全力で投げ捨てる

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SQ3
キャラクター紹介
クッククロー クッククロー(別) その他の人々
序章
序章・前 序章・後
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終章
終章・前 終章・後

世界樹の迷宮III 星海の来訪者

キャラクター紹介

クッククロー

姫様とゆかいな仲間たち。ほとんど十代しかいない、新米冒険者たちの集まり。

イーグル
男、19歳。記憶喪失。アーモロードを根城にしている海賊の下っ端。優柔不断で誰にでも優しい。
ベルオレン
男、17歳。通称ベル。イーグルを兄貴分として慕う少年。馬鹿に見えて結構強か。
リン
女、20歳。ベルオレンの実姉で、修業から逃げまくる弟に手を焼いている。しっかりもので姉御肌だが喧嘩っ早い。
ピアノーチェ
女、16歳。通称ピア。某国の王族の姫で、自分の力を試すため世界樹に挑む。言葉は丁寧だがかなりワンマンでワガママ。
ハガネ
男、年齢不詳。姫様のお付きのシノビだが、意志薄弱で気弱、いつもハラハラしている。

クッククロー*上とは別ギルド

イーグルたちが樹海に挑み始めるより前に存在したギルド。樹海で行方不明になり、全滅したと思われているが…

カイト
男、年齢不詳。北方の国から知識を求めてやってきた研究者の青年。戦闘能力は高いが自尊心も高く協調性がない。
アル
男?、15歳。中性的なわりに妙な風格がある少年。のんびりした性格。
スズラン
女、24歳。アルの従者の女性騎士。怒りっぽく、男性が苦手。
ティティ
女、年齢不詳。港でカイトが拾った無邪気で無防備な少女。サイモンに懐いている。友達は魔物。
サイモン
男、年齢不詳。フリーの冒険者。食えない性格のおっさんだが、意外と面倒見がいい。

その他の人々

クッククローに関連深い人々や、街の人たち。

ドン(本名不詳)
男、年齢不詳。イーグルが世話になっている海賊船の首領。
シオ
男、年齢不詳。リンとベルオレンが預けられている道場主のじいさん。
ヴィクセン(本名不詳)
女、二十代。「女狐」と呼ばれ忌避されている、汚い手を好む冒険者。セレンディピティーに転がり込む。
シャクドー
男、三十代。深都に住む元冒険者。強面。
エラルナ
女、二十代。深都に住む元冒険者。シャクドーの妻。
キ・ホー
男、13歳。ドンの海賊団にいる少年。ヴィクセンが嫌い。
フリック
男、28歳。ドンの右腕の航海士。大人で落ち着いた常識人。
リリィ
女、19歳。極度の方向音痴だが人を探している。おっとりしていて世間知らず。

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序章

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序章・前

―――海だ。
 奇妙な浮遊感がある。その中で彼が直感したのは、これは海の中だということだ。
 上下も左右もない、どこまでも沈みいく……いや。
 沈んではいない。
 むしろ、見える光は近づいている。
 光はすべてをさらっていく。
 彼が何者なのかすら。

―――ただひとつ思い出せたのは、これが知っている光景だということだ。



「!?」
 勢いよく起き上がりすぎて、イーグルは天地がひっくり返ったかのような衝撃を頭に受けた。端的に言えば痛い。
 寝かされていたのは、船の甲板。
 それも、見張り台に昇るための梯子の真下で。
 ようするに、風に揺れる木製の重しが額に直撃したのだ。
「っつ~……」
「おう下っ端、目ェ覚めたか」
「お頭……」
 近づいてきたのは眼帯の男。伸ばしっきりで、潮風にあてられボサボサの赤い髪を掻きむしりながら彼―――この船の船長は、イーグルにがなり声を浴びせる。
「ったく、しゃあねえなあお前も! そんなに海に落っこちんのが好きか!」
「そういうわけじゃ……」
 どうやらイーグルは“また”海に落ちて、船の誰かに助けてもらったらしかった。
「拾ってやったときも波間に浮かんでたんだっけな。つくづく、悪運のつええ奴だぜ」
 雲一つなく青々と広がる空を見つめて独白のように語る背を眺めていると、不意にその人相の悪い顔が振り返った。
「何ぼさっとしてやがる! 上陸準備だ、動けるようになったんなら手伝いやがれ!」
「は、はいい!」
 慌てて立ち上がるとイーグルは、とりあえず勢い指差された方角へと、逃げた。
 イーグルは海に出て日が浅い。勝手が分からぬことも未だに多いが、どうせ陸に上がってどこかの街に腰を据えたところで同様だ。
 なにせ、彼には過去の自分に関する記憶、というものがとんとないのだから。
 この船に乗っている経緯はお頭の言ったとおり、拾われたからである。実のところイーグルという人間はそこからしか存在しない。名さえ失っていた彼に、空飛ぶ鳥の名をくれたのはお頭なのだ。ぶっきらぼうだが、面倒見はいい。
 実は、この船は海賊船らしい。らしいというのはしかし、他船や港に略奪を働くような真似をしているところに、イーグルが遭遇したことがないからだ。乗って短いとはいえ半年くらいは同行しているので、多分、根っからそういう船なのだろう。むしろ船団の護衛をしたり、今回みたいに海荒らしの余所の海賊船を追っ払ったりするような“海賊”である。
 拠点とする街への、帰港もそのせいだった。余所者の撃退には成功したものの、こちらの船も大穴を開けられてしまって、修理しなければならなくなったのである。
 狭い港に船が着く。商船数隻でいっぱいになってしまうほど本当に狭い港なので、この船の接岸技術も実は優秀なのだ。
「野郎ども、束の間の自由だ! 明朝までは好きにしろ!」
 お頭の宣言に、船のほうぼうから歓声が上がる。
 一呼吸遅れてそれにのったイーグルを、隣に立っていた仲間が肘でついた。
「お前、どうする?」
「どうしようかな……みんなは?」
「決まってんだろ」
 にへりと相好を崩す仲間たちに、イーグルは苦笑いをした。どうせ、行くところは花街と決まってる。
「俺は遠慮しとくよ」
「またかあ? 付き合いの悪ィ奴だな!」
「俺知ってるぜ、コイツ、ここに女がいてやがんだ」
 上がった一言に、イーグルはぎょっとして目を丸くする。
「だ、誰のこと?」
「おっそんなに候補がいるのかよ色男? こないだ、商店街を赤い三つ編みの女の子と歩いてたろうが!」
「あの子はそんなんじゃ……」
「おーいテメエら!」
 タイミングよく、お頭の声が降る。
「―――とっとと降りやがれ! 俺様が降りられねーだろうが!」
「へーい」
 お頭には従順な荒くれたちが、港に降ろした梯子を伝っていく。どさくさに紛れてイーグルは、下船してすぐ仲間から逸れたのだった。


 真っ赤な女神を艦首に据えた、悪趣味だが見覚えのある船が港に入っていく。
 そいつを見つけるなり、ベルオレンは歓声を上げた。
「ヒャッホー! アニキの船だ!」
 そして窓から身を乗り出して、庭にいる姉に呼び掛けた。
「姉貴! アニキの船、帰ってきたぜ!」
「あっそ!」
 素っ気なく応じると、姉はベルオレンと同じ赤い髪―――ただし三つ編みだが―――を翻すようにぐりんと顔を上げた。眉を吊り上げ、怒っている。
「んなコトより、ベル! 今日も朝の修練サボったね!?」
 ベルオレンは舌をちろっと出すと、窓から身を引っ込めた。
「ちょっと聞いてるの、ベル!?」
「へいへいへ~い……っと」
 小声で適当に返事をしながら、ベルオレンは身支度を整える―――まあ、きちんと靴を履いて、邪魔な髪をバンダナで上げるくらいだが。
 そして若干窓から離れ、勢いをつけると―――飛び降りた。
 ざんっ、と着地したのは狙ったとおり、姉からちょっと離れた地点で。
「ベル!」
 そして何事もなかったのように、ベルオレンは一目散に走り出す。
 玄関から素直に出ると姉に捕まるため、いつの間にか編み出した逃走方法だ―――もっとも、ベルオレンの部屋は三階にあるので、普通はできない逃げ方だろうが。
「―――!」
 追い縋るのは姉の金切り声だけ。それもすぐに遠ざかる。
 ベルオレンが真っ直ぐ目指すのは、アニキ―――イーグルが到着したばかりだろう港、それだけだ。


 ハガネはおろおろと、慣れぬ街を見渡していた。
「ぴ、ピアノーチェさま……いずこに行かれたのでござるうう……」
 人の往来激しい港なので、小柄なハガネはあちこちぶつけられてよろめいた。
「あっ」
「おっとっと、大丈夫か?」
 支えられた腕に顔を上げると、快活そうな少年がにっと笑みを見せた。きつい陽射しに赤い髪が照り返っている。
「こ、これはすみませぬ」
「きみ、こんなところで何してんの?」
 ハガネがぱっと離れると、軽薄さすら感じさせる口調で、少年が話しかけてきた。言うべきか迷ったが、他によりがあるわけでもないので正直に告げる。
「実は某、連れのお方と逸れてしまったのでござる……豪奢な長い金の髪の少女でござるが、お見かけではないだろうか」
「さあ……あんた見るからにヨソモノだけど、この国はそういう連中、多いからね」
 きょとんとするハガネに、彼は笑みを深める。
「―――“こんな小さい港町なのに?”って思ったろ」
「え? ……いやまあ、その通りでござる……」
「理由があるんだよ。こーんな辺鄙な、貿易もロクにしてないような島国が賑わうわけがね」
 少年は両手を狭い道いっぱいに広げると、背後を振り返った。
 そこにあるのは、青々と茂った森―――否、一本の、大樹だ。
 大樹と言うにはそれは、あまりに大きすぎるだろう。島の天を覆うように枝葉が生える様は、この国にこれだけの日差しが降り注いでいるのに疑問を抱いてしまうほどである。
「あれは世界樹と言ってね。あのふもとには、魔物が出る巨大な地下迷宮がある。俺たち海都の人間が、“世界樹の迷宮”と呼ぶ大樹海さ」
「海都?」
「この国にして街、アーモロードのことだよ」
 ハガネは少年につられて大樹を見上げながら、呆然と呟いた。
「あれが、世界樹の迷宮……」
「きみも、もしかしてアレに挑戦しに来たクチかい?」
 笑みを浮かべた顔をぐいっと近づけてきた少年に、ハガネは思わずのけぞる。少年はにこにこと続けた。
「きみみたいに可愛い女の子が、一人じゃ危ないよ」
 その一言に、ハガネは目をぱちくりした。
「―――きみのそれ、変わった格好だけど、見たことあるぜ、キモノっていうんだろ?」
「え、あ、そ、某、そのう」
「見つけた!」
 突如響いた声に、少年はばっとそちらに顔を向ける。
 肩を上下させながら、人ごみの向こうに立っているのは、赤い三つ編みの女性。
「やっべえ!」
 少年は一声上げると、ハガネから離れて手を振った。
「―――じゃ、オレ行くから! 探してる子、見つかると良いな!」
「待ちなさい、ベルオレン!!」
 人の波をかきわけ、女性が近づいてくるが、ベルオレンと呼ばれた赤毛の少年の方は、まだ人でごった返す港の方へ向かい、見えなくなってしまった。
「あーもう……」
 力を失い、へなへなと崩れ落ちる女性に、ハガネは声をかける。
「だ、大丈夫でござるか?」
「あなた……見ない顔だね。あのバカに絡まれたの? 大丈夫?」
 逆に心配されて、ハガネは引きつった笑みを浮かべる。
 立ち上がった女性は膝を払うと、先の少年そっくりの笑顔を咲かせた。
「可愛い女の子に目がないんだよ。ごめんね、悪気はないの」
「そこなのじゃが……」
「ん?」
 ハガネはもじもじとしつつも、続けた。
「某は男でござる」


 港を抜け市街に出た途端、細い入り組んだ坂道をけたたましい鐘の音が駆け下りてきた。イーグルが慌てて壁際に張り付くと、それは瞬く間に目の前を通り過ぎていく。
「急患、急患!」
「またかよ……」
「今度はどこのギルドの連中だ?」
 そばにいた、体格のいい男たちがひそひそと言葉を交わす。
 そう、通り過ぎて行ったのは人をのせた担架だったのだ。
「ああはなりたくないね……くわばらくわばら」
 呟きからして、この男たちも“同類”らしい―――すなわち、冒険者だ。
 この島にそびえる大樹、その膝元に広がる樹海の存在を、イーグルも話に聞いて知ってはいる。たくさんの冒険者がそれに挑み、命を散らしていることも。
 噂によれば、百年前の“大異変”で海底深くに沈んだ街には高度な技術と、目もくらむような財宝が眠っているらしい。そしてあの迷宮は、そこに繋がっているというのだ。
 だがイーグル自身、そのいわゆる“世界樹の迷宮”に立ち入ったことは勿論、近づこうと思ったことすらなかった。
(なんだってみんなわざわざ、危険だと分かっているところに足を運ぶんだろうな?)
 遭わずに済む災難なら避けて、堅実に生きてしかるべきだろう。
 まあ、それは人それぞれというやつだ。きっと、冒険者たちには冒険者たちで事情があるに違いない。
「ねえ、そこのあなたがた!」
「あん?」
 ふと、場違いに凛とし、鈴の音のような声が響いた。
「冒険者なのでしょう? ねえ、冒険者ギルドへの道筋を教えていただけませんこと?」
 黄金の髪に、白のドレス。
 振り返った先にあったまぶしさに、イーグルは目を細めた。
 冒険者の街に何とも似つかわしくない、眩しい少女の期待の眼差しに、きょとんとしていた男たちが失笑した。
「何だお嬢さん、そんなカッコで樹海に行く気か?」
「やめとけ、やめとけ! ピクニックじゃねえんだ」
 男たちの嘲りに気を悪くした様子で、少女はむっと顔をしかめる。
「わたくし、真剣ですのよ」
「樹海がどんなところか知ってて言ってんのか? さっき運ばれてきた奴を見たろ!」
 担架が消えていった細道を親指でさして、男は続ける。
「ああいう目に遭うやつはけして少なくない。悪いこたァ言わねえ、海水浴でもして帰るんだな」
「帰りませんわよ! まったく、失礼な人たちですわね!!」
 少女の声が甲高くなってきたところで、イーグルは彼らから視線をはがし、そろそろよそに向かうことにした。巻き込まれるのはごめんだ。
 それでも続く口論は、背中が聞き取る。
「ははん、さては教えたくないんですわね。冒険者になったこのわたくしに、先を越されるのが怖くて」
「先を越すって……お嬢さんが?」
「そうですとも。あなたがた、こんな日の明るいうちから街でウロウロしているなんて、冒険者にしても底が知れているのでしょうね」
 少女の挑発に、舌打ちが応じた。
「てめ……黙って聞いてりゃいい気になりやがって!」
「きゃっ……何をしますの!」
 ここで、振り返ったのがいけなかった。
 怒り心頭の男たちが、少女の細い手首を捕まえている。
 彼女の青い瞳と―――目があったのがいけなかった。
「助けて下さいまし!」
 うっとイーグルが視線をそらすより先に、少女の目が周りを見渡す。
「―――誰か!」
 喧嘩を注視していたはずの野次馬たちが一斉に散っていく。
 少女を捕まえている冒険者たちは、有名な荒くれどもなのだ。下手に不愉快を買えば、どんな仕返しを受けるかわかったものではない。
 誰も助けの手を差し伸べてくれないことを理解したのか、少女は自分を捉える手の主を睨みつけた。
「離しなさい、この無礼者!」
「無礼者、ねえ」
 にやにやしながら、男は言う。
「―――冒険者にそいつは通用しねえぜ。国も所属もあったもんじゃねえ、そういう連中ばかりだからな」
「この世界じゃ、力があるもんが一番偉いんだよ。勉強になったろ?」
「そうみたいですわね……」
 少女は諦めたように力を抜き―――唐突に、スカートを跳ね上げた。
 周りが驚く間もなく現れたのは金の鞘―――突剣だ。
「はあっ!」
 油断していたらしい男の手をドレスの布で絡め取りひきはがすと、突剣の鞘で叩きつけ、ついでにその足を踏み抜いた。
「いってえ!」
「女だといって舐めないで下さいまし!」
 踏まれた足を抱えて、ぴょんぴょん跳ねる男。
 自由になった少女は突剣片手にふん、と胸を張る。
 その背後に、男の仲間が忍び寄る。
「危ない!」
 とっさに、イーグルは動いていた。
 懐に入れてあった小袋を、男の仲間に投げつける。袋の口がいきおい開き、漏れ出た白い粉が舞って、辺りを真っ白に染める。
「うわ、なんだこれ!」
 狼狽する声を無視して、視界が飛ぶ前に記憶していた位置にあった細い少女の腕を掴み、イーグルは呼びかける。
「こっちだ!」
「に、逃がすか!!」
 “無礼者”たちの叫び声を振り切って、イーグルと少女は狭い道、坂を駆け降りていく。
「な、何をしたんですの? 煙幕の術?」
「そんな大層なもんじゃない」
 懐から同じ粉袋を見せながら、息を切らしつつイーグルは答える。
「―――ただの、小麦の袋」
「まあ」
 少女は走りながら、大きな瞳をひときわ大きく見開いた。
 やがて警備兵がいるような広場に行き着くと、二人はようやく立ち止まった。
「逃げきったかな……」
「危ういところを助けていただき、ありがとうございました」
 ドレスの端を摘んで、丁寧にお辞儀する少女に、イーグルは驚きながら手を振る。
「いやいやそんなそんな……むしろすぐ助けられなくて、ごめんというか」
「わたくし、ピアノーチェと申します。あなたのお名前は?」
「俺はイーグルって呼ばれてる。きみ、えーと……ピアノーチェさん?」
「どうぞ、ピア、と呼び捨てにしてくださいまし」
「じゃあ、ピア。……あのあたりはさっきの連中、冒険者の中でもゴロツキみたいなのの吹き溜まりになってるんだ。危ないから、あんまり近づかない方がいいよ」
「でも、わたくし冒険者ギルドに用があるのですわ」
「冒険者ギルド? まさか、冒険者になるためとか?」
「ええ」
 鎧に覆われた胸を張る少女―――ピアノーチェに、イーグルは頬をひきつらせる。
「事情は知らないけど、あんまりオススメしないね」
「あら、あなたもそんなことを仰るの?」
 非難の口調に、イーグルはいやいや、とかぶりを振った。
「あいつらの言っていたことは少なからず事実だよ。世界樹の迷宮が“大異変”で発生して以来百年もの間、それを攻略できた冒険者はいないんだ。みんな樹海で行方不明になるか、死ぬか……途中で諦めるかしてる」
「わたくしは諦めませんわ。よって、踏破出来ず樹海の中で死ぬなら、それまでということでしょう」
 その断言に絶句するイーグル。
 意志の宿った真っ直ぐな青い瞳が、彼を見つめている。
「……なんでそこまでするのか、訊いてもいいかい?」
「わたくし、自分の力を試してみたいんですの。……こう見えてわたくし、とある小国の王女なのですけれど」
「うん」
 いろんな意味でただ者ではないようなのは分かる。
「ずっと外の世界、特に冒険というものに憧れていたのですわ。お兄様や弟たちはみな己の力を政治や戦争に生かす機会があるのに、わたくしは姫だというだけでずっと城の中に閉じこめられて……不公平でしょう?」
「まあ、それは分からないでもないけど……ひょっとして、ここへは一人で来たの? 家出とか?」
「一人ではありませんけれど、家出なのは間違いありませんわね」
 堂々と言うピアノーチェに、イーグルはまた絶句する。
「……お連れの人は?」
「あら、そういえば見あたりませんわ」
 今更気づいたかのように、ピアノーチェは辺りを見渡した。
「―――もしかして、先ほど逃げるときに置いてきたのやも。ぼやっとしててあまり頼りがない者ですから」
「俺が君をあそこで見かけたときには、既に君は一人だったと思うけど……」
「あらあら、では港で迷子になっているのかもしれませんわ。仕方がない付き人ですこと」
 言いつつ歩き出すピアノーチェの肩を、イーグルは慌てて掴んだ。
「何ですの?」
「そっちは、今、逃げてきた道」
「あら」
「港はこっちね……」
 まったく逆方向を指さすイーグルを見上げて、ピアノーチェはにっこり笑った。
「イーグル様、もしよろしければ―――」
「あ、うん、道案内ね。いいよ」
 肩をがっくりと落として歩き出すイーグルに、目を輝かせながらピアノーチェがついてくる。
「まあ! あなた、どうしてわたくしの考えていることが分かったのです? もしかしてそういう特殊な力をお持ちとか?」
「いや、わりと誰でも分かると思うよ」
「はっ……これはもしかして、運命の出会いというものなのかしら?」
 ポジティブで能天気なお姫様と対照的に、イーグルは、やっぱり巻き込まれた厄介事に深々とため息をついたのだった。

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序章・後

「あっ、ドン!」
 “海賊です”と言わんばかりの格好をした、眼帯にキャプテンハットの男を見つけ、ベルオレンは呼びかけながら駆け寄っていった―――そこいらに並べられた、船の積み荷の箱の山をひょいひょいと乗り越えて。
「おう、ベルの坊主か」
「イーグルのアニキは?」
 箱の山の一つの上に立って、ベルオレンはあたりをきょろきょろと見渡す。小さな船着き場で目に入るのは、数人の商人とか見知らない船乗りくらいなものだ。
「イーグルなら船を降りて早々、どこかに消えたぜ」
「またかよ~……たまにゃオレが港に着くまで、待っててくれたっていいのに!」
「それはそうと、暇なら手伝えや」
「え~それもまたかよ……」
 帳簿でぺしっと額をはたかれ、ベルオレンは不平の声を上げる。海賊船の船長ことドンは、からからとギザギザの歯を剥いて笑った。
「駄賃は弾んでやるって」
「そいつはいいけど、こき使うくらいならいい加減、船に乗せてくれよ」
「それはダメだ」
「何でさ」
 言いつつ、ベルオレンはドンに指示された箱をひょいと片手で持ち上げる。傍にいた腹の出た商人がぎょっとした顔をした。
 ベルオレンは箱を、空いた片手でこんこんと叩く。
「―――妙に重いけど、コレ、何入ってんの?」
「象牙だ。近海でちっとばかしオイタをしてくれた船が、詫びにくれたのさ」
「詫びねえ……」
 どう考えても小競り合いの末海賊船から奪い取ったものだろうが。まあ、海賊船から得たということはどのみち盗品だろう。
「倉庫はあっちだ。そっと運べよ。きょうび海都で象牙なんて滅多にお目にかかれねえんだからな」
「はいはい」
 言いつつ、ベルオレンは空いている方の手でもう一つ、木箱を掴み上げる。彼一人なら容易に入れそうな箱だが、単にでかくて運びにくいだけだ。
「す、すごい少年ですな。部下の方ですか?」
 ベルオレンが倉庫の方に消えていったのち、小太りの商人がドンに話しかける。
「いンや、知り合いの道場に預けられている子でね」
「ほう……」
「ちなみに、姉貴の方はもっとすげえぜ」
 目をぱちくりとする商人に、ドンはまたからから笑った。


「はー……終わったぜー、ドン……あっ」
 肩を回しながら倉庫から出てきたベルオレンは、ドンと会話する赤い三つ編みを見つけて、さっと物陰に隠れた。
「なんで姉貴がこんなとこにいんだよ……」
 見れば、先ほどベルオレンが声をかけた、キモノの少女と一緒である。
 姉は普段、あまり港まで来ることはない。ベルオレンを探してだとすれば、よっぽど今日の事が腹に据えかねたのだろうが―――別段、あれくらいはいつものことで、ベルオレンに思い当たることはない。
 と、なると―――少しだけ頭を覗かせたベルオレンに、同時にくるっとこちらに顔を向けた、銀髪おかっぱの少女が気づいた。
「あっ」
「やべ!」
「ベル!」
 少女とベルオレンの声に、リンとドンがベルオレンに気づく。
 姉が追ってくるより早く、ベルオレンは木箱の山を駆け上り、倉庫の屋根に飛び移った。
「こらー、ベル!」
「へへーん」
 リンもその気になればベルオレンを追ってこられるはずだが、最近は世間体がどうのこうのと気にしだしたせいで、こういう突飛なルートならば追跡してくることはない。
 案の定、姉が追ってくる気配がなかったため、ベルオレンは早々に港に立ち並ぶ屋根の上から飛び降りた。
 と。
「あっ、アニキ!」
 着地した港の入口、魚臭い市場の細い道で目を丸くしているのは間違いなくイーグルだ。
「ベル! ……おまえ、また妙な所から……さては、姉ちゃんから逃げてたな?」
「へへっ」
 鼻をすすると、ベルオレンはイーグルが連れている、ドレスの少女を見つけた。美少女だと思うがベルオレンの好みではない―――どころか、気になったのは彼女がイーグルの腕を、いわゆるしがみつく形で持っていたところだ。
「……その子は?」
「ええと、彼女は―――」
「わたくし、ピアノーチェと申します。あなたは?」
 イーグルの腕を取ったまま、器用にピアノーチェはお辞儀する。
「オレはベルオレン。……この子、どうしたの? 拾ったの?」
「んまあ、出会いがしらに失礼な。わたくし、危ういところをイーグル様に救っていただいただけですわ」
 ぎゅっとイーグルにくっつくピアノーチェに、ベルオレンはふうん、と身を反らせる。
「アニキ……姉貴がいるのに、女の子はべらせちゃマズいんじゃない?」
「んなっ」
「まあ、恋人がいらっしゃいまして?」
 くっついたままで顔を上げるピアノーチェに、イーグルはぶんぶんと首を横に振る。
「そ、そんなんじゃなくて」
「予定、だよ。恋人予定」
「あら、それって今は違うということでしょう? なら構いませんわね」
 見せつけるようにイーグルの腕を引き寄せるピアノーチェ。
 ベルオレンは、むっと眉根を寄せる。
「だから、あんまりくっつくなって」
「貴方には関係ありませんでしょう?」
「アニキ! 姉貴に言いつけんぞ!」
「そ、そんなこと言われても」
 イーグルが煮え切らない態度なのはいつものことだが、今度ばかりはベルオレンにとって大問題だ。
 イーグルの空いている方の腕を掴んで、力任せに引っ張った。
「とにかく、はーなーれーろ!」
「何なんですの! 絶対にはーなーれーまーせーん!」
「痛い痛い痛い!!」
 イーグルが悲鳴を上げたと同時に、背後で歓声のような大声が上がる。
「いたぞ、あそこだ!」
 振り返れば、そこにいたのはイーグルたちを指さす男たち。
 同じように後ろを見ていたイーグルとピアノーチェの顔色が変わったのを見て、ベルオレンは首を傾ぐ。
「アニキ?」
「しつこい連中ですわね!」
「話はあとだ、逃げるぞ!」
 何故だか男たちがいる側とは逆方向に駆けだした二人に、ベルオレンはつられて走る。
「あいつら、海都で有名な、ごろつきまがいの冒険者どもだぜ? アニキたちってば何をやらかしちゃったわけ?」
「イーグル様はわたくしを助けてくださっただけですわ。わたくしも、あの方々にただ道をお尋ねしただけで」
「そのあと思いっきり喧嘩売ってたけどね……」
 角を曲がり、三人は船着き場の方角へ向かう。
「厄介なのに目ェつけられちまったなあ。あいつらのギルド名、アニキは知ってる?」
「? いや」
「“皆殺し”、つまりワイプアウトっての」
「趣味のよろしいお名前ですこと!」
 やがて辿り着いた建物は、船のドックだった。木の香りが濃い。ここは主に、修理の必要がある船が置かれている場所のようだ。
 薄暗いが広い中を手探りで進むと、赤く塗られた女神を船首にあしらった帆船を見つけた。
 ドンの船だ。
 ベルオレンは目を瞬かせる。
「あれっ、修理に出してたの?」
「海賊船に手ひどくやられて……」
「あっ、追ってきたみたいですわよ。隠れてくださいまし!」
 船体の影に三人が身を寄せると同時に、乱暴な足音がドックに入ってきた。
 天井高く、ワイプアウトの声が響く。
「くっそあいつら、どこに行きやがった……」
「あ、この船、あの眼帯野郎の船だぜ」
 一瞬見つけられたかと身を竦めたベルオレンだったが、ワイプアウトの会話の内容に、思わずイーグルと顔を見合わせる。
 眼帯野郎、は確実にドンのことだ。
「―――あいつ、海都の貿易発展に一役買ってるらしいな」
「海賊のくせに、何考えてやがるんだか……ここに船を置いているということは、修理がいる状態なのか?」
「丁度いい。修復できねえくらい、ぶっ壊してやろうぜ」
「火でもつけるか?」
 どんどん不穏になっていく会話に、二人の眉が寄る。
 そこに、ピアノーチェが首を突っ込んできた。
「つまり、どういうことですの?」
「あいつらが、アニキが世話ンなってる船を壊そうって相談をしてるんだよ」
「あらまあ」
 小声での会話だったが、ピアノーチェは目をぱちくりとやると、すくっと立ち上がった。
「お、おいおい」
 そして息を大きく吸い込むと―――止める間もなく彼女は叫んだ。
「そこのあなたがた!」
 あちゃあ、とイーグルが額を押さえる。
 どこから持ってきたのか松明を手にしているワイプアウトの連中に、ピアノーチェはびしっと指先をつきつけた。
「―――こそこそ船を壊すだの火をつけるだの、卑怯ですわよ! 男なら正面切って勝負しなさいな!」
「てめえ……この状態でこいつに火をつけたら、逃げ場がないのはおまえらの方だって分かって言ってんのか?」
 ドンの船はドックの一番奥にあり、ベルオレンたちは船と壁の間の通路にいる。この通路を抜けた先は勿論のこと、海だ。出口は海の逆側はるか向こう、ワイプアウトたちが立っている廊下を抜けた先にある。
 だがピアノーチェは、ふんと鼻を鳴らした。
「甘いのはそちらでしてよ」
「何ィ?」
 すら、とピアノーチェは突剣を鞘から抜いた。
 その切っ先は―――ワイプアウトではなく、船。
「はあ!」
 また、止める間もなく。
 ピアノーチェは突剣を振るった。
 ワイプアウトが持つ火に照らされた、剣筋の金色の光が閃く。
 一瞬の空白のち、しんと戻った暗闇に、ワイプアウトの一人が口を開いた。
「な、なんだ、驚かせ―――」
 皆まで言うことなく。
―――めきめきという音。
 切り裂かれた赤い女神が、ワイプアウトにキスせんと迫っていた。
「うわああああああ!?」
 絶叫に続いて、雷鳴にも似た震動。
 地面が水面が揺れ、膝をついたベルオレンたちの足元を、上がった波の飛沫が濡らす。
 ワイプアウトに目をやれば、その姿が見えぬほどもうもうと上がる土煙に、悲鳴と呻き声。
「んなっ……」
 ベルオレンは、ピアノーチェと船を交互に見た。
 ワイプアウトを抱きしめた“女神”はドンの船の船首の装飾のことで、土煙が晴れてきた視界に映る船自体は船首をまるまる、もぎ取られたような格好になっている。
 ピアノーチェは胸を張ってこう言った。
「いかが? わたくしの剣の腕は。あなたがた、“熟練の”冒険者にもひけをとらないでしょう!」
 何も言えないベルオレンの隣で、イーグルが嘆くようにため息をついた。


 船着き場で、イーグル、ベルオレン、ピアノーチェの三人は、“正座”をさせられていた。
 眼前に立つのは、怒髪天をつかんばかりのドンで。
「言いたいことはいろいろあるが……姫さん、まず何か言うことは?」
「船を燃やされなくて、良かったですわね」
「ちげえ!」
 じだんだを踏むドンに、ピアノーチェは涼しい顔だ。
「船を少し壊してしまったのは謝罪いたしますけれど、不届き者をこらしめるためには必要だったのですわ。わたくしたちも危ない目に遭いましたし」
「うん、まあ、それに関してはいい……だがな姫さんよ、おまえさんは知らねえと思うが、あんな風に壊されちゃ船ってのはおいそれと直るもんじゃねえんだよ……」
 怒りを通り越してか、どんどん意気消沈していくドンを見かねて、銀髪のおかっぱ少女が慌てて声をかける。
「ひ、姫さまがとんだご粗相を……」
「ハガネ、あなたは黙っていなさい」
「はい……」
 どうやら、この子がピアノーチェの付き人であるらしい。顔にはりついた八の字眉に、なるほど、頼りなさそうではあるが、この姫様に振り回されている苦労人なのだろう。
「ベル、やってくれたわね」
 ずい、とベルオレンの顔を覗き込んだのは、彼の姉、リンだ。
「オレは何もやってねえよ!」
「無茶なお姫様を止めるくらいはしなさいな……イーグルも!」
 とばっちりのように睨み付けられ、イーグルはばつ悪く笑った。
「まあ、何なんですのあなたは」
 ピアノーチェがリンを睨みつける。リンも、負けずと睨み返した。
「あたしはベルオレンの姉さ。……あんた、お姫様なら船くらい弁償したらどうなの?」
「わたくしは世界樹の迷宮に挑戦するため、国を出奔した身なのです。こんなことのために国には帰れませんわ」
「あー分かった分かった!」
 収集がつかなくなってきた事態に、ドンが観念したように手を打った。
「姫さん、あんたは冒険者をやるんだな?」
「ええ」
「アーモロードの冒険者は、一つのギルドにつき一隻船を、冒険者の統括元である元老院から支給してもらえるんだそうだ……そのために突破しなきゃならない試験がどんなものかまでは知らねえけどな」
「つまりわたくしに冒険者ギルドを立ち上げ、そのギルドに支給された船を、あなたに差し出せ、と?」
「悪い話じゃねえだろ? ……その船を使って得た利益は、あんたにも還元してやるよ」
 ふむ、と顎を掴むと、ピアノーチェは頷いた。
「分かりましたわ。その条件、呑ませていただきます」
「姫さま! 大人しく国に帰り、王様に弁償していただいた方が……」
「ハガネ、おまえの主人はわたくしです。わたくしが決めたことにおまえが口出しできることはありませんわ」
「う……」
 しょげ返るハガネ。何故かむっとしたように、ベルオレンがそれに噛みついた。
「おい、いくら従者だからって、そんな言い方はないんじゃねーの」
「わたくしの従者をどう扱おうとわたくしの勝手でしょう?」
「ところでベル坊、おめーも同罪だからな」
「えっ! 何でだよ!?」
 これには、姉のリンのほうが顔色を変えた。
「お頭、ベルオレンの分はあたしが弁償するから……」
「だったら二人で姫さんたちを助けてやったらどうだ。……ベル、おめーにもし迷宮を踏破できるくらいの実力が出来たら、俺の船に乗せてやるよ」
「ホントかよ!」
 目を輝かせるベルオレン。
 リンは困惑している。
「海賊より、冒険者の方がよっぽど危険じゃない……」
「リンはモンクだろ? 癒しの術があるなら、そいつでサポートしてやれよ」
「でも……」
「修業だと思えばいいさ。シオ爺には俺から言っといてやるから」
 最後に、ドンはイーグルを向いた。
「イーグル、おめーは姫さんの監視だ。きちんと船を持ってこれるかどうか」
「ってことは、俺も……」
「当然、樹海に潜ることになるな」
「ええー……」
「まあ聞け」
 がっとイーグルの首を腕でホールドし、皆には背を向けて、ドンは耳打ちしてくる。
「船だけどな、実は元々修理不可能って言われてたのさ」
「ええっ」
「いいから聞けって……しかしながらトドメを刺したのは姫さんだ。しかも見た限り、ちょっと無茶の過ぎるお嬢さんと見える。そこで、灸を据える代わりに、ホンモンの迷宮を味あわせてやろうってことさ。あそこがどれだけ無茶苦茶な場所かってことが身に沁みれば、お国に逃げ帰るに決まってる」
「で、でも、船は……」
「船の支給は本当の話だ。ただ、試験ってのは第一階層の地下一階、つまり迷宮のほんの入り口の地図を作るってだけなんだよ。俺も昔やったことがあるからな」
「って、あの船ひょっとしてそれで……」
「ちなみにギルドはもうねーぞ、がはは」
「ねえ、いつまで内緒話をしていらっしゃるのかしら?」
 ピアノーチェの呼びかけに、ドンはイーグルを突き飛ばして振り返った。
「安心しな、姫さん。あんたらの冒険には五人必要だ。……そこで、こいつをつけてやる」
 ここでイーグルを指さしたドンに、ベルオレンとピアノーチェの二人から歓声が上がる。
「マジで! アニキと一緒に冒険出来るなんて、最高じゃん!」
「イーグル様がおられるなら、百人力ですわ!」
 同じようなことを叫びつつ、そのお互いの内容に気づいて同じように顔をしかめた二人をよそに、イーグルは乾いた笑いを浮かべる。
「お頭、勘弁してくれよ……」
「まあまあ。今は貿易が停滞しているとはいえ、こう見えても海都はかつて世界に繋がっていた都だ。おまえの記憶の手がかりも、そのうちひょっこり入ってくるかもしれねーぜ」
 イーグルははっとドンを見上げる。
 にやと笑った彼は乱暴にイーグルの背中を叩くと、上機嫌に言い放った。
「じゃあ早速、冒険者ギルドで登録しねえとな!」
「ようやく、ギルドに行けますのね」
 ピアノーチェがほっと、安堵の息をついた。


「オイオイ、こんなガキどもだけで大丈夫かよ?」
 褐色の偉丈夫―――ギルド長は、ギルド登録のためドンにつれてこられた五人を見渡してそう呻いた。
 案の定、ピアノーチェがそれに噛みつきそうになったので、ハガネがそれとなく前に出る。
「やむを得ぬ事情があるのでござる。登録していただけぬだろうか」
「本当に大丈夫かよ?」
「ワイプアウトの連中、お縄にしたのはこいつらだぜ」
 口を挟んだのはドンだ。
 その言葉にギルド長は目を丸くしたが、ほう、と声を漏らした。
「なるほどな……ま、人は見かけによらねえって言うし、いいぜ、登録してやろう」
「やった!」
「ありがとうございます」
 リンが丁寧に頭を下げる。
 ギルド長は一枚の羊皮紙を差し出した。
「ここに、あんたらの名前と職業、そしてギルド名を書いて提出してくれ」
「ギルド名?」
「これからおまえたちが背負うことになる名だ。大事に決めろよ?」
 顔を見合わせる一同に、ギルド長は邪険に手を振って応じた。
「その紙の空欄をすべて埋めたら、持って来い。それで登録は完了だ」


「ギルド名ねえ……」
 五人は船着き場に戻ってきていた。ドンは仕事があるからと言って既に去った後である。
「“ピアノーチェ様と愉快な仲間たち”はいかが?」
「オレらの個性ガン無視かよ。つかそんな文字数入んねえし」
「この際“ピアノーチェ”だけでいいんじゃない?」
「わたくしが呼ばれているのかギルドが呼ばれているのか分からないではありませんか」
「あーもう」
 赤毛の頭をがしがし掻くと、ベルオレンは紙をイーグルに突きつけた。
「アニキが考えてくれよ」
「俺?」
「元はと言えばドンのためのギルドだろ。アニキはお目付け役なわけだし」
「そんな乱暴な……」
「もういっそ“ドン・ファミリー”で良うござらんか」
「悪いこと企んでそうだねえ」
 何だかんだと議論の白熱する中、ぽつりと誰かが呟いた。
「クッククロー」
「えっ?」
 きょとんとした顔で、イーグルは周りを見渡す。
 気づけば、ほかの四人も同じような顔をしていた―――ただし、全員が見ていたのはイーグルで。
 思わず、イーグルは自分の顔を指した。
「い、今の俺?」
「以外に誰がいるのさ」
「アニキにしては、センスのある名前だな!」
 ベルオレンはからからと笑い、頭の後ろで腕を組んだ。
「―――“クッククロー”は何十年も前から続く、有名な冒険者チームの名前だぜ。いろんなところで冒険してたって聞くけど」
「その方々、まだ活動していらっしゃるの?」
「さあ? 世界は広いし、半分冒険者の伝説みたいなもんだしなあ」
 ま、それにあやかるのもいいんじゃないの、とベルオレンは軽く呟いた。
「―――それにしてもクッククローなんて、よく知ってたね、アニキ」
「い、いや……」
 自分がその名を呟いたことすらおぼつかないのだ―――まったく、その名に聞き覚えもない。
「けど、いいですわね、クッククロー。気に入りましたわ。さすがイーグル様です」
「あたしもそれでいいと思うよ」
 ピアノーチェとリンの呟きを拾い、ベルオレンは筆を走らせる。
「じゃ、決定!」
「い、いいのそれで」
「あとはリーダーとサブリーダーと……何これ、“マッパー”?」
「地図を書く人ではござらんか?」
 わいわいと話を変えていく四人にぽつねんと取り残されつつ、イーグルは肩を落とした。
「クッククロー……」
 首を傾げながらもう一度口の中で呟いた名前は、何も呼び起さず、消えた。

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第一階層

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B1F

 水の中。
―――また、この夢か?
 いや、違う。
 何かが違う。
―――違ったのは、誰かが自分を呼ぶ声が聞こえたこと。
 呼ばれている名前は―――

「アニキ! イーグルのアニキってば!」
 揺り起こされて、イーグルは目をぱちくりとした。
 見慣れない、簡素な部屋。揺れていない。陸の上なのだ―――そこまで考えて、ここがどこだか思い至る。
 イーグルが身を起こしたベッドであぐらをかくのは、仏頂面をしたベルオレンだ。
「アニキってば、寝ぼけてんのか? 今日から世界樹の迷宮に入るって言ってたろ!」
「ああ……」
 ここはベルオレンたち姉弟が住んでいる道場だ。イーグルはしばらくドンの海賊団と離れて生活することになるので、ここに居候させてもらうことになっている。
 すっかり準備の整っているらしい格好のベルオレンは、窓から身を乗り出しながら振り返った。
「じゃ、オレ、先に行ってるから! みんな待ってるんだからさっさとしろよ!」
「うん」
 そう言って、ベルオレンは窓から飛び降りていった―――ここは三階のはずだったが。まあ、大丈夫なんだろう、ベルだし。
 ぼんやりとしていた頭が覚醒していく。
 そう、あの大樹の根元に広がる迷宮に、いよいよイーグルたちは挑むのだ。
「安全な旅になればいいけど……」
 そうなるはずはないのだが、願わずにはいられなかった。


 南国らしい、鮮やかな色の植物や鳥が、石造りの廃墟にまとわりつくように存在している。この廃墟は百年前の“大異変”で崩落した市街の一部なのだが、人間の造ったものを物ともしない自然の美しい様が、魔物の跋扈する迷宮とならしめん廃墟に反映されている。
 地下という単語はついているが、まだ最初の階層はほとんど地上なのだとドンが言っていた。
「にしても、あのギルド長の言ってたこと、本当かしら」
 先を行くリンが、ちらとイーグルを振り返りながら呟いた。
「“クッククロー”って名前のギルドなんて星の数ほどあるんだろ?」
 欠伸をしながら、彼女の隣で歩くベルオレンが応じる。
「―――ほんの一年前にこの樹海で行方不明になった“クッククロー”がいても、別におかしくないだろうに」
「でも……」
「それだけで縁起が悪い名前ーだなんて、先人に失礼にもほどがあるぜ」
「その通りですわ」
 片手にイーグルの腕、片手に抜き身の金の突剣を握りしめている、ピアノーチェが口を開いた。
「―――わたくしたちの手でジンクスなどぶち破って差し上げればよいだけのこと」
「どうでもいいけど……アンタ、くっつきながらでないと歩けないの?」
 うつろな目でリンが指さしたのは、無理矢理ピアノーチェが組んでいる、イーグルの腕。
 ピアノーチェは少しばかり胸をそらせた。
「あら。イーグル様はわたくしの未来の夫ですもの。わたくしが体を張ってお守りするのは当然ですわ」
「へっ?」
 リンが素っ頓狂な声を上げ、ベルオレンがそれに続いた。
「勝手なこと言ってんじゃねーや! アニキに迷惑だろ!」
「あらあら、わたくしの夫に選ばれるということは、非常に名誉なことですのに。庶民にその感覚は分からないようですわね」
「んだとォ? ……アニキ、アニキからも何か言ってやれよ!」
「ええー……」
 ベルオレンの形相と、ピアノーチェの余裕具合を交互に見比べて、イーグルは困惑する。
「ええと……とりあえず樹海の中は危ないから、とっさに動けるように離れていた方がいいんじゃない?」
「それもそうですわね」
 あっさり、ピアノーチェはぱっと離れた。
 心持ち血の流れが悪くなっていた腕を軽く揉みつつ、イーグルは微笑む。
「ありがとう」
 ピアノーチェもにっこりと応じた。
「どういたしまして」
「……何だかなー」
 腑に落ちない顔で、ベルオレンが首をひねる。
「―――アニキの優柔不断は今に始まったことじゃねーけど、こういうときに困るっつうか……」
「あら、わたくしがイーグル様と仲良くしていることで何か不都合がありまして? リンさん」
「え」
 話を振られると思っていなかったのか、リンは動揺したように視線をさまよわせた。
「あ、あ、あたしは別に……」
「と、仰ってますけど、ベルさん」
 ここでベルオレンを見るピアノーチェ。
 赤毛の少年は、きっと姉をにらんだ。
「姉ちゃん! んな調子じゃ、このジャリン子にアニキ盗られちまうぜっ!」
「ジャリン子とは何ですの? あまり良い意味には聞こえませんわね」
「世間知らずなオヒメサマには分かんねえかもな……それと、オレの名前はベルオレンだ。ベルって呼んでいいのは家族だけ、あんたに気軽に呼ばれる筋合いはないね」
「まあ」
「ベル」
 リンが窘めるが、ベルオレンは鼻を鳴らす。
 負けじと、ピアノーチェは腰に手を当てた。
「イーグル様はあなたの家族ではないのに、あなたを愛称で呼んでらっしゃるではありませんか」
「アニキはいいんだよ。そのうち本物の兄弟になるんだし」
「んまあ、あなたの方が勝手ではありませんの。ではあなたにも、わたくしの名前は愛称で呼ぶことを禁止しますわ」
「望むところだぜ」
「もー、すぐ喧嘩する……」
 呆れたように腰に手を当てるリン。
 その頭上から、逆さにハガネが降ってきた。
「わっ!」
「あのう……」
 驚いて仰け反るリンに、ひらりと体勢を整え着地したハガネが、申し訳なさそうに告げる。
「敵が参ったでござる」
「戦闘ですわね!」
 喜々として突剣を構えるピアノーチェ。
 やがて森が揺れ、魔物が飛びかかってきた。


「くっせえー……」
 ドリアンの魔物を打ち砕いた剣を振って、ベルオレンが鼻を摘まんだ。剣先でその残骸をつつく。
「魔物ってこんな感じなのか。わりと楽勝だな」
「何言ってんの」
「いでっ」
 ベルオレンのむき出しの腕を掴んだリンが、呆れたように続ける。
「擦り傷だらけじゃないの。ほらっ、座って!」
「こんくらい舐めときゃ治るって……」
「いいから、す・わ・れっ!」
 肩を押し込まれるように乱暴に地面に尻をつかされたベルオレンは、唇を尖らせながらも手袋を脱ぐ。薄い布製のそれが覆っていた手の甲には、赤い裂傷があった。
 リンは彼の傍に膝をつくと、傷口にてのひらを当てた。
「おお、見る見る傷が癒えていくでござる」
「モンクの癒しの術を見るのは初めて?」
 ハガネの驚きにリンがそう返すと、ハガネはこくこくと頷いた。
「人間の本来持つ回復能力を高める術、だとは知っておりましたけれども。実際に目にしたことはなかったのでござる」
「地域限定の術だからね。このあたり一帯の、海域にしか伝わってない秘伝なんだよ。癒し以外でもいろいろと、よそにはない不思議な術が使えるらしいよ……あんまり詳しくは知らないけど、そういう秘伝も数多く、沈んだ都に眠ってるとかいう噂さ」
 はい終わり、とリンはベルオレンの背を乱暴に叩いた。わざとらしい悲鳴をベルオレンが上げるが、それを無視してハガネに向き直る。
「それで、お次はあんたかな?」
「そ、某の前に姫さまを……」
 様子を窺うようにおそるおそる、ハガネがピアノーチェを見る。
 ピアノーチェはイーグルの隣に寄り添うようにちょこんと座し、澄ました顔でこう答えた。
「あら、わたくしに治療の必要などありませんわ」
「本当? かすり傷ひとつないってのかい?」
「ええ」
 ぱっと立ち上がり、くるっと回ってみせると、ピアノーチェは再び座り込んだ。
 確かに彼女の言うとおり、かすり傷どころか汚れひとつ見当たらない。
「―――わたくし、これしきの敵で後れはとりませんもの」
「へっ、その剣のおかげだろ」
 鼻の頭の治りきらなかった傷に、絆創膏を貼っていたベルオレンが呟く。
 彼が指したのは、ピアノーチェの腰に光る金色の突剣だ。
 イーグルの視線に気づいたのか、ピアノーチェが顔を上げた。
「イーグル様の武器は、銃なのですわね」
「え? ……ああ、うん」
 ホルダーから拳銃を抜くと、イーグルはそれをてのひらに載せてみせた。
 ドンは突剣が得意な海賊なので、イーグルも彼にならって訓練してみたのだが、からしき向いていなかったのだ。そもそもあまりベルオレンたちのように体力も度胸もある方ではないので、ドンの助言に従って後方から支援するか、銃で攻撃するかが基本的なイーグルの戦闘スタイルである。
「ピアの剣は……立派なものだね」
「ええ」
 褒められて気を良くした様子で、ピアノーチェは居住まいを正す。
「―――わたくしが国を出たばかりのころ、お世話になった海賊の方にいただいたのですわ。いつかその方にお返しするつもりでおりますけれど」
「海賊? ドンみてーな奴だな」
「確かに、雰囲気は似てらっしゃいますわね。女性の方でしたけれど」
 つんとそっぽを向きながら早口に言うと、ピアノーチェは立ち上がって、ドレスの裾をはたいた。
「―――さて、休憩はこれくらいにして、先に進みましょう」
「おい、ハガネちゃんの回復がまだだぜー」
 ベルオレンの指摘に、ピアノーチェはふくれっ面で腰に手を当てた。
「わたくしが進むと言ったら、進むのですわ!」
「ハガネちゃんはおまえの従者だろ! 少しくらい休ませてやれよ」
「わたくしの従者が、わたくしの進む道に付いてこられなくてどうします」
 平然と言い放つピアノーチェに、ベルオレンは顔をしかめる。
「おまえ―――」
「そ、某ならば大丈夫でござる」
 慌てて二人の間に入り、ハガネが声を上げる。
「―――大した怪我もござらん。お気持ち痛み入るが、ここは姫さまに従い、先に進みましょうぞ」
「良いですわね。それでこそわたくしの従者ですわ、ハガネ」
 ふんぞり返るピアノーチェ。
 突然その肩を叩く者に、彼女は気分を害された。
「何ですの、わたくし、従者の忠誠心に感心しているところですの。邪魔をしないでくださいませ」
「いや、ピア……」
 そろそろと彼女から離れながら、イーグルはその背後を指さす。
「何でしょう?」
 無邪気に振り返るピアノーチェ。
 そこにいたのは、黄色の毛皮を持った、オオヤマネコの魔物。
 くわと開いた巨大な顎に、さしもの姫様も悲鳴を上げる。
「姫さま!」
「チッ」
 ハガネ、ベルオレンが走る。
 ピアノーチェは慌てて盾を構えるが、魔物の太い腕はそれごと、彼女を大きく殴り飛ばした。
「危ない!」
 偶然にも、イーグルが立っていたところに彼女は飛んできた。受け止めきれず、二人は丸ごと地面に投げ出される。
「ってて……」
「アニキ!」
「あんたはこっちに集中しな!」
 リンの怒号が上がる。
 仰向けにひっくり返ったイーグルは、身を起こすと、腹の上に乗っているピアノーチェを揺り動かした。ぐったりしていて、意識がない。
「リン!」
「ちょっと待って」
 応戦に必死で、こちらに向かえないらしい。
 イーグルは近くにオオヤマネコ以外の魔物の気配がないのを確認すると、ピアノーチェを静かに横たえ、立ち上がった。銃を構える。
 オオヤマネコが腕を大きく振るう。三人が距離を取った刹那、引き金を引いた。
 一発、二発。敵の動きは素早く、大した損傷は与えられなかった。
「うらあ!」
 斬るというより殴るといった方が正確な長剣の斬撃が、オオヤマネコの頭蓋を直撃した。
 さしもの魔物の体躯もこれには揺らぐ。
 好機だ。
「下がって!」
 仲間に当たらないと判断し、イーグルは再び発砲した。

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B2F

 結局、ピアノーチェは気絶しただけで、大した負傷は見当たらなかった。
 最初の任務である地下一階の地図を書き上げ、衛兵にそれを見せ、無事任務達成となったところで、ピアノーチェはようやく目を覚ました。
「よー、ヒメサン。気分はどうだい」
 意地悪い顔でベルオレンに見上げられ、ピアノーチェは状況を把握できないながら馬鹿にされていると感じたのか、表情を歪めた。
「良くはありませんわね」
「ああ姫さま、良かった! お目覚めでござるな―――」
「こらハガネ! 下ろしなさい! どうしてあなたがわたくしをおんぶなどしているのです!」
「いた、いたたたあいた」
 負ぶっているピアノーチェからぽかぽかと(鎧手なのでそんな優しいものではないが)殴られ、両手を使えないハガネは悲鳴を上げる。
「こらこら、やめなさい。ハガネはあんたをここまで連れて帰ってきてくれたんだから」
 リンの取り成しにも関わらず、ピアノーチェはハガネの背から降りると、ふんとそっぽを向いた。
「そんなもの、わたくしの従者なら当然ですわ」
「気絶しといてよく言うぜ……」
 呆れかえったように、脱力しながらベルオレンが呟く。
「―――アニキー、何か言ってやってくれよ」
「え、俺?」
「あの姫さん、アニキの言うことなら聞くだろ。な?」
「そうかなあ……」
 街に戻る道すがらの小声のやりとりのあと、イーグルはピアノーチェを呼んだ。
「ピア」
「何でしょう?」
 五人の先頭を歩いていたピアノーチェが、きらきらと瞳を輝かせながら振り返る。
 イーグルはうっと面食らった。
 こんな期待をされては、注意しづらい。
「えーっと……」
 周りを見渡せば、困った顔のハガネはいつものことながら、姉弟はじとりとした目でこちらの動きを窺っている。
 ピアノーチェに視線を戻せば、彼女は不思議そうに首を傾いでいた。
 が、目の輝きはそのままで。
「……大した怪我がなくて、良かったね」
「ええ!」
 結局無難な言葉に終わったイーグルに、ベルオレンはやれやれと、落胆を声には出さずに肩を竦める。
 だが、前を向き直ったピアノーチェはこう続けた。
「でも、あのような魔物にやられるなど、わたくしもまだまだ修行が足りませんわ。皆さんがいなければ、こうして再びアーモロードの市街を歩くことも儘ならなかったでしょう」
 そしてちらりと振り返り、四人に目を配ると、言った。
「ご迷惑をおかけしました」
「い……いやいやっ」
 ハガネがぶんぶんと首を横に振る。
「某っ、姫様の従者として当然のことをしたまでで―――」
「当たり前ですわ、あなたに言ったわけではありませんもの」
「あり……」
 つんと澄ました顔の相変わらずの態度に、今度はあからさまにベルオレンがため息をつく。
「何はともあれ……とりあえず無事に帰ってこれたんだから、任務の報告をしに元老院のばあさまのところに行きましょ」
 リンの言葉に、四人は頷いた。


 ドンの言っていたとおり、地下一階の地図作成を達成したクッククローは正式にアーモロードの冒険者として認められ、船を一隻、海都の貿易復興の礎となるために、貸し与えられることとなった。
 元老院の指示通りに、クッククローはドンと共に港を訪れる。
「はー、これでようやく海に出られるわけだ」
「あら、そんなに時間はかかっていないでしょうに、大げさな」
 ピアノーチェの言葉に、ドンは眉を上げる。
「姫さんよ、国に帰る支度は済んだか? 送っていってやるぜ」
「ご冗談を。わたくし、まだまだ冒険を続けるつもりですわよ」
「マジでか?」
「マジですわ。ねえ、イーグル様?」
 話を振られ、イーグルはぎくりとする。
「えーと……」
「お頭、オレを海賊団に入れてくれるって約束は!?」
 ベルオレンが口を挟む。リンが渋面を作った。
「あんた、まだそんなこと―――」
「阿呆、地下一階を踏破したごときで俺様の手下が務まるか」
 ドンに一蹴され、ベルオレンは一瞬唇を尖らせたが、すぐにんまりと笑みを浮かべる。
「じゃ、ドンが納得するまで潜り続けるしかねーな」
「ベルったら……」
「おお、君たちがクッククローかい?」
 インバーの港に辿り着いたところで、こめかみに一直線の傷を持った老人が話しかけてきた。ドンがイーグルに素早く耳打ちする。
「港の管理官だ」
「代表者は誰だい?」
「わたく―――」
「俺だ」
 前に出ようとしたピアノーチェを押し退けて、ドンがずいと進み出る。
 ドンの顔を見て、管理官はやや眉を上げた。
「君の顔は知っているぞ。君は船を持っているだろう?」
「わけあってこいつらに壊されてな。こいつらの船は俺が管理する。どれだ?」
 管理官は渋面を作ったが、クッククローの面々が異議を唱えないのを見ると、背後を指さした。
「ついて来たまえ」
―――そこにあったのは。
「何じゃこりゃあああ!!」
 それは、帆船だった。
 ただ、規模で言えば―――辛うじて五人乗るので、ぎりぎり、といった大きさで。
 雨露を防ぐ場所すら存在しない。
「だっ……なっ……」
 言葉も出ない様子のドンをよそに、港の管理官は面々を見渡すと朗らかに告げた。
「近年の冒険者の増加で、貸出船の供給が追い付かなくてね」
「にしてもこれは……」
 さすがのイーグルもあんぐりと開けた口をふさげない。
 ドンの海賊団の規模には、到底どころか全くもって足りない。
 がっくりと肩を落とすドンに、ピアノーチェは一方で、底抜けに明るく告げた。
「気を落とすことはありません。これから我がクッククローが、より輝かしい冒険の記録を進めていけば、造船の資金援助を申し出る者たちもいずれ現れるはずですわ」
「お嬢さんの言うとおりだ。君がこれから、もっと海路の開発に貢献してくれれば、もっといい船を手に入れることも可能だよ」
「つってもこれじゃあ、ロクな貿易もできねえだろ……」
「まずは近海で漁をするところからかもね」
 気の毒なドンの姿に、さすがに同情した様子で、イーグルを見上げながらリンが呟く。
「―――あたしらも頑張ろっか」
「そうだね……」
「それはそうと、君たちのギルドは“クッククロー”という名なんだね」
「ええ。良い名でしょう?」
 胸を張るピアノーチェに、管理官は苦笑を浮かべた。
「一年半ほど前かな。君たちと同じ、“クッククロー”と名乗ったギルドがいてね」
「あら。よくある名だとお聞きしましたけれど」
「名前自体は本当にありふれた名だよ。有名なギルド名だからね。ただ……彼らは歴代の“クッククロー”の中でも、結構深いところまで探索していたんじゃなかったかな」
「んで、一年前に樹海で行方不明になったんだろ?」
 ベルオレンの言葉に、管理官は肩を竦める。
「そうだ。それ以来一年、使われていない彼らの船が、この港の隅に停留してある」
「マジで! じゃ、それくれよ! 使ってねーんだろ?」
 赤毛の少年の変わり身ように、管理官は豪快に笑った。
「君たちが、当時の彼らより先に進めたら、そのときは考えよう」
「よっしゃ、じゃ、決まりだな」
「まあ……このままじゃ、ドンも気の毒だもんねえ」
 珍しくリンがベルオレンに同意する。当のドンは、あまりのショックにこの会話も耳を素通りしている様子だ。
「より先に、ではありませんわ。わたくしたちが世界樹の迷宮を踏破するんですもの」
「おや、大きく出たね。……そうだな、確か、彼らは少なくとも地下四階には到達していたはずだ」
「地下四階って、まだ随分あるじゃない……」
 リンの呟きにウインクを返すと、管理官はこう締めくくった。
「君たちも“彼ら”に負けぬよう、頑張りたまえ。勿論航海の方も……海都と呼ばれしアーモロードが本当の海の都として復活するために、よろしく頼んだぞ!」


「ひょー!」
 間一髪でf.o.eと呼ばれる魔物がいる通り道を抜けることに成功したクッククローは、ひとまずの突破に各々安堵の息をついた。
「クジュラとかいう方の仰る通り、とんでもなく恐ろしい魔物でしたわね」
「あんたが突っ込んでいかなきゃ、慌てて逃げる羽目にも陥らなかったんだろーがっ」
「あら。適わぬかどうか、まず敵を知ることは重要ですわよ」
「また訳の分からん屁理屈をこねる……」
 そこへ。
「あのー!」
 突然降った明るい声に、五人はそちらに顔を向ける。
 にっこりと友好的な微笑みを浮かべた、マントの少女が立っていた。
 少女の他に人はいない。どうやら、一人きりのようである。
「初めまして、こんにちは。……海都から来た冒険者の皆さんですよね?」
 少女はオランピアと名乗った。
 どうも海都の冒険者を助けるために、活動しているらしい。その目的が何なのかまでは教えてくれなかったが、代わりに有用なものを与えてくれた。
「テント、ね」
「樹海の中で寝るってことだよな?」
 野営地点までクッククローを連れてきてくれたオランピアは、人のいい笑みで「はい」と答える。
「多くの冒険者たちがここで休んでいかれます。……この階だけでなく、魔物の気配がない野営地点というのは、意外なくらいにたくさんあるので、ぜひ利用してください」
「ありがとうございます」
 ピアノーチェが丁寧に礼をする。
 オランピアが去ったのち、ピアノーチェは首を傾いだ。
「もうすぐ夜になりますし、早速ここで一泊してみましょう?」
「あいつの言うこと、信用して大丈夫か?」
「あら、何ですの。人の親切を疑うのですか?」
 ベルオレンは鼻を鳴らす。
「あーいう奴は信用できねーんだよ。ここだって本当は夜間に活動する魔物の巣かもしれねーし」
「あたしたちを騙すメリットなんてないでしょ? 冒険者同士の争いはご法度のはずよ」
 リンの言葉にも、ベルオレンは懐疑的だ。
「オレは嫌だぜ」
「じゃあ、ベルオレン。あなたは休まずに番をしていてくださいな。何か異常があれば皆を起こせばよろしいでしょう?」
「へっ?」
「そうだね、それがいいよ」
 リンまでもあっさりと応じ、ピアノーチェに続いて、テントの設営を始める。
 ベルオレンの肩を、ぽんとハガネが叩いた。
「交代したくなったら、某を起こしてくだされ……」
「うう……ハガネちゃんは優しいな……」
 ハガネの手を握るベルオレンに、ハガネはうっと顔をしかめる。
「べ、ベルオレンどの、いまだ誤解しておられるようじゃが某はおと―――」
「ハガネ! 何をしているのです、早くテントの建て方とやらを教えなさい!」
「は、はっ、ただいまっ!」
 ベルオレンは目をぱちくりとさせた。


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―――水中。

 またこの夢か、とイーグルは思ったが、どうやら様子が違う。
 視界は揺らいでいたが、次第にはっきりしていく。
 それに応じて聴覚も、触覚も―――すべての感覚がひらいたとき、イーグルは驚きに息を呑んでいた。
 見覚えのある景色がそこにはあった。
 鮮やかな緑に彩られた、廃墟の森。
 ここは、樹海の中だ。
「おーい」
 呼びかけられて、イーグルは振り返る―――いや、今俺は“振り返る”という動作をしただろうか?
 それでも新たに目に映ったのは、見覚えのない男だった。
「―――あっちに、抜け道があったぞ。ティティが見つけた」
 眼鏡をかけた、背の高い髭の男が指さした方角を向けば、イーグルの傍らから声が応じる。
「やっぱりありましたね」
 随分近くから聞こえた声に、ぎょっとして下を向こうとするが―――首は動かない。
 代わりに、声の主は自ら進み出、イーグルの視界に入った―――大きな帽子をかぶった、背の低い金髪の少年。おおよそ樹海に似つかわしくない、どこにでもいるような子供だ。
 彼の背後に付くようにして進んだのは、鎧。
 否。かなり大きく膨らんだ鎧を着こんだ、短髪の女性だった。槍を持っている。
「アル様、一度引き返しませんか? 相当深くまで来たようですが」
 アル、と呼ばれた少年は、振り返った表情に穏やかな笑みを浮かべる。
「まだ入樹したばかりですよ。もう少し進んでみましょう?」
「しかし……」
 驚きの連続だったが、イーグルはここで最もぎょっとした。
「スズランさんは心配性だね」
 違う。
 自分の口だが、自分の口ではない―――それが“喋った”。
 ここでようやく、イーグルは“イーグル”がこの場にいるわけではないことを悟る。
 “口”は続けた。
「こんなところまで来ておいて、今さらやめろって言うつもりかい?」
 スズランと呼ばれた鎧の女性は、睨むようにイーグルを見た。
「私はアル様が心懸かりなだけだ」
「その“アル様”が大丈夫って言ってるんだから、大丈夫でしょ」
「スズラン、ぼくのことなら心配しないで下さい」
 不遜な“口”の言葉に同調するように、アルが頷いた。スズランは苦い顔をする。
「おーい、とりあえず抜け道は開通させておこうぜ」
 眼鏡の男の呼ぶ声に応じるように、一同は移動する。イーグルも勝手に移動していた。
 藪の中には、にこにこと機嫌のいい笑みを浮かべた、褐色の肌の少女が立っていた。妙な恰好だというか―――ほとんど、密着した布一枚をまとっただけの装いだ。
 それなのに胸やら腰やら出ているところは出ているので、イーグルは目のやり場に困る。まあ―――“目”は全く動じていないようだったが。
「ティティ、それは?」
 少女が持っていた黄色い草を、目ざとくアルが見つける。ティティというらしい、少女は口を開いた。
「ティティがみつけたの。たべていい?」
「それは毒草ですよ」
「ダメ?」
「駄目に決まってんだろ」
 ひょい、と眼鏡の男が長身を折り曲げ、ティティの手から毒草を奪って放り投げた。褐色の少女は「あー」と非難の声を上げる。体格の割に随分幼いというか、甘えた声だ。
「サイモン、ずるい!」
「ずるいって何だ、ずるいって」
「とりあえず、抜け道を地図に書いておくよ」
 “口”が草むらを覗き込みながら言う。
 眼鏡の男―――サイモンが眉をひそめた。
「なあ若先生。やっぱ、地図をもう一回作る意味ってあんのか?」
「どういう意味です?」
 “口”が尋ね返す。サイモンは顎髭を掻くと、答えた。
「俺のギルド……全滅した前ギルドの地図なら、第一階層の途中まであるって言ったろ? それを使えば少しは楽が出来るんじゃねえかと―――」
「苦労せず作った地図で進んだところで、強い魔物に不意を打たれて、やられるのがオチですよ。それとももう一回全滅したいんですか?」
 “口”の“口ぶり”に、サイモンは閉口したらしい。
 身体が自由になるならば、この眼鏡の男とおそらく同じ表情に、イーグルはなっていただろう。同時に理解する。
 この“口”はかなりの毒舌家だ。
 言い換えれば、イヤミ。
「カイト」
 呼ばれて、“イーグルが見ている視界”は振り返った。
―――ああ、とイーグルは納得する。
 今のが“彼”の―――イーグルが通して見ている世界の、本当の持ち主の、名前なのだ。
 振り向いた先にはアルがいた。
「何?」
「エネミーアピアランスが点灯しています。近くにf.o.eがいますね」
「アル様、私の傍に。お守りいたします」
「様子を見ながら、回避するか」
「わーい、まものまもの」
 四者四様の反応だが、“彼”はそれ以上に淡白だった。
「面倒くさいね」
「えっ?」
「避けるの。……突破するか」
 獣の唸りが近づいてくる。
 イーグルの身体は、一歩、その唸りが聞こえる方向に踏み出した。
(ウソだろ!?)
「おい、カイト―――」
「敵がどのくらいの脅威なのか、知っておくべきだと思わないかい?」
「勝手に決めるな!」
 ピアノーチェと同じような事を言う“彼”に、スズランが吼える。
 ちょうどその瞬間、曲がり角から巨大な肉の塊のような、緑色のトカゲが現れる―――イーグルも見覚えがある。これは“貪欲な毒蜥蜴”という魔物だ。
 “彼”はもう一歩、魔物に向かって進む。
 その片腕が上がる。
 イーグルははっと気づいた―――“彼”の装備に。普通の鎧とは明らかに違う、右腕を覆うそれが稼働する。“彼”がこれを動かしているのだと、悟る。
 癒しの術以外にも、特殊な術がアーモロード近海には存在する―――リンの言葉が思い出された。
「さがってなよ」
 己の前に立ち、盾を構えたスズランに呼びかける“彼”。スズランは振り返らずに応じた。
「貴様など守りたくもないが、貴様の後ろにはアル様がいらっしゃるんだ!」
「来ます!」
 アルの声。眼前で巨躯を震わせ毒霧をくゆらせる大蜥蜴にイーグルは度肝を抜かれたが、当然身体はぴくりとも動かない。
 毒蜥蜴の尾が激しい一撃をスズランの盾に加えた。
(うおおおっ)
 スズランは足を踏ん張ってそれに耐える。
 “彼”はそれが分かっていたかのように、一歩も動かなかった。
 口角を笑みの形に歪めると、掲げた右腕を振る。
 それに応じるように、半身を覆う鎧が展開し、赤い光が散った。
 放たれたのは火炎の塊。それは毒蜥蜴を呑み込むと、激しく燃え盛る。
「よっし!」
 暴れる毒蜥蜴に、サイモンが巨大な弩を構えた。つがわれた、これも巨大な矢が弦を打って放たれ、火炎の中毒蜥蜴に直撃する。
「やりましたか?」
「まだ近づかない方がいいよ」
 アルに淡白に応じると、“彼”はもう一発、炎を放った。緑の森が赤く染まる。傍らのスズランが苦い顔をした。
「森を丸焼けにするつもりか?」
「延焼の心配はないさ。力の加減はしている」
 その言うとおり、炎は対象を焼くと、みるみる収まっていった。あとには炭化した、黒い塊だけが残る。毒蜥蜴の残骸と矢だろう。
(すげ……)
「ひょー、さすが若先生」
「星術とは、凄まじい威力のものなのですね」
 サイモンとアルの言葉に、“彼”はさも当然のように応じた。
「僕が求めるのは、こんなものではないけどね」
(嫌味な奴だ)
 己の“口”ながら。
 スズランは憮然とした顔だったが、やがてf.o.eが来た道を指した。
「アル様、ここから先へ進めるようです」
「カイトのおかげですね」
 見上げてくるアルの屈託ない笑みに、“彼”―――いや、カイトは肩を竦めて応じる。術を放った鎧ががしゃりとなった。
「進もう」
 カイトが短く告げると同時に、急速に世界が収束していく―――


「アニキ!」
 イーグルははっとして目を“見開いた”。
 のぞき込むベルオレンの顔が逆さまに映る。その後ろにあるのはテントの天井だ。
 ああ、ここはまだ樹海の中なのだ。
「ったくホントに、アニキは一度寝たらなかなか起きねーな。何回起こしたと思ってんだよ」
「ご、ごめん」
 慌てて身支度を整えながら、イーグルは尋ねる。
「みんなは?」
「外で待ってるよ」
 大きく伸びをして、ベルオレンは続けた。
「結局、ゆっくり一晩過ごせちゃったな」
 テントの外に出ると、天井の穴を抜けて生える木々の隙間から、日の光が差し込んでいた。ベルオレンの言どおり、魔物の気配はないまま朝が訪れたらしい。
「おはようございます、イーグル様」
「おはよう」
「あんたが一番寝ぼすけだよ」
「ご、ごめん」
 リンの呆れ顔に謝ると、まあまあ、とハガネが言った。
「イーグルどのもお疲れだったのじゃな」
「まあね……おかげで、変な夢を見たよ」
「夢?」
 イーグルは肩をすくめた。
「夢の中でも探索してた」
「まあ」
「アニキ、よっぽど冒険好きなんだな」
「そうじゃないと思うけど……」
 苦笑いを浮かべる。
 ピアノーチェが手を叩いた。
「それでは、進みましょうか」
 異を唱える者はなく、そのままぞろぞろと一同は野営場を抜けていく。
(しかし……妙な夢だったな)
 景色だけは樹海の中だったが、登場人物たちに見覚えはなかった。
 それなのに、まるで現実にいるような存在感……
「アーニーキ! 置いてくぞー!!」
 はっと顔を上げれば、仲間たちははるか前方を歩いていて。
「す、すぐ行く!」
―――それからは探索にいっぱいいっぱいで、夢のことはすっかり、イーグルの頭から抜けきってしまった。

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B3F

「えーっと、アリアドネの糸は買ったし、あとは薬かな……」
 きょろきょろと市場を見渡しながら、イーグルは独りごちた。
 ここはアーモロードの中心市街から離れた、問屋市である。冒険で必要な道具は普段ならネイピア商会ですべて購入できるのだが、今日はたまたま棚卸しのため休業中だったのだ。
 ギルドのお目付け役ということで、ギルドの財布はイーグルが管理しているため、装備を買うとき以外の買い出しは基本的にイーグルが行っている。世間一般ではそれを“パシリ”と呼ぶのだが、イーグルにも他の四人にもその自覚はない。彼の人の好さこそ、クッククローがうまく回っている理由かもしれない。
「お兄さん、どうだい? 新鮮な牡蠣だよ」
 ほっかむりをした若い女が、胸の谷間を見せつけるようにイーグルに愛想笑いを向けてくる。引きつった笑いを返しつつ、自然と視線は下を向いた。
 ようするに―――気が取られた瞬間、イーグルは何かにぶつかった。
「わっ」
「あっ……す、すみません!」
 振り返った途端、勢いよく下がる金髪頭。
 落としそうになった買い物袋を慌てて支え、イーグルは目をぱちくりとやった。
「こ、こちらこそごめんなさい」
「いえいえいえこちらこそ! 本当にもう! すみません! すみません!」
「な、なんかごめんなさい」
 お互いに頭をへこへことひとしきり下げると、イーグルは顔を上げた相手の容貌に「あ」と短い声を上げた。
 当の―――少女は、目を丸くしていた。
「あの……何か?」
「え? いや……その、君の鎧……変わってるね」
「これですか?」
 少女の右肩を覆う、翼をあしらったような不思議な恰好の鎧。
 それは、夢の中で“カイト”がまとっていたものと色は違えど同型のものだった。
「―――これは、星術器というものです」
「星術器?」
「はい。星々から集めた元素から、様々な力を呼び起こす道具です。たとえば……」
 少女の右手がほのかな黄緑の光を放つ。それに応じるように星術器が輝くと同時に、少女の掌の上に小さな火が灯った。
「わっ」
「大丈夫です、すぐに消えますから」
 少女が言葉を言い終わるより早く、火は掻き消える。イーグルは目を瞬いた。
「星術……君は、それの使い手なの?」
「はい、占星術師です。あなたも……その様子では、冒険者の方ですか?」
 イーグルの持っていた道具を見ての質問だろう。首肯すると、少女はぱあと表情を明るくした。
「やっぱり! ……あ、あのお忙しいところスミマセン、お聞きしたいことがあるのですが、いいですか?」
 イーグルは首を傾いだが、今日は特に買い出し以外に用事があるわけでもない。というかむしろ暇なくらいだ。
 あっさり頷いたイーグルに、少女は安心したようにため息をついた。


「あっ、アレ、アニキじゃね?」
 目ざといベルオレンの呟きに、リンは足を止めた。
「どこ?」
「ほら、あそこ」
 ベルオレンの指さした先には、民家の軒先で腰を下ろすイーグルがいた。誰かと話している。
「―――うわっ、また女の子といるじゃん」
「えっ」
 よく見れば確かに、話し相手は金髪の女の子だ。装備からして占星術師らしい。
「アニキもよくやるよなー……姉貴?」
「邪魔しちゃなんだし、行くよ、ベル」
「おいおいおい」
 ベルオレンは首根っこ掴むリンの手を払いのけると、イーグルたちを指さした。
「―――やられっぱなしはよくねーぜ、姉貴っ!」
「何の話だよ! いつも言ってるように、あたしとイーグルはそんなんじゃ―――」
「遠慮することねえって!」
「あ、こら、ベル!」
 駆け寄っていくベルオレンに、仕方なしに―――本当に仕方なしに、リンは続いた。


 少女はギルド『ムロツミ』に所属する、星詠みのカナエと名乗った。
「同じギルドのシノビのアガタが、地下二階で調子に乗って先に行っちゃって……そのままはぐれてしまったんです。アタシは仕方なく海都に戻ったんですが、どうもアガタは宿にも帰ってきていないみたいで」
「それはいつごろの話?」
「ついさっきのことです」
 カナエは困ったような八の字眉のまま続けた。
「アガタのことだから、樹海の中でも自給自足で生きていけるとは思うんですけど」
「す、すごい人なんだね」
「けど、やっぱり心配なので……もし樹海の中で、背が低くてうるさいくらいに元気なシノビの少年に出会ったら、アタシに教えてもらえないでしょうか? アタシはアーマンの宿に泊まっていますので……」
「ああ、その宿なら知ってるよ」
 ピアノーチェたちと同じ宿だ。イーグルは快諾する。
「分かった。ついでに君が心配していたことも、彼に伝えておくよ」
「お願いします、ありがとうございます!」
「アーニキ!」
 降ってきた声に、イーグルは顔を向けた。
 出店のやわい屋根の上に、ベルオレンが犬のような姿勢で乗っかっている。
「ベル、またそんなところに……」
「アニキこそ、また女の子ナンパしちゃって~」
 にやにやとした笑いをベルオレンに向けられ、カナエは身を固くした。
「す、すみません、じゃ、アタシはこれで……」
「あ、うん」
 素早く去って行ったカナエの後姿を見送りながら、ベルオレンが降りてくる。
「何? もういいの? タイプじゃなかったとか?」
「だからそんなんじゃないって……」
「こら、ベル!」
 一拍遅れて、カナエと入れ違いになるようにリンが現れる。肩で息をする彼女に、イーグルはぽんと手を打った。
「あ、丁度良かった、リン」
「なに?」
「メディカを売ってる店って、この辺にあるかい?」
 のほほんとしたイーグルの言葉に、リンはベルオレンと顔を見合わせ―――何故だか肩を落とした。


「いててて」
「もー、本当に馬鹿なんだから……」
 腹を押さえて唸りながら、よたよたと歩くベルオレンに、リンが心配半分呆れ半分でため息をつく。
 地下三階に進み、ほどよく苔生してきた石床を靴底で叩きながら、クッククローは奥を目指していた。
「その辺に生えているキノコを拾い食いしておなかを壊すなんて、卑しいですわ」
 やれやれと首を振るピアノーチェの馬鹿にしきった弁に、ベルオレンはむっとした顔を向ける。
「地下二階に生えてるキノコは絶品だって、酒場で会ったねーちゃんが吹聴してたんだよ!」
「あら、わたくしは毒キノコだと聞きましたけど? ……酒場の噂なんて当てにならないものがほとんどですわ。やだやだ、人に責任をなすりつけるなんて」
「んだとォ……」
 言い返そうとする声にも力が籠らない。へなへなと腰を折った彼に、ピアノーチェは柳眉をひそめた。
「ねえ、そんなにもおつらいなら、今日はもうやめにしましょうか?」
「べ、べ、別にそこまでじゃ……あ、歩いてりゃ治るっ」
 見つけた扉に手を伸ばそうとしたベルオレンに、ハガネがはっと表情を変えた。
「ベルオレン殿!」
 ベルオレンに体当たりするハガネ。もつれ合い倒れた彼らの頭上を通過していった風は、扉に突き刺さり止まった―――奇妙な形をした、金属製の武器だ。
 キッと眦を上げて、ピアノーチェが背後を剣柄で指す。
「何者ですの、出てきなさい!」
「いや、わりーわりー」
 がさがさと揺れた下生えは、ピアノーチェのすぐ側面だ。
「きゃっ」
「刺さらなかった? ごめんよ」
 にゅっと顔を出したのは、額にあるバッテン傷が目立つ、黒髪の少年だった。彼はにい、とあけすけに笑ってみせると、のこのこと下生えから進み出る。
「コイツがあんたたちを狙ってたもんだから」
 彼が握っていたのは、お化けドリアンの尻尾だ。
「―――一発で仕留めるつもりだったんだけど、何発か狙いがずれちゃって」
「何者でござる?」
 ハガネの質問に、少年はウインクを返した。
「あんたたちと同じく、冒険者さ。……な、ところで一つお願いがあるんだけど」
「唐突ですわね。まずは非礼を詫びたらいかがですの」
「さっき言ったじゃん、ごめんってば」
 少年の軽い返事に、ピアノーチェは整った顔を歪める。
「あ、じゃあお詫びにコレあげるよ」
 ぽいと少年が投げたものを、ピアノーチェは受け取って顔をしかめた。
 ドドメ色の丸薬だ。
「そこの赤毛の兄ちゃん、さっきのとこに生えてたキノコ食ってたろ。それで一発すっきりするぜ」
「もしかしてあなた、見ていらしたんですの?」
「それでさ、あんたたちもここまで来たんなら、この階に住んでる追いかけっこ好きな魔物は、もう知ってるよな?」
 こちらの話を聞く気がない様子の少年に、イーグルは大人しく頷いた。
 早口に少年が告げることには、この先にも同種の魔物がいて、どうにもしつこい追いかけ方をしてくるらしい。
「オレ一人じゃどうにもなんなくてさ。物は頼みなんだけど……あんたたちが魔物をうまくかわして、先への道筋を教えてくんないか?」
 答えようとしたイーグルの口を、リンが押さえる。
 その隙に、ピアノーチェとベルオレンが口々に言った。
「自力で出来ないからといって、人に頼むのはよくないですわよ」
「つーか、人にものを頼む態度じゃねーし……」
「リン?」
 イーグルが小声でリンに尋ねれば、彼女は渋い顔で答えた。
「あんたも、ほいほい安請け合いするんじゃないよ」
「俺、まだ何も言ってない……」
「顔に書いてあんの。“いいよ”ってね」
 呆れた様子のリンはイーグルを置いて、少年に向き直った。
「悪いけど、あたしらもいっぱいいっぱいでね。あんたの頼みは断らせてもらうわ」
「……そいつは残念」
 だがすぐにケロッと笑顔になると、少年は再び手を振りながら去っていった。


 追いかけてくる“水辺の主”を必死に逃げ切り、クッククローは扉を抜けると、ようやく一息をついた。
 そこへ。
「すげーな、抜けられちゃったよ!」
「うわっ」
 イーグルの眼前に突然降ってきたのは、先ほどの黒髪の少年だ。
「あんな感じで動けば良かったんだな。……いやー、実は一年前にもこの迷宮のここまで来たことがあるんだけど、そんときは抜け方を頼んだギルドがめちゃくちゃ強くてさ。あの魔物を避けずにぶっ倒しちゃったんだよね」
 こちらの驚きをよそに、ひたすら一人でしゃべくる少年。
 やがて五人分の視線に気づいた様子で、しかし悪びれた風もなく笑顔を浮かべた。
「そう睨むなって。利用できるモンは利用して上手くやる、ってのがシノビ流なのさ」
「そうなのです?」
 ピアノーチェの視線の先にいるのは、同じくシノビのハガネだ。彼はきょとんとすると、ぶんぶんと高速でかぶりを振る。
「いやいや、某は違―――」
「ですわね。おまえにそんな要領の良さはないですものね」
「あり……」
 くつくつとそのやりとりを笑って、少年は言った。
「そういえば、まだ名乗ってなかったっけな。オレはムロツミ筆頭のシノビ、アガタってんだ。よろしくな!」
「ムロツミのアガタ?」
 その名に、イーグルは目を丸くして尋ねた。
「―――きみ、カナエって人を知ってる?」
「うん? 兄ちゃん、カナエの知り合いかい?」
「知り合いというか……街で君のこと、探してたよ」
「あっ、こないだアニキが街でナンパしてた女の子のことか?」
 ぽんと手を打つベルオレン。
「また誤解を招くようなことを……」
「あらイーグル様、かわいい女の子が好きなのは殿方の共通事項だとわたくし熟知しておりますけれど、浮気は感心しませんわね」
「あんたたち、話が進まないよ」
 やれやれと溜息を吐くと、リンはきょとんとした顔の少年―――アガタに向き直った。
「ごめんね、脱線してて」
「あ、いや……そっか、カナエが探して……あー、しゃあねえなあ。一回街に戻るか……コイツの掻い潜り方は分かったことだしな」
「オレたちのおかげだろーがっ」
 吠えるベルオレンにひらひらと手を振って、アガタは「じゃ、ありがとさん」と言いつつ、現れた時と同じ俊敏さでいなくなってしまう。
「何だったんだ……」
「風みたいな奴だったね」
「……ててて」
「ベルオレン?」
 しゃがみ込んだベルオレンが上げた顔は真っ青だった。
「腹痛、ぶり返してきた……」
「まああの薬、効き目が短いですのね」
「仕方ない、あたしらも一端戻ろうか」
 肩を竦めるリンに頷いて、イーグルはアリアドネの糸を取り出し、紐解いた。

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B4F

「試験だって?」
 素っ頓狂な声を上げたベルオレンに、わざとらしく作った重々しい表情で、ロード元老院の老婆は頷いた。
 ここは海都アーモロードの政を司る議事堂の一角だ。研ぎ澄まされ、歴史の重みを感じさせる荘厳な雰囲気を持っており、おおよそ冒険者が足を運ぶには似つかわしくない場所だが、わざわざこんなところにクッククローが足を運んだのには勿論、わけがある。
 地下四階にようよう歩を進めた一行の前に、再びクジュラが立ちはだかったのだ。
 曰く、ここから先は通行止めだ、わけは元老院のばぁさんに聞いてくれ、とのこと。
 言われた通りに元老院を訪れれば、わけはこうである。
「そうさ。第一階層はほとんど踏破されちまってる、いわば舗装された道なわけだけども、地下五階からの階層はそうはいかない。前人未到の道で闇雲に死んでもらっても困るからね、地下四階で、先に進める冒険者を選別するための試験をしてるのさ」
「オレたちは試験を受ける資格もねえってのか?」
「そうは言ってないさ。この試験……任務を受ける気があるなら大歓迎さ、挑戦しておくれ。ただし、何があってもこっちは面倒みないよ」
 つっけんどんな言葉に、クッククロー一同は顔を見合わせる。
「……内容は如何様なものでござる?」
「地下四階の最奥にいる大ナマズこと、ナルメルを倒すことさ」
「なーんだ、簡単じゃねえか」
 ベルオレンの漏らした言葉に、老婆は眉を上げる。
「とんでもない! この試験で命を落とした冒険者だってざらにいるのさ。魔物とはいえ知恵も習性もある。なめてかかると痛い目を見るよ!」
 迫られて仰け反るベルオレン。
 ふと、イーグルは尋ねた。
「その冒険者の中に、“クッククロー”という名のギルドはありましたか?」
「うん? あんたたちのギルド名じゃないか」
「ええと……一年ほど前に、全滅したギルドの方で」
 老婆はベルオレンから離れ、虚空を見上げると、首を捻った。
「確かに聞き覚えはあるね。しかし、この歳になると物忘れが激しくてねえ……」
「ばーさん、一体いくつなんだよ」
「女性に歳を訊くでないよ。……どこまで彼らが進んでいたかまでは思い出せないが、少なくとも地下四階じゃないね。次の階層に入っていたはずだから、そこだろう」
「そうか……ありがとう」
「イーグル様、その方たちが何か?」
 顔を覗き込んでくるピアノーチェに、イーグルはかぶりを振った。
「いや、何でもない」
「とにかくさ、その試験を受けなきゃ先には進めねーんだろ? だったら受けようぜ!」
「ベル、あんた勝手に―――」
「わたくしも賛成ですわ」
 大きく頷くピアノーチェ。
 ベルオレンと彼女の二人に期待の目で見つめられ、イーグルは眉を下げた。
 まあ確かに、ドンの船のためには、第一階層を踏破する必要があるのだ。
「その任務、受けます」
「そうかい」
 イーグルの言葉に、老婆はにやりと笑った。


 かみつき魚の猛攻に遭い、歯形だらけで地下四階を進むクッククローの前に、明るい声が降って湧く。
「よっ! また会ったな!」
 街で偶然再会したような気やすさで、またも眼前の下生えの中から飛び出してきたのは―――誰であろう、額に傷持つ少年シノビ、アガタである。
 ベルオレンたち前衛は、無言でその前を通り過ぎていく。
「ちょ、ちょっ! おい!! 無視すんなよー!」
「何ですの、わたくしたち忙しいんですの」
「小さすぎて見えなかったぜ、すまんすまん」
「おたくらな……」
 頬を引きつらせたアガタだったが、こほんと一つ咳払いすると、にいと口角を上げる。
「なあ、ここまで来たってことは、ナルメル討伐のためなんだよな?」
「協力しろーとかならお断りだよ」
「ええっ」
 リンにまで冷たく言われ、アガタは唖然とする。
「何で分かったんだ!?」
「あ、アガタっ」
 奥の道から、金髪の星術師の少女が駆けてくる。ギルド『ムロツミ』の片割れ―――カナエはアガタに並ぶと、息を整えた。
「まったく、すぐ先に行っちゃうんだから……」
「合流できてたんだね、良かった」
 イーグルが言うと、頭を上げたカナエは顔をほころばせた。
「ええ、おかげさまで!」
「……とにかく、そんなこと言わずに協力してくれよ~」
 唇を尖らせるアガタに、困ったようにハガネが尋ねる。
「具体的にどんな形での協力でござるか?」
「オレたちがナルメル退治に有益な情報を提供する。あんたたちはその情報をもとに、ナマズを倒す」
「協力の“き”の字もねーじゃねえか! ほとんどオレたちの仕事じゃん!!」
 呻くベルオレンに、アガタは顔の前でてのひらを合わせた。
「頼む、このとおり! ……オレさ、どうしても第二階層に行かなくちゃいけないんだよね。どんな手を使ってでも……」
 聞こえていない様子のカナエを気にしながら低い小声で呟いたアガタは、しかしすぐぱっと表情を明るくした。
「なぁ、いいだろ、頼むよ!」
「と、言われましても―――」
「いいよ」
「ちょ、アニキ!?」
「何言ってんの、あんた! お人好しもいい加減に……」
「い、イーグル殿……」
 あっさり受諾したイーグルに、口々に非難の声が上がる。
 予想外の反応に、イーグル自身はきょとんとしつつも、答えた。
「あ、いや、そんなに困ってるならなーって……」
「そうこなくっちゃな!」
 ぱちんと指を弾き、アガタはカナエの背中をばんと押し出した。
「ほら、カナエ!」
「えっ、あっ……えーと、ヌカルミがナルメルの巣なんです。あの魔魚は泥を利用して自在に湿地帯を動き回るので、いかに動きを封じるかが重要になってきます」
 促されるまま、早口でカナエは情報を紡ぐ。
 リンが溜息をついて、片手を出した。
「分かった。ちゃんと聞くから、もう一回最初からゆっくり、お願い」
「あ、はい……」
 呆れたような視線がリンやベルオレンから突き刺さるのを感じつつ、イーグルが押し黙っていると、つんつんと腕を突かれる。
 見れば、ピアノーチェだった。
「な、何?」
「イーグル様……イーグル様がお優しいのは重々承知しておりますけれど、浮気はいけませんわ……」
「何のこと?」
「あの方。カナエさんのことですわ」
 じっとりと見つめてくるピアノーチェ。イーグルは慌ててかぶりを振った。
「そ、そんなんじゃないって」
「本当ですの?」
「本当だよ……」
「じゃ、そういうことだから!」
 明るいアガタの声が、空間を裂く。
 少年はクッククローを見渡すと、にこにこと機嫌のいい顔で手を振った。
「実戦はよろしく頼んだぜ、おたくら! がんばってくれよ!」
 リンたち姉弟の視線には、イーグルは肩を竦めて苦笑いした。


 体力を半分ほど削ったはずだ。
 ナルメルは身を翻すと、盛大に泥を飛び散らせてそのうちに潜り込んだ。
「ぶわっ!」
 頭から泥を被り、ぺっぺっと口の中に入ったそれを吐き出すベルオレン。同じように、純白のドレスを茶色く染めてしまったピアノーチェが、あっと声を上げた。
「見てください、魔物が……!」
 突然逃げ出した魔魚への行く手を阻むように、甲虫のような魔物が部屋のあちこちに出現した。
 リンが顔をしかめて、空を見上げる。
「まずいね、そろそろ夜になるよ」
 ただでさえ薄暗く、泥濘に足を取られやすい場所だ。このまま戦えばきっと不利に働くだろう。その上皆、ここまでの戦いで相当疲弊している。
「一端、街に引き返すでござるか?」
「でも、ここまで来て……」
「少し戻ったところに、野営地点があったよ」
 思い出して、イーグルは口に出す。地図係のハガネがこの階のそれを取り出すと、大きく頷いた。
「この野営地点なら、少しの休憩でここまで戻ってこられそうでござるよ」
「では、そちらで休みましょう」
 半目でピアノーチェは続けた。
「わたくしも装備を洗いたいですし」


<夢>
「おい、若先生」
 ゆすり起こされ、イーグルは“目を開ける”。
 いや―――
 いつもと感覚が違うことに、イーグルは即座に気づいていた。それもそのはず、いつもの水中の夢ではないものの、この感覚は初めてではない。
 瞬きした視界に、眼鏡をかけた髭の男が浮かぶ。
「ぐっすり寝てたな。ま、あんたが一番精神力ってのを使うんだから、当然っちゃ当然か」
「……今……何時ですか」
 低い声で応じる“彼”。
 髭の男ことサイモンは小さく肩を竦めた。
「外の明るさを見る限りじゃ、明け方早くってとこだな」
「そうですか」
 淡白に応じ、“彼”―――カイトはゆっくりを身を起こす。
「―――他のみんなは?」
「もう既に準備してるよ。あんたが最後だ」
 カイトは身体の右側に手を伸ばした―――そこにあったのは星術器。何かを操作してそれを起動させたらしく、星術器の鎧はふんわりと浮かぶと、立ちあがったカイトの右肩に勝手に装着される。
 見た目に反して重みは感じない。それは“イーグルが”なのか、カイト自身もそうなのか、イーグルには分からなかった。
 着々と身支度を整えるカイトを眺めていたサイモンが、感心したように呟いた。
「便利だなー、それ」
「サイモンさんの弩も同じ仕組みにしてあげましょうか」
「えっ、出来んの?」
「出来ますよ。ただし今のサイモンさんの月の稼ぎなら、分割ローンで、向こう三十年ほど」
「いくらかかるんだよ……」
「知りたいですか?」
「いや、いい」
 邪険に手首を振るサイモンに引き続いて、カイトは天幕から外に出る。
 そこには三人が待っていた。以前と同じ、カイトの仲間たち―――棘付きの鎧を着た女性スズラン、布一枚の装いながらにこにこと愛想の良い少女ティティ、そして、金髪さえ除けばどこの村にでもいそうなごく普通の少年アル。
 アルがにこやかに口を開いた。
「おはようございます、サイモン、カイト」
「うっす」
「おはよう」
「……起床予定時間から二十分の遅刻だ。何か言うことはないか?」
 キッとカイトを睨みつけるスズラン。カイトは欠伸混じりに応じた。
「みんなより長い時間寝てごめんね?」
「遅刻したことをあ・や・ま・れ!」
「ははは」
 明るく笑うのはアルだ。楽しそうな少年の様子に、スズランは困り果てたように言う。
「アル様、こういう輩にはガツンと言っておかねばダメです。甘やかせばつけ上がります!」
「元々態度デケーけどな、若先生」
「そうですねえ」
 サイモンの茶々にアルまでもが同意したので、スズランはますます顔を赤くする。
 と、そこにティティが手を挙げた。
「はいはーい、ティティのてーあん!」
「何でしょう、ティティ」
 物腰柔らかにアルが応じる。どう見てもティティの方が体格的にも年上に見えるが、彼女の振る舞いは無邪気そのものだ。
「ちょ、おいっ」
 ぱっと掴んだサイモンの腕に飛びつきながら、ティティは言う。
「ティティ、先に進みたい!」
「……ま、ここでくだらない諍いを続けるよりは、建設的だろうね」
「貴っ様……」
 まだ何か言い足らなさそうなスズランにひらひらと手を振って、カイトは野営地を後にした。

(今日の夢は長いな)
 さくさくと“カイト”が歩を進めている最中に、イーグルはそんなことを考えていた。
 見覚えのある小道を抜け、見覚えのある橋を渡る。既にイーグルは気が付いていた―――ここは地下四階最奥部。そしてカイトたちが泊まっていた野営地は、まさに今“イーグルたち”も泊まっている野営地で―――彼らが向かっている先は。
 カイトはある扉の前で立ち止まる。
「では、再戦と行きましょうか」
 開く扉の向こうに広がるのは、ナルメルの巣だ。

 激しい戦いの緊迫感も、イーグルには臨場感が溢れんばかりに伝わってくる。
 こんなに神経を張り詰めさせて、目が覚めないのが逆に不思議なくらいだ。
 “カイト”が放つ雷がぱちぱちと皮膚を刺す。そんな感覚すら、イーグルにも如実に感じられる。
 カイトの感じる、見聞きする全てを、イーグルは感じ、見、聞いているのだ。
「! ナルメルが……」
 スズランに庇われるアルの指さした方向、ナルメルが大きく泥中に潜った。
 視覚的に確認できる穴は六つある。そのどれにナルメルが潜ったのか、泥の外からでは判別できない。
「おい、どれだ!?」
「分からん……」
「サイモンさん、バラージを」
 カイトが冷静に指示を下す。はっと顔をこちらに向けた男に、カイトは繰り返した。
「属性は何でもいい。とにかく全ての穴に当ててください」
「わ、分かった」
 散弾する特殊な砲弾を番え、サイモンが弩を引く。選ばれたのは炎の砲弾だったが、ちりぢりに直撃した六つの穴の一つから、激しく泥が飛び散った。
「あそこです!」
 カイトは集中を高めていた。攻撃を受けてナルメルが飛び上がった瞬間に合わせて、雷の星術を叩きこむように起動させる。
 轟音と地響き。
 飛び散る泥と砂が、視界と聴覚のすべてを消し飛ばしていく―――


「うわっ!」
 自分の声に目が覚めて、イーグルはがばりと身を起こした。
 見渡せば、狭い天幕の中でベルオレンたちが揃って寝息を立てていた。見慣れた仲間たちの姿に安堵の息を漏らしつつ、イーグルは立ちあがって天幕の外に出る。
「イーグルどの、お早いでござるな」
 火の番をしていたハガネを見つけ、イーグルは微笑んだ。
「見張り、お疲れ様。代わろうか?」
「否、もうそろそろ夜も明けるので、皆さまを起こそうとしていたところでござるよ」
「そっか……」
 ハガネの正面に腰を下ろすと、彼は怪訝げに声をかけてきた。
「寝付けなかったでござるか?」
「えっ?」
「あまり、疲れが取れたようには見えぬので」
「はは……」
 だが、夢のことを話す気にはなれなかった。
 ハガネも、それ以上追及してくることはなかった。

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第二階層

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B5F

 大ナマズの魔物の体躯がぬかるみに沈む。
 盛大に飛び散った泥を被って、土人形のようになったクッククローの五人が顔を見合わせつつも、もはやぴくりとも動かぬナマズ―――もといナルメルの姿に、ほうと息をついた。
「や、や、やった……」
「休憩を挟んでの、長い戦いでしたわね」
「それにしても」
 ベルオレンがきらきらと瞳を輝かせながら、未だ肩で息をするイーグルを振り返った。
「―――さすがアニキだぜ!」
「えっ……えっ?」
「ナルメルが姿を消したとき。泥に隠れてるから地中を攻撃しようって言ったの、確かあんただったでしょ?」
 リンの言葉に、イーグルは目を白黒させる。
「そ、そうだったような……」
「さすがはイーグル様、魔物についても精通しておられるのですね」
「た、多分ムロツミが言ってたんだよ、はは……」
 まさか夢で見た戦法だったとは言えない。
 やがて、隠れていたらしい草むらからムロツミの二人が、賞賛の声を上げながら駆け寄ってくる。


 魔物を倒した証拠を採ると、五人はアーモロードに引き返した。ムロツミの二人は「次会うときはライバルだな」と言っていたが、彼らも一端街に戻ったのだろう。
 ナルメル討伐の大役を果たしたクッククローは、ドンとともに再び、港に足を運んでいた。
 港の主に、一年前から行方不明になっている、もう一つのクッククローの船を譲ってもらうためだ。
「まさかこんな短期間に、地下四階を突破するとはね」
 港の主は感嘆の息をつく。
 ドンも、今回の船は満足そうだ。
 大きな船にはしゃぐ仲間たちをよそに、イーグルは港の主に尋ねた。
「あの船の、元の持ち主だったクッククローを……率いていたのは、もしかして占星術士の男性ではありませんか?」
「ああ……そうだね、若い星術使いだったよ」
 やはり、と言いそうになるのを、イーグルはこらえる。
「―――それがどうかしたかい?」
「い、いいえ。何でもないんです」
 カイトのことに間違いない。
 カイトと仲間たち―――“もうひとつのクッククロー”は実在したのだ。
 やはりあの夢は、ただの夢ではない。
「おい、イーグル」
 港を出て広場に出る道の途中、何ぼんやりしてんだ、とドンの腕が肩を組んでくる。
「―――ご苦労だったな。おまえも、もういいぞ」
「え?」
「船も手に入ったことだし、長らくの陸に野郎どもも暇してるだろーからな。じき海に出るぜ」
「え、ええっ」
 それはつまり、冒険者としての活動を終え、ドンの海賊団に戻ってこい、ということだ。
 少し離れて後ろをついてくるクッククローの仲間の様子を見るに、ドンはまだその話を彼らにしていないらしい。
 ところが息を吸い込んで彼らを呼ぼうとしているドンに、イーグルは慌てて告げた。
「お、お頭!」
「うん?」
「俺はもう少し、冒険者を続けたい」
「ほお?」
 ドンは驚くというより、意外、という表情をした。
 深呼吸をして、イーグルは続ける。
「この街アーモロードと……世界樹の迷宮が、俺の記憶に関係している……そんな気がするんだ」
 カイトが何者なのか、イーグルにはまだ分からない。
 だが樹海の中で見るあの夢は、彼らがかつて歩んだ冒険の道のりで、実際に起こった出来事に違いない。にわかには信じがたいが、奇妙な一致がイーグルにそう思わせた。
 そしてイーグルたちが探索をより進めていけば、いずれ彼らが“行方不明になった”地点に辿り着くことになる。
 イーグルには確信があった。
 そこにきっと、失われた記憶の手がかりがある。
「いいか、よく聞け」
 一方、ドンは真剣な顔で言った。
「おまえたちが踏破した、地下四階。あそこまでは先人が何度も通り、踏み固めた道筋だ。だが次の階から始まる……第二階層“海嶺ノ水林”は違う。噂じゃあの先に百年前に沈んだ都が眠ってるらしいが、世界樹の迷宮が発見されて以来、あの階層を踏破し噂の真相を確かめた者はいないんだ。それが何を指しているのか、分かるだろ?」
 イーグルはぼんやり思い出す。
 ギルドを組むまで、この街の冒険者のことをどう思っていたか―――“事情は人それぞれあれど、遭わずに済む災難なら避けて、堅実に生きた方がいい”。
「―――それに、おまえの記憶の手がかりが、仮に樹海の中にあるとしてもだ……そんなところにあるってことは、思い出して良かったってもんじゃない可能性は高いぞ」
「それは分かってる」
 それでも。
 イーグルが力を込めた握り拳に、そっと白い手が触れる。
「また二人だけで秘密のお話ですの?」
 割って入ってきたのはピアノーチェだ。彼女はそのままイーグルの腕に抱きつく。
 ドンがぼりぼりと頭を掻いた。
「……姫さんの方も、まだ冒険はし足りないか?」
「もちろんですわ。これからの階層は未踏の領域が多いと伺っております。むしろ、ここからが本番ですわね」
「ベル坊、おまえは?」
 離れたところで屋台の焼き鳥を食っていたベルオレンが、呼びかけに応じて近づいてくる。リンも一緒だ。
「何の話?」
「おまえらもまだ、冒険者やるつもりかって訊いたのさ」
「だって、どうせまだドンは船に乗せてくれねーんだろ?」
「ベル! あんたまだそんなこと言って……」
 ベルオレンはちらと姉を一瞥しつつも、続けた。
「海賊もいいけど、冒険者も楽しいんだよ。それに、ワガママ姫サマはどうせ続ける気だぜ?」
 ベルオレンは舌を出した。ピアノーチェに向けて。
「おもりさせられるのが、ハガネちゃん一人じゃ気の毒だしな」
「まあ!」
 ピアノーチェはぱっとイーグルの腕を離すと、ベルオレンを睨みつけた。
「―――冒険者ギルドで新しく仲間を募ることだってできましてよ」
「ほー、そんなすぐ二階層に挑めるような仲間が入るかなー?」
「リンはどうだ?」
 ドンに話を振られ、困惑した様子でリンは三つ編みを指でいじくっている。
「船が手に入るまでとは思ってたけど……」
「ま、何にせよこれからのことを俺は無理強いしねえよ」
 まだ悩んでいるらしいリンの肩を軽く叩くと、ドンはイーグルを見た。
「……いいさ、おまえの人生だ。おまえが決めろ」
「ごめん、ドン」
「謝らなくていい。だが、決めた限りは貫けよ。……ま、俺たちも玉にゃこの街に帰ってくるからよ。相談くらいにはのってやるぜ」
「ありがとう」
 じゃあな、と片手を挙げ、ドンはそのまま人ごみの中へ歩き去る。
 あとに残された五人は顔を見合わせる。
 イーグルと目が合ったリンはどことなく不安そうだ。
 一方で、ピアノーチェは明るく言った。
「とりあえず、第一階層を突破したお祝いに、酒場に行きましょう」
「なんでそうなるんだよ」
 半目になったベルオレンに、ピアノーチェは至極不思議そうな顔で、
「冒険者の祝賀会は、酒場で行うものと伺っておりますけど」
「そうじゃなくて。これからどうするかってのが、先じゃないのか」
「あら。冒険は続けますわよ。それは決まりきったことですもの」
「だから……」
 ベルオレンはリンを一瞥したが、ピアノーチェはその視線すら気づかない様子でどんどん進みだす。
「お食事をしながらでも出来るお話でしょう? でしたら、まずはゆっくり羽を伸ばしましょう」
 結局、彼女の提案に従うことになった。


 羽ばたく蝶亭に足を運べば、いつの間にやら噂はクッククローでもちきりになっていたらしく、あっという間に宴会が始まって、真面目な話どころではなかった。
 やがてその騒ぎも収まったのち、イーグルは居候している道場までの帰り道を、リンと連れ立って歩いている。海都は夜のとばりが降りても賑やかな街だが、道場は少々街外れにあって、下町を抜けると虫の音が聞こえてくるほどの静けさだ。
「大丈夫かい? イーグル」
 リンが気遣わしげに声をかけてくるのは、イーグルが、調子に乗って酔いつぶれたベルオレンを背負っているからだ。
「平気だよ、前にもおんぶしたことあるし」
「ったく、人様に迷惑ばっかりかけてるんだから、この馬鹿は……」
 弟をあきれきった目で一瞥すると、リンは肩を竦めた。
「あんたも疲れたら言ってよ。あたしが代わるからさ」
「うん、ありがとう」
 背筋を伸ばして歩くリンの横顔に、イーグルは尋ねた。
「リンは、探索を辞めるつもりなの?」
 リンは目を伏せるが、答える。
「正直、迷ってるよ」
「……そう」
「あんたに、話したことなかったっけね」
 自嘲するように笑い、リンは言った。
「―――あたしとベルの両親は冒険者でさ。二人とも、海嶺ノ水林で命を落としてるんだ」
 イーグルは息を呑む。
 何も言えないでいる彼をよそに、リンの独白は続く。
「あの樹海を踏破した冒険者はいない。迷宮が発見されてもう何十年も経つってのに、底なんてないのかもしれないのに、挑み続ける馬鹿は後を絶たないんだね……」
「ベルは……ベルも知ってるのか? きみたちのご両親が……その」
「ベルには、海洋事故で死んだと伝えてあるよ。樹海で死んだなんて言ったら、この馬鹿が何をしでかすか分かったもんじゃないからね」
 イーグルの背中で青い顔をしているベルオレンを横目で見やり、リンは肩を竦めた。
「―――だけど、あたしも馬鹿の一人さ。そんな恐ろしい場所だと分かっているのに、大事な人たちを奪った樹海を、あの人たちが行き着けなかった道を進みたいと思ってる」
「リン……」
「イーグル、あんたも何か、見たいものがあって先に進みたいと思っているんだろ? ……お姫さまも。あたしも一緒さ。だから……ん?」
 唐突に。
 顔を上げたリンは、街灯が少なくなってきた暗闇の道の先に目を凝らし、翡翠色の瞳を驚いたように瞠った。
「リン?」
「道場……だよね、あれ……」
 リンが指した暗闇に、浮かぶ紅と、燻るように上がる灰色の煙。
 広がり方から言って、道場の灯りではない。
「もしかして……」
「おじじ!」
 顔を真っ青にし、リンが駆け出す。イーグルは慌てて片手を差し出したが―――「ふぎゃ」という声がしたので、ベルオレンを取り落としてしまったようだ―――リンの背中は遠ざかる。
「待って、リン!」
 身軽になったイーグルはそのままリンを追いかけるも、彼女の足は速すぎてとても追いつけない。
 しばらく走るうちに、道場を取り囲むように上がる炎がどんどん勢いを増していることに気づく。既に敷地の庭先から近づけない状態だ。
「おじじ!!」
「リン、危ない!」
 木製の道場が崩れてくる。慌てて彼女を引っ掴むも、暴れるリンの力は女性とは思えないくらいだ。
「ちょ、リン、落ち着いて!」
「落ち着いてなんていられるもんか、おじじが、おじじー!」
「はあーい」
 突如脇からぬっとせり出たはげ頭に、リンは悲鳴を上げて尻餅をついた。
「お、おじじ! もう化けて出たの!?」
「何をバカな事を言っとる。ここは危ない、もっと退がるぞ」
 リンより頭一つ分小さな、この道場の主の老爺ことシオ爺は、杖でリンの尻をはたいた。
「痛っ! ……っこの、エロじじい! この期に及んで―――」
「リン、いいから!」
 握り拳を掲げるリンの腕をひっ掴み、イーグルはシオと共に駆けだした。
 崩れだす道場。
―――火消しが到着したのは、道場の黒煙が収まりだしてから。
 とどのつまり、全焼してからだった。


「うひょう、派手に焼けたなあ」
 夜明けも近くなって、ようやく目を覚ましたベルオレンが、道場の焼け跡を眺めながら口笛を吹く。
 リンは怒る元気もないようで、肩を落としていた。
「あんたって子はホントのん気だね……家がなくなっちまったってのに」
「まー、なくなったもんは仕方ねえからな。それより……」
 焼け跡を注意深く徘徊しているシオの背中に、ベルオレンが呼びかける。
「じーさま、原因は何なんだ?」
「ワシにも分からん。ただ、火の気は感じなかったのでな、自然のものではないじゃろ」
「……というと?」
 首を傾ぐイーグルに、シオは顔を近づけつつ、答えた。
「放火じゃ」
「んなっ」
「じーさま、心当たりは?」
「ありすぎて困っとるところじゃい、ほっほっ」
「笑い事じゃないし……」
 リンが頭を抱える。
 焼け野原になった、道場があった丘を見渡して、イーグルは言った。
「怪我人がいなかったのは不幸中の幸いだね」
「すまんの、お若いの。おまえさんの荷も焼けてもうた」
「いいさ、どうせ大したものじゃないし。……ただ、これからどうするの?」
 ふむ、とシオは顎髭を撫でた。
「おまえさんたちは宿の厄介になるといい。どのみちしばらく道場は休業じゃ、リンとベルは冒険に集中せい」
「ええっ」
 リンとベルオレンが同時に声を上げる。前者は非難、後者は歓声だ。
「そ、そんな。大体おじじはどうするのさ?」
「道場を焼き討ちした不届き者がおるでな、ちょいとそ奴らを探ってくる」
「オレたちも手伝うぜ?」
「良いと言うておろう。そんなことより、道場再建のための資金でも稼いできておくれ」
「あー、そいつァいいな」
 ベルオレンが指をはじいた。
 リンは眉を下げつつ、シオを見下ろす。
「おじじ……」
「リン、道が見えておるのに進まぬのはただの臆病者じゃぞ」
 リンの葛藤を見抜いたかのように、シオは彼女の鼻先を杖で差した。
「―――アーマンの宿を拠点にすると良かろう。あるじにはワシから言っておく。おまえたちは冒険を続けよ、それが修行じゃ。良いな」
「……分かったよ」
 渋々ながら、リンは頷いた。
 ベルオレンは嬉しそうに歯を剥く。
「ししし、これでまだしばらく共同生活だな、アニキ!」
「アーマンの宿なら、ピアたちも一緒だしね」
「うげっ……そうだった」
 途端に嫌そうな顔になったベルオレンをよそに、イーグルは、まだ不安そうな陰を残したリンに声をかける。
「リン」
「……ああ、うん。大丈夫さ」
 リンはそしてふるふると首を振ると、ぺちんと己の頬を叩く。
「―――落ち込んでいても始まらないしね。おじじの言うとおり、むしろ逃げ場がなくなった気がするよ」
「でも、無理はしない方がいいよ」
「大丈夫だって。……あんたはホント心配性だね」
 苦笑しつつ、リンはイーグルの肩に拳を当てた。
「お若いの。おまえさんの言うとおり、逃げることは恥ではない……じゃが、どうしても逃げられない時。そういう時は周りを見るとよいぞ」
 シオの言葉に、リンとベルオレンが顔を見合わせ、微笑む。
 イーグルは頷いてみせた。
「そうだね」


「大変でしたね、街中が大騒ぎでしたよ」
 アーマンの宿の少年が、朝食の皿を片付けがてら話しかけてくる。
 寝不足の目を擦りつつ、イーグルは力ない笑みで応じた。食事の間に部屋を用意しておいてくれたらしい、鍵を置いて少年は通り過ぎていった。
「本当、お気の毒に。秩序を乱す悪者には災いあれですわ」
 重いため息を吐きつつ、イーグルの隣に座すピアノーチェが呟く。
 テーブル席の向かいのソファで頬杖をつきながらパンを食いちぎる、ベルオレンが意外そうに応じた。
「なーんだ、姫さん。てっきり“イーグル様と四六時中ご一緒出来るなんて夢のようですワー!”とか言うのかと思ったら、ずいぶん殊勝じゃねえか」
「慎むべきことを慎まずに、姫たる気品は保てませんことよ」
 むっと言い返しつつ、イーグルの片手を取って、
「まあ、あなたの仰ることは嘘ではありませんけど」
「やっぱりな……」
 イーグルは周りを見渡した。既に活動を始めた冒険者たちがせわしくなく行き交う食堂に、リンとハガネの姿はない。
「ところで、二人は?」
「姉貴は食欲出ないっつって、散歩に行ったよ」
「ハガネは道具の調達ですわ」
「こんな朝早くから?」
「朝市ですもの」
 落ち着いた様子で食後の紅茶を嗜むピアノーチェ。
「―――朝市の方が、良いものを安く買えるのですわ」
「意外と庶民的だね」
「待って、アガタ!」
 騒がしさの中に。
 ひときわ大きな、悲鳴のような呼びかけの声が上がる。聞き覚えのあるそれに目を向ければ、食堂の入り口でシノビの少年の腕を掴む、ゾディアックの少女の姿が見えた。
「カナエさんですわね」
「仲間割れ?」
 ピアノーチェとベルオレンの小声など聞こえていないだろう、カナエを振り返ったアガタは眉尻を上げて何事か応じると、そのまま彼女を乱暴に振り払い、食堂から出ていってしまった。
「行ってしまいましたわ」
「そーだな……ってアニキ?」
 イーグルはそっと席を立つと、カナエのそばに歩み寄る。
「カナエさん?」
「あ……クッククローの、みなさん」
 カナエはひどく落ち込んだ様子で、力ない笑みを浮かべた。
「どうかしたの?」
 陣取っているテーブル席に戻りながら尋ねれば、カナエはぼそぼそと答えた。
「……次の、階層のこと。ご存じですか?」
「海嶺ノ水林のこと?」
 カナエは小さく頷いた。
「アタシ、あの蒼く澄んだ森が恐ろしいんです」
 ぽつりぽつりと彼女は語る。
「―――毎晩、夢を見るんです」
 誰かと一緒に、第二階層を冒険する夢。
 とても楽しい道筋立ったはずが、気づけば魔物に囲まれていて。
 その誰かは、魔物の攻撃からカナエを庇い―――
 カナエはその先を忘れようとするかのように、かぶりを振った。
「そしてアタシは、その誰かが一体誰なのか、分からないんです」
 同じだ、とイーグルは思う。
 イーグルは樹海の中でだけだが、休んでいるときに必ず、冒険している夢を見る。イーグルは名前も顔も知っているが、彼らが何者かは分からない。
 恐ろしいのは、彼らはイーグルが作り出した夢の存在などではなく、かつて海都に実在した冒険者たちだということだ。
「カナエさん、その夢は……」
「樹海が怖いなら冒険者なんてやめた方がいいぜ」
 ベルオレンが口を挟んだ。
 カナエは俯いたまま、ローブの裾を握りしめる。
「でも。アタシがいなくなっても、アガタは一人で樹海に挑むと思う。今日も、それで揉めて……」
 アガタが飛び出していったのは、カナエが探索を止めたいと言ったからなのだろう。
「―――こんな話を聞かせてしまって、すみませんでした。アタシ、アガタを探しに行ってきます」
 一礼して立ち上がるカナエを、ピアノーチェが呼び止める。
「お待ちなさいな。貴女こそおひとりで樹海に行くおつもりですの?」
「それは……」
「しゃーねえなあ、あのおチビはオレたちが探してきてやるよ」
 目をぱちくりとするイーグルに、ベルオレンはにかっと歯を剥いた。
「―――どうせ、アニキのお人好しならそう言うだろ」
「みなさん……ありがとうございます」
 思い詰めた風だったカナエの表情が、少しばかり緩んだ。

▲[B5F]一番上へ▲ ▼[B6F]一番下へ▼

B6F

 海の底。
 ここはそう表現する以外に言葉が思いつかぬような迷宮だ。“海嶺ノ水林”と呼ばれる世界樹の迷宮第二階層は海中に存在する。といっても、冒険者たちが水の中を泳いで進むわけでは勿論ない。空気の通る不思議な海中トンネルの中を、頭上を行き交う魚の影、降り注ぐささやかな日光、岩肌に生える色とりどりの珊瑚を眺めながら進んでいくのだ。
 それはさながら、海の底のような情景だ。
 実際のところ、ここが迷宮の“底”であるかは誰にもわからない。この階層を踏破し、その先にあるといわれる、百年前に海に沈んだ海都の半身“深都”を見つけた者はいないからだ。
「うわっぷ!」
 見えない流れに押し出され、つまづいた拍子にベルオレンが床に顎をぶつけた。
「ここにも海流があるのでござるかな?」
 ハガネが地図に流れの方向を書きこんでいく。
 ベルオレンは顎を抑えて、唸りながら立ちあがった。
「ったく、変な迷宮だな……」
「海の中に流れがあるのは、当たり前のことですわよ」
「空気がある方がおかしいってことかい?」
 ピアノーチェの呟きに、肩を竦めるリン。
「―――不思議なところだとは思ってたけど、まさか海の中を歩けるなんてね」
「元々不思議な術が使えるような土地ですから、この際何が起こっても驚きませんわ」
 溜息を吐きつつ、ピアノーチェは振り返る。
「ねえ、イーグル様?」
 そこに立っていたのは、ぽかんと口を開けた山椒魚の魔物だ。
 ピアノーチェは目をぱちくりとやる。
「あら、いつの間に」
「ピア、どいてっ!」
 彼女の死角に立っていたイーグルは、慌てて銃を構えた。
 クーラスクスに向かって引き金を引くも、その大口に銃弾は飲み込まれていく。
「うげっ」
「効いてはいるみたいだぜ!」
 動きが鈍った魔物に、ベルオレンが殴るような一撃を剣で加える。
「まだ来るでござる!」
 見上げた先の珊瑚から、アオトビヒトデが星のように降ってくる。
 にわかに戦闘が始まった。


 最後の一体の魔物を退けた途端、耳に届いたのは、無機質な拍手の音だ。
 クッククローが振り返れば、青い外套に身を包んだ、オランピアが笑顔で立っていた。
「みなさん、第二階層までたどり着かれていたんですね」
「……あんたは、ひとりでここへ?」
 ベルオレンの質問に、しかしオランピアは笑顔のまま続ける。
「実はあたし、第二階層は何度か探索しているんです。そして“深都”の手がかりも発見したのですが……わけあって、自力で確認はできずにいます」
「わけあって? どういうことさ」
「この迷宮はかつて海の底だった名残か、海流のせいで一部の通路が閉ざされてしまっています」
 オランピアは東の通路を指した。
「―――実はあの先に、海流を操るための秘石が隠されているのですが……その途中には危険な古代魚の群れが救っているのです」
「なるほど。そいつらが邪魔で取りにいけないってことね」
 リンが納得したように頷く一方で、ピアノーチェは柳眉を寄せた。
「どうして、その秘石がそんなところにあるとご存じなのです?」
「……途中まで行ったんですよ。でも、魚に阻まれて進めなかったんです」
 笑顔で答えるオランピア。
「―――なので、強く、信頼のおけるギルドにお願いしようと思って。みなさんを待っていました」
「……お褒めの言葉はありがたく頂戴いたしますわ」
 言葉とは裏腹にふんと胸を張り、ピアノーチェは応じた。
「どうする?」
「しかし、道は東にしかないようでござる」
 ハガネの言葉に、ベルオレンは唸る。
「アニキ?」
「……どのみち、行ってみるしかなさそうだね」
 青くどこまでも続く道を見つめて、イーグルはつぶやいた。


 海流と古代魚の群れを避けながら、クッククローはその最奥にたどり着く。
「どうなってんだ、これ……」
 顔をしかめながら、ベルオレンが赤黒く汚れた壁を手でなぞった。ピアノーチェが小さく悲鳴を上げる。
「冒険者の……残骸のようですわ」
 折れた剣、砕けた盾。比較的新しいものも、古いものも、冒険者の装備らしきものだけではなく、人骨の欠片のようなものも散見できる。
 イーグルははっと、その欠片の中に、見たことのある風変わりな鎧の残骸が落ちているのを見つける。
 星術器だ。
 古い物らしく錆びていて茶けているため元の色は分からない。
 だけれど、もしかして。
 イーグルは周囲を見渡すが、それ以外に何か、手がかりとなるようなものは見つけられなかった。
「行き止まりでござる……」
 眉を下げた表情で、壁を調べていたハガネが言った。
「オランピアさんが仰っていた、海流を操る秘石というのは?」
「見当たりませぬ」
「ハメられたくせーな」
 拳をてのひらに押しつけるベルオレン。
「そんな……」
 イーグルはそこで、足下に膝をついたまま動かないリンに気づいた。
「リン?」
 リンは目を見開いて、震える手で
それを持ち上げている。
 黒い鞘の、何の変哲もない古びた短剣だ。
「リ―――」
「おい、なんかおかしいぞ!」
 ベルオレンが叫ぶ。
 まるで渦が巻くように、空気の流れが変わる。
 覆い被さるように現れた巨大な影に、イーグルは緊張がいや増すのを感じる。
「古代魚の群れですわ!」
 頭上の影を指して、ピアノーチェが叫んだ。
「どうやら魔物の巣であったようでござるな」
 数体の古代魚が、こちらの動きを窺うように見下ろしている。
「とんでもねえ食わせもんだぜ!」
「リン!」
 イーグルはリンの腕を掴み、揺さぶった。
 リンははっと我を取り戻したように顔を上げた。
「逃げよう、戦うのは無茶だ!」
「でもどうやって……」
 突剣を握りしめるピアノーチェ。
 彼女のそばに控えながら、ハガネが口を開く。
「おそらく、今まで出会ってきた群れと同じで、動きは単調でござる」
「ぐるぐる回ってるだけ、ってことかよ。連中に突っ込まれねえように、慎重にここを抜けるしかなさそうだな」
「リン」
「あ、ああ」
 イーグルの呼びかけに応じたリンは、拾った短剣をそっと自分の懐に入れて、立ち上がった。


 古代魚の群れから命からがら逃れることに成功したクッククローは、アーモロードの街に戻ってきていた。
 元老院に報告したところによると、オランピアの存在は世界樹の迷宮の探索が始まった数十年前当時から、伝説のように語られていたらしい―――すなわち、冒険者にヒントを与える、青い外套の少女がいると。
 だが今回、彼女が冒険者を欺き惑わしていたという事実が発覚した。それに激怒した元老院元締めの“婆様”が、オランピア捕縛の命を冒険者たちに通達したのである。
 かなり大規模な作戦になるようで、元老院からも一個中隊もの衛兵隊を派遣するらしい。直接オランピアと対峙し、その化けの皮を剥ぎ、隠されていた先に進む道を発見したクッククローも、当然それに参加することになった。
 だが。
「ずいぶん大げさなことになってきちまったなあ」
 元老院への報告やら何やらで、日もすっかり暮れ疲れはてた夜である。早々にアーマンの宿に引っ込んだイーグルたちだった。
 ベッドに身を投げ出しているベルオレンのぼやきに、銃の整備をしながらイーグルは答えた。
「リン……大丈夫かな」
「ねーちゃん? なんで」
「いや……」
 古代魚の巣で持ち帰った短剣を、思い詰めたような顔で見つめていたリンの横顔を思い出す。
 しかし、ベルオレンはきょとんとしていた。
「あの短剣に……見覚えとか、ない?」
 そう尋ねれば、ベルオレンは虚空を見上げて首をひねった。
「オレは別に……いや、うーん……言われてみれば、どっかで見たことがあるような、いや、ないような……」
 もしかしたら、あれはリンとベルオレンの両親、そのどちらかの遺品であるのかもしれない。
 邪推でしかないが、イーグルはそう感じていた。彼らの両親は第二階層で命を落とした。だがその事実を知るのはリンのみで、ベルオレンは両親の死は海原で起こったものと思っている。
 なら、これ以上イーグルが彼に話すべきことはない。
「ごめん、変なこと言って」
「? うん」
 大して気にはしてなさそうに、ベルオレンは応じた。
 一方で。イーグルがより揺さぶられたのは、同じくあの巣の中で見つけた、星術器の残骸だった。
 どことなく、“夢”の中で見た、カイトがつけていた物に似ている。第二階層に入って以降、巣のあるあの階でも野宿をしたものの、夢を見ていないということが、よりイーグルの心をざわめかせていた―――“もう一つのクッククロー”は一年前に姿を消した。彼らが最後に到達したのは第二階層。
 彼らが、その足取りを”途絶えさせた”のは、一体どの地点なのか。
―――もっとも、あれがカイトのものであるという確証は何一つない。だが多くの冒険者の命が、オランピアの嘘によってあそこで失われた、それは確かである。
「アニキ?」
 黙り込んでしまったイーグルを、窺うようにベルオレンが呼びかけてくる。
「え……あ、何?」
「……ちぇっ、アニキも姉貴も、なんか暗いよなあ。ハガネちゃんとデートでもしてこようかな」
「そういえば、ハガネはどの部屋に泊まっているんだろう?」
 この宿にイーグルたち三人が転がり込んだとき、既にピアノーチェは一人で宿部屋を取っていた。今でこそ彼女はリンと同室であるものの、ハガネの行方は最初から知れない。
「さあね。シノビは神出鬼没って言うし、ミステリアスなのも“彼女”の魅力だよね」
 うっとりしたように、ベルオレンは言った。まだ勘違いしている。いい加減正してやるべきかと思い、イーグルは口を開いた。
「ベル、ずっと誤解があるようだけど、ハガネはおと―――」 
「ちょっと邪魔するぜ!」
 ドアをぶち破るようにして突如室内に侵入してきたのは、誰であろう、神出鬼没のシノビそのひとである。
 ただしハガネではなく、鼻に傷のある“ムロツミ”のシノビ―――アガタだ。
「おいおいおい、ご挨拶だな」
 渋面で身を起こすベルオレンをよそに、アガタは真っ直ぐイーグルに向かってきた。いつもの陽気さより、深刻さを増した表情で。
「おたくら、地下六階の奥で古代魚の巣を見つけたんだってな」
「わー、蝶番壊れてやがる」
 ドアを検分していたベルオレンが悲痛な声を上げた。
 アガタはイーグルの視界全面に入ってくる。
「頼む、その巣がどこにあったか、オレにも教えてくれよ」
「その前にドアの弁償だ、ドアの!」
 アガタは一瞬ドアに目をやったが、すぐイーグルに向き直った。
「どうしてもそれを知る必要があるんだよ、頼むよ」
「相変わらず人の話を聞かねえヤツだな」
 ベルオレンはやれやれと肩をすくめ、アガタの後ろに立った。
「―――せめて事情くらい話せよ」
「……カナエのためさ」
「カナエさん?」
 アガタの相方の少女の名に、イーグルは目を丸くする。
 少年は頷くと、続けた。
「カナエのオヤジさんは、かつて世界樹の迷宮に挑む冒険者でな。海都でも有数の占星術士だったんだ。でも、あるとき探索に行ったきり戻らなかった。当時進めていた迷宮は……第二階層」
「よくある話だ」
 ベルオレンを睨み、アガタはなおも言葉を紡ぐ。
「オヤジさんが行方不明になった日、カナエも海都に来ていたらしいんだ。でもカナエはそのとき、ショックあまり記憶を失った。昔の事、大好きだったオヤジさんの事……何一つ覚えていないらしいんだよ」
 イーグルは息を呑んでいた。
 カナエは、イーグルと同じだったのだ。
「―――だから、この迷宮に連れてきたんだ。オヤジさんの手がかりが、あの日何があったのか分かれば、アイツの記憶も戻り、苦しまずに生きていけるかもしれないから」
「星術器の残骸を、古代魚の巣で見たよ」
 イーグルの言葉に、アガタははっと顔色を変える。
「―――だけど、あれがカナエさんのお父さんのものなのかは分からない」
「十分さ。それで、そこはどこなんだ!?」
 イーグルはアガタの背後に立つベルオレンを見た。
 ベルオレンは黙ったまま、アガタの背中を見つめている。
「……それは、教えられない」
「どうして!」
 詰め寄ってくるアガタ。イーグルは苦い気持ちで応じた。
 アガタの気持ちは分かる。
 だが―――
「カナエさんは、あの迷宮が恐ろしいと言っていた」
 彼女とイーグルは同じだ。
―――ドンに言われた言葉が蘇る。
「取り戻した記憶が、思い出して良かったというものだとは限らない」
 アガタは一瞬顔を歪めた。
 そしてイーグルから離れ、背を向ける。
「……いいさ、どうせあんたたちが進んだ道を真っ直ぐ行けば、たどり着くんだろ」
「アガタ―――」
「カナエには言うなよ」
 そして風のように走り去る。
 それを見送ると、ベルオレンが近づいてきた。
「アニキ、大丈夫か?」
「平気さ……それより、彼を追いかけた方がいいかもしれない」
 一人で古代魚の巣に行くなど、自殺行為だ。
 アガタはカナエのために、なりふり構ってはいられないと思っているのだろうから。
「―――カナエさんとも約束したしね」
「……っとに、しゃーねえなあ」
 赤髪をばりばりと掻くベルオレン。どうやらついてきてくれるらしい。
「話は聞かせてもらったでござる」
「うおっ」
 唐突に頭上からひらりと舞い降りてきたシノビ―――ハガネに、ベルオレンが仰け反る。
「い、一体どこに……」
「天井裏でござる。休憩してござった」
「宿代払ってるんだから、フツーに休めばいいのに……」
「とかく、某は姫様とリン殿にお知らせしてくるでござる」
 ハガネはそう言うと、再びふっとかき消えた。


 カナエに知らせようとアーマンの宿を探したが、彼女は見つからなかった。
 それどころか、フロントにいた世話役の少年に、ムロツミは二人揃ってどこかに出かけていったと知らされる。
「案外、無茶はしないつもりなのかもですわよ」
 ピアノーチェにそう言われ、樹海磁軸の紅の光から足を踏み出しつつ、イーグルは答える。
「うーん……だと、いいんだけどな」
「ま、行ってみてアイツらがいなけりゃ、そのまま帰ってくりゃいいだけの話だしよ」
 姉貴もいねえしな、とベルオレンが肩を竦める。
 リンが宿部屋にいなかったため、クッククローは常の五人ではなく、彼女を除いた四人で地下六階を訪れていた。夜も更け、幾分薄暗い海底のような迷宮をひた進む。目指すは、拓いた先の道筋ではなく、古代魚の巣がある方角だ。
 静かに感じるが、魔物たちの気配はそこかしこに存在する。昼間とはまた違った、夜行性の敵が徘徊することだって樹海には十分あるのだ。
「こう暗いと、足元がおぼつかないな」
 小石を蹴りながら、ベルオレンが呟く。ピアノーチェが非難の声を上げた。
「ちゃんと警戒してくださいまし」
「してるさ。あー、ねみー」
 生欠伸をしたベルオレンが、足を踏み出した瞬間。
 ずる、と彼の足元の瓦礫が滑る。
「うおっ」
「ベル!」
 手を差し伸べたイーグルごと、ベルオレンはその先にあった海流にのみ込まれる。
「イーグル様!」
「ち、地図にはなかったでござる」
 通ったことのない道筋であり、暗闇だったせいで、海流が存在することに気づかなかったのだ。
 おろおろと地図を見比べるハガネをよそに、ピアノーチェがさらに、イーグルに手を伸ばす。
 が、彼女もベルオレンと同じところで躓き、そのまま海流に身体が投げ出されてしまった。
「ひ、姫さまっ!」
 自ら海流に身を投げ出すハガネ。
 一方、イーグルとベルオレンは流れの終点に辿り着いていた。鼻先に迫るは、古代魚の群れ。
「くっ」
 先制攻撃と言わんばかりに、海流から脱出したベルオレンは一回転して体勢を整え、そのまま先頭の古代魚に斬りかかる。
 彼に遅れて海流から押し出されたイーグルはといえば、岩肌のあちこちに身体をぶつけて、成すすべなく地べたに叩きつけられてしまった。
「アニキ!」
 そのうちに、ピアノーチェが海流から飛び出して着地した。
「お怪我はありませんか! 今メディカを―――」
「ぶえっ!」
 古代魚の尾びれに弾かれたベルオレンが、イーグルのすぐ側の地面に投げ出される。
 追ってくる古代魚は、こちらが何かをするより早く、大きく身体をうねらせ始めた。
「まずいですわ、これは……」
 奇妙な音色が鼓膜を揺るがす。
 頭の内側から聞こえてくるような―――意識を削がれるような“歌”。イーグルは知らず膝をつく。砂と埃が舞い上がり、地面にキスをするように、イーグルは突っ伏した。身体に力が入らない。
 朦朧とする意識の中、ぼんやりと浮かんでくる―――光景。


 古代魚を吹き飛ばす光。
 怒号。「無茶をするな」「信じられるか」「勝手なことを」
 突き刺さる視線。肩を竦めた。

 “僕以上に誰が役に立つと?”

 頬に走る痛み。
 「お前はただ、私たちを馬鹿にしているだけだ」
 軽蔑したような声。
 視線。
 チームワークなんて、それこそ世迷い事だ。
 軽薄な笑い。
―――チームなんてただの、利害が一致しただけの他人の集まりだろうに。


「―――ル、イーグル!!」
 殴るような怒声に、イーグルは瞼を開いた。
 ほっとした安堵の息を吐くのは、顔面いっぱいに映るリンで。
「心配したよ。あんただけ、リフレッシュしてもなかなか起きなかったからね」
「アニキは、寝起きが、悪いっ、からな!」
 リンの背後で、古代魚を剣で壁に叩きつけるベルオレンが叫んでいる。
 イーグルは目をぱちくりとやった。
「ぼ……俺は、どれくらい寝てた?」
「さあね。……立てるかい?」
 激しい戦闘は続いている。リンに差し出された手に、イーグルは迷いなく掴まった。
「ところで、リンはどうしてここに?」
「あの子に連れてきてくれって頼まれたのさ……あれ、いない?」
「あの子?」
 きょろきょろと周りを見渡し、次第に渋面になりながらリンは答えた。
「カナエさ」
「これで終わりですわ!」
 金の突剣が閃き、ピアノーチェが古代魚にとどめを刺した。
 地響きのように魔物が空中から落ちる音。
 刹那の間生まれた沈黙に、通路の先にいたハガネが声を上げる。
「こちらでござる! “ムロツミ”が……」
 駆け出すリンを追って、イーグルは尋ねた。
「どういうこと? ムロツミは二人揃って出かけたと聞いていたけど」
「宿を出たときは確かに二人一緒だったんだろうね。その後喧嘩別れをしたらしく、カナエは頭を冷やすため街を一周していた際にあたしに会った。宿に戻ったときアガタもあんたたちもそこにはいなかったんで、これは樹海にいるなと踏んで追ってきたのさ」
「なるほど、正解だったね」
 ひときわ大きく弾けるような音が洞穴状の巣の中で轟いた。
 たどり着いた最奥は土煙で覆われていた。それが晴れていくにつれ露わになったのは、えぐれた壁、吹き飛んだ珊瑚、ちぎれた古代魚の残骸―――その中心にへたりこんだ、アガタの後ろ姿。
「アガ―――」
 呼びかけようとしたイーグルを、ハガネが腕で制した。
 イーグルははっと瞠目した。アガタが抱きかかえる影が、カナエだと気づいたからだ。
「カナエ……最期に、微笑んでた……思い、出せたって……」
 呆然と、突き動かされるようにアガタは言葉を紡ぐ。
「自分を守ってくれたオヤジさんみたいに、今度は自分が大事な人を守りたいって、オレを……庇って……」
 あとは言葉にならなかった。


 カナエはかつて彼女の父と共に、世界樹の迷宮を訪れていた。
 かの古代魚の巣に足を踏み入れた彼らだが、カナエの父は彼女を庇い命を落とす。一人アリアドネの糸で脱出したカナエは、そのときの恐怖とつらさに耐えられず、記憶を封印したのだった。
「最期に……記憶を取り戻して、カナエさんは幸せだったのかな」
 カナエの遺骸と共に姿を消したアガタを追わず、街に戻ってきたクッククロー。
 宿に帰る道すがら、イーグルはひとりごとのように呟いていた。
「微笑んでいた、とアガタさんは仰っていましたわ。きっと、そうだったと思います」
 柔らかい声音で言葉を紡ぐピアノーチェ。イーグルは俯いた。
「あの子もあの子の父親も、オランピアの犠牲者には違いないよ」
 怒りに震える声で、リンが拳を握る。
「―――許せるもんか」
「リン……」
「それにしても、オランピアは一体何者なのでしょうね」
 ピアノーチェの言葉に、ベルオレンは拳をてのひらに打ちつける。
「何にせよ、追いかけてとっ捕まえれば分かる話さ。な、アニキ!」
 意気込むベルオレンの首がこちらを向く。
「あ……ああ、そうだね」
 イーグルは生返事を返した。

▲[B6F]一番上へ▲ ▼[B7F]一番下へ▼

B7F

 宿を出る際、部屋の入り口にそっと置かれていた小さな包みが目に入った。
 添えられていた手紙には、「お気をつけて」というメッセージが記されていて。
 宿の世話役の少年の気遣いだろう。包みの中身は昼食らしい、ありがたくいただくことにして、イーグルは樹海に向かう。


 今日からの探索は衛兵隊と協力して行われる。目的は二つ。深都への道筋を確かなものとすることと、その妨害者オランピアの発見だ。
 衛兵隊は何度かオランピアと遭遇しているらしい。だが、そのたび古代魚の群れをけしかけられて酷い目に遭わされているとクジュラは説明した。彼らの実力はお世辞にも高いとは言えない、危機を見つけたら手助けしてやってくれ、と。
 どうやらクジュラは実働隊のうちでも相当高い立場にいるらしい。若いながら野営場から、各隊に的確な指示を送り続けている。
 朝から探索を続けていたクッククローは、日もとっぷり暮れてから、ようよう野営場に戻ってきた。
「はー、疲れた」
 クジュラに今日一日の報告―――特に大きな収穫はなかった―――を終えたのち、用意された天幕にイーグルたちはごそごそと潜り込んだ。そう広くない上に衛兵隊と共用なので、五人で一つの天幕という雑魚寝だ。案の定、ハガネはどこで休んでいるのか分からないので、結局のところ四人だが。
「ちょっとベルオレン。邪魔ですわ、もう少し隅っこに寄ってくださいまし」
「お前こそ場所取りすぎだろ! あと、姉貴とアニキもそこに寝んだぞ」
「あーもう、喧嘩しないの」
「三人が限界だね、コレ」
 天幕をのぞき込んで苦笑いしたイーグルは、頭を引っ込める。
「イーグル?」
「俺は外で寝るよ」
 荷物だけテントの中に入れると、イーグルは焚き火に向かった。


<夢>

「罠でしたね」
 金髪の少年は、珍しく苦々しい口調で呟いた。
 彼が手をつく壁には、隅々まで調べても、隠された道など一切なかったからだ。
 その様子を眺めていた眼鏡の男は巨大な弩を抱え直すように肩を竦めると、こちらを向いた。
「それで、どうする? 若先生」
「オランピアを問いつめたところで、しらを切られるでしょうね」
 “若先生”と呼ばれた占星術士―――カイトは、顎に手を当て思案するような素振りをした。
「―――とりあえず引き返そう。彼女が立っていた辺りまで」
「はいはいはーい、ティティさんせーい!」
 布一切れの装いの少女が、無邪気に手を挙げる。
 先頭に立って歩き出すカイトを追おうとして、金髪の少年が足を押さえてうずくまった。
「アル様、お怪我を……!」
「大丈夫、ですよ、スズラン」
 少年―――アルを気遣うように、鎧の女性スズランがひざまづく。異変に気づいた仲間たちが振り返るも、アルは気丈にかぶりを振った。
「平気です。戻りましょう」
「そう」
 あっさり歩みを再開させたカイトに、スズランが噛みついた。
「待て! せめて手当の時間くらい待ったらどうなんだ!」
「今彼は“平気”だと言った気がしたんだけど?」
 冷淡に返すカイト。スズランはなおも譲らない。
「強がりに決まっているだろう! ……アル様だけじゃない、みんな満身創痍だ、貴様以外な」
 言われて初めて気づいたかのように仲間たちを見渡すと、カイトは肩を竦めた。
「いいよ、休もうか」
「すみません……」
 弱々しい声で謝罪したのはアルだ。
 カイトは最後衛から、敵を殲滅するのが役目だ。彼が攻撃の要だから、仲間たちは彼を作戦の中心として守り、行動する。その分傷つくのは彼らだ。そのことを、カイトは理解している。
 だが仲間だからといって、なれ合うつもりはカイトにはなかった。カイトにはカイトの目的がある。仲間たちもそれぞれ、そうだろう。その目的のためにギルドを組んだ。カイトにとって、ギルドとはそれ以上でも以下の存在でもない。
 足首を包帯で固定させる。アルはスズランに笑顔を向けた。
「ありがとう、スズラン。おかげで楽になりました」
「いいえ」
「あんたはいいのか?」
 応急処置用のキットを差し出してくる眼鏡の男―――サイモンに、スズランはかぶりを振った。
「樹海の中で鎧を脱ぐわけにはいかない。大丈夫だ」
「また言った。“大丈夫”って」
 言葉を続けるカイトを、睨みつけるスズラン。
「―――あとで大丈夫じゃない、なんて言うなよ」
「まあまあ。じゃ、戻ろうぜ」
 誰がどう見ても険悪な二人の間を通過して、サイモンは来た道を親指で指した。

 結局、元立っていた場所にオランピアはいなかった。
「さすがに逃げたか?」
「そのようです」
 警戒しながら周囲を見渡すサイモンとアル。
 スズランが渋面を作った。
「しかし、もう地図が埋まってしまったぞ」
「ここが最終地点ということなのでしょうか?」
「深都はしょせん夢物語だったってことか?」
「そんな……」
 仲間たちの会話をよそに、カイトはオランピアがもたれかかっていた壁に手を添えた。
 ここだけ、他の壁より薄い。
「深都は必ず存在する。ただ隠されているだけだ」
「スズランちゃん、それにしたって行き止まりだぜ」
「もしかしたら、他に隠し通路があるのかもしれません。注意深く探して―――」
 爆発。
 光と轟音が、土煙と共に壁を吹き飛ばした。
 ぱらぱらと降る塵の中、目をまん丸にしている仲間たち。
 壁だった空間に手を差し伸べていたカイトは、展開していた星術器の羽を収めると口を開いた。
「ビンゴ」
「……っから、術式を使う時は一言……!」
「あ、星術使ったから」
「事前に言え!」
 吼えるスズランを無視して、カイトは崩れた壁の向こうを覗き込む。
「迷宮の続きになっているようだね。行こう」
 踏み込んでいくカイト。
 肺腑を絞るような溜息と苦笑いが、その後ろに続いた。



 もう一つのクッククローは、古代魚の巣の罠をくぐり抜けていたようだ。
 オランピアの背後に壁がなく、ただ木が生えていただけだったのはそのせいだろう。カイトの無茶を自嘲するように、ゆっくりと目を開けたイーグルの視界に、炎が宿る。
 焚き火の周りに人の気配はない。いや―――自分の背後に立つ一人を除いて。
「ピア?」
 時計はまだ夜半を指している。ピアノーチェは無言でイーグルの隣に座すと、彼をじっと見つめた。
「……ピア?」
「イーグル様。カナエさんのことは、わたくしたちのせいではありませんわ」
 ずぐりと、ピアノーチェの言葉がイーグルの胸を刺す。
「―――カナエさんとアガタさんが、ご自身たちで決めた道ゆえの結末です。イーグル様が責任を感じる必要はありません」
「俺は……」
「それとも他に、何か不安がおありで?」
 ピアノーチェは、感づいている。
 それが何か分からないまでも、イーグルが抱えているものの存在を。
 イーグルは口を開いていた。
「俺も、彼女と同じなんだ」
「同じ、とは?」
「記憶喪失なんだよ。俺の……場合は、半年くらい前にドンに拾われるまでの記憶が何もない。ドンの話じゃ、俺は海都近場の海域で波間を漂ってたそうだ」
「……初耳、ですわ」
「だろうね。リンや、ベルも知らない……いや、むしろ知っているのはドンだけなのかも」
 記憶喪失であることを、誰かに自分から話したのは、これが初めてだからだ。
 イーグルは笑みを向けた。
「イーグルという名も、彼がくれたんだよ。年齢や経歴も、彼が作ったデタラメだ」
「貴方の記憶は、もしかしてアーモロードで失われた?」
「いや、樹海でさ。確証があるんだ……俺もカナエさんと同じように夢を見る。ただし、樹海の中でだけ」
 冒険しているときだけ、その夢を。
 イーグルがこの迷宮を辿るのは、おそらく二度目なのだ。
「でも、怖いんだ」
 イーグルは膝の上で組んだ手に、力を込めた。
「……記憶を取り戻すのが?」
 イーグルはうなずいた。
「そして、そのときに何が起こるのか」
 カイトたちの冒険が、どのように終わったか。
 それを知ってしまうことが、カナエが記憶を取り戻したムロツミと同じように、クッククローの冒険の終わりにも繋がってしまうような気がして。
 落ちた沈黙を埋めるように、乾いた木がはぜる。
 じっとイーグルの横顔を見つめていたピアノーチェは、ここで目を逸らした。
「……わたくしの母国は、お世辞にも治世がうまくいっているとは言えませんでした」
 ぽつりぽつりと、彼女は言葉を続ける。
「先王が民を省みぬ政治をおこなったのが原因でしたわ。王が代わっても、民の信用は地を這うばかり。それを回復することなど、絶望的なように思われました。しかしそれでも、わたくしたちの王は諦めなかった」
 懐かしさすら瞳に浮かべるように、ピアノーチェは語る。
「彼はわたくしたちにこう教えました。……“道の先にあるものが何か分かっていると思うから、確かめることが恐ろしいと感じるのだ。本当は、前人未踏の地にあるものが何かなど、誰も知らぬはずなのに”と」
 ピアノーチェは優しく微笑み、イーグルを見る。
「―――イーグル様、夢を見ることを恐れないでくださいまし。過去も全てを忘れてしまった今は、誰も知らぬ未来と同じことですわ」
「ピア……」
「それに。今の貴方には、わたくしたちがおりますもの」
 にっこり笑うピアノーチェは、まるで王女のように気高く、自信に満ちあふれている。
 イーグルは笑みを返した。
 いや―――彼女は本物の王女なのだ。
「……それで、王様はどうなったの?」
 ピアノーチェはウインクひとつ、答える。
「まだ努力の途上ですわ。そのひとつとして……彼はきょうだいたちの力を必要としていますの。洗練され、そして“証明された”力を」
「なるほどね」
 イーグルは納得して頷いた。
―――世界樹の迷宮を踏破することが、かの王に役立つ“証明”にならざるしてなんだろう?


 夢を見ることを恐れてはいけない。
 波に身を晒すときのように、徐々に沈んでいく意識。
 深く暗い眠りの底から、代わりに浮かんでくる―――“夢”。
 恐れてはいけない。イーグルは目を開く。
 否、カイトの見ている光景は―――


「っ!」
 もやがかったような視界と、はっきりしない音。
 それがどんどん鮮明になっていく―――“夢”を見るごとに、実際にこの場にいるような感覚はより研ぎ澄まされていくのだが、それに増してもこれは震えを禁じ得ない光景だった。
 ずらと牙の並んだ顎が、こちらの頭蓋を食いちぎらんと、眼前に迫っていた。
「カイト!」
 凛とした騎士の声が空間を裂いた。はっと我を取り戻したカイトは尻餅をつくことで顎―――“深海の殺戮者”の猛攻をかわす。起動させていた星術器を、その巨躯を追うように掲げ、炎の星術を放つ。
 絡みつく火炎に、“深海の殺戮者”の悲鳴が上がる。暴れるように激しく全身をばたつかせるそれに、カイトは追い打ちのように星術を叩きこんだ。
 いけるか―――そう予感した刹那、首根っこを引かれる。
「何をしている、逃げるぞ!」
 スズランだ。気絶した三人をそれぞれ、もう片方の手で支えている。
 その腕力に驚く間もなく、カイトは吼える“深海の殺戮者”に目をやった。スズランの手を己から外して立ちあがり、再度星術器を確認する。
 いける。
「おい!」
「三人を連れて、先にさがってください」
「お前―――」
「早く!」
 地面を転がり、自らにまとわりつく炎を鎮めた“深海の殺戮者”だが、なお燻る火気と、ぼろりと崩れ落ちる焦げ付いた表皮が物語るのは―――その満身創痍具合だ。しかしそれはこちらも同じことで、五人のうち三人が気絶し戦闘不能の状態。
 ここで倒しきらねば、カイトは気絶で済まないだろう。
 スズランは三人を引きずり、扉の傍まで退避する。カイトはそれを一瞥すると、星術器に意識を集中させた。エーテルが圧縮され、掌の光が消える。全ての力が星術器に込められ、循環し、術式を成す。
 その間にも“深海の殺戮者”は、よろめきつつ体勢を整えだしていた。
「カイト!」
 鋭い叫びと共に、スズランが駆けてくるのが見えた。
 盾を突きだそうとする彼女の動線を妨害するようにカイトは立ちはだかる。
「何を―――」
 “深海の殺戮者”は間近に迫っていた。もう間に合わない。カイトは広範囲の術式の展開を諦め、賭けに出た。覆う守りなど何もない右腕を、肉食獣の牙並ぶ口腔に勢いよく突っ込んだのだ。
 肩越しのスズランの顔が、驚愕にひきつる。
 器にため込んだ力を、右手のひらを媒介に放出する。
 熱と光―――そして音と炎が、“深海の殺戮者”とカイトの狭間で爆発した。かろうじて自分を守る分の余力を残していたおかげで腕はもげなかったものの、爆発の余波でカイトはもんどりうって吹き飛んだ。
 爆風に己を庇い、砂煙のうちで呆然としていたスズランは、カイトがひっくり返っているのを見て目をぱちくりとする。一方の“深海の殺戮者”を見やり―――息を呑んだ。
 声もないだろう、上顎が吹き飛び、絶命しているのを疑うべくもない様を目の当たりにすれば。
 爆風に喉をやられたカイトは、カラカラに乾いたそれに咳込みつつも立ち上が―――ろうとして、ぐいと胸元をひっ掴まれた。おかげでまた咳が出たが、相手はそれを気にしない様子で、睨みつけてくる。
「何故あんな真似をした!?」
「あん、な、真似?」
 怒りは伝わってきて、カイトは痛みのせいでなく眉根を寄せる。
 カイトの胸ぐらを揺さぶって、スズランは答えた。
「私の援護を妨害して、無理矢理攻撃に出たな。どんな術だかは知らないが、今ので消し飛んだのがお前の方だったら、どうするつもりだった!」
「星術発動の際、術者へのフィードバックは大体打ち消せるんです。そもそも、スズランさんが僕とアレの間にいたら、あんな星術は放てません。僕はとにかく、あなたは消し飛びますからね」
「私はファランクスだ!」
 首ががくがく揺れる。スズランは力が強い。
「―――私の仕事は貴様等を守ることだ。どうしてこう貴様は前に出たがる!?」
「他の三人が戦闘不能なんだから仕方ないでしょう。あなたは彼らの命を守ることを、僕は敵を殲滅することを担当した。役割分担です」
「ぬかせ」
 ぽいとカイトを投げ出し、スズランは三人を避難させている方向へと歩きだした。
 彼女の不機嫌の理由が、相変わらずカイトには分からない―――カイトはいつでも合理的だ。感情に流されて一喜一憂する彼女のことは、解釈不能に他ならない。
 思ったよりダメージが大きくなかなか立ち上がれないカイトの元に、スズランは歩いて戻ってきた。盾の上に気絶した三人を並べて。見上げれば、箱が降ってくる。
 応急キットだ。
「もう一度言うぞ。私の仕事は貴様等“全員”を守ることだ。だがそれは私一人で完結する仕事じゃない。守られる“協力”をしろ」
「だったら、あなたも僕に協力してください」
 意趣返しのつもりの一言だったが、スズランは涼しい顔で応じた。
「するさ。おまえが、“自分”と“それ以外”という分け方をやめるならな」
 カイトは苦々しく肩を竦める。
 侮っていたが、彼女はなかなか鋭いらしい。
「……三人を運ぶの、手伝いましょうか」
「必要ない。地図の確認を優先しろ」
「少し先に野営場がありました。そこで休憩しましょう」
(街に戻らないのか?)
 イーグルの頭に浮かんだ疑問に答えるかのように、カイトはひとりごちた。
「なるべく海都に顔を出したくはないしね」
「……オランピアのことも、このまま報告しないつもりか?」
 呟きを拾ったスズランに、カイトは答える。
「以前にも言いましたが、僕はアーモロードの執政者たちを信用していません。彼らに深都の手がかりの一部でも知れたら、深都を見つけたところで僕らの手元には何も残りませんよ。そして彼らに情報を漏らさぬためには、誰にも接触しないのが一番いい」
「それは貴様自身の目的のためか」
「そうです」
 スズランはそっと、瞼を閉じたままのアルの金髪を撫でた。
「―――あなただって、アルが何より大事でしょう? それと同じですよ」
「……そうだな」
「まあ、僕だって“仲間”を軽んじるつもりはありません。命が危ないなら街に戻る選択もやむなしですが」
 ここでスズランが目を丸くしたので、カイトは首を傾ぐ。不愉快げに、
「何か?」
「いや……おまえの口から“仲間”という単語が出るとは思わなくて」
 スズラン自身に皮肉のつもりはなかったろうが、カイトは目元をひきつらせて応じる。
「聞き慣れない言葉でしたか? 僕が使うと“クッククローの五人”を指すんですよ。覚えておいてください」
 さすがにバカにされていると気づいた様子でスズランは顔を歪めたが、言い合うことの不毛さを悟っているせいか、何も言い返してはこなかった。
「……いい加減、手当ては済んだか?」
「待ってください、包帯を……」
 負傷部分が腕なので、片手で処置しなければならない。見かねたようにため息を吐いて、スズランがカイトの脇に屈みこんだ。白い包帯を彼女が手に取ったので、カイトはガラになく慌てる。
「自分でやります」
「遠慮なぞいらん。片腕でやるのが難しいんだろう?」
「いや、スズランさんにやらせた方が後でひと手間食うので」
「どういう意味だ」
 案の定不器用に巻かれ始めた包帯に、カイトは頭を抱える―――


 そして、鼻先を水滴が掠めた。
 どこから落ちたとも知れない朝露のおかげで、イーグルは眠っていたことに気づいた。
 眼前の焚火は朝を迎えた今も消えてはいない。わずかに前のめりの半身を起こそうとして、肩に寄り掛かる重みを感じる。見れば、ピアノーチェがもたれかかるようにして、寝息を立てていた。
「おはようでござる」
「わっ」
 正面、炎の向こうに銀髪おかっぱの少年が座し、こちらを見つめていた。
 イーグルは愛想笑いを浮かべる。
「おはよう……あのさ、変なこと訊くけど。ハガネはいつ寝ているの?」
「休んでいるところを人に見つからないというのが、シノビの鉄則でござるよ」
「そ、そうなんだ……」
「ご心配には及ばぬでござる。それより……イーグルどのこそ疲れは取れたでござるか。今晩こそ、夢を見ずに」
 ハガネの言葉に、イーグルは息を呑んだ。
 火の爆ぜる音のあと、ハガネがやや眉を八の字に下げる。
「あー……盗み聞きするつもりはなかったのでござるが」
 昨晩のピアノーチェとの話のことだ。イーグルは苦笑いで首を横に振った。
「いや、いいよ。聞かれて困るほどのことでもないし……夢は見た、ね。ただ、随分それ自体に慣れてきてしまったみたいだ」
 夢の中の自分が、カイトであることに。
 しかし、浮かぶビジョンは相変わらず他人事だ。イーグルは傍観者として、カイトの視点に寄り添っているに過ぎない。イーグルが感じることはカイトの行動に反映されないし、彼の思考は何となく伝わってくるものの、物語を読んでいるような感動しか得られない。
 この夢が過去、本当にあったことなのは間違いないにしても、これが本当にイーグルの過去であるのかは、まだ定かではないのだ。
「夢の終わりを見たいとは思うよ」
 だから、確かめに行かねばならない。
 イーグルはハガネを見据えて―――にっと笑った。
「俺たちの冒険も、進めなきゃならないしね」
「そうで……ござるな」
 だが、ハガネは少し表情を曇らせた。
「ピアのことが心配?」
 柔らかい金髪が首筋をくすぐる。
 まだ、お姫様は目を覚ます素振りを見せないでいる。ハガネは彼女を一瞥すると、力ない笑みを浮かべた。
「姫様はお強い方でござる。某が心配などせずとも、立派にご自分の道を決め、お進みになるでござるよ」
 だが、どこか彼は不安げに見える。
 彼が案じているのは主君の行く末ではなく、もしかすると、自分自身の。
―――だが、それを確かめる間もなく、金色の睫毛が揺れた。イーグルの肩から身を起こすピアノーチェの青瞳には、ハガネはいつもどおり頼りない従者に映っただろう。
「おはようございます……いい朝ですわね」
「姫様、よくお休みで」
「ハガネ、わたくし顔を洗いたいですわ」
「ハッ、水をお持ちいたすでござる」
「それと、あれにこれに……」
 次々と指示―――というよりワガママを出すピアノーチェに、ハガネはてきぱきと応じていく。慣れているのだろう。
 やがてリンとベルオレンが起き出してくる。
 今ある仲間たちを見ながら、イーグルは決意する。何があっても、彼らはかけがえない“イーグルの仲間”に他ならない。
 何を思いだしても、それだけは忘れまい―――と。

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B8F

 クッククローの探索は、着実に進んでいる。
 冒険者たちに対し高い能力を有しているとは言えない衛兵隊だが、彼らの決死の協力はクッククローの冒険に大いに役立っていた。彼らを束ねるクジュラや、その長である元老院も友好的だ。
 イーグルは、夢の中でのカイトの言葉の真意を測りかねている―――“アーモロードの為政者は信用できない”と。
 もとより、イーグルの目的はカイトのように深都を見つけることではない。
 元老院が何を考えていても、彼は己の記憶を求めて迷宮を潜るだけだ。クッククローの先駆者は数多くおれど、地下八階にまでたどり着いた者たちはいないとギルド長は言っていた。
 だがイーグルは知っている。
 ここに既に足を運んだ、“クッククロー”が存在することを。
「なんか、同じところに戻ってきてねえ?」
 進んだ道、眼前に現れた横道を指さして、ベルオレンがそう言った。
 地図を確認するハガネが、いつもの困り顔で応じる。
「あの道は、我々が来た道のようでござるな。ぐるりと一周、円を描くように回ったようでござる」
「なんだか、小部屋くらいはありそうだね」
 今歩いてきた円上の道の中央、ぽっかりとあいた地図の空間を、リンが指摘する。
「ハガネ、道を見落としてはいませんわね?」
「め、滅相もございません、姫様! 道どころか隙間もない、壁がずっと続いていたでござるよ!」
 ピアノーチェの膨れ面に、ハガネがぶんぶんとかぶりを振る。
 イーグルが思い出すにも、ハガネの言うとおりだ。それにもし謎の空間へ入り込む道があったのなら、そう長い道でもないのだから誰かが気づいていただろう。
「でも、抜け道があるのかもしれないよ」 
 地下七階での夢で、カイトがオランピアが立っていたあたりの壁を破壊して、先に進んでいたことを思い出し、イーグルは呟いた。
 が、呟いた途端仲間たちの注目が集まったことに気づき、狼狽える。
「―――ええと……もしかして。ひょっとすると」
 言い訳のように付け加える彼に、腕組みの姿勢でリンが嘆息する。
「まあ、イーグルの勘はよく当たるしねえ」
 ピアノーチェがうんうんと頷く。
「イーグル様が仰るなら、間違いないですわ」
「そ、そんな一点の曇りもなく信じきられても」
「アニキ自身は、いっつも自信なさそうなのにな~」
 ベルオレンがからかうように言う。
 しかし仲間たちの反応をよそに、ハガネはぼそりと呟いた。
「一応壁を叩きながら進んだのでござるが、何も変わった様子はなかったでござるよ……」
「えっ」
 ということは、隠された道などあるはずがない。
 イーグルはあわてて案を撤回しようとしたが、女性二人は既に、もう一周、に向けて歩き始めていた。
「ふ、二人とも! ハガネが―――」
「聞こえてるよ! でも、どうせもう他に進める道もないだろ?」
「叩いてだめなら撫でてみろ、ですわ」
 振り返りもせず、リンとピアノーチェは口々に応じた。
「―――ほらハガネ、行きますわよ!」
「は、はい只今っ」
 ぱたぱたと追いかけていくハガネ。
 遠ざかる三人に仕方なくついていきながら、ベルオレンが頬をひきつらせる。
「なんか、こういうときは気が合うのな、あの二人」
 イーグルも苦笑しながら頷くしかなかった。


「やっぱり何もなさそうだな……」
 珊瑚と岩がもつれあう壁にもたれかかり、ベルオレンが肩を竦める。
「だから言ったでござるのに」
 拗ねたようにハガネが指先を弄ぶ。申し訳なくなってきて、イーグルは肩を落とす彼に手を伸ばした。
「その、変なことを言って、ごめ―――」
「危ない!」
 ハガネはかっと目を見開くと、イーグルを突き飛ばした。
 あいた空間を通過していく弾丸―――否、水噴射。敵の奇襲のようだ。
 “ようだ”というのも、見えなかったからだ。
 バランスを崩したイーグルはそのまま後ろの壁に、背中から倒れ込んだのである。
 もろい岩壁は土埃を上げて崩れ、地面で思い切り背を打ったイーグルの悲鳴を飲み込んだ。
 仲間たちは、彼の呻きなど露とも気づかぬ様子で戦闘に集中しているらしい。イーグルは痛みをこらえながら立ち上がる―――と、壁が崩れたすぐ側で、目を真ん丸にした女がこちらを向いて息を呑んでいるのを見つけた。
 オランピアだ。
「わっ!」
「っ何故、あなたがここに……」
 一瞬の驚愕―――オランピアは表情を引き締めると、打って変わって感情を感じさせない、冷たい視線をイーグルの背後に向けた。
「イーグルどの、大丈夫でござるか!?」
「アニキ!」
 イーグルが破壊した壁の穴から、戦闘を終えた仲間たちが次々と姿を現していた。
 オランピアは彼らを見つめていた目を伏せると、小さく独りごつ。
「そう。そういうこと……」
 イーグルは目を瞬かせた。
 彼の背後で息を飲む仲間たちを再び見据え、オランピアは淡白に告げた。
「……命、惜しくば帰って。無益な死は望まない」
「罠にはめて殺そうとしたくせに、よく言うぜ」
「深都を目指すことは死を意味する」
 ベルオレンにそう叩きつけるように返すと、オランピアはかぶりを振った。
「あなたたちは忠告を無視し、ここまできてしまった。こうなれば、私が……」
 対峙するオランピアと、クッククロー。
 にわかに高まる緊張。
 まとう青い外套に手をかけたオランピアだが、その動きがぴたりと止まった。
 そして―――空気が変わる。
「さがれ、深王の忠実な僕よ」
「なんだっ!?」
 突然響いた声に、ベルオレンが耳をふさぐ。
 だがこの、見渡しても姿なき声は、まるで直接頭に言葉を送り込むように続いた。
「汝の役目はそれまでだ。……そして小さき者よ、何故汝等は深都を目指すか?」
「その前にあなたはどなたですの」
 虚空を見上げる形で、ピアノーチェは続けた。
「姿も現さず突然問いを投げかけるとは、無礼でしょう」
「ここは我が城。挨拶もなしに我が城を進入する汝等こそ、無礼ではあるまいか?」
「む。……そんなこと、知ったこっちゃありませんわ。あなたの城であるなら、入り口にそう書いておきなさいな」
「どういう理屈だよ……」
 ふんぞり返るピアノーチェに、あきれたように呟くベルオレン。
「何故、深都を目指すことをやめさせようとするんだい?」
 見えぬ“声”に訴えかけるように目を細め、リンが言った。
「―――冒険者の命を、奪ってまで」
「秘するには秘するだけの理由が存在する。だがそれを、今ここで汝等に打ち明けるわけにはいかぬ」
 波の満ちるようなため息が響く。
 そしてそれが引いたのち、オランピアにもっとも近い場所にいたイーグルの眼前に、美しい青い珠が現れた。
「うわっ……と、とと」
 浮かぶ力を失い落下する珠を、イーグルは反射的に受け止める。
 オランピアはそれを無機質に眺め、やがて頭上を仰いだ。
「ケトス、約定は―――」
「承知の上だ。……小さき者よ、汝等は問いに答えるつもりがないのであろう。それの珠はこの水林、ひいては汝等の行く手を阻む潮の流れを操る海珠。それを用いて迷宮を抜け、我が元を訪れるがよい」
 澄んだ声はおおらかに続ける。
「我が―――海王ケトスが汝等を歓迎しよう。我を乗り越えしとき、汝等は深都を見つけることになろう」
 声の気配が消える。
 呆然としていたクッククローは、がさりという音に我を取り戻す。
 オランピアが、背後の珊瑚林に片手をかけていた。
「……さよならだ、冒険者たち。もう二度と会うこともないだろう」
「あっ、逃―――」
 オランピアは踵を返すと、野鹿のような速度で水林の果てへ消えていった。凹凸激しい地面と、入り組んだ珊瑚の林をくぐり抜けていった様は、人間業とは思えぬほどだ。
「あれは……ちっと、オレでも追いかけられねえや」
 やっとのことで呆然と呟くベルオレンに、ハガネが頷く。
「某もでござる。……ところで、イーグルどの。その“海珠”とやらは」
「うん……」
 両手のひらで包み込める大きさの珠を見下ろし、イーグルは応じる。
「何か特別な力があるようには見えないけど」
「とりあえず元老院に、報告しに戻ろうぜ」
 イーグルが破壊した青い岩壁を振り返り、ベルオレンが告げる。
「あら、珍しいですわね。“早速使ってみようぜ”とでも仰るかと思いましたわ」
「似てない声マネすんじゃねーよ。……別に、そろそろ夜だろ。どっかの誰かさんどもに何周も同じ道を回らされて、腹も減ったし」
「まあ」
 と言いながらリンを睨むピアノーチェ。ベルオレンは吼えた。
「おめーもだろっ!」
「まあまあ。とりあえず収穫は十分ござったでござるし、姫様……」
「ええ」
 アリアドネの糸を取り出しながら、ピアノーチェはイーグルの腕を取った。
 もう片方の腕でぐっと握り拳を作りながら、
「やはり、イーグル様は正しかったですわね!」
「え……いや、たまたまだと思う、けど……」
 イーグルはぽつりと呟いたが、姫様の耳には届いていないらしい。
「あのオランピアって女、もう現れないつもりなのかね」
 オランピアが去っていった方向を見つめるリン。
「リン?」
「……何でもないよ」
 軽く頭を振って、彼女が転移範囲に入ったので、ピアノーチェは糸を紐解いた。


「なー、アニキ」
「うん?」
 街に戻るなり組み付いてきたベルオレンが、イーグルの耳元で続けた。
「たまにはオレとデートしてくれよ」
「な、何言ってんだ」
 ベルオレンはにいと笑うと、イーグルの背中をばしばしと叩いた。
「アニキ純情すぎるぜ! ……いやさ、どうも湿気たところにずっといるせいか、剣の切れ味が良くないんだよ。何だか大物が待ち構えている気配もするし、ちょっとネイピア商会に行きたいなと思ってさ」
「ああ、何。そういうこと」
「そんなわけで姉貴に姫さん! アニキをちょっと借りていくぜ!」
 後ろを振り返ってそう叫ぶと、ベルオレンはイーグルの背中を押して駆け出した。
「わっ、ちょっ! 押すなって!!」
「アニキも何か買う物あるかい?」
「んー……メディカやテリアカの備蓄も十分あるってリンが言ってたしなあ」
「そうじゃなくて、個人的に買いたいものとかだよ」
「個人的に……?」
 ネイピア商会までの道をベルオレンと並んで歩きながら、イーグルは小首を傾いだ。
 坂道の上から、水平線の向こうに沈む夕日が見える。橙に染まる海、あの下―――否、あの中から今帰ってきたのだと思うと、不思議な気持ちだ。
 その視界に、突然あきれ顔のベルオレンが入ってくる。
「うわっ」
「はー……ったくもー、ホントにアニキは自分のことどうでもいいっつうか、自分がないっつーか……」
「そ、そんなことないよ」
 条件反射のようにそう否定するも、ベルオレンの言葉に納得している自分もいた。
 おおむね、流されやすい性格なのだろう、イーグルは。
 カイトのように自信に満ち、堂々としたタイプとは正反対だ。
「何しょげてんだよ、冗談だって!」
 黙ってしまったイーグルに活を入れるように、手痛い一撃が背中をえぐった。


「こんちはー……」
「おお、お主たちか」
 ネイピア商会を覗き込めば、東方風の衣装を身にまとった店主が袖を振った。目を細めた笑みがその顔に浮かぶ。
「良い良い、今日も生きて帰ってきたの」
「あっ、心配してくれてたの?」
 嬉しげなベルオレンに、店主の笑みが深くなる。
「お主たち常連様は、特別じゃからの」
「それって金払いが良いってだけじゃねーの、ちぇっ」
 唇を尖らせる赤毛の少年に、イーグルは苦笑いする。
「して、今日は何の用じゃ」
「あ、そうそう。オレの剣なんだけどさあ―――」
 話し込む店主とベルオレンを横目に、手持ちぶさたなイーグルは、店の中を物色し始める。
 イーグルの力では到底持ち上がらないであろう分厚い槌や盾から、何語で書かれているのかも分からない骨董品のように古びた本まで―――鉄と土と埃の臭いが、海を渡ってきた種々のカンテラの橙灯の下で香っていた。名の通り海洋都市であるせいか、アーモロードの店舗には渡来の異文化を感じさせる品々が多く並ぶ。広い世界に存在する、様々な文化と歴史の重さが、それらを透かして見えるかのようだ。
 ネイピア商会には勿論武具だけではなく、冒険に役立つ品もところ狭しと並べられている。
 ふと、メディカやネクタルが納められた薬棚の前でイーグルは立ち止まった。
「気になったかの?」
 振り返れば、ベルオレンの剣の刃研ぎを発注していた店主の笑みが、イーグルを向いていた。
「―――特注の火薬じゃ。お主は銃を使うのであろ? ならば気になるじゃろうな」
「特注の火薬?」
「ズバリ、水気に強い火薬じゃ」
「へえ……」
「水林の探索が本格化しておると聞いてな。急遽取り寄せたのじゃ。水中でも弾丸の発射が可能らしい」
「威力は?」
「問題ない。普通の銃でも使えるが、水中で使う場合は連射は出来ぬのでな。使いたいなら用心のため、銃は二丁持っておくのが良かろう」
「何だそれ。一発限りってことじゃん」
「水中では、じゃ。それにその一発で、命をとりとめることも十分ありうる」
 肩を竦め、店主はイーグルを見た。
「―――どうじゃ? まあ水中で使わずとも、湿気ぬ火薬というだけで、水林の探索には役に立つと思うがの」
「そうだね」
 現状でも普通の火薬が使えないわけではないが、場所は海の底だ。樹海の中では、いろいろな可能性を考えるべきだろう。
「アニキ、よーく考えた方がいいぜ? 自分の買い物するときは特にさ!」
「何じゃ、我の店が粗悪品を売っているような口振りではないか」
「そ、そんなことねえって」
 腰に手を当てる店主に、かぶりを振るベルオレン。
―――彼の剣が磨かれて返ってくるまでの半時間、たっぷりの長考の末、イーグルはその火薬を購入することに決めたのだった。

「よくぞ辿り着いた、小さき者よ」
 洞窟の出口のような、広くあいた空間に響く声。
 広間のようなその場所に辿り着いたクッククローは、注意深くあたりを見渡しながら歩を進める。
 湿った砂浜のような地面を足が食む。とても静かで、昏い。唯一薄く青白い光が、天高い頭上―――否、遙か彼方の水面から雲越しの陽光のように淡く、差し込んで来ている。
 そしてそれが照らし出す、砂浜に横たわる、白い巨躯。
 珊瑚を王冠のように纏う美しい鯨の赤い目は、こちらを捉えていた。
「今一度尋ねよう」
 ごぼりと、鯨は泡を吐き出した。
 まるで錯覚のようだ。この広い空間のどこまでが人の領域でどこからが海なのかは計りかねた。
「汝等は何故深都を目指すか?」
「僕らの目的は一意じゃない」
 五人を代表するかのように、長髪の青年が進み出た。
「―――だが、共通しているただ一つは……それは、地上の何処にも存在しないものを求めているということだ」
「それは深都にあるものと?」
「それは分からない。行ってみないことには」
「ごたくはいい」
 ずいと、鎧姿の女が青年に並んだ。
「―――そこを通してもらおう」
 向けた槍の切っ先は、白い鯨に。
 鯨は、静かにそれを見据えている。


 そして今。
「汝等は何故深都を目指すか?」
 昨晩の夢と紛うことなく同じ白鯨が、同じ空間で―――イーグルたちと対峙している。
 日毎鮮明になっていく夢と、幻想的な現実の風景。
 二つが混じりあうような不思議な心地で、イーグルは進み出た。
 夢の中でカイトがそうしたように。
「……かつて、あなたが同じ問いを投げかけた冒険者たちは、どうなった?」
 ベルオレンやリンが目を丸くする。
 空間が震えるように、砂浜を擦る音が響く。鯨は泡を吐いた。
「それが汝等の理由か?」
 ピアノーチェが返答した。
「多くの犠牲をなしてまで、海都が深都を望む理由をわたくしたちは存じません。けれど、そうした犠牲をなすだけの価値があるものなのかどうかは、確かめたい。ただそれだけですわ」
「……ならば、確かめるがよい。ただし」
 白鯨の巨体が、ゆっくりと浮き上がる。
 まるで水中にいるかのように―――身体をくねらせた衝撃が、空気をびりびりと揺らせた。
 鯨は続けた。
「我を倒すことが出来れば、だ!」
 咆哮。
 そして、戦いが始まった。


「っ!」
 鯨が放った冷気が、瞬く間に己の具足と、砂浜を凍り付かせる。慌ててそれを砕くピアノーチェに、イーグルは駆けつけた。
「大丈夫!?」
「問題、ありま、せん、わっ」
 剣や銃底で氷を砕く間にも、白鯨―――海王ケトスがベルオレンやハガネの猛攻をかいくぐる様が見えていた。
「図体のわりに、すばしっこい魚だぜ!」
「鯨は哺乳類でござるよ」
「砕けた!」
 ばらばらになった氷から足を引き抜き、ピアノーチェは安堵の息をもらす。
「ありがとうございます、イーグル様」
 しかし彼女ははっと顔色を変えると、仲間に向かって大声を張り上げた。
「みなさま、耳を塞いでくださいまし!」
「えっ?」
 一番彼女のそばにいたにも関わらず、イーグルはその言葉を聞き漏らした。
 刹那、奇妙な音色が耳を突き抜ける。
「うわっ!?」
 脳を揺さぶられるような調べ―――思考能力を奪われ、まるで眠りに吸い込まれるようにイーグルは膝をつく。
「イーグル様!」
「おい、なんか……変だぞ」
 足元に落ちる影がゆらゆらと揺れている。耳を庇いながらベルオレンは頭上を見上げた―――揺れているのは光の方。否、海そのものが。
 海と、人の領域との境界線―――空気を守る不思議な膜が、鯨の放つ超音波で震動しているのだ。
「まさか……」
 だが、揺れは静かに収まっていく。代わりに、ケトスの姿を隠すような霧めいた潮が辺りに満ち始めた。
 完全にお互いの姿が見えなくなるまえに、五人は集合する。
「イーグル、大丈夫かい」
「う、うん……」
「長期戦は不利ですわね」
 白い視界に、声だけが行き交う。
 時折、地面を叩くような衝撃が響いた。
「つっても、こうちょこまかと逃げられたんじゃ……」
「わたくしに考えがあります」
 敢然と告げるピアノーチェ。
 凛とした声が、作戦を説明する。


 静けさを湛える霧の海の中で、イーグルのすぐ隣に立つベルオレンが苦笑いを浮かべた。
 ケトスの姿は見えないどころか、物音ひとつない。まるでじっと、こちらの動きを窺っているかのようだ。
 しかしそれはこちらも同様だ。膠着状態が続いている。
「小さき者よ」
 ケトスの声だけがどこからか響く。
「汝等は弱くはない。我の元まで辿り着いただけのことはある……だが、我には勝てぬ」
「逃げてばっかのやつがよく言―――」
 イーグルはそっとベルオレンの口を手で塞いだ。ケトスに聞こえれば、作戦は台無しだ。
 ケトスの位置が分からなければ、ケトスが動くのを息をひそめて待つ。それがピアノーチェの“考え”だった。長期戦が不利なのは勿論、ケトス自身はこちらの位置を知っている可能性は高い。だが、五人は互いに背を向けあって、耐えるように白霧の先を睨み付けていた。
「いたずらに命を奪うことは好まぬ。ここより立ち去れ」
 それは出来ない。
 声に出して否定することは出来ないが、その強い気持ちは腹の底で燻っている。
―――そして霧は、晴れるものだ。
 潮の香が、濃霧が徐々に薄らいでいく。
「いたでござる!」
 完全に晴れ切る前に、ハガネが指した上空から、ケトスが飛来する。
「来るぞ!」
 押しつぶさんと迫る巨躯を回り込むように五人はちりぢりに退避する。地響きと同時に、白い砂が飛び散った。
「ぐっ」
 いきおいイーグルは尻餅をついたが、ケトスも腹を地に打ち付けたばかりですぐには動けない。千載一遇の好機に、仲間たちがケトスに向かう。イーグルはよろけつつ立ち上がり、開いた視界を見渡した。
 衝撃のせいか、先より激しく海との境界線が揺れている。
「うおおおおっ」
 ケトスが浮き上がろうともがいた。なめらかな表皮から滑落しまいと、ベルオレンが夢中で剣を立てたのが見えた。
 咆哮のような悲鳴。
 切っ先が直撃したのは、偶然にも噴気孔だった。
「これでっ……」
 苦しみに激しく身体をねじる白鯨に、渾身の力を込めてベルオレンは食い下がる。空中に浮かぶケトスは、尾を振り上げた―――叩きつけたのは、海との境界線。
 地面までもが、地震のように揺れる。
「ベル!」
「うわああああっ」
 振り落とされたベルオレンを、間一髪ハガネが下敷きになるように受け止める。
 ケトスの超音波が、間髪入れずに空間を揺るがした。轟音と振動で身動きがとれない。
 腹の底から響くような低い声が、頭の内側に響いた。
「終わりだ」
 風船が割れるような破裂音。
 境界線が、ついに破れたのだ。
「―――っ!」
 仲間を呼ぶ声も、悲鳴すら上げることなく、成す術も、なく。
 無慈悲なほどの圧力を伴って、海はイーグルたちを飲み込んだ。


 蒼い、世界。
 上下も左右もない。ただ沈んでいく―――いや、沈んではいない。
 ただし、今回は、浮かんでもいない。
 イーグルは徐々に意識を覚醒させていた。死んでいない。不思議な膜が破られて、水中に叩きこまれて息が出来ないのは間違いないが、波に飲まれる瞬間、反射的に息を詰めて身を守ったらしかった。
 海を背景にした白鯨が、ぐるぐると回る視界の隅に一瞬映る。膜は完全には破られていない。大量に押し寄せた水は確かにイーグルたちを飲み込んだが、境界線は回復しつつある。
 だが水を得た鯨は、先ほどまでを上回る速度で、イーグルに迫ってくる。
 イーグルは銃に手を添えた。ネイピア商会で手に入れた銃弾に、この厚い水の壁を乗り越えられる威力があるかは分からない。
 だが、潮の流れに逆らわぬまま、銃を構えたイーグルはケトスに向かって引き金を引いた。
 至近距離で放たれた弾丸は、ケトスの右目を直撃する。
 仰け反り、ケトスは身を翻して下方に逃げる。同時にイーグルは気付いた。その泳ぐ軌跡を追うように、蒼い海にけして少なくはない血の筋が走っていたことに。
 波が引いていく。上部に復活した空気の層に、イーグルは水を蹴ってあがっていく。
 途中見つけたピアノーチェの身体を捕まえて、同時に水面に顔を出した。
「ぶはっ……ぴ、ピア、しっかり」
「ほ、ほかのみなさんは……」
 みるみるうちに―――どこに水が吸い込まれているかも分からないが―――海が消えていき、元通り膜に守られた空気の層が満ちていく。姿を現した砂浜に足をつき、周りを見渡せば、ベルオレンたち三人の姿も確認できた。皆ずぶ濡れで膝をついている者もいるようながら、なんとか意識はあるようだ。
「ケトスは……」
 鯨はその巨躯を砂の上に寝かせ、目を閉じていた。武器を携えて近づいても、横たわったままぴくりとも動かない。
 白い砂が赤黒く染まっていく。ゆるやかに上下する腹も、少しずつ萎んでいっているようにすら見える。
「小さき……いや、大きな者たちよ、見事だ……」
 海王の赤い目が、弱々しく瞬いた。
「―――もはや我が汝等を止める手だてはない……深都へ行け。深都の王に会え」
「深都の……王?」
「そう……そして、己が目で真実を確かめるがよい……」
 ケトスが横たわる背後には、先に進むための洞窟への入り口が見えた。
 この先に、深都があるのだ。
 息をのむ五人をよそに、ケトスは譫言のように呟く。
「王よ、我は約定を守れなかった……願わくば、この者たちが、深王の助けとならんこと、を」
 鯨は大きく溜息をつき、そして動かなくなった。
 落ちた静寂に、ぽつりとベルオレンが呟く。
「……行こーぜ」
 あまたの犠牲を払い、ついに切り開いた深都への道に、五人は歩を進める。



 長い長い階段の先に見えた光景。
 それは―――
「アーモロード?」
 まるで海に浮かぶ孤島のように、砂の道の先に緑の町並みがたたずんでいる。
 古びた白い外壁、街の中心にそびえる巨大な―――世界樹の幹とその上に伸びた枝葉。そこから、街を覆うように包む球皮のような空気膜と、その向こうに広がる、暗闇に沈む海中の光景さえなければ、アーモロードとうり二つの光景が目の前に鎮座している。
 息を飲み、誰も二の句を継げずに立ち尽くしているクッククロー。
 その一方で、街から歩いてくる影があった。
 水色のコートを身にまとう少女―――オランピアだ。
「あなたたちがここにいるということは、ケトスは敗れたか……」
 悼むように一瞬瞼を伏せ、しかしすぐいつもどおり感情のこもらない冷たい瞳を上げると、オランピアは告げた。
「ついにここに来てしまったか。ここは……この深都こそが、あなたたちが目指した海底に沈む幻の都市」
「存在していたのですわね」
 オランピアはうなずきもせず、続けた。
「深都を治める王は仰った。あなたたちの良心にすがり、頼みたいことがあると」
「ここまで冒険者をボロカスにしておいて、頼みも何もあったもんじゃねーだろ」
「勘違いしないで」
 ベルオレンの言葉に、ぴしゃりとオランピアは告げた。
「この深都の中で、疲れきったあなたたちを闇に葬るなどたやすいこと……深都ではそうすべきという声も出た。あなたたちの良心を信じるというのは、深王の温情だ」
「ハッ、ずいぶんお優しいこって」
「やめな、ベル。……つまりなんだい、あたしらを街に入れる気は、ないってことかい?」
 リンの質問を、オランピアは首肯する。
 そして、己の外套をはぎ取った。
「見るがいい、これが深都の隠す秘密の一つ」
 アヒャ、とかベルオレンが変な声を上げて両手で目を覆ったが、次の瞬間彼は刮目した。それに目を奪われたのは彼だけではない。クッククローの誰もが、驚きに刹那の呼吸を見失う。
「―――私は人ではないのだ」
 それは、まるで骨のような体躯だった。
 人間が持つような、肉の柔らかさや暖かみはどこにもない。金属的な硬質な外骨格が、本来人の肉があるべき全身を形作っていた。それだけではない。腕や脚に装着された無骨な鎧めいた武装が、オランピアそのものをまるで兵器のような錯覚に陥らせる。
 恐ろしいまでに美しく整った人形の顔が、イーグルたちを見据えていた。
「あなたたちがこれを見て、何を感じるかは勝手。だけど深都が海都、ひいては世界すべてのために存在し、秘され隠されてきたことは事実だ」
「世界のため?」
「……これ以上のことを、あなたたちが知る必要はない」
 白い砂の上に落ちた外套を拾い上げると、オランピアは続けた。
「あなたたちには、深都のこと、この私のこと……階段を下りここで見たものすべてを他言しないでもらいたい。それが、我が主の望み」
「んなっ……」
「ここまで来て、何も見なかったことにして、帰れってこと!?」
「そうだ。それが我が主の望み」
 同じ言葉を、全く同じ調子で繰り返すオランピア。何故だか不気味さを感じた。
 いきり立ちそうになるベルオレンを、ピアノーチェが制する。
「分かりましたわ」
「姫様?」
「……海底都市などというものはなかった。階段を降りた先には、何もない、ただ空間だけが広がっていた。そういうことでしょう?」
 オランピアが首肯する。
「ピア……」
 イーグルに視線を預けることもなく、ピアノーチェはただオランピアを見据え続けている。
 その背後では、どうどう、とベルオレンがハガネに押さえ込まれていた。リンは―――俯いていて、表情が読みとれない。
 鉄面皮のまま、やがてオランピアは鋼の踵を返した。
「ついてきて。海都へ戻るための、樹海磁軸に案内する」
 一行はおとなしく、それに続いた。


「ピア、説明してくれないか」
 明るい太陽が頭上に戻った、街外れから元老院へ向かう道中。四人を代表したつもりでイーグルはピアノーチェに尋ねた。
「……説明、とは?」
「さっき、大人しく深都をあきらめた理由だよ」
 リンに付け加えられ、ピアノーチェはあっさりと応じる。
「秘するに値する理由だったと、納得したからですわ。百年近くも沈み続けた都市に住むものとその為政者の覚悟を、一介の冒険者であるわたくしたちが暴くことが誰の利になりましょう?」
 顔をしかめるリン。ピアノーチェは大きく息を吸い込む。
「それとも」
 その蒼い大きな瞳が、イーグルを見た。
「イーグル様は、納得されませんでしたか?」
「俺は……」
 結局、カイトたちがどうなったのかは分からなかった。
 深都そのものが全く気にならないと言えば嘘になる。だが、ピアノーチェの言うことにも、一理あると思う自分がいることも事実だ。
 黙ってしまったイーグルをよそに、一行は元老院にたどり着いてしまう。
 案内された客間で息つく時間もなく、いきおいよく開いた扉から、元老院を統括する老婆が駆け込んできた。
 相当な期待を抱いて、今か今かと待ち望んでいたのだろう。息まいて、老婆は手身近なイーグルを捕まえ、ほえるように尋ねてくる。
「それで、深都はあったんだろうね!?」
「し、深都は……」
 なかった、と言わねばならない。
 だがイーグルが口を開くより早く、こう答えた者がいた。
「あったぜ」
 ふてくされたような表情を浮かべて、部屋中の視線を一身に浴びながらも、ベルオレンは繰り返した。
「あった。遠目で見ただけだけど、アーモロードそっくりな街並みが海底に―――」
「ほ、本当なんだね」
 イーグルを手放し、よろよろと老婆はベルオレンに近づいた。
 彼女ははっと我を取り戻すと、側の者に素早く指示を下す。あわただしく老婆たちが出ていった部屋で、残されたクッククローはベルオレンに詰め寄った。
 ひときわ、ピアノーチェの剣幕は彼に掴みかからんばかりで、
「どういうつもりですの!?」
「知るか。あんたが勝手なことをオランピアに言ったから、オレも勝手をしただけだ」
「それにしても―――」
「ま、隠しきれるもんじゃなかったろうしね」
 イーグルを遮り、リンが呟く。彼女の方は意外にも、この結末を許容しているようである。
 見れば、渋い顔ながら、ハガネまでも同意するように頷いていた。
「ケトスを下し、階段を降りる某らの後ろを、何者かがつけていたでござる」
「え……」
 息を呑むピアノーチェ。イーグルも、全く気づいていなかった。
「おそらくクジュラ殿でござろう……ということは、どのみち元老院に深都のことは露わになっていた。ならば、偽りを申すより最初から真実を告げた方が、要らぬ不審を買わずに済むでござるよ」
 ベルオレンが憮然としているところを見るに、彼もクジュラの尾行に気づいていたのだろう。
「っ……」
「姫様」
 悔しげに顔を歪めるピアノーチェを、ハガネが心配そうにのぞき込む。
「姫様、ベルオレン殿はけして姫様のお気持ちを踏みにじるつもりでは―――」
「分かっています。ただ……気持ちの整理がついていないだけですわ。自分の愚かさにも」
「ジコチューさも付け加えとけよ」
「ベル、あんたは一言多いんだよ!」
 リンの拳骨がベルオレンの脳天に落ちたとき、再び客間の扉が開いた。
 慌ただしく駆け込んできた白い影に、一同の目が奪われる。
 高貴な装いをした線の細い少女が、弾む息に胸を上下させながらも、クッククローの前に立った。
「みなさまが、深都を発見してくださった冒険者の方々ですね」
 呆然とする五人を見渡し、柔らかな声音で、白い少女はそう言った。


 よもやこんな形で、ここに滞在することになるとは思ってもみなかった。
「っはー、退屈だなあ……」
 高い天井を見上げるように、ソファに深々と身を預け、ベルオレンが溜息を吐いた。同時に吐き出された言葉が、反響して消える。ローテーブルを挟んだ向かいのソファに腰を沈めていたイーグルは、眉を八の字に下げたままちらちらと、周りに視線を配った。リラックスしているようなベルオレンの一方で、イーグルは落ち着かない。貴族の屋敷のような建物のエントランスだが、ここにいるのは彼ら二人きりだ。あとの三人は多分、女性陣はあてがわれた部屋にいるだろうし、ハガネはどこかの天井裏に潜んでいる。
―――窓から見える風景が、緊張と不安をあおる。
 青く澄みきった水の中、色とりどりの珊瑚の間を縫うように、魚が泳いでいた。
 気を逸らそうと努めても、景色が目に入るたび再確認する。
 ここは、深都だ。
「だって、アーモロードの使者として、朝一番にここに着いてよ? 一両日待てって……しかも宿屋から出られねーなんて、することねーじゃん」
 身体がなまっちまうぜ、と動き回りたくて仕方がないらしいベルオレンは、大きく伸びをした。相当広いがほとんどが宿部屋であるため、建物内を散策することもままならない。しかし、彼ら二人の背後で仕事をこなしている宿の管理人とクッククローの五人を除いて、人間の気配はしない。
 それどころか、街に入ってからこの建物に通されるまで歩いてきた深都の風景にすら、人の姿は影形もなかった。まるで、生きるものなど一つも存在しないかのように。
 深都に到着して会った動くものなど、オランピア、宿の管理人、そして―――深都を統べる王だけだ。そのうちのどれが人間で人間でないのかなど、服の上からでは判別できない。
「おかしな街だね」
 統合的に、イーグルはそう感想を漏らした。
「ん? おお」
 一拍遅れて、ベルオレンが同意してくる。
 深都との交流を望む海都側の使者として、クッククローの五人は再び海中都市を訪れていた。
 案の定入り口を守るオランピアには警戒されたが、元老院からの公式な申し出とあれば、彼女の一存で無下にすることは出来ないらしい。元老院から深都に対する提案の委細についてクッククローが知る由もないが、深都がそれに対する結論を出すまでの一両日、クッククローは深都に滞在することを許され待つことになった。
 使者というのは本来命がけである。元老院の人間が使者団に加わることなく、冒険者であるクッククローだけが派遣されたことについて、さすがのイーグルでも「ああ、捨て駒かな」という察しはついていた。いくら深都を発見した功労者とはいえ一介の冒険者、深都が黙することを選び、最悪使者を斬り捨てても、元老院には何の痛手もない。
 とはいえ、そんな最悪の選択肢を深都が選ぶ可能性が高いかといえば、そうでもないだろう。既に深都の存在は元老院に認知されている。冒険者を切ったとしても、今度はもっと有用性の高い使者が送られてくるだけの話だ。もしかしたら兵士も混じるかもしれない。そんな展開は深都も避けたいはずだ。
「オレたち以外にニンゲンって、いるのかなあ」
 ふと発されたベルオレンの呟きに、イーグルは意識を彼に戻した。
「どうだろうね」
「アニキはオレたちが本当に、最初に深都に辿り着いた冒険者だって、思うか?」
 使者が送られるのが初めてである以上、表向きはそうなっている。
 だが。
―――イーグルが返事をするより早く、宿の入り口扉が開いた。来客を知らせる鐘が鳴る。
 ぱたぱたと管理人の少女が駆けていって、玄関で来客を応対する。こっそり首を伸ばして、二人はその様子を窺った。来客の顔までは見えないが、どうやら二本足で立つ、人間のシルエットを持っていることは確かだ。
「ニンゲン、いそうだよな」
 ひそやかなベルオレンの言葉に、イーグルは首の動きだけで肯定した。
 実のところ、イーグルはまだ希望を棄ててはいない。
 カイトの仲間たちが、この街に辿り着いたという希望を。
―――何故なら、イーグルには記憶があったからだ。
 この街、深都の『見覚え』が。
 宿の、このソファに座ったときの『感触』が。
 イーグルがかつて、海底都市を訪れたことがあるという記憶を、身体が覚えている。
 直感以外に確証はない。だが確かに、夢を見るより鮮明に、頭に浮かんでくる事実があった。
 俺は、深都を知っている。
 それが何より、『カイト』が深都を訪れたという記憶に他ならないことにも、気付いていた。
「アニキ?」
 黙ってしまったイーグルを、ベルオレンが不可解そうに覗き込む。イーグルは静かな微笑みでそれに応じた。
 複雑な心境、というのはこういうことを言うのだろうか。
 もし、かつての仲間に出会ったとして―――
「あー、じゃあここで待つわ。お言葉に甘えて」
「いいえ、では少々失礼します」
 来客にぺこりと頭を下げ、宿の管理人の少女は金色のポニーテールを翻し、奥の扉に消えていく。一方で来客はエントランスに踏み込んできた―――いよいよその顔が見える位置に来て、イーグルは息を呑んだ。
 眼鏡をかけた、明るい茶の短髪と髭が特徴的な―――記憶が正確なら、サイモンという男。
 ああ、やっぱりという感覚が染み入るように胸に広がる。男はちらりとイーグルたちに視線をやったきりで、頭をぼりぼりと掻いて、こちらに背を向けてしまった。
「ニンゲンだ」
 口の動きだけでベルオレンが興奮と驚きを伝えてくる。好奇心に浮かれる翡翠の目が、じっとサイモンを見ていた。
 そうだ、人間だ。
 オランピアのような人形ではない。生身の人間。それも、冒険者―――別の疑問が頭をもたげるが、それは後回しだ。
「サイモンさん」
 ふと。
 飛び込んできた声が、イーグルの心臓を掴んだ。
 まさか。
「……なんだ、あんたも結局来たのか」
「サイモンさんがあまりに遅いから、様子を見に来たんですよ」
 淡々と言葉を交わしながら、玄関から現れる影。
 そんな、まさか。
―――その二人目の男は、サイモンと同じように、ソファに沈み込むイーグルたちに気づいた。イーグルは顔を上げて彼を見据えたまま、ぴくりとも動けない。何故、なんでだ。どうして。
 彼は笑むように目を細める。
「やあ、海都から来てる冒険者って、きみたちのことかな?」
「えっ……なんでそれを」
 ベルオレンが緊張気味に答えた。男は笑いながら告げる。
「街の噂だよ。それに、見知らぬ顔だったからね」
「あー、どうりで見たことねえ奴らだと思ったよ」
 言い訳するようにサイモンは頭を掻く。その向こうの扉が開いて、管理人の少女が何かを抱えて出てきた。
「サイモンさんに『見たことがある』って言われても信用なりませんけどね」
「どういう意味だそりゃ」
 それきり、管理人の少女との会話に切り替える二人組。
 やがて荷を受け取り、去っていく彼らと見送る少女の背から視線を剥したところで、ベルオレンが大きく息をついた。
「っは~……いたよ、深都にも。ニンゲン。なー、アニキ……って、アニキ?」
 イーグルはしかし、玄関から目を離すことが出来ずにいた。
 少女がぺこりとお辞儀をして、扉を閉め、自分の定位置に戻っていってもなお、イーグルは扉を見つめ続けていた。
―――そんな、まさか。だってあれは、彼は。
「おい、アニキってば! ……どうしちまったんだ?」
 ベルオレンの声が、妙に遠くから聞こえる。
―――カイト、だった。
 その仲間と一緒に、カイトがいた。
 事実を目の当たりにして―――イーグルはただ一つの疑問に思考の全てを奪われていた。


―――じゃあ俺は誰なんだ?

▲[B8F]一番上へ▲

第三階層

▼[B9F]一番下へ▼

B9F

 アーモロードの伝説の一つ。百年前海底に沈んだ都市が、迷宮の果てについに発見された、という速報は、風に乗り海上に出ていたドンの船にも届いていた。
 それだけでも驚きなのに、アーモロードに寄港した途端の追報はドンの度肝を抜くのに十分だった。というのも、深都を見つけた冒険者ギルドはかの、ドンの船を壊してくださりやがった姫君が作ったギルドだったからだ。
 何よりそのギルドには、姫様の監視に置いた手下が所属している。ならば事の次第は彼に訊くのが一番手っ取り早かろう。そう思って彼が身を寄せている、知り合いの道場に足を運んだところ―――なんと道場はきれいさっぱり、野っ原になってしまっていた。
 なんでも、ドンたちがしばらく海都に寄り付かぬ間に、不審火で焼けてしまったという。道場で暮らしていた姉弟が寝泊まりしている宿を教えてもらい、そこを訪ねてようやく、件の手下に会うことが出来た。
 そしてその、ひどくシケた面のこと。
「おいおいおい、深都を見つけた英雄様が何て顔してんだよ」
 茶化すように言ってやるも、手下ことイーグルは青みがかった碧眼を困ったように細めただけで、無言を貫いた。良く晴れた日の午後、宿前の広場周りには人通りも多い。賑やかしさに負けないように、木製ベンチの隣に腰を下ろしているイーグルに向かって、ドンは声を張り上げた。
「何だっ、深都ってのは、そんなに白けた街だったのかよ!?」
「白けたというか……まあ、静かなアーモロードって感じだったね」
 ぼそぼそと感想を述べるイーグルの視線は、どこか遠くを見ている。
 噂の糸を手繰れば、次から次へと新しい情報が入ってくる。ドンは鼻を鳴らして、その一つを思い出した。深都には統治者がいて、その統治者が出した条件によれば、海都でギルドに登録している冒険者のみが、その海底都市に立ち入ることが許されているらしい。大昔かつては冒険者の真似事をしたことがあるドンは、その話を聞いたとき、自分の登録が生きているのなら一度くらい、深都を拝んでやってもいいかもしれないなと思ったのだが、この手下の感想から鑑みて、そこまでする価値も実のところないのかもしれない。
「伝説なんざ、えてしてそんなモンだろうよ」
 ドンも船乗りだから、やれ暗黒の森だの空中樹海だののおとぎ話はよく耳にするところだ。慰めのつもりでそう呟いたのだが、イーグルの顔は晴れぬ。むしろ、何かに考え込むように俯く横顔に不審を抱いて、ドンは呼びかけた。
「なあ」
 ぴくりと肩が跳ねる。
「―――おまえ。記憶は見つかったのか」
 今日一番、イーグルの眉根が寄る。
 しかめ面というより苦みを噛み潰すような表情に、ドンの声も自然と低くなる。
「俺は言ったぞ。“思い出して良かったってもんじゃない可能性は高いぞ”ってな」
「……分かってたさ」
 イーグルはここで初めて、正面からドンに向き直った。
「覚悟はしていた。だけど、かなり変化球だったんで、混乱しただけだよ」
「どういうこった?」
「見つからなかったんだよ。手がかりだと思っていたものが……違ったんだ」
 彼は諦めるように大きく息をつく。
 その目には、迷いや戸惑いがあるようには見えない。深都に辿り着いたと聞いてから数週間は経つから、その間に気持ちの整理もついていたのだろう。
「―――樹海にいる間、おかしな夢を見るようになった。リンたちじゃない“仲間”と一緒に冒険する夢……その夢の中で、俺は俺じゃない“誰か”だったんだ。だからずっと、その“誰か”が記憶を失う前の俺なのかと思ってた」
「……違った、ってのはそれか」
 イーグルは小さく首肯した。
「その“誰か”さんがいたんだよ、深都に。彼の“仲間”と一緒にさ。俺も直接会って言葉を交わした」
「ってこた……待てよ、そいつら、冒険者なんじゃ……おまえらが最初に深都を見つけたと聞いたが、違ったのか?」
「分からない。深王―――深都の統治者の話じゃ、時々深都に迷い込む海都の人間はいるらしい。人知れず地上に返してやったり、返せない場合は条件付きで深都に住まわせたりしているそうだ。彼らは後者なんだと思う、直接聞いたわけじゃないけど」
 自分の膝に頬杖をついて、イーグルは憮然と続けた。
「……そして、海都に返される人間は、深都に関する記憶を消されるんだそうだ。俺、もしかしたらこっちの方なのかなーって思って……」
「深都に関する記憶だけなんだろ? お前、俺に拾われたとき自分の名前も言えなかったじゃねーか」
「でも、深都に着いたとき、何故だか分からないけど“懐かしい”って思ったんだよ。“俺はここを知ってる”って感じた」
「深都はアモロにそっくりなんだろ。デジャ・ヴュってやつじゃねえの」
「そうかな……」
「イーグル」
 ずいとその目を覗き込んで、ドンは言った。
「―――お前にとって、過去ってそんなに大事なことなのか?」
 イーグルは目をそむけた。意に介さず、ドンは続ける。
「自分が何者なのか知りたいって気持ちは分かるよ。だがな、そんな考え込んでつれえって思うなら、そこで置き去りにした方がはるかにお前自身のためになる。……まだ迷宮は深都の先にも続いていると聞いた。冒険者を辞めろって言うつもりはねえが、お前が本当にやりたいことが何なのか、もう一度よく考えろ」
 そう、早口に告げる。
 いつの間にか顔を上げていたイーグルは、ぱちぱちと目を瞬く。
「……お頭はさ……」
「んな?」
「いや、何でもない……何でもないけど、俺、お頭に拾ってもらえて良かったよ」
「……そいつぁ良いことだ。せいぜい、俺様のために馬車馬のように働けよ」
「痛っ」
 背中をばしっと叩いて、ドンはベンチから立ち上がる。そのまま去ろうとすれば、イーグルが声をかけてきた。
「……そっちは? 順調?」
 航海のことだろう。
「んー……まあ、ぼちぼちってとこだな」
 僅かな逡巡のちにそう答える。懸案事項がないわけではないが、ここでイーグルに話して何になるわけでもないし、多分何とかなることだからだ。
 ところが、イーグルは小さく失笑する。
「俺たちが苦労して手に入れた船なんだから、大事に使ってくれよ」
「言ってろ……」
 言うようになりやがって、と頬を引きつらせながらも、ドンは手をひらひら振って、その場をあとにした。


 冒険者のみに立ち入りを許された深都では、深王より冒険者に向けて、初めての任務が発令されていた。
 深都が深都として海底に存在することになったその理由―――深海に潜む魔物“フカビト”。その脅威を目の当たりにすること、それが任務だった。
 深王の目的は明白だろう。深都まで辿り着いた冒険者たちが、フカビトに対抗する意志と強さを備えているかどうかを試すつもりなのだ。人類の未来のためと断じ、まるで感情を切り離したかのようなストイックな政略を取ってきた都なだけに、冒険者に与えるそれも合理的この上ない。
 深都の存在を信じ―――一途に冒険者を送り続けた海都とは、まるで正反対だ。
 イーグルたち“クッククロー”は深都に達してもなお、探索を続けている。海底よりさらなる地下に臨み、返り討ちに遭う冒険者ギルドも少なくない中を、ただ、ひたすらに。
 そしてイーグルはまだ、“夢”を見ていた。


―――まだ、見るのか。この夢を。
 背の高い弩使いの後ろ頭が、うすぼんやりとした視界に浮かんでくる。
 その背景に見覚えがある。花火のように目を貫く光を放つ不思議な木々に、独特の匂いがする熱気と、赤茶けた岩壁。第三階層“光輝ノ石窟”、そしてここは、その入り口に当たる地下九階だ。
 ざ、ざ、と足音を響かせながら揺れて進む己の身体に、ああ、歩いているんだな、というごく当たり前の感想をイーグルは抱いた。とは言っても歩いているのはイーグルではない。
 “口”が勝手に開いて、カイトの声で言った。
「暑いね」
「暑いですね」
 斜め下から聞こえた声は、金髪の小柄な少年―――アルのものだろう。か弱い見た目に反していつも凛とした態度なくせに、今回ばかりはその声は弱々しく響いた。弩使いの隣を歩いていた鎧の女が、心配そうに眉をひそめて振り返る。
「アル様、やはりまだお加減がよろしくないのでは……」
「いいえ、大丈夫ですよ、スズラン」
 むしろぼくのせいで皆さんに後れを取らせて申し訳ないです、とアルは笑う。その笑みも、どこか儚げだ。
 カイトはこれ見よがしに溜息を吐いた。
「休憩しようか」
「えっ……でも」
「途中で倒れられたら、もっと迷惑だからね」
 冷たいカイトの弁に、スズランが怒鳴ろうと口を開けた瞬間、カイトの身体が大きく、横からの衝撃に揺らいだ。
「はいはいはいはーい! ティティもさんせーい!!」
 無邪気な声を上げながら、カイトの右腕をぎゅっと自分の身体に押し付けるようにして、小麦肌の少女が笑顔で見上げてくる。見た目の歳よりずっと幼い表情を浮かべた彼女の、ふわふわの髪をそっと撫で、カイトはまた溜息を吐いた。先よりも若干、皮肉を薄れさせて。
「そこに休憩できそうなところがあるから、丁度いいね」
 指さした一角に、弩使い―――サイモンが「おお」と声を上げる。
「タイミングいいな。ラッキーってやつか」
「わーい、ラッキーラッキー!」
「おごっ」
 今度はサイモンに突進していくティティ。二人について行こうとするカイトの服の裾を、アルがぐいと引いた。
「ありがとうございます」
「……何が?」
 見下ろした少年は、端正な顔に上品な笑みを浮かべた。
「カイトは目が良いですね。休憩できそうな場所を見つけてから、声をかけてくれるなんて」
 イーグルからカイトの表情は見えないが、口角が下がったのは顔の筋肉の動きで分かった。
 アルはくすくすと笑っている。
 多分、イーグルが感じたのと同じ感情の動きを、少年も読み取ったに違いなかった。


「そういえばよ」
 天幕も張り終え、一服をつこうとしたところ唐突に、サイモンが口を開いた。
「―――なし崩し的に深都に居着くって決めちまったけど、ホントに良かったのか?」
 ざんばら髪の頭をぼりぼりと掻きながら、彼は仲間たちを見渡した。
―――そうか。
 イーグルはいつもの夢を、当然のように現実として捉えた。これは彼ら、“クッククロー”が海都で、行方不明と見なされた後の出来事なのだ。彼らがどうにかして深都に辿り着き、イーグルたちが深都を見つけるまでの、一年間。その初めの方にあった、“過去”。
 カイトははぜる火を眺めながら、黙っている。冷ややかにサイモンを見たのは、スズランだった。
「何を今更。白鯨……ケトスと言ったか。あれとの取引に応じた時点で、覚悟はしていただろう」
「“深王の力となれ”ってアレか? ……いやまあ、そうだけどよ。やけにきっぱり言われたじゃねーか。アーモロードにはもう、戻れねえって。最初はそんなもんかって感じだったけどよ、深都で生活する日にちが経つにつれ、徐々に身に染みてきたっつうか……」
「私とアル様はどのみち、地上では追われる身の上だ。いずれ追手に捕まり殺される運命ならば、誰にも見つからぬ深海で、ひそやかに暮らす方がいい」
「スズラン……」
 言い切ったスズランは、堅い声で、アルを見ることなく続けた。
「今までもそう暮らしてきた……その生活に、戻るだけの話だ」
「……はい。ぼくは、スズランの言うとおりです。サイモンは……サイモンは後悔していますか?」
「俺?」
 片眉を器用に跳ねあげて、サイモンは眼鏡の奥の目を擦った。んー、と考えるように上空を見上げると、その右腕を掬うように、ティティが脇の下に忍び込む。
「おわっ、ティティ!」
「ティティは本当に、サイモンが好きですね」
 にこにこと朗らかなアルに、ティティも満面の笑みを返す。
「うん、ティティ、サイモンすきー!」
「……まあな。俺も、行くところなんざねーし。アーモロードにいても同じだ」
「だから一人きりになったギルドでも、無謀に冒険者を続けていたんですもんね」
 口を挟んだカイトに、サイモンは眦をつり上げる。
「イチイチ人の古傷えぐりにくるんじゃねーよ!」
「今度こそ全滅せずに、ちゃんと深都に辿りつけたんだから良かったじゃないですか」
 動揺ひとつせず応じるカイト。サイモンは胡乱げにこちらを―――つまるところカイトを―――見ていたが、やがて嘆息して頭を掻いた。
「まあな……ってティティ、お前もいつまでもくっついてんじゃねーよ」
「えー」
 ぐいっと引きはがれそうになって、ティティは自分の胸をサイモンの腕にくっつける。
「えーっ……」
「あーのーなっ! そ、ういう上目づかいをするなっ、アホう!」
「サイモンさんもうぶですねえ。いい加減慣れればいいのに」
「お前のような平常心の方が、不健全だと思うがな……」
 低い声でスズランに言われるも、カイトは涼しげに応じる。
「そうですか?」
「ティティも……ぼくらについてきて、良かったと思いますか?」
「うんっ! ティティ、みんなだーいすきっ!」
「……そりゃ、奴隷船に乗っているより、冒険者をしている方が多少マシだろうね」
「カイト、貴様っ!」
 いちいち口の過ぎるカイトだが、激昂しそうになったスズランに対し、どこまでも冷静な態度は崩れない。
「名義上、ティティの身請人は僕です。……まあ冒険者の待遇なんてしれていますが、それでも一応人間扱いはしているつもりですよ」
「当たり前だ!」
「それで、カイトはどうなんです?」
「僕ですか?」
 イーグルからカイトの表情は読めないが―――ゆるやかに、唇が円弧を描いたことは感じ取れた。
 笑っている。
「―――後悔なんてするわけありませんよ」
「だろうな」
「でしょうね」
「だよなー」
 口々に賛同され、カイトは溜息まじりに続ける。
「むしろここからが本番ですからね……僕の目的のためには。もう少し、深王の信頼を勝ち得ねばならないようだが」
「そのために、わざわざ深都より下層の迷宮でへいこらやってんだろーが」
「全く……付き合わされている者の身にもなれ」
 呆れたように言うサイモンとスズラン。一方で、アルとティティは笑顔だ。
「えっ、でも、ぼくは楽しいですよ。皆さんと続けて冒険が出来て」
「ティティもー!」
「二人は正直だね」
「おい」
「貴様……」
「子供の方がよっぽど素直ですね」
 カイトの皮肉に、大人の二人は、しかし言い争う方が負けだとおもったのか、何も言い返しはしなかった。
「……ったく、日が暮れたらすぐ出発するぞ」
 だが腹立ち紛れというように、不機嫌にスズランが吐き捨てた。ここは海底のさらに地下、マグマの流れる洞窟を彷彿させる迷宮だが、不思議なことに、その光源となる発光する木のかがやきが、夜になると少し暗くなるのだと言う。これも、カイトたちの会話―――すなわち“夢”から得た情報だ。
「一つ目ミミズは、光を探知して追いかけてくるようですから。夜闇に乗じて動けば、襲ってこないかもしれません」
「なんと冷静かつ的確な分析でしょう。さすがはアル様です」
 感嘆するスズランを、カイトが鼻で笑う。
「アルが間違ってたらどうするんだよ」
「なっ貴様、アル様を信じぬのか!?」
「そういうことじゃなくて、スズランさんは盲目すぎるってこと」
「何を―――」
「ああもう、ぼくのために争わないでください二人とも」
「言ってるわりに、超笑顔だぞ、ぼっちゃん……」
 頬をひきつらせるサイモン。アルはいつもどおりにこやかに応じた。
「ああでも、あんまり褒められると少し恥ずかしいです。スズラン」
「ああアル様っ、アル様に恥辱を与えるなど、到底許されることではございません! やはり……コイツは少し灸を据える必要があるようですね」
「どう考えても恥ずかしいのはあんたの方だよ……」
「もー二人ともー」
 と言いつつ、やはりにこにこと笑顔のアル。それを、ティティに片腕をとられたサイモンがあきれたように見ている。
―――もやがかるように、徐々に遠ざかる“クッククロー”の風景。
 それが自分のものでなかったことに、寂しさを覚えないといえば嘘になる。
 だが、彼らが生きていて、よかった。
 複雑な想いを胸のうちに、イーグルは瞼を開く―――


 視線の先にあったのは、天井だった。
「あれっ?」
 思わず声を上げてから、気づく。
 イーグルはベッドの中にいた。白く清潔なシーツに横たわり―――混乱した頭で状況を把握しようと首を動かして、間近にあったリンの寝顔に悲鳴を上げる。
「わあっ!?」
「ん……?」
 目を擦りながら、リンは顔を上げた。彼女は床に座り込み寝台に肘をかけるようにして、寝入っていたらしい。しばしばと瞬きして、大きな青の瞳を見開いた。
「イーグル! 目が覚めたんだね、良かった……」
「えっ……と?」
 身を起こしたところで、ここがどこなのかよく分からない。棚やベッド近くの備品を見るにどうやら医務室のようだったが、海都の、アーマンの宿ではなさそうだ。
「ここは瞬く恒星亭だよ。あんた、地下九階での戦闘中にひっくり返って頭打って、気絶しちまったのさ」
 心配かけさせるんだから、とイーグルの額を指ではじいて、リンは立ち上がりながら大きく伸びをした。額を押さえつつ目をぱちくりとやったイーグルは、胡散臭そうにこちらを眺める彼女の視線に、慌てて我を取り戻す。
「その。今、何時?」
「窓の外、見れば? もう夜だよ」
 言われてはじめて、イーグルはベッド脇の小さな窓に気づいた。相変わらず外の光景には魚が泳いでいるが、背景の色は青ではなく濃紺だ。星の瞬きこそ見えないが、赤や黄に光る珊瑚が闇に彩りを添えている。
 物音に振り返れば、リンが診察椅子に腰かけたところだった。
 無言でじっと見つめてくる視線に、イーグルは首を傾いだ。
「何?」
「……あんた、大丈夫?」
「……うん」
 ベッドに、両足を床に下ろす形で腰かける。包帯を巻かれた頭は痛まないし、実のところ頭を打った後遺症があるかないかという意味で大丈夫なのか、自分では分からないのだが、リンが治療して様子を見ていてくれたのだから、問題ない、とイーグルは思う。
 しかし、リンは肩を上下させるように思いっきり、ため息をついた。
「そうじゃなくて……」
 視線が泳いでいる。竹を割ったような性格の彼女にしては珍しく、探るように、リンは続けた。
「……変な夢。また、見てるんじゃないかって」
「あっ」
 思わず声にしてしまって、イーグルは慌てた。ごまかせない。
「えーっと、その。怖いとか気持ち悪い感じの夢じゃないから平気だよ。じゃあなくて、えっ、ていうか俺、夢のことリンに話したことあるっけ……」
 リンはもう一度、はあー、と嘆息した。
「……この前、お頭と話してたでしょ」
「え? あ……ああー」
 海都に寄港したドンが、イーグルに会いに来た時のことだ。確かにあのとき二人きりだと思って、夢の話をした気がする。
 リンは俯いたまま、ばつが悪そうに言った。
「立ち聞きするつもりじゃなかったんだけど……全部聞いたよ。あんた、随分水臭いやつだったんだね」
「えー……と……」
 返す言葉が見つからず、頬を掻くイーグル。
 だが、リンは続けてきた。
「あたしね、知ってたんだ。あんたが昔のこと覚えてないってこと」
 はっとイーグルは息を呑むが、リンは顔を上げない。
「―――随分前、ドンに聞いて、ね。……隠しきれるわけないでしょ? あんた、あたしとベルがどれだけあんたの側にいると思ってんの」
 そうということは、ベルオレンもイーグルの記憶喪失を知っているということだ。
「……ごめん」
「謝ってほしいわけじゃないよ。別に……記憶があったってなくたって、あたしらと出会ってからの半年間が消えてなくなったりはしない。そうだろ?」
 唇に微かな笑みを浮かべて尋ねてくるリンに、イーグルは首肯を返した。そうだ。
 ここにいるイーグルは、イーグルだ。それ以外の何者でもない。
 しかし、リンは改めて笑おうとして―――失敗したように、眉をひそめた。膝に乗せた掌が、短剣をいじっている。
「それ……」
 指摘すれば、ぴくりと細い肩が揺れた。
「その短剣、ずっと持ち歩いているね」
 見覚えがあった。オランピアに騙されて辿り着いた、古代魚の巣にあった、誰かの“落としもの”だ。
 リンは深呼吸する。そして、短剣に目を落としたまま口を開いた。
「さっき……あんたが目を覚ます前、深都、ぶらついてたらさ。見つけちゃって」
「何を?」
「ぼ、墓地」
 イーグルは息を飲む。
 リンは顔を上げぬまま続けた―――精一杯、明るく振る舞っているかのような声で。
「街の中には人っ子ひとりいないわりに、墓の数、多かった。眠る人の名前も墓標に刻まれていない集合墓地みたいな感じなのに、結構手入れされてるみたいで……おかしいと思って、見たら、奥の方に……あの女、がいて」
 問わずとも悟った。
 オランピアのことだ。
「―――顔までは見えなかったけど……何となく分かっちまったんだよ。ああ、ここ、冒険者の墓なんだ、って」
 樹海で死を迎えた者たちの、墓。
 クッククローが深都を発見するまでの道のりには、多くの冒険者の命が失われてきた。その進路を妨害していたオランピアは、誰にも看取られず命を落とした彼らをせめてと、深都で葬っていたということなのだろうか。
「それに気づいて、あたしさ……どうしたらいいのか、分かんなくなっちゃってさ……」
 深都が秘されていた理由は、海都を守るため。
 深都を秘するため、犠牲になった、命。
 リンの双眸は、訴えかけるように細まる。
「あたしらの両親も、あそこに眠っているのかな」
―――その視線の先にあるのは、変わらず短剣だ。
「何が何だか、分かんないよ」
 ぽつりぽつりと、溢れる言葉をそのままに、リンは口にする。
「イーグル」
 イーグルはふと、横目に窓の外を見た。
「俺にも、よく分からない。分からないけど……」
「……イーグル?」
「ちょっと変、かな」
「そう、だね」
 ドンが教えてくれたはずなのに、名前が思い出せない魚が、ちょうど濃紺を横切っていった。


 海都の半身であるということは、深都も海都ほどの広さはあるということだ。
 しかし天に空を仰がぬ島が、これほど窮屈に感じられるとは。
 ハガネは屋根から屋根に飛び移りながら、視界の端に常に捉えられる大樹を横目で見た。あるいは、この樹が放つ昏い重圧が、そう感じさせているのかもしれぬ。
 よもや真に有るものとは思っていなかったが、見つかった以上、使命は果たさねばならない。
 深都に沈む、古代の知識と技術という遺産。それは海洋にありがちなただの伝説ではなく、機械人形という歴然とした形をもって、ハガネの眼前に現れた。その存在理由こそおそらくは、海底に存在する魔物フカビトとやらに対抗するためであろうが、ハガネはその敵には興味がない。深王らが危惧するように、その術が地上にもたらされることによって生まれるであろう、いかなる禍根にも、興味がない。ハガネの内にある信念は、与えられた使命を愚直に全うすること。ただ、それだけだ。
 唐突に闇に気配を感じ、ハガネは立ち止まった。
 夜目を駆使するまでもない。相手は当然のように話しかけてきた。
「海都の冒険者か」
 低く、落ち着きのある男の声だ。
「いかにも」
「貴殿らが立ち入りを許されている区域は、そこの広場までだ」
 男の声が示すのは、ハガネが立つ建物の背後にある広場だ。
 大通りには、当然、見張りがいる。だが音も影もなくその上空を通過したシノビであるハガネを発見するなど、並大抵の兵では不可能だ。
「……何者でござる」
「察しはついておろう」
 せせら笑うような調子で、声は応じた。
 ハガネの予想が正しくば、シノビの存在を見破れる者など、同じシノビ以外にはあり得ない。
「……機械人形だけでなく、シノビまで存在するとは。深都も一筋縄ではいかんでござるな」
 素直に敬服してそう言うが、声は調子を崩さない。
「引き返されよ。さもなくば、実力で排除する」
「しかし何故深都にシノビが?」
「答える義理はない」
「深都は長らく地上との交流を絶ってきたはず。よもや深王に忠誠を誓うシノビではなかろう。どこの里の者でござる」
 しつこく問うと、今度は沈黙が返った。ぴんと張る緊張の糸は揺るがぬが、ハガネは構えを取らぬまま待った。ここで自衛の姿勢を見せれば、敵とみなされるに違いないからだ。
 答えはない。再度、ハガネは口を開いた。
「……シノビの裏切りの代償は死でござろう」
「裏切りなど無縁のこと。我が忠誠の主が、深都にあるまで」
 矢継ぎ早に。
「深都に与することが許された、条件は?」
―――確信を口にすれば、にわかに警戒の空気が増した。
 息が、詰まる。
 固い声が降った。
「これ以上の問答は無用じゃ。去れ」
「某のあるじも冒険者でござる。それが何を意味するか、お主なら理解できるでござろう」
 また落ちる、沈黙。
 これまでの会話で、ハガネはこの相手がハガネと同じ立場であろうということを半ば確信している。冒険者の主君を持ち、それに付き従い、深都までたどり着いた―――このシノビとその主が深都に受け入れられる要因があるなら、ハガネとて例外ではないはずだ。
 もちろん、ハガネの目的は深都の手足になることではない。だがこのシノビが己の主のために選んだ道をハガネが望んでいないと、どうして彼が見透かすことができようか。
 逡巡の生む静寂のあと、声は答えた。
「……すべては深王様の采配によろう。深都にとって必要な力か否か、それが全てじゃ」
「フカビトの脅威がそれに関係していると?」
 やはり、任務を受けたのは正解だった。
 ハガネは音もなく地を蹴ると、ひらりと宙返りした。
 顔を上げれば、先まで立っていたところに、苦無が数本突き立っているのが見える。音もなく貫かれた屋根瓦、しかし、相手は本気ではない。
「おしゃべりが過ぎた。……今宵はこれで失敬する」
 言い置き、羽のように軽やかに、ハガネは広場に飛び降りる。
 追ってくる気配はない。それに少し安堵しつつ、着地後速度を緩めぬまま駆けだした。
 新たな発見はなかったが、深都側の守護と相対してこの程度の対決で済んだのは僥倖以外の何物でもない。
 決定的にこちらの立場を悪くすることは、少なくともしなくて済んだ―――はずだ。
 街灯の隙間に落ちる暗闇、建物の角から飛び出してきた影に、ハガネはたたらを踏んだ。
「とっ、とと」
「あっ、ごめんなさい」
 相手も驚いたように立ち止まった。小さい。ハガネも小柄な部類に入るが、それよりも。子供がこんな時間に出歩くとは―――と顔を上げた途端、ハガネは息を呑んだ。
 金色の短い髪の間から覗く大きな青瞳と、目が合った。
―――これは。
 ハガネは反射的に地を蹴る。そして、まだ硬直している少年の頭上を越えて、屋根の上に着地した。
 刹那の出来事に、少年はきょろきょろと辺りを見渡している―――彼の目には、ハガネが突如掻き消えたかのように映ったのだろう。そのうちに、少年が現れた細い裏道から、彼を追ってきたらしい女が姿を見せた。それにもまた、ハガネははっと短い息を呑む。
 あの女こそ―――間違いない。
 少年が先行したことを咎めているかのように、眉を吊り上げる女。彼らの会話を遠目に確認しながら、ハガネは改めてその場を離れるために駆けだした。シノビの本能は冷静さを取り戻している。だが、ハガネの胸中にはずぐりと重い針が突き刺さったままだった。
―――深都には機械人形とシノビだけでなく、あんなものまで沈んでいるなんて。
 浮かんだのは、宿で休んでいるはずの、主君と仰ぐ少女の顔だった。

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B10F

 灼熱の床に焼ける足。痛みに耐えつつ、その悲鳴で卵を守る母竜に気づかれぬよう注意を払いながら、イーグルたちクッククローは地下十階を進んでいる。
「けっこー地図も埋まってきたけど、まだ目的地にゃ着かねーの?」
 赤髪をぼりぼり掻きながら、ベルオレンが姉の手元の地図を覗き込む。リンは眉根を寄せた難しい表情を作った。
「断罪の間、だっけ? 随分な名前が付いてるからには、それなりの場所だと思うんだけど……」
 言いつつ開いた扉から、熱気が全身を覆う。それに混じった硫黄のにおいに咳き込みつつ、ピアノーチェが身を乗り出した。
「まあ、広々としてますのね。ここを探すのですか?」
 どこから取り出したのか、孔雀の翅のように豪奢な装飾の付いた扇で自分を仰ぐ彼女に、ベルオレンが引きつり顔をする。
「しかしここに来るまで、結構体力も使ってるし……どこかで休憩したいな……っと?」
 目を細めて、ベルオレンは呟いた。
「あれ……あそこに見えるの、人じゃね?」
 彼が指で示した方向には、硫黄混じりの湯気に隠れて、確かに人影がぼんやりと見えた。
「行ってみましょうか」
「ひ、姫さま、もしや魔物では……」
「たとえ魔物であっても、虎穴に入らずんば虎児を得ず、ですわ!」
 ハガネの進言を全く無視して、ずんずんと進んでいくピアノーチェ。
 やがてはっきりとしてきたその輪郭に、イーグルは息を呑んだ。
「……カイト?」
「おや」
 人影―――長髪の星術師がこちらに気づいた。彼は柔和な笑みを浮かべて―――友好的とは言い難いのは目が笑っていないからだろう―――言葉を続ける。
「君たちか」
 サイモンさん、と彼は自分の足元で胡坐をかいて煙草をふかしている男に声をかける。
「彼らですよ。例の冒険者」
「……おお」
 眼鏡の奥から興味深げに投げられる視線に、ピアノーチェが顔をしかめる。
「……貴方たちも、任務を得て来られた冒険者で?」
「いや。我々は君たちとは違う。深都に所属する冒険者だ」
「深都に?」
 訝しげなピアノーチェに首肯を返しつつ、カイトは背後の湯気をしゃくった。
「お疲れみたいだから、温泉にでも入っていったら?」
「へえ、温泉なんて沸いてるんだね」
 目をぱちくりとするリン。カイトは朗らかに笑った。
「ホラ、僕たちも二人しかいないでしょ。女性陣が温泉に入りに行っちゃって」
「ここで待ちぼうけ食らってるってわけさ」
 同意するようにやれやれとサイモンが肩を竦める。
 と、温泉と聞いた途端目を輝かせていたピアノーチェが、リンの袖を引く。
「ねえ、わたくしたちもお邪魔いたしませんこと?」
「え、ええっ?」
「オイオイ、オレたちは置いてけぼりかよ」
 渋面を作るベルオレンに、焦った顔でハガネが追随する。
「姫さま! そのような話を鵜呑みにされては―――」
「信用できないかい?」
 静かにそう尋ねたカイトは、くつくつと笑いながら続けた。
「―――大丈夫、何もしないよ。キミが何もしなきゃね」
 何故かその一言で、ぐうの音も出ぬ様子で黙り込むハガネ。
 落ちた奇妙な沈黙に、ピアノーチェはきょろきょろと皆を見渡すと、リンの腕を取ってずんずんと歩き出した。
「ちょ、ちょっと」
「殿方は積もるお話がおありのようですから、女は女同士、お湯につかりながら腹を割りましょう、ね!」
「え、あ、も……」
 成すすべなくずるずると引きずられるリン。
 湯気の向こうに消えていった二人を見送り、はたと気づいたように、ベルオレンがハガネを向いた。
「ハガネちゃん、行ってきていいんだぜ?」
「え?」
「丁度いいや。オレもあんたらに聞きたいことがあったんだ」
 手のひらに拳を打ちつけるベルオレン。いつも以上に困惑した風なハガネを見て、ああそういえばベルはハガネの性別を勘違いしたままなんだっけ、とイーグルは思い至る。
 そしていよいよそれを訂正してやろうと、口を開いた瞬間、遮るような笑い声が上がった。
 カイトだ。
「はは……従者さんは、お姫様と一緒にはお風呂に入りづらいんじゃないかな」
「あーなるほど、そっか」
 ぽんと手を打ち、真剣な顔でハガネに「もっと自信持って良いんだぜ」と告げるベルオレン。ハガネがオロオロしたままなのは言うまでもない。
 何となく腰を下ろす、“クッククロー”の三人。
 カイトの隣に位置してしまい、イーグルは今更な緊張感による居心地の悪さを感じる。
 沈黙を割ったのは、逆隣のベルオレンだった。
「あんたたち、一体何者なんだ?」
 ふと口元に笑みを浮かべ、カイトは応じる。まるで問われることを知っていたかのように、
「さっきも言ったけど、深都の冒険者さ」
「その、“深都の”っての。……深都に辿り着いた最初の冒険者はオレたち、クッククローのはずだ。だけどあんたたちはそれより前に深都に居た。どういうことなんだ?」
「記録なんてものはいくらでも偽れる」
 カイトはそっけなく告げた。
「―――深都には、海都の記録から抹消された人間が山ほど存在する。冒険中に行方不明になった者、航海中に荒波に飲み込まれ、偶然深都に辿り着いた者……その大半は深都に関する記憶を消され、海都に返される。だがまれにそうならず、深都に住み着くことを許される人間もいるのさ」
「あんたたちは何で、深都に留まることを選んだんだ?」
「それを知ってどうする?」
 面白がるように、カイトは質問で返した。
 渋い顔で答えないベルオレンをふっと鼻で笑い、続ける。
「まあいい……“僕たち”の多くは、端的に言えば地上に居場所がない。だから深都に奉仕をすることで、深都の住民として生きている」
「奉仕?」
「人によって違うさ。普通の街と同じだよ」
「……わっかんねーな」
 ぼりぼりと赤い髪を掻き混ぜると、ベルオレンは苦い表情のまま言った。
「―――だったら、深都を隠す理由なんざ、ねーじゃんか。何のために深都は海都の目を欺いてきたんだ?」
「それは……君たちが今から見に行かねばならないものと関係するって、深王が言っていただろう?」
「フカビトという魔物でござるな」
 ハガネが口を挟んだ。カイトはゆっくりと首肯する。
「正直なところ……僕は、君たちはここで引き返した方が無難だと思うけどね」
「はあっ!?」
「悪意があっての言葉じゃないよ。……この先に進めば、君たちも深都と海都が抱える複雑な事情に巻き込まれることになる。面倒事は御免だろう? 冒険者なんだから」
 ぎりぎりと歯を鳴らすベルオレンを宥めつつ、イーグルは思わず言葉を紡いだ。
「巻きこまれるって……俺たち“も”?」
 それに、カイトはきょとんと目を丸くした。
 青みがかった碧眼が、そのあと、すっと細くなる。
 カイトと目が合うのは初めてではないが、夢の中でのイーグルはずっと“カイト”なので、不思議な感覚だ。
 イーグルは目を逸らさぬまま、重ねて尋ねた。
「深都に奉仕をしているって言ったけど、キミたちは具体的に、深都で何をし―――」
「さいもぉぉぉぉおん!!!」
 びたびたびたという近づく足音の直後、絶叫が響く。「おごっ」と聞こえてすぐ、カイトの向こうに見えていたサイモンが消えたので、何かあったんだろう。
 と、呑気に捉えるイーグル―――カイトもだが―――をよそに、ベルオレンとハガネは慌てて立ちあがる。
「どうしたの?」
「ど、どうしたって奇襲とか……ん?」
 サイモンに取りつく小麦色の肌の女を見つけて、ベルオレンは仰け反った。心なしか顔が赤くなっている。
 その女―――ティティはがばっと顔を上げると、澄み切った大きな瞳できょろきょろと、周りの固まっている見知らぬ少年たちを見渡した。なるほどティティの露出度の高い服のせいで、角度からでは全裸に見えなくもない。
「このひとたち、だーれー?」
「海都の冒険者だよ」
「えー? カイト? カイト、どうしたのー」
「それはそうと……」
 カイトは手を伸ばしてくるティティを無視すると、遅れて歩いてくる人影に目をやった。金髪の少年と、無骨な鎧姿の女性―――アルとスズランだ。
「早かったですね」
「誰か、別の冒険者が入ってきたようだったからな……全く、見張りの意味がない」
 じろりと睨みつけるスズランの青い瞳に、しかしカイトは涼しい顔だ。
「女性でしたから。別にいいかと」
「そういう問題ではない! アル様もいるんだぞ!!」
「まあまあ、スズラン。ぼくたちはゆっくりできましたし」
 そうとりなすアルは、カイトの背後にいるイーグルたちに興味を持ったようだ。
「―――そちらは?」
「アーモロードの冒険者だよ。……さて、僕たちはそろそろ失礼するよ」
「へっ!?」
 声を上げたのはサイモンだ。
「―――おいおい先生、俺の温泉……」
「覗きになりたいんでしたら、別に止めませんよ」
 今入浴中のリンたちを指してだろうカイトの一言に、サイモンはしゅんとしょげ返る。それを見て、アルが苦笑を浮かべた。
「すみません、サイモン。いずれ埋め合わせをしますから……」
「おい、待てよ。まだこっちはおまえらに訊きたいことがあるんだよ!」
 去ろうとする彼ら五人―――もう一つのクッククローに、ベルオレンが指を突きつける。
 きょとんとする女性陣をよそに―――カイトはふっと笑みを浮かべた。
「キミたちが冒険を続けるのなら、いずれまた会うこともあるだろう。その時に聞くよ」
 そして背を向けると、振り返らずに行ってしまった。
 歯を食いしばってそれを見送っていたベルオレンは、完全に彼らが見えなくなってしまうと、足元の茶色い小石を蹴っ飛ばした。
「くそっ」
「……ベル」
 声をかけようとしたイーグルと、ベルオレンの間に何かが降ってくる。
「わっ」
「行ったでござるか?」
 ハガネだった。今までいなかったことにも気づかなかったが、いつの間にかどこかに隠れていたらしい。
「何で隠れてたの?」
「それは……まあ……」
 珍しく目を逸らして言葉を濁すと、ハガネは咳払いひとつ話題を逸らした。
「ところでイーグルどのこそ、彼らと随分親しげでござったな」
「え……そう?」
 どちらかといえば、よく話をしていたのはベルオレンの方だと思うが。
 しかし、ハガネはそれも承知の上という風に、こう告げてきた。
「あの星術師の名をご存じだったでござる」
「あ……」
 目を逸らしつつ、イーグルはごまかし笑いで応じる。
「た、多分街で会ったとき偶然聞いたんじゃないかな……ははは」
「そうでござるか……」
 妙に疑り深いハガネの視線は、そのあとたっぷり一時間経って、御満悦なピアノーチェとのぼせ気味のリンが合流するまで続くのだった。


 フカビトの脅威―――
 深王が言っていたのはこれか、と、イーグルは熱気からではなく噴き出す汗を拭いながら、眼前に佇む異形を見つめている。
 魚の胴体を持つそれは、一言で表せば、人魚だ。
 だがお伽噺に出てくるような美しい姿ではけしてない。異形としるすに相応しく、のっぺりと表情のない白い顔が、大きな頭から幾つも垂れ下がるヒレの下に覗いている。黄色い眼球の中心から真っ直ぐ見つめてくる赤い虹彩に、イーグルは身震いを覚えた。何故だか、感ぜられる威圧感に息が上手くできない。
 そして異形は、小さな唇を開いた。
「……ニエになる意思がないなら帰れ」
 それきり、こちらに興味をなくしたように、白い瞼を閉じる。
 イーグルは肩で息する仲間たちを見渡す。―――何事もなかったかのように沈黙する異形を切り取れば、いまだ激しい戦いの残り香が、場の緊張を張り詰めさせていた。
 この異形から生まれた二体の魔物が、突如クッククローに襲いかかったのだ。
 警戒は緩まない。ややして、クッククローの背後から声がかかった。
「理解したか? それがフカビト。人類を恐怖に陥れる、最悪の生物」
 大げさなほどのオランピアの言葉だが、今直に体験したクッククローにとっては、戦慄を呼び起こすもの以外の何物でもない。
 オランピアは生気のない目つきを異形に向け、続けた。
「そしてこの子供のような者が、真祖と呼ばれるフカビトの王」
 異形は目を閉じたまま、口元に笑みを浮かべている。
「僕はまた王ではない」
 真祖が口を開いたことなど些事だとでも言うように、オランピアは淡々と言葉を紡いでいく。
「この者から、その子らが誕生する。その危険故、深王様が百年近く前に捕え、以後この灼熱の地、断罪の間に封じている」
「百年て……」
「短い時間だ。我々にとっても、フカビトどもにとっても……この星にとっても」
 呻くようなベルオレンの言に、オランピアはそう答えると、出口を真っ直ぐ指差した。
「さあ、これで深王さまの希望は達成された。深都に戻り、再び天極殿星御座で深王さまにお目通りして欲しい」
「え……これだけかい?」
「じゅ、十分でござるよ……」
 もう一度戦うのは御免だとでもいうように、ハガネは眉を下げて真祖を見やる。
 真祖は再度その赤い眼を開けていた。刹那目が合い、イーグルは息を呑む。
 微かに笑みすら浮かべながら、真祖は告げた。
「……お前のあるじに伝えておけ。僕は手抜きの食事に手をつけるつもりはないとな」
 オランピアは一瞬―――それまでの無表情が嘘に思えるほど激しく真祖を睨みつけた後、クッククローを出口に促した。


「なんか浮かない顔してるわね」
 ネイピア“支店”の店主にそう声をかけられ、イーグルは笑みを繕った。
「そ、そう?」
「樹海から帰ってきて、深王様にまた会いに行ったんでしょ? いいわね~、あなたたちは! あー私も深王様に会って癒されたーいっ」
 彼女はそう言って、カウンターのテーブルにつっぷした。そこいらに置かれた薬品が頼りなく揺れる。深王に会って癒されるのも彼女くらいなものだろうと思いつつ、イーグルは買い忘れのないよう、冒険の必需品を注意深く確認していた。
 この店舗は、使われていない研究室を間借りしたものらしい。埃を被った実験器具や、何に使われるのか分からない薬品なども棚に並んでいる。部屋の奥には精製炉と思しきものもあるが、店主曰く「何が入ってるかも分からないし、怖いから開けたことない」らしい。
 店主がじたばたと駄々をこねる音がやみ、再び落ちた静寂を、来客を知らせるドアベルが遮った。
「あ……いらっしゃいませ」
 途端、ぴんと背筋を伸ばした店主。丸くなった切れ長の視線を追えば、これもまたきょとんとした表情の、長い巻き毛の女性が立っていた。
 冒険者かと思ったが、女性は全く武装していない。それどころか、主婦が偶然見つけた店に立ち寄ったかのような体で、喜色すら顔に浮かべて踏み入ってくる。
「こんな素敵なお店、出来ていたのね!」
「えっとー……何かお探しで?」
 店主の言葉に、女性は「ただ見てるだけだから、気にしないで!」とだけ返すと、むしろ興味津々と言わんばかりに、イーグルに近づいてきた。
「貴方は、アーモロードの冒険者?」
「ええ、まあ」
 女性はぱちんと両手を合わせる。
「やっぱり! 見かけない人が最近増えてきたって思っていたところなの。貴方たち、海都から来たのね!」
 ぱっちりと開いた大きな瞳がイーグルを覗き込む。その深い紫に吸い込まれそうにくらくらして、イーグルは仰け反った。
「―――ねえ、貴方少しお時間はある? よろしければ、海都のお話を聞かせてくださらない?」
 無邪気な笑みを咲かせる女性に、イーグルは目をぱちくりとした。


 エラルナと名乗ったその女性は、深都の住民らしい。
 カイトたちと同じく、元々はアーモロードに籍を置く冒険者だったという。一方で彼女と―――その仲間は自力で深都に辿り着いたわけではなく、ギルドから支給される船で航海中に嵐に遭い、偶然深都に流れ着いたのだそうだ。
 本来なら深都にまつわる記憶を消され、海都に返されるはずだが、エラルナたちはそうはならなかった。
「私の夫……一緒に遭難した仲間が深王様に交渉して、深都のために働く代わりに、深都で生活することを許してもらったの」
 蒼い海を頭上高くに頂いた、狭い階段の隅に二人は腰かけている。深都は平地よりも斜面や階段の多い街だ。覆いかぶさるように伸びた世界樹の影が、白い砂浜に何処までも伸びている。昼夜の移り変わりは確かに感じるが、今の時刻までははっきりと分からなかった。
「……どうして海都に戻らなかったの?」
 イーグルの質問に、エラルナはやや苦笑して答えた。
「私たちね、駆け落ちしたの」
「駆け、落ち」
「駆け落ちして、アーモロードに辿り着いても……いつか追手に見つかっちゃうかもしれない。けど、深都なら誰も追いかけてこないだろうって」
 にっこりと微笑むエラルナだったが、イーグルは彼女が自分に声をかけた理由が分かった。
「深都に立ち入りが許されているのは、アーモロードの冒険者ギルドに所属する冒険者だけだよ」
「そうね。でもいつか、そんな決まりも取り払われて、深都と海都が自由に行き来できる日が来るかもしれない。それを否定してはいけないのでしょうけど……」
 不安げにエラルナは、膝の上で両手を握りしめた。
 深王は、世界樹の言葉に従い海都のために深都を海底へ沈め、魔―――フカビトと百年に渡る戦いを続けてきたと言っていた。深都を秘匿してきた理由は、フカビトの糧が、人がフカビトを理解したときに生じる恐怖という感情であるからだとも。だが一方でこうして、深都でひそやかに暮らしてきた人々の生活を守るためでもあったのかもしれない。
 それを考えると、深都を“発見した”クッククローのおこないは、はたして正しかったのだろうか。
 沈黙してしまったイーグルに、エラルナは気遣わしげに声をかける。
「ごめんなさい、貴方たち冒険者を責めるつもりはなかったの。私も冒険者だったから分かるわ、未知のものへの探求心……それに、元老院だって深都を見つけて欲しがっていたもの」
「元老院はどうして、あんなに深都に執着していたんだろう」
 はっと、今更のようにイーグルはそのことに気づく。
 そうだ。深都が隠されていた理由は分かったが、見つけなければいけなかった理由の方は明らかではない。
「どうしてなんでしょうね。私にも分からないわ」
 そう言いつつもにっこりと笑って、エラルナは続けた。
「ねえ、アーモロードはどう? ギルド長さんは、はばたく蝶亭の女将さんや、元老院のばばさまはお元気?」
 イーグルは瞬きひとつ、笑みを返した。
 ぽつりぽつりと、海都のことを話すたび、エラルナは嬉しそうに相槌を打つ。彼女の様子を見ながら、イーグルは出来るだけ詳細に、いまある海都の風景を説明した。口にすればするほどに、海の上にあるあの賑やかな都と、そこに住む人たちの明るい笑顔が浮かんできて何とも言えない気持ちになった。深都も美しく快適な都市ではあるが、やはりさびしい。例えるならアーモロードはうるさいくらいに色鮮やかに彩られた街で、深都はモノクロに沈む静かな街だと言えるだろう。
 エラルナも同じことを思っていたようで、ひとつひとつイーグルの言葉に、懐かしむように頷いていた。
「相変わらずなのね、あの街……私たちがいた頃と、変わらず、暖かい」
 寂しげに微笑むエラルナの横顔に、イーグルは尋ねた。
「エラルナさんと旦那さんは、深都で何をして生活しているの?」
「深都の治安維持よ。……この街は世界樹の結界で外界からの脅威に守られているけれど、内側で起こることに世界樹は関与しないから」
「へえ……」
 警備が必要な理由は、深都にも、わずかにでも人が生活するからだろう。
「フカビトと戦ったりするのは?」
「それは……また別の人の仕事ね」
 言葉を濁しつつ、エラルナは肩を竦めた。
「と言っても、治安維持だって夫の仕事。私はほとんど、彼のオマケみたいなものよ」
 自嘲するように呟くエラルナに、イーグルはきょとんとした。
「でも、それはエラルナさんが居るからでしょ?」
「えっ?」
「エラルナさんが側に居てくれるから、旦那さんも頑張れるんだよ、きっと」
 イーグルの言葉に、今度はエラルナが目を丸くして、言った。
「貴方って……」
「何?」
「……ふふ。ううん、何でもないわ。何でもないけど……イーグルくんは、女の子にもてそうね」
「ええっ」
「冗談じゃないわよ?」
「えーっ……」
 反応に困るイーグルを見て、エラルナはまた小さく笑った。


 ついつい話し込んでしまって、海の上から射し込む陽光がすっかり闇に閉ざされてしまっていることに、イーグルはようやく気づいた。
「あっ、俺戻らないと」
「そう? 残念ね」
 ぱっと立ちあがったイーグルにつられて腰を上げたエラルナは微笑みながら続けた。
「お話できて楽しかったわ。また機会があれば、貴方たちの冒険のことでも―――」
 言葉の途中で、エラルナは紫の瞳を大きく見開いた。イーグルの背後のものに目を奪われたらしく、イーグルはその視線を追うように振り返る―――立っていたのは、鼻の上に十字の傷を持つ、厳めしい表情をした背の高い男だ。への字に引き結ばれていた唇が開く。
「エラルナ」
「あら、シャクドー」
 シャクドーと呼ばれたその男は、肉食獣を思わせるような鋭い視線をイーグルに投げた。ぎょっと身を縮めるイーグル。エラルナが少し、怒った風に言った。
「シャクドー」
 男は眼力を緩めぬまま、エラルナを見る。彼女は動じなかった。
「―――アーモロードから来た冒険者さんよ。私が海都の話を聞きたいと、時間をいただいていたの」
「……話は終わったのだろう? なら、去れ」
「あ、はい」
「シャクドー!」
 素直に応じそうになったところで、エラルナの鋭い声が響く。思わずびくりと肩を竦めたイーグルをよそに、シャクドーは意に介さぬ様子だ。
 エラルナは額を押さえて嘆息する。
「……ごめんなさいね、イーグルくん。このひとはシャクドーといって、さっき話にも出た、私の夫よ」
「そ、それはどうも、はじめまして……」
 びくびくしながら腰を折るイーグルに、威圧感たっぷりの視線が降り注ぐ。
「じゃあ、俺はここで―――」
「待て」
 シャクドーはそう制止すると、エラルナを向いた。
「エラルナ、何を話した?」
「別に。ただの世間話よ」
 拗ねたように言う彼女にらちが明かないと思ったのか、シャクドーは矛先をイーグルに向けた。
「貴殿は何者だ? 何のためにエラルナに近づいた。何が目的じゃ?」
「だーかーら!」
「おぐっ」
 背中から思い切り手刀を入れられ、シャクドーが悶絶する。
 油断していたのか、それとも彼女が隙をつく名人なのか―――エラルナは、背中を押さえて蹲るシャクドーを見下ろし、ふんと鼻を鳴らす。
「本当にごめんね。このひと職業病みたいなものなの」
「あ、いえ……」
 深都の治安維持が仕事なら、ヨソモノどころか深都の静かな生活を脅かすかもしれない、海都の冒険者など目の上のたんこぶに違いないだろう。
 そう思うのは自然なことだったので、それをそのまま口に出せば、エラルナ夫妻はそろって目をぱちくりさせた。
「あのー……なんかすみませんでした」
「いや……」
 鉄面皮ながら、シャクドーはばつが悪そうに頬を掻いた。
「こちらこそ冷静さを欠いていたようだ、すまぬ。“上”の冒険者を受け入れるというのは、フカビトに対抗するための深王様の策と聞いてはいたのだが……」
「だから言ったじゃないの」
 肘でシャクドーを小突くエラルナ。イーグルは苦笑いを浮かべた。
 が、次にエラルナに対する言い訳のように呟かれたシャクドーの言葉に、それも引っ込む。
「いや、しかしカイト殿にはあまり冒険者と関わるなと言われていたのでな……」
「カイト? シャクドーさん、カイトをご存じなんですか」
 思わずそう尋ねたイーグルに、シャクドーはやや眉間に皺を寄せた。あ、やばい。また警戒される―――イーグルは頭を巡らせて、こう繕う。
「ええと、迷宮の中で会ったんです、彼らに。初めは彼らも冒険者なんだと思ってたんですけど、そこで話を聞いたところエラルナさんとシャクドーさんみたいに深都に住んでいるみたいだったから、治安維持が仕事なのかなって」
 早口だったので伝わりにくかったかと思ったが、シャクドーはひとつ唸った後、口を開く。
「いや……彼らはむしろ、貴殿ら“上”の冒険者に近しいだろう。深王から頼まれごとをされて、それによって動く役割だ」
「カイトくんは、別のこともやっているみたいだけどね」
「エラルナ」
「何よう」
 余計なことを言うなと目で訴える夫に、エラルナはむうと頬を膨らませる。
 イーグルは苦笑いを浮かべた。
「あの、そろそろ俺、行きますね。すみませんでした」
「あっ、またお話聞かせてね!」
 そのまま階段を駆け上っていくイーグルの後姿を見送ると、エラルナはシャクドーが何か言ってくるより早く、こう呟いた。
「彼、誰かに良く似ていると思ったら……そうね、カイトくんだわ」


 一方駆け上っているせいだけではない心臓の鼓動の大きさに、イーグルは最後の階段を登り切ると、ふうと息を吐いた。
 緊張した。エラルナには悪いが、シャクドーに尋問される前に逃げ出せてよかったと心底思う。
 だが息を整える間もなく、眼前の木から何かが降ってくる。
「ギャーッ!?」
「い、イーグル殿、某でござる!」
 イーグルの悲鳴のエコーが静寂に響き渡る。それほど驚かれると思っていなかったのか、慌てた様子でそれ―――ハガネは両手を突っ張った。通りの周囲に人気がないのを確認すると、彼はひそひそと話し始めた。
「先ほど、深都の住民と言葉を交わしておられるイーグル殿を見つけたのでござる。声をかけようか迷ったのでござるが、あの、シノビが近くにいたので……」
「シノビ?」
 エラルナは違うだろうから、消去法でシャクドーしかいるまいが。
「―――あの人、忍べるのか……?」
「人相は覆面で隠すことが出来るでござるよ」
 イーグルの心理を読み取ったらしいハガネはそう答えると、いつものようにハの字に眉を下げた。
「イーグル殿、何を話しておられたのでござる?」
「え、あ、いや……他愛ない、世間話だよ」
「世間話をあのシノビやその知り合いと初対面でやってのける、イーグル殿はさすが大人物でござるな……」
「そ、そんな大げさなことか」
「否……もし何か情報を得たのなら、共有したいでござる。一旦、瞬く恒星亭に戻りましょうぞ」
「あ、うん。そうだね」
 深王と謁見してからは各々深都で自由時間だったが、そろそろ皆宿に帰っている時間帯だろう。
 元々そのつもりだったが、ハガネと並んで歩き出しながら、ふとイーグルは思い出して口を開いた。
「ハガネは、アーモロードの元老院が深都を見つけたかった理由って知ってる?」
「理由……でござるか」
「そう」
 ハガネはやや俯くと、いつもの困り顔で答えた。
「例えば、件の……機械人形、であるとか」
「オランピア?」
「彼女そのものが目的であったわけではなかろうが、あそこまで精巧に人に似たモノは、海都の技術では作れぬでござる。あれが手に入れば、軍備の強化に繋がろうが……」
「アーモロードは海洋都市だし、そこまで魔物が多い海域じゃないと思うけど」
「で、ござるよなあ……」
「どこかと戦争するつもりなんて、ないだろうし」
 となると、とハガネは唸る。
「どのみち、見つけたい何かが深都にあると、思っておったのでござろうな」
「見つかったのかな……」
「分からぬでござるよ、御上の考えることなど」
 彼にしては珍しく、ハガネはそう、ぞんざいに返した。

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B11F

 ベルオレン少年の朝は早い。
 冒険者になってからは当然そうだが、なる前からも彼は早起きだった。燃えるような朝焼けが東の海を照らし出す風景。幾度となく住処である道場の窓から見下ろしたそれは、しかし、ベルオレンの期待する色とはどこか違う。毎朝目覚めるたびに居心地の悪さを感じながらも、待ち望んだ色が次の朝には訪れることを期待して、また同じ時間に目を覚ます。
 の、はずだったが―――
「ベル!」
 耳がキーンとなる。いきおい、ベルオレンはベッドから転がり落ちる―――否、誰かに横になっていたシーツをひっぺ剥されたのだと気づいた。
「あんたはいつまで寝てんの! もう皆支度済ませてんだよ!?」
 かしましく響く声に、ベルオレンは痛む首をもたげた。
 目元をつり上げた姉が、仁王立ちで、ベルオレンを見下ろしている。
「ってー……だからって、もうちょっと優しく起こせねーのかよ」
「何度も起こしたのに起きないからでしょーがっ」
「今何時?」
 ずいと突きつけられた懐中時計に、ベルオレンは一気に覚醒した。
「うおー、もう出る時間じゃん!」
「だから言ってるでしょうが……」
 頭を抱えるリンをよそに、ベルオレンはあくせくと身支度を整えだす。
「ベルが寝坊って珍しいね」
 隣のベッドで探索道具の確認をしているイーグルの言葉に、ベルオレンはしかめ面を向けた。
「アニキにだけは言われたくないぜ!」
「今日はぐっすり眠れた?」
 リンにそう問われて、イーグルは一瞬きょとんとした後慌てて答える。
「うん」
「そ。なら良かった」
 リンは、脚甲の着用に苦戦するベルオレンを一瞥すると、困ったように眉を寄せた。
「全く。イーグルの寝坊グセが移ったのかね? あんた、むしろ早起きだったじゃないか」
「枕が変わるとよく寝れねーんだよ、オレ」
「そんな繊細な性格じゃないでしょうに」
「うっさいうっさい」
 立ち上がって、加減を確かめるように跳ねると、ベルオレンは拳を握った。
「よっし、行こうぜ!」
「せめてお待たせしましたくらいは言いなよ……」
 やれやれとリンはかぶりを振った。


 ベルオレンは海都アーモロードで生まれた。
 物心ついた頃には既に両親は亡く、姉であるリンと共に、遠縁の親戚に当たるシオ爺の道場に預けられ、育てられた。なので生まれてこの方、ベルオレンはアーモロードを出たことがない。
 アーモロードは海に囲まれた島だ。そしてこの島には世界樹の迷宮という巨大な地下迷宮がある。どこから冒険しようか迷うほどの環境にあるにもかかわらず、ベルオレンはめっきり、自分の冒険心を試すことが出来ずにいた。
 理由はひとつ、リンの反対を押し切れなかったから、である。
 両親は海で還らぬ人になった。リンがそれを恐れてベルオレンが船乗りとなることを許さなかったのだろう。それがひょんなことから世界樹の迷宮に潜るようになってしばらく経つ。このまま冒険者を続けるのもいいかもしれない、とベルオレンは思い始めていた。何より一番うるさいはずのリンが、現状に何も言わない。船乗りと冒険者なんて似たようなモンじゃないかとベルオレンは思うが、そういう問題でもないらしい。
 ところがここにきて、ずっとリンは思い詰めたような表情をしている。
 まあ道場が焼けたせいだろうなあ―――とベルオレンは漠然と思っていた。ベルオレン自身も当事者のはずだが、とんと実感がわかない。あまり過去を引きずらない性分だからだろう。その分、姉のリンは実によく引きずる。めんどくさいなあと毎回思いつつも、突き放せないのは二人きりの姉弟だからだろう。
 奇妙なことと言えば、まだある。相変わらず戦闘ではシオ爺仕込みの鉄拳を唸らせているくせに、何故だか短剣を持ち歩くようになった。それも護身用にするにはずいぶん古びたものを。
 地下十一階の熱気を進みながら、ベルオレンは思い切って口火を切った。
「なー、姉貴」
「なんだい?」
 リンが振り返る。その肩越しに、ピアノーチェがまた断りもなくイーグルに抱きついているのが見えて、ベルオレンは唇を尖らせた。
 その拍子に何となく、本当に訪ねたかったこととは全く関係ない言葉が口をついた。
「よく考えたらアニキって、船乗りだよな」
「は?」
 眉を寄せて素っ頓狂な声をあげるのに、ベルオレンは不機嫌顔のまま応じた。
「いや、姉貴はオレが船乗りになるのには反対するのに、アニキはいいのかと思って」
「い、意味が分からないんだけど」
「旦那が船乗りなのはいいってことだろ?」
 リンの肩ががくっと落ちる。
「―――それって不公平じゃねー?」
「あ・ん・た・はっ! 何言ってんだ!」
 いきおい飛びついてきたリンをかわすことができず、ベルオレンの首にがっちりヘッドロックが決まる。
「あだだだだ!」
「何度も言ってるけど、いい加減にしな!」
「まあ」
「また唐突に姉弟喧嘩でござるな」
 のんびりした姫様と従者の声が聞こえてくるが、わりと真剣に助けてほしい。
「あたしは別にアイツのことなんてなーんとも思っちゃいない、よっ!」
 大声でわめくリンだが、そのわりに顔は赤い。
「あら」
 目をぱちくりとしたピアノーチェが、喜色満面の笑みで、呆けたままのイーグルにすり寄る。
「お聞きになりまして? イーグル様。まあどのみちイーグル様はわたくしのものですけど」
「えっ?」
「ざ、ざぜるがっ」
 隙あらばいちゃいちゃしようとするピアノーチェを見過ごすわけには行かない。首を極められたまま無理矢理ベルオレンは動こうとしたが、ごきゃっとイヤな音がする。
「ぐえっ」
「り、リン、ちょっと離してあげれば」
「すごい音がしたでござるよ……」
「まあ、なんと暴力的ですこと。見苦しいですわ」
「あんたが言うなっ」
 これ見よがしに柳眉をひそめてイーグルにすり寄るピアノーチェに、リンが吠える。
 ぎゃんぎゃんと収拾がつかなくなってきた―――ベルオレンの頭にもいい加減血が上ってきた―――ところ、「あっ」とハガネが声を上げる。
「皆様、隠れるでござる」
「ん?」
 ぴたと収まった騒ぎに、ハガネは人差し指を唇に押し当て、ちょいちょいと手招きをする。
「そのまま、某についてきて下され」
 言うや否やひょいひょいと、岩のごろごろ転がっている険しい道を乗り越えていく。
 ベルオレンたちは顔を見合わせながらも、ハガネのあとをゆっくりとついていった。次第に、静けさの中で浮かんでくる声がある。
 イーグルがはっと目を瞠った。
「あなたが侵入者ですか」
 ベルオレンにもぴんときた。
 聞こえてきたのはカイトとかいう、深都に住む星術師の声だ。
 岩壁に張り付くようにして、ベルオレンは声のする方向をそっと窺う。ベルオレンたちが隠れる岩壁の崖からさらにマグマの川を隔てて、ぽっかりとあいた広場のような空間が見下ろせる。そこに立つのはカイトとその仲間たち、そして―――
「深都に与する兵……いや、元冒険者、か」
 彼らをせせら笑うように、進もうとした道から振り返ったのは、クジュラだ。
「我々が止めにくることなど予想がついていたでしょう」
「そうだな」
 あっさりと認めたクジュラに、カイトは深々と嘆息する。
 話が読めない。困り果ててきょろきょろと見渡せば、目が合ったハガネが小声で告げてきた。
「どうやら深都の冒険者たちは、クジュラ殿を追ってきた様子でござるな」
「そういえば、冒険者以外で海都から深都以深に立ち入る奴がいたら、捕まえろってお達しが深王から出てたっけな……クジュラのことだったのか」
 ひそひそと会話を交わすベルオレンたち“クッククロー”に気づいた様子もなく、崖下のカイトは再び口を開いた。
「海都の……元老院の目的は何です?」
「おとなしく話すと思うか?」
 凍るようなクジュラの声音に、ベルオレンは固唾を飲んだ。一触即発のぴりぴりとした空気が、ここまで届いている。
 しかし、カイトは薄ら笑いを浮かべていた。
「正直に話せばいかがです。幻の都を発見するなどと冒険者を煽っておきながら、あなたがたにとってはフカビトの存在も、深都の実在も、ただの確認に過ぎなかったのでは?」
 何だって?
 ベルオレンは仲間を見渡すが、リンもピアノーチェも戸惑ったような表情を浮かべている。
 クジュラの表情はここからでは見えない。
「―――歴史的に見れば、百年なんてごく最近の出来事です。幾つか資料を当たればすぐ分かりますよ、この百年間ずっと病弱な姫様と、その忠実な友である女傑が海都を牛耳ってきたことなんてね」
「……何が言いたい」
「あなたたちは冒険者をなめすぎだ。もはや冒険者は元老院に利用されるだけの駒じゃない―――イーグル!」
 カイトの顔がこちらを向き、鋭くイーグルを呼んだ。気づかれていたのか。
 肩を竦ませたイーグルは、狼狽を隠さぬまま、しかしカイトから目をそらせずに息を詰まらせている。
 距離を隔てた二人を見比べて、ベルオレンははっとする。
 イーグルとカイト。
 二人はどこか―――似ている。
「―――海都と深都、何が正しく、何が間違っているかを判断するのは君たち自身だ。……アーモロードに戻りたまえ。今一度、元老院に真意を問うて来い。君たちは進んでよく首を突っ込むくせ、突っ込んだ先にある事の重大さを、まだよく分かっていないだろうからね」
 小馬鹿にしたように鼻を鳴らして、カイトはそう言い切った。前から何となく思っていたが、いけ好かない野郎だ。ベルオレンはカチンときた衝動のまま、岩壁から姿を見せるように立ち上がった。
「指図するんじゃねえ。オレたちだって冒険者だ!」
「なら漫然と足を運ばず、先に進むなら覚悟を決めろ」
「覚悟? そんなもん、いつだって―――」
「違う。僕らか彼ら、どちらかと敵対する覚悟だ」
 敵対。
 その言葉が重く圧し掛かり、ベルオレンは反論を飲み込んだ。何も言えないでいれば、黙ったままのベルオレンをよそに、カイトを見据えたままのイーグルが口を開く。
「……きみたちは?」
「深都の目的は明らかだ。海都を守るため、世界樹の力を借りてフカビトを封じ込め、いずれその魔を絶やす。僕たちはそれぞれに別の目的があるが、それの達成のために深都は不可欠だから、深都に与している。それ以上でも以下でもない」
「……そうだな」
 クジュラはゆっくりと、元来た道を戻りながら、ベルオレンたちを見上げた。
 三白眼には強い意志の光が宿っている。
 はっきりとした口調で、彼はこう続けた。
「元老院で姫様の話を聞け。真実が明らかになるだろう……そして、選ぶが良い。己の正義を」


 老婆はソファに深く腰掛け、眠っているように瞼は伏せられている。
 元老院を牛耳るはずの彼女は、しかし急に精彩を欠いたように縮こまり、じっとしていた。向かい合うように立つのはクッククローの冒険者たち―――彼らは、老婆の口からあかされるであろう真実を、じっと待っている。
 ややして意を決めたように、老婆は長い睫毛を上げた。
「深都の冒険者が言っていたことは、少なからず事実だよ」
 ベルオレンが口を開こうとするのを、阻むように老婆の隣で沈黙していた、白い姫君が立ち上がる。
「けれど、それが全てではありません」
「それにしたって……何故、冒険者をだますような真似をしたんだい?」
 リンの質問に、姫君はゆっくりとかぶりを振る。
「偽っていたわけではありません。ただ、隠していただけで……」
「同じさ」
 顔をしかめるリンに、姫君は悲しげに目を伏せた。
「深都が深都として存在するのは……この地に存在する世界樹との契約なのです」
「契約?」
「姫様……」
 気遣わしげな視線を送る老婆に、姫君は小さく頷いた。
「皆さまは海都と深都を行き来し、両方の都市の人々と交流を持たれていることでしょう……ならばお話せねばならないことだと、思います」
 深呼吸を一つすると、姫君は話し出した。
 世界樹はただの大樹ではなく、高い知性を有した、意識を持つ生物である。
 “彼”は自身を苗床とし生活する人々に、彼らの文明のレベルをはるかに超えた知識を提供する代わりに、自身の敵対する生物たち―――魔と呼ばれる化け物と、その眷族であるフカビトと戦うことを要求した。海底深くに沈んでいるその魔は、いずれ世界樹の敵というだけでなく、人類にとって大きな脅威になりうる。その言葉に従い魔を抑えるために、百年前の海都の王ザイフリートは、海都の一部と共に海に消えた―――
「しかし、この手段が正しかったのでしょうか?」
 百年が経過した今でも、王と共に沈んだ深都は魔と戦い続けている。
「水臭いと思わないかい? 人類の危険となる敵なら、みんなで協力して戦えばいいじゃないか!」
「……だから、あなたがたは深都を見つけ、彼らと共にフカビトと戦おうとしていた、と?」
 ピアノーチェの言葉に、老婆は強く首肯する。
「魔の問題は深都だけが背負うことじゃないさ。下手をすれば海都に住む人々が最初の犠牲になりかねない」
「それは……確かに」
 思わず肯定したイーグルを一瞥し、ピアノーチェが口を開いた。
「しかし、深都がそれを歓迎するとは限りませんわ」
「そうさ。だからあたしらはクジュラを使って独自に、魔の存在する海底への道を探しているんだ」
 それこそ光輝ノ石窟にクジュラがいた理由だろう。
 ぎらぎらとした光を取り戻した目で、老婆はじろりとクッククローを見た。
「あんたたちにも当然手伝ってもらうよ」
「ええっ?」
 クッククローは互いに顔を見合わせた。
 このまま元老院に従うことになれば、深都との関係は完全にこじれてしまうだろう。
 カイトの言葉がよみがえる―――“漫然と足を運ばず、先に進むなら覚悟を決めろ。僕らか彼ら、どちらかと敵対する覚悟をね”。
「私からもどうかお願いします」
 姫君はドレスの膝をぎゅっと握りしめた。
「―――我々だけでは、力不足は否めません。皆さまのご協力が必要なんです」
「何度だって言うけどこれは海都と、そして姫さまのためだからね」
 老婆が口を挟む。
「―――頼んだよ、クッククロー! あんたたちを一番頼りにしているんだからね!」


「って言われたってなあ……」
 元老院からの帰り道、宿への道のりを連れ立って歩くクッククローのうちから、ベルオレンが口を開いた。
「海都と深都、互いに目指すところは同じであるというのに、主張が異なるというのは一番厄介なところでござる」
「何とか仲良く協力して出来ないでしょうか」
 顎に指を添えて呟いたピアノーチェに、ベルオレンがからかうように言う。
「何だ姫さん、珍しいな。てっきり“分からず屋の深都なんてとっとと蹴散らして差し上げますわ”とでも言うかと思ったぜ」
「まあ、あなたと一緒にしないでくださいまし」
 つんとそっぽを向いて、ピアノーチェはイーグルの腕を取った。
「ねえ、イーグル様?」
「えっ……あ、うん……なんだっけ?」
 がくりとベルオレンの肩が落ちる。が、ピアノーチェは全く意に介さぬように答えた。
「両方の都に住む人々が協力しあえば、きっともっと上手くいくと思うのですわ」
「……そうだね」
 イーグルは、第三階層でクジュラと対峙していた“クッククロー”の姿を思い出した。
 深都との溝が深まれば、遅かれ早かれ彼らとも対立することになる。余程の事がない限り、真っ向から敵対しあうような事態にはならないだろうが―――カイトには、その覚悟さえあるように思えたのだ。そして同等の覚悟を、イーグルたち“クッククロー”にも求めている。それは全く根拠などなく、イーグルの予感でしかないが。
「姫様、ここらが潮時ではござりませぬか……」
 眉を下げたハガネの進言に、ピアノーチェは眉尻をつり上げる。
「何が潮時だと言うのです? 元老院も言っていたではありませんか、魔の存在する海底があの道の先には存在すると。存在することが分かっていた幻の都を見つけたから何だと言うのです、真の冒険者なら人類を脅かす魔を打ち倒してこそ! ですわ!!」
「ひ、姫様どんどん話が大きくなっているでござる!」
 奮起するピアノーチェに、悲鳴めいた叫びを上げるハガネ。
「姉貴は?」
「えっ?」
 突然話を振られ、リンは目をぱちくりとした。ベルオレンは気にせず繰り返す。
「姉貴はどう思う?」
「どう思うって……」
「オレは正直面倒くさいことになってきたっつうか……ぶっちゃけ、ヤバい臭いがする」
「某もそう思うでござる……」
「ま、冒険は続けるけどな」
「べ、ベルオレン殿ぉ……」
 味方かと思われたベルオレンがあっさり旗を翻したので、ハガネはいっそう哀れな表情になった。少々後ろめたそうな顔で、ベルオレンは応じる。
「だって、どのみちオレたちアーモロードの住民には他人事じゃねえだろ。深都だっていつまでフカビトを抑えていられるか、分からないんだろ」
「……それもそうだけど」
 リンはちらとイーグルを見上げた。
「あんたはどう思う?」
「え」
「元々あんたのためのギルドなわけだし。あんたが決めて」
「お、俺っていうか、ドンのだと思うけど……」
「でも、ドンが帰ってこいって言ったのは断ったじゃないか」
「う……」
 イーグルが冒険を続けると決めたのは、イーグル自身の意志だ。ギルドそのものの存続については、あまり考えたことがなかった。
 気づけば四人分の視線をじっと受け、イーグルは仰け反る。
「……ま、今すぐとは言わないよ。今まで通り元老院に従うか、深都の連中に同調するか―――それともここでリタイアか」
「リタイアだけはあり得ませんわ!」
「あんたは黙ってな! ……とにかく、明日の朝に答えを聞くからね、イーグル」
 有無をいわさず言い切られ、イーグルはこくこくと頷くことしかできなかった。


 イーグルはそっとアーマンの宿を抜け出すと、頭上を見上げて小さな息を吐いた。アーモロードの夜空は今日も晴れ渡り、吸い込まれそうな闇に散りばめられた星々が澄んだ光を放っている。大きく伸びをすると、イーグルは歩きだした。
 出来ることならカイトと直接会って、もう一度話がしたかった。そして聞きたかった―――彼は何のために、深都を目指したのか? エラルナたちのように、地上に居場所がない人物であるようには思えなかった。だとすれば彼は深都に求めた目的を、彼の地で達成することが出来たのだろうか。
 探索を始めて、半年が過ぎた。もう頃合いだと言って、ドンの海賊船にもう一度乗せてもらうことはおそらく出来るだろう。海の底から見上げた風景より、海の上で見渡す世界の方がイーグルは好きだ―――しかしその一方で、この広大な樹海の片隅に、何かを忘れてきたような感覚が、イーグルの中には残っている。それが頭に引っかかるような、居心地の悪さを伴っているものだから、イーグルは途方に暮れてしまった。明日の朝までには結論を出さなければいけないのに、いつも自分はこの調子だ。
 そこでふと、思う。
 カイトならどう考えるだろう?
 カイトなら―――
 もやがかった思考の中で、イーグルは顔をしかめる。また何かを思い出そうとしている、そんな頭痛がしたからだ。
 気づけば彼は広場に足を運んでいた。街灯に照らされた一角のベンチに腰を下ろすと、今度は深いため息がでた。
 もう一度、深都に行こう。
 あの調子のリンを説得できるかどうかは分からないが、もう一度カイトと―――可能ならその仲間たちと話して、決めよう。深王の信が厚い彼らの協力が仰げれば、深王と元老院を和解させることも出来るかもしれない。
 イーグルは立ち上がった。
 深都には存在しない高い空に浮かぶ月が、宿へ引き返すその足取りを見守っていた。


 翌朝。
「深都で会いたい人がいるって……ホント優柔不断なんだから」
 昨晩考えたことを正直に伝えて以来、リンはずっとこの調子でぶつぶつ文句を言っている。
「姉貴のやつ、またアニキが浮気してるから怒ってンだぜ」
 にやにやしながら耳打ちしてくるベルオレンに、イーグルは苦笑いを返した。
「いや、相手は女性じゃないし……それに、今朝に結論を出すって言ったのに、ちゃんと決められなかったのは事実だから」
 ため息をついたイーグルにきょとんとし、ベルオレンはばしばしとイーグルの背中を叩いた。
「元気出せよアニキ! アニキが優柔不断なのは今に始まった事じゃねって!」
「そ、それはそれで傷つくなあ……」
 苦笑いしながら、イーグルは一歩足を踏み出して樹海磁軸の紅の光に包まれる。転移先は深都の入り口だ―――が、光が弱まった瞬間、イーグルは胸倉を引っ掴まれてよろめいた。
「うわっ!?」
 白い砂の上にイーグルは倒れ込む。ずるずると磁軸から引きずられて行きながら、何が起こったか把握するよりも早く、首筋に押し当てられる鈍い銀色。
 細長い短剣だ。
「えっ!?」
「イーグル殿!」
 仲間たちが磁軸から飛び出してくる。一際素早く駆け寄ろうとしたハガネの足下を、イーグルの首筋にあるのと同じ短剣が打った。
 投げたその主を睨みつけるハガネ―――そこで初めて、イーグルは自分を羽交い締めにしている人物を見上げて、目をしばたかせた。
「シャクドー……さん?」
 覆面ではっきりとはしないものの、鼻梁に見えた傷痕が記憶を想起させた。案の定その剣呑な視線を浴びて、イーグルは息を呑む。
 自分の感覚が神経質でないならば、これは殺気というものだ。
「おい、アニキをどうしようってんだっ!?」
 刃物が間近にあるせいで、仲間たちは距離をあけてこちらの様子を窺うばかりだ。
 唇を固く結んでいたシャクドーは、ゆっくりとそれを開いた。
「貴殿らの此度の裏切り、深王様はご立腹だ」
「裏切り?」
「海都から許可を得ず、下層への扉の護り手の間に侵入した者がいる」
 仲間たちは一様に戸惑った表情を浮かべた。海都からの侵入者とは、クジュラの他にないだろう。
「―――深王様は貴殿らを信用し、深都を冒険者らに開放した。その恩を……」
「待って、誤解ですわ! わたくしたちも、彼を止めようと―――」
「なに?」
 ピアノーチェの一言に、シャクドーは眉間の皺を深くし―――といっても、砂に尻餅をついているイーグルが見上げられる範囲だが―――、幾分棘の抜けた声で応じた。
「それは報告されていない。貴殿らは、海都の味方ではないのか」
「オレたちは冒険者だ。誰の味方でもねーよ、勝手に決めんな」
 思い切り舌を出して、挑発するベルオレン。人質に取られたままのイーグルははらはらした。
 シャクドーは厳しい顔つきを崩さぬまま―――しかし、イーグルの首に巻きつけていた腕を離すと、肩を引っ張るように立たせ、仲間の方へと突き飛ばした。
「イーグル!」
「お怪我はありませんか?」
「う、うん、大丈夫」
「お主……」
「小僧」
 シャクドーの睥睨に一瞬怯むも、ベルオレンは敢然とそれを見返した。
「ンだよ」
「誰の味方でもないと言ったな」
 黙して続きを促すベルオレン。シャクドーは続けた。
「その言葉が本当かどうか、試させてもらおう」
 シャクドーは磁軸の後方を指さした。
 そこにあるのは、燃えたぎる熱と光を予感させる、洞窟の入り口だ。
 視線を戻せば、シャクドーはイーグルを見ていた。
「貴殿も知っている、深都の冒険者が侵入者を排除しに向かった」
 カイトたちのことだ。
 イーグルもまた、言葉を発さぬままシャクドーを見つめていた。
「―――灼熱の迷宮の最下階、護り手の間はそこにある。……行くか行かぬかは、好きにするが良い」
 彼は小さく溜息を吐くと、踵を返す。
「シャクドーさん」
「貴殿らは冒険者。何のしがらみも持たぬ自由の身だ。己が選んだ荷を背負い、己が信じる道を行け」
 白い砂が立てる足音だけが、遠ざかっていく。
 その背を呆然と見つめていたクッククローのうちから、ぽつりとリンが呟いた。
「見逃してくれた……のかね?」
「カイトたちが、クジュラを追って行ったと言っていたでござるな」
「追いかけませんと!」
「おい、待てって」
 樹海に駆け出そうとしたピアノーチェの首根っこをベルオレンが捕まえる。ピアノーチェは目を剥いた。
「何をしますのっ」
「落ち着けよ。追いかけて、何をしようってんだ? クジュラを捕まえるのに協力するのか?」
「それは……」
「下層への扉の護り手……とやらが何か分からぬが、クジュラ殿は下層に続く道を切り開く気であるのは間違いないようでござる」
「深都の許しを得ずにな」
「しかし、このまま見過ごすわけにもいきませんわ!」
 四人を見渡し咆えるピアノーチェ。
 イーグルは頷いた。
「そうだね。どちらにせよ、彼らに会いに来たんだし……」
「クジュラと深都の冒険者が一触即発ってんなら、せめてそれを止めるくらいなら出来るかもしれないね」
 リンの同意に、ベルオレンは溜息を吐いたが、ぱしんと自分のてのひらを拳で打った。
「決まりだな」
「むう……」
「あれっ、ハガネちゃんは不満げ?」
 八の字眉で―――いつもより納得していない様子のハガネだったが、ピアノーチェがその前に立ちはだかった。
「良いですか、ハガネっ! おまえの主人が行くと言っているのです、ついてくるのが当然でしょう!」
「し、しかし姫様……今度ばかりは……」
「ま、“主人”だけじゃねーぜ」
 肩を竦めて、ベルオレンは二人を通り過ぎる。
 足が向かうのは第三階層の入り口だ。
 それに続いて、リンが歩いていく。
「そうだね」
 困惑するハガネの肩を、イーグルは叩いた。
「俺も迷ったけど……“仲間”が行くって言ってるからさ」
 ハガネははっとすると、俯いてしまう。
 最後に続いたピアノーチェが、もう一度声をかけた。
「ハガネ、行きますわよ」
 ハガネは顔を上げると、無言のまま四人に続いた。

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B12F

 ついにこのときが来た。
 二つの意味で、彼は震えを抑えきれなかった。緊張か畏怖か―――いつか来るときと覚悟はしていたものの、己がこれほど臆病者だとは知らなかった。言葉が出ない。
「マスター?」
 無機質な声が、立ち並んだ隣の白い人形から流れ出る。人の手で造られたそれにすら、心の揺らぎを感知されて、彼は自嘲に笑んだ。
「大丈夫だよ、シェルナハ」
 後悔などない。これが分かっていて、彼は悪魔に魂を半分売ったのだ。
「―――行こうか。みんな、待っている」
 一人と一つが降りていく溶岩の道先には、仲間と敵と、彼らが待っている。


 溶岩の海を越え、汗を滴らせながら地下十二階の最奥へ急ぐイーグルたちクッククローの足下を、大きな地響きが先ほどからひっきりなしに揺らし続けている。
「もしかしてもうドンパチやってやがるんじゃ……!」
 言葉のわりには何故か悔しそうな口振りで、ベルオレンは拳を手のひらに打ちつける。
 彼を追って走りながらイーグルは呟いた。
「急がないと」
 胸騒ぎがやまないどころか、どんどん強くなっている。
 早く早くと急き立てられるように辿り着いた空間、壁の前に屈み込む影を見つけて、クッククローは声を上げた。
「クジュラ!」
「やっと来たか……遅い、ぞ」
 痛みを堪えるように顔をしかめて立ち上がるクジュラの足下に、鮮血が滴る。ピアノーチェが悲鳴を上げた。
「酷い怪我ですわ! 手当を……」
「必要ない。それより」
 クジュラは背後を振り返る。
 岩壁だと思われていたそれには細い切れ間があり、どうやら扉になっているようだ。そして地面を揺らがせる振動は、この向こうから続いているらしい。
「―――この先にある深層へとつながる道を、化け物のような巨兵が守っている」
「この音は?」
「巨兵と……深都が寄越した冒険者たちが戦っている音だ」
「カイトたち?」
 思わず扉に手をかけたイーグルをよそに、クジュラは息も絶え絶えに続けた。
「様子を見るために潜入したが……俺としたことが、このザマだ。しかし動き出した巨兵を止めることは、連中にもかなわぬらしいな」
「けれど、彼らの本意は巨兵を倒すことではないのでは?」
「だろうな。だがやむを得ずとはいえ連中が巨兵を倒したことが深王に知れれば……」
 ここでクジュラは咳き込み、しかしそれでも懸命に言葉を紡ぐ。
「敵とはいえ、主従に要らぬ誤解を生むのは忍びん。元は俺のせいでもあるしな。お前たち、連中の手助けをして、巨兵を討ってくれないか」
「クジュラさん……」
 激しい戦闘を思わせる撃音は扉の向こうで続いている。
 イーグルは仲間を見渡すと、頷いた。
「分かった、任せてください」
「……すまない、頼む」
 ずるずると力なく膝を折るクジュラ。
 彼を安全なところに待避させると、クッククローは意を決して、扉を開けた。


 土埃の中を、クッククローは疾駆する。
 走るうち、青く翻った騎士の着衣を見つけて立ち止まり、イーグルは叫んだ。
「スズランさん!」
 スズランは驚いたように目を見開いて振り返る―――が、まもなく眦がキッとあがったのを見つけ、イーグルは慌てて言った。
「落ち着いて! 俺たちはあなたたちと戦いに来たわけじゃないんだ」
「貴様は誰だ?」
 あ、そういえばほぼ初対面だっけ、とイーグルは間の抜けたことを考え頬を掻いた。地味だがイヤな展開だ。
「えーっと……ま、まあそんなことより、扉の護り手を倒さないと。協力してくれないか」
「断る」
「ええっ」
 声を上げたイーグルの目の前に岩が降ってくる―――逃げるまでもなく、スズランが盾でそれを阻んだ。一応助けてはくれるのが、彼女らしい。
「我々はそもそも、扉の護り手を倒しに来たわけではない」
「で、でも、止める方法なんて―――」
「それを今、仲間が探りに行っている」
 土煙を払う槍が、きょろきょろとさまよった。まるで何かを探しているように不安げなスズランの眼差しに、彼女がいつも守護している少年の姿がないことにイーグルは気づく。
「アルは?」
「……先程から探して……っ、貴様」
 射殺すほどの嫌気を帯びた視線が、しまったと思うべくもないイーグルを貫いた。
「あーえー、名前を知ってるだけというかその」
「貴様、一体何をどこまで知っている? 大人しく吐いた方が身のためだぞ」
 イーグルの方がよっぽど長身だというのに、胸ぐらを掴んだ左手一本で、容易く彼を持ち上げるスズラン。
 悲鳴がイーグルの喉の奥から絞り出た刹那、一際轟く金属音の後、煙幕から走り出た小さな身体があった。
「スズラン、来ます!」
「アル様!」
 逃げるように走ってくる少年に、スズランは目を見開いてイーグルを取り落とす。
 盛大に腰を打ったイーグルはのたうちつつ、アルの背後で巨腕をぐっと構える、機械人形の姿を見つけた。
「危ない!」
 ばちばちと火花を帯びる大気が細かく揺れていた。機械人形―――ゲートキーパーの体躯に途方もないエネルギーが集まっているのを感じる。装甲が重く速く走れないスズランを追い抜いて、イーグルはアルの腕を掴んだ。
 ゲートキーパーの溜め込む光が目を焼き何も見えなくなる。
 イーグルは無我夢中でアルを庇うように胸に抱き込むと―――意識を手放した。


「……、……」
 何を言っているのか分からないまでも、耳元に囁きかける、声。
 また夢を見ているのか。イーグルはぼんやりとそう思ったが、次第にはっきりする声に現実味を覚えた。耳鳴りが収まっていく。
 だが拾ったそれは声と言うには、あまりに抑揚なく言葉を吐き出していた。
「脈拍、正常。身体欠損及び損傷箇所ゼロ、意識障害……これより確認します」
「うわっ」
 超至近距離で自分をのぞき込む少女の顔に、イーグルはほぼ仰向けのまま虫のように地を這った。
 その奇妙な動きに、きょとんとしているようにも見える少女。しかし金属がむき出しになった無機質なボディが、少女がヒトではないことを如実に示していて、イーグルは思わず息を呑んだ。
「意識障害有り……混乱、状況把握に齟齬がみられます」
「シェルナハ、彼は気絶から回復したばかりですから当然ですよ」
 くすくすと笑う声に振り返ると、瓦礫の山で身を隠すように小さな少年が鎮座していた。
 薄汚れた金髪に、胸に抱えた大きな緑の帽子。笑みに細まる青い瞳と目が合って、イーグルは思わずつられたように笑んだ。
「アル、無事で良かった」
 ところが少年の大きな目がぱちくりとしばたいたので、イーグルはあちゃあと頭を抱えた。俺のバカ。
「不躾ながら、どこかでお会いしましたか? 名前を」
「えー、あー……」
 温泉ですれ違ったことを思い出したが、“会ったことがある”にしては短いコンタクトだ。
 何と答えようかイーグルが迷っているうちに、シェルナハが割り込んできて、こんなことを言う。
「マスターとシェルナハは、あなたの名称を“アル”と既認識しています。不備がある場合は訂正してください」
「へ?」
「ああ、ぼくが怪訝な受け答えをしたせいですね」
 慣れているのか、アルは教え込むようにゆっくりと、シェルナハの目を見て答えた。
「ぼくがアルという名なのは変更ありません、シェルナハ。間違っているのは、彼はあなたのマスターじゃないってところですね」
 きょとんとするのはイーグルの番だった。
 アルは苦笑を見せると、シェルナハの帽子―――のように見えるが、柔らかくはないらしい―――をぽんと叩いた。
「ごめんなさい。彼女はあなたのことを、自分のマスターだと“勘違い”しているようなんです」
「……ええと、“彼女”は?」
 シェルナハを指して尋ねれば、アルは微笑んだまま応じる。
「彼女のマスターが授けた名は、シェルナハ。古き深都の技術を用いて、人の手で甦らせた機械兵です」
「ああ、オランピアのような?」
「そうですね。彼女ほどヒトに近くはありませんが」
「マスター、標的Aが距離百にまで接近しています」
「……ええと」
 シェルナハに話しかけられたイーグルは、困惑をアルに向ける。が、彼も小さく肩を竦めるだけだ。
「“マスター”の件はさておき。標的A……ゲートキーパーの“体”の方ですね。見つかると厄介です、移動しましょう」
「“体”?」
「ゲートキーパーは、頭と体、二つのパーツから成る巨大な機械兵です。戦闘時はパーツに分裂する“分散”と、パーツが合体する“集中”を繰り返します。今は分散状態にあるようですが、頭と体はそれぞれ、属性攻撃と物理攻撃に耐性があります。相手をするのは容易ではありません」
「げっ……」
「そもそも、ぼくは戦うすべを持っていませんから、現状こちらの戦力では勝ち目がありません。シェルナハはマスターの命令しか聞きませんし……」
 そのうちにずんずんと地響きが近づいてきた。
 アルは未だ尻餅をついたままのイーグルに手を差し伸べてくる。
「立てますか?」
「あ……うん」
 素直に手を借りて立ち上がったイーグルは、移動しつつあるアルとシェルナハについていきながら、恐る恐る口を開いた。
「その……俺、海都の冒険者なんだけど」
「はい、そうだろうと予測していました」
 答え淀むイーグル。
 アルは続けた。
「確かにぼくたちは深都の冒険者で、海都と深都の確執は知っています。けれど、あなたはぼくを助けてくれました。今はそれだけが、ぼくらの全てで構いませんよね?」
 そう言って、アルは柔らかい笑みを浮かべて片手を差し伸べる。
 安堵の心地で、イーグルは頷いてみせた。
「俺はイーグル。よろしく」
「よろしくお願いします、イーグル」
 握ったアルの手は小さく、あたたかい。
 どこか感じる懐かしさが、イーグルの胸を締め付けた。


 ほぼ同時にお互いに気づいて、ハガネはすぐ武器を身構えた。
 数メートル先からハガネを見据える剣呑な目つきは、ハガネ自身を鏡に映したかのようにそっくりのはずだ。ぴんと張られた緊張の糸を震わせるかのように、相対する彼女―――スズランは吼える。
「よもやこんなところまで追って来ようとは、ハガネ!」
「スズラン……」
 彼女が護っているはずの少年―――いや、何者でもない、あの子供の姿は見えない。もしやはぐれたのかと思考を巡らせる間もなく、重い槍の一撃が、ハガネが跳びずさった地面を割って、岩盤を破壊する。
「落ち着くでござる。こんなところで争えば、共倒れに―――」
「貴様を殺れるなら、私は倒れても本望だ。アル様には指一本触れさせぬ!」
「だから―――」
 二撃目。
 聞き分けがないのは昔から変わっていない。ハガネは小さく舌打ちをする。
 叩きつけられた土が飛び散って視界を汚した。ゲートキーパーがすぐ側に迫っているのは、ハガネには感覚で分かっている。その気配に気を取られるあまり、足下の溶岩にハガネは気づかなかった。
「っ……」
「あああっ!!」
 体勢を崩したハガネに気合一閃、飛びかかろうとし―――スズランの顔が、勢いのまま地面に激突した。
「えっ」
 思わず、素の驚きが出る。
「落ち着けっての!」
 良く通る男の声。
 スズランの鋼のブーツを地面に縫いつけたのは、巨大な弩から放たれた矢だった。
 弩を担ぎ上げた髭の男は、高台からいとも簡単に飛び降りる。
「きーさーまー……」
 土にめり込んだ顔面を、ぼこっと取り外したスズランは、鼻を真っ赤にしたまま男を睨みつけた。一方の男はへらへらしながら、ハガネを見ている。
「よう。おまえさんもお仲間とはぐれたのかい?」
 気さくそうな髭面には見覚えがあった。スズラン―――ひいては深都の冒険者一味の一人だったはずだ。じりと後ずさる用意をしたハガネの背後に、覚えのある気配が近づく。
「イーグルたちは、この辺りにはいないみたいだねえ」
「あっ、ハガネ! おまえ、わたくしという主君を置いてどこをほっつき歩いていたのです!」
 リンとピアノーチェだ。思わず目を見開いてぽかんとしてしまったハガネの耳に、髭の男の明るい大声が閃く。
「よう、お嬢さんがた! そっちはどうだった?」
「この部屋、相当広いね。出入口も見当たらないし、うろうろしているうちにゲートキーパーに見つかりそうだったから、引き返してきたよ」
「わたくしたちが発見したのは“体”だけでしたわ。全てを砕く恐ろしい威力の光を放ったあと、部品ごとに分離したようですわね」
 淡々と報告する娘二人に、髭の男は顎髭を掴んで唸る。
「なるほど。俺も逆側を見てきたが、あっちにいるのは“頭”だった。二体はそう離れていないし、挟み撃ちされると厄介だな……」
「貴様、敵と何の話をしている?」
 ようやく起きあがったスズランが、不機嫌を隠さないまま髭の男を睨む。男は「おお怖」とおどけるように返しつつ、こう答えた。
「仕方ないだろ、共同戦線だよ。事態が事態だ」
「アル様やティティを見つけるのが先決だろう!」
「そうしたいのは山々なんだがね。何せここは広すぎるし、こッわいお人形も彷徨いているときた。あちらさんも手勢が足りないみたいだし、手分けして状況を確認しつつ、仲間を見つけていってるところだよ」
 “あちらさん”のところで顎でしゃくられたピアノーチェは、鼻息荒く胸を張る。
「そういうことですわ。まああなたがたの行方不明者は残り三人なのに対し、わたくしたちは残り二人ですけれども」
「何の戦いだよ……」
 呆れたように肩を落として嘆息しつつ、リンはハガネを見た。
「とはいえこれで五人……か。分離状態のどちらか一体なら、戦えるくらいの人数にはなったね」
「えっ」
「共同戦線だと!? 勝手に決めるな! 私は絶対にごめんだぞ!!」
 槍を握り締め激高するスズラン。困ったように髭の男は頬を掻く。
「だけどよ、アルを見つけるにしても、一緒に行動していた方が何かと安全なんじゃねえか?」
「う……」
 ここで髭の男はハガネを見た。
「そこのシノビさんもよ。あんたらの事情を俺は知らねえが、一時休戦といこうじゃねえか。死ぬ確率を上げるより、生き残る方にベットした方が冒険者としちゃ建設的だろ?」
「そうでござるな」
 元より争うつもりのなかったハガネはあっさりと頷いた。背後のリンとピアノーチェがきょとんとしているので、先の諍いは見られていなかったらしい。都合が良かった。
 唯一この状況に納得がいかない様子のスズランの頭を、髭の男が機嫌良く、無遠慮にぼすぼすと叩いている。
「俺はサイモン。このピリピリしたお姉さんはスズランちゃんだ。じゃ、改めてよろしく頼―――おごっ!」
 最後の悲鳴はスズランの鎧に守られた肘鉄が、サイモンの鳩尾に突き刺さったものである。


「ふーんふんふんふーん」
 ご機嫌な鼻歌なんぞを歌いながら、女がひとり、歩いている。道なりに並ぶ岩をぺしぺしと手で叩き、空いた片手を指揮するように振り回している様子は、年頃の女の造作にしては幼すぎて異様だ。
 褐色の肌に布一枚まとっただけの奇妙な装いの背中の上を、茶けた色素の薄い髪がふわふわと揺れている。ベルオレンはその後ろを、物陰に隠れながら、注意深く追いかけていた。深都の冒険者だろうが、他の仲間はいないようだ。ベルオレン自身仲間を見つけていないので、とりあえずこうして観察しているのだが。
「ふんふーんふん」
 楽しそうにくるりと指先を回したと思うと、銀の籠手に埋め込まれた赤い宝石が淡く光を放つ。やがて光が意志を持つかのように何かを象ってかき消えると、小さなサイミンフクロウが宙に浮いていた。
「げっ!?」
 ベルオレンは咄嗟に口を手で押さえる。しまった。
 女が振り返ると同時に、サイミンフクロウがその手から飛び立った。真っ直ぐ向かうのはベルオレンが隠れている岩壁―――
 ベルオレンはとっさに躍り出て、剣を構える。
 が、女はこう叫んだ。
「だめっ、ミンミン!」
 キキキッと空中で急停止するように両足を突っぱね、サイミンフクロウはベルオレンの顔前で制止した。
 迎撃しようにも何だか拍子抜けした気分で、ベルオレンは女を見る。
「だあれ?」
 舌足らずに首を傾ぐ女。ベルオレンは逡巡したが、答えた。
「オレはベルオレン。おまえは?」
「ティティ!」
 ぱっと笑顔を咲かせると、ティティはベルオレンの正面でホバリングしているサイミンフクロウを指して、
「ミンミンだよ!」
「はいはい……」
 何だか一番厄介そうな奴と最初に遭遇しちまったなあと思いつつ、ベルオレンは咳払いした。
「ティティ、おまえの仲間はどうした?」
「わかんない。ティティ、さがしたほうがいい?」
 小首を傾げるティティ。ベルオレンは呻いた。正面からあらためて見ると可愛いと思ったが、好みのタイプではない。胸がデカすぎる。
「探せるのか?」
「んー、おっきいこえでよんだらね、きこえるかも」
「そういうの、探すって言わねえよ」
「じゃーモグラさんにたーのもっと!」
「モグラ?」
 ティティはまた腕を一振りする。淡い光が今度は地面に降り、鮮やかな色をした土竜の形になった。
「モグラさん、おねがーい!」
 こくこくと小さな顎を振り、大きい爪を地面に突き立てると、土竜は地中に潜っていく。
 そこで、サイミンフクロウの姿が何処にもないことに気づく。
「なあ、さっきの鳥は?」
「ミンミンはおやすみだよ!」
 要領を得ない。ベルオレンはずんずんティティに近づいていくと、籠手のある腕を乱暴に取った。
「きゃっ」
「コイツから出てたよな? どういう仕組みなんだ」
「やー!」
 振り払おうとするティティを無視して、ベルオレンは籠手の宝石に手を伸ばした。
 と。
「っでェ!?」
 後頭部を思い切り蹴飛ばされたような衝撃で、ベルオレンは前のめりに顎から地面に激突する。とっさに避けたらしいティティは目を丸くして、ベルオレンを吹っ飛ばした主を見た。
「モグラさん?」
 土竜の魔物は軽やかに地面に着地すると、誇らしげに胸を張った。ティティはその傍に屈みこむと、頭を撫でた。
「はやかったねー」
「……くっそ、いててて」
「だいじょぶー?」
 ティティは恐る恐るというようにベルオレンに手を伸ばす。反射的に払いのけそうになったが、土竜に睨まれたのでやめておいた。
 ティティはコブが出来たベルオレンの後頭部を、子供にするみたいになでなでとさする。
「いたいのいたいの、とんでけー」
 おまじないのような言葉だったが、確かに痛みは引いていった。これはモンクの癒しの術だ。
「ヒーリングが出来て、胸がでかいって、どっかの誰かさんみてーだな」
「?」
「ま、乱暴モンではねえか……ありがとうよ」
 立ち上がったベルオレンの耳に、風を切る音が届く。
「何だ―――うわっ」
 それが近づいたかと思うと、突風がベルオレンたちを通過し、止まる。船が揺れるときにも似た不気味な駆動音を響かせて、覆いかぶさるような影はゆっくりと降りてきた。
 土竜が怯えたように、戸惑うティティのそばに寄り添っていく。その様子を見ながらベルオレンは口角を上げてひとりごちた。
「コイツを見つけたから、戻ってきたってか……」
 頭上に浮かぶその影は、平たい兜のような形状をした金属にも見えた。人がつけるにしては幾分大きすぎる。魔物というにはあまりに息吹を感じない硬質さのくせに、二つ宿った赤い光はまるで生き目のように動くと、ベルオレンたちを見つけて一際輝きを増した。
「ひっ」
「さがれ!」
 肩を竦めるティティを庇うように、ベルオレンは剣を抜いた―――先ほど対峙した機械人形の“頭”と思しきその物体は、その動きに反応したかのように熱線を放つ。
「うわちっ!?」
 予備動作もなくベルオレンの足元を撃ったそれを辛うじて回避し、ベルオレンは地を蹴った。体重を乗せた重い一撃が“頭”に加わる―――と思いきや、金属を思い切り殴ったときのような衝撃としびれがベルオレンに伝わる。全身を回転させた“頭”の角に引っかけられて、ベルオレンは吹き飛んだ。
「うわあああ!」
「モグラさん!」
 ティティの呼び声に応じるように、駆け付けた土竜がベルオレンの下敷きになり彼を庇う。
 だがベルオレンが体勢を立て直すより早く回転を止めた“頭”は、真下の噴出孔をこちらに向ける。
「くっ」
 近づくティティを庇おうとしたが間に合わない。
 叩きつけるような冷気―――を肌に感じた瞬間、それが掻き消えた。はっとするベルオレンが見つけたのは、自分たちを守るように目の前に展開された、光筋の走る透明な壁だ。
「ベル!」
 背後から聞こえてきた自分を呼ぶ声に、ベルオレンは喜色を隠さずに振り返る。
「アニキ!?」
 駆けてくるのはイーグルと、金髪に大きな緑の帽子を乗せた少年だ。
「ティティ、良かった。無事ですね」
「わーいアル!!」
 ティティが少年に抱きつくのをよそに、ベルオレンは立ちあがってイーグルに駆け寄る。
「アニキ、良いタイミングで来てくれたぜ!」
「ティティと合流してたんだね。他のみんなは……見つけていないのか」
「あ、うん」
 周囲に目を配るイーグルがティティの名を知っていたことに驚きつつ、追及はあとにすることにして、ベルオレンは無機質に響いた声に頭上を見上げてぎょっとした。
「マスター。四十秒後に電磁バリアを解除します」
「ありがとう、シェルナハ……ええと、きみは戦えるんだよね?」
 イーグルが呼びかけた先―――数メートル上空に浮いているのは、オランピアのような機械人形だ。
「ワタシは戦闘機能を有するアンドロです。マスターの命令に従います」
「分かった。何が出来るのか教えてくれると助かる」
「アニキ、アレは……?」
 淡々と会話する“アレ”―――シェルナハという名なのだろうか―――とイーグルを見比べるベルオレンに、イーグルは短く答えた。
「説明はあとだ。とりあえずゲートキーパーに集中するぞ!」
「お、おう」
「ティティもたたかう!」
 ベルオレンに近づいてきて、槍を抱えたティティはにっこりと笑う。その隣にいた金髪の少年が、ベルオレンに片手を差し伸べた。
「ぼくはティティの仲間で、アルといいます。彼女を守ってくださったそうで、ありがとうございました」
 ティティの仲間ということは、深都に味方する冒険者のはずだが、これもまた冒険者像とはかけ離れて非力そうな子供だったため、ベルオレンは毒気を抜かれた気分で手を握り返す。
「ベルオレンだ」
「はい、ベルオレン。あなたも一緒に戦ってくれますか?」
 ベルオレンはちらとイーグルを一瞥し、正面を向く。
「アニキがやるってんなら、オレも戦うに決まってるさ」
 薄らいできた障壁の向こうに、ゲートキーパーの“頭”が変わらず空中に鎮座しているのが見えた。


 防ぎきれないと判断したスズランが、ゲートキーパーの“体”の下から抜け出すように退きさがる。
「くっ」
「大丈夫かい?」
 側に駆け寄ったリンは怪我の確認をしようと手を伸ばすが、身体を捻ったスズランに、それは振り払われてしまった。
「あ……」
 反射的だったらしい。剣呑な目つきから驚いたように刮目した彼女は、しかし何か言い繕うより早く、最初の目つきを取り戻してしまう。
 突き飛ばされ、リンは転倒する。衝撃とも破裂音ともつかぬ空気の圧力。押しとどめたのはスズランの盾だった。
「ぐ……」
 振り下ろされた槌のような、鈍色の腕が盾の向こう側に見える。
「スズランちゃん、そのままだ!」
 鋭いサイモンの声が響いたと同時に、巨大な矢が“体”に激突する。矢自体のダメージは大きくなさそうだったが、スズランが飛びずさった途端、矢からいかずちのような光が迸り、“体”に駆け巡った。ゲートキーパーの動きが鈍る。
「どうだア!」
「貴様、私まで巻きこむつもりかっ」
 文句をがなり立てるスズランに、サイモンはウインク一つ誤魔化した。
「はあっ!」
 ピアノーチェの突剣が、“体”の胴体と腕を繋ぐ関節部に突き刺さる。見る見る凍りつくそれに、ハガネが投げつけた苦無が追い打ちをかける。
「物理攻撃はあまり通らないようですわね」
 着地してこちらに近づいてきたピアノーチェは、スズランに声をかけた。
「あなたの槍にも、属性をつけて差し上げますわ」
「必要ない」
「まあ。遠慮なさらずに」
「要らんと言っている」
 素っ気ないスズランの態度に、ピアノーチェは目をぱちくりすると、憮然として呟く。
「これだから女性騎士は可愛くありませんこと」
「来るぞ、散開しろ!」
 サイモンの喚起に、女たちは散り散りに四方へ走る。振り返って“体”の動きを目で追いながら、リンはひとりごちた。
「イーグルたちは、無事っ、かね!?」
 風切る刃を潜り、鉄の拳を跳び越えて、リンは“体”の胴体へと向かう。
「破!」
 気合の声と共に、炎の練気を宿らせた拳を疾風のように繰り出す。ゲートキーパーの“体”はいきおいぐらつき、壁に激突する。
 着地したリンは深呼吸しながら敵の様子を窺った。一点を集中して打ったが、“体”の胸板には僅かな凹みを生じたのみだ。金属にしても余程の強度があるのだろう。
 駆けてくる気配に振り返れば、スズランが立っていた。何となくぽかんと呆けた顔をしている。
「……素手……か?」
「? そうだけど」
 一方のサイモンはどこか困惑しているようだ。
「その怪力、もしかして―――」
「あれを!」
 ハガネの声に振り返れば、崩れた壁を隔てた向こうに土煙が上がっているのが見えた。同時に地響きも伝わってくる。
「あっちでも誰かが戦っている……?」
「イーグルどのたちでござろうか」
「皆さん、ゲートキーパーが!」
 沈黙していたゲートキーパーの“体”がめり込んだ壁から抜け出すようにぐぐぐ、と全身をもたげる。追撃しようものなら背後の壁が崩れてくるだろう。ゲートキーパーの反撃に備える五人―――しかし“体”は壁から脱出するとゆっくりと離陸し、一目散に上空を滑空していった。
 “体”が引きつれていった突風になんとか目を開けながら、“体”が向かった方角を見やる。それは先ほど土煙が見えた付近だった。
「急ごう」
「だな」
 何も言わずとも同じ考えだったようで、五人は“体”を追うように駆け出した。


 シェルナハの砲撃で吹き飛んだ“頭”を追ってきたイーグルたちは、もうもうと上がる土煙の中、赤い目の輝きが今までよりも上空に存在することに気づいた。そして“頭”の下に、それを支える巨大な土台―――“体”があることにも。
「合体しやがったか……」
「イーグル様、ベルオレン!」
「アル様!!」
 宙に浮くゲートキーパーの巨躯を挟んで、流れる溶岩の川の向かい岸に、リンたち三人の仲間と、スズランが見えた。その後ろを、ひいはあ言いながらサイモンが追い付いてくる。
「お、おっさんにはキツイね、この距離……」
「スズラン、カイトは!?」
 アルの質問に、スズランはかぶりを振る。それを見て、アルは独り言のように呟いた。
「やはり間に合いませんでしたか」
「シェルナハはカイトの代わりじゃ?」
 イーグルが問うと、アルは重々しい表情のまま頷いた。
「そうですね、実はカイトと彼女が先行して、ゲートキーパーを止める手立てを探していたんです。ぼくたちが部屋に突入してちりぢりになった後、シェルナハがいるのを見て、もしやと思ったんですが……」
「カイトはどこにいるんだ?」
 アルはかぶりを振る。
 言葉にしなかったのは多分、ゲートキーパーが腕を大きく振り上げたのが見えたからだろう。
「おいおい、マジかよ……」
 サイモンが頬を引きつらせた。あの構えは“天地双覇掌”というらしい最大の攻撃の、予備動作だ。足元は先だっての激しい戦闘のせいで大きく崩れ落ち、既に足場らしい足場は目視できる限りでは現状立っているあたりにしか存在しない。ほとんどが、溶岩の川と海に飲み込まれるか、今にも崩れそうに荒々しく積まれた瓦礫の山と化すかの運命を辿っている。
「攻撃は一度のみ防ぐことが出来ます」
「シェルナハ?」
「本当ですか?」
 ゲートキーパーを見据えるようにして、シェルナハは淡々と続ける。
「しかし足場を守ることは出来ません。攻撃が着弾する前に、総員安全な場所に退避してください」
「安全っつったって、何処に―――」
「アレじゃね?」
 ゲートキーパーの立つ奥に、扉が見える。出口か入口か分からないが、その付近のみ何かに守られているかのように、瓦礫の塊ひとつ落ちておらず、はっきりと床の見える空間が広がっていた。
「走るぞ!」
 そこまでの距離は、リンたちのグループよりもイーグルたちのグループの方が遠い。駆け出した人間たちを追うように、エネルギーを溜めるゲートキーパーの向きが変わっていく。
 アルたちを先に行かせ、イーグルはふと気づいた。
 シェルナハが先ほどの位置から動いていないのだ。
「シェルナハ!」
 丁度振り返った瞬間、震動がイーグルの膝を揺さぶった。攻撃が来る、と覚悟した直後に、崩れていく地面と炸裂する光。
 だが叩きつけるような衝撃は今度は来なかった。不思議な力で守られているような感覚だけがある。これが、シェルナハが“攻撃を防いでくれた”からなのだろうか。
 イーグルは何とかティティを安全な空間に押し込むことに成功すると、一人崩れる地面に立ち尽くすシェルナハに駆けていく。後ろから誰かの声が聞こえた気がしたが、もう視覚も聴覚もほとんどが真っ白に塗りつぶされてしまってわけがわからない。
 ただ、シェルナハを見捨てるわけにはいかない。
 その一心で手を伸ばした刹那、身体が宙に浮いた。
 足場が崩れたのだ―――
 悲鳴を上げることも出来なかったイーグルの腕を、誰かがしっかりと掴んだ。


「……あれ?」
 落ちるとばかり思っていたイーグルは、落ちも昇りもしない状況に首を捻る。
 頭上に伸びた腕は、二本の紫の袖が、しっかりと掴んでいた。
「……自力で……上がってくれ……っ」
 垂れ下がった首と長い髪から、イーグルを支えてくれている“彼”が、余程この状況に耐えていることが窺える。
「ご、ごめん」
 イーグルは突き出た岸壁に足と手をかけ、何とか壁を登り切ることに成功する。隣を見れば、まだ辛そうに肩で息する彼の背を、シェルナハが機械的にさすっていた。
「マスター」
「ああ、大丈夫だ……ったく、本当に世話が焼けるね、きみは」
「助けてくれてありがとう……ええと、カイト?」
「何だい」
 彼―――カイトは髪をかきあげると、疲れた顔をイーグルに向けた。
「どうしてここに―――」
「マスター、早急に処理すべき懸案事項が二つ」
 イーグルの疑問を、シェルナハが遮った。カイトはそちらを優先させる。
「言ってみたまえ」
「一つ、標的Cは活動を停止していません。再び分散すると撃退可能率が激減します」
「近くにいるか?」
「索敵中です。それと……」
 シェルナハは、立ちあがったカイトに次いで起立したものの、イーグルを見下ろしている。
「マスターが二人います。このままではワタシの命令系統に支障が生じますので、修正を」
「あ……シェルナハは、俺をマスターだと勘違いしているみたいなんだ」
「勘違い?」
 カイトは怪訝に眉を上げるなり、こんなことを言いだした。
「とんでもない。シェルナハ、おまえはやはり優秀なアンドロだ。苦労はしたけどこの僕が造ったんだからね、当然だよ」
「……話が読めないんだけど」
「そんなことはいい。ゲートキーパーを処理しなければ」
 土煙がようやく晴れてきた。カイトは手元の書物を捲りながら、星術器を起動させる。
「ふむ……これだけの人工生命体を葬るのは少し気兼ねするが、背に腹は代えられない」
「倒すのか?」
「止める方法はない。なに、ゲートキーパーは時間を置けば復活するから問題はないよ」
 カイトは星術器の羽を展開すると、口元で笑った。
「―――術を試すのにうってつけだしな」
「何―――」
 そのとき、イーグルの胴を持ち上げるように、シェルナハが飛びついてきた。
「うわっ!?」
「マスターの命令はありませんが、危険と判断したため退避行動に移ります」
「カイトは!?」
「星術が術者に影響を及ぼすことはありえません」
 シェルナハの言葉とほぼ重なるように、頭上から空気を切る音が飛来する―――ゲートキーパーがいるらしき、正面の影へと。“らしき”というのは、新たに舞い上がる砂塵のせいで機械人形の姿が確認できないからだ。かろうじて分かるのは、室内だというのに頭上から燃える岩の塊がいくつも降ってきているという信じがたい光景と、それをカイトが操っているということくらいだ。
「な、何が起こってるの?」
「術式の一種です。原理としては三次元展開された座標軸上に彗星を模した術式を、疑似的に加速度を付与して召喚、発動させています」
「よく分からないけど分かった、ありがとう」
「マスター、今の言葉の説明を求めます。“理解できない、しかし理解した”とはどういう意味でしょう?」
 不毛なやりとりをしている間に、カイトの術式が止んだ。ゲートキーパーは瓦礫の底に沈んでしまったのだろうか、姿を確認することが出来ない。
 仲間たちの声が遠くから聞こえる。イーグルはとりあえず、星術器を収めているカイトへと近づいた。
「終わった……の?」
「ちょっとやりすぎたかもね」
 肩を竦めるカイト。その隣に、シェルナハが並ぶ。
「マスター、マスターが二名いることに対する、シェルナハでの情報処理の如何を決定してください」
「そのままさ、シェルナハ。マスターは二人いるよ。両方揃っているときは僕の指示を優先するように」
「了解しました、マスター・A」
「せめて名前にして」
「了解しました、マスター・カイト」
「なんだか……まだ夢でも見ている気分だよ」
 ゆっくりとかぶりを振りながら、イーグルは呟いた。
 正面にはカイトが立っていて、イーグルを見ているわけだから、“夢”であるはずはないのだが。
 ところがそのぼんやりとした思考を一気に覚醒させるように、カイトは鼻で笑う。
「君は“夢”だと思っているんだな」
 はっと、イーグルは顔を上げた。
 呆れたように細められた、青みがかった碧眼が、イーグルを見つめている。
「本当に“夢”だと思っているのか? ……違うね、現実だ。君も本当は気付いてるんじゃないのか」
「何を……」
 彼は何を知っているのだろう?
 胡乱げなカイトの視線。
 やがて、その瞼が伏せられると、カイトの首が緩やかに、左右に振られた。やれやれとでも言いたげに。
「“夢”というのは記憶の整理を行う脳の造作だ。君は追体験しているに過ぎない、かつて起こった出来事を。消しきれなかった記憶の残滓が君にそれを見せているに過ぎない」
「消しきれなかった……記憶?」
「僕が何を言っているのか、何を言おうとしているのか分からない様子だね、イーグル」
 息を呑むイーグル。肩を竦めて、カイトは答えるように言った。
「何故そんなこと分かるのかって? ……それは僕が君だからさ」
「え?」
 カイトは皮肉げに口角を上げると、自分とイーグルの胸を指しながら続ける。
「僕たち二人は、もとはひとりだったんだよ、イーグル」 
―――隠すことなど何もない、と言いたげに。

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第四階層

▼[B13F]一番下へ▼

B13F

 イーグルは呆然と、目の前の男を凝視していた。
 もとはひとりだった―――彼と自分が?
 あり得ない、そもそも“ひとりだった”ってどういう意味だ―――色々な疑問が頭をかけ巡り、整理されないままのこんがらがっていた。
 イーグルの胸のうちには深い海がある。混沌とした、真っ暗な海。
 何もかも飲み込んでしまう淵に、しかし浮かんでくる、確信の泡。
 彼と自分を結んでいた糸―――

 “夢”は“真実”だったのだ。

 泡が弾けた。
 イーグルは叫ぶ。
「そんなこと信じられるか!」
 思っていたより大きな声だったのか、カイトが目を丸くするが知ったことではない。
 その表情や、瞳の色が、注視すればイーグルにそっくりだなんてことは―――ただの思い過ごしだ。
 全てを叩きつけるように拒絶して、イーグルは首を左右に振る。
「信じられるもんか……理解だってできない」
「そうだろうね。だが現実には可能なことなんだ。君も知っているだろう、世界に確かに存在し、この海域が特に強く帯びる不思議な力のことを」
 淡々と続けるカイト。
 イーグルは固唾を飲む。
「―――あれはほとんどが、世界樹や深き魔が地に降りたとき、ともに宇宙から降り注いだものだ。人知の及ばぬ力をほんの少し理解して、操ることが出来たから、僕ときみは生まれた―――詳しい話はきみの友人のシノビにでも訊くといい」
 にいと笑って、カイトは一歩引き下がる。
 何をしようとしているのか、混乱しているイーグルには全く分からない。
 カイトの背中越しに見えた仲間たちと、深都に与する“かつての仲間たち”を見つけてはじめて、彼が“自分の仲間たち”の元に戻ろうとしていることを理解した。また弾けるように、イーグルは声を上げる。
「説明しろ、全て!」
 その怒号にも似た大声は、おおよそ普段のイーグルとはかけ離れたものだった。
 知ってか知らずか、カイトは驚く仲間たちをよそに、薄い笑みを浮かべたままでいる。
「ひとつ忠告しておこう。“夢”が証拠であるように、きみの記憶は完全に失われたわけではない。消え去ったと思われていた記憶はきみの頭の器の中で形を失くし、粉々になってしまっているだけなんだろう。だが全ての残滓を一気に正解の型に流し込めば、器は今度こそ壊れてしまう。だから一つずつ、自分で正解を探していけ。真実はその完成形にあるだろう」
「おまえはどこまで知っているんだ?」
 カイトは目を細めた。
「全て。僕はきみが思う“正解のかたち”だ」
「カイト?」
「イーグル?」
 アルとリンがそれぞれ、それぞれの仲間の名を呼んだ。
 イーグルはそれだけで分からなくなる。自分の名がどちらなのか。本当はどちらの名で呼ばれることが正解なのか。
「……この先に次の階層へ繋がる階段と、樹海磁軸がある」
 俯いていた顔を、イーグルははっと上げた。
 カイトは既にイーグルを見ておらず、激しい戦闘の跡すら顧みず、海都からの来訪者たちである“イーグルの仲間”を極めて事務的な視線で射抜いている。
「―――僕たちはこれから、この惨状を深都に伝えねばならない。君たちは今言った磁軸から、地上に帰りたまえ」
「えっ……でも」
 逡巡するリンを遮り、カイトは続けた。
「海都と深都の関係については、ここで僕たちが口を出すことじゃない。深王が決めることだ」
 まるでそうすること以外にイーグルたちにすべがないとでも言いたげに、カイトたちはアリアドネの糸を紐解き姿を消してしまう。
 先に続くとカイトが告げた扉の隙間から、風の音だけが流れ込む。
 激戦の跡地に取り残されたクッククローの五人は、立ち尽くしたままのイーグルを見ている。
「アニキ……あいつと何を話していたんだ?」
 ベルオレンの疑問はもっともだ。だが入念に答えてやれるほどの気力はない。
「ん……何でもないよ」
「何でもないことは、ないでござろう」
「そうだよ、すごい声出してたじゃないか」
 イーグルは頭を掻くと、ごまかすように口角を上げた。うまくは上がらなかったけれども。
「イーグル様」
 ずいとイーグルの目を見据えるような、大きくて真っ直ぐな蒼の瞳が正面に現れる。
 ピアノーチェはそのまま続けた。
「どうぞ話してくださいまし。隠し事をしても―――」
「何でもない! 大丈夫だから!! ……っ」
 深呼吸一つ、イーグルはこうべを垂れる。
 違う。こういうことを言って、みんなを驚かせたいわけじゃない。
 未だカイトへの憤りに乱れる頭を無理に落ち着けるように、ゆっくりとイーグルは言葉を紡ぐ。
「時がきたら……話すから。だから今は、そっとしておいてくれないか」
「……分かりましたわ」
 首肯一つ、ピアノーチェはぎゅっと、イーグルの両手を握る。
 剥落や傷だらけの金の手甲が、激しい戦闘のあとを物語る。その傷跡に気づいたイーグルが口を開くより早く、ピアノーチェもまた噛みしめるように言った。
「それでも、忘れないで。わたくしたちはイーグル様を心配しているのです」
 イーグルの胸のうちにある、深い海。
 その真っ黒な水底を、何かが叩いた透明な音がした。


「貴様、何を話していた?」
 磁軸から深都に帰る道すがら、無言だったスズランが突然話しかけてきたので、カイトは首を捻る。
「話すとは?」
「とぼけるな。さっき……アーモロードの冒険者と何か言いあっていただろう」
「他愛もない世間話ですよ」
「ただの世間話で、あんな風に怒鳴ったりするものか」
 ごまかせないな、とカイトは思った。鈍いようでいて、スズランはよく見ている。アルのことも、“仲間”のことも。
「……僕が、彼の逆鱗に触れるような軽率を犯しただけです。スズランさんが気にするようなことは、何も」
「ふん……」
 スズランは真っ直ぐで濁りのない青瞳をすがめる。やがて目を逸らしたので興味を失ったのかと思いきや、こんなことを言った。
「それはおまえがずっと、私たちに隠していることに関係しているのか」
 思わずその横顔を凝視していたことに、スズランの目がこちらを向いて初めて、カイトは気づいた。
 一方のスズランは涼しい顔だ。
「シェルナハを造る以外に、おまえは独りで何かをしていただろう?」
「……気づいていたんですね」
「当たり前だ。……深王からの依頼だったなら、私たちも知らぬ訳にはいかないぞ」
「問題ありません。深王には個人的に、頼まれただけのことですので」
 スズランは柳眉を歪めた。
「貴様―――」
「だから、スズランさんたちには無関係のことです。イーグルのことも、ひいてはアーモロードのことも、深王の決断を仰ぎましょう」
 我ながら、けんもほろろにぴしゃりと言って、カイトは歩みを早める。
 そう、みんなは関係ない―――
「ふん。なら、こちらも勝手にさせてもらう」
 頑なに前を見据えて進むだけのカイトに、その言葉は届いていなかった。


 イーグルたちはアーモロードに戻ってすぐに元老院へ向かったが、既にクジュラや深都からの使いが到着しており、全ては終わったあとだった。
 “海都の冒険者には失望した”―――と深王は言った。約定どおり冒険者の深都への出入りは今までのように認めるものの、海都との今後一切の交流は絶つと伝えてきたそうだ。
 元老院の老婆や姫君はクッククローを労ったが、結局深都との関係は完全にこじれてしまった。これまで以上においそれとは深都に足を運びづらくなり、カイトたちがどうなったのかも分からず仕舞いで、クッククローの面々の表情は明るくはない。
 だが流れのままに、元老院は新しい任務をクッククローに示す。
 姫君の体調が芳しくないため、その回復薬の元であるアマラントスの花を探し出してほしいということらしい。
 ゲートキーパーが守る扉の先にあった第四階層“深洋祭祀殿”は、元はアーモロードの領土にあり、アマラントスが育てられていた花壇があったそうだ。フカビトの巣である海底神殿と化してなお、不滅の花はそこに咲いているはずだというので、クッククローは姫君のため冒険を否応なく続けることとなった。
 夜闇も既に深い。くたくたになった五人がアーマンの宿の玄関をくぐった途端、バタバタと看板息子の少年が駆けてくる。
「ああっ皆さん、お帰りなさい! ちょうど良かったです」
「良かったって何が?」
 少年は明るく答える。
「皆さんにお客さんがお見えですよ!」
 イーグルたちは顔を見合わせる。
 客が来るなんて聞いていない。そもそもクッククローを訪ねて宿まで来る人物なんてドンかシオ爺か街の人たちくらいだし、彼らなら宿の少年は“お客さん”とは言わないだろう。
 一様に首を傾げる面々を引き連れて、少年はロビーに足を向ける。
 ラタンソファに腰掛ける人物を見つけて、ハガネとピアノーチェが飛び上がった。
「おじい様!」
「マサムネ!?」
 その声を聞いて、船をこいでいたらしい“お客さん”はぱちんと顔を上げる。
 厳めしいが華やかな東方の鎧に身を包む、白髪の老爺だった。
 彼はしかし、年齢を感じさせない動きでしなやかに立ち上がると、にいと笑って―――ピアノーチェに飛びついた。
「姫様アアアアア」
「させないですわ!」
 ピアノーチェもまた俊敏に身を翻し、突進してきた老爺をひらりと避ける。
 彼はしばらく行きすぎて停止すると、ゆらりと振り返った。
「ふふふ……腕を上げられましたな……」
「わたくしとて、遊んでいたわけではありませんわ」
「存じておりますとも」
 じりじりと一定距離間合いをあけたまま、不思議なにらみ合いは続く。
 イーグルなどは何が何だかわからないので、ただ遠巻きに様子を見守るのみだ。
「―――世界樹の迷宮に挑まれて、幻の都を発見されたとか」
「! 知って―――」
「これほどまでに愛らしく美しく気高いピアノーチェ様のご活躍が、海を越えて轟かぬはずがございません」
「それもそうですわね」
 老爺の弁をあっさり肯定するピアノーチェ。
 肩が落ちるイーグルやリンをよそに、ベルオレンがやれやれとかぶりを振るようにして尋ねた。
「で、そのじーさんは何者なんだよ?」
「おお、自己紹介が遅れましたの。わしはマサムネと申す、ピアノーチェ様の兄王にお仕えする者でござる」
「兄王? ピアの?」
「へー姫さん、ホントにお姫さんだったんだな」
「いつものことながら心底失礼ですわね」
 けほんと咳払いし、ピアノーチェは胸を張る。
「マサムネはわたくしの故郷のいくさごとを担う将軍なのですわよ」
「へー……」
 言われてみれば、素人目にも着物のあつらえはそこいらの冒険者とは群を抜いていることが分かる。主君の前では柔和な表情をしているものの、時折品定めするようにイーグルたちを見る目つきや体つき、動きは熟年の戦士を思わせた。
「まあ今はほとんど引退ぎみで、後進の育成が主な仕事じゃがの」
「それはそうと、何しに来たんだ?」
 耳穴に小指を突っ込みながら、どうでもよさそうにベルオレンが問う。
「―――ひょっとして、姫さんを引き取りに来てくれたとか?」
「なっ」
 ずざっとピアノーチェがマサムネから離れる。
 老爺は慌てたように、ぶんぶんとかぶりを振った。
「いやいや、そんなつもりは毛頭ござらん。兄王も姫様のお転婆……いやいや、溌剌ぶりはご存じじゃしの。好きにさせよとのお達しですぞ」
「まあ、さすがお兄さまですわ!」
 ぱちんと手を叩くピアノーチェ。マサムネも目を細めた笑顔で、うんうんと頷いてみせる。
 が、その和やかな空気を割って、底冷えする声が響いた。
「で、本当に何をしにいらしたのでござる?」
 胡乱げに二人のやりとりを見ていたハガネの言葉に、マサムネは目をぱちくりとやった。
「何って、バカンスじゃよ」
「バカンスぅ?」
 半目のまま口を尖らせるハガネに、ピアノーチェがずいと詰め寄った。
「何ですの、ハガネ。マサムネはおまえの師であり、血の繋がった祖父でもあるのでしょう? 再会を喜ぶ気持ちはないんですの」
「いや、でも姫さま……」
「そうじゃともハガネ! 長きに渡る忠誠への見返りとして、国王陛下が慰安旅行を奨めてくださったのじゃ。姫様と、可愛い孫の顔も見られるしと思ってアーモロードを訪れた、このじじの、いじらしさを分かってくれんのか!」
「いだだだ絞まってるでござるいだだだ」
 ハガネを抱きしめるというより抱き潰すいきおいで、マサムネが彼に飛びついた。
 二人にひらひらと手を振ると、ピアノーチェは踵を返す。
「では、わたくしたちは休みましょうか」
「えっ……アレ、放っておいていいの?」
 がっちり決まっているマサムネのアームロックから、抜け出そうとハガネがもがいている。
 彼らを指さすイーグルに、ピアノーチェは真顔で頷いた。
「かまいませんわ。祖父と孫、久しぶりに水入らずで話すこともあるでしょうし」
「あんたも同郷でしょ? 混ざらなくていいのかい?」
「良いのです。一緒にいればマサムネは実の孫より、わたくしを優先してしまいますから」
「要するに姫さん、アレを相手にするのがめんどうくさいわけな……ハガネちゃん、生きて帰れよ」
 爺さんのテンションの高さにはついていけない。自分たちとて疲れているのだ―――助けを求めるように腕を突っ張るハガネを横目に、クッククローの面々は自分たちの部屋へとぞろぞろ引っ込んでいった。


 とはいえ。
 床につき、深夜になっても、イーグルは寝付くことが出来ずにいた。ゲートキーパーという強敵と戦い、心身ともに疲れきっているにも関わらず、カイトの言葉が頭から離れない―――“僕たち二人はもとはひとりだった”。そして、“僕はきみだ”とさえも言ったのだ。
 もしそれが―――認めたくはないが、真実だとするならば、イーグルが今まで樹海で見てきた“夢”は紛れもなくイーグル自身の記憶だったということになる。
 だが、何故その記憶をイーグルは―――カイトの言葉を借りるなら、“頭の中で粉々”にしてしまったのだろうか?
 そしてそもそもどうして、ひとりは二人に分かたれてしまったのか?
 鍵となるのは、カイトが言った“シノビに聞け”という言葉だ。シノビの技など、イーグルから見ればどれも荒唐無稽に違いないが、人を二つに分かつなんて芸当すら、はたして彼らには可能なんだろうか?
 ハガネに尋ねれば早いだろう。だが、回答を得るには恐らく、カイトとの会話内容を仲間たちに明かす必要がある―――それはできる限り、避けたかった。ハガネの回答がもし、イーグルという人格を否定するようなものであったなら―――イーグルがイーグルでないなどと仲間たちが知るようなことになったら、彼らとこれからどんな顔をしてやっていけばいいんだろう?
 ぐるぐると回る思考は、イーグルを眠りの淵へは突き落としてくれない。
 ただ深まる闇のように忍び寄る、言いしれない不安と恐怖だけが、イーグルに寄り添うすべてだった。


 翌朝。
 結局一睡もできなかったイーグルが重たい身体を引きずりながら最後に宿を出ると、意外な面子が待っていた。
「おっそいぞー、アニキ」
「う、うん、お待たせ……」
 ハガネがいない。
 代わりに、マサムネが立っていた。
「えーと、ハガネは?」
「ハガネは“用事”とやらで留守ですわ」
 苛立たしげにつま先で地面を打つピアノーチェ。取りなすように、マサムネが困った顔をする。
「いや、姫様が行方不明の間に、ハガネの仕事も溜まっておりましての」
「ハガネちゃんの仕事って、ワガママ姫のお守りじゃねーの?」
「それもあるのじゃが……」
 ちらとピアノーチェを一瞥し、彼女に聞こえないようにかマサムネは声を潜めた。
「―――少しはハガネにも休みがいるじゃろうと思うての」
「ああ、なるほど……」
「そこ! 何をひそひそしているのです」
 不機嫌を隠そうともしないピアノーチェに愛想笑いを返すと、マサムネはこほんと咳払いした。
「そういうわけで申し訳ござらんが、数日の間の探索は、わしが代わりをさせてもらえんじゃろうか」
「代わりって……」
「ハガネがおらぬ今、姫様をおひとりで樹海に行かせるわけにはいかぬのでのう。なに、年とはいってもまだまだ若いものには引けを取りませんぞ」
「わたくしひとりではありませんわ。イーグル様たちもいらっしゃいます」
 ぐいといつものようにイーグルの腕を引くピアノーチェに、マサムネの眉が寄る。
「姫様、恐れながら少し距離が近すぎるように思われますが……」
「良いのです。イーグル様は将来わたくしのお―――」
「わーー!!」
 どんどんマサムネの目つきが歴戦の将軍のそれに変わっていったのを見て、イーグルは大声を上げた。衆目を集めてしまい、「えーっと」とごまかしつつ続ける。
「その、俺は別に構わないから。マサムネさんが樹海に入るなら、ギルド登録を先にしないと、ね?」
「アニキが言うなら……」
「あたしも反対はしないよ」
 姉弟が口々に言うので、イーグルはほっと安堵の息を吐く。
「……イーグル様がそう仰るなら、仕方ないですわね」
 憮然としたままのピアノーチェ。
「ピアは反対なの?」
「……あまり気乗りはしませんわ」
「ほっほっ、ハガネが今のお役目をいただくまでは、わしが姫様のお目付けをしておりましたからの」
 快活に笑うマサムネと対照的に、ますます不機嫌顔になるピアノーチェ。彼女が反論しないという珍しい光景からして、マサムネに頭が上がらないのは本当のことらしい。
「そうと決まれば、さっさとギルドに行って探索にまいりましょうっ」
 ぷいとそっぽを向いて、ピアノーチェはずかずかと広場を横切っていった。


 四つ目の階層“深洋祭祀殿”は、今までの迷宮とは少し異なっている。自然―――世界樹を自然に含めるなら、だが―――が作り出した樹海ではなく、何者かによって造られた建造物なのだ。石造りの神殿の風体をしたそれは、しかし入り組んだ構造と複雑な仕掛けが施された迷宮なのに違いはない。
「うおわっ」
 細い通路にがらがらと音を立てて降ってきた鉄格子をすんでのところで避けきり、ベルオレンが深々と安堵の息をついた。
「あっぶね~」
「なにやってんだい、大丈夫?」
 あきれ半分心配半分で振り返るリンに、ベルオレンは尻餅をついたまま愛想笑いを浮かべる。彼はいよいよ立ち上がろうとして―――ひっくり返った。どうも、服の裾を鉄柵にひっかけたらしい。
「こなっくそっ」
「ああもう、乱暴に引っ張るんじゃないよ。破れるでしょ」
 姉弟が脱出に時間をかけている間、イーグルは周りを物色していた。白く発光する海藻のような木がそこかしこに生えているおかげで、視界は十分に確保されているが、高く反響する魔物の息吹や足音が危機感を煽らせた。何と言っても、ここには素早く身を隠せるような、生い茂った木や自然の洞がないのだ。四方を壁に囲まれている上に、来た道が鉄格子で阻まれるとくれば、どこにも逃げ道がないのと同然である。
「進む先にも……鉄格子があるようですわね」
「どこかに、鉄格子を上げるための装置があるのかな?」
「まずはそのスイッチを探すべきですわ……マサムネ?」
 一人黙ったまま、ピアノーチェを見つめていたマサムネは、うんうんと感慨深そうに頷いた。
「これほど危険な迷宮に挑まれておられたとは……姫様、ご立派になられましたな……」
「な、何ですの唐突に」
「いやはや、兄王陛下がご覧になればきっとお喜びになるでしょう」
「本当!?」
 ピアノーチェの顔がぱっと明るくなる。
 そういえば彼女は王の力になれるような人物になるため、世界樹の迷宮に挑戦しているのだった。強さを誉められて喜ぶなんて雄々しいなあと思う一方で、喜ぶ顔自体は年相応の少女そのものだ。
「けっ、ここまで来れたのもオレたちのおかげじゃねーか」
 ようやく抜け出したベルオレンが吐き捨てるように言う。また柳眉を寄せたピアノーチェは、腰に手を当てて答えた。
「あら。皆様の努力を否定するようなことは言っておりませんわ」
「たりめーだ」
「クッククローの五人が、五人でいてこその成果です。かけがえない、皆仲間ですもの」
「仲間……ですか」
「ええ」
 マサムネの呟きに、胸を張るピアノーチェ。
 老爺の横顔がわずかに陰ったように思われたが、見間違いだったらしい。マサムネは笑顔で頷くと、先の道を示した。
「では進みましょうぞ。まずは“すいっち”とやらを探すのでしたかな」
「おっ、あれじゃね?」
 ベルオレンが指したのは、フカビトの顔を象ったような奇妙な彫刻だ。
 この神殿は至る所に彼らを模した壁画や装飾物が存在するのだが、薄暗い場所で見るこれら異形はグロテスクを通り越して畏怖の対象ですらある。
「これのどこがスイッチなんだい?」
「いやー、なんかこれ見よがしに置いてあると弄くりたくなるよな」
「ちょっと勝手に触らないでくださいまし。罠だったらどうするんですの」
「うっせーなあ、触ってみないとわかんねえだ、ろっ……お?」
 カチッという音がした直後、来た道を封じていた鉄柵が上昇する。
 階のそこかしこから同じように鉄柵が上がる音が聞こえてきたので、連動して動く仕組みになっているらしい。
 当のベルオレンは得意げな顔で胸を張る。
「ホラ見ろ、やっぱりスイッチだったじゃねーか。さすがオレ」
 しかし賞賛の声が起こるどころか、皆目を瞠ってベルオレンを凝視している。
「べ、ベル……」
「ん?」
 リンが指さした先を振り返った少年は、シューシューと舌先を出す大蛇の頭を真横に見つけて、飛び上がった。
「誰か教えてくれよ!!」
「ベル、跳べっ」
 叫ぶと同時に、イーグルは大蛇に向かって発砲した。間一髪避けられ、弾はフカビトの彫刻の額に突き刺さる。魔物とは逆側に跳びずさっていたベルオレンは、床で一回転して苦笑いした。
「備品壊すなよ、アニキ!」
 大きく口を開けた大蛇の首の下が、威嚇するように広がる。
 ピアノーチェの突剣が閃いた。しかし大蛇の魔物はひらりとそれを避けると、彼女の手甲に絡みつく。ピアノーチェは悲鳴を上げた。
「ひいっ! にゅるにゅるしますわー!」
 そこへマサムネが駆けつける。長い刀の柄が大蛇の頭部を打ちつけると、大蛇は昏倒するようにピアノーチェから払いのけられた。マサムネの袖が翻り、仰け反った蛇頭をもう片手の刀が追撃するように、一閃。
 まっ二つに裂かれた顎の片割れが、ぽとりと床に落下する。
「ほー……」
 両手の刀をそれぞれ納めたマサムネと、絶命した蛇の亡骸を交互に見比べ、ベルオレンが感嘆の声を上げる。リンが手を叩いた。
「鮮やか。さすが歴戦の将軍だねえ」
「いやいや」
 謙遜する言葉のわりには嬉しそうに応じ、マサムネはピアノーチェをのぞき込んだ。
「お怪我はありませなんだか、姫様」
「……んわ」
「ん?」
「納得がいきませんわ」
 何故か胡乱げな目つきで、ピアノーチェはマサムネを睨んだ。
「―――思うに、武器が二つというのがずるいのです。わたくしは盾があるから突剣ひとつで我慢してますのに」
「し、しかしてこれがわしらの戦い方というもので」
「理不尽ですわ。マサムネ、次から刀は一本にしませんこと?」
「それこそ理不尽ですじゃー!」
 ピアノーチェとマサムネのやりとりに、血は争えないなあ、とイーグルは乾いた笑いを漏らす。
「ハガネの師匠なのに、シノビとは全然違う戦い方をするんだね」
「防御が紙なのは同じっぽいけどな」
 イーグルの独り言に、ぼそりと返したベルオレンは次いで唐突に、何かを見つけたように目を瞬いた。
「おっアレ、クジュラじゃねえの?」
 来た道を歩いてくるのは、緋色の着物に身を包んだ若いショーグン―――クジュラだ。
 彼はクッククローに気づくと軽く手を挙げ挨拶する。
「おまえたちか。今日は深都に行ったのではなかったのか?」
「深都?」
 怪訝な顔をする面々に、クジュラは顎を掴む。
「おまえたちのギルドの一人が、深都へ向かうのを見たと部下が言っていたのでな……別行動か」
「えっ?」
 非難にも似た声を上げたのはピアノーチェだ。
 彼女はきっと眦を上げて、傍らに立つ自分の将軍を睨みつける。
「どういうことですの?」
 そしてマサムネが答えぬと見るや、今度はクジュラに食いかかった。
「深都へ向かったというのはシノビに間違いありませんか?」
「俺は報告を聞いただけだ。詳しくは知らぬが……その様子では、おまえたちも知らなかったようだな」
「マサムネ、答えなさい。ハガネは何のために深都へ?」
 詰問するピアノーチェ。この場にはクジュラがいるため、ハガネが深都に向かった理由次第では海都とギルドに軋轢が生じかねない。クッククローだけではマサムネもはぐらかしたかもしれないが、そのことに思い至ったであろう彼は実にあっさりと白状した。
「“禁術”のためでございましょう、姫様」
「禁術? それは何です? 何のために、そのような―――」
「すべては兄王様の命。……クジュラ殿、深都の技術はすべて、持ち出すことを禁じられておるわけではなかったと存ずるが」
 クジュラは小さく頷いた。
「……そうだな。元より術にはアーモロードを離れれば効力を発揮しないものも多い。深都に沈んでいる数々の秘術に関しても、元老院は特に持ち出しを禁じてはいない」
「戻りましょう、みなさん」
「ピアノーチェ?」
 照明のせいではないピアノーチェの青白い顔が、金髪の下で振り返った。
「深都へ。探索どころではありませんわ」
「なんで? ハガネちゃんはおめーの兄貴の命令で行ったんだろ? だったら―――」
「うるさいですわ!」
 のんきなベルオレンを、甲高い声でピアノーチェは遮った。驚いたように目をぱちくりとする彼をよそに、来た道を大股で引き返し始めようとする。
「ちょ、ピア?」
「禁術ですって? そんなもの、わたくしは知りませんわ!」
「そりゃーおめーに関係ないことなら、聞かされなくたって当然だろ」
 ベルオレンをキッと睨みつけ、ピアノーチェは噛みつくように応じた。
「ハガネはわたくしのシノビです! たとえ兄上でも……勝手は許しませんわ!」
「あっ、ちょっと!」
 ついに駆けだしていったピアノーチェ。イーグルは仰ぐように振り返ると、クジュラに声をかけた。
「すみません、それじゃ!」
「おい、アニキ?」
「放っておけないだろ!」
 そのままピアノーチェを追って駆け出すイーグル。
 呆れたようなため息の気配のち、それぞれの足音がその後に続いた。


 ハガネはシノビという業が嫌いだ。
 自分が何に縛られているのか分からない。あるじである王の厳命か、それとも主人である姫の懇願か―――それでも、ハガネは戦うことを選んだ。どちらに自由を奪われていようとも、そのどちらかを裏切ることになろうとも、ハガネは戦わねばならない。それがシノビというものだ。
 これが騎士であるならば、答えは明白だろう。騎士は己が捧げた剣の持ち主を違えない。ただ一人のために戦うことができる。それがたとえ、そのただ一人が望まぬ戦いだとしても。
 深都に流れる白い砂の風が、ハガネの頬をぴしぴしと撫でる。既に冒険者の立ち入りが禁じられた区画に足を踏み入れている。だが今、それを咎める誰かはこの付近を巡回してはいない。
 それでも、誰かに見張られているような視線を感じる。つけられていないのは分かっているため、これは良心のたぐいが揺るがせる何かなのだろう。感覚を振り払うように、ハガネはひっそりと坂道を下り、冒険者街よりいくらか整備のされていない古い通りを進んでいく。坂道の手すりや煉瓦が抉れた傷痕を露わにしているのは、百年も前の海底への崩落のダメージが直されていないからだろうか。
 教えられた地図によれば、確かこのあたりだ。
 のぞき込んだ民家の小さな窓は、明かりが灯っているようには見えない。
 突然ぴりと空気の変化を感じて、ハガネは振り返った。
 隠そうともしない、殺気の主の女が、坂の中途で佇んでいる。
「貴様……」
 女―――スズランは紙袋を持ったまま、じっとハガネを睨みつけていた。買い物帰りだろうか、武装もしていない。それにしてもここまで接近を許したなど―――じっとりと自分を見つめるような妙な気配が、ハガネの注意力を散らせていたに違いない。
「何故、ここが……」
 呆然としたような響きのそれに、ハガネは小さく笑った。
「隠したいのなら、もっと頻繁にすみかを変えるべきでござる」
 深都が解放されて数ヶ月経った。クッククロー以外にも、アーモロードから降りてきた冒険者はいくらでもいる。少ないまでも深都の民と交流を持ち、そして規制の網の目をかいくぐる輩は増えてきているのだ。
 ハガネがどこからか情報を買ったことに勘付いたのだろう、スズランは忌々しそうに目元を歪めると吐き捨てた。
「冒険者など、ロクでもない奴らばかりだ……」
「お主が言うでござるか、スズラン」
 鋭い目つきのままの視線が、ハガネを射抜く。
「何が目的だ」
「単刀直入に申す。お主の仲間の星術師が使う“禁術”の子細を知りたい」
「断る」
 にべもない。しかしハガネは無表情を貫く。
「それを判断するのはカイトどのでござろう」
「アレが首を縦に振るはずがない。そもそも、そんな理由でカイトに会わせるわけにはいかない」
 意外な言葉に、ハガネは眉を上げた。
「……あるじを鞍替えでござるか」
「馬鹿を言うな! 私が剣を捧げるのは、今も昔もアル様だけだ。誓いは変わっていない」
「そのアル様のためを思うなら、心変わりするべきでござるな」
「……どういう意味だ?」
 不思議そうな顔をするスズランは、やはりこういう駆け引きには向かないなと思う。昔から、素直で顔に出やすいのだ。バカとも言うが。
 ハガネは答えた。
「海都に、国の兵が来ている」
 スズランの顔が強ばった―――驚きと、そして恐怖に。
「某が禁術の手がかりを得た以上、持ち帰らねば次は彼が深都を訪れよう。そうなれば……」
 アルはただでは済まない。
 ハガネはあえて口にはしなかったが、言外の脅しを今度は、彼女は十分に思い知った様子だった。取り乱したようにぎゅっと胸元に袋を抱きしめて、結ばれた唇が震えている。
 ハガネもまた、胸を締め付ける罪悪感に耐えていた。この脅しに対するものではない。これから採るであろう、採らざるをえないであろう―――最後の選択肢に。
 “どんな手を使ってでも”。王には持ち帰れと言われている。
 そのためにもう一つの懇願を裏切ることになっても、ハガネは。
「……私の命に替えても、アル様は守る」
 ばさばさと落ちる紙袋。中から坂道に転がり落ちていく、リンゴとパン。
 日常を帯びるそれらが、現れたスズランの握る小刀によって、いびつに変容する。
「だがそのために仲間を売るような真似は、絶対にしない!」
 最後に走った胸の痛みを深呼吸で忘れ、ハガネは袖口に隠された苦無を引き抜く。
 そして―――後ろ手に小窓を叩き割ると、家の中に飛び込んだ。
「ハガネっ―――」
 硝子の弾ける音。食堂が目前に広がる。
 ハガネはテーブルの上のものを蹴散らして転がり、立ち上がりつつ足下を蹴った。奥へ。
 玄関戸を乱暴に開け、スズランが追ってくる足音が聞こえる。狭い室内を、あるいは飾られた花瓶、あるいは本棚を引き倒してその動線を阻害しつつ、ハガネは進んでいく。奥へ。扉を開き、地下へ。
 頻繁に引っ越せない理由は、研究施設があるからだ。そこにまでたどり着くことができれば―――それらを焼き、灰に帰すことができれば、ハガネは何も裏切ずに済む。王が求めた力も、幻に戻るだろう。
 だが。存外早く追ってきたスズランは、地下へと進む螺旋階段の手すりを乗り越えて、ハガネの前に降り立った。翼のように広がった青いスカートの下から、鋭い切っ先が襲い来る。
「っ」
 記憶にあるよりずっと俊敏になっていた槍は、ハガネの苦無を弾きとばした。
「させるか……っ」
 スズランもまた想いを二つ持っている。アルを守りきるという誓い。そして―――おそらくは彼女を変えたであろう、仲間への想い。もしかすれば彼女は、研究施設を目指すハガネの思惑を悟っているのかもしれない。アルの安全のためにすべき一番が何かを分かっていても、研究施設を作り叡智を求めた仲間のために、スズランはハガネに立ちはだかる。
 だから二人は戦わなければいけない―――スズランの穂先がハガネの頬を掠める。ハガネの苦無がスズランの腕を裂く。互角、傷だらけになりながら、二人は剣戟を高く響かせて階段を転がり落ちていく。
 力の拮抗は崩れぬまま、お互いが少しずつ削れていく。だが力が等しくとも、その使い方は異なっている。シノビであるハガネはただ敵を滅すればいい。スズランは騎士だ。それも、守るものを持った。
 もつれ転がり最下層までたどり着いたとき、最後の扉に向かおうとしたハガネをスズランが先回りする。
 影縫の苦無の投擲を外したハガネは容赦なく含針を放った。それはスズランの二の腕を貫き、貫いたまま扉に突き刺さる。スズランは張り付けのように扉を向いて膝をついたが、扉を守るが如く震える腕を開いた。眼光の強さはそのまま、ハガネを振り向く。
「退くでござる」
 扉をどんどんと、内から叩く音がする。階段を転がり落ちる激しい音に気づいた誰かだろうか。そもそも、中には人がいたのだ―――
 しかしそれすら、今のハガネには関係ない。頭が冷えきっている。彼の心臓を凍り付かせる行動原理はただひとつ、使命を果たすことのみ。
 そのためにハガネは、邪魔をする誰かを排除することさえいとわない。
「スズラン」
「ぐあっ……」
 ぐっと力を込めた含針は、確かにスズランの苦悶を生んだ。だが彼女の意志は眠りに落ちることはない。彼女は文字通り盾となって扉を守るつもりだ。
 だが物言わぬ盾など、ただの置物だ。
 無感情に短剣を振り上げるハガネの耳を、不愉快な金切り声が貫いた。


「ハガネ―――っ!!」
 ひらりとスカートが翻る。ピアノーチェが階段の手すりを飛び越えたのだ。
 今まで見たことがないほどの怯えきった表情で、彼女はハガネに猛然と向かっていった。急いで階段を駆け降りるイーグルたちが目にしたものは、いつもよりもずっと、ぼんやりとしたハガネの瞬き。
「ピア……さま」
 とす、と軽い音を立てて、ハガネの手から滑り落ちて床に突き立った。
 短剣だ。
 一歩分の間を空け立ち尽くすピアノーチェは、顔を真っ赤にして、蒼い双眸でハガネを睨みつけ―――その眼が、みるみる涙で染まっていく。
「ひ、姫さまっ」
 我を取り戻したように、眉を八の字にしたハガネがおろおろとピアノーチェの肩を掴む。
 ぱしっと乾いた音が、少年の頬を打った。
 呆然とするハガネ。
 拒絶するように彼を弾いた少女は、俯いたまま訴えるように、叫ぶ。
「こんな……こんなことをさせるために、わたくしはおまえを連れ出したわけじゃ、ないっ!」
「姫さま……」
 ピアノーチェはしゃくりあげると、そのままぺたんと座り込み、大声で泣き始めてしまった。
―――イーグルはふと、彼らの奥にある扉に、血が滲んだ体を預けている青白い顔の女を見つける。
 スズランだ。
 何も考えずに反射的に近づけば、手負いの狼のようなまなざしが睨みつけてきた。ぎょっとして立ち止まる。
「貴様等……どうやって……ここが……」
 息も絶え絶えの様子に、息をのみながらそろそろとイーグルは近づく。
「深都の入り口で……樹海から戻ったところのシャクドーさんに会って。ハガネが来てるかって聞いたら、知らなかったみたいで、慌てて、多分あなたたちのところだろうって……」
「シャクドー、余計な……真似を……」
「針に手を触れないで」
 スズランの肩に手を触れたイーグルに、リンが告げる。
「―――ゆっくり、扉から離そう。あっちにも人がいるみたいだし」
 どんどんと騒がしかった戸を叩く音は、こちらの状況を察したかのように止んでいた。リンの言うとおりゆっくり―――抵抗する意志もないのか、横たわったままの―――スズランを移動させて扉を開けば、アルとカイトが立っていた。
「スズラン!」
 しもべの名を呼びながら、アルはスズランのそばに跪く。
 治療を続けるリンの「命に別状はないよ」という言葉に、彼は安堵の息ひとつ立ち上がって、イーグルたちを見渡した。どこか戸惑っているような表情に、イーグルは意外さを感じる。守り手であるスズランがひどく傷ついているというのに、彼はずいぶんと冷静なようだ。未だ感情が収まらない様子の、ピアノーチェたちとは対照的でもある。
 カイトはと盗み見れば、彼はイーグルには一瞥もくれず、階段の中途にいるマサムネを見ていた。やがてそれに気づいたらしい、アルが声を上げる。
「マサムネ、何故あなたがここに?」
「アル……さ、ま、お逃……げ」
 意識を失いかけているスズランの言葉に、すっとカイトが立ち位置を変える。
 アルは、自身の正面に回ったカイトに戸惑うような声を上げた。
「大丈夫です、カイト、スズラン。……ぼくとスズランを逃がしてくれたのはマサムネの計らいによるものなんです」
 はっとハガネの表情が変わる。
 アルは老将軍を見据えたまま続けた。
「だから彼がバカンスのためアーモロードを訪れたのではないにしても、今ここでぼくたちを殺すためでもないと信じます」
「……わしはただバカンスのためですぞ」
「話が読めませんわ」
 ようやくしゃっくりが止まりかけているピアノーチェも真っ赤な目で同意する。
「―――では何故おまえの命令で、ハガネがこの女騎士をこ……手にかけようとしていたのです?」
「わしの命令ではございませぬ、姫様」
「おじい様……」
 ハガネが咎めるようにつぶやいたが、マサムネは続けた。
「ハガネは国王の密命を受け、“秘術”を得るためここを訪れた。スズランとは……何か行き違いがあったのでござりましょう」
「“秘術”って?」
 ここでカイトが口を挟む。
 ハガネはあっさりと答えた。
「先日の機械人形のトドメに使用しておられた、星術でござる」
「ああ……」
 カイトは納得した様子ながら、それきり口をつぐむ。
 涙を拭いながら、ピアノーチェが訴える。
「それにしたって、納得がいきませんわ。そこの女騎士は何故ハガネが自分たちを狙っていると勘違いしたのです? こ、ろす、なんて……マサムネ、それは誰の命令なの?」
「……それは……」
 言葉を濁すマサムネ。
 口を開いたのは、アルだった。
「真実を話せば、貴女がつらい思いをします」
 凛とした口調に、ピアノーチェはこう返した。
「大丈夫ですわ」
「いいえ、きっと貴女にとって耐えがたい事実でしょう。冒険を続けられなくなるかもしれません」
 そう応じるアルの声は―――小さく震えていた。
 アルはスズランを庇うように立ち、小さな顎をピアノーチェやハガネ、マサムネたちに向けている。イーグルは唐突に理解する。どんな事情があるのかは知らないが、たった二人で庇いあってきたのだ、スズランが心配でないはずがない。こんな小さな少年が、こんな状況を恐ろしく思わないわけがない。
 それでも彼は立たねばならない。
 スズランを守るために。自分自身を守る手だてなど、何一つなくても。
 ピアノーチェは静かに長いまつげを伏せると、深呼吸した。そして瞼を開けば、幾分落ち着きを取り戻した、柔らかな気品ある声で続ける。
「大丈夫、約束します。何を聞いてもわたくしがあなたがたに危害を加えることはありません」
「でも……」
「そしてどんな真実だったとしても……それでもわたくしは、前に進みますわ。どうか、お願いいたします。臣下の行い、許されざることとは存じますけれど、どうか」
 そして膝を折ったピアノーチェ。王族が跪くという態度にか、臣下である二人が狼狽の声を上げる。
 ややして、アルは答えた。
「顔を上げてください、ピアノーチェ……わかりました。お話ししましょう、全て」
 重いスズランのため息が、静かな地下室を満たしていった。


 少し肌寒い、曇り夜空の浜辺。
 波音の狭間で、ベルオレンがくしゃみしそうになって、リンに鼻を摘まれている。
「こら、我慢しなさい」
「ぶえっ……あー、何ずんだ」
「あんたのくしゃみは音がでかいんだよっ」
 ひそひそ小声で返すと、リンは下生えの向こうを窺った。
 少し距離をあけたそこにあるのは、海を見つめて佇むピアノーチェの後ろ姿だ。佇み始めてけっこうな時間が経っているが全く変わらない姿に、リンはため息をつく。
「お姫様、大丈夫かね……」
「うん……」
 生返事以外何も返せないイーグルと、無言で俯くハガネ。
 アルが語った真実―――それは、アルはピアノーチェの国の先王が残した最後の庶子であり、本来ならば彼が王位を継ぐべきだったという事実だった。
 ピアノーチェの兄である現在の王は、先王の甥にあたるらしい。彼は自身の邪魔となる先王の子らを秘密裏に、様々な手だてを用いて追放したが、アルだけはある特殊な事情があったため―――それについては話してくれなかったが―――、幽閉に留めていたという。スズランはずっと、アルの監視をしていたそうだ。しかしいよいよ兄王の戴冠の日、アルは殺されることが決まった。不憫に思ったマサムネは、情が移ってしまっていたスズランにアルの護衛を命じ、二人を逃がした。
 アルもスズランも、国には帰れないし、帰るつもりもないと言っていた。だが、ピアノーチェが世界樹を訪れたのはそもそも、兄王に貢献できるだけの力を蓄えるためだ。信じていた人物の信じがたい所業を聞かされて、信念が揺らがないはずがない。
 心配そうにピアノーチェを見守るクッククローの四人。
 イーグルは、いつものようにハの字眉をしてピアノーチェの背を見つめる、ハガネに声をかける。
「ピア……深都に着くまでも、ずっとハガネのことを気にしていたんだけど」
 はっとイーグルを見上げるハガネは、頼りなげに思えた。今までのようなどこか隙のない弱さではなく、本当に生まれてしまった綻びのような。
「―――ハガネは……ピアを守るために迷宮に来たんじゃ、なかったんだ?」
 イーグルの問いに、ハガネは俯き―――小さく頷いた。懺悔するように、続ける。
「某の使命ははじめから、深都に沈んだという“禁術”を持ち帰ることでござる……」
「それが、あれで良かったのかい?」
 リンが肩を竦めて示唆するのは、深都でのやりとりだ。
 予想されたことだが、事情を聞いたカイトははっきりと拒否を示した。“僕にしたってきちんと術のすべてを解明できているわけじゃない”という、完璧主義者を思わせる“らしい”台詞で。
 ハガネは弱々しい苦笑を浮かべて応じる。
「どのみち、完成途上の術を持ち帰るわけにはいかぬでござるよ」
「しかし、その国王っつーのもあんな術何に使おうってのかね」
「ベル」
 窘めるようなリンの呼び方に、ベルオレンは肩を竦める。
「話を聞く限り、ロクなことしなさそうじゃねーか」
「ベル!」
「ベルオレンどのの言うとおりでござる……しかし、シノビというものは、主君の命には逆らえぬものでござる」
 悲しげに口元を歪めるハガネに、何も言えなくなる。
「ハガネちゃ―――ぶえっしゅ!」
 真剣な顔で何か言おうとしたベルオレンだったが、出てきたのは盛大なくしゃみだった。リンが半目で身を引く。
「汚い」
「うぇっへへ……」
「あら、みなさんお揃いで」
 唐突にかかった声に、イーグルたちは肩を跳ね上げる。
 振り返った彼らを見下ろすのは、仁王立ちのピアノーチェだ。その顔に涙の跡などはみじんも見あたらず、むしろいつもの不遜な表情が乗っているのみである。
「ひっ、姫さまっ」
「こんなところにじっとしていては、体を冷やしますわよ。宿に帰りましょう」
「おまえこそ、うじうじしてたのはもういいのかよ」
 胡乱げに応じるベルオレンに、ピアノーチェはけろっとして答える。
「あら、わたくしがいつうじうじ致しまして?」
「今してただろ!」
「ベル」
 ピアノーチェはふんと鼻を鳴らすと、いつものように胸を張った。
「確かにいろいろなことを一度に知って、混乱はしましたけど……わたくしの目標は変わりませんわ。世界樹の迷宮を踏破すること」
「ふーん」
「……その自信と実力をもって、国王の不正を正します」
「姫さま……」
 ピアノーチェは口元で微笑んだ。
「わたくしの力は、国王のものではありません。……国と、国民の幸せのために在るものですわ」
 さながら、気高い王女のように。
「ひ―――」
「姫様あああああ」
 涙目のハガネを遮るように、遙か後方の下生えから飛び出してくる、マサムネ。
「うわ、びっくりした」
「姫様ああああ、まことご立派になられて……」
 全く気配を感じなかったのにも関わらず、マサムネは老齢を感じさせない俊敏な動きであっという間に距離を詰める。号泣したままぐりぐりと頬ずりする彼を遠ざけながら、ピアノーチェは心底忌々しそうに叫んだ。
「そもそも、おまえがアーモロードにバカンスなどに来るから話がややこしくなったんでしょう! 人に怪我までさせてー!」
「アル様たちが深都におられるなんて知らなかったんですじゃもん」
「ええい、鬱陶しいっ! 離れやがれですわー!!」
「ひ、姫さま……」
 おろおろするハガネと、顔を真っ赤にして踏ん張るピアノーチェと、それに抱きついて離れないマサムネ。
 やれやれ、とそっくりな乾いた笑みを浮かべて、姉弟が立ち上がる。
「心配して損した」
「だーから言ったんだよ、っくしゅん!」
「え、あ、その」
 イーグルはぞろぞろと去っていく二人と、惨劇中の三人を見渡すしかない。
「……本当に、良い仲間を得られましたの」
 マサムネの呟きが、砂と海の音に混じってかき消えた。


「……ん」
 人の気配に目を覚ませば、スズランは白い清潔なベッドの上に自分が横たわっていることを知る。ギルドハウスではない。壁紙に見覚えがある、おそらく瞬く恒星亭だ。
 そして、見知った金髪がちょこんとベッドの脇に乗っているのを見つけて、自然と頬が綻ぶのを感じる。普段こそ置かれた状況から俄然大人びて感じるが、かわいらしい寝顔は年相応だ。柔らかい髪を撫でていれば、“気配”の主が淡い灰色のカーテンの向こうから現れる。
 カイトは真顔に近い、無表情だった。いつも不敵な笑みを浮かべていることを鑑みれば、不機嫌を露わにしていると言っても差し支えないだろう。
「……海都の連中は?」
「帰った」
「ティティとサイモンは」
「シャクドーさんにクレームをつけて、ギルドハウスの引っ越し先を一緒に探させてる」
「私も行きたかったな」
「家探し? めんどうくさいよ」
「違う。クレームの方」
「ああ」
 生返事するカイト。スズランはぱしっと、自分の拳を手のひらで受けた。
「一発入れてやらんと気が済まん」
「勘弁してあげれば? あんたに殴られたら骨で済まなさそうだ」
「どういう意味だ」
「いろいろお世話になっている身なんだし」
 カイトはどかりと椅子に腰を下ろすと、真横の金色頭に手を伸ばす。乱暴にくしゃりと混ぜる手つき。スズランは溜息を吐いた。
「シノビにロクな奴はおらん」
「……サブクラスがシノビの奴に喧嘩売ってる?」
 口角だけを上げるカイトに、スズランは涼しい顔をした。
「おまえは自分がロクな奴だと思っていたのか?」
「……少なくとも、無意味な自己犠牲を発奮する騎士よりマシだと思っていますけどね」
 この男の言葉の端々から棘を拾うのは容易いことだ。分かっていて苛々させられるのもいつものことだが、何故だか今日ばかりは苛立ちは起きなかった。それは棘が、いつもより分かりやすく飛び出していたからだろうか。
 棘を引き抜いて、そっちに向けてやるように、スズランは答えた。
「無意味とはなんだ。私は自分の護りたいものを守ろうとしただけだ」
「誤解で死ぬ直前までいった人の科白とは思えませんね。盲目もここまでいけば大したもんです、ゲートキーパーに弟子入りでもしたらどうですか? ……」
 よくもこう次から次へと憎まれ口が叩けるもんだと感心しながら、スズランはそのほとんどを聞き流していた。
 何故ならスズランにはあるからだ。たった一言、天才ぶった(実際天才だが)クソ生意気な小僧を黙らせることができる、切札が。
 ふと目をやった窓の外を魚が行き過ぎる。既に真っ暗なので夜なんだろう。深都に住みだして一年近く経つ、あらゆることに慣れを感じるくらいに、停滞した一年を送ってきた自覚はある。
 ここで静かに余生を終えられればと思ってきた。故郷の影に怯え、海都の冒険者がそれを現実にしてもなお、スズランの中にある信念はけして折れることがないと確信していたし、事実そのとおりだ。
 けれど驚いたことに、その信念の隣の柔らかい部分にそっと、もうひとつ刺さっていたものがある。
 これの重みは、誰にも抜くことを許さない。
「カイト」
「……、はい?」
 言葉は何よりの鏡だ。
「おまえには無関係のことだ」
 カイトの表情が、実に複雑な変遷を経た。そのいちいちを解説できるほど長い間があったわけではないが、最終的に俯いて、額を片手で持ち上げるような格好で、カイトは答えた。
「そうですか?」
「そうだろう? アル様のことも、ハガネのことも、ひいてはアーモロードの連中のことだっておまえには関係のないことだ。イヤミを言われる筋合いはないぞ」
「いや……それは違うでしょう」
 カイトは自分の膝で頬杖をついている。不満そうだ。
「何が違う」
 言い返してみろ、という気分で問い返せば、カイトはこう答えた。
「だって、スズランさんは少なくとも僕の研究も守るつもりだったんでしょう。どこが無関係ですか」
 カイトは矢継ぎ早に言う。
「そんなもの放っておいて、あんたが守るものなんてアルと、あとは仲間の命くらいでいいんですよ。そんなことで寿命を削らせないで下さい」
「おっ……ちょっ」
 スズランの動揺を物ともせず、すくと立ち上がり、カイトは背を向ける。
「―――そんなことって、何だっ」
 辛うじて言えたひとことの返事は、カーテンに閉ざされて貰えなかった。


 何だかんだで、マサムネはしばらくアーモロードにいると言う。
「今戻れば、“秘術”について国王陛下に根掘り葉掘り訊かれそうですしのう。姫様が冒険を終えられるまで、微力ながらわしもお手伝いいたしますぞ」
 嫌そうな顔をしつつ、ピアノーチェが答える。
「仕方がないですわね……そうと決まれば、わたくしのために馬車馬のようにビシバシ働くのですわよ、良いですわね」
「ろ、老体になんとご無体な」
「良・い・で・す・わ・ね!!」
「オー、年寄リの打ち水ってヤツダナー!?」
「違うと思うぜー」
「そもそも冷や水だしね……」
 “羽ばたく蝶亭”のママが目を輝かせるも、ベルオレンとリンがふるふるとかぶりを振ってみせる。
 酒場である蝶亭は既に混雑の時間を越えたようで、ひらけた店内に見える冒険者の数もまばらだ。店内の掲示板に張り出された依頼に目を通す気力もなく、クッククローは遅い晩飯を進める。
 はあ、とハガネが深い溜息を吐いた。
「元気がないね」
「そりゃあ……出ないでござるよ」
 店の青白い灯りに照らし出されて、カウンターテーブルについたハガネの片頬がより血色悪く映る。
「―――もう少し……剣技を磨こうと思ったでござる」
「剣技?」
「いやあ某、忍法の方が得意なので戦う術は苦手でござって……しかしいざというとき、己の集中を過つなどあってはならぬこと。しかるに、剣技の修業で己を鍛え直すでござるよ」
「ほほー、おまえは忍法が得意など、初耳じゃのう」
 にゅっと、イーグルとハガネの間に割って入ったマサムネに、ハガネは飛び上がった。
「おっ、おじい様!」
「ふん、陽炎もろくすっぽ扱えんくせによく言うわい」
「ああああ……」
「陽炎?」
「俗に言う“分身の術”のまがい物じゃよ」
 自分に似せた影を囮として敵の目に映す技じゃ、とマサムネは説明する。
 イーグルは、急に心臓が痛むほど緊張するのを、ぎゅっと胸元を握りしめた。
「分身……って、すごいね」
「まあ、その忍法を応用した技もあるくらいじゃからの」
「それ……」
 緊張を悟られぬようひそやかに息を呑み、イーグルは尋ねた。
「本当に自分がもうひとり出来るってことなの?」
 マサムネが首を傾ぐ。
 質問の意味合いがおかしかっただろうか。一気に心臓が凍りつくようだった。
 が、彼は答えた。
「能力的には“自分が複数”ということになるが、あくまで分身は分身じゃからの。そう長くはもたん」
「そんな便利な術なら、どれだけ修業が厳しくとも絶対に習得して、分身に姫様のお付きをさせるでござるよー」
 頬をテーブルに擦り付けるハガネの背後に、ぬっと影が現れる。
「どういう意味ですの」
「うへ、姫さまっ」
「でもいいなー、オレのサブクラス、シノビにしようかな」
 のんきに呟くベルオレン。リンはあきれ顔だ。
「何だっていいよ、修業さえきっちりするんならね」
「分身の術の習得は根気がいるでござるよ……」
 わいわいと話題にし始めた仲間たちをよそに、イーグルは自分のグラスをたぐりよせ、口をつける。
 急にマサムネに肩を抱きこまれて、イーグルは口の中身を噴き出した。
「リーダーどのは、シノビの術に興味がおありかな?」
「えっ!? えー……えっと、いつもハガネを見ていて、すごいなーって……どうやってるのかなーって」
「原理は企業秘密じゃ。教えて欲しくば……いつでも大歓迎じゃぞ」
「はあ……」
 ウインクを飛ばしてくる赤ら顔。どうやら多少酔いも入っているらしい。
 イーグルはほっと胸を撫で下ろすと、今度はゆっくりと、グラスの中身を飲み干した。

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B14F

 明日は久しぶりの休養日だ。このところずっとどたばた続きで、長いことご無沙汰だった道具の買い足しや整理をしなければならない。ある意味すっかりギルドの世話人と化しているイーグルは、指折り用事を数えながら、宿の階段を上る―――そこへ、リンが声をかけてきた。
「あ……あのさ、イーグル」
「何?」
 リンはせわしなく視線を移動させながら、ひどく言いづらそうに続ける。
「その……明日、ちょっと付き合ってほしいところがあるんだけど」
「えっと、買い出しがあるからそのときでもいいかな?」
 イーグルの返事に、リンは珍しく言葉にならない声を出して逡巡している。やがて心なしか周囲をはばかるように小声になりながら、
「ついてきてほしいってのは……実は、樹海でさ」
 ばつが悪そうでもあるそれに、イーグルは目をしばたいた。


 海底神殿に慣れてきていたせいか、久々に訪れる灼熱の迷宮はとても暑く感じられる。
 ゲートキーパーとの決戦の跡地に、イーグルたちは訪れていた。何でもあの激しい戦いの際、リンはいつも大事に持ち歩いていた短剣を落としてしまったのだそうだ。
 戦いからそう日数は経過しておらず、復活するらしいゲートキーパーの影も形もないままだが、完全崩壊したはずの足場は、新しく固まった溶岩のためか回復しつつあるようだ。
「あっち~……なあ、こんなとこに本当に落ちてんのかよ」
 手を扇のようにして自らの顔を仰ぐベルオレン。
「落ちていたとしても、この広大な空間を探すのは骨が折れますわね」
 と言いつつ、準備運動をしているピアノーチェ。
 二人のそばで早速周りを見渡すハガネ―――そのさらに後ろから彼らの様子を見つつ、半目で頬をひきつらせる、リン。
「……なんで全員揃っているんだい?」
「えっ、捜し物なら人手があったほうがいいかと思って……」
 「ダメだった?」とイーグルは頬を掻いた。苦笑いのままリンはこちらを向いて―――力無く嘆息する。
「ま、いいんだけどね……」
「アニキに女心なんざ分かるわけねーって!」
 飛んでくるベルオレンの大声に、リンは吠える。
「うっさい!」
「とにかく、足場のあるあたりだけでもさらってみませんこと?」
 ピアノーチェの提案に、異を唱えるものはいなかった。


 結局手分けをして二周ほど見回ったが、短剣らしきものは見つけられなかった。
「これだけ自然の岩石しか転がっていない殺風景な場所なら、短剣が落ちていればすぐに分かりそうなものでござるが」
 未だきょろきょろと見渡すハガネ。
 やれやれと言うように、嘆息したのはベルオレンだった。
「あんだけの激戦だったんだ、マグマの中に落っこちて、溶かされちまったんじゃねえの?」
「まあ」
 目を丸くしたピアノーチェは、そっとリンの様子を窺った。
 自分の身の丈ほどの岩をひょいと持ち上げていたリンは、ため息と同時にそれを地面に置き直す。
「ベルの言うとおりかもしれないね……」
 気落ちしたその声に、イーグルはベルオレンを見る。
 同じようにピアノーチェやハガネからも視線を送られ、さすがのベルオレンも一歩引き下がった。
「な、なんだよ」
「デリカシーのない殿方は、女の子に嫌われますわよ」
「あん?」
 イーグルは俯くリンを覗き込んだ。
「リン」
「……見つからないってことは、そうなんだろうね。仕方ない、あきらめるよ」
「良いのですか? 大切なものだったのでは……」
 ピアノーチェは尻すぼみに言葉を切った。リンの表情が、あまりに寂しげだったからだろう。
 何も言えない四人をよそに、リンは大きく背伸びをして、打って変わった明るい声で言った。
「せっかく全員来ちゃったんだし、このまま探索に行くかい?」
「おっ、いいなソレ!」
 ベルオレンが反応する。
「ではこのまま第四階層に向かいますこと?」
「そうだね」
 小さく肩を竦めて応じ、リンはすたすたと歩きだす。
 イーグルはハガネと顔を見合わせたが、ピアノーチェも乗り気のようなので、彼らに従うことにした。


 サイモンは眼鏡の奥の目を細め、手元をじっと見据えていた。
 木製の机に載せられた手のひら、そしてその上に鎮座するのは、古びた短剣だ。
 鞘から抜き放つのも一苦労なのは刃が錆びきっているためか、そもそも折れそうなので、刃は鞘に収めたままだ。これが持ち主の手にあった頃はきっと大切に手入れされていたことだろう……見る影もなく今手のうちにある姿に、サイモンはため息をつく。
 こんこん、と木戸を叩く乾いた音。
 ただし随分近くから聞こえた―――振り返れば、開かれた扉の内側を、カイトが後ろ手に叩いている。
「言っておきますが、開ける前にもノックはしましたよ」
「何も言ってねえだろ。……で? 用事は何だ」
 大将が直に部屋に来るなんてロクな用じゃなさそうだけどな、と軽口を叩くも、カイトは涼しい顔だ。
「第四階層へ素材集めに行ってもらえませんか」
「え?」
「僕は今手が離せませんので」
 本当にろくでもない用だったと苦虫を噛み潰しながら、サイモンは答える。
「なんで俺が……」
「アルとティティだけでは不安でしょう? スズランさんはまだ動けませんし」
「おめーのびっくり人形はどうしたよ」
「シェルナハも同行させますが、採集効率化のために非戦闘向けにチューニングしていますので、護衛には力不足です。安全歩行がありますから魔物と遭遇することはそうないと思いますが、念のため」
 苦い顔のままのサイモンに、カイトは追い打ちをかける。
「どうせ暇でしょ?」
「暇じゃねーよ」
「机に向かって何をするでもなく、ぼんやりしていたじゃありませんか」
 見られていたのか。サイモンは慌てる。
「でっ、だっ、それは……」
「では早めに準備してください。アルたちが待っていますので」
「おい!」
 用件だけ伝えて、カイトはさっさと部屋を去っていった。閉じられた扉を眼前に立ち尽くし、サイモンは妙に疲れた心地でため息をつく。相変わらず人の都合を考えない奴だ。
「ったく……」
 人に頼むにしろ、もうちょっと言い方があるだろ……とぶつぶつ言いつつ、サイモンはゴーグルを手に取る。机の上に置いたままの短剣が目に入り、一瞬逡巡して―――探索用の道具袋に放り込んだ。放置しておいて誰かの目に触れれば、また面倒くさいことになるかもしれないと思ったからだ。
 示し合わせたように、ドアの向こうから「サイモンさーん」と声が聞こえて、サイモンは苛立ちに任せて叫んだ。
「今行くっつうの!」


 休日返上で樹海に挑むことになったクッククローは、地下十四階に歩を進めていた。
 海底神殿はフカビトの巣窟だと言われていたとおり、徘徊するフカビトと遭遇する確率は上がってきたように思う。そして突然頭上から襲ってくる鉄格子のからくりも複雑さを増しており、地図を見ながら進む道を吟味する必要がある。
「おっ……随分あけたとこに出たな」
 鉄格子が頭上にある。そっと室内に歩を踏み入れても、それが落ちてくることはなかった。
 部屋は集会場を思わせるように、区画された広さがあった。もちろんイスやテーブルが並んでいるはずもなく、埃っぽい石畳が苔むしているだけだ。広さを目算しながら、一行は進む。すると別の出入り口から、誰かがこちらに向かってくるのが見えた。
「あっ……」
「ん? おお、あんたらか」
 それは眼鏡のバリスタ―――サイモンだった。ティティとアル、シェルナハの姿がその後に続く。
「先日は、どうもお世話をおかけいたしました」
 ドレスの先を摘み、ピアノーチェが挨拶をする。アルはにこやかに返した。
「いいえ、もう気になさらないで下さい」
「あの女騎士……スズランさんのご容体は?」
「もうすぐ復帰できると思います。貴女も……お元気そうですね」
「ええ」
 二人のやりとりに、口笛を吹いたのはサイモンだった。
「おーおー、人が留守のときにえらく暴れてくれたみたいじゃねえか。うちの大将がおかんむりだったぜ」
「カイトが?」
 イーグルが聞き返せば、気をよくした様子でサイモンは頷く。
「スズランちゃんが怪我したせいでな。おかげで当たり散らすのなんの」
「まあ」
「その節は本当に申し訳……」
 小さくなるハガネ。アルが苦笑いした。
「サイモン、もうそのあたりで……二人がいないと思って好き勝手言ってますね」
「おーよ」
 余程腹に据えかねることがあったのか、サイモンは腕組みをしたままぶつぶつと続ける。
「手が離せねえとか何とか言って、スズランちゃんのことが心配なだけだろうが、あのスットコドッコイ」
 顔を見合わせるイーグルたちをよそに、無表情でシェルナハがつぶやく。
「“スットコドッコイ”とはどういう意味でしょう? マスター・カイトに報告をする際、注訳を付け加える方がよいでしょうか」
「報告なんざしなくていいから!」
 ぎょっとしたように肩をすくめるサイモン。シェルナハは答える。
「しかし、ワタシに内蔵されたカメラとマイクは、“シェルナハ”起動中において常に録画・録音状態にあります」
「そんなもんスイッチ切れ!」
「マスターの命令がなければ、これらはオフに出来ない仕様です」
 二人―――一人と一体のやりとりにきょとんとしていれば、突然サイモンの体躯が揺らいだ。
「サイモーン!!」
「ぐっは!」
 ティティが飛びついたのだ。サイモンが持っていた袋が飛んでいき、中身が床に散らばる。
「こら、ティティ! ところかまわず抱きつくんじゃねえっつってるだろ!」
「トコロテン?」
「ところかまわず、ですよ」
「これ……」
 落ちたものの一つに手を伸ばそうとしたリン。
 それにはっと気づいて、サイモンは慌てて、リンの手に渡るより早く“それ”を取り上げた。
 リンは彼を睨みつける。
「それはあたしの短剣だよ」
 そう、サイモンの道具袋から飛び出した“それ”は、リンが探していた古びた短剣に違いなかった。以前イーグルも見たことがある。
 しかしサイモンは悪びれもせず答える。
「お嬢ちゃんのモンだって? ほおー」
「ゲートキーパーの戦いのときに拾ったんだろ!? 返しな!」
「やなこった」
 サイモンは眼鏡の向こうの目つきを鋭く細めると、言った。
「お嬢ちゃん、こいつがどういういわれのものか、知っているかい?」
「知るか! そいつはあたしの親の形見だよっ!!」
 ベルオレンがはっと姉の横顔を見る。
 リンはよほど激昂しているのか、弟の驚愕に彩られた視線に気づいた風もなく、サイモンを見据えている。
 サイモンは淡泊に答えた。
「これは……昔、俺がある冒険者に“預けた”もんだ」
「預けた?」
「そうだ。……だから、こいつはもともと俺の物なんだ。いいか、俺の物だ」
 言い聞かせるように繰り返すサイモン。リンは何も答えないが、納得していないようなのはその目から読み取れる。
「―――こんなもん、後生大事に抱え込むな」
「あたしの親は……それを、冒険者の宝だって言って大事にしてたんだ」
 低く呟かれるリンの言葉に、サイモンは目を細める。
 すると、張り詰めた緊張を突如、鳥のような影が横切った。
「げっ」
 サイモンが掲げていた短剣をさらって、サイミンフクロウに良く似た小さな鳥はあるじの元へ飛んでいく―――そこにいたのは、ティティだ。
「ティティ!」
「べーっ」
 ティティはいたずらが見つかった子どものように舌を出すと、身を翻して駆け出した。
 慌てて追いかけるサイモンとリンに次いで、イーグルも地を蹴った。ティティの行く先、広場の出口の上空に、鉄柵の槍が鈍く光るのが見えたからだ。
「さ、三人ともっ!」
 リン、サイモンが通過して、鉄格子が頭上から迫りくる。あわや串刺しになるというところで、イーグルはリンたちに引っ張られて身を投げ出した。仰向けに倒れた踵の一ミリ先に、槍型が突き刺さっている。
「い、イーグルどの!」
「皆さん、大丈夫ですか!?」
 鉄格子の向こうから、焦りの声が口々に届く。イーグルは起き上がって周囲を見渡すが、鉄格子を開けるためのスイッチは近くには見当たらない。
「そっちにスイッチはないか?」
「オレたちが居る側は、さっきざっと見た限りじゃ、ないみたいだぜ」
 ベルオレンが答える。彼とピアノーチェ主従、アルとシェルナハの居る広場は、今の鉄格子と連動して動いた鉄格子によって、完全に孤立してしまったらしい。
「まいったな……この近くにもスイッチはないみたいなんだ」
「僕たちが入ってきた側……今、イーグルたちがいる場所と正反対の廊下の位置に、スイッチがあったと記憶しています。そこまで行ってきてもらえませんか?」
 アルの提案に、イーグルは三人―――リン、サイモン、サイモンに首根っこを捕まえられているティティ―――を振り返る。
「そういうことだけど、いい?」
「まあ……仕方ないね」
 リンはサイモンたちを見ると、腰に手を当てて呼びかける。
「あんたらもそれでいいかい」
「んあ? ……どのみち、それしかないだろうな。ったく……」
「はーなーしーてー」
 じたばたと暴れていたティティはイーグルと目が合うと、助けを求めるように両手を突っ張った。
「えっと……サイモンさん、嫌がってるみたいだし離してあげたら?」
「話が進まないよ」
「ったく……逃げるんじゃねーぞ」
 ぱっとサイモンが手を離すと、ティティは小動物のような素早さでイーグルの背中に隠れた。すんすんと鼻を鳴らすと、
「イーグル、カイトとおんなじ!」
 と明るい顔を上げた。イーグルはぎょっとする。
「お、同じって何が?」
「におい!」
「あーはいはい、とにかく向こう岸にぐるっと回りこめばいいんだね?」
「はい、お願いします」
 鉄格子の前から離れ、イーグルたちは歩き出した。


 ティティは普段サイモンにべったりのはずだったが、今はイーグルにくっついたままのご機嫌だ。
 シェルナハといいティティといい、そんなに自分とカイトは似ているんだろうかと悶々とするイーグルの思考を遮るかのように、遠吠えのような声が海底神殿に高く響き渡る。
「魔物と遭遇するかもしれないんだね……」
「出来る限り警戒はしていった方が良いな」
 ちらとイーグルとリンを窺い、サイモンは肩を竦めた。
「悪いな、ウチの娘が」
 示したのは、イーグルにへばりつくティティだ。冗談めかした言い方のためか、案の定血のつながりまでは信じていない様子のリンが胡散臭そうにサイモンを見つめている。
「……おまえさんたちは、何が出来るんだ?」
 サイモンの質問に、リンは拳を握った。
「あたしはコイツで戦ったり……ある程度なら、心身を回復させる術が使えるよ」
 無言のサイモンの視線に、リンは首を傾ぐ。
「……何だい?」
「いや……ゲートキーパーのときも思ったが、見れば見る程よく似てやがるな、くそ」
 後半は小声の早口だったので、リンは聞こえなかったようだ。まだ怪訝げな彼女をよそに、サイモンの視線がイーグルを向く。
「あんたと組むのは初めてだな」
「あ……でも、サイモンさんの紹介はいいよ」
 “夢”でよく知っている、とはさすがに言えなかった。しかしサイモンは特に不審そうでもない。
「そうか? まあ仲間に聞いてるかな……イーグル、だっけ。あんたは何を使うんだ?」
「俺は……銃を使うのが主かな」
「ティティはねー! おともだちががんばるんだよ!」
「はいはい」
 突然騒ぎ出したティティに、しかし慣れた様子でサイモンは耳の穴をほじりながら応じる。
 一方、目を丸くしているリンに見せるように、ティティは銀色の籠手を宙に掲げた。赤い宝石から放たれた光が空中で蝶々を象り、次第に鮮明な毒アゲハが露わになる。
「ほー……すごいね、どうやってるんだい?」
 リンの反応に気を良くしたように、ティティはにこにこと応じる。
「うん。あのね、ぱーっとやってぶわーってしたら、みんなが来るんだよ!」
「……そうかい」
「俺もよく分からねえが、嬢ちゃんの術や星術に通じるものがあるらしいぜ、カイト曰く」
 サイモンの言葉に、リンはますますよく分からない、という顔をした。
「……あの星術師……カイトっていう男。相当優秀みたいだけど、深都で何をやってるんだい?」
「さあな、若先生に直接聞けよ」
「あんたたち仲間同士のくせに、お互いの目的も知らないの?」
「……おまえさんたちも、似たようなもんだろうが」
 涼しげに見返して、サイモンは続けた。
「お嬢ちゃんは何が欲しくて迷宮に挑む?」
「……今はとりあえず、親の形見を取り戻したいね」
「まだ言ってんのか」
 ハアと溜息を吐くと、サイモンはティティを向いた。
「ティティ、いい加減に短剣を返してくれよ」
「やーっ」
「えっと……ティティ? おっさんが嫌なら、あたしにくれないかい?」
「おい」
 柔和なリンの口調にも、ティティはかぶりを振って、イーグルの影に隠れてしまう。イーグルは眉を下げて彼女に呼びかけた。
「ティティ」
「やーったら、やなの」
「仕方ねえな……」
 心底弱り切ったように、サイモンは後頭部を掻いた。“夢”の中でも思っていたが、彼はよほどティティには甘いらしい。いや、カイトたちに接する態度を見るに、生来優しい気質なのだろう。
「そういうアンタは、何のために深都なんかで生活しているのさ」
 ぶっきらぼうなリンの問いに、サイモンは苦笑いを浮かべる。
「深都“なんか”ってなァ……まあいいか」
 コツコツと、堅い床をブーツの底が打ち進む。
 その音の反響に割り込むように、サイモンは話し始めた。
「その昔。俺が……お嬢ちゃんの弟くれーの歳の頃だ。そのとき俺には目標にしていた冒険者がいた。正確に言えば、憧れていた、だけどな。俺は船着き場の雑用係で、世界樹の迷宮に挑むだなんて根性も気概もなかった」
 懐かしむように視線を遠くにやった後、サイモンはティティが大事そうに握りしめる、渦中の短剣を指さした。
「―――そいつは、その憧れの君に送ったものだ」
 リンははっとして、サイモンの視線を追う。
 一方のサイモンは短剣から目を離すと、また口を開いた。
「数年が経って、俺の憧れの冒険者のギルドは街に現れなくなった。俺の職場の船着き場にもだ。……風の噂じゃ、迷宮を諦め、アーモロードを離れたらしい。だけど俺は毎日船着き場に行っているのに、憧れの君の姿は見ちゃいなかった……これがどういうことを意味するのか、さすがの馬鹿にも分かったよ。そして……俺は冒険者になった」
「憧れていた相手を探すため?」
「そのときはな。……だが、嬢ちゃんたちも知っているとおり、ここはそんなに甘い場所じゃねえ。行方不明になった翌日に、空っぽの手甲だけが見つかるような所だ。俺が最初に居たギルドも……第一階層で全滅しちまった」
 息を呑むリン。サイモンは肩を竦める。
「ま、死人は出なかったけどな。更にそれから幾つかギルドを転々としたが、どこも似たり寄ったりよ。仲間の死や再起不能になる奴、我先に逃げ出す奴、裏切る奴」
「それで、隠居したくなったってこと?」
「ま、平たく言えばそうだな」
 薄く笑みすら浮かべるサイモンに、リンは溜息を吐いた。
「……うちの馬鹿弟にも聞かせてやりたいような、夢も希望もない話だね」
「俺は話したぜ。で、お嬢ちゃんが冒険を続ける理由は何だい?」
 リンは半目でサイモンを見やる。
「弟の面倒を見るためさ」
「ほー……弟想いの姉ちゃんだな」
「二人きりのきょうだいだからね」
 当然のように答えるリンに、しかしサイモンは顎髭を掴んでまじまじと彼女を眺める。品定めするかのような視線に、リンは怪訝げに眉をひそめた。
「なんだい?」
「……いいぜ、短剣。返してやるよ」
 突然サイモンの口を割って飛び出した言葉に、リンは目を丸くし―――声を上げる。
「ほ、ホントかい!?」
「ただし、条件がある」
 歩きながら器用にウインク一つ、サイモンは続けた。
「お嬢ちゃんが冒険を辞めること、だ」
「はあ!? あんた、今の話聞いていたかい!?」
「聞いてたさ。その上で言っているんだよ」
 リンはサイモンを睥睨すると、何か言おうと口を開いた―――ところで、ティティが騒ぎ始める。
「あれ! スイッチ!」
 フカビトの彫刻を進行方向の先に見つけ、ティティは飛び跳ねている。
「おいおい、あんま騒ぐんじゃねえぞ」
 そちらに駆けていった彼女を窘めつつも、後を追おうとするサイモン。その袖をリンが乱暴に引いた。
「ちょっと待ちな! まだ話は終わってないよ」
「あん?」
「納得いくはずないだろ。だいいちなんで、そんなことアンタに決められなきゃならないのさ!」
「だから言ってンだろ、あの短剣は元々俺のモンなの!」
「あのー、二人とも……」
 ティティよりもよほど大声でやりとりするリンとサイモン。平行線の議論に夢中な二人は、イーグルの呼びかけになど微塵も気が回らない様子で、鉄格子を上げるスイッチへとずんずん進んでいく。
 対照的なほどの沈黙が落ちる、通り過ぎた曲がり角で。
 イーグルは確かに、唸るような声を聞いた。
 そろそろとその曲がり角を覗きこめば、入り組んだ廊下の先にある降りた鉄格子の向こうに、“異海の胸甲兵”の姿―――
 イーグルは飛び上がった。
「ふ、二人ともっ! ティティ、押しちゃ―――」
「え?」
 同時に振り返る、リンとサイモン。
 その向こうで、カチリと軽い音をさせてティティがボタンを押した。
 鉄格子があちこちで上がる。イーグルは慌てて二人の背を押しながら、
「早く隠れて!」
「隠れるって……」
「フカビトの兵隊が入ってくる! 急いで!!」
 不意を打たれたせいで、この面子で戦う準備はできていない。イーグルはリンとティティを引っ張り、フカビトの彫刻が置かれた柱に、屈みこむように身を隠した。サイモンがそのあとに続くが、彼は“異海の胸甲兵”に気づいたようだ。
「うわっ、ホントだ」
「幸い、こっちに向かってきてはないね」
 イーグルは壁に背を押し付けて、深呼吸しがてら溜息を吐いた。呆れたような嘆息がさらに続く。見上げれば、サイモンがやれやれと首を竦めたところだった。
「ったく、嬢ちゃんがガヤガヤするからだぜ」
「は!? あんたが人のモンをなかなか返そうとしないからでしょうが!」
「だからアレは俺のモンだって……」
 イーグルを挟んで言い争う二人。イーグルはその隙間から必死に首を巡らせ、“異海の胸甲兵”の行方を窺った。こちらとは逆方向に廊下を進んでいる。そこで、イーグルは思い至った―――
「まずい!」
「うおっ」
「ちょっ」
 唾を飛ばしながら迫ってきていた二人のあぎとを下から押し退けて、イーグルは立ちあがると柱の陰から躍り出る。
「イーグル!? 何やってんだい!」
「おい、危ないつったのはおまえさんだろ?」
「あのフカビト、広場の方に向かってるんだ!」
 先ほど通過した道には、ベルオレンたちが残っている広場の出入口があるのだ。鉄格子が降りていたためすぐに考えつくことができなかったが、ベルオレンたちがその出入口から出ようとしていれば、件のf.o.eと鉢合わせてしまうだろう。
「―――追いかけるぞ!」
「えっ、ちょ」
「あいさー!」
 駆け出したイーグルに、短剣を握ったままのティティが並走する。一拍遅れてリンとサイモンがついてきているのを尻目にしながら、イーグルはティティに呼びかけた。
「“おともだち”、喚べるか!?」
「うん! どの子がいい?」
「サイミンフクロウを頼む!」
「はーい」
 明るい返事と共に展開された紅の光。弾けるような閃光のうちから飛び出したサイミンフクロウは、駆ける二人を置き去りに、あっという間に“異海の胸甲兵”に追いつき追い越す。
 イーグルは走りながら、既に銃を抜いていた。羽虫のように舞う小さなサイミンフクロウを振り払おうと暴れる、フカビトの兵士に照準を定める。発砲、続けて三発。
 放たれた銃弾はしかし、叩きつけられる尾びれに軒並み弾かれる。ひるんだイーグルは立ち竦んだ。完全に身体をこちらに向けていた“異海の胸甲兵”と目が合う。
「頭下げろォ!」
 聞こえたがなり声に、イーグルは反射的に膝を折った。風切音と共に頭上を行き過ぎた巨大な矢は、フカビトの肩に突き刺さる。唸り声のような叫び。びりびりと空気が静電気を帯びるのを感じる。術式を込めた矢だったのだろう。
「今ですわ!」
 “異界の胸甲兵”の巨躯の向こうから聞こえたピアノーチェの声が、轟音をもって魔物の背中を揺るがせる。たちまち白煙が視界を覆った。痛みにかよろめくフカビトの脇をすり抜ける、ばたばたという複数の足音が騒がしい。
「こっちでござる」
 白一色からにゅっと生えたハガネの腕が、イーグルを誘導する。イーグルは、サイミンフクロウを回収していたティティを見つけると、彼女を連れてハガネを追った。
 白煙から逃げるように辿り着いた、開けた視界には、リンやサイモンは勿論、広場に取り残されていた仲間たちも皆集合していた。今のどさくさで合流できたらしい。イーグルはほっと息を吐くが、皆一様に厳しい表情で、いまだ立ち上る白煙を見ている。
「騒がしい気配が、まだあちらこちらに在るでござるよ」
「一度脱出した方が良さそうだな」
 同じように、鉄格子から入り込んだ“警備兵”が辺りを巡回している可能性は捨てきれない。
「ったく……うまく逃げられたから良かったものの、無茶して前に出ないでおくれよ」
 リンに言われてしまい、イーグルは頭を掻いた。
「ご、ごめん」
「姉貴がそこのおっさんと、何だかんだ喚き合うのに夢中だったからじゃね? こっちまで聞こえてたぜ」
 肩を竦めて言うベルオレン。リンはばつが悪そうな顔になった。ぺこりとイーグルに頭を下げる。
「それは……ごめん」
「えっ……いやいや、別に―――」
「お嬢ちゃん、オトートに言っておいた方がいいんじゃねーのか。冒険を諦めろってよ」
「ハッ!?」
 サイモンの言葉に、ベルオレンは素っ頓狂な声を上げる。次いで、訝しげに姉を見た。
「―――どういうことだよ!?」
「そうでもなけりゃ、ガマンするんだな!」
「あっ、アンタ!」
 サイモンはにやりと笑うと、いつの間にか手にしていたアリアドネの糸を紐解いた。
 彼も、彼の仲間たちも呆気にとられた表情のまま、姿が掻き消える。それを見送った瞬間、リンはぱしんと自身の手のひらを打った。
「あーもう、逃げられた!!」
「短剣を取り戻せなかったのですか?」
 ピアノーチェの問いに、リンは歯を食いしばったまま頷いた。ベルオレンがその横顔に食いつく。
「おい、おっさんが言ってた“冒険を諦めろ”って何だよ?」
「詳しい話は帰ってからにした方が良いようでござるな。そろそろ煙幕の効果が切れる」
 ハガネの言葉に同意するように、イーグルはアリアドネの糸を取り出した。


「で? どういうこったよ」
 イライラした様子で、樹海の入り口の石畳を爪先で叩くベルオレン。
「それは……」
 リンは続けづらそうだったが、白状するように説明した。親の形見である短剣は、元はサイモンが彼らに預けたものであること。サイモンから、短剣を返してほしいなら冒険をやめるようにと言われたこと。それらを聞いたベルオレンはどんどん妙なものを飲み込んだような表情になっていき、話の締めくくりにこう感想を述べた。
「何だそりゃ。オレ関係ねーじゃん」
「あたしが冒険をする理由が、あんただって言ったから……」
 苦虫をかみつぶすベルオレンが何か言うより先に、ピアノーチェが口を開く。
「短剣を諦めるしかないようですわね」
「それもね……」
「何だよ。っていうかあの短剣、第二階層で拾ったやつだよな」
 不機嫌を隠そうとしないベルオレンに、リンの肩がぴくりと揺れる。
「―――オヤジのかおふくろのか知らねーけど、形見がなんで樹海なんかにあるんだ。二人とも海で死んだはずだろ?」
「それは……」
「それとも……オレに嘘ついてたってことかよ」
 黙り込んでしまうリン。
「あんな短剣、放っておきゃよかったんだ」
 しかし、吐き捨てるようなベルオレンの言葉に、リンは弾かれたように顔を上げる。
「それ、どういう意味?」
「そのままの意味だよ。たかが短剣のために、冒険やめるだなんて―――バカらし」
「何だって……」
 ぎりと拳を握りしめるリン。ベルオレンはそれに、冷淡なまでの視線を向けている。
 何だかんだと言いながらいつもは仲の良いはずの、姉弟の滅多に見ない険悪な空気に、イーグルはハガネとピアノーチェに目配せをした。
「えっと……こんなところで話し込むのもよくないでござるな」
「そ、そうだね。一旦、街の方に戻ろう。ね?」
 ベルオレンは小さく嘆息すると、踵を返した。アーモロードの市街へ向かってふらりと歩き出す彼に、慌ててイーグルは続く。振り返れば、ピアノーチェがリンを覗き込み、何か言葉をかけている。ハガネもそれに寄り添っていた。
「アニキ」
「はい」
 静かなベルオレンの声に前を向き直り、改まった返事をするイーグル。
 振り返っていた赤毛の少年はもう一度力無く溜息を吐き、視線を外すように正面を向いて、続けた。
「アニキは……その、知ってたのか? あれが、あの短剣が、オレたちの親の形見だってこと」
 イーグルは咄嗟に背後を一瞥したが、リンは俯いてしまっていて、目を合わせることは出来なかった。
 なので、小声で応じる。
「……うん」
「そうか」
 そしてそれきり、ベルオレンは何も言わなかった。


 道具袋をひっくり返すなり、カイトは渋い顔で言い放った。
「それで、足りませんけど?」
 ねぎらうとかいたわるとか、そういう言葉が出てこないのは分かっていた。だがさすがにサイモンはこめかみが引きつるのを感じる。
「足りねえもクソも、採集場を全部回りきる前に逃げ帰ってきたんだよ。話聞いてたか?」
「聞いていましたが、どう考えてもサイモンさんのせいですよね」
「何でだよ! パーティが分断されたのはティティのせいだし、f.o.eに遭遇したのだって不可抗力だぜ?」
 まるでサイモンの言葉全てが言い訳だとでも言いたげに、呆れがにじむ視線がサイモンを見ている。百歩譲って目的のモノが手に入らなかったからと言って、善意を頼んだ―――もとい、仕事を押し付けたニンゲンの態度じゃねえよなあ、とサイモンは半目になった。
「いさかいの原因だと思って、ティティはあなたがたから短剣を遠ざけたんでしょう。そもそも、f.o.eだって鉄格子を上げるより前に気づけたはずです」
―――それなのに、放たれることば一つ一つがサイモンの胸に突き刺さる。突き刺さるのは、これらが正論だと自分でも分かっているからだ。カイトは追い打ちをかけるように続ける。
「僕は“念のため”だと言いました。“念のため、あなたについていってもらう”とね。それがどうです、どころか足を引っ張っている。聞けばf.o.eから逃げられたのも、海都のシノビに助けてもらったからだそうですね」
「あー、もういい……」
 反論する気力など根こそぎ奪われてしまった気分で、サイモンは項垂れた。
「俺が悪かったよ……」
「あまつさえ、依頼すら完璧にこなせてないなんて。あなたそれでも冒険者ですか?」
「冒険者です……やって長いです……」
「二十年のキャリアが泣いてますよ」
「十五年です……泣いてます……」
「何でもいいけど、“いさかいの原因”はティティに引き続き預かってもらうから」
「ハァ!?」
 いきおい机を叩きつけたサイモンを、涼しげな碧眼が眺めている。
「あなた方にとって大切なものでも、我々にはつまらないケンカの火種でしかありません。ティティならきちんと管理してくれますよ」
「だからって、ンな勝手に―――」
「そもそも、これ以上海都と無駄な接触を持たないで下さい」
 取りつく島もないとはこのことだ。サイモンは明後日の方向を向いて舌打ちする。
「……てめーが言えた義理かよ」
「はい?」
「イーグルとか言ったな、あの海賊ボーズ。……こちとらごまんと冒険者を見てきた身だ。他の奴らはごまかせてもな、このサイモン様の目はそうはいかねえぜ」
「……何の事だか、分かりませんね」
 はぐらかすというにはあまりに無表情に、カイトは答えた。
 が、サイモンは言ってやる。
「アイツ、おまえとそっくりだ。何者なんだ?」
 カイトは一瞬眼を見開いて―――そして、薄く笑った。
 だが、弧を描いた唇が開くことはない。答える気はないとみて、サイモンはもう一度舌打ちし、テーブルを立つ。
「何を考えているんだか知らねえけどな、これ以上俺たちを振り回すんじゃねえよ。でなきゃ、こっちも勝手にするぜ」
「かまいませんよ」
「あん?」
 座椅子に深く腰掛けるカイトは、部屋を出ようとするサイモンを見もせず、続けた。
「僕の目的はおおむね果たせました。どうぞ、ご随意に」
「よく言うぜ」
 乱暴に吐き捨て、口調そのまま、サイモンは扉を叩きつけた。

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B15F

 いつでも晴れたきりの青空。
 負けず劣らず、澄み切った青が島の周りには広がっている。
 いつか航海に出て、行方不明になった両親を捜すこと。
 それがベルオレン少年の夢だった。


 実を言えば、ベルオレンは船に乗ったことがなかった。
 近場の島との連絡船はあることはあるが、数日に一度で、それも相当な金がかかる。一番多いのはどこかの遠い港から冒険者を運んでくるための船だったが、その船がまたアーモロードを訪れる確証はなくて、海都に家を持つベルオレンにはそれに乗ることは躊躇われた。いつかはそうするつもりだったが、姉貴に何も言わずに旅立つわけにはいかない。
 だから選んだのは、金もかからず必ずアーモロードに帰ってくることが分かっている船―――つまるところ、冒険者が近郊の海に出るための船に、忍びこむことだった。
 真っ赤な艦首の大きな船は、ベルオレンの目には憧れの象徴のように映った。船内に降りる階段の裏、備蓄庫に並ぶ小麦袋の陰に隠れたとき、わくわくが押さえきれずに叫び出したいほどだった。海に出てしまえばこちらのものだ―――ところがベルオレンの密航は、船が港を離れる前にあえなく見つかってしまう。
「だっ、もー、離せっつーの!!」
 アフロの巨身に首根っこを掴まれ、じたばたと暴れる。が、涼しげな顔の男は全く動じないまま、甲板で仁王立ちする赤髪の男に呼びかけた。
「頭、ネズミが一匹」
「おーおー、コイツァ見覚えのあるでかいネズミだな」
 眼帯をひっかけた片目をいやらしく眇め、いかにも海賊然とした男―――この船の船長らしい―――は続けた。
「道場のじーさんとこの坊主じゃねえか。俺様の船で一体何をしてやがる?」
「オレはベルオレンだっ! 坊主じゃねえ!」
 会話にならねーな、と船長は頭をボリボリと掻く。
「おおよそ、セレンディピティーの魅力に引き寄せられちまったんだろうがな。この船はあいにくおまえさんで定員オーバーだ」
「オレ、琥珀を取ってくるって仲間に言っちまったんだよ。頼むよ!」
 何でもするからさ、とぶらさげられながら手のひらを合わせるベルオレン。
「何でも、だなんて簡単に言うもんじゃねえぜ、ベルの坊ちゃんよ」
「誰が坊ちゃんだっ!」
 ぎゃんぎゃんと吠えだしたベルオレンに、船長は大げさなほど耳を覆ってみせると、ベルオレンを捕まえている手下に命令した。
「おい、ちっと頭を冷やさせた方がいいぞ」
「そうですな」
 アフロはずんずんと船の際に進んでいくと、海に向かってベルオレンをぽいと放り投げた。
「う、わあああああ!? ……ぶはっ!」
「いいか、船乗りだなんぞ百年はえー赤ん坊ちゃんよ! 勝手に人の船に入り込むネズミはそういう目に遭うんだ、覚えておきな!」
 遙か頭上の甲板から明るく響くあざけりの笑い声たち。ベルオレンは歯噛みしつつも陸を目指して泳ぐ。
 ため息と同時に岸に上がれば、丸い目をぱちぱちとしばたく男と目があった。
「大丈夫?」
「おい、濡れネズミ。そいつは監視人だ。おまえの家まできっちり送ってもらえ!」
 甲板から聞こえてきたがなり声に、ベルオレンはますます顔をしかめると、船に向かって思い切り舌をつきだしてやった。それに背を向けずんずん歩いていけば、監視人とやらの男が後ろからついてくる。
「何だよ!」
「いや、別に」
 長い髪を頭のてっぺんで縛った、気の弱そうな奴だ。こんなひょろい奴より、オレの方がよっぽど海の男にふさわしいってのに。わざと大股の早足で進んだが、意外とこいつはちゃんとついてきた。
「えーっと……ベルオレン?」
「あんだよ」
 話しかけてきたことに邪険に応じれば、彼は懐からそっと透明な黄褐色の石を取り出した。目を丸くするベルオレンをよそに、それを差し出す。
「琥珀だよ。これがあれば、仲間にバカにされずに済むんでしょ?」
 ドンにはくれぐれも内緒で、と、自信がなさそうな弱々しい笑みを浮かべる男になんだか腹が立った。こんな奴に情けをかけられるくらいならバカにされた方がマシだと思い、渡されたものを突き返す。
「いらねえ!」
「ちょ……」
 わざと道場とは全く別方向に歩き出すベルオレン。それでも奴はついてくるようだったが。
 そうこうしているうちに、人だかりにぶち当たる。
「何だ?」
 市場から外れた、渋滞も出来にくい通りだ。わいわいと騒がしい人混みの隙間から見覚えのある赤いおさげが覗いて、ベルオレンはぎょっと身を乗り出した。
「ちょ、通してくれ!」
 人をかき分け、ベルオレンはおさげの主の元へたどり着く。
「姉貴!」
「ベル?」
 振り返った姉―――リンは、目を丸くしてベルオレンを見た。
 彼女の肩越しに立つ屈強な男たち―――港の倉庫番だ―――の切羽詰まった表情を見つけて、ベルオレンは困惑する。
「どうしたんだよ」
「この人たちがあたしに用があるからって、必死に頼みに来たみたいなんだよ」
「はい?」
「詳しいところは今から聞くところさ」
 頷き、倉庫番は口を開いた。
「実は……」
 船の“積み荷”が、港の倉庫に卸した途端“逃げた”らしい。
 というのも、積み荷は生きた動物なのだそうだ。現状倉庫の中に閉じこめることは成功しているらしいが、元々密輸品として押収した荷なので管理者がおらず、捕まえ方が分からない。
「それで、なんで姉貴の手を借りようと思ったんだ?」
「アイツは腐敗毒を放つんだ。このまま放っておけば、倉庫に置いてある他の品が腐っちまうんだよ。モンクなら癒しの術で倉庫を浄化できるんじゃないかって、道場に行ったんだが……」
「おじじは今留守だからねえ。それであたしにお鉢が回ってきたことかい」
「にしても、腐敗毒出すようなやつと他の荷を一緒にしておくなよ……」
 なんだかんだと言いながら、ベルオレンたち姉弟は倉庫番に付いて港へと移動していた。倉庫が一つ潰れてしまえば、アーモロードの物流にも支障が出る。同じ街に住むもの同士、協力しないわけにはいかない。
 皆のあとを所在なさげについてくる海賊の下っ端に、ベルオレンはとげとげしく言ってやる。
「何だよ、まだいたのか」
「きみが道場に帰るまでは……」
「出航に間に合わなくても知らねーぞ」
 ベルオレンはぷいと前を向いたが、あの悪趣味な赤い船首の船が、港に停泊したままなのは知っていた。
 一方、リンは疑わしげな目を海賊に向ける。
「最近うちの弟をたぶらかしてるのは、あんた?」
「えっ?」
「たぶらかすって何だ。だいたいそいつは勝手に付いてきただけで、知り合いでも何でもねーよ!」
 吠えるベルオレン。リンは負けず仏頂面だ。
「あんたがしきりに港で船を物色してるって、風の噂で聞いたのよ。見たとこそいつ、海賊じゃないか。あんた、まさかロクでもないことに手を貸したりしていないだろうね」
「してねーよ!」
「え。でも、うちの船に密―――」
「あんたは黙ってろ!!」
「おまえさんたち」
 いつの間にか歩みが止まっていたことに気づいて、三人は正面を向く。
 倉庫番は不安を隠そうともしないで、親指を背後の壁に向け―――こう言った。
「この倉庫の中だ。よろしく頼むぜ」


 ゆっくりと音を立てて開かれる重い扉。
 内側は真っ暗だ。扉が開いたせいで漏れ入る光に照らされるのは、整然と並べられた木箱たち。通路にそって規則正しく並んでいるところから、見える範囲は荒らされていないらしい。
 一方倉庫番は外壁に背を預けたまま、がんとして付いてくる気はない様子だ。
 溜息を吐きながら、はじめの一歩を踏み出したベルオレンの首根っこを、リンが掴む。
「ぐえっ……何すんだ!?」
「あんたは外で待ってなさい」
「ハ!?」
 首だけでぐりんと振り返り、ベルオレンは眦をつり上げる。
「―――オレも手伝うに決まってんだろ!」
「何言ってんの。モンクの手が必要ってだけなんだから、それ以外の人間は余計な首突っ込まなくていいの!!」
「でも、アイツ先に入ってったぜ」
「えっ?」
 揉める姉弟を横切り、すたすたと暗闇を進んでいった海賊に、リンはベルオレンを手放すと慌てて呼びかける。
「待ちな! あんたも何勝手に―――」
「しっ」
 彼は唇に人差し指を当てると、もう一方の手で、積まれた木箱の一角を指さした。ベルオレンとリンは顔を見合わせ、息を呑む。
「も、もう発見したの?」
「いや……これ、見て」
 海賊の指先にあったのは、木箱から突き出るように生える、毒々しい赤のキノコだ。
「うわっなんだコレ」
「よく見れば、あちこちに生えてるね……」
 綺麗に片された倉庫のあちこちから赤いキノコが生えている様は異様この上ない。
 それらを照らし出す、扉から差し込む頼りない光線が細まった。
「三人いれば十分だな!」
 倉庫番が扉を閉めようとしているのだ。あわてるリンたちをよそに、倉庫番は早口に続ける。
「じゃ、あとは頼んだぜ」
 重たい扉が完全に閉じる音とともに、訪れた暗闇。
 それをランプの明かりが突然照らす。
「わっ……び、びっくりさせんなよ」
「倉庫番の人が貸してくれたんだ」
 海賊は事も無げに言って、「これも」と大きめの麻袋を持ち上げる。魔物を捕獲するためのものらしい。
 海賊はそのまま、手にしたランプで足下を照らしながら進んでいく。
「ちょっと待ちなよ!」
 マイペースに歩を進める彼に、姉弟は顔を見合わせつつもついていく。天井の高い倉庫内には三人分の足音がよく響いた。
 服を引いてくる感触に、ベルオレンは渋面で振り返る。
「おい姉貴、あんまくっつくなよ」
「だ、だって……」
 リンはぎくりと肩を震わせると、身を縮めて周りを見渡した。ベルオレンは呆れ混じりのため息で、
「さっきの威勢はどこ飛んでったんだか」
「う、うっさいわね」
「そういえば」
「うひっ」
 唐突に先頭を歩く海賊が声を上げたので、リンが身を竦める。
 海賊はきょとんとした表情のまま、続けた。
「名前、聞いてないなと思って」
「は? 名前?」
「そ―――」
「うしろ!」
 ベルオレンは海賊の後ろを横切った影を認めて、大声を上げた。慌てて振り返る海賊。しかしそこには既に何もない。
「な、何?」
 戸惑う彼らをよそに、子供の笑い声のような音が響きわたる。ベルオレンは周りを注意深く見渡すが、ランプの光が届かない場所はあまりに暗くて気配を読みとることも出来ない。
「あ、さっきの……」
 影が通り過ぎた木箱の上には、赤い粉のようなものが落ちている。それらは酸のように木箱の表面を浸食すると、みるみるうちに成長していった―――赤いキノコだ。
「これは……何だろう」
「キノコの魔物ってことか? おい姉貴!」
 毒についてならベルオレンも学んではいるが、詳しい知識はリンの方が上だ。振り返れば―――リンは床の上にしゃがみこんで小さくなっている。呆然とした表情がベルオレンを見上げた。
「い、今ので腰、抜けちゃって」
「ハア? ……ったく、ホントにどうしようもねーなあ」
 心底呆れつつも、手を差し伸べてやるベルオレン。それに掴まり、よたよたとリンが立ち上がろうとしたところで、また甲高い笑い声が響いた。
「きゃああああっ!?」
「げっ、ちょっ!?」
 リンの怪力にひとたまりもなく引きずられ、ベルオレンはリンと一緒に転倒した。その上をまた影が通り過ぎ―――今度は黄色い霧が頭上から降り注ぐ。
「ぶわっ!」
 まともに吸い込んでしまい、ベルオレンは大げさにせき込んだ―――否、大げさでもなく、視界は黄色に染まってしまって、息を吸うことすらままならない。
「二人とも、大丈夫か!?」
 黄色の霧の向こうから、海賊の声が通った。マズルフラッシュと銃声の方向から、敵の逃げた方向を知る。足下だ。
「っ……」
 腕や足がぴりぴりと痺れてきた。動かない身体から力が抜けていく。膝下ほどの大きさのずんぐりとした身体の魔物―――まるきり動くキノコのような―――がすぐそばでふんぞり返っているのを見つけて、ベルオレンは思い切りそれを蹴り飛ばした。
 ぴゅい、とかいう悲鳴を上げて、渾身の力を込めた蹴りは魔物を天井高く、ボールのように打ち上げる。
 落ちてきた魔物を、海賊が袋でうまく捕まえた。
「姉貴、大丈夫か?」
「う、うん……」
 応える声には力がない。痺れが抜けきらないのはベルオレンも同じだ。ひとり元気そうに、蠢くキノコの魔物を押さえ込んでいる海賊に、ベルオレンは声をかけた。
「何であんただけ平気なんだ……」
「え? 多分だけど……」
 彼は懐から琥珀を取り出した。
「これのおかげじゃないかな?」
「何だそれ」
「琥珀には浄毒作用があるって聞いたことがあるよ。モンクなら、お姉さんの方が詳しいんじゃ―――」
 振り返った先のリンはこくこくと頷くばかりだ。声が出ないらしい。
 袋の内側からは薄い刺激臭が漂っており、この魔物に作用する特殊な薬品が塗りつけられているようだ。いつの間にかキノコは大人しくなっている。 
「しかし、袋が異様に大きいのが気になるんだけど……」
 再び落ちた静寂のうち―――しかし新たな笑い声が響いて、ベルオレンたちは肩を竦めた。
「も、もしかして……袋がでかいのって」
「一匹じゃ、ない?」
 そっと銃を握りながら、きょろきょろと海賊は周りを見渡す。
 体の動かないベルオレンは、警戒する振りをしながら彼を観察した。
 用心深い素振りだが、怖気づいているわけではないらしい。声を聞きながら、キノコの位置を探しているように見える。
「べ、ベル……」
「お?」
 急に体が楽になった。振り返ればリンがこちらに手を伸ばしているので、彼女が何かしたらしい。
 その唇がわなないているが、どうせ言葉が紡げたところでロクなことを言わないのは分かりきっているので、気付かないふりでベルオレンは肩を回した。
「おー、ありがとな姉貴! これであいつらを捕まえられるぜ!!」
「ば、ばか」
 一回きりの行動力を使い果たしたらしく、リンは大きく肩を落とす。
「ま、姉貴はそこで動けるようになるまでじっとしてろよ。あいつらはオレが何とかしてやっから―――」
「残り五、六匹ってところかな」
 袋をばさりと振り回した海賊が、あっさりと言った。
 側の木箱に置かれたランプに照らされた、袋の中はもごもごと動く複数の影がある。
「げっ、早っ!」
「見てて」
 階段状に積まれた木箱の上から、ぴょこぴょことキノコが降りてくる―――まるで、ランプを狙ってきているようだ。だがそれを、タイミングよく海賊は捕まえて、毒胞子が噴き出される前に袋に放り込んでいるらしい。
「―――あまり頭はよくないみたいだね」
 ベルオレンは静かになっていく袋と、額に汗する海賊を見比べ、素直に呟いた。
「すっげーな、あんた」
「そうかな……でもそろそろ疲れてきたかも」
 ベルオレンは、ぱしんと拳で手のひらを打つと、心得た風に笑った。
「任せろって!」
 そして木箱の山に手をかけると、キノコのいる方へと登っていく。
 暗闇に慣れてきた目では、キノコの胞子が放たれる方向を避けるのは簡単だ。軽々キノコを両手で抱えると、下方、海賊がいる付近へ放り投げた。
「ちょ、ちょっと、危ないよ!」
「へへ」
 悲鳴をあげつつも、落ちてきたキノコを袋に受け止めた海賊に、ベルオレンは声をかけた。
「なあ。オレ、ベルオレンって言うんだ。ベルな。あんたの名前は?」
「俺? ……えーっと、仲間にはイーグルって呼ばれてるけど」
「オーケイ、じゃあイーグルのアニキだな」
 最後の一匹を抱え木箱の頂上から飛び降りて、ベルオレンは宙返りひとつ、目を丸くしている海賊―――イーグルのそばに着地した。
 思いついていたことを口にする。
「オレ、船乗りになりたいんだ。だから海賊のあんたはこれから、オレの兄貴分ってことで」
「へっ?」
「ベル、あんた何言って―――」
 復活したらしいリンが、肩を怒らせてベルオレンに手を伸ばした―――が、ベルオレンが脇に抱えたままだったキノコの胞子が噴き出して、途端に咳き込みだす。
「ぶえっ……おお?」
 胞子の霧の内側で、抱えたキノコが分裂していくのが見えた。ベルオレンは慌てて抱えていた方をイーグルに放り投げると、分裂したキノコが逃げていくのを追いかける。
「くっそ、待てっ!!」
「何やってんだか……」
 またへなへなと力が抜けるリンに、苦笑いしながらイーグルが手を差し出す。仏頂面のリンだったが、恥ずかしそうにしながらもその手に掴まっていた。
 キノコを追いかけながらそれを振り返り、ベルオレンは改めて思った。姉貴の説得は、こういう風に外堀から埋めていけば上手くいくかもしれない―――
 結局全ての魔物を捕まえ、倉庫番に引き渡してもなお、腰が抜けたままだったリンを、何故かイーグルは負ぶって、道場まで送ってくれたのだった。


 そんなこともあったな、と、寝台に横たわって宿の天井を睨めつけながら、ベルオレンは思う。
 リンと言い争いをして、アーモロードに戻ってくるなり、クジュラが宿に訪ねてきた。何でも“とあるお方からのご依頼”とかで、“空の玉碗”というものを渡しに来たらしい。
 らしいというのは、応対していたのはリンやイーグルたちで、ベルオレンはそれを物陰からこっそり眺めていただけだからだ。あれだけ人前で拗ねてみせたのに、何食わぬ顔で出ていける程ベルオレンは自分の人間が出来ていないことを知っている。
 だが、会話は一部始終を聞いていた。―――とある兄妹に起こった、悲劇のことを。
 そしてその話を終えたクジュラが去ったあとの、イーグルの呟きを―――「お互いを思いやりすぎて、二度と会えなくなるなんて寂しいね」。
 寝返りを打つ。
 ベルオレンは、自分の事を救いようのない馬鹿だとは思っていない。姉貴がふたりきりの姉弟である自分を心配しすぎて、大げさなことばかり言ったり、したりしているのだということは、分かっている。
 あの時―――倉庫でキノコを追いかけ回したときだって、リンは一人分しかかけられないリフレッシュを、自身には使わなかったのだ。
 あー、どっすっかなー。
 ベルオレンはまた、今度は逆方向に、ごろりと転がった。
 癪なのは癪だ。けれども、ちらつくリンの悲しそうな顔が、意地を張り通そうとする頭の隅にひっかかって仕方がない。
「ったく、いつもこうだよ」
 ぶつくさ言いつつも、ベルオレンは宿部屋を出て、ぼりぼり頭を掻きながら、まだ仲間がいるはずのフロントに向かった。
 まあいいや、今回は―――“も”だが――――オレが折れてやるさ。
 でも、冒険は何としてでも続けてやる。親の死の原因が樹海なら尚更、その底に眠る秘密を引きずり出すだけの権利はあるはずだ。問題は、どうやってそれでリンを説得するか―――
 考えながら歩いていたベルオレンは、まだ遠くから届いたリンの独白に耳を取られて、立ち止まった。
「嘘をついていたことは、悪かったと思ってるよ……」
 フロント近くのソファに固まって、マサムネを含めた仲間たち四人が、リンの話を聞いていた。
 ベルオレンはリンの死角からそっと近づいて、盗み聞きしやすい体勢になる。彼女の正面に座っているイーグルが少しばかりベルオレンに気づいたような顔をしていたが、多分大丈夫だろう。
「ベルを、海でも迷宮でも失いたくないってのも、本当。それは今でも変わらない。けど」
 そのあとに続いた言葉に、ベルオレンは息を呑んだ。
「―――今はあたしも、両親が目指した樹海の真実を知りたい」
 ピアノーチェの声が続く。
「それは、あの弩使いさんが出した短剣の交換条件とは、まったく相反するのではありませんか?」
「仕方ないさ、あのおっさんはおっさんで、どうするか考えるよ。……とにかく、冒険を辞めたりはしない。取り乱して勝手なこと言って、騒ぎを大きくして……すまなかったね」
「いいえ」
 ピアノーチェが頭を振る。その表情に、花が咲くように笑みが綻んだ。
「リンさんもベルオレンも、仲間ですもの。気を使うことなど何もありませんのよ」
「そうでござる。当方がむしろ迷惑をおかけしていることの方が多―――」
 鋭くなったピアノーチェの視線に気づいて、ハガネは目を逸らした。
「ごほん。あー……肝心なのはそれをどう、ベルオレンどのに伝えるかでござるな」
「えーと……」
 気まずそうにイーグルが視線を泳がせる。
 やはり先ので気づかれていたらしい。ベルオレンはやれやれと、リンのソファの背もたれの裏から、片手を掲げた。
「聞いてるぜー」
「えっ!?」
「あれ、もしかしてハガネちゃんたちも気づいてなかったの?」
 落ち着き払って茶を啜っているマサムネはとにかく、祖父を見やったハガネは居心地悪そうだ。気づいていなかったらしい。
 オレもなかなかやるな、と思いつつベルオレンは、未だ呆気に取られている風の、姉の隣に滑り込んだ。
「けっ、いつもいつも大げさなんだよ」
「何だって?」
 リンは喧嘩腰に睨み付けようとして―――途端、視線から力を抜いた。なんとなくしょげた風なそれに、ベルオレンは落ち着かなくなる。まるで、自分が姉を責めているみたいじゃないか。
「勘違いしないでくれよ。怒ってねーから」
「ベルオレン、どこから話を?」
「“嘘ついてたとこは悪かった”あたり」
「大体全部ですわね」
 ピアノーチェは口を噤む。その横顔は、自分が言うべきことは何もない、とでも言いたげだ。
 俯いたままのリン。
 沈黙は、自分を待っている。
―――ベルオレンはそっぽを向きながら応じた。
「姉貴がいてくれたら、百人力だよ」
 そう言うのが、いっぱいいっぱいだった。
「……ホントかい?」
 案の定、疑わしげに呟かれ、ベルオレンはこめかみを引きつらせる。
「何だよ。ってか、姉貴こそ前言撤回はなしだからな。アニキみたいに優柔不断にすんなよ!」
「するわけないでしょ!」
「ちょ、俺、とばっちり……」
 苦笑そのものの表情になったイーグルの隣から、ピアノーチェが立ちあがる。
「では、この件はおしまいですわね」
「“空の玉碗”はどうする?」
「いつもどおり、イーグルどのに預かってもらうのが賢明かと」
「えー、また俺……」
 わらわらと立ちあがり、ソファから去っていく仲間たち。
 一番最後に席を離れたイーグルに、ベルオレンは愛想笑いしながら近づいた。
「わりーな、いつも巻きこんで」
 思えば初めに出会った倉庫の件からずっと、イーグルは姉弟に振り回されっぱなしだ。
 それを嫌な顔せず、付き合ってくれるのがこの男の何より良いところだろう。関わる人間みんなに良い顔しすぎるのがたまに傷だが、そのおかげで今回もこのとおり―――肩を小さく竦めてみせる。
「そういう自由奔放なところ、ベルらしくて良いよ」
 ベルオレンは破顔した。
「何だよそれ」


 天極殿星御座の謁見の間に向かい、長い廊下を進むカイトたちを、待ち受けている影があった。
「クッククロー、帰ったか」
「シャクドーさん?」
 シャクドーは、カイトを見るなり安堵するように緩めた表情を、一瞬にして引き締めた。
「イブン・ガジの粉を持たされ、祭祀殿に向かったと聞いてな」
「碑文のことをご存じで?」
 重々しくシャクドーが頷いたところをみるに、碑文に粉を作用させたときに起こる現象についても、彼は承知しているのだろう。
 カイトは続けた。
「世界樹の声、とやらを聞いてきましたよ」
「やはり。……カイト殿、体調は?」
 目をぱちくりとして、カイトは答えた。
「何ともないけど」
「そうか。いや……なら、良かった」
 力なくかぶりを振るシャクドー。
 カイトの後ろから、サイモンが声をかけた。
「シャクドーさんよ。俺たちの留守中に、またアーモロードのお騒がせ冒険者どもが勝手しやがったのか?」
 からかうような声音を含んだそれに、シャクドーはいつものような冷静さを取り戻した態度で応じる。
「深都に異常はない。だが……件の冒険者たちがおらずとも、冒険者関連の諍い事はあとが絶たん」
「深王サマにお願いして、警備の人員を増やしてもらえば?」
「うむ、それも辞さぬが……深王様はフカビトの件にご尽力じゃ。こちらにかまける余力はあるまい」
「難儀だなあ……よし、じゃあ俺たちからも進言しておくぜ」
 任せろ、とでも言いたげにサイモンは自分の胸を叩いて―――カイトを見た。
 カイトはそれを無視して通り過ぎると、さっさと謁見の間の扉を押し開く。
 微動だにせず、さりとて今か今かと待ち続けてきたような姿勢で、深王が佇んでいる。
 そしてその視線がじっと、入ってくるクッククローを見ている。
 扉が閉まれば、開口一番、彼は涼やかな声で告げた。
「戻ったならば、聞いたはずだな。魔を倒すとうたいながらも、深都を妨害し、海底神殿への無断進入を敢行する、海都の連中の正体を」
 地下十五階、イブン・ガジの粉と碑文によって引き起こされた、幻聴めいた世界樹の声によれば―――彼の仇敵であるフカビトが、海都の人間を操っており、さらには冒険者を利用して、世界樹を狙っているそうだ。それも、海都で相当高い地位のヒトに、フカビトがなりすましているという。
 アーモロードの為政者は信用ならない―――自分自身の勘が間違っていなかったことに、カイトは確信を得た。問題はそのフカビトの支配が、どの程度冒険者に及んでいるのかということだったが、イーグルたちの様子を見るに、今のところ、彼らはただ事実を隠蔽されたままフカビトの手足にされている、という段階に留まっている。
 もっとも、それはこちらも似たようなものだ。
 自分たちを、神聖な置物のように、視線が見下ろしている。
 カイトはその、感情の波のない湖の色を見返した。
 アーモロード最後の王―――深王は魔と戦い続けるため、自ら機械人形となり果てた。
 その姿は世界樹の傀儡そのものだ。
 ならばそれにかしずく、自分たちは何だろう?
「我は人を討つ気はない。故に罪なき我が祖国の人間を操るフカビトを、許すわけにはいかぬ」
 深王の目が、ぎょろりとカイトたちを見渡した。
「―――ある、作戦を思案中だ。卿らにもおって知らせよう。任務が発令されたときは、また……頼むぞ」
「ええ」
 カイトは淡泊に応じた。
「―――深都に属する者として、あなたの求めには応じましょう、深王陛下」


 それから二三、事務的なやりとりを終え、クッククローは天極殿星御座をあとにする。
「ティティ、つかれたー!」
「緊張しますね。やはり、王は独特の雰囲気を持っていますから……」
 アルの言葉に、サイモンが深いため息で同意する。
「このところ出ずっぱりだったし、武具屋の姉ちゃんとでも旨い酒を一杯やりたいねえ」
「オヤジか、貴様……」
「そういえばサイモンさん、シャクドーさんとの約束の件」
「あん?」
 しかめ面で振り返ったサイモンに、カイトはそのまま続けた。
「深都の警備を増員するかという話ですよ。全く触れませんでしたが良かったんですか」
「っあー!! 忘れてた!」
「やっぱり」
 肩をすくめた拍子に、星術器ががしゃりと音を立てる。
 頭を抱えて、サイモンは怒鳴った。
「てめー、カイト! 覚えていたんなら言いやがれ!」
「サイモンさんが引き受けたことでしょうに、何を言っているんですか」
「あー……どうすっかなー……」
「素直に謝るしかありませんね」
 苦笑しながら、アルが言う。
「―――何なら、ぼくたちで彼を手伝いましょう。ね、スズラン」
「アル様がご所望でしたら」
「単純でいーな、スズランちゃんたちはよ……お?」
 暮れなずむ深都の大通りを進んでいた一行は、その前に立ちはだかるような、人影を見つけて立ち止まる。
「オランピアさん?」
 オランピアは水色の外套をまとっていた。先ほど見てきた深王に負けず劣らず無感情が張り付いた顔を上げて、クッククローが近づいてくるのを待っている。
 やがて、一言も発さぬまま、外套の隙間からぬっと機械の腕が突き出される。
「これを、あなたたちに」
 無骨なてのひらに乗せられたものに、カイトは眉をひそめた。
「“それ”は?」
「“星海の欠片”。どうか受け取ってほしい……深王さまのために」
 きょとんとしているクッククローの面々。
 それを見てか、オランピアはぽつりぽつりと話す。
「大切な人との約束だからと、あの御方はそれを集めておられた。……けれどそれは、かつての話。今の深王さまは全てを忘れ、戦いに没頭されている」
 だから、それはもういらない。
―――“星海の欠片”からは、強いエーテルの存在感を感じる。恐らく相当なエネルギーを秘めた物質であり、それはカイトですら扱うことを躊躇われるほどだ。
 これほどまでのものを、深王は何に使うつもりだったのか?
 だがそれを口にする間もなく、オランピアは―――まるで人形にあるまじき、感情の揺らぎを感じさせるように―――寂しげに、続ける。
「あなたがたに強いた、犠牲はそれでも癒えるまいが……きっと、深王さまはそれを、渡そうとしていたはず」
「私たちに強いた……犠牲?」
 スズランの疑問に、オランピアは元の、冷たい声音に戻って告げた。
「私からの話はそれだけ。それは、持っていって」
 彼女は側にいたアルの手にそれを握らせると、さっと身を翻し、夜闇に消えていく。
 スズランは、自身と同じような渋面しているサイモンと顔を見合わせる。
「……どういう意味だ?」
「さてねえ……」
「アル」
 カイトは、困惑している様子のアルから“星海の欠片”を取り上げた。
「―――これは僕が預かろう」
「あー、ずるいっ」
「ティティ、収拾がつかなくなるからおまえは大人しくしてろ。……おい、若先生」
 カイトは事もなげに応じた。
「心配しなくてもこんな高エネルギー体、使い道がないよ。折を見て深王に返しましょう」
「そうですね。ぼくたちが持っていても仕方がありませんし」
「アル様?」
 珍しいアルの言い様に、スズランが反応する。
 アルは苦笑を浮かべた。
「大切な方にあげるためだったのなら……それほど大事な物だったのならきっと、目にすれば深王も思い出すでしょう」
「……そうですね」
「記憶って、そんな単純なものでもないけどね」
 カイトの一言に、和らげていた目元をきっと吊り上げ、スズランが睨み付けてくる。
「どうしてそう、貴様はいつも水を差すようなことしか言わないんだっ」
「僕は事実しか言っていませんよ」
「まあまあ」
 とりなす言葉を呟きながらも、アルはいつものようににこにこと笑っている。
 スズランはアルの笑顔に弱い。すっかりカイトに対する毒気を抜かれてしまって、大人しくなる。ティティは当然明け透けに笑っているが、本当に楽しくないときはこの表情が曇ることを、カイトは知っている。仏頂面でそっぽを向いているサイモンが、お人好しで素直でないのと同じだ。
 “いつもどおり”―――そう、いつもどおりだ。
 そしてこの“いつも”が何より尊いことを、カイトは知っている。
 薄氷の上に乗るような信頼が、仲間を繋ぐ糸であることも。
「カイト?」
 赤く染まる海を正面に、アルがカイトを呼んだ。
 いつの間にか立ち止まっていた彼を、仲間たちが訝しげに振り返っている。
―――このまま歩いていくことを、カイトは躊躇いはしない。
「何でもないよ」
 いずれ割れると知っていながら、彼はその上を進んでいく。

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B16F

 アマラントスの花を持ち帰った、イーグルたちクッククローに、元老院から新たな任務が与えられた。
 それは、海底神殿の奥地にあるという、“白亜の森”への転移装置を見つけだすこと。
 白亜の森はアーモロードの深奥にあり、王家が所有する神聖な森だが、最近この森に見たこともない凶悪な魔物が出現するようになったという。フカビトが巣食う海底神殿と、白亜の森が何らかの形で繋がってしまっているのではないか、というのが元老院の考えだ。
 加えて、関係途絶以降の深王の動向も不審極まりない。
 彼らより先に、転移装置を探しだし、海都の支配下に置く。
 それが、クッククローに課せられた任務だ。


 だが今、イーグルは単身深都に降り立っていた。
 深王が動いているということは、もうひとつのクッククローも探索を進めているという事だ。転移装置を探しに地下十六階に降りれば、彼らに遭遇し―――最悪の場合、戦いになる。互いに主張するところがぶつかり合う限り仕方がないとはいえ、イーグルにはせめてそれまでに、確かめなければならないことがあった。そしてそれはリンのように、仲間の手を借りることができないのだ。
 ネイピア支店の軽い扉を押し開ければ、退屈そうに頬杖をつく店主が顔を上げる。
「いらっしゃ……あら?」
「お久しぶり」
 苦笑いで手を振れば、彼女は喜色を浮かべて応じてくれた。
「ホントに! ずいぶん見ない顔じゃないの。どう? 海都は。姉さんは元気?」
「まあね。ところで……」
 用件を口にしようとしたところで、来客を知らせる鐘が再びからからと鳴った。
「いらっしゃいませー!」
 振り返ったイーグルは、店に入ってきた女性に目を丸くする。
「エラルナさん、良かった!」
「イーグルくん?」
 紫の巻き毛を揺らし、エラルナは目をぱちくりとした。
「―――どうしたの? 何かあったの?」
「えっと……実は、エラルナさんたちに会いに来たんだ」
「私たちに?」
 丸く大きな瞳を、エラルナはしきりに瞬かせている。


 自宅に帰る道すがら、ずっとその嫌な予感はまとわりついていたのだ。
 玄関戸を開ける直前、予感が確信に変わったシャクドーは、その気配を慎重に探った。二つあるうち、片側はよく知った妻のもの。そして―――
 シャクドーは一度深呼吸をすると、玄関戸を開けた。
 二人がいる客間まで進んでいくと、テーブルに座す“招かれざる客”の背後に音もなく立つ。
 その正面に座る妻がにっこりと笑む。
「あら、おかえりなさい」
「えっ」
「貴殿は……」
 慌てて後ろを振り返るイーグルに、シャクドーは力が抜けていく。額を押さえた。
「貴殿はここで何をしている……?」
「シャクドーさん、こんばんは……えっと、おじゃましてます」
 座ったまま器用に一礼するイーグル。
 シャクドーは溜め息が出るのを止められない。
「……エラルナ」
「あなたに用があって、深都までいらっしゃったそうよ。話を聞いてあげて」
「用?」
「あー、極めて個人的な用なんですけど」
「聞こう。ただ、答えるかどうかは別じゃ。そして話したら帰れ」
「シャクドー」
 エラルナの窘めを無視して、シャクドーは彼女の隣に座す。
 追い返しても良かったが、下手にまた深都を荒らされては困る。前科があるからというだけでなく、この男はきっとどうにかして答えを得ようとするだろうという、確信がシャクドーにはあった。
 優柔不断で自信がなさそうに見えても、彼の本質はそんなところにないことを、シャクドーは知っているからだ。
 案の定さまよっていたイーグルの碧の視線は、いつのまにか真っ直ぐシャクドーを貫いていた。
「シャクドーさんはシノビの技を、深都で誰かに教えたことがありますか?」
 飛んできた質問に、シャクドーは顔をしかめる。
「……何故そんなことを?」
「深都にいるシノビは、俺が知る限りシャクドーさんだけだ。表立って公言できる職業でもないから、深王の保護のもとにいなければ、いないだろうと……」
「それはいい。シノビの技がどうした?」
「ええと……」
 イーグルは一瞬躊躇ったが、答えた。
「“分身”の術というのがありますよね? シノビの技で」
「……あるな」
「それを、誰かに教えたことがありませんか」
 シャクドーは黙った。
 質問を吟味するようなその沈黙に、エラルナが立ち上がり、茶を汲んでくるような自然な動作で、席を外す。
 彼女の後ろ髪が部屋をあとにしたのを確認してから、シャクドーは唇を開いた。
「ある」
「それは、深都の施策で、ですか」
「……それに答える前に、わしの質問に答えてもらおう」
 返事はなかったが、シャクドーは続けた。
「貴殿は何者じゃ?」
 この問いに、イーグルはぱっと目を伏せた。
 何かに怯えるかのような素振りに、しかしシャクドーは追及する。
「その様子では、既に気づいておろう。貴殿は……カイト殿にうり二つじゃ」
「……俺には、記憶がないんです」
「では何故、分身の技のことを?」
「カイトが、記憶の手がかりとして言っていたんです。彼はすべて、知っているみたいで……」
「なるほど」
 カイト“本人”が示したなら、口を噤む必要もあるまい。
 何を考えているのか読みとれないところは多々あるが、シャクドーは根本のところで彼の判断を信用している。
 そしてそれは、この“彼”にも適用できる―――はずだ。
 シャクドーは改めて口火を切った。
「これより話すは、他言無用じゃ。海都の者にも、貴殿の仲間にも」
 イーグルは神妙な顔でこくりと頷いた。
「地下十階に、フカビトどもの父にして母なる存在が、封ぜられていることとは知っておるな?」
「はい」
「奴の力は強大じゃ。それを長らく、世界樹の結界下に置いておくには、元ある力を削ぐための……ニエが必要だった」
「ニエ? そういえば、真祖がそんなことを……」
 イーグルの呟きを捨ておき、シャクドーは己の役割として言葉を紡ぐ。
「かつてニエとされたのは、深都でも大罪を犯した者じゃ。しかし幾年も経るごとに、ニエの役を担える者も―――」
「ま、待ってください」
 蒼白な顔で、イーグルが話の腰を折った。
「―――ニエってもしかして、深都の人間なの?」
「深都の罪人、だ。海都でも罪人を裁き刑罰を与える仕組みがあるであろう? それと同じだと考えればよい」
 納得のいかない―――というより困惑した表情のイーグル。
 シャクドーは話を進める。
「深都の人口はただでさえ減り続けておる。深都の平和は喜ばしいことなれど、ニエ不足は深刻な問題だ。……そして、深都に迷い込んでくる海都の者をニエとしようとする動きが持ち上がってきた」
「冒険者……を……」
「当然、深王様はそれをお許しにはならなかったがな」
 イーグルは安堵したように息をついた。
「……だがニエが尽きること、それは真祖の力が抑えきれなくなる可能性が、格段に上がることを示す。それは深都の存在意義として、何としてでも避けねばならぬことじゃ。深王様の苦肉の策として……分身をつくり、ニエに捧げる実験がおこなわれた」
 イーグルの反応を待たず、シャクドーは言い切った。
「―――実験は失敗した」
「どうなったんですか?」
「分からぬ。……わしが関与したのは、分身の術を被験者に伝授するところまでじゃ。ただ、ニエとしての役は果たせなかったとだけしか報告は受けておらぬ」
 重い沈黙が、場を満たした。
 エラルナは帰ってこない。
―――シャクドーたちが深都に在住を許されたのも、“シノビの術”という技能をシャクドーが持っていたからだ。
 深都の“人間”はフカビトに対抗する唯一の剣なれど、深都そのものがフカビトの巣に近いため、感情という餌をフカビトたちに与え続けることになる。深都の人間はそういった意味で諸刃の剣だ。深王が少数精鋭を唱う通り、少ない方がいい。
 イーグルは顔を上げると、虚ろに言った。
「ありがとうございました」
「どうするのだ?」
「海都へ、帰ります。話してくださって……どうも」
「……もう一度、問わせてもらおうか。話を聞いて、どう思った? 貴殿は何者か、結論は?」
 席を立ったイーグルは、ゆっくりとかぶりを振った。
「分かりません」
「分からない?」
「はい。やっぱり……何も、思い出せそうにない」
 シャクドーは続けた。
「分身は……分身じゃ。互いの影響を受けることなく、長時間分かたれた状態を保つことなど、あり得ぬはず」
「いずれは、ひとりに戻るということですか?」
「実験が失敗したということは、おそらくそのあたりが原因であろうな」
「そうか……」
 一礼した彼は、エラルナが待っているであろう廊下に出ていった。
 その、しょげたように曲がった背を見送り、シャクドーは眉間を揉む。
―――“少数精鋭”の制約を破ってなお、今の深王は深都に冒険者を受け入れ続けている。
 実験の失敗を受け、もうニエを増やす手だてはない。もしかすると、ニエそのものが必要となくなるほどに、フカビトとの対決も大詰めに差し掛かっているのかもしれない。だが―――シャクドーの任に、そこまでの読みは必要ない。
 必要なのは、この事実を“再び”受け止めたはずの青年が、次に、どういった決断を下すかだ。
「シャクドー」
 イーグルを送ったらしい、エラルナがいつの間にか傍らに立っていた。
 見下ろせば、心配そうに眉をひそめた表情を帯びて、白い手が頬を掠めてくる。
「あなたのせいではないわ」
「……どうかな」
―――そしてそれは、重い決断となる。
 優しい声を聞きながら、シャクドーはきつく目を閉じた。


 幾重の階段と落とし穴、そして襲い来るf.o.eの猛攻を退け、地下十六階を進んでいくクッククロー。
 潮と苔の臭いに沈む海底神殿の奥深く、彼らのうちから唐突に、ベルオレンがぽつりと、あらぬ方向を見上げて呟いた。
「白亜の森かー……」
 その独り言を聞き留めたピアノーチェが振り返る。
「どのような場所か、ご存じですの?」
「まさか!」
「白亜の森は、アーモロード王家が所有する森だからね。あたしらみたいな一般民がおいそれと立ち入れるような森じゃないんだよ」
 リンの解説に、ピアノーチェは蒼の瞳をぱちくりとする。
「あら、では冒険者も立ち入れないので?」
「当然、そうだね」
「それは残念」
 ピアノーチェの弁に、ベルオレンは苦い顔だ。
「もしかしておまえ、白亜の森に行ってみたかっただなんて言うんじゃないだろうな」
「冒険者が未知の世界に、夢を馳せるのは自然なことでしょう?」
 つんとすまして応じるピアノーチェ。何とも言えない表情になったベルオレンをよそに、彼女はイーグルの右腕に抱きついた。
「あっ、てめーまたっ」
「ねえ、イーグル様もそう思われますわよね?」
「え?」
 ぎくりとしたように―――イーグルは身を引いた。
 その拍子に、ピアノーチェの抱き込みから腕が引き抜かれる。
「あ」
「あっ……と、ごめん」
 イーグルは反射的に謝るが、ピアノーチェは驚いたというより、あっけに取られた風に固まっている。
 ベルオレンが唇を尖らせる。
「チッ。“おっ、ついにアニキがちゃんと拒否ったか”ーって感動したのに」
「拒否とはなんですの、拒否とは」
「いや、そういうつもりじゃないよ」
 他意はなかった。慌てて弁解する最中にも、ピアノーチェは改めて抱きついてくる。それでも何故だかお姫さまは不満げだ。
「なんだか最近、上の空でいらっしゃいますわね?」
「えっ」
「疲れが溜まってんじゃねーか? 姫サンに振り回されたり、姉貴に連れ回されたりして」
「ベルっ!」
 姉とピアノーチェの二人から同時に剣呑な視線を向けられ、ベルオレンは「くわばらくわばら」と肩を竦めた。
 その様子を苦笑いで眺めるイーグルに、声を潜めたハガネが顔をのぞき込んでくる。
「無理は禁物でござる。姫様がご迷惑をおかけしている身空で申すのも差し出がましいでござるが……」
「め、迷惑なんかじゃないよ。無理もしてないと思うし……大丈夫」
 イーグルは口角を上げてみせたが、ハガネは釈然としていないようだ。
「あ……あそこにいるの、クジュラじゃない?」
 誤魔化すように指さした先には、淡い光を放つ装置があった。傍らにクジュラが背筋を伸ばして立っており、にこりともせずこちらをまっすぐ見据えている。
「遅かったな」
「これが、白亜の森に繋がる転移装置ですの?」
 装置の光をのぞき込みながらピアノーチェが呟く。
「そのはずだが……今は稼働しないようだ」
「では、制圧したことにならないのでは?」
「そうだな。機械文明が絡んでいるようだ。何とか扱えるようにしなければならないが……」
 深都に比べて、海都の文明レベルは低いとはいえ、こういった装置が全く未知であるわけではない。
 クジュラは部下を連れてはいないようだ―――それほどまでに海底神殿は厳しい場所で、かつ転移装置は秘匿されるべきものなのだろう。
「装置は俺に任せてくれ。それより……深都の冒険者たちが、こちらに向かっているという情報がある」
「……そちらの対処をせよと?」
「理解が早くて助かる」
「彼らの目的は何なのです?」
「察しがつかないか?」
 クジュラは口元だけで皮肉げな笑みを浮かべた。
「―――転移装置の制圧だ。連中も魔物と同じことを考えているらしい」
 白亜の森に侵入するつもりだということだ。クッククローの面々は絶句する。
「そんな、何のために?」
「さあな……とにかく、連中を見つけだして、制圧が終わるまでの足止めを頼む」
 遠回しに、彼らと剣を交えろと言われているのだ。
 それが分からぬ五人ではない。
 だがこれ以上、クジュラは何かを言うつもりはないようだ。一旦そこから引き返しながら、ピアノーチェたちがひそやかに言葉を交わす。
「どうします?」
「どうもこうも、とりあえず探すっきゃねーな」
「話し合いで何とかならないでしょうか……」
 当たり前のことだが、皆人間と戦うことには抵抗がある。思想や立場の対立があるとはいえ、本質的にはアーモロードを守るという、共通の目的を持っているはずの相手なのだ。
「今更だけど、全面対決、ってやつになっちまってるんだな」
 海都と、深都の。
 やりきれない気分で、仲間たちは各々溜息を吐いた。あちら側に立った冒険者や深都の住民とは、つい先日まで顔を合わせれば普通に会話してきただけに、皆気持ちの整理がつかないのだろう。
 イーグルは正面を向いた。
 細い柱が規則正しく並んでいる広間だ。ここに来るまでの道は、こんな整然とした形ではなかったが。
「……この神殿、侵入者用の落とし穴や行き止まりがいっぱいあって、どこで遭遇するか予想がつかないね」
「足止めならなるべく浅い階が良いですわね」
「この辺りで遭遇しても、クジュラが何とかしてくれそうだしな……」
 そうと決まれば、と仲間たちは地図上で手近な階段を探して歩き出す。
 その一番後ろからついていきながら―――彼らの背中を見ながら、イーグルは独り言のように呟いた。
「ごめん」


 地下十五階は文字通り迷路のような造りをしている。落とし穴に落ちた先には必ず階段があるが、階段を上った地点と落とし穴で落ちる前にいた地点は、必ずしも廊下で繋げられているとは限らない。
 地下十五階と地下十六階を何度も行き来したクッククローは、さすがに皆疲労の色を濃くしていた。
「一度、クジュラのところに戻ろうか」
 ほとんど埋まってしまった地図を見下ろして、イーグルは言った。
 手元をピアノーチェが覗き込んでくる。
「ここからでしたら、一度落とし穴で降りた方が近いですわね」
「えー、戻ってどうすんだよ?」
「休憩の許可をいただくのですわ。地下十六階の転移装置のそばには、休めるようなところもありましたし」
「そろそろ、雑魚の相手にも手間取るようになってきたでござる」
 元々あまり体力のないハガネは辛そうだ。ベルオレンは唇を尖らせていたが、彼の肩で息する様子を見て、頭の後ろで腕を組んで回れ右をした。
「ちえっ。だったらさっさと戻ろうぜ」
「そうしましょう」
「リン」
 彼に続いて歩き出したリンを呼び止め、イーグルは袋から取り出したアリアドネの糸を手渡した。
「糸、リンが持っていてくれないか?」
「え? 別にいいけど……」
 突然のことにリンは目を丸くしながらも、それを受け取る。
「ていっ」
「イーグル様たちも、お早く」
 ベルオレンとハガネが穴を飛び降り、ピアノーチェもまたその直前にこちらに声をかけ、穴の中に吸い込まれていく。
 ところが、リンは穴の縁に立ったまま動こうとしない。
「……リン?」
 後がつかえているんだけど……、と控えめに彼女を覗きこんだイーグルは、リンの思いつめたような表情を見つけて、はっとした。
 リンの蒼い目がイーグルを振り仰ぐ。
「深都の冒険者のことだけど」
「え? ああ」
「イーグルは、あいつらをいざ目の前にして……戦えると思う?」
 イーグルは頬を掻くと、曖昧な笑みを浮かべた。
「話し合いで済ませられたらな、とは思うけど……」
「本当に話し合いで済むの?」
「うーん……」
 イーグルは弱々しい笑顔のまま続けた。
「それで済むように、頑張ってみるよ」
「えっ?」
 いよいよ穴を覗き込んでいたリンの背を、イーグルは―――そっと押した。
 空中に追いやられる身体。
 リンの目が驚愕に見開く。
「イーグル!?」
「着地に気を付けて。それと」
 穴から引き下がり、落ちていく彼女を見送る。
「―――“ごめん”ってみんなにも言っておいて」
 イーグルは、あとを追わない。
―――この穴から落ちた場合、イーグルの立っている場所まで戻るには相当な回り道が必要だ。
 加えて、地図はイーグルが持っている。
 とはいえアリアドネの糸は渡しておいたから、万が一の危険は回避できるはずだ。
「さて……と」
 イーグルは再び地図に目を落とした。
 ある一点に指をなぞらせる。
「この辺りだったかな」
 声がしたのは。
 探索に必要な道具はある程度分配して各自で持っているが、獣避けの鈴はイーグルが担当している。注意深く行けば、魔物に遭遇することなく目的の場所に辿りつけるだろう。
「……行くか」
 もう一度だけ、暗闇に沈む穴を見下ろして、イーグルは廊下を引き返していく。


「あー、疲れた疲れた」
 ひどく不機嫌に髭面を歪め、サイモンはカイトの正面に座した。
 ここは地下十五階の野営地点。人工物である神殿の中にしては、いくらか広く魔物の出も少ない一室だ。
「まだ半分くらいですよ」
 地図を見ながら、カイトはサイモンの呟きに応じる。途端、彼の表情に苛立ちが加わる。
「この奥に白亜の森に通じる転移装置があるんだろ? とっくの昔にフカビトどもにぶっ壊されてそうなもんだけどな」
「もしそうなら、海都の連中が必死になって探索を進めたりはしないだろう」
 冷ややかに指摘するスズラン。
 カイトは失笑した。
「スズランさんにすら思い至ることなのに」
「んだと」
「待て、それは私を馬鹿にしているだろ」
「安心してください、両方です」
「おい」
「コラ」
 同じような顔で拳を握るサイモンとスズラン。
 力なくアルが笑う。
「抑えてください、二人とも。……カイト、貴方も。冗談が過ぎますよ……どこか苛立っているように見えますね」
「まあね」
 カイトは素直に肯定した。
「―――ロケーションは一筋縄でいかない潮臭い不気味な神殿。魔物は積極的にこちらを襲ってくるし、行く先に待つのは未知なる謎ではなく、人の家に勝手に上り込むための転送装置だ。これで楽しくなる方がどうかしているよ」
「転送装置は、心惹かれませんか?」
「開ける前に中身が分かっている宝箱みたいなものさ。……それにまだ憂いはある」
「え?」
「ティティ、みんなに会うのたのしみ!」
 ティティが突然挙手してそう大声で叫んだので、隣のサイモンは顔をしかめた。
「遊びに来たわけじゃねーんだぞ」
「みんな、とは……ティティ、アーモロードの冒険者たちのことですか?」
「うん!」
 笑顔で頷くティティに、アルは複雑な表情になった。
「どうでしょうね……」
「あいつらに争う気があるとは思えねえが、お互い上には逆らえない身だからねえ」
 “冒険者”ってのも名ばかりだからな、とサイモンはやれやれと肩を竦める。
「良くない流れですね」
「あん?」
 カイトは続けた。
「良くない流れだと言ったんです。……静かな生活を望んで深都に移住したはずの僕たちは海都に存在を露わにされ、あまつさえ戦いのための道具とされている。深都は深都で本来の存在意義を忘れ海都を追うことに妄執し、海都は自ら望んで暴いた存在にわが身を脅かされている。海都の冒険者は―――冒険者という、最も自由で価値ある名前を放棄した」
「誰も、望んでいない流れということですね」
 アルの呟きに、カイトは首肯する。
「このままでいけば、いずれ取り返しのつかないことに―――」
「おい!」
 唐突に、怒声を浴びせるサイモン。
 正面に座っている彼が気づくと同時に、カイトも背後のそれに気づいていた。
 しかし、それも遅すぎただろう―――五人に密かに忍び寄っていた存在は、カイトの真後ろに立っていた。
 そこから聞こえた、撃鉄を起こす音。
 それだけで、カイトには誰か分かってしまった―――同時に、おかしくもないのに口角が上がる。
 立ち上がれもせず固まっている仲間たちを見渡して、背後を振り返ることなく、カイトは口を動かした。
「やあ、きみか。何の用だ?」
「おまえに聞きたいことがある」
 全く同じ声が返る。
 カイトは問うた。
「何を?」
「“正解のかたち”だ。俺とおまえについて。……とぼけるつもりなら」
 後頭部を軽く打ったのは、銃口だろう。
 カイトは静かに笑んだまま、イーグルの動きを窺っている。


 確かめなければならないことだ。
 俺には記憶がない。
 なのにどうして、樹海の中でだけ、別人としての記憶がよみがえるのか?
―――それはこの迷宮が、“世界樹の迷宮”だからだ。
 記憶の主である“彼”という別人の存在。シノビの技。深都のために生み出された、ニエ。
 そしてそれらが、憶測を含む、自分の考えが全て、真実だったとしたら―――確かめなければならない。
 自分という存在をかけて。
「答えろ」
 座り込んだカイトの真後ろに突っ立って、イーグルは告げた。
 自分でも出したことがない程、その声は冷たく響いた。見渡す四人の仲間の、怯えた、あるいは警戒の目がイーグルを捉えている。
 しかし、動くに動けないだろう。イーグルが持つ銃は真っ直ぐ、カイトの後頭部を向いているのだから。
 やがて、カイトが口を開いた。
「……対魔物用の銃だ。人の頭なんて消し飛ぶだろう」
 横顔に見える碧眼がイーグルを睨んでいる。
「―――そうしたくば、引き金を引けばいい。例えそうなったとして……ふたつがひとつに戻るだけの話だ」
 イーグルは息を呑んだ。恐らく、周りの仲間たちも。
 カイトはあっさりと続けた。
「今更何を脅して聞き出す必要がある? ここに至って、おまえは既にピースを集めてきたはずだ。シャクドーさんは話してくれただろう?」
「知って……」
「きみの考えなど手に取るように分かる。当然ながらね」
 カイトは、自分の頭に突きつけられた銃口など意にも介さぬ様子でイーグルを振り返る。
「いかにも、僕らは同一の存在だ。分身と言い換えてもいい」
「分身は、こんなに長い間互いの影響を受けることなく……分かれた状態でいられるはずがないと……」
「シャクドーさんが言っていた? それともきみの仲間かな。……シノビの技の範疇なら、確かにそのとおりだ。だが物事というものはからくりさえ分かれば、いくらでも応用が利くものでね。幸い、“僕ら”には協力者がいた」
「深王か……」
「まあ、元を正せば世界樹だ」
 肩を竦めて、カイトはイーグルを見上げる。
「世界樹の力を借りて、僕らはふたつに分かたれた。理由はきみが知っている通りだ」
 理由―――ニエの実験のため、だ。
 その事実を、ここにいる“カイトの”仲間たちは知っているのだろうか?
 答えは恐らく否、だ。カイトとイーグルが同一であるという事実すら知らなかった様子の彼らが、ニエの実験を知っているはずがない。
 何より、知っていれば彼らなら。
 イーグルはぶんぶんとかぶりを振って、別の疑念に頭を切り替えた。分身の技でふたつに分かたれたなら―――
「じゃあどうして、今もひとりに戻らないままなんだ」
「それは僕にも分からないさ」
「ごまかすな!」
 カイトが技の仔細を知らないはずがない。
 銃を構え直したイーグルに、カイトは冷ややかな目を向ける。
「以前僕は、僕こそ君が思う“正解の形だ”と言った。……訂正しよう。僕は神様じゃない。知るはずのないことは、知らないままだ」
「今更おまえの言うことが信用できるものか」
「そうかな? 案外、今僕が提示した“解答”は、きみが考えていたとおりなんじゃないか?」
 見抜かれていることに、イーグルは絶句する。
 その反応すら既知であったかのように薄く笑むと、カイトは続けた。
「それとも……ここに来たのは、本当にひとりに戻るつもりだったからなのかい」
 カイトは銃口を凝視している。
 イーグルの指先は引き金にある。このまま引けば、間違いなく“彼”を殺してしまうだろう。
 だが、死んだことにはならない。
 彼はここにもう一人いるからだ。
 それが分かっているからなのだろうか―――妙に冷静なカイトの一方で、“それが分かっていない”彼の仲間たちは、イーグルの注意が逸れた一瞬で己の武器を手にしていた。彼らの目はずっとイーグルを見ている―――当たり前のことなのに、イーグルは戸惑っていた。彼らも混乱している。だが、彼らにとって優先すべきはイーグルより、カイトの命。
 彼らの中では、“カイト”は二人もいないのだ。
「……知識と真実を求めるばかりに、それが引き起こす事態を顧みようとしない。これは僕の欠点なのかな」
「何を―――」
 カイトはにいと笑みを深めると、イーグルの後方に視線を遣った。
 その方向から、駆けてくる足音が複数。はっとして、イーグルは振り返った。
 見えたのは、海都の仲間たち、だ。
 頭が真っ白になった一瞬のうち、銃筒をカイトが握る。イーグルは再びカイトを見たが、彼は己に銃口を向けたまま、平然と、囁くような口調で告げてくる。
「僕らが“そっくり”なのを、一番近いところにいる人たちが気づいていないと思うかい、イーグル」
 イーグルは答えられない。
 近づいてくる仲間たちが、イーグルの名を呼ぶ。
 それにも応えられないイーグルの耳に、ただ、カイトの声だけが届く。
「見逃され続けていたのは彼らの優しさで、イーグル、きみは真実を求めるふりをしながら、ただ目を逸らしてきただけだ。“夢”はどちらだ?」
「アニキ!」
 真っ先に辿り着いたベルオレンの行く手を、槍の穂先が阻んだ。
 ベルオレンが睨みつけたのは、槍の持ち主であるスズランだ。
「これ以上こちらに近づくな」
「深都の犬か」
 ベルオレンたちの背後から現れたのはクジュラだ。
 驚くイーグルをよそに、拘束されていた銃が押し戻すように手放される。
 カイトは厳しい顔つきで、クジュラを見ていた。
「お久しぶりですね、海都の犬さん」
「そうだな。……すっかり成り下がったようだ」
 侮蔑の色を浮かべて深都の五人を睥睨すると、クジュラは片手を袖に入れた。
「―――最後の忠告だ。このまま立ち去るならよし。あくまで進むというならば……もう容赦は出来んぞ」
「そこの冒険者たちをけしかけますか?」
「いいや」
 クジュラは袖から引き抜いた腕を、カイトたちの前―――つまりはイーグルの眼前だが―――に投げ出した。
 何かが床を打つ固い音がして、途端視界が白い煙に覆われる。
 呆然としていたイーグルは、ぐいと強く腕を引かれた。抗わず進んで行けば、煙の中に見えるのはハガネの後姿。
 そしてクジュラが放り投げた“それ”は、煙の中で人の姿へと変貌していく。
「東の大陸より持ち込んだ幻獣だ。お前たちを屠るだけの力を持っている」
「くっ!」
「アル様、私の後ろへ!」
 煙の向こう側から聞こえてくる、深都の冒険者たちの声。
 だが完全に幻獣がその姿を露わにするより早く、イーグルは仲間たち、そしてクジュラと共にその小部屋を脱出していた。止まることなく脇目もふらず、彼らはどこかに向かっている。
「心配させんなよ、アニキ!」
「……ごめん」
 カイトとの会話を聞かれていなかったのか―――はたまたそれどころではないのか、イーグルの前を行くベルオレンは一本調子で続けた。
「オレたちが地下十六階に降りたところで、丁度クジュラに出くわしてよ! 何でも転移装置の起動には鍵がいるとかで、現状じゃ手を出せないらしい。で、オレたちがはぐれたってんで、もしかしたらアニキ、深都の連中に見つかったんじゃないかと思って―――」
「その通りでしたわね!」
「ご、ごめん」
 走りながらリンを見れば、彼女は無表情に少しばかり眉根を寄せていた。
 目が合う。
「あとで、詳しい話を聞くからね」
 どうやら、リンは彼らに何も話さないでいてくれたらしい。
「ごめん……」
 謝って済むことばかりではないが、そう返すしかなかった。
 クジュラがひとりごちる。
「転移装置は部下が守っているはずだが、連中がいたとなると……」
 逸る気持ちのまま、イーグルたちは地下十六階、転移装置の間へと急いだ。


 転移装置の前には、既に深王とオランピアの姿があった。
 倒れ伏す海都の衛兵がその足元におり、苦々しくピアノーチェが呟く。
「遅かったですわね」
「貴様ら、俺の部下を……」
 怒りを滲ませ刀に手を伸ばすクジュラ。
 一方で、深王やオランピアは、何の感情の色も浮かばせていないのが対照的だ。
「殺してはいない」
「っ、待て!」
 クジュラが鋭く叫んだ。
「海都の危機……世界の危機を、放置するわけにはいかぬ。我が自らその災いを狩ろう、祖国のためにな……」
 深王が手をかざした転移装置は、先ほどまでとは比べ物にならないほど膨れ上がった光を放つ。深王は起動させるための鍵を持っていたのだ―――その光がふっと消えた先、深王の姿は見当たらなかった。
「くそっ」
「よせ」
 クジュラの制止に、駆け出そうとしていたベルオレンは非難するような目で彼を見上げ―――それから、その視線の先を追った。
 外套を脱ぎ捨て、オランピアは自らに内蔵された刃を剥き出しにしている。
 無表情の上に、初めて表情が浮かんだ。
 怒りだ。
「仲間を守るためニエとなることを受け入れたあなたが、何故私たちの邪魔をする」
 イーグルははっとした。
 オランピアが見据えていたのは他でもなく、イーグルだったからだ。
 その言葉を受けて、クジュラはこちらを一瞥したが―――すぐにオランピアに向き直る。刀は既に、抜かれていた。
「お前の相手は俺だ」
 禍々しいほどの憤怒の気配が、クジュラと、その刃に纏わっている。
「―――第二階層で失った部下たちの犠牲、知らぬとは言わせん」
「……深王さまは人を排除する考えは持たれてない。けれど……私は違う」
 オランピアもまた、アンドロとしての、臨戦の構えを見せていた。
「―――危険は、排除する。それが、深王さまのため……」
「クッククロー」
 クジュラはイーグルたちを見もせず続けた。
「お前たちは先に行け。深王を姫様の元に辿りつかせるわけにはいかん」
「そうはさせない……来い、雷をまといし獣よ」
 甲高く風を切るような音と、雷鳴が轟いた。
 衝撃波にまばたきした刹那、オランピアとイーグルたちの狭間の空間に、鱗を持つ馬のような、巨大な魔物が出現していた。
 クジュラの舌打ちが聞こえる。転移装置はこの魔物を越えた先。そして、魔物とオランピアを同時に相手にするのは、いくら彼でも荷が勝ちすぎているだろう。
 イーグルたちは武器を構えた。
 オランピアは目を見開いたまま、いつもと変わらぬ鉄面皮で呟いた。
「犠牲者が何人増えようと同じ。まとめて海の藻屑と化せばいい」
 冷酷に響いたその言葉を皮切りに、戦いが始まった。

▲[B16F]一番上へ▲

第五階層

▼[B17F]一番下へ▼

B17F

 頭上からは青い光が射しこんでいる。
 雷獣を討ち取ったイーグルたちクッククローは、激闘の疲労もそのままにクジュラたちに目をやった。こちらも息つけぬ戦いが繰り広げられていたが、実力は全くの互角に見える。
 オランピアは、自身が放ったしもべが倒されたことに気づき、己の不利を悟ったかのように唇を噛んだ。
「くっ……」
 それは苛立ちのような、悔しさのような―――どちらにしても人間のような感情が滲んだ動作だった。
 突然オランピアを閃光が包む。
 ただひとり怯まずクジュラがそれに駆け寄ったが、光が掻き消えた場所にもはやアンドロの姿はなかった。
「逃げられたか……」
「クジュラさん、お怪我は―――」
「気にするほどのものじゃない」
 胸を抑えて苦しそうにしているクジュラは、「それより」と―――イーグルを睨んだ。
 近寄っていたクッククローの輪を割り、イーグルの鼻先に、未だ禍々しい空気を孕んだままの愛刀を突きつけてくる。
「―――さっき、あの女が話していたことだ」
「え……」
「お前に向かって、“何故私たちの邪魔をする”と言っていたな。どういうことか説明してもらおうか……貴様、何者だ」
 押し黙ったイーグルに、仲間たちの視線が突き刺さる。
 あるいは不安げに、あるいは固唾を呑んで、あるいは無表情に。
 “一番近いところにいる人たちが気づいていないと思うかい、イーグル”―――カイトの言葉がよみがえり、逡巡する気持ちを突き飛ばす。
 言うべきだ。勝手に別行動を取って、迷惑をかけた。せめてもの誠意を見せるなら、包み隠さずに。
「俺は、深都側についた冒険者の……あの場にいた占星術師の分身なんだそうだ」
 クジュラの眉間の皺が険しくなる。
 同時に仲間たちの息を呑む音が聞こえたが、イーグルは続けた。
「深都は、フカビトを生み出すものの力を削ぐために、ニエを必要としていた。だから……ニエにする目的で、冒険者の分身を作ったらしい」
「それはおかしいでござる」
 ハガネが口を挟んだ。
「―――分身は、こんなにも長期間分かれたままではいられないでござるよ」
「世界樹の力を借りたって、俺にこの話をしてくれた人が言ってた……そのせいで、結局ニエには出来なかったらしい」
 俺が、まだ“いる”ってことはそういうことだ。
 自嘲するように言ったイーグルに、ハガネは絶句して視線を逸らす。
「つまりお前は、深都が放った間諜だったということか」
 クジュラの意志を示すかのように、ニヒルの切っ先は真っ直ぐ、イーグルに向けられている。
 ところが刃とイーグルの間に、割り込んだ者がいた。
「待てよ。何でそうなるんだ!」
 ベルオレンはクジュラを睨みつけると、イーグルを一瞥した。
「―――アニキは記憶喪失なんだ。深都を見つけたのは確かにオレたちだけど、そもそも世界樹の迷宮に潜ることになったのはただの偶然だ。アニキがスパイなわけねーよ!」
「そうですわ。今まで元老院の任務を忠実にこなし、この戦いにおいてもクジュラさん、あなたの味方として戦ったイーグル様が間諜であるなどと、どうしてそう思えるのです?」
「ベル、ピア……」
 二人に並ぶように、ハガネとリンが眼前に立つ。
「イーグルどのは某たちの、“仲間”でござる」
「どうこうしようってんなら、まずあたしらが相手になるよ」
 何も言えなかった。
 クジュラは四人を睥睨すると、溜息を一つ吐き、ニヒルを収める。
「これまでの働きに免じて……ここは引いてやる」
「ありがとうございます」
「だがこれより……おまえたちは元老院に顔を出すな」
 応えたピアノーチェを睨み付け、クジュラは―――痛むのか、胸を抑えて苦しげに続ける。
「信用しきれぬものを、姫様のお側に置いておくわけにはいかん」
「……分かりましたわ」
「なら、行け」
「せめて、手当てだけでも―――」
 近寄ろうとしたリンを、射殺すような視線が貫いた。
「要らん。……少し休んだら、動けるようになる」
 瞼を伏せてそう応じたクジュラは、もう言葉を交わす気はないようだ。
 イーグルは仲間たちを見渡した。
「……とりあえず、街に戻ろうぜ」
「うん……」
 無言でアリアドネの糸を取り出したリンは、それを紐解いた。


 迷宮の入り口から、アーモロード市街に戻る道の途中、イーグルは重い足をついに止めた。
 それに気づいた四人が、次々とイーグルを振り返る。
「イーグル?」
「みんな、ごめん」
 いくら謝っても許されるようなことではないだろう。
 信用を裏切った―――カイトに真実を正すためとはいえ出し抜くような真似をしたことは事実だ。そしてその結果ギルドとして、クジュラの、元老院の信頼も失ってしまった。
 何より、記憶がなくても―――イーグルはカイトなのだ。その事実だけは、覆しようがない。
 俯いていたイーグルの額を、何かがぴんと打った。
「痛っ」
「ばーか」
 口元に笑みを浮かべたリンがそこにいた。
「―――ま、落とし穴じゃちょっと焦ったけどね。こっちこそ……あんたがあそこまで思いつめてたこと、気付かなかったんだ」
 お相子だよ、とリンは肩を竦める。
「でも、俺……カイトで―――」
「だーもー、アニキが何モンだとかどうだっていいんだって!」
 頭を掻きむしるベルオレン。
 ピアノーチェが満面の笑みで、顔を覗き込んでくる。
「あなたがかつて誰であったとしても、今のあなたはあなた、イーグル様ですのよ。そして、わたくしたちクッククローが歩んだ、この半年間の冒険は、決して消えてなくなることはありませんわ」
「ピア……」
「イーグルどのにとっても、そうでござろう?」
 ハガネの言葉に、イーグルは頷いた。
 そうだ。
 記憶がなくても、この名をドンからもらってから、イーグルはずっとイーグルだった。彼の船を降り冒険者となってからも、イーグルはリン、ベルオレン、ピアノーチェ、ハガネや、海都の人々と共にあった。
 自分が何者かなんて、悩んで、動けなくなる必要はなかったのだ。
 はじめから、そうだったのだ。
「ありがとう……俺、大事なことを忘れていた気がするよ」
 顔を上げ、イーグルは四人の仲間たちを見渡す。
 ずっと頭の中にかかっていたもやが、晴れていくようだった。
「……それはそうとよ」
 頭の後ろに腕を組んだベルオレンが、不意に呟いた。
「深都の冒険者たちは、どうなったんだろーな?」
「ええと……クジュラさんに、幻獣をけしかけられていましたわね」
「多分、無事だと思う」
 胸に手を当て、イーグルはぽつりと呟いた。
「―――多分だけど」
「分身ってんなら、お互いの状況を共有したりとかできるのか?」
「分からない。意識したことないし……」
 世界樹の中で何度か見た“夢”―――否、“カイトの記憶”は、イーグル自身に眠る記憶が世界樹の力か何かで呼び起こされたものなのだろう。それが証拠に、ふたりに分かたれたあとと思しき出来事を、イーグルは“夢”で見たことはない。
「しかし分身であることを自覚したことで、何らかの変化はあるやもしれぬでござるな」
「そういうもんなの?」
「まあ、そんな話はさておき。……これからどうするか、って方針を決めないとね」
「決まっていますわ。深王を止めなければ」
 ぱしんと手のひらを打つピアノーチェ。
「止めるっつったって……」
「海底神殿の転移装置を使うのです。あれは白亜の森に繋がっているのでしょう?」
 胸を張り、姫君は続けた。
「クジュラさんは“元老院に顔を出すな”と仰いました。これすなわち“一介の冒険者に戻れ”ということでしょう。海都や深都も関係なく、何のしがらみもない、無為で自由な存在へと」
「そうか……そうだね」
 イーグルは首肯した。
「―――深王が何を目指しているのか分からないけど、このまま放っておけば取り返しのつかないことになる、ってことは分かる」
「よし、そうと決まれば!」
 ぐるりらー、と。
 意気込んだ瞬間のベルオレンの腹が鳴る。
 愛想笑いを浮かべる少年に、リンが呆れたように息を吐いた。
「……まあまず、休息を取るべきでござるな」
「白亜の森は巧妙な罠で深部への侵入者を阻む造りになっているって聞くし、深王もそう簡単に奥へは進めないだろうしね」
「オランピアもぼろっぼろでしたものね」
「うっへっへ」
 宿屋へ向かって歩き出す一同。
 イーグルは一度だけ樹海の入り口を振り返る。
 気にならないといえば嘘になる。
 深都の冒険者たちもまた間違いなく、かつての仲間だったのだ。
「おーい、アニキ! 置いてくぜー」
「あ、うん。今行くよ」
 だけど、今は。
 イーグルは自分を呼ぶ声に従って、歩き出した。


 幻獣との戦闘が終わるなり。
「っざけんな!」
 つかつかと近づいてきたサイモンに背中を思い切り壁に打ち付けられ、カイトは息を詰まらせた。
 じとりとした視線を向けるが、眼鏡の奥から真っ直ぐ睨み付けてくる眼光は緩まない。
「―――分身って何だよ。そんな大事なこと、なんで黙っていた!?」
「サイモン、落ち着いて下さ―――」
「落ち着いていられるか! 茶番に付き合わされてたんだぞ、俺たちは!」
 サイモンの怒号に、アルが短く息を呑む。
 怯えさせたと思ったのか、いくらか冷静さを取り戻した低い声で―――カイトの胸倉は掴んだままで―――サイモンは続けた。
「なあ、そうだろ。アーモロードについた冒険者も“おまえ”だったわけだ」
「そう、なりますね」
 わずかに咳き込みつつも、カイトは余裕のある笑みを崩さない。
「―――まあ、僕と“彼”は目的を共有していませんが」
「どうだかな」
 ぱっと手を離すサイモン。
 自由を取り戻したカイトは、しかし戦闘で消費した気力のせいもあってか、ずるずると座り込む。
「カイト」
 眉を下げて近づいてくるアルに手を振って応じる。
 黙っていると、アルは一文字に絞っていた唇を開いた。
「あなたが、ふたりになった……その理由を教えてくれますね?」
「いや」
 カイトは自力で立ち上がりながら応じた。
「―――今は時じゃない」
「おまえっ……」
 拳を握ろうとするサイモンを、スズランが片手を挙げて制した。
 見れば、ティティが縋り付くようにサイモンの胴に腕を回している。
 動けないのか、諦めたのか。舌打ちひとつ、サイモンは拳を下ろした。
 カイトはそれを、静かに眺めている。
「……僕の目的を知っていますか?」
「え?」
「深都を求めた目的だよ」
 傍らに立つアルは、困惑したようにカイトを見上げる。
「ぼくは、深都に沈んだ高度な文明を求めて、だと思っていました。シェルナハを造るためでは?」
「違うよ」
「え?」
「僕の目的は人間をつくること。シノビの技も世界樹の力もオーバーテクノロジーも全て、そのための手段にすぎない」
「ニンゲンを……つくる?」
 スズランの柳眉が寄る。その表情を見ながら、カイトは薄く笑った。
「おかしいですか? ……そうかもしれない。でも、それが僕の全てです。目的を達するための実験に自分を差し出すことすら、僕は厭わなかった」
「実験?」
 早口に言い切ったきり、カイトは平然と黙り込んでいた。
 いや―――星術器がかたかたと鳴る。
 震える右手を左手で掴み、カイトはそれでも、笑みを崩さない。
 いつの間にか、スズランは一切の色を表情から消していた。
「……それで、そいつは成功したのか?」
「いいえ。しかし、結論は出ました。僕のやろうとしていることは、ここでは実現しない」
 踵を返す。呆然と立ち尽くしたままの仲間たちを肩越しに振り返り、
「先に進んで、確かめましょう。転移装置が制圧できたのかどうか。深王とオランピアのことも気にかかりますし」
「……アーモロードの冒険者たちのことも。彼らも転移装置を目指していたようだから、この先のどこかでオランピアたちと鉢合わせしている可能性は高いです」
「まあ、無事だろう」
「分かるのか?」
 スズランの問いに、カイトは肩を竦めて応じた。
「いや、何となく」
 そしてそれきり振り返らずに、歩を進めていった。


 転移装置の光の中で目を開いたイーグルは、そこに広がる風景に思わず息を呑んだ。
 白く霞んだ森の中に、赤い鳥居が数え切れぬ程立ち並んでいる。何より幻想的なのは、この光景がすべて鏡のように、床の上に映っているところだろう。自分がどこに立っているのかすら、錯覚しそうになる。
 そしてとても、静かだ。
「清廉な雰囲気ですわね」
「歓迎されてないって感じるな」
 あたりを見渡しながら、警戒を滲ませるベルオレン。静かすぎる程の空間で、似つかわしくない殺気がクッククローを刺し貫いているからだ。
「白亜の姫君は、魔物が入り込んでいるって言ってたし。そのせいじゃない?」
「否、これは……」
 奥へと続く入り組んだ道に向きながら、ハガネは目を眇める。
「ごたくは良いですわ。早く進みましょう!」
 その横を鼻息荒く、ピアノーチェが通り過ぎて行った。途端ハガネは八の字に眉を下げる。
「ひ、姫さま……」
「きゃっ!」
ぱしん、と何かが弾ける大きな音がして、ピアノーチェがその場に尻餅をつく。
「姫さま!?」
「大丈夫かい?」
「な、何か見えない壁のようなものが……」
「うおー、何だコレ」
 ベルオレンがそろそろと出した指先に、小さな雷が走る。
「侵入者対策でござるな」
「結界ってやつかな?」
 イーグルはベルオレンの傍に立って、同じように手を伸ばした。
「気をつけろよー、アニキ」
「うん……えっ?」
 突き出した腕が、まるで生暖かい水に飲まれたかのような感覚に覆われる。
 やがて腕を取り巻くように浮かんだ青白い光が、四方の空間に鋭く走った。
 波が引くような音がして、空気が変わったのが感じられる。
「今のは……」
「おっ、何ともなくなったぜ!」
 奥へと続く通路に向かって駆けだしながら、ベルオレンが叫んだ。
「結界が解けたのでござるか?」
「さすが、イーグル様ですわ!」
「いや……」
 イーグルはほの蒼く光る、ベストのポケットに気づいていた。
 手を突っ込んで探れば、出てきたのは“空の玉碗”だ。輝きがふっと掻き消える。
「それ、前にクジュラからもらったやつじゃない?」
「だね……これのおかげかな?」
「何でもいーよ、さっさと行こうぜ!」
 大きく手を振って呼んでくるベルオレンに、イーグルは従った。


「待て!」
 やがて広間に辿り着いた彼女たちは、堅い足音を止めたアンドロに鋭い声を向ける。
「一体、ここに至って、どういうつもりだ?」
 振り返ったアンドロ―――オランピアは、相変わらず感情の色のない瞳で彼女らを見据える。
「……先に裏切ったのは、あなたたち」
「ぼくたちは裏切ってなどいません」
 一歩進み出て、金髪の子供がかぶりを振って見せる。
「オランピア、あなたも分かっているはずです。このままでは取り返しのつかないことに―――」
 言葉を途切れさせたのは、ばたばたと騒がしい足音が近づいてきたからだ。
 見る間にオランピアの無表情が歪む。
「やはり、来たか」
「オランピア!」
 彼ら―――アーモロードに与する、もうひとつのクッククローが森の小道から姿を現した瞬間、オランピアは指笛を吹いた。
 大きな影が頭上を覆う。彼女はその危機を察知してすぐに、そばにいた己のあるじに飛びついた。
「アル様!」
 抱えて鏡の床を蹴り、転がる。恐ろしいほどの地響きが、空から降ってきた巨大な蟷螂の魔物の着地を知らしめた。
「スズランさん、アル!」
 聞き慣れた声にはっと顔を上げるも―――駆けつけてきたのは、海賊の青年だ。スズランは警戒を露わにする。
 だが、彼は怯まなかった。
「大丈夫? 立てる?」
「ありがとう、スズラン……イーグル」
 差し出された手を素直に取って、アルは立ち上がった。
 スズランは再び地を蹴り、全身の膂力で床を踏みしめた。
「くっ……」
 突き出した盾に、重い鎌の一撃が加わる。
「おい、こっちだこっち!!」
 少年の声がした瞬間、蟷螂の体躯ががくんと揺らぐ。
「こっちでもいいぜ!」
 今度はサイモンが、少し離れたところから蟷螂に弩の矢を放った。
「おっさん、ンな遠いところからだと聞こえねーぜ!」
「うっせえ!!」
「しかも外してるし!」
「何故おまえたちが……」
 スズランは呆然と、襲い来る蟷螂に協力して攻撃を加えるアーモロードの冒険者たちを見渡した―――と、鋭い痛みが右腕を走り、そちらに目を向ける。
 赤いおさげ髪の女性が、籠手に覆われたスズランの腕に手のひらをかざしている。
「動かないで」
「おまえ……」
 モンクの癒しの技が、スズランの怪我を癒していく。
 痛みが治まると、おさげの彼女は困ったような顔で口を開いた。
「余計なお世話かもしれないけど、一応」
「いや……」
 スズランは、どこか意地を張っていた自分に気づく。アルの言うとおり、このままでは取り返しのつかないことになる―――時には差し出される手を信じ、握り返すことも必要だ。
 ようやく気づいた事実に恥じる気持ちで、癒された腕の感触を確かめ、スズランは応じた。
「そんなことはない。助かった、感謝する」
「カイトは?」
 海賊の青年が、周りを見渡しながら訝しげに呟いた。スズランはそれを苦い気持ちで見やる。彼の横顔に浮かぶ面影に、胸を刺した痛みを無視して、告げる。
「カイトはここにはいない」
「え……」
「話はあとだ。今は、戦いに集中を」
「あ、うん……」
 オランピアはいつの間にか逃げたようだ。
 追い込まれつつある蟷螂の魔物に、スズランは槍の穂先を向けた。


「危ないところを助けていただき、ありがとうございました」
 蟷螂の魔物を打ち倒したところで、アルが深々と頭を下げる。
 ベルオレンが手を振って応じた。
「いやいや。どっちかっつーと、助けてもらったのオレたちじゃね?」
「オランピアが差し向けてきたわけだしね」
「そうでもねーぜ」
 苦い顔をスズランと見合わせるサイモンに、イーグルは首を傾いだ。
「そういえば、何か揉めてたみたいだったけど……その、カイトがいないことと関係があるの?」
「あー若先生はなあ……」
「天極殿星御座に軟禁されている」
「嬢ちゃん」
「隠しても詮無いことだろう」
 ますます複雑な表情になったサイモンに、スズランは平然と言い放つ。
 それよりも、その言葉の内容だ。アーモロードの五人は目を丸くした。
「軟禁って……何をやったんだい?」
「そこの“分身”がおまえたちアーモロードに与しているのでな。密偵と勘繰られたのさ」
 スズランが顎でしゃくったのは、言わずもがなイーグルだ。
「―――“分身”のことを私たちは知らなかったからと言って、オランピアに捕えられたのはカイトだけだ。そのままこの森に向かった奴を、私たちは追いかけてきたというわけだ。お前たちもアーモロードの任務で白亜の森に来ている可能性があったし、“分身”に話が聞ける可能性があったからな」
「おい、アニキはイーグルっつう名前があるんだ」
「分身分身と、まったく失礼千万ですわ」
「まあまあ」
 いきり立つベルオレンとピアノーチェを宥め、イーグルはスズランに向き直る。
「―――事実は事実なんだし。……確かに俺とカイトは同じ存在、分身同士だよ」
「イーグル……」
「あなたはそのことを、知っていたんですか?」
 アルの問いに、イーグルはかぶりを振った。
「俺は記憶喪失なんだ。ちょっとしたきっかけで樹海に潜るようになるまで、何も知らなかったよ」
「……しかし、カイトは全て知っていたようですね」
 冴えない表情で、アルは呟いた。
 深都のクッククローたちの様子を見て、イーグルは悟る。カイトは彼らに、本当に何ひとつ話していなかったのだ。
 自分の目的もニエのことすら、何もかも。
 だが―――イーグルには分かる。それは、彼らを信用していなかったからではない。
 アルの蒼眸は、真っ直ぐイーグルを見つめていた。
「あなたになら分かりますか? ……カイトは、“目的を達するための実験に、自分を差し出した”と言っていたんです」
 その思いつめたような眼差しに、イーグルは胸のうちに湧き上がるものを感じる。
―――彼らも同じだ。 
 彼らも“イーグル”の仲間たちと同じように、カイトを仲間だと思っているのだ。
 イーグルは一瞬アーモロードのクッククローを振り返ると、アルたちに提案した。
「もし良かったら……今まであったこと、お互いに話してみないか。情報交換じゃないけど、一度、きちんと整理してみたいし」
「そう……ですね」
 少しだけ声に明るさを取り戻し、アルはスズランたちを振り返る。少年の従者は力強く頷いた。
「私は賛成です、アル様」
「俺もだ。正直……いろんなことが起きすぎて、混乱してやがる」
「ティティも! みんなとお話したい!」
 安堵の息を吐いて、イーグルはもう一度、仲間たちを見た。四人は黙って頷いてくれる。
 改めて向き直り、イーグルは口を開いた。


 柱時計が時間を刻む音だけが、瞬く恒星亭のこの一室を包む全てだ。
 扉の前に置いた椅子に腰を下ろし、こちらを見ているシャクドーに、寝台脇の椅子に座るカイトは自嘲するように微笑んだ。
「そんなに見ていなくても、逃げませんよ」
 星術器は取り上げられているし、歴戦のシノビを力ずくで退けられるような手段は他に持ち合わせていない。生身のカイトは、自分でも驚くほど無力だ。
「穴が開くほど見つめられても、シャクドーさんなら嬉しくありませんねえ」
「……貴殿は」
 頭巾の下で、シャクドーが目を細めた。
「貴殿はこの地に足を踏み入れたこと、後悔しているか」
「まさか」
 カイトは即答した。
「―――ようやく口を開いたと思ったら、くだらないことを訊かないで下さい」
「貴殿の望みは、叶えられたのか」
「……いいえ」
 薄く笑んだままのカイトにシャクドーは何を思ったのか、言葉を選ぶように、慎重に会話を続けてきた。
「貴殿の望みとは、何だったのだ?」
「……シャクドーさん、僕は何だかみんなに誤解されているような気がしますよ。僕は自分が犠牲を払ったとはこれっぽっちも思っていない。ニエになることが深都に受け入れられるための条件だったからといって、それぐらいの要求ははじめから覚悟していましたし。計算外だったとしたら、ニエに“ならなかった”ことくらいです」
「……話を逸らさないでもらおう」
「望み、ですか」
 スズランたちと、別れる間際。
 つい口をついて、真実を話してしまったことを思い出す。
「―――仲間たちには、話してあります。それで勘弁してもらえませんか」
「貴殿が口にする“仲間”という言葉ほど、薄っぺらいものはないな」
 シャクドーの暴言に、怒るというより驚く。
「……おかしいですか、僕に仲間がいたら」
「はたから見ていて思うほど、貴殿は独りぼっちじゃ。アーモロードの片割れの方が、いくらもましであろうな」
「イーグルは……僕にしちゃ、出来過ぎですよ」
「ほう?」
 それきり、カイトは貴重な暇つぶしの会話を取りやめてしまった。


「これは……」
 アルが腰元に提げた袋から、赤い光が漏れ出ている。
―――カイトが深都を目指した目的、ニエとして生み出された分身、イーグルの記憶喪失と、“夢”。
 一通りのことを話したと思った途端、それは自らの存在を主張するように輝き始めたのだ。
 イーグルもまた、ベルトの内側の青い光―――“空の玉碗”を取り出した。
「それは?」
「クジュラにもらったんだ。とある方からのご依頼とかで」
「そうですか……」
「アルが持ってるのは?」
「これは、“星海の欠片”と呼ばれるものだそうです」
 アルはイーグルと同じように、自らの手のひらにそれを乗せる。
「―――カイトが捕まる寸前で、ぼくに託してくれました。もとはオランピアから、深王が大切な人との約束のために集めていたものだ、と預かったものです」
「そうか……」
 ふたつの強い輝きは、途方もない力を秘めていることを感じさせる。
 同時に、イーグルの頭をぼんやりと掠めるものがあった。浮かんでくる声。記憶の端に引っかかるように、自分を呼んでいるかのような……
「おっ、何か落ちてるぞ」
 白亜の森の広間の隅を物色していたベルオレンが、小さな鍵を拾い上げた。
「ベル、そんなとこで何やってんの」
「いやー話長ェし、ちょっと退屈で……」
 じっと座っていられない性質なのだ。照れたように後頭部を掻くベルオレンは、近づいてきて鍵を見せてくれた。アルが反応する。
「見たことがあります……オランピアが持っていた鍵ですね」
「どこのだ?」
「ええと……ぼくが覚えている限りですと、確か、断罪の間の……」
「断罪の間って」
「フカビトのガキがいるところだよな……」
 顔を見合わせて表情を歪める、リンとベルオレン姉弟。
 イーグルは鍵に目を落とし、考える。
 これだけ海都と深都で情報を照らし合わせても、まだ謎は残っている。
「どうして、ニエの儀は失敗したんだろう」
「えっ?」
「分身であっても、本質的に人間なのは変わりないはずだ。どうしてニエになれなかったんだろう?」
「そ、そんなん……」
「単純に口に合わなかったとかじゃねえのか?」
 真祖とかいうアレ、フカビトのトップなんだろ、とサイモンは欠伸混じりに呟く。
「グルメなんだろーよ」
「でも、真祖だって選り好んで食べられる状況じゃないんじゃ……」
「直接聞きに行こう」
「えっ!?」
 仲間たちを見渡し、イーグルは繰り返した。
「部屋の鍵もあるんだ、ちょうどいい。真祖に直接、どうしてニエを食らわなかったのか聞きに行こう」
「そ、そいつはどうだろ……」
「前にあの部屋に入ったとき、突然フカビトをけしかけられて死にそうになったじゃねーか!」
「ぼくは賛成です。みんなで行けば、きっと大丈夫ですよ」
「あ、アル様……」
 目元を緩めて見つめてくるアルに、イーグルは微笑みを返した。
「ありがとう、アル」
「……あーもー、仕方ないなあ」
 頭をがしがしとかき混ぜ、ベルオレンはにっと笑った。
「―――いいぜ。ま、アニキが何かしようって自分から言うの、滅多にねえからな!」
「そ、そう?」
「アル様が行くなら、私たちも行くぞ」
 溜息を吐くサイモンと、いつもどおり楽しそうなティティを振り返りながら、スズランが言う。
「―――あいつがいないのも、好都合だ。どうせ問い詰めたとて話しはしないだろうが」
 カイトのことだ。イーグルは否定も肯定もせず、こう返答する。
「一緒に来てくれるなら、心強いよ」
 何故だか分からないが、真祖に会いに行かねばならないという気がする―――
 そしてその予感が的中していたことを、イーグルは間もなく知ることになる。

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B18F

 灼熱の迷宮は、今日ばかりは異様に静まり返っているかのようだった。
 きっとそれはイーグルの勘違いで、この静けさはいつも通りのものなのだろう。いつ魔物が飛び出してくるか分からない岩壁に囲まれた空間を進むのは、九人という大所帯の冒険者たち。
 自分の連れである彼ら以外、他の冒険者の姿はない。深都が見つかり数ヶ月が経った今でも、深都より下層への立ち入りが許されている冒険者は限られている。
 しかし、静けさが際立つ。
―――勘違いだとしても、イーグルはこの静けさに覚えがある。
 それはこの階層―――光輝ノ石窟に、足を踏み入れる者が今以上に少なく―――いや、皆無だった頃の記憶。
 そのときはたったひとりで、イーグルはここを訪れた。
「……お前、たちか」
 鍵を用いて開かれた扉の中、以前見たときと変わらぬ様子で、フカビトを生み出すもの―――彼らの真祖がこちらを見つめている。
「またここに来るとは。一体どういう了見だ?」
「きみと……話がしたくて」
「ほう」
 フカビトの真祖は赤い瞳を細める。人間が楽しみを迎えるような仕草だが、彼の風体はそれとは程遠い。
 イーグルは歩いて真祖に近づいた。その正面に、胡坐をかいて座る。
「えーっと……きみと会うのは、これで三回目だと思うんだけど」
「そうだな」
 やはり。
 振り返らなくても、少し離れたところに立つ仲間たちが息を呑んだのを知覚する。
 “イーグル”として真祖に対面するのは、これが二回目のはずだからだ。
 イーグル自身も覚えがない“一度目”の邂逅の存在を、真祖は知っている。
「最初に会ったときのことを、どれくらい覚えてる?」
 しゃがれた声が子供のような唇を割った。
「お前は……初めて見た僕を、どう思った?」
 質問に質問を返され、イーグルは答えに窮する。
 すべてを真祖は分かっている―――不敵な笑みを浮かべているかのようなフカビトの表情を見ていると、イーグルにはそう思えた。すべてというのは、“一度目”の記憶をイーグルが持っていないということも含めて。
 だからか、こんな答えが口をついた。
「怖いと思った」
「……そうか」
「今だって怖い。けど同時に、不思議だ」
「不思議?」
「フカビトにとって、俺たち人間はニエ……餌みたいなものなんだろう? 食事と会話してくれるっていう感覚が、よく分からないから」
「ふふふ……」
 フカビトはくつくつと、静かに笑った。
「なるほど、お前はそう思っていたのだな。だから……」
「どういうこと?」
 真祖はふと真剣な表情になると、再び口を開いた。
「僕に恐れを抱くことは、ヒトとして生物として、当たり前の感情であろう。だが……それでも興味、好奇心という感情を抑えきれずに、僕に話しかけてきたのはお前が二人目だった」
 赤い眼差しがイーグルを貫く。
「お前には、僕と最初に出会ったときの記憶がない。僕はそれを知っている」
「あ……」
「順を追って話すとしよう。三度の恐怖を耐えながら僕の前に姿を現した、その強い探究心に敬意を表して」
 イーグルは乾いた喉に、唾液を嚥下する。
 やがて過去を想起するように、フカビトは目を細めた。
「はじめ、お前はニエとして僕に差し出された存在だった。僕の力を抑えるための……世界樹に操られた愚かな王の命により」
―――だが、それは叶わなかった。
「お前の身体の半分は、世界樹が力を注いだマナで造られている。世界樹の天敵であるフカビトの僕が、そんな毒を食らうはずがない。……世界樹の浅はかな目論みは潰えた」
 それでも。
 真祖は嗤う。
「お前は食い下がった。“僕はニエにならなければならない、困る”と言ってね」
 おかしなやつだ。
 生物の本能として、ニエになることを断固として拒否し、真祖より生まれしフカビトに蹂躙され肉塊と化す―――王の無感情な人形によって、この部屋に連れて来られる者たちは皆そうなった。そういう運命を辿るのが、断罪の間における人間の役割だった。
 だが、“彼”は違っていた―――たったひとり、ニエになることを免れたはずの人間は、ニエになることを切望し、真祖と対話する。
「お前は言った。“何物にも干渉を受けない、あの沈んだ都で仲間が平穏に暮らすため、僕はここでニエにならなければならない”とね」
 淡々と、真祖は告げていく。
 何のしがらみもないフカビトの言葉こそ、真実でなくて何だろう?
「だから僕はひとつ、取引を提案した。……この対話の中で、唯一お前が答えなかった質問がある。僕はその答えを聞きたいがために、お前の中で人間というものが司る部分―――感情を伴う記憶を食らったうえで、お前を自由にしたのだ。また必ず、ここを訪れるという約束を与えて」
「感情を伴う……記憶?」
「お前が言うに……お前たちヒトが、“想い出”と呼ぶものだそうだ」
 あまり旨くはなかったがな、と真祖は述懐するように述べる。
「……そしてお前は再び、僕の元を訪れた。約束通りに」
 “想い出”を失い、深都を追放され、“彼”は海の上で再び冒険者になった。
 ばらばらにされた記憶の欠片は、完全な形を求めて“彼”―――いや、イーグルを樹海へといざなった。あるいは、真祖との約束も、破片の一つであったのかもしれない。
「―――二度目の出会いでは、邪魔者がいて叶わなかった。だが、三度目の今こそ。……僕との約束のことを再び知った今こそ、僕の質問に答えろ。人の仔よ」
 フカビトの真祖は、真っ直ぐな視線をイーグルに浴びせている。
「人とフカビトが理解し、友となることは、はたして……出来るであろうか?」
 真紅の目は、強い力をもって訴えかけるかのようだった。
 イーグルはそれを受け止め、異形を見つめたままはっきりと答える。
「できる」
「ええっ」
 素っ頓狂な声を後ろで上げたのは、恐らくベルオレンだ―――真祖はわずかに眼を動かすが、間もなくイーグルを見据えてまた問うた。
「理由を訊こう」
「……想い出を食べたっていうのなら、理解できるはずだ。ヒトが、どういう生き物なのか」
 イーグルは自嘲するように笑んだ。
「覚えていないのは、ごめん。だけど……俺のわがままに付き合って、それを食うことに同意してくれたんなら、それは……分かり合えたことのひとつにならないかな?」
 真紅の目は見開かれていた。
 やがて真祖の唇は弧を描き、隙間から漏れるような笑い声が、狭い部屋に響く。
「そうか……お前は既に、答えを示していたのだな」
「え?」
「僕の期待は叶えられていた。……お前たちが持つそれらもまた、そのひとつ」
「あっ……」
 戸惑うような声に振り返れば、“星海の欠片”がゆっくりとアルの手を離れ浮き上がるところだった。
 気づけば、イーグル自身が持っていた“空の玉碗”も宙に舞い上がる。ふたつは真祖の手元に引き寄せられていった。
 まばゆい光がふたつを包み―――ふたつは、ひとつの白い光になった。
「“白亜の供物”だ。……さあそれを、あの少女に渡してやってくれ。お前より先に出会った、あの泣き虫の姫君に」
 真祖たる王から、百年越しの贈り物だと。
 “白亜の供物”はイーグルの手の中に降りてくる。
「何故であろうか……悪い気分ではないな」
「これを……姫君に渡したら、どうなるんだ?」
「あの哀れな王と姫は破滅の道を辿っている。それは、その事態を好転させるにふさわしいものだ」
 そして僕の目論みは一つ潰れる―――
 引き換えに、と真祖は続けた。
「人の仔らよ。……お前たちは届け物を終えたら、僕の元へ急ぎ来い」
 真紅の眼は先までの人間味の色を失い、不気味なフカビトのものへと戻ったかのようだ。
「僕が全能と化す日は近い。そのときは……今のような児戯ではない、恐怖がお前たちの絶望を彩るであろう」
 刹那、イーグルの右手の甲に鋭い痛みが走る。
「イーグル?」
 うずくまった彼に、仲間たちが慌てて近づいてくる―――そして彼らも気づいたようだ。
 フカビトの真祖が帯びる、禍々しい雰囲気に。
「その手に印を与えおく。あとはそれが、お前たちを導くであろう」
「大丈夫か、アニキ」
「う、うん……」
 火傷のような痛みは一瞬で収まり、今は何の変わり映えもない手の甲を、イーグルは見下ろしていた。
 顔を上げると、フカビトの真祖は瞼を閉じていた―――もう、話すことはないとでも言うかのように。
 先までの異様な空気もまた消え失せ、静寂が断罪の間を包むばかりだ。
「話してくれて……ありがとう」
 立ち上がりながら、イーグルは真祖に声をかける。
 返事は返らなかった。イーグルは仲間たちを振り返る。
「行こう」
「えっ、もういいのか?」
「うん。知りたいことは、十分教えてもらえたと思うよ」
「そうだな……」
 断罪の間を出ると、深都のクッククローたちは一様に暗い顔をしていた。
「……“お前”は……」
 顔を上げたスズランが、イーグルを見て表情をゆがめる。
―――スズランたちの気持ちは分かる。
 今はっきりと、示されたのだ。
 イーグルはまぎれもなくカイトの一部だった。
 そのカイトは、スズランたちと共に世界樹の迷宮を潜り、苦難を乗り越えてきた彼に違いないのだ。
 イーグルはそれに、笑みを返した。
 うまく笑えたかどうかは、分からないが。
「……“夢”で、俺はみんなの仲間だったんだ」
 そしてそれは、ただの夢ではなく、事実だった。
「でも俺は、今の俺を……後悔なんてしてないよ」
 イーグルにはイーグルの仲間がいる。
 それでいいと言ってくれた人たちがいる。彼らを大切にしたい、イーグルはそう決めた。
「多分、カイトも一緒なんじゃないかな」
 “カイト”であり続けることを決めた彼もまた、自分の仲間を大事に思っているはずだ。
 スズランはまだ、思い詰めたような表情をしていた。


 その後。
 九人で相談した結果、深都組はまず、軟禁状態であるカイトを救出しに行くということになった。イーグルたちも手伝いを打診したが、アーモロードに味方していると思われているイーグルたちが、深都とこれ以上溝を深めるようなことをしない方がいいという結論に至った。
 そのため、アーモロードの五人は先行して、白亜の供物を姫に届けに向かうことにした。フカビトの真祖に授けられた異海の印を、イーグルが持っていることも理由の一つだ。
 再び別行動になる―――だがそれでも、二組の想いは、今はひとつだ。
 海都と深都のすれ違いを止め、因縁に終止符を。
「オイ」
「痛っ」
 固いものに頭を軽く殴られ、リンは涙目で長身の髭面を仰ぐ。
「おっさん、いきなり何すんだいっ!」
「おーおー、そんな口利いていいのかなー」
 サイモンが扇ぐように振っている物に、リンは目を見開いた―――両親の形見の短剣だ。
「あんた、それっ」
「おお、ティティが寝てる間にちょいちょいとな」
「うーっ」
 不満そうに唇を噛んでいるティティを一瞥し、サイモンはその短剣を―――リンに差し出した。
「えっ……?」
「やるんじゃねえ。貸して、やるんだ」
 そこんとこ間違えんなよと言いながら、サイモンは短剣をリンに握らせる。
「考えたんだよ。俺はコイツをおまえらの親御さんに元々、預けていたんだ。……ソイツを持ったまま亡くなって、ソイツは奇跡的に俺の手元に戻ってきた。で、またおまえらに預けてやろうと思ってな」
「いいのかい……」
「だから、預けるっつってんだろ。返せよ、いつかな」
 不満げにまとわりつくティティの頭を押し込みながら、サイモンはきびすを返す。
 リンは大声でその背に叫んだ。
「ありがとう!」
 サイモンの片手が、ひょいと上がる。


 静かだ。
 深都に滞在するようになって何度も思ったことだ―――ここには変化がない。停滞し、沈殿する空気だけが長々と眠っている。
 退屈だな、とカイトは思う。
 だがその退屈のうちに秘められた数々の宝の存在をカイトは知っている。それは前時代の遺産めいた科学という名のテクノロジーであったり、宇宙からやってきた未知なる技術であったり―――はたまた、ここに住む人たちの、ささやかな営みの中で生まれる何かであったりする。
 人間とは不思議なものだ。
 こんな退屈の中でも、何かあるはずだと希望を求めることをやめないでいる。
 人間を創った神という存在が本当にいるならば、どうしてこんな多様に富んだ、飽きない生物を生み出そうと思ったのか問うてみたい。
 思索に耽る彼を現実に引き戻すかのように、ノックの音が室内に響く。
「どうぞ」
 一緒にいるシャクドーが何も言わないので、カイトがそう投げかけるしかない。
 返事を受けて開かれた扉の向こうには、シャクドーの妻であるエラルナが布を抱えて立っていた。
 シャクドーが立ち上がり、彼女とひそひそと言葉を交わす。
「兵は?」
「大丈夫よ。……管理人さんには、王の命だと伝えてあるわ」
 ふたりの視線が同時に自分を見たので、カイトは首を傾いだ。
「……何です」
「まずは、これをお返しします」
 エラルナが抱えていた布包みを解く―――中から出てきた星術器に、カイトは目をしばたいた。
「いいんですか?」
「すぐ装備しろ。準備ができたら……ついて来い」
 やたらとせっぱ詰まったような顔でシャクドーが言うものだから、カイトはおとなしくそれに従った。
 瞬く恒星亭の廊下を進むブーツの音の合間に、カイトは足早なシャクドーの背中に声をかける。
「どういうつもりか分かりませんが、深王やその配下に知られればあなたがたもただでは済みませんよ」
「処分は覚悟の上だ」
 堅い声が返ってくる。
 カイトはひそかにため息をついた。
「……王もオランピア様も出払っておられるわ。おそらく、今深都であなたの動向に注目している人はいない」
 カイトの後ろからついてくるエラルナが言う。
 カイトは吐き捨てるように言った。
「そこまで逼迫しているとはね」
「指導者が不在で、深都には徐々に不安と混乱が広がりつつあります……アーモロードとの全面対決にならないか、それが一番の気がかりだわ」
「向こうもこっちと同じ状況でしょう。もっとも……どちらかの指導者が倒れれば、均衡は一気に崩れるでしょうが」
 内戦のような状態になれば、そのまま共倒れとなる可能性は高い―――フカビトが海都の支配を進める裏で、これを狙っていたのだとしたら、恐ろしく気が長い狩りであることだと、感心せざるをえない。
「あなたの仲間を捜したんですけど、皆出払っているみたいで……」
 恒星亭の出入り口を開いた瞬間、エラルナの言葉が途切れる。
「あら」
 クッククローの四人が、そこには立っていた。
「カイト!」
「おや皆さん、お揃いで」
 自分でものんきな声がカイトの口を割った。スズランの眦がキッとつり上がる。
「どこへ行くつもりで……」
「あ、待ってスズランさん。シャクドーさんたちは悪くないよ」
 仲間がどうやら自分を取り返しにきたらしいと気づいて、カイトはシャクドー夫妻を庇うように前に出た。
「―――むしろ二人は助けてくれているというか」
「……迎えが来たなら、長居は無用だな」
 シャクドーはエラルナの腰を抱き、路地へと歩を進める。去るつもりだろう。
「いろいろと、ありがとうございました」
 小さく頭を下げると、シャクドーは鼻を鳴らすばかりだったが、エラルナは微笑みを返してくれた。
「あなたたちならきっと、何とかしてくださると信じています。ご武運を」
 陰へと消える二人を見送ると、カイトは仲間たちを振り返った。
「それで? 武装までして、一体何の―――」
 最後まで言い切る前に、カイトは石畳に投げ出された。
 つかつかと近寄ってきたサイモンが、思い切りカイトの頬を殴りつけたからだ。
「っ……唐突ですね」
「サイモン!」
 驚いたように、アルがサイモンの腕に飛びつく。しかしサイモンは怒りが収まらない様子で、カイトを見下ろしていた。
「お前ってやつは……」
「その様子じゃ、イーグルたちに会ってきたようですね」
「それだけではない。フカビトの真祖にも話を聞いてきた」
「……ほう」
 それは興味深いことだ。
「何を聞きました?」
「私たち全員が深都に迎えられる条件として、お前がニエとなったこと。そしてニエにされた“お前”がどうなったか、すべてだ」
「そうですか」
 サイモンが怒鳴る。
「てめえ、何でそんな大事なこと黙っていやがった!!」
「……こうなるのが面倒だったからですよ」
 やれやれ、とカイトはかぶりを振った。
「―――誰かが必ず払わなければならない代償だった。ひとりで済んだ分、僕が支払っただけの話です」
「あなたの中では“それだけ”の話かもしれません……」
 震える声に、カイトは顔を上げる。
 しがみつくようにサイモンを押さえながら、青い目に涙を浮かべて、アルがカイトを振り返っている。
「でもその結果が何を生んだか。ぼくたちが今、初めて知った事実にどれほどの無力を噛みしめているか、想像できますか?」
「アル……」
 サイモンは拳を解いた。
 彼は、アルの蒼い目から耐えきれずこぼれた涙を隠すかのように、その頭をくしゃりと撫でてやる。
 カイトは立ち上がった。
「……ここで話すのも目立ちますから、一度帰りましょう」
「カイトぉ」
 ティティが近づいてくる。いつも明るい彼女にしては珍しく、眉を下げた落ち込んだ表情で、
「けんか? こわい?」
「……大丈夫だよ」
 ティティがおずおずとカイトの頬に手を伸ばす。回復を促すあたたかい力を感じる―――彼女の柔らかい髪を梳きながら、カイトは答えた。
「ティティが心配するようなことは何もないさ」


「シェルナハ、神はいると思うかい」
 地下の研究室に戻ったカイトは、長らく放置していたシェルナハの点検をしながら、彼女に話しかけた。
 幾つものコードに繋がれたままで、シェルナハは淡々と答える。
「ワタシをお造りになったのは、マスターです」
「そうだね。同じように、僕らを創ったモノがいるとしたら……何を考えて、こんなものを創ったんだろうね」
「マスター?」
「こんな……複雑で、修正のきかない、ややこしいつくりに、何でしたんだか」
「マスター、それは自問自答に当たるものでしょうか」
「……難しい言葉を知ってるね、シェルナハ」
「以前アーモロードに行った際、トモダチの少年が教えてくれました」
 カイトはため息をついた。
「そうか……僕が知らない間にも、おまえはちゃんと成長しているんだね」
「マスター、ワタシはマスターに造られました。ですから、マスターに答えられない問いに、ワタシは回答することができません」
 ワタシは人間ではありません、マスター。
―――シェルナハの電源を落とすと、丁度ノックの音がした。
 鍵は開いている。
 どうぞと声をかければ、遠慮なく扉が開いた―――入ってきたのはスズランだ。小さなトレーの上にパンと、湯気が上がっているスープが乗っている。
「ろくなモノを食べていなかっただろうと思ってな」
「……ありがとうございます」
 スズランさんが作ったんですかと呟けば、何を勘違いしたのか剣呑な視線が返ってくる。
「私だって料理くらいできるぞ。アル様のお世話をしていたのだからな」
「何も言ってません」
「ならいい」
 ところがトレーを机に置いたあとも、スズランは部屋を出ていく気配がない。
 仕方なく簡易な丸椅子を勧めれば、スズランは遠慮なく腰を下ろした。
 当たり障りのない話題を投げる。
「……アルは落ち着きましたか」
「今は眠っておられる。少し、いろいろなことが起きすぎて疲れたご様子だ」
 それは貴女も同じじゃありませんかと言いかけて、こらえた。アルの護り手である彼女が、アルの前でそんな弱音を見せるわけがない。
 ふたりきりで護りあってきた彼女らは、特に護られる側のアルでさえ、強くあろうとしていた。あんな風にアルが取り乱すのはカイトもはじめて見た。
「……スズランさんたちは、どのくらい一緒にいるんでしたっけ」
 ふと尋ねれば、スズランは少し驚いたように目を見張りつつ、答えた。
「確か……五年かそれくらいだ」
「ふうん。そんなに長いこと一緒にいれば、知らない事なんてないんでしょうね」
 何気なく言ってスープに口をつける。
 視線が気になって、スズランを横目に見た。
「……何です?」
「いや」
 スズランは真剣な顔で、指先を動かした。近寄れ、という動作だ。
 机を脇に、二人は向かい合って座っている。言われるがままに椅子ごとスズランに近づけば―――突然、腕を引かれた。
「いっ―――!?」
 倒れ込むように前屈したカイトの肩と頭に、スズランの腕が回る―――抱きしめられていると気づいたのは、顔が柔らかな感触に押しつけられたためで。
「スズランさ……!? ちょっ……胸、が」
 恐ろしいほどの力だ。一応あるはずの性差など超越する前衛後衛差で押さえつけられ、カイトは身動きが取れない。
「おとなしくしていろ」
 抵抗しようとしてもスズランの腕は全く緩まないので、カイトはやがて諦めて身体を弛緩させた。
「アル様が不安がられたときは、よくこうやっていた」
「……僕はアルと同じか」
「同じだ。ひとりで不安を抱えて、押し潰されようとしている」
 スズランは誤解している。
 カイトは答えた。この状況にあきれのようなものを滲ませて。
「僕はアルとは違う。……そもそも僕は私欲のために深都を目指したんだ。目的のために、自分もみんなも利用するつもりで―――」
「おまえはまだ、“自分”と“それ以外”という区別を変えていないんだな」
 カイトは知らず、息をのんだ。
 直接響くようなスズランの声音が、寂しさを浮かべたように感じた。
「私には難しいことは分からないがな。ただひとつ確かなことは……守るということは、相手を信じることだ。私はアル様の盾で、おまえたちみんなの盾なんだ。アル様のことも、サイモンやティティのことも、私は信じている」
 もちろん、おまえもだ。
 スズランは続ける。
「私はカイト、おまえを信じている……おまえが何を言おうと、何を考えてようと。私自身という存在をかけて、おまえがしようとしていることが何なのか、見届けてやる」
 だから、不安に思うことなど何もない。
 腕に力が込められた。
 そう言う彼女の声こそ、震えていた。何ですか、不安不安って、あんたが一番そう思っているんじゃないんですか―――言い返してやりたかったが言葉にはならず、掠れた息がただ漏れただけだ。
 こんなときどう返せば良いんだろう。正解だと思う言葉が、どれだけ考えても出てこない。
―――抱き締め返しもできないのに、何を言えばいいというのだろう。
 沁み込むようなあたたかさが柔らかに胸を打つ。
―――やっぱり、違うよ。
 閉じた瞼に力を込める。
 何もかも放棄して、これに縋ることが出来る程、カイトは幼くはない。

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B19F

 翌日。
 深都のクッククローは五人で、第五階層を進んでいた―――海都のクッククローの姿はまだ見つけられていないが、この森のどこかにはいるはずだろう。
 それにしても、白亜の森は侵入者を阻む仕掛けに事欠かない。湖の上に張られた透明な床のおかげで、鏡の上を歩いているかのように方向感覚を失う罠はともかく、赤い門―――鳥居による転移トラップ、f.o.eがいる部屋には足をすくう小丘など、とにかく先を急ぐ身にはげんなりさせられる仕様だ。
「……アル」
 幾度目かの戦闘を終えた後、肩で息するアルを見つけたカイトは眉をひそめた。
 アルははっとしたように顔を上げると―――いつものように柔和な笑みを形作る。
「まだ、大丈夫です」
「ならいいけど」
「カイトこそ……大丈夫ですか?」
 恐る恐る、という風に尋ねてくるアル。
 先ほど欠伸をかみ殺していたところでも見られていたのかと思い、カイトは適当に答える。
「ちょっとやることがあって、研究室で夜更かししていただけさ。……そんなことより。無茶だけはしないでくれ」
「……は、はい」
「アルー!」
「わっ」
 アルの薄い胴に、ティティの腕が回る。身長で上回る彼女はアルの大きな帽子に頬を乗せながら、
「かいふくするー? ねえねえ!」
「いえ、平気ですよティティ。それより……」
「俺の怪我治してくれよ」
 近づいて来ながらサイモンが言ったとおり、持ち上げられた彼の片腕には裂傷が走っている。
 ところがティティは「べーっ」と舌を出すばかりで、アルを抱えたままそっぽを向いてしまう。
「ティティ?」
「短剣を取られたから怒っているんだよ」
「それだけじゃないもん。サイモン、カイトにひどいことする!」
「あ? あー……」
「ほう」
 ティティのおかげで、そういえば胸ぐらを掴まれたり殴られたりと、最近ろくな扱いを受けていないことを思い出す。
 サイモンはばつが悪そうな顔で頬を掻きながら、カイトとティティを交互に見渡した。
「そいつぁその……殴って、悪かったな」
「やめてください、気色悪い」
「あァ!?」
「めーっ」
 安い挑発に対し、沸点が低いサイモンがまた拳を握る。なので、ティティの機嫌はまだ治らないようだ。
 やがて見かねたように、ため息一つスズランがサイモンの腕を取った。
「貸せ。治療してやる」
「えっ、あ、その、スズランちゃんは……」
「なんだ、遠慮することなどないぞ」
「じゃあその間、僕たちは地図を書いておこうか」
「そうですね」
「オイ!」
 サイモンの訴えを無視し、カイトはこれまで辿った道を地図に書き込んでいく。
―――いつもどおりだ。
 多少のいびつさは残っているものの、仲間がカイトに対する態度は変わらない。
 安堵はしたものの、逆に不安になる。彼らがお人好しなのは今に始まったことではないが、たとえばこの期に及んでカイトやアーモロードの冒険者たちが裏切るとか、そういったことも全く考えていないように思える。
 それでもし再び傷つくことになっても、静かに泣いて―――そして寂しそうに笑うだけ。
 そういう人生だったのだ、彼らは。
 もう真っ平だ。
 そんな風にして諦めるのも、諦めさせるのも。
「―――っ」
 急におびえた顔になって、アルが駆け寄ってくる。
 どうした、と問いかけて、カイトもそれに気づいた―――憎悪を背に負って近づいてくる、金髪の将軍が鋭い眼光に。
 よりによって、一番厄介な相手に見つかってしまった。カイトは舌打ちしつつ、一歩前に歩み出る。
「これはこれは……フカビトの忠犬殿ではないですか」
「……こんな深みにまで到達しているとはな」
 苦り切った表情のクジュラは刀こそ抜いていないものの、殺気だけで十分、カイトたちの―――近寄ろうとしたスズランやサイモンすら―――足を竦ませている。
「やはりどうあっても、先に進むつもりか」
 その問いにカイトは答えず、アルとティティを庇うように、星術器を起動させる。
 クジュラは瞼を下ろした。自嘲するかのように、
「愚問だったな……ならば、森の露として消えるがいい」
 彼がそう告げた瞬間、漂っていた霧がより濃いものとなる。その内側から聞こえる魔物の声は、一体どころではない。
「おわっ」
 突然降った鎌のような刃が、サイモンの足下に突きたった。
「サイモン!」
 ティティの籠手が輝き、その光が雄々しい角牛の姿を象った。牛にまたがったティティは、サイモンのそばに姿を現した“全てを狩るもの”に突進していく。
「アル様!」
 入れ違いに駆けつけたスズランが、霧の晴れかけた空気を引き裂いて振り下ろされる刃を阻む。鋭い金属音の後ろに現れたのは、二体目の“全てを狩るもの”だ。
「f.o.eが二体……」
「呆けている暇はありませんよ」
「わ、分かっているっ」
 サイモンたちとは分断されてしまった―――お互いを援護しようにも、気を抜いた刹那で、鎌はこちらの首を刈り飛ばしに襲い来る。クジュラの気配がどこにもないことだけが救いだった。
 なら先に、どちらかの魔物を倒してしまうべきだ。
「スズランさん」
「なんだっ」
「術式に集中します。防御は頼みました」
「言われなくても!」
 心強い言葉を返され、カイトは星術器に意識を集中した。


 霧は徐々に晴れてきてはいるが、仲間たちの姿を見つけるほどの余裕はない。
 ぎちぎちと関節を軋ませながら、巨大な蟷螂の魔物はサイモンたちの視界を覆わんばかりに接近している―――こんなに近づかれては、弩の矢は放てない。
 サイモンの逡巡を読んだかのように、ティティがまたがる野牛が風のように通り過ぎていく。
「ティティ!」
「いっけー!」
 突進してくる野牛の勢いに、蟷螂は巻き込まれて仰向けにひっくり返る。
「いいぞ、ティティ!」
 その隙に、サイモンは弩を抱えて走り出した。巧くバラージを放つことができれば、もう一体いる蟷螂にも攻撃を加えることができる。
「食らえ!」
 放たれた雷の矢。しかし蟷螂は野牛をはね飛ばすようにして空中に浮き上がった。矢はそのつま先を掠めもせず通過していき、蟷螂は着地と同時に野牛へ襲いかかる。
「うっしー―――きゃっ!」
 我が身を庇ったティティは、野牛の背から振り落とされる―――否、野牛が自ら彼女を落としたのだ―――蟷螂の疾風の鎌が、野牛を引き裂いた。
「だめっ!」
 鮮血を噴き倒れた野牛に追い打ちをかけようとする蟷螂―――その凶器から獣を守ろうと、ティティは野牛に覆い被さった。
 蟷螂の翅に、巨大な矢が突き刺さる。
 甲高い悲鳴。轟くそれに負けぬ大声で、サイモンは叫んでいた。
「おい、化けモン! おまえの相手は俺様だ!」
「サイモン!」
 言うが早いか、サイモンは弩を抱えたまま脱兎のごとく駆けだした。まともにぶつかっても勝ち目がないのは分かっているが、しもべのいないティティから敵を引き離すのがまず第一だ。
 塩の固まりのような白い小山を回り込み、サイモンはとにかく走り、走りながら次弾の装填をする。だが蟷螂はすばしっこく、翅の鳴る音がぎちぎちとサイモンを追いかけていた―――小山の上から、蟷螂の巨躯が影を作る。息を呑んで、サイモンは弩を頭上に構えたが―――矢が放たれるよりも、蟷螂が猛然と降ってくる方が早い。
「ぐあっ……」
 弩の構造と強度のおかげで踏みつぶされはしなかったものの、サイモンは仰向けになりながら蟷螂の重みと戦っていた。先端がいびつに曲がった弩は横倒しになっている。抵抗するすべもなく、あとはこの鋭い鎌に首を断たれるだけ―――そう覚悟した刹那、金切り声のおたけびが降ってくるのに気づく。
「やあああーっ!!」
 勢いづいたティティの槍は蟷螂の、穴があいていないもう一翅を貫いた。柔らかい肉に到達した槍に悲鳴を上げ、ぶんぶんと身体を振るう蟷螂は、揺り落ちたティティを鎌の背で打ちつける。
 あっけなく弾かれた彼女に声を上げる間もなく、蟷螂のバランスが崩れたのをサイモンは見つけた。歪んだ弩の穂先を必死に動かし―――蟷螂に向けることに成功する。
「食らえ!」
 反動を気にせず放たれた巨大な矢は、蟷螂の顎を突き上げ、貫き―――その首を刈り飛ばした。
「っぐ……」
 天を仰ぐようにして、倒れることもなく蟷螂は動きを止める。サイモンは這うように、その巨躯の下から抜け出した。
「ティティー!」
 大声を出すと、鋭い痛みが胸に走った。
 顔をしかめつつもサイモンは立ち上がり、ティティの姿を探す。小山の陰で、ぐったりと横たわる少女を見つけた。
 痛む身体にむち打ち駆け寄ると、肩を揺さぶる。反応がないことに血の気が引く。サイモンは大声で呼びかけた。
「しっかりしろ、ティティ!」
「……んー……」
 伏せた瞼がぴくりと動いたので、サイモンは胸をなで下ろす。
「お、驚かせやがって……」
「サイモン」
 ゆっくりと目を開けたティティは、弱々しい笑顔を見せる。
 その嬉しそうな表情に毒気を抜かれてしまって、サイモンはつられたように笑みを返した。
「助かったぜ。ありがとうな」
 ティティはきょとんとしたが、「ティティがんばったもん」と笑った。
 霧の中から地響きと破壊音が轟く。
 サイモンははっと顔を上げた。戦いは終わっていないのだ。
 弩は半壊しているが、サイモン自身は戦えないわけではない。道具袋を探る。体力を回復させたら、援護に行こう。
 それまで仲間が無事であることを祈りながら、指先に触れたメディカを握った。


 蟷螂の動きは、見た目の図体に反して俊敏だ。そのほとんど全てをスズランは受け止め流しているが、徐々に押され気味になっている。
 囮の彼女はそのままに、カイトはアルを連れて蟷螂の死角を回り込みながら星術器の操作を行っている。エーテルの充填率は術式を放つためだけなら十分な量になっているが、あれを一撃で倒すには、今以上のエーテルを圧縮して溜めなければならない。時間はもう少しかかるだろう。
「大丈夫か?」
 尋ねれば、アルはこくこくと頷いた。逃げ続けてしばらく経つ。体力がないのはお互い様だが、星術器が起動しているうちは駆動性が格段に増すので、カイトは疲労をほとんど感じずに済む。アルはそうはいかないが。
「平気、です」
「無理って言われても走らざるをえないけどね、この状況じゃ」
 蟷螂がずっとスズランを狙っているのは、彼女の誘導と挑発が巧みだからだ。本当はアルだけでもこのまま遠ざけてしまいたかったが、このフロアにはもう一体蟷螂がいる。万が一にも遭遇してしまえば逃がした意味がない。
「すみません、こんなときに、足手まとい、で」
「黙って走ってた方がいいよ」
 そう応じた視界の隅で、スズランがよろめいた。
「ぐっ」
 無茶苦茶に振り回された蟷螂の鎌が、スズランの肩鎧をひっかけ弾き飛ばしたのだ。スズランがバランスを崩した姿勢で、握りしめられた盾に、真正面から敵が体当たりする。
「スズラン!」
 溜めたエーテルはまだ目指した量の半分に満たない。
 アルの叫びを聞きながら―――カイトは星術器のモードをエーテル圧縮から術式起動に移行させる。
「翅の付け根を狙ってください」
 カイトのしようとしていることに目敏く気づいたアルの助言に頷いて、カイトは座標を定めるべく片手を伸ばした。星術器の羽根が、反動に備えて展開する。
「離れて」
「はい!」
 アルがさがったのを確認すると、カイトは術式を展開した。
 展開指定座標に収斂したエーテルが、蟷螂の翅をもぐように、炎を帯びた爆発を起こす。焦げた臭いを上げながら火だるまになる蟷螂が、苦悶を帯びた地団太を踏む。それに巻き込まれないように、慌ててスズランは退避すると、肩を怒らせながらこちらに近づいてくる。
「撃つならそう言え!」
「言ってしまったら奇襲にならないでしょうが」
 蟷螂の足下の床にひびが走る。黒煙の中で動かなくなった蟷螂に、アルが眉をひそめた。
「やった……んでしょうか?」
「いや、まだだろう」
 煙が不気味に揺らめくかぎり、中で蟷螂は生きているようだった。一撃でしとめるにはやはり威力が足りなかったのだろう。
「―――しかしもう一撃あれば倒せるはずだ。スズランさん、いけますか?」
「ああ……」
 アルから応急処置を受けるスズランは、息を切らせながらそう答えた。蟷螂からの攻撃によって鎧が剥がれた右腕は、肩から指先にかけて生身がむき出しになっている。その盾を持つ手が痺れたように震えていることから、先の一撃による後遺症は小さくないようだ。
「―――ここで踏ん張らずに、何が盾だ。任せておけ」
「スズラン……」
「アル様、できる限り離れていてください、安全なところに」
 どうにも矛盾した言葉だが、カイトは指摘するような野暮は冒さなかった。が、言われたアルの方が苦い顔をする。
「ぼくだけ逃げることはできません」
「私は……自分が傷つくことは耐えられても、あなたが傷つくことには耐えられないのです。わがままですが、どうかお聞き入れください」
 スズランは歎願するように告げたが、アルは厳しい表情のまま、何も答えない。
「お取り込みのところ悪いけど、二人とも、そろそろ」
 煙の様子に気を配っていたカイトは、そちらを顎でしゃくった。
 ぎちぎちという音が、霧と黒煙の混ざる灰の中で続いている。死にかけの魔物は探しているのだろう―――自分にこんな傷を負わせた、憎い冒険者を。
「アル、僕からも離れて」
「カイト!?」
「あいつの狙いは僕だ。……まあ、スズランさんが何とかしてくれるって」
「来るぞ!」
 大気を引き裂くように突進してきた蟷螂を、カイトたちは二手に分かれて避ける。案の定蟷螂はカイトを追ってくる。
「火傷しているわりには元気だね」
 エーテル充填に力を裂いている、星術器の動力だけでは逃げきれない。爆発によって片翅片腕になった鎌が振り下ろされ―――スズランが、カイトとそれの間に滑り込んだ。
「っ」
 前のような連撃は繰り出せなくなったものの、一撃一撃の重さは変わっていないようだ。鎌が振り下ろされ、蟷螂が一歩進むたび、床が割れていく。ひびは相当進んできていて、その下の水面が揺れているのすら見えた。
 まずいな、という言葉が頭をちらつく。
 完全に蟷螂はスズランではなくカイトを狙ってきている。避けようが逃げようがカイトを追ってくる。それを見切って防御を続けるスズランはさすがだが、その疲労も目に見えていた。このままではカイトを巻きこんで、やられる。
 刹那、カイトを背に庇うスズランの青い目が、自分を振り返った。
 すぐ前を向いて攻撃に備えたそれが、血走った目が何を訴えたがっていたか、察せぬカイトではない。
 術式は撃てる。先より弱い一撃でも、この魔物を葬り去るには十分な威力だ。
 反動はある。が、術者は自ら放った術式の影響をそれ以上受けない―――だが至近距離で放たれる術式の爆風や炎は、術者以外の全てのものを、巻きこむおそれが高い。
 共倒れにはならない。一番“犠牲”が少なくて済む。
 このまま術式を撃てば。
―――冗談じゃない。
 盾を握った手が離れる。
 それを見た瞬間、カイトは星術器の動力を上げた。突っ張った腕は堅い鎧で覆われた女の身体を突き飛ばす。放り出された盾を貫いて、蟷螂の体重をのせた一撃が、カイトの身体を床に打ちつけた。
「カイト!」
 硬質のはずの床に、やけにやわらかく沈み込む。横殴りに倒された視界が明滅しているさなか、カイトは鎌と自身を阻んだ最後の盾―――半壊した星術器に命令を送る。
 展開しろ。座標は必要ない。目標は鼻先だ!
 解き放たれたエネルギーが爆発音を上げる。
 それを聞きながら―――反動で砕けた床の欠片と共に水の中へカイトは落ちていった。


―――海だ。
 奇妙な浮遊感がある。その中で彼が直感したのは、これは海の中だということだ。
 上下も左右もない、どこまでも沈みいく―――海。
 自分と一緒に落ちたのだろう、魔物の巨躯が早々に闇の底へと沈んでいく。自分とそれの軌跡を追うように幾つも走る黒い筋は血だろうか。
 沈んでいる―――その事実で、星術器が機能を失っていることに気づく。
 動くはずだが、再起動させるための意識の集中が出来ない。白濁した思考で動かそうとした腕は、力なく伸ばされるだけだ。
 だが甲斐なく、遠ざかっていく光―――
 いや。
 影が近づいているのだ。
 その存在に気づいたとき、影ははっきりと人の形を象った。合った焦点の先、伸ばした腕を力強く握る、彼は歯を食いしばって、カイトを引き寄せた!
 イーグル!
 必死な表情のまま、イーグルはカイトの星術器を手動で操作する。
 そして光を見上げた彼は、息を吹き返した星術器の推力を借りて、カイトの腕を掴んだまま水を蹴った。
 光が再び近づいてくる。


 サイモンもティティも満身創痍だった。傷一つないのはアルくらいだが、アルも十分なくらい自身の役割を果たした。イーグルたち海都の冒険者が広間に侵入したとき、状況をいち早く彼らに伝達できたのは、アルが無事だったからだ。
「さすがに今回は死ぬかと思ったけど」
 リンが回復してくれたおかげで軽口を叩けるくらいにはなったが、それでもカイトは床の上に横たわったまま動けない。
 疲れた様子でカイトのそばに座り込んでいたスズランが呟いた。
「お前は全く……守られる努力をしろと、言ったはずだぞ」
「しましたよ。スズランさんが僕を信じてくれたように、僕もスズランさんや、みんなを信じましたから」
 その結果がこれです、とカイトは少し得意げに言った。
 スズランは仏頂面だったが。
「この魔物たちを皆さんにけしかけたのは、やはりクジュラさんですのね」
 険しい表情で奥の扉を見据える姫君に、アルが声をかける。
「仕方ないことです。……海都と深都の争いが続いている、今は」
「クジュラは先に進んでいったんだよな?」
 周辺を散策していたベルオレンとハガネが戻ってくる。
「―――オランピアと深王は一体どこにいるんだ?」
「さあな。一つ言えることは、これから先もこんな妨害が続く可能性があるってことだ。アーモロードだけじゃなく、深都からもな」
 そう答えたサイモンは、ひび割れた眼鏡を袖口で拭いていた。彼も疲れているようで、もたれかかってくるティティを除けようともせず胡坐をかいている。
「まあとりあえず、みんな、生きててよかったよ……」
 カイトのそばで同じように座り込み、ぐったりと首をもたげてイーグルが言う。
 ここに辿り着くまで体力を消費しているだろうし、加えてカイトを助けるために海に潜ったからとはいえ、やはり彼はカイトと同じようにあまり体力がないのだろう。
「来てくれて助かった。ありがとう。……それにしてもイーグル、きみはよく星術器の起動方法なんて知っていたね」
「え? ……ええと、必死だったから」
 よく覚えてないや、とイーグルはへにゃりと笑った。


「ここから先は……すまないが、きみたち五人に任せるしかないようだ」
 スズランの手を借りて起きあがりながら、カイトは苦痛を耐えるようににっと笑う。
「―――いや、そもそも真祖がこの争いの如何を託したのはきみだ。僕が口を挟むべきではなかったね」
「そんなことは……」
 かぶりを振るイーグルに、真祖に三度会いに行ったという話は聞いたよ、とカイトは続ける。
「察しはついているだろうが……きみが真祖に喰われたとき、僕はあの場にいなかった。何が起こったのか、僕もずっと知らなかったのさ」
「だからあのとき……」
 カイトは自身を、イーグルが求める記憶の“正解のかたちではない”と訂正した。
 あれはそういう意味だったのだ。
 カイトは柔らかい表情でイーグルを見つめている。
「きみが僕の前に現れたことで、何となく分かってはいたけどね。……本当は怖かったさ。きみが記憶を取り戻せば、カイトは二人いることになる。僕はどうなるんだろうって」
 カイトも同じことを考えていたのだ。
 イーグルは黙したまま、もう一人の自分の独白を聞いている。
「―――同時に、これでやっと楽になれるのかと思ったよ。全部自業自得だが、限界だったからね。秘密を隠し通すのも、望んだものが絶対に手に入らないことにも」
「カイト……」
「終わりになるなら、それでもいいと思った。……まあ、今は違うが」
 カイトは背後の仲間たちを仰ぐ。
「きみはイーグルであることを選んだ。きみにはきみの仲間がいる。僕にも、僕の仲間たちがいてくれるみたいだ」
「そこは自信を持っていいですよ、カイト」
「なんで肝心なところでそうなんだ、おまえは……」
「いつもは偉っそうに、ふんぞり返ってやがるくせにな」
 苦笑いやら悪態やらを並べる彼らをよそに、サイモンに寄り掛かるようにしてくっついていたティティが、カイトを向いてにっこりと笑う。
「カイト、元気になったー?」
「なったよ。ありがとう、ティティ」
「イーグルも?」
 不意に同じ笑顔を向けられて、イーグルはつられたように笑う。
「うん。もう、大丈夫だよ」
 カイトはふと、片手をイーグルに差し出した。
 受け取ったものに、イーグルは目を瞠る。
「これは……」
「どう使うかはきみ次第だ。……あとは頼んだよ」
 “それ”を見下ろして、イーグルは頷いた。


 深都の冒険者たちを置いて、イーグルたちは一路地下二十階を進んでいく。
 もはやここまで来てしまえば、あとは急ぐだけだ。姫と王、二人の間に、永遠に取り戻せない隔たりが生まれる前に。対立に終止符を打つために。
 だが、きっとそれはうまくいくはずだ。
 ここに至ることを、多くの人が望んでくれた。立場は違っても、願うことはみんな同じだったはずだ。アーモロードの街の人々も、深都だって、人間同士で争うことはなんとか避けたいと思っている。
 それを叶えるため、クッククローは白亜の森を駆け、最後の扉を開いた。

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B20F

 砂浜を疾駆する足音が、次第に速度を上げていく。
 追っ手から放たれた吹き矢は、正確に彼の進路、数歩先の砂を打った。彼がたたらを踏んだ一瞬のうちに距離を詰めた追っ手は、苦無を手に彼に迫る。
 が、彼はすぐに体勢を立て直すと、追っ手が攻撃の動きに入るより先に彼の武器―――刀を振った。追っ手の苦無はそれを受け止める。二三斬り結んだ末追っ手は不利を悟ったかのように、武器が弾かれるより先に、自分から砂を蹴り、跳びずさる。
「うおおおっ」
 そのとき、二人目の追っ手が上空から降ってくる。
 体重を乗せて繰り出されたのは、槌による重い一撃だ。受け止められまい―――そんな思惑をあざ笑うかのように、彼は刀一本で、槌の勢いを殺しきった。
「うえっ!?」
 素っ頓狂な声を上げた槌の持ち主を睨みつけ、彼は、空いている片方の腕―――両刀のもう一刃で、横殴りに槌を、持ち主ごと吹き飛ばした。
「ぐえ……」
「武器を変えたとて同じことよ、小僧」
 ぱちんと二本の刀を鞘に納め、彼―――マサムネは冷ややかに、槌の持ち主である少年―――ベルオレンを見据えた。
「たしかにお前は剣を扱うより、槌を使うた方が、力を出し切れるかもしれん。その選択は誤ってはおらぬが、力の使い方もまた変わることを考えよ」
「くっそー……」
「ハガネ」
 マサムネは、砂の上で膝を折るシノビを向いた。
「―――剣の腕を上げたな」
「は……ありがたいお言葉でござる」
「だが、逃げ腰なのは変わっておらんようだ。シノビであっても、時に退路を考えず戦わねばならぬことがある。そのとき、今のようなことでは、死にものぐるいの敵には太刀打ちできまい」
 俯いてしまうハガネ。どうやら図星のようだ。
 三人の様子を、砂浜に至るまでの坂道の中途に座って遠巻きに見ながら、イーグルはぽつりと呟いた。
「なんていうか……マサムネさんって実はすごいんだね」
「一応我が国においては、軍事顧問のような役目を負っておりますもの」
 イーグルの隣に腰を下ろし、心底つまらなさそうな顔でピアノーチェは続ける。
「―――二人とも急に特訓などと言い出すから、何だと思えばマサムネに師事していただなんて。抜け駆けもいいところですわ」
「はは……ピアもここで見ているより、参加したいんだね」
「マサムネはわたくし相手に本気を出してくれませんもの」
 ピアはため息一つ、イーグルをのぞきこんだ。
「殿方はみな、己を鍛えるのに余念がありませんわね」
「別に男に限ったことじゃないと思うけど……」
「わたくしも強くなりたいですけれど、あの中には入っていけませんもの」
 マサムネたちは数言やりとりの後、再び打ち合いを始めた。マサムネは余裕があるようだが、ベルオレンとハガネは本気だ。
「……海都と深都の争いが収まったのはよかったですわね」
 地下二十階で、白亜の姫君と深王の邂逅は成った。
 真祖がくれた供物が、二人を人間であったかつての姿に戻してくれたのだ。
 人間同士の全面戦争は回避できた。問題は、フカビトとの決戦だ。
「真祖は力を取り戻して、海底神殿の奥で俺たちを待っているはずだ」
 今は何も浮かばない右手の甲を見下ろして、イーグルは呟く。
「―――戦いは避けられないだろうから……少しでも強くなっておかないと」
「友になれると思えたのに、残念ですわね」
 結局、真祖は人間と戦う道を選んだ。
 すべての原因が、真祖の神と世界樹の争いにある。イーグルたちの戦いはどこまでも代理戦争にすぎない。
「真祖を倒しても、まだ戦いは続くよ」
「でも、明けない夜はありませんわ」
 にっこりとピアノーチェは笑う。
「―――海都と深都の争いが終わったように。今、わたくしたち冒険者は少なくともひとつですわ」
 イーグルはそれにつられてはにかんだ。
「そうだね」
「そういえば、以前カイトさんに何かいただいてらっしゃっいましたけれど、何だったのですか?」
「ああ……」
 地下十九階でカイトたちを助けたときにもらったもののことだ。カイトたちは今傷を癒すために深都に戻っているはずだが。
 イーグルは巾着からそれを取り出すと、手のひらにのせてピアに見せた。
「石……でも、何だか形が不思議ですわね」
「弾丸に似てるよね」
 何に使うのか、俺にもよく分かってないんだけど、とイーグルは頭を掻いて苦笑いをする。
「とりあえず、預かっておこうかと」
「イーグル様らしいですわね」
 ピアノーチェはくすりと笑った。


「扉の奥深く……フカビトが神と交信せし場所に来るがいい。汝ら人の仔と世界樹を滅す未来を否とするのならば」
 海底神殿を進むクッククローの頭の中に、フカビトの真祖の声が響いている。
「くそっ、どこにいやがる」
 辺りを見渡すベルオレン。だが当然、その姿は見つかるはずもない。
 イーグルは目の前にある、かたく閉ざされた巨大な扉を指さした。
「多分この先……だろうね」
「けれど、これは前の探索では開かなかった扉ですわ」
「今は、開くよ」
 扉の前に進み出たイーグルは手を伸ばした。
 鋭い痛みが手の甲に走ったと思うと、重く引きずるような音を伴い扉が開いていく。
「ほおー……」
「ね」
 力を取り戻した真祖は、逃げも隠れもせずに、冒険者たちが訪れるのを待ちかまえている。
 今更脅しがなくても、イーグルたちもまた戦いを避けようとは思っていなかった。これはイーグルたちの意志で、どうにかなるような戦いではない。
「覚悟を決めろってことだね」
 てのひらを拳で打ったリンに、ベルオレンは肩を竦める。
「何だよ、まだ決めてなかったのか?」
「決めてるさ。でも……色々あるんだよ」
「大丈夫だよ」
 口を挟んだイーグルに、姉弟はきょとんとした。
 イーグルは微笑み返すと、扉の向こうを指さした。
「―――大丈夫。行こう」


 威厳に満ちた青年の姿をしたフカビトは、近づいてくるクッククローを穏やかにも思える瞳で見つめている。
「真祖……なのか?」
 彼もしくは彼女は否定も肯定もすることなく、ただ瞼を閉じる。
「来たか……僕の希望を運んだ者たちよ」
 歌うような不思議な声が、海底神殿の祭壇、神に捧げる舞いの舞台のように広がる空間に響きわたる。
 クッククローは足を止めた。
 フカビトの身体が、内側から膨れ上がるように巨大化していく。
「では、終わりにしよう」
「来るぞ!」
 誰かが鋭く叫んだと同時に、フカビトの眼が見開かれる。
 “父にして母なる座”の咆哮。
 その瞬間走った冷気に、イーグルたちはばらばらに跳びずさる。
「冷てっ」
「まだ来るでござる!」
 前触れに過ぎなかった寒気が消えた途端、空気そのものを凍らせるような光が襲いくる。直撃はしなかったものの、肌を刺すどころか貫くようなそれに、仲間たちの動きが鈍る。
「うへっ、もうちょい着込んでくりゃ良かった」
「力が入りませんわ……っ」
 自身が口にした弱音を弾きとばすようにピアノーチェは勢いよくかぶりと振ると、黄金のレイピアを頭上に掲げた。大きく息を吸い込む。
「負けていられませんわ! フカビトであろうと何であろうと、こちらは二つの都の人々の希望を背負っているのですから!」
 凛とよく通る彼女の声は、同じように立ち竦んでいた仲間たちを奮い立たせる。
「特訓の成果、見せてやるぜ!」
 一番槍を切ったベルオレンが槌を振るい上げる。
 “父にして母なる座”が振り下ろしたヒレのような腕が床面を叩く。疾駆するベルオレンは難なくそれを回避したが、側にいたピアノーチェが、粉砕され飛び散った床の破片に顔を覆った。
「気をつけてくださいまし!」
 ベルオレンは小さく舌を出すと、地を蹴った。
「でやあ!」
 渾身の力を込めて、中枢部である真祖の頭に叩き込まれた槌は、しかし展開されていた触手に絡めとられてしまった。
「ベル!」
 リンの叫びを聞きながら、イーグルは構えていた銃の引き金を引いた。ベルオレンを襲おうとしていた触手が弾ける。その隙に、ベルオレンは槌を取り返した。
「くそっ」
 それでも迫ってくる無数の触手を見つけ、ベルオレンは追撃を諦めたように敵の身体から飛び降りる。
 どころか、触手は逃げても追ってくる。駆け足でベルオレンはこちらに向かってきた。
「こちらに逃げてこないでくださいまし!」
「ンなこと言ったってよ!」
 触手だけでなく本体も移動している。時々空気が変わったように、物理攻撃の狭間に、雷や炎といった属性の攻撃もあり、こちらから近づく隙がない。
「もうなんか、何でもありだね」
「戦闘に向いた形態なのでござろう。敵対する者全てを殲滅するかのような、圧倒的な力でござる」
「目標を分散させたらどうかな」
 物陰に隠れ、作戦会議を行っていたクッククローの視線が、イーグルに集まる。
「―――二手に分かれよう。さすがの真祖も、一度に複数の攻撃は出来ないみたいだし」
「でも、広範囲の攻撃をされたらどのみち同じことだぜ」
「その範囲に入らないようにすればいいんだよ」
「……そうか、そうでござるな」
 思い至ったように顎を掴むハガネを押し退け、ピアノーチェがずいとイーグルに迫る。
「イーグル様の作戦なら、外れなどあるはずありませんわ。さあ、お話しくださいませ」
「そ、そう言われると言い出しにくいんだけど……」
 苦笑いを浮かべながら、イーグルは口を開いた。


 土煙が収まった頃、“父にして母なる座”の真正面に、人間たちが姿を現す。
 ぎょろりと見下ろしてきた真祖の目玉に槌を掲げ、不遜にベルオレンが言い放った。
「安心しろよ、今更逃げたりしねーって」
 姿があるのは、イーグルを除いた四人だけ。
 だが四人であるということすら悟らせる間もなく、彼らは各々真祖へと突っ込んでいく。
 すぐに触手がそれを迎撃するが、人間たちは的としては小さく、なかなか捕まらない。 四人の的に真祖が気を取られた瞬間、真祖本体ともいえる頭部を鋭い光が貫いた。
 初めて上がった、悲鳴。
「効いてるよ!」
「やはり本体が弱点のようでござるな」
 逃げ回りながらその様子を確認したリンは、ちらりと後方を一瞥する。触手が暴れた砂煙のせいで、何も見えなかったが。
 遠方から何とか与えられた精密な一撃は、イーグルが放ったものだ。
 真祖が彼の存在に気づけば、全ての攻撃は彼に向かう。その前にこちらが真祖に到達できれば―――
「うらあ!」
 ベルオレンが叩き込んだ一撃で、真祖の触手が一本粉砕された。
「こいつらもケッコー何とかなるぜ!」
「なら……」
 自身に向かってきた触手を軽やかに回避し、ハガネは含針を吹きつける。
 触手の動きが鈍った瞬間、手にあった短刀が閃いた。
 首を絶つように鮮やかに寸断された触手が、ぼとりと床に落ちる。
「再生せぬようでござるな」
「見て!」
 真祖の頭の真上にある目のような部分に、光が集まっている。あれにエネルギーを溜めているから、触手の猛攻も収まりつつあるのだろう。
 ぐんと首をもたげた真祖の様子に、ハガネはその狙いに直感する。
「イーグル殿、危ないでござる!」
 その叫びと同時に、ベルオレンが地を蹴った。
「てめーの相手はこっちだ!」
 再び真祖に向かって振り下ろされた槌が、今度は防がれることなく直撃した。
 ダメージは蓄積しているはずだ。それでも、真祖の頭上のエネルギーは膨らむばかりだ。
「まさか……」
「姫様っ」
 ハガネはとっさにピアノーチェに覆い被さる。
「皆伏せるでござる! ―――」
 真祖の狙いは、自分たちだったのだ。
 炸裂した真っ白な閃光が、全てを塗りつぶしていく。


「みんな!」
 爆発の勢いはすさまじく、イーグルが立っていた場所まで瓦礫が飛んでくるほどだった。
 青くなりながら瓦礫の山を越えるイーグルの目に、仲間たちがあるいは倒れ、あるいは膝をついて目の前の障害を睨みつけている様子が映る。いずれも満身創痍だ。
「ハガネ、ハガネっ!」
 かたく瞼を閉ざした従者を、ピアノーチェが揺さぶっている。彼女らに駆け寄ろうとしたイーグルは、障害―――“父にして母なる座”が、半身を失った姿で神殿の残骸の中から動き出したことに気づき、そちらに目をやった。
 自分を巻き込む覚悟で放ったらしい攻撃は、“父にして母なる座”自身にも甚大な被害を及ぼしているようだ。
 途切れ途切れの声が、頭の中に響く。
「生き残るか……人の仔らよ」
 イーグルは銃口を真祖の頭部に向けた。
 装填したのは、カイトから託された銃弾だ。
「しぶといな、お前たちは……」
「それが取り柄だからね」
「ふ……そうだな、いつでもそうだ……」
 何かを想起するように虚空を見上げ、うつろな声で真祖は続けた。
「―――だがそのために、得られたこともあったのだったな……」
 風を切る音がした。
 “父にして母なる座”に残された腕が、こちらに向かって蔓のように伸ばされた音だった。しかしそれに気づいたイーグルは、同時に、真祖の目と目が合ってしまい、動けなくなる。
 波の立たない、しかし感情がないわけではない、複雑な色をたたえた瞳。
 まるで人間のような。
「―――らああああ!」
 吼えるベルオレンが、渾身の一撃を真祖本体に叩き込み。
 触手はイーグルにたどり着く前に、力を失い、落ちる。
 身構えていたイーグルは、「ぐえっ」というベルオレンの短い悲鳴に、はっと顔を上げた。動きを止めた真祖本体の真下に落ちたベルオレンを、リンが慌てて引きずり退避している。
「終わった……のか?」
 瞼を閉じているシノビの少年を膝に乗せ、ピアノーチェが呆然としている様子が目に入る。
「―――ハガネは大丈夫?」
「ええ……全く、主人にこんな心……迷惑をかけるとは、従者失格ですわ」
 つんと澄ませて言うピアノーチェに、イーグルは乾いた笑いを浮かべた。
「みんな無事で良かった。じゃあ―――っ!」
 打ちつけられた重量が床を揺らす。途端、地震のように続く細かな揺れに、イーグルは“父にして母なる座”の残骸を振り返った。
 斜めに傾いた身を起こそうと、フカビトの王は床に腕をついていた。今度こそ、とイーグルは狙いを定める。
 銃口が真祖を向いた瞬間、フカビトは口を開いた。
「これで、滅びを避ける道が開いた……」
 揺れは収まるどころか激しさを増し、苛烈を極めた戦いの痕深い神殿を、容赦なく崩壊させていく。
 自らに降る瓦礫や、綻び沈んでいく床を意にも介さず、真祖は続ける。
「死すら眠る海の底へ……すべての争いに終止符を打ちに行け……」
「あっ……」
 “父にして母なる座”の全身が、崩れた床と共に黒い海の中へ消えていく。
 呆けて見送るだけの余裕はなかった。床が抜けたとほぼ同時に、神殿のあちらこちらから水が浸水し始めたのだ。
「やべーぜ、糸!」
「さっきから探しているけど、見当たらないんだよ!」
 道具袋の中身をまき散らしながらリンが怒鳴る。戦いの最中に落としてしまったのだろう。イーグルも自分の道具袋を見たが、そもそも結び紐が千切れてしまっていて、袋そのものが瓦礫の下だ。
 舌を噛みそうになりながら見上げた天井から、ひときわ大きな瓦礫が、動けないピアノーチェたち目がけて落ちてくる。
「危ない!」
 咄嗟に、瓦礫目がけてイーグルは引き金を引いた。
 同時に噴き出してきた海水が、仲間たちごと全てを押し流していく―――


「……ル、イーグル!」
 呼ばれているのは、自分の名前だ。
 それを認識して、イーグルはうっすらと瞼を開く―――飛び込んできた光に、すぐ目を眇めた。
「おっ、アニキはやっぱねぼすけだな」
 からかうようなベルオレンの声を聞きながら、徐々に覚醒してきた意識を周囲に向けた。
「……ここは?」
 不思議な光景が、そこには広がっていた。
 まず、周りは海の中だ。自分と、四人の仲間たちだけが、何か空気の膜―――言うなればシャボン玉のような―――の中に覆われ、浮かんでいる。深都を彷彿とさせるが、それより幾分小さく、そしてこの空気の泡は、赤い光―――おそらく夕日だろう―――射し込む頭上へと、ゆっくり浮き上がっているようだった。
「何があったの?」
「オレたちもよく分かんねー」
「わたくしは見ておりましたわ。イーグル様がその銃から放った弾が、この結界を生み出したのです」
 シャボン玉の結界は多少形に融通が利くらしく、床のようになったそこに正座しているピアノーチェは、相変わらず意識がないハガネを膝の上に置いている。
 リンが困惑した表情をこちらに向けた。
「あんたにも分からないのかい?」
「多分……カイトがくれた弾だから、彼が何かしたんじゃないかな……」
 曖昧に微笑んで、イーグルは頭上の光を見た。
「ゆっくり昇っているみたいだから、そのうち海の上に出るんじゃない?」
「空気に触れた瞬間、ぱーんといったりしねーだろうな」
「とすれば再び海に……鎧を外しておいた方がいいかもしれませんわ」
 のんきな会話を繰り広げる仲間たちをよそに、今度は足元を見やる。
 光溢れる頭上とは裏腹に、深海の闇がそこには広がっている。ぽっかりと深くあいた穴が、どこまでも、どこまでも続いているかのようだ。
 真祖はこの中に沈んでいった。そして彼―――あるいは彼女―――が言ったように、世界樹の天敵であり、フカビトの“神”とされる存在が、この底には潜んでいるのだ。
 それを倒さなければ、この街の戦いは終わらない―――まだむしろ、ここからが本当の戦いなのだ。アーモロードと深都、二つの都市がひとつになった、それこそが、ようやく始まり。
 だけども。
「いつまでぐーすか寝ているのです! お前は本当に緊張感というものが足りませんわね!!」
「ぐべっ」
「姫さん、何も手甲で喉口に手刀を落とさなくても……」
「目覚めるどころか永遠に眠っちまうんじゃねーの? ハガネちゃんも庇い甲斐のない主君で浮かばれねえな」
「まだ……死んでないで……ござる……」
「あっ、起きた」
「ホラご覧あそばせ。……大体庇ってくれなどと頼んだ覚えはありませんわ! シノビならシノビらしくその辺の隅っこで震えながら、わたくしの大活躍を影からちょこっとだけ支援するだけで良いのです!!」
「あーあ、素直じゃないんだから……」
 けれども、少しの休息くらいは許されるだろう。
 仲間たちの声を聞きながら、イーグルはくすりと笑う。
「アニキ、アーモロードに帰ったら宴会な! なんてったって英雄の凱旋だ!!」
「ふふん。わたくしたちの冒険譚なら、酒場を一晩借り切っても話しきれないですわ」
「安心しな、そんな金どこにもないから」
「姫さま、お酒は控えていただきたいでござる……」
 クッククローを身のうちに、海中に沈んだ美しい都市を見下ろしながら、泡の結界は夕暮れの光を目指して海の中を昇っていく。
 近いうちに深都に行って、カイトに礼を言いに行こう。
 それから、ドンが寄港していたら、彼らに報告に行ってもいいかもしれない。
 少し未来を想像するだけで、気分が楽しくなる。
「なーアニキ、やっぱ羽ばたく蝶亭で宴会だよな?」
 話は宴会場所まで進んでいるらしかった。イーグルは肩を竦める。
「そうだね」
 焦る必要はない。
 また明日も明後日も、イーグルのこれからは続いていくのだから。

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終章

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終章・前

 アーモロードと深都の争いが終結したという話は、遠く海を越えて交易都市アイエイアまで届いていた。
 アイエイアの海上を滑る船の上で、雑談のように便りを運んできた依頼主に、ドンはしみじみと答えた。
「ほー、あの迷宮も踏破される日が来るとはねえ……」
「私が生きている間にはないと思っていたな」
 老兵グラウコスがそう言って水をあおったので、ドンは世間話ついでに言ってやろうと胸を張る。
「踏破した奴らはな、俺が目をかけてやった連中なのさ。言わばアーモロードのごたごたが解決したのも、全部俺のおかげってわけだな。わははは」
「君が言うことが法螺だとは思わないが、話をかなり盛っているとした方が良いとは思うようになったな」
「へっ、こんな北の端まで来るような腕利きの海賊がか?」
「それはこれから証明してくれるんだろう?」
 グラウコスの依頼で、ドンの船であるセレンディピティ―号はアイエイア名物の“美姫”のいる島角に向かっている最中なのだ。
 青々と澄んだ海を眺めていると、ドンは何もかも、この海が受け止めてくれるような、どっしりとした気分になる。まだ見ぬ魔物も海には多いだろう。心を折られるような出来事も少なくはない。ドンが拾った若者は立派に自分を取り戻したが、彼の人生はこれから始まるようなものなのだ。
「ま、何とでもなるさ」
 北方にしては鋭い日差しと冷える北風に身を晒しながら、ドンは大らかにそう笑った。


 フカビトの真祖がいなくなり、海都からは白亜の森の姫君が、深都からは深王が去った。人としての自分を取り戻した彼らが望んだのは、人ではない彼ら二人だけで、ひっそりと暮らすことだったのだ。
「世界の命運はどこにいった、って感じだね」
 冷ややかに言うと、カイトは引き裂いた紙を両手で丸めてその辺の適当な床の上に放る。
「こら。掃除をするのも億劫がるくせにこれ以上ゴミを散らかすな」
 ぷりぷり怒りながら、スズランは屈んでその紙くずを拾う。ついでに床の上に落ちているありとあらゆるゴミをひょいひょいと集めていくので、その様子を見ていたカイトは胡乱げに呟いた。
「スズランさんはホントに世話焼きだね」
「おばさんくさくて悪かったな」
「そうまでは言ってません。特に否定もしませんが」
 カイトは千切った紙の下にあった、もう一枚の紙に目を滑らせる。十分に精読する必要などあるはずもない、すべてを残して去る者たちの言い訳など。
「まあ、海都も深都もあの人たちがいない方が平和なのかもしれませんが」
 それにしたって問題が片づいたわけではない。
 世界樹によって海底に沈められている、フカビトの神を滅ぼさなければ、真の意味での深都の戦いは終わらない。
「……深都が役目を終えるのは、もう少し先の話か」
「そうでしょうね」
 まるで他人事のようだが、カイトは深都に残ることを決めている。
 そしてスズランは。
「……すまん」
 ぽつりと落とされたその言葉に、カイトは目を上げてスズランを見た。
「何がです」
「大変な時期だと分かっているのに……」
 アルは、逃げ出した自国へ、一度戻ることになった。
 誰に説得されたわけでもなく、アルがアル自身で決めたことだ。ピアノーチェやマサムネの助けを得られたことは大きいが、アルは自力で、かの国の王と向き合おうとしている。
 主君のその戦いを、支えるのがスズランの役目であり、望みだ。
「私は……」
「スズランさん。人はそういくつも同時に成し得ません。それに元々無関係の戦いのために、自分の望みを犠牲になんてする必要はありませんよ」
 カイトは自身が造ったアンドロのためでもあるが、自ら望んで深都に残る。スズランやアルがそれに合わせる必要などない。
 だがスズランは、ためらいがちに口を開いては閉じる、ということを繰り返していた。何か決定的なことを言わなければいけないのに、言えない。そんな風だ。
 カイトは椅子を離れると、床に屈んだままのスズランに近づいた。膝を折ると、顔を上げたスズランと目線が同じになる。
「大丈夫ですよ」
 信じろ、と言ってくれた彼女と同じように。
 カイトは自信たっぷりに続ける。
「僕はいつまでもこの街にいます。この街もまた、アルとあなたの帰る場所です」
「カイト……」
「らしくありませんかね」
 目を丸くして惚けている風なスズランを、カイトは引き寄せた。
―――こっちの方が伝わるだろう。
 ごく自然を装って、唇が重なった。


「いろいろと手伝ってもらってすみません、イーグル」
「いえいえ」
 毎度ご苦労じゃの、という店長のねぎらいを背に、ネイピア商会をあとにしたイーグルは、自分と同じような包みを抱えたアルに笑顔を返した。大きい方をイーグルが、小さい方をアルが抱えているものの、これらは二つともアルの荷物だ。
「旅に出るにも、準備が必要なものですから……」
「アルたちの故郷は、ここから遠いの?」
「大陸を目指して……ずっと東に進んだ先にあります。長い船旅になると思いますが、ぼくたちがアーモロードに来た当時を考えると今の方がずっと海路は拓かれていますから、旅程も楽になっているかもしれません」
「そうだといいね」
 入り組んだ道の石の階段を下っていきながら、イーグルは夕日に目を細める。手分けして買い出しに行った仲間たちは、そろそろ集合場所の羽ばたく蝶亭に集まりだしているだろうか。
「―――アルたちがいなくなると、少し寂しくなるなあ」
「ピアノーチェは、アーモロードに戻ってくる気満々でしたよ」
「そうなの?」
「ええ、イーグルを国に連れて帰るまではがんばりますわと言っていました」
 にっこりと笑って、アルは続ける。
「僕も国王に会いには戻りますが……正直、国で生活したいかと言われたら、微妙、です」
「微妙」
「はい。微妙です」
「でも、戻りはするんだね」
「はい」
 アルは眉を下げた。
 それから視線を逸らすように、暮れなずむ空を見る。
「イーグルは優しいですね」
「……優しい奴なら、見送ったりはしないんじゃないかな」
 アルたちの旅が、心配なのは確かだ。
 だがそれでも、イーグルが一緒に行くことはない。
 アルはふと柔らかく微笑んだ。
「ぼくたちを想ってくれる心だけで、十分ですよ」


 羽ばたく蝶亭の宴会もたけなわだ。ベルオレンは真っ赤な顔を、テーブルにつっぷして大きくおくびする。
「荒れてるな、坊主。そんなに姫さんと離れるのがイヤなのか?」
 にやにやとからかうような声音と顔で近づいてくるのは、サイモンだ。その眼鏡の髭面に唾棄するように、ベルオレンは応じた。
「ンなわけねーだろ。あのワガママ姫がいなくなると思うと、せーせーするさ」
「じゃあ何で、そんな風なんだ」
 お兄さんが聞いてやろうじゃねえかと、肩を組んでくる腕がわずらわしい。既に出来上がっているオッサンの酒臭い呼気に顔をしかめる。
「せっかく弟子入りしたってのに、マサムネの爺さんも国に帰っちまうって言うからよ。しかも姫さんとは違ってもうこっちに来る気はなさそうだったし」
「はあ、それでねえ……」
 色気のねえ話だなと詰まらなさそうにサイモンが呟くのをよそに、ベルオレンは蛇口をひねったように滔々と話し出した。
「ハガネちゃんもいなくなっちまうしなあ。港の街なんだから別れは当たり前のもんだと思ってたけど、つらいもんだぜ」
「そんなに入れ込んでるんなら、ついていけばいいじゃねーか」
「……オレも最初はそのつもりだったんだけどよ」
 ちらりと振り返った先には、機嫌よく酔っ払っているリンがいる。
「―――複雑な事情があったんだよ」
「姉ちゃんの方が気になるってか? おめーらも大抵、面倒くせえ姉弟だな」
「うるせえ!」
 見抜かれていたことにカッとなって怒鳴るも、ベルオレンはすぐにまたへなへなとテーブルに突っ伏す。
「アニキも残るし、オレは別にアーモロードに未練なんかないけど、姉貴にまたぐだぐだと考えさせるのも嫌だしよ……あーくそっ」
「いいじゃねえか。いずれ、姉ちゃんが弟離れして、お前も姉ちゃん離れできるときが来るさ」
 珍しく余裕ぶった大人の一言を告げられ、ベルオレンは黙り込む。
「―――焦る必要はないぜ。そのときが来たら旅立てばいい。なに、世界の広さはお前が大人になるまでに、そうそう変わったりなんかしねーよ」
「おっさんよぉ……」
「ん?」
 ベルオレンが二の句を継ぐより早く、その影はサイモンに覆いかぶさった。
「サーイモン!」
「てっ、ティティか!?」
 サイモンの首から上を全身で羽交い絞め―――分かりやすく言うと、肩車の状態から顔に抱きついているような格好―――したティティが、にこにこと答える。
「ティティだよー!」
「こっ……こら! 離れなさ―――いでででで髪! ハゲたらどうしてくれんだ!?」
「おっさんもあんまし、他人のコト言えねえよな……」
 こういう大人にはなりたくない、と思いつつ、ベルオレンは乾いた笑いを浮かべた。


「これで最後ですわね!」
 ハガネの背負った二、三人は入れそうな膨れ上がった革袋を叩き、ピアノーチェは満足げに頷いた。一方のハガネの顔色は土気色だ。
「ひ、姫さま……一体こんなに何を詰め込まれたのでござるか……」
「乙女の荷物は色々とかさんでしまうものなのですわ。ねえ、アル」
「え、は、はい……そうなんでしょうか」
 アルは隣に立つスズランを仰いだが、スズランは眉をひそめるばかりだ。
「それにしても……見送りがほとんどおりませなんだ」
 けしからんと言いたげに港を見渡すマサムネの言に、ピアノーチェは肩を竦めた。
「仕方ありませんわ。昨晩も遅くまでお酒を呑んで騒いでいたのですもの」
 送別会と称したそれのおかげで、早朝に発つはずのピアノーチェ一行の船の周りはひっそりとしたものだ。まあ、深都の人々はそれぞれの事情で来られないことは事前に分かっていたから、見送りがいたとしてもイーグルたちだけなのだが。
「カイトどのは昨晩もいなかったでござるが、別れは済ませたのでござるか?」
 ハガネの問いに、アルは笑顔で応じる。
「ええ、それは既に」
「あ、ああ」
 何故か顔を赤くして目を逸らすスズラン。ハガネは訝しんだものの、出航を知らせる鐘の音がその思考を遮る。
「もう準備が整ったようですな」
「うう、某はこの荷を船の中に下ろしてくるでござる……」
「さっ、アル様もご乗船ください」
「ええ……」
 潮風に振り返ったアルは、じっと街の方角を見つめているピアノーチェに気づいて立ち止まる。
「ピアノーチェ?」
「え……あっ、出航ですわね」
 彼女にしては珍しく、繕ったような笑顔が返ってきた。


「ったく、アニキってやつはー!!」
「ご、ごめんってば」
「口より足、動かした方が良いよ!」
 急な階段を駆け下り、家々の狭間を通り抜け、朝市の通りを横切り、疾駆する影が三つ。
 アーモロードの海の方角からは、船の出航を知らせる鐘が鳴り響いている。もうこれが始まってからしばらく経つから、そろそろ本格的に船は港を離れる頃に違いない。
 全く、寝坊で見送りに遅れるだなんて―――なんて“らしい”ことか!
「じ、自分が……なさ、けなく、なるよ」
「ほらっへばらない!」
「アニキー!! 速度落ちてるぜ!」
 前を行くリンとベルオレンの姉弟に、先を行ってくれと手をひらひら振り、イーグルは胸を押さえた。きつい。肺が爆発しそうだし、足もつってきた。それでも、気持ちばかりが先を急ごうとする。
 再び走り出そうとした瞬間、ふっと身体が宙に浮いた。焦りの声を上げる間もなく、どんどんイーグルは地上を離れていく。
 慌てて頭上を見れば、イーグルの首根っこを掴まえるようにして空を舞う、アンドロの姿が目に入った。
「シェルナハ!?」
「マスター・カイトの命で、“お見送り”指令を遂行します」
「うおわっ」
 ぐんと速度を上げ、地上を走る二つの赤い頭を追い抜いて、どんどん港が近づいてくる。
 丁度姉弟が港に入ったところで―――船が岸辺からゆっくりと離れだした。
「シェルナハ、降ろしてくれ! ゆ、ゆっくり!」
「了解」
 船上の人々は、当然ながら下を見ている。彼らに応じて手を振るリンとベルオレンが、慌てたように天を指さしていた。不思議そうに上を見る、ピアノーチェたち―――
 イーグルは叫んだ。
「ごめん!」
 船の上でも港でも、どっと笑いが起きた―――気がした。
 けたたましい鐘の音の隙間、笑い涙を拭いながらピアノーチェが何かを叫んでいる。空中にいるイーグルにははっきりと聞こえなかったが、どうもこんな内容だったと思う。
「イーグル様、またお会いしましょう!」
 口々にみんなが何かを叫んでいる。はちきれんばかりなのは笑顔で、きっと、この喉を絞るような言葉にならない声も、想いを何とか伝えようとしているからこそ。
「ごきげんよう、アーモロード!」
 凛とした声を最後に、ピアノーチェたちを乗せた船はアーモロードを離れていく。
 蒼々とした水面を滑るように、どこまでも広がる果てしない海を、世界を知る船は進んでいった。

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終章・後

 深都は静けさを取り戻した。
 冒険者の行き来はあるし、そういった意味での賑やかさは依然あるものの、平穏と秩序は一応戻ってきた。それを寂しくなったと形容する住民もいれば、安堵の吐息を吐く者もいる。人が多いのも少ないのも一長一短だ。
「さてと」
 光の射し込まない地下室での作業を終え、地上の一室に戻ってきた彼は大きく伸びをした。深王が色々と丸投げしていってくれたおかげで、一冒険者にすぎないはずの彼にも雑多な仕事が山積みだ。仲間たちの見送りに行けなかったのは多少心残りだが、これが最後の別れではない。
「僕は僕のするべきことをしないとね」
 机の上に無造作に置いた、赤い透き通った小ぶりの石を撫でる。
 イーグルに渡した弾丸は、これから精製したものだ―――これの、さらにほんのひとかけらからだけで、あれだけのエネルギーを持ったものが生み出せる。
 まったく、宇宙の力というのは果てしないものだ。
―――“星海の欠片”を少しだけ、削り出したのがこれだ。
 スズラン辺りが聞いたら閉口しそうだが、そもそも“星海の欠片”はオランピアによって託されたものだ。大半は真祖に返したから、いいでしょう。
 それにこの小さな石ころだけで、これからの戦いに役立つものを生み出せる可能性は十分にある。
「とりあえず……お茶でも淹れてくるか」
 久々にして、しばらくはひとりきりだ。
 それでももう、独りぼっちだとは思わない。
 再度大きく伸びをして、カイトは目の前の扉を開いた。





【アモロ編・終わり】