい。
 レオンは暴れ回る二人の少年に素早く駆け寄ると、いとも簡単に―――相当暴力的にだが―――二人を引きはがした。逆方向に二人を突き飛ばし、転がす。
「クルス!」
「は、はいっ」
 返事した瞬間、火花が散った。
 殴られたのだ―――と理解したのは、鬼の形相のレオンが拳を握っていたからで。
「止めろ、馬鹿野郎!」
「すみません!」
 反射的に謝るクルス。
「クルスくんは悪くないわ」
 泣きじゃくりながらも、アリルが訴えてくれるのが救いだ。
 レオンはそれに何も返さず、まだ興奮した様子で睨みあう二人の少年の首根っこを掴んだ。反射的に抵抗する彼ら―――仮にも、十代半ばの少年を二人―――を物ともしない力でずるずる引きずり、壁に張り付くギルド員の傍を通り過ぎると、宿の玄関から外に放り投げる。
「出ていけ、帰ってくんな!」
 叫ぶと同時に乱暴に戸を閉め、表口なのに勝手に鍵までかけると、レオンはロビーに戻ってきた。
 落ち着いて見渡すと、ロビーは凄惨たる様相だった―――ソファはひっくり返り、敷布は歪み、破けている。天井と壁には弾痕が複数残り、綺麗に飾られていた花瓶はなぎ倒されていた。
 アイオーンとルミネが宿の夫妻に謝り倒している横を抜け、クルスは、倒れていないソファに疲れた様子で座り込むレオンに近づいた。
「す、すみませんでした……」
 武装を解こうともしていないところから、相当疲労しているらしい。
「ったく……何やってたんだ?」
 事情も聞かずに、まず原因の少年たちを追い出すところが、レオンらしい事態の解決の仕方だ。
「ライとファルクの仲の悪さを何とかしようと思って、四人でゲームをしていたんですよ」
「私の発案なの……クルスくんは、それを、手伝ってくれただけで……」
 しゃくりあげながらクルスの隣に並んで、アリルが釈明する。
 レオンはテーブルの上を一瞥する。名残のトランプが散らばっていた。
「……何となくは分かった。だが、こうまで酷くならなくても、喧嘩しだすことの予測ぐらいついただろ」
「本当にすみません。どうしたらいいのか、分からなくなってしまって……」
「おまえもだ、アリル。びーびーいつまでも泣いてんな」
「っご、めんな、さ」
「ロビーはおまえら二人で片付けろ。あいつらの後始末は俺がやる」
「お願いします」
 レオンは立ち上がると、宿の女将に声をかける。
「お騒がせしました。修繕にかかった費用は、全額負担させてもらいますので」
「うちも冒険者の宿だから、こんなの慣れっこだよ。アンタも大変ねえ。年頃の男の子なんてみんなあんなもんだと思うけど」
 レオンは疲れた笑みを返すと、宿の玄関の方へ行ってしまった。
「あらあらー、可哀相にねえ」
 ルミネが近づいてくると、目を真っ赤にしたアリルの頭をそっと撫でる。その後ろから、アイオーンとカリンナが続いた。片づけを手伝ってくれるらしい。
「大変だったな」
「すみません、お疲れなのに」
「ライは……」
 カリンナがぽつりと、玄関の方角を見つめながら呟く。無表情ながらどことなく不安そうな彼女に、クルスは答えた。
「レオンに任せておけば大丈夫ですよ」
 多分、と胸中で付け加えたが。


 フロースの宿の玄関の軒先で、ライは薄汚れたヒューイにもみくちゃにされていた。
 犬には怪我一つないところから見るに、探索は上手くいったらしい。今日の成果を興奮しながら報告するかのように、まだ元気いっぱいでまとわりついてくるヒューイに好きにさせながら、ライはちらと、階段を挟んで向こうにしゃがみ込んでいる、ファルクを見た。
 宿を追い出されて―――もとい放り投げられて、さっさと帰ると思いきや、茶色頭はそこからぴくりとも動かない。
「おい」
 ライはそれに声をかけた。ぴくりと頭が動く。
 喧嘩の余韻は既にない。鼻先を掠めて降る雨は、熱を奪うほどに冷たかった。
「―――帰らねーのかよ」
 ここに泊まっているライと違って、ファルクは別宅に住んでいる。追い出されたならすぐに帰ればいいのに―――だが、いつもの帽子をかぶっていない頭は、横に振られた。
「銃、中に置いてきた」
「……ああ」
 帰ってきた言葉は、いつもよりトーンが下がっていた。
「それに」
 ファルクの声はかすかに震えている。
「―――ギルドを追い出されたら、少し、困る」
 ライは、ファルクが望んでクッククローに所属しているわけではないことを思い出した。
 彼は姉であるノアの人質として、自分たちと行動を共にしている。ファルクは詳しく自分のことを話したがらないため―――いつものライなら訊く気も起きないだろうが―――彼が何故そうまでして姉の命令を忠実に守るのか、本当は樹海探索についてどう思っているのか、クッククローの人々には分かりようがない。
 レオンはそれでもいいと思っているのだろう。リーダーはそういう奴だ。“みんななかよく”で世の中はやっていけない。そういうことを割り切っている人間だ。ライも彼と同じだから分かる。
 クルスやアリルが今回、ゲームを企画したその思惑を、察知できないほどライは馬鹿ではない。ムダなことしてるなあと思う反面、それを台無しにしてしまった罪悪感はあった。彼らはただお人よしで、優しい人たちであるだけなのだ。
 彼らがファルクを理解しようとすること、それを非難するつもりはライにはなかった。だが、それを押し付けられても、ライは戸惑ってしまう。悪い言い方をするなら、ライはファルクと和解するつもりなんてないのだ。ノアの代わりであって、いけ好かない貴族のガキというところはライの認識は変えようがないのだから。
 だが、自分から、ファルクを理解しようとすることは?
 理解、という言葉はおかしいかもしれない。気に入らない、嫌いなタイプの奴なのは分かりきっている。だが、そういう態度で接し続けた結果、ライはリーダーに宿を追い出されてしまった。
 少しは態度を改めるべきなのかもしれない。
「おまえさ」
 ライは掴まえたヒューイの頭の上に肘を置いた。
「やっぱり家に帰れよ」
「だから―――」
「銃ならあとで届けてやるって。おれが嫌ならクルスくんにでも頼むさ。それで、ギルドも抜ければ?」
「は?」
 勝手に決めるなとでも言いたげな、刺々しい声が返った。
 ライは続ける。
「おれは樹海探索が好きなんだよ。おまえみたいなのに嫌々探索に行かれちゃ、おれが冒険する機会が減るだろ」
「……抜けられるなら、苦労しない」
「ってことはやっぱ、嫌いなのか、冒険者するの」
 沈黙。
 雨は降り続いている。
「嫌い、ってわけじゃない」
 答えは返ってきた。
「―――おまえは嫌いだけど」
「いらねえ追伸を加えんな。んで?」
「姉さんの代わりに、ぼくが頑張らないと、って思う……リーダーは、“おまえが無理をしなくてもノアがいずれ来ることは分かっているから、いい”って言ってくれてるけど」
 そんなことを言っていたのか。ライは軽く驚く。
 ファルクは続けた。
「ぼくの家は、武勲がなければ相続できない。兄弟のうちで生き残っていて、武功があるのは姉さんだけなんだ。だから家出しないように、死なないように軟禁されてる」
 独白は滔々と流れる。
「ぼくは姉さんを自由にしてあげたい」
「……おまえが、代わりにブコウってのを上げるってか?」
 茶色頭が、頷くように揺れた。
 きい、と頭上で音がする。ライははっとそれを見上げた。
 ファルクは気づいていないようだ。言葉は続いている。
「ハイ・ラガードの世界樹の迷宮を踏破すれば、姉さんと同じ立場かそれ以上になれる……探索に参加するうちに、ぼくでも出来るかも、と思うようになった。だから……」
「だからこんなところで、追い出されるわけにはいかない、ってか?」
 ファルクは弾かれたように顔を上げた。
 玄関戸を開いて、少年たちを冷たく見下ろすのは、レオンだ。
「―――なんだ、おまえら。まだいたのか」
「リーダー!」
 そのまま階段を降りていこうとするレオンの前に慌てて回り込み、ライは頭を下げた。
「ごめんなさい、おれ―――」
「知るか。散々面倒事起こしやがって。一人のミスは全員の命に繋がると教えただろうが、俺たち全員が丸ごと宿を追い出されたらどうしてくれる」
「え……」
 ぱっと頭を上げたライは、レオンの後ろで瞠目したファルクと目が合った。俯く。
 レオンの声は冷酷に響いた。
「おまえは二度目だろ、ライ」
「……ごめんなさい」
「世の中、ごめんで済むことと済まねえことがあるんだよ―――なあ、ファルク」
 レオンが振り返ると、ファルクはびくりと肩を震わせた。
「素手の喧嘩に、銃を持ち込むな。殺す気だったのか」
「ち、違う、違います」
 ファルクはかぶりを振る。
 多分彼は、自分に及ぶ脅威に対し、反射的に武器を抜いただけだ。ファルクを庇う言葉と理解せぬまま、ライがそう言おうとしたところで、レオンはライに向き直った。
「おまえもだ、ライ。喧嘩するなとは言わねえが、相手に武器を抜かせるような拳の振るい方はするな。おまえとファルクじゃ体格が違う」
 前衛と後衛の違いだ。正しい指摘に、ライは視線をさまよわせる。
 レオンは深いため息をついた。重い足取りで、引き返すように階段を上っていく。その途中で、足元に寄ってきたヒューイの頭を撫でた。
「だいぶ、汚れてるな」
 少年たちを振り返ると、レオンは言った。
「こいつ、洗ってやってくれ。今日の功労者だ」
「あ、ああ」
 ライが頷くと同時に、レオンはファルクに告げた。
「おまえもだ。二人でやれ」
「……はい」
 ファルクも大人しく頷く。
 ライとしてはすぐ異を唱えたかったが、おそらくこれが、今回の“罰”だ。リーダーのお情けに反論なんかしたら、今度こそハイ・ラガードの外に追い出される。
「……ったく、世話の、焼ける……」
 ぶつぶつ言いながら、レオンが玄関戸をくぐる。
 これで、何とか決着がついたとみていいらしい。ライはこっそりと溜息をつきながら、レオンに従って宿に入ろうと、階段に足をかける。
 するとその目の前で、レオンの身体が、ぐらりと揺らいだ。
「リーダー!?」
 叫ぶように呼びかけながら、ライは階段を駆け上がった。倒れたレオンの肩を揺さぶる。
 階段の下から青い顔で、ファルクも近づいてきたのが見えた。
「リーダー、おい、リーダー! ……アリルちゃん! みんな、リーダーが!」
 驚きに駆られて、ライは開いたままの戸の内側、宿の中に向かって叫んだ。
 レオンは俯せたまま、動かない。どんどん、ライの心臓を凍りつかせるような恐怖が増していった。
「レオン!」
 みんなが宿から飛び出してくるのが見える―――
 雨はまだ、降り続いている。

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7F

「風邪ね」
 男部屋から出てきたアリルの一言に、クッククローの一同から次々安堵の息が漏れた。
「良かった……びっくりしましたよ」
「急にひっくり返るんだもんな。死なれちゃ夢見が悪いったらねーぜ」
「ライ」
 眉を寄せたクルスに、ライは舌を出した。
 アイオーンがアリルに尋ねる。
「それで、容態は?」
「過労もあって、高熱が出てますけど……薬が効いてくると思います。しばらくは、様子見で」
「では、明日の探索は……」
「出ないほうがいいでしょうねー。今日の昼間もずっと辛そうにしてたから」
 ルミネの一言に、アリルは渋面を作った。
「そういうときは、探索を早めに切り上げてください……」
「私は医者じゃないものー。本人に“大丈夫”って言い切られたら、無理強いは出来ないわよー」
「まあ……今晩はゆっくり休ませてやろう。多分、俺達の中で一番疲れているのは彼だ」
 アイオーンの言葉に、全員が一斉にライを見る。
「な、なんだよ」
「……あんまりこういうことを言いたくないですけど、この際ですから」
 咳払いひとつ、クルスは続けた。
「もう少し、ファルクと仲良くすることは出来ませんか?」
 ファルクは今、大雨になってきた外からヒューイを回収し、希望したカリンナと宿屋の娘と共に、彼を洗濯してやっている。ライも本来なら手伝わねばならないのだが、レオンが倒れたどさくさに紛れて、抜けてきたのだ。
「……喧嘩しねーようには、努力するよ」
「本当ですか?」
「なんだよ、元はと言えば、あいつが人をキレさせるようなことを言うから―――」
「人のせいにしているうちは、進歩がないわねー」
「う……」
 おっとりとした口調だが厳しい内容のルミネの言葉に、ライは返答に窮した。
 すると。
「また、ぼくの陰口?」
 そう言いながら、階段を上ってきたのはファルクだ。カリンナが彼に続く。
 ファルクはじろりとライを睨んだ。
「文句なら堂々と言えよ」
「ンだと。てめーが―――」
 突き刺さる視線を感じ、ライは口を噤む。
「ぼくが?」
「……何でもない」
「とりあえず」
 注目を集めるように手を叩きながら、クルスが言った。
「―――明日は休みにしませんか。明後日になってもレオンの体調が戻らないようなら、僕たちで探索を再開しましょう」
「そうだな」
 異論は出なかった。
―――結局のところ、翌夕になってもレオンの熱は下がりきらず、探索は彼抜きで行われることになった。


「んで、ファルクとライが一緒に、探索に行ったってか」
「うん」
 水銀の体温計の値を読みながら、アリルはレオンの呟きを肯定した。三十七度三分、これくらいならもう、明日にはすっかり良くなっているだろう。
 数日続いた外の雨も止んでいる。曇り空は相変わらずだが。
「―――カリンナちゃんとヒューイ以外、探索に行ってるよ」
「あと、おまえと俺と」
「そう」
「おまえも行けば良かったのに」
 探索に、だろう。
 アリルはずきんと、胸が痛むのを感じた。
「……いない方が良かった?」
「え?」
「ルミネさんの方が、良かったりして」
 冗談めかして、アリルは言った。
 レオンは露骨に嫌な顔をする。
「マジで勘弁してくれ。……そうじゃなくて、ライとファルク、あいつらのこと気にならないのか」
「……クルスくんたちがいるもの」
 私はレオンが一番心配だよ。 
 言えるはずもないが。
「じゃ、私、薬を補給してくるから」
 この街では、軽い薬は医院でもらわなくても、店で売っている場合が多い。アリルが使うのは薬泉院で処方されるような専門的な薬も多いが、熱さまし程度のものなら、一から調合するより買った方が早いし安上がりだ。
「悪いな、手間かけさせて」
 珍しくレオンがそんなことを呟く。
 熱でぼんやりしている表情から何かを読み取るのは難しい。元々顔の半分が髪で隠れているせいで、何を考えているか分かりにくいのだが。
 しかし、このときは察しがついた。
 誰だって、いつまでも床についていたいとは思わない。
「……熱の症状以外、痛いとか、苦しいとかは、本当にないのね?」
「ねえって」
 しつこく訊いても、これ以上の答えは返ってこない。
「なら、いいの」
 自分に言い聞かせるように応じると、アリルは部屋を出た。
 ぱたんと閉じた扉を背に、ため息をつく。
―――レオンが失った“感覚”のこと、やはりみんなに告げるべきだろうか。
 風邪を引いたり熱を出すこと、それ自体は珍しいことではない。人間である限り体調を崩すことだってある、他のギルドメンバーも、エトリア時代から、病気で探索を休むことはしばしばあった。
 だが、レオンの場合―――件の後遺症が、絶対に出ないとは限らないのだ。今回はたまたま風邪であったけれども、他の要因で倒れる可能性だってある。それは他のメンバーにも言えることだが、彼は特に、その確率が高いのだ。
 心配のし過ぎ、だろうか。
 自分が情緒不安定気味になっていることは、アリルは自覚していた。ここにはエトリアの医者たち、施薬院の見知った、先輩医療従事者はいない。薬泉院はあれど、ギルド員に万が一のことがあったとき、初めに責任を負うのはアリルだ。医者の卵とはいえ、既にアリルはエトリアで職業医者として働けるだけの技術試験には通っている。本物の医者となるには、形式的な知識の意味で、あと数年学院に在籍する必要はあるけれども。
 だが。技術はあっても、やはり精神的にまだ、アリルは未熟なのだ。突然のことにパニックになったり、冷静な判断を下せない時がしばしばある。ギルドメンバーの命の、最初で最後の砦であるのに、だ。
(エトリアに帰りたい)
 重責に耐えられず、ときどき、そう思うことがある。
 つまり―――
 宿から出、曇り空を睨みながら、アリルは眉を寄せた。
―――ホームシックなんだわ、私。


「あでっ」
 先頭を歩いていたライが、涙目で飛び上がった。
「大丈夫ですか?」
「ここ、草がめちゃくちゃ尖がってていてえ!」
 ぴょんぴょん跳ねながら、ライは数歩先の地面を指さした。黄味がかった不気味な色の草藪が、進路に充満している。
「けどー、ここを抜けないと進めないわねー」
「エトリアにも似たような通路がありましたね。一気に抜けてしまいましょう」
「えー」
 文句を言うライを置いて、クルスは足を踏み出した。鎧の隙間から足を突き刺す痛みが鋭く走るが、歩けないほどではない。
「ほら、先に行けよ」
 後衛のファルクがライを見ながら、通路を顎でしゃくった。
 ライはむっとした顔で何かを言い返そうと口を開いたが、クルスの視線に気づくと、それを閉じて―――咳払いする。
「ふん」
 仏頂面はそのままに、ずんずんと草薮を掻き分けて進む。
 ファルクは軽く溜息をつくと、しかし、大人しくライに続いた。
「今のところは順調だな」
 二人の様子を一瞥し、アイオーンが呟く。
「そうですね」
 探索も、少年たちの様子も。二重の意味を読み取り、クルスは肯定する。
「……七階手前側の地図は、これでほとんど埋まったな」
「八階までの階段も、今日中に見つけられるかもしれませんね」
「どうかしらねー」
 ルミネが口を挟む。彼女は進路を指さした。
「魔物の気配がすごいわー。気を付けていきましょう」
「ルミネさんも、f.o.e.の気配が分かるんですか?」
 目をぱちくりしてクルスが言うと、ルミネはにっこり微笑む。
「レオンのような第六感はないけれどー、いるかいないかくらいの察知能力は、訓練すれば誰でも身につくわよー」
「そ、そうなんですか」
「おっ、あれかな」
 角を覗き込んで、ライが口角を上げた。
「ライ、あまり不用意に前に出ないでください」
「大丈夫だって。……ほらほら、見てよ、クルスくん」
 ライが手招きする。クルスは渋々、それに応じた。
 見れば、先ほどと同じ黄色い藪の上で、手足の長い、巨大な白猿の魔物が徘徊している。
「こちらに気づいてはいないようですね……上手くこのまま、通り抜けられ、れば……?」
「えい」
「うわっ!?」
 どん、という後ろからの圧力に押され、クルスは前のめりに倒れかけ、数歩進んで立ち止まる。
「ら、ライ! 何するんですか!」
 振り返って抗議の声を上げ、ライがクルスの背後を指さした瞬間―――影が落ちる。
「えっ……」
 見上げた先にあったのは、白猿の歯を向いた頭で。
 クルスは条件反射的に盾を突き出した。
 奇跡的なタイミングで振り下ろされていた白い長い腕が、音を立てて弾かれる。
「ライ!!」
「ごっめーん」
 全く悪びれない応答をし、クルスの隣をライが駆け抜けていった。心なしか楽しそうに上がっていた口の端に、クルスは歯噛みする。
「クルス、下がれ!」
 アイオーンの声。じりじりと後退したクルスの隣に並んで、アイオーンが籠手を掲げる。立ち上がった炎が、ライの鞭に怯んだ白猿の魔物の右腕に命中した。甲高い悲鳴。
「効いてるわー」
「火が弱点のようだな」
「こっちに来ますよ!」
 炎をまとったままの右腕が鋭く飛ぶ。クルスたちが散開したところに落ちてきたそれは、土をえぐるように方向を変えると、跳ね上がった。
「くっ……」
 クルスはそれを受け止めるが、走りながらなので勢いは消せない。仰向けに転ばされ、背と頭に鋭い痛みが走る。
「クルス!」
 落ちた先はあの藪の中だった。立ち上がろうにも、身体を支える手がつけない。
 銃声。クルスの足元に薬莢が散らばる。首だけを持ち上げると、焦った顔のファルクが近づいてきているのが見えた。その向こうに、迫る白猿。
「立って!」
 ファルクが差し出してきた手に捕まるが、クルスがこのまま引いてしまえば、体重差でファルクが藪の中に身を投げ出されてしまう。躊躇っていると、不意に逆側から近づいてきたライが見えた。先までの余裕の色はない。
「手伝う!」
「おまえ……」
 ファルクは舌打ちしたが、クルスの片手はライに握られた。二人の助けを得て、何とかクルスは立ち上がることに成功する。
「下がって!」
 盾を掴むと、クルスはすぐさま正面にそれを掲げた。魔物の爪がクルスを後退させる。踏ん張った足が藪を擦ったが、クルスは痛みに耐えた。
「おらあ!」
 追撃に飛んできた魔物の左腕を、ライが鞭で捕まえる。
 魔物の背後に火炎が上がった。白猿は悲鳴を上げ、炎を噴き上げる背中に身を捩りながら、こちらに向かって走ってくる。
 ライとファルクを先行させ、クルスは魔物の脇をすり抜けると、ルミネとアイオーンに駆け寄った。
「逃げましょう!」
「ええっ!? 何でだよ」
 ライが非難の声を上げる。炎の色により一層赤く染まる視界の先に指をつきつける。
「―――もうちょいで勝てるぜ!」
「あれを見てください!」
 クルスは荒い息を吐きながら、炎を鎮火しつつある、白猿の向こう側に見える通路を指さした。
 落ちる影の中揺らめくのは、もう一体の白猿の姿だ。
「同時に二匹を相手にするのは不可能です」
「でも……」
「そんなにやりたいなら、ひとりで残れよ」
 忌々しそうに吐き捨てたのはファルクだ。
 ライの顔が歪む。
「んだよ」
「ただでさえみんな、おまえのせいでしなくていい怪我をしているんだ。見ろよ!」
 ファルクはクルスの足元を指さした。
 赤茶けた草むらは、赤黒く染まっている。クルスの血だった。クルスは自分で驚く。
「わっ」
「トゲトゲのせいねー。もう少し安全なところまで行ったら、手当てしましょう」
 ルミネがのんびりと言う。
 ファルクは再び、ライを見た。
「分かっただろ」
 ライは何も言わなかった。


「クルスくん、ごめん」
 結局街に引き返すことになった帰り道、樹海磁軸を抜けてなお足を引きずるクルスに、ライは低い声で呼びかけた。
 クルスは明るい笑顔で振り返る。
「怪我のことなら、いつものことですから……それより、危ないですからああいうイタズラは樹海では止して下さい」
「……戦ってみたかったんだよ。事実、一匹だけなら勝てただろーし」
 頭の後ろで腕を組み、ライは言い訳めいた言葉を吐きだした。クルスが困ったような顔をする。
「ライもレオンも、変なところで無鉄砲ですね」
「リーダーと一緒にすんなよ」
 勝算のある相手だから、戦おうとしたのだ。とりあえず突っ込んでいくレオンと一緒にしないでほしい。
 クルスはますます眉を下げた。
「人を巻き込む分、おまえの方が百倍迷惑だよ」
 ファルクが会話に割り込んでくる。さすがにライも、いい加減にかちんときた。
「いちいち嫌味しか言えねーのか、てめえは」
「いちいち嫌味を言われるようなことしかしてないだろ、おまえは」
 ライは拳を握りしめる。
 すると、クルスがぽんと肩に手を置いてきた。見れば、もう片方の手はファルクの肩にある。
「ケンカはご法度ですよ。ここまで仲良くできたんですから、あともう少しです」
「ぼく、やっぱりコイツと組むのはごめんだね」
 ファルクは肩を竦めた。紫の吊り上った目が、きっとライを睨む。
「―――命がいくらあっても足りないよ」
「バーカ、冒険者が冒険しなくてどうすんだ」
「無謀と勇気は違うんだよ、タコ」
「まあまあ……」
「大体おれは組んでくれなんて言った覚えはねーぜ。おまえが金輪際来なきゃいいだけの話だろ」
「自分の都合ばかり考えるんだな。おまえこそ、団体行動の基本くらい身につけろよ」
「嫌味ばっかり言う奴に言われたかねーよ」
「協調性なしの方が余程迷惑じゃない?」
「やーめーてーくださーいー」
 距離を詰めていた少年たちを引き離すように、クルスが間に割り込んできた。細身だがこう見えて筋力のある彼に、ライとファルクはいとも簡単に遠ざけられる。
 クルスはライを見た。
「今度ケンカしたら、レオンに言いつけますよ」
「何で、おれ! あいつも悪いだろ!」
「人を指さすな」
 鼻を鳴らすファルクに人差し指を払われ、ライは頭に血がのぼるのを感じる。
「てめっ……」
「ライ、いい加減にしてください!」
 クルスがライを羽交い絞めにする。ライは首だけ振り返りながらわめいた。
「ンだよ、コイツの味方ばっかりしやがって!」
 暴れた際ライの足がクルスのそれに当たり、束縛が一瞬緩んだ。ライは彼を振り払う。
 先行していたアイオーンたちが、驚いたようにこちらを見ていた。
「ライ!」
「お貴族様同士、仲良くやってろ!」
 クルスが一瞬、蒼白な顔で、大きく息を呑んだのが見えた。
―――言ってはいけない言葉を口にした。
 大きな自覚と後悔が胸に浮かぶのを感じながら、ライはしかし逃げるように、その場を走り去った。


 おれ、何やってんだ。
 ライはぐるぐる回る頭を抱えて、しゃがみ込んだ。
 ギルドメンバーはまいたようだが、多分ここは、まだ街外れだ。今しがた歩いてきた第二階層によく似た色に辺りが染まっている。目の錯覚かと一瞬思ったが、ただの夕暮れだった。ほっと息をつく。
 冷静になりかけた頭に、また強い自責が浮かぶ。気持ちの悪い黒い塊を吐き出すように、ライは大きく息をついた。腰を下ろした岩が冷たい。ラガードはまた、雨上がりなのかもしれなかった。
「ライくん?」
 遠慮がちにかかった声に、ライは弾かれたように顔を上げる。
 そこにいたのは、アリルとカリンナ、それにヒューイだった。買い物帰りと思しき袋をたくさん提げている。アリルは目を丸くしていた。
「どうしたの? こんなところで……他の皆は?」
「あ……」
 事情を話すのは躊躇われた。
 あまりに情けないし、多分、話す内容も全般的におれが悪い。
 ライは結局、口をパクパクさせただけだった。
 アリルは怪訝げに首を傾いだが、不意にぽんと手を打つ。
「あっ、アリアドネの糸を買うの、忘れたっ」
 そして持っていた袋を丸ごと、ライの膝の上に押し付ける。
「―――ごめん。カリンナちゃんと一緒に、先に帰ってて!」
 ライが何か言うより早く、カリンナとヒューイを置き去りに、アリルは風のようにいなくなってしまった。
 頬を掻くと、ライはまた、深く溜息をつく。
「ライ……」
 カリンナが顔を覗き込んでくる。ライはそれに、やや邪険に手を振って返した。
「ん、大丈夫だよ」
 ふと顔を上げる。
 カリンナと目が合う―――そこで、ライは絶句した。
「……に、やってんの、カリンナ……」
 カリンナは、柳眉をきつく、顔の中心に寄せていた。
 とろんとした目の端に指を添え、それを斜め上に引っ張っている。
「……ライの顔」
「は? おれ?」
「うん」
 カリンナは変な顔をしたまま、続ける。
「最近……ずっと、ライ、こんな顔……してる」
 ライは息を呑んで、黙り込んだ。
 言葉がなかった―――自由に表情を作れないカリンナが、表現したい顔。
 眉を寄せて、目をつり上げた、怒っている表情。
「おれの、顔って……」
「つかれた」
 カリンナはぱっと指を離し、顔に入れていた力を抜くと、もとの無表情に戻った。
 彼女はよくライの真似をする。別に不快に思ったことはないが、彼女の父ヨハンスにその理由を訊いてみたことはある―――曰く、“カリンナは相手の考えや感情を、顔や仕草から読み取ることができなから、形を真似して理解しようとしている”、らしい。
「カリンナ……おれの真似して、どう感じた?」
 尋ねてみると、カリンナは少し首を傾いで、答えた。
「いらいら、してる……」
「……うん」
「怒ってる……哀しい、悔しい、それに……強がりと、ごめんなさい」
「え?」
「“ごめんなさい”、って、気持ち」
 ライは瞠目した。


「何してんだ?」
 宿部屋に戻ってくるなり、鎧姿のままベット脇で縮こまっているクルスに、レオンは声をかけた。
 誰か他に帰ってくれば話も聞けるだろうが、アイオーンもライもまだだ。丸二日この部屋にこもりきりのレオンは、大きく伸びをして、身を起こした。もうすっかり熱も下がった―――ような気がする。
「クルス?」
「……放っといてください」
「ほっとこうにも、俺の水、そこにあんだけど」
 クルスが膝を抱えている壁の近くの机を指さす。クルスは置いてあった水差しを取ると、レオンを見ずにぞんざいに渡してきた。
「はい」
「……どうも」
 何なんだコイツ。
 普段なら無視するところだが、あからさまな態度に気分が悪い。
「何だ。俺、何かしたか?」
「……いいえ」
「何かあるならはっきり言え。ンなところでうじうじされても迷惑だ」
 はっきり告げると、クルスは顔を上げた。なんとなく目つきが恨みがましい。
「レオンみたいに思ったことをストレートに言える性格の人は、良いですよね……」
「は?」
「失礼しまーす……あら、クルスくん」
 控えめなノックの直後、入ってきたのはアリルだった。買い物包みを抱えて―――彼女の後ろに、ライが続く。
 クルスとライが、二人同時に顔を強張らせた。
「あ……」
「その」
 そして二人一緒に、固まる。
 アリルは不思議そうながらも彼らを通り過ぎ、レオンのベッドに回り込むと、顎を掴んできた。
「いでっ」
「はーい、検診でーす」
 首の方向を無理やり変えられ、クルスたちがレオンの視界から消えた。が、声は聞こえてくる。
「その、クルスくん、ごめんなさい」
「……構いません、事実ですから」
 クルスの声は固い。ライは、食いつくように続けた。
「おれっ……軽はずみなところがあって、その……クルスくんを、傷つけるつもりじゃ、なくて」
 また何かしでかしやがったな、とレオンはベッドの上に立てた膝に肘をついた。何気なく開けた口に、体温計が突っ込まれる。
「アリル……こひぇ、すいひん……」
「割れたら大変なことになるから、喋らないようにね」
「カリンナに言われて……というか、指摘されて気づいたんだ。なんつーか、おれ、ひとりでイライラしてるみたいなんだよね。それで……みんなに迷惑かけてたっつーかかけてるっつーか」
「ライ……」
「クルスくんたちが、すげー気遣ってくれてるのも分かってる。おれとファルクの野郎が仲悪ィの……申し訳ねえっつうか。あー、なんて言えばいいんだろ!」
 整理できてないらしい感情と言葉に、ライが地団太を踏んだ音が響く。舌下に体温計を咥えてるレオンは、黙ってそれを聞いていた。
「とにかく……クルスくんを傷つけたことは、謝る。し、二度と言わない」
「ライは、僕たちが……ライを、見下しているとか、感じたことはありますか?」
「……ないよ」
 クルスの声は震えていた。
 ライが彼に何を言ったのか、おおよその予想がここでついた。なるほど、実家の事で頭を抱えているクルスにとって、自身が貴族であることを槍玉に挙げられるのは苦痛のはずだ。
 俺も考えなしだが、こいつもよっぽどだよなあ―――と、レオンは目玉だけ動かしてライを見た。
 ライは、クルスの独白を見つめていた。
「それなら、良いんです。僕にとって、このギルドの人たちはみんな、家族みたいなものですから。無意識にでも……貴族以外、とか。そういう分け方を自分がしていたとしたら、僕は自分を許せません」
「大丈夫だと思う……コンプレックス、っての? それ、あるのはおれの方だ」
 ライは自嘲気味に口端をつり上げた。
「―――でも、気にしないことにするよ。おれにとっても、クッククローは……い、居心地いいとこだし」
 消えていった声の後、沈黙が落ちる。
 俯くライに、クルスはぽつりと言った。
「……おなか、すきましたね」
「うん」
「ご飯、食べに行きましょうか。……着替えるので、先に行っていてください」
「うん!」
 明るい返事のち、ライは部屋を飛び出していった。それを見送ると、クルスは黙々と鎧を脱ぎ始める。
 その青い目が、ちらりとレオンを見た。
「……お騒がせしました」
「ん」
「あー、だめ」
 レオンの口から抜いた水銀体温計を見て、アリルは眉を曇らせる。
「―――測り直し。もう一回」
「えっ? 何でだよ」
「三十四度だもん。いくらなんでもそんなに体温下がってるわけがないでしょ」
「ええー」
 再び体温計を咥えるレオンとアリルのやり取りに、クルスは力ない笑みを浮かべていた。

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8F

「レオン」
 棘魚亭から宿へ帰る道すがら、遅れて歩いていたアイオーンが声をかけてきた。
「どうした?」
「これを……」
 アイオーンは申し訳なさそうな顔をして、紙を手渡してきた。依頼表だ。
「ははあ、あそこのオヤジに押し付けられたな」
「期限が明日までだったらしい」
 内容は、魔物討伐のための人員募集だった。炎を扱える錬金術師が必要であるらしい。
「明日か。いいぜ、行ってこいよ」
「すまないな」
「レオン……」
 上着の裾を引かれて振り返ると、これもまた眉を下げてアリルが立っていた。
「これ」
 差し出してきたのは、依頼表だ。
「治療士が不足してる、と」
「商船が沖合で難破して、怪我人がたくさん出てるんだけど、薬泉院の治療士だけでは手が回らないらしいの。それで……」
「冒険者も手伝えってか」
「ねえ、行ってきていい?」
 真摯な瞳で見上げてくるアリル。レオンは頭を掻いた。
「受けてきたんだろ? まあ、ダメだとは言えねえしな」
「ありがとう!」
「アリルちゃんとアイオーンが抜けたら、明日の探索、どうすんだよ?」
 ライが首を突っ込んでくる。
「そりゃ、いる人員で回すしかねーだろ」
「えー、またアイツと組むのかよ」
「嫌なら来なくていいぞ」
 レオンの即答に、ライは憮然とした。
「嫌なんて言ってねえだろ」
「なら気合入れやがれ」
「いてっ」
 レオンはライの額を小突いた。


 ギルドのメンバーと離れるのは、久しぶりのような気がする。
 ハイ・ラガードの街の入り口に足を運んだアリルは、秋の曇り空を見上げて身震いした。この街は世界樹をぐるりと囲むような形で形成されているので、街の入り口は坂道のふもとにある。ゆえに街の外で発生した怪我人は、中心市街近くにある薬泉院まで運ぶまでに、外門付近で初期治療を施すことが多いらしい。アリルはそちらに配属されたのだ。
「では、あとは現場のメディックの指示に従ってください。僕は薬泉院に戻りますので」
「分かりました」
 案内をしてくれた薬泉院の若い院長が、周りのメディックたちへの声掛けもそこそこに、坂道を駆け上がっていく。こうした外からの怪我人に加え、冒険者の治療にと、彼も大忙しなのだろう。
(こういうの、新鮮かも)
 ギルドを離れて治療に専念する、というのは初めてだ。施薬院では常に年配の医師の手伝いしか、携わることはなかったから。
 冒険者とはいえ治療士として、信用されて派遣されているのだ。アリルは気合を入れて、メディックの輪の中に入っていく―――
 が。
「こっちはいいから、そこの人診て!」
「は、はいっ」
「血液が足りない! 輸血部行ってきてくれ!」
「はいっすぐに!」
「担架運ぶの手伝って下さい」
「やります!」
 事故発生後数日経っているとはいえ、運ばれてくる患者の数は増すばかりだ。助けられた港から、未治療のまま直接搬送されてくる怪我人も多く、治療士たちはてんてこまいである。
 港から来たらしい担架の上から起き上がっている男を見つけ、アリルは彼に近寄った。
「お待たせしました……って、あの」
 アリルに背を向け、男は担架を離れて立っている。治療が必要な様子でもない。どうしたものか―――声をかけあぐねているうちに、男はアリルに気づいた。ぎょっとしたように目を剥く。
「あの、治療を」
「あ、はい」
 彼の視線はハイ・ラガード正門にあった。ここはまだ橋を渡ったばかりのところで、街に入るにはもうしばらく歩かねばならない。
 男を座らせ、アリルはまず診察を始める。
(変ね……目立った外傷もないし、顔色もいいし、所見は異常なしだわ)
「気分が悪いとかは、ありませんか?」
「はい、特に……」
 どうしてこの人、ここにいるの?
 挙動不審に周りを見渡す男に、アリルは不審を覚えた。間違って搬送された、のかもしれない。
「異常はありません。大丈夫ですよ」
「えっ」
「数日以内に何か体調の変化があれば、もう一度医師の診察を受けてください。今のところは―――」
「次の陣が来たぞ! スペース空けてくれー!」
 呼びかけに振り返ると、港から新たに馬車で、怪我人が運ばれてきたところだった。
 アリルがそれに気を取られた瞬間、男はぱっと彼女から離れた。坂道を上りだす。
「ちょっと!」
 思わず声を上げ、アリルは男を捕まえた―――ほとんど反射的に、彼はアリルを振り払う。
「あいたっ」
 いきおい投げ出され、アリルは尻餅をついた。足が石の床を擦る。
 男は一瞬躊躇ったのち、脱兎のごとく駆け出した。
「待っ……誰かー! 捕まえて!!」
 正門に向かって走る男を這うようにして追いながら、アリルは叫んだ。異常に気付いた周囲のメディックや軽傷の船乗りたちが、逃げた男の行く手を阻み、取り押さえる。
「大丈夫ですか?」
 金髪の治療士助手の少女が声をかけてくる。
 アリルは苦笑を返した。立ち上がろうと足に力を入れる。
「平気で―――あたっ」
 痛みに顔をしかめながら見下ろすと、膝とハイソックスが赤く染まっていた。


「治療に行ったはずが、自分で怪我して帰ってきたって?」
 レオンの呆れ顔に、アリルは下げていた頭をますますしゅんとさせた。
 慌ただしい一日が終わって、その日のギルドの成果を報告し合う、棘魚亭での夕餉時である。酒場の喧騒の中、負けず豪快な声で、棘魚亭の亭主は笑い飛ばした。
「はっははお嬢ちゃん、オモシレー奴だな!」
「まあまあ」
 アリルのしょげっぷりを見かねて、クルスは間に入った。
「―――でもアリルが気づいたおかげで、密入国者を捕まえられたんですから、お手柄じゃないですか」
「未遂、だけどな。こーんな非常時のどさくさに紛れて、なんて悪い奴もいたもんだぜ」
 猪肉のパスタをずぞぞと啜りながら、ライが言う。手元に落ちたその飛沫を忌々しそうにナプキンで拭きながら、ファルクが口を開いた。
「ラガードはただでさえ、冒険者のせいで年々治安が悪くなってるんだ。勘弁してほしいよ」
「密入国するくらいなら、冒険者のふりして入ってこればいいのにな」
「そういう奴が……冒険者崩れが多すぎて、悪化してるの。特需に対する設備や制度もまだ全然整ってないしね」
「偉いさんも大変だな」
「一番大変なのは、そういう連中を頻繁に相手にしなきゃならねえ、俺たちみたいな場末の店さ」
 棘魚亭の亭主は大仰なため息一つ、続けた。
「だから、おまえらもいらねえ揉め事持ってくんなよ」
「こっちは揉め事を解決する立場なんだがな?」
「そう。つまり、いつまでも善良な冒険者でいてくれってことさ―――これ、報酬だ。また当てにしてるぜ!」
 アムリタと革袋をテーブルに置いて、亭主は去っていった。革袋の中身を覗き込み、レオンは眉を上げる。
「なんだ、随分多いな」
「俺の分の報酬も一緒にして欲しいと頼んだから、それでだろう」
 本から顔も上げずにアイオーンが言う。彼も今日依頼を受けて、探索組とは別に、他のギルドと共に樹海へ行って、魔物と戦ってきたところだ。
「おっ……手紙が入ってる」
 レオンに手渡された薄い紙に目を通し、アイオーンは薄く微笑んだ。
「何だよ、何て書いてあったんだ?」
 覗き込むライに、アイオーンは手紙を渡した。
「読んでみるか」
「えーっと…“こんかいの、すけりきに”……」
「“じょりょく”って読むんだよ、バカ」
 ファルクの言葉に、ライはむっとしたように少年を見返したが、何も言わずに手紙の解読に戻る。
「それにしても、結構奮発してくれたもんだな。さすがアイオーン」
「求められた分働いただけだよ。あとは先方の好意だろう」
 仲間たちのやりとりを聞き流しつつ、トマトジュースに口をつけていたクルスは、ふと静かなアリルに気づいて隣を見た。
「アリル?」
 彼女は俯いたまま、ガーゼの張られた自分の膝を見つめている―――が、クルスの視線に気づくと、ぱっと顔を上げた。
「う、ん? なあに、クルスくん」
「いえ……」
 いつものように明るく微笑んでみせるアリルに、クルスは何も言えなかった。


 フロースの宿に戻ったあとも、アリルは何となく寝つけなくて、ひとり宿の裏口の前で座り込んでいた。
 抱えた膝を目に入れるたび憂鬱になる。怪我人を治しに行って、怪我をしているようでは、メディック失格だ。
 今や、クッククローのメンバーを治療できるのはアリル一人ではない。アリルたち治療士の使う医術ではないようだが、ルミネも外傷を癒す術を扱うことが出来る。それに彼女の方が、アリルより場数を踏んでいるだけあって、冷静で的確な治療を行っている―――と、アリルは思う。彼女と組んで樹海に潜ったことは役割の都合から数えるほどしかないが、樹海から帰還する仲間たちを見れば、一目瞭然だ。
「私って……ちゃんと、役に立ってるのかな……」
 今日の依頼も大きな失敗こそしなかったものの、指示されなければほとんど動けなかった。ああいう救急の場において、それは致命的と言えるほどの暗愚だ。
 膝に頭をうずめていると、ふと髪を引っ張られる感触がした。顔を上げれば、正面にいたのはヒューイだ。
「ヒューイ……慰めてくれるの?」
 わんわん、といつものように元気よく、よく分かっていない風にヒューイは返事する。その青色の毛並みを撫でながら、アリルは唇に指を立て、笑った。
「ふふ、でももう夜も遅いから、あんまり騒いじゃだめだよ」
 ふかふかの毛皮に手を埋めると、気持ち良さそうに目を細め、ヒューイは身を伏せた―――そこで、巨大な犬の背後に立っていた男に、アリルはようやく気づく。
 目をぱちくりとして、口を開いた。
「レオン?」
「よう」
 レオンはヒューイを跨ぐと、アリルの隣にどかりと腰を下ろした。欠伸をかみ殺す。
 剣を抱えている。よく見れば、横顔は汗をかいていた。
「また、こんな時間に鍛錬?」
「イマイチ寝つきが悪くてな」
「昼間、樹海探索してても? あきれた……」
 こんな無茶苦茶な生活リズムだから、身体が疲れているかどうかも分からなくなって、体調を崩したりするのだ。アリルは眉を曇らせた。
「また倒れたりしないでね」
「そうそうひっくり返ったりしねえって」
「もう……あなたが倒れたら、みんなが困るんだから」
「それは俺じゃなくても一緒だろ」
 俺一人抜けてもクッククローは回るよ、とレオンはまた生欠伸しながら続けた。
―――分かってないな、とアリルは思った。
「レオンはリーダーじゃない。しゃんとしてよね」
「死なない程度にな。……おまえも、しゃんとしろよ」
「え?」
「うちのメディックはおまえ一人だからな」
 思いもよらない話題の方向転換に、アリルは首をすくめた。
「ルミネさんがいるじゃない……」
「ルミネは医者じゃねえ。こと生き死にの境目に関しては、簡単に諦める奴だしな、あいつは」
 弾かれたようにアリルはレオンを見た。
 頬杖をつく横顔には、何の感情も浮かんでいない。
 片方だけ覗く碧眼が、アリルを見下ろす。
「だから、おまえが頑張れ」
「で、でも……」
 何故だか、しり込みしてしまう。
 命を扱うことに今更怯えはない。けれど―――“けれど”のあとに続く言葉が、見当たらない。
「もし怖くなったんなら、エトリアに帰れ」
 容赦のない言葉に、しかし、アリルは首を振った。
「それは嫌。怖くなってなんか……」
 あれほどホームシックになっていたのに、不思議とアリルはそう言い切った。
 アリルを見つめるレオンの表情は穏やかで、どこか面白がっているようでもあった。
「自信持てよ。サブリーダーだろ?」
「私……」
「クルスが心配してたぜ。おまえが元気ねーって」
 レオンは立ち上がる。足元を払って表口に向かう彼に、アリルは慌ててついて行った。
 なるほど。クルスにけしかけられて、彼はアリルの様子を見に来たらしい。
 いつの間にか浮足立っていた感情に、少し自嘲する。アリルは彼に恋しているが、彼はそうではないのだ。
「私、そんなに落ち込んでいるように見えた?」
「さあ?」
「さあって……」
「おまえもクルスもイチイチ気にしすぎなんだよ。周りに与える影響ってのを考えろ、不安そうな奴に命預けられるか」
 早足で進みながらもざくざくと胸に刺さるレオンの言葉だが、アリルはふと、気になったことを口にした。
「レオンは……」
「あん?」
「レオンは、不安になったり、落ち込んだりしないの?」
 人間なんだから、あって当然なのだが。
 そんなことにも思い至らず、アリルは尋ねてしまった。
 案の定レオンは二階に上る階段の途中で足を止める。
「……どうだと思う?」
「……私が訊いてるんだけど」
 振り返った彼は、どこか楽しげに口角を上げていた。
「さあな」
 そしてすぐに、男部屋に引っ込んでしまった。


 結局慰められたのか、何なのか、アリルにはよく分からなかった。
 しかし女部屋に戻るとほどなく眠気は襲ってきたので、それに呑まれるまま横になると、翌朝にはすっきりとした目覚めが訪れていた。
「アリル、おはようございます」
「おはよう、クルスくん」
 朝食の席で会ったクルスににっこり笑って応じると、彼はほっとしたように微笑んだ。
「元気になったみたいですね、良かった」
「……どうして?」
「いえ、少し前から……アリルが、どこか落ち込んでいるように見えたので」
「そ、そうかな」
 指摘され、アリルは曖昧に笑った。
「―――ごめんね。昨日の晩、レオンに怒られちゃった」
「え?」
 クルスは目を丸くした―――何だ、知らなかったのだろうか?
「“周りに与える影響を考えろ、不安そうな奴に命預けられるか”って」
「ああ……それ、僕も似たようなことを、彼に言われたことがあります」
 力なく笑い、クルスはそっぽを向いた。
「先を越された……」
「えっ、何か言った?」
「いえ、何も」
 アリルは聞き取れなかったが、独り言だったらしい。
―――それにしても。
 クルスの反応からして、レオンは彼に言われたからではなく、自分でアリルが落ち込んでいることに気づいてくれていたのだ。
 現金なことだが、それだけで嬉しいし、元気が出る。
「……うん、しゃんとしないとね」
「アリル?」
「何でもないよ。心配してくれて、ありがと」
 そうだ。
 私はサブリーダーなんだ。
 代わりをしてくれていたノアは、今はいない。他のメンバーも助けてくれるが、やはり自分が、“しゃんと”しないといけないのだ。
 それがきっと、レオンの負担を減らすことにもつながる。
(何だかな)
 一番重荷になりたくない相手に気づかされるのは、また少し、落ち込むのだが。
 ……そんなとき、どうすれば、いいか。
「今日は火トカゲのシッポを取りに行くんだよな!」
「羽毛だっつうの」
「あっ! おれのハムがねえ! ……おいちょっとリーダー、三枚目じゃねーか!」
「さっさと食わねえ方が悪い」
 騒がしいテーブルに近づいていくと、レオンが彼女に気づいた。
 出来る限り、満面の笑顔で。
 アリルは言った。
「おはよう」
「……おう」
「おはよー! 聞いてくれよアリルちゃん、リーダーさあ……」
 フォークを振り回すライの話に、アリルは破顔一笑した。

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9F

「ふあーあ」
 生欠伸というには大きすぎる開いた口に、アリルは首を傾いだ。
「どうしたの? ライくん、寝不足?」
「うーうん……単に、眠いだけー」
「まだ午後七時だぞ」
 アイオーンの言葉に、ライは彼を振り返った。暗いおかげで幾分大人しい赤の森に浮かぶ、黒くのっぽな男は、マップと鉛筆と方位磁石に目を落としながら歩いていた。
「って、なんで時間まで分かんの?」
「入樹した時点で確認した時刻と、それから今までにかかった歩数からの推定だ。……アリル」
「あ、はい」
 アリルはごそごそと鞄を探ると、懐中時計を取り出した。
「―――正解です! さすがアイオーンさん!」
 マフラーに埋もれてはいるが、心なしか得意げな錬金術師の横顔に、ライは頬を引きつらせる。
「時計持ってんのに意味あるのかよ、それ……」
「というか、いちいち歩数を数えてるんだ……」
 今まで黙っていたファルクが、同じく呆れたようにぽつりと呟いた。
 何気なくライがそちらを見ると、少年銃士はその視線に気づき、むっとした顔を作った。
「何だよ」
「いや……」
 ライは彼の背後を指さした。何気なく。
「ガラガラノヅチがいるなーって」
「もっと早く言えそういうことはっ」
 慌てて振り返りながら、ファルクは銃を構えた。
 不気味な色の舌を伸ばして、枝から飛び降りてくる、蛇の魔物。だが銃声が響くより先に、ライは自分の武器でそれを迎撃する。
「それ!」
 弾き飛ばすように鞭で加えた一撃に、蛇は地べたに叩きつけられる。ダメージはあまり大きくないようだ。
「まだいるぞ!」
 鋭いアイオーンの警告。頭上を覆う木々の枝から、冷たい青い目が見つめている。
「へっ、何匹でも相手して―――」
 ライが鞭をしならせた瞬間、轟く銃声。
 驚いて背後を振り返れば、先ほど地に叩きつけたガラガラノヅチが、胴体を撃ち抜かれ絶命していた。
 ライの背を狙っていたらしい尾が、もう動かないのを確認し、ファルクは冷ややかにライを見る。
「油断するなよ」
「そっちこそ」
 唇を尖らせて応じたライは、頭上の敵に向き直った。


 地面に落ちた蛇の身体から刃を引き抜いて、辺りを見渡しながらレオンが呟く。
「これで最後か?」
「……だと……思う、よ……」
「あー……疲れた」
 息も絶え絶えにライとファルクは座り込む。肩が触れ合った瞬間、睨みあって距離を取ったのだが。
「大丈夫?」
 アリルが駆け寄ってきて、怪我の応急手当てをしてくれるが、何より疲労が大きい。立ち上がれないでいる二人に、レオンが肩を竦めた。
 アイオーンが道の先を指さす。広間のようになっているらしい。
「あちらに衛士がいるぞ」
「なら少しは安全か……おい、おまえら。休憩するならそこまで行ってからへばれ」
「うえーい……」
 のろのろと広間の角にいる衛士の傍に移動する、ライとファルク。レオンたち三人は離れたところで地図を見ながら何か話をしているようだった。
「ん?」
 ライは椅子に腰かける衛士の様子がおかしいのに気付いた。
 首を傾けて、定期的にこくりこくりと、身体を揺らしている。
(コイツ、寝てやがる!)
 そしてその腰に提げられている、重そうな巾着袋を見つけて、ライは思わず生唾を呑んだ。
 仲間に視線を送る。額を突き合わせて話し合いをしている三人は、こちらに注意を払っていない。
 が、人二人分の間を空けてしゃがみ込んでいるファルクは、真っ直ぐライを見つめていた。
「……な、何だよ」
「別に」
「用がねーならこっち見んな」
「言われなくても、見たくなんてない」
 ぷい、とファルクはそっぽを向いてしまう。
 ライは再び、衛士に目をやった。
 寝ている。
(これは……気づかないよな……)
 ライの視線は、巾着袋にくぎづけだ。
 そろそろと、震える手がそれに伸びる―――
「やめろよ」
 背後から聞こえた声に、ライはびくりと肩を震わせた。
 肩越しに見えるのは、冷たい目をしたファルクだ。
「何が?」
「……白々しいな」
「だから、何だよ。おれはコイツを起こしてやろうと思っただけだぜ」
 言いつつ、ライは衛士の肩を揺さぶった。
「今いいところなんだから……くかー……」
 その手を振りほどき、衛士は何かむにゃむにゃ言いながら、再び眠りこける。
 ライは半笑いを浮かべた。
「ダメだこりゃ……」
 その背で、ファルクがわざとらしいため息をついたのが聞こえる。
「ギルドにいるなら、お金に困ることなんてないだろうに」
「え? 何か言ったか?」
「……それともお金が必要なら、リーダーたちに相談して借りるなりすればいいって言ってるんだよ」
 盗るくらいならそうしろよ、とファルクは呆れた表情で、しかし淡々と続けた。
 ライはそれにきょとんとする。
 何言ってんだ、コイツ。
「リーダーたちがいるときはいいけど、いなくなったらどうすんだよ」
「は? どういう……」
「ギルドの財布はリーダーかアイオーンが管理してんだぞ? 二人が同時に死んだらどうするつもりだよ」
 ライの言葉に、ファルクは絶句する。
 変なことを言う奴だ、とライは思った。頭の後ろで腕を組み、ぼやく。
「もう人のモン盗ったりはしねえよ、懲りたし……ただ、つい条件反射で金を見ると手が出ちまうんだよなあ。冒険者なんて貧乏なもんだって分かってるけどな、盗人やってるほうがよっぽど儲かるぜ」
「……どういう教育を受けたらこんな育ち方するんだ……」
 信じられないというように首を振り、ファルクは低い声で早口に続けた。
「親の顔が見たいね」
「いねーよ。おれ、孤児だし」
 ここでようやく、ライはファルクが何を考えたのか読み取れてきた。
 何を言ったらいいのか躊躇っているような顔のファルクに、わざと意地悪い風に口角を上げてみせる。
「なるほどな。ここから出ても飯食っていけるやつと、樹海にどっぷり浸かっちまってるやつの、違いってやつか」
 ファルクが何か言うより早く、レオンが呼びかけてくる。
「おい、そろそろ行くぞ。準備しろ」
「へーいへい」
 ライはさっさと、衛士には見向きもしないでレオンたちの会話の輪に入っていく。
 しばらく呆けていたファルクは、ややして立ち上がるとコートの裾を払いながらひとりごちた。
「……姉さんはよく、こんな連中と付き合っていられたな」
 そして無表情に戻ると、進み始めた一行に付いて歩き始めた。

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10F

 クッククローは角を曲がったところで、人影を見つけた。先へ進むための扉の前に仁王立ちしている、老齢の男。いでたちから言って冒険者、銃士だろう。
「……クッククローの噂は聞いておる。ここまで来るとは、少しは腕を上げたようだ」
「へっへっへ」
 一人、ライが得意げに鼻をすする。
 しかし、他の四人は銃士がまとう、ぴりぴりとした冷たい空気を感じ取っていた。
「だがまだまだ我らには及ばぬな」
「あれっ」
 ライが肩を落としたと同時に、銃士は両の手の拳銃を構え、続けた。
「世界樹の迷宮の探索は我々に任せ、大人しく引退でもすればどうだ」
「初対面早々、喧嘩売ってんのか? じいさん」
 言葉のわりには楽しげに口角を上げながら、レオンは担いだ剣の背で己の肩を叩いた。
「―――諦めるつもりがあるなら、ハナからこんなところには来ねーよ」
 その言葉に応じるように、老人は不気味な笑いを浮かべる。
「過去に何人がそう応じ、わが銃弾に倒れたことか……ヌシらも樹海の糧と化すのが望みか?」
「やってみろよ」
 銃口を向ける老銃士。レオンはいつの間にか剣を構えていた。
「ちょ、ちょ、ちょ」
「レオン!?」
 樹海の中とはいえ冒険者同士の喧嘩なんてご法度だ。
 仲間たちが焦ってレオンを止めに入るが、老人の目から敵意と殺意は薄れない。
 そこへ、少女の溌剌とした声が響いた。
「はいはい、そこ! 何やってんの!?」
 クッククローの背後から近づいてきたのは、長い豊かな黒髪をなびかせた、呪医の少女だった。彼女は老人を睨みつけると、クッククローに向き直る。
「ごめんね、ウチの爺やが君たちに無茶言ったんでしょ?」
「あんたたちは一体何者だ?」
「あたしたちはギルド、エスバットよ。あたしはアーテリンデ。そっちは爺やのライシュッツ」
「エスバット、聞いた事があるな」
 アイオーンが呟く。
 アーテリンデは機嫌よさそうにウインクした。
「二人で樹海探索をしてるの。……で、君たちを止めた理由なんだけど」
 アーテリンデ曰く、十階の奥には凶暴な魔物が住み着いているらしい。
 エスバットを含む一流の冒険者ギルドがその討伐を行ったが、恐ろしいことに、この魔物は何度打ち倒しても、数日後には何故か復活してしまうのだそうだ。
 そのため十階の奥に進むギルドは、危険を承知の上、大公宮でこの魔物のの討伐任務を受けなければならない。
「要するに大公宮の許可がいるの。お分かりいただけた? 爺やも悪気があって君たちを止めたんじゃないの。あくまで身の安全のためなの」
 強い口調で念押しするアーテリンデだが、クッククローは皆不審顔だ。
「―――とにかく! 大公宮の大臣に話を通してから、もう一度来ることね」
 アーテリンデにそう言いきられ、五人は大人しくその日の探索を打ち切った。


「……ってわけでさ、あの爺さん、ほんと怪しかったんだよ」
「それは確かに……親切心というより、本気で排除したいというような口ぶりですね」
 宿に戻った折、居合わせたクルスにライは今日の経緯を説明していた。口をへの字に曲げて思案の顔をかたどっているクルスに、ライは憤然としながら続けた。
「んで、リーダーがその吹っかけられた喧嘩を買おうとすんの。普段どの口でおれらに喧嘩すんなっつってんだって話じゃねえ!?」
「レオンらしいというか……まあ、でもその場は収まったんでしょう? アーテリンデさん、でしたか?」
「そうだけど……」
 ライは唇を尖らせた。クルスが苦笑する。
「レオンは僕たちに喧嘩を売ることも買うことも普段はしませんよ」
「仲間内では揉めねえってことかよ?」
「そうです。まあ、意見の相違が生じれば別ですけど……」
 そう言いつつ、クルスは遠い目をする。ライは首を捻った。
「おれの喧嘩も意見の相違が原因だぜ?」
「というか価値観の違いですよね……しかし、最近は仲良くしているみたいに見えますけど?」
 クルスの言葉に、ライはぎょっとする。
「仲良くって、アイツと? 冗談じゃねーよ!」
 ふてぶてしいファルクの冷めた目を思い出して、ライは身震いした。
 クルスは目をぱちくりとしたが、困ったように微笑むだけだ。
「……それで、他の探索組のみなさんはどうしたんですか?」
 ライ以外はまだ、宿に戻ってきていない。話題が逸れたことを気にもせず、ライは答えた。
「公宮だよ。実際に討伐任務が出てんのかどうか、確認しに」
 そして鼻を鳴らすと、続ける。
「アイツもそのついでに呼んでくるってよ」
「ああ……ファルクは、確か中央市街に住んでいるんでしたね」
 住所は知っているが、クッククローの誰もが実際に訪れたことはまだない。
「―――ライは行かなくても、良かったんですか?」
「おれがアイツの家に行きたいと思う?」
 逆に尋ね返され、クルスはすぐに苦笑を浮かべた。


 ハイ・ラガード中央市街は、世界樹を中心に抱く公国において、最も世界樹に近く、高い位置に存在する、貴族の住居街や行政区にあたる場所だ。世界樹の入り口とは、その巨大な幹を挟んで真逆に位置するため近くはなく、またラガード公宮は中央市街でもさらに、一番高台にある。
 そのため、そこに用事のある者は必ず、このだだっ広い舗装された石畳の坂道を、ひたすらに登り降りする必要があるのだ。
「今度は下りかよ……」
 任務の要旨が書かれた羊皮紙を手に、レオンはげんなりしたように坂道を見下ろした。
「建物があるからあまりよく見えないけど、きっと眺めはいいんだろうね」
 きょろきょろと周りを見渡すアリルに、アイオーンが言う。
「世界樹はよく見えるぞ」
「近すぎるだろ」
 視界の右半分を覆う木の幹を指すレオン。アリルは苦笑いを浮かべた。
「常緋ノ樹林はどのあたりかな? ね、カリンナちゃん」
 傍らのカリンナの顔を覗き込むが、相変わらず反応はない。
「それで、ファルクの家ってのはどのあたりなんだ?」
「確か、貴族街の外れだったはずだが……」
 エトリアとは比べものにならない数と大きさの家が立ち並ぶ、広い通り道を四人は進む。道を行き交うのは馬車や身なりの良い人々が多く、武器は預けてきたものの見るからに冒険者然とした、探索帰りのクッククローは好奇と警戒の的だ。
「う……居心地悪いよう」
「しかも地図が分かりにくいな」
「道を訊こうか?」
「いや……やめとこう。話しかけただけで通報されそうだ」
 珍しく弱気な発言のレオンに、アリルは拳を握ってみせる。
「大丈夫、いざとなったらカリンナちゃんの“畏れよ我を”で―――」
「一般市民にテラーかけても問題がややこしくなるだけだろーが」
 不毛な会話を続けながら、クッククローは貴族街の奥へと進んでいく。道は広く一つあたりの屋敷が大きいとは言っても、ハイ・ラガードの街らしく入り組んだ造りなのは変わりない。
 鐘が鳴り、太陽が傾きかけたところで、誰からともなくため息が出た。
「迷ってるよな……」
 心なしか通行人が減ってきている。
「……何だか、騒がしくない?」
 アリルが呟いた瞬間、目の前の曲がり道を曲がり、数人の騎士服が姿を現した。焦った様子で、アリル達の脇を走り抜けていく。
「わっ」
 すれ違う際、長剣に引っ掛けられてバランスを崩したアリルの腰を、太い手が支える。
 見上げると、レオンだ。
「あ、ありがと」
「おう」
 どきどきしながら、アリルは彼から離れる。レオンは彼らが下っていった坂道、その中途にある、屋敷間の隙間を見ていた。
「レオン?」
 人一人は入れそうなその隙間につかつかと寄ると、レオンは腕を突っ込み―――その人を引っ張り出した。
 三人は目を丸くする。
「ファルクくん!?」
 薄汚れたボレロのフードを目深に被ったファルクは、紫の瞳を細めて、慌てたように人差し指を立てる。
「あいつらは、行った?」
「あいつらって……」
 ファルクはしきりに坂道の下方を気にしながら言った。よく見ると手には大きな包みを抱えている。
「詳しい話はあとで。とりあえず……宿や酒場のあるほうに降りてからでいいかな。あいつら、多分下町までは追ってこないから」
 口早なファルクのただならぬ様子に顔を見合わせながらも、レオンたちはそれに頷いた。


 鋼の棘魚亭の最奥テーブルに集まったクッククローの面々を前にして、ファルクはようやく息をつくと、そのフードを脱いだ。
「それで、一体何をしでかして、騎士服の連中に追われてたんだ?」
 その正面に座したレオンが単刀直入に尋ねる。ファルクはむっとした顔をした。
「ぼくが悪いんじゃない」
「とりあえず、事情を聴きましょうよ。ね?」
 クルスの取り成しで、咳払いひとつ、ファルクは改めて口を開く。
「ぼくの家に、ぼくが冒険者をしているってことが見つかった」
「……今まではバレてなかったのか」
「そりゃ、ね。……そして、ぼくを連れ戻すためにわざわざ彼らが派遣されたってわけさ」
 鼻を鳴らすファルクに、クッククローは各々顔を見合わせる。
「待てよ。お前はノアの代わりに、世界樹の迷宮の探索を命じられて来たんじゃないのか?」
「命令なんてされてないよ。半分はぼくの意志だもの」
「もう半分はノアが、自分の人質にって話だったろうが……待て、つじつまが合わないぞ。そもそも、お前んちは武勲がなければ後継の資格がないっていうシステムだったよな?」
「そうだよ」
 レオンは頭を抱えながら、続ける。
「ノアはエトリアの世界樹を踏破したことで、その条件を満たした。お前が今回の世界樹に挑戦する理由は、家にとってはないわけだ」
「そうさ。だから、ぼくは家には内緒で、姉さんの頼みを聞いて、ここへ―――」
「それがおかしいっつってんだよ。後継候補を増やしても家にとってもノアにとっても、何のメリットもねえだろうが。大体ノアの性格からして、弟のお前に“クッククローと一緒に世界樹の迷宮に挑戦しろ、ただし家には内緒で”なんて言うはずがねえ」
「命を落とす危険性は高いですし、僕たちクッククローはノアさんに“裏切られた”ギルドですしね……」
 何事にも慎重なノアにとっては「弟を餓えた狼のいる谷底に突き落とす」くらいの感覚であったはずだ。
 そこまで指摘したところで、ファルクは仏頂面で押し黙ってしまっていた。
 レオンは推測を元に、こんな結論を出す。
「あのさ、もしかしてあの騎士服たちは、家じゃなくてノアが派遣したやつらなんじゃないのか」
「っ……」
「その様子じゃ」
「図星か……」
 ぽつりと呟いたアイオーンと目が合い、レオンは肩を竦める。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
 目を白黒させていたライが、必死に話についていこうとするかのように、片手を突き出した。
「―――じゃあ最初にコイツが持ってきた、ノアさんからの手紙は何だったんだよ?」
「……ノアの筆跡のようには見えたが」
 アイオーンの視線を受けて、ファルクは重いため息をついた。
 観念したかのように。
「……ハイ・ラガードへ行って。あんたたちに会えと……そこまでは本当だよ。ただ……ギルドに入って、探索に加わるっていうのはぼくが考えて書き足した内容なんだ」
「ノアは、本当はどういうつもりでお前をハイ・ラガードへ?」
「一つはあんたたちに、いずれ決着はつけるという伝言を伝えること……そして家からぼくを遠ざけるのが、もう一つ」
 ファルクは肩を落としたまま、ぽつりぽつりと続ける。
「ぼくが世界樹の迷宮に入っているということが、世話役から姉さんに漏れたらしくて……姉さんはぼくを心配して、連れ戻すことにしたみたいだ」
「それで逃げてきたのか?」
「ぼくにはぼくで目的がある。姉さんに従うわけにはいかない」
 以前零したことだろう。
 ファルクは姉であるノアを、実家の呪縛から救いたいと思っている。だから、姉と同じ道を歩み、世界樹の迷宮を踏破して、家を継ぐに足る資格を得ようとしている。
 だがそのことを知っているのは、クッククローではレオンと、ライだけだ。
 ファルクはそれきり黙りこみ、木造テーブルの角の傷を眺めている。自分の覚悟を、これ以上話す気はないようだった。
「……それで、お前はこれからどうするつもりだ?」
 あらためてレオンが問うと、ファルクは弾かれたように顔を上げた。
「言った通りさ。姉さんには従わない。冒険者は続けるよ」
「つっても、貴族街の別宅に戻れば問答無用で送還されるんだろーが。どうすんだ? 俺たちの宿にでも転がり込むつもりか?」
「……お金なら少しはある」
 苦しげに歪めた顔を、ファルクは逸らせた。
 レオンは尚も追及する。
「それがまかり通ると思うのか?」
「なっ……」
「事情はどうあれ、お前が俺たちに嘘をついていたのは弁明のしようがないだろ。俺たちは一度お前の姉貴に裏切られている。二度目なのさ」
 ファルクは初めて動揺したように、視線を彷徨わせた。
 他のメンバーが口を開くより早く、レオンは重ねる。
「信じられると思うか? お前を」
 沈黙。
 落ちた重いその間、レオンは面々を視線だけで見渡す。―――興味のなさそうなルミネを除いて、皆が一様に、何か言いだしたくて口を開けない、そんな顔をしている。
―――やり過ぎちまったか?
 こっそり眉を上げたところで、言葉が降ったのは意外な方向からだった。
「お、おれは良いと思うぜ」
 それは、ライだった。
 褐色の少年は、一斉に集まった視線におののきつつも、はっきりとした声で続ける。
「馬鹿やる回数なら、おれも、負けてねえし……つうか、元々ややこしくなった原因はノアさんだろ。これからは、そいつが改めて前向きに、ギルドに参加するってことでいいんじゃないかな」
「僕もそう思います」
 クルスの挙手に、ライはほっとしたような顔になる。一拍遅れて、アリルがこくこくと頷いた。それを真似するように、カリンナも。
 レオンはアイオーンを見た。マフラーの内側で顎が首肯する。
「ファルク自身の目的は知らないが……十分、ギルドメンバーとして働いてくれていると思う」
「……だとよ」
 ファルクを向くと、彼は目をぱちくりとさせた。よく分かっていないようなので、レオンは付け加えてやる。
「フロースの宿に戻ったら、一人分寝床と飯の追加をしてもらわねーとな」
「あ……」
「しかしライ、言いだしっぺなんだからちゃんと仲良くしろよ」
「は? それとこれとは話が違―――」
「手始めに相部屋からですかね」
「はっ?」
 クルスの茶々に、今度はファルクが声を上げる。
 ライとファルクは目が合った刹那、音がしそうな勢いで顔をそむけ合った。誰からともなく苦笑が漏れる。
 レオンは咳払いした。
「ま、必要最低限の荷物……武器や装備は持って出てきたんだろ?」
「もちろん」
「じゃ、あとは連中に見つからないように上手く隠れとけよ。……明日の探索予定についてはまた後で。ひとまず休憩な」
 会議の中断を宣言すると、メンバーはそれぞれ緊張を解くようなため息をついた。和やかな食事の空気に戻っていくテーブルを尻目に、レオンは空になったタンブラーに補充をすべく、カウンターに立つ。
 それを、ルミネが追ってきた。
 自然と寄り添ってくる女に、レオンは嫌な顔をする。
「うまくまとめたわね?」
 微笑みながらそう言われ、レオンは肩を竦める。
 ギルドに、ファルクが馴染んできた証拠だ。そしてそれは、彼がギルドの仲間と信頼を築いてきたことと同義でもある。
 つまり、レオンが何か言うまでもなく、彼が自力で得た価値なのだ。
 だがあえて、茶化すようにレオンは返した。
「物わかりのいい奴らが多くて助かる。あんたも見習え」
「あらー、私は何もしてないわよー?」
「何もしないから問題なんだろうが」
「ふふ、あの子……ライ君がフォローを入れるなんて、意外だったわね?」
「そうだな……」
 亭主が注いでくれた酒を口に含みながら、レオンは同意した。
 意外ではあったが、これで、次の段階に進む踏ん切りがつけられたようなものだ。
―――物思いに耽るレオンの横顔を眺めながら、ルミネは呟いた。
「ちゃんとリーダーしてるのねー」
「うん?」
「……ふふ」
 意味ありげに目を細めて、しかしルミネはそれ以上何も言わなかった。


「よし、準備は良いな」
 十階奥の間。昨日と同じ扉を見上げ、レオンは他の四人に呼びかけた。
「えっ、マジでこのメンバーで行くのか?」
 ライが金色の目を丸くする。この扉の奥には“炎の魔人”と呼ばれる強力な魔物が鎮座し、次の階層に進むための階段への行く手を阻んでいるのだ。
 つまり、扉を開けるということは、その魔物にこの五人で挑むということに他ならない。
 ライは視線を後衛にやった。
 見ているのは、ファルクだ。
「一人のミスが全員の命に繋がる」
 レオンの言葉に、ライははっと彼を見上げる。
 碧の隻眼が、問いかけるようにライを見据えていた。
「―――その逆も然りだ。行くぜ」
「お……おう」
 頷き、もう一度ライは後衛を振り返る。
 ファルクは緊張した面持ちで銃を握っていたが、無言だった。


 ―――赤い森全てに轟くような咆哮。
 八方を囲まれた室内で発されたそれは、人間の頭を内部から揺らした。ぐわんぐわんという耳鳴りに耐えつつ、ライははっきりしない意識を必死に繋ぎとめる。かろうじて、武器は、手放していない。
 が、自分が立っているのか否かも、定かではない。
「しっかりしろ馬鹿!」
 怒鳴るような罵声と同時に降ってきた冷たい液体に、ライは一気に覚醒した。
「つっめてえ! ……何だコレねばねばする!」
「そして避けろ!」
 慌ててライの首根っこを掴んだのはファルクだ。引きずられて身体が移動した刹那、魔人の拳が地面を打つ。
 立ち上がりながらファルクを見ると、彼は忌々しそうな顔をしながら、通常よりも長い薬莢を手にしていた。弾頭部分が外れて、緑色の液体が垂れている。
「ドラッグバレット、一本無駄にした」
「……それって直接人にぶっかけるもんなのか?」
「効果範囲はもっと広いけど、おまえ一人のために一本使ったって言ってるんだよ!」
 喋りながらも素早く次の弾丸を装填するファルク。ライは彼から離れると、“炎の魔人”から後退したレオンと入れ替わりに、前に踏み出した。
 目の前にあったクルスの背中に呼びかける。
「クルスくん、踏み台よろしく!」
「は、はい!」
 クルスの手を借り、ライは高く跳躍する。火を噴く魔人の頭上を越える瞬間、その丸い首目がけて鞭を打ちつける。
「食らえ!」
 巻きついたそれを部分的に切り離すと、ライは着地した。顔面を縛り付けるそれに、魔人は咆哮を上げることもできない。動きが鈍る。
「よっしゃ、成功―――」
「ライ!」
 警告の声と同時に、横殴りにライの身体が吹っ飛ばされる。
 咄嗟にぴんと張った鞭で防御したものの、勢いよく壁に投げつけられ、ライは息を詰まらせる。
「ぐえ……」
 気絶こそしなかったものの、身体が動かない。
 恐怖によるものではないにしろ、“竦んでいる”という状態がぴったりくるだろうか。全身の痛みはあるにせよ、立ち上がれないほどではないのに。
 そこへ再び、緑の液体が降った。
「いい加減にしろよ」
 ゆっくり顔を上げると、ファルクがドラッグバレットを振りかざし、呆れた表情で立っていた。
「へっへ」
「高いんだぞ、これ」
「おい、そっち行ったぞ!」
 ライとファルクは二人同時に顔を上げる。
 ライが与えた頭縛りをようやく断ち切った“炎の魔人”は、最期の息を振り絞り、まとわせた炎の腕を振り上げていた。
 落ちた影にファルクが銃を構える。
 だが、間に合わない。
「待ってました!」
 ライは口角を上げ、叫ぶと同時に鞭を打った。
 全くあられもない方向に、その先端が飛ぶ―――否。狙いどおりを弾き、ライは笑みを深める。
 ライが打ったのは、見えぬほどに細い糸だった。切り離された勢いのまま、張られていた罠が、“炎の魔人”の足をもつれさせる。
「よっしゃ!」
 どうと倒れた魔人にとどめの一撃を加えて、ライは拳を握った。
 場に静寂が戻る。荒い息をつきながらレオンが、もうぴくりとも動かぬ魔人に近寄った。
「やったみたいだな」
「ひゃっほー! 見たか、おれの大活躍!!」
 ぴょんぴょん飛び跳ねるライに、傍らのファルクが冷ややかな目を向ける。
「何をやったんだ?」
「トラップを張ってたんだよ。攻撃してくるタイミングで、カウンター攻撃できるような。……なあリーダー! 特訓の成果が出たぜ!」
「そーだな」
 早速倒した魔物の検分をしながら、レオンが応じた。
 同意の言葉にさらに気を良くして、ライはファルクを見下ろす。
「へっへっへ」
「……何だよ」
「いやいや、でもおまえの援護も助かったぜ。どらごんばれーだっけ?」
「ドラッグバレットだよ! ……二本も使わせたくせに、調子に乗るな」
 忌々しそうに吐き捨て、ファルクはそっぽを向く。
 だがそれでも、ライは腹が立たなかった。


 アリルの治療を受けながら、少年二人のやり取りを眺めていたクルスは、やれやれとため息をついた。
「いつの間にか、あんなに仲良くなってますね……」
「本当に。なんだか、余計なことしちゃったわね」
 宿での喧嘩騒動を思い出してか、包帯を片付けながらアリルが首をうなだれさせる。クルスはそれに微笑みかけた。
「むしろあの一件があってこそ、仲良くなろうと努力してくれた結果かもしれませんよ」
「でも、あんなの二度とごめんだよ」
「はは……」
 乾いた笑いを浮かべるクルス。そこに、レオンが近づいてくる。
「どうだ?」
「あ、大丈夫です。大した怪我ではないので……」
「レオンは?」
「俺は何ともない。……終わったら、ガキ共診てやってくれ」
 レオンが親指を指した方向には、まだ騒がしく言い合いをしているライとファルクの姿がある。
「……元気そうですけどね」
「今は興奮してるから。もう少し経ったら、全身あちこち痛くなって、立てなくなるわよ」
 言いつつ、鞄を持ってアリルが立ち上がる。その後ろ姿を見送って、レオンがぽつりと呟いた。
「いよいよ第三階層か……」
「公宮の大臣の話では、第三階層までたどり着いたことのあるギルドは、片手に足るほどなのだそうですよ」
「ま……いつも通ってきた道だしな」
「先駆者がいない獣道ですか?」
「怖いか?」
「いいえ。冒険者であるうちは、少なくとも」
 クルスの答えに満足したように、レオンは口角を上げた。

▲[10F]一番上へ▲

第三階層

▼[11F]一番下へ▼

11F

 あの街を出て、どれほどの月日が経ったのだろう。
 故郷を出て―――もう、その風景すら思い出すことはできない。
 それらを忘れてしまうほど、彼女は長く、そして様々な土地を放浪してきた。いつしか流れる風は冷えきり、冬の訪れとともに北へ向かっているのだと、彼女は気づいた。
 少なくとも気づいたときには、遅かったのだが。
「は、腹が……」
 半ば行き倒れのようにして、その門の前にしゃがみ込む。空腹を訴える胃はとっくの昔に限界だ。
 背の高い門壁だが、その向こうにそびえる大樹こそ、この街の源だ。今彼女はこの大樹の内側に広がる迷宮に挑戦するべく、入国する冒険者が作る列に並んでいる。
 が、この列がいつまで経っても動く気配がない。この国は冒険者の受け入れを行いだして年月が浅いため、その対応にしても十分なものではない。しかし―――このまま日が暮れるまで壁の外で待機させられていたら、餓死する前に凍死の憂き目にあいそうだ。
 ぎゅるりらー、と再び腹が鳴る。
 ため息とともにうずくまった彼女の上に、ふと影が浮かんだ。
「あなた……その格好は、ブシドー?」
「ほえ?」
 上げた目に映ったものは、金色の光で。


 秋も深まり、ハイ・ラガードにも冬の気配が濃くなっている。この国は北方、それも高地に存在するのだ。肌を切る冷気が日増しに強くなっていく中、本格的な季節の訪れに間に合うよう、皆が準備に追われている。
 冒険者も同様だ。借り暮らしとはいえ、冬越えをする身なら手伝わねばならない。それがときには、探索の手を休めることになっても。
 クッククローもそのうちの一つだ。
 今日は依頼を受け、樹海に潜り、冬越えの燃料となる薪を採ってきた。
「ご苦労さん。仕事は上手くいったかい?」
 酒場で報告を終え、帰ってきた宿のフロントで声をかけてきた女将に、レオンは肩を竦める。
「まずまずってとこだな」
「そいつは結構だね、ウフフフフ! ……ところであんたたち、あたしのお願いは聞いておくれでないかい?」
「依頼か?」
「そんな大したことでもないんだけどねえ……」
 女将が言葉を濁したところで、裏口から幼い少女が顔を出した。
「おかあさん、終わった……あっ」
 ひょこひょこと近づいてきた少女は、レオンの姿を見つけると、さっと母親―――女将の後ろに隠れてしまう。
「クッククローのひと……」
「ん? おう」
 応じるが、少女は母親の大きな腰の後ろから出てこない。そのうち、女将が身体を揺らして笑った。
「ありがとうさん。もういいよ、遊んどいで」
「うん……」
 少女はぱっと母親から離れると、来たときと同じように、素早く裏口に行ってしまう。
「あの子……ここの子だよな?」
「娘だよ。あたしに似て可愛いだろ?」
「前半は同意しかねる」
「あらこの子は! 照れちゃって、ウフフフフ!」
 いや照れてねーよとレオンが返す間もなく、女将は続けた。
「頼みというのは、あの子のことなんだけどね……実は、もうすぐ誕生日なんだよ」
「ほう」
「あんたは知らないかもしれないけど、あの子はあんたたちの大ファンなのさ。だから……あんたたちに祝ってもらえたら、どれだけ喜ぶかと思ってね。どんな些細な物でもいいから、良かったら誕生日プレゼントを選んでやってくれないかい」
「なんだ、そんなことか……俺ゃまたクソ重い壁材運べとか、特定の魔物狩ってこいとか言われるのかと」
「あら、ごちそうになるならそれでもいいんだよ?」
「勘弁してください」
「ウフフフフ!」
 そんな中、ばたばたという足音とともに、騒がしい声がフロントに近づいてくる。
「だ、誰かおらぬか!」
「ん?」
 聞き覚えのある声にレオンは眉を寄せる。玄関に向かった女将の背中越しにその主を見つけて、目を見開いた。
「レオン殿!」
「あんたは……」
 長い黒髪の、赤い奇妙なズボンの女―――相変わらず裸のような格好だ―――が、驚き見張った切れ長の目をレオンに向けていた。
「―――誰だっけ?」
 女の肩が、がくっと落ちる。
「なんと薄情な……」
「や、知ってる知ってる、覚えてるさ、名前が出てこないだけで」
「……コユキでござる。エトリアでは世話になった」
 脱力しきったむき出しの肩。レオンはぽんと手を打った。
「あーそうだ、コユキだ。久しぶりだなー……こんなとこで何やってんだ?」
「それは―――」
 コユキは後ろを振り返る。玄関へと階段を上がってくる外の足音にぎょっとすると、さっとレオンの背後に隠れた。
「拙者はいないものとして下され!」
「おい―――」
「ごめんくださいな!」
 ばんと勢いよく宿の戸を開けたのは、派手な金髪に青いコートを着込んだ、小柄な少女だった。
 もっとも小柄なだけならコユキもひけをとらず、レオンの背中に張り付いているので、この金髪の少女からはすっかり隠れて見えていないらしい。
 少女の青く吊り上がった目が、ぎらとレオンを見た。
「ここに、ブシドーの女が来なかったかしら?」
 いきなり居丈高な少女に、レオンは頬をひきつらせた。
「その前にあんたは何者だ?」
「人の名を尋ねる前に、自分から名乗りなさいな」
 つんとすませて、少女はじろじろとレオンを検分する。
「―――見たところ、礼儀の欠片も知らないような冒険者みたいね」
「冒険者宿に突然現れて、営業妨害するのがあんたの言う”礼儀”ってやつかい?」
 鼻で笑ったレオンに、少女は顔をしかめた。
「言葉に気をつけなさいよ。……もう一度聞くわ。ブシドーの女は来なかった?」
「教えるかどうかは、そいつがあんたに何をしたかによるな」
 ぎょっとしたようにコユキが体を震わせた気配がした。
 金髪の少女はコユキに全く気づいていない様子で、鼻を鳴らした。
「……逃げられたのよ」
「ほう?」
「食事をおごってあげるかわりに、うちのギルドに入るって約束を、反故にされたの」
「食事のあとに出された条件なぞ、約束とは言わぬ!」
 ぱっと姿を現して吼えたコユキに、少女もコユキ自身も目を丸くする。条件反射だったらしい。
 少女は顔をほころばせた。
「やっぱりここにいたのね? ……イヤならいいのよ。食事代を支払ってくれれば」
「に、二万エンも手持ちにあるわけがなかろう!」
「だったら、わたしと一緒に来るか……もう一度門の外に出て、今度こそ凍死するか、ね」
 う、とコユキは黙り込んだ。
 またタチの悪そうなのに引っかかってるなー、とレオンは他人事のように思う。否、他人事である。
 だが、コユキはぐるんとレオンを振り返った。
「そうはいかん……のう、レオン殿?」
「あん?」
「拙者、このレオン殿のギルドに所属すると決まっておるのじゃ! 一食のご厚意には感謝いたすが、拙者のことは諦めていただけぬか」
「何ですって?」
 これは予想外だったのか、金髪の少女の眉が跳ね上がる。
「おいおい、俺を―――」
「何せこのコユキ、レオン殿たちには以前、一度ならずや二度までも命を救われておるのじゃ。今度ばかりは身を粉にして、報いねばならぬ」
「何よ、そんなの知らないわよ! あなたそんなこと、一言も言ってなかったじゃない!」
 そして少女はレオンに向き直ると、びしっと指をつきつけた。
「大体なんなの、あなた!」
「人に名を尋ねるときは、自分から名乗るのが礼儀じゃなかったのか?」
 痛む頭に額を押さえるレオン。
 すると彼の肩を、女将がちょいちょいとつつく。
「お取込み中のところ悪いけど」
「何だい?」
「あたしゃもう引っ込むけど、さっきのこと、よろしく頼んでいいんだね?」
「あー……ああ」
「何の話?」
 怪訝げに首を突っ込んでくる金髪の少女。
 よせばいいのに、女将は正直に答えた。
「うちの娘がもうすぐ誕生日なんだよ。そのプレゼントを用意してやってくれって頼んだのさ」
「それよ!」
 何故か指をぱちんと弾くと、少女は再びびっとレオンを指した。
「―――あなた、わたしと勝負しなさい!」
「はあ?」
「どちらがより喜んでもらえるプレゼントを用意できるか、勝負よ! 勝った方がその―――」
 ここでコユキを一瞥し、少女は続ける。
「その子を仲間にできる。それでどう?」
「どうっつったって俺は関係な―――」
「のった!」
 代わりに一歩踏み出して、拳を握ったのはコユキだ。弾みでか向こう臑を思いっきり蹴られ、レオンは痛みに息を呑む。
「おばさん、娘さんの誕生日はいつ!?」
「週末にパーティーをするよ。明後日だね」
「ではそれが期限じゃな」
「ふふん、今から覚悟しておくのね」
「そっちこそ、負けたらすっぱり拙者のことは諦めてもらおう!」
「望むところよ!」
 不適な笑みを浮かべ、にらみ合う小さな少女二人。
 涙目で跳ねていたレオンは、彼女らを交互に見遣ったあと、脱力しきった溜め息を吐いた。


 少女を追い返し、宿の外に出たレオンとコユキ。冬近づくこの時間は既に辺りも暗く、間もなく夜になろうという空色だ。
 大きく伸びをし、レオンは呟く。
「ま、受けちまったのはしゃあねえしな……にしても、女の子の誕生日プレゼント、ねえ……」
「当てはござるか?」
 見上げてくるコユキに、レオンは眉を下げる。
「俺にそれを訊くの?」
「……アリル殿はハイ・ラガードに来ておられぬのか?」
 女の子、のくくりなら、彼女が一番適任だろう。
「エトリアにいた連中は、ノアとブルームを除いて皆来ているよ。アリルは今頃、買い出しかな……」
 クルスたちと一緒に、中央街に上がっている可能性が高い。
「帰ってくるのを待つか?」
「しかし明後日ならば、あまり時間がござらぬぞ」
「とりあえず、俺たちも中央街に行ってみるか。街の人たちにも訊いて回ってみよう」
 肩を落とし気味のレオンに、コユキは微かに笑みを浮かべる。
「百戦錬磨のギルドのリーダーも、こういうことには形無しじゃな」
「あん?」
「何でもござらんよ」
「それよりあんた、今日泊まる宿はどうすんだ? クッククローに入るってのも方便だろ?」
「……そのことなのじゃが」
 コユキは鼻の頭を掻くと、ぺこりと腰を折り曲げた。
「―――拙者、持ち合わせがござらんのじゃ。この街を去ろうにも、この街に留まろうにも。面倒事に巻き込んだ上に申し訳ないが、賭けに勝ったらしばらくの間、厄介にはなれぬじゃろうか」
「……あの金髪娘のギルドに、素直に入ったら良かったんじゃねえ?」
「拙者にも生意気ながらプライドがござる……この刀、義も弁えぬ小娘のために振るいたくはないのじゃ。分かってもらえぬだろうか?」
「仕事を選んで食っていける身分なら、それもアリだろうがね。あんたは違うだろ?」
 頭を上げたコユキは、ぐうの音も出ないといった顔をしていた。レオンはこの表情に覚えがある―――エトリアで、コユキが無謀にも第四階層に一人で突入していった、その直前に出会った時の。
 レオンはぼりぼりと頭を掻いた。踵を返す。
「……悪い、俺の一存で決められることじゃなかった」
「と、いうと」
「街を一回りして……宿に戻るころには、誰か他の奴も帰ってきてるだろ。みんなにも事情を話して、自分で説得するんだな」
「レオン殿は……拙者の参入に、反対票を入れなさるか?」
「あんた次第さ。俺は正直どっちでもいい」
 数歩分開いた距離を振り返り、レオンは告げた。
「―――どうでもいいけど、さっさと行こうぜ。店が閉まっちまう」


 そうしてシトト交易所、鋼の棘魚亭、薬泉院、中央広場と回った二人は最終的に冒険者ギルドに立ち寄ると、様々な情報だけを収穫に、フロースの宿へと戻ってきた。
「奇跡的に、うちの連中の誰とも会わなかったな」
 宿の扉にレオンが手をかけたところで、コユキの様子がおかしいのに気付く。
「……どうした?」
「レオン殿、今日のところはここまでにして……拙者は明日手がかりを元に、樹海へ入ってみようと思うのじゃが」
「いいんじゃねえの? さっき一応ギルドでうちのメンバーとして仮登録も済ませたし」
「レオン殿も付き合って下さるので?」
「つか元々俺が受けた依頼だからな。最後の賭けの瞬間まで面倒はみてやるよ」
「ありがたい。……では明朝、樹海の入り口にしてお待ち申し上げる」
「泊まっていかないのか?」
「そこまでご厚意に甘えるわけにはいかぬ。賭けに勝つまで、拙者はクッククローの皆様と肩を並べる資格はないのじゃ」
「いや、そこまで思いつめなくても……」
 相変わらず極端な奴だ。頬を引きつらせるレオンに、しかしコユキは頑として譲らない。
「出来れば拙者の存在も、皆には内密にお願い申す」
「なんで?」
「拙者の心構えが出来ておらぬので……おそらく皆は、拙者がギルドに参入することを拒まぬであろう。じゃが、それではいかぬ。先にきちんと賭けの決着をつけてしまわねば」
「まあ……それはそうだな」
 コユキは黒く長い髪を翻すと、階段を下っていった。一段降りるごとにくしゃみが響く。
「上着ぐらい着ろよ……」
 寒そうに去って行く小さな背中を見送り、レオンは宿の戸をようやく開けた。
 と。開けた瞬間、仁王立ちするこれも小さな影に驚く。
「うわっ」
 アリルだ。にっこりと微笑んでいるが―――なんだか、含みのある笑みだ。
「お帰りなさい」
「おう……って何だ? 通してほしいんだけど」
「交易所のお嬢さんがね、さっきお店にレオンが来たって言ってた」
 避けるどころかずい、とアリルは近づいてくる。心なしか言葉尻がきつい。
「―――キツめの顔立ちの美女を連れてたって聞いたけど、どこのどなた?」
「あっ」
 コユキの顔が浮かんだが、彼女には名前を出すなと言われている。
 そしてアリルの言葉に反応してしまったため、知らぬ存ぜぬも貫けない。そのわずかな逡巡が、結果的に怪しい間を生んでしまった。
 アリルの口角が、ますます不自然に吊り上がる。
「心当たりあるのねー? 露出の多い格好だったって言ってたわよー」
「ルミネかおまえは……」
 適当に返しつつ、助けを求めて視線を彷徨わせると、少し離れたソファにクルスが座っているのを見つける。が、彼は関わりたくないというかのように新聞に顔を突っ込ませていた。
「あーあー、別に俺が誰と歩いてようがおまえにゃ関係ねえだろ」
 ちらっとアリルに目を返すと、彼女は目を見開き、すぐに取り繕った仏頂面になった。
「……そうね、関係ないわね」
「そういや、女将さんに依頼の事、聞いたか?」
「知らないわよ。あなたが受けたんなら、あなたが自力で何とかすれば?」
「おい……」
「邪魔してごめんね。じゃ」
 片手を軽く挙げ、アリルはさっさと踵を返してしまう。すたすたと歩き去る背に、慌ててレオンは声をかけた。
「アリル」
「何?」
 冷たい、というより棘がある。うっ、とレオンが思わず黙り込むと、叩きつけるようにアリルは続けた。
「私、忙しいの。あとにして頂戴」
 姉貴分―――ノアを思い出すような氷の口調で言い切ると、そのまま二階へ階段をのぼっていってしまった。
 呆然とレオンがそれを見上げていると、すぐそば、階段裏手のソファから蚊の鳴くような声がする。
「今のは怒られて当然ですよ……」
 びくびくしている金色頭に、レオンは同じく小声で応じる。
「……何が原因だ?」
「本当に分からないんですか?」
「うん……」
「……少しは自分で考えて、改善してください」
 頼りにならない返答に、レオンは階上に聞こえぬよう、こっそり溜息をついた。


 翌朝。
 偶然にも今日は、レオンは探索に参加しない、実質休日だ。そのためレオンは探索組が出発したのち、人目を忍ぶようにして宿を出た。見つかればまた後々がうるさいだろうからだ―――しかし。
 玄関を出て、そろそろと樹海へ向かう赤い武装の彼の姿を、二階の窓から見ている者がいた。アリルである。
「あんなに一人で探索に行かないでって言ったのに……」
「あらー、一人じゃないかもしれないわよ?」
 朝帰りの気だるげな空気を漂わせながら、ルミネが茶々を入れる。
 アリルは勢いよく振り返った。
「一人じゃない……って」
「昨日の誰かさんと一緒かもー?」
「あり得る……」
 昨日のあの態度、誰が何と言っても怪しかった。彼は何か隠している。女の勘だ。
「ルミネさん、気にならないの?」
「別にー? 特別ギルドに迷惑をかける行動でもないでしょう」
「そうじゃなくて」
「それとも」
 アリルとルミネの言葉が重なる。アリルが譲ると、彼女はアリルの座すベッドに寝そべりながら、にこにことして続けた。
「それとも、アリルちゃんは気になるのかしら? あの子が、他の女性と一緒にいることが」
「わ、私……は」
 言い訳を探すように視線を彷徨わせると、アリルはぱんと手を打った。これだ。
「私はギルドのお医者ですから。ほら、か、勝手に怪我をされると、困るんです」
「ふうん?」
「本当ですよ。ただでさえ……調子が良くない時期もあったんですから」
 シーツを握るアリルの手に、ルミネがそっとてのひらを重ねる。
 白く、冷たい手だ。
「る、ルミネさん?」
「優しいのねー」
 さするように手を動かす、ルミネは目を細めて下を見ている。
「―――あなたみたいな子に想われて、あの子も幸せね……」
「え?」
「大丈夫よー」
 顔を上げ、にこりとルミネは笑む。手はぱっと離れていった。
「気になるようなら、追いかけてみればいいんじゃないかしらー。樹海守の衛士に訊いたら、どの階層に向かったかも教えてくれるでしょうしー」
 ルミネの言葉に、アリルはしばらくぽかんとしていたが、やがて拳を握って頷いた。


 樹海磁軸から離れ、レオンとコユキはざくざくと赤い森を進んでいく。
「エトリアの世界樹の迷宮も奇異であったが、この森もまた珍妙じゃな」
 レオンの背に話しかけながら、必死でコユキはそれに追いすがる。コンパスの長さが違うので、歩くというより小走りだ。
「―――真っ赤な森とはのう。して、ベリーのある辺りというのに見当はついておるのか?」
 二人は今、ギルド長に特別許可をもらい、絶品らしいベリーを採集しに第二階層に来ている。
「ああ」
「そうか……」
 そして落ちる沈黙。
 元々コユキも口の達者な方ではないが、初めて入った樹海に二人きり、緊張感を紛らわせるような会話は存在して欲しい。が、どちらかといえば喋る方であるようなレオンは、今度ばかりはだんまりを通していた。それが、コユキの気をさらに揉ませる。
「……レオン殿、何かござったか?」
「あん?」
 心なしか不機嫌そうな顔で、レオンは振り返った。
 コユキは、笑みともしかめ面とも取れるような複雑な表情を作る。
「昨日に比べて幾分、気がピリピリとされているようなのが、感じ取れての」
「あー……」
 頭を掻くと、レオンは隻眼の視線を彷徨わせた。
「何かござったのか、それとも拙者のせいか―――」
「あんたのせいじゃない。……あんたのせいじゃあないが、指摘された通りぴりぴりはしてるな。少人数での探索っていうのは気を使うもんでね、あんたとは初めて組むから、特に」
「そうであったか」
 コユキは胸を撫で下ろす。
「それだけじゃないかもしれないけど……」
「え?」
「いや、何でもない。独り言だ。……気を遣わせて悪かったな」
 繕うようにレオンはそう言うと、正面に向き直り―――お、と声を上げた。
「あれじゃないか?」
 グローブを嵌めた指先が指すのは、下草だけが緑に染まった広場の一角だ。目を凝らせばぽつりぽつりと、ベリーらしき紫も確認できる。
「そのようじゃな」
「やれやれ……さっさと摘んで帰ろうぜ」
 どこからともなく取り出した瓶を片手に、レオンはベリーの草むらに屈み込む。
 ふと、妙な気を感じて、コユキは周囲を見渡した。
「……レオン殿」
「何だ?」
「魔物の気配を感じぬか?」
 レオンはコユキの言葉にふと手を止めたが、かぶりを振った。
「いや」
 なら、拙者の思い過ごしか―――とコユキが納得しようとした刹那、強烈な殺気がコユキを貫いた。
「レオン殿!」
「すまん前言撤回!」
 叫ぶように応じながら、レオンは斜め後方に跳ぶ。
 彼が構えた剣先の草薮から現れたのは、八本足の大柄な白馬が、二頭。
「上層の魔物じゃねえか」
「ベリーが目当てかの?」
「さあな。……あんた、火の技使えるか?」
「拙者は氷しか扱えぬ」
「じゃあそいつは使わねえ方がいいぜ!」
 馬の突進を避けながらレオンが言う。敵の動きが速い上に勢いが強過ぎて、こちらから攻撃を加えるどころか動きを見極めるのが精一杯だ。
「レオン殿!」
「何だ!」
 コユキは刀を納める。
「技を使う。敵の動きを鈍らせてもらえぬか」
「技って―――」
「属性ではない!」
 姿勢を改めながら、コユキは深呼吸する―――居合いの構えだ。
「―――別の、必殺の技じゃ。一撃で決める!」
「何だかよく分からんが、足止めすりゃあいいんだな」
 彼は腰の後ろから短剣を抜くと、投げた。それが突き刺さったのは、波のように動く八本足が踏みつける地面―――力を溜めて、今にも突進しようとしていた体躯が、狼狽えたように止まる。
 コユキは既に地を蹴っていた。
 馬の前脚に当たらない、ぎりぎりまで肉薄し、刀を振り抜いた。
 一閃。
 魔物の太い首が、弾けるように、飛んだ。
「うわっ」
 生首が降ったせいか、間抜けたような声が傍らで上がる。だがコユキは息吐く間もない。もう一頭が突撃してきたからだ。
「くっ……」
 刀で防御したものの、防ぎきれるはずがない。首を失くした馬の身体に倒れ込むように、コユキは仰向けにひっくり返った。
 だがその横を疾駆する赤い影がある。レオンだ。中々立ち上がれぬコユキの目には映らなかったが、戦闘の音と、ようやく身を起こした頃にあった地響きとか細い嘶きから、どちらが勝利したのかは明白だった。
「……怪我、ないか」
「心配要らぬ。これしき……」
 問題はない。そう言おうとして吸い込んだ空気に、内臓が悲鳴を上げる。蹲ったコユキの傍らに、レオンが膝をついた。
「どこか痛めた?」
「筋がの……大事はないじゃろう。それより……」
 コユキは周囲を見渡した。
 自分のあぐらの下敷きになっている首無し馬、少し離れたところに同じような死骸が転がっているが、それらが暴れた後―――ベリーの採集場は見るも無残と化していた。
「あとでギルド長に詫びを入れねばなるまいの……」
「樹海の植物はたくましいから、すぐに再生するさ。問題は」
 レオンが取り出したのは包みだ。布の底は紫に染まり、汁が滴っている。コユキは目をぱちくりとした。
「摘み入れた瓶も割れてしもうたか」
「どうすっかなー、これ……あともう一つ、悪い知らせがあるんだけど、聞く?」
「……お聞きしよう」
「糸忘れた」
 苦笑いともつかぬ笑みを平然と浮かべる隻眼の男に、コユキは絶句する。
「―――歩いて帰れそうか?」
「仕方なかろう……つっ」
 痛む腹を押さえながら、コユキはそろそろと立ち上がる。といっても戦闘ができる状態ではないから、帰り道に魔物に鉢合わせないことを祈るしかない。
 そこへ。
「レオン!」
 鈴のようによく響く高い声。振り返ったコユキの目に映ったのは、息を弾ませる医術士の少女―――アリルと、見知らぬ二人。コートを着込んだ少年と、妖艶な雰囲気のドレスの女だ。
「おまえら、何でここに?」
 瞠目するレオンに、アリルが掴みかかる。
「あなたが一人で樹海に行くところが見えたからよ! 約束守るなんて嘘ばっかり―――」
「一人じゃねーぞ、ホラ」
「あなたが“露出が多めで、キツめの顔立ちの美女”さんねー?」
 ドレスの女に覗き込まれ、コユキは仰け反った。その拍子に、肺が激痛を訴える。
 アリルはそこで初めてコユキの存在に気づいたかのように、目を瞬かせた。
「コユキさん!? どうしてこんなところに……」
「事情は後だ。とりあえず、手当てしてやってくれないか」
「あなたたち二人だけで、こんなところで何をしていたのー?」
「だから……」
「手当てなんて、あなたが話をしながらでも出来るでしょー。まずは、勝手な行動を取ったことを謝ったらどうなのー、あなたはこのギルドの責任者なのよー」
 有無を言わさずぴしゃりと言い切った女に、レオンは苦い顔をしながらも黙り込む。彼が太刀打ちできないところを初めて見たコユキは、アリルの診察を受けながらもぽかんと口を開けていた。
「悪かったよ」
「や、いや、拙者が依頼したのじゃ! 話せば長くなるのじゃが―――」
 我を取り戻し、彼の弁護をしようとして―――コユキは身を捩った。痛みがつらい。
 その様子を見、女はやれやれというように首を振る。
「……仕方ないわねー、事情はあと、にしましょうか」


 そうしてコユキは大人しく治療を受け、街に戻って事情を話したところ、アリルがぱんと手を叩いた。
「だったら、ジャムにしましょう!」
「……じゃむ?」
「潰れたベリーでも、ジャムになら出来ます。私も手伝いますから……宿か棘魚亭の台所をお借りして」
「そ、それでプレゼントになるじゃろうか」
「コユキさんが身体を張って手に入れたベリーですから、気持ちは伝わりますよ! それに、私もコユキさんには是非、クッククローに入ってほしいですから……」
「アリル殿……」
 その言葉にじーんと感動していたコユキだが、いかんいかん、とかぶりを振る。
「アリル殿たちのご厚意にばかり甘えるわけにはいかんのじゃ。これは拙者と小娘の勝負。クッククローの皆々様には、その決着がついてから、改めてギルドに入れてもらえぬかどうかお願いに参るつもりじゃった」
「えっ」
 絶句するアリルに気づかず、コユキは続ける。
「そのため、居合わせたレオン殿に協力してもらい、拙者の存在は隠してもらっていたのじゃ。レオン殿にはプレゼントを探す手伝いまでしていただいて、ほとほと頭が上がらぬよ」
「そうだったんだ……」
「アリル殿?」
 アリルはぱっと表情を明るくすると、笑顔になった。
「ううん、何でもない。……じゃ、早速ジャム作りに行きましょ」
「うむ……しかし、拙者まったく“じゃむ”という代物を知らぬからして、上手く作れるか不安じゃ」
「ジャム知らないんだ……ん、でも大丈夫だよ!」
 屈託ないその笑みに、コユキも少しだけ、相好を崩した。


 そして運命の日。
 鋼の棘魚亭で開かれた、フロースの宿屋の娘の誕生日パーティは、いよいよ局面を迎えていた―――と言っては大げさだが、ようするに賭けをした者たちの、プレゼントお披露目である。
「おっほっほ! わたしからのプレゼントは、これよ!」
 相変わらずに居丈高に、金髪の少女はプレゼント包みを娘に差し出した。おずおずと幼女が受け取り、その包みを開ける。クッククロー方の三人―――レオン、コユキ、アリルは固唾を呑んでそれを見守っていた。
 現れたのは、一本の蝋燭だ。
「……ローソク?」
「驚かないようにね。それは、この国の錬金術師組合の技術の髄を結集して造られた、最高級香り付き封蝋なのよ!」
「封蝋とはなんじゃ?」
「手紙の封を閉じるときに使う、蝋燭のことだよ。うわあ、たしかに良いにおいがここまで……」
 外野の反応をよそに、宿屋の娘は不思議そうに顔を上げた。
「これ、もらっても怒られないかな……」
「怒るものなどいやしないわ。むしろわたしからの贈り物ですもの、この国の貴族でも一握りの者しか手にすることが許されない封蝋を、存分に堪能しなさいな」
「ありがとう……」
 娘は照れたように笑う。それを見て、金髪の少女はやや険を削がれたように目を丸くし、ふにゃりと微笑みかけて―――またつんと澄まし顔を作った。
「さあ、わたしはあげたわよ。あなたたちの番ね!」
「う、うむ……」
 コユキは小瓶を取り出し、宿屋の娘に差し出した。
「これはなに?」
「じゃむ、というものなのじゃ……パンなどにつけて食べるとよかろう」
「わあ……」
 小瓶の蓋を開けると、甘酸っぱいベリーの芳香に、娘は指でジャムを一すくいして舐める。
「あまーい……ねえ、お母さんにもあげていい?」
「も、勿論じゃ」
 本当は彼女の母親に味付けを手伝ってもらいながら作ったのだが。宿屋の娘は表情をほころばせる。
「ありがと、すごくうれしい……へへ」
「それはいいんだけど」
 唇を尖らせて、金髪の少女が言う。
「―――それで、あなたはどちらのプレゼントが嬉しかったかしら?」
「えっと……」
 きょろきょろと少女とコユキとを見比べ、娘は小声で呟く。
「どっちも……」
「そりゃあそうさ!」
 大きな声で割り込んできたのは、その母親である。娘の頭にぽんと手を置くと、でっぱった腹を揺するようにして笑う。
「―――あんたたちが娘のために、心を砕いて贈ってくれたプレゼントだもの! 優劣なんてつけられるはずがないさね!」
「で、でもそれじゃあ勝負の行方が―――」
「あっ、もう始まってる!」
 棘魚亭の扉を勢いよく開けて入ってきたのはライだ。その後ろにクッククローの残りの面子が続いて―――その一人、ファルクが、金髪の少女を見てあっと声を上げる。
「アルマ!」
「えっ、知り合い?」
 名を呼ばれた瞬間、金髪の少女―――アルマはぎょっとしたような顔をした。コユキの後ろに慌てて隠れようとするその腕を、ずんずんと近づいてきたファルクが掴む。
「何やってるんだ、こんなところで!」
「どういう関係だ?」
 レオンの質問に、ファルクが息巻いて答える。
「ぼくの幼馴染だよ。行方不明になったって聞いてて……まさか冒険者の酒場なんかにいるなんて」
「ファルクの幼馴染ってことは……」
「もしかして、この国の貴族とか?」
「……そうよ」
 開き直ったかのように、アルマは金髪を払った。つんと澄ませた様子はそのままで続ける。
「わたしはアルマ。貴族の娘だけど冒険者になるつもりで、下町や外門付近を偵察していたの。そのときにたまたま、ブシドーのこの子を見つけて……」
「なんでまた、お貴族サマが冒険者なんかに?」
 ライの言葉にファルクが眉を上げるが、何も言わない。
 アルマは答えた。
「だって、世界樹に入ってみたいから」
「そんな理由で……」
「いいわ。今日のところは勘弁してあげる。でもそのうちわたしのギルドが、あんたたちなんかあっという間に追い越して、あの迷宮を踏破しちゃうんだから。覚悟しておくことね!」
 早口で言い切り、ずびしとコユキを指さすと、アルマはファルクを振り払って棘魚亭を飛び出していった。
「あっ、待てよ!」
 ファルクがそれを追いかける。面白がってついていったライとカリンナをよそに、レオンは疲れた溜息をついた。
「……ってことは?」
「賭けなら、相手の放棄ってことで、こちらの勝ちでいいんじゃないかしら」
「では……!」
 コユキは改まって、土下座の体勢でクッククローの面々を向いた。
「拙者、恥を忍んでお願いがあり申す! どうか皆様のギルドに―――」
「いいよ」
「いいと思います」
「どうぞ」
「早っ!」
 がばっと顔を上げたコユキに、レオンは面倒くさそうに耳をほじくりながら応じる。
「最初から自分で言ってたじゃねえか。誰も拒む奴なんざいねーよ」
「よろしくね、コユキさん」
 アリルの差し出した手を、コユキはまじまじと見つめ、そして握る。
 フロースの宿の女将が、皆に聞こえるように大きく手を叩いた。
「それじゃあ、仕切り直しだね! うちの子の誕生日と、クッククローの新しい仲間に乾杯だよウフフフフ!」
 それに応じるように、歓声が店中に響いた。


 夜半。
 パーティーを途中で抜け出して、アリルは棘魚亭の玄関外に座り込んでいた。なんとはなしに、ため息が出る。
(どうしよ……)
 自分に呆れてしまったというか。またひどい自己嫌悪だ。折った膝に顔を埋め、はああ、と息を吹きかける。
「どうした?」
 ふと、背後に立つ気配。
 びくりと肩を震わせて振り返れば、にやにやと笑う赤毛の男―――レオンだ。
 唇を尖らせて答えられずにいるアリルの隣に、彼はどかりと腰を下ろす。思わず見やると、彼は中から持ってきたらしい酒瓶をラッパ飲みしていた。
「機嫌は直ったみてーだな」
「……うん」
 気まずい―――と思っているのは、アリルだけだろうが。
 だが存外真剣な口調で、レオンはこう言ってきた。
「まあ、みんなに内緒にしていたのは悪かったよ」
「でもちゃんと、事情があったんじゃない。コユキさんのためだし。……私なんか、勝手に怒って、関係ないところで……馬鹿みたい」
「それを含めて、ごめんってことだよ。勘違いの原因の一端は、俺にもあるんだろ?」
「けど……そうやって謝られると、ますます自己嫌悪に陥るからやめて」
「難しいな」
 またラッパ飲み。
 アリルはため息まじりに、彼を向いた。
「ごめんね……」
「うん?」
「私、医者なのに、アルコールの過剰摂取は体に毒だよって今言いたくない」
「何だそりゃ」
 もう空になったらしい。レオンは瓶を逆さにしてそれを確認すると、すくっと立ち上がった。アリルの頭の上に、大きなてのひらが降る。
「今日は来てくれて助かったよ。ありがとな」
「……うん」
「俺が頼りない時は、サブリーダーが何とかしてくれよ」
 そう言い置いて、レオンは再び店の中に帰っていく。
 立ち上がらずにそれを見送り、ぱたんと閉じた扉を見つめて、アリルは再び溜息をついた―――少しばかり、違う意味の。
 胸をしめつける類の、切なさ。
 どうしようもないと分かっていても、彼の優しさに触れるたび、再確認してしまう自分の想い。
「レオン……」
 その場に置き去れるなら―――ぽつりと呟いた名前だけを残して、アリルは立ち上がると、酒場へと戻っていった。

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12F

 コユキの歓迎を兼ねた、誕生日会の宴もたけなわになってきた。
 目を離した隙に呑み比べでもしたらしく、ライとファルクがひっくり返っている。クルスは彼らの介抱を頼もうとアリルを探したが、見当たらない。
 そのうちに、こちらもいつの間にか席を外していたレオンが、戻ってきた。
「レオン、アリルを知りませんか?」
「外にいるぜ」
 顎をしゃくったレオンに、アイオーンが素早く席を立つ。
「俺が行こう」
「すみません……」
「何だコイツら。酔っぱらってんのか」
 やや危なげな足取りで、じべたに這いつくばる少年たちを跨ぐと、レオンはテーブル席にどかりと落ち着いた。どうやら、彼も結構酔いが回っているようである。
「明日も探索なんですから、呑み過ぎないで下さい」
「何だっけっか……任務、出てたよな」
「しっかりしてくださいよ」
 クルスは公宮から発令された、正式な任務書を紐解いた。レオンに手渡す。
「読めん」
「向きが逆ですよ……」
 呆れつつ指摘すると、レオンは任務書の上下を入れ替えた。
「なになに……氷の、花?」
「十二階に生息する花のようです。幻獣の羽毛同様、大公の病を治すのに必要なもののようですね」
「四つも要るのかよ。こいつは手間だな」
「その上、夜間にしか咲かない花だそうですよ」
 レオンは苦い顔をした。
「めんどくせーな……」
「出来れば一晩のうちに、四つとも見つけたいですね。まあ公宮によれば、この任務を受けているのは現在僕たちだけらしいので、多少慎重に行っても誰かに先を越される心配は、あまりなさそうですが」
「俺たちだけ? エスバットとかいう連中はどうしたんだ」
「彼らは……六花氷樹海にはよく足を運んでいるそうなんですが、そもそも公宮に姿を現すことがそうないらしくって」
「ふうん……」
 任務書をクルスにつき返すと、レオンはワインの瓶を手に取った。
「ま、どのみち明日から、本格的に十二階の探索に入るつもりだったしな。丁度いいんじゃないか」
「そうですね……ってまだ呑むんですか?」
 赤い液体が注がれたコップを持ち上げるレオン。彼はにやりと笑って、それを差し出してきた。
「おまえは、今日は呑んでねーのかよ」
「……レオン、僕は気づいたんです。敵は己の中にいるものだと。こんな次第に右も左もなくなっていくような環境で、何かを信用する方が間違いなんです」
「ほう」
「今日の僕は喉が乾いたら、外に出て井戸水を汲んで飲んでいます。これで完璧です」
「そ、そこまでするか……」
 さしものレオンも若干引いたように頬を痙攣させた。クルスは表情にも気づかず続ける。
「グラスに何かが混入している可能性も否めませんから、勿論桶から直飲みです」
「腹壊しても知らんぞ……」
「失礼、レオン殿、クルス殿」
 刀片手にコユキが近づいてくる。酔った様子がない割に赤らんだ顔に、レオンがいぶかしむように首を傾いだ。
「おまえ、どこにいたんだ?」
「樹海の入り口で、少々素振りを。こうした騒がしい場は馴染まぬ」
「おまえの歓迎会だっつの」
「それで、どうかされたんですか?」
「うむ……」
 話しかけてきたくせに言い出しにくそうに、コユキは言葉を濁した。鳶色の瞳が逸らされる。
「ときに……今まで少々気になっておったのじゃが」
「おう」
「イーシュ殿は、ハイ・ラガードに来ておられんのじゃろうか?」
 コユキが口にした意外な名前に、クルスとレオンは顔を見合わせた。
 もじもじとしているコユキに、クルスは口を開く。
「イーシュさんなら―――」
「あいつか。よりにもよって、あいつの話か」
 言いつつ、クルスを押し退けるレオン。クルスが何か言う前に、くいと口角を上げていたレオンは、これ見よがしにため息をつきながら、打って変わって沈痛な表情になった。
「―――アイツはな……エトリアで悪い女に引っかかっちまって」
「えっ」
 目を丸くするコユキ。
 何を言っているのかとクルスが非難するより早く、レオンは続ける。
「油断してたのがまずかったんだろうな、“できちまった”らしくて。責任取るとか言ってたが結局借金取りから逃げ回るのに必死で、俺たちも姿を長らく見てないんだ……」
「そ、そ、そうじゃったのか……」
 コユキは呆けたように棒立ちになり、ぽかんと口を開いている。
 クルスはレオンを睨みつけた。
「レオン、悪い冗談はやめてください。コユキさんが本気にしていますよ」
「ははは」
「え……では」
「勿論、嘘です。情報収集のため別行動を取っていますが、イーシュさんもハイ・ラガードに来ていますし、元気ですよ」
「そ、そうであったか」
 じろっとレオンを一瞥したものの、コユキは深々と安堵の息をついた。
「にしても」
 しかし、レオンはにやにやとした笑いを崩さない。
「―――おまえさんの目当てがアイツとはね」
「な、何を仰るか! 拙者はただイーシュ殿がおられぬから気になっただけで別に、エトリアに残ったとしたら好きなおなごがいたからなのかとかハイ・ラガードに来られていたらまたご一緒出来て嬉しいだなんて一言も……!」
「あー、分かった分かった。あんたがこの手の話で釣られ放題になるってのはよく分かった」
「じゃから―――もがっ」
「だからもう喋らなくていいぞ、自分で墓穴掘ってることに気づいてねえだろ」
「レオンのせいですよ……」
 居たたまれなくなってコユキの口を手で塞いだレオンに、クルスはやれやれと項垂れる。
「なんかごめんな」
「ぷはっ……どうして謝るのじゃ?」
「いいんだ、俺が悪かった……」
 その瞬間。
「ただいまー! みんな久しぶりー!」
 ばんと勢いよく棘魚亭の扉を開けて、現れたのは誰であろう、イーシュだ。
「い、い、い、イーシュ殿!?」
「アレッ、コユキちゃん? うわー、元気にしてた!? どうしてハイ・ラガードなんかにいるの? っていうか、もしかしなくてもまたレオンに出くわしたのお気の毒!」
「オイ、なんだ失礼な」
 ずんずん進んできて、イーシュは男二人には目にもくれず―――むしろ押し退けて―――コユキの両手をがっちりと掴み、にっこり笑んだ。
「しばらくいるつもりなら、よろしくね。また会えてすごく嬉しいよ!」
「せっ、しゃ、も、じゃ……」
 茹蛸になりながら、コユキは蚊が鳴くような声で応じる。
 レオンはクルスと顔を見合わせると、肩を竦めた。


 レオンがイーシュを呼び戻したのは、ファルクが家出したことを知ったノアが、何らかのアクションを起こすだろうと予想したからだった。
「任せてよ。実は現時点でも、かなりノアさんに近い人間とのコンタクトに成功してるんだ」
「そうか……」
 情報屋の血が騒ぐのか、ぐっと拳を握ってみせたイーシュは覇気ある声で告げる。
「近いうちにきっと、ノアさんとも接触できると思う。上手く運べば彼女に、ハイ・ラガードに来てもらえる手筈を整えられるはずなんだ」
「そーか、そりゃ良かったな」
 対して消えそうな声音のレオンに、イーシュは顔をしかめる。
「何、その薄い反応。こう見えて僕、死にそうな目にも遭ってんだからね!?」
「分かった、分かったからあんまり耳元で叫ばないでくれ……」
 弱々しく片手を掲げると、イーシュは呆れたような半目になった。
「まさか、今夜の探索に参加しなかった理由ってそれ?」
 コユキ歓迎会の翌日である。朝の会議で、氷花捜索のために今日の探索は夕方以降に出立すると決定したが、レオンは探索メンバーに加わらなかった。もうすぐ夕暮れになろうというのに、ずっとこうして、ベッドに転がって吐き気と戦っている。
 ごろりとイーシュに背を向ける。
「あー、頭に響く……」
「二日酔いって……自分の限界も弁えられないような子供じゃあるまいし」
 と言いつつイーシュが見渡した室内には、同じく二日酔いに苦しむライとファルクの姿があった。
「―――なんか、よっぽどコユキちゃんと再会できたのが嬉しかったの?」
「ちげえ」
「何でもいいけど、そういうわけで僕はもう少し潜るよ。……あ、そうそう」
 腰かけていたベッドから離れるイーシュ。レオンが振り返ると、彼は丁度部屋から立ち去るところで、レオンを見たところだった。
「―――近頃、ハイ・ラガードで変な通り魔が流行ってるって聞いたよ。気を付けてね」
「通り魔?」
「何でも、“お前にこの声が聞こえるか?”って子供が訊いてくるんだそうだ。“聞こえる”と答えると“ならお前の声は要らないな”って言われて、喋れなくされてしまうらしい」
「何だそりゃ。新手の怪談か?」
「それが、普通は何にも聞こえないらしくて。“聞こえない”って正直に答えれば、何もされないそうだよ」
 つまりはジョークのつもりで、“聞こえる”と言ってしまった馬鹿がいたということだ。
 レオンは憂鬱そうな溜息を吐くと、またイーシュに背を向けてしまった。
「もしそんな妖怪がいたら、俺の耳元で大声出すやつの声もとってもらおうかな」
「そんなことしたら、ノアさんの情報が入ってこなくなるよ」
「俺にとっちゃ、そっちのがいい」
「……へえ?」
 実のところ、レオンとノアの確執について、イーシュも詳しくは知らないのだ。
 だから今―――無意識にだろう―――レオンが漏らした一言は、重要な意味をはらんでいた―――すなわち、レオンはノアと会いたくないと思っている。彼は被害者で、彼女は加害者だ。当然といえば当然だが、それはノアが明確な殺意をもって、レオンを襲ったという事実を示している。つまり、彼らの間には“何かある”のだ。単なる感情のもつれだけでなく、この結果に至るに然とした、“何か”が。
「レオンはノアさんに、会いたくないんだね」
「……そりゃあ、な」
「じゃあもし偶然出会ってしまったら、まず最初に何て言う?」
 レオンは背を向けたまま、考えたような時間を少し置いて、短く答えた。
「“探してたのか?”って訊く」


「少し、早すぎましたかね」
 粗方埋まった十二階の地図を見下ろし、クルスはぱちぱちと爆ぜる火の向こうに座すアイオーンを見た。
「日暮れと同時に森に入ったからな。だが今は真っ暗だ、もう一度氷花を探してみよう」
「そうですね」
 クルスは後ろにちらと目をやった。アリルとコユキがヒューイを連れて、少し離れた採掘場に行っている。何かあればすぐに駆けつけられる距離だが―――
「心配か?」
 心中を読まれたようなアイオーンの言葉に、クルスの胸がどきりと鳴る。
「……大丈夫です。ああ見えてコユキさんは頼りになりますし……まあ、この森に入る最初に、あの軽装で踏み入ろうとしていたことは驚きましたけど」
「ははは」
 表情一つ変えず笑うアイオーン。
 クルスは微笑み返すと―――意を決して、この話題を切り出した。
「ノアさんのこと……聞きましたか?」
 イーシュが、彼女との再会の手筈を整えている、と。
 アイオーンは眉を下げると、間を置いて答えた。
「正直に言って、心の準備はできていない」
 ノアは、ファルクを連れ戻そうとした。
 彼女はやはり、クッククローを信じてはいないのだ。そう、感じた。
―――ぽつりぽつりと語るアイオーンに、クルスは目を丸くしていた。
 普段は何も言わないアイオーンだが、彼は、こんなに心を痛めていたのだ。そして驚くあいだにも独白は続く。
「俺が、出来ることはあるのだろうかと……エトリアで彼女の異変に気づいていたのにも関わらず、俺がやったことは結局、彼女を追い詰めただけだった」
「アイオーンさん……」
「傷つけたと思う。あのときは何も知らなかったが、今も、状況で言えば何も変わっていない。だが……それでも俺自身が何をしたいのかを考えると、自ずと答えは出ている」
 アイオーンは自分の右手を、義手を、ゆっくり開いて、閉じた。
「―――何も変わらないのと同じくらい、気持ちは変わっていない。むしろ強くなっているから……今度こそ、きちんと伝えようと思っている」
「伝わりますよ」
 弾かれたように、クルスは応じた。
 アイオーンの赤い目が、柔らかく見返している。
「君はどうなんだ?」
「え?」
「伝えたくても側にいないというのは、つらいものだが……君の場合は」
「ぼ、僕は」
 見透かされている。
 そう気づいて、クルスは具足の隙間に顔を埋めた。布越しとはいえ、冷たい。
「僕は……そうですよね、人の事、言えませんよね……」
 アイオーンの視線が一瞬泳いだ。人気を確認したらしい、口が開く。
「後悔しないうちに、伝えられるときに真っ直ぐ伝えた方が良い。俺はそう学んだし、そう思う」
「でも正直、彼女は僕に興味がありませんし」
 肺を切る空気に胸が痛い。溜息を入れて、クルスは続ける。
「彼女が好きなのは、僕じゃありませんから」
「そうだな」
 はっきりアイオーンが同意してくる。
 やはりというべきか、彼女の気持ちは結構周りにばれているらしい。彼女があまりに分かりやすいからだろう。苦笑をまじえて、クルスはちくちくとした痛みを誤魔化す。
 そう、アリルの気持ちは自分に向いていない。
 分かってはいたが、第三者にそう言われると、やはりショックだ。
「―――このまま諦めるのか?」
「それも……煮え切らないんですよね。レオンがはっきりしないからかな……」
「彼が考えていることは、俺にも読めん」
「ははは、それも同意見ですね。僕にも全然分かりません」
 感覚のいい彼のこと、十中八九彼女の気持ちには気づいている。ノーリアクションなのは“気づいてないことにしたいから”なんだろう、今のところ。
「はっきりしないうちに、行動に出るのは釈然としない?」
「うーん……というか何ですか、アイオーンさんは僕に当たって砕けて来いって言いたいんですか?」
「砕ける前提ではないがな。正直な所、気にはなるよ」
「どうして」
「君が俺のことを気にしているのと同じだろうな」
 アイオーンが足した薪が小さく爆ぜる。
 クルスはぽつりと答えた。
「僕は、みんなに幸せになってほしいです」
「……納得いく形になればいいと思う。それが最善でなくても」
「……いや、やっぱり行動に出る限りは最善に出てほしいですよ……アイオーンさんは振られることなんて絶対にないからそんなこと言えるんです」
「いいや、俺もノアの気持ちなんて分からないからな。かれこれ一年は会っていないし」
「絶対に大丈夫ですって」
「……一緒に砕けるか?」
「僕一人砕けることになりそうですけどね……」
 会話のわりに笑いが抑えきれず、クルスはこう続けた。
「はは、こんな話をするのは初めてです」
「俺もだ」
「……僕たちは、あまり“腹を割って話す”ってことをしてこなかったですからね」
「そうだな」
 アイオーンだけではない。クッククローというギルドのメンバーのうち、クルスがその過去や内実を知るのはせいぜいがアリルくらいなものだ。年下のギルド員のことはまだ分かれど、レオンやノアなどこれっぽっちも知る余地がない。
 それがエトリアでの事態を招いたとは思わない。だが、こうして胸のうちを話せる機会は貴重だとは思うし、ようやくその時期に至ったとも言えるだろう。
「分かりました、アイオーンさんが決着をつけたら、僕も行動に出ます」
「そうか」
「はい。……レオンが何を考えているかなんてこと、結構どうだっていいんですよね」
 “気にし過ぎだ”と彼の声の幻聴までしそうだ。
 だがクルスは言ってやりたい。あなたこそもっと気にしろ、と。
「やる気になったか?」
「そりゃもう! ……好きになった以上は、告白、します!」
「えっ」
 がさっと下生えを掻き分ける音と息を呑む声が聞こえて、クルスは口から心臓が飛び出しそうだった。
 慌てて振り返れば、そこに立っていたのはアリルとコユキで。
「ああああアリル! い、いつから……」
「や、もうそろそろ休憩終わりかなと思って……」
「もうそんな時間か」
「じ、じゃ、すぐ発ちましょう! そうしましょう!!」
 すくっと立ち上がったクルスを、アリルが見上げてくる。
「クルスくん」
「は、はい!」
「クルスくん、好きな人いるんだ……」
 心臓がばくばくと鳴っている。
 アイオーンは無表情だ。こんな形でばれては欲しくなかった。押し黙っていると、やがてアリルは―――満面の笑みで、ぱんと手を叩いた。
「頑張ってね!」
「へっ」
「告白するんでしょ? 私、応援してるから……がんばって!」
 見惚れるほどの笑顔でそう言われて、クルスは口角を引きつらせる。
 他に何と返せようか?
 アイオーンはそっぽを向いている。
―――泣きそうな声で「ありがとうございます」と呟く他に。


「ぶえっくしゅ!」
 さすがにシャツに薄い上着を羽織っただけの格好では、この季節の夜は寒かった。宿を出る前の己の判断能力の鈍さに、レオンは溜息を吐く。
 二日酔いも随分マシになった。となれば、自然と食欲が沸くのが人間というやつだ。比較的すぐ元気になったライはカリンナと一緒に出掛けてしまったようだったので、夕飯に連れて行くために、レオンは彼らを探していた。まだ調子の悪そうなファルクには、何か出来合いのものを買っていってやるか、宿の女将に頼めばいいだろう。
 そう広い街でもない。大体、ライが行きそうなところは想像がついていた。ああ見えて己を鍛えることには真面目なライのこと、恐らくいつものように街外れで“特訓”をしているのだろう―――
 とレオンは予想していたのだが、その褐色の少年は、意外なところで発見できた。
 広場に続く道に突然出没した、人だかり。
 その中心に、彼はいた。
「何やってんだ、おまえ」
「えっリーダー?」
 ライは額に汗して振り返る―――よく見れば、ぼろきれのような何かを引きずっている。
 否。ぼろきれにしてはでかい。
 人だ。覗いた白髪に、レオンはあっと声を上げる。
「おっさん、何でこんなところに……」
 見覚えのある顔だ。蒼白なその色はいつものことだが、以前見た時よりやややつれているようだ。カリンナと同じ奇妙な民族衣装、これは―――
「カリンナの親父さん、だよな」
「ヨハンスさんね。さてはリーダー、また名前忘れたな?」
 失神しているらしい彼の首根っこを掴みつつ、ライが呆れたように呟く。レオンは肩を竦めた。
「で、何があった」
「それが、おれたちにも分からないんだよ。目撃者もいなくて……おれたちはたまたま通りがかったんだよ、ヨハンスさんが行き倒れてたところを」
「カリンナは何処だ?」
「おれたちだけじゃ、気を失ったヨハンスさんを運べそうになかったから、リーダーを呼びに宿へ。おれが行っても良かったんだけど、カリンナとヨハンスさんじゃ衛士に通報されそうだったし……でもリーダーと会わなかったってことは、行き違ったのかな?」
「……か……ん」
「おっ?」
 ヨハンスの、紫色に乾いた唇から死にそうな声が漏れている。耳を近付けると、ヨハンスは続けた。
「いか……ん……カリンナ……あの者は……」
 レオンとライは顔を見合わせて、首を捻った。


 仏頂面のコユキが、サクサクと先頭を、早足で進んでいく。
 クルスたちの説得で、彼女はアリルの可愛らしいコートを借りて行動している。動きにくいと駄々をこねていたが、やはり寒かったらしい。脱いではいない。
「コユキちゃん、よく似合ってる!」
 問題は、この、アリルがあまりに嬉しそうなところ、だろう。
 不機嫌を物ともせずに、アリルはコユキに迫っていく。
「ね、今度ちゃんとコユキちゃん用のコート、買いに行こうよ。ハイ・ラガード市街もこれから寒くなっていくし。一着だけだと何かと不自由でしょ?」
「アリル、その……コユキ“ちゃん”というのは……」
「ん?」
 クルスの呻きに、アリルは大輪の花を思わせる笑顔で振り向いた。
「―――秘密! ね、コユキちゃん!」
「うむ……」
 しかめ面で重々しく、しかしコユキは頷いた。
 クルスはアイオーンを見やる。彼は無反応だった。
「……仲良きことは、美しきかな」
「それでいいんですかね……」
 コユキの堅い表情は崩れず正面を向いている。
「それにしても、氷花はなかなか見当たらないな」
 アイオーンの呟きに、アリルが頷く。
「さっき、偶然に見つけた、この一本だけですね」
 名の通り、氷のように冷たく固い花びらを持つ白い花を掲げた。
 すると突然、クルスが持つリードの先で、ヒューイがけたたましく吠え始める。
「ヒューイ! どうしたんですか」
 何もない前方に向かって、ヒューイは警戒している―――いや。
「あまり大声を出すのはよくないな」
 何もないと思えたのは暗闇と、視界を覆う白の世界のせいだった。
 確かに響いた低い穏やかな声と、近づく雪を食む足音―――それも複数―――に、クッククローは身を固くする。


 お父さん!
 久々の父との再会は、予期せぬ形で果たされた。こんな極北の寒い地で行き倒れているなんて。一刻も早くお医者様に見てもらわなければ!
 レオンがいるはずの宿へカリンナは急ぐ。冒険者の街はハイ・ラガードの下町に位置し、中心にそびえる世界樹のせいもあって普段から薄暗い。加えてこの日暮れの早い季節がら、もう辺りは真っ暗だ。
 だが、カリンナは闇を友とするカースメイカーだ。小走りが出来るぎりぎりの長さの鎖を振るように、裸足が石畳を駆ける。
 その動きが、突然止まった。
 きこえたのだ。
 カリンナの耳に、たしかに。
「お前に、この声が聴こえるのか?」
 振り返れば、坂道を上ってくる、小さな―――カリンナと同じくらいの―――影。
 ぼろぼろの赤い布をまとった、黒い頭が上がる。刺青をあしらった顔が、凍りつくような目つきを向けていた。
「見つけた」
 少年の乾いた声に、カリンナは鋭く息を呑んだ。
 これが何の声なのか、カリンナには分かったからだ―――怨嗟の声。呪いの声。地の底から這うような、聴く者全てを底のない穴に引きずり込むような。
 からん、と鐘の音が鳴る。
「―――おまえだ」
 黒い呪力に、カリンナは圧倒される。
 普通の呪いなら、十分に相殺することが出来る―――だが。
 これは、できない。
 直感でカリンナは、気づいた。何故ならこれは普遍ではなくカリンナだけに向けられた、凄まじい怨念なのだから―――
「カリンナ!!」
 空間を裂くような、鋭い叫び声。
 ライのそれを聞きながら、カリンナは崩れ落ちた。


 現れた銀髪の男は、尚も吠え立てるヒューイに、困ったように眉をひそめた。
「騒がしくすると、雪崩が起きるよ」
 はっと我を取り戻したクルスは、ヒューイの傍に膝をつき、なだめる。
 銀髪の男はクルスたちを見渡すと、食えない表情を浮かべる。
「……君たちは、もしかしてクッククロー?」
「あー!」
 背の高い彼の影から現れた青いコートの少女が、コユキを指さして絶叫する。
「こらこら、だから静かに―――」
「あっ、おぬしは!」
 その金髪の少女には、クルスも見覚えがあった。ファルクの幼馴染とかいう、貴族の娘だ。たしかコユキを仲間に引き入れようとして、失敗したとか……
「ふふん、あんたたちもこの階層にまでたどり着いていたのね。丁度良かったわ」
「何故お主がここに……」
 胸を張る少女―――アルマは、背後に控える銀髪の男、赤髪の少女、白虎、そして―――これまた上半身裸という気合の入った格好の、髭の男を順々に指さした。
「わたしたちはギルド・ニヴルヘイム。みんなわたしの“仲間”よ」
「金で雇われた冒険者だけどねー」
「こら」
 赤髪の少女の茶々を、銀髪の男が窘める。アルマはそれを不快そうに一瞥したが、すぐにこちらに向き直って居丈高に言い放った。
「わたしの力をもってすれば、こんな迷宮朝飯前よ」
「いくら既存のギルドであるとはいえ、それはあまりにイカサマではござらんのか」
 エトリアでの己の所業を棚に上げ、コユキが呟く。
「あら。きちんと公宮からの任務も受けているのよ。……レッカ」
「はい、お嬢様。このとおり」
 レッカと呼ばれた髭の男―――どうも格好からしてブシドーらしい―――が、どこからともなく取り出した羊皮紙と、氷花を掲げた。アリルが声を上げる。
「あっ、氷花! 三本も!」
「あと一本、というところだったのだけど……手間が省けたわね」
 アリルの握っている氷花を見て、アルマは不敵に笑った。
「―――お寄越しなさいな」
「はいそうですかと渡せるものだと思うか?」
 刀の柄に手を添えながら、コユキが尋ねる。その反応に鼻を鳴らし、アルマは金髪を撫で上げた。
「探したところ、この階には四本丁度しか氷花はないようね」
「そのようじゃな……」
「分かっているのなら、尚更ね。痛い目をみたいというのなら、別だけど?」
「おいおい、アルマ。冒険者同士の揉め事はごめんだぜ」
 銀髪の男の呼びかけに、アルマはきっと彼を睨んだ。
「わたしはおまえたちの雇い主よ。その命令がきけないっていうの?」
「別に奪い取らなくても、公宮には事情を話せばいいことだろう」
「四本必要なのに、三本しか見つかりませんでしたって言うの?」
「待ってくれ」
 仲間割れを始めたニヴルヘイムに、アイオーンが呼びかける。
「―――見たところ、君たちも我々と同じ任務を公宮から重複して受けたようだが、四本しかない花を四本とも一つのギルドが見つけるというのは少し無茶な話だ。公宮に事情を話すというのは、賛成する」
「アイオーンさん……」
「あら。本数で言えば、わたしのギルドが優位なのよ?」
「それは承知の上だ。どちらかの優位性などより、人命のかかっている今は任務を達成させることの方が大事だ。そうだろう?」
 赤髪の少女が、アルマを鼻で笑うように見た。
「あっちのリーダーさんの方が、物わかりよさそ」
「うるさい。……分かったわ。公宮にはそう、報告しましょう。でも」
 アルマはきっとクッククローの面々を万遍なく見渡すように睨みを送ってきた。
「―――わたしのギルドが三本よ。いいわね」
「それは事実のまま、伝えるさ」
 アイオーンは粛々と応じる。
 クルスは胸中で安堵の息をついた―――レオンやライが今日の探索メンバーにいなくて良かったと、心底思いながら。


「おい、カリンナ、カリンナっ!」
 ライが抱き起したカリンナは気絶していなかった。驚きのあまり腰が抜けた、といった方が正しい様子で目を見開いている。
 彼らを庇うように立ち、レオンはその少年に対峙した。
 彼は感情の色が一切ない、昏い瞳を向けていた。片手に持つは呪術師の鐘。
「くっそお!」
 カリンナを立ち上がらせたライが、怒り心頭の様子でレオンの前に出る。が―――レオンが制止するまでもなく、彼は少年を睨みつけたまま動けないでいた。少年の持つ奇妙な威圧感が、空間を支配していると言ってもいいだろう。
「カリンナっ……」
 坂の下からヨハンスが苦しげに呼びかけてくる。彼もそこから近づけないらしい。
「おい」
 ぱくぱくと口を動かすだけのカリンナを庇いながら、レオンは少年に声をかけた。
「―――何が目的だ」
「邪魔。どいてよ」
 少年の言葉に呼応するように、ライの肩がびくりと揺れる。
 呪術は人間にも有効なのか―――当然のことをレオンは理解する。今まで本物の呪術はカリンナが使うものしか見たことがなく、彼女も人間にその呪いを向けるようなことは一切しなかったからだ。
「それとも―――あんたたちも、この声が聴こえるの?」
 からん、と乾いた音が鳴る。
 少年の不気味な笑みに怯えるように、カリンナが震えた。
 レオンは少年を睨みつける。左手を、上着に隠してある剣の柄に添えながら。
「聞こえねえな」
「……そう」
 少年は薄く笑むと、目を見開いた。
「―――でも、そいつの味方をするなら、同類だ!」
「逃げろ!」
 レオンはライの肩を掴んで引き倒すと、前に躍り出た。呪術師相手にどの程度剣が通じるか―――己の意志が保てるか―――分からなくとも、カリンナたちが逃げる時間くらいは稼ぐつもりで。
 だが。
「マルシル」
 かかった声に、少年はぴたりと、鐘を掲げようとした腕の動きを止めた。
 いつの間にか坂の上、少年の背後に沿うように、カースメイカーがもう一人立っていた。遠目だが、大人の男性のようだ。
「邪魔をするのか。ようやく、この瞬間が来たっていうのに」
 少年は男を睨みつける。歩みを進めた―――歩くというより、滑るような動きだったが―――男は、少年に並ぶとこちらを向いた。
 涼やかなその目が見つめるのは、カリンナだ。ライが庇うように立つ。
「……カリンナ。本当に生きておられたのですね」
「どういうことだ? あんたたち一体……」
「ま、まさか、あの里の……」
 少年の呪力が解かれたためか、這うように坂を上ってきたヨハンスが息を呑む。男は彼に深々と一礼をした。
「あなたがカリンナを引き受けてくださった方ですね……」
「ケイナ!」
「今はおさえなさい、マルシル。あなたを受け止めるには、カリンナはまだ未熟なようだ」
 再び男―――ケイナから視線を受けたカリンナは、怯えきった様子でライにすがりついている。
「おい、待て。話が見えん」
 少年を連れて、そのまま踵を返そうとする男に、レオンは剣先を向けた。
「ちょ、リーダー」
「何をしようとしていたのか、説明しろ」
「あなたにそれをお話しする義務はありません」
「俺はカリンナが所属するギルドの管理主だ。おまえらがカリンナに危害を加えるつもりなら、黙って見てられるはずが―――」
 突然剣の重みを何倍にも感じて、レオンはそれを手放した。
 剣はからん、と軽い音を立てて石畳に転がる。捻った腕の鈍痛に眉をひそめながら、レオンはケイナを睨んだ。
「……呪術師の問題は、我々だけの問題です。あなたがたが介入できることはありません」
「だが―――」
「カリンナに、これ以上の危害を加えるつもりはありません。もとより、マルシルの無礼は詫びましょう。では、今夜はこれで」
「待て!」
 立ち去ろうとする男と少年に、レオンは剣を拾い上げようと手を伸ばし―――白い細い手が、それを遮った。
 はっと顔を上げる。カリンナが、必死の形相で首を横に振っていた。
 こうまで彼女が感情をあらわにするのは初めてのことだ。よほどの恐怖だったのだろう。何も言えなくなり、レオンはただ黙って後ろを振り返る。
 二人のカースメイカーの背中は、静かに遠ざかっていった。
「何だったんだよ……おい、ヨハンスさん! あいつらが誰か、知ってんのか!?」
 詰め寄るライに、ヨハンスは目を逸らす。レオンはライの肩に手を置いた。
「事情を聞くのはあとだ。……カリンナ、大丈夫か?」
 カリンナは口を開いて―――苦しげに、ぱくぱくと唇を動かす。
 呼吸音は聞こえるが、それは全く声にはならない。
「まさか……」
「喋れないのか?」
 カリンナは小さく、一度だけ頷いた。

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13F

「うーん……」
 ごくわずかにしか開かない口を掴んで覗き込みながら、アリルは唸る。
「……診察する限りでは、異常は見当たらないわ。外傷や病気じゃないわね」
「じゃ、精神的なショックとか?」
 ライの言葉に、アリルは眉をひそめる。
「強いストレスを受けたりの心理的要因で、声が出なくなることはあるわ。失声症というのだけど……多分、それでしょうね」
「いわゆる“呪い”のせいか」
「呪いの原理は私には分からないけど……」
 レオンの呟きに、器具を片付けていたアリルは、正面に座す少女―――カリンナを見た。
「カリンナちゃん、自力ではどうにもできないみたい?」
 無表情のカリンナは、小さく頷く。
 彼女が腰かけるベッドで点滴を受けていた、ヨハンスが口を開いた。
「どうも、呪いの性質が異なるようです」
「性質が異なる?」
「はい……カリンナたちカースメイカーが用いるのは、森羅万象が持ちうる負の感情です。カースメイカーは己の内でその感情を凝集させ、個体や群れといった限定的な相手の思念に効果を与えます。要するに、強制的に起こす共感、ですね。詳しいメカニズムは不明ですが、身体的な影響は術者が選択的に与えることが出来るようです」
 身体の一部を束縛したり、催眠を引き起こしたり、といった効果だ。
「―――こちらは訓練を受けたカースメイカーなら、容易に打ち消すことが可能です。相手に共感しないように、波を打ち消すように、逆の思念をぶつけてやれば良いのですから」
 ヨハンスはこう見えて、カースメイカーを専門に研究する学者なのだ。言葉はよどみなく続く。
「しかし……カースメイカーが対象にそもそも強い思念を抱いていた場合―――憎むべき相手は効果を与えたい相手ですから、当然共感現象は起こらない。代わりに、これは相手に思考の混乱をもたらします。往々にしてそれは、相手にとって強いストレスとなる」
「そっちか、カリンナが受けた“呪い”は」
「はい……」
 ヨハンスが目をやったカリンナは、わずかに顎を引くように頷いた。
 視線を彷徨わせていたライが、照れたように笑う。
「ごめ、おれ全然わっかんねー」
「呪言やペイントレードなら打ち消せたけど、畏れよ我をは無理だったってことだ。……そういうことだよな?」
「あ、はい。概ねレオンさんの仰る通りで」
「それで、何とか治す方法はないんですか?」
 アリルの質問に、ヨハンスは唸る。
「通常の“畏れよ我を”などの技であれば、薬品や療法で治せるのですが、どうも今回のものは相当強力な思念であったようで。治癒を促す働きすら打ち消すほどに」
「まさしく“呪い”だな」
「これほどまでの力を持つカースメイカーはほとんどいません。私も、目の当たりにしたのは二度目です」
「でもヨハンスさん、あいつらが誰か分かってたよな?」
 ライの指摘に、ヨハンスは答えに窮したように口を閉ざした。
 レオンはその目を覗き込む。
「一体何者なんだ、あの二人は」
「あの二人は……彼らは……」
 目を泳がせて―――だがやむなくといったようにレオンを見据え、ヨハンスは続けた。
「恐らくですが……カリンナが生まれ育った呪術師集落の、生き残り、だと思います」
「い……生き残り?」
「ええ」
 ヨハンスはちらと、丸まったカリンナの背に目をやった。唇を動かすのが余程の重労働であるかのようだ。
「俄かには信じがたいですが。あの村に、カリンナ以外の生存者がいたことは―――」
「カリンナちゃん!」
 弾かれたように立ち上がったカリンナは、アリルとライの隙間を縫って、部屋を飛び出していった。
 青白い横顔が、扉の向こうに消えた。
「カリンナ!」
 ライとアリルがそれを追いかける。
 レオンは彼らを見送ると、ヨハンスのベッドを振り返った。彼はまるでこうなることを予見していたかのように、痛みをこらえるように俯いている。
 二人きりになった室内で、レオンは口を開いた。
「あんた確か、“カリンナは知り合いから預かった子だ”って言ってたよな」
「それは本当です。ただカリンナは……私と旅に出る前のことを、ほとんど覚えていません」
「その知り合いってのも、死んだのか」
「……あの少年の力。あれと同じものを、一度だけ見たことがあります。……そのとき発現した力は、ああまで制御されたものではなく、そしてもっと恐ろしいものでした。触れたもの全てに死を与えるほどに」
 堰を切ったかのように、ヨハンスの言葉はとめどなく流れる。
「呪術師の里は、そこで生まれ落ちた子すべてに、呪術師として生きる能力を試します。秘めたる負の感情が、どれほどのものなのか……あの日も、その儀式が行われていました」
「……儀式とやらが失敗して、集落が滅んだと?」
「そうです。大人たちが束になっても抑えきれぬ程の力が、村を襲いました」
 絞り出されるヨハンスの声に、彼が何を言わんとしているか、レオンは薄々勘付いていた。
「―――惨事を招いた業があるならば、それは呪術師の大人たちのせいでしょう。あの子は……むしろ儀式の被害者です。何の咎もありません」
「……それはな、第三者だから言えることだ。当事者たちは互いにそうは思えねえし思ってないだろう」
 レオンは溜息を吐く。
「―――でなければ、カリンナの記憶は消えたりしない」
「カリンナはかつて、よく笑いよく泣く、とても感情豊かな子でした。あの子の親に、あの子を連れて呪術師の里を離れるよう、頼まれたことは本当です。ただ何もかも、遅かった」
 カリンナは呪術師の儀式に捧げられ、そして、事は起こってしまった。
 重い感傷に沈むより早く、レオンは尋ねる。
「それで、あの二人が里の生き残りってのはどのくらい信憑性がある?」
「呪術師の集落は西方に少数しか存在しません。その中でも、カースメイカーと呼ばれるほど強力な呪術師を育てる風習が残る里はごく僅かです。その上カリンナ個人を狙う者たちがいるとするなら……」
「滅んだ里の生き残りと考えるのが、妥当ってことか……」
 ヨハンスに背を向け、レオンは思案する。
 復讐に身を焦がす者を止めるのは容易ではない。その刃を向けられたことがある経験から、身を持って思い知っている。
 だが。
「どうかお願いです―――あの村で起こったこと、あれは事故なのです。カリンナは勿論、生き残った者たちに禍根を抱かせることにも胸が痛みます。ですから、どうか―――」
「分かってる」
 ヨハンスの告白が本当なら、彼らは互いに被害者だ。
 この復讐は止めるべきだろう。
 レオンはヨハンスに向き直ると、改めて首肯した。
「出来る限りのことは、やるつもりだ」
「ありがとうございます……」
 深々と白髪頭を下げるヨハンスに、レオンは小声で呟いた。
「話が通じる相手なら、いいんだけどな」


 とはいえ。
 ヨハンスの休む部屋から出たレオンは、悩みながら薬泉院の廊下を歩いていた。易々と話が出来そうな相手でないことは、初対面時から織り込み済みだ。剣が通じるかどうかも分からない。
「お?」
 そこで。
 珍しい顔を見つけて、レオンは声を上げた。
「ルミネ?」
「あらー、レオン」
 いつものようにふんわりとした笑みを浮かべて、待合のベンチに腰掛ける彼女はひらひらと手を振った。
「何をやってるんだ、こんなところで」
「お見舞いよー」
「あんたが?」
「ええ、そうよー。ハイ・ラガードには旧知が多いの」
「……ふうん……」
 面会時間を待っていたのか、ルミネは持っていた本を畳んだ。
 街にいるためラフな格好をしているが、彼女はこう見えて巫術医、つまりドクトルマグスだ。呪いや毒といった、相手を不利に至らしめる術と相性の良い剣技も良く知っている。
 実のところ、レオンの毒ある銀の短剣も、師であるルミネから譲り受けたものなのだ。
「……なあ。カースメイカーの使う術について、何か知識はないか?」
「カースメイカー? また唐突ね」
「何でもいい。知っていることがあれば、教えてくれ」
 ルミネは唇の端に指を当てて考え込むようなしぐさをすると、ぽつりと呟いた。
「私はそんなに詳しくないけれどー、私の友人で、呪いの影響を負でなく正に与える研究をしている人がいるわー」
「負でなく正に?」
「普通、呪いといったらマイナスな効果でしょー。そうじゃなくて、たとえば部分的な筋力を強化したりといったプラスの効果を引き起こすことも出来るらしいのよー」
「へえ……」
「紹介してあげるから、その人に会いに行ってみなさいなー。何か分かるかもしれないわよー」
「そうするよ。ありがとう」
 ルミネはどこからともなく取り出した紙に、怪しげなペンを走らせる。
「でも、あんまり面倒事に首を突っ込まないようにねー」
「突っ込みたくなくても、向こうから来るんだよ」
「……あなたもお人好しになったのねー?」
「どういうこったよ」
 ルミネが差し出した紙を受け取ろうとして―――彼女がそれを引っ込めたため、レオンは眉を寄せる。
「おい?」
「言い直すわー」
 湖のように静かな黒瞳が、レオンを見上げている。
「あんまり、良い人ぶるのはよしなさいな」
 真剣な色を映したそれに、しかし、レオンは渋面を崩さない。
「……善人に見えるか? 俺は」
「必要以上に世話を焼こうとするからよー。頼まれたからとしても断りなさい。抱えるものが多くなればなるほど、あとできっとしっぺ返しをくらうわよ」
「てめーこそ大きなお世話だ」
 ルミネの手から紹介状と地図をひったくると、レオンはそれをひらひらと振りながら、出口へ向かう。
「―――礼は言っておく。助かった」
「忠告はしたわよー」
 淡白な声が追いかけてくるのを、レオンは背中で聞き流した。


 存外早いカリンナの脚を追いかけて、ライは走る。
 一緒に飛び出してきたはずのアリルとは既にはぐれてしまった。きょろきょろと辺りを見渡して、狭い坂道に走る、白い家々の隙間を探す。
 薬泉院のある中心市街を抜けて、ライたちは冒険者街、すなわち下町へ降りてきていた。ライの故郷であるエトリアのスラムに近い感覚で、彼は路地を抜け、低い倉庫小屋の茅葺屋根に上り、カリンナを探す。
「いたっ」
 短く叫んで飛び降りる。
「カリンナ」
―――彼女がいたのは、何と言うことはない、フロースの宿だった。
 ヒューイの体毛に身を埋めている。ライはゆっくりと近づく。だが。
 その巨犬が、ライに牙を剥いていることに気づいた。
「ヒューイ?」
 寝そべったままだが、唸り声を上げるヒューイ。今にも噛みつきそうなその様に、ライは狼狽える。
 カリンナはヒューイにすがりついたまま、振り返らない。
 ライははっと気づいた。ヒューイの態度はカリンナの心情を示したものだ。動物は時に、異常なほど人の感情に敏感に反応する。本当は誰よりも感受性に富む、カリンナならばそれは尚更。
「……おれさ」
 近づけないので、ライはその場にどかりと胡坐をかいた。乾いた冷たい風が、庭を駆け抜けていく。
「カースメイカーのこととか。リーダーや親父さんが言ってたこと、あんまりよく分かってねーんだ。ごめん」
 正直に告げる。カリンナに嘘や繕いは無意味だと知っているからだ。
 ヒューイが一声吼える。それで、唸り声は止んだ。
「―――よく分かんねーけどさ。分からないなりに、おれはカリンナのこと心配なの」
 すんと鼻を鳴らし、啜る。寒いが、カリンナはここにいるのだ。仕方ない。
「……怖い?」
 カリンナはぎゅっと、ヒューイを掴んだ。ヒューイの鼻先が、気遣わしげに彼女の肩を撫でる。
「おれは?」
 背を向けたままの彼女が、ぶんぶんと首を横に振った。
「怖いなら、おれが、守ってやるから」
 カリンナは振り返る。いつもの無表情―――いや。ライには分かる。ほんの少し、驚いたように目が丸くなっている。
 ほっとして、ライは笑んだ。
「やっとこっち向いてくれた」
 自分を見つめるカリンナを、ライは真っ向から見つめ返す。
「任せろって。おれ、結構強くなったんだぜ……って、カリンナは分かってくれてるか」
 カリンナはぱくぱくと口を動かすと、声が出ないことに気づいたように俯いた。
 ライはそれに手を差し出した。
「寒くなってきたし、折角戻ってきたんだ。そろそろ宿の中に入ろうぜ」
 ヒューイから離れ、そっと伸べられた白い手のひらを、ライは握りしめた。


 永劫に降り止むことのない深い雪の中、凍りつき、踏み固められた床を滑るようにクッククローの一行は進む。
「天の支配者?」
 聞き返してきたレオンに、クルスは頷いてみせた。
「この階に進む直前に、お会いしたアーテリンデさんが口にしていた言葉です。彼女が……エスバットが再度、僕たちに冒険をやめるよう忠告してきたということは話しましたよね?」
「ああ」
「その際に。“世界樹の上にある天空の城には、支配者が住む。この奥には、人の力が及ばぬ恐ろしいものいるのだ”と」
 アーテリンデが口にした言葉を告げるクルス。レオンは氷の道筋の切れ目、雪に剣を刺した。移動が止まる。
 雪の上にあがりながら、レオンは顎を掴んだ。
「んなモン今更じゃねえか」
「でも……気になりませんか。支配者、迷宮奥深くに潜む人知の及ばぬもの……エトリアで目の当たりにしたものを、考えると」
「……ヴィズルみたいなのがここにもいるってか」
 低い声で、レオンは呟いた。隻眼の碧が鋭くクルスを見る。
「だが、古代の遺産は地下に存在した。今俺たちがいるのは、俺たちの地上より遥かに上空だぞ」
「分かりません……けれど、あまり良い予感はしませんよね」
「まあな」
「っくしゅん!」
 言葉を交わす二人の背後で、盛大なくしゃみが上がる。
 思わず振り返ると、アリルが鼻を真っ赤にしていた。ファルクが目をぱちくりとする。
「大丈夫?」
「へ、平気っ……」
 アリルは防寒具を着込み、耳当てまでしている。手袋をした手が握っているのは、ヒューイの首紐だ。
「無理すんなよ。つか、カリンナは置いてきて大丈夫なのか?」
「ライくんが見てるから、行ってきていいよって言ってくれたの」
 珍しく、ライは探索に行きたいとごねなかったのだ。その代わり自ら、カリンナの看護を申し出た。
 アリルはにっこりと微笑む。
「さすがライくんよね」
「カリンナには、優しいですね」
「カリンナにはね」
 呆れたようにファルクが溜息を吐く。彼は、ライに優しくされてない人間の筆頭だ。
「で、でも仲間想いよ、ライく、んは……は……っくしゅん!!」
 フォローを入れようとしたらしいアリルは、またも大きなくしゃみをした。いきおい、ヒューイのリードがその手を離れる。
「あ」
 自由になったヒューイは、すかさず前衛の二人を追い抜き、雪道を走って行ってしまう。
「こっこら、ヒューイ!」
「元気ですね、ヒューイ」
「犬だからな。雪が好きなんだろ」
 慌てて追いかけるアリルをよそに、クルスとレオンはのんきな感想を漏らす。
 通路の先は、ひらけた広場になっているようだった。そこでヒューイに辿り着いたアリルが、「あっ」と声を上げる。
「どうした?」
「あの人たち……」
 追いついたクルスたちの目に飛び込んできたのは、薪跡で野営の準備をする、ニヴルヘイム五人の姿だった。
 そのうちに、赤髪の剣士の少女がクッククローに気づく。
「あー! あんたたち!!」
「おや、また会ったね」
 銀髪の男が、振り返る。笑みを浮かべているところからして、友好的にいきたいらしいが、どこか浮ついた笑顔だ。
「―――メンバーがちょっと変わってるね」
「あんたがニヴルヘイムのリーダーか?」
 最初から不遜な態度のレオンに、クルスは肝を冷やしつつ耳打ちする。
「レオン。穏便に、穏便に」
「分ーってる」
「申し遅れたね。僕は……まあ、ディーって呼ばれてる。僕たちのことは?」
「仲間から聞いて、知ってるよ。任務が重複してるからって、いきなり喧嘩売ってくる連中だってな」
「ちょっと」
 火の支度をしていた金髪の少女―――アルマが身を乗り出してくるのを、銀髪の男―――ディーが制する。
「その件については、申し訳ない。謝罪する」
「別に。言ってみただけだから気にすんな」
「レオン……」
 食えないどころか意味の分からない挑発に、クルスは眉をひそめる。相手が乗ってこなかったから良かったものの。
「おい、アルマ。おまえ、鍋どこにやったんだ」
 硬直する事態を、テントから出てきた褐色肌の男が割る。
 彼は状況に気が付くと、小さく肩を竦めた。身につけた装飾品がじゃらりと音を立てる。
「これは失礼」
「あれ? あんた……」
 すると、レオンが反応した。
 ほとんど同時に、その男は目を丸くした。
「―――先日は、どーも」
 淡白なレオンの挨拶に、男は黙礼すると、アルマに何事か耳打ちし、彼女ごとテントに戻っていった。
 軽薄な笑みを浮かべたままのディーが口を挟む。
「知り合いかい?」
「ちょっとな」
 じゃ、俺たちはこれで、とレオンは唐突に話を切ると、踵を返そうとする。
 それまで黙っていたファルクが、テントに向かう少女に呼びかけた。
「アルマ!」
 アルマは一瞬だけ反応したが、無視してテントに入っていく。
「行くぞ」
 立ち尽くしたファルクの肩を、レオンがぽんと叩いた。


「レオン」
「あん?」
 ニヴルヘイムの駐屯地が見えなくなった頃、クルスは彼に声をかけた。
「さっきの……巫術医の方。知り合いなんですか?」
「あー……まあな」
 曖昧に言葉を濁すレオン。何となく、クルスはその煮え切らない態度が気になった。
「珍しいですね、冒険者の知り合いなんて」
「いろいろあるんだよ……ん? 何してんだ、ソイツ」
 話をそらすように、レオンはアリルが引っ張られている紐の先、すなわちヒューイを指した。ごそごそと草むらを探る彼に、アリルは力では勝てない様子だ。
「もー、変なもの食べちゃダメだってば!」
「すごい色の果物だね……」
 ファルクが持ち上げたのは、青色のずっしりとした果実だ。雪の白に対比して、何とも食欲をそそらない色である。
「食えるのか? コレ」
「ヒューイが大丈夫みたいだから、平気なんじゃない?」
「試してみろよ」
「なんでぼくが……」
 渋面をしつつ、ファルクはそれに噛りついた―――紫の目が、きょとんと丸くなる。
「おいしい」
「えっ、ホントに?」
 ヒューイに食い荒らされていない部分に実ったものを、アリルが取り上げ口に含む。
「本当! 美味しいね、これ!」
「腹壊すなよ、こんなとこで」
「疑うくらいなら食べてみたら?」
 勧めたくせに、とファルクがレオンに詰め寄る。
 その賑やかな様子を少し離れたところで眺めつつ、クルスは何とはなしに嘆息した。

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14F

 カリンナは生まれた故郷のことも、父も、母も、きょうだいも、何もかも記憶にない。最も鮮明に思い出せるただ一つは、赤茶けた林を丘の上から、ヨハンスと見下ろしていたことだけだ。
 ヨハンスはカリンナにこう告げていた―――父と母は、とある理由によりカリンナを養えぬようになって、ヨハンスにその身を預けたと。
 カリンナはそれを、こう解釈していた―――父と母は、カリンナを棄てたのだ。理由が何であれ、彼女が手に負えなくなって。
 己が身に秘めた能力のことを、カリンナは理解していた。渦巻く人の思念、それらが、それらに、カリンナが与える、与えられる能力のことを。
 人々はそれを“呪い”と知っていた。
 カリンナは知っていた。
 強すぎる人の想いこそ、何より人を束縛する枷―――“呪い”なのであると。


「くそ、また入れ違いかよ」
 のぞき窓から見える店の中の様子に、レオンは舌打ちひとつ、戸から離れた。その戸のノブには“準備中”の札が下がっている。
 用があるときに限って、相手は見つからないものだ。
 それにしてもこんな頻繁に留守にしていて、店が成り立つものなのかと思う。
「仕方ねえ、また出直すか……」
 踵を返した瞬間、レオンは彼らに気づいた。
 探索組だ。広場の坂道を下ってくる彼らも、ほとんど同時にこちらに気が付いた様子で駆けてくる。
「リーダー! こんなとこで何やってんだ?」
「散歩だよ、散歩」
 ライを軽くあしらいつつ、レオンはクルスたちを見つけて目を丸くした。
「何だその格好」
 樹海帰りなのにもかかわらず、クルスは鎧を脱いでいた。代わりに纏っているのは毛布である。見ればアリルとアイオーンも同様だった。しかも、皆顔色が土気色である。
「雪崩に……巻き込まれまして……」
「雪崩? 樹海の中でか」
「はい……」
「ニヴルヘイムの奴らにも散々気をつけろって言われてたのにな」
 こちらはぴんぴんした様子で、ライは得意げに言った。もう一人、カリンナも無事のようである。
「おまえらは巻き込まれなかったのか?」
「おれがそんなヘマすっかよ!」
「カリンナは……」
「カリンナは勿論、おれが守ったんだよ。当然だろ」
 強い口調でライは告げる。
 洟を啜り、クルスが低い声でぽつりと言った。
「僕も庇ったんですが、生半可な力では……」
「クルスくんのせいじゃないわよ」
 クルスの落ち込みように、アリルがフォローを入れる。
 レオンは肩を竦める。何はともあれ、生きて帰れたんなら良かった―――そんな趣旨のことを口にしようとして、クルスたちの後方を、真っ白な顔色の老爺が通り過ぎていくのを見つけて飛び上がった。
「オープストのじいさん!」
「えっ?」
 振り返るクルスたち。
 老爺も顔をこちらに向けた―――片眼鏡の奥の切れ長の目が、ぎらりとレオンを睨む。
「何だ、おまえさんか」
「“おまえさんか”じゃねーよ。頼んでたモン、出来たのか」
「まだだ。そう急くな、今夜中には出来上がる」
 淡白に応じると、老爺―――オープストは素早く店の中に引っ込んでいってしまった。
 すなわち、レオンが訪ねたあの店に、である。
 小さく舌打ちする。案の定、ライがこう尋ねてきた。
「あのじーさんに用事だったんだ。何を頼んでたんだ?」
「おまえにゃ関係ねえ」
「今の方……巫術医ですよね?」
 クルスの言わんとするところをくみ取り、レオンは頷いた。
「ニヴルヘイムの、巫術医の師匠だよ」
「ああ……それで」
 お知り合いだったんですね、とクルスが納得したように頷く。
 話についてこれていないらしい、ライがしかめ面をする。
「何だよ? おれには教えてくんないのに」
「いいから宿に帰るぞ。風邪でも引かれちゃかなわん」
「もう半分くらい引いてるけどね」
 くしゅんとクシャミを続けながら、アリルが呟いた。
 この様子では、今日の探索はあまり進まないで打ち切られたのだろう。ライが不満そうに頭の後ろで腕を組む。
「へーいへい……行こうぜ、カリンナ」
 ライが差し出した手を、カリンナが掴んだ。
 二人を見ていたアリルが、にんまりと笑みを浮かべた。
「ライくんったら、やっさしい!」
 声の調子がからかいしか含んでいなかったので、ライはむっとしたように言い返した。
「そーいうんじゃないの。カリンナは、おれが守るって約束したんだ。な?」
 カリンナは小さく頷く。
 何とも素直なやり取りに、アリルばかりでなくクルスも目を丸くしていた。
 一方で、レオンは顔をしかめる。
「守る……ねえ」
 思わず零れた小さな言葉に、クルスが反応する。
 レオンはそれに、何でもない、と手を振った。案の定聞こえなかった様子のライが、カリンナの腕ごと手をぶんぶん回す。
「おーい、宿に戻るんだろ! 街中にカリンナを長時間連れ回したくねーんだよ」
「何故?」
「あいつらに見つかるかもしれねーだろっ」
 アイオーンに噛みつくようにそう返し、ライはカリンナを引っ張って、ずんずんと冒険者街へ続く道に進んでいく。
 レオンはクルスと顔を見合わせる。
 アリルのくしゃみが、昼下がりで人気の少ない広場に響いた。


 声は、戻ってくるそぶりもみせない。
 カリンナは喉を押さえながら、洗面所の鏡と向き合っている。今まで自分がどうやって声を出してきたのか―――シミュレーションしてみるが、うまくいかない。これを繰り返して、もうすぐ二週間にもなろうとしている。
 もう一生、この声が発されることはないのだろうか―――それはそれでいい、とカリンナは思っていた。声が出ずともすべての力が封じられたわけではない。探索にも支障はきたさなかった。ただ“命令”の呪いが使えぬだけで。
 カリンナの声を奪った少年の姿が浮かんでは消える。波ひとつ打たぬ、昏い瞳。急に凍てつくような寒気を覚えて、カリンナは自分の腕を抱く。これも、考えなければ済むことだ。耳を目を閉ざし、背を向け続ければいいことだ―――いつものように。
 だが―――カリンナの気がかりは、ただ一つだけ存在していた。
「カリンナ!」
 共用の洗面所を、ライが入り口から覗き込んでいた。
「―――どこに行ったかと思ったぜ。ひやひやさせるなよ」
 大仰に胸を撫で下ろして見せ、ライはにっと笑った。
「今日の探索、おれの言ったとおり上手くいったろ?」
 声を奪われてから、カリンナは探索にも参加しなくなっていたが、それを誘ったのはライだった。渋るレオンを説き伏せ、身を持ってカリンナを庇い、ライはカリンナを再び、あの樹海へ連れて行ってくれた。
「任せとけって。おれがちゃんと、カリンナを守ってやるからさ」
 自分の胸をドンと叩くと―――ライはぶるりと身震いした。
「うへ、それにしても冷えるなあ……カリンナ、ちょっと待ってて」
 照れ笑いをしながら、ライは洗面所―――ひいてはその奥にある、便所に消えていった。
 彼がいなくなると、急な静けさがカリンナを襲う。
 そんな中、聞こえてきたのはフロントからの話し声だった。
「……で、効果はあるんだろーな」
「その点は心配するな。ただし……前にも注意をしたと思うが、薬は一回こっきり分しかないし、そう長くは持たん。それとくれぐれも―――」
「分かってる、じいさんに聞いてるよ」
 面倒くさそうに応じるのはレオン。
 彼は、窓の外にいる誰かと会話をしていた。誰なのかは分からないが、知らない男の声だ。
 姿を確認しようと、カリンナは階段の影から僅かに身を乗り出す―――その際、両足を拘束する鎖がじゃらりと鳴ってしまった。
 レオンがはっと振り返る。カリンナに気づくや否や、彼は窓の外に口早に告げた。
「じゃ、じいさんによろしく」
 そして相手が返答するより早く、窓を閉めてしまった。
 外からどんどんと叩かれる窓を完全に背にして、レオンはカリンナに向き直る。
「……どうした?」
 繕ったような笑みだ。元々あまり素直に笑わない人だが、カリンナの目にはさらに不自然に見えた。
 その背に隠すように回された腕を、カリンナは指さす。
「……これか」
 隠しても無駄だと思ったのか、レオンが見せてくれたそれは、薬品の入った瓶だった。蓋をしていても分かる、濃厚な呪いの香に、カリンナは口を開いた。
 練習した通り、再現する―――しかし、声はひとかけらも出てくれなかった。
 カリンナの行動を理解したかのように、レオンは顔をしかめる。
「おまえにも分かるんだな」
 これが何か。皆まで言わず―――レオンは踵を返すと、階段を上っていく。
 カリンナはそれに回り込んだ。中身が何かを知っていて、見過ごすわけにはいかなかったからだ。
 だがレオンは軽く肩を竦めるだけだ。
「おーい、カリンナ!」
 階段の下から、用を足したライが呼んでいる。
「探してるぜ」
 レオンに言われ、カリンナは反射的に手すりから身を乗り出した。すぐにライが見つけてくれる。
「待っててって言っただろー」
 不満げに声を上げるライ。カリンナはちらりと背後に目をやった。
 そこには誰の姿もない。
 レオンは既に、行ってしまった後だった。


 第三階層の探索を進めるうちに、ハイ・ラガードも本格的な冬を迎えていた。
 高地にあるこの国の冬には、厳しい寒さが訪れる。それに追い打ちをかけるようにどんよりと曇る空と降る白雪は、人々の気分までも陰鬱にさせていた。
 ライもその、浮かない気分をした一人だ。
 カリンナの声を奪った術者の行方は、ようとして知れなかった。彼らはカリンナを狙っている。それが分かっていて彼女を、連れ歩くことは出来ない。だが、カリンナが表に出ない限り、彼らも現れないのかもしれない―――堂々巡りだ。探索も留守番がちになるカリンナが、落ち込みつつあるのも、ライには気がかりだった。
 そんな矢先だった。
「カースメイカー連中から、手を引くことにした」
 レオンが、ライにそう言ったのは。


 棘魚亭の賑やかさなどすっかり忘れてしまったかのような沈黙が、アイオーンたちのテーブルを満たしている。
 アイオーンの向かいに座すレオンの言葉を聞いたライは、そのテーブルの傍らで呆然と立ち尽くしていた。
 その間もレオンは淡々と続ける。
「これ以上深追いしても無駄だという結論に達した。向こうも執拗にこちらを探している様子はないしな」
「か……」
 からからの喉を潤すように、ライが息を呑みこんだ。
「カリンナの声のことは、どうすんだよ」
「あれはストレス性、つまり彼女の心の持ちようだ。少しずつ、時間が治してくれるだろ」
 応じるレオンは至って淡白で、聞きようによっては冷淡でもあった。
「この話は終わりだ」
 レオンはあっさり言うと、ライに興味を失ったかのように視線を逸らす。
 その持ち上げたタンブラーを掠めて、レオンとアイオーンの間を何かが行き過ぎた。どん、という鈍い音。アイオーンは目を丸くして固まる。
 眼前にライの拳が、壁に刺さるようにして突き立てられていた。
 じろり、とレオンがライを睨んだ。
「てめ……」
 レオンが立ち上がる間もなく、ライは食いかかるように、彼の襟元を掴む。
「あんた、カリンナがどうなってもいいのかよ!」
「落ち着―――」
「答えろ!」
 顔を真っ赤にし、激昂したライが拳を振り上げる。だがその刹那、彼の体は勢いよく吹っ飛び、派手な音とともに隣接していた机と椅子を蹴散らして転がった。
 突然のことに、アイオーンは息を呑む。
 ライはすぐに立ち上がった。だが腹に蹴りを入れられたのか、鳩尾を押さえてよろめく。
 その正面には、レオンが顔色一つ変えずに立っている。
「店の中で暴れんな!」
「分かってるって」
 亭主の怒号に、レオンは片手を振って応じる。そして、ライに目を落とした。
「続きは表でやろう。出ろ、ライ」
「命令すんなっ……」
 顎で出口をしゃくったレオンに、ライは憎々しげに応じる。喧嘩か、どうした、と周囲が騒がしくなってきたのを尻目に、二人は外に出て行ってしまった。
「やれやれ……」
 一言呟いて、彼らが去っていった方向―――つまりは出入り口の扉―――を向いていたアイオーンに、亭主が話しかけてくる。
「いいのか? ほっといて」
「俺が彼らを止められると思うか?」
 訊き返すと、亭主は押し黙ってしまった。
「―――止めるだけ無駄、というのもある」
 アイオーンは酒に一口つけると、落ち着き払ってそう締めくくった。


「あ、お帰りなさ……」
 宿部屋で読書していたクルスは、扉から入ってきた影を目にして、飛び上がった。
 何故か汗だくだが傷一つないレオン、そして彼が肩に担いでいるのは、泥とあざまみれになったライである。ぐったりしていて、意識もないようだ。クルスは慌てて駆け寄ると、ベッドの上にライをぞんざいに転がしたレオンに、声をかけた。
「な、な、何があったんです!? 一体……」
「喧嘩だ、喧嘩。たいしたことねーよ」
 ベッドに座り込み、疲れのこもったため息一つ、レオンは言った。淡白な一言だが、クルスは気にせず右往左往している。
「と、とりあえず、アリルを呼んで―――」
「いい。俺が行く」
 レオンはすっと立ち上がると、クルスを置いてさっさと出て行ってしまった。
「ちょっと……レオン!」
 一人残されたクルスは、おろおろとその場に立ち尽くした。


 アリルを男部屋に呼んだ後、レオンはその足で宿を出た。
 彼女に事情は訊かれなかったし、呼び止められもしなかった―――もっとも、そんな空気ではなかっただろうが。
 足早にレオンが向かった先、それは、下町を巡回する衛兵の死角となる街外れだった。いつかの外壁工事のときに取り残されたのであろう瓦礫が、雑草と平たい土の上に置き去りにされている。
 裸木の林に埋もれるかのように、黒い影がそこに二つ、立っていた。一つは小さく、一つはそれよりものっぽな―――ぼろきれをまとった、カースメイカーの二人組。
 足を止めるレオンに、二人は既に気づいていた。
「よう」
 親しげに片手を挙げるが、刺青の顔が歪む。
「おまえは……」
「カリンナが来ると思ったか?」
 彼ら二人が―――正確にはこの、少年の方が、カリンナを探しているのは知っていた。それを利用して、レオンは彼に会いに来たのだ。少年の保護者の方がついてきたのは―――まあ、想定の範囲内。
 少年は忌々しそうに吐き捨てる。
「あの、情報屋め……」
 上着の下から剣を取り出すと、鞘に収めたままに、肩に掲げる。
 挑発するように己の肩をそれで叩きながら、レオンは告げた。
「悪いが、今日の相手は俺だけだ」
「おまえで、相手になるとでも?」
 気を取り直したように、少年は鼻を鳴らす。剥き出しの手が握っている鐘が、微かな音を奏でた。
 レオンは口角を歪める。
「何なら、おまえら二人がかりでもいいぜ」
「おまえに付き合ってる暇はないんだよ」
 やれやれと溜息を吐きながら、少年は鐘を振る。
 不協和音が響き渡る。体の芯を揺るがすような、不安を誘う音色だ。
 だが少年は気付く―――異変に。
 異変が起こらない、という異変に。
 さっと彼が顔色を変えるより早く、レオンは動いていた。刃を抜き放ったと同時に、少年の前に立とうと動いた男に鞘を投げつけ、彼の動線を妨害する。ひ弱な呪術師が鞘を避けきれず我が身を庇ったところで、空いていた手で抜いた銀の短剣は既に、男の鼻先につきつけられていた。
 無論、長剣の方は、少年の首筋をなぞっている。
 少年は顎を持ち上げながら、必死にレオンを睨んでいた。
「貴様、何をした……!?」
「おまえが口を開いていいのは、俺の質問に答えるときだけだ」
 膝をつく緑の髪の男に視線をやる。
「おまえも。怪しい素振りを見せればこいつは殺す」
 少年が息を呑む声が聞こえた。
 レオンは無表情でそれを振り返る。
「さて……何から訊くかな」


 宿の玄関を抜けていく男を二階の窓から見つけて、カリンナはたまらず追いかけていた。
―――彼が受け取っていた薬、あれは呪術を無効にする薬だ。
 恐怖は勿論、精神的な揺さぶりを一切受け付けなくなる。だが氷毒という名が指すとおり、服用を過つと死を招きかねない、危険なものだ。
 両足を拘束する鎖がじゃらりと鳴る。カリンナははっと立ち止まり、息をひそめた。かなり距離はあるが、気づかれたかもしれない―――だがレオンは闇の奥へと進んでいくだけで、カリンナの気配を感づいた様子は微塵もない。
 カリンナは胸を撫で下ろすと、そろそろと鎖の輪から足を引き抜いた。呪術師の力を高めるため必要な拘束具だが、今は本当に足枷にしかならない。上半身もそれから解放して身軽になると、カリンナは鐘だけ、音が鳴らぬよう布でぐるぐると巻いて、再び駆け出した。
 裸足が冬の冷たい石畳を擦る。痛みや寒さはいつも感じる。だが痛いものを痛いと、つらいものをつらいと、世界に開けることはカリンナにはできない。己の感情のすべてを負のものに変換せねばならないカースメイカーにとって、己を解放することはすなわち、呪いと同義だからだ。
 誰かを想う気持ちすら、呪いになり得るものなのだ。
 レオンを見つけて、カリンナは物陰に身を隠した。
 瓦礫が無造作に打ち捨てられた空地に彼らはいた。月光に照りかえる刃は二つ、二つとも赤髪の男の手のうちに。向けられた切っ先は、二人のカースメイカー―――顎を刃に乗せさせられている、少年―――マルシルが辛そうに口を開いた。
「貴様は何だ? 何故あの娘に加担する?」
「何度言わせる」
 ぞっとする低い声音が、マルシルの顎を持ち上げる。
「訊かれたこと以外のために、口を開くな」
「あなたの質問には私が答えましょう」
 応じたのは、銀の短剣に跪くように顔を伏せた男―――ケイナだった。
「―――カリンナを傷つけることは我々の本意ではありません」
「ケイナ!」
「マルシル」
 窘めるようにケイナはマルシルに視線をやると、続けた。
「復讐など……意味のないことです。マルシル、あなたにも本当は分かっているはずだ」
 マルシルは刺青を引き歪めるように、表情を変えた―――呪術師なのに、この少年はとても感情豊かだ。カリンナはそんな印象を覚えた。
「だったら、わたしは……わたしは何のために、ここまで来たんだ。何のために今まで呪術師として生きてきたんだ!」
「仲間割れか?」
 冷ややかなレオンの感想が場違いに響いた。ケイナが彼を見上げる。
「カリンナのことを、少しだけ伺ってもかまいませんか」
「……どうぞ」
「あなたはどの程度、カリンナをご存じで?」
 カリンナは聞きたくなくて、耳をふさいだ。
 ぎゅっと目を閉じ、身を縮める。
 絶えることない怨嗟の声が、カリンナの喉を締めつける。
―――空気を求めて喘ぐように、カリンナは頭を振った。
 自然と、耳から手が離れる。
「―――れは、誤解です」
 ケイナの言葉が流れていた。
「あれは事故です」
「ケイナ!」
「あの子もすべてを奪われた。被害者と同じです」
「そこの坊ちゃんはそう思ってねえみたいだけど?」
 さっと顔色を朱に染め、マルシルが叫んだ。
「坊ちゃんじゃない!」
「マルシルは女性ですよ」
「あら」
 こちらから見えるレオンの背と肩が、僅かに上下したのが見えた。
「―――ま、そんなこたァ今はどうだっていい。……どうなんだ?」
「わたしは……」
「マルシルはあの事故で、両親と祖父を奪われました」
 カリンナは息を呑む。
 また何も聞こえぬようにしたい衝動に駆られたが、辛うじてとどまった。
 聴かねばならない。
「恐ろしい出来事を目の当たりにし、マルシル自身も声を失いました。絶望の淵に追いやられ、失意に沈んだ彼女にとって、もっとも生きる力となったのは何か、あなたなら分かるでしょう」
 レオンは答えない。だがその答えは、カリンナにすら計られた。
 憎むこと。
 強い想いは呪いとなる。その逆も、然りだ。
 ケイナはそれを知っていた。マルシルを保護した彼は、そうやって彼女に生きる希望を与えていたのだろう。
「―――マルシルは努力の末、声を取り戻すことが出来ました。それで十分だったのです」
 だが彼女は彼女がこの地に、たまたま偶然、滞在していることを知ってしまった。
 探したのだ、マルシルは。
 そして、出会ってしまった。
「カリンナの声も、その一環で奪ったと?」
「命までを取るつもりは、なかったはずです」
 ケイナは強い口調で告げる。
 二人の視線を浴び、マルシルは固く結んだ唇を噛みしめている。
 沈黙が落ちた。
 動きをもたらすべくして―――審判を下すべくして、レオンが口を開いた。
「……カリンナの声は、どうやったら戻る」
「彼女次第、でしょう」
「こいつか?」
 ぐい、と剣の腹がマルシルの首を圧迫する。刃が進んだように見えて、カリンナは思わず身を乗り出した。
 ケイナは膝をついたまま、落ち着いていた。目の錯覚だったらしい。
「マルシルを殺しても、呪いは解けません。呪いとはそういうものです」
「……なるほどな」
 レオンは剣を引いた。両方とも。
 圧力から放たれたマルシルは、酷く咳き込みながら崩れ落ちた。ケイナがその背をさする。レオンは二人を見下ろしながら、長剣と短剣をそれぞれ収めた。
「嬢ちゃん、まだカリンナを殺りたいか?」
 マルシルは答えない。レオンの影になって、カリンナからは少年―――いや少女の表情は読めなかった。
 レオンは続けた。
「カリンナに手を出すのは、俺を殺せてからにしろ」
「誰がおまえなんかを……」
「人を殺すっていうのは、そういうもんさ。因果は巡る。殺す相手が誰になっても、カリンナが背負った罪を、今度はおまえが背負う番になるってだけだ」
 ケイナがマルシルを立ち上がらせる。厳しい表情のまま無言に落ちる彼女を支えながら。
 二人は闇へと進んでいく。ここから立ち去るつもりのようだ。
「カリンナを……」
「うん?」
 ケイナの呟きが、微かにカリンナの耳にも届いた。
「カリンナを受け入れてくれた人が、あなたのような人で良かった。……彼女が冒険者をしていることは、少し予想外でしたが」
「俺じゃない。あいつが自分で選んだんだ。もっとちゃんと……そう思えた存在が、カリンナにはいたからな」
「そうですか……それは、良かった」
 ケイナは微かにはにかんだ。
「―――それでは。くれぐれも、身体にはご注意を」
 それきり、呪術師たちは闇へと消えてしまった。
「気づかれてやんの……」
 独り言のような呟きと同時に、レオンの膝が地につく。
 カリンナは慌てて物陰から飛び出すと、彼に寄り添った。レオンは驚き目を瞠っていた―――気づいていなかったらしい。
「おまえ、いつからそこに……」
 首を振るカリンナに、レオンは笑みを浮かべる。
「悪かった。怖かっただろ?」
 氷毒の副作用か、その声は震えていた。声だけではない。上手く力が入らないらしい身体を剣で支え、レオンは空を仰いだ。
「あー……もうちょっと動けそうにないな……カリンナ、悪いけどまだ付き合ってくれるか」
 薬の症状が落ち着くまで。
 彼の隣にちょこんと座して、カリンナは大きく頷いた。


 深夜だというのにフロースの宿には、遠目から見て分かるほどの、煌々とした明かりが灯っていた。
 近づけば近づくほど鮮明になるのは、明かりが一つではないということ。
 そのうちの一つ、金髪の青年が、カリンナとレオンに気づいた。

「本当に良かった! 二人とも無事で!!」
 どうやらカリンナたちがいないことに気づいてから、ギルドのメンバーで手分けをして探していたらしい。
 といっても、そこまで事態が深刻になったのは、気絶していたライが目を覚まし、「カリンナがいない」と騒いだかららしかった。彼に無断で宿を飛び出したことに、今更ながらに後ろめたさを覚えるカリンナを見て、ライはしかしこう言った。
「おれは気ィ失ってたし……カリンナのせいじゃねーよ」
 次の瞬間にはきっと眦を上げ、元凶と決めた相手―――レオンを睨みつけていたのだが。
「カリンナ連れ出して、一人で呪術師連中のところに行ったんだってな!」
「イーシュ……」
 半目で、フロースの宿のエントランス、二階へ続く階段にもたれかかるイーシュを見やるレオン。
 だが、イーシュは真顔でこう返した。
「“話すな”とは言われなかったからね」
「何が“手を引くことにした”、だよ!! 大嘘こいてんじゃねー、このクソッタレリーダー!」
「ラーイー」
 汚い言葉に、ソファに座しているクルスが窘めるように名を呼ぶ。
 意外なことに、クルスは冷静であるようだった。青い目がレオンを見つめている。
「……まあ、予想はついてました」
「だろうな」
「ええ。信頼してますよ」
「クルスくん……」
 ライたちの視線を受けながら、クルスは立ち上がり、レオンを通り過ぎる。
「死んだり守れなかったりしたときは、許しませんけど」
 そしてそのまま、階段を上っていく。
 アイオーンなど、ライやイーシュらを除いた者たちはそれに続いた。アリルは一瞬気遣わしげな視線を残った者たちに送ったが、やはり二階へと戻っていく。
 人が少なくなっていく中で、ライはずっとレオンを睨み続けていた。
 まるでその視線を全く無視するように、やがて、レオンもソファから立ち上がる。
 ライは必死に自分を抑えているかのようだった。だがレオンが側をすり抜けていったとき、それが限界に達したかのように声を荒げる。
「あんた一人で何でも出来るんだったら、カリンナの声も治してやったらどうなんだ!」
 レオンはため息を一つだけついて、答えた。
「おまえの“守る”ってのは随分薄っぺらいもんなんだな」
「なっ……」
「カリンナを治してやることも出来ないんだろ?」
 響いた声も見下ろす視線も、実に冷ややかだった。
「―――俺とおまえの違いが何なのか、少しはてめえの頭で考えろ」
 それきり階段を上っていった彼を、イーシュが追いかける。
 残されたのはライと―――カリンナだけだ。
 カリンナはライに寄り添う。
 呆然と階段を見上げる、彼に触れることは躊躇われた。


「レオン」
 呼び止めてきたイーシュに、レオンは軽く笑いながら肩を竦めた。
「ちゃんと来たよ。まあ、あっちは何とかなりそうだ」
「レオン、僕が君個人に協力するのは今回きりだ。次からは頼まれてもやらないからな」
「何だよ、まだ怒ってんのか?」
「当たり前だ」
 珍しく怒り心頭といった様子で、イーシュはレオンの正面に回り込んできた。
「―――嘘の情報を売った。情報屋の信頼ってのは傭兵の剣と同じくらい大事なものなんだよ。次にアブナイ薬の調達源、公国側にばれたら冒険者ですらいられなくなる! ……まだある、一週間後僕がキチガイになるか広場の噴水に浮かんでるかしたら、一体どうしてくれる!」
「しばらく俺たちと一緒に動きゃいいだろ。クスリに関しちゃ、注文つけたあのじーさんに文句を言うんだな。ま、あの呪術師のガキは、逆恨みにおまえを狙う前に俺んところにくるだろーよ」
「……何を……言ったんだよ」
「秘密」
 けろっと明るい顔で、レオンは続ける。
「これでしばらく、ノア方面を探るのはお預けだな。ま、大人しく俺たちと樹海でも潜ってろ」
「あっ、もしかして最初からそのつもりで……」
「いい加減、おまえも俺の性格覚えたら?」
 目元をひくひくとさせながら、イーシュは整った顔が台無しの表情で漏らした。
「君って、本当、僕以外に友達いなさそうだよね……」
「おー、これでまだ友達でいてくれるか。ありがたくて涙が出るな」
「レオン」
「何だ?」
「あのね、もうね……どうしようね……」
「はははは」
 がっくりと肩を落とすイーシュを通り過ぎ、男部屋に向かうレオン。
 だが三度目、頭をもたげたイーシュが声をかけてきた。
「一つだけ、言わせておいてくれるかい」
「? おう」
 冷静になるためか小さく息をつき、視線をそらせて―――少し困ったような顔で、イーシュは続けた。
「ライ君のこと」
「……おう」
「あと、君のことだから、あの呪術師の子もそうだろうし……」
「何だよ? はっきり言え」
「あのね。……みんながみんな、君みたいに強いわけじゃないんだよ。もう少し言葉や態度を選んだり、人を気遣うことも覚えた方がいい。今夜だって命懸けてんだろ? なのに何にも伝わんないよ、それじゃあ」
「別に伝えるつもりは……」
「じゃあ言い方を変える。多分君は面と向かって誰に“嫌いだ、死ね”と言われても動じない人だ。でも、普通の人はその言葉にたまらなく傷つく。それを知っておいてね、じゃ」
「どこに行くんだ?」
 長髪を翻すように踵を返そうとしたイーシュは、それはそれはじっとりとした目で振り返った。
「誰かさんが好き勝手してくれた分、自分で自分のフォローを入れに行くんだよ~」
「ご苦労さん。今夜何かあったら骨は拾ってやる、じゃ」
「薄情者~」
「本気で、護衛くらいはしてやるぜ?」
「いい、手筈はしてあるし。……君もさっさと薬抜いた方がいいだろ。くっさいよ」
「げっ……気づかれたかな」
 女部屋にちらと目をやったレオンに、イーシュは首を傾ぐ。
「どうだろ。ま、せいぜい足元を掬われないように注意するんだね」
 それきり、ひらひらと手を振って、イーシュは再び階段を下っていった。



 誰もいなくなった暗いフロントで、ライの隣で沈黙に甘んじながら、カリンナはレオンとの―――カリンナは話せないので、彼が一方的に話しているだけだったのだが―――会話を反芻していた。

「寒くねーか」
 唐突にレオンがそう言ったので、カリンナは驚いた。 
 案の定その反応に、隻眼の仏頂面が返る。
「何だ、失礼な。……おまえの格好、カースメイカーの連中はみんなそんななんだな」
 カリンナは俯いた。
 マルシル、ケイナ……そして浮かんでは消える、遠い記憶に“いた”人たち。
 カリンナにとって、時折断片的に思い出せる里の人間とはその程度でしかない。
 確かにかつて存在して、彼らと共に生き、かなしいことも、たのしかったことも、たくさんあったはずなのに―――思い出せないのは、その感情。
 どれが家族なのかすら分からない。そこに詳細はなく、ただ彼らが“いた”ということだけしか、浮かぶことはない。
 今まではずっと、それは自分を棄てた彼らを憎んでいるからなのだと思っていた。思い出す必要はない。思い出しても、つらい記憶だけがあるのだと。
 現実は違った。つらい過去なのはたしかだが、自分が―――里を―――
 いや。
 カリンナは大きく、自分を否定するように、頭を振った。
 本当は気付いていたのだ。
 覚えていたのだ、頭のどこかで。
 自分が、里を、家族を、滅ぼした張本人であることを。
「おい?」
 はっと、レオンの声にカリンナは我を取り戻す。
 それでもなお薄ぼんやりとしているカリンナに、何を感じたのか―――レオンは咳払いひとつ、こう切り出した。
「呪術師のことなら……ま、気にすんな。多少なり、連中も連中で考えるところはあるだろうし。おまえは……とりあえず、帰ってからライにどう謝ればいいかだけ考えとけ。な?」
 カリンナはきょとんと、レオンを見つめていた。
 そういえば、何故この人はここまで、自分を助けてくれるのだろう。
 仲間想いなのは重々承知している。アリルの話をよく聴くところはあるだろうけど。
 それにしたって、今も、彼はカリンナに“気を使って”いるのだ。
 アリルの話に出てこないくらいは、珍しいことだろう。
―――そしてこの感情は、薬の切れかかったレオンには伝わったらしい。彼は少しばかり柔らかい表情になると、こう言った。
「気になるか?」
 こくり、とカリンナは一つ頷く。
 レオンはもう一度咳払いした。
「……なら一つ、昔話でもしてやろう」
 彼は言葉を探りながら、ゆっくりと話し始める。
「どこにでもあるような、小さな村の話だ」
 声はどこかで響いているかのようだ。
 カリンナは俯いて、じっとそれを聴いている。
「ご多分に漏れず閉鎖的な田舎で……それでもみんな、それなりに幸せだった。だがあるとき、村を突然悪魔が襲った」
 悪魔、の単語にカリンナの瞳が揺れた。
「―――悪魔は悪魔でも、病魔のことさ」
 レオンは肩を竦める。
「その病は、どことも知れないところから流れてきたものだった。だが、そんなものでもあっけなく人は死ぬ。病魔は……瞬く間に村人の命を喰らい尽くした。たった一人のクソガキを残して」
 レオンは淡々と続けた。
「自身も既に発症していたそいつの命を救ったのは、たまたま通り掛かった流れの傭兵と言う名の……ただの盗賊団だった。その中に、医術の心得があるものがいてね。だが彼らはそいつを助けると同時に、村を物色した。そして金目のものも、他に生き残る可能性がある者もないことを知ると―――そこに火を放った」
 カリンナはいつの間にか頭を上げ、レオンを見ていた。だが彼は言葉を止めようとはしない。
「伝染する病を抑えるための浄化の炎だった。だがそいつにとっては生きる全てを奪われたのと同然だったのさ。村は焼け落ち、何も残らなかった。そいつは結局―――村を焼いた彼らについていく他なかった。生きるためには」
 レオンは話し終えると、小さく息をついた。その横顔を、カリンナはじっと見つめている。
「……そいつは間違っていたと思う?」
 レオンは呟くように尋ねた。
「生まれ育った村を捨て、焼き払った連中に付いて旅に出たクソガキは罪人だと思うか?」
 カリンナは、ぶんぶんと首を横に振る。
 レオンは微笑んでいた。自然に見せかけようとして、そうできない顔だ。
「……知らなかったことや、覚えていないこと、そして想いを抱かないようにすることは悪いことじゃないんだよ、多分。昔のことより、今の方が大事だ。ただ、過去はそこから動けないんだ。だからそこに何があったのか、忘れないでいることが重要なんだと思う」
 あんまりうまく言えないけど、とレオンは後ろ頭を掻いた。
―――説明するのは得意ではない。こういうのはいつも、他の連中の役回りだ。
 そんなことを思っている横顔を、カリンナは見つめている。
「これからは、おまえの家族や友達、仲間が……そこにいたんだってことだけを、忘れないでいたらいいんじゃないか」
 痛みの残る繕った笑みのまま、彼はこちらを向いた。
「少なくとも“そいつ”は、そうやって生きてるよ」

 痛みに耐えられるほど、強くなることが出来たらいい。
 ライの肩にそっと、躊躇いがちに頭をのせる。少年のそれがびくりと震えた。カリンナは身を起こすべきかどうか迷ったが、結局そのまま、ゆっくりと力を抜いていく。
 そう、強くなれたらいい。けどそれはまだしばらく無理そうだ。カリンナの声は相変わらず戻らないし、ライは無言でそっぽを向いたまま、何を思っているのか、触れても読み取れない。
 だけどそれでいいのだと思う。
 いつか必ず呪いの報いを受けることがあっても、それが何かの破滅であったとしても、それに耐えられるほどの強さを、カリンナが得られることはないのだとしても。
 それは、カリンナが受ける罰の一つなのだ。
―――あの人も、そうやって受け止めてきたのかな。

 カリンナには彼が、生きていることすら悲しんでいるように見えたのだ。

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15F

「急患、急患!」
 けたたましい人避けの鐘の音を叩き鳴らしながら、担架が坂道を駆け上がっていく。
 家の壁に張り付いてそれを見送り、ファルクは小さく溜息をついた。担架が出発したのは薬泉院。向かう先は―――言わずもがな、だ。
「おい、聞いたか? 第三階層で全滅だってよ」
 坂の上から転がってきた街の噂が囁かにファルクの耳朶を打つ。目深に帽子をかぶり直し、小雪の降る中立ち止まると、聴き入るように息をひそめた。
「最深部っていや、雪の迷宮か」
「そうそう。んで、どうも、ガキの多いギルドらしいぜ」
 子供、のところにファルクはぴくりと肩を揺らす。
「へえー……駆け出し冒険者どもか。そいつぁ気の毒に」
「今ちょっと見てきたんだけどさ、ありゃーひでえな。命が助かっても再起不能だろうよ」
 ファルクは弾かれたように顔を上げ、躊躇うことなく坂道を上っていった。


「で、それが待ち合わせに遅刻した理由だってのか?」
 広場の霜つく石畳をつま先で削りながら、苛立たしくライは言ってやった。荷物持ちが要るからと、アリルとカリンナにせがまれ来てみれば、もう一人の荷物持ちはクルスではなくファルクだと後出しされるわ、クソ寒い中を一時間近くも待たされるわで、元来気の短いライは我慢の限界だ。
「まあまあ、ライくん」
 窘めるようにアリルが言って、ファルクに向き直った。
「それで、その全滅したギルドって……」
「うん、ニヴルヘイムではなかった」
 ファルクの返答に、アリルはほっと安堵したような息をつき―――ぶるぶると首を横に振った。
「でも、そのギルドは、お気の毒、よね」
「なあー、ニヴルヘイムって何だ?」
 名前に聞き覚えがない。ライがそう尋ねると、二人は二人相応の表情で反応した―――アリルは目を丸くし、ファルクは眉をひそめて。
「ファルクくんの幼馴染の子のギルドよ」
「ぼくの幼馴染のギルドだよ」
「あー、あのワガママ貴族娘か」
 挑戦的に吊り上がった目つきに、波がかった長い金髪、上から目線の青コートの少女を思い返して、ライはぽんと手を打った。
 やれやれと白い息をつきながら、ファルクが呟いた。
「子供がいるギルド、って聞いたからさ。ああ、もう、余計な心配を……」
「こういう言い方は良くないけど、アルマちゃんのギルドは何事もなくてよかったわ。それにしてもファルクくん、意外と心配性よね」
「そ……んなことは」
 からかうように言ったアリルは鈴を転がすように笑う。
「ノアさんと、そういうとこ似てるよ」
 痛みが走ったような一瞬の表情に、ライもファルクも何も言えなくなってしまった。
「そ……そういやさ!」
 重い沈黙が降りる前に話題を変えるべく、ライは視線をさまよわせながら声を上ずらせた。
「おれたちも結構、三階層のぼったじゃん。ニヴルヘイムのやつらは今どのあたりにいるんだろーな!」
 最終的に定まった視線の先は、街の中心にそびえる世界樹だ。ライたちは非番だが、クッククローの他の面子は今日も探索に行っているはずである。おそらく、ニヴルヘイムも。
「クッククローと、あんまり変わらないんじゃない?」
 ライと同じように世界樹を見上げ、アリルが呟く。続けてファルクが涼やかに口を開いた。
「件のギルドを全滅させた魔物と、もしかしたら遭遇してるかもね」
「ふ、ファルクくん……」
「冗談だよ」
「そいつらも第三階層に行ってたのか?」
「そう聞いた。相当登った先で襲われたと……でも二つ、気がかりなところがあるんだ」
「気がかり?」
 眉をひそめながら、ファルクは首肯する。
「一つ目は……相手は人に似た魔物だったと言っていたこと」
「あ、亜人みたいな?」
 モリビトを思い出したのだろう、顔色を変えたアリルに、しかしファルクは首を横に振った。
「詳しく話を聞いたわけじゃないけど、はっきり“魔物だった”と言っていたし、擬態のようなものじゃないかな」
「で、二つ目は?」
「二つ目は……」
 声の音量を下げ、ファルクはひそやかに続ける。
「生き残った人を薬泉院に搬送するのを手伝ったんだけど。……その人の背中に、銃創があったんだ」
「じゅーそー?」
 聞きなれない単語を繰り返したライに、ファルクがこれ見よがしな溜息を吐いた。
「銃で撃たれた傷痕だよ」
「人に似た魔物が銃を使ったってこと?」
 アリルの言葉にファルクはまたかぶりを振った。
「そこまでは分からないよ。他にもたくさん傷があったけど……でも、あれはたしかに銃創だった」
 ファルクは銃士だ。彼が確信を持って言うのだから、間違いないのだろう。
「ぶえっくしゅ! ……そんなことより、さっさと買い出し、済ませちまおーぜ」
 薄手の両腕を擦って、ライは鼻を啜った。同じ動作をカリンナが行う。いや、これは真似でなく本当に寒いのかもしれないが。
「大丈夫かしら、レオンたち……」
「リーダーたちがそんな簡単にやられたりしねーよ」
 ライの言葉に、アリルが目を丸くする。
「……何だよ?」
「ううん、何でもない」
 ぱっと笑みを咲かせて、アリルはかぶりを振った。
「そうよね、大丈夫よね」
 独り言のように言いつつ、何故だか上機嫌に歩き出したアリルに首を傾げながらも、ライたちはそのあとに続いた。


 それから一週間ほど、何事もないまま順調に探索は進んでいった。
「カリンナ、アリル、大丈夫ですか?」
 クルスは振り返って女性陣の足元を気遣う。氷が張る道は減ってきているとはいえ、ないわけではない。それに、気温が上がる昼間では溶けてしまいそうなほど、薄い氷の上を歩くこともある。
「クルスくーん、おれの心配もしようぜ」
 正面を見据えて先頭を歩きながら、ライが言った。
「―――この状態で前から不意打ちに来られたら、おれモロ食らいなんだけど」
「す、すみません」
 クルスの役割は言わずもがなパーティの盾だ。加えて今は足元も覚束ない夜の底、奇襲に警戒する必要もある。
「それにクルスくんこそ大丈夫なの?」
「えっ?」
 アリルは渋面を隠さずに続けた。
「クルスくん、このところ探索に出ずっぱりじゃない」
「そうですか?」
 自分ではそうは思わないのだが。アリルは言いづらそうに答えた。
「レオンと交代だけど、基本的に。その……ルミネさんがいないから」
 この一週間ほど、ルミネはフロースの宿に戻ってきていない。
 クルスもそのことには気づいていたが、レオンが彼女の行方を知っているようだったから、特に何も言わなかった。ルミネが突然いなくなるのは、これが初めてでもない。
「エトリアの頃は、今ぐらいの頻度で潜っていたじゃないですか」
「そうだっけ?」
 アリルはなおも晴れない顔だ。きょろきょろと不安げに、薄暗い中を見渡している。
「夜の探索だから、やっぱり落ち着かないのかしら……」
「だが夜間に来て、やはり正解だったな」
 白い息をマフラーの隙間から吐きながら、アイオーンが地図を見下ろした。
「かなり道を短縮できている」
「この分なら結構進めるかもな……っと」
 氷の上を跨いだところで、ライがあっと声を上げた。
「誰かいるぜ」
「えっ?」
 何処から降っているかも分からない粉雪が、風に乗って視界を埋める。
 クルスが目を凝らした先に立っていたのは、両手に銃を構えた、背の高い影だった。
「……ここから先には、進めぬと思え」
「何だ、またあんたかよ」
 ライがやれやれと肩を竦めながら、歩を進める。
 その足元を、硬い銃弾が跳ねた。
「ライ!」
「おわっ」
 慌ててクルスの背後に隠れるライ。
「何すんだっ!」
 影―――ライシュッツは、掲げていた銃口を下ろさぬままに、続けた。
「この先には“彼女”がいる。その元には、行かせぬ」
「“彼女”?」
「そう。死したはずの“彼女”は天の支配者に魅入られ、永遠の命を与えられた」
 突然涼やかに響いた女の声に、クルスははっと周りを見渡す。
「そして今も、ずっと樹海にいるの。おぞましいあの姿で」
 吹雪は次第に激しくなっており、ライシュッツすらその闇に消え、今やすぐ隣にいる仲間の顔ですらはっきりと見えない。
 声は続けた。
「樹海にありふれた、かなしい話よ―――聴きたい?」
 クルスは直感した。
 この声はアーテリンデだ。三回の発声で、方角を予測するなら―――今、自分たちがこの部屋に入ってきた方向に彼女はいる。
 つまりクルスたちは、エスバットに挟みうちにされているのだ。
「だがその必要はない」
「クッククローの者たちよ、ここで冒険を終えてもらう!!」
 凛とした声と同時に、駆け寄る足音。
「危ない!」
 クルスは、ライとカリンナを掴んで盾のうちに引き込んだ。その表面を激しく叩く着弾音。跳弾が白一色の世界を切り裂いていく。
「きゃああああ!」
「アリル!」
 根雪を踏みにじるように視界の隅に一瞬映ったのはアーテリンデと、彼女の長い杖槍。そして身を翻し背を向け逃げ出すアリルの姿―――手を伸ばしかけたクルスを、アイオーンが引き戻す。
「んなっ―――」
 文句を言おうとした瞬間、霰のように銃弾が降った。
 クルスは盾で自分と仲間の身を守りながら、柱の影へとゆっくり移動する。止まぬ銃弾を撃ち続けているのはライシュッツだろう。アーテリンデとアリルの姿も声も何もかも、銃声と吹雪にかき消されて分からない。
 分断されてしまったのだ。
「アイオーンさん、あとは頼みます!」
「お、おいクルスくん!」
 ライが柱の影から伸ばそうとした腕を、かすった銃弾に驚いて引っ込める。その隙に、クルスは盾をライシュッツに構えたまま白い視界を突っ切った。どのみちフルアーマーの彼に銃弾はあまり効果がないし、陽動の掃射に精度はないだろう。だが跳弾一発でも剥き出しの頭部にもらえば、即死なのだ。
 幸いクルスは直撃を受けることなく次の柱の影に移動できた。だがアーテリンデもアリルも視界には確認できない。
「くっ!」
 なおも続く銃声を背に、クルスは脇目もふらず、アリルたちが消えた方向へ駆け出した。


「うおおおおっ」
 天然の柱を抉るような集中砲火だ。ライは頭を抱えつつ、隣で篭手を操作するアイオーンに呼びかける。
「どーすんだよ、これ!」
「何か言ったか!」
「どおおおすんだよおおおこれえ!!」
 アイオーンは柱の影から様子を窺うように頭を出したが、すぐに引っ込めてしまった。
「どうするもこうするも、応戦しなければいつかは蜂の巣になるぞ」
「んなこと言っても!」
「機銃でもあるまいし、弾を補充する間があるはずだ。それを狙う」
 言った途端に、銃声が止んだ。アイオーンはすかさず篭手をライシュッツがいるであろう方向に突きだすと、術式を放つ。
 火炎の術式だ。照りかえる赤と熱に、ライは己の目とカリンナを庇いながら叫ぶ。
「どうだ!?」
「駄目だ、動きが早い。避けられたようだ」
「“ようだ”って……」
「視界が悪い。照準が定まら―――避けろ!」
 アイオーンが後退してくる。ライは彼を越えた向こう側、目の前にある柱からぬっと現れたライシュッツにぎょっとした。アイオーンとカリンナを突き飛ばすように先に行かせると、咄嗟に鞭を打つ。
「おらあ!」
 きん、と固い金属音。しなるはずの鞭は銃に絡め取られていた。ライは鞭を手放すと勘で右に転がる。着弾音。鞭が絡んでいない側の銃が、ライを追うように弾を放ったのだ。
「ライ!」
 アイオーンが柱の陰から叫ぶがライシュッツの注意は引けぬ。錬金術師が連続して術式を起動させるには時間がかかるということを、老銃士は知っているのだ―――一方で、ライには逃げ場がない。
 雪の上で動きを鈍らせた彼の右足を、焼けるような痛みが貫いた。
「ぐあっ……」
「ライ!」
 アイオーンが飛び出したのと、押し倒されたライのこめかみに銃口が突きつけられたのと―――どちらが早かったわけでもない。
 凍てつく風が、張り詰めた糸のような静けさの中で舞った。


 柔らかい雪に足を取られそうになりながら、アリルは必死に前に進む。
「やっ……」
 振り返れば、同じようなぎこちなさでアーテリンデが追いかけてきている。
 浅く激しい息。寒さのせいでなく震える全身を叱咤しながら、アリルは懸命に進んだ―――もし、追いつかれたら。
 アーテリンデが肩に担ぐ槍の先端は、変わらずアリルを向いているのだ。
「あっ」
 木々が生い茂る区間に辿りつく。もつれる足。アリルは雪に取られたブーツからおのれのそれを引き抜くと、靴下のままで駆けだした。
 密集した森の中には柔らかい積雪がほとんどない。振り返った先、アーテリンデが暗闇と吹雪の視界に再び姿を見せた途端、アリルはある木の後ろに隠れた。同じ条件下で、アーテリンデから走って逃げるのはもはや不可能だ。足の指にはほとんど感覚がない。放っておけば凍傷で腐り落ちるだろう。
 木の陰から窺ったアーテリンデは、やはりアリルを見失ったようできょろきょろと辺りを見渡していた。だがこの森に隠れていることは確信できていたのだろう、声を張り上げる。
「隠れても無駄よ。あなたの仲間たちはじいやが始末したわ!」
 明らかな嘘だ。パニックにはなるまいと、緊張に急く呼吸をアリルは手袋を噛んで押し殺す。彼らの狙いは各個撃破。ライシュッツが陽動で多勢の足を止め、こうしてもっとも抵抗力のない後衛を隔離し、アーテリンデが確実に始末する。そうやって数を減らすのだ。
 事実、アリルには逃げて隠れるほか方法はない。もし見つかれば殺されるし、そうでなくてもこのまま置いておかれればいずれは―――凍死する。
「あなた一人で何ができるの? 大人しく出てきなさい」
 恐怖に真っ白になりそうな理性を、アリルは必死に保たせる。何かあるはずだ、何か。生きることを諦めてはいけない。
 アーテリンデの声は近づき、遠ざかる。彼女の正確な動きが分からない以上、身動き一つすることすらアリルには躊躇われた。大丈夫、みんなはまだ大丈夫。逃げ続けていればいつかは、誰かが助けに来てくれる―――
「そうね。私たちがどうしてあなたたちを狙うか、知りたくはない?」
 唐突にアーテリンデの声の調子が変わる。
 こちらの動揺と、わずかな反応を誘っているのだと、アリルは辛うじて気付くことができた。この状況での正解は動かぬことだ。何処にいるか、悟られないこと。
 反応がないと知るも、アーテリンデは小さなため息一つ、続ける。
「……かつては“彼女”も冒険者だった」
 アリルは震えたまま黙っている。遠くの銃撃の音が聞こえるほど、静かな瞬間を壊さぬよう、荒い呼吸をひそめて。
 アーテリンデの独白はなおも終わらぬ。
「“彼女”はたった一人でこの迷宮で命を落とした。そして……作り変えられてしまったの。天の支配者が言う“永遠の命”とは、人であらざる者に姿を変えられること……おそらく、支配者の手によってきまぐれに、ね。“彼女”も、あんな……」
 アーテリンデは声を荒げた。
「あんなおぞましい姿になっても! でも、“彼女”は私にとって大切な存在なの! だけど……だけど冒険者たちは私の言葉に耳を貸したりしない、魔物は魔物として“処理”するだけ、だから!!」
 アリルの隠れる木に、どんどん足音が近づいてくる。
 大丈夫―――ばれては―――いないはず―――そこで、アリルは一つの可能性に行き当たり愕然とする。
 アーテリンデはルミネと同じく巫術を使う。
 会話の時間のうちに、それで生きているものの気配を読み取ることくらい―――出来る!
「―――だから」
「きゃああああっ!!」
 アリルは鞄を投げつける。
 背後の木を回り込むように現れたアーテリンデはそれを避けると、立ち上がって逃げようとしたアリルの脚を素早く杖で払った。アリルは木と岩の間に身体をぶつける。
 肩から頭の骨に突き抜ける痛み。
 逃げなくては―――その一心で這うアリルは、しかし打撲のダメージにより立ち上がるバランスを保てず転倒する。奇跡的に、その動きはアーテリンデの刃がアリルを貫くのを妨げることに成功した。だが剣は二の腕を掠る。泥に汚れた上着と白衣が引き裂かれる。
 舞う鮮血。
 痛みがアリルの頭の中を染める。
「大人しくっ、してっ!」
「いや、いやっ、やあああ!!」
 一挙に呆然とした脳裏を走ったのは―――明確な死と殺意。
「苦しませたくないの!」
 ついに半狂乱になりながら、アリルはめちゃくちゃに身体を動かし抵抗する。
 白衣を刺した槍を引き抜けぬアーテリンデはアリルを殴るように突き飛ばした。いきおい抜ける槍と、木に背中を打ちつけるアリル。喉が詰まる。
 振り上げられた槍の刃が、閃いた。
「ああああ!」
―――引き裂くような男の声。
 アーテリンデは素早く反応した。
 彼女は己が背後から斬りかかる両刃剣を、半身をずらして横に回避する。槍の勢いは死なぬ。だが、その切っ先がアリルを刺し抜くことはなかった。
 アリルを木に押し付けるように、女たちの間に回り込み、アーテリンデに立ちはだかった背中があったからだ。
「おおおっ!!」
 僅かに拮抗したのち、彼はアーテリンデを阻んだ盾で、彼女の槍を押し返した。単純な膂力で勝負になるはずもない。跳ね返されたアーテリンデは体勢を崩したが倒れるまではいかず、後ろに引き下がり距離を取る。
 その間に彼―――クルスの背がアリルから少し離れた。圧迫感が消え、ずず、と力を失った脚に引きずられるまま、アリルは木に寄りかかるように尻餅をつく。
「アリル、無事ですか!?」
 アーテリンデを見据えたままのクルスが早口で問う。
「大、丈夫……」
 だが、震える声は隠しきれない。
 全身を苛む冷たさと痛みと恐怖に、アリルは蹲る。
 どうしようもなく喘ぐ少女の眼前で、差し向かいの剣が睨みあう。


 アイオーンが掲げた篭手の照準は、ライシュッツを正確に捉えている。
 だが、術式が放てるかどうかは五分五分だ。まだエーテルは充填されきっておらず、このまま発動させれば暴発の危険性さえあった。そうなればライシュッツはもとより、アイオーンもただでは済まない。
 だが、ライシュッツが膝つく下でもがくライの動きは、先ほどよりも弱まりつつあった。その右ふくらはぎからの出血がみるみる雪を赤く染めていく。
 こんなところでの長期間の出血が何を招くかなど、考えずともわかる。
「彼を離せ」
 強請るように言えば、ライシュッツは鼻を鳴らす。
「ヌシが術式を起動させるより、我が引き金を引く方が早かろう」
 ライシュッツの左手の銃口は、ライのこめかみを指したままだ。
 だが―――ライシュッツの言葉を彼自身がそのまま信じているわけではなかろう。
 そうなら、躊躇うことなく引き金を引けばいいのだから。
 しかし実際にはできまい。本心は、アイオーンの術式を警戒しているはずだからだ。
「どうした?」
 ライシュッツが挑発してくる。下手に動くのはまずいが、もっとまずいのはこの状況が長引くことだ。ライの容態もそうだし、アーテリンデが襲ったアリル、彼女らを追ったクルスのことも気にかかる。
 ライを一瞥すると、姿勢を保ったままアイオーンは口を開いた。
「何故君たちは冒険者を殺す?」
 ライシュッツの無表情は変化がない。
「―――この先にいる“彼女”が何者か知らないが、俺たちは必要もないのに、相手に危害を加えたりすることはない」
「……それが異形のものだったとしてもか」
 低く押し殺した声音が紡ぐものに、アイオーンは顔がこわばるのを感じた。
 彼らエスバットは、クッククローのエトリアでの所業を知らない。クッククロー以外のギルドもおそらくその手にかけているのだから、余計にそうだが―――しかし、アイオーンの動揺に気づかず、ライシュッツは淡々と続ける。
「“彼女”とて元はヒトであったのだ。樹海で死して―――天の支配者の手に落ちたのち、あのような変わり果てた姿となった」
「その“天の支配者”とは何者だ?」
 雪に吸い込まれる声。風の音が再び、激しさを増してきている。
 ライシュッツは答えた。
「我らも知らぬ」
「知らないのに、変わり果てたソレが“彼女”だと何故分かる」
「分からいでか!」
 ライシュッツが吼えた刹那。
 弾けるようにライの俯せた腹が跳ね、伏せられていたその右手がライシュッツの銃を掴み上げる。
 大きく腕を反らせた姿勢になったライシュッツの、両手の指が自ずと引き金を引いた。ライ側の銃は空を切り、アイオーン側の銃は、アイオーンの肩を掠めて通過する。
「くっ」
「アイオ―――ぐっ!」
 銃を奪い返そうと暴れるライシュッツのブーツが、貫通傷があるライの脚を蹴り飛ばす。力を失い前のめりに転倒したライからそれをもぎ取ると、ライシュッツは銃底で少年の頭頂を打った。
 アイオーンは今度こそ篭手を掲げ、術式を起動させた。対人程度に威力を絞った火炎柱が迸る。威嚇にもならない炎にライシュッツがとびずさる。
 アイオーンがライを庇うように前に立った瞬間、視界が白光で埋まった。
 ライシュッツが、天に向かって何かの銃弾を撃ったのだ―――炸裂音と火薬に混ざる刺激臭、そして焼け付く光。
 三感の主を奪われ、アイオーンは怯む。脅威がなおも迫っているのははっきりと分かっても、それがどこから来るものか、分からない。
 辛うじて判別できた、足元に蹲る柔らかいもの―――ライを守るように、アイオーンはその上に覆い被さった。
 

「はあっ!」
 クルスは槍杖を受け止め、払い、その軌道を逸らす。切っ先はより的確に、重装備の弱点である鎧の繋ぎ目を狙いだしていた。
 じりじりと後退させられている。
 攻めを許されない状況に、クルスの焦りは募る。
 純粋に剣の腕で問えば、クルスもけしてアーテリンデに引けを取らない自信はあった。だが機動力の差は如実に現れる。
 がん、とクルスの踵が背後の、雪に突き刺した盾を打った。
 これの向こうにはアリルがいるのだ。
 これ以上は退がれない。
 クルスは身体を大きく一回転させるように剣を振るう。アーテリンデの刃が彼の肩の装甲に弾かれる。回転の勢いで振り上げられた鎧具足が、運良く彼女の右腕を蹴り飛ばした。勢いが乗った鋼の殴打に、アーテリンデの白い顔が苦痛に歪む。
「はあっ!」
 クルスは一か八か盾を引き抜き、己が前に構えると、全体重を込めてアーテリンデに突進した。
 ただでさえバランスを崩していた彼女はひとたまりもなく転倒する。再度その右手を小手で殴りつけると、クルスは槍杖を奪い取った。
「くっ」
 遠くへ投げ捨てる。仰向けに倒れたアーテリンデは咄嗟に腰の後ろに手を伸ばしたが、次の武器が抜かれるより早く、クルスはその腕を己の剣で刺し抜いた。
「ぐ、ああああっ!」
「クルスくん!」
「来ないでアリル!」
 鋭く応じ、クルスはアーテリンデの胴を蹴って俯せにすると、腰の後ろの短剣をホルダーごともぎ取った。剣が貫いたままの腕を投げ出してなおも足掻くアーテリンデの、腰部を踏みつける。
「……っ」
「気が……済み、ましたか」
 荒い息を整えながら、クルスは問うた。
 アーテリンデは乱れた髪を雪の上に散らせ、泥に伏せた顔を上げた。首だけで振り返るそれは、壮絶な目つきでクルスを見つめる。
 クルスは真っ向から見据えた。
「降参してください」
「だれっ、が……離しなさい!」
「武装解除をしましたが、巫術の全てを僕は知りません。何をされるか分かりませんので、あなたが戦意を失くすまで、痛いでしょうがこのままです」
「くっ……」
 アーテリンデは身じろぎするが、片腕をクルスの剣に貫かれ、身体の軸を踏みつけられ奪われたままでは成す術もない。大きく荒い息を吐くだけだ。
 クルスの身体にも痛みの感覚が戻ってくる。アーテリンデの攻撃による、大きいものが二つと小さいものが四つ。覚えのない―――最初の銃撃のものだろうが―――ものが一つ。
「致命傷ではないですが、このまま放っておけばいずれ命や後遺症に係わります」
 アーテリンデの腕の出血を顎でしゃくる。彼女は答えない。
「―――降参してください」
「……しない。すれば、あんたたちはあの人を殺しに行ってしまう……」
「っ、アーテリンデさん!」
「あなたたちを止められないとしても!」
 土混じりの雪に噛りつくようにアーテリンデは叫ぶ。
「私がそれを看過したことになってしまう! それは嫌なの!」
 泣き出しそうにその瞳が揺らぎ―――意志の光が、クルスをきっと貫く。
「私は“彼女”を守るためにここにいる。それを止めたくば、いっそ私を殺しなさい!」
 クルスは―――手にしていた、アーテリンデの短剣を抜き放った。


 予想していた痛みや衝撃は襲ってこなかった。
 何が起こったのか―――徐々に戻ってくる五感の中、眼前にあった光景にアイオーンは息を呑む。
「カリンナ!」
 ライシュッツの背後に、少女が立っていた。
 老銃士は直立したままぴくりとも動かない。やがてその手から銃が滑り落ち、膝から崩れ落ちるように、雪深い中へ倒れ込む。
 鐘の音が、長く低く響いた。
「カリンナ!」
 もう一度、ライが叫んだ。
 アイオーンから離れた彼は、撃たれた右脚を引きずりながら、ライシュッツを越えてカリンナに向かう。
「カリンナ……」
 だがその歩みは、中途で止まった。
 怪我のせいではない。淀んだ空気が、おぞましいほどの不安感が、足を竦ませたのだ。
 それらをまとう、カリンナは雪と見紛う白い顔を、だらりと上げた。
 無表情と言うには―――あまりに呆然とした表情で。
「カリンナだめだ……」
 ゆっくりと歩を進める―――ライシュッツに向かって―――カリンナに立ちはだかるように、ライが移動する。
 その両手が、少女の細い肩を掴んだ。
「だめだ、カリンナ。もういいんだ」
 アイオーンは気付いた。
 ライシュッツはがくがくと震え、口元には泡が吹いていた。加えてアイオーン自身にも襲う、耳鳴りのする頭痛。この、ともすれば流されそうになる強烈な負の感情を、放っているのは―――
 アイオーンは少年たちに目をやった。
 アイオーンと同じ思念に苛まれてか、顔を歪めながらもライは、カリンナをそっと抱き寄せる。
「大丈夫、ちった、痛い、けど……おれは平気、だから」
「ライ」
 カリンナの唇から零れた、吐息のような、声。
 風の音にかき消されるほどなのに、やけにはっきりと、アイオーンの耳にもそれは届いた。
「ライが、死んじゃうと思って……」
「うん、大丈夫だから。大丈夫」
「ライが死ぬくらいなら、わたし……あの人を……」
 ライはぎゅっと、カリンナを自分の胸に押し付けた。その先の言葉を言わせまいとするように。
 ライシュッツの瞼がゆるゆると落ちる。アイオーンは思わず彼に駆け寄ったが、呼吸はしていた。ほっと、安堵の息をつく。
「大丈夫だよ、カリンナ……おれ、もっと強くなるから……」
「わたし、は」
「そんなことしなくていいんだ。一緒に強くなろう。おれたち一人ずつじゃどうしようもなくても、きっと」
―――血と硝煙の臭いを、雪風がかき消していく。


「……何か言っておきたいことはありますか」
「クルスくん!」
 アリルの悲鳴めいた声が遠くで聞こえた。
 クルスは短剣を両手で構え、直下に剣先を向ける。
 見つめ返すアーテリンデの目は、少しも揺るぎはしなかった。
「悪いですが、僕にも守らねばならないものがあります」
「……そう」
「そのためになら、僕も人を殺せる人間です」
「っ!」
 足を引きずりながら、アリルがクルスたちに近寄ってきた。
「アリル」
 彼女は泥と涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を乱暴に拭うと、アーテリンデの腕に突き刺さる剣に手をかける。
「アリル!」
 あろうことか刃の部分に力を込めて、アリルは剣を引き抜いた。傍に落ちていた自分の鞄を引き寄せ、裂傷が走り血が垂れる手に乱暴に手袋をすると、すぐにアーテリンデの腕の応急処置を始める。
「私は医者なの」
「アリル」
「医者は誰かの命を救うのが仕事なの―――それが誰であっても、目の前で死なれるのは居心地悪い、の」
 アリルは時折咳き込みながら、しかし処置だけはよどみなく進めていく。
 アーテリンデは呆然と、手当てされていく自分の腕を見つめている。クルスも言葉がない。
 やがて包帯を切り、工程を終えたアリルは顔を上げた。
「あなたの大事なその人は、あなたに死んでほしがってた?」
「わた、し、は」
 くしゃり、とアーテリンデの顔が歪む。
 クルスは彼女から離れた―――己の剣を鞘に納め、奪った短剣を放り投げ、腰を踏みつけた足を引く。
 だけどそれでも、アーテリンデは立ち上がらない。自由になった腕が、その表情を隠してしまう。
「人でなくなってしまっても……守りたかった」
 後に続いたのは、嗚咽だけ。
 立ち尽くすクルスを、現実的な痛みが引き戻す。
「つっ……」
「治療」
 傷を負った腕を怖い顔で掴むアリルに、クルスは力ない笑みを返した。


 生還した五人の話を、レオンはとりわけ―――渋い顔で、クルスの報告を聞いていた。
「それで、エスバットは?」
 ここは薬泉院だ。部屋数もベッド数も足りないので、重傷のライ以外の四人―――カリンナは怪我一つないので、実質三人だが―――は、待合部屋の隅っこに毛布を引き、そこに座っている。
 すぐそばにストーブがあるとはいえ、クルスは剥きだしの上半身に上着を羽織っただけの格好だ。包帯があちらこちらにあるので、服を着られないらしい。
 だが寒さなど微塵も感じてない風に、彼は口を開いた。
「彼らも怪我をしていましたから、おそらくここにいるかと。隔離されているようで、どこにいるかは僕にも分かりません」
「そうか……」
 間もなく夜も明けようという頃合いだ。早朝のお見舞いお断りの時間帯で、何故レオンが入院中のクルスたちに付き合えているかといえば、何のことはない、ライへの輸血のついでだからだ。
「ライくんの容態は?」
 片腕を吊った状態で、アリルが尋ねてくる。彼女の場合は両足の凍傷が酷く、太く巻かれた包帯が痛々しい。
 肩を竦めて、レオンは答えた。
「命に別状はないとよ。それより……その、“彼女”っての」
 クルスは神妙な顔つきで、頷いた。
―――エスバットの二人によれば、件のギルドが壊滅に至った原因は、“彼女”こと十五階の最奥にひそむ魔物と遭遇したかららしい。
 最奥と言っても、常に彼女がそこにいるわけではない。たまたま下階に繋がる通路の近くに、彼女が遠出してしまったからだ。
「“彼女”の活動は日増しに活発になっているらしいです。冒険者の探索進度が上がっていることと、彼女の動きからして……どのみち、エスバットの凶行に歯止めがかかるのは、時間の問題だったと思いますが」
「それで?」
「えっ?」
 目を丸くしたクルスに、レオンは顔をしかめた。
「わざわざ輸血の帰りに呼びつけておいて、そんな緊急性のない話を聞かせたかったわけじゃねーだろうな」
「あ……その」
 声のトーンを低くして、クルスは周りを窺いながら続けた。
「エスバットの二人に頼まれたんです」
「ほう」
「その……僕たちの手で、天の城を見つけ、支配者に引導を渡してほしいと」
「“彼女”については、“倒すなとは言わない、だが救ってあげてほしい”とな」
 アイオーンが補足する。
 レオンは頭をぼりぼりと掻くと、首を捻った。
「……やっつけていいんだな?」
「“彼女”の名は氷姫スキュレー。どのみち、上の階段へ続く道にその巣があるらしい」
「月齢から、次の夜……つまり明日の晩が、一番氷姫の活動が低下するそうです」
「それにしたって、このザマじゃなあ」
 クッククローの面々を見渡し、レオンは眉をひそめる。
 エスバットと対決した仲間たちが、彼らの想いをくみ取ってやりたいというのは分かる。早く進まねば、ニヴルヘイムなど他のギルドに先を越されるという気持ちもあるのだろう。だが、ありあわせの面子で挑んだとて、生半可に勝てる相手とは思えない。
「お願いです、レオン。何なら僕が―――痛っ」
「やめとけ、無理すんな。……まあ動ける面子だけで組んでも、十分やれそうだな。問題は、ルミネのやつが了承するかだ」
「すみません……」
 肩を落とすクルスに、レオンは口角を上げた。
「レオン、あなたは行っちゃダメだよ」
 アリルが口を挟んだ。
「何で?」
「献血直後でしょ? 一日は休んで」
「活動が低下するのは夜なんだろ? 今すぐ出るってわけじゃないさ」
 おまえらもさっさと治せよ、と言い置いて、ひらひらと手を振りながら、レオンはその場を辞した。


 病室というのはとても静かだ。施薬院でも何度か横たわったことのある医療用のベッドの堅い感覚に、ライは身じろぎをする。
 その傍らの簡素な椅子に座すカリンナが、わずかに目を見開いた。何でもない、というようにライは口角を上げてみせる。
「おはよう」
「……よう……」
 カリンナは震える息のような声でそれに応じた。ライは笑みを深めてみせる。
「ヨハンスさんは?」
 カリンナの父の名を出すと、先よりは聞き取れる声でカリンナは応じた。
「さっき、もう……退院……していいって、先生が……」
「そか。良かったな」
 あの一件以来、二人組のカースメイカーの姿も見ていない。ハイ・ラガードにまだ彼らが留まっているということだけは、辛うじてイーシュから聞き出すことが出来たが。
 ライは病室の天井を見上げる。
 言うべき言葉がまだたくさんあるのに、ぐちゃぐちゃにかき乱されてしまって、どれから取り出していいのか判別がつかない。
 辛うじて、ライは一つを抜き出せた。
「声」
 カリンナはライを見つめている。
「声、出るようになって良かった」
 カリンナが小さく息を呑む。
「おれ、なんか勘違いしてた気がする」
 痛みをこらえながら腹に力を入れ、ライは上体を起こした。打ち身や擦り傷はあるが、重傷なのは足だけだ―――そう思っていたが、やはり身体はあちこち痛い。
 何とかカリンナと同じ視線に身を起こすことに成功すると、その瞳を覗き込みながらライはこう言った。
「カリンナを守らなきゃ、ってずっと思ってた。でもカリンナは、ちゃんと、自分でも戦えるんだよな。そのことを忘れてたっていうか……」
 カリンナは目を伏せた。
 ライを襲う脅威へ向かったカリンナの感情の発露は、すんでのところで“いきすぎる”ことを回避できた。カリンナにはまだその制御が自由にはできないのだろう。しかしそのことを責めるつもりは、ライにはなかった。
 カリンナの長い睫が震えている。
 だが、その頭巾をかぶっていない髪を撫でるように手をやり、ライは笑う。
「言っただろ、一緒に強くなろう。……カリンナが助けてくれて、おれ、嬉しかったよ」
 はっと白い顔を上げる少女には、出会ったころの、人形のような美しさはない。
 この子は生きている人間なんだ―――悲しいことは悲しむし、嬉しいときは笑ってくれる。それがまだ足りないなら、いくらでもライの真似をして、覚えて―――いや、思い出してくれたらいい。ライはこれからもそれを守るだろう。カリンナも、ライも、そうやって一緒に強くなっていけるはずだ。
「ライ……」
 髪に添えられたライの手を取り、カリンナはさびしげに笑った。彼の手を両手で包み込むと、瞼を伏せてそっと頬を寄せる。
 まるで、ぬくもりを思い出そうとするかのように。


 薬泉院を後にしたレオンは、早速残りのギルド員たちを集め、今夜スキュレーに挑むということを口にした。
「いやよー」
 満面の笑みで―――いや、こいつはいつもこんな“笑顔”なのだが―――ルミネにそうきっぱり断られ、レオンは思わず半笑いを浮かべる。
「言うと思った」
「レオンー、もしかしてその頭数、僕も入ってたりする?」
 イーシュが腕を組みながら困ったように尋ねてくる。レオンは首肯した。
「当然だろ」
 棘魚亭に集まった面々を見渡す。ルミネにイーシュ、ファルク、そしてレオン。
「コユキちゃんは?」
「あいつは了解済みだ。多少運動して、身体を暖めておくとよ」
「ヤル気満々だねえ……」
「おまえはどうだ? ファルク」
 突然話を振られたことにか、ファルクは顔をしかめながら、棘魚亭の出入口にちらと目をやった。
「……さっき、ニヴルヘイムとすれ違ったよ」
「おまえの友達もいたのか?」
「いたよ。形とはいえ、アルマが率いるギルドだからね……今日から、十五階に入るんだそうだ」
「先を越されちゃうんじゃ?」
「いや。クルスの話によれば近道は見つけてあるそうだ。第一途中の道は夜間でないと抜けられない」
「でも、タイムリミットは今夜なんでしょー?」
「だから、今夜倒しに行くんだよ」
「ぼくは行くよ」
 ファルクが遮るように告げた。レオンの前に立ち、彼を見上げ、繰り返す。
「……ぼくは、行く」
「じゃあこれで三人だな」
「ああもうホントに、言い出したら聞かないね、きみは」
 長い髪をくしゃりと混ぜて、イーシュが言った。レオンは笑みを返す。
「悪いな」
「いいよ。……これで四人かい」
 イーシュの視線が五人目の女を向く。レオンやファルクも同様だった。
 注目を集めるルミネは、怯んだ様子もなく答えた。
「私はいやよー」
「……理由は?」
「それを答える理由は?」
「ギルドにいる限り、ギルドの秩序には従ってもらう」
 鼻で笑うように表情を変えたルミネに、レオンは続けた。
「―――理由が単なるあんたの駄々なら、それを認めるわけにはいかない」
 氷姫に挑むには実力が足りないとか、体調に不安があるなどといった理由でないのは明らかだった。
 こいつは昔からそういうところがある。レオンは知っていた。その日の雰囲気というか気の流れというのか、凡人にはあずかり知らぬところを、呪医という人種は読み取り判断する節があるのだ。それを気まぐれと人は言う。ようするに“何となく乗り気でない”のだ、今の彼女は。
 ルミネは改めて問うてきた。
「そもそも今夜、無理矢理氷姫に挑む理由はどこにあるの?」
「だから―――」
「よそのギルドが彼女を倒すなら、それでいいじゃない。エスバット……だったかしら? その人たちのお願いを聞いてあげる必要がどこにあるの?」
 黙り込んだレオンに、ルミネは柔らかな笑みを浮かべる。
「ルミネさん」
 二人の間に割って入ったのは、ファルクだった。
 不意を取られたレオンたちをよそに、彼は言葉を紡ぐ。
「―――ぼくたちは冒険者だ。“他人の”ギルドがどうこうってわけじゃない。仲間が命がけで先に進む道を切り開いてくれた、それにぼくは報いたい」
 紫の視線が見据えた先、ルミネは答えない。
「だからお願い、力を貸してほしい。強い敵に挑むなら、ルミネさんの手が必要だよ」
「……分かりました」
 根負けした、というように、やれやれとルミネはかぶりを振った。やがてレオンを見上げた目が、緩やかな弧を描く。
「この子に免じて、よ」
「……助かる」
 言葉とは裏腹、吐き捨てるように言ったレオンの態度すら、ルミネは一笑に付した。

▲[15F]一番上へ▲

第四階層

▼[16F]一番下へ▼

16F

 空気が乾いていた。
 冷気の中に混じる熱気が、ちりちりと肌を焦がしている。焼け付く喉に無理矢理唾液を流し込みながら、彼女はさくさくと進んでいく。
 小さな黒い塊が、不意に爪先を打った。
 立ちのぼった臭いに、彼女は眉をひそめると、足を止めた。
 彼女に付くように歩いていた少年が、それに従ったのが分かる。
「……どうした?」
 急に立ち止まったことを非難するような声音で、彼が呟く。彼女はいつもの笑顔を形作ると、振り返った。
「何でもないわよー?」
「……なあ」
 溜息混じりに、少年がぽつりと言った。
「―――俺は、もう戻るぜ」
 彼は大袈裟に両手を広げる。
「こんなところにいたって、無駄さ」
 淡々と、少年は半ば呆れたような調子で言った。
 街の全ては炎に飲み込まれてしまった。
 彼女と少年が属していた世界もまた、彼ら二人だけを残して、燃え尽くされてしまったのだ。
 ほかに僅かに生き残った者は既に、街外れに集合している。ほんの数頭の馬が引く一台の馬車で、この焼け残りから立ち去るために。
「いいわ」
 彼女はあっさりと応じる。
 少年の目を見据えて、真正面から立つ。
 思えば、彼とこのように向かい合ったのは何年ぶりだろうか。
 初めて会ったときよりも、いくらか成長し、背も彼女を追い越した。彼は、もう少年と言うよりも、青年と呼んだ方がいいのかもしれない。
 その目に感傷はない。失った者の痛みすら浮かんではいなかった。
 この子は私を置いていくのだ、と彼女は理解する。
 命だけが助かり、未だ立ち上がれぬ私をそのままにして。
「さよならだ、ルミネ」
「ええ、さようなら」
 もう会うことはないかもしれない。
 これを最後と見送った彼の背中は、一度も振り返ることはなかった。


「ルミネ!」
 鋭く突き刺さるような声とゆさぶりとに、ルミネははっと目を覚ました。
 必死の形相で己を見下ろす彼の顔がそこにはあった。―――ああ、また片目を瞑ってしまって。見えないからといって瞼を閉じてしまえば、敵に死角を教えているようなものだと、あれほど―――
 そこでルミネははたと気づく。
 そうだ、今の敵はヒトではなかった。
「ファルク!」
 どんと強く地を揺さぶる音。
 触手と呼ぶには丸太のように太く乱暴なそれが、足場である氷を叩いて、銃士の少年を追い詰める。
 ルミネはもう一度、自分の腰を抱く男の横顔を見た。
 少年の日を遠く置き去った精悍さに、思わず手を伸ばす―――その碧の眼差しがルミネに気づいた。
「立てるか!?」
「……ええ……」
 身体を支える彼の手から離れ、ルミネはおもむろに己の額に手をやった。ぬるりとした感触。なるほど、先ほどから朦朧としているのは、このせいか。
 緩慢とした動きで、ルミネは腰の後ろに下げた複数の薬袋の一つをさぐり、小瓶を抜き取る。
 それを飲み干すと、いくらか楽になった。
 あらためて、自分を守るように立つ男が対峙する魔物に向き直る―――まるで、堅い殻を持った巨大なイソギンチャクのようだ。雪が積もり、分厚い氷が張る水面に、めり込むように立っている。
 その中心に覗く、かつてヒトであったのだろう変わり果てた姿が、上体をだらりともたげた。
 歌うような金切声のような音が、その喉から迸る。
「ぐっ……」
 耳を覆って倒れ込む彼に駆け寄って、ルミネはその顎をぐいと持ち上げ、飲ませるというより顔面にぶちまける形で薬を振り撒いた。
「しっかりなさいー」
 器官に入った様子でげほごほと咳き込む彼を引っ張りながら、ルミネは魔物に目を向ける。
 緩やかな弧を描く青い唇から、ちろりと赤い舌が覗く。
―――これの。
「ルミネさん!」
 イーシュの割れた声が響いた。
 氷姫が大きく広げた腕に応じるように、貝殻の肢が振り上げられる。
 ルミネは、まだむせている彼を突き飛ばすと、それを守るように剣を構えた。圧倒的な質量を受け止められるとは元より思わない。ならば、やるべきことは一つだ。
 ルミネの身体を互い違いにへし折るために、右から頭に、左から足元に肢が迫りくる。ルミネは右を選んだ。長剣の刃に滑らせるようにして貝殻の軌道を斜め下に移させる。
 両の貝殻が、合わさるように打ち鳴った。
 上空に回避していたルミネは、それの上にふわりと着地した―――と同時に再び跳躍し、氷姫本体に向かう。
 柔らかい部分を守るようにはだかる触手を一閃のち斬り払う。
 守るものなく露わになった氷姫の胸の中心を、ルミネは貫いた。
―――これの、何を。
 迸るような絶叫。
 なおも金切声をあげながら全身を震わせ、氷姫は仰け反る。ルミネは剣を引き抜く。
 そして瞳も虹彩もない真っ赤な眼球を見据えると、その首を刈り飛ばした。
 遂に力を失い、崩れるようにスキュレーはその形を失っていく。それはまるで、何者かの手によって無理矢理組み合わされたパズルが、秩序をなくして壊れていくかのように。
 ルミネはスキュレーを構成していた残骸から飛び降りると、氷姫の要であったろう、ヒトの上半身の形をしたそれに近づいた。
 首を失い、残骸にもたれかかるように腕を投げ出している。痙攣しているが、ただの反射だろう。
 青ざめた肌は、二度なおもたらされた死をもってしても、ヒトの色に戻ることはなかった。
「ルミネさん、大丈夫?」
 仲間と彼が近づいてくる。
「ルミネ」
 レオンが自分の声の聞こえる距離に来たのを確認すると、ルミネは再びそれに目を落とした。
「これの何を守りたかったの?」
 冷気と潮に混じった、生臭く温い空気が肺を満たす。
「くだらないわね」
 ヒトであった化け物が、そこに転がっている。


 スキュレーを下し、桜の花びら舞う第四階層に歩を進めたクッククローだったが、エスバット、スキュレーと立て続けの強敵との戦いにより、負傷者が相次いでいた。
 道を切り開いたものの、難航する探索に、自然と他のギルドに後れを取るようになっていく。
「早く樹海に入りてー」
 薬泉院の中庭にて、手すりに縋り付くようにして歩行訓練中のライの呟きに、その正面のベンチに座っていたアリルは眉を寄せた。
「そのためには、まずはしっかり歩けるようにならないとね」
「だからちゃんと、リハビリしてんじゃん。……だってクルスくんが言ってたけど、ニヴルヘイムは十八階に着いたんだろ?」
 アリルは膝に乗せていた本をぱたんと閉じると、身を乗り出す。
「ニヴルヘイムはニヴルヘイム、私たちは私たち! 無理したってしかたないもの、焦らずマイペースに行きましょ、ね?」
 彼女の勢いに引きつつも、ライは渋い顔をして、どかりと腰を下ろした。
 が、突然何かに思い至ったかのように、にかっと笑う。
「へへっ、そうだな」
「あら? ……なあに、妙にしおらしいのね」
 ぶーたれると思ったのに、というアリルの言葉にもライは鼻をこするだけだ。
「主役は遅れてやってくるって言うもんな。……ニヴルヘイムに先を越されてるっつっても、おれたちみたく第四階層まで辿り着いているギルドなんてそうそうねーわけじゃん?」
「前言撤回。またそうやって調子乗るんだから」
「いてっ」
 アリルのデコピンに、ライは大げさに痛がる。
 けらけらと笑う二人に、柔らかい日差しが降り注ぐ。
 ハイ・ラガードにも春が近づきつつあるのだ―――
「カリンナ?」
 響いた小さなクシャミと、それを覗くように首をもたげるライに、アリルは振り返る。
 花壇の端に座るカリンナが、スケッチブックを抱えたままぼんやりとこちらを見ていた。
「絵、描けた?」
 近づいて行けば、ライも慌てたように這ってついてくる。
 アリルは少年と一緒に、カリンナが描いた絵を覗き込んだ。


 そこには、口元をスカーフで隠し、伏せた目を帽子の下から覗かせている、短髪の女性が描かれている。
 幾度となく眺めた絵だ。
 忘れられないその顔に目を落としながら、アイオーンはハイ・ラガードの坂道を上っていた。
「アイオーンさん」
 顔を上げると、クルスが前方の建物を指さしていた。
「あれではないですか?」
 樹海の中でするように、絵と逆の手で持っていた地図の配置を見比べて、アイオーンは頷く。
 二人が訪れたのは、とある兵団の詰所だ。
―――第四階層まで樹海が深くなり、翼人なる未知の先住民との遭遇などから、いよいよ天空の城の発見は現実味を帯び始めていた。そこで見つかるはずの、ハイ・ラガード公国の大公を救う手立て。それは周辺諸国にとっても、公国に対する外交上の切り札ともなり得る、貴重な宝なのだ。
 したがって、国々の息のかかった冒険者は、エトリアの時以上に多く存在する。それも使い捨てのような者たちでなく―――位の高い実力者たちが。
 そのうちの一人として、ノアが派遣されたと―――イーシュからの情報をもとに、二人はこの詰所に足を運んだというわけだ。
 通された簡素な応接間は、この建物の中身が急ごしらえされた詰所であることを示している。
「……それで」
 この兵団を率いているという男性は、アイオーンたちが手渡したその絵を、ぞんざいに机の上へ投げ出した。
「―――何をお聞きになりたいので?」
「単刀直入に申し上げて、この女性がこちらの兵団に所属しておられると伺いました。ぜひ、お会いしたい」
「……どこからそんな話を」
「街の情報屋から」
 男性は帽子の上から眉間を揉んでいた。ごまかしても無駄だと判断したのだろう、続いた言葉はあっさりとしていた。
「たしかにおります。が……あなたがたは冒険者ですな?」
「ええ」
「身元のはっきりしない者を、彼女に会わせるわけにはいきません」
 アイオーンとクルスは顔を見合わせた。
 こうして団長に会うことを許されたのも、“クッククロー”というギルドの公国での活躍があってのことだ。それでもなお“身元のはっきりしない”と断じるということは、冒険者に対し相当の不審があるのだろう。
 もしくは。
「彼女が拒否をしましたか?」
 アイオーンの質問に、男性はややして重い口を開いた。
「彼女は―――」
 するとそこへ、部屋の外、廊下をかつかつと歩いてくる足音と、必死に押しとどめるような声が響いた。
 扉がいきおいよく開く。入ってきた影に、三人は三様に驚きを露わにした。
「ノア!」
「ノアさん……」
 アイオーンは唯一無言で、彼女を迎えた。
 ノアもまた一言も発さぬまま彼とクルスを一瞥すると、団長を見据えた。
「私に隠し通せるとでも、思いましたか」
「ノア、だが……」
「ハイ・ラガードに向かう団に付くと。決めたのは私です。それを可能とするだけの権限が、今の私にはある。お分かりでしょう?」
 ここでアイオーンたちに向き直り、ノアは続ける。
「決着はいずれつけに行くと言ったわ。何故来たの?」
「僕たちは―――」
「君の言うことを、信じて待つことが出来なかったからだ」
 クルスがはっとアイオーンを見る。小さく頷くと、アイオーンは正面を見据えた。
―――少し、やつれた。
 あれほど望んだノアの視線は、出会った最初の頃のように冷たく、不審に満ちている。
 アイオーンは彼女を見つめたまま、続けた。
「ファルクを連れ戻すつもりでここに来たのか?」
「いいえ。……家の事情が、少し変わったの。私は正式に家長となった。だから、あの子はもう必要ない」
「必要ない?」
「そうよ。彼に伝えて頂戴……“縁を切る。どこへなり行き、何にでもなりなさい”とね」
「ノアさん……!」
 拳を握りしめたクルスが前に踏み出そうとするのを、アイオーンは制した。
「君は……これから何をするつもりだ?」
「私たちは先遣のギルドを使って、最深部の探索をするだけよ。あなたたちの出る幕を奪ってしまうかもしれないわね」
「先遣のギルドって、まさか……」
「ニヴルヘイムは、元々私が出資して作ったギルドでね」
 一人席に座ったままの団長が肩を竦める。
「―――娘が運営している。まあ、ままごとのようなものだ」
 波打つ金髪の銃士の少女、アルマのことだ。この男性は、彼女の父であるらしい。
 しかし“ままごとのような”という言葉に、クルスが何か言いたげに顔を歪めた。
 ノアが溜息を吐く。
「……あなたたちに対する“賠償”は、いずれ必ず行うわ」
「そんなもの……」
「何なら、今払って差し上げてもかまわないわよ?」
 彼女は事務的に応じた。
 クルスは言葉が出ない様子だった。屈辱と怒りに耐えるように、拳を震わせている。
 アイオーンはそれを、どこか他人事のように眺めていた。
 やがて、義手でクルスの肩を叩いた。
「……出直そう」
「もう来ないで頂戴」
「今日は俺の独断でここに来た。次があるかどうかは、レオン次第だ」
 ノアの柳眉がきつく寄る。
 今日初めて崩れた鉄面皮を背に、立ち去り際アイオーンは呟いた。
「団長殿、警告しておこう。世界樹の迷宮はあなたがたが考えているほど甘いところではない。加えて、政治の意向を汲むことなく、鼎の軽重を問う者はここにはいるということだ」
「……先達の言葉、として受け取っておこう」
「失礼」
 足早に応接間を後にするアイオーンを、追いかけてきたのはクルスだけだった。


 それから丸一日経ったあとの、夜半である。
「馬鹿じゃねーの」
 公宮に呼び出されて、フロースの宿に帰ってきたレオンは発言通り、甚だ馬鹿にしきった態度でそう吐き捨てた。
 曰く、件の兵団長が、樹海で行方不明になったのだそうだ。
 彼とてけして、歴戦の冒険者に劣る腕前の―――銃士だったわけではない。共に探索に行ったのはニヴルヘイムのリーダーや、兵団の精鋭だ。
 だがそんな者たちにも、樹海は平等だ。
 深いため息をついたアイオーンに、クルスは声をかける。
「アイオーンさんのせいじゃ、ありませんよ」
 別れ際にかけた言葉を気にしている風だった彼は、覗き込んだクルスにふっと、微かな笑みを見せた。
 レオンが鼻を鳴らす。
「で、探してくれときたもんだ。プライドねえのか?」
「プライドで命は買えませんよ。ノアさんやアルマさんたちも捜索に出ているようですし」
「困ったときはお互い様だ。エトリアでもそうだったろう」
 クルスを後押しするアイオーンの言葉に、レオンはおろかクルスまでも目を丸くしてしまう。
「……何だ?」
「いや……おまえ、いいやつだよな」
 不思議そうにしているアイオーンに、クルスは力ない苦笑を浮かべた。
「ああまで言われれば、僕ならもう少し卑屈な反応をしますよ」
「それで、手伝うの、手伝わないの?」
 ずい、とアリルが唐突に話に入ってきた。
 レオンは肩を竦める。
「わざわざ“公宮経由で”勅令が来てんだ。断れねーだろーが」
「私はパスー」
 言い置いて、ルミネが席を立つ。
 階段を上っていく彼女を当然のような気分でクルスたちは見送るが、アリルが慌ててあとを追おうと立ち上がった。
「アリル?」
「だって、救護しなきゃいけないでしょ。ルミネさんにも手伝ってもらった方が、いいと思うの」
 早口で言い置き、アリルはルミネを追いかけていった。クルスは知らず微笑む。
「アリルらしいですね」
「説得に応じりゃいいがな」
 大きく伸びをして、どうでも良さそうにレオンがぽつりと言った。


「ルミネさん!」
 二階の廊下で追いついたルミネは、アリルに背を向けたまま立ち止まった。
「―――あの。怪我人がいるかもしれないから、ルミネさんにも一緒に来てほしいんです、けど……」
「あなたが行けば十分でしょうー?」
「今のクッククローじゃ戦力も足りませんし。その……」
 言うべきか否か迷い、結局、アリルは口にした。
「ノアさんも来てるかもしれないから」
「その“ノア”って人」
 ルミネは振り返っていた。
「知って、ますか? ノアさんのこと……」
 ルミネはゆっくりかぶりを振った。何も言わない。まるで、促されているように感じて、アリルは続けた。
「私たち、ノアさんを追いかけてハイ・ラガードに来たんですけど」
「それは知っているわー」
「エトリアでレオン、死にそうな怪我をしたことがあって」
 言葉にするだけで泣きそうになりながら、アリルは紡ぐ。
「―――レオンを刺したのが、ノアさんなんです」
「ふうん」
 まるで明日の天気を聞いたかのような反応だ。
「お腹の傷はそれで、なのねー」
 どきり、とアリルの胸が鳴る。
 ルミネはいつ、彼の刺し傷を見たんだろう?
 アリルがいない場面でルミネが治療を行うことがある。冷静に考えればそのときなのだろう。
 いや、それ以外を考えたくない。
 逃避する思考の中、アリルは確かめなければならなかったことを一つ、思い出した。
 あのとき、生死の淵にいた彼が口にしたことを。
「私とレオンは同じ傭兵隊だったのだけれどー」
 はっとアリルは、いつの間にか俯いていた顔を上げる。
 ルミネは虚空を見上げて続けた。
「やおら方々に恨みを買うようなことをしていたわねー。“ノアさん”もレオン個人というより、隊への恨みで彼を刺したのかもしれないわー」
 その語り口は、やはり他人事のようで。
 生き死にに対する淡白さがレオンを思い起こさせて、アリルは知らず唇を噛む。
「“ねえさん”って」
「え?」
「レオン……刺されて、熱にうなされている時に、ルミネさんの事を呼んでたんです。“ねえさん”って」
 搾り出すように、言葉を紡いだ。
 続きがあるわけでもない。
 確かめるというよりは、ただ、ルミネの反応が知りたかっただけなのだろう―――
 だが、意外にも彼女は目を丸くする。
 そして考えるように少し間を空けると、こう言った。
「ねえ、それは多分私のことじゃないわー」
「えっ?」
 今度はアリルが目を真ん丸にする方だった。
 顔を上げた先にあったルミネの表情は、とても柔らかく、どこか寂しげだ。
「私は、あの子の本当の“ねえさん”じゃないもの」
 意味深長な物言いに、アリルは黙り込む。
―――訊くべきなのか、べきではないのか。
 知れば知るほど分からなくなっていく。
「知りたい?」
 ルミネはアリルを見据えると、いつものようににこりと笑う。
「レオンのこと。もっと、知りたいんでしょう?」
「それ、は……」
「遠慮することなんてないわー。私も、あなただから教えてあげようって思うのよ」
 灰色がかった瞳が、アリルを覗き込む。
 いつの間にか吐息を感じるほどに接近されて、体勢を変えられ、廊下の端にアリルは踵をぶつけた。
 白い指先が頬を撫でる。
 まるで魔術にかかったように、アリルは動けなかった。
「ねえ、訊きたいんでしょう?」
 ルミネの目が、すうと細くなる。赤い唇が、緩やかに弧を描いた。
「―――可愛いわね、とても」
「おい!」
 鋭い声が、この空間を割り裂いた。
 ルミネが素早く振り返る。が、体を離すより早く、影は近づいてきた。
 レオンだ。
 彼は厳しい目つきをルミネに向け、詰問するように言葉を重ねる。
「何をしていた?」
「別に、何もー」
 答えるルミネは、元通りの笑みを浮かべている。
「とぼけんな!」
 それに怒号を浴びせると、彼はルミネの肩を押し退けた。向かい合う形になる。
 レオンの広い背がアリルの目に入った。
 庇われているのだ、と頭のどこかが悟る。
「悪ふざけも大概にしろ」
「あらー。私たちはただ、お話していただけよ。ね、アリルちゃん」
 レオンの肩越しにルミネの顔が覗く。突然のことにアリルが返事に窮していると、彼女が小さく溜息を吐いたのが見えた。
「―――そんな怖い顔しないでもいいじゃない。ほら、アリルちゃんも怯えちゃって。可哀相にー」
 ここで始めて、レオンがアリルを見た。
 樹海で後衛の無事を確認する時のような、事務的な視線。いつも通りといえば、それだけだ。
「邪魔も入っちゃったことだしー、続きはまた今度ね、アリルちゃん」
 のんびりと言い置いて、ルミネはすたすたと、再び階段を降りていってしまった。
 舌打ち一つ、レオンがその後を追おうとする。
 が、アリルはそれを呼び止めた。
 訝しげにレオンは振り返る。アリルは硬直した。何かを言いたかったわけでもなく、ただ勢いのまま、声をかけてしまったからだ。
「そ、その……」
 俯いて、ぐるぐる巡る言葉から、適当と思われる単語をいくつか抜き取る。
「―――何もなかったのは、本当だから。むしろ、妙な質問をしてしまったのは、私の方というか……」
「分かってる」
 簡潔な一言に、アリルは弾かれたように顔を上げる。
 レオンは頭をがしがしとかき混ぜると、憮然として言った。
「けど、あんまり関わるなよ」
「どうして?」
 言葉が口をついて出る。思いがけず強い口調だったせいか、レオンは僅かに身を引くと、静かに答えた。
「知らない方が、いいことだってある」
 アリルはきょとんとした。
 そしてはっと思い出すと、衝動のまま口を開く。
「ルミネさんと、探索についてきてもらう約束してないっ!」
「……分かった、俺が頼んできてやるから」
「いいの?」
「ま、何とかなるだろ」
 そう言うと、レオンは階段を降りていった。


 宿を出たルミネはふらふらと、夜の下町に繰り出していた。
 ラガードでも滅法治安の悪い界隈だが、彼女は気にならなかった。今更惜しんだり大事がるような身でもない。
 この街で刹那的に得られる快楽のほうが、生きていることをひどく、そして深く味わえるのだから。
「よう、ルミネ」
 馴れ馴れしく肩を叩く手に、ルミネは静かな微笑みをたたえて振り返った。
「何かしらー?」
「ヒマそうだな。ちょっと付き合えよ」
 見つけた顔は、覚えのないものだった。そのわりの男の親しげな様子からするに、酔った勢いで一夜を共にしたことがあるのだろう、多分。
 春を売る女だと勘違いされているようだが、訂正する必要も感じなかったため、ルミネはにこやかに応じた。
「朝までなら、いいわよー」
 指先で提示するのは金額だ。男の眉が曇る。
「まけてくれよ」
 このあたりの相場を知らないルミネは、指を一本折った。もとより金目当てではない。
 男の顔が分かりやすく明るくなる。腕をルミネの肩に回そうとして―――彼は振り返った。
「ルミネ」
 呼びかける声に、ルミネはひそやかに溜息を吐く。
 レオンが細く汚い筋道の先、月を背負って立っている。
「なんだ、先客がいたのかよ」
 男は渋い口調でそう吐き捨てる。
 レオンは小さく肩を竦めた。
「悪いな、痴話喧嘩だ」
「他人を巻き込むなよ、ったく……」
 男はあっさりと去っていった。
 離れた温もりに身震いするように、ルミネは我が身を抱く。代わりに近付いてきたレオンに、これみよがしに溜め息をついた。
「邪魔しないでー」
「阿呆。見ろ」
 彼が顎でしゃくった路地裏の闇から、大きく胸のあいたドレスを纏う女が見える。それだけではない。じっとりとルミネを窺う視線がそこかしこから感じられる。
 レオンはきつく咎めるように続けた。
「縄張りがあんだよ。下手に商売っ気出すな」
「あらー、商売じゃなければいいの?」
 頬に手を伸ばすと、避けられた。レオンは不機嫌そうに応じる。
「いいから、宿に戻るぞ。明日から第四階層に入る」
「私は行かないわよー?」
「ギルドに所属している限りは、ギルドの決定に従え」
「“あなたの”決定でしょー」
 捕まえようとしてきたレオンの手を払いのけ、ルミネは一歩後ろに下がった。
 行政の手入れが少ない分、街灯も僅かな通りだ。肌寒いと思った。こんな夜は人のぬくもりのそばで眠るにかぎる。
 彼の手は追ってきた。ルミネの逃げ道を塞ぐように壁に触れた腕の主を見上げ、溜息を吐く。
 何より早く彼から離れたくて、引き下がらないそれに手を添えた。
「―――分かったわー。朝には宿に戻ります、それでいいでしょー?」
「駄目だ」
 今度こそルミネは笑みを消す。
「本当、横暴ね。それともリーダーさんは、ギルド員の私生活にも干渉するのー?」
「……俺はこれでも結構、自由放任主義を貫いているつもりなんだがな」
「どこが」
 ルミネは鼻で笑った。
 いつものようにいなせば良かったのに、不快感が勝ったのだ。彼の眉間の皺が深まるのを見ないふりで、ルミネは続ける。
「自己満足で干渉するのはやめて。責任も取れないのに」
「は?」
「培ったギルドが大事なら、ギルドだけに注力すればいいじゃない。私は必要ないでしょう」
 ルミネの記憶は過去に立ち返る。
―――私が育てた。
 死の淵から命を救った少年の世話は、必然的に助けた彼女が負うことになった。生きていく―――生き抜くために必要なことは全て教えたつもりだ。剣の振り方、手入れの仕方、野営の方法、人の殺し方、女の抱き方―――何もかも。
 だが少年はルミネが身を置いていた傭兵団の人々に馴染むことはなく、結局団が全滅した折、彼女の命だけを助けて―――そのまま、いなくなった。
 彼女を置いて。
 ルミネの中に渦巻くどろどろとした感情などつゆ知らぬ様子で、レオンは吐き捨てた。
「何だそりゃ。嫉妬か?」
 ルミネは自嘲した。
「そうかもしれないわね」
「言っておくがおまえも、クッククローなんだぞ」
 不愉快そうな彼に、ルミネはふと告げた。
「あなた、変わったわー」
「あん?」
「あの子」
 目を閉じる。
 瞼に浮かんだのは、窺うような曖昧な、笑みを浮かべる少女の姿。
 まるで汚い沼の底を覗き込もうとしているようで、引きずり込んでやりたくなる。
「可愛いわね、あの子」
 耳の横で、壁を殴りつける大きな音がした。
 瞼を上げれば、射殺そうとするように鋭い碧眼がじっとルミネを見ていた。
 ルミネはゆるゆると口角を上げた。
「そんなにたくさん抱え込んで、守りきれると思ってるの?」
「別に……目についたとき、手ェ貸してるだけだ」
 彼は視線を外し、身体を離した。路地を抜けていこうとする背中を、大人しくルミネは追った。
 私が気づいていないとでも思っているのかしら?
 レオンは相変わらず背を向けたままだ。足音を立てないルミネがこのままいなくなったところで、彼は気付かない―――いや、気付けないだろう。かつて持っていた感覚を彼がどこかで失くしたのだということを、知らぬままでいるほどルミネは鈍感ではない。
 過干渉なくらい他人事に首を突っ込むくせに、自分のことは無頓着でいる。
 ルミネは独りごつ。
「だから、本当に大事なものを見落とすのよ」
 それが己の命であっても誰かの優しさであっても、同じことなのだ。


 見渡す限りの淡い桃色が散る。桜が満開になっていた。エトリアにもあった木々だが、未だ春訪れぬ身を切るような空気の中で、ひらひらと舞う花びらは美しいが不自然だ。
 それもそうだろう。ここはハイ・ラガードであっても、ハイ・ラガードの街ではない。
 桜ノ立橋と名付けられた第四階層の迷宮は、一年中枯れることのない花を咲かせ続けているのだ。
「こんなにすんなり階段が見つかるなんて、何かありそうですね」
 一気に十八階まで登ったクッククローだったが、まだ要救助者たちはおろか、探索中のはずの他のギルドも見つけられなかった。
 しかしここまでの経験で、彼ら五人に緊張を解こうというものはいなかった。十八階の深部へ進む道には石造りの迷宮をミシミシと揺らすような足音が響いていて、先に立ちはだかる何者かの存在を感じ取るには十分だったからだ。
 クルスはごくりと息を呑んだ。
「……進みますか?」
「そりゃあな」
 淡白にレオンが応じた。通路を覗き込もうとして―――ルミネがその飾り布を引く。
「ぐえっ」
「また先走るんだからー」
 抗議しようとしたレオンの鼻先を、巨体の金色の魔物が通過していく。
 凍りつく一同。が、魔物はこちらには見向きもせずに徘徊を続けた。
「あっぶね……」
「しっかりしなさいなー」
 その様子を見ていたクルスは、きょとんとしていたが、やがてレオンに声をかけた。
「あの」
「何だ?」
 しかしクルスは―――目を泳がせると、曖昧な笑顔で引き下がる。
「いえ、何でもありません」
「……そうか?」
 あっさり言うと、レオンは魔物の動きを見極めようと通路に向き直る。
 その背中を眺めていたクルスは、傍できょろきょろと辺りを見渡していたアリルに、小声で話しかけた。
「アリル……その、レオンのことなんですが」
「えっ?」
 クルスはレオンの様子を窺いながら続ける。
「随分前から思っていたことなんですが、今ので確信がいきました。……心当たりはありませんか?」
「な、んのこと」
 誤魔化すような笑みが浮かぶ。
 クルスは言い募ろうとして―――レオンが呼びかけてきた。
「おい、今のうちだ。進むぞ」
「あっ……はい」
 小走りに移動しながら、クルスはアリルに言った。
「すみません、あとで」
「う、うん……」
 アリルの反応には注目することなく、クルスはレオンたちの後を追った。


「あ」
 何度かf.o.eを通り抜けた先で、レオンは見覚えのある女の立ち姿を見つけた。
 と同時に、後悔する。振り返った彼女は、こちらを見るなり鋭い視線を飛ばしてきたからだ。
「クッククロー」
 まるで自分が、昔そこにいたことを嫌悪するかのように。
「ノア」
 一歩進み出たのはアイオーンだった。
 しかし彼女は呼びかけに応じることもなく、桜の花びらに埋もれる床に這いつくばるようにして何かを探す、金髪の少女を見下ろした。
「どう?」
 丁度そのとき、少女―――アルマはがばりと身を起こした。波がかった金の髪は乱れきり、青白い顔には疲労の色が濃い。揺れる空色の瞳が凝視しているのは、その手が握りしめる、無骨で、娘が持つにしては大きすぎる―――一丁の銃。
「お父様……!」
 大きく見開かれた目から、耐えきれぬように零れ落ちる涙。
 嗚咽の声を上げながら丸まる背中をさすり、ノアは呟いた。
「……分かったでしょう。これで、この迷宮がどういう場所なのか」
 周辺にも、アルマやノアたちの私兵と思しき者たちが散見できた。アルマの父と、彼が率いたニヴルヘイムの人々を探していたのだろう。
 アルマの姿に居たたまれない様子で、クルスが重い口を開いた。
「ご遺体は……」
「まだよ。……近くに床が崩落した痕跡があった。あなたたちも、先に進むなら十分気を付けて」
 胸元を握りしめていたアリルが、はっと顔を上げる。
「私たちも、ノアさんたちの手伝いを―――」
「ありがとう、と言いたいところだけど……探索をしながらの捜索は危険だわ」
 かぶりを振るノア。
 気遣われたのだと気づいたアリルが、目を細める。
「ノアさん……」
「ノア隊長」
 兵士がノアに声をかける。一言二言言葉を交わすと、ノアはクッククローに向き直った。
「どうしたの? 先に進んで頂戴。遠慮はいらないわ」
 見たところ、捜索隊にはニヴルヘイムのブシドーの姿などもある。行方不明になったのは、主に彼らのリーダーであるようだ。
 レオンは肩を竦めた。
「公宮からの“お願い”でな。あんたらに力を貸すようにとのお達しだ」
「公女様ね……大臣も。あの人たちはお人好しなのよ」
 やれやれと頭を振ると、ノアはある扉を指した。
「あの先にはf.o.eがいるわ。床が不安定だから、まだ私たちも手を付け始めたばかり……くれぐれも、気を付けて」
「ご配慮痛み入ります」
「あなたに言ったんじゃないわ」
 大げさに返したレオンを見もせずに、ノアは冷たく告げた。


 扉の向こうへ立ち入った瞬間の激しい剣戟の音に、レオンは眉を寄せる。
「捜索隊の連中か?」
「行ってみましょう」
 駆け出すなり、ブーツが叩いた床ががらりと崩れた。
「うおっ!」
「足元に気を配った方がいい。花びらに埋もれていて分からないが、そこかしこに穴がある」
 アイオーンが指さしたのは、大きく破損した一部の壁や床だった。そこには下階があるはずだが、底は見えぬほどに深い。
「人間が作った建造物のような階層ですけど、見た目よりも脆いみたいですね」
「あっ……あれ!」
 アリルが指さしたのは、先ほどから何度も見かけたf.o.eだ。
 違うのは徘徊する姿勢ではなく、まるで威嚇するように大きく身を反り返らせていること。向き合うのは斧を構えた、赤毛のソードマンの少女。挟み込むように、ドクトルマグスの青年が杖剣を構えている。
「ガーネット!」
 青年は少女の名をがなる。だがそれに耳を貸した様子もなく、少女は雄叫びを上げながら魔物に斬りかかった。
「あああああああ!」
 それは金色の魔物―――“樹海の雷王”の脳天を撃つが、びくともしない。少女は角に絡み取られた武器を手にあがいていた。それを助けようとドクトルマグスの青年が魔物に迫るが、尾に弾かれて―――こちらに飛んでくる。
「わわっ!」
 慌てて彼の身体を受け止めたクルス。それと入れ替わりになるように、剣を抜きレオンは疾駆した。
「行くぞ!」
「レオン!?」
「アイオーン、援護頼む!」
 眼前では、魔物に振り払われた少女の身体が、崩落した穴の手前、床に叩きつけられたところだった。石のそれが大きく変形する。ひび割れの走った先を、雷王の太い脚が踏みつけた―――ぐらぐらと、足元が揺れる。
「くっ」
 雷王は、己を回り込むレオンを追うように向き直った。その長い尾は獲物―――気を失った赤毛の少女―――を守るかのように蠢いている。己の立つそれすら崩壊させるような重量をもって床に這いつくばり、桜の花を毟り尽くさんとする咆哮を轟かせる。
「ガーネット! ……っ、あなたたち」
 ノアと捜索隊が踏み込んできた。みしりと鳴る床。レオンは雷王に切っ先を向けたまま叫んだ。
「来るな、邪魔だ!」
「レオン!」
 クルスが体当たりしてくる。気の逸れた一瞬を狙って、鞭のように飛んできた尾先が、クルスとレオンの間を打った。一拍遅れて炎が走る。さらにその直後の闇を、ノアが駆け抜ける。
 彼女が向かったのはガーネットだった。少女の赤毛に指先が触れようとした瞬間―――その身体が宙に浮く。
「ノア!」
 アイオーンの反応は速かった。起動させかけていた術式を中断すると、精一杯に張った腕で、落ちていくノアの片手を捕まえる。床に叩きつけられ苦悶の表情を浮かべながらも、彼は手を離さなかった。
「離して!」
「馬鹿を言うな」
「ノアさん、アイオーンさんっ」
 ガーネットの傍に行き着いていたアリルが声を上げる。ぐったりと意識のない少女を抱え上げようとしているようだが、アリル一人では無理だ。
「仕方ないわねー」
 ルミネがそれを支える。
「おい、気をつけろ!」
 レオンとクルスは雷王の気を引きつけるのに必死だったが、目を覚ましたドクトルマグスの青年の声に、はっと足元を見る。
 魔物を中心として、床の崩落は部屋全体に広がっていた。
「くっ……」
 ドクトルマグスの青年を含めた捜索隊の面々は、既に近づくに近づけない様子でじりじりと後退していく。アリルとガーネット、ルミネの三人が寄り添うように孤立していく、その最後の床が、支えを失って一気に崩壊した。
「アリル!」
「これを使え!」
 レオンは自分の道具袋ごと、落ちていく彼女らに投げつけた。アリアドネの糸が入っているはずだ。
 一方で、魔物を挟んだこちら側―――つまりレオンとクルスの二人がいる床も崩れ出していた。口を開けば舌を噛みそうな揺れの中では、もはやアイオーンとノアの姿は確認できない。
 捜索隊は逃げたようだ。雷王は高く跳躍すると、捜索隊が後退した先と逆側の、安全な通路に着地する。
 レオンはクルスを見た。その顔は不安な表情を浮かべていたが、恐怖の色は見えなかった。
 頼むから死ぬなよ。
 身体が浮かんだ瞬間にやりと笑ってみせると、クルスも同じような表情で親指を立てた。
―――そっちこそ。

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17F

 未だぐらぐらと、覚束ない。
 揺れているのかと思ったが、揺れているのは自分の頭の中だけらしい。
「っつ~……」
 明滅する視界が落ち着いてくる。
 身を起こしたレオンの正面、火を囲むように座っているのはクルスとアイオーン、そして―――
「大丈夫?」
 言葉にしては淡白な声で、ノアが尋ねてくる。
 レオンは口角を歪めた。
「あんたに刺されたときよか、よっぽど元気だぜ」
「それは良かった」
 眉根を寄せて酷く不愉快そうに吐き捨てたそれに、レオンは溜飲が下がった思いで立ち上がった。薪に近づく。
「いてて……あれっ、四人だけか?」
「アリルたちは探したんですが……見つかりませんでした」
 あれほどの崩壊を起こして落ちた割に、瓦礫の数は少なかった。元々そう安定した構造でもなかったのだろう。またよく見ると桜の花びらが床を覆い尽くさんばかりになっていて、落ちたときのクッションとなったようだ。
「怪我ねーか」
「あなた……頭でも打った?」
「は?」
 驚いた様子で言われ、さすがに聞き返すと、ノアはぷいとそっぽを向いた。
「気遣いの言葉なんて言えるようになったのね」
「おまえは俺をなんだと思ってんだ……」
「まあまあ。ケンカはよしましょうよ」
 とりなそうとしているわりには消極的に、クルスは小声で呟いた。ぶすとしつつ、レオンは彼の隣に腰を下ろす。
「……で、糸は?」
「ない」
「ないわ」
「ありませんね。レオンは?」
「……ない」
 というより、先ほど道具袋ごとアリルたちに投げた。届いていればいいのだが。
 闇の落ちる頭上を、クルスが見上げる。
「捜索隊の人たちは大丈夫ですかね?」
「糸はたくさん用意してあるから平気よ」
「そのくせ、あんたは一個も持ってないわけだ」
「落下の際、どこかに落としたのよ」
「アリルたち」
 ぽつりとアイオーンが口にする。
「―――心配だな」
「確認できる限りこの部屋にはいなかったけど、壁の向こうか……近くにはいるはずだわ」
 アイオーンとノアの目が、レオンを見た。
 何を問われているのかに気づき、レオンは眉をひそめる。
「……きみでも、分からないか?」
 なるほど、自分が目覚めるまで、彼らが動かずにじっと待っていた理由が分かった。
 レオンは溜息を吐くと、重い口を開いた。
「分からん」
「レオン。それは……」
 確かめるようなクルスの口調に、レオンは観念して頷く。
「そうだよ。俺にはもう気配を読み取る“勘”がない。すぐそばにf.o.eがいようがアリルたちがいようが、全く分からないんだ」
 そこの女に刺されたせいだ、とは言えなかった。
 が、ノアは自ら言葉を紡ぐ。
「私のせいかしらね」
 レオンは否定も肯定もしなかったが、かえってそれが決め手となった。
 ノアは音もなく立ち上がると、焚火に背を向ける。
「何処に行くんだ?」
「私はクッククローじゃない。あなたたちに迷惑はかけられないわ」
「こんなところで単独行動なんて……」
 追いすがろうとしたクルスが、ちらとこちらを窺う。
 レオンは頭を掻きながら、舌打ちした。
「ノア」
 立ち上がったアイオーンが、ノアの肩を掴む。
 その義手を、ぱしりと彼女は払った。
「やめて。もう、私に関わらないで」
 アイオーンに向き直った彼女は、睨むように彼を見上げた。
「今度こそ懲りたでしょう? アリルもあなたたちの仲間も生きているか分からない。頼みの綱は私が切っていた。そもそも、あなたたちを巻き込んだのは私……」
「きみのせいじゃない」
「私のせいよ。復讐は私の意志だもの!」
 荒げられた声は震えていた。
 クルスははっと瞠目して、レオンを見た―――やがて視線はゆるゆると、気遣わしげなものに変わっていく。
 レオンはひそやかに、重く嘆息した。
「余計なお世話なの……どうして、私を探したり、したの」
「俺は、君を愛してる」
 ノアが息を呑んだ声が、はっきりと聞こえた。
 固い声を―――和らげるように、アイオーンはノアを見つめている。
「それでは、理由にならないか?」
 ぱちぱちと、火の爆ぜる音。
 しばらくあいた空白ののち、アイオーンがふとこちらを向いた。
「レオン」
「お、おう」
「わだかまりは残るだろうが、彼女は俺が監視する。一緒に行動してやってくれないか」
 肩を竦めて、短くレオンは応じた。
「まあ……三人より四人の方が生存率は上がるしな」
「……ノア」
 俯いていたノアの肩がぴくりと震えた。
「焚火に戻ってくれ。……協力して、アリルたちや遭難者を探そう」
 炎の赤が照りかえる。
 ノアは黙していたが、やがて言われるがまま元居た場所に腰を下ろした。


 灯りひとつない暗闇を見上げ、ルミネは人知れず嘆息した。
 この高さを垂直に落ちて、よくもまあ生きていられたものだ。鈍痛の続く身体を支えながら立ち上がる。じくじくと苛む痛みは全身にあったが、動けぬほどではない。
 そして足元の―――腐り、濁った毒の床に髪を散らす少女を見下ろした。
 碧眼は閉ざされてはいるが、死んでいるわけではない。身体のあちこちに擦り傷がある。傍にあった桜の木の枝が衝撃を和らげたのだろう、ぽきりと折れてしまっていた。
 桜の木の傍にもう一人、赤髪の少女が倒れているのを見つけた。こちらも生きているようだ。頭を打っていないかどうかまでは、確認できないが。
 それはこちらの少女も同じだ。
 苦しげに歪む表情。
 このままでいれば、やがて毒に浸食されてしまうだろう。
 ルミネのほかに、立って息するものはいない。
 どうする?
 冷たく腹に帯びられた選択肢。
「ん……」
 少女の瞼がぴくりと痙攣する。
 ゆっくりと開いた碧に、ルミネの表情はいつもどおりの笑みで映った。


「どうして助けた?」
 意識を取り戻した赤髪の少女は、そう言った。
 アリルは黙々とこのソードマンの娘―――ガーネットの手当を進めていた。解毒剤は飲んだが、落ちた時の衝撃が抜けきれぬらしい。苛む頭痛に耐えながら、ようやっとアリルは口を開く。
「助ける、って?」
 ガーネットは虚ろに呟く。
「あのまま、放っておいてくれれば良かったのに」
 気の利いた返し言葉も思いつかずに、アリルは再び黙り込んだ。
 床の損傷がひどいため、アリルの白衣を敷いた上に横たわるガーネット。傍らのアリル。二人の背後に在る桜の木、もたれかかり目を伏せるルミネ。
 その向こうにある、亡骸。
「運が良かったわねー」
 にっこりと微笑みすら浮かべながら、ルミネは木から身を起こした。
「―――打ち所が悪ければ、彼のようになっていたかも」
「ルミネさん!」
「……っ」
 ガーネットは大きく目を見開くと、両手で顔を覆った。
 声は漏れない。必死で泣くまいとしているかのように、彼女は振り絞る。
「ディー……ッ」
「さあて」
 こともなさそうに、ルミネは尋ねてきた。
「アリルちゃん、アリアドネの糸は持ってるー?」
「え、っと……」
 レオンが投げてくれた道具袋を開ける。糸は一本だけ確認できた。
「一つなら。でも、ガーネットさんはギルドが違いますから、みんなで脱出するのは……」
「そう。私も持ってないしー……ガーネットちゃん? あなたは持っていないのー?」
 顔を伏せたままのガーネットは、ルミネの質問はおろか、自分の殻に閉じこもるように身を縮めた。その様子を見て、ルミネは小さく肩を竦める。
「もー仕方ないわね」
 言いつつ、つかつかと歩み寄ると―――ガーネットの胸倉を掴んで、その頬を張り飛ばした。
「ちょっ、ルミネさん!?」
「目、覚めたー?」
 呆然と赤くなった頬に触れるガーネットを引き寄せ、再度ルミネは片手を振り上げる。
「まだなら、もう一発―――」
「や、やめてくださいっ!」
 慌ててその手に組み付くアリル。
「あなたがここで死のうが死ぬまいが、知ったこっちゃないのよー。でも私たちを巻きこむのはやめてちょうだい」
「だっ、たら、置いて、いけばいい、だろっ!」
 ルミネに手放され、ガーネットは咳き込みながら応じた。
 やれやれ、とルミネはかぶりを振る。
「それもそうねー」
「ルミネさん……?」
 あっさりとガーネットから離れたルミネは、身支度を整え始めた。
 ガーネットは俯いたまま動かない。
 おろおろと二人を見比べていたアリルに、ルミネは告げた。
「糸を使ってー」
「そ、そんな……出来ませんよ」
「どうしてー?」
「どうしてって……」
 ルミネの目が、笑みではない形に細まる。
「その子を連れ帰って、あなたが面倒を見られるの?」
「え……」
「見たところ、そこの“彼”がその子の保護者だったんでしょう? あなたが“彼”の代わりになれるのかって訊いてるの」
 アリルは黙り込んだ。
 沈黙を許さぬというように、差し出されたルミネの手が糸を強請る。アリルはぱっと顔を上げると、彼女を見据えた。
「レオンたちも、この階のどこかに落ちてしまったかもしれないです」
「そうねー」
「私たちの薬や体力にもまだ余裕があります……それに、少なくともクッククローの三人は糸を持っていません」
「……そうね」
「でも、みんなとはそう遠くない位置で床が抜けましたから、この階で合流できる可能性は高いと思います」
 ここでアリルは、ガーネットを振り返った。
「ガーネットさん」
 無言が返る。アリルは諦めずに呼びかけた。
「その。何だったらここにある糸を使って、脱出してください」
「……どうして、そこまでわたしを?」
 不審げ、というより単純に不思議そうに、ガーネットが顔を上げて首を捻る。
 アリルはごまかすように苦笑を浮かべた。
「だって……もし私がガーネットさんの立場なら、大事な人、街に連れて帰ってあげたいもの……」
 ガーネットの大きな瞳がより見開かれる。
 アリルは彼女の傍に道具袋から取り出した糸を置き、白衣を着ると、再びルミネに向き直った。
「行きましょう」
「合流できることを祈るしかないわねー」
 石畳に冷たく響いた言葉に、アリルは身を竦ませる。
「……ごめんなさい」
「いいわ。けれど、私はあなたの命に責任はもたないわよー」
 アリルは無意識に、鞄につけたアクセサリに触れた。
「はい」
 闇の落ちる通路へと一歩踏み出す。
 まるで祈るように握りしめた、海の守りの貝殻が、アリルの手に食い込んだ。


 腐りかけた花びらの沼を靴裏で食みながら、ルミネとアリルは歩を進める。
「妙に静かねー」
「……そうですね」
 きょろきょろと不安げに辺りを見渡して、アリルはかすれた声で応じる。
 見えぬ何かに怯える様は、年相応の少女そのものだ。おおよそ樹海をここまで登り詰めてきた冒険者の横顔ではない。
 守られ続けて、彼女はここまで来たのだろう。
 ルミネは何気なく問うた。
「あなた、誰かを助けられなかったことはあるー?」
「えっ?」
 こちらを向いた碧眼を覗き込みながら、ルミネは質問を重ねた。
「目の前で誰かが死んでしまったこと、ある?」
「……樹海では、ない、です」
 そうでしょうね、とルミネは納得した。
 目の前で人が死んだら。
 それが例えば行方不明の三人の誰かでなくとも、先ほど別れたあの少女でも、この子はもう二度と樹海に潜れなくなってしまうだろう。
「ルミネさんは……」
 恐る恐る―――だが、はっきりとした口調でアリルは言った。
「ルミネさんは、あるんですか? 誰かを助けられなかったこと……」
「腐るほどあるわねー」
「……腐るほど、ですか」
「ええ」
 心が、信念が、腐るほど。
 ルミネは微笑んだ。
「さっきのあの子。“どうして助けた?”の意味、分かってるー?」
「それは、リーダーさんが亡くなったから……」
「あの子の中でそれが予想出来ていたのなら、あの子はそれを確認しに樹海へ来る必要もなかったはずよ。……彼の死は理由の一つでしょうけど、全てではないわねー」
 アリルは八の字に眉を下げて、ルミネを見つめている。ふと唇を緩めて、ルミネは正解を答えた。
「あの子は自分の生きてる意味が分からないの」
「生きてる意味、ですか……?」
「そうよ。あの子は彼がいなくなってしまえば、独りなの。自分一人が生き残る意味が、分からないの」
「そんなこと、考えたこともない……」
 訝しげにかぶりを振るアリルに、ルミネは言った。
「考えなくていい人たちは幸せねー」
 そして、足元に落ちている小石を拾う。
「生きてる意味が、意識しなくてもあるってことだから」
「……でも、そんなの、寂しいわ」
 赤毛の少女の面影を思い出してか、アリルはぎゅっと鞄の裾を握りしめる。
 それを一瞥し、ルミネは視線を巡らせた。
「そうねー。でもそんな人間、世間にはたくさんいるわー」
 何にもない人間。
 生きている意味がない人間。
 その中でも救いようがなく底辺にいる。
「彼らを全員救うことなんて不可能よー」
「助ける命を取捨選択しろって……そういうことですか?」
「そうなるわねー。特に、最後の綱となる私たちは」
「そんな」
「あと」
 ルミネは抜刀した。
 大きく見開かれるアリルの碧眼。その頬を掠めて、ルミネは刃を突き立てる。
 か細い息が漏れるのは、カマイタチの喉からだ。それを掻き切るように剣を引くと、蹲るアリルの悲鳴をよそに、ルミネは旋回していく二匹目―――七色テントウを追う。
 振り抜いた剣先をひらりと避け、魔物は体当たりしてくる。
「ルミネさんっ!」
 転倒するには至らない。ルミネは仰向けに魔物の腹の下に潜り込むと、柔らかいそこに刃を走らせた。
 けたたましく耳朶を打つ断末魔。返り血のような何かがどろりとドレスに零れる。剣を振って魔物を落とすと、ルミネは溜息を吐いた。
「言ったでしょー、あなたの命に責任はもたないって」
「あ、ありがとう、ございます」
 怯えているのかと思いきや、アリルはただ驚いただけだったらしく、不安げながら落ち着いた様子で息を整え始める。
 ルミネはぴんときた。
 この子は守られ慣れているのだ。
「……さっきの“彼”」
「え? あ、はい」
「死因が何か分かってるー?」
 アリルはきょとんとしていたが、虚空に忙しなく視線を動かしたのち、答えた。
「転落死、です、よね……全身打撲の……」
 ルミネはこれ見よがしに深々と、嘆息した。
「後半は正しいけど。いくらなんでも一階分落ちただけじゃ、ああまでならないわー。もしそれが原因なら私たちもぐちょぐちょのぐしゃぐしゃよ」
「じゃあ、何なんですか」
 少しむっとしたように返すので、ルミネは言ってやった。
「魔物に決まってるでしょう。彼は魔物との戦闘に敗れて死んだ。近くに破損した武器や道具が点在していたし、加えてあの部屋の破損具合」
「あ……」
「恐らく一緒に転落したであろう、彼のパトロンを逃がすため戦ったんでしょうねー。見て」
 先ほど拾った小石を、ルミネは掲げた。黄色にわずかながら発光する、塗料が塗られている。
「パトロンさんが落としていった目印よ。さっきの岐路にも同じ石があったから、こっちの道を選んだの。お分かりー?」
 アリルは言葉もない様子で、ルミネから受け取った小石を凝視している。
 ルミネは踵を返し、進む予定の道に戻っていく。アリルが慌てて追ってきた気配がしたので、こう呟いた。
「メディックである前に、冒険者だという自覚を持ちなさいねー」
 しゅんとしていたアリルはごく小声で「はい」とだけ答えた。


 壁の割れ目は、甲冑をした片手でまさぐれば、すぐに人が通り抜けられるほどの大きさの穴に成長した。
「アイオーンさん」
 見張りをしていた彼に、クルスは呼びかける。
「やはり、抜け道です」
「そうか……」
 それを書き足した地図をアイオーンから受け取り、クルスは眉を寄せる。
 抜け道は自分たちが行きに登ってきた、正規のルートに繋がっていた。それは、引き返せば樹海磁軸に至ることができるであろうことを示していたが―――同時に。
「くそ、こっちも駄目だ」
 苛立たしげに早口に、奥の通路の先を見に行っていたレオンが吐き捨てた。
「行き止まりですか」
「ああ。……十七階で足が伸ばせる範囲に、アリルたちはいねえってことだ」
 瓦礫の上にどかりと腰を下ろし、レオンは膝の上で手を組んだ。
「―――地図は?」
「上下の階構造から照らしあわせると、十七階の西半分がまだ埋まっていない。ただ……君の言うとおり、俺たちが今いる通路から、未踏部分には行けないようだ」
「ではもう一度十八階から降りる階段を探すか―――」
「そんな身体で?」
 口を挟んだのはノアだ。
 クルスはぐっと、続けるはずだった言葉を飲み込む。
 応急処置を施してはいるが、不意打ちからの落下の衝撃、数回の戦闘を経て、クルスの半身は限界を訴えるようにじくじくと痛んでいた。無理をすれば戦えないことはないが、その無理が今後どういう形で後遺症となり得るのか。クルスたちでは判断できない。
 クルスの足下で身体を休めていたアイオーンが、何か言いたげに身をもたげ、痛みにか蹲る。彼も先ほど七色テントウの体当たりを受け、身体を強かに石畳に打ちつけたところなのだ。
「引き、返すのか?」
 ようやっと絞り出されたアイオーンの声が、向けられた位置にはレオンがいた。
 彼はじっと自分の組んだ手を見つめている。
「俺は……」
 言葉はそこで途切れた。
 長く息をつきながら、レオンは顔を俯かせる。
「レオン……」
 何よりもアリルたちの手がかりが途切れたことに、彼は深いショックを受けているようだった。
 クルスも手詰まりやもどかしさを感じていないわけではないがそれよりも、レオンに対する動揺が勝っていた。思えば探索中に、彼がこれほど平静さを見失っている様を目にすることなど、今まで一度たりともなかっただろう。
 そしてそのただ一度を目の当たりにしただけで、これほどまでに心が委縮するなんて。
―――クルスは沈降する気持ちを振り払うように、かぶりを振った。
「どうしますか」
 進むか、戻るか―――決めなければならない。
 だがその決断を下すのはクルスではない。複雑さが首をもたげるが、クルスはそれを押さえつける。これが今まで培ってきた、クッククローのあり方なのだから。
「決めて」
 固い、しかし冷たくはない声でノアが言った。彼女も目こそ伏せているが、クルスには分かる。
 クルスと同じ葛藤を、彼女も抱えている。
「―――私も、あなたに従うわ」
 責を負うべきレオンは、まだ、顔を上げずにいる。


 スニーカーの靴底が、不愉快な鳴き声を聞かせてくる。
 アリルは上がる息を意識しながら、必死に後ろを振り返った―――それに気づいた後方のルミネが叱咤の声を上げる。
「走りなさい! 死にたいのー!?」
 彼女らの背後から覆いかぶさるように食指を―――否、触手を伸ばすのは“幻惑の飛南瓜”だ。予感すらさせずに突然現れたこのf.o.eは、こうしてただ奇々怪々な音波を飛ばしながら追いかけてきている。
 ここに至るまでにも、遺体を見つけた。知っている顔ではなかったが、ニヴルヘイムの一行の一人だろう。
 柱の後ろに隠れ、アリルは激しい息をつく。弱った身体と心に、ルミネの言葉が追い打ちをかける。
「もう駄目かもしれないわね」
 弾かれたように顔を上げたアリル。
 ルミネは無表情に続けた。
「私たちの残りの、三人も」
 顔を出した“幻惑の飛南瓜”に、逃走が再び開始される。
 それを追いかけてくる、人が耳にするにはあまりに不快な音響。身も竦む恐怖。スニーカーの音。
 止めぬよう必死に動かしていた足が、花びらに滑った。
「きゃあっ!」
 転倒したアリルの首根っこをルミネが掴む。女性とは思えない力で支えられて背中を押され、アリルはいきおいのままよろよろと前方の壁に手をついた。
 そこに、光が走る。
 覚えがあった。先ほども、カボチャがいる迷路に入り込む際、同じような光を潜ってきた―――
 アリルは振り返る。そこにあった背中に手を伸ばすが、光に目を奪われた後、触れたのは壁だった。
 あの光は壁を通り抜けさせるための印だったのだ。
 しかし今、こちら側からあの光紋が宿ることはない。一方通行なのだ。アリルは血の気が引くのを感じる。
「ルミネさん、ルミネさんっ!」
 彼女はアリルが転送壁の向こうに移動したことに気づいていない。あのf.o.eを前に、壁際に追い詰められたとしか思っていないだろう。そして壁のこともアリルがその向こうにいることも、アリルから伝えることは出来ないのだ。
 必死に壁を叩いて名を呼ぶアリルの耳に、獣の唸り声が届いた。アリルははっと視線を巡らせるが、夜も深めた闇の奥には何も見いだせない。
―――今魔物に襲われれば、終わりだ。
 足から力が抜ける。ずるずると壁を這う白衣も気にせず、アリルはその場にしゃがみ込んだ。
 レオン、クルスくん、アイオーンさん。ノアさん。
 ルミネさんすらはぐれてしまった。助けてくれる人はもういない。
―――自分だけ生き残ったところで、どうなるというのだろう?
 ルミネの言葉が鮮明に甦る。
 生きている意味なんて、あるんだろうか?
「……ちがう……」
 アリルはゆっくりとかぶりを振った。
 それでも。
「諦めちゃだめ、生きなきゃ……」
 自分に言い聞かせるように呟くと、震える膝を無理やり立ち上がらせる。同時に再び届いた唸り声。アリルは背にした壁に張り付くように、じっと息をひそめていた。
 やがて闇の内側から這い出す影がある。
 それは白い虎だった。といっても滑らかなはずの毛皮には血がこびりつき、足を引きずるように近づいてくる。
「もしかして、ニヴルヘイムの……」
 白虎は肯定するように、か細く喉を鳴らした。直後に聞こえた剣戟の音に、アリルは闇に再び目を向ける。
 この子の他にも生存者がいるのだ。
 胸に灯った希望を感じるとともに、アリルは壁を振り返った。ルミネならきっと、この壁のからくりに気づいてくれるだろう―――ここにいても自分の出来ることはない。そう判断して、アリルは鞄を引く白虎の案内のもと、闇のうちへと足を踏み入れる。
 現れたのは初めて見る白く大きな狼の魔物と、それに向かい合う年配の兵士。そして、壁に身体を投げ出してぐったりしている壮年の男性―――彼こそ、ニヴルヘイムのパトロンであり、かのギルドのリーダーが命を投げ出して守った人だろう。
「大丈夫ですかっ」
 そうでないのは一目で分かっていたが、間抜けな呼びかけをアリルはした。蒼白な顔色で男性はアリルを見上げる。灰色のコートをどす黒く染める腹部のそれから離した手を、震える腕を、彼はアリルに伸ばす。
「助け……か……」
「そうですっ、今すぐ処置を!」
「私の、ことはいい……早く、こ、こから逃げなさい」
 男性の訴えを無視し、アリルはすぐさま鞄から道具を取り出し処置を開始する。服を切り、傷を確認し、応急止血、点滴をする―――それしかできない。分かっている。
 それでもアリルは手を止めることができない。未だ止まぬ激しい戦闘の音。折れた剣で戦う兵士も傷だらけだ。援護する白虎もどこまでもつか―――それでも、アリルは男性を救う手だてを諦めることが出来ない。
 元より怪我の状態は、樹海で可能な救命の範疇を超えていた。命を長引かせることはできても、このままでいればいずれこの人は助からない。だが認めてしまったら、アリル自身の心のどこかが折れて、治らなくなってしまう気がしていた。
 汗をぬぐうアリルを、男性の瞳はぼんやりと見つめている。もう意識もないのかもしれない。そう思っていた矢先に、色を失った半開きの唇が動いた。
「娘に……」
「ダメ、諦めないで!」
 生き残ったあとのことなんて、アリルは知らない。
 たった一人で生き残ることは不幸かもしれない。だけど死んだら、そこで終わってしまう。
 生き残った者にしか、幸せは来ないのだ。
 不意打ちに浴びた火矢を避け、f.o.eが天井に開いた穴から逃げていく。必死に傷口を圧迫止血するアリルの手に、手袋をした手が重なった。
 はっと顔を上げたアリルの目に、ノアの微かな笑みが映った。
「ノア、さ、ん」
 涙でじわりと視界が歪む。
 アリルの手をはぎ取って、大きな掌がガーゼを抑えた。
 レオンだ。
「まだ生きてるな」
「先に出てもらいましょうかー」
 レオンから怪我人を受け取る兵士を覗き込んだ、ルミネが背後を振り返った。
 赤髪の少女―――ガーネットがそこに立っていた。
「どう、して」
「いいから、糸だ」
 レオンがニヴルヘイムの面々に呼びかける。隻眼が、アリルの両肩を支えるノアを見た。
「あんたも」
「私はニヴルヘイムに所属していないから。あなたたちと一緒に行動するわ……地図によれば、そこの通り道は磁軸の道へ繋がっているようだし」
 ノアが指さした細い通路の奥には、一方通行の光紋があった。
 彼女が持っている地図はクッククローのものだ。アリルは辺りを見渡す。
「クルスくんとアイオーンさんは? 一緒じゃないの……?」
「あいつらは先に戻らせた」
「安心して、無事だから」
 口々に言うレオンとノア。ルミネが怪訝げに眉を寄せる。
「あなたたち、二人だけでここまで?」
「詳しい話はあとだ。俺たちも脱出するぞ」
 アリアドネの糸を使うニヴルヘイムを見送ると、レオンは光の漏れる道筋を指した。


 レオンたちは四人で行動していたが、磁軸に繋がる道に戻った際、二手に分かれたそうだ。怪我を負ったクルスとアイオーンの二人を先に帰して、レオンとノアの二人は再び十八階から、十七階に降りたのだという。
「ノアはレンジャーだからな。少人数で、魔物から身を隠しながら進むのはそう難しいことじゃなかった」
 薬泉院で手当てを受けた後、待合でレオンはそう語った。前衛のくせに、四人の中ではノアに次いで軽傷な彼はよほど頑丈なのだろう。
「それにしてもよく、あなたたち二人だけで行動できたわねー」
 そう言ってやったルミネに、レオンは渋面を作る。
「……何だ、知ってたのか」
 ノアがレオンに危害を加えた前科があることを。
「ええ。アリルちゃんに聞いて」
「……目的は同じだったからな。おまえらの救出」
 自分の命を狙っている相手を、よくもここまで信頼できるものだ。
 優しさなのか甘さなのか、ルミネは溜息をつくことでその呆れを逃がした。その油断のせいで刺される羽目に陥ったのだろうということは、指摘しないでやろう。
「それで、十七階に降りる際にガーネットちゃんを見つけた?」
「おまえらが先に進んだ話もそこで聞いた。……あとは、おまえの知ってる通りだ」
 f.o.eから逃げるようにルミネと合流し、その後、ニヴルヘイムと共にいたアリルを助けた。
 昼も近い時間帯になって、薬泉院はようやく落ち着きを取り戻し始めていた。ルミネたちがひそやかに言葉を交わす待合にも人が減ってきている。二人は会話の合間に周囲を見渡すと、立つお互いの正面にあるベンチに座し、俯いたままのアリルに同時に目を落とす。
「おい」
 薄汚れた白衣の肩が、ぴくりと震えた。
「いつまでそうしてる」
 答えは返らない。
 レオンは探るようにルミネを見たが、ルミネはそれを無視して歩き始めた。二人を置いて離れ―――レオンが諦めたように再びアリルに視線をやったのを確認すると、ルミネは二人の死角になるように、柱の陰に移動する。
「おまえのせいじゃない」
 下を向くレオンの声は、先ほどよりも柔らかかった。
「……レオンは」
 小声が尋ねる。
「レオンは……だれかを助けられなかったこと、ある?」
 舌足らずに震える言葉。
 沈黙。ややして、レオンは言葉を返した。
「ある」
「大事な人を、なくしたことは?」
「……ある」
 レオンは答えた。
 ルミネは人知れず息を呑む。
 空白が落ち、その間にアリルの隣に腰を下ろしたらしいレオンは、ゆっくりと言葉を続けた。
「でも俺まだ生きてるだろ」
「……うん」
「生きてるってことは、まだ生きなきゃならないってことなんだよ」
「死んだ人の、ために?」
「違う。自分のために」
 柱から覗いたレオンは、アリルを真っ向から見据えていた。
「……でなきゃ、何人も死なせてこれるもんか」
 ルミネは柱から離れた。
 レオンの言葉が耳朶を打つが、音をひそめて歩き去る。
「おまえらが無事でよかった」
 そこに己が含まれていることに、顔をしかめながら。


 行方不明になっていた間の諸々や、なった後の諸々。それらを処理していたら、いつの間にかまた夜になっていた。
 ノアは冒険者たちがよく足を運ぶという、酒場を訪れていた。こんな雑多な喧騒に身を置くのは随分久しぶりに感じて、懐かしさに目を細める。
 目当ての男はすぐに見つかった。ひとりで奥の席に座り、錬金術で使う触媒をテーブルの上に広げて、その数を数えている。
「待たせて、ごめんなさい」
 声をかけると、柔らかい瞳が返った。
「いいや」
 小さな丸テーブル越しに彼の正面に座すと、彼の方から話が切り出された。
「ニヴルヘイムのことは……残念だった」
 死者は結局、一人増えることとなった。
 ノアはかぶりを振る。
「感謝してるわ。あなたたちの協力がなければ、助かった命も助からなかった」
「……これから、彼らはどうするんだ?」
「ニヴルヘイムとしての活動は、しばらくなくなるでしょうね。私とあの人の隊……国の命令で派遣された兵士たちもすっかり戦いてしまって。使いものにならないと、国へ送り返すつもりよ。そちらの方が、いいでしょう」
「君は?」
 ノアは小さく微笑みを浮かべたが、彼の目を見ることはできなかった。
「―――君もまた、いなくなるのか?」
 重ねられた質問に、胸が締め付けられる。
 何もかも放り出して、今テーブルの上にある、彼の手を取れたらどれだけ良いだろう。だがそれは出来ない。自分で選んだ道だ。
 自分が犯してしまった罪が、どうして禍根を残さずひとりでに消えるだろう。
「アルマが落ち着くまで、ここには残るわ。それに……まだ、決着をつけなければならないことも残っている」
 テーブルの下で握りしめた無骨な柄が、指に食い込んでいる。
「俺も行こうか」
「いいえ」
 ぴしゃりとノアは断った。
 これはあの男と私の問題だ。
「……何が起こっても、私以外の誰も責めないで」
「ノア」
「アイオーン」
 名を呼び、ノアは彼を見た。
 真剣な目が自分を映している。ああ、これが過ちを正す決意を支えるものでなくてなんだろう?
「愛してると言ってくれたとき、嬉しかったわ」
 自分から彼の義手をなぞり、離すと、ノアは席を立った。


 フロースの宿へ帰る道すがら、目に入った人影に、レオンは立ち止まる。
 独りで歩いているところを見つけて先回りしていたのだろう。
 ノアは背を預けていた街灯から身を離すと、手に持っていた短剣を無造作に、レオンの足元へ投げた。
 丸腰のノアは無表情だ。
「……何のつもりだ?」
「私の復讐は終わった」
 顎を引き、ノアはレオンを見つめている。
「―――私は犠牲にした部下たちを置き去りに、この先生きていくことを決めたの。だから、これはあなたへのけじめ」
「刺した分刺し返せってか?」
「あなたにはその権利があるわ」
 切れ長の紫の瞳には覚悟がにじんでいた。
 短剣を拾い上げながら、レオンはそれを、鼻で笑う。
「要らねえよ、んなもん。俺が“はいそうですか”と使うと思ったか?」
「いいえ」
 あっさりと、しかし厳しい顔つきで、ノアは答えた。
「―――今のあなたなら。……でもエトリアにいた頃のあなたなら、私が短剣を持っていることに気づいた時点で、自分の剣を抜いていたでしょう?」
 その言葉に、レオンは虚を突かれて目を丸くする。
 彼の手から短剣を受け取り―――むしろ、力の抜けたそれから勝手に抜き取っていった―――ノアは続ける。
「私が復讐をやめる決意をした理由は二つある。一つは今言った、私自身の未来のため」
 じんと沁みるような静けさが、声を響かせる。
「もう一つは、あなた自身が変わったためよ」
 ノアは疲れた様子で髪をかき揚げた。
「自分のこともそう、周りの人間に対しても、あなたは随分変わったわ」
「……そう?」
「ええ。そしてその一因にあの子がいるからこそ、私はあなたを殺さないと決めた」
 ノアは、話は終わりと言わんばかりに背を向けた。だがすぐに立ち去る様子はない。
 レオンは返事を投げた。
「とりあえずはなかった事にしてやる。アイオーンたちに免じてな。だが、次は知らん」
 ノアが首だけで振り向いた。口許が、薄い笑みを湛えている。
「次、ないといいわね」
「そうだな」
 こちらも、口角を上げて応じた。


 “無事で良かった”なんて、私の前では一言も言ったことないくせに。
 みっともない嫉妬かもしれないが、不思議とルミネの気持ちは上向きだった。肩の荷が下りたような気がしたのだ。それは彼に、彼自身が、“生きてて良かった”と告げたのと同じ意味だから。
 彼がルミネ一人を助けたあの日から、ずっと思い続けてきたことがある。
 私が彼の命を救ったことを、彼は恨んでいるのではないだろうか、と。
 生きている意味が見いだせない。それは未だに彼は考え続けていることだろう。ああ見えて彼の悩みは深いのだ、今回パーティを分断されて、手の届かないところであの子が死ぬ恐怖を味わったせいで、また何か考え込んでいるに違いない。
 だがそれとは別のところで、彼は己を、そして他人を生かすことに躊躇はしない。
 己と同じ目に遭わせるために、復讐のためにルミネを助けたわけではないのだ。
 生き残ることは未来を見据える決意に繋がる。
 どれだけ打ちのめされようと、生きている限り生きなければならない。
 死を逃れた者だけに許された未来にあるはずの―――生きている意味の存在を信じて。
 彼もまた信じているのだ。だから生き、誰かを生かすのだろう。
―――ああ今日も、生きていてよかった。
 ルミネの心は晴れやかだった。
 これを最後と見送った彼の背中は、私の気づかぬところで確かに、私を振り返っていたのだから。

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18F

―――コユキ。
 低い柔らかな、大好きな兄者の声。
 降りてくる大きな掌が、幼いコユキの頭を撫でる。
 兄者が微笑む気配がした。
―――コユキ、おまえには。
 額を覆う指が、食い込んだ。

 おまえには、人を殺す覚悟があるか。


「武芸大会?」
「そう。おまえらも出るんだろ?」
 棘魚亭の亭主の物問いに、レオンは眉を上げて応じた。
「出ねーよ。ってか何それ」
「おめーら冒険者のくせに、武芸大会知らねえのか!」
 亭主は目を真ん丸にして仰け反った。
 その様を横目で一瞥したコユキが口を挟む。
「この国で年に一度行われる春祭りであろう」
「お! 嬢ちゃんよく知ってるねえ。さては―――」
「前座に出ろと依頼された」
 渋い顔で応じたコユキに、レオンが首を傾ぐ。
「前座ァ?」
「武芸大会の前に、何日か雰囲気を盛り上げるためにいろんな前座をやるんだよ。おまえら冒険者の中でも、ブシドーは異国の剣術を使うだろ?」
 亭主の説明に、レオンは納得して頷いた。
「あーなるほど、パフォーマンスってか」
「無論、断り申した」
「ええっ」
 何故か今度は身を乗り出す亭主。
「―――参加するだけで報酬が出るんだぜ? 何だってこんなウマい話を……」
 ぎろりと睨めつけ亭主を黙らせると、グラスを煽り、コユキは席を立った。
 扉を抜ける直前で足を止めると、指先で軽くそれの柄を叩いてみせる。
「この刀、見世物に使う気は毛頭ござらん」
 呆然と閉じる扉を亭主と眺めていたレオンは、ぽつりと呟いた。
「少しはギルドの財布に貢献して欲しいもんだ……」
「あのお嬢ちゃん、腕前の方はどうなんだ?」
「コユキは強ェぜ」
 肩をすくめて、レオンは続ける。
「―――ただそういう問題じゃねえらしい」
「ブシドーってのはよく分からん連中だな。……お、そういやおまえらの顔見たら言っておこうと思ってたことがあったんだ」
「?」
 店にはまばらだが人が入っている。亭主は声をひそめた。
「最近になって、モグラ狩りが始まったって噂だ」
「冒険者の?」
 なら、ギルドに所属しているクッククローには無関係だ。
 亭主はかぶりを振った。
「いや、情報屋だ」
「……ああ……」
「一番でけえ情報屋ギルドでちょっとした内紛があってな。ギルドから離れた奴も少なくないらしい。勿論、ギルドとしちゃあ情報を持ったままフリーになられたんじゃ、ギルドの立つ瀬がねえ」
「そいつらを潰して回ってるってことか?」
「それだけならいいんだがな、とばっちりも出てる。おまえんとこにもいたろ。あの……吟遊詩人の。気ィつけろよ」
 イーシュのことだ。
 レオンは彼の副業である情報業についてほとんど何も関与していないので、彼が件のギルドとどういう関わりを持っているのかも知らない。が、そちらの方面ならレオンより詳しいであろう亭主が言うなら、確かに注意が必要なのだろう。
「分かった。伝えておく」
「ったく。このところずっと物騒なことにもなってるみたいだからな……おまえらも、危ない橋ばっか渡ってんじゃねーぞ」
 ぶっきらぼうな言い回しだが、心配してくれているのは伝わって、レオンは苦笑した。
「善処はするよ」


 宿に戻ったコユキは、フロントで勉強していたクルスとライの二人が手を止めて、階段そばの様子をじっと窺っているところを見つけて立ち止まった。
「何をしておるのじゃ?」
 背後のコユキの存在に気づいた二人は、慌てたように人差し指を唇の前に立ててくる。
 訝りつつも彼らの後ろから階段の向こうを覗くと、イーシュと、見知らぬ女の姿を見つけた。
 楽しげに語らう二人の様子に、コユキの胸がずきんと痛む。
「……あのおなごは?」
 返事に躊躇ったようなクルスをよそに、ライがあっさり答えた。
「前にさ、恋人の仇を討ってくれって依頼を出してきた人だよ。立ち直って公国の軍楽隊に入隊したんだけど、イーシュくんがその隊の手伝いをしたらしくてさ、そのお礼に」
 じゃーん、とにやけたライが持ち上げたのは重そうな包みだ。
「ケーキだってよ。ギルドのみなさんでどうぞって! いい人だよな~イーシュくんがついつい面倒みちゃうのも分か―――」
「ライ」
 ぼすとクルスがライの口を手で塞いだ。もがもが文句を言うライをそのままに、彼はコユキを窺う。
「コユキさん……」
 気遣うような視線に不快を覚え、コユキは鼻で笑った。
「出来たおなごじゃのう」
「あ、コユキちゃん。おかえり」
 いつの間にか、イーシュと女性はフロントにまで移動していた。どうやら女性はもう帰るらしい。
「ねーちゃん、また来てよ!」
「ラーイー」
 ケーキの包みを持ち上げて囃すライに、女はくすくすと笑って会釈した。
 イーシュが尋ねる。
「ね、レオンがどこにいるか知らないかい?」
「リーダーなら出てったきり戻ってねーなあ」
「棘魚亭じゃ」
 コユキの返答に、イーシュは眉を下げる。
「亭主さんとまとめて用があったから丁度良かったけど……でも困ったなあ、逆方向だ」
「わ、私一人で帰れますから」
 どうやらイーシュは女を送ろうとしていたらしい。慌ててかぶりを振る女に、イーシュは大げさに両手を広げた。
「もう日も暮れちゃったし、冒険者街を一人で歩くのはオススメしないよ。ましてや君みたいな綺麗で若い女性が!」
「あ、では僕が」
 立候補しようとしたクルスを、ライが掴んで止める。
「おい、クルスくんがいなくなったら誰がおれの勉強見んだよ」
「で、ですが」
「拙者が送ろう」
 沈黙が落ちた。
 目を丸くしているのはクルスたちばかりではない、女に向き直り、コユキは尋ねる。
「拙者では不服か?」
「い、いえ……みなさんにご迷惑をおかけするわけには」
「イーシュ殿も仰るように、近頃このあたりは物騒じゃ。拙者も食前の散歩にはちょうどよい」
「でも、あなたも」
 女性では、と続くはずだったろう言葉を、コユキは刀を掲げて制した。
「……そこいらの男に引けはとらぬ」
 クルスとライが顔を見合わせる。


 結局女性が折れ、イーシュが何も言わなかったことで、コユキは女と連れ立って、どんよりと重い夕暮れの雲の下を歩くことになった。
 会話は特にない。気を使った女が二三言話しかけてきたが、こちらも二三言返して終わってしまった。
 赤茶けた古いタイルの坂道を、コユキは草履で撫でながら下っていく。
「あの」
 また女が口を開いた。
 いい加減コユキの反応がないことを学んでか、女はそのまま続けてくる。
「イーシュさんって、どんな冒険者さんなんですか?」
 質問の意図するところがよく分からないなりに、コユキは答えた。
「どう、と言っても。おぬしら楽隊と同じであろう。仲間を鼓舞する役目じゃ」
「そうじゃなくて……」
 女が付け加えるには、こうだ。
 女の恋人とイーシュは知り合いだった。しかしそう親しい仲というわけでなく、仕事仲間といった感じだったらしい。情報のやりとりをしていた。イーシュが女に接触したのだって、恋人から死の直前に受け取るはずだった手紙を、ただ取りに来ただけだったらしい。
「なのに。私が立ち直るまで、あの人はしきりに現れては励ましてくれたんです」
 街灯に照らされた横顔に、コユキはまた、胸に疼きを覚える。
 何なのだろう、これは。
 もやもやとした不快さは、ぴんと張られた糸に引っかかった“それ”により掻き消えた。コユキは大きく首を巡らせると、ある一点を睨みつける。
「どうしました?」
 暗闇の落ちる、家と家の隙間。
 立ち止まったコユキの視線が逸れぬと判断してか、彼らはそこから姿を現した。黒づくめの男が三人。いずれも獲物を抱えて、コユキと驚く女以外に人通りのない道に、立ちはだかるように並んだ。
「そこの女を置いて行ってもらおう」
「何が目的じゃ?」
「お前が知る必要はない。痛い目に遭いたくなければ、除け」
 コユキは溜息を吐く。
 女を守るように前に立ち、刀の柄に手を添え、脚を開いた。
「ならば、力ずくで吐いてもらおうか」
「あ、あの」
 凍りついていた女が呼びかけるのに、コユキは邪険に応じた。
「さがっておれ」
「小娘、用心棒か?」
「……左様」
「なら」
 黒づくめの一人、リーダー格と思しき男が袋を投げた。コユキは身構えたが、地に落ちた重そうなそれから溢れたのは、金貨だ。
「―――そいつをやろう。代わりにその女をよこせ」
 女は目を見開くと、怯えたようにコユキを見た。
 コユキは再度、嘆息する。構えは解かぬままだ。
「愚かじゃな」
「何? 足らんか、冒険者を雇うには十分すぎる額だろう」
「……分かっておらぬの」
 コユキは鼻を鳴らすと―――冒険者の顔で、嗤った。
「そのような汚らしい金は“落としもの”として処理するのが、賢い冒険者というものじゃ」


「何じゃ、他愛のない」
 結局一度も鞘から刀を抜き放つことのないまま。
 コユキは、ノびた黒づくめどもの山に腰かけていた。
 ぽかんと口を開け、目をぱちくりする女を見下ろして、コユキは口を開く。
「のう」
「え……あ、はいっ」
「この者どもに、見覚えは?」
 一番手近にあった覆面を剥ぎ取ると、出てきた顔に、女はあっと声を上げた。
「あなた、あの人の……」
「知り合いか?」
「私の……亡くした恋人の、同僚です」
「ほう」
「もしかして」
 女は覆面を剥がれた男に問いかけた。
「あの手紙を奪い取りに来たんですか?」
「そ……そうだ。あれは、おまえの恋人がギルドから盗んだ封書なんだ」
「えっ……」
「あいつのおかげでギルド内部で争いが起きて、多数の離反者が出た。ボスのお怒りったらねえぜ」
「それで、その封書の中身は何なのじゃ?」
 鞘で後頭部を小突いてやると、男は苦しそうに首を巡らせ、答える。
「詳しくは知らねえが、中身を公表されたらうちはお終いなんだとよっ」
「ふん。残念ながら、封書は既に別の者の手に渡った。彼女は中身も知らぬ、全くの無関係じゃ」
 淡々とコユキは事実を告げてやった。女への執着を断ち切ってやれば、もう彼女が襲われることはないだろうと思ったからだ。
 しかし、男はその返答を予期していたかのように口角を上げる。
「ハッ、イーシュの野郎、だろ……お前らが宿から出た後からずっと、つけてたからな」
「何?」
「あっちにはもっと、俺たちより手ごわい奴が行ってるぜ。ま、どのみち失敗した俺らも……これで、お払い箱、さ」
 がくりと男の首が力を失う。コユキははっと、男たちの折り重なる山から飛び降り、その口をこじ開けた。
「チッ、やたらべらべら喋ると思うたら……毒じゃ」
「ええっ」
「まだ間に合う。応急処置をして、薬泉院に通報してやればな。……頼めるか」
「え!? あ、あなたは?」
 既に走り出しそうになりながら、コユキは短く答えた。
「イーシュ殿が危ない。そちらの手助けに参る、ここは頼んだぞ!」
 返事を聞くことなく、コユキは夜の闇に飛び込んでいった。


「うおおおおおお!」
 剣戟の隙間に散る火花。
 滑るしなやかな刃を何とか銀の短剣で受け止めて、レオンは叫んだ。
「イーシュ!」
「な、な、な」
 レオンの背後には、真っ二つになった愛用のギターを手に、呆然としているイーシュ。
 レオンは一瞬だけ振り返ってそれを確認したが、すぐに、かかる重みが増したため短剣に集中する。
「何してやがる、とっとと逃げろ!」
 弾き飛ばす―――否、飛ばされて、レオンは後ずさった。避けるので精一杯すぎて、長剣を抜く隙すらない。
「逃―――っ!」
 大きく打ち上げられ、レオンは体勢を崩して、側面の壁に背中からぶつかった。
 レオンを横に退けた“敵”は、脇目も振らず前に踏み出す。その切っ先が向かう先は―――
 立ち尽くすイーシュ。
 考えるより早く、レオンは片足を突き出した。足を絡ませた“敵”の男の顎が突き出る。駆ける勢いのまま大きく転倒した男だが、自ら横転してすぐ立ち上がり、体勢を整える。
 その間にレオンは移動していた。イーシュの正面に立ちはだかり、月光を背負う“敵”に向き直る。
 荒い息もそのままに、レオンは告げた。
「行け」
「で、でも」
「野郎の狙いはおまえだ。悪いが、このまま戦って勝てる自信が俺にはない」
 イーシュはレオンの振った左手を見て顔をしかめたが、すぐに頷いた。
「分かった」
「で、応援呼んできて」
「うん」
 イーシュはすぐ後ろの細い道を通って逃げていく。
―――二人で酒場を出て帰る道すがら、人気のない道に差し掛かった途端、突然この“辻斬り”に襲われたのだ。
 何が何だか分からぬうちに、応戦できたのは奇跡だった。そのまま今に至るのだが―――
 レオンはイーシュを見送ることもなく、じっと“辻斬り”の様子を観察していた。
 月光しかない暗闇の中、覆面に黒服を着ているので分かりにくいが、構えと獲物から想像がついた。
 こいつはブシドーだ。
 レオンは右手で短剣を掲げて威嚇する。だらりと下げた左の掌から、血が滴り落ちた。レオンは剣帯を右腰に提げているので、左手を封じられると長剣を抜くことができない。剣帯を外せば右手で抜くことも出来なくはないが、このブシドーに斬り伏せられる方が早いだろう。
 そのくらい、奴には隙がない。
 このずきずきと痛む左手だって、いつ斬られたかすら、レオンには分からないのだ。
 戦って勝てる相手ではない。
 歴然とした力の差がある場合、まず考えるべきことは、どう逃げるかだ。だが逃げようと背を向けた瞬間、ばっさりと斬られるに決まってる。
 イーシュが助けを呼んできてくれるまで、ここで粘るしかない。
 来た!
「くっ!」
 最初の一太刀は避けられたが、すぐに追い打ちが一撃、二撃―――ひとつひとつが必殺の刃な上、切り返しが速く動きが読めない。隻眼であるレオンは人よりも死角が多いが、最悪なことに敵はそれを熟知した動線で攻めに入ってきている。今この瞬間ほど彼は「ルミネの教えを守っときゃ良かった」と思ったことはなかった―――見えなくとも目を開けていなければ、閉じた側が己の死角だと、敵に教えているようなものなのだ。
 今更後悔しても遅いが。
 受け止めたはずの刃が下向きに滑る。勢いのまま一挙に指を刎ねられるより先に、レオンは短剣を手放し―――投げた。が、難なく避けられる。
 突き。
 左目に刀の切っ先が向かうのが、右目で見えた。
 あ、これは死んだ。
―――しかし、予想した痛みはもっと“長かった”。
 奇跡的に外れた刃は、こめかみを逸れ、耳殻の上を貫いた。
「っ……おおおおおっ!」
 吼えるように叫び声を上げながら、レオンは耳を経由して壁に突き刺さる刀の刃を封じるように握り、ブシドーの顔面を殴り飛ばした。
 レオンの反撃は想定外だったらしく、まともに食らった相手は覆面を飛ばしてひっくり返る。その隙にレオンは刀を引き抜くが、よろよろと膝をついてしまった。頭の真横から受けた衝撃で、脳が揺れたのだ。
 からんと転がる刀。
「レオン!」
 明滅する視界の中、レオンの脇を支えたのはイーシュだった。助けが来たのかと思いきや、彼一人で戻ってきたらしい。
「おま、え」
「あ、うん。通路行き止まりだったの」
「終わってんな……」
 半目で絶望を味わいつつ、レオンは今から自分たちを殺すであろう相手を見た。
 刀を拾い上げた、切れ長の目がこちらを向く。ぞっとするほど、人殺しの目だ。元より、こんな簡単に人に刃物を向けられる奴にろくな人間はいるまいが。
 レオンに肩を貸しながら、イーシュが立ち上がった。ごそごそと探った懐から、白い封書を取り出す。
「君が欲しいのは、コレだろ?」
 イーシュが差し出したそれを、刺客は受け取り封を切った。彼が無言で中身を検めている最中に、レオンはイーシュに尋ねる。
「何だありゃ……」
「知り合いから預かった大事なお手紙さ。……ま、命には代えられないよ」
 ブシドーが顔を上げる。
 イーシュは肩を竦めた。
「見逃してくれたり……」
 手紙が下ろされた向こうから現れた刀身に、端正な顔が苦みに引きつる。
「しない、か」
「はあああああっ!」
 刹那。
 気合の声が降ると同時に、ブシドーは一足飛びに後退した。吹き抜けるような一陣の風。レオンは眼前に黒髪の尾が揺れているのを見つける。
「コユキか?」
「コユキちゃん!」
 コユキは振り返りもせず、鞘に納めた刀の柄に手を添えたまま、構えも解いていない―――が、はっと何かに気づいたように短く息を呑んだ。
「おぬしは……!」
「応援だ!」
 イーシュが叫んだ。
 刺客は己の背後、大通りの方向から射し込む灯りに気づいたようだった。刀をぱちんと収めると、猫を思わせる俊敏さで手近な屋根に駆け上る。
「待―――」
「追うなっ」
 慌ててレオンはコユキを捕まえる。非難の色をした目が振り返ったが、すぐにそれは驚きに色塗られる。
「だ、大丈夫でござるか」
「いや、出血量ほど大した傷じゃねえ……いててて」
「縫わなきゃいけないと思うけどねえ。……それにしてもコユキちゃん、来てくれてホント助かった。ありがとう」
「いや……」
 コユキは上の空という様子で応じた。視線は、刺客が去って行った方向を向いている。
 レオンはふと呟いた。
「おい、応援は呼べなかったんじゃねーのか」
「通路は行き止まりだったけど、壁の向こうに衛士がいたから回り込んでもらったの」
「そういうことは先に言えよ……」
 一気に脱力して、ずるずるとレオンは座り込んだ。


 イーシュの金髪が翻った。
「巻きこんで、本っ当にごめん!!」
 こうも深々と頭を下げられてしまっては、責められるはずもない。
 レオンはぞんざいに応じた。
「いいって。それより……」
 薬泉院で怪我の治療を受けてから、レオンはフロースの宿部屋に戻ってきていた。その間半日ほどしばらくイーシュはクッククローの数人を連れ歩いて情報収集に行っていたらしく、昼過ぎに顔を合わせるなり突然の謝罪で、何が何だかレオンにはよく分からない。
「やっこさんの素性は割れたのか?」
「えーとね、結論から言うと彼が何者なのかは僕にも分からない」
「ほう」
「ただ、素性は分かったよ。……情報屋ギルドが内輪揉めを起こして分裂状態になってるって話は聞いてるだろ?」
「おう」
「どうも、ギルドの偉いさんが雇ってる用心棒らしいんだよ。僕の持ってた手紙、あれは預かりものなんだけど、それを奪い返しにきたみたいでね」
「手紙の内容は?」
「んーまあ、詳しくは言えないけどさ、とにかく情報屋ギルドにとってはアキレス腱なんだよ。今の内政が不安定な状態で中身を公開されればお終いさ。だからこそ用心棒まで使って、取り返そうとした。必死だねー」
「それはいいが、あの用心棒、手紙を取り返したあともまだ俺たちを殺そうとしてなかったか?」
「そこまではちょっと僕もよく分かんないや」
 肩を竦めるイーシュ。レオンは半目になった。
「それで、今後俺やおまえが襲われる危険性は?」
「ないんじゃないかな。これ」
 イーシュが広げた紙に目を通し、レオンは眉根を寄せる。
「トーナメント表?」
「武芸大会の前座のね。そこ、シード見て」
 並んでいる名前らしきものは異国の響きを持つ単語ばかりだ。ブシドーだけで戦う勝ち抜き戦であるらしい。言われたとおりシードに目をやると、そこには“コタロウ”と書かれてある。
「コイツがどうかしたか?」
「そのコタロウさんが、昨日僕たちを襲った、情報屋ギルドの用心棒なんだよ」
「えっ……そんな奴がこんな、公的な大会に出られんのかよ。つかこの国の治安部隊は何やってんだ」
「コタロウが僕らを襲ったっていう物的証拠は何もない。一冒険者の訴えなんか握りつぶされるどころか、ヘタすりゃまた闇討ちに遭うよ」
「しかし、なんで武芸大会の前座なんかに?」
「問題はそこさ」
 イーシュは紙の隅に書かれた日付を指す。
「―――この要綱は棘魚亭からもらってきたんだけどね。できたてホヤホヤらしいのさ」
「コタロウがエントリしたのは、情報屋ギルドが俺たちから手紙を奪い返した後の話ってことか?」
「そう、察しが早いね。……多分、用心棒の強さを、反旗を翻した情報屋たちに知らしめる狙いがあるんじゃないかな。“コイツがいるかぎり、おまえらマトモに商売できると思うな”って」
「うへ……」
 どこの世界も、カネと権力は勝つものらしい。
 イーシュは紙をしまうと、困ったように眉を下げた。
「参ったよ。僕はヨソモノだから比較的中立の立場だったんだけど、今回の件で完璧ギルドの敵とみなされちゃっただろうし。クッククローの活動に直接は関わらないだろうけど……」
 ギルドの、街の中における立場は悪くなる。遠巻きに及ぶ影響を考えれば、あまり良い状況とは言えない。
 レオンはふと、頭に浮かんだことを口にした。
「なあ。あいつ、どこに行ったんだ?」
「え、誰って?」
 レオンは肩を竦めた。
「コユキだよ、コユキ」


 コユキはハイ・ラガードの外周壁の上を歩いていた。
 陽気が心地よい。そもそもが高地にあるラガードの街からは、緑に染まる視界が見えた。冬でも枯れぬ森の姿だが、ラガードにも四季はある。外周の内側、街の方に目をやれば、珍しい木を見つけることが出来た。
 桜だ。
 まだ花はついていないようだが、蕾が膨らんでいるのが遠目にも見える。
「そこな、若い人。ブシドーとお見受けするが」
 しゃがれた声に振り返れば、にこにこと愛想の良い、髭面のブシドーが立っていた。
 コユキは姿勢を正すと、一礼する。
 老ブシドーは快活に笑った。
「いや、このような極北の地で、同胞に会えるとはの。クッククローのコユキ殿、でよろしいか」
「拙者の名を?」
「有名じゃよ、女がてらに中々の剛の者と……おっと、これは失礼じゃったかな」
「いや」
 言われ慣れていることだ。流すと、老ブシドーは改めて名乗った。レッカという名で、とある貴族筋に仕えているのだと。
「ときにコユキ殿は、武芸大会の前座には出られぬのかの?」
 レッカがどこからともなく取り出した紙を手渡され、コユキは訝しむ。どうやらこれは前座試合の、対戦表であるらしい。
 いや、なるほど。納得する。
 ここにコユキの名前がないのを見て、この老ブシドーはコユキに興味を持ったのだろう。
「あいにくじゃが、拙者、このような宴は好か―――っ!?」
 何気なく目を通していた選手の名の一つに、コユキは大きく息を呑んだ。
「どうかされたか?」
「……いや……」
 昨夜見た刺客の姿が脳裏に浮かんだ。
 やはりあれは、見間違いではなかったのだ。
「……コユキ殿、それは旅支度じゃな?」
 コユキの背負う小さな荷物を指摘して、レッカは続ける。
「何があったのかは知らぬが。皆の見送りもなく旅立つというのは、ちと薄情ではないか?」
「旅立つわけではござらぬ。ただ、少しばかり皆から離れようと……思っただけで」
「同じことじゃ」
 コユキは黙り込む。
 ふと、目の前を舞っていった風が連れて行った花びらに、はっと顔を上げる。
 だがそれは見間違いだった。
 桜はまだ、硬い蕾のままだ。
「……探し人を、訪ねるつもりじゃった」
「ほう?」
「皆に迷惑はかけられぬ。拙者一人で確かめ、決着をつけるつもりじゃった……しかし、事はもっと大きくなっておるようじゃ」
 手にしたままの紙を一瞥し、コユキはレッカを見据えた。
「レッカ殿、無礼を承知で教えていただきたいことがござる。この前座対決、まだ参加は出来るのじゃろうか」
「……実は、そのことで話があったのじゃ」
 レッカは苦笑するように髭を歪ませると、続けた。
「わしも参加する予定であったのじゃが、身の事情で棄権することになった。なので参加者として名前がなかったコユキ殿に、代理を頼めぬかと思ってな」
「そうじゃったか……」
 いつもならすげなく断っただろうが、今回は事情が違う。
 あんなにも焦がれた人の名を、コユキは手のうちで握りつぶした。


「えっ、前座に参加するって?」
 その日の晩。
 いつものように鋼の棘魚亭に集まったクッククローの面々を前に、コユキは小さく頷いた。
「ひいては当日、拙者は探索に参加できぬ。ご迷惑を―――」
「いやいやいや、そんなん絶対に見に行くっしょ!」
 ライがテーブルから身を乗り出す。口の中から噴き出たパスタに、ファルクが盛大に顔をしかめた。
「見に行っても、木刀での形式試合だからあんまり派手さはないよ?」
「ファルクくん、見たことあるの?」
「一度だけ。……まあ、武芸大会の間はどこも飲食店以外は閉まっちゃうから、探索するには不都合かもしれないね」
「なら、その日は休みにするか」
 珍しく、レオンがそんなことを言う。
 ライが指を弾いた。
「そうこなくっちゃ!」
「し、しかし。拙者そのようなつもりで申したのでは……」
「コユキ」
 呼びかけてきたレオンは、場の空気をよそに真剣だった。小声で告げてくる。
「おまえの目的は知らねえが、こっちからも一つ頼みがある」
「分かっておる……利害は恐らく同じじゃ。刺客の男、コタロウを倒せということじゃろう」
 レオンは目をぱちくりとした。
 コユキは口角を上げる。上手く笑えたかどうかは分からないが。
「心配召されるな、あの男は必ず……斬る」
「いや、別に斬らなくても……ってか木刀なんだろ」
「気を付けて、コユキちゃん」
 ぬっと二人の間に割り込むように、イーシュが会話に入ってくる。
「彼の背後には大きな組織がいる。汚い手も使ってくるかもしれない、僕らも念のため会場に詰めるけど―――」
「問題ない。何があろうと、拙者は負けぬ」
 ぴしゃりと告げた言葉に、レオンとイーシュが顔を見合わせる。
 それきり、コユキは瞼を閉じて黙り込んだ。


 武芸大会、当日。
 前座のトーナメントを、コユキは順調に勝ち進んでいた。元より現役の冒険者のようなブシドーは参加者には少なく、大半が芸人に近い“刀使い”に過ぎない。ほとんど全て、コユキは必殺である居合の型を使うこともなく、一撃のもとで叩き伏せていった。
「コユキちゃんって、あんなに強かったのね……」
 観客席の中腹、クッククローの一団の中からアリルがぽつりと呟いた。
「ほひゃほーだ、ふっふふほーひゃんだし」
「飲み込んでから喋ってください、ライ」
 ボリボリと山盛りのポップコーンを頬張るライに、呆れたようにクルスが言う。
 それにしても、とクルスは熱気の沸く周りを見渡した。
「―――本当に盛り上がる大会なんですね。すごい人ですよ」
「レオンたち、どこに行ったんだろうね」
 レオンとイーシュ、そしてファルクは会場に入る段階ではぐれてしまった。とりあえず自分たちの席は確保してあるものの、彼らが座れるだけのスペースはもうない。
「心配ない。レオンたちのことは気にしなくて大丈夫だ」
 含みのあるアイオーンの言葉に、クルスは眉をひそめる。
「もしかして、また何か……」
「あっ」
 歓声が上がる。
 コユキが、また一太刀で相手を打ちのめしたのだ。
「すっげー見ろよカリンナ、次、決勝戦だぜ!」
「決勝の相手は……途中までシードで上がっていた人のようですね」
 先ほどから何回か、担架で運ばれていく対戦者を見た。彼らを倒した相手が、コユキと決勝で戦う男らしい。
「この、コタロウって人かな? ……うわ、何かスゲー人相悪いな」
 トーナメント表から顔を上げ、遠目にコタロウを見つけたライが呻く。
「大丈夫かしら、コユキちゃん」
「負けても問題はありませんよ。木刀ですし」
「いやー、こういうのは勝ってこそだろ」
「始まるようだぞ」
 一際騒がしさが増した会場に、クッククローは選手たちに注目した。


 どこか遠くで、喧騒が響いているかのようだ。
 波風一つ立たぬ心のまま、コユキは瞑想を解いた。開いた瞼の向こうに映るのは―――
「兄者」
 コタロウは眉一つ動かさぬ。
「お久しゅうござる。壮健の御様子で」
 コタロウは目を閉じた。
「審判」
「はい?」
 応じた審判に、コタロウは提案する。
「この試合限りで、真剣を使いたい」
「えっ! し、しかし、それは……」
 そのとき、控え席から飛んできた男が審判に耳打ちした。審判は顔をしかめたものの、それに頷き返す。
「……分かりました、両者とも、真剣の使用を許可します」
「兄者……」
「どうした? コユキ」
 試すような笑み。
 名を呼ばれただけで、コユキの胸が痛む。
 預けていた刀を持ってこられ、コユキは躊躇ったが、それを受け取った。鞘に収まる刀の重さがずしりと心地よい。
 ああ、これだ。乱れた心が、すっと落ち着くのを感じる。
 コユキは鞘からそれを抜かぬまま、居合を構える。相手は青眼の構え―――コタロウの、得意な型だ。
 それを見まいとするように、コユキは目を閉じる。

 桜の花。
 舞う淡い桃色の下で、楽しげに笑う姉弟子と―――兄者。
 それがうらやましくて、見つけるたび邪魔をした。
―――あんなに幸せそうだったのに。

 なのに何故、あなたは捨ててしまったのか。

 光。
 動いたのはコタロウだった。突きの一撃、受け止めるべくコユキは鯉口を切る。
 だが。
 鞘走りは中途で止まる。
 コタロウの切先が、コユキの柄頭を押さえたのだ。
「くっ」
 大きく切り返され、コユキは間一髪それをかわす。
 まずい。
 刀を収めきり、コユキは一足飛びにコタロウの間合いから抜けた。居合の構えに移行しようにも、コタロウは追ってくる。それでいて彼には隙がなく、コユキが刀を抜く素振りを見せれば、その狙いは即座に防御の薄い位置を的確についてくる。
 つまり、コユキには反撃の余地がない。
「変わらんな、コユキ」
 籠手で弾いた突きが、跳ねる。
「―――弱いままだ」
「くっ!」
 乱された。
 防具のない、むき出しの二の腕に突き刺さる刀。
 コユキは激痛に漏れる声に耐えながら、わが身を引いた。転がるように刀から逃げ、間合いを遠ざける。
 コタロウは追ってはこなかった。細めた目と口元に微かに笑みをたたえたまま、切っ先に滴る鮮血を見る。
「だが……少しは楽しめそうだ」
 コタロウの前髪が僅かに散る。
 コユキは今の刹那に、刀を抜くことに成功していた。
 だが上がる息を整えることもできない。少しでもこの男から注意を逸らせば、左肩にずくずくと訴える腕の痛みに気を取られれば、一瞬にして斬り伏せられることだろう。
 鞘に刀を収めるのも、同じことだ。
 刀を抜き放つ、それは居合の型を封じられたことを意味する。
「兄者……」
 だが。
 気を逸らせたせいで斬られてもいい。これだけは伝えておかねばならぬ。
 そんな想いで、コユキは口を開いた。


「人を殺す覚悟はあるか?」
 コユキの頭を撫でながらそう問うてきた兄に、コユキはきょとんとした目で見上げる。
 その様に、兄はからからと笑った。
「いや、そうだな……コユキにはまだ、分からぬか」
「あっ、兄者、コユキをバカにしたなっ!」
「馬鹿になぞしておりませんわ。分からぬままのコユキで良いのですから」
 言いつつ、姉弟子が口元を隠しながらくすくすと笑う。コユキはこの姉があまり好きではなかった。年もそう違わぬくせに、こうやって姉貴ぶるのだ。
 ところが、兄は彼女に味方した。
「コユキ、俺もそうあってほしいと思う」
「兄者!」
「誤解するな。おまえに強くなるなと言っているわけではない……俺もまだ、人を殺す覚悟など分からない。だから、里を出ようと思う」
 コユキははっと息を呑んだ。
 そう言った兄の横顔が、散る桜に似て儚いものに見えたからだ。
「―――ただ人を斬るために刀を振る理由が俺には分からぬのだ。……禁を犯すことになる、おまえたちに迷惑をかけるかもしれないが」
「いいえ、お兄様。ぜひ先に広い世界を見てきてくださいまし」
 即座に告げた姉の言葉に、兄は目元を緩ませた。
「コユキを頼むぞ」
「はい」
「コユキ」
「―――はい」
 話に置いて行かれたような気がして仏頂面のコユキを、兄は笑った。
 大きな掌が、再びコユキの頭を撫でる。
「強くなれよ」


「兄者、チヒロが死んだ」
 コユキはコタロウを見据えて、繰り返した。
「チヒロが、死んだ。兄者を追う旅の半ばにして」
 コタロウの表情は揺るがぬ。
 やがて、彼は答えた。
「それはチヒロが弱かっただけのことだ」
 腕を伝う生温さ。血の臭い。
 どうして。
 何が、この人を―――自分たちを変えてしまったのだろう?
「兄者、それが兄者の求めた強さじゃったか」
 呻くように言い募るコユキを、コタロウは嗤う。
「コユキ、おまえの言う強さとやらを、俺に示してみろ」
 コタロウは青眼の構えを変えず、殺気だけがいや増す。コユキは抜き放たれた刀を両手で握りしめた。未練がましい感情を抑えつけ、頭を切り替える。感傷は必要ない。今必要なのは、勝利への糸口をつかむことだけだ。
―――悔しいが、居合の技はコタロウには通じない。
 コユキの技の師は彼だからだ。
 だから、居合の神速のからくりも、その防ぎ方も熟知している。一度防御されれば、居合は負けが決定してしまう。そのただ一度で、コタロウを凌げるだけの自信はコユキにはない。
 そのとき。
「コユキちゃん、がんばれー!!」
 無邪気な応援の声が、野次の中から、集中力の膜を通り過ぎ、耳に届いた。
 続いたものも、聞き覚えのある仲間たちの声。視線はコタロウのままで、コユキは失笑する。
「……強さか」
 そして眼力を込めて、コタロウを睨んだ。
「―――承知した。このコユキ、己と仲間の誇りを懸けて、負けるわけにはいかぬ!」
 コユキは大きく、頭上に刀を掲げる。
―――構えに入った瞬間、コタロウが地を蹴ったのが見えた。
 雷のような激しい一撃がコユキに叩きつけられる。コユキは退かぬ。退かずに、その懐に飛び込んだ。
 体重のかかる男の右膝を踏み、腋の下を潜るように斬りかかる。
 すんでのところで、半身を捻り、コタロウはそれを回避した。密着を避けるようにコユキから反る。だがコユキの足は彼の膝を取ったままだ。その体勢では即座に反撃に移れまい。
 コユキは振り下ろしていた刀を斬り上げる。狙いは腕の付け根―――
 だが。
 コタロウは大きく体重を後ろに投げ出した。腰を落とす姿勢に、コユキの軸もぶれる。体勢を崩され、コユキは惑った。
 まずい。
 退くべきだと判断する。だが、ここで退いてしまえば二度と、この間合いは取られない―――
 逡巡を狙ったように、コタロウの刀が上段から襲いくる。
「ぐっ……」
 斬り上げたコユキの刀が弾け飛ぶ。
 だが、コユキは今度は迷わなかった。
 コタロウの懐に再度飛び込みながら、鞘を抜く。
 コタロウの目がかっと見開く。
「あああああっ!」
 そしてそのまま、彼の顎を、鉄製の鞘が貫いた。


 歓声。
「お、お、おのれっ!」
 どうと舞台に倒れた男を見て、恰幅の良い中年男性が観客席で立ち上がる。その真っ赤に染まった憤怒と羞恥の表情から、彼が男の雇い手である、情報ギルドの長であることは明白だった。
「あの娘を殺れ!」
「で、ですが」
 彼はひるんだ側近の胸倉を掴み上げると、懐から取り出した小さな何かをその眼前につきつけた。鈍く光るそれは、金属製の細い針だ。
「表彰のときに、握手をする手に仕組んでおけ。いいか、くれぐれも―――」
「はい、そこまで」
 その手首を、レオンの手が取った。
 ぽろりと針を取り落とした情報ギルド長は、驚愕に目を瞠る。
「んなっ、貴様ら……!」
「悪く思うなよ。こっちも仕事なんでな」
 腕を捻じり上げられるも、彼はたぷたぷの身体を揺らして抵抗する。
「冒険者ごときが無礼な真似を! わしが貴族であることを知って―――」
「だから言ってんだろ、仕事なんだよ」
「遅れてごめんなさい」
 レオンの後方から現れた女に、情報ギルド長はまたぎょっと目を剥いた。
「お、おまっ……いや、貴女は……」
「私が証人になって、あなたの身柄を公国の衛士に引き渡します。この手紙に言い逃れは出来ないでしょう?」
 女―――ノアがひらひらと振る手紙に、情報ギルド長は喉を震わせる。
「その手紙は奪い返したはずだ!」
「まさか一通だけだと思ってたの?」
 レオンの陰から顔を覗かせるイーシュが、やれやれと首を竦める。
 ノアが冷たく言い放った。
「話はたっぷり聞かせてもらいます、公女様の前でね。……精々言い訳を考えておくことね」
 すっかり意気消沈してしまった情報ギルド長は、部下ごと衛士たちに連行されていった。その後ろ姿を見送り、レオンが半目でぽつりと呟く。
「奪われた手紙、あれだけじゃなかったのかよ……」
 じろりと睨まれた先のイーシュはけろっとした顔で答えた。
「一通だけだなんて、僕言ったっけ?」
 レオンは呆れたように顔を歪ませたが、何も言わなかった。
 代わりに、ファルクを向く。
「結局おまえを連れてきた意味、なかったなあ」
 ファルクは眉をひそめた。
「“この国の貴族の力が要るから来い”って言ったの、リーダーじゃないか」
「ノアが間に合わなきゃ、おまえに粘ってもらうつもりだったんだよ。コユキを殺すわけにもいかんし」
「間に合って良かったわね」
 ノアが溜息を吐いた。
「―――あの人、前から“評判”だったみたいね。なまじっか高級貴族だから、公女様も手を焼いていたそうよ」
「あとは任せていいんだな?」
「ええ」
 仲間たちのところにか、引き返そうとするレオンとイーシュ。
 ファルクは、衛士のもとに戻ろうとするノアに呼びかけた。
「姉さん!」
「……私に弟はいないわ」
 かけられたことのないほど冷たい声に、ファルクは息を呑む。
「姉さん、ぼくは天空の城を見つけて、姉さんの代わりに―――」
「言ったはずよ、勘当すると。家も跡取りももうあなたには関係ない。どこへなりと行きなさい」
「あ……」
 それきり振り返らず、ノアは去って行く。
 所在なく伸ばした手を、ファルクは力なく落とした。


 結局。
 コタロウがその後どうなったのか、コユキには分からなかった。
 情報ギルドの人々も長の権力のため大した罪に問われることもなかったが、再び商売をすることは出来ない状態になってしまって、ギルド自体は自然と崩壊してしまったそうだ。
 当然コタロウとの契約も解消されたようだが、薬泉院で治療を受けたのち、彼はいつの間にか行方をくらましていた。
「兄者、チヒロ……」
 はらはらと舞い散る桜の花びらに、コユキは想いを馳せる。
 あの頃桜の下には、彼女と、兄と、そして姉がいた。
 コユキの脳裏によぎる、郷愁。
―――それは、響き渡った呼びかけの声にかき消される。
「あったぞー! こっちだ!!」
 鎧をがちゃつかせながら、衛士たちがコユキの脇を走り抜けていく。
 目を細め、コユキは近くの瓦礫に腰を下ろした。
 桃色のじゅうたんを見下ろす。愛刀を抱きこむように前のめりになると、正面に草履をはいた足が立ったのが見えた。
「調子は如何かな」
 話しかけてきたのは、あの老年のブシドー―――レッカだった。
 髭の内側の痩せた顔が微笑んでいる。コユキは座る位置をずらしたが、彼は遠慮するようにかぶりを振った。
「すまないね。人数合わせのような形で来てもらって」
 コユキがギルドではなく一人でここ―――樹海にいるのは、ひとえに依頼のためだ。
 レッカの所属するニヴルヘイムが、最深部である第四階層で遺品を回収するのに、手持ちの兵隊だけでは心もとないからというのが理由だった。
 話が来たときたまたま他のメンバーが留守をしており、手持無沙汰であったコユキが引き受けただけの話だ。
「構わぬ。護衛とはいえ、穏やかなものじゃ」
 薄桃に彩られた風が流れていく。
 鼻を掠める冷たい空気に、しかし老武士は眉根を寄せた。
「世界とはかくも恐ろしいものよな」
 零れるように呟かれた言葉に、コユキは顔を上げる。
「失礼した。貴殿らを軽んじるつもりでは……」
「いい、いい。元より……無茶を承知の道中じゃったからのう」
 目を細め、彼は続けた。
「この老体が居残り、主君に先立たれてしまうとは思わなんだが」
「人の死は公平のようで、不公平じゃからの」
―――コタロウの行方を、イーシュは何度も探ろうとしてくれたらしいが、ノアを経由しても詳細は掴めなかったらしい。
 判明した確からしい事実は、彼が随分前に入国し、冒険者として活動していたという記録、そしてそのギルドの人々が、ある時期から全く街に姿を見せなくなっていたということ、それくらいだ。
 里を出たコタロウが世界で何を見、何を感じ、どんな想いで生きていたのか―――コユキには分からない。そして彼が歪ませた心の闇を、たとえ理解することが出来ても、癒すことはコユキには出来ないだろう。
 もがき苦しみながら、それでも己の力で生きていくほかないのだ。
 いつか必ず―――再び、昏い底から這いあがるための手を、見つけられることを信じて。
 コユキがそうであったように。
「生き残った者には生き残った者の、役目がござる。貴殿が亡くされた主君には娘御がござろう……見守る大人はまだ必要じゃ」
 老武士はきょとんと目を丸くすると、快活な笑い声をあげた。
「そうじゃな、おまえさんの言うとおり。……死ぬのはいつでも出来ようしな」
 二人の隙間を、ひときわ強い風が舞った。
 揺らされた枝からまた、花びらが散る。
 かつて在った幸せを、コユキは捨てることは出来ぬ。
 また、その必要も感じない。過去はただそこにいるだけのもの。静かに佇み、生きて、歩いていくものの背中を見つめ続けるだけのもの。
 だからこそ、コユキは背筋を伸ばして立ちあがる。
「行こうか、レッカ殿」
「そうじゃの」
 舞う花びらに踵を返し、コユキは歩を踏み出した。

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19F

 ハイ・ラガードにも四季はある。
 ようやく肌を貫くような冬が去り、柔らかな陽気が世界樹の上層にも届くようになっていた。本物の桜が咲くに相応しい季節だ。
 もっとも、うららかな気分には到底なれないのだけれども。
「行ったぞ!」
 ライが逃したシャインバードが空高く上昇する。
 その翼に照準を定め、ファルクは引き金を引いた―――が、ひらりと旋回してそれを避けた魔物は、垂直に急降下しカリンナに向かう。
「やっべ!」
 慌てるライ。しかし素早く回り込んでいたクルスが、シャインバードの捨て身の体当たりを防ごうと身構える。
 しかし、響いた炸裂音がそれを妨げた。
 勢いを失い、文字通りぼとりと落ちる魔鳥。目を瞬かせたクルスが、それを“撃ち”抜いた銃痕にあっと息を呑む。
 ファルクは既に、その一撃を放った少女を目で捉えていた。
―――クッククローの一団から少し離れた木の影に、硝煙をくゆらせ立つのは、アルマだ。
「おまえ……」
 白い虎を従えるアルマの背後にはドクトルマグス、ブシドーの男たちが控えている。
 金髪の少女は全くの無表情だ。
「助太刀ありがとうございます。……でも、三人でここまで来たんですか?」
 クルスの問いに、アルマは小さく頷く。
「何やってんだ。もっかい全滅したいのかよ?」
「ライ!」
 鋭くクルスが叱責するが、ライは肩を竦めただけだ。
「……あなたたちには、関係のないことよ」
「おまえら、そればっかじゃねーか。少しは尻拭いさせられる身にもなれってんだ」
 あけすけに鼻を鳴らすライに、アルマは不愉快そうに顔を歪めたが、こう答えた。
「仇を探しているの」
「仇?」
「……お父様の仇の魔物よ。この階に生息しているらしいの」
「もしかして、公国砲撃協会の依頼は、アルマが出したの?」
 ファルクが問うと、ライが顔をしかめた。
「こうこくほ……何だって?」
「公国砲撃協会。ぼくたち、ラガード周辺の砲撃士の集まりみたいなものさ。アルマの父さんはそれの会長だったんだけど―――」
「会長の仇を討て、ってね。依頼が酒場に出回ってるの」
 アルマはやれやれとかぶりを振った。
「―――わたしは反対したんだけど」
「のわりに、仇討ちに来てるじゃねーか」
「勇み足の協会員に、父の二の舞になってもらっては困るからよ。それに……次の協会長を決めるのも、揉めているみたいだから」
「ふうーん」
 詳しく聞いたわりに関心なさそうに、ライは耳の穴をほじっていた。
「そりゃどうも、ご苦労さんだな。あんたらも二の舞にならないように、気をつけ―――」
「なら、ぼくたちが親父さんの仇を討つよ」
 あっさり言ったファルクに、ライは素っ頓狂な声を上げる。
「おい!?」
「クッククローがその依頼を……会長の仇を倒す依頼を引き受ける。……砲撃士がいれば、協会の面子も保てるだろ」
「てめー勝手に……」
「だから、アルマたちは街に帰れ」
 はっきりと告げたファルクに、アルマは噛みついてきた。
「なんでっ……」
「会長がやられるような相手に、今のニヴルヘイム三人で勝てるわけないだろ。……そこの二人、アルマのワガママもいい加減止めたらどうなんだ」
 苛立たしく言ってやれば、呪医と武士の二人は顔を見合わせ、口々に答えた。
「……お嬢様の好きにして差し上げたかったのですじゃ」
「目を離せば、一人でも飛び出していくんだよ」
「ほー。回りくどいこと言っといて結局、あんた自身がオヤジの仇を討ちたかっただけじゃねーか」
 半目で呟くライに、アルマは二の句が継げない様子で、顔を真っ赤にして黙り込む。
「アルマ、今日ここに来たこと、姉さんは知ってるの?」
 俯いてしまった少女から返答はない。
 ファルクは深呼吸をすると、拳を握った。
「きみは……どれだけ周りの人たちに迷惑をかけたら気が済むんだ」
「これが最後のつもりだもの」
「本当の“最期”になったらどうするって言ってるんだ!」
「お、おい」
 肩にかけてきたライの手を振り払い、ファルクは感情的にアルマに詰め寄った。
 振り上げる手。
 見開かれた蒼い目。
 頬を押さえるアルマ。
「いい加減にしろよ……!」
 ライに羽交い絞めにされて引き剥がされるファルクを、呆然としていたアルマがキッと睨んだ。
「何よ、あなたみたいに何もかも上手くいってる人には、分かんないわよ!」
「何だと―――」
 そしてファルクが言い返すより、誰かが止めるより、早く。
 鼻先に飛んできた少女の拳が、ファルクの視界に星を散らせた。


 ファルクとアルマは幼馴染だ。
 二人ともハイ・ラガード近郊に領を持つ貴族の子として育った。同じものは、砲撃士として積んだ訓練、貴族の位、年齢、負けん気の強さ。二人はライバルでもある。違うところは性別と、家系の成り立ち―――アルマが生粋の貴族であるのに対し、ファルクの家はいわゆる“成り上がり”であり、家名を継ぐ者に一定の功績がなければ、家の存続を許されないという点だけだ。
 だがその二つの違いが、二人の状況を決定的に異ならせている。
「女の子に顔面パンチされて、鼻血出してやんの」
 小馬鹿にしたように見下ろしてくるライを、ファルクは鼻を冷やしながら睨んだ。
「おまえがぼくを押さえつけていたからだろうが」
「ファルクくん、もう大丈夫?」
 気遣わしげに覗き込んでくるアリルに、ファルクは鼻から布を取る。
「うん、止まったみたい。先に進もう」
 立ち上がろうとした彼を、クルスが制した。
「もう少し休憩してからにしましょう」
 穏やかな風が、春の香りを運んできている。
 十九階は今までとは異なり、世界樹の“中”ではなく完全に“外”の迷宮である。高度のせいか肌寒さは少し残るが、風通しの良さが心地よい。
 ファルクを殴っておいて、ニヴルヘイムは先に進んでしまった。もっとも殴った当人のアルマは怒り心頭で、殴り足りないようでもあったから、行ってくれたのはファルクにはありがたかった。腹立っているのはファルクも一緒だ。あんなやつ、顔も見たくない。
 ただ、野垂れ死んじまえ―――とまでは思わない。やっぱり、ワガママとはいえ幼馴染、心配は心配だ。それに、彼女の父のこともある。
 アルマの父は、ファルクの銃の師でもあったのだ。
「ファルク?」
 膝を抱えて黙り込んだままの彼を案じるように、クルスが呼びかけてきた。何でもない、というように無言で首を横に振る。しかし、彼は離れていかなかった。
「アルマさんのこと……心配ですか?」
 見抜かれてどきりとする。ファルクは無反応を装ったが、クルスはふっと表情を柔らかくした。
「この階に仇の魔物がいるなら、僕らもそれを探しましょう」
「っ、いいの?」
「はい。無理はできませんが、それはニヴルヘイムも同じでしょうし」
「……ありがとう……」
 クルスの手を借りて立ちあがり、ファルクは出立の準備を整える。
 その最中、ライが近づいてぼそりとこう言った。
「あの、仇って話。おまえもだろ」
「……何が?」
「おまえも討ちたいんだろ? 会長の仇」
 付け足しのように告げられた言葉に、ファルクは答えに窮する。
 否定できなかった。それを、肯定と見なしたかのようにライは皮肉げに笑う。
「あの子もおめーも、分かりやすすぎるんだよな」
 言い返せない悔し紛れに、その尻を蹴っ飛ばした。


 ニヴルヘイムはすぐに見つかった。
「うわ、でっけーな」
 ニヴルヘイムの白虎と同等の大きさはあろう狼の魔物が、彼ら三人と一匹に対峙していた。赤黒く染まる白い毛並みから既に手負いであることが窺える。散々、他の砲撃士たちに追い回されたあとなのだろうか。
「この分なら、おれたちの出番はなさそーだな」
 何気なく言い、ライがちらとファルクを一瞥する。ファルクはその視線を邪険に見返したが、すぐアルマたちに視線を返した。狼の魔物―――アルマの父の仇である“森林の暗殺者”が雄叫びを上げたからだ。
「逃げるわ!」
 怪我のわりに、魔物の動きは俊敏だった。音もなく高く地を蹴り舞い上がると、ニヴルヘイムを跳び越え、クッククローの眼前に着地する。だがこちらが身構える間もなく、狼はしなやかな動きで木々に隠される茂みへ逃げ込んでいく。
「追いますか?」
「もちろん」
 クルスにそう短く応じると、ファルクはニヴルヘイムの後ろをついて走り出した。
 茂みは背の低い桜の木に覆われ、桃と白の異様な様相を示していた。だが微かにその後ろから、唸り声がしている。どうやらこれは、“森林の暗殺者”の巣であるようだ。
 やや落ち込んだ造りになっている入り口は石柱に阻まれ、人ひとりが降りていくのにやっとという急な坂道だ。踏み込めば返り討ちに遭う危険性が高く、かといって安定した場所から銃の弾を獲物に当てるにしても距離がある。
「アルマ、どうする?」
「決まってるわ」
 案の定踏み込んでいきそうになったアルマの腕を、ファルクは慌てて掴む。迷惑そうに打ち払われたが、ファルクは言い募った。
「“協会長の二の舞にならないように”だろ?」
 アルマは歩を止め、ファルクを射殺せそうな目で振り返った。
 ファルクは仲間を振り返った。ついでに、ニヴルヘイムも見渡す。
「ここで、敵がしびれを切らすのを待とう」
「持久戦ですね」
「ちょっと。あいつを倒すのはわたしたちよ。あんたたちは帰ってちょうだい」
 むっとしたように口を挟むアルマを、同じくキッとファルクは睨みつけた。
「また、うちに“ニヴルヘイムを助けろ”って依頼が来るのはごめんだからね」
「っ……」
「ひゅー、イヤミー」
 口笛まで吹いて囃し立ててくるライも、ファルクは睨んでおく。
「おまえはどちらの味方だよ」
「どっちの味方でもねーよ。つか、おれは帰りてえし。腹減った」
「食糧ならありますよ?」
 安心してください、と爽やかな笑みを浮かべるクルス。ライは頬をひきつらせた。
「そういう問題じゃねえの……空気読めないなら黙っててよ、クルスくん」
「ええっ」
「こちらも一晩くらいはもつ」
「ペグ!」
 非難の声を上げたアルマに、ドクトルマグスはかぶりを振った。
「無闇に攻め立てるだけが狩りではない。……待つことも、時に必要だ」
 年長者の言葉に、さしものアルマも、ようやく沈黙した。


 クッククローの五人と、ニヴルヘイムの三人と一匹。非常な大所帯が、焚火を二つ並べたものをぐるりと囲んでいる。春とはいえ日も暮れれば、上層の第四階層は少し肌寒く、カリンナが小さくくしゃみする。
「大丈夫か?」
「大丈夫? カリンナちゃん」
 ライとアリルに、同時に両脇から覗き込まれ、カリンナはこっくりと頷く。
 ライの格好を横目で見やり、ファルクはひとりごちる。
「おまえの方がよっぽど、見ていて寒々しい……」
「何か言ったか」
「空耳だろ」
 つんと言い返した途端、再びくしゃみが響く。今度はアリルだった。気遣わしげに、その隣のクルスが首を傾ぐ。
「寒いですか?」
「う、ううんっ、大丈―――っしゅん!」
 気まずそうにアリルは苦笑いを浮かべる。
「うはは、医者の不衛生ってやつだよな!」
「それを言うなら不養生です、ライ」
 パチパチと爆ぜる火の向こうで繰り広げられる、いつもののん気で明るいやりとり。ファルクはこっそりと溜息を吐いた。
―――一方で、ニヴルヘイムの面々はずっと押し黙っていた。アルマはずっと銃の手入れをして、しきりに巣の方向を窺っているし、それ以外の二人は虚ろな表情で火を見つめている。アルマの足元で寝そべる白虎は静かだが、眠ってはいないようだ。
 ファルクはふと、アルマが焚火から離れた瞬間を狙って、クッククローの仲間にも気づかれぬようひそやかに、彼らに話しかけた。
 というよりも、こうべを垂れる。
「すみませんでした」
「……坊が頭を下げる必要はどこにもござらん。顔を上げてくだされ」
 老武士―――レッカに言われ、ファルクは彼を見据える。炎に照らされる痩せた横顔は、どこか困惑しているようでもあった。
「ぼくが、アルマを触発したようなものですから」
 思えば初めに、クッククローに入って天空の城を目指すと決めた時から。
 冒険者になるということを、アルマに直接告げたわけではない。だが彼女は自分で突き止めた。国に所属する砲騎士となる修業を半ばで放り出し、旅立ったファルクの行く先を。彼女とファルクはライバルだ。そして彼女は特に、ファルクの行為を“抜け駆け”のように思ったのだろう。
 いや、抜け駆けだったと断言できる。ファルクがアルマの立場なら、きっとそう思ったからだ。
「ぼくがハイ・ラガードに来なければ、アルマも冒険者になりたいだなんて無茶を言い出さなかった。ニヴルヘイムが結成されなければディーさんも、おじさんも、きっと……」
「協会長はいずれ、国よりの使命を得て樹海へは赴くことになっておった。お嬢様がそれに先んじただけのことじゃ」
「でも、もっと早い段階でニヴルヘイムが全滅していた可能性だってあった。アルマを危険に晒していたのは、ぼくの責任でもあるんです」
 ファルクは早口で言葉を紡いだ。同じギルドであれば、互いに庇い合うことも出来るし、また覚悟も違ってきただろう。だが、アルマはファルクと同じ道を選ばなかった。好敵手であるというプライドが、二人の道を決定的に違わせたのだ。
 そのせいで狂った人の運命もあっただろう。ファルクは、その重みが恐ろしい。若く幼いがゆえに、己の選択がいかに愚かであったのか、他人の犠牲をもってして思い知らされた気がして。
 またこれはファルクの懺悔でもあった。犠牲者であるニヴルヘイムにそれをぶつけても、楽になるのはきっとファルクの気持ちだけだ。
 それでも吐き出さずにはいられない。
 そしてそれを、レッカは優しい目で受け止めてくれる。
「坊よ、そう思い詰めなさるな。坊は坊で成し遂げるべきことがあった。人の選択というのは結局、その者自身が責任を負うべきことじゃ。坊のせいではない」
「でも……ぼくがしてきたことは結局、何も意味を成さない……」
 姉に申し出た肩代わりは拒絶された。家を継ぐため武勲を成すという、ファルクの目的は潰えたも同然なのだ。
「ぼくが冒険者になった意味も、続ける意味も、もうないんです」
「なら、やめるか?」
 唐突に割った声に、ファルクははっと息を呑む。
 いつの間にか背後に立っていたのは、白髪の少年だった。金色の瞳が、感情の色なくファルクを見下ろしている。
「やめればいいじゃん」
 ファルクを押し退けるようにして、ライはその隣にどかりと腰を下ろした。闖入者にもレッカは気付いていたらしい、驚くことなく話に招き入れる。
「―――アルマちゃんがおまえに対するライバル心で冒険者になったんなら、おまえが辞めればアルマちゃんも辞めるんじゃねえの?」
「それは……」
「猫目の坊は、仲間がそんなにあっさりやめてもいいのかい?」
 レッカの質問に、ライは肩を竦めた。
「おれが決めることじゃねーし」
「ファルク坊の考えを借りるなら、お主の一言がファルク坊の背中を押すことになるやもしれん。坊がクッククローを辞することで生まれる弊害の責任の一端も、お主が負うことになるぞ」
「……もうちょい簡単に言ってくれよ」
 理解できない様子で顔をしかめるライ。
 ファルクは深々と嘆息した。
「……ぼくが冒険者を辞めるにしても、おまえに言われたからっていう理由だけは絶対にありえないから、安心しろよ」
「何か腹立つな……」
「同じことが、お嬢様にも言える」
 レッカは面白がるように、くりくりと目を動かした。
「―――坊が冒険者を辞したとて、お嬢様が辞めるとは限らん」
「でも……」
「始まりは坊への対抗心だったかもしれん。じゃが、その動機がいつまでも同じとは限らぬのじゃ。坊よ、坊自身もそうなのじゃよ」
「ぼく……自身も?」
「そうじゃ」
 大きく頷くレッカ。
 ファルクは膝の上で組んだ自分の手を見下ろした。手袋はしたままの手。物音ひとつでも考えるより早く反応し、この手は腰の銃を抜き、この指は引き金に触れるだろう。冒険者になる以前よりも、構えに入る速度は格段に増した。銃の整備、弾の装填、どのひとつの動作を取っても、ファルクは成長している。
 もっと、強くなりたい。
 砲撃士として。
 そして、もっと広い世界を見てみたい。
 ファルクは手袋をした掌を、炎にかざしてみる。幾度となく生死をかけた修羅場を潜り抜け、成長したものは身体だけではない。いずれ天空の城が見つかり、ハイ・ラガードの世界樹も踏破される日が来るだろう。その頃になればファルクは、家も姉も関係なく、北の国を離れて歩いていけるほどに、強くなっているに違いない。
 黙り込んでしまったファルクに、ライが面白くなさそうに唇を尖らせる。ふと、それにレッカが話しかけた。
「猫目の坊は、何か目的があって冒険者になったのかの?」
「おれ、捨て子なんだよ。拾われた先が冒険者で……ま、クッククローに入ったのはなりゆき、ってとこだけど」
「そうか」
「何? おれにもなんかあんの?」
 挑戦的に口角を上げるライ。
 レッカは目を伏せたまま、微かに笑った。
「では、冒険者以外の生き方を知らぬのじゃな……それもそれで、難儀な道じゃのう」
「うん?」
「……それから先は、己で考えてみることじゃ。進むべき道を、いつも誰かが示してくれるとは限らぬ。先も言ったが、選択とは己の責任で、己の決意で掴みとるものなのじゃよ」
「じいさんの言う事、難しくてよくわかんねーな」
「今はそれで良かろう。じゃが、いずれ坊も自分の頭を使って考えねばならぬ時が来る。その日が来たら、よーく頭を捻って考えることじゃな」
「そーするよ」
 耳の穴をほじくりながら適当に答えたライに、レッカは柔らかく微笑んだ。


 一晩の間、魔物は巣から出てくることはなかった。
 唸り声はやんでしまっていたため、一番重装備であるクルスが、皆の見守る中坂を下り巣の中を覗く役目を負った。「あっ」と声を上げた彼が呼びかけてくるまま巣へと歩を進めれば、見つかったものは―――仇である“森林の暗殺者”の事切れた死骸。
 そして、その子であろう、二匹の小さな狼が声を上げる姿である。
「子供がいたんだね……」
「だから、巣を守っていたんでしょうね」
 呆然とするクッククローの仲間たちをよそに、ファルクは踵を返す。
「おい?」
「仇は倒した。……任務は完了だ。ニヴルヘイムが果たした、ってことでね」
「ちょっと!」
 戸惑ったようにアルマが声をかけてくる。
 ファルクは肩越しに、それを冷ややかに見下ろした。
「選べよ」
「えっ……?」
「子狼のことだよ。……樹海の中だ。放っておけば勝手に死ぬかもしれないけど、生き残って成長すれば、いずれ冒険者を襲う脅威になるだろう」
 アルマは青い瞳を瞠って、ファルクと二匹の小さな狼を交互に見比べている。
 ファルクは続けた。
「おまえが選べ」
 それだけ言うと、ファルクは坂道を登っていく。
「待てってば!」
 追いかけてきたライがファルクの肩を掴む。振り返れば、クッククローの面子は全員ついてきたらしい。
「何?」
「おまえ……」
 ちらと坂道に目をやれば、立ち尽くすアルマの金髪が見えた。
「ぼくが選ぶことじゃない。分かるだろ?」
 そしてクルスを見上げる。金髪の騎士は、何も言わずただ、ファルクを見つめていた。
「―――ぼくたちは帰りましょう。付き合っていただいて、ありがとうございました」
「いいえ」
 優しく応じると、クルスはアリアドネの糸を取り出した。


「で、おまえは辞めねーのかよ」
 宿に戻ったあと、ライがからかうように言ってきたので、ファルクは“肩を竦めて”言ってやった。
「今辞めたら、おまえに言われて辞めるみたいだろ。だから、おまえが辞めるまでぼくも続けるよ」
「ハア!?」
 上がった素っ頓狂な声に、何となく勝った気分で、ファルクはくつくつと笑った。


 結局、アルマがどちらの選択肢を選んだのか、ファルクは知らない。

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20F

 極彩色の翼を仰け反らせ、断末魔の叫びが桜を、空を、揺るがせる。
 “天空の女王”―――ハルピュイアはやがて力尽きたように、岩の祭壇の上に倒れ伏した。
「やった……のか?」
 女王の歌が止み、静まり返る戦いの間。疲れた様子で立ち尽くすクッククローのもとに、羽音が近づいてくる。
「クッククローよ、よくやってくれた」
 上空からゆっくりと降りてきたのは、翼人たちの長クアナーンだった。それに続いて何人か、武器を持った翼人たちが降りてくる。
「あんたたち、どこにいたんだ?」
「汝らの戦いを、少し離れたところから見守っていた。隙あらば援護しようと考えていたのだが……その必要はなかったようだ」
 そう言って、クアナーンはハルピュイアに目を移す。
 既に翼人たちが、その亡骸を注意深く検分し始めていた。長が「どうだ」と声をかければ、こくりと頷き返す。
 クアナーンは重い溜息を吐いた。
 それは、聖地を取り返した喜びとは程遠いものだった。むしろ、魔物の死を悼むような、そんな調子の。
―――もしかすれば“彼女”も、スキュレーと同じく、元はヒト―――翼あるヒトだったのかもしれない。
 だが言及する必要はあるまい。黙っていると、やがてクアナーンはぽつりと呟いた。
「これも全能為るヌゥフの力か。 それとも汝らの実力なのか…」
「そりゃ、俺たちの実力だろ」
「……とにかく、我らは聖地を取り戻した、そして諸君は先への道に辿り着いたことになろう」
 クアナーンはにこりともせず上空を見上げると、ハルピュイアの向こうの扉を指さした。
「その先に天空への道がある」
「天空の城か?」
「そうだ。進むなら、心して行くがいい」
 苔生した石扉は、冷たく重く佇んでいる。


「天空の城が見つかったそうね」
 本を物色している背中にそんな言葉を投げかけられて、アイオーンはそれが自分に話しかけているものだ、と気づくのに十秒ほどかかった。
 おかげで、振り返ったときには少しばかり、ノアの表情に苦笑が浮かんでいて。
「……もう一回、言いましょうか?」
「頼む」
「天空の城が見つかったと聞いたわ。あなたたちでしょう?」
「……ああ」
 本棚から抜き出したそれの埃を払いながら、アイオーンは肯定した。
 ここはノア―――正確には、彼女の家系―――が所有している、ハイ・ラガードの屋敷の書斎だ。この国の歴史と相まって、古い錬金術の資料もあるからと、ノアの好意でアイオーンはしばしばここに足を運んでいる。
 もちろん最大の目当てはそれではない。分かっていながら、ノアは誘い、アイオーンも訪れる。
「―――しかし、すぐに聖杯を手に入れることは出来なさそうだ。城の深層にあるらしくてね」
「そう」
「諸王の聖杯、火トカゲの羽毛と氷花……この三つでどんな病をも癒す妙薬が完成するらしい。……君なら、公国の今の状況は知っているか」
 公主の病のことだ。ノアは首肯する。
「ええ……本当にそんな薬、作れるの?」
「さあ」
 アイオーンは肩を竦める。ノアが渋面になった。
「錬金術の範疇ではないの?」
「薬は薬でも、人を癒す方の術は専門外だ。俺に作らせると爆薬になるぞ」
「それは御免こうむるわね……でも、医術士だけの力ではどうにもならないでしょう?」
「協力はするさ。まあそれは、聖杯が無事に手に入ってから……世界樹を踏破してからの話になるがな」
 つまり、クッククローがハイ・ラガードでの活動を終えてから、だ。
 アイオーンが含んだ意味を、ノアは感じ取ったらしい。ぴくりと眉を動かして、目を逸らして溜息を吐く。
「……そう」
「俺はここに残るつもりだ。……公国は砲撃士から分かるように元々技術力が発達していて、理解も深い国だからな。この豊かさなら戦争に利用される以外の錬金術の用途も多いだろう。腰を据えて研究に打ち込むのに実に適している」
「そうね……そうでしょうね」
「パトロンの心配はあるが……こっちは何とかなるだろう。ギルドの功績は当然として、俺個人の研究成果も評価されてきた」
 自身をサンプルに、アイオーンは義手義足の研究も行っている。これが昨今薬泉院の院長を通して、注目されつつあるのだ。
「それにもう一つ、公国に残る、最大の理由がある」
 アイオーンが笑みを向けたのは―――ノアだ。
 笑いかけてそれを収めようとするような、微妙な表情がその整った顔に浮かんでいる。切れ長の深紫の瞳を覗き込みながら、アイオーンはゆっくり彼女に近づいた。
「―――そもそもこの国に来た目的が、君を見つけることだからな」
 じりじりと距離を詰める。
「正直に言ってね……本当に驚いたのよ。あんな……別れ方をして、許されると思っていなかったから」
 ノアの背後にある椅子の背がかたんと音を立てた。
「許すも許さないも、レオンには悪いが俺は最初から君の味方だ。もう一度言おうか?」
「やめて」
 制止の言葉を無視して、アイオーンは彼女を腕の中に引き入れた。
 やはり少し痩せた、と思う。胸元で小さく息を呑む音。だが、突き飛ばされはしない。
 それに許しを認めて、彼女の腰に腕を回した。
 抱きしめる。
「この国での君の立場は分かっている……君が弟の自由のために、家のために、それを棄てられないことも。……世界樹の迷宮を踏破すれば、貴族の位は手に入るだろう」
「まだ、どれくらいあるか分からないのよ」
「分かっている」
 腕に力を込めれば、ノアが身じろぎした。
 ゆるゆると、彼女の腕が背中に回される。
「……もう一度言おうか?」
 繰り返せば、紫瞳がアイオーンを見上げた。
「ええ」
 だがそれを告げるより早く、唇は塞がれてしまった。


 そうしていよいよ大々的に、諸王の聖杯を求める触れが公国中に広まっていた。
 正確に言えば公宮が広めたわけではない。だが人の口に戸は立てられないのだ。噂に乗って、出所の怪しげな器や杯を公宮に収める愚か者も現れたが、それが本物でないのは火を見るより明らかだ。
 本物は天空の城最奥に眠っていて、未だ、そこに辿り着いた者はいないのだから。
 そしてまた、辿り着くであろう者たちも限られていた。冒険者―――彼らのうちで広まる噂はより真実に近く、“聖杯を手に入れた者には公宮から貴族の位と、一生の豪遊を約束される”というものだった。
 全ての噂の中心、最も聖杯に近しいところにいて、ライは思う。
 貴族の位か、理不尽なもんだ。そんなものなくても生きていけるが、富と名声に目がくらんでではなく、本当に必要なものとして欲しがる人だっている。ライは違うが、仲間のために、聖杯を手に入れてやりたいとは思っている。
 だが。
 本心はこう思っていた―――くだらない。
 貴族だなんだのと、どうしてそんなものがこの世にあるんだろう?
 世の中には自分みたいに、親も出自も何もない、肥溜めに生えた奴だって存在するのに。
「盗賊の依頼ィ?」
 声を上げかけたライの口を、棘魚亭の亭主がぱっと塞ぐ。
「馬鹿、声がでけえよ」
「……っぱ」
 解放されたライは、顔をしかめつつ唇を尖らせた。
 周りのサポートもあり樹海探索は順調に進んでいるとはいえ、足に重傷を負ったライは未だ本調子ではない。てっとり早くリハビリを、と樹海に入る依頼を求めて棘魚亭に足を運んで、目に留めたそれに亭主は「やめとけ」と切り捨てたのだ。
「もちろん、当人がそう名乗ったわけじゃねえがな。隠したって、俺には分かる」
「推定・盗賊の依頼だからやめとけってか?」
「……別に問題起こしたワケでもねーし、報酬もキッチリ置いてったから依頼は一応載せたんだ。だが……内容がな」
 内容は簡潔だ。“樹海にひとりで立ち入り、ひとりでしか通れない道を進んで、奥にあるモノを取ってくる”。
「なんかダメなとこあんの?」
「怪しすぎるだろうが。お宝のある道がひとりしか通れねえってのは分かるが、だからってひとりで樹海に入る必要はねえだろ」
「あー」
 耳をほじくりながら、亭主は続けた。
「ま、どうしてもやるってなら止めやしねぇが、何があっても俺を恨んでくれるなよ」
「おう」
 軽い返事のまま、ライは嬉々として依頼書にサインした。


 依頼人がいるはずの地下十三階にライは歩を進める。久しぶりに訪れる階層の深い雪に足を沈めると、身震いがした。
「……誰かと思えば」
 低いその声に顔を上げれば、待ち合わせの場所に立っていたのはフルフェイスの兜の衛士だ。
 だがライが何か言うより早く、彼はそれを脱ぐ―――現れた傷だらけの顔に、ライはあっと声を上げた。
「おまえ、ベルモン……!」
 無数の傷に引きつった男の顔こそ、忘れるはずがない。
 ライがエトリアにいた頃、クッククローに所属するまで身を置いていた冒険者ギルドの元締めだった。
「おいおい、随分だな」
 後ずさるライに、ベルモンは軽く、ハイ・ラガードの衛士の服装で肩を竦めてみせる。
 不正を行っていたベルモンのギルドは、クッククローによって壊滅し、ベルモン自身も仲間と共に投獄されたはずだった。難を逃れたのはレオンによって救われたライだけで、記憶が確かなら、未だベルモンは服役中であるはずである。
「どうしてここに……」
「エトリアの偉いさんが行方不明になったゴタゴタの隙を見て、ちょいと抜けださせて貰ったのさ。ま、上手いこといったのは俺だけだがね」
 ライは渋面を作る。ベルモンのことだから、仲間を利用して自分だけ脱獄したのだろう。
 するとライの表情からそれを読み取ったかのように、ベルモンは指を突きつけてくる。
「おっと、おまえも似たようなもんだろうが! 自分だけキレイな顔しようたって、そうはいかねえぜ……なあ、裏切りモンさんよ」
 ぐっとライは黙り込んだ。
 そうだ。ベルモンのギルドの所業はどうあれ、ライが、かつて世話になったそれを裏切った形になったのは変わりない。
 ベルモンは攻めるように続ける。
「偉くなっちまったもんだなあ、ライ。ええ? お貴族サマとも仲良くやってるようじゃねーか」
「それは……!」
 まるでライが高級身分に取り入っていることを揶揄するような響きを感じて、ライは非難の声を上げた。だが、ベルモンはそれすら一笑に付す。
「違うってのか? じゃあよ、俺と組むってのはどうだ」
「は?」
 親指で自分を指しながら、ベルモンは続ける。
「お貴族サマとのキレイなやり取りに疲れてきてないか?」
 言われて、ライは反論できなかった。
 クッククローは―――いわば、“良いひと”ばかりのギルドだ。ライは自分がそうではないことを自覚していて、加えてひねくれ者だ。素直で実直にすべてをぶつけてくるアリルやクルスたちの眩しさに、目がくらみそうになることだってある。
 年の近いファルクに至っても同じだ。認めるのは癪だが―――ライには劣等感がある。彼が持つ節度や誠実さに、到底かなわないと思うことも、多いからだ。
 しかし、静かになってしまったライに、ベルモンは興味を失ったように肩を竦めた。
「まあいいさ。……突然の再会はどうだっていい。今日の俺はおまえの依頼人だからな」
「……何させる気だよ」
 ベルモンは小道をしゃくる。
「―――お前の足元に横道があるだろ。そこを調べてきてくれ」
「……あんたが行けよ」
「俺の体格じゃ無理なんだよ。……そう警戒すんな。何かあればすぐ知らせてやるから」
 不審を露わにするライを、ベルモンは鼻で笑った。
「それとも怖いのか?」
「んなっ……」
「歴戦のギルドが聞いて呆れるな。ま、おまえみたいなビビり、顎でこき使われてるんだろうが―――」
「くそ!」
 頭に血がのぼったライは、それが挑発だと気づきもせずに横道に入り込んだ。
 横道の内側に、目当ての物はすぐに見つかった。鈍く光る四角いそれを握って横道から這い出す。
「おい、コレだろ……って」
 頭上から被さる雪と、目の前にいた“それ”が一気にライの頭を冷やした。
 魔物―――はさみカブトの大きく開かれた顎が、ライに食いつこうと迫る。
「うわ!」
 間一髪でそれを避け、ライは鞭を抜いた。
 だが退避する際、横道で拾った宝物を落としてしまう。あっと声を上げる間もなく、風のようにそれを拾っていった影があった。
「ベルモン! てめえ―――」
「腕っぷしには自信があるんだろ? 自力で何とかするんだな!」
 ベルモンの姿が掻き消える。アリアドネの糸を使ったのだろう。
「くっそおおおおお!!」
 雪を踏みにじり、魔物を眼前にしながら、ライは吼えた。


「ほれ見ろ、言わんこっちゃねえ!」
 辛くもはさみカブトを退け、棘魚亭に戻ったライを、亭主は渋面で迎えた。
「あの野郎、最初から魔物がいることを知ってて、おれを足止めに使ったんだよ」
 仏頂面で応じれば、亭主は小さく肩を竦める。
「悪い知らせがもう一つあってな。……報酬が消えちまった」
「ベルモンめ……」
 ライが忌々しく吐き捨てた名前に、亭主は反応する。
「なんだ、知ってる相手か?」
「っ……」
「まあいい。……なぁに、逃がしゃしねーさ。うちの信用にも関わるからな。ま、とりあえず俺の手持ちで身銭切るから、これで許しとけ」
「悪いな」
 詮索しないでくれるらしい。礼を言えば、亭主は不器用なウインク一つ応じた。
「ま、今回のことはおいといて、またよろしく頼んだぜ」
「うん……」
「ライくん?」
 呼びかけてきた声に振り返れば、探索組が酒場に入ってきたところだった。不思議そうな顔をしたアリルが近づいてくる。
「どうしたの? 今日は早いね……って、怪我してるじゃない」
 伸ばされた少女の手を、ライはぱしりと払った。
「あっ……ごめん」
 きょとんとするアリル。後ろめたさを感じつつも、ライは出口に後ずさった。
「おれ、ちょっと用事思い出したから。晩飯はあとで」
「あ……」
 返事は聞かず、ライは暮れなずむ春空の下へ飛び出した。


 ベルモンの悪意を直接的に受け止めたせいか、その日以来、ライは物思いに沈みがちになっていた。
 クッククローのみんなと、自分は違う。感覚的なズレが、ここにきて大きくなっているような気がしていたのだ。
 そして考えるたび傷だらけのあの顔が思い浮かび、かぶりを振って打ち消す。それの繰り返しだ。
 先に進んでいたクルスが、顔を覗き込んでいた。
「うおわっ」
「大丈夫ですか? ライ、ぼうっとして……」
「だ、だ、だいじょぶだよ。何でもない」
 早口に応じ、ライは少しばかりクルスと離れる。
 クルスはその距離に気づいた様子もなく、ただ不思議そうに頷いた。
「そうですか。なら、いいんですが」
―――ライはクッククローの面々と共に、再び第三階層を訪れていた。
 何でも、昼間の特定の時間にのみ冒険者を襲う魔物がいるらしい。依頼の詳細をライは聞いていないが、いつもの魔物退治だろうと、ぼんやりと思っていた。
 案の定現れた、第三階層にしては強力な魔物を打ち倒す。
 ライは、倒した魔物を検分する仲間と距離を置いたところで、腰を下ろしていた。それにカリンナが気づいて近づいてくる。
「ライ……」
「ん、カリンナか」
「ライ、なんだか元気ない……」
 白い顔に浮かんだ―――ほんのわずかな陰りを見つけ、ライはにかっと笑ってみせる。
「さみーし、ちょっと疲れただけさ。元気元気」
 空元気だ。案の定、人の感情に敏感なカリンナは表情を変えない。
 小さく息をつくと、幾分力ない笑みに切り替え、ライは告げた。
「平気だって。確かにちょっと浮かない感じだけど、そのうち―――」
 カリンナの肩越しに見えた衛士の姿に、ライは金色の目を見開いた。
「ライ?」
 がばりと立ちあがる。
 その衛士の親切らしい、水筒を受け取ったクルスが頭を下げ、それに口をつけた。
「クルスくんダメだ!」
 はっとそれに気づいた様子のレオンがクルスの手から水筒を払い落とす。
 クルスは激しくむせ始めた。ライは慌てて走っていってレオンに並び、クルスを庇うように衛士の前に立つ。
 衛士は―――いやフルフェイスの内側で、ベルモンが舌打ちする。
「全く運のいい連中だぜ。早いトコくたばっちまいな!」
 その体躯を思わせない俊敏さで彼はひらりと身を舞わせると、手が届かないところに着地する。
 ライの鞭ならギリギリ届く距離だ―――レオンが目配せしてくる。ライもそれに応じようと、ベルモンを見上げた。
 だが。
「いつまで仲良しごっこしてられっかな、ライ!」
 虚を突かれて、ライは固まる。
 仲間たちが驚き瞠った目をライに向けたからだ。
 ただ一人ベルモンから目を逸らさずに銀の短剣を投げたレオンだったが、ベルモンがそれをも回避し、樹海の奥へ消えていってしまったので、舌打ちひとつ、遅れてライに向き直る。
「おい」
 苛立ちを隠さぬ低い声に、ライはびくりと身を竦ませた。
「―――どういうことだ。知り合いか」
 応じられず黙り込むライ。
 重い緊張感を裂いたのは、掠れたクルスの声だった。
「あ、の」
 彼を見れば、アリルに支えられながら喉を押さえている。ベルモンに渡された水筒の中身は毒だったらしい、応急処置はしたようだが、その表情は苦しげだ。
 レオンは何かを訴えようとしているクルスの様子に、威圧感を解いた。
「一端街に戻るぞ。話はその後だ」
 宣告を受けた気持ちで、ライは項垂れた。


 ライは正直に今までの出来事を話した。
 エトリアで、クッククローの面々に出会う以前から遡って。―――物心ついたころからストリートチルドレンだったライを拾った、ギルドのマスターは本当にいい人だったこと。その人のような冒険者になりたかった。だがマスターは樹海で落命し、そのあとを継いだ男―――ベルモンは悪魔のような人間だったこと。エトリアでしょっ引かれ、服役していた彼が脱獄しており、ハイ・ラガードで再会を果たしたこと。その際に、仲間になれと言われたこと―――
「ちゃんと断ったのよね?」
「えっ?」
 それまでずっと俯いて語っていたライの目に、必死そうなアリルの表情が映った。
「断ったんでしょ? 仲間に誘われただなんて……」
 ああ―――
 ライはここでも感じた。
 アリルは、ライがベルモンの誘いを断って当然だと思っている。間違いじゃない、彼女の感覚なら、そうするだろう。
 だがライはここで、“もちろんだよ”と嘘を吐くことは出来なかった。
 ライが置いた沈黙に、アリルも周囲の仲間たちも顔を強張らせる。
 しまった、と思った。だがもう遅い。
「おまえの」
 口を開いたのはファルクだった。
「―――クルスさんの怪我。アレ、おまえのせいじゃ……ない、よな」
「へっ……」
「実は盗賊さんとグルだった、だなんてことないわよねー?」
 ルミネが重ねて尋ねてくる。
 頭が真っ白になっているライはすぐに答えられなかったが、別方向から非難の声が上がった。アリルだ。
「そんなことあるはず―――」
「ならどうして、もっと早い段階で盗賊と面識があることを報告しておらなんだ?」
 コユキの発言に、アリルは反論できない様子で黙り込む。
 ライは続くやりとりを、どこか他人事のように眺めていた。
 だがこれは、自分が、蒔いた種なのだ。
「もういい」
 そう告げたのは、ライ自身の口だった。
 何も考えることが出来ない。ただ吐き出すように、ライは続けた。
「もういいよ、みんなごめん。おれのせいだ」
 ひどく、みじめったらしい気持ちだった。
 どうして、こんな自分が信じてもらえよう。ライなら信じない。
 糞にまみれた悪意の世界。その住民であるベルモンのすぐ隣で、ライは仲間たちを見上げるしかない。
 みんなの顔を見ていたくなくて、こうべを垂れる。
「……お前がやっこさんに“奪われた”、ブツのことだが」
 唐突に沈黙を割ったのは、レオンだった。
 淡々と、ライの隣で彼は続ける。
「魔物を操る笛なんだと。棘魚亭の亭主によれば、やっこさん公女様にもちょっかい出してるみたいでな、公宮の助けも得たおかげでかなり調査が進んだらしい。……で、なんともう居場所まで割れた」
「早いですね」
 ガラガラに枯れた声でクルスが言う。レオンが首肯した。
 いつの間にかこうべを上げていたライ。突然レオンの顔がこちらを向いて、息を呑む。
 だが、隻の碧眼から目を逸らすことが出来なかった。
 逸らせないほど厳しい表情で、レオンはライに告げる。
「衛士隊も討伐に向かうらしいが、亭主がわざわざやっこさんの居場所を俺たちに教えてくれたってことは……分かるな」
 何も言えないでいると、さらに彼はライの目を覗き込みながら、続けた。
「ごたくはいい。行動で示してみろ」
「何……を」
 やっとのことでそれだけ口にすれば、レオンは忌々しそうに歪めた顔を離していった。
「こういうときくらいその空っぽの頭、使ってやれ馬鹿野郎」


 ライはぼんやりと、夜のラガードをふらふら歩いていた。
 明朝早くにベルモンのねぐらへ踏み込むから、それまでしっかり考えろと言われて放り出されたのだ。カリンナはもちろんアリルやクルス、何故だかファルクまで―――気持ち悪いことに―――心配した様子で後を追ってこようとしていたが、レオンがそれを許さなかった。ここに至ってまでライにはレオンの考えていることが一切読めない。リーダーは一番ライと考えが近しい相手だと勝手に思っていたが、そもそも彼がライを拾った理由からして不明なことに気づく。
 底冷えする星空の下、くしゃみの音に目を向ければ、珍しい顔を見つけて目を瞬いた。
「ヨハンスさん?」
「やあ、ライ君」
 これまた人の好い笑みを浮かべて―――がりがりの青白い顔を向けてきたのはカリンナの養父、ヨハンスだ。いつものように呪術師のコスプレをしているが、拘束されていない両手に持っているのは湯気たつ焼き芋だ。
「こんなとこで何食ってんの……?」
「や、何故だかあそこでいただいたのだよ」
 ヨハンスが指さしたのは、街の篤志会が定期的にやっているらしい炊き出し集会だった。わらわらと集まるぼろ布を纏った人々の群れを見て、ライは頬を引きつらせる。
「ヨハンスさん、それ絶対浮浪者と間違われてるよ……」
「ライ君も食べるかい?」
 半分に割った芋をヨハンスが差し出してくる。タイミングよくライの腹が空腹を訴えたので、大人しく受け取って、手近な樽の上に二人で腰を下ろした。
 ふかしたての芋は甘く、冷えた身体を温めてくれる。
「うめー……」
「ギルドのみなさんは? 一緒じゃないのかい?」
 芋を頬張りながら、ライはこくりと頷いた。
 周りにはライたちと同じように、施しを幸せそうに食んでいる浮浪児の姿もある。
 何故だか隠す気になれなくて、ライはヨハンスに正直に、酒場であった出来事を話した。
 ヨハンスは妙に神妙な顔でそれを聴いていた。芋を食う動作すら止まっている。
 話し終えたライに、ヨハンスは質問してきた。
「それで、ライ君自身の答えは何かね?」
「答え?」
「“行動で示せ”と言われたんだろう? 何を示すのかね」
 ライは「多分だけど」と断ってから、告げた。
「信頼……とか?」
 言ってみてから恥ずかしくなって、首を傾げる。
 が、ヨハンスはうんうんと頷いていた。
「そうだね。私も、話を聞く限りではそうかなと思ったのだよ」
「ヨハンスさんも?」
「恐らくだが、君はギルドのみなさんからの信頼に足る人間であると、胸を張れない気持ちでいるのだろう。そんな自信のないことではいけない。だから、レオンさんは“行動で示せ”と言ったのだろうね。言葉はいくらでも繕い欺けるものだから」
 みんなが信頼してくれていい、と。行動で示せ―――ライはしかし、俯いて答えた。
「ヨハンスさんの言うとおりだよ。……おれ、自信なんかないや」
「昔のお仲間に味方してしまう自分がいると?」
「……すごいな、ヨハンスさん。何でもお見通しだ」
 自嘲しながら言えば、ヨハンスは微笑んだ。
「私が分かることなら、レオンさんも見抜いているのではないかな」
「リーダー、そんなに気ィ利かねえって」
「いやいや。……君が思っている以上に、彼は君を見ていると思うよ」
「リーダーが?」
「そうさ。色々ととびきり厳しいことを言うのも、君に早く冒険者として一人前になってほしいからさ」
「へー……」
 あのリーダーがねえ、と立てた膝に肘をつくライに、ヨハンスは問うた。
「君は、レオンさんを信頼しているかな?」
「えっ? ……そりゃまー、それなりに」
「それは良いことだ。……あとは自分で考えたまえ」
 ヨハンスはにっこり笑って、一口で芋をたいらげた。


 何だよ。みんなこぞって考えろ、考えろって。
 結局翌朝、ライは大人しく一行についていった。ベルモンがいるという、第四階層に歩を進めるメンバーはレオンとライを筆頭に、ヒューイ、そしてファルクとアリルである。
 宿を出る前、カリンナがお守りをくれた。“わたしはライのこと、信じてるから”と、小声で言ってもらえた言葉がライの背中を押した。
 ぎゅっと、手のうちでお守りを握りしめる。
 すると、ヒューイが一本の桜の木に向って唸り声を上げ始めた。
「やるねえ、さすがにもう騙されねえか……」
 言いつつ木の陰から姿を現したのは誰であろう、ベルモンだ。
「大人しく、もう一回お縄につくんだな」
 淡白に告げるレオン。
 ベルモンは一瞬彼に目をやると、その隣にいるライを指さした。
「おいおい、俺一人は不公平だろ。ライはどうなるんだ?」
 息を呑むライ。
 反論する前にレオンを見れば、彼はライを横目で一瞥したのち、ベルモンに告げた。
「揺さぶりのつもりか? しょんべんくせえガキでももう少しマシな嘘吐くぜ」
「んだとォ?」
「おい」
 今度はライに向けてはっきりと、レオンは言った。
「やましいことがないなら堂々としてろ。そんなだからつけ込まれんだ」
「……お、おう」
 ベルモンが素早く取り出した何かを口に寄せる。
 甲高い音が響いた。
 魔物を呼び寄せるという笛だ。にわかに唸り声と地響きがクッククローを襲う。
「そこを退けば命だけは助けてやってもいいぜ!」
 やがて現れた魔物の大群をすり抜け、その背後に回りながらベルモンは続ける。
「俺は忙しいんだ。街へ行かなきゃならねえからな」
「ベルモン、てめえ!」
 ライは鞭を抜いてベルモンに向かおうとしたが、レオンに腕を掴まれて止まる。
「リーダー!」
「落ち着け、あいつより魔物が先だ!」
 魔物はクッククローに見向きもせず、真っ直ぐに階段へ向かっていく。
 ベルモンの言うとおり、街を目指しているのだ。
「くっそ!」
「おい!」
 ファルクに呼び止められ、魔物に向おうとしていたライは必死に振り返った。
「街になんて辿り着かせるもんか! 行くぞ!」
「あ、ああ」
 勢いに気落とされたように、だがはっきりと、ファルクは頷いた。


 ついに最後の一体を残すところになった。
 クッククローの戦いを眺めていたベルモンが、狼狽えるように二三歩あとずさる。
「くそ……」
 ライはそれを一瞥したのち、襲いかかってきた“真紅の毒針”に向けて張っていた罠を切った。
 直撃し、甲殻を貫く刃。悲鳴を上げるサソリの魔物の傷口に、ファルクが雷の術式を封入した銃弾を叩き込んだ。
 ひとたまりもあるまい。
 ライは魔物の断末魔を聞くこともなく、ベルモンに向かう。ベルモンはライの動きに気づいていたようで、脱兎のごとく逃げ出した。
「待ちやがれ!」
 もうベルモンに対する恐れはなかった。ライの頭を占めるのは怒りだけだ。―――街を襲うだって? ラガードにはカリンナも、仲間たちも、武装をもたない街の人たちだっている。許せるはずがない!
 甲高い笛の音が魔物を呼ぶ。ベルモンとの間に割って現れたサソリの援軍に、だがライはひるまない。
「どけえ!」
「ライ!」
 叫んだのは、後方のファルクだった。
「―――伏せろ!」
 振り返って目が合った銃口に、何をしようとしているのかを悟り、ライは地面に身を投げる。
 頭上を通過していく弾丸。はじけたそれから雷が空気を食む。当たりどころが悪かったようで、その一撃で魔物は黒こげになって絶命した。
 耳の先がちりちりと痛むが、ライは立ちあがる。
「けっ、こんな至近距離で使うなってんだ」
 憎まれ口を叩くが、珍しくファルクは乗ってこない。
 むしろ神妙な顔で、こんなことを口にした。
「悪かったよ」
「へ? なんだよ、気持ち悪ィ」
 ファルクはむっとした様子で繰り返す。
「変なこと言って悪かったって言ってるんだよ。……あの盗賊とグルだなんて、最初から信じちゃいないけど」
「あ……」
 ライは目をぱちくりとする。
 バツ悪そうに目を逸らすファルクに、にいと笑うと、ライはその背をばしばしと叩いた。
「まー気にすんなって!」
「痛って!」
「オレ様は尊大だからな、許してやるよ!!」
「痛いって言ってるだろこの馬鹿力! むしろただの馬鹿! “尊大”じゃなくて“寛大”だ!」
 やいのやいのと言い合う二人に、遅れて合流したレオンとアリルが顔を見合わせる。ヒューイが「くぅん」と鳴いた。
 そこへ―――響いた悲鳴。
 クッククローははっと悲鳴―――ベルモンが逃げた方角へ走る。草むらを抜けて辿り着いた場所にあったのは、じりじりと“真紅の毒針”に追い詰められるベルモンの姿。
 その足元には、砕け散った笛の残骸があった。
「あっ」
 ライが声を上げるより早く、“真紅の毒針”がクッククローに気づいた。
 ぐるりと旋回した体躯の尾先がベルモンを撃つ。弾き飛ばされるも、辛うじてベルモンは桜の木に引っ掛かった。
 だがここはかなりの上層階で、木の向こうには何もない。空だけが広がっている。
「ベルモン!」
 とっさに手を伸ばすも、ライの位置からは届かない―――だが、ベルモンに救いを差し延べた者は他にもいた。
 レオンだ。
「死にたくなかったら掴まれ!」
 桜の木の先で震えながら、しかしベルモンは吐き捨てる。
「うるせえ、騙されるか! む、向こうへ行け!」
「このっ―――」
 身を乗り出し、無理矢理ベルモンの首根っこを掴もうとした―――レオンの手が空を切る。
 追いついていたライははっと桜の木の下を見る。ベルモンの足を引いたのは、木の真下、崖っぷちの穴の中にいた“真紅の毒針”だった。
 それも一匹ではない。己が呼んだ無数の魔物に、ベルモンの顔が恐怖に引きつる。
 その悲痛な目と、ライは目が合う。
―――だが唐突に、暗闇が目を覆った。
 そのままずりずりと力任せに木から引き剥がされ、ライは戸惑う。
 ベルモンの断末魔が轟く。
 やがてそれも聞こえなくなった頃、ようやくライは平坦な地面と光の元に引き戻された。
 開いた視界に真っ先に映ったのは、レオンの手袋だ。
「リーダー……」
「すまん」
 彼は無表情だったが、声は固かった。
「―――助けてやれなかった」
「あ……」
 ライは桜の木を振り返った。
 そこにはもう、何もない。
 もう一度、赤髪の後姿に呼びかけようとしたライだったが、轟く銃声が現実にその意識を引き戻す。まだ一体、“真紅の毒針”が残っているのだ。
「行くぞ」
 レオンに言われて、ライは頷いた。


「リーダー」
 全てが終わった帰路で、ライはレオンに声をかけた。返事が返らないので、そのまま続ける。
「さっきは、ありがとう」
「……“ありがとう”?」
「オレのために、ベルモン助けようとしてくれたんだろ」
 振り返っていた隻眼が、軽く見開かれた。
 レオンの性格なら、ベルモンのような奴は見捨てるはずだ。それを助けようとした―――多分、ライのためだろう。彼が、ライのかつての仲間だったから。
 上手く言い表す言葉を見つけられなくて、ライはこう言った。
「オレ、クッククローに入れて、良かったと思うよ」
「……そうか」
 無愛想にレオンがそっぽを向いてしまったので、ライは続けるはずだった言葉を苦笑で呑みこむ。
 “信じてくれてありがとう”―――そんな言葉を。


「ごめんなさいねー」
 結局その後のミーティングで、ライを責めた面々はあっさりと謝罪の言葉を口にしていた。
 もとより、そんな心底彼の関与を疑っていた者は一人もいなかった。“確認”のはずが、ライが黙り込んでしまったため疑いの方に天秤が傾いてしまったのだろう。すぐに否定しきれなかった、ライも悪かったということで収まりがついた。
 やれやれと、レオンはエールに口をつける。
「一件落着か」
「そーだな」
 アイオーンに軽く応じる。
 和気あいあいと―――本人たちにはそんなつもりはないだろうが―――少しばかり無理をして、騒いでいるライやファルクたちを眺めつつ、続ける。
「ハナタレ小僧どももちったあ、成長してるってことだろ」
「随分仲良くなったものだな」
「他人を受け入れる余裕が出来たってことさ。ま……これで、俺の方も決心がついた」
「?」
 レオンはそれには答えず、ただ口角を上げた。
 そして、テーブル席の大所帯―――クッククロー全員に呼びかける。
「でもって、これからいよいよ天空の城に挑むわけだが」
「ちっとだけ遠目に見てきたけど、金ピカだったんだぜ! 金銀財宝ざっくざくに違いねーって!!」
「話が進まん」
「でっ」
 拳骨一発でライを黙らせると、涙目のそれを無視してレオンは続ける。
「……あれに挑む前に一つ、言っておこうと思ってたことがあってな」
「なあに? 改まって……」
 アリルが不思議そうに首を傾ぐ。
「俺たちの目的は、聖杯を見つけることだ」
「そうだな」
 アイオーンが頷く。
 レオンは肩を竦め、続けた。
「だが、元々ハイ・ラガードに来たのはノアを見つけることだ。金の問題もあったが……そいつはノアが迷惑料ってことで、何とかしてくれるらしい」
「マジかよ。ノアさんすげえ!」
 散々怒っていたことは棚に上げて、ライが目を輝かせる。
「で、本題だ」
 咳払いひとつ、レオンはさらに続ける。
「聖杯を見つければ、ハイ・ラガードでの目的はなくなるだろ」
「……そうだね」
 ファルクが頷く。
 レオンは面々を見渡した。
 告げる。
「だから、そこでクッククローは解散だ」

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第五階層

▼[21F]一番下へ▼

21F

「クッククローは解散だ」
―――その一言に、クルスは“ああ、やっぱり”と淡泊な感想を抱いた。
「ん、なっ……」
 驚き瞠った、ライの金色の瞳が、きっとレオンを睨みつける。
「解散って、どういうことだよ!」
「何も今すぐってわけじゃねーよ」
「当たり前だッ!」
 ライの拳が木の机を打つ。
 その隣の席で、スープ皿を持ち上げ待避させていたアリルが、眉をひそめた。
「ねえ、どうしてそんな突然に、解散なんて考えたの?」
「別に……前から考えていたことだ」
「でも……」
 レオンは食い下がるアリルから目を逸らすと、面々を見渡した。
「ギルドを引き継ぎたい奴がいたら、名乗り出てくれ」
「リーダー!」
 がたりと立ちあがるレオン。
「だが少なくとも俺は、抜ける。……今日はこれで終わりだ。あとは各自自由にしてくれ」
「リーダー……っ、くそ!」
 足早に立ち去るレオンを、ライが追いかけていく。
 だが大多数は、呆然としてそこに座り込んでいた。
 酒場の喧騒の中に浮く、静けさ。そのうちにいてクルスはぼんやりと、この数日で己の身にあったことを思い返していた。


「ありがとうございました」
 深々と頭を下げ、建物をあとにする。
 応対してくれた相手は親切で申し訳なさそうだったが、どこか演技くさいところがあった。
 やっぱり、またダメだったか。
 青い空を見上げて、クルスは重い溜息を吐いた。これで何連敗になるだろう。今日クルスが訪れていたのは、この国に所属する商隊を警護する騎士団の詰所だった。
 目的はすなわち、採用試験である。
 クルスは貴族の称号を持つ家柄の出だが、それは母国での話だ。だいたい、父兄の伝手で入った騎士団は不義理な形で辞めてきてしまった。そのため冒険者という、あってなさそうな職業の皮を剥いでしまえば、クルスは無職無称号なのである。
 これではいけない。クルスは一応、身も心も騎士のつもりであった。それはすなわち、どこかの騎士団に所属し、世のため人のため働くということである。冒険者も楽しいものだが、人生の最期までそれに費やすつもりは、クルスには毛頭ないのだ。
 だが。
 ハイ・ラガードに身を置き、冒険者として名を上げていても、現実は厳しかった。そもそも連綿と続く保守的なお国柄もあって、公宮周りや下町以外の住民の冒険者に対する目は非常に冷たいのだ。伝統と格式を重んじる騎士団においては尚更、面談どころか門前払いに遭うことも珍しくはない。
 いっそ、エトリアで就職先を見つけた方が良かったか。
 あのときはそれどころではなかったから、エトリアで再就職先などは探してもいない。が、あの街は成り立ちから言って冒険者、流れ者や荒くれ者が制度のうちに組み込まれている街だ。逆に、騎士としての生き方は難しいだろうと、クルスは思う。
 自分の望むものと、望まれるものを一致させるのはなかなか、大変なものだ―――肩を落として宿への帰路に着くクルスに、大柄な男がぶつかってくる。
「あっ、ごめんなさい」
 謝るクルスをよそに、男はそのまま坂道を走り去っていく。
 呆然とそれを見送ったクルスはふと、胸から下げていた路銀袋が消えていることに気づいた。
「あっ」
 泥棒だ―――と坂道に目をやった刹那。
 泥棒男の頭に、横道から飛んできた何かがクリーンヒットしたのが見えた。
 クルスは目を瞬かせる。
 近づいて行きながらよくよく見ると、その飛んできたものは子供―――
 否。
「て、て、てめっ」
 ぼたぼたと血垂れる鼻を押さえる男が睨んだのは、子供ではなく白黒の毛皮をもったクマだった。
 クルスがクマだと判断したのは、その毛むくじゃらのケモノが二本足で歩行していたからだ。小熊はずんずん歩を進めると、男の腹の上に飛び乗って―――「うごっ」と悲鳴が上がった―――胸を張るように男を見下ろす。
 ざわつく通りに、女の声が高らかに響き渡った。
「おっほっほ、我が自由騎士団の目の前で狼藉を働こうだなんて、百年早いわよ!」
 現れたのは、褐色肌の女だ。騎士の鎧を身に纏っているが、幾分装飾が派手である。
「カラシ!」
 女が呼びかけると、小熊はぴくりと耳を動かし、男を踏んづけながら女の元に移動した。
 男はその隙に這って逃げようとするが、それを今度は女が、背中の中心をずんと踏みつける。
「ぐえっ」
「ホラ、盗ったものを出しなさい!」
 男が大人しくクルスの財布を差し出すと、女は男を解放した。
 ほうほうの体で逃げていく男。それを見送り、クルスは呟く。
「捕まえないんですか?」
「今日のところはね。私たちも忙しいのよ。―――カラシニコフ、行きましょ!」
 呼びかけに応じた小熊を連れ立って、女は踵を返す。
 颯爽と去ろうとするその後ろ姿に、クルスは慌てて声をかけた。
「待って下さい!」
「……なあに?」
「財布……」
「あっ」
―――女は少し照れながら、手に持ったままだった、クルスの財布を返してくれた。


「……ということがあったんですよ」
 宿部屋に帰った折、たまたま出くわしたレオンにそう話せば、彼は呆れたように言った。
「財布なんかスられるなよ……」
「す、すみま……って、話の主旨はそこじゃありませんよ!」
「分かってる。就職先が決まらなくてまいってんだろ?」
「そ、それも……まあ、それは正しいんですが」
 クルスはただ、奇妙な小熊と騎士鎧の女性の話をしたかっただけなのだ。がっくりと肩を落とせば、しかしクルスの眼前に紙がぶら下がる。
「……“求む、世界に羽ばたく挑戦者。自由騎士団”?」
 ビラを読み上げながら受け取れば、正面のベッドにレオンが腰を下ろす。
「帰りがけ、広場で配ってたんだ」
「これ……」
 クルスを助けてくれた女性が名乗っていたのが、“自由騎士団”だ。
 もしかすれば、彼女が属する団体かもしれない。
 それにしてもレオンがこんなビラを持っていることが、クルスには意外だった。
「珍しいですね、レオンも興味があるんですか?」
「馬鹿言え、荷物で両手が塞がってるところに無理やりねじ込まれたんだよ」
 “自由騎士団”―――団員募集のビラの説明を読むかぎり、その名のとおり特定の国や組織に属さない騎士団であるらしい。活動内容は主に、依頼を受けた地域での魔物の討伐活動。
 戦争行為など、人同士の争いには一切関与しないというのが、傭兵との違いのようだった。
「へえ。良心的ですね」
「そんなに若い団体でもなさそうだしな。実績があるんだろ、活動地域は世界各国らしいぜ」
「渡りをするんですか?」
 一つの地域に長く留まらないということだ。
 レオンは肩を竦める。
「だから、入団者も絞っているんだろうな」
 騎士団とは何かを守るために存在するものだ。しかしその精神性を重視するなら必然的に保守的な組織となり、守る対象も土地や国など不変のものになる。
 騎士の精神を持ちながら、渡りを行う。簡単なようでいて、試されるところは難しい。よほどの覚悟や決意が必要だし、誓いを守る節度も重視される。
 だが。
「いいですね」
 人の争いに介入しない。
 何よりその一点が、クルスの気持ちを惹きつけた。この騎士団が掲げる“守るもの”は人や社会そのものなのだろう。普通の騎士は嫌がるだろうが、クルスは魔物と戦うのは得意だ。
「―――一週間後に、入団試験を兼ねた魔物討伐があるらしいですよ」
「行ってこいよ」
「いいんですか?」
 もし合格すれば入団することになって、当然冒険者を辞める運びになるだろう。
 しかし、レオンはそれこそ目を丸く―――何故聞き返すのか、というような顔をした。
「いいんじゃね?」


 そんな経緯があったからこそ、彼の突然の“解散宣言”にも、クルスは驚かなかったのだ。
―――“宣言”の帰り道、何となくクルスはアリルと二人連れだって歩いていた。彼女の方はやはりショックだったようで、難しい顔でとぼとぼと足を動かしている。
「なんで、解散なんて……」
 何気なく、クルスは問うた。
「突然言われたことがショックですか。それとも、レオンが解散を考えていたことが、ショックですか」
「そりゃ! ……レオンがそう考えてた方、かな。うん、どうして解散しようと思ったんだろうって……」
 すっかり気落ちして呟く様が痛々しい。
 クルスはしかし、こう答えた。
「いつまで、このままでいられるんでしょう」
「え……」
 聞き返してくるアリル。
 クルスは、笑顔で応じた。
「僕たちはそれぞれ目的を持って、冒険者になりました。……そしてその目的がそれぞれ達成された時、僕たちは冒険者でなくなるでしょう? それは、いつか必ず訪れる日です」
 アリルは大きな目を見開いて、クルスを見つめている。
 クルスは続けた。
「僕も、実は自由騎士団の試験を受けることにしました」
 アリルが小さく息を呑む。
「……それは、いつ?」
「明日です。……合格すれば、世界を巡る旅に出ることになります」
「どうして?」
 アリルはぴたと歩を止めた。
 訴えてくる表情は必死で、悲壮だった。
「―――どうして今なの? みんな……私、みんなと離れたくないよ。どうして、まだ、今じゃなくたって、いいじゃない……」
「アリル」
 クルスは彼女の肩を掴んだ。
 震えている。小さな肩だ。触れた経験がないわけではないが―――争いも、危険も脅威も、何もない状況で初めて触れたそれは、細かった。
 濡れている翡翠の瞳と、目が合う。
 込み上がる想いを止めきれず、クルスは言った。
「僕と一緒に来ませんか」
「えっ?」
 その肩を掴んだまま、クルスは続ける。
「騎士団は医療従事者も募集しているんです。魔物討伐を主目的とする騎士団なので、危険は当然ありますが……でもそれは、僕が守ります」
「クルス、くん……」
「僕もみんなと離れたいわけじゃありません。特に……アリル。あなたとは……僕はあなたが好きです」
 見開かれた両目から、ぽろりと滴がこぼれた。
 繰り返す。
「僕が好きなのはあなたです、アリル」
 アリルの唇が開いて、閉じる。
 なかなか言葉が出ぬ様子で、彼女は視線を彷徨わせた。
「わ、私……でも」
「今すぐでなくていいんです」
 早口に、クルスはアリルの言葉を遮った。
 なおも続けようとする彼女を無視して、離れながら、続ける。
「返事は、今すぐしないでください……少し考えて、それからにしてください」
「クルスくん」
「お願いです」
 笑顔で制止し、先を言わせないようにしながら、クルスは一方的に会話を打ち切った。


 翌朝。
 ラガードの街外れ、外門を抜けた先にある集合場所をクルスは訪れていた。
 既に武装をしている人間がちらほらいる。獲物や鎧はそれぞれだが、クルスのようにフルアーマーの者は少なかった。
 時間までまだ少しある。愛用の盾を壁に立てかけ、その隣に背をつき、クルスは溜息を吐いた。
 頭上には青空が広がっている。いい天気になって良かった。鎧の錆びの心配をしなくて済む。樹海の中ではあまり気にならないが、屋外では雨が降る可能性もあったから。
 そこへ、雲のせいではない影がぬっと現れる。
「おいおい、こんなひょろっこい野郎までいるのかよ」
 現れた背の高い禿頭に、クルスは口角を歪める。
 その隣ににゅっと、ギョロ目の女の顔が生えた。
「坊ヤ、悪いこと言わないから、遊びに来たんならとっとと帰るんだね」
 こんな重武装までしてさ、と女はクルスの肩を突いた。壁に背をついてるし勿論クルスはよろけもしなかったが、上がった三人目の笑い声に下を向く。
 女の肩下くらいの高さに、そばかすを散らした少年の顔があった。
「おまえ、ホントに戦えんのか?」
「ええ……まあ、それなりに」
「どこぞのお坊ちゃんが、正騎士団に音を上げて来たって感じだけどね」
 女の言い草に、クルスは苦笑いする。実に間違いではない。
「僕は冒険者です」
「冒険者? へえ? 見ない顔だね」
「冒険者をやってて、俺たちのことは知らないのか!」
 得意げに胸を張る三人。そばかす少年が代表して言った。
「世間知らずのおぼっちゃんに教えといてやるよ。おいらたちは“スターバスターズ”っつう新鋭ギルドの冒険者なのさ。先週、第三階層を突破したところの実力派だぜ」
「へえ、それはすごいですね」
 実のところ何組のギルドが第四階層まで進んでいるのか知らないが、クルスはそう答えておいた。
 だがそれで少年はますます調子に乗ったようで―――まるでどこかの白髪褐色少年を見ているようだ―――早口で続ける。
「残念ながら天空の城は、どっかの田舎モンギルドに先を越されちまったけど。聖杯を見つけるのはおいらたち“スターバスターズ”だから、しっかり覚えとけよ!」
「あーんーたーたーちー」
「うわっ」
 “スターバスターズ”三人組の間からぬっと生えてきたのは、褐色肌に桃色の巻き毛の―――以前街でクルスが出会った女性の頭だった。半目のその顔にクルスが声を上げる間もなく、彼女は続ける。
「さっきから集合って言ってんのに、聞こえてないの? 話を聞かない奴は最初からお断りよ」
「す、すみません」
「あら? あんた……」
 どこかで見た顔ね、と女の顔がずいと近づく。逃げ場のないクルスは辟易しながら答えた。
「先日は、財布をどうも」
「あっ! 財布をスられてたぼんやり君か!」
「ぼ、ぼんやり君……」
 “スターバスターズ”から失笑が漏れる。
 女性は気にした風もなく、言った。
「へー、あんたも受けるのね。……ま、いいけど。気をつけなさいよ? 戦場でぼーっとしてちゃ、死ぬわよ」
「はい……」
 しゅんとするクルスをよそに、離れていった女性は、集合した入団希望者の面々に呼びかけた。
「それじゃ、今日の試験の説明をするわね! 私は案内役かつ、あんたたちのお目付け役のフロリアン。自由騎士団の騎士よ。そしてこっちが……」
 女性の肩に、ぴょんと飛び乗ったのはあの、白黒の小熊だ。
「―――同じく、カラシニコフ。他にも正騎士はいるけど、あんたたちの試験に危険がないか見守るだけだから紹介はしないわよ。で、早速説明だけど……」
 淡々と説明は進む。といっても目的は簡潔で、南の街道に出没した魔物を掃討するということらしい。自由騎士団の所属騎士だけで十分事足りる仕事だが、どうせなので入団試験を兼ねた形にしたということだ。
「一人何匹、とかいうノルマは一切ないわ。死なないように、周りの人間と協力しながら戦ってちょうだい。その様子を見て、こちらが合否を判断します」
「判断基準は何なんだよ?」
 “スターバスターズ”の少年が尋ねる。
 案内役の女性―――フロリアンは肩を竦めて答えた。
「それは教えられないわ」
「んなもん、こっちだってアピールのしようがねーじゃん」
「……そうね、活躍するに越したことはないけど……あ、ひとつ言っておくわね」
 人差し指をぴっと立てて、フロリアンは付け足した。
「前歴は一切考慮しないから、そのつもりで。特に冒険者の人がこの国には多いと思うけど、評価対象は今日の働きだけよ」
「んだよそれ、余計にわかんねーの」
「それと」
 立てた人差し指を“スターバスターズ”の少年の鼻先につきつけ、フロリアンは言った。
「―――うちも一応、伝統ある騎士団なの。周りの人間、特に目上に対しての口のきき方には気をつけなさい」


「……っだよ、くそ……」
 悪態をつくそばかすの少年を、仲間の禿頭の男とギョロ目の女が宥めている。
 移動の隊列の後方からそれを眺めつつ、クルスは青空を見上げた。本当はもっと前に行きたかったが、街道は狭いのだ。
 随分久しぶりに、こんな陽光の下にいるような気がする。周りは武装した無骨な面子ばかりだが、何となくハイキングのような気分だ。
 魔物の気配はまだない。
 が―――後ろから近づいてくるフロリアンに、クルスは振り返った。
「大きな盾ね」
「はい」
 にこにこと上機嫌で、フロリアンはクルスの全身をじろじろと眺める。
「な、何ですか」
「随分重武装ねーと思って。ま、私も人のコト言えないけど?」
 クルスは目をぱちくりやる。
 そういえばフロリアンの鎧は重武装なわりに装飾が多いのだった。何となく、浮かんだ疑問をそのまま口に出す。
「フロリアンさんは、こちらの騎士団に所属されて、長いんですか?」
「えっ? ……うん、まあね」
「どういった経緯で自由騎士団に?」
 質問を重ねると、フロリアンは眉根を寄せた。
「あんまり、試験官の個人情報を聞き出そうとするのは、感心しないわね」
「す、すみませ」
「ほら、考えなしに喋らない。きみ、しっかりしているようで肝心なところは抜けているタイプね」
「う……」
 フロリアンこそ、ずけずけと人の痛い部分をついてくる性格らしい。赤髪の男を思い出しつつ、クルスはかぶりを振る。
「きみは冒険者だっけ?」
 フロリアンが話題を変えてきたので、それに乗じることにする。
「クルスといいます。はい、冒険者です」
「ふーん……長いの?」
「そ、それなりに」
「それなり?」
 じろじろとクルスを検分し、フロリアンは言う。
「―――なんだか、冒険者って感じはしないけど。履歴書のところ、前の騎士団を退団してからあまり日がないみたいだったし」
「あ、はい……」
 前歴は考慮されないらしいが、一応履歴書は提出した。クルスは冒険者であることは明言こそすれど、具体的な期間や功績は書かなかった。冒険者であることが、マイナスに働く採用もあるからだ。
 それに。
「僕は冒険者である前に、騎士のつもりですから」
 そう答えれば、ふんふんと頷きつつフロリアンは言った。
「騎士としての武勲はないのにね」
「そ……それはその」
「騎士のつもりってことは、あんまり冒険者のつもりはないってことなの?」
 言われて、クルスは眉を曇らせる。
「そう……ですね」
「じゃ、どうして冒険者みたいなあぶれ者になったのよ? 世間体もよくないでしょ。こういう騎士団に入り直せたとしたって、後ろ指さされることになるかもしれない」
 フロリアンの言葉が、胸に突き刺さる。
 クルスは、父兄の伝手で入った騎士団をとにかく出たかった。家を、貴族というレッテルを通してでしか評価されない世界が嫌で、自分の力で功を立てたいと考え、冒険者になったのだ。
 冒険者であることから、たまらなく逃げたくなったこともある。それでも、クルスは冒険者であり続けた。大切なものを守るために戦っている、その本質は冒険者であっても変わらないということが見え始めていたからだ。
 だがクルスは自身の在り方として、冒険者であるより騎士であった方が、より守る対象が増え、守れる範囲も広くなると考えている。
 だから、クルスは再び騎士に戻ることに決めた。元より冒険者は逃避先として選んだものだ。クルスの道は初めから揺るがず決まっている。
 だが、世間の評価など気にしない―――自身はそうであっても、世間はそれを許さない。その点を考えていなかったと指摘されれば、考えが甘かったと、クルスは認めざるを得なかった。
「僕は冒険者になった今も、根底は騎士であることを辞めたつもりはありません。だから、それを分かってもらえるように、示すしかないですね」
 今はそう返すだけで精一杯だった。
「魔物だ!」
 唐突に、隊列の先頭から声が上がる。
 見れば、空を覆わんばかりの黒い雲が前方から近づいている。
 それは雲ではなく、魔物の群れのようだった。クルスは剣を抜く。その肩を、フロリアンがぽんと叩いた。
「それじゃ、頑張ってね」
「はい!」
 クルスは前方を見据えたまま、身構えた。


 魔物の一体一体はあまり強くないが、何せ数が多い。
 耐久力には自信があるが、さすがに少し集中が乱れてきた。
 “スターバスターズ”のそばかすの少年が、足を泥に取られて体勢を崩すのが見えた。鳥の魔物がそれに迫る。クルスは盾を抱えて、呼びかけながら そちらに走る―――「さがってください!」
 少年は聞こえていたようだが、咄嗟のことにその身体は動かない。
 クルスは剣を放ると、少年の襟元を掴んで引き倒しながら、片方の手で盾を突き出した。
「おいっ、余計なことすんな!」
「そう言われても……」
 少年が暴れるせいで、盾が安定しない。激突する鳥の重みが、一羽二羽と連続してかかる。
 勢いを殺しきれず、クルスは少年ごと転倒した。
「うわっ」
 すんでのところで地面に手を突き、少年を押しつぶすことは免れた。盾の上から重みが消える。何とかその下から這い出したクルスと少年が見たものは、怪鳥を三体ほど投げ飛ばす小熊の姿だった。
「あ、ありがとうございます……」
「はーい、治療治療!」
 呆然と礼を言うクルスを押しやって、フロリアンが少年を捕まえる。ぎょっと身を引く彼だったが、その腕を掴むフロリアンが力を込めれば、苦痛に表情が歪んだ。怪我をしていたらしい。
「このくらいの傷っ……」
「やせ我慢なんかしても迷惑なだけよ」
 フロリアンに切って捨てられ、少年は黙り込む。
 一方で、彼女はクルスを見もせず言った。
「君も。“いつもの仲間”じゃないんだから、相手の状況を見るだけじゃなくて、呼吸をしっかり読んで行動すること」
「はい……」
 フロリアンに指摘された部分を素直に認め、クルスは盾を地についた。
 どうやら、魔物の襲撃は止んできたようだからだ。ちょこちょこと歩いてくる小熊に、クルスは笑いかける。
「先ほどはどうも、ありがとうございました、クマさん」
 ぺこりと頭を下げれば、髪をぐいと引っ張られる。
「いたたた!」
「クマじゃない、パンダ!」
 “スターバスターズ”の少年の応急処置を終えたフロリアンが、立腹したようにクルスを睨んでくる。
 髪を引っ張ったままじっとしている小熊―――否小パンダに、クルスは曖昧に痛みを隠した笑みを再度向けた。
「すみません……パンダさ―――痛いっ」
「名前。カラシニコフって呼ばないと怒るの」
「か、カラシニコフさん……わっ」
 ぱっと髪を離され、クルスは前のめりになる。
 小パンダ―――カラシニコフは満足したように、ちょこちょことクルスを通り過ぎていった。
「なんだかなあ……」
 久しぶりに冒険者としてではない場で戦って。
 “こんなものだったろうか?”という思いが強い。敵が魔物だからだろうか、戦いというものに慣れてしまったせいなのだろうか。
 騎士として人を殺めたことはないが、実際に戦う騎士を補佐する従騎士として戦場に出たことはある。そのときも合戦訓練のときも、ここまで自由に戦えたことはなかった。
 気負わずにありのままの自分を出すという意味では、この試験は自分に向いているのかもしれない。
 それは同時に、この騎士団が自分に合っているのではないかとも思わせた。
 天高く、集合の笛が鳴り響く。
 試験が終了した合図だった。


 一同は街の正門前まで戻ってきていた。
「じゃ、それぞれにコレを渡すから、一人ずつ取りにきてちょうだい」
 フロリアンが振ったのは、小さな布袋だ。
「―――ひとりに二百エンずつ出します。これは試験であることとは関係なしに、今日の働きに対する正当な報酬として、受け取ってね」
 試験と称した、ただ働きではないということだ。
 全員が受け取った後、フロリアンは書類を読みながら続ける。
「で、合格者なんだけど……」
 苦笑いを浮かべた顔が、受験者の群れを見渡した。
「なし、ってことで」
「ええっ!?」
 どよめきが起こる。
 特に、“スターバスターズ”の三人組がフロリアンに食ってかかる。
「どういうこったよ!? おいらたちの働きは見てただろ? コンビネーションだって、倒した数だってずばぬけて―――」
「初めに言ったでしょ? ノルマはない。大体コンビネーションなんて言ったって、君たちは元々仲間でしょ? 助けてもらっても礼すら言えない戦闘中の余裕のなさ、あまつさえ怪我をしているのに後退しない自己管理能力の低さ。……これじゃ、うちに入っても、君、死ぬわよ」
 あっさりと言われて、少年はぐうの音も出ぬ様子で黙り込む。
 文句の声もいつのまにか静まり返っていた。クルスも何も言うことが出来ない。
「じゃ、解散ね。みんな、今日はお疲れ様でした」
「待てよ!」
 ところが、“スターバスターズ”の少年は納得していなかったようだった。拳を震わせ、続ける。
「そう簡単に引き下がれるか! おいらは絶対に諦め―――」
「いいわよ!」
 これもあっさりと、フロリアンは微笑みすら浮かべながら、こう言った。
「うちは受験制限なんてないから。今回ダメだったなら次回、また受け直してちょうだいね」
 目をぱちくりとさせる少年に、フロリアンはウインクする。
「―――言ったでしょ? “前歴は考慮しない”ってね」


 フロリアンは、クルスのこと―――クッククローを知っていたのかもしれない。
 思い当たる節があるのだ。以前ノアを訪ねた詰所で、自由騎士団の紋章を見たことがあった気がしていたから。
 というのも解散の際、フロリアンはクルスに小さくこう耳打ちしたのである。
「君も。やるべきことが終わり、それでもまだうちに入りたかったら、また受験しにおいで」
 まだまだだと思うけど、筋は良かったよ、というウインク付きで。
 クルスは思う。その言葉通り、クルスはきっと再び、自由騎士団の入団試験に挑戦するだろう。
―――世界樹の迷宮を、踏破するその日が訪れたら、きっと。


 フロースの宿前、誰かを待つように腰を下ろしているアリルの小さな影を遠目に見つけ、クルスの胸がどきりと鳴った。
 思えば。
 婦人に愛を誓う騎士にしては、相当卑怯な真似をしたものだ。
 己のしたことながら、クルスはそう自嘲していた。
 答えを知りたくない。
 答えてほしくない。
 言ってしまったことを今更なかったことには―――真実なのだから嘘にも―――出来ないが、彼女の答えが欲しいわけでは、全くもってなかった。何故ならそんなもの聞く前から分かりきっているからだ―――
 でも多分彼女は、答えをくれる気だ。
「あっ」
 アリルはクルスに気づくと、ぱっと階段を駆け下り、近づいてきた。近づくにつれ、その歩みがゆっくりになる。クルスの速度は変わらなかったので、どのみち意味はなかったが、何となく、アリルは身を引いたように思えた。
「ただいま、帰りました」
「おかえり……」
 控えめに、アリルが尋ねてくる。
「どうだったの?」
「ダメでした」
 アリルは驚いたように―――少し喜んだようにも見えた―――目を見開くが、すぐ渋面を作る。
「残念、だったね」
「いえ。何度も挑戦できる試験のようですし、彼らが他の街に行ってしまっても、追いかけるつもりです」
「そんなに、いい騎士団なの?」
「僕が今まで出会った中では、一番です」
「クッククロー、より?」
 クルスは笑った。
「クッククローは冒険者ギルドです。騎士団とはまた、違いますよ」
「どう違うの?」
「……僕にとって、ギルドは家族のようなものです」
 そう。
 アリルは驚いているようだったが、クルスにとって、これは自然な感情だった。実家に馴染めぬまま飛び出したクルスにとって、己が一部として存在したクッククローは何より安らげる家族だった。このギルドに所属していない自分など、考えられようもない。
 だから。
「だから、僕たちは離れなければいけないんです」
 アリルはひどく傷ついたように、瞳を揺るがせていた。
 その睫毛が伏せられるのを、クルスはじっと見ていた。
「アリル」
「ごめんね」
 アリルは言った。
「私……クルスくんの気持ち、知らなかった」
「……はい」
「知らないで、傷つけたこともあると思う……けど、謝ることしか出来そうにないの」
 やっぱり。
 クルスは微笑んでいた。
 そうでもしないと、重い装備を、落としてしまいそうだったから。
「―――クルスくんの気持ちは嬉しいけど、ごめんなさい」
 瞼を閉じる。
 そして一度、ゆっくり深呼吸をして、クルスは目を開けた。
 申し訳なさそうな顔をした彼女はいなかった。むしろ真剣に見つめてくる翡翠の瞳だけが、そこにはあった。
 それだけで少し、救われた気がした。
 ああ、自分の想いは彼女に、伝わったのだ。
「ありがとうございます」
 少し吹っ切れた、気がする。
 頭では「やっぱり」と分かっていても、クルスにとってもクッククローの解散はショックで、つらいことだったのだ。それが、こちらも退路を断たれたような気がした。
 諸王の聖杯を見つけたら、もう一度自由騎士団を目指そう。認められるまで何度も。
 そして“こちら”は、ここですっぱり諦める。
 何も言わないアリルを見つめて、クルスは笑う。
「……帰りましょうか」
「うん」
 あっさり踵を返した彼女の後姿を眺めながら、クルスは歩き出す。

 これもまた一つの、いつか必ず訪れる日だったのだ。

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22F

 クッククローの探索は、内部の騒ぎとは裏腹に、至極順調に進んでいる。
 季節は春から夏に移り変わりつつある。朝晩の冷え込みは変わらぬものの、山のような世界樹ふもとから一望できる森の緑は、いよいよ深まっていた。
 もうすぐこの国に来て、一年が経つのだ。
 月日の流れる早さを実感して、ライは溜息を吐く。
 背も幾分か伸び、最近はリーダーとあまり視線が変わらなくなってきたように思う。同じように伸びているクルスとの差は縮まらないし、ファルクにはいつ追いつかれるか戦々恐々なところだが、見慣れた仲間たちの成長を感じるのは、ライ自身が成長していないからではなかろうか―――などと思ってしまう。
 実際。
―――解散騒動にブー垂れているのは、ライとアリルくらいなものなのだ。
「ここも、エトリアと一緒だな」
 採取でヒューイが見つける、奇妙な果実だの何だのを数えながら、ライはひとりごちた。
 その呟きを、ファルクが拾う。
「同じって、何が?」
 彼はエトリアの冒険を体験していない。何となく勝ったような気分で、ライは答えてやる。
「こういう、前時代の文明……っての? オレたちには全く理解不可能なものがあって、それで動いてる世界」
「世の中、お前に理解できるものの方が少ないだろうに」
「あんだその同情混じりの言い方はっ! だったらおめー、そこの勝手に動く壁のこと説明できるのかよ!?」
 ライが指さしたのは、小部屋の入り口にある、横に動く壁だ。
 ファルクはやれやれとかぶりを振ると、こう答える。
「原理は分からないけど……壁と言うより、扉みたいだよね」
 立ちあがり、ファルクが近づけば、壁はまた動いて、道を作った。
「―――ホラ。人が近づいたときだけ開く」
「おお……」
 そのからくりに全く気づいていなかったライは素直に感嘆の声を漏らしてしまった。はっとファルクの視線に我を取り戻し、がははと笑う。
「ま、まあンなこと、オレは知ってたけどな!」
 ファルクは心底軽蔑したような視線をライに送ると、ややして、深々と嘆息した。
「全く……お前を見ていると、つくづく冒険者として一括りにされたくないと思うよ」
「あん? オレだって願い下げだぜ。ただでさえ同じギルドってのも我慢してやってるのに」
 大体おまえのが年下で後輩だろーが、先輩を敬えとブツクサ言いつつ作業―――採取物として持ち帰れそうなものを選り分ける―――を続けていれば、ファルクはこんなことを訊いてきた。
「ギルド、解散するって話だけど。お前はどうする?」
「へ?」
「ぼくはリーダーと交渉して、引き継げるようなら引き継ぐつもりだけど。みんなはどうなのかな、と思って」
 ギルドを、引き継ぐ?
 唐突に出てきたような単語にきょとんとしつつ、そういえば、とライは思い出す。“ギルドを引き継ぎたい奴は名乗り出ろ”―――あのときは頭に血が上っていたが、確かに解散を言い出したとき、リーダーはそんな趣旨の言葉を口にしていたような気がする。
 そうか。
 まだ、“終わる”と決まったわけではないのだ。
「引き継ぐっつったって……オレたちだけで、やってけるのかよ」
 何となく周りに話を聞かれるのがはばかられて声をひそめれば、ファルクは応じてきた。
「どうせ、姉さ……ノアさんやアイオーンは解散してもハイ・ラガードに残るだろ。事務関係のことなら手伝ってくれるってアイオーンは言ってたし……ぼくらくらいの子供たちだけで、ギルドを組んでいる冒険者だっている。やろうと思えば、出来ないことはないさ」
「そうか……そうだな、そういう手もあるのか……」
 “冒険者ではないライ”など、ライ自身想像できない。
 いろいろなことがあったが、やっぱり純粋に冒険が好きなのだ、ライは。誰かが辞めてしまうのは時の流れを止められないように仕方がないことであっても、自分の行く道は自分で決めたい。
 そのための選択肢を先人であるリーダーたちが、残してくれるならば、尚更。
「さしあたって……考えなきゃいけない大事なことが、一つあるな」
「何だよ?」
 訝しげなファルクに、ライは唸りながら告げる。
「誰がリーダーを引き継ぐかってことだよ。……ま、現状オレだろうけど」
「それだけは絶対にあり得ないだろ……お前がなるくらいなら、ぼくがやるよ」
「はあ? それこそありえねーよ!」
 しばらくぎゃいぎゃいと不毛に言い合ったのち、息を整えながら、ライはぽつりと呟く。
「……他の、みんなはどうすんだろーな」
「そうだね、それを聞いてみないことには……アリルさんは、どうなんだろう」
「いやー、アリルちゃんは残らないだろ……」
「そうなの?」
 ライはにがりと冷やかしが半々で混じりきった複雑な表情を浮かべつつ、答える。
「おまえ、気付いてないの?」
「何が?」
「……まあいいや。つか、エトリアの状況もあんまり、よくないみたいだしな……」
「ああ、新聞に載っていたアレだね」
 首肯する。ライはまだ新聞にあるほど難しい言葉は読めないが、エトリアのことが載っているとアイオーンに教えてもらったのだ。
 エトリアに何の未練もないと言えば嘘になる。なんだかんだ言いつつ、あの街はライの故郷なのだ―――だがライはきっと、戻らない。それも、本心だ。
 物思いに沈みそうになったライを、ヒューイがどさどさと落としてきた果実の山が現実に引き戻す。
「……こんなに要るのかよ……?」
「明日は公女様の誕生日だからね。賓客をもてなすための珍皿として出す料理に使うらしいよ」
 ほとんどが周辺に領地を持つ、王族に繋がる高級貴族ばかりだという。
―――ファルクは口角を上げながら、シニカルに言った。
「犬が咥えてもいでるって知ったら、どんな顔するだろうね」


 “エトリアはいつまでエトリアでいられるか”。
 そんな社説が載ったのは、公国でも保守派の新聞だ。冒険者に対してあまり良い記事を書かないという意味で、冒険者たちにも有名な新聞なのだが―――今回の話題は珍しくも懐かしい、故郷のことで。
 エトリアの現状など露ほども知らなかったアリルには、衝撃的すぎる内容だった。
 掻い摘んだところには、エトリアの周辺諸国とエトリアの関係が坂道を転がるように急激に、悪化しつつある、ということらしい。それを大仰に―――冒険者が原因であることに、ラガード住民の不安をかきたてる狙いがあるのだろう―――話を盛っている、ということは窺い知れたがそれでも、外部からそんな情勢を読み取らせるくらいには危うい状況にあるのだということが、アリルにはショックだった。
 義父であるキタザキとは、手紙でずっとやりとりをしている。だが彼は当然のようにそんなことは一切書いてこなかった。
 ただ以前に比べれば―――“早く帰ってこい”を、臭わせるような言葉が減った気が、する。
 それが、エトリアの現状的に、“帰ってこない方が良い”を示しているのであれば―――
 自分の無知さに、眩暈がしそうだ。
 勝手に浮かれて、勝手に沈んで。
 みんなちゃんと考えながら、前に進んでいた。自分はどうだったろう。アリルは思う。あまりに成長していない。エトリアを旅立った当初のまま、ノアに置いて行かれた、頼りない、守られるだけの医術士見習いのまま―――
 ぶんぶんとアリルはかぶりを振る。
 後ろ向きになることはいくらでも出来る。今考えなければならないことは、そんなことではないはずだ―――そう、アリルにはどうしても気になっていることが一つある。
 何故レオンは、今更、解散などと言い出したのか?
 ノアが見つかって和解したから。タイミングとしては確かに丁度いいのだが、違和感が拭えない。そもそも彼の目的はノアではなかったはずだ。その決着が、彼のギルドを抜ける理由になるだろうか?
 この一月でレオンが前ほど明るい表情を見せなくなっていることも、アリルには気にかかっている。
 相変わらず彼は、誰にも何も、言ってくれてないようだが。
「頼りにされてないなあ」
 宿部屋で何となく口にした言葉を、朝帰りのルミネが拾う。
「あの子に?」
 含みのある、柔らかな笑み。こんな調子でルミネが尋ねてくる相手はひとりしかいない―――アリルは首肯する。
「だって私、一応、サブリーダーなのに……」
 今回の解散騒動だって、知らない間に事が進んでいる、気が、する。
「あらー、でも。仲間のみなさんのことはよく、分かってるでしょー?」
 言われて、アリルは目をぱちくりとした。
 クルスやアイオーンたちは彼ら自身大変だろうに、自分たちの状況はきちんと教えてくれる。ファルクたちも、次第に前向きに取り組もうとしているようだというのは、カリンナから聞いて知っている。イーシュやコユキが大して動じてない様子なのは勿論、彼らは最初からいずれ自分の力で生きていく決意をしているからだろう。
 案外、アリルはみんなのことを把握している。
「そう、言われてみれ、ば……あっ、でもルミネさんは?」
「私は元々、ハイ・ラガードの人間だものー」
「あ、そっか……」
 ルミネはクッククローがラガードに来る前から、この国で冒険者をしていた。となればイーシュやコユキと同じように、独立して生きていくつもりなのだろう。
 おずおずと、アリルは尋ねてみた。
「レオンのこと……何か、ご存知ですか?」
 単刀直入な質問に、ルミネは少し意外そうな顔をして―――珍しく、やや眉をひそめた。
「私も何も聞いていないのよー」
「ルミネさんも?」
 驚く。ルミネは笑った。
「あなたは勘違いしてるわー。多分、あの子は私とより、あなたたちの方が関係は深いはずよー」
「で、でも……」
「私はあの子の昔のことを知っているだけ。でもね、過去はそこから動けないのよ……あの子もそれは知っているはず。だから、昔のことでとやかく悩んだりはしないわ」
 だから、とルミネは小さく息をついた。
「問題があるなら、“これから”の方じゃないかしら」
「“これから”? って、諸王の聖杯を見つける―――」
「いいえ、もっと先のこと。そのあと、そして“これから”よ」
 アリルがその言葉を噛み砕きながら飲み込んでいる間に、ルミネは立ちあがる。
「―――なんだったら、直接あの子に訊いてみなさいな」
「えっえっ」
「ホラ、今日は公女様の誕生日の前夜祭で、花火が上がるらしいわよー。誘ってみるのもいいかもしれないわねー」
「そ、そんなこと出来ないですよっ」
「どうして?」
 ぽかんとするアリルに、ルミネはにっこりと告げた。
「―――“出来ない”んじゃないわ。それは、“やろうとしていない”だけよ」


 日も暮れきってしまっている。ようやく所定の品を公宮入り口まで運び終え、レオンはやれやれと腰を伸ばした。
「ったくあのオッサン、冒険者は運び屋じゃねえっつーの……」
「まあまあ。その代わり、報酬は弾んでくれたみたいですし」
 報酬袋を軽く持ち上げながら、クルスが言う。
 その向こうで、ヒューイにもたれかかりながら、だらけているライとファルクにレオンは呼びかける。
「おまえらも、へばるんだったら宿に戻ってからにしろ」
「んなこと言ったって……」
「ぼくたち、採集のために樹海に入ってから荷物運びを手伝ったんだから、へとへとだよ」
「でも、こんなところで行き倒れたら通報されますよ……」
 公宮があるのは貴族街のすぐそばだ。あまり綺麗でないナリの冒険者が地面に張り付いていれば、衛士が飛んでくる。
 レオンはクルスから報酬袋を受け取ると、ライに向かって投げた。慌てて少年が受け取る。
「おわっつ!」
「それ持って、先に帰ってろ。寄り道すんなよ」
 ライは目を白黒させて呟く。
「で、でもコレ、金……」
 駄賃以外で、それもこんな大金をレオンがライに持たせたことはない。
 が、肩を竦めて応じる。親指をクルスに向けながら、
「こいつみたいにスられんなよ」
「ちょっと」
「はははっ、任せとけって!」
 破顔一笑、ライはファルクとヒューイを連れて、坂道を下っていった。
 釈然としていないような表情で、クルスがレオンを見る。
「何だよ?」
「いえ……ええと、そういえばファルクがギルドを引き継ぐつもりという話は、聞きましたか?」
「おう」
 相談を受けたという、アイオーンから聞いている。あの様子ではライも乗り気なのだろう。
 シトト交易所に行く道を進みながら、二人は会話を続ける。
「あの」
「何だよ」
「わざわざ、“解散”という言葉を使ったことについて、なんですが……」
 言いづらそうに、クルスは続けた。
「もしかして、僕やアイオーンさんのことを考えて……」
「ちげーよ」
「では、どうして」
 レオンは溜息を吐いた。
「どうだっていいだろ」
「レオン」
 わざわざ正面に回り込んで、クルスは言ってきた。
 ただし、目は逸らして。
「先日。僕……アリルに告白したんです」 
 レオンは顔をしかめる。
 クルスの意図が全く読めず、足を止めて黙っていれば、彼は焦りながらなんとか言葉を紡いだ。
「でもフラれました」
「……それがどうしたんだ?」
 淡白に言ってやれば、クルスは失敗したと言わんばかりの顔になり―――これならどうだと顔に書いてある表情で応じる。
「僕はギルドのみんなを家族だと思っています。みんなに、幸せになってもらいたいんです」
 矢継ぎ早にクルスは言う。
「アリルにも、あなたにも」
「……何が言いたいんだ?」
「ギルドを終わらせて、そして、何処に行くつもりだったんです?」
 呆れを露わにした表情のままでいれば、クルスは噛みついてきた。
「あなたが自分のことを話したがらないのは分かっています。でも、あまりに理不尽だと思いませんか。僕たちは仲間なんですよ!」
「そうだな」
 重々しく吐き捨てるように、レオンは言った。
「―――でも、そうじゃなくなる」
「レオンっ」
「悪ィ、用事を思い出した。先に行っててくれ」
 突き飛ばすようにクルスをすり抜けて進めば、声だけが追いかけてきた。
「レオン、逃げないで下さい、レオン!」
 応じることなく、レオンは早足で歩き去った。


 逃げてきてしまったものの、レオンに行くあてなどなかった。
(どうすっかな……)
 今の時間から酒場に行こうものなら、ギルドの面子と出くわす可能性が高い。
 それは、避けたかった。
 極力誰とも会いたくない。
―――深いため息を吐くと同時に、狭い脇道の端にもたれかかる。
 ギルドを終わらせて。
 それから。
―――また“考えてない”と答えたら、彼はどんな顔をしただろうか。
 自嘲のような笑みを浮かべて、レオンはもう一度息を、今度は軽く吐いた。頭を切り替えろ。逃げてきたのは“まずかった”が、ごまかせないほどではない。それは己の日ごろの行いがあまりに悪いので、諦められている部分があるだろうという予測からだった。
 思えば少し、仲間たちを甘く考えていた部分もあっただろう。
 話せないと言えば、大目に見てもらえると。各々に目的があることをレオンは知っていた。それを盾にすれば、ギルドの解散も受け入れられるだろうということを。
 現に、それぞれがそれぞれの道をもう一度考え直してくれている。それに関しては問題あるまいが―――まさか、自分のことを訊かれるとは、思っていなかった。
 訊かれないはずはないのだが、てっきりそう思い込んでいた、というべきか。
―――いつか、しっぺ返しを食らうわよ。
 ルミネの言葉がよみがえる。
 こういう形で、食らうとは。
 そして顔を上げた時、そこにいた影に、レオンは先の何倍も“しまった”と、思った。


 見つけたくない顔を見つけた、といった表情になった彼に向かって、アリルはずんずんと人ごみを抜けていく。
「こんなところにいたのね? 今日は探索が休みのはずなのに、宿にいないから……探しちゃった」
 努めて自然を装いながら、アリルはレオンの正面に立った。
「何してたの?」
「……俺が何をしてようが、お前らに関係ないだろ」
「それ」
 無愛想に吐き捨てた彼の鼻先に、アリルは人差し指を立てる。
「―――よくない言い回し。無関係だなんて、自分でも思ってないくせに」
「……何なんだよ、おまえらは……」
「おまえ“ら”?」
 失言を舌打ちして、レオンは答えた。
「さっき、クルスにも絡まれた」
「……クルスくんも、レオンが心配なんだよ」
 アリルは眉を下げた。
「関係ないわけないじゃない。仲間なんだから……」
 レオンは厳しい顔つきで、壁を背に、そっぽを向いている。
 やはり様子がおかしい、とアリルは思う。余裕がないのだろう、軽くいなすだけの余裕が。
 だが、アリルは躊躇わなかった。
「……それとも、ギルドが嫌になった?」
 レオンはようやくこちらを向いた。
「一人でどっか行きたいって思ってるんでしょ? 仲間といることが嫌になった?」
 答えようとして、答えられない。そんな顔。
 アリルは笑った。
「答えられないってことは、図星?」
 レオンの悩みを、アリルは悟っている。
―――ギルドを組んでから。誰よりも彼を見つめてきた。それまでの彼も、ギルドとしてではない彼のこともアリルには知らないことばかりだ。だけど、ギルドにいた彼のことなら深く知っている。その自信が、疑念を確信に変えた。
 ギルドが嫌になって―――ギルドにいる己に嫌気がさして、彼はそこから去ろうとしている。
「みんなのために戦うの、疲れちゃった……?」
 多分、ここまで彼を追い詰めたのは、アリルのせいでもあるのだ。
―――サブリーダーなのに、こんなに役に立たなくて、ごめんなさい。
 真っ直ぐに見据えるレオンは、目を細めて俯いていた。
 アリルは息を吸う。でもまだ、間に合うはずだ。
「あなた言ってたじゃない、“俺が頼りない時はおまえが何とかしてくれ”って。私、何とかするよ。だから教えてほしい」
「おまえに―――」
「私じゃ頼りない? だったら、ルミネさんでもアイオーンさんでもクルスくんでも、誰でもいい。“疲れた”って言って、もっとちゃんと伝えて」
 返ったのは沈黙だけだった。
「それもダメなの?」
 伝わらない。
 ダメだ、と思った。
 思った瞬間、何かが溢れたのを感じる。
 そして言葉の奔流は、堰を切ったように流れ出す。
 アリルは叫んだ。
「お願いもうレオンが辛い目に遭うのを見るのは、私、嫌なの! だって、私にとってあなたはこの世で一番大事な人だから!」
 レオンは顔を強張らせた。
 一瞬の表情だったが、アリルは見逃さなかった。
 刹那、絶望的なほどに胸のうちに広がる、冷たさ。
 それを呑み込むように―――涙で歪む視界を拭う。
「好きなんだもん……私なんかじゃどうしようもないなんて分かってても……何もしないでいられないくらい、好きなの……」
 もう、彼の表情や態度すら見えないくらい、涙は零れてしまっていた。
 ああ、言ってしまった。
 これで終わりだ。
―――何故なら、レオンは何も言わない。
 それが、彼の答えなのだ。
「ごめ、ん、なさいっ……」
 これ以上そこに留まることが出来なくて、未だはっきりとしない世界の中、アリルは闇雲に走り出した。


 言ってしまった。
 言ってしまった。
 告白するって、こんなに勇気の要ることだったんだ!
―――クルスの想いを今更に強く感じて、アリルは駆けながら泣いていた。
 楽しげに賑わう夜の街を、人にぶつかりながら、ただ、走る。嗚咽なのか息が切れているのかよく分からない。頭に浮かぶのは、哀しいという気持ちだけ。
 溢れてくるのは涙だけ。
 つらい、痛い、かなしい、つらい―――こんなに好きなのに。ようやく伝えたのに。
 こんなに、こんなに好きなのに!
 世界にはあるのだ、自分の力では絶対に、どうにもならないことが。

 柵にぶつかるようにして、アリルは止まった。
 世界樹を見上げる、街を見下ろす、展望台。星のようにきらめく前夜祭の灯が、ハイ・ラガードのすべてを照らしている。
「結局……」
 冷静になってみれば結局、また私がしたことは、自分の想いを彼にぶつけたことだけだった。
 何かしてあげたいと思っても、その気持ちを押し付けるだけ。
「なんでこうなっちゃうんだろ……」
 冷たい風が熱を奪う。
 じっとしているとまた、涙が出そうだった。
 なんで、こうなっちゃうんだろう。
―――ふと、肩に置かれた手。
 驚いて振り返れば、さらに驚いたような切れ長の紫の瞳が、アリルを見下ろしていた。
「アリル? ……やっぱり、こんなところで」
 皆までノアが言うことなく。
―――アリルはその胸に飛び込んでいた。
「ちょっと」
「ノアさ、んっ……うっ、うあああああんっ!!」
 ダメだ、と思っていたのに。
 また泣き出してしまうアリル。
 ノアは少し呆然としていたが、ややして、号泣するアリルを柔らかく抱き留めた。


「おかえりなさい」
 先回りしていたほどではないが―――案外あっさりとレオンが宿に帰ってきたので、フロントで新聞を読みながら待っていたクルスは顔を上げてそう言った。
 が、レオンの様相を見てぎょっとする。
「ど、どうしたんですか? なんか、さっきよりやつれてますよ」
「いろいろあったんだよ……」
 さすがにその部分は突っ込んで訊く気になれず、しかしクルスはこほんと咳払いし、話題を変えた。
「さあ、話してもらいますよ。どうして解散なんて言い出したんです?」
「おめーも懲りねえやつだよなあ……」
 呆れたというより元気のない溜息を吐いて、レオンはクルスの正面に座した。
 項垂れている。やがて、彼は周りに人目がないのを確認すると、口を開いた。
「“命を懸ける価値を”」
「え?」
 レオンは繰り返した。
「“命を懸ける価値を、この迷宮に見つけたのか?”―――ってエトリアで、訊かれたことがあってな。ずっとその問いが頭の中を巡っていたんだ」
 レオンの独白に、クルスは圧倒されそうになって―――気を持ち直す。
「一度は結論を出したつもりだったんだよ。おまえらみたいに目的があって樹海に挑む連中の、足がかりでもいい。何か出来ることがあればいい。そう思ってた」
 聞かなければ。
 聞いて、おかなければ。
「―――だが、違った。……命を懸けるってそういうことじゃない。俺にその問いを投げかけた人は、仲間を守って迷宮で死んでいった。彼もそこで何かに、命を懸けたんだろう。俺にそれが出来るかって考えた……多分、出来る。だがそれはおまえらのためじゃない」
「最初から……自分は、死んでもいいって。そういうことですか」
「まあな」
 レオンは肩を竦める。
 自嘲するように。
 何故自嘲か―――彼は常日頃から言っているからだ。“死ぬ気のある奴に命を預けられるものか”と。
 今なら分かる。
 彼はその言葉を、自分に言い聞かせていたのだ。
「馬鹿でしょう」
 クルスは思わず、吐き捨てていた。
 レオンは口角を上げる。
「そうか?」
「馬鹿ですよ。死んでいいはずないでしょう……少なくとも僕たちは、嫌です」
「勘違いするなよ、俺だって死にたいわけじゃない。ただ……命を懸ける価値ってのは、生きるための意味と置き換えてもいい。俺にそれがあるか? ……今でもそれはよく分からない。おまえらと冒険するのは楽しいし、価値のあることだろうなとも思う。だけどな、違うんだ、クルス。違うんだよ、なんか」
「違うって、何が」
「俺達はいずれバラバラの道を行く。目的があって、それに向かって生きていく。だが俺には、それがない。おまえらと過ごした日々は価値あるものだったが、結局見つからなかったんだ、何も」
「そんな……」
「そこから先が、俺には見えないんだよ、クルス」
 空虚な表情で、淡白にレオンはそう締めくくった。


「……落ち着いた?」
「はい……」
 近くの出店でノアが買ってきたホットココアを飲みながら、アリルは真っ赤になった鼻をすんと鳴らす。
 手短に事情を話したノアは、困ったように微笑んでいた。
「……次の探索」
「えっ?」
「確か、f.o.eがたくさんいる二十三階の奥に進むのだったわね……アイオーンから聞いてるけど」
「は、はい」
「私も、一緒に行っていい?」
 目をぱちくりとしたのちに、アリルは慌てて答えた。
「は……あ、その、レオン、に、訊いてみないと」
 名前を出しただけでまた泣きそうになった。
 鼻を摘まむアリルを横目に、ノアはこう言った。
「私たちと、彼と。……アイオーンとクルスにもついてきてもらいましょう。それで、五人になるわね」
「それ、って」
 目尻を擦り上げ、アリルはノアを見つめる。
 ノアはゆっくりと頷いた。
「はっきりさせに行きましょう。私たちが、この冒険で見つけたものが一体何だったのか」
 遠くで、花火の上がる音が、聴こえる。

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23F

「で」
 引きつり顔で、レオンは磁軸の柱の側にある金色の壁―――まあ、この階層はどこもかしこも金色なのだが―――にもたれかかっている。見渡すのは今日の探索の面々。
 その中心にいた女が、腕組みも解かずに言い放った。
「何か問題でも? ……昨日の、今日の探索人員を決める場に、いなかったあなたが悪いんでしょう」
「つか、あんたいつクッククローに登録したよ……」
「今朝」
 悪びれもせず答える女―――ノアに、レオンの眉が跳ねあがる。
「戦えんのか?」
「試してみましょうか?」
 背中の矢筒に手を伸ばすノアを、慌ててクルスが制した。
「ま、まあ冗談はここまでにして。早く探索を進めましょう」
「チッ……足手まといだと判断したら、その場で引き返すからな」
「そのセリフ、そのままそっくりあなたにお返しするわ」
「あん?」
 歩き出していたレオンが振り返ると、ノアはいつもの目つきで彼を睨んだ。
「仲間の気持ちを裏切るような真似をするなら、もう一回、刺すわよ」
 底冷えするような声音に、本気で身震いしながらレオンは前を向いた。
「こええー」
「もういいですか? 扉、開けますよ」
 先頭にいたクルスが、安全と危険を区切る扉の前に立った。
 自動的に開いた扉―――その向こうに見えるのは、徘徊する無数のf.o.eの姿だ。
「あいつらの相手を逐一しているだけの余裕はねえ。隙を見て突破するぞ」
「地図によると、迂回するように道沿いに進むのが良さそうだな」
 アイオーンの言葉に頷くと、レオンは一歩、金色の道に足を踏み出した。


「大丈夫?」
 f.o.eに追いかけられつつも、一行はなんとか敵の気配がない小部屋に辿り着くことが出来た。声をかけてきたノアに、アリルは汗の浮かんだ笑みを返す。
「は、はい……」
「ならいいわ」
「おい」
 どきん、とアリルの心臓が鳴る。
 呼びかけてきた赤髪の男は、全く気付いていない様子で仲間たちに呼びかけていた。
「―――先に進む扉があるな。行くぞ」
 彼が踵を返してなお収まらない動悸に焦っていれば、ノアが気遣わしげに覗き込んでくる。
「……本当に大丈夫?」
「あっ……はい」
 様子を窺いつつも、男性陣の後ろを、アリルはノアと一緒についていく。
―――昨晩の告白のあと、アリルはレオンと一言も喋っていない。
 だのにお互い探索に参加しているから、気まずいことこの上ないのだ―――そう思っているのは恐らくというか間違いなくアリルだけだろうが、どうにかしてこの空気を解消したくて仕方がない。探索に集中したくても、気が散ってしまう。
 でも、声をかけるどころか、横顔すら見ていられない。
 何も言ってもらえなくても、やっぱり、アリルはレオンのことが好きなのだ。
(クルスくんはどういう気持ちだったのかな)
 彼の告白のあとも、アリルは彼といつも通りの会話をしている。気まずいと思ったこともない。だがひょっとして、クルスの方はそう感じていなかったかもしれない。無理をして、いつも通り振る舞ってくれているだけなのかもしれない。
 それを考えれば、胸が痛んだ。同時に、自分も甘えていてはいけないと思う。
 だけど。
(昨日よりは、マシな顔、してるかな……)
 それでもレオンの様子をちらちらと窺う。自分の告白が重みになったかと思ったが、それは杞憂だったようだ―――良かった。
 重みに思われてないというのは逆に悲しいことではあるのだが、彼の状況を考えれば仕方がない。
 私に出来ることなんて、いくらもない。
 せめて足手まといにならないようにしなければ―――
 レオンが扉を開く。
 そこにあった光景に、五人は一様に息を呑んだ。
「うわっ……」
 縦横、マス目に沿うように作られた柱と通路の交差点に、鋼の身体を持つf.o.eが鎮座している。
「門番みてーだな」
「抜け道はありませんか?」
「待てよ、覗いてみないと……」
 と言いつつ、部屋にレオンが足を踏み入れた瞬間、f.o.eの顔部分がぐるりと回転する。
「うおっ!?」
 条件反射的にレオンが剣を引き抜くと、目らしき赤い突起物に光が灯る。
「な、なんか変形してる! 変形してる!」
「何やってるのよ、もう……!」
 呆れながら矢をつがえるノアより先に、クルスが慌てて前に飛び出した。突き出した盾の正面を、f.o.eが放った赤い光が反射する。
 天井を貫いたそれは、ぱらぱらと塵を降らせた。
「な、何今の……」
「むしろクルスの盾がすごいな」
「すごいですね、シトト交易所の最新作なんですが……」
 クルスが盾を構えて耐えている間に、エーテルの充填を終えたアイオーンが術式を放つ。
 圧縮された小規模の爆発が、f.o.eを跡形もなく吹き飛ばした。
「おー……」
「今のうちに、先に進みましょう!」
 f.o.eの立っていた床がウィンと奇妙な音を立てながら下降していく。それを跳び越えて先に駆け出しつつ、アリルは何気なく振り返る。
 再びせり上がってきた床の上には、新たなf.o.eが先と変わらぬ姿で鎮座していた。
 ぎょっとしつつ、アリルは走りながら前に呼びかける。
「さっきの奴、もう復活してるよ!」
「在庫余り過ぎだろ!」
「安売りしないと売れないんですよ!」
「核熱一発は安くはないけどね……まだいるわ!」
 走る先にも見えたf.o.eに、アイオーンが籠手を掲げる。
「術式を放つ! このまま突破するぞ!」
 言うが早いか、アイオーンは核熱の術式を放つ。
 加減されたわずかな爆風と塵の舞う中を、五人は駆け抜ける。
「扉だ!」
 誰かが叫ぶ。
 その声に従って、広がる光が視界を覆った。


「ジャガーノートの間に辿り着いたか」
 息を整えるより先に響いた、声。
 レオンは頭上に叫んだ。
「またお前か!」
「誰?」
 ノアの問いに、クルスが答える。
「オーバーロードという、この城の“神”です。諸王の聖杯を持っているらしいんですが……」
「この間にいるは、不死の力を得、魔獣と化したジャガーノート! この者もかつて、汝らと同じ歴戦の冒険者であったがな」
 顔をしかめたレオンの脳裏に、スキュレーがよぎる。
 こちらが見えているのかいないのか、オーバーロードは一本調子で続けた。
「人の身のままの汝らの力がどこまで通じるか……楽しみにしているぞ」
「来るぞ!」
 強い殺気が上から降ってくる。
 広場のように広大でぽっかりとひらいた空間に、轟く地響き。
 もうもうと上がる土煙に目を凝らせば、魔獣はそこにいた―――竜の尾、雄牛の角。スキュレーやハルピュイアのような、人の形はかけらも残していない巨大な魔物だ。
 剣を構え、レオンはじりじりと間合いを見計らう。
「思わぬところで大物に出くわしたな……」
「アイオーンさん、術式はまだ使えますか?」
「ストックがあまりない。準備に少し時間がかかるな」
「手伝うわ」
「わ、私もっ」
 後衛にちらと目をやり、レオンは魔獣―――潰れた鼻で苦しげに呼吸するジャガーノートに向き直った。
―――冒険者の成れの果て。
 これが懸けに敗れた結果なら、いきつく先は地獄しかないわけだ。
「……時間を稼ぐぞ」
「二人でですか?」
 非難するようなクルスの声音に、レオンは言い返す。
「いつものことだろ」
「まあ、そうですけど」
 クルスも後衛を一瞥し、次いでレオンを見た。
「レオン」
「あん?」
「僕は、生きたいです。やりたいことだってたくさんあります」
「何だよ突然」
「でもそれと同じくらいに、皆にも生きて欲しい」
 雄叫び。
 空間を揺るがすそれに、しかし前衛の二人は怯まず、魔獣を睨み付けている。
「―――僕の気持ちを、裏切らないで下さいね」
「……善処するよ」
 そして戦いの幕は切って落とされる。


 思い出されるのは、エトリアでの最後の戦い。
―――でも、あの頃よりも。
「アリル!」
「はいっ」
 土煙に咳き込みつつ、アリルはノアの声が聞こえた方角に返事をした。さらに声が返る。
「アイオーンが負傷したわ! 回り込める!?」
「行きます!」
 開いた視界には瓦礫の山が積まれていた。どうりで、声の通りが悪いわけだ。
「ん、しょっ……」
 鞄を抱えながら瓦礫を登る。そうでなくとももう一方ではレオンたちとジャガーノートの戦いが続いていて、破壊された飛礫がアリルの背や後頭部をぴしぴしと打っていた。
 何とか、登りきる―――一際大きな破壊音に、反射的に振り返れば、壁に打ち付けられるレオンの苦悶の表情が見えた。
「レオンっ!」
 彼がはっと上げた顔に垂れる血。―――気づいたのはレオンだけではなかった。
 ジャガーノートの金色の目が、アリルを振り返る。
 アリルは反射的に思った。
―――引きつけなければ。レオンは、まだ動けない。
「こっちこっち!」
 瓦礫の山を下りながら、アリルはジャガーノートに呼びかける。
 何か言いながら、剣を支えにレオンが立ちあがろうとしていた。だがまだショックが大きくて身を起こせないらしい、頭など打っていなければいいが―――思いながら、アリルは必死に瓦礫を下る。
 だがその足元が、大きく崩れた。
「きゃっ……」
 ジャガーノートの尾が、瓦礫の山を打ったのだ。転がり落ちるアリル。破片から身を守るように丸まりながら落ちきるが、白衣に守られていない足を擦ったせいで、素早く起き上がれない。
 ジャガーノートの顔面が、視界いっぱいに映る。
「ひっ」
「アリル!」
 ノアが放った矢がジャガーノートの角を打った。走り寄ろうとした彼女を、その腕が乱暴に打ち払う。
 そしてそのまま、爪ある指がアリルを掴んだ。
「かはっ……」
 咄嗟に鞄を挟んだためにつぶされずにすんだが、ぎりぎりと締め付けられるあばらに胸が詰まる。
 浮き上がる身体。アリルはもがくが、びくともしない。
 明滅する視界。頭に血が上っているのだ。
 圧迫される身体。
 痛い、とか。
 そういうのが、もう考えられない。
 あてどなく伸ばした腕を、誰かがぎゅっと掴んだ。


 初めて上がった、悲鳴。
 レオンは、ジャガーノートの太く短い腕に突き刺した剣に、全体重を込める。緩め、そう一緒に込めた祈りが届いたかのように、指先にあるアリルの身体がずり落ちた。
 今だ。レオンは彼女に向かって跳躍すると、短剣でジャガーノートの指をこじ開ける。掬い上げるようにアリルの身体を持ち上げれば、ぐったりと弛緩した体重がわが身にかかった。軽い身体だ。
「アリル、おい、アリル!」
 朦朧としているようだったが、目は開いていた。死んではいない。
 だが安堵する間もなかった。
「レオン、気を付けて!」
 はるか下方からかかった注意喚起と、それは同時だった。
 ジャガーノートのもう片腕が、向かいから迫りくる。
「くっ」
 アリルを抱きかかえたレオンはタイミングを合わせて跳ね上がり、飛来した片腕に飛び移る。勢いが足りぬせいで激突したが、短剣で何とか引っかかり、片腕でわが身とアリルを持ち上げた。
「……て」
 腕の中でアリルが何か言っている。
「はな、して」
「死にたくなかったらじっとしてろ」
「わたしは、いいから」
 聞こえてはいたが、無視した。
 うるさい蝿を追うように、ジャガーノートの腕が揺れ動く。降りようにも下界は遥か下、うまく着地できたとしても、逃げるよりジャガーノートの足に踏み潰される速度の方が速い。
 残るは、ジャガーノート本体に移ることだ―――死角の背中に入れば、反撃すら出来る。
 抱えている茶色い髪を、ぽんぽんと叩いた。
「もう少ししんどいけど、我慢しろよ」
 返事はなかったが聞こえているだろう。
 二回目の跳躍。長剣の刺さる腕に飛び移ったが、長剣を回収するには至らない。レオンは動きやすいようにアリルを抱き直すと、ジャガーノートを正面から見据えながら大きく深呼吸した。
 痛みはまだ、来ていない。濡れた頭の感触や鎧の内側をぐじぐじと濡らすそれらから、傷が浅くないのは自覚していた。
 だが、まだ大丈夫。まだ、立って走れる限りは。
 そして腕が二本もついていれば、出来ることなんて数限りない。
「うおおおおっ!」
 駆け出す。すれ違いざまアリルを抱えている腕で長剣を引き抜き、片方の腕で短剣を投げた。
 ジャガーノートの口角に命中する毒の剣。だがそれを見ることなく―――魔獣の悲鳴だけでそれを判断すると―――レオンは跳躍する。
 振り下ろされる頭角が奇跡的に真横を通過する。入れ違いのように赤いたてがみに長剣を立て、レオンは歯を食いしばった。
 魔獣の頭から背を縦断する剣。凄まじい悲鳴と揺れがレオンを襲う。脳髄から響く震動。剣の握力が緩む。
 二本足で立ちあがり、魔獣が、身体を振るった。
 首の付け根にしがみついていたレオンはひとたまりもない。
―――あ。
 剣を手放すと同時に真横に映った影は、鋼の塊のような、ジャガーノートの尾で。
 空中に投げ出されて、もうどうすることもできない。
 妙にゆっくりな瞬間が思考に訪れる。
 そのときにあった感覚は―――腕の中の、ぬくもりだけだ。
―――守らなければ。
 ほとんど反射的にレオンは思った。あるいは刹那の思考だったのだから、それは正確なのかもしれないが。
 幸い収まりきる小さな身体を、包むように抱きしめる。
 自身はほとんど衝撃に備えていない―――その身体を、鞭のような尾が容赦なく、壁に叩きつけた。


 まだ子供だった頃、目の前で姉が死んだことがある。
 どのみち病で助からぬ身だった。それでも、炎に焼かれる家の中に姉がまだ残っていることに気づいたときの絶望を、そして、炎の中に飛び込んでいけなかった自分を時折思い出す。
 生きるために十年間ついていった傭兵の軍隊も、一晩であっけなく皆殺しにあった。
 思いがけず自由になって、考えたこと。
―――どうしてここで、俺一人が生き残っているのか?
 何故あのとき、姉を呑み込む火のうちに、自分も身を投げなかったのか。


「……!」
 その理由がコレなら、少しは報われたのだろうか。
 ぼんやりと浮かぶ視界を、血と埃と涙でぐちゃぐちゃになった顔が見下ろしている。
「生きてるっ……」
「おう」
 自分の状態がよく分からなかったが、身体が動かないのだけはよく分かった。
 何せ、元々そんなに広くない視界がさらに狭まっている。出血のせいかそのほかの理由か。とかく、しゃくり上げながら目の前の少女は、自分の鞄を探り、彼の応急処置を進めていっている。
 案外、助かるのかもしれない。
「おい」
「話しかけないで!」
 ぐずりながら言われる。
「―――いっ、“今のうちに言っておく”とか、なんてっ、聞かない、から!」
「ははは」
 戦闘の音が遠く、響いている。
 彼らが勝たねばどのみちここで死ぬことになる。が、そちらの心配は全くしていない。何、あいつらのことだ。大丈夫。
 どっちかといえばこの、泣きながら医術を施す少女の方が、気にかかった。
「お前……クルスのやつ、フったんだってな」
 少女は大きな瞳をより見開くと、ぽろりと涙の滴を落としたあと、言った。
「頭は打ってなかったと思ったのに、意識が混濁してる?」
「もったいねーことするのな……クルスも気の毒に」
 するとむっとしたような顔になって、少女は彼の肩口に手をかけた。留金を外され、原型を留めない鎧が瓦礫に混じる。
「同情なんて、それこそ、失礼だよ」
「そう、か?」
「うん。だから……私のことも、同情、しないで……」
 よく泣く奴だ、と思う。
 それ以上に腑に落ちなくて、レオンは言った。
「何で俺がお前を同情しなきゃなんねーんだ……」
「だ、だって」
「その前に、何で俺、フったことになってんだよ……」
「えっ」
 地響き。
 いきおいアリルが跳ね、振り返る。
「生きてますかー!?」
 土煙の中から。クルスの声だ。
「こちらも無事だ!」
「大丈夫よ!」
 アイオーンとノアの声。
 慌てて、アリルが応じる。
「わ、私も!」
「オイ、俺の分も」
「あっ―――れ、レオンも生きてる! みんな、生きてるわ!!」
 どうやら、戦いは終わったらしい。
―――何も見えないのだ。
 じくじくと湧いてくる全身の痛みに身を捩りつつ、レオンは―――深く吸い込むと、痛いので―――浅く溜息を吐いた。

 死ぬんだろうか。
 また、生き残るんだろうか。

 だんだん意識が朦朧としてきて、自分でもどちらか判別できない。
 “今のうちに言っておく”―――とか。
 いや、言うならあとで、ちゃんと言うし。
「レオン、レオン! 聞こえてる? ……!」

 こういう感覚を、こう呼ぶんだろう。

―――死にたくない。

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24F

「全治何か月って?」
「聞きたい? あと何か月で、少なくとも自力でお手洗いに行けるようになるか」
 アリルに満面の笑みでそう言われ、病室のベッドの上のレオンは引きつった笑いを浮かべるしかない。
 ジャガーノートとの戦いを終え、辛くも街に帰還した、その日のうちに施薬院に入院してから丸十日が経つ。
 つまりはその間、レオンはほとんど、意識がなかったのだが。
「よっぽど頑強なのねー。普通なら、最後に壁に打ち付けられた時点で内臓破裂を起こして死んでいるはずよ」
 それがなかったから生きているわけだ。
 起き上がれないのでレオンの位置から周りはよく見えないが、この部屋にアリル以外の気配はない。彼女の顔色から言って、ずっとつきっきりで看病してくれていたのだろう。エトリアのときのように。
 十日間ずっと目が覚めたり混濁したりを繰り返していたが、こうして会話が出来る状態に持ち直して、良かった、とレオンは素直に思う。
「みんなは?」
「さっき、待合にいたクルスくんに伝えたから。お見舞いに来たがると思うけど、あなたはしばらく安静にしてないと」
「どのみち動けねえよ……」
「そうね」
 実にあっさりとした笑顔だ。
 含みは感じ取れなかったが、釈然とはしない。エトリアのとき、助かった事実に大泣きしていたやつが随分図太くなったものだと思う。まあ、今回の方が乗り切る可能性は高かったからかもしれないが。
「ありがと、助けてくれて」
 唐突に降った言葉に、レオンはきょとんとする。
「―――ありがとうって言ったの」
「……おう」
 視界の隅に映る彼女が一瞬泣きそうな顔をしたようだったが、見間違いだった。満面の笑みで覗き込んでくる。
「ねえ。一つお願いがあるんだけど」
 黙っていれば、返事を求めていなかったようで、彼女は続ける。
「落ち着いたら、エトリアに帰ろうと思って……レオンは、どうせ行くところなんてないんでしょう。だったら、エトリアまで着いてきて欲しいの。護衛としてでも、何でもいいから」
「……報酬は?」
「え?」
 自分から話を振ってきたくせに、アリルは意外そうな顔をした。
「俺は傭兵だ。ギルドを離れたら、それなりにもらうぜ」
「は、払うわよ」
 食いつくアリルに、至って事務的にレオンは返した。
「前金は……ギルドを抜けるときに出る、お前の分の分け前全額だ」
「ええっ!?」
 声を上げて仰け反るアリル―――アリルは知らないだろうが適正価格を大きく超えている。が、素知らぬ風にレオンは続けた。
「前金、な。エトリアに着いたら後金も払えよ」
「そ……それって、さすがにぼったくりじゃない?」
「嫌なら他のを雇え」
「う……」
「あと、キタザキ先生に借りるとかもナシだ。おまえが、自力で、払え」
 黙り込んでしまったアリル。
 心なしかジト目で、彼女は言ってきた。
「そ、そんなに私といるのが嫌、なの?」
「俺もいろいろ複雑な心境なんだよ」
「そうは見えないけどなあ……」
 そのとき、ノックの音が響いた。
 返事をするより先に、扉が開き、イーシュが顔を覗かせる。
「レオン、目が覚めたって……あっ、お邪魔だった?」
 アリルの姿を見つけてイーシュが微妙な笑いを浮かべたからか、アリルはつんと澄まして言った。
「別にっ……じゃ、私行くから」
 ぱたぱたと去って行くアリル。イーシュは本当に―――腹が立つくらいに―――微妙な笑いで、レオンのベッド脇の丸椅子に腰かける。
「今日も生きてるね? いやー、良かった良かった」
「せめて“元気?”って訊けよ。魚かなんかか俺は」
「生命力で言えば虫の方が合ってるよね、赤くてよく跳んでなかなか潰れない頑丈でしぶとい感じの」
「素直にゴキブリって言えよ! ……じゃなくてだな、怪我人のところにわざわざ何の用だ?」
「ああ、そうそう」
 ごそごそとイーシュが取り出したものは、地図だ―――見覚えがないので、恐らく二十四階の。
「―――君が寝ていた間にも、僕らは探索を続けているんだけど」
「俺のほかに重傷のやつは?」
「アリルちゃんくらいじゃないかなー。それで……」
「おい、ちょっと待て。あいつが重傷って……」
 イーシュは目をぱちくりとすると、「ああ」と笑みを浮かべた。
「ごめんごめん、“探索に出られない程度の怪我”だよ。気づいてなかった? 日常生活に支障はないみたいだけど、打ち身が酷くて、全速力で走ったりは出来ないみたいだね」
「……先に言えっての、あいつ……」
「ん?」
「いや、いい。それで?」
 レオンは振り払うように手を挙げると、先を促した。


「オーバーロードの居場所が分かったんだ。それで、そこを訪れる探索に、オレも参加しようと思ってる」
 フロースの宿の庭で、へっへっと舌を出している犬を眼前に、ライは胡坐をかいてぶつぶつ呟いていた。
「―――多分、戦いになる。……でも、オレはちゃんと帰ってくるから。だから、だから……えーっと」
「ライ?」
 背中からかかった声に、ライは文字どおり飛び上がる。
「か、か、カリンナッ! ……い、い、いつからそこに」
 かくかくと振り返れば、無表情のまま、かくんと首を傾ぐ白い少女が立っている。
「リーダーが、目をさました、って……」
「えっマジか!? ……っは~しぶといね、リーダーも!」
 がばりと立ちあがり、大仰に驚いてみせれば―――じっと見つめてくる視線に、ライは苦笑いで弁解した。
「冗談だって。……ま、心配してなかったけどな。なんせまたたっぷり血ィ抜かれたんだし」
 おかげで数日探索に出られなかったのだ。今日は行ったけれども。
 はたと思い出して、ライはカリンナの肩を掴んだ。
「えっと、そうだ、カリンナ。ひとつ、言っておかなきゃならないことがあって……」
「あ、ライ。丁度いいところに」
 唐突に降った声に、ライは振り返る。
 宿屋の入り口の階段を上りながら、呼びかけてきたのはクルスだった。
「―――オーバーロードに挑む前に、装備の点検はしっかりしておいてください。道具は僕が見ておきますが、足りないモノがあれば遠慮なく言ってくださいね」
 にこやかにそう告げ、彼は宿の中に入っていってしまった。
 凍りついていたライに、カリンナが不思議そうに言った。
「オーバーロード……?」
「だああもううう」
 本当に空気が読めないんだから、と頭を掻きむしり―――ライは再び、ガッとカリンナの肩をわしづかむ。
「カリンナっ!」
 目が真ん丸になっている。珍しいその表情に気づくことなく、ライは顔を真っ赤にしながら必死に打ち明けた。
「オレ、ニンゲンを魔物に作り替えたりする悪いやつを、やっつけに行くことになってっ! ……リーダーやアリルちゃんが出られないし、これからのことも考えて、その、ファルクの奴も一緒に行くんだけど……っああもう」
 あんなに練習したのに、言葉がまとまって上手く出てきてくれない。
 すると、カリンナが手を伸ばしてきた。
 細くて白い腕が、ライの腕に絡みつく。
 そっと頬を包む小さなてのひらに、ライは目を剥いた。
「かっ、カリンナ?」
「平気……伝わってる」
 囁きながら、カリンナは瞼を伏せる。
 柔らかく染み入るように、ライの心にじんわりと広がるあたたかさ。
 これは、カリンナがくれているのだろうか。
「わたしは、ここで待ってるから……」
 伝わっている。
 そのことに安堵しながら、ライは俯いた。
「……うん」
「ライの怖いのが、消えますように」
「怖い?」
 カリンナの手に手を重ねれば、少女はこくりと頷いた。
「不安……大丈夫かなって、生きて帰れるかなって、思ってる……」
 ライは大きく息を呑んだ。
 そこまで見抜かれているなんて。
 カリンナは微かに―――ライでなければ分からぬほど―――眉をひそめた。
「ごめんなさい」
「いや……」
 ライはにかっと歯を剥いて笑った。
「当たってるよ、カリンナはやっぱすげえな!」
「ライ……」
「怖いさ。リーダーですらあんな大怪我してんだ、もっと強えやつと戦って、オレは無事に帰ってこれるのかなとか……」
 カリンナをじっと見つめながら、ライは独白する。
「ここで逃げても……そりゃ誰かがそのうち倒してくれるかもしんねー。けど、アイオーンの爵位のこととか、街で噂になっているとおり、ニンゲンを研究材料にしてるやつがいつか城から降りてこないとは限らないとか、いろいろ考えたら……戦うしかないし。それにオレ、やっぱ逃げたくないって思っちゃうんだよ」
 これから先も、冒険者として一人前に生きていくために。
 乗り越えなければならない試練だと、ファルクと二人でそう決めた。周りの手を借りながら、それでも立って、歩いていけるようにと。
 ライは笑う。
「どっちがMVPだったかで次のリーダー決めようぜって、言ってあるんだ、ファルクの奴と。負けらんねーよな」
 カリンナも笑う。
 何だか無性におかしくて、ライとカリンナはげらげらと、声を上げて笑い始めた。
―――そう、大丈夫。
 ライもカリンナも、ひとりではないのだから。


「ついにこの日が来たかといったところですね」
 明日の準備を整え、鎧を磨きながらクルスはベッドを一つ挟んだ向こう側にいる男に声をかけた。
―――つもりだったが、返事がない。
「アイオーンさん?」
 磨き布を置いて、再度声をかければ、その背がぴくりと動いた。
「……何だ?」
 アイオーンが振り返る。こちらから死角になるように隠しているようだが、彼の手元が持っている“それ”に気づき、クルスは何ともいえない微笑みを浮かべた。
「……今からでも、会ってきたらいかがです?」
 アイオーンは渋面を作ると、“それ”を懐に直した―――カリンナの絵、だ。
 描かれている人物は、言わずもがな。
「―――きっと待ってますよ」
「……そうか?」
「僕がノアさんの立場なら、そうですね」
 言ってみて、重い溜息を吐く。
 するとアイオーンが気遣わしげに口を開こうとしたので、先に手を突き出してそれを制した。
「―――何も言わないで下さい。僕は吹っ切ったんです。一応、これでも」
「そうか……」
「僕に遠慮なんていりませんよ。……まあ、金輪際会えなくなるわけではないですけど、戦い前の気合を入れるのには、いいと思いませんか」
 オーバーロードに直接会えば、恐らく戦いになるはずだ。
 その最後の探索のメンバーに、クルスもアイオーンも、名を連ねている。動ける人員と最良の組み合わせを考え抜いて、選んだ結果だ。
 レオンとアリルがいなくても、きっとこの五人なら生きて帰ってこられる。そんな確信はあるものの、胸中に抱く影は拭えない。
 それにそのメンバーに、ノアは含まれていないのだ。
「大丈夫ですよ。僕は、地獄の底までアイオーンさんに付き合いますから」
「クルス……」
 ウインク一つ告げた―――イーシュの真似でおどけてみたのだが、上手くいっただろうか―――クルスの言葉に、アイオーンは無言で立ちあがる。
「……なるべく早く戻る」
「はい」
 通り過ぎていった黒髪を、クルスは笑顔で見送った。


 きつく寄せた眉。
 演技のようなそれ―――ちらとそのまま窺っても、目の前の少年の、真剣な表情は狼狽えもしない。
 大きくなった。
 本当に、強くなった。
「それで」
 書斎机から乗り出すように、ノアはファルクに言ってやった。
「―――何をしにここへ?」
「別に、何も。……ただ、行く前にお別れをと思って」
「ファルク様!」
 縁起でもない、と声を上げるばあやに、適当な身振りで下がるように指示をする。ノアはふう、と溜息を吐いた。
「……それは、どういった覚悟なの?」
「家を顧みず、勝手なことをしました。ノアさんにも多大なご迷惑をおかけし、これから先もそれは変わらないと申し訳なく思っています」
「そんなことはいいの。それで?」
「ぼくは冒険者として生きていきます」
 敢然と、ファルクは言った。
「自分の力で。家を、いずれはこの国を、出て」
 見返す紫の瞳。
 ノアのものと同じ色をしたそれは、揺るぎない。
「……もう、ここには帰りません。その決意を伝えに、最後にこの家に」
「戦うの? ……“神”とやらと」
 わずかにファルクの顔がこわばった。が、少年は応じる。
「……はい」
「なら、約束しなさい。……全てが終わったら、もう一度ここに来ると。別れを告げるなら、そのときにして」
「ノアさ―――」
「でなければ」
 ファルクを遮り、ノアは額を押さえながら続ける。
 表情を見せないように。
「でなければ、私は弟を失ったのか……あなたを失ったのか、分からないでしょう」
「ね、えさん……」
 息詰まりながら、無意識にだろう、ファルクは呟いた。
 ノアは告げる。
「生きて帰りなさい、ファルク。必ず。この家の主として、あなたの帰りを祈っているわ」
「は……はいっ」


 客人はひとりではなかった。
「ノア様……」
「通して」
 緑のコートが星明りの下、背筋を伸ばして去っていく。
 それが翻るのを窓の内側から見送りながら、ノアは短く告げる。
 よく知った気配が、背後の扉をぱたりと閉じる。
「いらっしゃい」
「先程、ファルクとすれ違った」
 意外そうに告げる声に、ノアは振り返った。
「“お別れを言いに来た”のだそうよ。追い返したけど」
「そうか」
「ええ。まっぴらだわ、そんな、縁起でもない」
 カーテン越しに背から射し込む光しかない。薄暗い室内を、男がゆっくり進んでくる。
 ノアは薄く笑った。
「あなたはそんなこと、言わないわよね?」
「俺が君に別れを告げるって?」
 聞き返しながら、アイオーンはおどけたように腕を広げる。
 その内側に、ノアは身を投げた。
「……なら、いいの」
 ゆるく、そして次第に強くなる力。
 鼓動を感じる。冷たい義手が撫でる背すら、熱く思えるほどに。
「クルスに行けと言われた」
「……ふふ」
 なら、彼に感謝しなければ。
「帰ってきて」
 至近距離で、抱きしめる彼を見上げた。
「―――どんな姿でもいい。生きて帰ってきて……あとは私が面倒をみてあげるから」
「随分だな」
「それくらい言っておかないと、無理をするでしょう? ……私は一緒に行けないもの」
「負ければ、魔物にされてしまうんだが」
「だったら私が殺してあげるわ」
 柔らかく、アイオーンは微笑んだ。
「それなら安心だな」
「ええ」
 応じるように、ノアも微笑んだ。


 ひっそりと夜半も過ぎたというのに、十日も寝ていた後遺症か、一向に眠気が訪れない。
「しかも動けねえし……」
 無音の暗闇の病室で、レオンはひとりごちた。
 さすがに自力で用を足せないほどではないものの、起き上がるのにはかなりの時間がかかる。支える腕すらまともに反応しないのだ。
 唯一感覚が正確な、指先をわきわきと動かす。見えないが。
「しっかし、これでよく生きてたねえ」
「全くよー」
 暗闇が応じたので、レオンは息を詰まらせた。
「んなっ」
「はあーい」
 ぐりんと首を動かせば、ベッドに顎を乗せるような姿勢で、ルミネが片手を挙げていた。
「何やってんだお前……!」
「あらー、お見舞いに来て上げたのに、その言い草ったらないんじゃないー?」
「ぐえっ」
 腹の上に何か―――一瞬バスケットらしきものが見えたので、重たい果物籠かなんかだろう―――をのせられ、レオンは呻く。
「やめろ……本気で死ぬ……」
「死なない、死なない」
 言いつつ、何か怪しげな小瓶の栓を抜くルミネ。気持ち悪い色の液体が入っている。
「まさか……」
「はーい」
 鼻を摘ままれ、抵抗する間もなく小瓶の中身がレオンの口に注ぎ込まれた。
「……!」
 暴れることも出来ぬまま、すさまじい味のソレを飲み下す。
「っぱ! ……ゲホッ、こ、殺す気か!?」
「死なないって言ったでしょー。大丈夫、これで明日の夜は人並みに動けるようになるわ」
「一体何を飲ませたんだよ……つか明日の夜って……」
「ひ・み・つ」
 立てて振った人差し指を、ルミネはレオンの唇に押し当てる。
「うふふ」
「……ったく」
 怒るだけの体力も最早ない。
 呆れた視線を送れば、かえって嬉しそうにしながら、ルミネは立ちあがった。
「さて、私はそろそろ行くわねー」
「明日の探索。あんたも出るんだろ?」
「そうよー。だから、早めに遊んで帰るの」
「……ほどほどにしとけよ……」
 頬を引きつらせつつ言えば、ルミネは意外そうな顔をした。
「あら? 前みたいに“やめとけ”って言わないのね」
「言ってももう無駄だろ、あんたは……あんたのことだから、俺が心配してもするだけ損だしな」
「あらー……そんなことないわよ」
 もう一度ベッドの脇に屈みこみながら、ルミネは耳元で囁くように続ける。
「人の想いはあるだけ強くなるの。それは……時々呪いにもなるけど、呪いは悪いものばかりとも、限らないのよ」
 こつんと額に額をぶつけられ、レオンは渋面を作った。
 近い。
「だから祈ってちょうだい。私が……私たちが無事にあなたの元に帰れるように。あなたが共に戦ってきた仲間たちのことを、信じてあげて」
「姉さん……?」
「まだそう呼んでくれるの?」
 額にキスをして、ルミネは離れていった。「これ以上はあの子に悪いわねー」とか聞こえた気がしたが、悪びれもせず、いつもの笑顔で彼女はレオンを見つめている。
 何となく夢見心地で、レオンは口を開く。
 あるいは、やっぱり夢なのかもしれない。
「……あいつらのこと、頼んだよ」
「勿論よー。大船に乗ったつもりでいなさいなー」
「それであんたも、生きて帰れ」
「……ええ」
 ゆっくりと暗闇が深くなる。
 ルミネが去ったのか、自分が眠りに落ちたのか、レオンには分からなかった。


「あっ」
 部屋の扉が開いた気配がしたので、目を開けて首を動かせば、アリルがそこに立っていた。
「何だ?」
「へ、部屋を間違えちゃって……」
 重い瞼を擦りながら、レオンはゆっくりとベッドに座り直す―――昨日よりは、身体は動いた。
 背中の窓から射し込む光で、朝だということを知る。
「部屋間違えたって……俺以外に誰かギルドの奴、入院してんのかよ?」
「えーっと、そういうわけじゃないけど……薬泉院の人手が足りないっていうから、お手伝いを……」
 段々覚めてきた頭が、バツ悪そうなアリルの言葉を呑み込んでいく。
 レオンは額を押さえた。
「おまえも怪我人じゃなかったか?」
 あからさまにぎくりとした様子で、アリルは答えた。
「そ、そうだけど。軽傷だし……」
「探索に行けないくらいは、良くないんだろ?」
 非難の声音を混ぜれば、しかしアリルは居心地悪そうにするだけだ。
 それが余計に苛立ちを増す。
「手伝いなんかしてる場合かよ。おまえも休んでろ」
「で、でも!」
「“でも”じゃねーよ」
 クルスたちの顔が浮かんで、レオンはきつく瞼を閉じた。
 今頃、既に彼らは樹海に入ったあとだろう。
 レオンの手ではどうにもならない、信じて、祈るしかない彼らの状況と。
 目の前にいる少女の無理を比較して―――レオンの口調は自然にきつくなった。
「おまえが一番、信じられないな」
「なっ」
 さっと、アリルの顔色が変わる。
 それを見ていなかったレオンは、俯いたまま続けた。
「おまえが無理してひっくり返りでもしたら、俺があいつらに面目立たな……って、おい?」
 顔を上げれば、既にアリルは去った後だった。
 半開きの扉の向こうに、遠ざかる走る足音が響いている。
 レオンはぽかんと、それを眺めていた。


―――信じられない、って!
「もういい!」
 衝動的に―――もちろん、手伝いは済ませて―――フロースの宿に戻ったアリルは、手当たり次第自分の荷物を鞄に放り込んでいた。
 その様子を、はらはらしながらカリンナ、平常心のコユキが遠巻きに眺めている。
「もーいい! あんなやつ!! 知ら、ないっ!」
 勝手に、独りで、エトリアへ帰ってやる!
―――宿のものである枕まで詰め込みそうになって、アリルはふと、手を止めた。
 止めたおかげで、少しばかり冷静さが戻ってくる。荒い興奮した息をつきながら、アリルは窓を見た。
 木窓が開いている。ここから見えないがいい天気だ。
 世界樹の上だって、きっと晴れているだろう。
「馬鹿……」
 どれだけ祈ったことか。
―――血液の流れが悪くなっていって、昏睡に入った時も、体温が下がらないように、身体を擦って温めて。
 薬泉院に着いたあとも、何時間もかかった手術を手伝って。目が覚めるまで、覚めてからも、熱が下がって容体が安定するまで、ずっと看病して。
 どれだけ、祈ったことか。
 神様、この人を奪わないでくださいと。
―――それでも。
 それでも伝わらない。
―――無神経を通り越して、ただの馬鹿だ。
「バッカじゃないの……」
 同じくらい、自分も馬鹿なんだろう。
―――あの人の前では笑顔を通したかった。私はあなたの重みにはならない。そう訴えているつもりだった。隣に立って、戦うことはできなくても、それ以外で役に立つことは出来ると。
 なのに、全部無駄だった。
―――なのに。
 それでも、嫌いになれない。

 だって、好きなんだもの。

「アリルちゃん」
 静かになったアリルに、カリンナが呼びかけてくる。
 涙でまたひどくなった顔を向かせれば、ぎゅっと、白い手がアリルの手を握ってくれる。
 柔らかく髪を撫でる手に、はっと振り返れば、その持ち主のコユキが唇を一文字に締めていた。
「分かっておる……おぬしが皆や……レオン殿のためにしてきたことは、ちゃんと伝わっておるぞ」
「コユキ、ちゃん」
「いつでも女が泣くのは、自然の摂理じゃ」
「うっ……」
 優しい二人に抱きしめられて、アリルは声を上げて、泣いた。

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25F

 大きく伸びをしながら、歩だけは前に進める。生欠伸をかみ殺しつつ、ライは呟いた。
「さーて、“神”様とやらはどんな面なのかなーっと」
「ぼんやりするなよ」
 顔を強張らせながら周囲を窺うファルクに、ライは鼻を鳴らして言ってやった。
「たっぷり休憩もしたし、万全だぜ」
 探索に入ってかなりの時間が経過しているが、休憩を挟みながらここまで来た甲斐あって、かかったそれのわりに全員の疲労度は低い。
 むしろ、奥に進むにつれどんどん増す緊張感と風の音が、クッククローの口数を減らしつつあった。
「あっ」
 クルスが何かを見つけ、渋面を作った。
「―――体裁が違う、扉がありますね」
「あからさまだなー」
「準備は良いか?」
 アイオーンが仲間たちを見渡す。
 立ち止まった五人は、互いに顔を見合わせると、笑った。
「任せとけって!」
「頼むから、足を引っ張るなよ」
「んだと」
「こんなときまでケンカしないで下さい……」
 睨みあうライとファルクを宥めるクルス。いつものように微笑むルミネが、アイオーンを向いた。
「では、行きましょうかー」
「……ああ」
 重い扉が、押し開かれる―――


 そこにあったのは、目もくらむような光の山だった。
「うっわ……」
 宝と称するにはあまりに、“それが何なのか”が分からない。
 価値のあるものなのだろうというという予測しか、ライの頭では立てることが出来なかった。エトリアの樹海や、ハイ・ラガードでもここに至るまでに、見つけた多くの前時代の遺産。それらの集大成が、おそらくこの、一面無数に広がる光なのだろう。
「遂に辿り着いたか……我が空船の最上階、王の間に」
 突然降った声が、五人の集中を奪う。
 オーバーロードだ。
 ライは吹き抜けの頭上に叫んだ。
「おい、来てやったんだから姿くらい現しやがれっ!」
「この船は我らが古の大地より 空に逃れる為に作った……古代の箱舟になぞらえたものだ」
「聞けよ……」
 げんなりするライをよそに、オーバーロードの独白は続く。
―――かつてこの世界は滅びを迎えたこと。
 その腐る大地を棄て、天に逃げた者たちがいた。だが環境の変化に耐えられず、多くの人間が命を落とす。彼らを救うため、オーバーロードは研究を進めた―――
「ニンゲンを魔物にするのも、研究の一つだと?」
 ファルクが忌々しげに吐き捨てる。
 声は応じた。
「諸王の聖杯は、あらゆる時代の王が追い求めた不死の力の源だ。……だがそれはまだ完成の域に達しておらぬ。遺伝子の働きが阻害され、人は人為らざる身に変わるのだ」
 独白は、続く。
「……研究を続けるために、我は人の体を捨てた。永遠に滅びぬ肉体に精神を宿し、研究に埋没したのだ。我を信じ、ついてきた者たちを、あらゆる災厄から守るために!」
 こだまする、声。
 だが―――声に答えるものは、どこにもいない。
 耳が痛くなる静寂だけが、その、孤独を知らしめた。
「死するならば大地でと願い、滅んだ大地の上、偽りの大地へと降りることを望んだ者たちもいた……だが我は、ひとりでも研究を続け、みなを救うのだ!」
「あんたが救う命が、一体どこにいるってんだよ!?」
 ライは叫んだ。
「―――みんな地上で生きてる! 偽りだか何だか知らねーが、俺たちは滅びちゃいねーし健康体だぜ!?」
「我が目指したのは人類の進化。新たな人の創造なのだ!」
 尚も言い募ろうとするライを、ルミネが制した。
「言っても無駄よー……何千年もの狂った時間を、覆せるものなどないわー」
「汝らの目的が諸王の聖杯ならば、渡すわけにはいかぬ」
 何かが動く音がして、天井が下がる―――否。
 巨大なものが、降りてきているのだ。
 ぱらぱらと降る塵、不安定に震動する足元。
 まるでこれから起こる戦いを、予期させるような。
「―――我の力で、灰燼と化すがいい!」
「来るぞ!」
 それを見上げて、ライは武器を取った。


 もうとっくに日は暮れてしまっている。
 高台にある家の窓から見えるのは、この街を覆うように枝葉を広げる世界樹だ。その向こうに冒険者たちが住む下町が広がっている。
 彼らはまだ、帰ってきていない。
「どうか、無事に……」
 私が出来ることは、こうして祈る以外にない。
 窓辺に寄り添うノアを、微かな揺れが襲った。
 はっと顔を上げる。
 世界樹はいつもと変わらないように見えた。
 だが、この感覚は―――気のせいではないだろう。
「“神”……」
 そんなものがいるとしても。
 彼らはきっと負けたりはしない。そう思えるだけの年月を、戦いを乗り越えてきた。その一人として身を置くことが再び許されて、ノアは思う。
 彼らは負けはしない。
―――ここでこうして、その祈りだけを胸に待ち耐えることは、自分に課せられた罰のひとつだ。


 ライの一撃を受けて、オーバーロードの巨体が床に沈み込んだ。
「おわっ」
 激震が、着地したライを襲う。瞬く間に床がひび割れ、崩落が始まる。
 辛うじて、ライは柱の一本に鞭を絡ませ、落下を免れていた。
「ライ!」
 柱の側からファルクが身を乗り出してくる。ライは必死に、手を伸ばした。
 届かない―――
 背後のぽかりと空いた穴から、響く声。
「我を倒すとは、汝らの力はかなりのもののようだ」
 脅威を感じながらも、ライは手を伸ばし続ける。
 だが、届かない。
「うわっ」
 ずるりと下がる身体。
 微弱な揺れが城全体を襲っている。それが、ライの動きを妨げる。
 やべ―――
「ライ!」
 鞭から手が離れた。
「うわああああああ……って、アレ?」
 悲鳴を上げたライは、首根っこを掴んでいるそれに気づいて、頭上を見上げた。
 クルスが、ほっと安堵したような顔でそこにいた。
「間に合いましたね……」
 気づかず絶叫してしまったことに照れ笑いを浮かべつつ、ライは頬を掻く。
 落ち着いて見渡せば、仲間たちは全員、無事のようだ。
 わずかに残った床に這いあがりながら、ライはオーバーロードの声を聴く。
「我は聖杯を完成させねばならん。その為には汝らに負ける訳にはいかぬのだ……そこで、提案だ。我が力をして汝らに永遠の命、人を超える力をやろう」
「永遠の命?」
「そう。その代わり、汝らは聖杯を諦めてここから立ち去るのだ」
「誰がンなもんいるかよっ!」
 ライは闇雲に吼えた。
「―――オレたちは冒険者だ! それが、欲しいモノを目の前にして引き下がれるかよ!!」
 ライの叫びに、仲間たちが頷く。
 また、震動。
「それが、汝らの選んだ道か。ならば仕方あるまい」
 僅かにしか残らない床が、せり上がっていく。クッククローは動く床にしがみついた。
 城が変形しているらしい。そしてその音に混じって、どこかが崩れていく音と揺れが響いている。
 天井が開き、星空が現れる―――床が静止する。
 どうやらここは、城の屋上のようだ。平坦な地面ではなく、どこか丸みを帯びている。
 空いていたはずの床の穴が埋まっていく。吹き荒ぶ冷たい風のうち、ライはよろよろと立ちあがった。
「気ィ抜くと飛ばされそうだな……」
「見て!」
 ファルクがあっと声を上げて城の縁を指さした。
「見えねーよ!」
 風の音のせいで怒鳴り声で応じると、同じく怒鳴り声でファルクが告げた。
「城が崩れていってる! 街が……」
 ライの目では、家々の灯りと思しき小さな光が、世界樹の陰に覆われている様子しか見えない。
 だがファルクの様子から、瓦礫が街に飛来しているらしいというのは読み取れた。
「さっさと決着つけねーとな」
 暗闇の空間、眼前の炎の中に浮かぶ巨大な影。
 先ほどの卵のようなシルエットとは違い、まるで天使か何かのようだ。
 ライは苦笑いを浮かべた。
「あんなん、どうやって倒せっつうんだよ……」
「それを考えながら、やるしかあるまい」
 術式の準備をしながら、アイオーンが呟く。
 ライはやれやれと首を振り―――鞭を構えた。
「だな」


 天が震えている。
―――始まったか、と。
 宿の庭で刀を振る手を止め、コユキは世界樹を見上げていた。
 丸一日が経とうとしている。だが彼らの無事を祈るなら、今からが正念場というところだろうか。
 袴を引かれて、コユキは足元を見た。
 ヒューイだ。普段、こんな夜中に動き回ったりしないのに、興奮した様子でわんわんと吠えている。
「お主も……分かるか」
 もどかしい気持ちが。
 祈るなどしても、彼らの役に立つことなどひとつもありはしないのに―――
 コユキの溜息をかき消すような轟音と突風が、彼女の背後で響いた。
「な―――」
 振り返れば。
 コユキよりも一回りは大きかろう、金色の岩の塊のようなものが庭の土にめり込んでいた。
 土煙にむせながらそれに近づく―――コユキの耳に、風を切るような音が届いた。
 見上げた空から飛来する、無数の塵と、瓦礫の雨。
「これは……っ」
 コユキは慌てて宿の中に入ると、大声で呼びかけた。
「皆、起きよ! ここにいては危険じゃ!!」
 宿は石造りではない。もし瓦礫が直撃したら、ひとたまりもないだろう。
 叩き起こした宿の主人一家、仲間たち―――そのうちにアリルがいないのを見て、コユキはカリンナに尋ねた。
「アリルどのは如何した?」
 心は勿論身体の具合もあまり良くなかったので、確か夕餉以降は横になっていたはずだ。
 カリンナはかぶりを振る。
「知らない……どこかに行った、のかも」
「とにかく、宿のご主人たちには避難してもらわないと」
 男部屋に唯一居残っていたイーシュが、言葉とは裏腹、中心街に視線をやりながら呟く。
「イーシュ殿?」
「いや……」
 飛来物は続いている。徐々に街でも騒ぎになりつつあるようで、ここから見える家々の灯はすべて灯り、まるで祭りの夜に戻ったかのような明るさだ。
 祭りは祭りでも、最悪の祭りだが。
「あれ、火事じゃないかい?」
 不安げに宿の女将が指した方角からは、煙が上がっていた。
 イーシュの表情がますます濁るのを、コユキは見逃さなかった。
―――あれは、軍楽隊の女性が住んでいる区画だ。
 あのあともたびたび彼女がイーシュに会いに、宿を訪れていることをコユキは知っている。
「かまわぬ」
 気付けば、コユキは口に出していた。
 イーシュがコユキを見下ろす。驚いたように、見開いた目で。
「―――行ってこられよ。宿のご一家は拙者が安全なところまでお連れする」
 ずくり、と。
 自身の胸の痛みに気づかぬふりをしながら、コユキは言い募る。
「今行かねば、後悔することになるやもしれんぞ」
「で、でも……」
 それでも、コユキは真っ向からイーシュを見据えた。
 軽く微笑むと、その胸を軽く押す。
「さあ……それとも、拙者を信用できぬか?」
 イーシュはつかの間目を細めると、かぶりを振った。
「分かった……くれぐれも、気を付けて」
 長い髪を翻し、走り去っていくイーシュ。
 その、後ろ姿を見送る。
―――これで、良かったのだ。
 小さく深呼吸をすると、振り返る。
 肩を寄せ合う宿の一家を見渡し、コユキは言った。
「薬泉院に行こうかの。あそこなら石造りであるし、多人数を収容できよう。……レオン殿もおられるしな。アリル殿もおそらくそこじゃ」
「この子も……連れて行っていい?」
 カリンナが撫でたのは、その足元に忠実に蹲るヒューイだ。
 コユキは笑みを浮かべて頷いた。
「もちろんじゃ。ヒューイも、クッククローの大事な仲間じゃからの」


 中心街へと続く狭い坂道を登っていけば、街の混乱した様子がどんどん差し迫ってくる。
 家々の隙間によぎった影に、ヒューイに跨っていたカリンナは気付いた。
「何処へ行くのじゃ!?」
 カリンナの意図を知らず汲んだかのように、ヒューイは走りだす。
 人ごみに阻まれて、コユキの姿はあっという間に見えなくなってしまった。
「ヒューイ」
 呼びかけるが、ヒューイは止まらない。
 巨躯をしならせ、驚いたように声を上げる人々の間を縫うように、ヒューイはその人の元に辿り着いた。
「カリンナちゃん!」
 碧の目を瞠ったのは、誰であろう、アリルだ。
 広場の中心、夜半にもかかわらず、不安げに空を見上げる多くの人々の中、ひとりで立っていた彼女は、カリンナとヒューイを見つけて駆け寄ってくる。
「―――良かった、無事だったのね!」
「どうして、こんなところに?」
 カリンナの問いに、アリルは虚を突かれたように目を丸くしたが、バツが悪そうに笑みを浮かべた。
「着替えとか……持ってくの忘れてたから、薬泉院に、届けに」
 目も覚めちゃったし、とアリルは繕うように言えば、すぐ話題を変えてくる。
「ところで、みんなは」
「はぐれて……けど、薬泉院に向かってる……」
 アリルちゃんも一緒に、と言おうとしたが、それより早くアリルはカリンナの肩を掴んでこう言った。
「カリンナちゃんも早く避難して。世界樹の上の方から何か降ってきてるみたいなの。まだ続いてるって―――」
 そして言い終わるより、早く。
 沸くような悲鳴に振り返れば、岩が天から落ちてくる様が目に飛び込んでくる。
 幸い街を外れて落ちたようだったが、不安と混乱の声は増すばかりだ。衛兵の姿はなく、恐らく公宮周りも秩序を失っているのだろうと読み取れた。
 アリルはそのうちで、強い意志をもった目をある一方に向けている。
「怪我をしてる人がいるかもしれないと思って、薬泉院を出てきたの……あっちで、火事にもなってるみたいだし」
 そしてカリンナを見ると、にっこりと微笑んだ。
「―――あとでちゃんと、そっちに戻るから。カリンナちゃんは、先に行ってて」
「……でも」
 アリルは屈みこむと、ヒューイを撫でた。
「ヒューイ、カリンナちゃんをよろしくね」
 ヒューイは一声くうんと鳴いたが、カリンナを乗せたまま動かない。
「アリルちゃん」
「また、あとでね」
 カリンナとヒューイを見送ることなく、アリルは踵を返すと、人ごみに紛れていった。
「落ちてくるぞ!」
 はっと、カリンナは背後を見やった。
 一つ家を越えた向こうに塵が降り注ぐ。耳を削ぐような豪風と雷にも似た轟音が、木屋根を粉砕し吹き飛ばす。
 ここにいるのは、危ない。
 だが人々は呆然と立ち尽くす。逃げないのではなく、逃げられないのだ―――あまりに異常な光景が、目の前で繰り広げられてしまっているから。
 カリンナは胸元にぶら下げた鐘を手に取った。
―――かみさま。
 祈るように、それを鳴らす。
 途端、波紋が広がるように、カリンナの感情が広場一面にいき渡る。
―――ここは恐ろしい。逃げなければ。
 多数の人間に呼びかけるのは難しい。冷えた汗が頬を伝うのを感じながら、カリンナは目を閉じる。
―――逃げなければ、もっとこわいものが来る。
「あれ!」
 誰かが叫んだ。
 目を開け見上げれば、幾度目かの瓦礫の塊。
 それを見つけた人々から、次々と悲鳴が上がった。
「逃げろ!!」
 一瞬にして色が変わる。飛来物とは距離が相当あったが、蜘蛛の子を散らすように、広場から人々が逃げ出していく。
 カリンナはそれを見送ると、ヒューイに呼びかけ、自身も薬泉院に向かった。


 騒がしくて目が覚めてしまった。
 夜半なのは、真っ暗な部屋から知れた。手探りで灯りをともすと、枕元に衣類や水差しが整えられていることに気づく。
 誰の気遣いかは、考えなくても分かる。
―――舌打ちひとつ、レオンは体を起こした。
 予想した痛みは一切襲ってこなかった。驚きつつ、身体を捻ったり立ちあがったりしてみるが、どれだけ動かしても―――まるで健康体であるかのように、痛みが湧いてこない。とはいえ怪我が完治しているわけではないのは、全身の包帯が物語っている。
 一体、何だっていうんだ?
 そこでふと昨晩のルミネを思い出し、レオンは苦い顔をした。
―――廊下をばたばたと駆ける、足音。
 夜半なのに、この慌ただしさは何なのだろう。またどこかのギルドが無茶をして、酷い怪我でもしたのだろうか―――
 窓の外をふと覗いて、レオンは目を見開いた。
「何じゃこりゃ……」
 家々を越えた向こうが煌々と赤く照らし出されている。
 火事だ、と頭がのみ込んだ瞬間、目の前の建物に小石がばらばらと降り注いだ。
「うおっ!」
 反射的に窓から身を離す。
 ハイ・ラガードの街で、異常な事態が起こっている。
 それだけを理解すると、レオンは置いてあった上着を羽織り、部屋を飛び出していった。


 まるで巨人が暴れた後のようだ。
 逃げ惑う人々に紛れながら、カリンナはヒューイに連れられて薬泉院に向かっている。見えている限りで大きな被害は家屋だけのようだが、安心はしていられない。いつ、火事が広がるかも分からないのだから。
 カリンナは駆けながら、周りに感情を送り続けている。逃げろ、ここは危険だ、と。
「誰か……」
 カリンナの心に、入ってくる呼びかけがあった。
 それは肉声であったかもしれないし、そうではなかったかもしれない。カリンナは気付くと人通りのない裏路地にヒューイを誘導し、その奥にあった小さな瓦礫の山に辿り着いていた。
 そこにいた影に、あっと声を上げる。
 影が声を上げたのも、同時だった。
「おまえは……っ」
 それは、顔に刺青を持つ呪術師の少年―――いや、少女、マルシルだった。
 彼女はキッとカリンナを睨みつけたものの、眦から溢れる涙がその状態を物語る。カリンナはマルシルが膝つく目の前の、瓦礫の下敷きになっている男を見つけた。
 マルシルの保護者である呪術師、ケイナだ。瞼を閉じ、ぐったりとしている。
「この人……」
「触るな!」
 手を伸ばそうとしたカリンナを、マルシルは噛みつくように振り払う。
 ケイナは見た目の外傷こそなさそうだったが、身体を瓦礫に挟まれていて、身動きが取れないらしい。
 だが、マルシルは頑なだ。
「あっち行け。お前の助けなんか借りない」
「でも……」
「借りないって言ってるだろ!」
 睨みつけてくるマルシル。
―――憎しみに塗られた目。固く閉じられた心。それが放つように、カリンナの心に突き刺さる、激情。
 カリンナは戦いた。
 だが。
「やめろと言って……」
 マルシルは絶句する。
 カリンナが、ケイナを潰す瓦礫の一つに手をかけたからだ。
―――少し前までならここで、カリンナは逃げていただろう。
 世界に向けられた目を、耳を閉じ、何にも気づかないふりをして。
 だけど、それではいけない。
 強く、なるのだ。
 ライと約束したのだから。
「っ……」
 カリンナの白い手に、尖った岩が傷を作る。
 浮かんでくる血の玉。
 だがこれすら、生きていることを感じさせる。
 いつの間にかヒューイも、カリンナを手助けするように背で瓦礫を押していた。ひとりではダメでも、ふたりでなら―――
 最初の瓦礫を、カリンナとヒューイは除けることに成功する。
「う……」
「ケイナっ!」
 呆然としていたマルシルは、ケイナが意識を取り戻したので飛びついた。
「マル、シル……早く、逃げなさいと……」
「嫌だ! おまえと一緒にいる!」
「カリンナ……」
 ケイナは傍にいたカリンナを見つけると、痛みを堪えているかのような表情で続けた。
「こんなことを、頼め、る身分では……ないのは、承知、ですが、マルシルを……」
「ケイナ!」
「マルシルを、お願いします」
 カリンナは二つ目の瓦礫に力を込めたまま、大きくかぶりを振った。
「だめ……」
 そんな願い、聞くわけにはいかない。
「マルシルの生きる力は、復讐なんかじゃない。あなただもの」
 天空の城から落下する風の音が、遠くに響いている。いずれそれが、ここに直撃しないとは限らない。
 それでもカリンナは、ケイナを助ける手を緩めて逃げようとは思わなかった。
「生きることをあきらめないで……一緒に、戦ってあげて」
「おまえ……」
 マルシルは瞠目していたが、キッと眦を上げ、乱暴に涙を拭うと、カリンナに負けじと瓦礫に掴みかかった。
「くそっ!」
 だが最後の一つは重く、非力な彼女たちの力ではびくともしない。
 擦り傷だらけになりながら、それでもカリンナは諦めなかった。
 誰か―――
 マルシルがそう祈ったように、心の中でどこかの誰かに呼びかける。
「カリンナ!」
―――願いが叶ったかのように。
 狭い路地を振り返れば、息を切らした赤髪の男が立っていた。


「薬泉院でコユキに聞いたんだ。カリンナとアリルが戻ってこないって」
 瓦礫を難なく移動させたのち、レオンはそうカリンナに説明していた。
 コユキも探しに行きたがっていたが、宿屋の娘―――夫妻は薬泉院の手伝いで、てんてこまいのようだった―――が怯えた様子でくっついて離れないので、そのまま置いてきた。
「おさげの女の子とでかい犬が、こっちの人通りのない方へ行ったって聞いて……正解だったな」
「助けてくださって、ありがとうございます……」
 ヒューイの背に腹這いになりながら、力なくケイナが言った。ただでさえ青白い顔色なのに今にも死にそうなその姿に、レオンは引きつった笑いを浮かべる。
「いいって、こういうときはお互い様だ。……ヒューイ、まとめて薬泉院まで頼むぞ」
 青い毛並みを撫でれば、任せろと言うようにヒューイは一声吠えた。
「リーダー、アリルちゃんが……」
 カリンナがおずおずと、アリルの行く先を教えてくれる。
 怪我人を救助しに行ったと言われたところで、レオンが渋い顔をしたので、カリンナは眉を下げる。それを弁解するようにレオンは手を振った。
「いや……まあ、あいつらしいな」
「アリルちゃん、悲しんでた……」
 珍しく、カリンナは一生懸命に告げてくる。
「迎えに行ってあげて……」
 レオンは笑って応じる。
「おう。……また後でな」
 急ぎ、走り去ろうとしたレオンを、呼び止めてくる声。
「お、おい!」
 振り返れば、顔を真っ赤にしたマルシルだった。
「―――ケイナ、を、えっと、その……あ、あ、あ、ありがとう!!」
「意味分かんねーよ」
 笑いながら前を向きつつ、レオンは手を振って応じた。


 錬金術師がちらほら散見する。彼らが火消に協力したためか、火事は収まりつつあるようだ。
 だがまだ、飛来物は止まない。
 これがどこから来ているものなのか、レオンは勘付いていた。今、天空の城の最も深いところで激しい戦いが繰り広げられている。それは恐らく、クッククローの戦いのはずだ。
―――もしも、これが収まったら。
 レオンは不意に、己の足が止まったことに気づいた。
 足元に、“それ”を見つけたからだ。
 海の守り。
 記憶が確かなら、アリルの鞄についていたはずのものだ。
―――何故、こんなところに。
 冷たい予感がレオンの思考を侵食する。
 行かなければと思っても、足は動かない。こんな思考がそれを妨げる―――
 何処に行くのか?

 そもそも、彼らが無事に戻ってくる保障などどこにもないのに。

 結果を知るのが恐ろしい。
 彼らが“戻ってこなかった”と。アリルのそれがここに落ちている、その理由が今、レオンの予感が的中するところだったなら、と。
 それを知ってしまったら、一体自分はどうなってしまうだろう。
―――ならいっそ、ここからいなくなってしまえばいい。
 気づけば足は、石畳の方向を向いていた。街の出口に向かう、それだ。
 混乱した街の状況で、人ひとり行方をくらませたところで、気付く者はいないだろう。
 ここからいなくなってしまえば。
 少なくとも、結末は知らなくて済む。
 ある意味、“ずっとこのまま”だ。

―――少女の悲鳴。

 レオンははっと我を取り戻した。
 振り返れば、高く天を指さす娘と、彼女を支える男性が慌てて逃げていくところだった。
 そうだ。
―――いいのか。
 本当にこのままで、いいのか?
 一瞬奪われそうになった、余裕のない心を攻め立てる何か。それが段々、飛来する瓦礫を目にするたび強くなっていく。
 まだ、分からないのだ。
 結果が分からないなら、最後まで戦うしかないはずだろう。
 そうでなければ、守りきれたと思ったものが、本当になくなる可能性だって―――
「くそ!」
―――レオンは足を止めた。
 素直になれ!
 このままでいいはずがないだろう!
 石畳に向かいかけた踵を返し、坂道に歩を進め、やがてその歩は速度を上げて、悲鳴の下る中を駆け上っていく。
 これで何度目かの、“死ぬかもしれない”。
 だが―――それでも“生き残る”ために。
 たった一度の勇気を、振り絞る。


「ここの人はこれで全部!?」
 砕けた床の上でアリルは叫ぶように尋ねる。
 ここはこの区画で、最も大きな被害が出た建物だった。とはいえ幸い死人は出ていない。重傷の人間から先に処置して薬泉院に送り込んだため、もう自力で歩いて移動できる程度の軽傷の者と、アリルと同じように医療行為に従事していた者しか残っていない。
「この先に、道が塞がれてしまっているところがあって。どうやら何人か取り残されているみたいなんです」
 逃げる際誰かが言い置いていった一言に、アリルはぐっと苦いものをのみ込んだ。
―――まだ、終わってない。
 それは頭上の戦いもそうだった。飛来物の大きさこそ塵のようなものになっているものの、その頻度は減るどころか増すばかりだ。街はいくらか飛来が始まった最初の頃より冷静さを取り戻してはいるが、どんどん増す怪我人を処置するのが精いっぱいであろう薬泉院から、取り残された人たちのところへ、人を派遣するのは容易ではないだろう。
 なら、距離的に一番近いアリルが、取り残されている人たちのところへ行くべきだ。
「大丈夫……」
 ぎゅっと、鞄の紐を握りしめる―――ずっとそこにぶら下げていた、海の守りはどこかに落としてきてしまった。
 だけど、薬泉院でたくさん補給しておいた、薬や包帯もまだ残っている。
「大丈夫、だし」
 私はひとりでも、やれる。
 役立たずなんかじゃない。
 自分に言い聞かせるように―――後ろを振り返らぬように、アリルは塵の堆積する道なき道を歩き出す。
「平気だもん……」
 だからきっと、この、たまらなく不安な思いも、ともすれば溢れ出しそうに視界を濁らせるこれも、大丈夫。
―――大丈夫なのに。
「アリル!」

―――ああやっぱり、来た。


 いた!
 見つけた喜びと安堵のまま、レオンはアリルに追いつく―――
 はずが、なかなかその距離が縮まらない。
「お、おい!」
 逃げられていると気づいて―――レオンは速度を上げ、何とかその手首を掴まえた。
 ぐるんとこっちを向いた顔が涙目だったので、ぎょっと目を剥く。
「な、何泣いてんだよ」
「うるさい!」
 アリルはばしっとレオンの手をはたき落とすと―――レオンはあんぐりと口を開けるばかりだったが―――顔を真っ赤にして言い募った。
「いつもいつもいっっつも! 私の気なんか知らないでえええええっ!!! 私がイチイチ面倒みてあげてるのも気づいてないくせにどうしてこういう時だけ追いかけてくるのよ! バッカじゃないの! 知ってるけど!!」
「ちょっ」
「大体あなた怪我してるはずなのに、どうしてこんなところにいるのよ! ピンピンしすぎでしょ! 動けないからってちょっと安心してたのにー!」
 叫びきると、ぜーはーと息を整えつつ、アリルは地を蹴った。
 さすがに瞬発力ではレオンが上回っており、逃げられる前に再度捕まえる。
 腕を取られたまま、アリルは喚いた。
「私のことは放っておいていいから!」
「放っておけるか阿呆っ! 何言ってんだ、ちったあ落ち着―――」
「エトリアにだって一人で帰れるっ、私は……っ」
 振り返る。
 ぐいと自ら引き寄せ、近づく距離。
 アリルは彼の鼻先に怒鳴った。
「私は死なないっ!」
 はっとレオンは瞠目する。
 興奮にか、みるみる瞳を潤ませながら、それでもアリルは叫ぶことを止めない。
「死なない、そんな簡単に私は死なない! 見くびらないで!!」
 圧倒されたレオンをまたも振り払い駆け出そうとするアリル。
 慌てて、彼はそれを捕まえた。
「無茶すんなっつってんだ!」
 腕を掴んで必死に止めるレオンだが、アリルもまたそれから逃れようと必死だ。
「……とにかく、私忙しいの。瓦礫のせいで閉じ込められてる人たちがいて、怪我人がいるかもしれないの! 今行かないと、お願い行かせて」
「だあああもー!」
 ぐいとそれを引っ張る。
 息がかかるほどの距離に、二人の顔が寄り合う。
 言葉が出ないレオン。一方で、アリルは彼を敢然と見返している。
 そこに宿る意志の光は、けして折れないだろう。
 レオンは顔をそむけると、これ見よがしに長い息をついた。
「分かった!」
「満足した? なら手、放して」
「分かった分かった、おまえの事情は分かった―――だったら俺も連れていけ!」
 アリルの目が真ん丸になった。
 レオンはその鼻先に人差し指を突きつける。
「あのな! おまえ一人で、入り組んだ街と瓦礫の間を抜けていけると思うのか、薬泉院の部屋すら間違えてたヤツが!」
「んなっ……失礼っ、ていうか、そんなのレオンも危な―――」
「あーあーそうかおまえは、俺がおまえをンな危険と分かってるところに単独で行かせるような奴だと思ってるわけか、え?」
「違っ……だって、私のワガママだもん!」
「じゃあ貫いてみせろよ!」
 歓声のような悲鳴。
 雷鳴に似た轟きのあとに飛来してきた石の塊に、レオンは握ったままのアリルを乱暴に引っ張って、覆いかぶさるように身を投げる。幸い直撃はしなかったが、舞い上がった埃に視界が白く染まる。
 むせながら二人は立ち上がった。灰かぶりのようになった頭を突き合わせたところで、レオンは再び口を開く。
「あのな。……おまえの言うとおりだ、俺もおまえも、今みてーにそんな簡単にゃ死なない。ただ、―――そう。一緒にいた方が、死なねえ確率はもっと上がるよな?」
「……本当についてくるの?」
「止めても無駄なんだろ」
 “何がしたいの?”とでも言いたげな表情に、レオンの苛立ちは最高潮に募る。
「何でもいいけど、早く行きたいの。ついてくるなら、手、放してよ」
 言われるがまま、振り払われるがまま、レオンは彼女を手放した。アリルは踵を返し、駆け出す。
 躊躇いなく塵降る中に飛び出していく背中を追って、レオンも走り出した。 
 伝わってねえ―――!
 叫びだしたいような気持ちをこらえ、抱きながら。

 ただ、前に、走る。


 閉じ込められていた区画に行く瓦礫を撤去している間に、飛来物は収まった。
 とりあえずその向こう側に行って、やはり多数いた怪我人の手当と誘導をしている間に、街の中心からはむしろ、歓声のようなものが上がり始めていて。
 どうも、城の上で戦っていた連中が帰ってきたらしい。
 伝聞どころか推量の形なのは、まだ彼らの姿を直接確認したわけではないからだ。空が白み始めると同時にやはりというかなんというか、レオンの全身の痛みが復活してきたのである。
 アリルが側にいたため傷の具合を見てもらったが、酷くはなってない代わりに良くもなっていない。一晩だけ、まるで魔法がかかったかのように動けたのは奇跡だという話だ。
 どんな奇跡だ。
 つか全身痛ェし。
 薬泉院に戻るどころかすぐに動けなくなってしまって、レオンは高台の隅に腰を下ろしていた。
―――あっという間の一晩だった。
 これで終わりか。あっけないと言うにはあまりに色々起こりすぎた一晩だったけれども、こんなもんだろうとも思う。
 ギルドを抜けて、どうするか。
 これから先、どうやって生きていくのか。
 その答えは未だにはっきりとは見えてこない。
―――でもまあ多分、なんとかなるだろ。
 悩んでいたのが馬鹿らしくなるくらい、あっという間の一晩だった。
「レオーン!」
 階段を一段飛ばしに、ご機嫌かつ元気なアリルが駆け上ってくる。
「―――アイオーンさんたちに会ってきたよ!」
「どうだった?」
「皆、無事! ちょっと怪我はしてたけど、レオンの方が重傷くらいだったわよ」
「そうか、そりゃ良かったな」
 今にも跳ねそうな調子の良さのまま、アリルは続けた。
「街も思ったほど被害は出てないみたいって、薬泉院の院長さんが言ってたわ。亡くなった人はいないし、重傷の人も数えるほどだって」
「それにしたって、やっぱ街が壊れた原因は城で戦ってたからだろ」
「うん、でもね」
 レオンを覗き込むようにアリルは屈む。
「―――“被害が少なかったのは、地上にいるあなたたちが戦ってくれたからだ”って、いろんな人にお礼言われちゃったよ。イーシュ君もコユキちゃんもカリンナちゃんもヒューイも……みんな、自分に出来ることをやってたみたい」
「おまえもな」
「レオンもね」
 にい、とアリルは笑う。
 そして「あっ」と空の端を指さして立ちあがった。
「見て、朝日だよ」
 その背中越しに白む空を見ながら、お気楽な娘だな、とぼんやりレオンは思う。
 あれだけの啖呵を切ったというのに、もういつもと変わらない。切り替えが早いというのか―――危機管理能力が高いというのか。
「“私は死なない”、ねえ」
 信じられるはずがないと思っていたのに、その言葉が何よりしっくりくるのは、何故なのか。
「レオン?」
 アリルが振り返った。
 そしてレオンを見つけて、弾ける笑顔。
 生きているものの力強さ、確かさを、レオンはその笑みの中に見る。
 閃光のように灯る朝日が目を焼く。
「エトリアまで」
 気づけば、レオンは言葉を口に出していた。
「えっ?」
「エトリアまで……送っていってやるよ」
 アリルはきょとんとすると―――一瞬だけにやけたような頬を、ぱちんと叩いて引き締めた。それでも隠しきれない、期待を込めた目が見つめてくる。
「いいの? 私は……嬉しいけど」
「ああ」
「あ……でも、後金……」
 前金以上に払えるお金なんて、と眉を曇らせるアリル。
 邪険に手を振って応じる。
「金じゃねえ」
「え? じゃあ何なの」
「エトリアに着いたら教えてやるよ」
 アリルは首を傾いだが、やがて段差を降りてきて、座ったままのレオンの隣に並んだ。
 今ので納得したのか、考えないようにしたのか―――晴れやかな笑みを浮かべて、その視線は朝の光に向けられる。
 レオンは溜息をついた。
 負けた。
 よく分からないが、久しぶりに清々しい気分だった。
 心の命じるまま、東の空に再び顔を上げる。
 明けぬと思っていた夜に、光が射した瞬間だった。

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終章

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終章・前

 公宮入り口の大きな扉の前で、落ち着かない様子でうろうろとするライを、ファルクが鼻で笑う。
「出産待ちの父親みたいだね……」
「うっせ! つか、気にならねーのかよ、みんな」
 勢ぞろいしているクッククローの面々を前に、ライが大げさに身振りする。
 レオンは生欠伸で、それを眺めていた。
 と、不意に大扉が開く。
 出てきたのは、アイオーン一人だ。
「どうだったの?」
 緊張した面持ちでノアが詰め寄る。
 顔を伏せていたアイオーンは、ため息一つ―――ブイサインを出した。
「やったァ!」
「貴族の位、もらえたんだね!!」
 ライとファルクがハイタッチし、それをした相手を改めて確認、勢いよく顔を逸らす。
 アイオーンは曖昧な笑みで答えた。
「もらえることに決まった、だな。受勲はまだ、正式な儀式があるらしい」
「何はともあれ、おめでとう」
 柔らかい表情で迎えるノアを、アイオーンは見つめ返す。
「ひゅーひゅー! ……あでっ」
「うるせえ。ここは公宮だぞ」
 囃すライを拳骨で黙らせるレオン。ライは涙目で唇を尖らせる。
「先に口で言えよ、ったく……まー何はともあれ、今日は宴会だな!」
「食いたいだけだろお前は」
 なんだかんだと言い合いながら、公宮を後にする面々の後ろについて、レオンが歩き出そうとしたところで。
 アイオーンとノアが呼び止めてくる。
「みんなと……君のおかげだ」
「ん?」
 訝しく振り返れば、こんな言葉がかけられた。
「ここまでクッククローを支えてくれて、ありがとう」
 微かな笑顔でそう言うアイオーンに、レオンは口角を上げる。
「何だよ、改まって……」
「そうね。あなたには感謝しているわ」
 あまりそうは思っていなさそうな表情で、ノアが引き継いだ。
「ありがとう」
 そっちには若干引きつった笑みを返しつつ。
 咳払いひとつ―――レオンはこう答えた。
「こちらこそ」


「おう、お前か!」
 鋼の棘魚亭の亭主は、店に入ってきたレオンを見つけて軽く手を挙げる。
「さっきまた新人が来たぜ。天空の城から続く新しい階層が見つかったって話を聞いてな。まだまだうちの店も忙しくなりそうだぜ、うはは……」
 こっちの話も聞かず一方的にそう言って肩をばしばし叩くと、亭主はその新人たちにアドバイスをしに行ってしまった。
 やれやれとそれを見送ると、レオンはカウンター席に座す、長い金髪の男の隣に立つ。
「よう」
「ねえ、エトリアに帰るんだって?」
 昼間から酒に手を付けながら、イーシュがレオンを見上げた。眉を寄せる。
「“帰る”っていうのか?」
「クッククローにとっては、故郷じゃないか。カノジョにとっても」
「彼女じゃねーから……」
 にやあ、と嫌な笑みを浮かべるその端正な顔をはっ倒してやろうかとも思ったが、レオンが実行する前に、イーシュはシニカルな笑顔に戻る。
「じゃ、そっちの方は君に頼もうかな」
「は?」
「エトリアの情報で知りたいことがあったら、君に聞くから。今まで散々手伝わされてきたんだし、いいでしょ? よろしく頼んだよ」
 立ちあがりつつぽんとレオンの肩を叩いて、イーシュは足取り軽く素早く店の外へ出ていった。
 ぽかんとしていたレオンは我を取り戻すと―――ため息一つ、ひとりごちる。
「あいつ、また代金払わずに行きやがったな?」


「これと、あれと、それと……」
 アリルは難しい顔で、市場とシトト交易所で買ってきたものと、メモを宿部屋で照らし合わせている。
 エトリアまでは一月以上かかるという長丁場だ。行きはあまり補給は出来ない道のりだったため、帰りもたくさん買い込んで行かねばならない。人数は行きよりもずいぶん減って二人だが、今度は馬車がない、歩きの旅だからだ。
 レオンは自分の分の分け前金をアリルに丸々預けた上に、“前金と合わせておまえが管理しておいてくれ、あと買い出しよろしく”と言ったきり帰ってこない。これではどちらが依頼人でどちらが報酬を支払われた方か、分からない。
「ああっ、地図買ってない!」
 肝心なものを忘れていたことに気づいて、アリルは叫ぶ。
 それを、向かいのベッドでぼんやりと眺めている、カリンナと目が合う。
 笑う。
「ごめんね、騒がしくして……」
 カリンナは無言でかぶりを振ると、ごそごそと何かを取り出した。
「これ……」
 カリンナが手渡してきたのは、絵だ。
 クッククローのメンバー全員が丁寧に描かれている。アリルは感嘆の声を上げた。
「すごいっ、いつの間に描いてたの!?」
「それ、あげる……」
「え?」
 カリンナは答えた。
「アリルちゃんに、あげようと思って……もらって、くれる?」
 アリルは満面の笑みで、カリンナに抱きついた。
「勿論! ありがとう、すごく嬉しいよ!! ……あ、でも私からカリンナちゃんにあげられるものなんて……」
 何かあったかな、とアリルが身を離して鞄を探ろうとする前に、カリンナがぎゅっと、アリルの背に手を回す。
 控えめな声が、くぐもって響いた。
「いいの。わたし……もうたくさん、アリルちゃんにもらってるから」


 世界樹を覆う外壁を背に、ざくざくと舗装されていない土の道を食む草履の足が、ぴたりと止まった。
 ふうと溜息一つ、コユキは木の陰に話しかける。
「勘の鋭さは相変わらずじゃの」
「よく気づいたな」
 木陰からあっさり姿を現しつつ、レオンは素直に感心した。
 コユキは呆れを浮かべた表情で応じる。
「さすがに、見知った仲間の気配くらいすぐに分かり申す」
「その仲間に別れも告げずに、あんたはこんなところで何をしてんだ?」
 言ってやれば―――しかしコユキの反応は「知れたこと」と淡白だ。
「拙者、修業の旅の途中じゃからの。その旅を再開しようと思うたまでじゃ……お主らもそのうち、ハイ・ラガードを発つのじゃろう?」
「さすがに、みんなに黙って出てったりはしねーよ」
 そこでコユキは遠い目をして、呟いた。
「……改めて口にすれば、別れがつらくなるじゃろう」
 そのあまりに寂しげな様子に、レオンは何も言えなくなる。
「そうか……」
 切れ長の鳶色の瞳がレオンを捉え、微かに弧を描いた。
「アリル殿に、よろしくとお伝え願えるかの」
「あれ、そっち?」
 伝える相手が違わないかと、レオンは目を丸くする。
 すると、コユキはむしろ怪訝そうに眉をひそめた。
「以外に誰がおるのじゃ」
「いやー、俺はてっきり……あ、いやいいか」
 誤解だったということにして、そう繕うレオン。
「言っておくがの」
 ずい、と詰め寄りつつ、コユキは刀に手を添える。
「アリル殿に何かあったら、承知せんぞ。このコユキ、レオン殿を見込んでアリル殿を託すのじゃ、くれぐれも―――」
「分かった分かった! 分ぁーったっての!!」
「なら良いのじゃ」
 ちらと見えていた物騒な銀色をぱちんと収めると、コユキは咳払いした。
「……レオン殿も、ご健勝で」
「ああ、あんたもな」
 ブシドーの礼儀なのか、深くこうべを垂れると、コユキは背筋を伸ばして道を進んでいった。
 振り返らない背中を見送り、レオンはラガードに戻る。


「ホントに行っちまうのかよ……」
 男部屋のベッドの上で、渋い顔をして胡坐をかいているライに、レオンは肩を竦める。
「おまえらはまだハイ・ラガードに残るのか?」
「だって、六階層を見つけちゃったしね。ここまで来たのに、別のギルドにてっぺんまで行かれるのは癪でしょ?」
 こちらに背を向け、傍らの小さな机で銃の手入れをしながら、ファルクが応じる。
 答えられてしまったことにか、ライはファルクにじとりと視線を送ったが、ぱっと表情を変えて―――晴れやかな笑顔で続けた。
「でもって、ここを踏破したら次の冒険に出るんだけどな。世界って広いんだぜ、この前公宮で世界地図を見せてもらったけど、まだ誰も足を踏み入れたことがないような場所っていっぱいある。……魔物もうようよいるだろうけど、オレたちが初めに見つけるものだってたくさん眠ってるはずだろ」
「まあな」
「……気のねー返事だな……」
 ライはため息一つ、大げさに言った。
「いいさ! ここでお別れだもんな。オレたちがお宝みっけて、大金持ちになっても、ワケマエなんてびた一エンたりともやんねーからな。せいぜー悔しがれよ!」
「俺が悔しがるには、俺の耳にその知らせが届かねーとな」
 ライが目を丸くする。
 ファルクも振り返っていた。
 レオンは続けた。
「……どうせなら、世界にその名が轟く冒険者になれ。待ってるぜ」


 まるで、おとぎ話に出てくる、魔女の館のようだ。
 扉を開けた途端迎えた蝙蝠の剥製のせいで、アリルはこの店にそんな印象を抱いた。薬を作る材料で足りないものがあったので、薬泉院で尋ねると、ここに行けと言われたのだ。
 薄暗く、頭蓋骨だの干したマンドラゴラだのが陳列する店内をびくびくと物色しつつ、アリルは奥に進んでいく。
「すみませーん……」
「はあい」
 思いがけず返った声にびくりと身を竦め―――アリルは目をぱちくりとした。
「ルミネさん?」
 入り口からは死角になっていた精算カウンターに、ルミネが座っている。
「いらっしゃいませ~」
「どうしてこんなところにいるの?」
 最近全然見かけないと思ったら、とアリルが近づけば、ウインク一つ、ルミネは答えた。
「ここ、私の古い馴染のお店でねー。こうして店番で雇ってもらってるのー」
「嘘をつけ。勝手に上がりこんでいるくせにの」
 ルミネの後ろの扉から現れたのは、真っ白な肌色をした初老の紳士だった。
「ひどいわー、あなたが店を放置するから、私が面倒見てあげてるんじゃないー」
 そう言うルミネを紳士は無視し、じろりとモノクルの視線をアリルに浴びせると、尋ねた。
「それで何の用かね、お嬢さん」
「え……っと、薬泉院からのご紹介で……あの、薬の材料が欲しいんですけど」
 メモを手渡せば、モノクルの位置を直しながら、紳士は再び店の奥に引っ込んでいく。
「少し待ちたまえ」
「……無愛想でしょー」
「ど、どういうお知り合いなんですか?」
 ルミネの交友関係はレオン以上によく分からないのだが。
 ルミネは答えた。
「私と同じ師に学んだ、いわばきょうだい弟子よー」
「へえ……」
 ルミネの年齢がますます不明になったが、アリルはそこは深く尋ねないことにした。
「あの方、ニヴルヘイムのドクトルマグスさんの、お師匠さんですよね?」
 代わりにそう訊けば、ルミネは「良く知ってるわねー」と応じる。
「ニヴルヘイムの赤毛の女の子、あの子が引き取ったのよ。このお店にも時々遊びに来るわー」
「……えと、あの呪医さんが引き取られたのは知ってました」
「私が前に言ったこと、気にしてたのー?」
 助けた命に責任が持てるか。
 ニヴルヘイムのリーダーが亡くなり、その被保護者である少女だけをアリルは助けてしまった。少女の身の振り方について、やはり気がかりだったので、イーシュに教えてもらっていたのだ。
 ルミネはいたずらっぽく続ける。
「……大丈夫よ。あの子少なくとも、生きてることを後悔したりはしていないわ」
「え……」
「これから先はあの子自身が決めること。あなたは気にしなくていいのよ……ちょっと、私が意地悪を言ってしまったところもあるしねー」
「い、意地悪って」
「ねえ」
 ずいと身を乗り出すと、アリルを掴まえて―――鼻先が触れそうな距離で、ルミネは告げた。
「レオンのこと」
「は、はい」
「よろしくね」
 そしてぱっと手を離すと、ルミネは定位置に戻っていく。
 どきどきした。アリルは胸の鼓動を落ち着かせながら、ニヴルヘイムのもう一人の少女のことをふと思い出す。
「あの、そういえばアルマさんは―――」
「たのもー!!」
 ばん、と勢いよく店の扉が開く。
 ずかずかと入ってきた影に、アリルは瞠目した。
「アルマさん!?」
 それは確かに、長い金髪の少女だった―――ただしいつもの青いコートではなく、赤い帽子に赤いドレスで、まるでルミネの真似をしたような格好だ。
 アルマはちらっとアリルを一瞥したが、すぐにルミネに向き直った。
「さあ、今日こそ教えてもらうわよ、呪医術を!」
「まるきり、教えを乞う態度じゃないわねー」
「い・い・か・ら!」
「あ、アルマさん、呪医になるおつもりなんですか?」
 アリルが思わず口を挟めば、アルマは大きく頷いた。
「銃士の道を途中で投げ出すのは、とても悩んだけど。……でもわたし、誰かを助けられる人間になりたいの。誰かを頼るだけじゃなくて……冒険者として、生きるなら」
「アルマさん……」
「そういうことだから」
 ぐりん、とルミネを振り返り、アルマは身を乗り出す。
「―――教えてちょーだい! 教えてくれるなら、何でもするわ!」
「何でも……本当に何でもー?」
 ルミネの目が怪しく光ったので、アリルは嫌な予感に頬を引きつらせた。
「ええ!」
「アルマさん、もうちょっと考えた方が……」
「待たせたね」
 そのとき奥の扉が開いて、再び店主の紳士が薬草袋を手に現れた。
 袋を受け取って中身を確認すると、アリルは代金を支払いつつ、苦笑する。
「アルマさん……お元気そうで、何よりです」
「あの赤毛の小娘ともども、うるさくてかなわん。どちらか引き取ってくれんかの」
「えっ」
 ルミネとアルマのやりとりを眺めていた紳士は、冗談めかしたようにウインクした。


 夜明けもそこそこの時間帯に、宿を発つ重装備の青年が一人。
 宴会で潰れた奴らやら公宮の用事やらで人が集まらず、結局見送りはレオンとアリルの二人だけだ。
「こんなに早く出なくてもいいのに……」
「すいません。一刻も早く、自由騎士団に追いつきたくて」
 唇を尖らせるアリルに、クルスは頭を掻く。
 自由騎士団の行く先は分かっているので、彼はそれを追いかけるのだという。日を開ければその距離はどんどん開いてしまうため、慌ただしい出発となった。
 見送る準備も整わぬうちに、アリルたちより一足先に発つというので、彼女は渋い顔なわけだ。
「アリル、笑ってください」
 顔を上げたアリルは、にい、と作ったように頬を上げて、すぐに眉を下げた表情に戻る。
「……元気でね」
「はい。あなたも」
「落ち着いたら手紙、書いてね」
「はい」
「……病気と怪我には気を付けて。それから……」
 指折り注意を数えていく彼女に、クルスは苦笑しながら、その肩をぽんと叩いた。
「ありがとうございます。……でも、大丈夫ですから」
「うん……」
 クルスは微笑むと、アリルから離れた。
 向き直ったのは、レオンだ。
 目が合ったところで、どちらともなく、口の端を上げる。
「死ぬなよ」
「いつまでそれ、言い続けるんですか」
「俺かお前が死ぬまで?」
「ははっ」
 クルスは笑うと、レオンに向かって深く一礼をした。
「お世話に、なりました。僕は……」
 上げられた目から、ぽろりと零れる、涙。
「ぼく、は」
 言葉にならない。
 みるみる溢れて止まらなくなっていく。
 耐えきれないというように、クルスの表情がくしゃりと歪んだ。
「す、みま、ぜ」
「おいおい」
 苦笑というよりまるきりただの笑い顔で、レオンは言ってやる。
「―――順番逆だろ!」
 指さしたのはアリルだ。「えっ」と声を上げる彼女をよそに、クルスは厚い手袋でぐいと、ぐちゃぐちゃになった顔を擦る。
「いえ、だっでっ……」
 顔を朝日の色にして、しゃくり上げながらも、クルスは必死に言葉を紡いだ。
「あなた、と、一緒に……肩を並べて戦った日々を、僕は一生、忘れません」
「……俺もだ」
 レオンは片手を差し出した。
 一瞬はっとした顔になるクルス。
―――やがて、彼はそれを力強く握り返した。

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終章・後

 ぱたん、と閉じた本の背に、少女―――いや、その女性は笑みを浮かべる。
「そうね、こんなだったわ」
 懐かしむように目を細める。
―――かつての仲間が絵手記をもとにした本を出すというので、送ってもらったのだ。
 一緒に添えられていたのは、手紙。
 エトリアは手紙がまとめて到着するため、何故だか山盛り、一度にいろんな人から手紙が届いている。
「こんなに一度に被るのは珍しいわね」
 独り言を言いつつ、彼女は様々な書簡を検分する。
 宛名書きが筆のようなもので縦書きに書かれたもの。
 貴族が用いるような香り付き封蝋で閉じられた、高価そうな封筒。
 乱暴に書かれた、少し間違った宛名文字(これでよく届いたものだと思う)と、本が入っていた茶けた封筒。
 騎士団の紋が入った、白く清潔な封筒―――
 どれもこれも、開ける前から、誰が送ってくれたものかが一目瞭然だ。
 笑いがこらえきれず、くすくすと声を上げる。
「先生」
 自室にいた己を呼ぶ声に、彼女は慌てて返事した。
「今行くわ!」
 今日も今日とて患者がたくさんいる。忙しいので、ゆっくり休憩して手紙を読む時間もない。
 片付けておこうと、手紙を持ち上げれば、ひらりと落ちた一枚の紙―――
「あら?」
 手紙と言うにはあまりに簡素な、メッセージカードのような、それ。
 ただ一文刻まれた言葉。
 破顔した彼女の部屋に、ノックの音が飛び込む。
「先生?」
 ドアから遠慮がちに顔を覗かせた少女が、彼女が持つ手紙の量に目をぱちくりさせた。
「すごいですね、お手紙がたくさん!」
「ええ……ふふふ」
 カードから目を離さない彼女に、少女は少し意地悪い顔をする。
「あら? ラブレターですか?」
 たっぷりおどけて、彼女は応じた。
「全部ね!」


 生温い風が、草原を吹き抜けていく。
 そう、草原だ―――時折ぽつりと生える木はあるものの、何もない、ただ草だけが生い茂る空間だと言っても間違いはない。
 男は小さく嘆息した。
 ここに来れば何か変わるかと思ったが、どうやらそうでもないようだ。
「おい、もういいかい?」
 護衛する代わりにここまで連れてきてくれた馬車の御者が声をかけてくる。
 男はひらひらと手を振った。
「もうちょっと」
 風が、吹いている。
 人が燃えた残りかすも、家の欠片も、何もかも残っていない。
 そのわりに十数年という月日は、焼けた土に草を芽吹かせ、大地を癒すのに十分だったようだ。
「あのあたりに集会所、こっちに水車小屋……」
 ひとりごとを呟きながら、指を差していく。
「……あの辺かな」
 俺の家が、あったのは。
 もう、おぼろげにしか思い出せないが。
「おーい」
「あ、悪い悪い」
 馬車に戻りつつ、御者に告げる。
「なんだかよく分からんが、もういいんだな?」
「ああ。近くに来たから寄っておきたかっただけだし」
 ゆっくりと馬車は動き出す。
 後ろの天幕を上げて、男は離れていく草原に目を細める。
 かつて故郷だった、草原。
「もう多分、ここには来ないから」
「……そうかい」
「ところで」
 変わって先頭、御者席に顔を出しながら、彼は尋ねた。
「この馬車、エトリアまで連れてってくれんの?」
「冗談言うんじゃないよ。あんな田舎、きょうび物好きでなけりゃ寄り付かないからね」
「田舎で悪かったな」
「おやあんた、あそこの出身かい?」
「出身じゃねえけど……」
 何と言うべきか迷い、結局こう答えた。
「帰るところではあるな」
「へえ、意外だね。失礼だけどあんた、ナリからしててっきり根無し草かと思ったよ」
「だろ? 俺も今自分で言ってびっくりした」
「ははは、何だいそれは」
「んじゃ」
 馬車の天幕の中に引っ込み、彼は横になった。
「―――エトリアの、一番近くまで行ったら起こしてくれよ」
「どうするんだい?」
 尋ねてくる声に、にやりと笑って応じる。
「仕方ねえだろ。そこからは歩いていくよ」


 カードにはこう書いた。
 “今から帰るよ”ってな。
 帰る場所を作ること、それが後金だ。





【ハイラガ編・終わり】