全力で投げ捨てる

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キャラクター紹介
クッククロー キディーズ ヴァルハラ その他の人々
序章
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終章
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世界樹の迷宮

キャラクター紹介

クッククロー

最近結成されたギルド。堅実かつ大胆。潜行スピードは普通だがややムラがある。若いメンバーが多い。

レオン
男、年齢不詳。クッククローのリーダー(戦闘指揮)で、変わり者。 
アリル
女、年齢不詳(十代後半)。施薬院で働く孤児。一応サブリーダー。優柔不断。 
クルス
男、18歳。いいとこの坊ちゃんだが、坊ちゃん扱いが嫌で家出し、エトリアに来た。敬語使い。真面目。 
ノア
女、24歳。施薬院前で倒れていたところをアリルに拾われた。冷淡で容赦ない性格。実力は高く実質的にサブリーダー。 
アイオーン
男、25歳。触媒を集めるためにエトリアに来た温和な学者。体力がなく若干気が弱い。
イーシュ
男、年齢不詳(二十代)。どこのギルドにも属さずにいたが、面白そうという理由で参入する。脳天気で女たらし。
ブルーム
男、28歳。収集担当のアルバイター。普段はエトリアで教師をしている。おっさんと呼ぶと訂正してくる。
ライ
男、15歳。所属していた小悪党ギルドが壊滅し、クッククローに転がり込む。単純バカで一本気。
カリンナ
女、15歳。義父と共にエトリアにやってきた。ライとの出会いが縁で参入。内向的で感情が薄い。

キディーズ

キディを除いた全員が女性で構成されているギルド。他のギルドにくっついて探索することが多いため「コバンザメギルド」と呼ばれている。

キディ
男、十代後半。キディーズのパトロンの息子でリーダー。性根は腐っている。
ココ
女、15歳。キディの実家に仕える音楽家のタマゴ。いつもおどおどしているが、心優しい性格。
アクローネ
女、21歳。クルスの従姉で、彼を連れ戻すためやって来た。わざわざ冒険者になるほどの執念深さである。
スカーレット
女、年齢不詳。キディーズの癒し系。結婚相手を探している。 
アンジー
女、26歳。クール系に見えて中身は乙女。

ヴァルハラ

最も樹海の底に近いといわれる、実力の高いギルド。少数精鋭のため、五人以下で探索を行うことも多い。

オックス
男、年齢不詳(三十代以上)。ヴァルハラのギルドマスターで、実力はさもあらん、人格者としても知られる。
ビクトリア
女、年齢不詳。言葉はきついが、面倒見のいい姐御。オックスとは腐れ縁らしい。
チヒロ
女、20歳。流れのブシドーで、おとしやかに見えるが中身は豪胆。人を捜している。
ウィンデール
男、23歳。苦学生で、施薬院付属の医学校に通いつつ、樹海でアルバイトをしている。口が悪い。
ウルガ
男、年齢不詳。無口を通り過ぎて何も喋らない。ときたま思い出したように微笑む。

その他の人々

クッククローに関連深い人々や、街の人たち。

シェリー
女、年齢不詳。アイオーンの姉で、レオンとは旧知の仲。科学者として優秀な人材を捜して各地を旅している。
コユキ
女、年齢不詳。人を捜してエトリアにやって来た、チヒロの妹弟子。頑固。
ヨハンス
男、五十代。キタザキの友人の、各地を旅する民俗学者。この格好はコスプレ。故あってカリンナを娘として育てている。
キタザキ
男、五十代。かつては冒険者だった、施薬院の院長。アリルを育てた人物。
サクヤ
女、年齢不詳。“金鹿の酒場”の女将で、冒険者達の良き話し相手。冒険者向けの依頼の仲介も請け負っている。

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序章

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序章・前

 これは少々古い話だがね……。
 大陸の片田舎、エトリアという名の小さな街で、大地の下に広がる樹海が見つかった。
 その後エトリアを治める「執政院」は樹海探索のお触れを出して、勇気ある冒険者を集めた。
 だがその奥深くに潜り、富と名誉を手にするものは未だおらなんだ。
 誰にも真の姿を見られたことのない樹海はいつしか“世界樹の迷宮”と呼ばれるようになり、冒険者たちの恐れと憧れの象徴となっていったのさ。
 ワシも若い時分はな、ちったあ名の馳せた冒険者だったんだよ。
 だが、あの世界樹の迷宮が人々に知られるところとなった頃には、既に引退しちまっていてね。
 うん? ……そりゃあ、挑んでみたかったさ。しかしな、そんなことをついうっかり口にしちまって、婆さんがフライパン持って襲い掛かってきてからはもう、とんと考えないようにしたのさ。
 だけどよ、すっぱり諦めるっちゅうのは、無理だったんだよなあ……。
 なあ、孫よ。
 お前の親父は婆さんに似て、地に足つけたヤツだったが、お前は違う。
 お前はわしと同じだ。あの頃のわしと、同じ目をしとる。
 だからよ。お前はいつか、わしに代わってあの樹海を征服しに行くんかもしれんな。
 レオン、お前は夢を忘れるなよ……。


 気付いたら、カタコトいう馬車の足音と、それに合わせた揺れがなくなっていて。
 残っていた昼下がりの眠気を欠伸にして発散した後、レオンは上体を起こした。
 暗い赤毛の頭をがしがしと乱暴にかき混ぜると、御者席に身を乗り出す。
「おい、おっさん。もう目的地にはついたんかい?」
 御者席から覗いた向こう側には、丘を真っ直ぐ降りた道が続いている。
 その先に臨む、小さな白い街を認めて、彼は口笛を吹いた。
「もうすぐじゃねえか。何で止めるんだ?」
 眠たげな目をした、小太りの御者を見下ろす。
「何でって……あんたが渡した路銀じゃ、ここまでだよ」
「ああん?」
 彼が盛大に顔を顰めると、御者は溜息を吐いた。
「ただでさえ普通の人間が寄り付かないようなところに、わざわざ運んでやったんだよ。感謝して欲しいくらいだね」
「どうも話に聞いていたのとは違うな。あの街は、樹海探索のおかげで潤っているんじゃなかったのか?」
「そんなのは大昔の話だよ」
 御者――近くまで行くというので、乗せてもらったこの馬車の主である商人――は、再度溜息を吐きながらそう答えた。
 レオンは荷台の方に一度引っ込むと、自分の荷物と剣を持って馬車から飛び降りた。
「事情は良く分からんが、そんなら、仕方ねえな。ここからは歩いていくよ」
「そうしてくれ。お前さんの幸運を祈るよ」
「そっちもな」
 横道に逸れていく馬車に軽く手を振ると、レオンは丘を下り始めた。


 街についた頃には、既に日は暮れてしまっていた。
 エトリアという街は思っていたほど大きくなく、思っていた以上に複雑な事情を持ち合わせているようだった。
 レオンはとりあえず、これと決めた金色の鹿の看板の店へと足を踏み入れることにした。酒場のようだったからである。田舎にいたときには、酒場は情報が集まるところだと良く聞いていた。
 扉を開けた途端に、酒臭い空気がむわっと顔を撫でる。少々眉を顰めながらも、レオンは酒場の中に踏み込む。厳つい風体の戦士ばかりがひしめき合っているのかと思いきや、意外にもそこは閑散としていた。ただ、出口近いカウンターの席にいるごろつきのような男達が数人、酒の臭いを漂わせていたのと、奥の席で人目を忍ぶようにちびちびと呑んでいる男がいただけである。
「あら、あなた。見ない顔ね」
 カウンターの向こうにいた茶髪の女性が、艶やかな笑みを浮かべて話しかけてきた。店員は他にいないようなので、彼女は女将だろう。長い髪を結った、泣き黒子つきの美女である。一瞬見とれてしまったレオンは気を取り直すと、答えた。
「俺、初めてこの街に来たんで」
 女将は驚いたように目を見開いた。
「そうなの……ということは、新人冒険者くんね?」
 彼女が面白がるような目つきに変わったのを見て、レオンは辟易した。
「えーっと、まあ、そうなりますね」
 思わず敬語である。すると、すぐ側で酒を呑んでいたごろつき達が、赤ら顔を不機嫌そうにして立ち上がった。
「おおい、兄ちゃん、冒険者だって?」
「へ?」
 三人いたうちの一人が、いきなりレオンの胸倉を掴む。女将が叫んだ。
「ちょっとあんたたち、やめなさい!」
「へっ、冒険者だと! こんな、なまくら一本腰にぶら下げているだけで、剣士気取りかい」
「“世界樹の迷宮”が目当てなんだろうが、やめとけ! お前さんじゃあ、地下一階であの世いきさ!」
 下卑な笑い声が後に続く。何が何だかよく分からないレオンは、女将の怒りとごろつきの笑いの狭間で目を白黒させていた。
 と。
「地下二階から先に進めない、あんた達に比べたら見所はあると思うけど?」
 よく通る声が響いた。振り返ると、一人で飲んでいた青年が、人の良い笑みを浮かべているのが見えた。
 挑発するかのように、ウインクまで付け加えた彼に、ごろつきは茹蛸のように赤くなった。
「んだとォ!?」
「やっちまえ!!」
 止める間もなく、ごろつきが青年に突進していく。
 が、青年はそれを難なく避けた。ひらりひらりと、長い髪をまるで闘牛士の旗のように揺らめかせながら、ステップを踏む。その唇が、いつの間にか取り出した弦楽器の音色に合わせて音楽を紡いだ。
 陽気に始まった歌にごろつきの動きが変化する。つられて踊っているかのようだ―――いや、その通りなのかもしれない。彼らは自由にならない自分の体に戸惑い、真っ青になりながらも、テーブルや椅子をなぎ倒し、手足を動かし続けていた。
 ひとしきり工程を終えた後、青年は軽やかな調べと同時に歌を止めた。ごろつきの体が、糸を失ったマリオネットのように崩れ落ちる。それを見て、青年は高らかに笑った。
 ごろつきは、顔を再び赤く染め上げて、怒鳴ろうとした。しかし、青年の目つきに一瞬、怯えたような表情を見せると、慌てて立ち上がる。
「く、くそ、逃げろ!」
「てめえ、覚えてろよ!」
 三文の捨て台詞を吐いて、三人は酒場から撤退していった。
 青年はまだ笑っていたが、呆然としていたレオンの背後から聞こえてきた溜息によって、それを引っ込めた。
「全く、あなたもいい加減にして頂戴、イーシュ」
「あっはは、ごめんごめん」
 イーシュというらしい、青年は倒れた家具類を元通りに戻しながら、明るく笑った。反省の色なし。呆れる女将を尻目に、レオンもイーシュの手伝いに走った。
 レオンの行動を見て、きょとんとしたようにイーシュは目を丸くする。
 そして、すぐに微笑を浮かべると、右手を差し出してくる。
「よろしく、僕、イーシュって言うんだ。バードをやってる。君は?」
 突然のことに、今度はレオンが目を丸くした。が、レオンの右手はイーシュによって勝手に握手させられる。
「……俺は、レオン。その、バードっていうのは?」
「え? あ、そっか、君はこの街に来たばかりなんだったね」
 イーシュは手を離すと、少し考える素振りを見せた後、言った。
「バードってのは、この街の冒険者の職業の一つだよ。音楽で味方の補佐をしたり、敵の邪魔をしたりするのが役目さ」
「さっきのもそうなのか?」
「うん」
 言うと、イーシュは手元の楽器を撫でた。その拍子に弦が奏でた淡い音に、レオンが身を硬くすると、イーシュはまたからからと笑った。
「大丈夫だよ。僕がそう意図しない限りは」
「はあ」
 レオンが頭をがしがしと掻くと、女将が後ろから声をかけてきた。
「レオンくん……だったわよね、“世界樹の迷宮”に行きたいのなら、この街の冒険者ギルドに登録しないと駄目よ」
「冒険者ギルド?」
 訊き返すと、イーシュが答えた。
「“世界樹の迷宮”は入り組んだ迷路だからね。魔物もたくさん出る。危険がいっぱいだから、冒険者にも管理が必要なのさ」
 彼はレオンを通り過ぎると、店のドアを押しながら振り返った。
「冒険者ギルドは、この筋の外れにあるよ。後で行ってみると良い。じゃあ、僕はこれで」
 そう言い置いて、イーシュはさっさと出て行ってしまった。
「彼も……ギルドの冒険者なんですか?」
 女将に尋ねると、彼女は何故か渋い顔つきながら、答えた。
「ええ。この街の冒険者は、みんなそうよ―――それより、この店の惨状、どうしてくれるのかしら」
 女将のため息の先を見ると、ほとんどのテーブルや椅子は倒され、上に乗っていたはずの酒瓶やグラスは割れ、床に散乱していた。
 呑み代も払われてないし、との女将の嘆きに、レオンは苦笑いするしかなかった。


「参ったわ……あの子、どこに行ったのかしら」
 ケフト施薬院の巨大な玄関口で、きょろきょろと大通りを見渡しながら、ノアは呟いた。
 短く揃えた茶色の髪に埋もれて、切れ長の深紫の瞳が鋭い光を放っている。露出は大目だが動きやすい軽装は、武器らしきものこそないものの、彼女がこの街の冒険者であることを如実に示していた。
 既に夜はとっぷり更け、街灯の少ないエトリアは闇に浸かっている。彼女は今、数時間前に出て行ったっきり戻らない妹分の事を心配して、居候している施薬院の表に出ていた。
「ノア」
 施薬院の扉から顔を出した、白衣姿の初老の男に、ノアは眉を上げる。
「まだ、戻ってこないのか」
「ええ」
 短く答えると、ノアは視線を正面に戻す。いつも無愛想で、淡々としている彼女にしては珍しく、その横顔には不安の色が濃い。
 住み慣れた街とはいえ、冒険者の街であるエトリアはお世辞にも治安が良いとは言えない。加えて最近では、近くの国であった大きな戦争が終結したため、職にあぶれた元傭兵達が流入しているのだ。
「キタザキ先生」
「うん?」
 キタザキと呼ばれた初老の男は、ノアを見下ろした。
「私、少し捜してくるわね」
「ああ。街を一周したら、戻ってくるといい」
「そうするわ」
 同意すると、彼女は広場の方へ歩いていった。
 その背を見送りながら、キタザキはぼんやりと思い出す。そういえばノアも数年前、ちょうど戦の節目の時期に、街の入り口で倒れていたのをあの子に助けられたのだった。戦のせいか、酷い怪我を―――体にも心にも―――負っていたが、キタザキの治療やあの子の献身的な看病が功を奏し、今は施薬院の居候ながら、執政院の樹海調査員として働けるまでに回復している。
 言わば命の恩人である少女の姿が見えないと、心配で仕方がないのは当たり前かもしれない。
 キタザキはノアが去っていった方向を、じっと見つめていた。


「あー、はい、そこです。そこに名前を書いてくださいね」
 愛想の良いフロアマネージャーに従い、レオンが宿の手続きをしていると、エントランスで突然怒声が響いた。
「何度言ったら、分かるんですかっ!」
 驚いて振り返ると、旅服ながら上質そうな布製の服の男女が二人、睨み合っているのが見える。叫んだのはどうも、男の方のようだった。
「―――僕は自力で名を立てたいんです。それまで、騎士団には戻りません!」
 顔を真っ赤にして吼える男―――容姿としては少年であるが―――に、女はやれやれとかぶりを振る。
「いい加減にしなさい。お父上やお母上がどれだけ心配しているか……こんな得体の知れない連中がわんさかいる下賤な街に、高貴な生まれの貴方が馴染めるはずがないでしょう」
 住人がいる前にしての物凄い暴言だが、女は周りの視線など気に留めてもいないようだ。
「下賤、下賤って……いい加減にしてください、アクローネ。とにかく、僕は騎士団には戻りませんから!」
 少年はそう叫ぶと、女の手を振り切り、外に飛び出していった。
「あ……クルス、ちょっと待ちなさい!」
 うるさいのがいなくなった、と思ってレオンは小さく嘆息する。すると聞かれていたのか、取り残された女はきっとこちらを一瞥した後、少年を追っていった。
「俺に八つ当たりすんなよ……」
「あ、お客さん。職業のところが無記入ですよ」
「うん?」
 こんなことは日常茶飯事なのか、冷静に用紙を確認していたフロアマネージャーがレオンに示した欄は、確かに空白だった。
「職業って……確か、バードとかどうとか言うアレか……」
「お客さん、ひょっとして冒険者ギルドに登録してないんですか?」
 目を丸くした(といっても糸目なのでよく分からないが)フロアマネージャーの一言に、レオンは頷く。
 と、彼は満面の笑みを浮かべ、用紙を突き返してきた。
 唖然としてそれを受け取るレオンに、綽々と告げる。
「うちは冒険者専門の宿なんですよ。申し訳ありませんが、ギルドで登録してからもう一度お越し下さい」


 それは酷く入り組んだ道の先に、ひっそりと佇んでいた。
「ううう……」
 入り口の前でたむろする、冒険者たち。お世辞にも人相が良いとは言えない風体である。
 アリルは歩を進めることを躊躇っている。彼女は随分長いことこのまま、ぎゅっと自分の白衣の裾を握り締めていた。あのぎらついた目が自分に気付いたら、と考えるだけで胃が痛む。一歩出て、一歩戻っての繰り返し。埒が明かないことは分かっているのだが。
 アリルは自分の両頬を叩いた。いけない。こんなことではいけない。なんてったって、自分はあの“樹海”に踏み入る必要があるのだ。少々怖い人たちがいるからといって、建物一つに入れないくらいでどうする。
 大丈夫だ。いや、でも、怖い―――そうだ!
 名案を思いついたアリルは、ぎゅっと目を瞑ると、敢然として歩き出した。そう、怖いのならば見なければいいのだ。見えなければ怖くない―――
 徐々に早足になり、最終的に駆け足になった彼女は、突進してきた少女に驚いた冒険者たちがさっと身を引いたために、冒険者ギルドの木製の扉に顔面から激突する羽目になったのだった。


 さて、困ったことになった。
 アイオーンは周囲を見渡すと、深々と溜息をついた。
 冒険者の集まる街だと聞いたから、物資も豊かだろうと思ったのに。丸テーブルの上に置かれた、大小様々な赤い石の欠片を見下ろす。これしきの触媒では、肉を焼くことすら難しい。
 そう、アイオーンはアルケミスト―――錬金術師なのだ。炉に入れた触媒を基にして、術式を起動させる。科学者である彼が、何故こんな田舎の冒険者ギルドなどに入り浸っているのかには、勿論理由があった。
 この辺りは平和なようだが、周辺諸国ではこのところ戦争が頻発している。どこもかしこも物資不足なのだ。なんとか師匠のつてを利用して必要品を集めていたのだが、彼も死んでしまった今、もはや何ともなりようがない。それで、アイオーンは意を決して自ら触媒集めの旅に出たのだった。
 だがそれも出鼻から挫かれたような予感がする。たったこれだけの触媒を集めるのに、今日一日でどれだけの労力と金を使ったか。お世辞にも研究が進んでいると言い難いアイオーンには、スポンサーなどいない。師匠は偉大な人だったが、貧乏まで伝授してくれる必要はなかったと思う。
 誰かが喚く声がして、目の前にあった入り口の扉が開く。どやどやと駆け込んできた複数の人影に、アイオーンは目を遣った。子供が二人と、人相の悪い冒険者風の男達が三人。金髪に育ちの良さそうな格好をした少年が、白衣に着られた少女を背に庇い、冒険者たちと睨み合っている。
 アイオーンの机の正面で、何やら一悶着起きそうな模様である。

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序章・後

 執政院を通り過ぎ、樹海の入り口の前に来てもまだ、少女は見つからなかった。
「どこに行ったのかしら……」
 樹海守りの衛兵に聞いても、それらしき少女は見ていないと言う。ノアは仕方なく踵を返すと、執政院の前を再び通り過ぎようとして―――足を止めた。
「あの子、もしかして……」
 一つの可能性に思い至り、ノアは眉を顰める。
「あのー」
 そこに声をかけてきた者がいた。
 ノアが振り返ると、旅服装の男が長身を折り曲げて立っていた。
「何か?」
 武装をしていることから明らかに冒険者然としている男だったが、見ない顔だ。ノアが少し警戒しながら立ち位置を変えると、男は赤毛の頭を掻きつつ、至極申し訳なさそうにこう続けた。
「冒険者ギルドって、どこにあるんですかね?」


「おいおい、ガキんちょが来ていいところじゃねえぜ、ここは」
 周囲に視線を巡らせて、鼻に傷のある男が嘲笑うように言った。
 彼の仲間である頬傷の男が、拳を振りながら後を続けた。
「お前さんじゃ、どう考えても役不足だ。諦めな」
 そう言われた金髪の少年は、殴られた頬を押さえながら、倒れこんだ床の上で悔しげに頬傷の男を見上げた。その傍らに、庇われた少女が慌てて屈みこむ。
「大丈夫ですか!? あの、血……」
 唇に血が滲んでいるのを見て、少女は真っ青になる。しかし、少年は彼女を自分の後ろに押しやっただけで、黙ってよろよろと立ち上がった。
 その様子を見て、額に傷のある男が嗤う。二人の仲間も、それにつられて声を立てた。
 アイオーンはこの剣呑な雰囲気の喧嘩劇を、ぼんやりと眺めていた。実際、少年が倒れこんだのはアイオーンが触媒を並べていた机で、その机は今上のものを盛大に飛び散らせた後、横倒れになってしまっている。椅子だけになってしまった自分の席で、アイオーンはどう動こうかと迷っていた。
 すると、鼻傷の男が再び少年を殴り倒した。小さく悲鳴を上げた少女の腕を、いつの間にか回りこんでいた額傷の男が、突然捩じり上げる。
「痛っ!」
「や、やめろ!」
 少年が叫ぶ。アイオーンも流石に眉を顰めた。身じろぎする少年に、頬傷の男が更に圧し掛かる。
 抵抗する少女を押さえつけようとする額傷の男を目の前にして、アイオーンは椅子から立ち上がり、手を伸ばした。
「よせ。子供相手に、それは―――」
 と、アイオーンが言いかけた瞬間。


 勢いよく開いた扉が、物凄い音を立てて何かにぶつかった。
「うん?」
 レオンは踏み込んだ室内を、訝しげに見遣る。
 と、なにやらおかしな光景が、そこには広がっていた。
 馬乗りの姿勢になっている男、その下敷きになっているのは先程宿で見た少年。額に傷がある男に腕を捻られている女の子の後ろに、ぼさぼさの黒い長髪の男が突っ立っている。
 その全員が、目を真ん丸にして、レオンを見ていた。
 否。その先。
 扉に顔面をぶつけられた鼻傷の男が、白目を剥いてへなへなと床に崩れ落ちた。
「あっ、ごめん」
「てっめええええ!!!」
 少年を押し倒していた頬傷の男が、一瞬で顔を茹で上げ、殴りかかってくる。
「うおお」
 その形相に驚いたレオンが慌てて扉を閉めると、その向こう側でまた鈍い音がした。
「ちょっと。中で何をしているの?」
 道案内をしてくれた女性が、異変に気付いて声をかけてくる。
「今は入らない方が良さそうだぜ」
 首だけで振り向いてそう答えると、レオンは再び扉を開け、素早く中に入り込んだ。勿論、女性が何か言ってくる前に、扉は閉めておく。
「てえええめええええ……」
 真っ赤になった右手を振っていた頬傷の男が、涙目でレオンを睨む。
「すまん、悪気はなかったんだ。許してくれ」
「許せるかあああ!!」
 やはり単調に振り上げられた拳を、レオンはひょいと避ける。その際、意図なく出してあったレオンの右足に、男が引っかかった。
「あ」
 男はそのままの勢いで壁に顔面から衝突し、撃沈した。
「うわ、ホントごめん」
「お、お前、さっきイーシュと一緒にいた野郎かっ!」
 ただ一人残った額傷の男が、裏返った声で叫ぶ。レオンがそちらを向くと、彼はびくりと体を反らせ、慌てて腰の後ろに手を遣った。
「う、動くな!」
「きゃっ……」
 額傷の男は白衣の少女の腕を後ろ手に掴み上げると、抜いた短剣をその首筋に押し当てた。
「あらら」
 酷く興奮した様子の彼に、レオンはぽかんと口を開いた。
「来るなよ……く、来るな」
 男はうわ言のように繰り返しながら、威嚇するように短剣をレオンに向ける。
 と。
 ごす、と鈍い音がした。
 額傷の男はそのままの姿勢で、真横に倒れていく。その手から逃れた少女が、転倒に巻き込まれる前に慌てて飛びのいた。
「近所迷惑だ。大人しくしていろ」
 最後の荒くれの影から現れた長い黒髪の男が、手に大きな赤い石を掲げた状態で渋面を作った。
 場に、一瞬の静寂が戻ってくる。荒くれ者は三人とも、床にのびてしまったようだ。
「やるねえ」
 レオンが口笛を吹くと、黒髪の男の表情がふっと緩む。
「そちらこそ」
「あの、大丈夫ですかっ」
 少女の声に、二人は足元を見下ろした。屈みこんだ少女の隣に、金髪の少年が疲れた様子で壁にもたれかかっている。赤く腫れあがっているその頬に手を当て、少女は肩から提げた大きな鞄をごそごそと探る。やがて取り出した布切れのようなものを、少年の顔に押し当てた。
「手酷くやられたな」
 正面にしゃがみ込んで、レオンは少年に話しかける。
「さっき、宿にいらした方ですね。……すみません、助けていただいて」
「いや、俺何もしてないし」
 レオンがそう答えると、少年は僅かに動く様子の口角を上げた。
「アリル!」
 入り口の扉が開く音に続いて、そんな声が響く。振り返ると、道案内をしてくれた女性が目を見開いて立っていた。
「ノアさん……」
 少年の手当てを終えた少女もまた、驚いたように目を丸くする。
「どこに行ったのかと思えば……やっぱり、ここにいたのね」
「ごめんなさい。私……」
 どうやら、二人は知り合いらしい。会話を続ける二人を尻目に、レオンが少年を引っ張って立ち上がらせたところで、ギルドの奥から壮年の男性が、太い笑みを浮かべながら近づいてきたのが見えた。
「なかなかやるな、お前さんたち。見事な連係プレーだったぜ」
「偶然だけどな」
「いやいや」
 男は部下に荒くれどもを何処かへ連れて行くように指示すると、じっとレオンの顔を覗き込んだ。
「な、何だよ」
 レオンが一歩引くと、彼は愉快そうに笑った。
「いい目をしている。見ない顔だが、エトリアは初めてか?」
「え? あ、ああ」
「ふうん……だがここに来たってことは、“世界樹の迷宮”に挑戦しようって腹なんだろう」
「まあ一応、そうだが……おっさん、一体何者だよ?」
「おっと。そうだったな……俺はガンリュー。冒険者ギルドの支配人みたいなもんさ」
 ガンリューはそう言うと、右手を差し出す。条件反射的にレオンが握り返そうとすると、彼はにっと笑い、レオンの手首をがっちりと掴んだ。
「へっ?」
「よーしよし、じゃあ早速登録からだな」
 ガンリューはレオンの手を握ったまま、もう片方の手で黒髪の男を指差した。
「おい、そこのロン毛の兄ちゃん」
「俺のことか?」
 続いて、少年を指す。
「んで金髪の小僧」
「クルスです」
 不愉快そうに少年は眉を顰めるが、ガンリューは気にしない。
「それから……」
 彼は入り口の方に目をやると、少女と道案内の女性を手招きした。
「施薬院の嬢ちゃんに、調査隊の……たしか、ノアだったかな。あんたらもだ」
「へっ……?」
 娘二人が顔を見合わせる。
 ガンリューは踵を返すと、レオンを引きずったまま、ずんずんと奥まで進んでいく。指名された四人は訝しげな表情ながら、その後についていった。


 やがて何かの受付のようなところにまで連れて行かれると、ガンリューはようやくレオンの手を放して、カウンターの向こうに回りこんだ。
 彼はペンを手に取ると、その先を黒髪の男に示した。
「さて、そこのロン毛の兄ちゃん。あんたの名前は?」
「アイオーンだ」
「職業は……お、その石ころは見るからに、錬金術の触媒だな?」
 アイオーンと名乗った男が手にしていた大きな赤い石(さっき荒くれを殴ったもの)を見て、ガンリューは言う。
「よく知っているな。その通りだ」
「ん、それを持ってるって事は、アルケミストだな」
 紙に何某か書き込むと、次にガンリューは金髪の少年に視線をやる。
「クルス、だっけな。職業は?」
「一応騎士ですが……」
「パラディン……っと。よし、そこの嬢ちゃん。名前は何だ?」
 少女は目を丸くすると、自分を指差した。
「私? アリルですけど」
「職業は聞かずもがな、メディックだな」
「ちょっと……」
 その隣に立っていた女性が、眉を顰める。何かを咎めようとしているようだったが、その唇が次の言葉を紡ぐより早く、ガンリューが畳み掛ける。
「確か、ノアだったな。あんたが戦っているところは見たことがある。職業はレンジャーで決まりと」
 ノアは額に手を乗せると、深々と溜息をついた。どうも、文句を言うのは諦めたらしい。
 ガンリューは最後にレオンの方を向くと、こう訊いてきた。
「あんた、名前は?」
「レオン」
「よし、レオン。あんた、見るからに戦士だが、その剣は本物だろうな?」
 レオンの腰にぶら下がる長剣を指して、ガンリューは尋ねる。
「当たり前だ。どこの世界に、ニセモンの剣で旅する馬鹿がいる」
「よし、じゃあソードマンで決まりだな」
 ガンリューは手元の書類にぽんぽんと判子を押していくと、顔を上げた。
「これで、あんた達は全員エトリアの冒険者だ」
「はい?」
 五人の目が丸くなる。
「登録は完了したと言ったんだ。本当は登録にゃいくらか金がいるんだがな。俺が気に入った連中はサービスでタダになる。良かったな」
 元より登録するつもりで来たレオンは、へえ、と素直に呟いた。他の面々、特に事情を知っていたらしいノアからは抗議の声が上がると思いきや、四人とも何故かあっさり納得した様子で頷いている。
「あとは、ギルドを適当に組んでくれ。ギルドに所属すれば、とりあえず樹海の中に入る許可は出る」
 淡々と続けるガンリューに、レオンは尋ねた。
「それって、入れるギルドを探さないといけないってことか?」
「いや、自分で作ることも出来るぜ」
 にやりと笑うと、ガンリューは続けた。
「……最近は、新人を受け入れるギルドも少なくなってきたしな。ま。目の前の小銭ばっか拾ってるようなしみったれた連中についていくよりは、根性があるうちに自力でギルドを立ち上げた方が、よっぽど将来性があるってもんだ」
「んじゃ、俺作るわ」
 迷いもせずそう言い切ったレオンに、ガンリューは眉を上げた。
「おいおい。一応、少しは悩めよ」
「何でだよ。オッサンが作れって言ったんじゃねーか」
「そりゃそうだが……」
「ぼ、僕も!」
 二人の会話に割り込むように、クルスというらしい金髪の少年が挙手した。
「僕も、ギルドを作ってもいいですか?」
「あの、私も……」
「アリル!?」
 続いて少女が挙手したので、ノアが彼女を睨みつけるように見た。
「何を考えているの?」
「だ、だって……私、あの男の子に、薬の材料を集めてあげるって約束したから……樹海に潜らないといけないんです。もう決めたの。止めたって無駄ですから!」
 きっとノアを見つめ返すアリル。その意外な申し出に、ガンリューは目を丸くしていたが、すぐに壮健な笑顔に戻ると、言った。
「別に構わんが、それなら別々のギルドを作るよりも、あんたらで組んだ方が早いと思うぜ」
「え」
 レオンは思わず、クルスと顔を見合わせた。
「そう思って、一緒に声をかけたんだ。面白そうな連中だったしな。どうだ? 少なくとも、仲間を集める手間は省けるぜ」
 レオンは頭を掻くと、ぼそりと呟く。
「んー……まあ、俺はいいけど」
「僕もです。いえ、むしろよろしくお願いします」
「わ、私も!」
 アリルはノアを振り切るようにレオンの方を向くと、頭を下げた。
「アリルです。施薬院の見習いメディックをやってます。よろしくお願いします!」
「ああ……もう」
 その後ろで頭を抱えていたノアが嘆く。
「分かったわ。ただし、私も一緒に入らせてもらうわよ」
「えっ、本当!?」
 アリルが嬉しそうな声を上げる。ノアは表情をふっと緩めた後、顔を引き締めてレオンを見た。
「そういうことだけど。いいかしら?」
「あ、ああ」
 明らかにギャップのある雰囲気に蹴落とされて、レオンはこくこくと頷く。
 そして、ぼんやりと立っていた黒髪の男―――アイオーンに声をかけた。
「あんたはどうする?」
「俺も入れてくれるのか?」
「あんたがいいならな」
 アイオーンは少しだけ考えた後、こう答えた。
「確かに、君達といれば退屈はしなさそうだ」
「決まりだな」
 ガンリューは上機嫌に頷くと、一枚の紙をレオンに差し出した。
「ここに、ギルドの名前とメンバーの名前を書いて、俺に渡してくれ。今日は馬鹿が暴れた後片付けのせいで、残念ながらもう店仕舞いなんでな。明日の朝にでもまた来てくれよ」
「分かった。……ところで」
「うん?」
 訝しそうな顔のガンリュー。レオンはカウンターに身を乗り出すと、真剣な顔で尋ねた。
「冒険者登録が済んだってことは、もう宿には泊まれるんだよな?」
 一瞬の空白後。
 その場にいた全員に爆笑されたことは、言うまでもない。


 施薬院の前で待っていたキタザキを目にして、アリルは大きく手を振りながら駆け出した。
 ノアが彼女に追いついたところで、アリルは満面の笑みでこう告げる。
「先生聞いて! 私、冒険者になったの!」
「……何だと?」
 キタザキは目を丸くすると、説明を求めるようにノアを見遣った。
 彼女はいつも通り無愛想な顔で、小さく肩を竦めただけだった。


「だから、通しなさいと言っているでしょう!」
 宿のフロアマネージャーに詰め寄る女は、鬼のごとく形相で叫んだ。
「で、ですからこの宿は、冒険者の方でないとお泊め出来ないんですよ」
「泊めろと言っているんじゃないの! 通せと言っているの、私は!」
 長く美しい金髪を振り乱す彼女は、宿の奥へと続く廊下を睨みつけ、絶叫する。
「クルスーーーー!!! 出てきなさあーーーーい!」
 結局宿泊客からの苦情で、アクローネは宿から追い出されてしまった。


「すっごいな、お前の姉ちゃん」
「姉じゃありません……あの人は僕の従姉です」
 二階の室内にも響いてくる怒声に、クルスは恥ずかしそうに頬を染めた。
「似たようなもんじゃねーか。ま、それより……」
 ベッドから起き上がると、レオンはガンリューから受け取った用紙を振った。
「ギルドの名前だってよ。どうする?」
「貴方が決めてくださいよ。リーダーなんですから」
 心なしか恨めしそうな顔で、隣のベッドに座っているクルスがレオンを見上げる。レオンは眉を顰めた。
「リーダーっつったって、じゃんけんで決めた肩書きじゃねーか」
 用紙には、メンバー表の横に『リーダー』『サブリーダー』などの細かい備考欄があった。
「小学生の班決めかよ……」
「マッパーの俺よりましだと思うが……」
 暗い声で、クルスの向こう側のベッドに腰掛けていたアイオーンが呟く。マッパーとは、樹海の地図作成担当者のことを指すのだとノアが教えてくれた。言わば外れくじである。しかし、もし自分がこんな面倒くさそう役職に決まっていたら、開始早々失踪していたかもしれない、とレオンは思う。
「つか、あの女の子がサブリーダーって、大丈夫か?」
 あどけない少女の笑顔を思い浮かべ、レオンは呟いた。アリルとノアは施薬院という、この街の医療施設に住んでいるらしく、男性陣とは途中で別れて帰っていった。
「リーダーがサブリーダー分働けばいいだけの話ですよ」
「お前、さっきからやけに突っかかるな……」
 クルスはそれには答えず、溜息一つ、ベッドに転がった。すぐに寝息が聞こえてくる。聞いた話によれば彼も、エトリアには今日着いたばかりらしい。遠路はるばるやって来た街で少々手荒な歓迎を受けて、疲れたのかもしれない。
 気付けば、その向こうにいるはずのアイオーンも静かになっていた。こちらは研究に必要な物質を集めに来たと聞いたが、樹海に潜る人間としては、どうも目的はそれだけでないような気がしてならない。
 まあ、そんなことはどうだっていいのだが。
 レオンはランプの灯りを消すと、真っ暗になった部屋で自分のベッドに横たわった。
 今考えるべきは、唯一つ。
 ギルドの名前を何にするか、だけだ。

 寝付けないまま、いつしか時間は過ぎ。
 レオンが耳にしたのは、朝を告げる鶏の高い鳴き声だった。

―――ネーミングセンスのない男にリーダーを押し付けたのが、クッククロー・ギルド最大の悲劇だったかもしれない。


▲[序章・後]一番上へ▲

第一階層

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B1F

 世界樹の迷宮。
 発見されて以降、数多の冒険者を誘い入れ、幾多の人々に利益をもたらし、多くの命が散っていった樹海はいつしかそう呼ばれるようになっていった。
 その第一階層として広がるのは、太陽の届かぬ地下にもかかわらず、一面緑に覆われた“翠緑ノ樹海”である。地上とは似て非なる樹木を目の当たりにしながらも、通常の森にはあり得ない草の絨毯に、冒険者達は最初の一歩を踏み出すのだ。
「へえ……」
 眼前に広がる緑の世界に、クルスは感嘆の吐息を漏らした。
「これが樹海……」
「すごいところですね」
 彼と同じように辺りを見渡しながら、アリルが呟く。
「あれ、アリルさんも樹海に入るのは初めてなんですか?」
「ええ。先生が許してくれなくって……」
「先生?」
 俯いていたアリルが、はっと顔を上げた。
「あ、えっと、施薬院のキタザキ先生です」
「ああ、院長先生ですか。あの、優しそうな方ですね」
 そうクルスが微笑みかけると、アリルにも花のような笑顔が咲いた。
「そうです。捨て子だった私を拾って育ててくれた、私のお父さんみたいな人なんです」


 ほのぼのとした空気を漂わせている二人をよそに、レオンは剣を抜いた状態で先頭を進んでいた。
「そんなに警戒しなくても大丈夫よ」
 魔物がいれば分かるわ、と続けて、ノアがポケットから懐中時計のようなものを取り出す。それを目ざとく見つけたアイオーンが首を傾げた。
「何だ、それは」
「エネミーアピアランスよ。見る?」
 手渡されたそれは、液体を込めた水晶を中央に嵌めた、ネックレスのような形状をした物だった。水晶の色が緑から黄に変わったのを見て、アイオーンはぎょっとする。
「色が変わったぞ」
「魔物の気配を察知して、変色するらしいわ。安全なときは青、もっとも危険なときは赤、という具合に」
「ほう……どのような仕組みになっているのか、興味が湧くな」
 物珍しげにあちこちを眺めるアイオーンに、ノアは眉を顰める。
「分解しないでね。高いんだから」
「おい」
 レオンの声に、一同は正面を向く。
 彼はすぐ近くの低木を指して、振り返っていた。
「―――敵だ。くるぞ」
「……何もいないじゃない」
 訝しげに目を凝らしたノアがそう呟いた刹那。
 低木の根元から、複数の魔物が飛び出してきた。


「人間エネミーアピアランス……」
 見かけによらず凶暴な土竜を何とか撃退した後、五人は荒れた息を落ち着けていた。
「要らないんじゃないか、これ」
 ノアの呟きに対し、アイオーンがまだ手に持っていたエネミーアピアランスを掲げる。ノアは無言でそれを奪い返すと、乱暴に仕舞いこんだ。
「意外と可愛らしいもんだな」
 魔物の骸を検分していたレオンの一言に、ノアは渋面を作る。
「可愛い? 何が」
「いや、樹海って言うんだから、もっとゲテモノみたいな魔物が出てくるのかと思ってたんだけどさ。さっきから見るのはモグラとか蝶々とかの変種ばかりじゃないか」
「人間に襲い掛かってくる時点で、十分だと思いますけど……」
 アリルの手当てを受けていたクルスが苦笑いする。ノアも呆れた様子で頷いた。
「少なくとも、擦り傷だらけになりながら言う事じゃないわね」
「う、うるせえ」
 彼女の視線の先、軽い裂傷を負っていた右手を振ると、いつの間にかアリルが包帯を片手に寄り添っていた。
 その真剣な目に、レオンは大人しくしゃがみ込むと腕を差し出した。
「得体の知れねー魔物よか、人間を相手にする方が得意なんだよ、俺は」
 そっぽを向いてぶつぶつと呟くレオン。彼が素直に治療されている間、周囲を検分していたアイオーンがふと言った。
「それにしても、樹海というのは不思議な場所だな」
 五人がいる空間は、木々に覆われた小部屋のようになっていた。冒険者達によって踏み固められたにしても、それ以前に恐ろしいほど整頓されている迷路は、まるで人智を越えた力が生み出したもののようにすら思える。
「この樹海の……底を見た人はいないのでしたね」
「底なんてあるのかね?」
 何気なく発された一言に、クルスはむっとして振り返る。すると、その視線に弁解するようにレオンは続けた。
「誰も辿り着いてないんだろ? それこそ夢物語な気もするけどなあ」
「……ないと困ります。僕の目標は、樹海の底に到達することですから」
 そう言うと、クルスはレオンの傍らに腰を下ろす。レオンは首を傾げた。
「底が目標?」
「そうです。僕は、自力で名声を得るために、世界樹の迷宮へ来たんです」
「あー、そんな事言ってたなあ」
 初めて会った時の、宿屋で従姉と言い争っていた場面を思い出してレオンは手を打った。
「いいとこのぼっちゃんなんだよな、確か」
「……事実ですけど、その言い方は止めてもらえますか……」
 何故か余計に暗くなったクルスを無視して、レオンは治療を終えて後始末をしていた少女に向き直った。
「嬢ちゃんは?」
「えっ?」
 話しかけられると思っていなかったのか、アリルは目を白黒させた。
「樹海に潜ろうと思った理由だよ。ずっと施薬院で暮らしているんだろ? 何で今になって……」
 わざわざ冒険者になってまで、迷宮に挑戦しようと思ったのか。レオンが皆まで言う前に、明後日の方向を向いていたアリルは照れているような小声で答えた。
「その……施薬院に来られる患者さんは、冒険者の方だけでなくて一般の方も多いんですけど、中には難病を患っていらっしゃる方もいるんです。施薬院のお薬は普通の医院では扱っていないような、樹海から取った材料を使って調合しているものもあって、病気を治せないまでも、症状を軽くしたり進行を抑えたりできるんですけど……最近、薬の材料の在庫が尽きてしまって。調達をお願いしていた冒険者の方たちによると、材料の取れる場所の付近に恐ろしい魔物が住み着いてしまったんだとか」
「で、そいつらは魔物が怖くてそこまで行けないと」
 ずばりとレオンが言うと、アリルは少し頬を引きつらせた。
「そ、そう……ですけど。もう少し言い方が……」
「んで?」
「え、は、はい。えっと、もう薬の残りも少ないんです。けれど、いつ魔物がいなくなって、材料が手に入るようになるのかも見当がつかないので……私……」
 アリルは尻すぼみに言うと、顔を伏せてしまう。
 つまり、彼女は他人任せに出来なくなったのだ。自力で材料を取りに行く決心をして、樹海に足を踏み入れたのだろう。
 しかし、彼女の傍らに立っていたノアが冷たく言い放つ。
「自分の身を守る力すらないくせにね。キタザキ先生に心配ばかりかけるんだから」
「う……」
「そう言うあんたはどうなんだよ?」
 レオンが見上げて尋ねると、ノアは肩を竦めた。
「私? その子のお守りよ」
 あっさりと言われ、アリルは更に落ち込んだように頭を下げた。
 気まずい沈黙。レオンは頬を掻くと、まだ辺りをうろついているアイオーンに声をかけた。
「あんたは、錬金術の材料かなんかを探してるんだよな?」
「触媒だ。だが、ここには色々と探究心を刺激されるようなものが多くていいな。実に楽しい」
 そう言いつつも、アイオーンの無表情に変化はない。レオンは引きつった笑みを浮かべた。
「ところで、君は?」
「俺?」
「そう。どうしてエトリアに来たのか」
 思いも寄らない切り返しをされて、レオンは首を捻る。
「そう言えばそうですね」
「一人だけ理由が不透明よね」
「おいおい……」
 気付けば、四人とも不思議そうな顔をしている。
「ああ、言えないというのなら無理には訊かないが」
「特に理由はねえなあ」
 アイオーンの言葉と、レオンの返答が重なった。
 しかし、理由はない、の一言に、一瞬の空白を経て四人全員の目が丸くなる。
「理由もなく樹海に来たんですか!? 富や名声を求めてでもなくて!?」
「呆れた。そんなに命が惜しくないの?」
「変わった奴だな……」
 矢継ぎ早に浴びせられた言葉に、レオンは顔を顰める。
「何だよ、別にいいじゃねえか」
 と、アリルがぽんと手を打った。
「あ、分かった」
「何が」
 不貞腐れるレオンに、アリルは満面の笑みを浮かべる。
「“そこに樹海があるから”ってやつですよね!」
「……いや、それはちょっと違うが……」
「少なくとも、夢や希望を持って来たわけではないということね」
 ノアにそう括られ、レオンは絶句する。
「―――休憩はここまでにして、そろそろ行きましょうか」
 あっさりと話題転換をして発されたその一言に、全員無言で同意し、立ち上がった。

―――背後に忍び寄る毒アゲハの群れに、最初に気付いたのは誰だったのか。

▲[B1F]一番上へ▲ ▼[B2F]一番下へ▼

B2F

 樹海探索に必要な薬の調達は、ここにすむ女性陣がしてくれている。
 もとより、薬やら治療やらといったものとはあまり縁がないレオンには、病院に行く機会自体が少ない。
 だからこの、彼が施薬院で院長とばったり鉢合わせするというシチュエーションは、かなり珍しいと言えるだろう。
 キタザキ、といったか。初老の頃に見える院長は、眼鏡の奥の目を品定めするように光らせていた。
「君が、クッククロー・ギルドのリーダー、レオンか」
「よくご存知で」
 茶化し気味に返すと、ぎろりと睨まれる。
「ここの院長の、キタザキだ。アリルが世話になっているね」
 全然そう思っていない口調で、キタザキは呟いた。握手の手を差し出されたので、恐る恐る掌を軽く添えると、目の前の白髪頭が嘘であるような力が返ってくる。
「いででで!」
「聞いていると思うが……」
 キタザキはさっと手を引っ込めると、眼鏡を押し上げた。
「―――あの子は私が育てた子だ」
「……だから?」
「血の繋がりはないとはいえ、大切な娘だ。その子にもし何かあったら……」
 猛禽を思わせる目がレオンを向いた。レオンは息を呑んだが、この緊迫した空気に耐えかねて叫ぶ。
「分かってるよ! つか、そんなに心配なら樹海になんか出さなきゃいいだろ!」
「……あの子は、言い出したら聞かない子でね」
 ふと眼差しを和らげて、キタザキは深々と嘆息する。
「―――世間知らずもあいまって、自力で何とかするつもりなのだよ。ああ、優しい子に育ってくれたのは嬉しいのだが……」
 キタザキの独白のような呟きに、レオンは頬を引きつらせたまま、小声で漏らす。
「ようするに、娘の我侭を止められなかっただけじゃねーか」
「何か言ったかね?」
「いーえ」
 レオンは引きつり笑いを継続させつつ、数歩ずつ後ずさっていく。
 その距離を、キタザキが一足飛びで詰めてきた。
「とにかく」
「うわっ、びっくりした」
「……お前さん達はまだ発足したばかりの新人ギルドだ。急いては事を仕損じるというからな。ゆっくり、落ち着いて先に進むといい」
 意外とまともなアドバイスに、レオンはこくこくと頷く。
 そのまま回れ右をして立ち去ろうとした刹那、再びキタザキの眼鏡が怪しげに光った。
「アリルのことは、くれぐれも、よろしく頼んだぞ」
 子を思う親の迫力に、レオンは笑うしかなかった。

▲[B2F]一番上へ▲ ▼[B3F]一番下へ▼

B3F

 必死に走っていたクッククローの五人は、転がるように横道へ逃れた。
 背後を追いかけてきていたカマキリに似た魔物は、彼らの姿を見失ったのか、その場でぴたりと立ち止まる。
「ふー……」
 一歩ずつ慎重に後ずさり、魔物が追ってこないことを確認した後、レオンは深々と溜息を吐いた。
「前言撤回するよ。確かにあんなのがいたんじゃ、気軽に採集なんて出来ないな」
「そうですね……」
 真っ青な顔で、アリルが同意する。彼女は薬の材料を手に入れるため樹海に潜ったのだが、その道筋には熟練の冒険者も恐れをなす魔物が住んでいるという話だった。
 しかし、肝を冷やす面々を前にして、ノア一人だけが涼しい顔をしていた。
「行く手を阻んでいる魔物というのは、あの蟷螂ではないわよ」
「え?」
 目を丸くしたレオンに、ノアは暗闇を顎でしゃくった。
「詳しい話は、彼女達がしてくれるんじゃない?」
 よくよく見ると、その視線の先の扉の前には、二人分の人影があった。


「封鎖ァ?」
 素っ頓狂な声を上げたレオンに、執政院の情報室長は苦笑いを浮かべた。
 続きの間への扉にいた二人組の冒険者は、“執政院に確認を取れ”の一点張りで、先に通してはくれなかった。仕方なく街に戻り、執政院に問い合わせたところ、あの扉の先の道は現在封鎖されてしまっていると言うのだ。
「参ったな……」
「あ、あの、どうしても通行許可をいただくことは出来ないんですか?」
 レオンの隣から、アリルが困り顔で尋ねる。情報室長は、ずれた眼鏡を押し上げると、何処と無く言い辛そうに答えた。
「出せないことはないのだが。……君達は冒険者だね?」
「はい」
「ならば、これを受理したまえ。全冒険者に対して、執政院から発動された任務だ」
 レオンは情報室長が差し出した羊皮紙を取り上げ、文面を目で追った―――が、すぐにアリルに手渡してしまう。
「悪い、俺にも分かるように要約してくれ」
「あ、はい」
 アリルは羊皮紙に目を落とす。その文章は、文官がよく使う類の硬い文語で書かれてあった。レオンが文字を読んでいる場面は何度か見たことがあるので、読めないのではなく単に読むのが面倒なのだろうと、アリルは胸中で溜息を吐く。
「えーっと……下層における魔物の……此度の発令に至った次第であり……ふむふむ」
 アリルはぶつぶつと呟き終えると、ぱっと顔を上げた。
「―――つまり、採集場までの道を塞いでいる魔物を、一掃しろってことみたいです」
「分かりやすいな。つか、一掃ってことは複数いるのか」
 レオンの言葉に、情報室長が頷く。
「地下三階から五階にかけては、魔物の狼の群れが生息している。だが最近、その群れを操る、強い魔物が現れたようなのだ。今回の任務は、その群れのリーダーである魔物の討伐が最終目的になる」
「こんなもん、わざわざ冒険者に任せないでも、執政院でなんとか出来ないのか?」
 レオンがそう言うと、情報室長は小さく肩を竦めた。
「魔物の群れは、種別によっても複数あってね。狼のグループに触発されて、他のグループの動きも活発になりつつある。執政院の兵士は、それらが街にまで上がってこないよう押し留めるのに必死だ。勿論、我々にも切り札というべき、凄腕の実力者はいるが、彼女達には今回、冒険者達のサポートに回るように頼んでおいた。そちらの方が、若い冒険者達には良い経験になるだろう」
「サポートしてくれる……って、ああ、あの扉の前で会った二人か」
「レンとツスクルよ」
 レオンの後ろに立っていたノアが補足する。
「―――彼女達の助力が得られるなら、心強いわね」
「そんなに凄い人達なのですか?」
 滅多にないノアの言いように、クルスが目を丸くする。
「この街の冒険者の中で、最も樹海の底に近いと言われているわね」
「へえ……」
「ま、何にせよ、それを受けないと先には進めないんだよな?」
 情報室長は首肯する。レオンは背後を振り仰ぐと、言った。
「というわけで、受けるぜ」
「どうぞ」
「構わん」
「いいですよ」
 ノアたちの同意を得て、レオンは羊皮紙を持ったままのアリルに向き直る。
「アリル」
「はいっ」
 アリルはどこからともなく取り出した筆を走らせると、ぴっと紙を情報室長に差し出した。
「お願いします!」
「……確かに」
 彼女のサインを確認し、彼は羊皮紙の上に判を押す。
 五人の顔を見渡すと、情報室長は再び眼鏡に指をかけ、微笑んだ。
「君達の活躍に期待している。頑張ってくれたまえ、クッククローの諸君」

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B4F

「うおー、なんか大量にいやがる」
 暗闇の中、立ち止まったレオンが顔をしかめて呟いた。
「何か見えるんですか?」
 その後ろから顔を出したアリルは、レオンの視線の先を見渡す。が、薄暗い樹海の奥を見出せるほどの視力は、彼女には無かった。
「こいつらが、執政院のメガネが言ってた狼の群れかな?」
「こいつらがって……何かいるようには思えないんですが」
 首を捻りながら、クルスが呟く。
「エネミーアピアランスはどうだ?」
 アイオーンがそう言うより早く、ノアは既にそれを取り出していた。
「f.o.e.のランプが灯っているわね。近くにいるはずよ」
 アリルとクルスは顔を見合わせると、レオンを見遣った。
「お、あれかな」
 その視線には気付かない様子で、人間エネミーアピアランスが通路の先を指差す。勿論そこには、ただの暗黒が広がっているばかりだ。
 しかし彼は自分の武器を抜くと、意気揚々と進みだす。
「試しにやってみようぜ」
「ちょっと待ちなさい」
「ぐえっ!」
 ノアに首周りの飾り布をぐいと引かれ、レオンは呻き声を上げて引っくり返った。
「げっほ……殺す気か!」
「あなたこそ正気? 到達したばかりの階のf.o.e.と戦うなんて、自殺行為よ」
 冷たく言い放つノアだが、レオンは不満そうに言い返す。
「俺達の目的は、こいつらのボスを倒すことだろ? ボスってのは、群れの中で一番強いもんだろ。なら、群れてる連中自体の強さがどれくらいなのか、知っておいた方が良いと思わないか?」
「……それが、僕らよりずっと強かった場合、どうするんです?」
 クルスがぽつりと尋ねた。彼は、カマキリにうっかり突っ込んでしまって以来、f.o.e.には慎重になっている。
 レオンは小さく肩を竦めた。
「その時は逃げるだけだ」
「けれど―――」
「……確かに、一理あるわね」
 反論しようとしたクルスを遮り、ノアが呟いた。
「―――一応、群れの強さを把握しておく必要がある、というのには同意できるわ。先程ツスクルに回復してもらったお陰で体力的にも余裕はあるし、一体くらいなら何とかなるかもしれないわ」
 ノアは、樹海探索の経験がある点から、アリルに代わって実質的なサブリーダーだ。しかし無謀なレオンの策には反対することが多く、このように賛同することは滅多にない。
「よし、じゃあ決まりだな」
 満足げに頷いて、レオンは狼がいるらしい闇に歩を進める。
 アリルがちらりと見遣ったクルスの横顔は、どことなく不安げであった。


 断末魔の叫び。
 それは笛の音のようにか細く響くと、絶えた。
 魔物が倒れ、ぴくりとも動かなくなったのを認めると、五人は安堵の息を吐いた。
「意外に、何とかなったな」
「本当ね」
 草に埋もれるようにして横たわる、白い毛並みを持つ狼を見下ろし、レオンは剣を収める。
 その傍らに屈みこみ、死骸を調べようとして―――突然彼は動きを止めた。
「げ」
 すくと立ち上がったレオンは、きょろきょろと周りを見渡し始める。その様子に、クルスが訝しげに声をかけた。
「どうしました? 顔色が悪いですよ」
「これはやばい」
「え?」
「ちょっと」
 エネミーアピアランスに目を落としていたノアが、声を上げる。
「―――f.o.e.のランプが赤だわ。どういうこと?」
「囲まれている」
 レオンの一言に、全員の血の気が引いた。
「何ですって?」
「さすが、群れってやつだな。仲間のピンチに、周りにいた連中が集まってきたみたいだ」
 感心したように呟くレオン。クルスは目を見開いた。
「ど、どうするんです!? もう体力もほとんど残っていませんよ!」
「逃げましょう!」
 同じように動揺しているアリルが叫ぶ。が、レオンはかぶりを振った。
「無理だ。出口は一本道だからな」
「そ、そ、そんな……」
 アリルとクルスは必死に目を凝らし、通路の先を覗いている。
「万事休すか?」
「そーだな」
 相変わらず冷静なアイオーンに、何故かにやにやと笑いながらレオンは応じる。彼は通路の二人の肩にぽんと手を置くと、明るく言った。
「大丈夫。さっきの戦闘でレベルも上がったし、何とかなったらいいな!」
「「全然大丈夫じゃないです!!」」
 振り返った二人が同時に叫ぶ。
「残りの触媒から言って、術式が打てるのはあと―――」
「結構です。聞きたくありません」
 アイオーンの言葉を、両手で耳を塞いだクルスが遮った。
「よーし、じゃあ決死行といくか! ははは」
「うわあああん……」
 嬉しそうなレオンに、泣きながらついていくクルスとアリル。そして無言のアイオーンがひっそり続く。
「あれは、絶対に知っていてやっているわね……」
 最後に残されたノアは、溜息混じりに鞄を探ると、アリアドネの糸を取り出した。

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B5F

 入り組んだ道に、回り道を重ねて、クッククローの五人はようやく第一階層の深奥へ辿り着いた。
 ふと扉の向こうに異常なほどの殺気を感じ取り、レオンは立ち止まる。
「どうしました?」
「しっ」
 恐る恐る扉を開くと、むせ返るような血の臭いがあふれ出す。
 レオンは顔をしかめながらも、中の様子を窺った。
「うっわ……いるいる」
 今までとは比べ物にならないほどの、狼の群れ。よくよく見ると、冒険者の残骸らしきものも辺りに散らばっている。
 レオンの後ろから覗き込んでいたアイオーンが、あっと声を上げた。
「あれを見ろ」
 彼が指差した先には、一際巨大な獣が鎮座していた。
 それは中央で、部下達を見張るように白い腹を反らせている。その威風堂々とした態度から、この群れのリーダーであるのだろうということは、簡単に想像がついた。
「けど虎じゃねーか」
「樹海の中だ。生態系がそうなっているのだろうとしか言いようがないな」
 五人はひそひそと会話を交わしながら、室内に入り込む。自然の木の壁に覆われた部屋は意外にも広く、また室外と同様に複雑な形態をしているようだった。
 しかし、部屋に踏み込んだ途端、手前にいた狼たちにあっさり見つかってしまう。
 やむなく戦闘に入る。勿論、他の狼も味方の血の臭いに誘われ近づいてくるが、何故かリーダーと、その更に奥にいる狼たちはピクリとも動かなかった。
 手前の狼たちを駆逐すると、レオンはもう一度部屋の奥を見遣った。
「余裕だな……」
「奥の数体は、親衛隊といったところでしょうか?」
 今までの敵とは違う、とレオンは直感する。あの虎の魔物は部下達に比べ、非常に高い知能を持っているのだろう。このまま安易に踏み込んでいってしまえば、ボスに苦戦している間に、周りの親衛隊が戦闘に乱入してくるに違いない。
 狼を各個撃破することは最早容易だが、あれだけの数を同時に、それもボスを交えて相手にするのは無謀すぎる。
「さて、どうするか……」
「あのボスだけを、こちらに引き寄せられたらいいんですけどね」
 クルスの呟きに、レオンは目を丸くする。
「今何て言った?」
 思わず詰め寄ると、クルスは数歩後ろに退いた。
「そ、その、ボスだけを誘き寄せられたら―――」
「それだ!」
 レオンはぱちんと指を鳴らす。が、壁にもたれていたノアがすぐ反論する。
「誘き寄せる前に、周りが襲ってくるんじゃないかしら? わざわざここから見えるところに待機しているくらいなんだから」
「五人全員で行かなけりゃいいんだよ」
 レオンはそう言うと、傍にいたクルスの肩に手を置いた。
「というわけで、行ってこい」
「ええっ!?」
 クルスは大声を上げてしまう。直後にボスのいる方向を確認するが、やはり動きはなかった。
「驚かせんなよ」
「す、すみません……って、どうして僕なんですか」
「お前が一番近い」
 ボスまで続く小道とクルスを交互に指差して、レオンは言った。
「近いって、レオンもあんまり変わらないじゃないですか!」
「いーや、お前の方が近い。体力だってお前の方が高いだろ。なに、手前まで行ったら、すぐ帰ってこれば良いだけの話だ」
「そんなに簡単に言うんなら、貴方が行ってくださいよ!」
 やんやかんやと言い合う二人を置いて、後衛の三人は少しずつ行き止まりの方へ後退していく。
 彼らがかなり離れた後、二人はその距離に気付いた。
「どうした?」
「どうしました?」
 ほぼ同時に発された疑問に、ノアたちは揃って、二人の背後を指差した。
 レオンとクルスが振り返った先には、覆い被さるような白い影。
 見上げると、大虎の魔物の巨大な瞳と目が合った。
「こ、こんにちは……」
 思わず呟いたレオンに、挨拶代わりの前足が降ってくる。
「うおおっ」
 慌てて飛び退くと、振り下ろされた先、彼が寸前まで立っていた地面が陥没した。続いて、樹海全体に轟くような咆哮。レオンは剣を抜くと同時に、後衛の方向、行き止まりの細い通路に向けて駆け出す。見れば、クルスは既にずっと前を走っていた。
「てめー、クルス!! 先に逃げやがって!」
「仕方ないでしょう!」
 地響きが追いかけてくる。レオンが振り返ると同時に、ノアが放った矢が横を通り過ぎていった。矢は魔物の肩に突き立ち、魔物は悲鳴を上げる。が、あまりダメージは与えられなかったようだ。むしろ、憤怒の色すら瞳に浮かべて、魔物は牙を向き、追いかけてくる。
 立ち止まった四人に追いつくと、レオンはにやりと口角を上げた。
「さて……覚悟はいいか?」
「勿論です」
「こうなった以上、仕方あるまい」
「やれやれ」
「頑張ります!」
 仲間全員を見渡した後、レオンは魔物に向き直り、剣を構えた。
「行くぜ!」

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第二階層

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B6F

 白い毛並みは、真っ赤どころか、どす黒く染まっていた。
 渾身の一撃を受けた獣は、天に向かって長く一声吼えると、そのまま力無く倒れ臥した。
 森が騒がしく揺れた気がした。鉄錆びのような、血のような臭いが濃いのはそのままだが、周囲を取り囲んでいた禍々しい空気は跡形も無く消えていた。
 勝ったのだ。
 それを悟ったレオンは、長い溜息を吐き、剣を収める。
「生きてるか」
 傍らに引っくり返っていたクルスに話しかける。満身創痍なのはお互い様だが、クルスの場合重たい鎧を纏っている。体力が尽きれば動けなくなってしまうらしい。クルスはレオンの言葉にも反応せず、虚ろに頭上を見上げていた。
 アリルが駆けてきて治療を開始する。彼女はレオンたちが庇っていたお陰で、かすり傷程度の負傷だが、激しい戦闘の直後で、疲労困憊している様子ではある。
 振り返ると、ノアとアイオーンが一本の木に寄り添うように座り込んでいた。流石に疲れたのだろう。アイオーンはもとより、ノアも一言も発しようとはしない。
「盾が」
「ん?」
「盾が壊れました」
 起き上がったクルスが、ぼんやりと言う。たしかに彼が握っていたのは盾の取っ手だったが、その先に盾はついていない。先程、魔物の死に際の一撃を受け止めて、耐え切れず引き裂かれてしまったのだ。
「騎士団を出る時に、団長から餞別に頂いたものだったんです」
 取っ手を見下ろして、クルスは哀しげに呟く。
 彼の顔を覗き込んでいたアリルが、助けを求めるようにレオンを見た。それに気付いたレオンは、視線を逸らして頭を掻く。
「……盾くらいまた買ってやる」
 クルスが自嘲気味に笑った。
「高いですよ?」
「お前の命は、それより安いのか?」
 尋ね返すと、クルスは目を丸くする。そして、ぶんぶんと首を横に振った。
「なら、良かったな。得したじゃねえか」
 レオンはぶっきらぼうにそう言った。クルスもアリルも、きょとんとしている。
 が、クルスはふっと表情を緩めると、ぽつりと零した。
「そうですね」
 会話が途絶える。それを期に、レオンは死骸を検めようかと立ち上がる。
 と。突然、入り口―――正確に言えば、自分達が入ってきた扉―――が、開いた。
 扉から現れたのは、二人組の冒険者だった。
「おめでとう。スノードリフトを倒したようだな」
 言葉のわりに抑揚の無い口調で言いながら、レンはツスクルを連れて近づいてくる。
「スノードリフトっていうのか、こいつは」
「そうだ」
 レンは大虎の魔物―――スノードリフトの傍で屈みこむと、巨大な顎に手を当てる。本当に死んでいるのかどうかの確認だろう。案の定、彼女はすぐツスクルを振り返り、微かに頷くと立ち上がった。そしてそのまま、更に奥へと進んでいく。
「ついてきたまえ」
 肩越しに、素っ気無く言葉を投げたレンは、通路を抜けた先の階段へ姿を消した。
「お疲れ様……」
 ぼそりと言い置き、ツスクルもレンに続く。
 レオンはノアを振り返る。彼女がつれなく視線をかわしたのを見て、レオンは溜息を吐いた。
「……行くか」


 階段を下りた時、初めに感じたのは湿った風だった。
 生暖かい、生き物の吐息のような空気。レオンは地下六階に広がる光景を目の当たりにし、口笛を鳴らした。
 地下五階までに広がっていたものと、明らかに異なった世界。樹海には間違いないが、それは森と形容するよりも、密林とか熱帯雨林とかいう名で呼んだ方がしっくりくるような類のものだ。名前も知らないような長いツタが足元を捉え、湿った苔がブーツの底で嫌な感触を生む。頭上から垂れ下がる幅広の葉を除けながら、レオンは額にじとりとにじむ汗を拭った。
「何だ、こりゃ。まるで別の迷宮じゃねえか」
 薄暗い中はっきりとは見えないが、入り組んだ造りは変わらないようだ。レオンの呟きに、レンが振り返って答える。
「ここは、原始ノ大密林と呼ばれる階層だ。さしずめ、第二階層といったところかな」
 彼女は小部屋の中央、赤い光の柱の前で立ち止まる。
 樹海磁軸、というらしいその柱の説明を終えた後、レンとツスクルは早速その光の中へと消えていった。
「……どうする?」
 未知なる階層の探索を進めるか、否か。レオンはその場に取り残された仲間達を見遣る。彼らは互いに顔を見合わせたが、異口同音に答えた。
「「街に帰りたい」」
「だよな」
 レオンは苦笑で応じた。


 帰還早々に執政院へ行き、スノードリフトの牙を見せて任務の完了を告げると、情報室長は眼鏡の奥の目を丸くしていた。
「で、“まさか君達が退治してくれるとは、思わなかった”だぜ?」
 金鹿の酒場。騒がしい店内に響き渡るほどの勢いで皿の上の肉をフォークで乱暴に刺し、レオンは唇を尖らせる。カウンターの向こうにいるサクヤが、分かりやすく苦笑していた。
「それでふて腐れているのね? 大仕事の後だから、興奮してるのかと思ったら」
「あんな失礼な事を言われたら、気分も萎えるっつーの」
 肉をひょいひょいと口の中に放り込みながら、レオンはぶつくさと文句を連ねる。
 酒場はいつも通り賑やかだった。普段なら気にも留めない喧騒であるが、今日ばかりは勝手が違っている。
「視線が痛い……」
「それは、ねえ」
 仕方ないんじゃない、とでも言いたげな目で、サクヤが困ったように見下ろしてくる。
 店内にいる冒険者―――勿論、それだけではないが―――たちの目が自分に向いているのが、自惚れではなく、感覚の良いレオンにははっきりと分かっていた。そう、当然と言えば当然、である。全冒険者に対して示された、危険な魔物を倒すという大任を終えたクッククロー・ギルドの名は、帰還後たった数時間で人々に知れ渡るものとなった。
「にしても、早すぎじゃないのか?」
 野菜をかっ込み、皿の上のものを綺麗に片付けたレオンは店内を見渡した。
「それは僕のおかげだよ」
 ひょいと現れた頭に、レオンは顔をしかめる。
「イーシュ」
「女将さん、ぶどう酒一杯」
「はいはい。ちょっと待ってね」
 サクヤはカウンターの奥へ去っていく。レオンはテーブルに頬杖をつくと、勝手に隣の席に座った男を眺めた。
 イーシュは彼の視線に気付くと、ぽろんと軽く腕の中の弦楽器を撫ぜ、ウインク一つ飛ばしてくる。
「そりゃあんな大きな牙を運んでいれば、目立つって。執政院に問い合わせたら、案の定……君達が魔物の群れのボスを倒したって言うじゃない」
 レオンはイーシュを睨みつける。
「余計な事しやがって」
「あれ? 駄目だった?」
 レオンは答えない。イーシュは弁解するように言った。
「どうせ噂なんか勝手に広がるんだから、いいじゃない」
「……まあな」
「これで、あのメディックのお嬢さんの目的も達成できるんだから」
 イーシュの言葉に、レオンは目を丸くする。その反応に、イーシュはくすりと笑った。
「―――彼女が欲しがってる薬の材料が地下六階にあるんでしょ? 知ってるよ。僕、施薬院にも友達が多いから」
「はい、お待ちどうさま」
 サクヤはイーシュの前にぶどう酒のグラスを置くと、そのまま他の客の注文を聞きに行った。
 イーシュは自分から視線を外さないレオンに苦笑すると、グラスに口をつけた。
「怒った? ……他意があって調べたわけじゃないよ」
「じゃあ―――」
「何のためにって?」
 レオンの疑問を先読みして、イーシュが呟く。
「―――別に、深い理由じゃないけど。そうだな。強いて言うのなら、君みたいな人が樹海に行く理由を知りたかったから、かな」
「理由なんてねえよ」
「本当?」
 イーシュは面白がるように笑うと、レオンの顔を覗き込んだ。
「機嫌直してよ。ね、お詫びに良い事教えてあげるから、それで帳消しにしない?」
「……言ってみろ」
「薬の材料を集めたいのなら、ここを訪ねてみるといいよ」
 彼が手渡してきた小さな紙切れには、街の外れの地図が書いてあった。
「何だこりゃ」
「こういうのは、専門家の手を借りるのが一番だろ? 施薬院が元々調達を依頼していた冒険者達は、別件の不法密輸が問題になって夜逃げしたって言うし」
 イーシュの一言に、レオンは地図から顔を上げる。
「それって―――」
「じゃ、僕はこれで」
 レオンがイーシュを呼び止める間もなく、彼は風のように去っていった。
 置いてけぼりのレオンは、イーシュのグラスがいつの間にか空っぽになっていたことに気付いて、カウンターに拳を叩きつけた。
「あいつ、代金払わずに行きやがった!」


 金鹿の酒場の一角、ただし人目につかない隅の席で、アイオーンはひっそりと嘆息していた。
 手持ちの触媒を、いつぞやのように並べて、数える。それを繰り返すが、勿論、数え間違いなどあるはずもない。
 探索には危険がつきものだ。錬金術を駆使して、魔物を退けることも多々ある。だが当初の目論見よりも、探索に必要な触媒の減り方ははるかに上回っていた。
 もう既に、手持ちの触媒が尽きそうになっている。このままのペースで行けば、地下七階に行き着く前に、錬金術が扱えない状態になっているかもしれない。
「参ったな……」
 触媒を集めるどころか、本末転倒である。
「何に参っているんだ?」
 ふと聞こえてきた女の声に、アイオーンは顔を上げる。
 そこにいたのは、予想もしなかった人物だった。


「あ、そこ。足元危ないから、気をつけて」
「は、はい!」
 水溜りをひょいと避けて、アリルは顔を上げる。長身の男の、人の良い笑みと目がかち合い、こちらも口元を緩めた。
 彼女は頭上から垂れ下がる、大きな花をつけた木を指した。
「ブルームさん、この木は何と言うんですか?」
「ああ、それは……」
 仲良く会話するアリルとブルームを尻目に、レオンとクルスはぼそぼそと言葉を交わしていた。
「あの人、樹海採集のスペシャリストだって……本当なんですか?」
「イーシュと本人の言を信じる限りは、そうなんだろうな」
 訝しげなクルスに対して、レオンは歩を進めつつ淡々と答える。
 イーシュに勧められた先は、ごく普通の民家だった。ノックした扉を開けたのは、若い女と小さな子供で。見るからに冒険者であるレオンの訪問に驚くかと思いきや、イーシュからの紹介だと言うと快く迎え入れてくれた。奥にいたのが、その家の亭主であるブルームだった。彼もまた心得た様子でレオンから事情を聞くと、探索への同行を引き受けてくれたのである。
「確かに格好や振る舞いは、樹海に精通した冒険者に見えるが……」
「普段は学校の教師だと仰るんですから、驚きですよね。しかも地理」
「しかし、アイオーンを置いてくるほどの意味はあるのか?」
 冒険者による樹海探索は、レオンもよく知らない事情上、五人で行われる決まりになっている。一人加えるとなると、当然だが誰かが抜けなければならないのだ。だが今回、事前に相談するよりも前にアイオーンが「しばらく探索にはいけない」と言い出したため、アイオーンを除いた四人に、ブルームが加わった形になっている。レンジャーが二人もいる、という状況だ。
「つーかさ」
 レオンは首だけで振り返ると、少し離れたところを歩いていたノアに話しかけた。
「―――あんたは、採集、というか、そういう技能は無いのか?」
「私は元々、弓の技術が高かったからレンジャーになったのよ。一緒にしないで頂戴」
「そうそう」
 二人の間に、にゅ、とブルームの帽子頭が生える。
「―――俺は逆に、弓の方はほとんど駄目でね。その代わり、今発見されている限りの樹海にあるものなら、大抵分かるぜ」
「へえ……じゃあこれは?」
 レオンは地面に落ちていた、小石状の物体を持ち上げる。
「星型の種子だね。ほら、とげとげが星みたいに見える」
「ではこの木は……」
 クルスも同じように、ぬかるみの中から小さな木材を抜き取った。
「それは香木だ。ほのかに甘い臭いがするだろう?」
「へえ……」
 感心の吐息を漏らすレオンたち。ノアが小さく呟く。
「詳しいわね。ネーミングセンスは考えないとして」
「言っとくけど、名前をつけているのは俺じゃないからね」
 ブルームが苦笑いを返す。
 と。
「ブルームさん、あれは何なんですか?」
 アリルの一言に、全員が彼女の人差し指の先を見た。
 濃い色の草むらに混じって見え辛いが、紫色の水溜りのようなものが確認できる。
 げ、とブルームは表情を固くした。
「あ、あれはポイズンウーズ……」
「ポイズンウーズ?」
 反芻したアリルに応じるように、紫色の物体は、もぞもぞとこちらににじり寄ってくる。
「って何です?」
「魔物だよ」
 平然と返すブルーム。
 冒険者達が武器を構えるよりも早く、ポイズンウーズは弾けるように飛んできた。


「着いた着いた。ここだ」
 ブルームは足元を指差して言うと、遅れて小部屋に入ってきた四人に指示を飛ばす。
「ほら、この辺にあるはずだ。一緒に探して。全く、若いんだから、もっとちゃきちゃきっと動こうぜ!」
「このおっさんが……」
 悪態を吐こうかとレオンはブルームを見遣るが、諦めて嘆息する。ここに辿り着くまで、毒に睡眠にクモにクマなど、魔物による至れり尽くせりの歓迎を受けてきたのである。ほとんど戦闘能力のないブルームはさておき、他の四人はぼろぼろである。
 目的のものの特徴を教えられ、しばらく黙々と捜索が続けられる。
「ん、おかしいな……?」
 中心で作業していたブルームが、ある一角を目にして呟いた。
「どうした、おっさん」
「俺はまだ二十八だ。レオン君、これを見てくれ」
 ブルームが指した部分には、何かが生えていた跡があった。跡、というのは、茎の途中から切り取られていたからである。
「これは……」
 明らかに、何者かが刈り取っていった跡だ。ブルームは考え込むような仕草を見せると、ぽつりと言った。
「先客がいたのか?」
「薬の材料は、この草なの?」
「ああ」
 ノアの質問に、ブルームは頷く。アリルの方を見ると、彼女も心当たりは無い、といった様子で首を横に振っていた。
 ブルームは困惑した表情ながら、立ち上がった。
「とりあえず、一度戻ってみよう。施薬院が、既に誰かに依頼を出していたのかもしれない」


 ブルームの予感は的中していた。
 施薬院には既に、薬の材料が大量に届けられていたのである。
「どうしてなんですか、先生!」
 声を荒げて、キタザキに詰め寄るアリル。キタザキは苦笑を浮かべている。
「―――私が採ってくると言ったのに、どうして他のギルドに依頼を出しちゃったんですか!」
「いや……それは……」
 キタザキは答えづらそうに視線を逸らす。
 はたにいたレオンは、それはそうだろうな、という気分で二人の様子を眺めていた。キタザキは、樹海経験者がいるとはいえまだ駆け出しの冒険者にすぎない自分達が、まさか地下五階の魔物を倒し、こんな短期間で目的のものが手に入る状況にまでなるとは思わなかったのだろう。熟練のギルドなら、到達階層の樹海磁軸を使えば、すぐにそこまで行くことができる。人命に関わるものを目的とするならば、即効で確実な方法を選ぶだろう。キタザキの判断は誤ってはいないと、レオンには思えた。アリルの保護者である彼のこと、娘を心配する気持ちもあったろう。
 だが、アリルにしてみれば、それは信頼を裏切られたことと同義であるだろう。
 彼女は大きな目に溜めた涙を拭うと、肩を落として呟いた。
「もういいです。確かに、先生のされた事は正しいと思えますから」
「アリル……」
 安堵の息を漏らしたキタザキに、しかしアリルはきっと眦を上げる。
「けど、先生が約束を守ってくれないのなら、私も守りません!」
「ま、待ちなさい!」
 アリルは言い捨てると、そのまま踵を返して、施薬院の外へと走り去ってしまった。キタザキが慌てて追おうとするが、彼の目の前で扉は閉じられてしまう。
「約束?」
 そんな遣り取りをよそに、レオンは隣のノアに視線をやる。彼女はこちらを見もせず答えた。
「アリルの樹海探索は、薬の材料を見つけてくるまで、という約束よ」
「そんなの、いつしたんだよ」
 初耳だ。レオンは驚きながらもじとりとノアをねめつける。
「あら、知っていると思っていたわ」
 ノアはしれっと言う。嘘に違いないが、レオンは溜息を吐いただけで、あえて話題を切った。
 と、落ち込んだ様子のキタザキが近づいてくる。
「せこい事するからだぜ、先生」
「せこいとはなんだ」
 じろり、とキタザキが睨んでくる。やぶへびだったかと舌を出した時は、既に遅かった。
「―――レオン、アリルを説得してきてくれ。探索をやめるように」
「何で俺が」
「これ以上続ければ、もっと危険な目に遭うことは分かっているだろう」
 キタザキの一言に、スノードリフトとの戦いがレオンの脳裏にフラッシュバックする。
 レオンは少し考える。確かに、この先深層まで進めばあれよりももっと酷い戦いになるに違いない。樹海での治療は施薬院のそれとは全く異なる。それこそ死人が出るような凄惨な現場を、十代の少女に見せつけたいとはレオンも思わない。
「だけどそれは、アリルが決めることだよ、先生」
 結論としてそう言うが、ノアとキタザキの両方から厳しい視線を向けられ、レオンは苦笑するしかなかった。

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B7F

 施薬院を飛び出したアリルは、広場を駆け抜け、街の裏口を通り、街の外、普段はあまり訪れない原っぱで足を止めた。
 弾む息を、白い街の景色を臨みながら整える。眦から溢れた涙をぐいと拭うと、大きく息を吸い込んだ。
「先生の、ばかああああ!!」
 街に向かってそう叫ぶと、くるりと反転してしゃがみ込む。
 夕焼けに沈む草原に真っ直ぐ伸びた一本の道、その先には山々と、林のような森が広がっている。物心ついてから、一度もエトリアを出たことが無いアリルは、あの道から続くところがあるのかどうかすら知らない。
 膝を抱え込むような腕の中に、小さく息を吐く。
 すると、誰かが肩を叩かれ、アリルはふと頭を上げる。
「アイオーンさん……」
 見上げた先にあった男の顔にアリルは驚きながら、その名を呟いた。
 アイオーンはにこりともせず―――といっても、マフラーのせいでほとんど表情は見えないのだが―――アリルの隣に腰を下ろした。
「今日の探索は終わったのか」
「あ、はい」
「そうか」
 アイオーンは少し残念そうに言った。彼が今日、探索に一緒に行かなかった理由を思い出して、アリルは首を傾げた。
「アイオーンさんも、用事……終えられたんですか?」
 彼女の言葉に、アイオーンは何故か目を丸くする。そして視線を逸らして、少し考えた後に答えた。
「終わった。……一応は」
「一応?」
 聞き返すと、アイオーンは低い声で答える。
「また、何度か探索を抜けなければならないかもしれん。くれぐれも気をつけてな」
「えっ」
 アリルは小さく声を上げてしまう。アイオーンは怪訝げに彼女を見た。
「どうした?」
「えっと、その……」
 アリルはどう答えようかと、目を泳がせた。
「……薬の、材料のことなんですけど」
 アイオーンはきょとんとしている。アリルは彼の様子を窺いながら、続けた。
「あ、あの、私の目的だったものです」
「ああ。見つかったのか?」
「それが……」
 アリルは事の顛末を説明した。キタザキとの約束のことも、結果的に裏切られたとはいえ、樹海に踏み入る理由はなくなったのだという事実も。
 すると、聞き終えたアイオーンは表情も変えずにこう訊いてきた。
「それで、君はどうするんだ?」
「わ、私は……」
 アリルは彼から視線を逸らすと、背後の街を肩越しに見遣った。
 理由が無くなったといっても、樹海での冒険を、続けたいという気持ちは強くある。だが施薬院を飛び出してきてしまったことで、アリルの中で妙な罪悪感が生まれ始めていた。やはり、約束は約束なのだし、守るべき―――探索をやめるべきではないのだろうか。
「やめたくないのか」
 アリルはこくりと頷く。
「けど……先生には心配をかけているんですよね」
「そうか……そうだな」
 夕闇が降りつつある街を見下ろして、二人はしばらく静かに佇んでいた。
 やがて星のように、灯りが点り始める。キタザキやノアは、また心配しているだろうか?
 物思いに沈みそうになるアリルをよそに、ふと、アイオーンが呟いた。
「自分の気持ちに」
 アリルが顔を上げると、彼の目と目がかち合う。
 濃い赤の瞳が、少し揺らいだ気がした。
「―――自分の気持ちに素直になる、というのは難しいな」
 まるで自分に言い聞かせるようにそう呟く。
 ふと、彼は歩き出した。ぼんやりしていたアリルも、慌ててその後を追う。
「待ってくださいよう……あ、そういえば、アイオーンさん」
「何だ?」
「ここで、何をしていらしたんですか?」
 アリルを肩越しに振り返ったアイオーンは、すぐに前を向いてしまった。どうも、答える気はないらしい。
 変わった人だ、と今更ながらにアリルは思った。


 相変わらず騒々しい、金鹿の酒場である。
 今日も一仕事を終えた冒険者達が、明日の英気を養うために訪れている。食事や酒目的の者は勿論多いが、それ以上に多いのが、ここの美人女将目当ての客である。
 レオンはいつも、言うまでも無く前者が目的であるが、その日の夜は少し勝手が違っていた。親子喧嘩の産物の家出娘を捜すため、街中をうろついていた彼は、情報通でもある女将サクヤに話を聞こうと思い立ち、酒場の入り口を開けたのだった。
「で」
 いつものカウンター席で。
 ちょこん、と目の前で立ち尽くす少女に、レオンは半目で尋ねた。
「何でお前がここにいんだ?」
 アリルはカウンターの向こう側で、落ち着かない様子で視線を逸らした。
 その隣に現れたサクヤが、そっと彼女の肩を抱く。
「気まずくておうちには帰れないし、他に行くところもないって言うから、引き受けてあげたの。ちょっとした社会見学よ」
「社会見学ねえ……」
 アリルを上から下まで眺めると、レオンはぼそりと言った。
「―――それにしても、その格好……」
「じ、じろじろ見ないでよ」
 恥ずかしそうに、サクヤの後ろに隠れたアリルは、いつもの白衣の代わりにフリルのエプロンを着用していた。そのせいか、周囲の男どもから、妙に視線を感じる。
「じゃあ、アリルちゃん。注文をとってきてもらえるかしら」
「は、はい!」
 サクヤに送り出され、アリルはそそくさとテーブル席に向かう。
 早速、その行く手を阻むようにひょいひょいと上がる手に、アリルがもたついているのを尻目に、レオンは呟いた。
「先生が見たら……卒倒しそうな光景だな、なんか」
「ホントね」
 サクヤがそれに応じる。
「―――アリルちゃん、悩んでいるみたいよ」
「何に?」
「何にって……探索を、続けるかどうかよ」
「ふーん」
 気のない返事をすると、サクヤは心底呆れたような表情で溜息を吐いた。そして無言で離れていく。
「あ、おい、注文」
「あとでね」
 置き去りにされたレオンは、所在無く差し出した手を引っ込めると、頭を掻いた。
「ふられたな」
 突然隣からかかった声に、レオンは首を動かした。
 短髪で眼鏡をかけた女が、こちらを向いて軽く手を上げる。
「やあ」
「し、シェリー!」
 レオンは思わず大声を上げた。サクヤが何事かとこちらを見たが、すぐ気のない様子で立ち去る。
 シェリーは口角を上げると、言った。
「久しぶりだな、レオン。まさか君がここに来るなんて思いもしなかったよ」
「まあ……色々あってな。お前こそ、何でここにいるんだよ」
「それは―――」
 シェリーが答えようと口を開いた瞬間、その肩に手が置かれた。
「シェリー、出来たぞ」
 聞き覚えのある声と共に、シェリーに一枚の紙が差し出される。
 レオンが見上げた先にいたのは、アイオーンだった。
「へ? アイオーン?」
「レオン」
 アイオーンは今ようやくレオンに気付いた様子で、顔を上げると、首を傾げる。
「―――何故ここに?」
「何故って……」
「おい、アイオーン」
 シェリーが割り込むように頭をもたげ、アイオーンから受け取った紙を指差した。
「―――ここ、直ってないぞ」
「む……すまん」
 うっすら裏から見える図形から、紙は何かの設計図のようだ。シェリーはアイオーンが出した手を無視すると、立ち上がった。
「いい。私が直しておく。その代わり、もう一つの方はしっかり頼んだぞ」
「ああ……」
「レオン、また今度ゆっくり酒でも呑もう」
 シェリーは軽く手を振りながら、店を出て行ってしまった。
 レオンは立ち尽くしていたアイオーンに、シェリーが座っていた席に着くよう促すと、尋ねた。
「ひょっとして、探索にいけない理由は、アレか?」
「ああ。彼女に、ちょっとした手伝いを頼まれてな」
「へえ……というか、シェリーと知り合いだったんだな」
「彼女は俺の姉弟子だ」
「姉弟子? 錬金術の?」
「そうだ。正確には、元、がつくが」
 ふうん、と生返事を返すが、レオンはそれ以上のことは訊かなかった。端的に言って、興味が無い。
 代わりに、アイオーンの赤い瞳がレオンを捉える。
「君はシェリーとどういう関係なんだ?」
「俺? ……昔、仕事で世話になったことがあるんだよ。それだけさ」
「そうか」
 アイオーンもまた、それ以上は何も訊いてこなかった。沈黙が降りると、狙ったようなタイミングで、引きつった笑みを浮かべたアリルが後ろから声をかけてきた。
「お二人とも、ご注文はお決まりですか?」
「アリル?」
 事情を知らないアイオーンが瞠目する。そしてレオンがしたように、彼女の服装を呆然と眺め始めた。笑いをかみ殺すレオンに気付いて、アリルが怒鳴る。
「もう、笑わないでよ!」
「アリル、君は一体何をして……」
 困惑した様子で呟くアイオーンに、アリルは恥ずかしいやらレオンに対する怒りやらで真っ赤になっていた。

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B8F

「僕ら五人で探索するのも、何だか久しぶりのような気がしますね」
 後衛を振り返りながら、クルスは上機嫌にそう言った。
 クッククローが世界樹の迷宮を探索するようになってから、既に一月以上が経過していた。数あるギルドの中でも指折りの速度で潜行している彼らは、自覚は無いものの、早くもエトリアにその名が広まりつつあった。
 そんな中、アリルの家出騒動とアイオーンの私用が重なり、このところまともに探索を進められない状況にあった。クルスが喜ぶのも無理はないだろう。
「それで、つい執政院の任務まで受けてきたって訳か……」
 ぬかるむ土を蹴飛ばしながら、レオンはうんざりと任務表を掲げる。
「仕方がないでしょう。全員が揃っている時でないと、魔物の相手も満足に出来ないんですから」
「ごめんなさい……」
「すまん」
 クルスの言葉に、アリルとアイオーンが肩を落とす。クルスは慌てて言い繕った。
「あ、いえ、誰が悪いとか、そういうことじゃないですよ!」
「そうそう。俺達は俺達のペースで、進めるときに進めばいいんだよ」
 珍しく、レオンがクルスのフォローを入れる。彼の言葉に、クルスは大きく頷いた。
 と、ノアが口を開いた。
「ねえ、ここではないかしら」
 彼女の視線の先には、自然に出来た小部屋があった。
 入り口を覗き込むと、群生した植物のせいか、暗闇に近い影が中に下りていた。ふと動くものを見た気がして、クルスが少しだけ身を乗り出すと、闇に大きく二つの赤い光がぱっと灯った。
「わっ」
 驚いて身を引くと、光はすぐに消えてしまった。
「れ、レオン」
「何だ?」
「奥に、何かいませんか?」
 クルスの言葉に、レオンは肩を竦める。
「そりゃ、いるだろうさ。お前、今回の任務の内容、ちゃんと覚えているのか?」
 言われて、クルスはきょとんとする。
「飛竜の巣にある卵を持ち帰れ……でしたね」
「そ。ここが巣なら、親竜がいても不思議じゃないだろ」
「ということは、いるのね」
「ああ」
 ノアにそう答えると、レオンは巣の奥を窺うべく目を凝らす。
 しばらく目を瞬かせていた彼は、首を引っ込めると、言った。
「どうも、こっちに気付いているみたいだ」
「気付いているって……襲っては来ないんですか?」
「向こうも、様子を見ている……って感じだな」
 レオンは再度巣の入り口を睨むと、クルス達を振り返った。
「―――仕方ない。親竜の注意が逸れるまで、適当に待つか」


 自然に出来た泉の縁に腰掛け、アリルは溜息を吐いた。
 不思議と体力と気力が回復するこの泉はかつて枯渇していたが、源泉をせき止めていた魔物が退治されたため、今は透き通った水に満たされている。憂鬱げな少女の顔が映った水面に掌を合わせると、波紋が揺らめく先に赤い髪が現れた。
 振り返ると、レオンが立っていた。彼は妙に年寄り臭い動作で、アリルの隣に腰を下ろす。
「はー、ここまで潜るのに疲れるな」
 言いながら肩やら首やらの関節を鳴らすので、アリルは小さく噴き出した。
「何だよ?」
「だって……レオン、酒場のお手伝いをしているときと、同じ事を言うんだもの」
 アリルは、先日住み込みで働いている自分と一緒に、金鹿の酒場の棚卸しを手伝っていたレオンの様子を思い出していた。笑う彼女に、レオンは憮然として呟く。
「それの何がおかしいんだよ」
「怒らないでよ。樹海に潜っているときと、街にいるときと変わらないなんて、レオンらしいなって思っただけ」
 しかし、レオンはアリルの弁明にもかかわらず、そっぽを向くと不機嫌そうに言った。
「けっ。元はと言えば、クルスのやつが任務なんか受けてくるから悪いんだ」
 その言葉に、アリルは任務の内容を思い出し、俯く。
「飛竜の卵なんて……何に使うのかな。わざわざ、お母さんから引き離してまで」
「さあな。執政院の考えるところなんて見当もつかねえよ」
 肩を竦めたレオンに、アリルは思いつめた表情を崩して、言葉を繕った。
「そだね、うん。魔物と戦うわけじゃないし、まだ簡単な任務、かな」
 レオンは眉を上げた。
「おいおい、親から卵を取り上げるんだぜ? 全然楽じゃねえよ」
「そうかな……」
 アリルは虚ろに応じた。
 レオンは少し眉を顰めると、続けてこう訊いてきた。
「お前……いい加減、先生のところに帰ったらどうだ?」
 アリルの肩がぴくりと震える。
「……帰れないよ」
 アリルは俯いたまま、小声で答えた。
 どんな顔をして帰ればいいのか分からない。傍目からすれば些細な親子喧嘩といえるものも、アリルにとっては重大な意味を帯びていた。捨て子である自分を拾い、育ててくれたキタザキの元から身勝手な理由で家出をしておいて、今更のこのこと帰っていいものだろうか。彼女が金鹿の酒場に居候しているという事実を、キタザキは恐らく知っている。だがそれでいて、迎えに来てくれないことも彼女の不安を煽ぐ一因になっていた。
 自分はキタザキにとって、最早いらない子なのではないのだろうか―――
 ぐっと奥歯を噛み締めながら、涙が零れるのを堪える。
 二人の間に降りた沈黙を、破ったのはレオンだった。
「そう、例えば―――今ここで自分が死ぬかもしれないと、考えたことはないか」
「え……」
 顔を上げたアリルは息を呑む。彼女の眼前には、いつになく真剣な顔をしたレオンがいた。
「それってどういう―――」
 意味なのか、と続けようとした刹那。
 頭の横を、何かが突風のように通り過ぎていった。
 レオンが投げた短刀だと気付いたのは、彼の腰に下げられた補助武器用のホルダーが空になっていたからだった。
 そして、何かが落下する音に振り返ると、自分の足元で、頭部を貫かれた蜂の魔物が痙攣しているのが見えた。
「群れからはぐれた、軍隊バチだな」
 平然とレオンは呟く。アリルは今更ながらに浮かんできた感情に、口元を押さえた。
 驚きと、恐怖だ。
「……こんなことも、樹海では起こりうる」
 レオンは改めて泉の縁に座すと、続けた。
「―――死んでいたかもしれない。もしそうなったら、お前はもう先生に謝ることすら出来ないんだぞ」
 蜂の鋭い針が、まだアリルを狙っているかのように天井を指している。
 あとずさったアリルは、脚を泉の縁にぶつけ、そこに座り込んでしまった。
「私……」
 一歩間違えれば、蜂ではなく自分がここに転がっていたかもしれない。
 それを考えると、言うべき言葉が先に続かない。
「四の五の考えず、自分の気持ちに正直になるのが一番だってこった」
 レオンはいつもの口調で、言った。
「―――先生に会いに行ってやってくれよ。あのじーさん、心配のあまり、俺に当り散らすんだから困ったもんだ」
 目を丸くするアリル。だがそんな彼女をよそに、レオンは軽く手を振り、立ち去ろうとする。
「ま、冒険者として、探索を続けるかどうかはお前次第だけどな」
 その言葉に、アリルは思わず立ち上がると、何を言おうか迷い、整理がつかないままに、こう叫んだ。
「私、クッククローを抜けるつもりはないわ!」
 大声に驚いた様子で振り返ったレオンは、小さく失笑した。


 どうやら話は上手くまとまったようだ。
 アイオーンはこっそりと安堵の息を吐いた。
「どうしたの? 何か気になるの?」
 レオンたちの様子を窺うように立っていた彼を不審に思ってか、ノアが話しかけてくる。
「いや……大丈夫だ」
 手を上げて応じると、アイオーンはその場を離れる。
「自分の気持ちに正直に……か」


「で」
 飛竜の巣を覗き込みながら、レオンが口を開いた。
「卵泥棒をしに行くわけだが……」
「レオン、なんだか罪悪感が増すのでやめてください、それ」
「何を言う。事実をありのままに受け止めるのは、人間として当然のことだぞ」
「卵泥棒が言っても説得力ないですよ……」
「うっせえ」
 クルスの文句を一蹴し、レオンは後衛組を振り返った。
「とにかく、だ。やっこさんがそっぽを向いてる今がチャンスだ。他のギルドの連中に先を越されないうちに、さっさと確保しに行くぞ」
 意気込むレオンをよそに、アリルやクルスは渋い顔だ。
「うう、気が進まないなあ……」
「気が進まなくともやるんだよ。でなきゃ、シナリオが進まんからな」
「シナリオ?」
「流せ。こっちの話だ。さて、行くぞ」
 にべもなくそう返すと、レオンは巣に足を踏み入れた。


 薄暗いどころではない。
 全く何も見えない闇の中、泥臭い地面に這いつくばりながら、クッククローの一行は飛竜の卵を探していた。
「ないな」
「こっちにもありません」
 小声でこそこそと遣り取りしながら、五人は手探りで捜索を続ける。そのすぐ後ろには、体を丸めるようにして寝そべっている(レオン曰く)飛竜がいるのだ。暑さと緊張で汗ばむ額を拭いながら、クルスは草木を掻き分け、必死で卵を―――丸い形状をしているものを探す。
 と、掌に当たる、すべすべとした感覚があった。
「あっ……」
 クルスはそれを、草やぶから引き出す。それは確かに、球状の形をしていた。
 卵にしては、少し大きい気もするが。
 クルスが振り返り、発見を報告しようとした矢先、目に入った影が立ち上がったのが見えた。
「レオン! これ、卵じゃない?」
 声からして、それはアリルのようだった。彼女は足元にいる、人影に話しかけている。
「ん……おお、確かにそれっぽいな」
「やった」
 小声の会話が漏れ聞こえる。
 クルスは自分の手元に目を落とす。色はほとんど判別がつかないが、白に近いような気がするそれも、クルスからすれば卵のように思われた。彼は、唯一はっきりと夜目の利くレオンに確認を求めようと、立ち上がる。
 と。突然足を取られて、クルスは大きく転倒した。
 鎧の金属部の合奏が狭い室内に響き渡る。仲間の誰かが息を呑む音と、低く喉の鳴る音が同時に聞こえた。
 クルスは全身に絡んだ何かに気付いて、声を上げそうになった。こけた際に放り出した、丸いものが視線の先で蠢いた。卵と思っていたものは蜘蛛の魔物の腹部分だったのだ。
 笛の音のように響く声。飛竜の起き上がる気配を、クルスは背中で感じていた。
「何やってんだ、馬鹿!」
 レオンの怒号。それを合図にしたように、何かが風のように空間を切り裂いた。
 飛竜の尾が、クルスのすぐ眼前を通り過ぎていったのがはっきりと見て取れた。クルスの周りに引火した炎が、巣の中を明るく照らし出している。
「逃げるぞ!」
 術式を起動させていたアイオーンとレオンが駆け寄ってくる。二人はクルスの体を捕らえた糸を焼き払い、あるいは切り裂いていく。
 矢を放つノアと、その後ろに隠れるように立っていたアリルが少し離れたところに見える。飛竜の鳴き声が再度響いた。クルスが左手の盾を掲げるより早く、正面にいたアイオーンが籠手を掲げた。迸る炎に、飛竜の尾の狙いが外れる。しかしその僅かな先端が、鞭のようにアイオーンの腕を打つ。
「アイオーンさん!」
「大丈夫だ……」
 顔をしかめ、打たれた腕を庇いながらも、アイオーンは素早く立ち上がる。蜘蛛の糸からようやく自由になったクルスは、起き上がる間もなくレオンに首根っこを掴まれた。
「アリル、糸だ!」
「は、はい!!」
 鞄を探っていたアリルが、銀色に輝くアリアドネの糸を取り出し、紐解いた。


「本当に申し訳ありません」
 宿屋のベッドに正座して、クルスが深々と頭を下げた。
 その向かいにいるのは、アイオーン。どちらかといえば困ったような顔で、ベッドに腰掛けている。
「気にすんな。大した怪我じゃないんだし」
「あなたが言うことじゃないでしょう」
 軽く言ったレオンを、ノアが睨みつける。
 なかなか頭を上げないクルスに、アイオーンが声をかけた。
「レオンの言う通りだ。これくらい、何ともない」
「でも……」
 クルスがちらりと、アイオーンの右腕を見た。白い布で肩から吊られている様子が痛々しい。
「僕のせいで、しなくてもいい怪我を……」
「ま、確かに任務をとってきたのはお前だけどな」
「レオン!!」
 ノアの怒声に、レオンは首を竦める。彼の余計な一言は毎度のことだが、クルスはますます落ち込んだ様子で俯いてしまった。
 ノアからだけでなくアイオーンからも鋭い視線を受け、気まずい空気が流れる。流石のレオンも、目を泳がせた。
「あー、一応、キタザキ先生を呼びに行ってこようか」
「結構よ。アリルが行ったわ」
「アリルが?」
 アイオーンが訊き返す。ノアは頷くと、言った。
「様子、気になるのなら、見に行きましょうか」
「じゃあ俺も……」
「あなたはついてこないで」
 便乗しようとしたレオンにぴしゃりと言い捨てると、ノアはアイオーンをつれてさっさと部屋を出て行ってしまった。
 クルスは頭を下げたまま、ぶつぶつと何かを呟いている。
 レオンは乾いた笑いを漏らすと、とりあえず自分のベッドに倒れこんだ。

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B9F

「……これで全てだな」
 手の中の紙をとんとんと整えて、シェリーは呟いた。
 あまり感情豊かとはいえない彼女から、思いもよらず零れた笑みに、アイオーンもつられて頬を緩める。
 久々に会った姉弟子に頼まれたのは、彼女が別の街で引き受けた仕事の手伝いだった。簡単な構造に関する助言と、その設計。彼女がエトリアを訪れたのは、本来人見知りな錬金術師が集まりやすい冒険者の街で、自身の補佐役を見つけるためだったらしい。もっとも、彼女の能力に補佐など必要があるはずもなく、ただ単に、アイオーンは短い期限までの作業の増員として誘われたにすぎない。
 だがアイオーンとしては、作業自体は興味深く有意義なものであったし、気心の知れた相手―――シェリーとのやり取りも懐かしく楽しいものであった。
 シェリーが満足そうに設計図をしまう様子を眺めながら、アイオーンは言った。
「いい経験になった。ありがとう、シェリー」
 期限に間に合わせるためには、もうすぐシェリーはエトリアを出なければならない。
 一抹の寂しさを抱きながらも、別れを告げるつもりで顔をあげる。
 が、シェリーは思いの外真剣な表情で、アイオーンを見つめていた。
「アイオーン、私についてくる気はないか?」
 その一言に、アイオーンは瞠目する。
「何だって?」
「私の旅に、同行するつもりはないかと訊いたのさ」
 シェリーは唇を吊り上げた。
「お前は、田舎で燻らせておくには惜しい人材だ。私はこれからもしばらく様々な依頼に忙しくなるから、お前の助けが是非欲しい」
 そう早口に言うと、彼女は立ち上がる。 その肩越しに、女将と話し込んでいるレオンが見えた。
「―――私はまだ数日この街にいる。その内に、答えを聞かせてくれ」
 短くそう告げると、シェリーは立ち去っていった。
 アイオーンは呆然と、その背を見送る。シェリーと入れ代わりに、レオンが近付いてくる。
 飛竜の卵を頂戴する任務を受けたと知らされたのは、その直後だった。


 シェリーとアイオーンは、自分達の生まれを知らない。
 物心つく時には既に、錬金術の師匠の元で弟子として生活していた。
 だが幼い頃から、師匠とシェリーは互いを嫌いあっているようであった。
 だから、思春期を抜け、自我に目覚め始めたシェリーが次第に家を空けるようになったのも、当然のことだったのかもしれない。
 能動的な彼女とは対照的に、アイオーンは研究者の多分に漏れず、内気で人見知りに育った。
 ただひたすら朝から晩まで、師匠の手伝いをして過ごす日々。彼はシェリーのように、自らの世界を広げようとはしなかった。むしろ、錬金術の世界の外に飛び出し、自由奔放に振舞う彼女の行動を不可思議に―――いや、羨ましく感じていたのは事実だったが、彼女のようになることは不可能だと思っていた。

「シェリー、何をしている?」
 彼女の部屋の扉を開けたアイオーンは、そのあまりの乱雑さに呆れて呟いた。
 紙畑の中心に座っていたシェリーは、アイオーンをちらりと一瞥すると、すぐ自分の作業に戻ってしまう。
 アイオーンはその手元を覗き込んだ。図形のようなものが見えて、眉をひそめる。
「何なんだ、それは」
「……もう」
 シェリーは煩げに首をもたげたが、去ろうとしないアイオーンに観念したように、手にしていた用紙を広げた。
 細かく書き込まれ、何度も修正された跡のある、黒ずんだ大きな紙である。よく見ようと両手で持ち上げたが、シェリーがそれを制止してきた。
「あの人に見つかると、事だから」
 シェリーは師匠を「あの人」と呼ぶ。アイオーンは扉を振り返り、他に人気がないのを確認すると、紙をシェリーに返した。
「設計図なんだ」
「設計図?」
「そう、新しい機械のね」
 シェリーはいたずらっぽく微笑むと、続けた。
「ほら、これもそうだ」
 言いながら、シェリーは部屋をひっくり返しつつ―――そうやって、この部屋の混沌は出来上がったのだろう―――何枚もの設計図を引き出し、アイオーンに投げる。彼の目から見てもそれらは、非常に精密な理論で組み立てられた、しかし既存のものとは全く別の、新しい型の様々な道具のようだった。
 シェリーは誇らしげに言った。
「友人の錬金術師達と一緒になって、進めている事業の一環さ。私はいつまでも、あの人の世話になるつもりなんてないからね」
「独立……するのか?」
「そのつもりだ」
 シェリーは力強く頷くと、視線を逸らした。
「その……やる気があるのなら、お前もどうだ?」
「俺?」
「そう。私達の計画に、参加しないか?」
 再びアイオーンを見据えた瞳は、宝石のように輝いていた。
「―――いずれは、あの人から離れることになるだろうが……もうしばらくはここで、作業を続けるつもりだ。その手伝いを、お前にもして欲しい。どうだ?」
 這うように迫ってくるシェリーから引き下がり、アイオーンは口角を上げた。
「まあ……手伝いをするくらいなら」
 半ば勢いに押された形で、そう答える。
「よし!」
 立ち上がり、シェリーは胸をそらした。
「そうと決まれば……早速だが、アイオーン」
 彼女は一枚の紙をアイオーンの眼前に突きつけて、言った。
「これと同じ図面を、この中から探し出してくれ!」
 シェリーが広げた腕は、紙に埋まった室内を差していた。

 投げ捨てられた紙が、床中に広がる。
 顔を真っ赤にした師匠が、息荒く叫んだ。
「こんなものに……うつつを抜かしよって!」
 彼は怒りに任せ、黒ずんだ設計図を蹴散らす。そしてそのうちの一枚を、止める間もなく思い切り引き裂いた。
「―――アイオーン。まさか、お前までとは! 小娘に馬鹿なことを吹き込まれたのか?」
 アイオーンは何も答えられず、ただ俯いて、床に散らばる設計図を眺めていた。
 師匠は、保守的な錬金術師の、その代表例とでも言うべき堅物だった。新しいことが好きで、ペナルティを恐れず様々なことに取り組むシェリーを、よく思っていなかったのはアイオーンも前々から知っていた。
 だから、そのシェリーの手伝いをしていることは、師匠には知られないようにしていたのだ。偶然、設計図が彼に見つかってしまったのは、不運だったとしか言いようがない。
 がたん、と机の動く音に、アイオーンは顔を上げ―――目を瞠った。
 師匠は机に手をつき、苦しげに呼吸していた。様子がおかしい。もう片方の手で、胸を押さえている。
「情けない……お前まで……とは」
「師匠!」
「わ、私は……」
 駆け寄る間もなく、師匠の体は、支えを失い崩れ落ちた。

 その日から頻繁に、師匠は寝込むようになった。
 アイオーンは寝入った師匠の部屋を抜け出すと、扉の前で小さく息を吐いた。師匠も最早、けして若いとはいえない年齢なのだということを、思い知らされた気持ちだった。
 視線の先の階段を、シェリーが降りてくる。
「あの人は?」
「薬を飲んで、眠ったよ」
「そうか」
 シェリーは無表情だ。さして心配もしていない様子で、アイオーンの前を素通りする。
「どこに行く?」
「仲間のところだ」
 シェリーは振り返りもせずに、素っ気無くそう答えた。

 シェリーが作っていたものが、武器であることは知っていた。
 それも、術式起動のための籠手のような生易しいものではなく、投げ込まれれば、街一つ焼き尽くせるほどの威力を持ったものだとも。
 今思えば、師匠はそれを見越していて、シェリーをよしとしなかったのかもしれない。
 そうして、アイオーンが住む街の近くで、戦争が始まった。

 シェリーはいつになく大量の荷物を持っていた。
「どこに行く」
「仲間のところだ」
 眼前を素通りしようとするシェリーに、アイオーンは問うた。
「もう、戻っては来ないつもりか?」
 シェリーの歩がぴたりと止まる。
 彼女は小さく頷いた。
 そして、振り返る。
「アイオーン、お前は……」
「俺はここに残る」
 背中にある木の扉に触れて、アイオーンは続けた。
「師匠を独りにはしておけない」
「……そうか」
 どこか寂しげなシェリーは、アイオーンを見上げた。
「―――残念だ」
 溜息混じりに呟かれた一言が、アイオーンの耳朶をくすぐる。
 彼はシェリーから目を逸らすと、押し黙った。
 彼女の計画に参加していたのは一瞬だったが、それは確かに疑いようもなく、楽しい一時だった。若い錬金術師と触れ合い、討論しあうことが、ああも建設的なことだとは知らなかった。自分の意見を言い、それが聞き入れられたときの嬉しさは、初めて経験したことだったかもしれない。
 シェリーが見せてくれた世界は、アイオーンにとってどれだけ魅力的に映ったことか。
 だが、これ以上その中に踏み込むことは出来ない。
 追いすがるように肩を掴む師匠のやせ細った手を、アイオーンは振り払えないのだから。
「……達者でな」
「ああ」
 シェリーは片手を上げると、今度は躊躇することなく歩いていく。
 その背を、アイオーンは目がそらせないままじっと、見つめていた。


 夕焼けの空が、白い街にその赤を照らしている。
 自身の長く伸びる影に目を落とすと、アイオーンは小さく溜息を吐いた。
「どうしたの?」
 ノアが顔を覗き込んできた。二人は宿屋を抜けて、施薬院に向け、広場を進む道すがらである。
「―――ぼんやりして。気分でも悪いの?」
 アイオーンの、肩から吊られた右腕を見遣り、彼女は首を傾げる。
「いいや……」
 アイオーンは低い声で答えると、動く方の手を軽く振った。
 ノアはまだ訝しがっていたものの、答えるつもりはなさそうだと見て取ったのか、こう言っただけだった。
「無理はしないようにね」
 意外な―――ノアにしては優しい一言に、アイオーンは目を丸くする。
 と、その沈黙を不自然に思った様子で、ノアが渋い顔をした。
「何よ?」
「いや、何でもないさ」
 失礼なことを考えていたとは言えない。
 ちらりと横目でノアの様子を窺うと、彼女は憮然とした表情で前を向いていた。
 そんな遣り取りをしている間に、施薬院が見えてきた。
 その前に立つ二つの人影に、二人は足を止める。
 アリルとキタザキだ。
 丁度向かい合う形で、何かを話している。その内容までは聞き取れないが。
 やがて、アリルが大きく礼をした。
 その体勢のまま、彼女は動かない。キタザキは酷くばつの悪そうな表情をしていたが、やがてアリルに声をかけたようだった。
 アリルの頭が上がる。続けて何某か発せられたキタザキの言葉に、少女の顔が花開くように綻んだ。
 彼女がキタザキに抱きついたところで、ノアが嘆息した。
「どうやら、丸く収まったみたいね」
「……のようだな」
「全く、世話が焼けるんだから……」
 彼らの微笑ましい様子に呆れたように、ノアがぶつぶつと呟き始める。
 我関せずを貫いているように見えたノアだが、親しい仲のこと、やはり心配していたのだろう。どことなく、安堵しているようにも見える。
 アイオーンは苦笑気味に口角を上げると、踵を返した。
「アイオーン?」
「その辺をうろついてくる。しばらく、そっとしておいた方がいいだろう?」
 会話しているアリルとキタザキを指して、アイオーンは言った。治療してもらうために来たのではあるが、親子の団欒を邪魔するほど野暮ではないし、急を要するわけでもない。
 ノアはアリル達を振り返ると、肩を竦めた。
「ごめんなさいね」
 まるで母親のようなその言い草がおかしくて、アイオーンは失笑した。


 家族だと思っていた二人が、いつから家族でなくなったのか、アイオーンには定かではない。
 その片方がいなくなってしまった今、修復する手段すら永遠に失われてしまった。
 だが、不思議と哀しいとは思わなかった。
 この感覚を、大人になったというのだろうか。
 だとすれば、成長するということはあまりに夢がない。
「もしくは、素直になれなくなったというのかな」
 ぼさぼさの長髪を揺らす冷たい風が、背中から吹き抜ける。
 視線の先に立つ女が、ふと微笑んだ。
「そうかもしれないな」
 自分はずっと、家族でありたかったのかもしれない。
 だが、シェリーの方がずっと大人になるのが早くて、師匠は大人だった。
 それだけのことだ。
 逆光に目を細めながら、アイオーンは言った。
「行くのか、シェリー」
「ああ」
 シェリーは光を背にしているのに、眼鏡の奥の目を細めた。
「―――お前はやはり、来てくれないんだな」
「すまない」
 俯き加減に、しかしはっきりと、アイオーンは答えた。
 シェリーが長く息を吐く。彼女は荷を背負いなおすと、仕方ない、というように肩を竦めた。
「言い訳じゃないが、本当は分かっていたんだよ。お前はきっと来ないってね」
 その意図が読み取れず、アイオーンは首を傾げる。
 と、シェリーはいたずらっぽく口角を上げて―――懐かしい表情で―――言った。
「居場所を見つけたんだろう? あの時の私のように。自分が必要としている、そして必要とされている世界を」
 アイオーンは黙り込んだ。シェリーから目を逸らして、図星を突かれた気分で咳払いする。
 その反応がおかしかったのか、シェリーは声を上げて笑った。
「いいじゃないか。きっと、お前ならうまくやれるさ」
 彼女は踵を返すと、夕日に―――街の外に向かって歩き始めた。
「達者でな」
「……ああ」
 シェリーは振り返らない。
 だが、それでいいのだと思う。
 アイオーンは早々に、その場を立ち去った。


「ふられたな」
 木陰から唐突にかけられた声に、シェリーは足を止めた。
 赤い髪が、夕闇に浮かぶ。片目が硬く閉じられた顔に、にやにやとした笑いが乗っている。
「いいんだ」
 シェリーは短く答える。
「そっか」
 その男は、大して興味もなさそうに答えた。
 それが訝しく思えて、シェリーは首を傾げる。アイオーンが気になって来た、ではなさそうだ。
「……もしかして、見送りに来てくれたのか?」
「あんたにゃ、世話になってるからな」
 鼻をすんと鳴らして、彼は言った。なんとなくおかしい気分で、シェリーは微笑む。
「随分昔の話だと思うが?」
「そうだっけな」
「そうだ。大体、あの時は戦中で、貸し借りの関係云々どころではなかったろう」
 数年前の事を懐かしく思い出し、シェリーは呟いた。
「私の作った機械が君や君の仲間を助けただけでなく、君達も私や私の仲間を助けてくれたろう。おあいこだ」
「……ま、別に何でもいいよ」
 面倒くさそうに発された一言に、シェリーは目を丸くする。
 が、次の瞬間には破顔していた。
「そうだな、何でもいい……な」
 何故だか、無性に気分がいい。
「―――君は本当に面白いな、レオン」
 声を上げて笑うシェリーに、レオンは憮然としている。
「うるせ。もういいから、さっさと行け」
「ははは……ではな」
 笑いながら、シェリーは丘を登っていく。その先には、夜を徹して走る馬車が、真っ直ぐ長く続く道を向いて停まっている。
「アイオーンをよろしく頼む。出来はあまりよくないかもしれないが、私の弟だ」
「知ってるよ。あんたに比べりゃ、いくらかいい奴だけどな」
 シェリーは声高く笑うと、手を振りながら歩いていった。

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B10F

 夕焼けがエトリアの白い屋根を照り始めた。
 酒場はまだ開いたばかりで、営業中には最も人の少ない時間帯である。それにも関わらず、ほぼ毎日のように見る顔を認めて、サクヤは微笑んだ。
「こんばんは、イーシュ」
「こんばんは、女将さん。やっぱり今日も美しいね」
 イーシュは恥ずかしげもなくそう応じる。こんな遣り取りもいつものことだ。
 サクヤはイーシュの前に立つと、尋ねた。
「ご注文は? いつものでいいかしら」
「うん……ああ、やっぱりちょっと待って」
 イーシュは片手を上げて、サクヤを制止する。
「―――今日は、待ち人がいるんだ。だから注文は、彼らが来てからにしていいかな?」
「それは構わないけど……」
 イーシュが待ち人とは、珍しいこともあるものだ。
 立ち去る際に見た彼の横顔は、何か愉快さを押し留めたような、そんな表情をしていた。


「それで、どうしてギルドでなくて酒場なんです?」
 唇を尖らせて、ぶつぶつと文句を言いながら、クルスはレオンとアリルの後ろをついてきている。
 先からずっと、この調子だ。
 三人は今日の探索を終えた足で、金鹿の酒場に向かっていた。クッククローは現在、負傷したアイオーンが一時的に抜けているため、常の探索を四人を行っている。だが、やはり奥の階に進もうと思うなら、四人では力不足が否めない。そして更に間の悪いことに、執政院から新たな任務が出され、完全に足止めを食らっている状況なのである。
 その任務とは、地下十階に住み着いた魔物を倒すこと。以前に受けたものと似た依頼ではあるが、今回の相手は“密林の王”とも称される、第二階層でも最強クラスの魔物だ。
 他のギルドに任せるというのも一考だが、なかなかどうして、任務の達成に名乗りを上げるギルドはない。第一階層での任務の経過から鑑みても、ガンリューの口癖のような「どいつもこいつも、目の前の小銭ばかり拾ってるしみったれだ」というのは、あながち間違っていないのかもしれない。
 そんな中、クッククローに興味があるという冒険者が現れた。まさに八方塞がりの現状で、願ってもいない好機である。
 だが、クルスの表情は晴れなかった。
「本当に、当てになるんですか?」
 彼は、まだ見もしない相手に警戒していると言うよりも、単純に酒場に行くのが嫌らしい。だったらノアのように留守番していれば、とレオンは思うが、そこを譲る気もないとなってはどうしようもない。
「しつっこいな、お前も」
 レオンのしかめ面が振り向いた。
「―――しゃーねえだろ。どっかの誰かさんのおかげで、一人補わざるをえなくなったんだから」
 その厭味に、クルスはぐっと口をつぐむと、目を逸らす。
 アイオーンの怪我が自分のせいだと思っている彼には、今一番効果のある言葉である。
 レオンは肩を竦めると、言った。
「ま、会ってみれば分かるさ」
「レオンは……知ってる人なのよね?」
 窺うようにアリルが尋ねると、レオンは頷いた。
「ああ。腕は立つ奴だぜ。……腕はな」
 含みのある一言に、アリルとクルスは顔を見合わせる。


 扉をくぐるや否や、鼻を刺すような酒の臭気にクルスは眉をひそめる。
 樹海から戻って真っ直ぐ訪れたので、クルスたちはまだ武装を解いていない。寛いだ様子の客の視線を感じつつも、クルスは嫌悪感半分、物珍しさ半分に周囲に目を巡らせていた。
 金鹿の酒場というらしいそこは、想像していたよりもずっと明るく、がらんとしていた。まだ客足もまばらな時間帯なのもあるだろうが、冒険者ギルドの方がずっと雑然としている印象を受ける。
「あ、レオン!」
 と、カウンター席から立ち上がって手を振る影が、近づいてくるのが見えた。
「―――お疲れ、だね」
「全くだぜ」
 レオンは抑揚のない口調で応じる。
 その肩に手を置いた男は―――声を聞いていないと性別も分からなかっただろう―――くすんだ金色の長い髪をなびかせ、ポーズをつけているような姿勢で佇んでいる。樹海に挑む冒険者にしては幾分派手な格好で、手には弦楽器と―――何故か、一輪のバラを持っていた。
 彼はレオンの後ろにいたクルスとアリルに気付くと、満面の笑みを浮かべた。
「やあ、クッククローの人達だね」
「はい」
「こ、こんにちは」
 緊張した面持ちで、アリルが挨拶する。
「初めまして。僕は―――」
「可愛いお嬢さん。噂は聞いてるよ」
 クルスの自己紹介を遮って、その男はアリルに微笑を向けた。
「―――僕がちょっと留守にした隙に、金鹿の酒場に天使みたいなウエイトレスが一瞬だけ舞い降りたってね」
 男はウインク一つ、淀むことなく紡がれた、歯の浮くような言葉を締め括る。
 クルスとアリルは、ぽかんと口を開けていた。その隙に、男はアリルの正面に回り込む。
「たしか……アリルちゃんだっけ?」
「は、はいっ」
「僕はイーシュ。ご覧の通り、吟遊詩人をやってる。君達の冒険の役に、きっと立つと思うんだけどなあ」
 男―――イーシュの一言に、クルスははっとレオンを見上げた。
「と、いうことは……」
「ああ、そいつが加入希望者だ」
 どうでもよさそうに、レオンが答える。
「ちょ、ちょっと待ってください」
 クルスはレオンの裾を引っ張ると、再びアリルを口説き始めたイーシュを置いて、店の隅に移動する。
「―――本当に、彼が新しい仲間になるんですか?」
「まだ、決まったわけじゃねえけどな」
 上機嫌にアリルに言い寄るイーシュを横目に、レオンは呟いた。
「ま、決定みたいなもんか。支障はないし」
「あります!」
 クルスは叫んだ。予想外の大声に、驚いた客の視線がいくらか集まる。クルスは、声のトーンを抑えつつ続けた。
「あ、あんな……人、僕やノアさんがもちませんよ。……今でも十分大変なのに」
「どういう意味だ、そりゃ」
 じろりとクルスを睨みつけ、レオンは言った。
「―――とにかく、人手不足なんだ。四の五の言うな」
「そんな……」
 クルスはちらとイーシュを窺う。
「アリルちゃん。お近づきの印に、これを」
 彼は手に持っていた白バラを、押し付けるようにアリルに差し出した。彼女は目を白黒させながら、それを受け取る。
「あのう……」
「ああ、やっぱりだ。まさに“可憐”という言葉は君のためにあるようなものだね! よく似合ってる」
「え? あ、ありがとうございます」
 アリルはイーシュの褒め言葉に、ぺこりと一礼を返した。
 いまいち噛みあっていないような気もする会話に、クルスはひきつる口角を抑えられない。
「おい、イーシュ」
「うん?」
 呼びかけに振り向いたイーシュに、レオンは続けて言う。
「アリルにばっか構ってないで、こっちにも自己紹介してやれ」
 彼が親指で差したクルスの存在に、イーシュは今ようやく気付いた様子で目を丸くした。
「あらら、ごめん。……で、君は?」
 クルスは苦笑しながら、自己紹介を始める。
「僕はクルスです。クッククロー・ギルドに所属する騎士として、樹海に―――」
「ん、オッケー。クルスくんね。僕はイーシュ。吟遊詩人だよ。よろしく!」
 イーシュはクルスの両手を取ると、縦に振り回す。そしてぱっと手を離すと、くるりとアリルに振り返った。
「ところで、アリルちゃんは彼氏とかっているの?」
「え、ええっ!?」
「その反応は、ひょっとして……いないの? 可愛い子ほど、敷居が高くて手が出せないって言うし―――」
 そしてそのまま、再びべらべらと喋り続けるイーシュ。アリルはすっかり困惑した様子で、助けを求めるようにちらちらとこちらを見るが、クルスにはどうすることも出来ない。
 クルスはレオンを見上げるが、彼は一言素っ気無く、こう答えただけだった。
「ほっとけ」


「この森は本当、蒸し暑いね」
 額の汗を拭いながら、イーシュは呟いた。
 彼は装備こそ前衛ほどではないが、布を体に巻きつけるような厚着をしている。アリルはその顔を覗き込んで、尋ねた。
「イーシュくん、第二階層に来たことがあるの?」
「勿論」
 イーシュはにっと笑うと、続けた。
「―――僕、こう見えても冒険者歴は長いんだよ。実は次の階層にも下りたことがあるんだ」
「へえ……」
「人は見かけによらないのね」
 ノアが、涼しげな口調ながらどこか感心したように言った。イーシュは笑顔を彼女にも向けると、片目を瞑ってみせる。
「見直した?」
 しかし、ノアは素っ気無く返した。
「証拠が無いから、信用できないわね」
「そんなあ」
 大袈裟に肩を落としてみせるイーシュ。その服の裾をアリルが引いた。
「ねえ、イーシュくん。次の階層って、どんなところなの?」
「へ?」
「行ったことがあるなら、知っているはずよね」
 ノアは便乗するように、そう続ける。
「あはは、もうすぐ辿り着けるっていうのに。二人ともせっかちだなあ」
 女性陣に詰め寄られて、イーシュは鼻の下を伸ばした。


 その様子を、前衛の男二人は白い目で見つめていた。
「何なんですか、あれは……」
 一際低い声で、クルスが唸る。
 不機嫌全開のどす黒いオーラに、レオンは口角を引きつらせた。
「いい加減に慣れろよ。もう五日目だぜ?」
 イーシュがクッククローに加入してから、である。
 結局、控えめなクルスの反対は押し切られた結果となった。もう一人、反目するかと思われたノアは、意外にも馴染んでいるようである。もっとも、下心の塊のようなイーシュで遊んでいる、と言った方が正しいかもしれないが。
 だが、アリルは彼女よりももっと純粋な態度で彼に接している。それが、クルスには面白くないらしい。生真面目な彼のこと、ああいう軟派男とは水と油のように反りが合わないもののようだが、何かがそれに拍車をかけているように、レオンには思えてならない。無神経男にはこれ以上、詮索不可能な感情であるが。
 レオンはといえば、珍しく―――引っ掻き回すことの方が多いのに、という意味で―――事態を静観していた。
 どうでもいい、というのが一番正しいかもしれない。
「―――ま、もうじきアイオーンの包帯も取れるしな。それまでの辛抱だ」
「そうでしょうか……」
 クルスはまだ、暗い顔だ。彼はいつも深刻屋なきらいがあるが、それにしても浮かない表情である。レオンは首を傾げた。
 と、クルスがぽつりと呟いた。
「レオンは知っていますか」
「うん?」
 クルスは顔を上げると、ぼそぼそと続ける。
「今までイーシュさんが入ったギルドは、一月も経たずに解散しているって……」
 レオンは眉を上げる。
 クルスはふいと顔を背け、俯いてしまった。
「風の噂、ですけど」
 じっと足元を見つめる少年から目を離し、レオンは後衛を振り返った。
 楽しそうに会話している三人の中で、イーシュだけと一瞬、目が合った気がした。


 クルスの心配を他所に、その後も探索は順調に進んでいた。
 レオンの言葉通り、イーシュのバードとしての能力は確かなものだ。仲間の支援はもちろん、ノアほどではないものの、弓を操り戦闘に参加することも出来る。ふざけた様子は崩さないが、クッククローの誰よりも豊富な彼の樹海経験は、クルスも徐々に認め始めていた。
「面白い男だな、彼は」
「そうでもないですよ……」
 調べ物に行った執政院からの帰り道、でくわしたアイオーンと並んで歩きながら、クルスは溜息を吐いた。
 アイオーンは既に全快し、冒険業も再開している。イーシュとの顔合わせも済んでいるが、役割の関係上、未だに彼と組んで探索に出たことはない。そのため、イーシュの人物像をいまいち掴みきれていないらしく、クルスの説明にも今のような言葉を返すばかりだ。
「実力はあります。それは分かるんですが……」
「気が合わない人間はいくらでもいるさ」
 アイオーンは淡々と続けた。
「しかし、相手の人格までは変えようがないからな。それはそうとして、納得するしかないのではないか?」
 反論のしようが無い正論に、クルスは口を噤む。
 だが少々気まずい沈黙に耐えかね、違う話題を口にした。
「ところで、アイオーンさん。その、両手いっぱいの本は一体?」
「ああ、これか」
 アイオーンは治ったばかりの腕に抱えた、古びた本数冊―――一冊ずつが分厚い上に、表紙に何も書かれていない―――を持ち上げて答えた。
「樹海で発見された魔物の図鑑だ。別の著者によるものが複数あるようなので、まとめて執政院から借りてきた」
「密林の王について……ですか?」
「ああ」
 アイオーンは首肯する。密林の王は、現在任務で退治対象になっている魔物だ。クルスも少し探してみたが、あまり当てになるような記述は無かったように思う。
「恐らく、俺は今回留守番になるだろうからな。これぐらいは役に立たなければ」
 本に目を落としてアイオーンは呟く。怪我は完治したとはいえ、病み上がりに変わりはない。命を懸けなければならない戦いには、足手まといになるからと、メンバーから外れるように言ったのはレオンだ。クルスとしては、イーシュよりはアイオーンにいて欲しかったが、そんな申し出をレオンが聞き入れるとは思えない。こと実戦に関して、淡白だが、彼はそういう男だ。
「ん……あれは」
 ふと、アイオーンが前方に目を凝らした。つられて、クルスはその視線の先を見遣る。
 路地裏に引っ込んでいく複数の影。
 それに囲まれるようにしていたのは。
「イーシュさん?」
 クルスたちにも気付かず、彼はすぐに姿を消した。周りにいた者たちに見覚えは無かったが、最後の一人が抜き身の短剣のようなものを握っていたのを見て、クルスはぎょっとした。
「彼らは冒険者だな」
 アイオーンがぽつりと呟く。
 クルスの胸中に、嫌な予感がよぎる。
「僕、跡を追ってみます」
「あ、おい」
 アイオーンが止めるのも聞かず、クルスは駆け出した。


「もうちょっと落ち着こうよ。ねえ―――って、わ、うわわわ」
 襟を掴んで持ち上げられ、イーシュの体が浮かぶ。
「てめえ、最近調子がいいそうじゃねえか」
「そ、そんなこと、ないよ?」
 締めつけられる喉から言葉を搾り出す。相手は顔をしかめると、イーシュを地面に叩きつけた。
「知ってるぜ、イーシュ。お前、俺の女にも手ェ出したってな?」
 イーシュは彼の顔を知っていた。冒険者ではないが、エトリアの裏街で幅をきかせている男だ。その上、彼を取り巻くようにイーシュを見下ろす者たちは皆、所属したことのあるギルドの男連中だった。
「それは……誤解―――いたっ」
 上体を蹴られ、イーシュは唸った。
「俺だけじゃねえぜ。ここにいる奴らは全員、お前に礼を言いたくて仕方ないんだ。付き合ってくれるよな?」
 イーシュは慌てて立ち上がり、後退る。
 多少喉は苦しいが、この人数なら楽器を使わなくとも、歌だけでなんとか切り抜けられる。
 大きく息を吸おうとして、イーシュは背後に迫っていた数人の影に気付いた。
「あら……」
「どこ行こうってんだ? イーシュ、俺達の誘いを断るはずないよなあ?」
 イーシュは背筋が凍る思いで、半笑いを浮かべた。
(これは……まずい、かな)
「イーシュさん!」
 緊張を蹴破って、少年の声が響いた。
 聞き覚えのあるそれにイーシュははっとする。
 息を切らせながら、路地裏を覗き込むクルスと目があった。
 周りの連中が彼に気を取られた瞬間に、イーシュは入口側の男に体当たりした。男がよろけ、道が開ける。イーシュは顔を上げると、クルスを見遣った。
「耳を塞げ!」
 言うと、イーシュは大きく息を吸い込むと、絶叫した。
 大気がびりびりと震える。尋常ならざる肺活量で溜め込まれた空気が、音となって一気に放出されたのだ。不意を打たれた周囲の者達はもんどりうって倒れる。
 イーシュは隙ありとばかりに駆け出した。事前の警告通り、手で耳を抑えているので助かったようだが、目は丸くなっているクルスに微笑むと、彼はきっと眦を吊り上げた。
「イーシュさん、屈んで!」
「へ?」
 とっさに反応出来なかったイーシュだが、偶然にも石につまずき、前のめりに倒れ込んだ。と、伏せた頭の上を、突風が通過していく。イーシュは体勢を立て直すと、呻き声を背中に駆け抜ける。
「こっちだ!」
 クルスの腕を引くと、イーシュは全速力で大通りへ向かう。後ろから聞こえる怒号は無視して、クルスがついてきているのを確認しつつ、走った。


 広場の中央、噴水まで至ったクルスとイーシュは、荒い息を整えながら足を止める。
「イーシュさん」
「ん?」
 クルスは意を決して彼に声をかけた。
「少しお訊きしたいことがあるのですが……お時間はありますか?」
「うん? 大丈夫だけど」
 イーシュは夕暮れ空を見上げると、言った。
「―――こんなところで立ち話もなんだし、場所は変えようか」
「はい。ではどこに……」
「決まってるじゃん」
 イーシュはにっと笑った。
「酒場だよ、酒場」


 金鹿の酒場は、以前訪れた時よりもずっと賑わっていた。
「ちょっと前までは、今くらいの時間帯でも閑古鳥が鳴いていたんだけどね」
 イーシュの言葉に、カウンターの向こうにいる女将が苦笑する。
 クルスは注文したトマトジュースをちびちびと飲みながら、周囲に目を配っていた。彼が酒場を敬遠するのは、こうした雑多な雰囲気が肌に合わないのもあるが、それ以上に冒険者ギルドでの最初の衝撃がトラウマになっているということに、クルスは最近気付いた。そのためか、短剣一本剣帯していない今の状況が、かなり不安だった。
 ここに、冒険者ギルドで出会った、荒くれ達の姿は無い。だが、似たような格好の連中ばかりではあった。
「それで?」
 不意に声をかけられ、クルスはイーシュを向く。
「―――話ってなんだい?」
「……あまり、こんな事を訊くのはよくないと分かっているのですが」
 クルスはどう切り出そうかを迷った挙句、単刀直入にこう言った。
「イーシュさんは、どうして樹海探索をされているんですか?」
「へ?」
 よほど意外な質問だったのか、イーシュの目は真ん丸になる。
 クルスは気にせず続けた。
「深い意味はないんです。ただ、貴方が何か目的を持って、樹海に潜っているようには……あまり思えないので、つい」
 イーシュはただぽかんと口を開けてクルスを見ていた。その視線に気付いて、クルスは慌てて言い繕う。
「あ、あの……答えたくない質問だったのなら、いいんです。す、すみません」
 やはり、失礼だったような気がする。唐突に後悔が湧いてきて、クルスはその場を逃げ出したい気持ちで俯いた。
 が、次の瞬間に響いたのは、イーシュの笑い声だった。
 クルスが驚いて顔を上げると、彼は何故か涙が出るほど大笑いをしていた。
「あはは……ごめん、まさか君がそんな事を言うとは思わなくて」
 首を傾げていると、イーシュは笑いを収め、続けた。
「確かに僕は、特定のギルドに長くいたことがない。多分、君も知っているだろうけど」
 そう言って首を竦めたイーシュに、クルスははっとする。
「―――僕、こう見えても友達が多くてね」
「ごめんなさい。詮索するつもりではなかったんです」
 素直にクルスは謝る。が、イーシュはいつものようにへらへらと笑っていた。
「別に構わないよ。素性の知れない奴が仲間になれば、誰だって警戒するさ。命が懸かっている仕事だし……何より、君は大切な人たちを傷つけたくなかっただろうしね」
 何もかも見透かされているような―――だが同時にイーシュがそれを自覚していたということに感心して、クルスは彼を見つめていた。
「―――だけど、安心して。僕が入ったギルドがよく解散するっていうのは、僕のせいじゃないから」
「え?」
 イーシュは困ったように眉をひそめ、言った。
「原因はどのギルドも全部、“痴情のもつれ”って奴さ」
 イーシュ曰く、今までギルド内でも仲の良かった男女が突然不仲になって、その影響が周りにも及び、ついには解散となってしまったらしい。
 クルスは苦い笑いが浮かぶのを抑えられなかった。どう考えても原因はイーシュだ。正確に言えば、彼の女性に対する軽薄な態度―――いわゆる“女好き”という性質―――がそれに間違いない。無自覚というところを見るに、自前なのだろうが。
 案の定、イーシュは飄々と続ける。
「僕としては、いい迷惑だよ。逆恨みした、さっきの連中みたいなのも現れる始末だし」
「あはは……」
 クルスは笑うしかない。
 と、イーシュはずいと身を乗り出して、クルスを覗き込んだ。
「まあ……今回は長続きしそうな予感がするから、いいけど」
 面白がるように発されたイーシュの言葉に、クルスは目を丸くする。
「今日は助けてくれて、ありがとうね」
 クルスを覗き込む姿勢で、イーシュはにっと笑った。


 じめじめした空気に、華やかな笑い声が響く。
 レオンが振り返った先には、イーシュ。女性二人に囲まれて、彼は今日も鼻の下を伸ばしていた。
「イーシュさん」
 肩を怒らせ、剣呑な雰囲気でクルスが彼に歩み寄る。また始まったか、とレオンは顔をしかめた。
「―――すみません、地図を貸していただけますか?」
 ごく自然な調子で―――人によっては丁寧すぎるほどだが、クルスにとっては、だ―――紡がれた言葉に、レオンは頭にやった手を止める。
 クルスは申し訳なさそうに続けた。
「どうにも、道が違っている気がして」
 アイオーンがいないため、地図担当は交代制だ。冊子状になっているそれを懐から取り出したイーシュは、目を降ろして答えた。
「ん? いや、あってるよ」
 その脇から地図を覗き込んだクルスは、納得したように頷いた。
「ああ、本当ですね。すみませんでした」
「いえいえ」
 そうして和やかに会話を終えた二人に、レオンは目をしばたかせる。
 前衛に戻ってきたクルスが首を傾げた。
「どうしたんですか、レオン。変な顔して」
「いや……」
 いつの間に仲良くなったのか、レオンは尋ねようとして、やめた。悪かった関係が良くなったのはいいが、その原因なんて別にどうだっていいことだ。
 が。
「色々あったんですよ」
 訊いてもいないのに、ぼそりとクルスが呟いた。
 レオンは彼を見下ろしたが、こちらを見ようとはしないので、小さく肩を竦めた。
「レオン、見てください」
 話を逸らすように、クルスが袖を引く。彼の視線の先を仰ぐと、そこにはレンとツスクルがいた。
 飛竜の巣に良く似た小部屋の奥から、レオン達を待っていたかのようにレンが口を開く。
「やはりな」
 言葉の意味を読み取れずに黙していると、彼女はツスクルを連れて近付いてきた。
「君達はケルヌンノスを倒しに来たのか」
「ケルヌンノス?」
「密林の王のことよ」
 ツスクルは奥に進む一本道を指した。
「あの向こうにいる」
 レオンは意識を集中させたが、距離があるためか、その気配は読み取れなかった。
「あんたらはここで何を?」
「君達……いや、任務を受けた冒険者がここまで来るのを待っていた。執政院の命でな」
「いつもご苦労様だねえ」
 レオンの後ろから顔を出したイーシュに、レンは僅かに目をみはった。
「お前は……」
「やあ、お久しぶり」
 イーシュは暢気に手を上げて応える。レンは何かを言おうと開けた口を、閉じた。
 それは、彼らが視線を交えたほんの一瞬だったが、確かに奇妙な空気をレオンは感じた。好色なイーシュが、女に声をかける、それとは全く違う類の雰囲気を。
 だがそれも、どうでもいいことだ。レオンは言葉にしないことにした。
 レンは黙した代わりにバックパックを探ると、中身をレオンに向かって投げる。完全に、イーシュのことは意識の外に置いてしまったようだ。物を投げられたのは突然のことだったが、レオンは難無く受け止める。
「樹海の奥で手に入る植物で作った薬だ。戦いの場で役に立ててくれ」
「へえ……ありがとな」
 飲み薬のようなそれをまじまじと眺めると、レオンはレンに礼を言った。
 彼女は特に表情を変えることも無く、続ける。
「無理のないよう先に進め。我々はここで君達の任務の成功を待っていよう」
「あなた達は戦わないのですか?」
 クルスが尋ねると、レンは素っ気なく答えた。
「我々の任務は、君達冒険者の手助けをする、それだけだ」
 レオンは頭を掻くと、無言で踵を返し、他の者を促した。
 密林の王へと続く道を行きながら、ちらりと後ろを見遣る。
 レンもツスクルも、今までになく真剣な表情でこちらを見つめていた。

▲[B10F]一番上へ▲

第三階層

▼[B11F]一番下へ▼

B11F

 一面の青の世界。
 空が見えないにも関わらずこれほど明るいのは、植物や虫が視界全体で輝いているからだ。
 水の気配が濃い。足を踏み出すと、爪先が固い床を打った。石ではないようだが、水面でもない。彼は体重をかけても沈み込まない地面に安堵すると、背後の仲間を呼んだ。
 ここは冒険者でもごく限られた実力者にしか開けない世界、第三階層である。執政院の衛兵にすぎない彼には、好奇心より畏怖が先に来る深みだ。
 これも仕事と言い聞かせながら、隊を率いて道を進む。見える世界は全てが青ざめていて、自然の迷宮だった上層とは違い、自分の視覚に迷いそうになる。
 曲がり角で、彼は不自然に開いた竪穴に気付いた。覗き込もうとして、鼻を掠めた空気に息を呑む。
 血生臭い。
 悲鳴に、彼は振り返った。
 金属が床を擦る音。
 ここにいた人間の誰一人にすら気付かれず、魔物はそこにいたのだ。
 彼はふと、後退る足を止めた。
―――甲殻に覆われた巨体の群れが、彼のすぐ背後にも迫っていた。


「雨……やまないですね」
 木窓を叩く雨音に、アリルはぽつりと呟いた。
 窓に添えた手から、湿っぽい木の感触が伝わってくる。
 アリルは、開店間近の金鹿の酒場を手伝っていた。もう住み込みで働いたりはしていないが、手が空いたときはたまに遊びにくる。
 今日の探索は夕方からなので、メンバーとの待ち合わせの場所のここで、時間潰しをしていたようなものだ。
「エトリアは、雨が多いのか」
 カウンターに座るアイオーンが、独り言のように呟いた。
「ええ。けど、これほどの雨が続くのは珍しいです」
 アリルは律儀に答えたが、返事は彼が本の頁をめくる音だった。
 遠慮がちな雨音が、沈黙を際立たせている。アリルは再び窓に触れた。アイオーンは少し早く着いただけのようで、アリルにはとても理解出来ないようなことが書かれた本を読み耽っている。
 いつもは早く来るノアがまだ姿を見せていないのは珍しい。アリルが施薬院を出たころはまだ患者の数も少なかったが、その後急に忙しくなったのかもしれない。早めに出てきてしまった事を、アリルは少し後悔する。
 こんな雨の日のこと、クルスならば剣の訓練を諦めて、執政院の資料室に入り浸っていることだろう。街にいる間、アリルはノアを除いた他のメンバーとはあまり交流がないが、クルスとは年が近いせいか、よく会って話をする。彼は大変な勉強家で、肉体を鍛えることだけでなく、知識を蓄えることにも常に余念がない。その向上心は、学者であるアイオーンを感嘆させるほどだ。
 イーシュやレオンは、どこにいるのかなど皆目見当もつかない。気にならないといえば嘘になるが、なんとなく訊いてはいけないような気がする。
 そんなぼんやりとした思考を遮るように、店の入口の扉がベルを鳴らしながら開いた。開店前にも関わらず平然と入ってくるのはレオン、そしてその後ろにノアとクルスが続く。
 アイオーンが本から目を上げた。
「一緒に来たのか?」
「まさか。そこで会ったんだよ」
 レオンは淡泊に答えると、カウンターに手をついた。彼の頭から滴る水滴に、アリルは眉をひそめる。
「びしょ濡れだね」
「雨だからな」
 三人とも似たりよったりの格好だ。
「はい、どうぞ」
 サクヤがタオルを持って現れる。レオンは首を横に振った。
「すぐ出るし、いいよ」
「なら持っていって、樹海に入る前に使ってちょうだい。後で返してくれたらいいから」
 サクヤは人数分のタオルを持ってきていたようで、そう言いながら一人一人に手渡していく。
「すみません」
「いいえ」
 その中でも、クルスはほっとしたように息をつく。装備を大切にする彼のこと、鎧を濡らしたままでは錆びかねないと思っていたのだろう。
「糸、誰が持ってる?」
「僕が」
 挙手したクルスに、レオンが頷いた。
「よし。行くぞ」
「いってらっしゃい」
 迷宮に向かう冒険者たちの背に、サクヤが手を振る。
 アリルはちらりと振り返ると、言った。
「行ってきます!」
 目があったサクヤは、微笑んでくれた。


 第三階層“千年ノ蒼樹海”は、これまでの階層とは明らかに違っていた。
 第一階層のように踏み固められた土でもなく、第二階層のように天然の小部屋が多くあるわけでもない。特徴を述べろと言われれば、誰もがその―――海中を連想させる青を上げるだろう。
 事実、光る茸やツタの生えた青の世界は印象的だが、はっきり異質だと感じさせるものがここにはあった。木や石壁に空けられた、不自然な竪穴。そこに広がる暗闇は、天然の灯りに照らされるこの階層において不気味ですらある。
 入り組んだ迷宮、そう、それには違いない。しかし、この穴の奥に潜む何かが、その複雑さを助長させている。
「何か見えるか?」
「いや……」
 アイオーンの問いに、竪穴を覗き込んでいたレオンが答えた。彼は頭とその先に掲げていた剣を引っ込めると、肩を竦める。
「何もないみたいだ。今は、だけどな」
 今回クッククローに課せられた任務は、第三階層の上二階分の地図の作成だった。クッククローの先駆者が、僅かだとはいえ存在するのに対し、新たな地図が必要な理由はこの竪穴だ。突如として青の世界を蹂躙しはじめた竪穴は、新しい道として、今や樹海磁軸の目の前にまで達するほどになっている。
 執政院も異常を察知して兵を派遣したらしいが、すぐ連絡が取れない状態になってしまったらしい。そこで、冒険者に依頼したというわけだ。たたこれまでの任務と違うのは、限られたごく一部の冒険者たちにしか、発令されなかった点である。言い換えれば、それだけ危険性が高いということだが。
「どうする? 穴を進むか?」
 アイオーンの言葉に、レオンは迷いなく頷いた。
「そうでなきゃ、地図が埋まらんからな」
「魔物の仕業……かしらね」
 竪穴の内壁に手をつき、ノアは独りごちる。ひんやりとした石の感触に、魔物の痕跡は見られない。
「人間が作ったものでないのなら、そうだろうな」
 アイオーンが応じる。ノアは顔を上げた。
「危険ね」
「そうだな」
「何か感じない?」
「何をだ?」
 アイオーンがきょろきょろと周りを見渡す。ノアはそうではない、とかぶりを振った。
「嫌な予感がするわ」
「予感か」
 アイオーンは籠手つきの腕を組むと、首を捻った。
「……いや、特には」
 ノアが何か言い返すよりも早く、アイオーンはこう続けた。
「今までも、楽な道のりではなかったろう? 思い過ごしさ」
「おい、行くぞ」
 竪穴の入口から、レオンの声がした。そちらに向かいながら、ノアは呟く。
「それなら、いいのだけど」
 早口に紡がれた言葉は、青の世界に吸い込まれ、消えた。


 ちょうどその時、磁軸の側からクッククローの様子を窺っている者たちがいた。
「あの人たち、穴に入っていくわ」
 そう呟いて目を細めたのは、美しい金髪を真っ直ぐに腰まで下ろした女。重々しい鎧に身を包んで、大きな盾に寄りかかるように立っている。
「豪気だな」
 彼女に応じたのは、レンジャーの女だった。その目深に被った帽子の陰からは、眼帯と鋭い目が覗いている。
「先を越されてしまいますわ」
 おっとりと言うのは、柔らかな雰囲気を纏ったメディックの女。その後ろにいたバードの少女が、同意するように頷く。
 すると、彼女らの眼前にいた青年がくるりと振り返った。
「まあ、そう焦るな、諸君!」
 痩せっぽちといえるほど、細い体躯だ。白い顔には、背景の青一色が映っている。彼は不健康そうな風体を忘れさせるようににまっと笑うと、両手を大きく広げた。
「あいつらが何者か知らんが、この俺―――キディ様率いる、キディーズ・ギルドより先に地図を埋めているはずがあるまい! こんな時こそ冷静に、かつ大胆に先回り―――」
「何がお前のギルドだ」
「大体、私達も今日ここに入ったばかりでしょうに」
 女達に冷ややかな目で睨まれて、青年―――キディは言葉に詰まる。
「先回りしようにも、道はほぼ一本みたいですよー」
「なにっ」
 バードの一言に、キディはぐっと身を乗り出す。勢い余って足を滑らせ転倒した彼の姿に、メンバーからは何ともつかない溜息が漏れた。
 キディは真っ白な顔をやや朱に染めると、取り繕うように言った。
「と、とにかく後をつけるぞ!」


 クッククローが竪穴を抜けた先にもやはり、青の世界が広がっていた。
「変な通路……」
 いましがた通ってきた道を振り返って、アリルが呟く。
「執政院が地図を作り直そうとするのも、分かる気がするな」
 既存の地図と見比べながら、アイオーンが言った。
「―――奇妙な通路の代わりに、あるはずの道がなくなっている」
「どれ?」
 ノアが彼の手元の地図を覗き込んだ。アイオーンは目の前のT字路を指差す。
「正面の道が消えて、右に道ができている」
 迷路に視線を戻すと、確かに、真正面は土くれを塗りつけたような壁になっており、その右側面の道は竪穴になっていた。
「本当ね……」
「この分では、既存の地図はあまり当てにならないかもしれん」
 呟き、アイオーンは懐に地図を直した。
 ふと顔を上げると、険しい目つきのレオンと目が合う。
「どうした?」
「いや……」
 彼はアイオーンを通り過ぎ、その背後に伸びた竪穴を覗き込む。
 訝しく首を傾げている仲間たちを振り返ると、小さくかぶりを振った。
「気のせいだったみたいだ」
「何か、いたの?」
「いいや」
 答えると、レオンは再び先頭を歩き出した。
 アイオーンはノアと顔を見合わせる。


「な、なんだ……あいつ」
 キディは転がるように、竪穴から這い出した。
 この穴は相当な長さがある。加えて、キディは灯りも何も入れていない。真っ暗だった。
「ま、まあ、偶然だろうけどなっ」
 うるさい心臓の音をごまかすように、キディは呟く。頷きながら立ち上がった彼を迎えたのは、仲間の女たちの呆れ顔だ。
「何をびびってんだか……」
「というか、普通に追いかければいいんじゃないんですか? ここまでずっと一本道なんだし」
「うるさいぞ」
 じろり、とキディはバードの少女を睨みつけた。
「―――あの連中のケツにくっついて行ってるみたいで、なんとなく嫌ではないか。他人の後ろにつくなど、この俺のプライドが許さん」
「また意味の分からない言い訳を……」
 レンジャーが頭を抱えて、深々と溜息をつく。
「あ! ほらあ、行っちゃいますよ。早く追いかけないと!」
 竪穴を覗き込んだバードが言った。キディはその頭頂に拳を振り下ろす。
「いたっ! 何するんですかあ」
「馬鹿者。追いかけるんじゃない。俺たちの行く先にたまたま、あいつらがいるだけだ。分かったな?」
「どちらも同じでは……」
「うーるさい! いいから、行くぞ!」
 バードを押しのけ、キディはずんずんと歩き出す。
 刹那、バードが声を上げた。
「キディさん!」
「何だ!」
 くるりと振り返るキディ。
 その勢いで、彼の後頭部が竪穴の入り口に、思い切り打ち付けられる。
 がん、といい音が鳴った。
「き、キディさん……」
 キディは声もなく蹲った。
 おろおろするバード。あらあらと呟くものの、傍観しているメディック。
 レンジャーとパラディンの二人は顔を見合わせると、肩を落とした。


 いつになくレオンは気を張り詰めていた。
「レオン」
 隣に立つクルスが、それとない風に声をかけてくる。
「誰か、僕たちをつけています」
「ああ」
 さすがに気づいてはいたようだ。レオンはそっけなく返した。
「ほっとけ」
「でも……」
「あいつらは、別にいい。問題は……」
「問題は?」
 クルスが訊き返してくる。だが、レオンは何でもないとだけ返すと、また沈黙した。
 納得していない様子ながら、クルスも口をつぐんだ。前衛に再び静寂が落ちる。
 後ろを追ってきている気配については、恐らく、ノアも気づいていることだろう。あれは冒険者だ。ただ後ろをついてきているだけで、別段害があるわけでもない。
 だが、それとは違う、別のものが確かに、いる。
 それが何かははっきりと掴めないが、漠然と、友好的なものではないと感じる。
「どうかしたの?」
 後ろから、覗き込むようにアリルの頭が現れた。
 彼女は首をもたげると、あっと声を上げる。
「行き止まりだね」
 細い通路の先は、淡い光に輝く壁になっていた。今までのように、土で塗られたものではない。
「地図はどうなっている?」
「少し待ってくれ。ある道とない道が複雑で……」
 アイオーンは、地図に目を落として眉根を寄せていた。
 と、光る壁に興味津々の様子で、アリルがそれに近づいていく。
「こけ……か何かかなあ、これ……」
「おい、あんまり不用意に―――」
 警戒心のない彼女に、注意を呼びかけようとした、その瞬間。
 レオンの言葉にかぶさって、誰かの悲鳴が響き渡る。
「こ、こっち来るな!!」
 這うようにしてこちらに逃げてきたのは、青い髪の青年だった。
 彼の後を追うように、恐らく連れであろう女が四人、駆けてくる。闖入者たちの一人、金髪の女を認めたクルスが素っ頓狂な声を上げた。
「アクローネ!? どうしてこんなところにいるんです!?」
 アクローネと呼ばれた騎士―――クルスの従姉だか姉だかという女だったか―――は、クルスを振り返ると怒鳴った。
「ようやく追いついたわ、クルス。よりによってこんなところにいるだなんて」
「何なんだ、一体」
 突然現れた五人の男女の姿に、レオンは目を丸くする。
 息を切らせていた青髪の青年が、きっと眦を吊り上げた。
「それはこっちのセリフだ! 一体何なんだ、この階層は! 地図は間違いだらけだし、俺様たちより先を行く不届き者はいるし!」
「二つ目は言いがかりだと思うが……」
「極めつけは―――うわあああ、来たあ!」
 青年は怯えた様子で、今来た方向を見遣った。地響きのようなものが、近づいてくるのが分かる。
「アクローネ、あの―――」
「話は後よ」
 状況を読み込めないクッククローの面々も、彼らのただならない様子に自然と身構える。
「というか、あんた達は誰なんだ」
「我々はキディーズという名のギルドだ。ここへは恐らく君達と同じく、執政院の任務を受けてやってきた」
 レオンの問いに、レンジャーの女が口早に説明する。なるほど、あとをつけていたのはそれで、とレオンは納得した。
「それで、この地響きは何なんだい?」
「すぐそこで、巨大な蟻のような魔物に襲われてな」
「蟻?」
 レオンは眉を顰める。
「そう、蟻だ。これがまた厄介な―――」
「待て」
 レンジャーを制止すると、レオンは感覚を研ぎ澄まさせた。
 地響きはある。だが、敵の気配が異様に静かになっている。
 緊張の中、レオンは狭い空間を見渡した。背後の壁側、少し離れたところに、アリルが立っているのが目に入る。
 そして、アリルの足元の床が、僅かに盛り上がっていたことに気付いた。
「アリル、そこから離れろ!」
「え?」
 鋭い警告。
 そして続いた間の抜けた声と重なって、壁と地面が崩落する音が、響いた。


 アリルとレオンたちの間、壁をぶち抜いて現れたのは、なるほど、蟻によく似た魔物だった。
 実際に蟻を大きくしただけでは、こうはなるまい。それらは磨きたての金属板のような甲殻に身を包んでいた。鎧具足のような脚が、がしゃんと床を叩きつける。後ろで上がった呻き声のような細い悲鳴は、場の絶望感を顕著に示していた―――そう、この見るからに強敵然とした魔物は、一体ではなかった。壁を破って現れた一体の後ろに、少なくとも三体の蟻が控えているのが隙間から確認できる。
 レオンは後退しながら、蟻の向こう側に覗く視界に目を移した。床の崩落に巻き込まれたアリルが、辛うじて引っかかっているのが見える。しかし彼女を助けてやるには、この番人のような蟻たちを、打ちのめさなければならない。
「……これか、あんたらの言ってたのは」
「ええ」
 アクローネが苦虫を噛み潰したような顔で答える。
 レオンは深々と溜息を吐いて、剣を抜いた。


 助かったのか、そうでないのか。アリルは震える手足で必死に穴を這い上がる。
 眼前には、初めて見る巨大な魔物が立ちふさがっている。地下三階にいた蟷螂にも似た蟻の大群が、今にもアリルを踏み潰さんばかりに迫っていた。
「お、おい、アリアドネの糸を使うぞ」
 どうやら、自分達の他にも人がいるらしい。男の声が聞こえた。
「それが良さそうだな」
「レオン、僕達も……」
 クルスの声だ。蟻の巨体の向こうに立っているレオンが、首を横に振ったのが見えた。
「駄目だ」
「どうして!」
「アリルを置いていくつもりか?」
 彼は、剣の切っ先でアリルを指した。糸で複数が脱出するためには、使用者の一定距離以内にいなければならない。戦闘中に糸を使えない理由の一つだ。
「俺たちにゃ関係ないね」
「キディ!」
 耳慣れない声の遣り取りの後、レオンの背後から光が漏れた。どうやら、もう一つのギルドは脱出したらしい。レオンが誰か―――クッククローの人間だろうが―――に向けて肩を竦めていた。
 突然の光に驚いたのか、蟻の触覚がせわしく動く。ふとその眼がアリルを捕らえた。
 彼女が息を呑んだ、その瞬間。
「え、きゃあ!」
 ず、と足を引きずるものに、アリルは悲鳴を上げた。膝で引っかかっていた体勢が崩れ、彼女の体は足を擦りながら穴へと引きずり込まれていく。
「い、いやっ」
 アリルは半狂乱になりながら、必死に足をばたつかせた―――つもりだったが、どれだけ渾身の力を込めようとも、両足の束縛は寸分も緩みはしない。
「アリル!」
 異常に気づいた仲間たちが、両肘で穴の淵にしがみついていたアリルに駆け寄ろうとする。が、その行く手を阻む蟻が、一番近くにいたレオンに顎を振り下ろす。辛うじて彼が回避したのを視界の隅でアリルは捕らえたが、既に体力が限界に達した彼女は、成す術もなく穴に引き込まれていく。
 にわかに戦闘が始まる。手を伸ばすも、次にアリルを襲ったのは、奇妙な浮遊感だった。
 あまりの恐怖に、彼女はそこで意識を手放してしまった。


「アリル!!」
 少女が穴に吸い込まれた瞬間を、レオンははっきりと目撃していた。彼は側面で蟻と対峙していたクルスに、怒鳴るように声をかける。
「クルス!」
「何です!」
 応えるクルスも余裕がないのか喧嘩腰だ。
「糸、お前が持っていたよな!?」
 アリアドネの糸のことを指して言うと、辛うじてクルスが頷いたのが見えた。
「よし。お前らはすぐに脱出しろ、いいな!」
「え?」
 クルスが振り返る。レオンは蟻の鋭い顎を避けるべく跳躍すると、その背を剣で滑るように受け流した。蟻の大群を飛び越えた彼は、そのままアリルが消えた穴に向かう。
「―――レオン!?」
「こっちは任せろ。いいか、すぐにだ! 躊躇うなよ!」
 目が合ったクルスにそう告げると、レオンは自分から穴に飛び込んでいった。


 息を呑む声。誰のものともしれない。自分のものだったのかもしれないと、クルスは思った。
 仲間が二人、穴に落ちた。助けなければ―――
 そんな思考が、妙にゆっくり訪れたように感じた。
 ノアが何か叫びながら、蟻の大群に向かおうとしている。その腕を、誰かが掴んで留めている。
 アイオーンだ。その顔が、こちらを向いた。
「クルス、糸だ!」
 その声に、はっとクルスは正気を取り戻した。
 そして何かを考えるよりも早く、いつの間にか手にしていたアリアドネの糸を、解いた。


 エトリアの街は騒然としていた。
 破竹の勢いで探索を続け、ついに第三階層に挑んだクッククロー・ギルドが、二人の仲間を失って帰ってきたのである。
 命からがら逃げ延びてきた三人は、先に到着していたキディーズの面々と共に施薬院で治療を受けていた。
 キディーズの中では一番軽傷であったキディが、経過を執政院に報告して帰ってきたときに見たものは、クッククローの仲間割れの様子だった。
 睨み合うのは、診療用の簡易ベッドに腰掛けたノアとクルス。その脇に厳しい表情のアイオーンと、少し暗い顔をしたイーシュが立っている。彼らのすぐ近くには、いずれも軽症のキディーズのメンバーがいた。
「なら、このまま見捨てろと言うの」
 ノアが硬い声で言った。いつも以上に、凍り付くように冷たく、そして彼女らしくなく興奮した声だった。
「そうではありません。けれど、今の僕らでは同じことの繰り返しです」
 こちらも同じような声で、クルスが応じる。彼は俯いて、何かに堪えるような顔をしていた。
「黙って待っていろと?」
 ノアは皮肉げに口角を上げる。
「―――二人の死体が上がるのを?」
「そんなこと―――」
 弾かれたようにクルスは顔を上げる。それを見て、ノアが深々と溜息をついた。
「話にならないわ」
 立ち上がろうとする彼女を、イーシュが慌てて諌める。
「駄目だよ、まだ立っちゃ」
「……そんなことを言ってられないのよ」
 独り言のように、ノアは額を抑えて力なく呟いた。
「―――早く行かないと。でないと、あの子が……」
 イーシュとアイオーンが顔を見合わせる。
 刺激しないようにそろそろと、ノアを横たえていく。どうも、熱が出ている様子である。
 キディは大仰に嘆息した。
「へ、二人行方不明になっただけで、この様かよ」
 その一言に、クルスがすくと立ち上がる。
「今、何と?」
「よせ、クルス」
 アイオーンの制止の声も聞かず、クルスはキディに詰め寄ってくる。
 そう強くない力で襟を掴まれたにも関わらず、身長差のせいでキディの体躯が浮く。キディは苦しくなって呻くが、反応はなかった。
「し、死んだわけじゃないんだろ」
「キディ、場をわきまえなさい。貴方も落ち着いて、クルス」
 アクローネがたしなめるように言う。
 クルスはその声に反応して、やや力を緩めたが、キディは神経を逆撫でされた気分でこう吐き捨てた。
「なんだよ。お前らだって、あいつら見捨てて逃げ帰ってきたくせによ!」
「キディ!」
 アクローネの怒声。だが、クルスの手は既に力を失っていた。
「見捨て、た?」
 キディはそれを振り払うと、クルスの虚ろな目が自分を捉えていたことに気付いた。
 気味が悪くなって、キディは一歩彼から引き下がる。
「なんだよ……文句あんのかよ。心配なら、さっさと助けに行けばいいだろうに」
「それぐらいにしておいてくれないか」
 キディの肩を、篭手の固い感触が打った。
 振り返って見上げると、アイオーンの赤い瞳と目が合った。その静かな視線に、キディはばつが悪くなって彼の手を振り払う。
「クルス」
 アイオーンの呼びかけに、項垂れたクルスは応じなかった。アイオーンは彼に近づくと、ぽん、と軽く肩を叩く。
「―――落ち着くんだ。いいか、今回のことは誰のせいでもない」
「アイオーンさん、僕は……」
 クルスが顔を上げる。が、口を開いても先に言葉は続かない。言うべきことを声に出来ない様子で、クルスは視線を彷徨わせる。
 その気持ちを汲んでか―――表情は変わらないままだが―――アイオーンはこう言った。
「レオンは自分から穴に飛び降りた。何か、考えあってのことだろう。ならば無事さ」
「そうだね。レオンだもんね」
 ふと、イーシュが笑う。危険を顧みず女の子を助けに行くなんて流石だよねえ、と、どこか力のない笑顔ではあったが。
「とりあえず、今は休んだ方がいい。君の言う通り、今捜索に行ってもさっきの二の舞になるだけだ」
「そう……ですね」
 イーシュに支えられ、クルスはよろよろとベッドに向かう。
 アイオーンは振り返ると、キディらに向き直った。
「キディーズ、だったか。事情は聞いていたろう。君たちにも協力してもらいたい」
「勿論よ」
 キディが何か言う前に、アクローネが一歩進み出て、答えた。
「―――私たちにも、原因の一端があると思うもの。手伝わせてもらうわ」
「困ったときはお互い様、ともいいますしね」
「乗りかかった舟だな」
「そうですねえ」
 ギルド員の女達が賛同していく。冗談じゃない。厄介事はごめんだ。ただ一人キディは冷や汗をかきながら、こそこそと戸口に向かう。
 が。
「ねえ、キディ?」
「え、ええ!?」
 不意にアクローネに話を振られ、キディは上擦った声を上げる。
 気づけば、彼は室内の注目を集めていた。
 キディはうう、と唸るが、やがて観念して、叫んだ。
「分かったよ! 手伝えばいいんだろ、もう!」

▲[B11F]一番上へ▲ ▼[B12F]一番下へ▼

B12F

 まだ小さな子供だった頃、木から落ちたことがあった。
 それと似た浮遊感。
 目の前の光景が、急速に遠ざかっていく、感覚。
 そのときは、木の下に収穫期で集めた藁が置いてあって、助かった。
 キタザキ先生が飛んできて、こっぴどく叱られたけれども。
 藁の中に沈んだときの、柔らかさ。肌を刺す、軽い痛み。
 今でも覚えている、安心感。


 だが実際には、硬い床からアリルは身を起こした。
「気がついたか」
 何事もない風に、落ち着いた声が呟く。顔を向けると、鎧姿のレオンが壁際に座り込んでいた。
「ここ……」
 青の世界を見渡して、アリルははっと息をのんだ。
「わ、私、床が崩れて―――」
「下にいた蟻に引きずり落とされたんだ。ここは地下十二階だよ」
 淡々と―――どこか、疲れの滲んだ声でレオンが説明した。よく見れば、鎧の端々が欠けていて、レオン自身も薄汚れている。
「レオンも落ちちゃったの? 怪我はない? みんなは……それに魔物は?」
 這うようにして、アリルはレオンに詰め寄った。レオンが片手を上げて応える。
「落ち着け。順を追って話してやるから―――」
 彼は言葉を途中で切った。
「何?」
 首を傾げるアリルには応じず、レオンはすくと立ち上がる。
「……とりあえず、移動しよう。ここは危険だ」
 周囲を見渡すレオンの真剣な様子に、アリルは何も言わずこくと頷いた。


 レオンは、アリルを追って穴に飛び込んだらしい。
 アリルを引き込んだのは、やはり蟻だった。あの通路は今にして思えば、獲物を追い込む罠だったようで、一階下―――この階だが―――にも魔物の大群が押し寄せており、アリルは危うく餌になるところだったそうだ。レオンがどのようにアリルを救出して、その軍勢からどう逃げ延びたのかは話されなかったが、彼の様相からして大体のことは想像できる。
「ごめんなさい……私のせいで」
 しゅんとするアリルに、レオンは軽く手を挙げて言った。
「気にするな。お前が悪いわけじゃない」
「……でも」
「なっちまったもんは仕方ねえだろ。それより、これからの事を考えないと」
 レオンは手にしていた銀の短剣を掲げた。
 彼がよく使っている、戦闘補助用のものだ。それがどうしたのかと、アリルは首を傾げる。
「俺の武器はこれだけだ」
「えっ?」
「でかい方の剣は、魔物に溶かされちまってね」
 肩を竦めて、レオンは短剣を剣帯に収める。
 アリルは慌てて、自分の肩から下がっている鞄の中身を探った。
「どうだ?」
 武器になりそうなものは皆無だが、包帯やら薬やらの医療品をはじめ、道具や携帯食糧もわずかながら入っている。
「食糧は、二人なら……数日は持ちそう」
「あとは魔物を食うしかないか」
「ええっ」
 平然とそう発言したレオンに、思わずアリルは後ずさる。
「なんだよ」
「……ううん、そうよね。遭難してるのよね、私たち」
「それより、やっぱり糸はないのか?」
 アリルは力無く首を振る。
「メディカとアムリタが数本と、ネクタルが一本あるだけ」
「どこまで保つか、だな」
 嫌なことをさらりと言うと、レオンは曲がり角を覗いた。
 地下十二階も一つ上の階と変わらず、青の世界が広がっていた。ただ竪穴の規模は、比較にならない。歩いても歩いても、曲がりくねった暗い穴の道が、蟻の巣のように複雑に枝分かれしながら続いているだけだ。
「そのうち、幼虫とか卵の部屋に行き着いたりしてな」
「やめてよ……」
 げんなりしてアリルは言った。たった二人であんな蟻の大群にぶつかれば、今度こそただでは済むまい。
 そこまで考えて、アリルははっと気付いた。
「ね、レオン」
「ん?」
「さっき、私が起きてすぐ移動したよね? もしかして、あの場所……」
「近くでずっと、何かの気配がうろうろしていた。こっちに来るかどうかまでは判断つきかねてね」
 とりあえず安全策をとったんだよ、とレオンは淡々と続けた。アリルは背筋に冷たいものが落ちるのを感じる。
 そうだ。まだ、助かったわけではないのだ。
 安堵感がどこかに飛ばされていった。二人きり、装備すらまともにない状態で、魔物の巣の中―――この階がもはや蟻に占拠されているという意味で―――に迷い込んでいるようなものだ。
「い……生きて、帰れる……よね?」
「さあ。少なくとも、無事に出られるよりかは餌になる確率の方が高いな」
 レオンはそう言ったあとに、アリルが涙目になっているのに気付いて、取り繕うように付け足した。
「とりあえず、上への階段を探そうぜ。地下十一階には樹海磁軸がある」
「そ、そうだね……」
 アリルが小さく頷くと、レオンはさっさと歩き出した。


 どこまで行っても、竪穴は続いている。
 発光する植物を集めた灯りで足元を照らしながら、レオンたちは冷たい闇の中を無言で進んでいた。どうも、蟻の魔物は音にのみ敏感のようだからだ。先程覗き込んだ道で蟻と鉢合わせした際はここで終わりかと覚悟したが、彼は自分たちに気付いた様子もなく身を翻し、のしのしと行ってしまった。甲殻のひび割れのように赤く開いた目は、暗闇の世界ではきっと飾りのようなものなのだろう。
 先からずっと歩きづめだ。文句一つ言わずついてきている背後の少女も、もうそろそろ限界だろう。しかし、周囲を徘徊する気配は消える様子も見えない。ここが蟻の巣の中という比喩は、案外例えでもないのかもしれない―――と、ちらりと一瞬横目で何かが見えた気がしてレオンは立ち止まる。
「な……何?」
 背中にぶつかったアリルが、小声で非難するように尋ねてくる。
 レオンは左側面を見遣った。たしかに、光が見える。
「あっちだ」
「え?」
 出口への階段に向かうには、まず蟻の竪穴から抜けて正規の道を見つける必要がある。
 正しい道には天然の青の世界が広がっているため、竪穴に比べて明るいのだ。
 事実、レオンが進んだ先には確かに、光が溢れていた。
 しかし。
 道が続いていたと思しき壁は土で塗り固められ、青の世界はそこで完全に行き止まりとなっていた。
 そして―――
「あっ」
 アリルが小さく息を飲み、レオンの背に身を隠すように縮こまる。
「もう、やだ……」
 掠れた声で呟かれる言葉。
 行き止まりの土壁にはうずくまるように、鎧をまとった―――もとい、兵士の成れの果てが寄り掛かっていた。
「先遣隊……かな」
 背中にアリルをへばりつかせたまま、レオンは死体に歩み寄り、膝をついた。腐敗の程度からして、先遣隊の兵士なのは恐らく違いないだろう。蟻にここまで連れてこられたのかは知らないが、ざっと見た辺りで、身体に欠損部位はない。
「喰われちゃいない……か?」
 死因までは推定できない。そういうのはこの少女の仕事だと思っても、それを強要することは流石のレオンもしなかった。その必要がないというのが、主な理由だが。
 何か役に立ちそうなものはないかと探るが、剣の一本も見当たらない。より詳しく物色しようと身を乗り出すと、アリルが鎧の留め金を引いた。
「ね、ねえ、まだ終わんないの。というか何してるの」
「いや、何かないかなと思ってさ」
「もういいじゃない。……行こうよ」
 振り返ろうとするが、アリルはぴったりくっついているようで、姿が見えない。どうも死体を見るまいとしているようなので、レオンは首を傾いだ。
「お前、医者の卵のくせに死体が苦手なのか」
「綺麗なら大丈夫だけど……施薬院には、こんな状態になったご遺体は運ばれてこないもの」
「そりゃそうだ」
 レオンは納得する。そしてあの院長が、好んでアリルに惨たらしい死体を見せるとも思えなかった。
「ま、人間こういうところで死んだら、こうなるのさ。覚えときな」
「はい……」
 殊勝にアリルが頷いた気配がする。
「ところで、これはまずいな」
「え?」
 レオンは話題を唐突に変え、立ち上がると、周りを見渡した。
「見つかったみたいだ」
「そ……それって魔物に?」
「走るぞ、ついてこい」
 言うと、レオンはもと来た道を小走りに戻りだす。慌ててアリルがついてくる。その背後で、土の塗り壁が崩れた。
 ぼろぼろと落ちる黒い土に紛れて、針金の親玉のようなものがにょきと生えてくる。
 蟻の脚だ。
「れ、レオン! 前! 前!」
 アリルの声に、レオンは視線を移した。目の前の道から、行進のように規則正しく地を叩く音が聞こえてくる。
「こっちだ」
 立ちすくみそうになったアリルの腕を引き、レオンは右手側に曲がった。移動ルートまでは予測できないものの、どの方向から蟻が近づいてくるのか、彼にははっきりと分かる。
 走る二人の前に、蛙の魔物が飛び出してくる。
「うひゃあ!?」
 アリルが声を上げた。
 レオンは短剣を逆手で引き抜くと、すれ違い様に目を狙った。思ったよりも蛙の動きは早かったため、刃は瞼の上あたりを掠ったに過ぎなかったが、痛みのせいか蛙の悲鳴のようなものが轟き渡る。
「止まるな、走れ!」
 叫ぶと、レオンは先を行かせたアリルを追って駆け出した。体勢を崩した蛙が彼らを振り返ると同時に、その側にあった竪穴の入口から蟻の頭がぬっとせり出した。
「あっ……」
 アリルが息を飲む。蛙の姿は、蟻の巨体に阻まれて見えなくなった。
「今のうちだ」
 蛙の断末魔が空間を裂く。それに誘われ、蟻の行軍が行く先を変えていく。レオンはアリルの肩を叩くと、すぐにその場を離れるべく移動を再開した。


「……だめ」
 しばらく走ったのち、蟻の気配もようやく遠ざかったあたりで、壁にもたれていたアリルは顔を覆った。
「こんなんで……逃げきれるはずないよ……」
「逃げなきゃ食われるぞ」
「分かってるわよっ」
 半泣きになりながら、アリルは喚いた。と、いつものように平然と立つレオンの左腕に違和感を覚えて目を丸くする。
「腕、怪我してるじゃない」
「ああ……さっきのでかな」
「見せて」
「いでで」
 アリルはレオンの腕を引っ掴むと、鞄から取り出した品で手際よく手当てし始める。その様子を傍観しながら、レオンがぽつりと言った。
「別にいいよ、適当で」
「何言ってるの。結構ひどいよ、これ」
「そう?」
「それに……」
 アリルは俯くと、ぼそぼそと呟いた。
「―――私に出来るの、これだけだから、やらせて」
 言ってしまってから、唇を噛む。泣きそうな気持ちが、喉元まで上がってきていた。
「これだけって……十分じゃないか?」
「普段はそうでも、今は違うでしょ。……私、足手まといだし。何なら置いて行っても―――」
「あのな」
 レオンが溜め息をついた。
「―――俺が何のために、穴に飛び降りたと思ってんだ」
 静かな声が淡々と続ける。
「ここで俺だけ生きて帰ったりしたら、先生に殺されちまうよ」
 冗談交じりではなく、至って本気のレオンに、アリルはほんの僅か、表情を緩めた。
「うん。……そうね、ごめん」
 包帯を巻かれた腕の具合を確かめながら、レオンはうんうんと頷く。
「そうそう。だから、二人で一緒に帰るか―――餌になるか、どっちかってことだ」
「嫌なこと言わないでよ……」
 アリルは頬を引きつらせると、肩を落とした。


「おい、アリル」
 体を揺さぶられ、アリルは目を覚ました。
 硬い地面に敷かれた白衣の上に横たわっていた彼女は、寝ぼけ眼を擦りながら身を起こす。
 傍らに膝をついていたレオンは彼女が起きたのを確認すると、すくと立ち上がった。
「どうかしたの?」
「どうも、蟻の様子が変だ。移動している」
 あらぬ方角―――アリルにとっては、だが―――を向いて、レオンは険しい表情をしていた。アリルは、昨日のうちに水筒に入れておいた蒸留水を一口口に含むと、彼に倣って立ち上がる。
「こっちに向かってるの?」
「いや……」
 顎に手を添え、レオンは押し黙る。彼が真剣に何かを考えている姿など見るのは初めてかもしれない。その間に、アリルは身支度を整えていた。
 蟻の気配が遠ざかってから、二人はここに留まり、一夜―――外界の様子は分からないので、アリルの持つ懐中時計だけが時間を知る頼りである―――を明かした。夜中にアリルは何度も目を覚まし、寝ずの番の交代を訴えたのだが、レオンは聞き入れなかった。もっとも、魔物の気配は彼でなければ知りえないのだが。とにかく、レオンは一晩全く寝ていないはずである。
「大丈夫? 休まなくて」
「ああ。とりあえず、俺達も移動しよう。なんか嫌な予感がする」
「うん」
「おっと、その前に」
 レオンはくるりと振り返ると、アリルに掌を差し出した。
「な、何?」
 彼の手が、アリルの鞄を指差す形に変わる。
「何か食べさせてくれ。寝ないのは平気なんだが……腹が減っては戦は出来ぬって言うし」
 困ったように言うレオンの言葉に呼応するように、腹の虫が訴える。
 アリルは久々、満面に笑みを咲かせた。


 蟻の数が減っている。
 今日の早朝から今にかけて、あちこちにある獰猛な気配は明らかに減りつつあった。蟻の移動と、なんらかの関係があるのかもしれない。
 道は相変わらず薄暗い竪穴だが、出てくる魔物は蛙やミミズやらの進化形、またはさほど巨大でもない甲殻蟻である。つまり、積極的にこちらを食い物とみなして襲い掛かってくるような、強敵は現れていない。
 それでも、二人きりで、短剣しか武器のない状況では、刹那の油断すら許されなかった。自分の命だけなら捨て身でどうにでもなる場面でも、レオンの背後にはアリルがいる。何かを守りながら戦うのは初めてではないが、ここまで暗中模索しながら進むのは、初めてだ。
「まさかとは思うけど……」
 探索というよりも逃亡二日目に入り、アリルの顔にも疲労の色が濃い。彼女は不安げに目を上げて、続けた。
「―――追い込まれてる、なんてことはないよね」
「あいつらに、そこまでの知恵はない、と思うがな」
 だが、レオンにも多少の心当たりはあった。入り込むと追いかけてくるが、その通路を抜けると気配が途絶える、ということには今までに何度か遭遇している。こちらの行動もあって逃げられているものと、考えていたのだが。
「それに、数が減っている理由にはならないだろ」
「そうね……」
「ん?」
 足元に違和感を覚え、レオンは立ち止まった。
 同じようにして、アリルが足を止める。その際に蹴飛ばしたものを、彼女は何気なく持ち上げた。
「あ、やめとけって」
「え?」
 アリルは手元の灯りを丸いそれに近づける。
 暗闇にぼんやりと浮かんだのは、人の頭蓋骨。
 レオンは額を押さえた。
「きゃ、うああああああ!?」
 自分で掲げたものながら、アリルは盛大に悲鳴を上げる。
 途端、周りの気配が一斉にこちらを向いた。
「まずい」
 レオンは、頭蓋骨と向かい合って凍りついていたアリルの肩を掴むと、怒鳴った。
「おい、走るぞ!」
「れ、レオン、こ、これっ! これ、どうしよう!」
 パニック状態になりながら、アリルは手にした頭蓋骨を、盛大に嫌な顔をしたレオンに向けてくる。さすがの彼も、生の人体の構造をこんな雰囲気の場所で体感したいとは思わない。
「ンなもん、その辺にほっとけ!」
「で、でも人の骨……」
「俺達が骨になっちまうぞ!」
 アリルからそれを取り上げて放ると、レオンは彼女の手を取って、走り出した。四方からかなりの速さで魔物が迫ってきている。レオンはそのうちの一つ、気配が少ないところに向かって駆けた。
「ご、めんなさい」
「喋るより、走るエネルギーを費やした方がいいぜ」
 レオンは目を凝らす。分かりにくいが、確かに細い曲がり角がある。
 向かいの道から、蟻の大顎が姿を見せた。
「頭、低くしろ!」
 身を折り曲げながら、二人は細い通路に駆け込んだ。肩が掠った壁の上を、蟻の足が伝う。振り返ることも速度を緩めることもしないで、レオンたちはだだっ広い空間に躍り出た。
「な、何、ここ」
 べたつく冷たい空気の中に、潮に似た臭いが充満している。左右を確認して息を整えながら、レオンは顔をしかめた。
「くそ……」
 視界がはっきりせずとも、ただならぬ状況だとは肌で感じ取ったのか、アリルが怯えたように寄り添ってくる。彼女が自分ほどに夜目が効かなくて良かったと、レオンは思った。竪穴を広くしたような部屋の壁際には、蟻が食い散らかした残骸が山積みになっているのである。
 そして彼らの真正面には、甲殻蟻の更に数倍はありそうな巨体を反らせた、蟻がその風格を顕にしていた。
「さしずめ、女王蟻ってところか……」
 呟き、レオンは短剣を抜く。威嚇にもならないのは承知の上だ。かといって退くこともできない。今来た道にも、牙を向いて臨む蟻が待ち構えている。
 追い込まれたのだ。
 女王蟻はぎちぎちと歯を鳴らせると、笛の音のような声を響かせた。
 闇を裂くような呼び声に、魔物の気配が増加する。
「アリル」
「な、何……」
「悪いな」
 そう呟くと同時に、レオンはアリルの肩を掴んで―――壁に向かって、投げた。
 細い悲鳴。アリルは骸骨の山に突っ込んでいく。湿っぽい空気の中を、乾いた音が盛大に鳴り響いた。
 女王蟻が動く。ぎちぎちと体を回転させるように折り曲げて、その顎が急降下するように、アリルがいるはずの壁に向かう。
 レオンも動いていた。海岸の砂のような足場を、踏みつけるようにして回りこむ。その足音に、ぴくりと女王蟻の触覚が揺れる。その顎がこちらを向こうとした瞬間、レオンはとっさに飛びずさった。着地と同じくして、彼が寸前まで立っていた地面に女王の鎌のような腕が突き刺さる。暗闇の中にいて鈍く光るようなそれを、まともに食らえば真っ二つに裂かれてしまうだろう。攻撃のタイミングを逃したレオンはわざと足音を立てながら、今度はアリルから離れるように、円弧を描きながら走る。
「アリル、返事はしなくていいから、聞け!」
 駆けながら、大声でアリルに呼びかける。
「お前はそこから動くな!」
 骨の山の崩落は既に収まり、女王蟻の注意は完全にレオンに向いていた。彼女が呼びつけた衛兵がここに辿り着くまでは、もう少し猶予がある。それまでになんとか、せめて、彼女の力を削がなければ―――弱点なら一つ、狙うべきところを見つけている。兵隊蟻達と同じ、いや、それよりははっきりと分かる、複眼だ。
 狙えるチャンスは、一度だけ。
 女王の頭が、振り上げられ、振り下ろされる。
 その切り返しの瞬間に、レオンは短剣を、投げつけた。
 轟くような悲鳴。女王蟻は全身を仰け反らせて絶叫していた。
 命中したのだ。
「やったのか―――ぐっ!?」
 女王に気をとられた、刹那。
 脇腹に衝撃を受けて、レオンの体が浮き上がる。電流が駆け抜けるような痛み。斜め下に女王の呼び出した衛兵蟻の胴体がわずかに映った視界が、揺ぐ。
 壁に叩きつけられて、レオンは呼吸を詰まらせた。


 地響きに続いて、ぱらぱらと天井から粉塵が落ちてくる。
 闇に慣れたアリルの目は、青い光が壁に打ちつけられるのをはっきりと捕らえていた。それは、夜目が利かないアリルのために、レオンが目印として身に付けてくれていた発光植物のものだ。アリルはもろい足場の上に、よろよろと立ち上がった。刺激臭が鼻をつく。だがそのせいだけではない涙が、ぼんやりと視界を覆う。
「レオン!」
 この蟻たちは、音に敏感だ。レオンが自分のために囮になろうとしたことを、アリルは知っていた。彼女の呼びかけに、レオンは応じない。アリルの五感では状況など全く読めないが、もし今の一撃で彼が―――
 アリルはぶんぶんと、首を横に振った。
「レオン、大丈夫!?」
 引き続き大声で呼びかける。崩れる足元が死体の山であることなど気にも留めない。恐怖と絶望感で、涙も鼻水も止まらない、みっともない姿だ。だが、レオンから敵を引き離さなさければならない―――その一念だけが、彼女を衝動的に突き動かしている。
 床を擦る金属音。自身に迫る脅威に、アリルは足元をまさぐる。何か武器を―――その手が、何の導きによってか、犠牲者の持ち物であっただろう長剣の柄に触れる。
 火事場の馬鹿力で、アリルはわずかに気配のする方へ、剣を振り上げる。
 しかし、鈍い激痛が、その細い腕を弾いた。蟻の顎か、それとも足か。アリルは悲鳴を上げる間もなく、床に体を投げつけられる。
 痛みに、薄れる意識。
 だが、それを完全に失う前に、松明の灯りに照らされる人々が暗闇を横切ったのが見えた。


「おい、生きてるか!?」
 上体を揺さぶられ、レオンは目を覚ました。
 どうも、一瞬だが気絶してしまっていたらしい。痛む頭を上げると、安堵したような顔を浮かべるメディックの青年―――酒場で会ったことがある。確か、ウィンデールとか言ったか―――と視線が交わった。
「ウィンデール? なんでここに……」
 ウィンデールの背後の騒がしさに、レオンは意識をそちらに向ける。
 複数の人間の気配に、蟻の気配。どうも、戦闘中らしい。
「危なかったね。けど、僕達ヴァルハラ・ギルドが来たからにはもう大丈夫さ」
 ウィンデールはそう言うと、ウインク一つ、手際よくレオンの応急処置を開始する。
 ヴァルハラギルド。聞いたことがある。確か、今現在エトリアの冒険者ギルドの中で、最も樹海の謎に近いと噂されている精鋭ギルドの名だ。
「お前、ヴァルハラの人間だったんか」
「そうだよ―――さて、これで大体は大丈夫かな。まだ痛むところはない? 左目とか」
「この目は元々だ」
 続いて礼を言おうとして、レオンははたと気付いた。
「そうだ、アリル!」
 勢いづいて起き上がり、駆け出そうとするが、ウィンデールが慌ててそれを止めてくる。
「ちょ、待った! 治療したばかりで無茶はしないでよ、というか、そっちは危険!」
 交戦中の真っ只中に踏み込もうとするレオンの飾り布を掴んで、ウィンデールは必死に叫ぶ。
「仲間がもう一人いるんだ。ついてきてくれ」
「え?」
 訊き返すウィンデールには応じず、レオンは戦場に足を踏み入れる。ヴァルハラが持ち込んだと見られる松明のために室内の明るさは増しており、敵も味方の姿も正確に捕捉できるほどになっていた。
 すれ違う際に、ヴァルハラの一人と見られる聖騎士の男が、こちらに気付いて太い笑みを向けてくる。
「このくらいの相手、余裕ですってか、くそっ」
 毒づきながらも足を止めずに走り、レオンはアリルの元へと辿り着く。横たわった彼女の側に膝をついて、とりあえず息はあることを確認し、溜息を吐いた。
「ちょっと、どいて」
 レオンを押しのけ、ウィンデールがアリルの治療を開始する。
「どうだ?」
「命に別状はないよ。打ち身は多いけど、頭は打ってない」
「そうか」
 高い鳴き声が再び轟いた。戦場には既に、ヴァルハラと女王蟻しか残っていないらしい。女王は勿論満身創痍だが、ヴァルハラも息が上がってきている。ウィンデールが苦い顔をしたのを見て、レオンは尋ねた。
「援護に回らなくてもいいのか?」
「……君達の保護が最優先だよ」
「ふーん。なら……」
 レオンはアリルの側に転がっていた長剣を手に取ると、立ち上がる。
 ウィンデールが止める間もなく、女王蟻の攻撃を避けるため、ヴァルハラが散開したところに走りこんだ。
「よう。苦戦してるみたいだな」
 先ほどの聖騎士に、仕返しと言わんばかりに声をかける。が、聖騎士は口角を上げて応じてきた。
「あの短剣は、君のものかね? レオン君」
 女王蟻の片目に突き刺さった銀色の光を指して、聖騎士が訊く。レオンが首肯すると、彼は豪快に笑った。
「―――どうすれば、あんなところに剣が届くんだ? 全く、噂に聞く通り、訳の分からん男だな、君は」
 どこからか放たれた錬金術の氷の矢が、女王の頭蓋の甲殻を打って落ちる。今の攻撃の狙いからして、彼らも女王の弱点が目であると気付いているのだろう。
「あんたに言われたくはないね、ヴァルハラのリーダー。たった五人でこんな化け物の巣に乗り込んでくるなんて、正気か?」
 言い返してやると、聖騎士はきょとんとした表情を浮かべた。
「人命救助だ。致し方あるまい」
「大したお人好しだな―――おっと」
 女王の腕が振り上げられる。回避しようと動いたレオンの正面に、聖騎士が盾を構えて立ちふさがった。
「おっさん」
「私はオックスだ。覚えておいてくれ」
 オックスの言葉と、盾が攻撃を耐えた音が重なる。更なる女王の強烈な追撃をも、オックスは全く身じろぎすることなく受け止めていた。レオンは苦笑いを浮かべる。人間の膂力じゃない、これ。
 女王の隙を突いて、珍妙な格好をした女が、細い片手剣を手に跳び上がる。が、狙いが甘かったようで、甲殻に弾き飛ばされてしまった。レオンは彼女の反対側―――女王の死角から頭に回りこむと、短剣の刺さっていない方の目に、長剣を突き刺した。
 耳をつんざく悲鳴が響き渡る。だが、今や彼女を助けに来られる衛兵蟻はいない。激しく抵抗する女王蟻に振り払われまいと、レオンは歯を食いしばりながら、長剣に体重を込める。
 やがて側面から大きな衝撃を受け、女王蟻は倒れこむ。転倒に巻き込まれる直前に剣を手放したレオンは、骨の山の上に着地した。
 土煙が収まる。女王の頭のすぐ近くに立っているオックスを見つけ、レオンは駆け寄った。
「どうだ?」
「うむ、やったようだ」
 女王蟻を見下ろし、オックスは頷いてみせる。
 レオンも、周囲の様子を探る。あれだけ存在を主張していた蟻の気配は、ここが同じ場所だとは思えないくらい静まり返っていた。
 終わったのだ。
 横目を向けると、ウィンデールの傍らで、アリルが眠っているのが見えた。
 レオンは大きく溜息を吐くと、座り込んだ。


 全身が不快に揺れていることに、アリルは気付いた。
 移動しているのだ、と頭がぼんやりと理解する。だが意思に反して、瞼は重く、状況を把握するための術は耳しかなかった。
「……る」
 低い声。耳慣れない、男の声だ。少し遠くから聞こえた。
「何だって?」
 不躾にそう応じた声に、アリルは安堵する。レオンだ。こちらはすぐ近くから聞こえたため、アリルは無理矢理目を開くことを放棄した。レオンが側にいるなら、不安に思うことは何もない。
「君は、何のために世界樹の迷宮にいる?」
 誰かは分からないが、レオンではない方の声はそう続けた。どうやら、二人は会話を交わしているらしい。
「……多分、あんたと同じだと思うぜ」
 こちらはレオンの声。何の話をしているのかはともかく、アリルは黙って目を閉じたまま二人の声を聞いていた。
「私と同じ?」
「ああ。あんた、正規の騎士じゃないよな?」
 沈黙。押し黙ったような気配を感じた。
 アリルはふと、気絶する直前に見た冒険者達の一団にいた、体格の良い聖騎士の姿を思い出した。レオンの会話の相手は彼なのかもしれない。
「―――鎧も盾も、随分年季が入ってるみたいだ」
「……ご明察。確かに私が騎士であったのは、遠い昔の話だ」
 聖騎士のものであろう声は低く、落ち着いていた。
「―――どんな過去があろうと、今はただの流れ者に過ぎない、さ。つまりは理由などない。……君もそうだということか」
「まあな」
「……では、質問を変えよう」
 足音が止まる。同時に、アリルの体の揺れが収まった。立ち止まった、のだろう。現実が、ゆっくりと夢見心地の脳に浸透していく。
「―――君は命を懸ける価値を、この迷宮に見出したのかね?」
「は?」
「難しい質問だったか?」
 笑いを含んだ声。レオンが溜息を吐く。思いの外近い距離に、アリルの頭が急速に醒めていく。
「流れ者である君が、こんな長期間この迷宮に、街に、留まる理由は何だ?」
 アリルはうっすらと目を開いた。
 憮然とした表情で顎を上げる、レオンの顔が見えた。
「そんなこと、あんたに話す義理はねえ」
「はは、つれないな……おっと」
 聖騎士の、優しい目がおっとりとアリルを向いた。
「お嬢さんがお目覚めのようだ」
 その言葉に、レオンがアリルを―――下を向く。アリルは顔から火が出る思いで、辛うじて言葉を搾り出した。
「お、降ろして」
「ん?」
「お願い、降ろして」
 アリルは俯いた。茹蛸になったような気分だ。彼女は今、レオンに所謂“おひめさまだっこ”をされているということにようやく気付いたのだ。
「降ろしてって……疲れてふらふらだろ、お前。しばらく休んでろ」
「だって……」
 それはレオンも同じでしょ、とか、独りで歩くぐらいはできるよ、とか、言いたい言葉はたくさんあった。が、レオンの手がそれを遮る。
「お疲れさん。よく頑張ったな」
 ごく小さく、ぽつりと。しかし、優しく落とされた言葉に。
 アリルはつい泣き出してしまって、またレオンを困らせる羽目になってしまった。


 クッククローの面々とは、ノアを除いて地下十一階で合流できた。
 クルスたちが、あの薄情なギルド―――キディーズと一緒にいたのは予想外だったが。レオンたちの捜索を手伝ってくれていたらしい。理由は知らないし訊く気も起こらなかったので、泣きながら抱きついてくるイーシュを鬱陶しく払いつつ、レオンは大所帯と共に、早々に街へと引き上げた。何をするにもまず、休みたかった。
 しかし、彼らの生還を口実にした、金鹿の酒場での宴会に巻き込まれ(しかも費用はクッククロー持ち)、レオンはまたも夜を徹する羽目になったのである。


 夜半も過ぎた時間帯だが、宴会はまだ続いているようだ。
 少し寝て、体力も回復したアリルは、ノアと共に金鹿の酒場を訪れていた。
「アリルちゃん。お帰りなさい」
 カウンター越しに、サクヤがふんわりと抱き締めてくれる。施薬院でもキタザキに説教されながら抱きつかれ、熱の下がったノアに無言で抱き締められたのだ。色々な人に迷惑をかけたことは申し訳なく思える反面、こうして帰ってきたことを喜んでもらえるのは、とても嬉しい。
「あの、これ。ありがとうございました」
 洗濯済みのタオルを差し出すと、サクヤは目を丸くした。
「そんなもの、落ち着いてからで良かったのに」
「でも、なるべく早くお返ししたくて」
「自分で返すって聞かなかったのよ。ね?」
 ノアにそう言われ、アリルは恥ずかしさに顔を伏せる。サクヤは小さく笑うと、タオルを受け取った。
「わざわざ、ありがとう」
「いえ……その、レオンはいますか?」
 いつものカウンター席にいないのを見てアリルが尋ねると、サクヤはウインク一つ、出入り口から最も遠くにあるテーブル席を指差した。
「おー、アリルちゃあああん」
 アリルがそちらに視線を向けた瞬間、イーシュが手を振りながら近づいてくる。片手に、エールか何かのジョッキを携えているが、顔は真っ赤で、もうすっかり出来上がっている風である。
「お疲れさま~。大変な目に遭ったねえ。もう僕は心配で心配で胸が張り裂けそうで……さあ、おにーさんに不安や哀しみをぶつけてごらん!」
 がば、と両手を広げるイーシュ。再会した直後にもあったやり取りだが、酒が入っている分タチが悪くなっている。一歩下がったアリルを背に隠すように、ノアが進み出た。
「結構よ。酔っ払いは向こうで酔っ払っていなさい」
「ちえー」
 やはりノアには弱いのか、イーシュはあっさりと引き下がる。
 すごすごと去っていくその背中越しにテーブルを見遣ると、騒ぎにも動じず、平然と本に齧りついているアイオーンと、その横でテーブルに突っ伏している金色の頭―――クルスだろう―――は確認できた。
 が、肝心のレオンの姿は、ない。
 サクヤを振り返ると、彼女は困ったような笑みを浮かべた。
「ここにいないなら、宿かしらね。流石に疲れたんじゃないかしら」
「そうですか……」
「帰るわよ、アリル」
 仕方ない。
 アリルは名残惜しいながら、ノアに付いて、金鹿の酒場を後にした。


「命を懸ける価値……ね」
 丘の上で夜風に当たりながら、ぼんやりとレオンは星空を見上げる。
 何かの目的を持って、この地を踏んだわけではない。
 やるべき事を全て見失って、何か手元に残っているものを探した結果、遠い昔に教わったこの世界樹の伝説を思い出しただけだ。
 生き残ったのは偶然だった。
 そして偶然を繰り返し、彼は今なおここで生きている。
 それ以上でも、以下でもない。
 ただ、全力で生きようとしている人間の後押しくらいは、出来るならしてやりたい。
「それで十分だよな」
 開いた両目を細め、何かに語りかけるように呟くと、彼は踵を返した。

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B13F

「うーん……」
 金鹿の酒場の壁にずらりと並ぶ張り紙と睨み合いながら、レオンは唸っていた。
 求人票に似ているが違う。樹海探索を専門に扱う冒険者達に対する、依頼票である。
 冒険者になって半年くらい経つ。実入りがいいとは言えない職であるとは分かっていたつもりだったが、食い扶持を稼ぐのにアルバイトをしなければならない程だとは、正直、思っていなかった。危険な仕事の割には合わない。が、他にそう選択肢があるわけでもないため、溜息を吐きながら、僅かでも損より利の方が高い依頼を探すのが関の山である。
 そうして半年の内に数だけはこなしてきた結果、依頼人の中にも顔見知りが増えてきた。常客は大抵信頼に足る依頼を出してくる。依頼票の一枚に見覚えのある文字を見つけ、レオンは吟味するべく、それを掲示板から取り外そうと手を伸ばした。
「あっ」
 非難が混じった驚きの声が、背後で上がる。
 顎のラインできれいに切り揃えた茶髪に、この辺ではあまり見かけない民族衣装の女。細身で小柄な体つきの割にはごつい籠手が握る、独特の武器が目に入る。大きく開いた翡翠色の瞳は、一点にのみ集中していた。
 即ち、レオンの手元の紙に。
 レオンはしばらく考えた後、おもむろに紙を二つに折り畳んだ。
「ああっ」
 悲鳴に近い声。無視して、もう一度折る。
「あああっ」
 それから、手の中に入れてしまう。
「ああ……」
 打ちのめされたような吐息を漏らして、女はよろめく。なんとなく絶望感まで漂う雰囲気である。
 その隙にレオンは依頼票を広げ、依頼の内容にざっと目を通す。
「……ほい」
「えっ」
 レオンが差し出した紙に、顔を上げた女は目を白黒させた。
「こいつは俺にゃ無理な依頼なんでな」
 依頼票には拙い字で「死ぬまえに、い国のつよいけんしに会いたいです」とある。備考欄には「異国の剣士とはブシドーのこと」と、女将が足したのだろう走り書きが見られた。
「―――いらないなら、掲示板に返すが」
「い、いります! いりますわ!」
 ブシドーの女は慌ててレオンから依頼票を受け取ると、大事そうに懐にしまった。
「ありがとうございます、レオン殿。はあ、これでやっと宿屋のツケが返せますわ……」
「あれ? あんた、俺とどこかで会ったっけ?」
 最近、見知らぬ冒険者に名前を知られていることには慣れてきているが。何気なくそう尋ねると、ブシドーの女は目を真ん丸にした。
「あら、もうお忘れですの?」
「えっ?」
 今度はレオンが目を丸くする番だった。
 その驚きを察してか、女の目が意地悪く細まり、甘い声に変わる。
「薄情な方ですわねえ」
「いや、ちょっと待って」
 レオンは必死に記憶を探るが、あれか、それか―――全く見当がつかない。
「―――すんません、身に覚えがありません」
「大ありみたいですわね。これだから殿方は……」
 血の気が引いた彼を見て、女は半目になって呟いた。そして咳払いを一つする。
「冗談はさておき。本当に覚えていらっしゃらない? わたくし、ヴァルハラ・ギルドの者ですわ」
「え? あ、ああー、あのときの」
 レオンはぽん、と手を打つ。身のこなし軽く、女王蟻に切り掛かる彼女の姿が脳裏をよぎったのだ。
 女はようやく笑みを浮かべた。
「あのときは自己紹介どころではなかったですものね。改めまして、チヒロと申します」
「悪かったな、忘れてて。あのおっさん達も元気か?」
「おっさん……」
 チヒロは絶句した後、再び咳払いをして、答えた。
「……オックス殿なら、今日も探索に行ってらっしゃいます」
「ふーん」
 ヴァルハラは他のギルドとは違い、ほぼ毎日、樹海に潜っていると聞く。勿論彼らの冒険にも何らかの理由があって、そのための活動なのだろうが、あまり興味は湧かなかった。
「あんたは空き時間に、アルバイトか。お互い、貧乏はつらいねえ」
「全くですわ……」
 ともあれ、生きていくには働くほかない。仕事を探すべく、レオンは再び掲示板に向かおうとしたが、チヒロがその袖を引いた。
「ところで、あの、つかぬことをお聞きしますが」
「うん?」
 チヒロは、どこか歯切れ悪そうに続ける。
「レオン殿は……エトリアに来られる以前は、旅をされてきたのでしょうか?」
「あー……まあ、そうといえば、そうだな」
 ここを訪れるまでの己の所業を思い出しながら、レオンは目を細める。
 と、チヒロはどこか期待を帯びた目で、見上げてくる。
「どこかで、わたくしと同じ民族衣装を着た、若い男性を見かけられませんでした?」
「同じ……って」
 チヒロの格好をまじまじと見ながら、レオンは顎に手を添える。ブシドー特有らしいこの格好は、エトリアでは非常に珍しい。レオンが流離ってきた地域もこの辺りと同じ文化圏なので、こんな珍妙な格好をしている者がいれば記憶に残りそうなものだが―――残念ながら彼は、自分の記憶力が探索用の道具袋くらいの容量しかないことを承知している。
「―――悪いが、あんまり覚えがない」
「お、同じといっても、そっくり同じではないのです。例えば―――」
 なんとしても手がかりが欲しいのか、チヒロはあせった様子で酒場を見渡すと、偶然にも開いたばかりの扉から入ってきた、ブシドーの女を指差した。
「あ! あんな感じですわ!」
 その女は、直線的な長い黒髪を頭頂で束ね、確かにチヒロと同じ籠手と武器をまとっていた―――が、“同じ格好”とは言いがたい風貌をしていた。端的に言えば、露出が多い。上半身など、ほとんどさらしを巻いただけである。
 その茶色の瞳が、きっとこちらを見据えた。
「お主は、チヒロか?」
「あら、誰かと思えば、コユキではありませんの」
 二人の言葉が、ほぼ同時に呟かれた。
 コユキと呼ばれた黒髪のブシドーは、凛然とした態度で近づいてくる。
「チヒロ、なぜお主がここにいる?」
 知り合いのようだが、久方の再会らしい。チヒロもずいと前に進み出ると、言った。
「あら、あなたがここにいらっしゃったことの方が、意外ですわ。てっきり、お兄様をつけまわしているものかと」
 その終わりの一文に、コユキの眉が跳ね上がる。
「兄上をつけまわしておるのは、お主の方ではないか」
「馬鹿おっしゃい。わたくしはここの恩人の元で、己の腕を磨かせていただいているのみですわ。それ以外のことなど―――」
「ああ、あんたの探し人って、その“お兄様”か」
 ここで、空気を読めない男が話の腰を折った。
 場の雰囲気が一変する。一瞬の沈黙の後、コユキがせせら笑った。
「何じゃ、やはりそうか」
「ち、違います! お兄様のことはついで、ですわ!!」
「その割には必死そう―――」
 チヒロに血走った目で睨みつけられ、レオンは半笑いで言葉を切った。
 彼女は顔を真っ赤にして、コユキに向き直る。
「修行もせずにふらふらしている、あなたよりはずっとマシですわ」
「ふらふらなどしておらぬ。拙者は武者修行の途中で、この街に立ち寄っただけじゃ」
「武者修行? それにしては何ですの、そのいでたちは! 裸みたいな格好をして。同じブシドーとして恥ずかしいですわ」
「は、裸とは何じゃ、破廉恥な!」
 コユキはさっと顔色を変えると、怒鳴った。いや、第三者から見ても、その装いはギリギリの線だとレオンは思う。
「お兄様がご覧になったら、どう思われるでしょうね。ああ、嫌だ」
「ふん、兄上はお主のような、根性悪の女の方が御免被るじゃろう」
「何ですって、この痴女!」
「ち、ち、痴女!?」
 素っ頓狂な声を上げて、コユキはよろめく。
「ゆ、許さん!」
「それはこっちの台詞ですわ!」
「おいおい」
 いつの間にか抜刀して、睨みあった二人に、さしものレオンも眉をひそめた。周囲を見渡して、注目を集めてしまっていることにも、今更ながら気付く。
「二人とも、こんなところで凶器ありの喧嘩は―――」
「レオン殿、引っ込んでて下さいまし!!」
「口出し無用じゃ!!」
 口々に叩きつけられ、レオンは仰け反った。触らぬ神にたたりはなしである。
 呼吸もままならないくらい張り詰められた、まさに一触即発の緊張の糸。
 その静寂を破ったのは、空間を割るように響いた怒声だった。
「何をしている!」
 この声に、チヒロの全身がおののいた。
 張られた糸がたわみ、構えが解かれる。コユキまでもが、闖入者の声に驚き、出入り口に向けた目を瞠らせていた。
 逆光を背に、足早に駆けてくる巨体が一つ。
 オックスだ。
「チヒロ君。これは何事か?」
 太くよく通る声が、空気を震わせる。オックスは二人の間に割って入ると、チヒロを見下ろした。小柄なブシドーたちが、より小さく見える。
「これは、その……あの……」
 チヒロが縮こまる。
 オックスは厳しい視線を緩めはしない。
「ここは金鹿の酒場だ。樹海ではない。相手所見境無く刀を抜くのは、人の行いとして感心しないな」
「はい。申し訳、ありません」
 潔く謝罪の言葉を口にし、チヒロは武器を納める。その様子を眺めていたコユキもまた刃を鞘に戻すが、彼女はこう吐き捨てた。
「気が削がれた。勝負はお預けじゃな」
「貴公もだ。名は存じ上げんが、公共の場で諍い事を起こすのは控えてもらいたい」
 オックスの言葉に、コユキは睨めつけるように彼を見上げる。
「拙者に命令せんでもらおう」
「コユキ! オックス殿に無礼は許し―――」
 再び激昂しそうになるチヒロを片腕で制止し、オックスはコユキに微笑んだ。
「命令ではなく、お願いだ。この街に留まるもの同士、啓発しあいたいと思うのは悪いことかね?」
「ふん……」
 コユキは渋々、というように引き下がる。そして身を翻すと、足早に去っていってしまった。
 場に喧騒が戻ってくる。タイミングを見計らったように、オックスはレオンに向き直り、渋面を作った。
「レオン君、同席していたのなら止めてくれたまえ」
「いやー、一度は止めたんだが」
 放っておいたらどうなるか、見てみたくて。
 肩を竦めながらそう言うと、オックスは渋面の上に、背後に迫るf.o.e.に気付いた時のような表情を乗せた。


 オックスが口にした情報に、フォークで肉詰めを突き刺したレオンは首を傾げた。
「人影?」
 オックスやチヒロとは成り行きで、その日の晩餐を共にすることになった。同席しているのは彼らに加えてレオンにイーシュ、そしてこれもまた偶然、お使いで酒場を訪れていたアリルである。
 握り拳大はあろうかという黒パンを豪快に食い千切り、嚥下しながら、オックスは首肯する。
「左様。あれは確かに、人だった」
 話題は、オックスの今日の冒険である。地下十三階に歩を進めたヴァルハラ・ギルドだが、そこでおかしな人影を見かけたのだと言う。
「人……って言っても、地下十三階に到達しているギルドなんて、ヴァルハラとうち以外にあるんですか?」
 オックスが口にしているのと同じパンを小さく千切りながら、アリルが尋ねる。
「可能性としては、レンとツスクルくらいだろう」
「執政院のお使いかな」
 肉汁の滴るフォークを口に運びながら、イーシュが呟いた。
「しかし、彼らなら我々から姿を隠し、動きを窺うような真似はしないだろう」
「うーん……」
 頭を捻るが、答えは出てこない。
 その上その人影は、近づこうとすると草むらの奥に消えたというから、見間違いでもないのだろう。
「明日、僕たちもその辺りに行ってみようよ」
「そうするか」
 レオンの感覚なら、本当に人間なのかどうかも分かるだろう。
「案外、またキディーズだったりしてね」
 冗談めかして言ったアリルに、面々から乾いた笑いが漏れる。大抵、コバンザメのように他のギルドの背後をつけている彼らが今、どの辺りを探索しているのかはいまいち掴めないため、可能性としては否定できない。
「チヒロちゃんは、今日は行かなかったんだね」
 昼間の失態のせいか、一人で黙々と箸―――どうみても二本の木の枝だが、彼女の生地では食器であるらしい―――を動かしていたチヒロにイーシュが話を振ると、彼女は口の中の物を飲み込んだ後、答えた。
「オックス殿に、本日の探索には召喚され申さなかったのですわ」
「へえ」
 イーシュがオックスを見上げると、彼はいかつい苦笑を浮かべた。
「探索は基本、自由意志だよ。うちはさほど人数の多いギルドではないのだが」
「自分から参加することはほとんどありませんわ。わたくしはオックス殿にご恩をお返しするため、ヴァルハラに籍を置く身ですもの」
「その割に、今日は迷惑をかけまくってたがな」
 レオンの一言に、チヒロは石化する。
 アリルとイーシュの冷たい視線を浴びて、レオンは憮然とした表情を浮かべた。
「何だよ?」
「あっはっは、あれくらいは迷惑のうちに入らんよ」
 豪快に笑い飛ばすオックス。チヒロは赤面しながらも、ぼそぼそと言った。
「申し訳ありません。ブシドーとして、わたくしはまだまだ修行が足りませぬわ……」
「ところで、チヒロさんの“恩”って何なんですか?」
 アリルの質問に、オックスとチヒロは目を丸くし、顔を見合わせる。
 そして同時に笑い出したので、クッククローの三人は揃って首を傾げた。
「まあ、色々あったんだよ」
「そう、色々ですわね」
「ええー、教えてくださいよー」
 アリルが食い下がると、オックスは笑いながら答えた。
「アリル君、それを知るにはヴァルハラの門を叩かなければならないよ」
「えっ……じゃあ、いいです」
「遠慮しなくても構わないが」
「遠慮しときますっ」
 アリルの早口に、鈴の音のようなチヒロの笑い声が被さる。
「おっさん……ひょっとしてそういう趣味があるの?」
 アリルの年齢を鑑みて、そうレオンが小声で尋ねると、オックスは質問の意図を読み取った様子で渋面を作る。
「違う。私には娘がいてね。ちょうど、アリル君と同じくらいの」
「へえ」
 大して興味も無く、レオンは聞き流すように軽く相槌を打つ。
「生きていれば、だがね」
 ぽつりと小さく呟かれた言葉に、レオンは思わずオックスを見上げる。
 彼は腹の底の痛みを反芻するように深呼吸すると、いつもの太い笑みを浮かべた。
「色々あるのさ、私にも」
「色々、ね」
 レオンが頷いたので、イーシュとアリルから非難の声が上がる。
「レオン、何を納得してるのー」
「二人だけで秘密のお話?」
 全然別の話をしていたのだが、内緒話の内容までは聴かれていなかったらしい。
 レオンは苦笑を浮かべると、肉片を口に放り込み、答えた。
「色々あるんだって話だよ」

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B14F

 小路を抜けた先にあった世界に、レオンは感嘆の息を漏らした。
「うわ……」
 眼前に広がる、広大な水溜り。上階で見た水路はこれに繋がっていたのだ。水中から生えた樹が、ひび割れた天井を支える柱のように立ち並んでいる。
 ここが樹の虚から続く地下道なのだと思い出せば、にわかには信じがたい光景だ。
「世界樹の迷宮ってのは、本当に何でもありだな」
「湖と言っても、過言ではないわね」
 青の世界を見渡し、ノアがぽつりと呟いた。階段から繋がるほぼ一本の小道すら、水に行く手を阻まれている。湖岸から覗き込もうとも、深い青を湛えた水面は何も映さない。
「泳いで……は流石に無理か」
「あまり近づかない方がいいわよ。魔物がいるかもしれないから」
 ノアの涼やかな忠告に、レオンはぎょっとして彼女を振り返った。
「―――とはいえ、進む道がないのは困ったものね」
「上に戻って、他の階段を探すか?」
「どうかしら」
 レオンは唇だけの苦笑を浮かべると、岸辺を指差す。
「あれはどう?」
 そこにあったのは、蓮のような植物の、巨大な花だった。クルスが恐る恐る寄っていって、盾で桃色の花びらをつつく。
「結構……頑丈みたいですよ」
「乗ってみろよ」
「僕がですか?」
 目をぱちくりとしたクルスに、レオンは肩を竦めた。
「お前が一番、重いだろ」
「……沈んだら、どうしてくれるんです?」
「魔物にばりばり食われるまでには、助けてやるよ。ホラ、早く」
 クルスは嘆息すると、渋々といった様子で花びらに踏み出す。驚いたことに、花は微動だにしない。両足を乗せ、花上の人となったクルスは、呆然と呟いた。
「乗れました」
「すげー、本当に乗ってやがんの」
 レオンも本気で感心する。
「貴方が乗れって言ったんじゃない」
 それを揶揄と取ったのか、ノアが睨んでくる。レオンは手をひらひらと振ると、クルスに近寄った。
「しかしどうなってんだ、これ」
「花がすごいのか、水が普通の水でないのか、どっちなんでしょうね」
「でもこれを船にすれば、向こう岸に渡れるんじゃない?」
 イーシュがギターラで水の彼方を指す。
「問題は、五人も乗れるのかって事ね」
「詰めれば……何とかならないかな?」
 イーシュがえいと花に乗る。ノアもそれに続く。三人が乗っても、まだ花は水面に波を生む様子もない。だがあまりに躊躇しない仲間に、レオンは眉根を寄せて軽口を叩いた。
「五人も乗って、沈んだらどうしてくれるんだ?」
「魔物にばりばり食べられるまでには、言い出しっぺの人が何とかしてくれるんでしょ」
 そう言って、アリルも足を踏み出す。
 しんがりとなったレオンは、彼らに倣おうとして―――首を捻った。
「言い出しっぺって、もしかして俺?」
―――幸いにも、彼が乗っても花が沈むことはなかったのだが。


 花を使って水路を渡る。辿り着いた岸はこの階の只中にある小島のようだ。小島と言っても、柱さながらに立つ樹の胴を足でぐるりと周れるくらいの大きさはあるのだが。
 一歩踏み出すより早く、魔物の気配を察して一行は止まる。
 トンボの形をした魔物と、芋虫の形をした魔物がそれぞれ、樹の裏側から飛び出してきた。


「足場が悪いですね」
 二体の魔物を屠った後、クルスが足元に目を落として呟いた。
「出来るだけ早く倒さないと、じりじり後退させられて、そのまま湖にドボン、ってことにもなりかねないね」
 言葉を紡ぎながら、イーシュは足を前に運ぼうとする。
 が、それをレオンが片腕を上げて制止した。
「ん?」
 顔を覗き込むが、レオンは正面を見据えたまま微動だにしない。
「誰だ」
 警戒心をもって発された言葉に、イーシュもはっと彼の視線の先を追う。
―――それは、まるで森から剥がれ落ちたもののようだった。
 緑から赤茶に流れる髪、そして草花そのものを象る衣装。一目見て人ではないと分かる。だが、人に酷似した、それ。
 陶器のように真白の肌を持つ、人の少女のようなそれは、そこに、毅然として立っていた。
 やがてゆっくりと、その唇が動いた。
「……警告する。これ以上、この森の中に足を踏み入れるな」
「え?」
 異形が人の言葉を発したことにも驚きだが、その内容にも戸惑う。
「薮から棒に、何だって? お前さん、だいたい何者だよ」
「答える義務はない」
 外見に伴わない厳しい口調で、少女―――そう形容するならば、だが―――はさらに言葉を紡ぐ。
「―――この樹海は我らが聖地。この警告を無視し先に進んだ時……その命、ないと思え」
 言い終えると同時に少女は身を翻し、逃げるように駆け出した。
「ちょ、ちょっと待っ―――」
 慌てて彼女を制止しようとしたイーシュは、視界の隅に鈍い輝きを認めて、更に血相を変えた。
「って、レオン!?」
 放たれた光は、少女が去った後の藍深い樹の幹に突き刺さる。
 レオンは短剣を投げた体勢で、舌打ちした。
「なっ……何をしてるんですか、貴方は!!」
「いきなり武器を向けるなんて……」
「相手は小さな子供よ!? もし当たっていたら―――」
「違うわ、敵よ!」
 矢継ぎ早に発される仲間達の非難を遮って、ノアが叫んだ。
 鋭い警告とほぼ同時に、水面を裂くように高い水柱が、樹を挟んだ向こう岸に立った。身構えるより早く、噴水が一行を襲う。
 雨のように降る水滴に混じって、落ちてくる人影を、イーシュは見た。
「あ、危ない!」
 慌てて両手を差し出すが、真上から降ってきた影を支えることは出来ず、彼は尻餅をつく。そのまま転倒して肩を強打するが、呼吸が一瞬圧迫された程度で、立ち上がれぬほどではない。
「―――ってて。大丈夫?」
 起き上がって見た腹の上の影は、予想していたよりも幾分か小柄だった。長いが黒い色の髪に、少女ではあるにしろ、先ほどの異形ではないことを悟る。ニンゲン、か―――と、彼の思考がまとまるより先に、彼女は一声唸ると、がばりと顔を上げた。
「て、手出しは無用じゃ!」
 見ると、自分以外のクッククローの面々は、水中から躍り出たらしい魔物と対峙していた。彼女はこれと戦っていたのだろうか、イーシュは身を起こすと、地面に置いた手の周りにあった血溜まりに目を瞠った。イーシュの体から退き、武器を支えに立ち上がろうとする少女は、驚くほどの軽装だ。その腹から出血しているのを見て取り、イーシュは彼女の肩を掴んだ。
「待って。そんな怪我じゃ危ないよ」
「なんの、これしき。邪魔はせんで―――」
「えい」
「ぎゃ!?」
 その肩を引くと、少女は抵抗する間もなく、仰向けに転がった。腹に力が入らないのか、起き上がろうにも、もがくだけだ。
「アリルちゃん!」
 仲間の方にそう呼びかけると、メディックの少女が間もなく駆けてくる。しゃがみ込む彼女と入れ違いに立ち上がると、イーシュは言った。
「彼女を頼む。怪我をしているみたいなんだ」
「分かりました」
「い、いらぬ! 触るな!」
 少女が邪険に払おうとしたアリルの手は、ひらりと避けた。
「何言ってるの!」
「う、ぎゃあ!?」
 鮮やかな動きで傷口をとらえたガーゼに、少女の体が跳ねる。イーシュは深呼吸すると、戦闘中の仲間の元に向かった。


 結局のところ、コユキを追って現れた魔物はクッククローによって倒された。
 コユキはしばらく暴れていたが、アリルが隙を見て麻酔を打ったため、今は静かになっている。
「しかし、なんでこんなところにいたのかね?」
 剣をおさめたレオンは首を傾げた。チヒロとのあの喧嘩を見てから、酒場でも宿でも、彼女の噂はとんと聞いていない。名前を覚えていられたのは、あのときの衝撃があまりにでかかったからだ。
「彼女、一人なのかな」
 ぽつりとアリルが呟く。その横顔にどことなく影があるように見えるのは、コユキに仲間がいた可能性を懸念したからだろう。
 が、イーシュがかぶりを振った。
「仲間は、最初からいないんじゃないかな」
「どうしてそう思うの?」
「だって彼女、多分だけど、ギルドに所属していないんだよ」
 レオンは眉をひそめた。
「どういうことだ?」
「えーとね、ちょっとややこしいから、長くなると思うんだけど……」
 イーシュは言葉を濁すと、ちらりとアリルを見下ろす。コユキの容態が気にかかるのだろう。
 確かに、長話はよした方がいい。レオンは溜息をついた。
「怪我人を連れていたまま立ち話をするのは、危険だな。一度、街に戻ろう」


 糸を二本消費して帰還し、街へ向かう道すがら、イーシュは話の続きをし始めた。
「冒険者登録をしてギルドに所属すると、樹海磁軸の行き先はそのギルドの到達階層に依存する、っていうのは知ってるよね?」
「まあ、ルールだな」
「じゃあ、ギルドに入っていない場合はどうなるか、知ってる?」
 レオンは首を捻る。そんなこと、考えたことも無かった。
 顔に出てしまっていたのか、イーシュが苦笑した。
「所属ギルドがない冒険者は、一般人と同じ扱いになるんだ」
「つまり、樹海研究者やクエスト依頼人と同じね」
 ノアが相槌を入れる。だが、その表情は何故かいつも以上に不機嫌そうだ。
「そう。一般人が樹海に立ち入る場合、たいてい護衛の冒険者ギルドが一緒だから、樹海磁軸の行き先はそのギルドに依存するわけだね」
「問題は、一般人だけの場合?」
「これが困ったことにね、磁軸で何処にでも行けちゃうんだよ」
 イーシュは肩を竦めようとして、やめた。背に乗っているものの存在が気になったのだろう。今、意識のないコユキはイーシュに負ぶわれて運ばれている。じゃんけんで勝負した結果だ。
「―――といっても、今開発されている磁軸は、第三階層までだけど」
「つまり、一般人は勿論冒険者であっても、ギルドに所属していなければ、最深の到達階層まで制限なしに樹海磁軸で行くことができてしまうということですね」
「そういうこと」
「そういうこと、じゃないわよ。それを防ぐために、樹海守の兵士がいるんでしょう」
 苛立ちを隠さずにノアが言う。なるほど、彼女が不機嫌だった理由がレオンには分かった。
「職務に忠実でない兵士がいたお陰で、コユキはあそこにいたってか」
 先ほど戻ってきた時に兵士はいたが、六人いる自分達に対し、彼は何も言わなかった。
 言葉の意味を理解して、クルスも苦い顔をする。
「持ち場を放棄していたとは考えにくいですし。だとしたらどうやって兵士を懐柔したんでしょうね」
「どう……って、お前。そりゃ、金か―――」
 レオンはイーシュに負ぶられているコユキに目をやった。
「―――金だろうな」
「色気って言おうとしたでしょ、今」
 イーシュが苦笑いする。レオンも口角を上げて応じると、他の面々からは溜息が漏れた。


 クルス、アリル、ノアの三人は、街に着くと先行して施薬院へ向かった。レオンはコユキを背負うイーシュと共にゆっくりと広場を歩いている。
 すると、コユキが身じろぎした。
「起きた?」
「う……ここは……」
 コユキは目を開くと、一気に覚醒した様子でイーシュの背から身をはがした。が、引っくり返りそうになったために悲鳴を上げて、彼の長髪を掴む。
「お、降ろして下され!」
「痛い痛い痛い!!」
 パニック状態になる二人を何とか引き剥がす。地に下り立ったコユキがよろめいたので、イーシュがそれを支えようとするが、腕は振り払われた。コユキは周りを見渡すと、悪びれもなく言い放つ。
「ここはエトリアの街か。主ら、よっぽどのお節介のようじゃの」
「あそこで死なれちゃ、こっちも夢見が悪かったもんでな。お陰で探索は打ち切りになったがね」
 売り文句に買い文句で応じると、茶味の瞳がじろりとレオンを睨んだ。
「頼んではおらぬぞ」
「どうかな。お前さん、随分後ろ暗いところがあるみたいじゃねえか」
 コユキの肩がぎくりとする。隠し事は苦手のようだ。レオンはにやりと笑って言ってやった。
「わざわざ不法に侵入した深層で、単身f.o.eに挑む理由があるんなら、俺は訊いてみたいね」
「お、お主らには関係ござらぬ」
「ほう。じゃあ、樹海守の奴に訊くことにするか」
 手を振り踵を返そうとすると、すぐにコユキがその袖を引いた。
「ま、待たれよ!」
「何だ?」
 コユキは凍り付いて動かない。唇だけが、何かを言いたそうにわなないている。
 わざとらしくレオンは肩を竦めた。
「気にすることはねえぜ? 何を訊いて、俺達が何をするかは、あんたにゃ関係ないからな」
「い、依頼じゃ! そういう依頼があったのじゃ! 酒場に!」
「へえ?」
 ようやく白状する気になった様子で、コユキは顔を真っ赤にしてまくしたてる。
「第三階層の魔物を一人で倒して参れと……し、仕方が無かったのじゃ。このままでは宿代も払えぬから……」
 語尾が小さくなっていく。項垂れたコユキはあまりに哀れである。
「その辺にしておいてあげたら?」
 見かねたイーシュが声をかけてくる。彼は俯いたままのコユキの肩を、ぽんと優しく叩いた。
「―――君の邪魔をしたのは悪かったけど、命あっての物種って言うしさ。侵入した事に関しては目を瞑ってあげるから、それで帳消しにしてよ」
「え……」
 恐る恐る顔を上げたコユキに、イーシュがウインクした。レオンは顔をしかめる。
「勝手に話を進めるんじゃねえよ」
「じゃが、拙者は……」
「ほら、宿賃なら僕が何とかしてあげるから。そんなに気を落とさないで」
「おい。そんな金があるんなら、てめえの宿代払いやがれ」
 レオンは頬を引き攣らせた。前の宿を追い出されて、レオンたちの部屋に居候している身分であることをイーシュは忘れている。
 が、イーシュにそんな雑音は聞こえていないようだ。コユキはいつの間にか顔を上げて、彼を見つめている。
 タラシの本分がまさにここにある。
「……拙者」
 コユキは呆然としていた。
「拙者、お主のような方に出会ったのは、初めてじゃ……」
「え?」
「傷を負った者を当然のように助け、労わり、あまつさえその迷惑を顧みない優しさ……貴台の御心に、拙者敬服致しました!」
 地べたに這うようにして、コユキは頭を下げる。突然のことに、イーシュは目をぱちくりしていた。いや、レオンもそうだったが。
 しかしコユキは素早く立ち上がると、背を向けた。
「じゃが、これは拙者個人の問題。貴台らの手を借りるわけにはいかぬ、折角じゃがお断りいたす」
 動揺するイーシュはなんと声をかけていいのか、分からない様子だ。
「コユキちゃん……」
「世話になった。いつかこの礼は必ず」
 口早にそう言ったコユキは施薬院には向かわず、人気のない裏通りに消えていった。
「不法侵入はすんなよ」
 投げかけた言葉は、届いたかどうか。
 なお心配そうにコユキが去った道を見つめるイーシュの肩を叩くと、レオンは施薬院に足を向けた。

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B15F

 結局のところ、コユキの噂はそれからもほとんど耳にすることはなかった。
 どうやらまだ、エトリアにはいるらしい。しばらくギルドメンバーたちはコユキの行方を捜していたようだったが、それ以上のことをレオンが知る事はなかった。関わり合うのが面倒くさかったからである。
「うちの連中はお節介が多いな」
 金鹿の酒場で肘を突きながらふと漏らした独り言を、サクヤが拾った。
「あら、あなたは違うの?」
「俺はそこまで酔狂じゃねえよ。“情けは人のためならず”とも言うしな」
「ソレ、本当は“人に情けをかけると、巡り巡って結局は自分のためになるから親切でありなさい”って意味なのよ」
「へえー」
「それに、あなた自分で言うほど薄情じゃないわよ」
 カウンターの向こうから腕を伸ばして、サクヤがレオンの肘の傍らにグラスを置く。
 それに、女の姿が映った。
 その女は、つむじをこちらに向けるように―――腰を曲げていた。
「その節は、コユキが大変お世話になりました」
 顔を上げたチヒロは、ひどく申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
 後ろを振り返っていたレオンは、がりがりと頭を掻く。
「なんであんたが?」
「……これでも、わたくしはあの子の姉弟子ですの」
 チヒロは周りの目を気にするようにきょろきょろすると、こほんと咳払いした。
「喧嘩ばかりしていても、妹ですもの。……コユキの命を救っていただいて、本当にありがとうございました」
「大したことはしてねえよ」
 大欠伸一つ、レオンは答える。
 窓から見える東の空は朝焼けだが、クッククローはさきほど解散したばかりだ。チヒロは―――ヴァルハラはこれから探索なのだろうか。
 しかし、言葉は投げかけられた。
「レオン殿、一つお願いをしてもいいですか」
「“これからもコユキをお願いします”以外ならな」
 背後から鈴の音のような笑いが起こる。図星だったらしい。
「……何がおかしいんだよ?」
「だって、そう言われることを予想していらしたんでしょう?」
「まあな」
「でしたら、少しはコユキのことを気にかけて下さっていた、ということですわね」
 レオンは顔をしかめる。見えてはいないだろうに、後ろではまた鈴の音が鳴った。
「てめえの妹なら、てめえで面倒見ろ」
「妹だからこそ、てめえで面倒は見られないのですわ」
 応じた声音は、どこか寂しげだった。
「……よく分からん」
 律儀にも礼を言いにきただけらしい、酒場を後にするチヒロを眺めながらレオンは再び独りごつ。
「何が分からないの?」
「俺は面倒くさいのはごめんなんだが、どうしてこう、面倒くさいことに巻き込まれる羽目になるんだろう?」
 真剣な面持ちで呟くレオンに、サクヤは失笑した。


 執政院から新たな任務が発令されたと、クルスは興奮気味に語った。
「地下十四階で会った、あの女の子のことですよ。さすがは世界樹の迷宮、未知なる知的生物なんて、大発見この上ないです!」
「それで、目的の本質は何だったんだ?」
 アイオーンの質問に、クルスは我に返ると、恥ずかしそうに答える。
「す、すみません……えっと、彼女の同胞が三階層の奥地にいる可能性は高いですから、その調査をせよとのことです」
「もう受諾したのか?」
「いえ、一応皆さんの意向をうかがってからにしようと」
 ここは、クッククローの男性陣が寝起きしている宿部屋だ。女性陣―――というかノアは、既にアリルとクルスで説得済みであるらしい。
「俺は別に構わないが」
「僕もいいと思うよ。もっと大人の女の人もいるのかなあ」
 アイオーンに続き、イーシュが頷く。
「レオンは……」
「“調査”ねえ……」
 ベッドの上で壁にもたれかかりながら、レオンは呟いた。渋い顔をしている。
「何か引っかかることでもあるのか?」
「いや……樹海で出会ったあちらさんの言っていたこと、覚えてるか」
 探索に参加していなかったアイオーンが首を捻ったので、イーシュが説明する。
「これ以上奥に足を踏み入れると、命はないぞー……みたいなことを言われたんだよ、ね、たしか」
「あ……」
 クルスが言われて初めて、思い出したという顔をした。レオンは首肯し、続ける。
「となれば必然的に、“調査”だけじゃ済まなくなる気がするんだよなあ」
「たしかにそれは……そうですね」
「まあ、今のところは別にいいんじゃない? “調査”って名目なんだし、それ以上の事は避けるようにしたら。どのみち今より下層に行きたいなら、任務を受けないと進めないと思うよ」
「それもそうだな」
 あっさりとレオンは頷いた。かえって戸惑っているようなクルスに、こう告げる。
「任務、受けますって執政院のメガネに伝えておいてくれ」
「いいんですか」
「ここで探索打ち切りっていうのも困るだろ。食いっぱぐれるぞ」
「そうだね。それに……ヴァルハラの方は既に任務を受けて動いているみたいだし」
 情報通のイーシュが苦い顔をする。先を越されたという意味だろう。
「大丈夫ですかね……」
 一番乗り気だったはずのクルスが、不安げに眉を曇らせる。レオンはこともなさげに肩を竦めた。
「万が一いざこざが起こりそうになったら、戦いになる前にこっちが逃げりゃいいのさ」

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第四階層

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B16F

 帰ってきた。
 少年は皿洗いの手を止め、玄関を見遣った。
 ぞろぞろと通り過ぎる仲間達の顔が見える。その中の数人がこちらに―――台所へ向かっているのを確認し、彼はほくそ笑んだ。
 先頭で歩いていた男が、ちょうど台所の入り口に踏み込む―――
 足元に張られていたロープに気付かずに。
 脚を取られた彼は瞠目するが、体勢を崩して前のめりに倒れていく。後ろに続いていた数人が、その転倒に巻き込まれて、悲鳴を上げながら次々と覆いかぶさっていった。
 爆笑する少年に気付いて、一番下になった男が顔を真っ赤にして怒鳴った。
「ライ!」
 それは非難するような響きを持っていたが、ライはちろりと舌を出しただけ。
 ライは、こういった悪さをするのが好きだった。趣味のようなものだ。
 しかし、折り重なる仲間達の背後に見えた男の影に、その表情が強張る。
「何やってんだ、てめえら」
「あ……ベルモン」
 ベルモンの傷だらけの顔が、ライを向いた。
 倒れている仲間を物ともせず、蹴散らしながら近づいてくるベルモンに、ライは数歩後ずさる。
 そして、投げつけられるように放り出された巨大な麻袋を受け止め、ライは尻餅をついた。強かに腰を打ちつけ唸るが、袋越しにベルモンが見えたので、彼はぐっと唇を噛んだ。
「―――小間使いが、偉くなったもんだな。え? ライよ」
 男はせせら笑うと、ライの白髪を掴んだ。
「その中身、整理しとけ。終わるまで寝るんじゃねーぞ」
 脅すようにそう言うと、彼は仲間を引き連れて立ち去っていった。
 睨むようにその後ろ姿を見送ると、ライはゆっくり立ち上がった。ずっしりと重い袋の中には、今日の戦利品が入っているのだろう―――そう、ライはこの街の外れにある樹海を探索する冒険者、その一端を担うギルドに所属しているのである。
 元は孤児だったライは、このギルドの創立者に拾われた。こんな悪童にもマスターは良くしてくれたが、彼が死んだ後、あの傷だらけの男―――ベルモンがその後を継いでから、このギルドは変わってしまった。規則では、十五を越える年までは樹海に立ち入ることが出来ないために、ライがギルドの雑用のような仕事をやっているというのは昔から変わらないが、今までは仲間の身の回りの世話や物品の整理などごく当たり前のことが主流だったのに比べ、流通を禁じられているはずの品の整理や、危険区域の偽造探索許可書の作成をさせられるようになっているのである。
 仲間は金に目が眩んで、ベルモンの言いなりになっている。話によれば、最近は人攫いの真似事までして、無理矢理探索に行かせているらしい。
 悪戯などよりずっと、悪い事をしている。そしてそれに自分が手を貸していることも分かっている。
 だが、ライにはどうしようもない。仮にこのギルドが潰れても、彼には行くところなど無いのだ。
 屋根も毛布もない一人きりの生活に戻るのは、ごめんだ。
 ライは溜息を吐きながら、皿洗いを再開した。


「人捜しィ?」
 酒場のカウンターに肘を突いていたレオンは、素っ頓狂な声を上げた。
 彼の正面には並んで、申し訳なさそうな表情の冴えない男とアリルが立っている。アリルが男を見上げると、彼は青白い顔をはっとレオンに向けて、口を開いた。
「その……知り合いから預かっている子供が、いなくなってしまいまして……」
「兵士に届けた方が早いんじゃねえの?」
「最後まで聞いてあげてよ」
 アリルに窘められるように言われ、レオンは口ごもる。
「子供といっても、普通の子ではないんです」
「その、あんたの格好と関係あるのか?」
 男を上から下まで眺めて、レオンは呟いた。
 ぼろぼろの布切れを頭から被ったような、奇妙な服装。腕を拘束するように鎖が上半身に絡まっており、その中心に目をあしらった不可思議な紋章と、金色の小さな鐘がぶら下がっている。
「え、あ、はい。私のこの格好は、レプリカというか何といいますか、本物ではないのですが……」
「コスプレか?」
「あ、そうとも言いますね」
「ヨハンスさん、脱線してますよ」
 アリルにつつかれ、ヨハンスという名らしいコスプレ男はぽんと手を叩いた。
「そうでした。……私の探し人というのは、実はカースメイカーの子供でして」
「カースメイカー?」
 聞きなれない言葉にレオンが聞き返すと、ヨハンスは頷いた。
「ここよりもっと西方で生活している、呪術師の一派のことです。この格好はカースメイカーの民族衣装のようなものでして……私は民俗学者なのですが、研究対象に近づくにはまず形からというのがモットーなものですから」
「それはいいが……とりあえず、子供の捜索依頼を冒険者に出す理由を教えてくれ」
 頭を抱えてレオンが言うと、ヨハンスは再びぽんと手を打つ。
「そうでしたね。私は旅の途中でカースメイカーのある一族と仲良くなったのですが、そこで、ある事情で育てられなくなったという子供を預かりまして。ここまでその子とずっと一緒に旅をしてきたのはいいのですが、ふと目を離した隙にいなくなってしまったのです。……何せ本当に特別な力のある子ですから、不慣れな街で人様に迷惑をかけていやしないか心配で心配で……」
「特別な力……ね」
 確かにレオンにも、心当たりがないわけでは無い。人智を越えた超常的な能力を持つ人間というものも、得体の知れないものだらけの樹海に潜っている身の上では、存在して当然だと思っている。
 そしてそういう力の持ち主が、ヨハンスのように誠意のある人間に出会えるとは限らないということも知っている。
「よし、分かった。とりあえず、街中を捜してみよう」
 レオンが膝を打って立ち上がると、アリルとヨハンスがぱあと明るい表情になって、顔を見合わせた。


 その日、ベルモンたちがつれて帰ってきた人物を見て、ライは目を丸くした。
 それは、ほとんど一枚のぼろきれを身に纏った少女だった。ライがあっけに取られていると、その藍色の瞳がこちらを向いた。感情の篭らない、人形のように美しい少女のそれに、ライは思わず息を呑む。だが彼女はすぐに目を伏せると、ライの仲間に連れられて行ってしまった。
「今のは……」
 後から戻ってきた仲間に尋ねると、気のない答えが返ってくる。
「ああ、あれな。何でも、呪い師のガキらしいぜ」
「呪い……?」
「よく分からんが、不気味なもんだ。ベルモンも何を考えているんだか……」
 そう呟くと、彼は大欠伸をして去っていった。
 ライも食事の支度に戻ろうと、台所へ向かう。
「おい、ライ」
 廊下で話しかけてきた影に、ライは少し身構えた。ベルモンが、人目を憚るように周囲を見渡しながら、近づいてきていた。
「―――お前、しばらくあのガキの面倒を見ろ」
「あのガキって?」
「さっき見てただろうが。カースメイカーのガキだよ」
「カースメイカー……ああ」
 先の人形のような少女のことだろう。ライが頷くと、ベルモンはにやりと笑った。
「あれは金になるぜ……カースメイカーには、普通の人間じゃ真似できない業があるらしいからな」
 訊いてもいないのに、ベルモンは云々と金儲けについて語った後、うんざりしていたライの頭を乱暴に掴んでこう締めくくった。
「―――お前も、もう十五だろ。今までの恩を返してもらうとは言わんが、たっぷり扱き使ってやるからな。うはは……」


 結局、日が落ちた後も探し回ったが、少女は見つからなかった。
 冒険者登録がされていない少女が、樹海にいるとは考えにくい。ギルド員総出で至るところを捜したが、結局明け方近くになって、あらゆる酒場が閉まってしまったため、ひとまず打ち切りということになった。
「ヨハンスさんね、先生のお知り合いなんだって」
 肩を落として宿に帰っていくヨハンスを見送った後、施薬院までの送り道、アリルがぽつりと呟いた。
「―――娘さんを連れてくるからって、先生も楽しみにしていたんだけど」
「……そっか」
 ヨハンスはキタザキの勧めで、クッククローに依頼を出したのだろう。合点がいった。
 気落ちしているアリルの頭をぽんと叩くと、レオンは言った。
「まあ、さほど大きな街なわけでもなし。すぐ見つかるさ」
「……うん」
 アリルは小さく頷く。
 そんな言葉が気休めにしかすぎないのは、レオン自身も良く分かっていたのだが。


「飯……」
 パンとミルクを手に部屋に入る。が、少女はただ虚空を見上げていた。
 簡素なベッドにちょこんと座っている少女の隣に腰を下ろすと、ライは彼女の様子を窺うように顔を覗き込んだ。色々と悪事に手を貸してきた流石のライも、攫われてきた少女の相手をするのは初めてだった。加えて彼女の持つ奇妙な威圧感に、ちょっかいを出そうと言う気にもなれない。ライは、腫れ物に触るように、恐る恐る食事を差し出す。
 と、ゆっくり少女の顔がこちらを向いた。驚いたライは首を竦めてしまうが、彼女が無表情のままなので、少し首を傾げる。
 すると少女はそれを真似するように、ちょっと首を傾けた。ライがすっと背筋を正すと、彼女も同じように背を伸ばす。
「……変なヤツ」
 思わず、ライは失笑してしまう。
 少女の唇がそれを追うように、緩やかに弧を描いた。
 明らかな微笑。その予想外の反応に、ライは真っ赤になった顔を背けた。
「こっ……これ!」
 そのまま両手のものを少女に押し付けると、ライは素早く立ち上がり、部屋を出ていってしまった。


「ああ、ありがとう。また頼むよ」
 レオンが金を渡すと、女は微笑み、白粉と香水の匂いをさせて去っていった。
 日の差し込まない路地から抜け出たところで、仁王立ちしていたアリルと鉢合わせする。
「朝早くから、何の相談?」
 彼女はにこやかだが、目は笑っていない。レオンは心外だと言うように肩を竦めた。
「情報を集めていたんだよ。この辺で、奇妙ないでたちの少女を見なかったかってな」
 人が集まるところには、必ず影が落ちる。影には、そこに属する人間にしか見えないものが潜んでいるものなのだ。
 それでもアリルは、あまり納得のいっていないような顔だ。
「……それで? 何か収穫はあったの?」
「ああ。ヨハンスさんが俺たちに依頼したのは、あながち間違っちゃいなかったようだぜ」
 レオンがひらひらと振った紙に、アリルは首を傾げる。
 彼の視線の先には、スラム街があった。
 街の発展を冒険者に頼るということは、諸刃の剣でもある。
 利益は人を集めるが、群がるものたちが求めているのは当然、夢物語だけではない。大半は皆現実的なものを、可能な限り危険を避けて集めようと必死だ。命を懸けなければ手に入らない栄光など、人々は求めない。どちらかといえばその影に落ちる、汚くとも確実な金を拾うことに執着する。そしてタチが悪いことに、味を占めた人間は大抵踏み込んだ先から帰ってはこない。むしろ、より奥に歩を進めてしまうのだ。
 スラムに行くと言ったとき、ノアやクルスはいい顔をしなかった。アリルは置いてきたものの、レオンとアイオーンの後ろに続く二人はまだ嫌そうにしている。勿論、それを責めるつもりなどレオンには欠片もなかった。ここは彼らと何の縁のない世界であるだろうし、それを自覚しないということは大した罪にはならない。
「執政院に連絡は?」
「してあるが……あまり当てにしない方がいいだろう」
「そっか」
 アイオーンの答えに、レオンは素っ気無く返した。


「畜生!」
 口角から血を流して、ライは床に転がっていた。
 怒髪天を衝く形相で、ベルモンは仲間を睨みつけている。完全な八つ当たりなのだが、彼に意見できる者は、いきおい殴られたライを含めて一人もいない。
「畜生、何でここが分かったってんだ!」
 ベルモンが吼える。もうすぐ、彼らの悪事を嗅ぎつけた執政院の使いがここに来る。それがこのギルドの崩壊を意味していることは、ここにいる全員が理解していた。
 皆、ただ怒りに燃えるベルモンに怯え、項垂れ、震えながら沈黙を保っている。
 いや、一人だけ、まっすぐ彼を見つめている者がいた。
 人形のような無表情で、少女はベルモンを見ている。その視線に、ベルモンが気付いた。
「……なんだよ」
 眼前にあった机を蹴散らして、ベルモンは少女の胸倉を掴む。鎖に吊るされていた鐘が、軽い音を立てた。
「―――なんだ、その目は!」
 ベルモンは少女を床に叩きつける。ライは息を呑んで、立ち上がった。
「くそ……どいつもこいつも、俺を馬鹿にしやがって!」
 少女を張り飛ばし、ベルモンは叫ぶ。
「殺してやる!」
「やめろ!」
 考えるより早く、ライはベルモンに掴みかかっていた。ベルモンの鬼のような目が、ライを射抜く。振り払われたライは上手く受身を取ると、倒れていた少女に素早く走り寄った。
「立って。走るぞ」
 言うや否や、ライは少女の軽い体を持ち上げ、脱兎のごとく駆け出した。
「待て、クソガキ!!」
 ベルモンの怒号が耳を衝く。心が竦みそうになるが、ライの脚は挫けなかった。止まれば殺される。少女を抱えた腕にきつく力を込めたまま、ライは走った。追いつかれないところへ。どこか、逃げられるところへ。
 気付けばライの足は、樹海へと向かっていた。


 踏み込んだ先にいた連中は、一人を除いてとても冷静だった。
 その唯一人は、その時点で既にパニック状態になっていたが、いきなりノアに殴りかかってきたのをレオンが制止した―――いや、制止させたところで、彼らの抵抗は完全に終わっていた。
 礼の言葉一つ口にしない女を横目で窺ったところ、冷たい視線を返された。レオンは諦めの境地で嘆息すると、押さえつけられてもなお頭を上げようとする男の意識を払い落とした。
「何だって?」
 連中の一人から事情を聴いていたアイオーンが声を上げる。
「どうした?」
「……少し、困ったことになっているようだ」
 アイオーンは、自分達が入ってきたものとは逆側にある、開け放たれた扉を指した。
「―――カースメイカーの子供は、彼らの仲間に連れて行かれたらしい」
「いつだ?」
 と言っても、追い込みから突入までそう時間はなかったはずだ。
 案の定、人攫いの一味の面々は口を揃えて、ついさっき、と答えた。
「追うか?」
「当然だろ……けど、なんか嫌な予感がするんだ、俺」
 半目でそう呟かれた言葉は数分後、樹海磁軸守の兵士の困惑によって現実となる。


「こ……ここは」
 樹海磁軸を抜けて、荒れる息を整えながらライは呟いた。
 無我夢中で突っ込んだ、紅の光の先にあったものは、砂と土で出来上がった、荒れ果てた世界だった。樹海に入ったことの無いライには、ここが枯レ森と呼ばれる場所であり、世界樹の迷宮の第四階層に位置する、歴戦の冒険者でも命を落としかねない深層であることなど知る由もない。
 ライは抱えていた少女を手頃な岩に降ろすと、自分も腰掛けた。砂混じりの突風が渇いた喉を責める。ライは小さく息を吐くと、黙ったままの少女を見遣った。
「なあ……」
 少女は答えない。虚ろに地面に顔を向けたまま、唇を閉ざしている。ライは見慣れない世界と、そこに充満する得体の知れない不気味な空気のため、あまりの心細さで泣きそうだった。帰りたい。だが、今戻れば樹海の入り口で、ベルモンが待ち伏せているかもしれない。そうでなくとも、執政院の兵士が自分を捕らえに来るかもしれない。
 どうしようもない状況に、ライは途方に暮れる。
 ちらりと少女の様子を窺う。自分は自業自得の結果であるが、彼女は無関係だ。彼女はきちんと街に帰してやらなければならないが……やはり、ベルモンが追ってきていないという保証はない。
「あんた……家族とかっているのか?」
 ふと口を吐いて出た疑問に、ライは何故か慌てる。やっぱりいい、と言おうとして、少女の顔がこちらを向いているのに彼は気付いた。
 目が逸らせない。蕾のような唇が、開いた。
「父が」
 それが返事だったのだと気付いたのは、彼女が無表情に戻ってからだった。
 父親がいたのか。だがそんなことよりも、ライの頭の中では“喋った”の一語が占めていた。
 ライは意を決して、再び話しかける。
「あ、あのさ……きみ、名前、なんていうの?」
 何故かどもってしまう。顔に血が上るのが分かった。
 少女は口をぱくぱくさせると―――ひょっとして、ライの真似をしているのだろうか―――答えた。
「カリンナ」
「カ、カリンナか。いい、名前だね。は、はは……お、おれはライって言うんだけど……って、どうでもいいよね。ははは……」
 ライは明後日の方向を向きながら、口の中でごにょごにょとそう言った。
 と。言い終わるや否や、盛大に腹の虫が鳴いた。
 そういえば、朝叩き起こされてから、全く何も口にしていない。
 空腹を思い出したライは、磁軸のくぼみから出て、通路を見渡した。どこもかしこも、枯木だらけだ。何か食べられるような物があるようには見えない。
 ライはふと、仲間から聞いた樹海の話を思い出した。樹海の中には、体力が回復する不思議な泉があるのだという。それがどこにあるのかは知らないが、探せば見つかるだろう。ライは安直にそう思った。
「よし」
 立ち上がったライを、カリンナが見上げた。
 少女に泉の事を説明し、ライは告げる。
「おれ、ちょっと探してくる。ここで待ってて」
 樹海には魔物が出るという。武器になるようなものは、いつも悪戯用に持ち歩いているロープしかない。ライは用心しながら、窪みから足を踏み出す。
 しばらく歩いたところで、何気なく後ろを振り返ったライは、ぴったり背後に寄り添う少女に気付いて飛び上がった。
「つ、ついてきちゃ駄目だって。危ないだろ」
 少女は答えない。ライが進むごとに、同じ歩数だけ歩いてついてくる。全く気配が無いのは不気味だが、そんなことよりも離れる様子の無い少女を不思議に思って、ライは首を傾げた。
「ひょっとして……一人はいや?」
 カリンナは虚ろな顔のまま、小さく頷く。
 ライは頬を掻くと、少し考え―――にっと笑った。
「分かった。じゃ、一緒に行こう」
 そう言うと、カリンナが僅かに微笑んだ気がした。


 磁軸の光が増す。
 中から現れたクッククローの面々に、入り口で座り込んでいたキタザキが腰を上げた。
「どうだ?」
「駄目だ。三階層にもいなかった」
 首を振るレオンに、キタザキの表情も曇る。キタザキの傍らにいたヨハンスが、真っ青になりながら尋ねた。
「カリンナ―――娘は……ま、まさか既に魔物に」
「可能性はあるな」
「レオン!」
 アリルが非難の声を上げる。レオンは眉を顰めたが、ヨハンスの顔がますます色をなくしていくのを見て、慌てて付け加えた。
「あー、まあ、まだ死んだと決まったわけじゃないさ」
「当たり前よ」
 ノアが呆れたように言う。この無神経男、と冷たい視線が突き刺さるのを無視して、レオンは更に続ける。
「しかし、冒険者登録もしてないガキみたいだな」
 冒険者ギルドに所属していれば、樹海磁軸での転移先は、そのギルドの到達階層に依存する。しかし、例えば調査など、探索目的でなく樹海に立ち入る一般人は、その寸前に使用した者が転送された階層へ強制的に移動してしまう。大抵の場合は行き先を指定する執政院兵や付き添いの冒険者が一緒に転移するため、全く意図しない階層へ飛ばされてしまう、という事態はまず起こらないのだが。
「ま、三階層まできていないのなら、行き先は一つなんだけどな」
「第四階層か……」
 キタザキの硬い声に、レオンは頷いた。
 道を切り開かれて、まだ新しい階層だ。執政院でも冒険者の立ち入りを要警戒している階層に、子供が―――聞く話によると、ヨハンスの娘をつれて逃げたのは少年一人きり―――たった二人で踏み込むのは自殺行為だ。
「……行ってくれるか」
 ただでさえ危険な探索である。
 厳しい顔つきのキタザキ。
 レオンは、意志確認するように仲間を見渡すと、キタザキに振り返って笑って見せた。
「任せろ。ちょっと行って、すぐ見つけて帰ってくるよ」


「……くそっ」
 カリンナの手を引いて、後ろを振り返りながらライは走っていた。
 土煙と地響きが、目と耳の両方から巨大な敵の存在を主張する。白い蟷螂のような魔物が、逃げる二人を追いかけていた。
 入り組んだ迷路から、開けた一本道に出た途端、何処からとも無く現れた蟷螂は突然その腕を振り下ろした。間一髪、その一撃は避けられたものの、武器の代わりに持っていたロープはバラバラに引き裂かれてしまった。あんな、自然のものとは思えないほど鋭い鎌に襲われれば、人間の体もロープとさして変わらないに違いない。
 懸命に駆けていたカリンナだったが、ライの速度についていけなくなってきたのか、掴んでいる腕が引っ張られがちになっている。ライが彼女を抱え上げようとした寸前に、カリンナはバランスを崩して転倒してしまった。
「カリンナっ」
 追いついた魔物の影が覆いかぶさる。ライはカリンナを立ち上がらせると、自分の背後に突き飛ばした。
 刹那、魔物の腕がライの全身を打つ。
 成す術は無かった。ライの体は紙切れのように飛び、行き止まりの土壁に激突して落ちる。激しく回転した視界と全身の痛みに、ライは唸りながら何かを吐き出した。目の前を星が舞っている。ちかちかと光るその向こう側に、カリンナの立ち尽くしている背中が見えた。
「に……げ」
 続きの文字がなんだったか、言葉が出てこない。苦痛が何よりも先に立ち、まともな思考すらままならない。
 もし彼が感覚の全てを取り戻していたなら、好戦的なはずの魔物がライを吹き飛ばした先から全く動かないことを訝しく思ったことだろう。
 だがライの意識は、眼前に立ったカリンナと、長く低く響いた鐘の音を最後に閉じてしまった。


 次に目が覚めた瞬間には、見知らぬ少女が顔を覗き込んでいるところだった。
「!?」
「あら?」
 驚いたライの意識は完全に覚醒する。混乱するライとは対照的に、自分より少し年上に見える少女は笑顔を咲かせると「ちょっと待ってて」と言い置いてどこかへ走っていった。
 そこで、自分が今ベッドに寝かされている、ということにライは気付いた。
 消毒液や湿布のにおいがする。しかし、ここがどこか確認しようにも、思うように体が動かない。辛うじて首を動かす―――激痛が走ったが―――と、ベッドの傍らに、ちょこんとカリンナが座っているのが目に入った。
「無事?」
 カリンナは相変わらずの無表情だ。
 だが、ライはたまらなく嬉しくなってくる。
「良かった」
 そう呟き、痛みを堪えて口角を上げると、少女はやはり真似をしてくれた。


「大事が無くて、本当に良かった」
 少年の診察を終え、部屋から出てきたキタザキは、心底安堵したようにそう言った。
 彼によれば、少年は全身に打撲を負っているものの、命に別状は無いらしい。カリンナの方は全くの無傷だ。
「流石に驚いたけどな」
「何がだ?」
 廊下の長椅子に腰を下ろしていたレオンの正面に立ち、キタザキは首を傾げる。
「ようやく見つけたと思ったら、でかい魔物と睨み合ってるんだぜ? 人攫いのガキの方はぐったりしてるし」
 魔物は、レオンたちに倒されるまで、何故かじっと動かなかった。まるで、何かに怯えているかのように。
 今思えば、何か鐘の音のようなものが鳴っていたような気がする。魔物の動きを止める―――それがあの少女の持つ、ヨハンスの言っていた“特殊な能力”なのだとすれば、確かに樹海探索をする冒険者には喉から手が出るほど欲しい力ではあるだろう。
「無事だったのだからいいだろう」
「俺は疲れたけどな」
 そう言ったレオンを、キタザキが笑い飛ばす。
「そうだな。君達には世話になった。まあ、これで一件落着―――」
 キタザキは途中で言葉を切った。
 廊下を進んでくる一群があった。アリルとヨハンスを先頭に、執政院の兵士数人が早足で歩いてくる。その中の代表格と思しき兵士が、前に進み出た。
「ここに、人攫いの一味の者がいると聞いてきたのだが」
 レオンはキタザキと顔を見合わせる。アリルたちを見ると、二人は困ったような表情を浮かべていた。執政院の兵士は更に続ける。
「身柄を預かりにきた。引き渡していただきたい」
「いや、彼はまだ動かせる状態では―――」
 ない、と言おうとしたキタザキを、レオンは手を上げて制止した。口端だけで笑って見せると、訝しげだったキタザキの表情がますます濁る。
 レオンは兵士達に向き直ると、口を開いた。
「おかしいな。そんな奴は、俺達が着いた時にはいなかったが」
 事情を知る三人の目が丸くなる。兵士達の中にもざわめきが走ったのを、レオンは逃さなかった。
「―――ここにいるのは、俺達と攫われていた少女だけだ。大体訊いてないぞ、そんなこと。誰が言ってたんだ?」
「それは―――言えん」
 嘘八百を並べ立てるレオン。兵士は口ごもったが、大方、人攫いの連中か樹海守の兵士だろう。レオンは腕を組むと、首を傾げた。
「そうか。だが、それは妙だな。もう一度、本当かどうか確かめてきてくれないか? 俺も、仲間に確認してくる」
「……分かった」
 レオンに言いくるめられ、兵士達は首を捻りながら撤収していった。
 完全にその姿が消えた後、にやにやと笑うレオンにキタザキが言った。
「何を考えている?」
「ちょっとな」
 レオンは軽く手を振ると、少年がいる部屋に入っていった。


「さて」
 現れるなり、いきなり眼前に腰を下ろした男に、ライは眉を顰めた。
 その後ろに続いてぞろぞろと、先程診察してくれた医者、目が覚めたときにいた少女、そしてカリンナの父と思しき―――彼女と全く同じ格好をしている―――男が室内に入ってくる。カリンナは無言で、父親の側に寄り添っていったので、ライは自然と俯いた。
 眼前の赤い髪の男が口を開いた。
「俺は、お前を助けたギルドのリーダーだ」
 その一言に、ライははっと顔を上げる。面白がるような笑みが、男の顔にのっていた。
「―――お前に幾つか質問がある。嘘偽り無く答えろよ―――ああ、そんなに身構えなくてもいいけど」
 ライの緊張を見透かしたかのように、男はそう言った。
「そうだな、まず―――名前は何ていうんだ?」
「……ライ」
「よし、ライ。お前はあの子を攫った一味の一人だな?」
 いきなり核心を突いた男は、背後にいるカリンナを指した。
 ライは下を向いたが、小さく頷いた。
「そうか。じゃあ、一味の連中―――お前の仲間が全員捕まったのを知っているか?」
 ライは再び顔を上げる。
「捕まった……んか」
 安堵したような、哀しいような、複雑な感情がこみ上げてくるのをライは感じた。
 悪い事をしてきたのだから、当然の報いなのだ。それは分かっている。
「おれ……どうなるんだ? やっぱり、捕まるのか」
 搾り出すように呟いて、シーツを握り締める。そうしないと泣きそうだった。
 しばらくの沈黙後、遠慮がちに言葉を紡ぐ者があった。
「レオンさん……その、何とかなりませんか」
 そう言ったのは、カリンナの父親だった。
 彼は赤髪の男からライに視線を移す。
「―――カリンナから事情は聞いています。君がいなければ、カリンナは死んでいたかもしれない。そうでなくとも、酷い怪我を負っていたかもしれないと」
 ライはぶんぶんと首を横に振る。そんなことはない。むしろ、助けてもらったのは自分の方だ。
 と。
「リーダーさん」
 カリンナが口を開いた。
「―――お願い。ライは、わたしを助けてくれたの」
「カリンナ……」
 彼女の目は真っ直ぐ、赤髪の男を見ていた。彼は何故か気まずそうに頭を掻くと、ライに向き直る。
「助けてやらんこともない」
「えっ」
「ただし」
 彼は身を乗り出すと、ライの鼻先に指を突きつけた。
「色々条件付きだ。聞くか?」
 勢いに押されて仰け反ったライは、こくこくと頷いた。
 赤髪の男は、不敵な笑いを浮かべると、腕を組む。
「一つ目、盗みはするな」
「へ?」
「いいから黙って聞け。二つ目、女の子は丁寧に扱え。手首に痣がついていたぞ」
 カリンナを指して、彼は言う。彼女を連れて逃げる時についたのだろうか。ライは二人を見比べながら、何故か「ご、ごめん」と謝ってしまった。
「そして三つ目。俺の言うことには絶対に服従しろ。それが守れるのなら―――俺達のギルドに入れてやる」
 思いも寄らない最後の一言に、ライは目を丸くする。
「ちょ、ちょっと待って、レオン!」
「なんだ、アリル」
 アリルというらしい少女が、慌てた様子で言った。
「うちのギルドに入れるって……いきなり、そんな! というか……その」
 混乱しているせいか、すんなり言葉が出てこないらしい。
 しかし、赤髪の男―――レオンは、不遜な態度で答えた。
「リーダーは俺だ。それに、別に構わんだろ」
「私はむしろ歓迎するけど……じゃなくて! クッククローに入るのと、ライくんを助けるのとが、一体どう関係するのよ?」
「それは今から分かる」
 レオンは肩を竦める。彼が軽く叩いた壁の向こう側から、重い足音が近づいてきている。
 ふと立ち上がった彼はライを見下ろすと、尋ねた。
「ブタ箱に入るか、それとも新しく人生をやり直すか。さあ、選べ」


 ノックもほどほどに踏み込んできた執政院の兵士達に、レオンは目を遣った。
「どうだった?」
「やはり、少年が一人、少女と一緒に樹海に入っていったと―――」
「あ、こいつです! こいつ!!」
 樹海守の兵士が、代表格の兵士の影からライを指差した。ライが少し身を硬くするが、レオンはそれを庇うように体をずらした。
「おいおい、勘違いしてるのか?」
 そして、にやりと笑う。
「―――こいつは俺達の仲間、クッククロー・ギルドの一人だぜ」
 素っ気無く告げられた一言。
 呆気に取られる面々。レオンは気にせず、更に続ける。
「助けに行くまで待ってろ、って言ったんだがな。人攫いの連中が切れて襲ってきやがったから、慌てて樹海まで逃げちまったらしいんだ」
 まあ、樹海で合流できたけどな、とレオンは締めくくる。
 ちらりと横目でキタザキを見る。彼は複雑な表情をしていたが、統合すると、苦笑していた。その隣のアリルは、感心したように目を輝かせ、頷いている。
「な、ライ」
 話を振ると、ベッドの少年は目をぱちくりとした。
「え、あ……うん」
 ライが小さく頷いたのを見て、レオンは執政院の兵士に視線を返す。
「そういうことだ。分かってくれたか」
「うむ……」
 低い声で唸った代表格の兵士は、ちらと樹海守を見た。
「お、俺、知りませんでした……すみませんでした」
「いや、こっちこそ。誤解させて悪かったな」
 いけしゃあしゃあと言うレオン。だが、彼に異論を唱える者は一人もいない。
 兵士達は大人しく撤収していく。その後ろ姿を眺めていたレオンを、代表格の兵士がちらりと振り返った。
「ギルド員だというのなら、早く冒険者登録を済ませたまえ」
 固まるレオン。しかし、兵士はその一言を残しただけで、さっさと出て行ってしまった。
 この場にノアがいれば、溜息の一つも漏らしたかもしれない。
 だが今室内に残ったのは、沈黙だけだった。


「ライ……ね」
「へへへ」
 誇らしげに胸をそらせる少年は、屈託無い笑みを浮かべた。
「これで、おれも冒険者なんだな」
 ガンリューが何某かを書き込んでいる、冒険者登録用紙を見ながら、ライは感慨深そうに呟いた。
「入ったからには、きっちり働いてもらうぞ」
「任せろって。樹海の一つや二つくらい、おれにかかりゃあちょちょいと―――」
 腕まくりをして軽く答えたライの頭頂に、レオンの拳が振り下ろされる。
「ってえー……」
「調子に乗るんじゃねえ。しばらくは下層でレベル上げだ」
「えー!?」
 頭を押さえながら、非難の声を上げたライを、レオンは睨みつける。
「当たり前だろうが。四階層とはいえ雑魚に一撃でやられるようなやつを、いきなり前線に出せるか」
「そんなあ……」
「おい」
 紙に目を落としていたガンリューが、顔を上げた。
「―――そいつの職業、何にするんだ?」
「あー……」
 レオンは考えていなかった、と言わんばかりに虚空を見上げると、ライに向き直る。
「お前、何か扱える武器はあるか?」
「武器?」
 ライは目を丸くすると、少し考えた後、懐からロープを取り出した。
「こいつで、縛ったり罠を張ったりするのは得意だけど……」
「鞭か。じゃ、ダークハンターで」
「はいよ」
 レオンとガンリューの簡潔な遣り取りに、ライはただ目を丸くしている。


「本当に大丈夫なのかしら?」
 少し離れたところで彼らの様子を見ていたノアが、ぽつりと呟いた。その傍らに立つクルスも、渋い顔をしている。
「まだ子供じゃないですか。ご両親がよくお許しになりましたね」
 自分の事を棚に上げて言うクルスに、アイオーンは答えた。
「ライは孤児だ。件のギルドの、前のリーダーに拾われたのだそうだ」
 視線をライたちに戻す。ライはまた何か余計な事を言ったのか、レオンに殴られていた。
「そのギルドが壊滅して、行く当てもないんだ。俺達にも多少は責任がある」
「だからと言って、引き取る理由にはならないでしょう? 足手まといを連れて行く余裕は無いのよ」
「辛辣ですね……」
 吐き捨てたノアに、クルスは苦笑いを浮かべる。助けを求めるように見上げられたアイオーンは、小さく肩を竦める。
「これから重要な戦力になるかもしれないぞ」
「どうかしら」
「ああ、皆さん」
 ノアの背後の扉が開き、ヨハンスが顔を出した。
「―――お揃いのようで。丁度良かった」
 不気味な格好のわりに、にこにこと愛想のいいヨハンスは、隠れるように後についていたカリンナを前に押し出した。
「実は、お願いがありまして……」
 ヨハンスの言葉に、アイオーンはクルスと顔を見合わせた。


 ライの手続きを済ませたレオンは、ヨハンスの“お願い”に思い切り顔を顰めた。
「嬢ちゃんをギルドに入れろ、だあ?」
 こくこくと頷くヨハンス。当のカリンナは、ぼんやりと虚空を見つめている。
「おっさん、正気か?」
「も、勿論ですよ」
 ヨハンス曰く、冒険者になりたいとはカリンナが言い出したことらしい。
 今まで彼女が自発的に、何かをやろうとしたことなどなかった。驚いたヨハンスは、しかし、出来るなら彼女の望みを叶えてやりたいのだという。
「樹海が危険なところだというのは、重々承知しています。ですが、カリンナの能力は皆さんのお役にも立てるはず。どうか、仲間に加えてやってもらえませんか」
「仲間にねえ……」
 レオンは横目でノアを見遣る。彼女は怖いほど静かに、カリンナを見据えていた。が、レオンの視線に気付くとゆっくりとかぶりを振った。
「好きにして頂戴」
「ん。えーっと……カリンナ?」
 レオンが話しかけても、少女の反応は無い。
 レオンは彼女の正面に立つと、言葉を探しながら続けた。
「世界樹の迷宮は危険なところだ。君も実際に行ったんだから分かっていると思う。それでも行きたいというのなら―――反対はしない。むしろ、歓迎するよ」
 カリンナの目線まで、屈みこむ。
「理由は別に必要ない。ただ、覚悟は必要だ。どうだ?」
 カリンナの瞳がレオンを見つめた。そして、彼女はこっくりと頷いた。
「行きます」
「よし」
 レオンは満足げに笑うと、踵を返す。登録に行くつもりなのだろう。ガンリューがいるカウンターで立ち止まった。
 その様子を見ていたライは、ふとカリンナの側に寄ると、囁いた。
「本当に大丈夫?」
 カリンナがライを見上げる。その頭がまた縦に振られた。
「ライと……一緒だから」
 小さく呟かれた言葉に、ライは熱くなる顔をふいと背けた。


「ガキ共。新人だけでギルドを作るってこともできるぜ」
「え?」
「おいおい」
「古株なんぞ、目の前の小銭ばかり拾ってる、しみったれた連中ばっかりだからなあ?」
「あのな……」

▲[B16F]一番上へ▲ ▼[B17F]一番下へ▼

B17F

 炎が、枯れた森を貫いていく。
 木の根を模った奇妙な魔物が、断末魔を残して炭と化す。炎に映る影が一つ、背を向けたのをアイオーンは見逃さなかった。
「一匹、そちらに行くぞ!」
 顔を引き締めたクルスは、盾を構えたまま前方に走る。炭になった魔物の傍から駆け出してきた妖鳥の突進を、そのまま受け止めた。
「ぐっ」
 びりびりと手が痺れる。しかし、全身の膂力で持って、なんとか持ちこたえる。そのうちに妖鳥は一声叫びを上げると、地に倒れ付した。盾の後ろから顔を出すと、そこに立っていたのはノアだ。
「これで終わりね」
「ありがとうございます」
「いいえ」
 そっけないが、これがいつものノアのスタンスなのだ。
「へへ、呆気ねえの」
 黒焦げになった木の根の魔物に圧し掛かり、ライが得意げに鼻を啜った。
「―――おととい来やがれってんだ」
「ライ、そこから降りて頂戴。邪魔」
 ノアが冷たく言うと、ライは渋々ながら飛び降りた。
「でもさあ、結構おれもやるよね。四階層の魔物にあっさり勝っちゃってさあ」
「戦闘中、ずっと女の後ろに隠れてたやつがよく言うよ」
 溜息をついたレオンに、ライはばつの悪そうな顔になった。
「―――まあ、それはいいとして」
 レオンは道の先にある、曲がり角に視線を移した。告げる。
「そこの。隠れるくらいなら出て来いよ」
 クルスは息を呑んだ。
 レオンの言葉に従って現れたのは、三階層で出会った、あの異形の少女だったからだ。
「……樹海の守護者を退けた者たちか」
 彼女は先と変わらぬ不遜な態度で、クッククローに歩み寄る。
「―――貴様らの力は認めるが、この樹海の奥に何の用だ? ヒトは我らモリビトとの間に結んだ協定を忘れたのか」
「協定?」
 少女の紅の瞳が、すっと細くなる。
「おまえたち、ヒトはそこまで忘却したのか。……いいだろう、教えてやる」
 少女は語り始めた。
 彼女たち異形の人間は、“モリビト”という、ヒトとは異なる存在であること。
 “モリビト”は樹海と共に生まれ、生きる存在であること。
 かつて侵入してきたヒトと争い、調停によってヒトは樹海の外、モリビトは樹海の内で暮らすように定められたこと。
「―――以来、人がこの樹海の奥に足を踏み入れることは禁じられ、樹海は我らのものとなった」
 滔々と滑る言葉に澱みはない。まるで、それが当然であるといった口ぶりだ。
 そして、彼女の瞳に浮かぶ敵意も、本物だ。
「理解できたなら、戻るがいい。ヒトの里にな」
「もし、協定に従わない場合は?」
 レオンが尋ねる。モリビトの少女は、ヒトと言葉を交わすのすら不快、といった顔つきで応じる。
「協定を破棄したとみなす。おまえたちの命は、保障できぬものと思え」
 吐き捨てるように言うと、少女は身を翻し、曲がり角を曲がって見えなくなった。
「あ、待っ……」
「馬鹿、追うな」
 駆け出そうとしたクルスを、レオンが制止した。
「何故止めるんです?」
「なんで追うんだ」
「それは……」
 レオンが肩を竦めた。
「追いかけてどうする。殺すのか?」
「そ、そんなことするはずがないでしょう!」
「だが向こうはそう思うぞ」
「そんな」
 ふとレオンから視線を逸らすと、ノアと目が合った。その唇が開く。
「少なくとも、モリビトたちは私たちに良い感情を抱いてはいないわね」
「良い感情どころか、敵意丸出しじゃねーか」
 溜息をつき、レオンは剣を背負う。
「……そろそろいいだろ。行くか」
「え、先に進むのか?」
 ライが狼狽する。レオンはそれを冷ややかに見た。
「何言ってんだ、当たり前だろ」
「でも、追いかけないって」
「追いかけはしないが、俺たちも奥に向かってんだから仕方ねえ」
「屁理屈」
「時間はあけただろ」
 半目になるレオン。クルスは眉をひそめた。
「“協定”は無視ですか」
「あー……」
 モリビトの少女が話した内容をすっかり無視していたらしい。クルスは呆れて溜息をつく。
「ひとまず、戻りませんか。執政院に報告しましょう」
「そのほうが良さそうね」
「えっ、結局戻るのかよ!?」
 ライがまたも狼狽する。
「―――このままじゃ、ヴァルハラに先を越されちまうぜ! というか、もう先越されてるんじゃねえの?」
「ヴァルハラも僕たちと同じ警告を受けて、街に引き返している可能性もありますよ」
「でもさー、一番乗りを越されるのはさー……」
「文句があるなら一人で行きなさい」
 ノアはそれだけ言うと、さっさと来た道を引き返し始める。クルスも、それに続いた。
「え、ええ~!」
「無理だ。諦めろ」
「そうだな、戻るか」
 ぽん、ぽん、とライの両肩にそれぞれ手を置いて、レオンとアイオーンが二人に続く。
「ま、待ってよ! 置いてくなよ~!!」
 ぽつねんと残されたライは半泣きになりながら、それを慌てて追ったのだった。


 新しく開いた路。新しい階層。
 今までとは打って変わって、樹海の中とは思えないほどの荒れ果てた世界。
 そして現れる、魔物たち。
 いや―――あれは、






 いつからそうしていたのか、ウィンデールはずっと横たわっていた。
 彼を含めた、ヴァルハラ・ギルドが四階層に入り、すでに四半日以上が経過している。それが分かるのは、太陽が差し込まないはずの、この不思議な空間の中で、頭上からの光の移り変わりがあったからだ。
 だが、どれだけ時間が流れようとも、過ぎ去った時が循環して戻ってくることなどありえない。
 感覚の無い右足。
 激しい戦闘の残骸。
 虚ろな視線の先に、仰向けで転がるオックスは、数時間前からピクリとも動かない。
 他のメンバーがどこにいるのか、動けないウィンデールには見当もつかない。
 やがて意識がぼやけてきた頃に、見慣れた連中が視界に入ってきた。
 驚いている。何を?
 自分達より先を、ヴァルハラが行っていたことか?
「ざま……みろ」
 その呟きに気付いたレオンが、はっと表情を変えて駆けてくるのを確認し、ウィンデールは目を閉じた。


「樹海立入者リストによると」
 施薬院の内部に備え付けられたベンチに腰掛け、項垂れていたレオンの頭上から、声が降る。
「最後に入樹したヴァルハラメンバーは―――」
「オックスのおっさんをリーダーに、ウィンデール、ウルガ、チヒロ」
「知っていたのか」
 レオンは顔を上げた。
 そこに立っていたのは、疲れた顔をしたキタザキだった。苦笑してみせる。
「持ち物を見ればな、大体判別はつくんだ」
 死体の判別はつかなくても、とは口にしない。
 ヴァルハラ・ギルドの敗北は、瞬く間にエトリアの街中に広がった。
 ベテランギルドの壊滅は、久しくなかったことだ。悲しみと同時にそれは、新階層の恐怖を人々に植え付けることになった。
「ウィンデールの容態は?」
 レオンの言葉に、キタザキは眉根を寄せる。彼らの病室があろう方向を振り返って、彼は答えた。
「出来る限りの手は尽くした」
「生きてるんだな」
「命に別状はない。だが……」
 キタザキは言葉を濁すと、視線を逸らせる。
 レオンは一瞬だけ顔を歪めた。その反応に気付いて、キタザキは首を横に振る。
「すまない、君達を責めているわけではないんだ。むしろ、彼の命を助けてくれたことをとても感謝している」
「俺達は偶然発見しただけだ。それに、他の連中は……」
 枯レ森での惨状を思い出し、レオンは再び目を伏せた。
 キタザキがレオンの隣にどかりと座る。
「……遺体は?」
「執政院に回収を頼んだが……とても連れて帰れる状態じゃなかった」
「そうか……」
「代わりに、これを」
 レオンは腰に下げていた革袋を取り外すと、キタザキに差し出した。
「遺品だ」
 袋を覗き込むキタザキの目が、憐憫に沈む。送り出した冒険者が変わり果てた姿で帰ってくるのを、彼は幾度となく見てきただろう。若い命が、例え自ら危険に望んだ末の結果だとしても、こんな風に散っていく様は呆気なく、哀しいに違いない。
「ウィンデールに……何の慰みにもならないが」
 むしろ気持ちに追い打ちをかけてしまうかもしれない。
 だが、キタザキは視線を上げると、いつもの毅然とした態度で答えた。
「渡しておこう」
「ああ、頼む」
 キタザキは遺品の袋を手早く仕舞い込むと、言った。
「ウィンデールの話によると、相手は魔物ではなかったそうだ」
 キタザキの言葉に、レオンは目を丸くする。
「何だって?」
「私も、詳しいことは分からない。いや、ウィンデールにも分からないだろう。だが彼はうわ言のように、あれは魔物ではなく人だったと言っていた」
「……話を聞いていいか?」
 キタザキは首を横に振る。命に別状は無くとも、ウィンデールは今心身ともに疲れきっている状態だ。あまり負担をかけるのも―――思い出させるのもよくない。
「今は、休ませてやってくれ」
「分かった」
「……レオン」
 そのまま踵を返そうとしたレオンを、キタザキが呼び止めた。
「君達も先に進むのか」
 樹海のことだと察した。
「状況が分からない限り無茶はしないよ。けど、街が落ち着いたら、とりあえずは出るだろうな」
「進んだ先に何がいるのか、分からないのに、か?」
 キタザキらしくない言葉に、レオンはふっと微笑んだ。
「いつものことさ」
 キタザキは目を丸くするが、つられたように小さく失笑する。
「くれぐれも気をつけてくれ」
「ああ」
「アリルを頼んだぞ」
 レオンは一瞬返事に詰まったものの、頷いた。


 ヴァルハラの壊滅は、クッククローにも少なからず波及していた。
 動揺は大きく二つある、とレオンは見ている。一つは、懇意にしていたギルドに対する憐憫と哀悼。もう一つは、自分達よりも実力が上回るギルドの敗北による、ショックだ。
 キタザキには先に進むと言ったが、実際にどうするかはレオンもまだ決めかねていた。彼自身の意向に揺らぎはないが、クッククローはチームだ。他のメンバーが探索をやめると言い出せば、それを止めることはできない。
 ウィンデールを救出して以降樹海に足を踏み入れぬまま、自然と一週間が経過していた。言葉にはしなかったが、結果的に各人がこれからを決心するのに設けた準備期間となった。
 そしてその間に、レオンは新たな情報をウィンデールから手に入れることになる。
 ウィンデールたちを襲ったのはやはり原住民たち―――モリビトであった。
「樹海って怖ェんだな」
「今更気づいたか」
 レオンはライを伴って施薬院から帰る道である。ウィンデールに話を聞くのにライを連れてきた効果は、血気盛んな少年には十分すぎるほどだったようだ。
「……おれやカリンナも、ああなってた可能性、あったってことだろ……」
「そうだな。それが樹海ってやつだ」
「リーダー」
 身震いしたまま、ライはレオンを見上げる。
「―――どうするんだ。探索、続けるのか」
「俺はそのつもりだ」
「そっか……」
 ライの顔が強張る。
「安心しろ。おまえとカリンナ、あとアリルは連れていかねえ」
「え?」
 正面の西日を睨むように、レオンは目を細めた。
「おまえらは留守番だ。戦争が終わるまでな」


 それから間もなく、執政院は“モリビト殲滅作戦”と銘打った任務を、冒険者達に発令した。
 大義名分は“ヒトを危険視したモリビトたちが、エトリアの街を襲撃しに来るかもしれない”という恐怖。モリビトの姿を確認できたのは浅くとも三階層なのだから、それは杞憂にすぎないかもしれない。だがヴァルハラ・ギルドが壊滅した以上、少なくとも冒険者達は畏怖していた―――いずれ、自分達も同じ目に遭うかもしれない。それは、クッククローにも当てはまる、恐怖だ。
 そして恐らく執政院は、冒険者が萎縮し、結果的に樹海探索が滞ることを危惧しているのだろう。そうなれば、クッククローが結成される前の、寂れたエトリアに戻ってしまうと懸念している。
 だから必然的に、この任務はクッククローが果たさねばならない。
 事実上ヴァルハラがいなくなった今、新たな道を切り拓くのはクッククローでなければならない。
「任務を受けるぞ」
 金鹿の酒場にクッククローのメンバーを集め、そう宣言したレオンに、すぐ反対の意を唱えたのはクルスだった。
「モリビトを……滅ぼす必要が本当にあるんですか」
「ない。だが、ある程度数を減らす必要はある」
「な……」
 絶句するクルスを、レオンは睨みつける。
「あくまで俺たちの邪魔をするならば、だ。遭遇もしないのに探し出して殺しに行くってわけじゃない」
 その言葉に、クルスは俯いてしまう。
 彼も分かっている。この先に進むなら、この任務は受けねばならないものなのだ。黙っている他の仲間達も、それは十二分に分かっている。
 ただ、感情がついていかない。相手は異形とはいえヒト、これは戦争、そして相手にとっては侵略なのだ。
「他に異論があるなら言え。なければ、任務はこのまま受ける」
 そう言い置いて、レオンは席を立つ。
 サクヤの気遣わしげな視線を受けながら、レオンは酒場を出た。
 恐らく、このまま任務を受けることになるだろう。
 アリル、ライ、カリンナの三人は、この任務には連れて行かないとも宣言した。彼らを戦わせるには、モリビトという敵はあまりに人に近すぎるし、三人もまだ子供すぎる。これも本人達はもちろん、他のメンバーからも異論は出なかった。
 ぼんやりと夜のエトリアを歩いていると、樹海の近くまで来てしまった。
 星を見上げると、浮かんできたのはこの言葉だった。
“君は命を懸ける価値を、この迷宮に見出したのかね”
 尋ねてきた相手はオックスだった。四角い顔に浮かぶ剛毅な笑みを、もう二度と見る事は適わない。
 彼が樹海に命を懸けた理由を、知ることももう出来ない。死ぬとはそういうことだ。死に別れるということは、そういうことだ。今までに何度も経験した。
 だが、これも何度も味わったことだが、必ず湧いてくる感傷がある。それは無常感だ。己と近しい者の死に様は、己もいつかそうなるのだということを強く感じさせる。
 ならば、どうして自分は今ここにいるのか?
 どうしてここで生きているのか?
「そこにおられるのは、レオン殿か」
 暗闇の中、街から樹海への道を塞ぐように立つレオンに、話しかけてきたのはコユキだった。
「―――探索帰りか? 他の方々は」
「いや、違う。……散歩をしていただけだ。あんたは?」
 コユキは虚をつかれたといった顔をした。
「……何だよ?」
「いや……おぬしは、他人に興味を持っていないものだとばかり、思っておったので」
 拙者と同じで、とコユキは口角を上げるだけの笑みを浮かべる。
「……こんな時間から、樹海に行くのか」
「そうじゃ。酔狂かの」
「当ててやろうか、何処に行くか。四階層だろ」
 コユキは押し黙る。正解らしい。
「仇討ちとか言うんじゃねえだろうな」
 低く唸るようにそう呟くと、コユキは目つきを険しくした。
「違う。拙者はただ、依頼で……」
「あんた、まだギルドに所属してねえらしいじゃねえか」
 レオンは木にもたれかかると、溜息をついた。
「―――この街から、もう出た方がいい。エトリアにあんたの探し人はいねえよ」
 コユキは、傷ついたように目を伏せる。
 そして、レオンが何か続けるより早く、口を開いた。
「恥を忍んで、お願いがあり申す。拙者を、貴公らのギルドに入れてはもらえぬか」
「普段なら歓迎するところだがな、今の返答はノーだ」
「何故じゃ!?」
「死んでも構わないと思っているようなやつを、戦場に連れてくわけにはいかないよ。こちとら命がけとはいえ、死にたいわけじゃない」
 コユキは顔を歪め、口を開いては、閉じる。しかしようやく出てきた一言は。
「おぬしは勘が……鋭いのじゃったな」
「勘の問題じゃない、誰だって分かるさ」
 レオンは続けた。
「俺たちはヴァルハラの仇討ちで、モリビトと戦いに行くわけじゃない。だから、それが目的のあんたとは一緒に行けない」
「姉の無念を……晴らさずに堪えよと言うのか」
「そうじゃない。あんたが行きたいなら、俺は止めやしないさ。だが、己の力で成せないことを、他人の力で成そうとするのは、仇討ちとは言わないぜ」
 コユキは息を呑む。
 レオンは彼女を通り過ぎると、片手を上げてひらひらと振る。
 そしてそのまま振り向かず、街へと歩いていった。

▲[B17F]一番上へ▲ ▼[B18F]一番下へ▼

B18F

 回復の泉を見つけた一行の前に、ふいにモリビトの少女が現れた。
「命が惜しくはない様だな」
 だだっ広い空間を、凛とした声が響き渡る。
 睨み付けるようなその視線に、クルスは弁明しようと口を開いた。が、そこから何も出てこないうちに、レオンが一歩進み出る。
「あんた達に危害を加えるつもりはない」
 その言葉に、クルスは驚く。執政院から受けた任務の内容は“モリビト殲滅”なのだから。
 窺うようにレオンの横顔を見るが、そこからは何の思惑も読み取れなかった。
「……樹海の深部に立ち入ること自体が、我々に対する侵略なのだ」
 怒りを堪えるように、少女は言葉を搾り出す。
「―――それ以上っ……踏み込むならば、もう容赦はしない!」
 少女が叫ぶと同時に、開けた荒野の木々の陰から、初めて見る亜人達が姿を現した。
 数十にも及ぶ彼らは皆、少女と同じような風貌をしている。単なるモンスターではない、“モリビト”であることは、確かだった。
 そして各々が抱えている武器に気付いて、クルスは思わず叫んだ。
「やめて下さい! 争うつもりはないと言って……」
 レオンが腕を上げて制止する。クルスは言葉を尻すぼみにして切った。仲間達に守られるように立っているモリビトの少女が、ひどく不快そうな表情をしていることに気付いたからだ。
「……そうか、なら仕方がない」
 クルスは目を見開いた。あっさりとそう言ったレオンが、剣を抜いたのだ。
 金属が擦る音に、クルスは後ろを振り返る。いつの間にか、クルス以外のメンバー全員が、戦いの構えを取っていた。
 レオンは淡々と続ける。
「俺達も仲間を殺されているんでね。立ちはだかるなら……全力で斬り捨てるのみだ」
 そしてそれを合図にしたように、戦いが始まった。


 圧力に押され、クルスは尻餅をつく。しかしすぐに視線をきっと上げると、顔を顰めた。
「貴方達は」
 飛び掛かってくるモリビトを、盾で打ち倒す。
「―――本気、でっ……」
 視線を巡らせて、歯噛みする。
 囲まれている。じりじりとにじり寄る、その内の一体の赤い瞳と目があって、クルスは息を呑んだ。
 憎しみに塗られた目。
―――この目。こんな目をする彼らは、自分達と同じではないのか?
 人に似て非なるものなら、この樹海にはたくさんいる。
 だが彼らは人ではないのか。
 そして彼らの住家を荒らし、あまつさえ存在を“駆逐”しようとさえしている―――
 自分たちは、何だ?
 背筋が凍る思いだった。
 頭が真っ白になった一瞬を、目の前を薙いだ剣が切り裂いた。
 断末魔と同時に周囲のモリビトが炎に包まれ、地に倒れ伏していく。
「何してんだ? お前」
 大剣を肩に担いだ男は、平然とクルスを見下ろしていた。
「―――騎士団出身なら、こっちの方が得意だろうが」
 レオンは自身の頬の、緑色の返り血を拭った掌を見て顔をしかめた。鎧でそれを拭い始めた彼の足元で、血に濡れたモリビトの唇から風のような呼吸音が漏れている。
 赤い瞳が僅かに揺らいでクルスを見上げた。
 刹那、その背に鋼の刃が突き刺さる。
 モリビトの目はあっけなく臥せられた。
「アイオーン!」
 仲間に呼び掛けるレオンは、自分の剣の先にあるものすら見てはいなかった。
「―――大爆炎の術式を頼む! こいつら、火に弱いみたいだ!」
「……分かった」
 微かに頷いたように見えたアイオーンは、後退ると同時に術式を繰り始めた。その正面に回り込んだノアが、近付こうと身構えたモリビトに矢を放つ。と、その顔が突然こちらを向いて、引き締まった。
「クルス! 戦いなさい!」
 凛とした声に、クルスははっと我を取り戻す。
 耳の横を通り過ぎていった矢は、クルスの頭頂に掲げられていた斧の主の手を打った。モリビトが怯んだ一瞬の隙を突いて、レオンがその体に刃を振り下ろす。
 すぐに駆け出したレオンと入れ違いに、イーシュが寄ってきた。
「立てる?」
 言葉と共に差し出された右手を、クルスはまじまじと見つめた。
 急かすようにそれが揺れ動いたので、慌てて掴まり立ち上がる。
 イーシュの背後に見えた剣に、体が勝手に反応して盾を突き出す。上手く受け止めた金属音の向こうでの、呻き声と血飛沫。レオンの赤い髪が、疾駆していくのが辛うじて見えた。
「こっち」
 イーシュに片手―――剣を扱う方の―――を引かれて、クルスは彼について走る。襲ってくるモリビトの攻撃を避け、あるいは盾で受け止めながら、大群の合間を縫うように、走る。
「ぼんやりしてちゃ、駄目だ」
 イーシュの呟きが、風に乗って耳に届く。
「―――今は振り返るな」
 進行方向に、ノアと籠手を構えるアイオーンの姿が見えた。
 イーシュとクルスが二人に並ぶと同時に、アイオーンの籠手から炎柱が迸る。
 クルスたちを追っていたモリビトの群れが、それに飲み込まれる。悲鳴と炎の渦。辛うじてそれを逃れたモリビトたちは、回りこんでいたレオンの一閃で崩れ落ちていく。
 轟音の通り過ぎた後に、残った静寂と煙幕。視界を塞ぐそれから、生き残りの一体が雄たけびを上げながら姿を現す。クルスは右手が自由になっていたことに気付くと、素早く剣を抜いてその胴に突き刺した。
 重いものが、地面に落ちる音がした。そして今度こそ、完全な静けさが戻ってくる。
 一呼吸後に、誰かが言った。
「終わりか」
 仲間達が短く吐息を漏らす。
「のようね」
「ひとまずは、な」
 その他には特に感想も口にせず、皆疲れた様子で周囲を見渡し始める。
 探索を続けるつもりなのだろう。
 モリビトの少女の姿はない。戦闘能力はないだろうから、戦いが始まると同時に逃げたのだろう。
 一人だけ離れたところにいたレオンが、枯レ森特有の足音を立てながら近づいてくる。
 彼はいつも通りの顔をしていたが、クルスとすれ違う瞬間にこう呟いた。
「やれるんじゃねえか」
 その言葉に、クルスは大きく目を見開く。
 妙な感情が、急に胸の裡に広がり始めた。不思議なことに抑えられない。
 悔しい。
 置いていくぞ、と呼ぶ声が、遠くから聞こえてきた。


 紅の光から、視界が間もなく開かれた。
 いつものように立つ樹海守の兵士、地面の割れ目のような樹海の入り口に続く道、その向かいの、エトリアの日常へと続く臨界線。
 それが見えた瞬間こみ上げたものに耐え切れず、クルスは膝をついた。
「クルス!?」
 そして、仲間の見ている前で、嘔吐し始める。
 限界だった。樹海では腹の底に横たえた緊張感により堪えられていたが、最早、それが拭われた今は。
 体の望むまま、胃の中のものを全て吐き出す。冷えて震える固い体が吐瀉物の上で荒い息を吐くが、まだ収まらない。クルスは胃液だけを、延々と吐き続けた。
「大丈夫か?」
 アイオーンが声をかけてくる。ノアが鎧を外そうとしてくれていた。自分ひとりが混乱し、情けないやら辛いやら、仲間の気遣いに色々な涙が出てくるが、今のクルスには、口を押さえながらこくこくと頷くことしか出来なかった。
 人間を殺すということ、それに対する覚悟がなかったわけではない。
 現状はどうあれ、クルスは騎士だ。必要があれば、積極的に戦争に参加せねばならない。自分の背後にあるものを守るためならば、目の前のものを斬って捨てるくらいの勇気はあるはずだった。
 それでも嘔吐感は収まりきらず、樹海磁軸の前でクルスは吐き続ける。
 彼にとって初めての“実戦経験”は、まさにそれが全てだった。


 宿部屋に転がり込むように帰ってきたクルスは、青白い顔のまま、ベッドに横たわり、腕で顔を覆っていた。
 人を殺した。
 人を殺した。
 その事実は拭っても拭っても消えない。
 僕は人殺しになったのだ―――
「おい、生きてるか」
 上からレオンに顔を覗き込まれて、クルスは寝返りを打つ。
「……ダメそうなら、明日はやめとくか?」
「……て」
「ん?」
「どうして、そんなに……平気なんですか」
 クルスはゆっくりと起き上がると、レオンを見た―――否、睨んだ。
「危害を加えるつもりはないと言った。あれは嘘だったんですか」
「……ああ」
 虚空を見上げて少し考えたような素振りを見せると、レオンは生返事をした。
「―――違う。大人しくモリビトたちが退けば、剣を抜くつもりはなかったさ」
「結局は戦うつもりだったんでしょう」
「違うって。というか、俺は譲歩を見せたぞ。それに応じなかったのは奴らのほうだ」
 困ったようにそういうレオンだが、クルスは腹の底に横たわるものが、ふつふつと湧き出してくるのを抑えきれなかった。それは普段なら理性が制限する類のもので、混乱した頭で制御しきれるものではない。
 理不尽な怒りが、クルスの口をついて出る。完全な八つ当たりだ。
「それじゃ、僕たちは全くの侵略者だ。酷い条件を突きつけて、それを飲まないなら殺すなんて」
「最初からそういう話だっただろうが。……おまえ、ちょっと休め。落ち着いてから、文句を言え」
「文句? 抗議と言ってください。僕は誰かと違って、いつだって話し合いで解決したいんです」
 レオンの目つきが険しくなる。
「それは俺に対する当てつけか」
「どうでしょうね」
 湧き上がる底が、冷たさを帯びていく。


 イーシュが宿部屋の扉の前で聞き耳を立てている。アイオーンは目を丸くした。
「そこで何をして―――」
 イーシュは片掌をアイオーンの眼前に突きつけた。
 彼が押し黙ると、今度は扉を指差してくる。
 同様にしろということか?
 目で問うと、イーシュは真剣な面持ちで頷いた。その目にあるのは好奇心ではない。訝しく思いながらも、アイオーンは彼に従った。
 しゃがみ込み、イーシュと向かい合う形で扉に耳を当てる。いや当てずとも、薄い木の仕切りでは中の会話など筒抜けだ。
 話しているのは、レオンとクルス。内容からして、モリビトとの戦の話らしい。
「モリビトを殺すのが、結局のところ僕たちの目的だったってことでしょう」
 これはクルス。
「何を言ってるんだ、お前は」
 応じるレオンは、やや呆れ気味だ。
「もっと言葉を尽くせば、解決できたかもしれない。戦わずに行けたかもしれない」
「だから、それは奴らの方から破談にしたんだ。剣に言葉を盾にするのは、無茶ってもんだぞ」
「説得する気なんてさらさらなかったくせに。あの一言だけを交渉というなら、傲慢にもほどがあります」
「何でそこまでする必要があるんだ」
「彼らは人間なんですよ!」
 クルスが声を荒げた。
「ニンゲンであろうとなかろうと、最初から彼らに交渉する意志が無ければ同じことだ。邪魔をするものは排除する。そして先に進む。いつもそうしてきただろうが」
 レオンの言葉に、クルスが息を飲むのが、聞こえずとも分かる。
「本当に、そう思うんですか」
「ああ」
「信じられない」
「あのな。お前のそれは、偽善って言うんだぜ」
「偽善?」
「言葉が通じる相手に慈悲をかけているふりの、自己満足だ。そんな甘ちゃんに、よく騎士が務まるな」
 イーシュは苦い顔をしていた。アイオーン自身も、同じような顔をしていたろう。
 これは、まずい。
「偽善で結構。僕は、あなたのように人の命を簡単に割り切ることなんて出来ない」
「何だと……」
 ガタン、と室内で何かが音を立てた。
「相手に手加減しながら、戦争なんざ出来るか! 分かってんだろうが!」
「それでも殺さないようにするくらいなら出来るでしょう!? それとも、あなたは殺すことが好きなんですか!?」
 イーシュに目配せする。
 二人は立ち上がって扉を開けた。
 素早く部屋の中の二人に組みつくと、無理矢理引き剥がす。アイオーンが引いたクルスの腕はほとんど動かなかったが、クルスは自分で後ろに引いた。眼前では、イーシュがレオンを羽交い絞めにしている。こちらも、あまり抵抗していないようだ。前衛の二人が本気で暴れれば、イーシュもアイオーンもただではすまない。
 だが、この張り詰めた空気は弛まない。
 襟を捻られていたせいなのか、クルスが喉を押さえて咳き込んだ。
「どう、して、戦いを避ける努力をしないんですか、あなたは」
「黙れ。俺は確かに人殺しだが、お前も人殺しなんだよ。自分だけ綺麗なツラしてんじゃねえ」
「もういい、落ち着け」
 二、三発殴られるのを覚悟して、アイオーンはクルスを庇うようにレオンの前に立った。
「―――落ち着いてくれ。君達がここで暴れたら、俺達まで宿無しになる」
「だったら外で寝てくれ」
 まさかとは思ったが、本当に完全に頭に血が上っている。
「そいつは遠慮願う。風邪を引いたら、ノアやアリルたちにも迷惑をかけるしな」
 平静を装って、アイオーンは言葉を紡ぐ。実際は身も凍る心地だったが、幸いにも、レオンはすっと左目を閉じると視線を逸らした。
「そうだな、悪かった」
 イーシュが拘束していた腕を放す。頭を冷やしてくると言い置いて、レオンは早足で部屋から出て行った。その背を見送って、イーシュはへなへなと床にへたりこむ。
「こ、怖かった……アイオーン、ありがとう」
「いや……俺も怖かった」
 正直なところを述べると、イーシュが苦笑する。
 クルスは黙ったまま、ベッドに座り込んだ。俯いて、組んだ手で顔を隠し、深い呼吸を繰り返している。
「けんか……なんて、初めて、しました」
 興奮の副作用か、声は震えていた。アイオーンはその向かいに腰を下ろすと、言ってやった。
「酷い言い合いだったな」
「はい……ひどいことを、言いました」
 クルスの声は泣きそうだった。
「お互い様じゃない?」
 イーシュの言葉に、アイオーンは乾いた笑いを漏らした。


 レオンは宿の前の階段に座り、ぼんやりとしていた。
 激しい言い争いや、殴り合いにまでいく喧嘩は彼の人生では珍しくない。だが、今回は止めてくれて良かったと素直に思う。あとでアイオーンたちには礼を言わねばなるまい。
 だが問題はそこではなかった。中途半端に燻る熱を呼気で逃がす。溜息は予想したよりも多く出た。レオンは自分に驚く。
 言われた言葉は、思いの外ダメージが大きかったらしい。
 要するに、傷ついている。
 そんな繊細だったか、俺は?
 人殺しと言われることに抵抗はない。何を今更、と言った方が正確なほどだ。では何の言葉に戸惑い、動揺しているというのだろう。答えは出ず、それが更に気落ちに拍車をかける。
 興奮の余熱と混乱でぐるぐる回るレオンの頭は、近づく気配には向かなかった。
「何してるの?」
 顔を覗き込まれて初めて、レオンは彼女の存在に気付いた。
 アリルは不思議そうに首を捻る。
「どうしたの? まだ、外で寝るには季節が早いよ」
「ああ……」
 気づかなかったことに驚きながら生返事を返すと、レオンは立ち上がった。努めていつも通りに振舞う。
「お前こそ、どうしたんだよ。わざわざ宿にまで来るなんて」
「うん。宿の患者さんに、お薬を届けに」
 鞄から白い袋を出して、アリルは答えた。
 レオンは、そうか、とだけ返した。そのまま表通りに行こうとする。あまり誰かと話したい気分ではなかった。
 しかし、アリルは声をかけてくる。
「何かあったの?」
「……どうしてそう思う?」
 思わず逆に問いかけると、アリルは俯いた。
「だって、様子、変だから」
「喧嘩しただけだ」
「喧嘩?」
「男にゃ色々あるんだよ」
 冗談めかしてそう言うが、アリルの表情は曇ったままだ。
 彼女は階段を数段下りて、レオンに並ぶと、彼を見上げた。
「ね。本当に私、探索に行かなくてもいいの?」
 四階層の話だ。先ほどの喧嘩の内容を思い出し、少し苛立ちが復活する。
「前にも言ったろ。敵はモリビトだぞ」
「それは、分かってるけど」
「なんだ、行きたいのか? 別に構わないが、死体に流血、スプラッタの山しかないぜ」
「そんな言い方しないで」
 アリルが眉をひそめる。
「―――みんな条件は同じでしょう? 私だけ、例外なんて……」
「ライやカリンナも連れて行かないぞ」
「それはそうだけど」
 アリルの言いたいことは分かる。だが、レオンは虚ろに笑った。
「無理しなくていい。ああいうのは、俺達に任せな」
 戦場に慣れない人間は、足手まといにしかならない。言葉には出さなかったが、触れにくるなという意味ではあった。
 アリルはじっとレオンを見つめていたが、やがて搾り出すように呟いた。
「ごめんなさい」
「謝ることなんてないさ。お前が普通なんだ」
 彼女はかぶりを振る。
「好きでモリビトを……モリビトと戦っている人なんて、クッククローにはいないもの」
「……そうだな」
 人殺しが楽しいわけではない。
 クルスに言われた言葉が、胸に突き刺さっていた。僕はあなたのように、人の命を簡単に割り切ることなんて出来ない。人の命は重いのだと、彼はそう言ったのだ。
 レオンは逆だと思っている。人の命はあまりにも軽い。だから、守りきるには相当な力がいる。吹く風に飛ばないように、押さえつけなければ簡単に、命など散ってしまう。
 だから斬ることにもさほど抵抗が無いのかもしれない。
「ありがとう」
「え?」
「心配してくれているんだろう?」
 アリルは、一瞬目を丸くした後、こくこくと頷いた。
 笑みを浮かべると、彼女はつられたように笑った。軽く手を振って、レオンは夕焼けに赤く染まった石畳を、その上に伸びた影を踏みながら、広場の方へ歩いていく。
 戦う理由は一つだけだ。その為に、立ちはだかるものが何であろうと、斬り捨てる。
 そうでなければ、自分が死ぬだけだ。
 だが、そうまでして生き残る理由を、レオンは見つけられなかった。

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B19F

 酒場の木製のテーブルの上に紅の石を並べる。いつものことだが、今回は袋から出てくる石の量がかなり多い。
 第四階層は、錬金術に用いる触媒が多く採れるのだ。ブルームに頼んで採鉱についてきてもらえば、それだけで笑えるほど簡単に目的のものが手に入る。
 そう、触媒集めこそアイオーンの樹海探索における目的だった。だが、気分は全く晴れやかでない。ブルームも、今まで見たことがないほどに苦い顔をしていた。
「皮肉なものだな」
 呟く。カウンターの向こうから、ちらりとサクヤが気遣わしげな視線を送ってくるが何も言わなかった。今ここには最早馴染みの顔となったレオンもイーシュもいない。アイオーンは独りだった。
「ここにいたのね」
 冷たいが敵意の無い声が降る。アイオーンはグラスから目を逸らさなかったが、声の主は隣の席に座した。
 ノアだ。
「―――次の探索。本格的に地下十九階に進出するそうよ」
「……採集の続きは?」
「ブルームが調子悪いから、って。今度になったわ」
「そうか……」
 探索のミーティングも、このところまともに行われていない。平時は自然に全員が参加して意見を出し合っていたが、今はレオンが一人で目処を立てている。
 だがそれは独断専行などではない。むしろ義務を放棄しているのは、他のメンバーの方なのだ。
 レオンも分かっている。だから彼は、一人で事を進めようとする。
 自分勝手だ。決断の責任を負わず、それに甘えきっているアイオーンたちも、また。
「モリビトは……」
 酒を呑んでいるはずなのに、疲れた声がアイオーンの口を割る。
「戦えるモリビトは、あとどれくらいだろうな」
 意図せず流れ出た言葉に、ノアが苦い口調で応じる。
「……少なければ、いいわね」
「ああ」
 自分から口にしたことなのに、それだけを返すのが精一杯だった。


「あれ、レオンだ」
 かけられた声に、レオンは顔を上げて、しかめた。
「……何やってんだ、おまえ……こんなとこで」
 イーシュは苦笑い―――否、引きつり笑いで応じる。
「何って……多分、目的は一緒だと思うけど」
「そりゃそうだ」
 ここはエトリアのスラムに程近い、歓楽街だ。それも金鹿の酒場があるような大通りではなく―――端的に言えば、客引きの女が立っているような通り。俗に言う色街である。
 時間で言えばちょうど、店が開き始める頃だ。
「……解散して、珍しく宿にいないなーと思ったら、そういうこと」
「そういうこと」
 にやと笑って、レオンは立ち上がる。
「それで? レオンの行き着けはどこかな?」
「阿呆。つか、俺も今来たところだよ」
「どこかに寄った帰り?」
「や……ちょっとヤボ用でな、遠回りしてたらここに着いたんだ」
 イーシュは納得したらしく頷く。レオンは溜息をついた。
「他の三人は?」
「ノアとアイオーンは知らん。クルスは施薬院におつかいだ」
 今潜っているメンバーではまともな回復役がいないので、必然的に薬の消費量は多くなる。
「……レオンはさ」
「あん?」
 ふと思いつきというように、イーシュは尋ねてきた。
「あの二人のこと、どう思う?」
「二人、って」
「レンとツスクルのことだよ」
「……ああ」
 地下十八階で彼らと出会った事を思い出す。
 再会、というべきだろうか。久しぶりに会った彼らは、先に潜む魔物についての助言をくれた。
「第四階層のこと、随分詳しいよね。まるで、僕たちの先を行ってるみたいな口ぶりだった」
「……そうだな」
「変だと思わない?」
 イーシュはいつものように涼しげな笑顔をしていたが、突然それを歪めた。
「ってて、頭痛いや。調子悪いなー」
「……あいつらは、執政院付きの冒険者ってところだろ」
 レオンは目を細めた。
「―――最近エトリア全体に、モリビトが人間に対して脅威になりつつあるという噂が流れているそうだ。そのせいで、モリビト殲滅の風潮が冒険者以外にも波及しているとも」
「レオンは、モリビトはそんなに怖いものだと思う?」
「……正直に言って、思わないな」
 彼らは自分達の領分を守ろうとしているだけだ。攻め入っているのは人間の方である。
「―――執政院は、何をしたいんだ?」
「彼らは冒険者が深部に進むのを奨励してる。開発が進めばそれだけ、街に利潤が発生するからね」
「……不気味だな」
 イーシュが黙したので、レオンは続けた。
「あの二人は俺たちよりも先に進めるのに、“俺たちが”開発することを望んでいるみたいだ」
「……そうだね」
 イーシュは頭を押さえ、顔を歪めながら同意した。顔色は真っ青だ。
「おい、大丈夫か?」
「平気だよ……そう、不気味、だね」
 そう言いながらも膝を折った彼に、レオンは呆れながら肩を貸す。
「調子が悪いのに色街なんか来るからだ」
「あは……香のにおいに酔った、のかな」
 ごめんねーとへらへら笑いながら、遠慮なくイーシュは寄りかかってくる。
 興を削がれたレオンは、イーシュを支えたまま、仕方なく宿に引き返すことにした。


 アリルは施薬院の中庭の入り口で、右往左往していた。
「あれ?」
 中庭に踏み出せずにおろおろしていたわけだが―――やっぱり戻ろうかと建物の中の方にふと目をやったところで、珍しい顔を発見する。
「クルスくん!」
 声をかけられた金髪の青年は一瞬びくっと肩を震わせると、アリルを見た。淡い笑みを浮かべた顔と目が合い、しまった、とアリルは思う。
「アリル。何だか、久しぶりですね」
「うん……一週間ぶりくらいだけどね」
 ノアたちが探索に行くときに、薬を届ける名目で会ったのが最後だった。そのときは慌しくて、ゆっくり話すことも出来なかったのだが。
 そのときより、クルスは更にやつれていた。眠れていないのだろう、目の下にはくっきりと隈があり、顔色も青白い。
「みんな、元気? ……って、施薬院に来ないし、当たり前、か」
「ええ。アリルも元気そうで、良かった」
 ああ馬鹿な話題を振ったとアリルは後悔する。にっこりと微笑んだクルスに、自責は更に深まる。
 クルスくんの様相は私の横着だ。アリルは思う。いや、常々思っている。望んでモリビトと―――人間と殺し合っている人はクッククローにはいない。だが、街のためにはやらねばならぬ。クルスはそれを体現している。アリルもその場にいなくてはならないのに、彼らがくれた免罪符にすがって、逃避している―――そう思っている。
 クルスはそれについて何も言わないし、アリルが志願したところで首を縦に振ることはないだろう。むしろ、気を使わせたと思って、余計に気を病むかもしれない。だからアリルは何も言えない。憔悴しきったクルスの顔を見て、気分の悪い仮面の笑顔を貼り付けるしかない。
「アリルは中庭に何か用が?」
「あ、わわっ」
 中庭を覗き込もうとするクルスに、アリルは慌てて立ちはだかる。
「―――あの、今、ビクトリアさんが来てるの」
「ああ……」
 クルスは納得したように身を引いた。
 中庭では、ビクトリアとウィンデールが話をしているのだ。今後の話―――ヴァルハラの生き残りである、二人の今後の話し合いを。
 ウィンデールは笑顔こそ見せないが、身体は回復してきた。彼は右足を失ったため、今は車椅子に乗って移動している。アリルは彼の世話役兼、監視役なのだ。
 ビクトリアは例の事件の時、熱を出して探索を休んでいたそうだ。そのせいで難を逃れたとも言えるし、彼女はそのせいで一生重みを背負うことになった。“私が探索に出ていれば、こんなことにはならなかったかもしれない”。ありもしない「もしも」だ。
「ビクトリアさん、ライに鞭術を教えているそうです」
「えっ?」
 降ってきた呟きに、思わずアリルはクルスを見上げる。
 クルスは微笑んでいた。
「自分で言ってましたよ、ライ。“おれ、上手くなったよ”って」
 アリルもそれに、笑みを返した。


 ライは長鳴鶏の宿の裏庭で、師匠を待っていた。
 波打つ金髪の、背の高い美女だ。初めて会ったのはライがクッククローに入って一週間ほど経った頃で、まだ探索にも短い時間ながら連れて行ってもらえていたときだろうか。思うように鞭が扱えないライが宿の裏で練習している様子に、見かねたように口出ししてきたのが始まりだ。
 最初はうるさいオバサンだと思っていたが、武器としての鞭の動きを把握した口ぶりに、ライはいつしか彼女を師匠と仰ぐようになった。冒険者の宿に泊まっているのだから、彼女も冒険者なのだろうと思うが、彼女の武装はおろか、どこかに出かけるところすらライは見たことがない。そして大抵ライが宿の裏で鞭の稽古をしているときにのみ、姿を現すのだ。
 そして今日は珍しく、まだ彼女はこないのだ。日が傾き始め、気温も下がってきた。ライが鞭を振る様子を、草の上に腰掛けてぼんやりと見ていたカリンナが、小さくくしゃみする。
「あ、寒い?」
 カリンナはゆっくりと首を横に振る。だが身体を動かしているライと違って、彼女はローブ一枚しか羽織っていない―――この妙な格好は彼女の一族の民族衣装のようなものらしい―――ので、冬と言っても差し支えない時期にはとても寒いはずだ。
「おれはもうしばらく師匠を待つつもりだから、カリンナは宿の中に入ってろよ」
 カリンナはまた、首を横に振る。ライは頬を掻くと、少し考えて、ぴっとカリンナを指差した。
「ちょっと待ってろ」
 そして急いで宿部屋に戻ると、毛布を一枚拝借してくる。
「コレ」
 戻ってきたライは毛布をカリンナに被せると、自分はその隣に腰掛けた。
「はー、しかし、師匠……遅いなあ」
 吐き出した呼気が白く濁る。カリンナが毛布の下で首肯した気配がした。
「……師匠、どっかに行ってんのかな」
 実際のところ、彼女がどこのギルドに所属しているのかは勿論、最初は彼女の名前すらライは知らなかったのだ。一度、習っているところを目撃したクルスが、彼女はビクトリアという名なのだと教えてくれたのだが、それだけである。
「樹海かな。だったら、土産話とか、聞けるかもな」
 はあ、と空に向かって溜息を一つ吐くと、ライはぽつりと呟いた。
「おれも樹海探索、してえなあ……」
 “危険なモリビト”が街に上がってくるかもしれない。どこからとも知れず広がったプロパガンダのせいで、エトリアが緊張状態であることは分かっている。それでも冒険をしたい。見た事のないモノを見てみたい。魔物と戦うのは少し恐ろしいけれど、上達してきた鞭の腕を、実戦で試してみたい―――ライの好奇心は尽きることがない。
 そんな欲求も、樹海から生還した仲間の疲れた顔を見るたびに、喉の奥に下りていってしまう。
 それでも、冒険したい。堂々巡りだ。せめて、もう少しみんなの役に立てたなら―――そう、思う。
「カリンナも、樹海、行きてえだろ?」
 散々せがんで何度か連れて行ってもらったライとは違って、カリンナは最初にライと迷い込んだ、あの一度しか樹海には足を踏み入れていない。
 だがライの予想に反して、カリンナはかぶりを振ると、囁くように答えた。
「わたしは……ライと一緒だったら、それでいい」
「そ、そう……」
 ライは瞬き一つ、緩む頬を押さえる。
 何となく居たたまれなくなって、カリンナから目を逸らす―――と、偶然見つけたのは、宿の入り口で口論する男女の姿だった。
 男の方は知らない顔だが、女は何度か見たことがある顔だ。コユキとか言ったか―――長い黒髪にきつい顔つきのそこそこ美人さん、という程度の記憶しかないが。その彼女は、男に何かを言われて黙り込んでしまった。男はその隙に、宿の中に入っていってしまう。
 コユキの伏せられていた茶色い瞳が、ふと、ライの目と合ってしまう。
「やべっ」
 短く呟いたライをよそに、コユキはずんずんとライたちの方へ歩み寄ってきた。
「おぬしら……たしか、クッククローの」
「は、はいっ」
 剣呑な目つきに、ライは震え上がりながらも、カリンナを背中に庇うのは忘れない。
 しかしコユキは周囲に人気がないのを確かめるように視線を送ると、声を潜めてこう言ってきた。
「レオン殿たちは、今、樹海か?」
「へ? ……ンにゃ、今日はもう……戻ってきてたはず、だけど」
「そうか」
 そこで、コユキはライから目を逸らす。
 ふとその瞳が揺らいだように、ライには思えた。しかし間もなくコユキは強い意志をこめてライを見つめると、こう告げた。
「拙者は……エトリアを去る、と。レオン殿に伝えてくれぬか」
「え……」
「頼んだぞ」
 ぽんとライの肩を叩くと、コユキは踵を返し、近付いてきた時と同じ唐突さで歩き去っていった。
 呆けたようにライは、その背中を見送る。北風が革ジャケットしか羽織っていないライの腹を撫で、彼はそれで正気に返った。
 ぼりぼりと頭を掻く。
「……師匠来ねえし。カリンナ、宿の中に戻ろうか」
 こくりとカリンナが頷いたのを見て、ライは宿の表へと歩き始める。
 するとそこへ、広場に繋がる道からアリルとクルスが現れた。
「あ、クルスくんたちじゃん」
「こんな寒いのに外にいたら風邪を引きますよ」
 眉を曇らせるクルスに、ライは愛想笑いを浮かべる。
「修行だよ。師匠は来なかったけど」
「ビクトリアさんなら……施薬院ですよ」
 何故か暗い表情になったクルスに、ライは首を傾ぐ。
 と、その頭が不意に小突かれた。
「何っ……てリーダーか」
 振り返ったところに立っていたのはレオンだった。だれんと頭を下げてその肩に寄りかかっているのは、長髪からしてイーシュらしい。
「……どうしたんです?」
「いや、頭が痛いらしい」
 アリルがいるから丁度いいや、とレオンは宿の入り口にイーシュを座らせる。
 そこで、ライはぽんと手を打った。
「リーダー、コユキってブシドーの人から言伝を預かったんだけど」
「ん?」
「“拙者はエトリアを去る”ってさ。……つか、それもついさっきのことだし、直接会わなかった?」
 宿からエトリアの出口へは、レオンたちが通ってきた下町への道が一番近い。しかし、レオンはかぶりを振った。
「大通りから出たんじゃないのか?」
「広場からの道は通ってきましたけど、会いませんでしたよ」
 クルスが否定する。
「となると……」
 宿から続く最後の三本目の道を、各々が見遣る。それは、街の出口に繋がる道ではない。
 ただ繋がるのは一つ―――樹海、世界樹の迷宮の入り口だ。


「まさかあいつ……死ぬ気じゃねえだろうな」
 宿屋の正面入り口から、コユキが選んだであろう樹海に繋がる道を睨みつけるように、眉間に皺を寄せたレオンの呟きをクルスが拾った。
「どういう意味ですか」
「ヴァルハラのチヒロ、あいつの姉貴分なんだよ。こないだ、チヒロの仇討ちしてえからギルドに入れてくれって言われた」
「そ、それで何て返したんです?」
「そりゃまー、死ぬつもりの仇討ちなら独りでやれ的……な……ことを」
 レオンの表情がみるみるうちに苦いものに変わっていく。さすがの彼も、自分の発言が引き起こしたであろう事態に気づいたらしい。
 呆気にとられたようにあんぐりと口を開けていたクルスが、きっと眦を吊り上げて怒鳴る。
「信っじられない! どうして貴方って人は、そう思慮に欠けた発言しかできないんですか!!」
「いや、でも俺らもそう余裕があるわけじゃねえだろ、樹海で勝手な行動を取られても面倒だし」
「僕らが傍にいれば、思いつめて無謀に走る前に止めることだって出来るでしょう! そういうことは早めに相談してください!」
「てめーのことでいっぱいいっぱいのヤツに、相談してどうなんだ」
「う……。で、でもそれならノアさんやアイオーンさんとかに―――」
「ね、お取り込み中悪いんだけど」
 言い合うレオンとクルスの間に、アリルが割り込んだ。
「―――コユキさんが樹海の方に行ったのって、すぐさっきのことなんでしょ。今から追いかけたら間に合うかも」
 早口の彼女の弁に、レオンとクルスは顔を見合わせ、頷きあう。
 樹海への道を駆け出した二人に、アリルが叫ぶ。
「私も行く!」
「お、おれも―――」
 つられて走り出そうとしたライの足を、何かが思い切り踏んづけた。
「ぎゃふっ」
 引っくり返るライ。顔面から着地した彼は、すぐ振り返って非難の声を上げた。
「何すんだ!」
「そんなに大勢で行く必要も、ないよ」
 足を踏んだ犯人はイーシュだ。彼は青白い顔色で、宿屋の入り口の階段に座り込んだままだ。頭を押さえているが、頭痛は立ち上がれないほどらしい。
「―――ほら、僕とカリンナちゃんだけにするのも物騒でしょ」
「う……」
「あ、ついでに宿部屋まで運んでくれたら嬉しいな」
「……分かったよ」
 結局はこういう役回りなんだと嘆息しつつ、ライはイーシュを引っ張り立たせた。


「あちゃあ……」
 樹海の入り口の裂け目、その更に手前にある樹海磁軸の前まで来て、レオンは頭を抱えた。
 執政院の兵士が一人、そこには転がっていた。当身か何かを食らわされた後らしく、気を失って引っくり返っている。
 磁軸の紅光は淡く輝いている。転送直後であることが窺えた。
「……遅かったな」
「あの、大丈夫ですか?」
 兵士を介抱するクルスとアリル。間もなく意識を取り戻した彼は、気がつくなり口を開いた。
「ぶ、ブシドーの女だ! そいつが一人で、突然ぶつかってきて……ふ、不法侵入だ、捕まえてくれ!」
「今までも何度か、そいつから甘い汁吸ってたろ。言えた口か?」
「レオン」
 クルスが嗜めてくるが、兵士はレオンの言葉にぐうの音も出ない様子で黙り込んだ。
 レオンは溜息をつく。
「……とにかく、どこに行ったかは分からないか」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
 兵士は磁軸を覗き込むと、間もなく答えた。
「恐らくだが……枯レ森だろう」
「やっぱりなあー」
「どうしますか」
 固い表情でクルスが尋ねてくる。レオンは頭を掻くと、渋面を作った。
「……こうなった以上、追うしかねーな」
「四階層に、行くんですか」
「コユキを追い詰めたのは俺だ。責任は取るさ」
「僕も行きます」
 レオンが何か返すより早く、クルスは真っ直ぐな青い目を向けてきた。
「―――行きます。コユキさんのことが心配ですから」
「私も行く」
 アリルがクルスに並ぶ。レオンは即座にかぶりを振った。
「何言ってんだ。四階層だぞ」
「でもコユキさんがもし怪我をしていたら、メディックが必要でしょ。行くわ」
「……コユキの仇は……」
「モリビトと戦うのも分かってる。……でも、もうこれ以上、待っているだけなのはいやなの」
 苦し紛れにクルスを見ると、彼も渋い顔をしていた。
「……分かった」
「レオン!?」
「イーシュはあの調子だし、戦闘員じゃないブルームや、ライやカリンナを連れて行くわけには行かない。アイオーンとノアを探して、五人で潜ろう」
 思いつめた様子だったアリルの表情が、少しだけ晴れやかになる。
「そうと決まれば……二人を探してこないとな」
「さっき酒場に行くってノアさんは言ってたから……ちょっと待ってて、探してくる!」
 アリルが走り去る。それを見送る間もなく、クルスがレオンを振り返った。
 また怒鳴られるかと思いきや、クルスは固い声音ながら、あっさりと言った。
「宿に戻りましょう。探索の準備をしないと」
「あ、ああ」
 それきりクルスは何も言わなかった。

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B20F

 日も落ちた空を見上げ、クルスは溜息をつく。白く濁った息が、天に昇っていくようだ。
 ここはエトリアの街外れ、樹海磁軸の前だ。樹海に行く準備を整えるため宿に戻ったアイオーンを除き、クルス、レオン、アリル、そしてノアの四人が揃っている。
 だが、このまますんなりと樹海に入れそうな雰囲気ではない。
「第四階層に……子供たちは連れて行かないと言った筈よね」
 底冷えする声が、今は怒りを帯びて震えていた。
 射殺せそうな目でノアに睨みつけられながら、レオンは平然と応じる。
「イーシュが出られない。四人で行くのは危険だろ」
「アリルを代理にする理由にはならないわ」
「ノアさん、お願い……コユキさんが危ないかもしれないの」
「彼女は自分で行ったんでしょう、規則を無視して。なら、自業自得だわ」
 冷たく言い放つノアに、アリルは言葉を失う。
 彼女の言葉はもっともだ。クルスも状況が状況でなければ反対していただろう。
 しかしアリルの決意は固い。
「……私は行きます」
「すまん、待たせたな」
 緊迫した空気を割って、アイオーンが駆けてくる。
 ノアを無視して、レオンは言った。
「揃ったな。行くか」
「う、うん……」
 アリルは横目でノアを窺いつつ、レオンに従い樹海磁軸に向かう。紅の光に彼女が吸い込まれ、それにアイオーンが続いた。
 クルスは、一人動かないノアを振り返る。
「ノアさん」
 彼女はきつく目を閉じていた。何かにじっと耐えるように。
「ノアさん、行きましょう」
 応じないノアに、クルスは唇を噛む。
「……僕が盾になって、アリルを、みんなを守ります」
 ノアの紫瞳が驚いたようにクルスを見た。
「し、信じてもらえませんか?」
 それが果たして実現できるのかという不安と、自分は何を言っているのだろうという恥ずかしさでいっぱいになりながら、クルスは棒立ちになる。
 すると手袋をした手が、クルスの肩を叩く。ノアはふっと表情を緩めた。
「ありがとう。……勿論信じてるわ。でもあなたも、無理はしないで」
「は……はい」
 そしてすぐ氷のような目つきに戻る。
「気をつけて行きましょう。たとえ五人でも、危険なのは変わりないのだから」
「はい!」
 紅の光に消えていくノア。クルスはその後に続いた。


 第四階層の深部に進むのは初めてだ。地下十八階に初めて足を踏み入れ、アリルは緊張に息を呑む。
「しかし、この広場を探すのは骨だな」
 果てなく広がる荒野を目の当たりに、アイオーンが呟く。
「どの程度奥に進んでいるかも、わからないですしね」
「とりあえず、先に進もう」
「辺りを探さなくていいの?」
 ヴァルハラ・ギルドが最後に到達したのはこの階だったはずだ。コユキが仇を探すなら、ここだろう。
 だが、レオンはかぶりを振った。
「もうここらにモリビトは殆ど残っていないはずだ。俺らが……」
 途中で言葉を濁すと、レオンは苦い顔をして一端口を閉じる。
「―――ま、とにかくここにあいつが戦うべき相手はいないよ。下に行こう」
「地下十九階までね」
「ん?」
 足を踏み出したレオンを、ノアが睨みつける。
「私たちの現在の進度は、そこまででしょう。地下二十階以下は地図もないし、危険よ」
「……状況によるとしか言いようがないな」
 肩を竦めるレオンに、彼女はより眉間の皺を深くする。
 そこに、アリルは慌てて割って入った。
「と、とにかく進みながら考えようよ。大丈夫……まだ、使ってない薬もいっぱいあるし、糸だってちゃんと用意してるから……」
 思っていたより険悪な二人の雰囲気に、アリルは段々尻すぼみに言葉を切った。
 するとクルスが更に口を挟む。
「回復の泉がありますから、そこで少しだけ休憩してから行きませんか。急がなければならないのは分かっていますけど、僕らが力尽きたら元も子もありませんし」
「そ、そうだね……」
 結局クルスの提案どおり、休憩してからの出発となった。


 地下十九階。触れると瞬間的に別のところへ飛ばされる木―――アイオーンが言うに、これは“ワープ”や“転送”などと呼ばれる機能らしい―――が多くあり、迷路がより複雑になっている階だ。アイオーンが見せてくれた地図も整理されてはいるが、アリルには何が何だか良く分からない。
「こういうの、樹海磁軸と同じ仕組みなんですか?」
 歩きながらふとアイオーンに尋ねると、彼はしばらく考えたのちこう答えた。
「理論は同じだろうが……どうなんだろうな。造った人間が同じかは分からないが」
「へ? 磁軸って、誰かが造ったものなんですか?」
 意外な言葉に目を丸くしていると、推測だが、とアイオーンは前置いて続けた。
「こんなものが自然に存在するとは思えない。錬金術とはまた異なる、何らかの技術によって制御されていると考えるのが妥当だろう」
「私たちが理解できない何か……ってことですか」
「そういうことだな。少なくとも俺には、見当もつかない」
 そう言ったアイオーンは、どことなくしゅんとしたように見える。アリルは笑顔を作ってみせた。
「それが普通ですって。逆にあんなのを理解したり作ったりできたら、人間じゃなくなっちゃいそうですよ」
「お?」
 前衛に目を向けると、レオンが触れた木から、淡い光が染み出しているところだった。
「ちょっと、また不用意に―――」
 クルスが文句を言おうとしたところで視界が弾ける。
 あまりの眩しさに目を閉じ、次に開いたところで広がっていた光景に、クッククローは息を呑んだ。
「キディーズ!」
「だ、大丈夫ですか!?」
 そこにいたのは、キディーズの五人だった。
 いたと言うより、倒れていると言った方が正確だろう。全員が負傷している。とにかくアリルは一番出血量が多いアクローネの傍で跪くと、治療を開始する。
「一体何があった?」
「つ、強いモリビトを二体倒したはずだ。その辺に……確認してくれ」
 下階へ続く階段のそばで蹲っていたレンジャーの女の言葉に、レオンが周辺を見渡す。その顔がアリルを向いた。
「おい、足元」
「え?」
 言われて足元に目をやり、アリルは飛び上がる。
 そこにあったのは、緑がかった白い人間の腕だった。
「きゃっ……ご、ごめんなさい」
「モリビトというか、f.o.e.だな。こいつは貴婦人のか?」
 もげた腕を持ち上げ、レオンが独白する。
「―――お、本体がいた」
 腕を持ったまま、レオンは木のそばの何かに寄っていく。
 呆然としていたアリルは、アクローネが身じろぎしたことで我を取り戻した。
「気、をつけて。まだ、近くに、いるかも……しれ、ない」
「喋らないで下さい……急所は外れてます、すぐに施薬院に行けば大丈夫」
 応急手当をして顔を上げると、キディとココが立ち上がったところだった。二人とも―――特にキディはもともとの肌色もあるが―――青白い顔をしているが、重傷ではないようだ。アリルはてきぱきと、レンジャー、メディックの応急処置を施していく。
 その傍にはいずれも戦いのあとと思しきモリビトの残骸が転がっているが、そちらには目を向けないようにしながら。
「死人が出なくてよかったな」
「全くだ」
「あ、あの、アクローネさんはすぐに搬送してあげてください。出血がまだ続いてますから」
「ああ、分かってる」
 レンジャーの女は淡々と受け答えをすると、キディを振り返った。
「―――キディ、戻ろう」
「ここまで来て……」
 キディはクッククローの面々を窺っている。ここまで来て、クッククローに先を越されるのは気に食わないのだろう。それも、行く手を阻む大敵を倒したのはキディーズなのだ。
 黙りこむキディに、レオンが声をかけた。
「ちょっと一つ聞いてもいいか」
「……何だ」
「ここに、黒い髪でちょっと露出の多い格好をした、ブシドーの女が来なかったか?」
 キディはココと顔を見合わせると、ひどく不快そうに顔を歪めた。
「……いたよ、さっきまで」
「どこに行った?」
「地下二十階だよ! ……あの女、俺たちがf.o.e.と戦ってるところに乱入してきやがってよ。倒すだけ倒したら、さっさとてめー独りで降りていきやがった」
「彼女自身に怪我は?」
「ねえよ、クソ!」
「相当な剣の使い手だった。ここまで一人で来たというから、疲労はしていたようだが……」
 レンジャーがそう付け加える。
 目を丸くしたクルスが、アリルに耳打ちしてきた。
「ひょっとして僕らの助け、必要なかったんじゃ……」
「で、でも一人じゃ不測の事態に対応できないよ……多分」
「とにかく、キディ」
 レンジャーがキディを振り返る。
「―――アクローネが心配だ。我々は街に帰ろう」
「……チッ」
 忌々しそうに舌打ちするキディだが、ココに顎をしゃくってみせる。頷いたココは、かばんからアリアドネの糸を取り出した。
 クルスがそれに声をかけた。
「すみません……キディ」
「うっせえ。……どのみち、そろそろ引き返そうって話だったんだよ。そんだけだ」
 言うが早いが、キディはココから糸を引ったくり、それを紐解いた。
 キディーズ五人の姿が消える。ぽつりと、クルスが呟いた。
「大丈夫でしょうか、アクローネ」
「出血はあるけど命に別状はないし、キディーズに任せておけば、心配ないわ」
 笑顔を見せると、クルスはそうですか、とかすかに笑みを浮かべた。
「それで? 私たちはどうするの」
「俺たちはまだ余裕だろ。下に降りるぞ」
「ちょっと……」
「今引き返したら、ここまで来た意味がねえだろ。キディーズに馬鹿にされるぞ」
 レオンの反論に、ノアは押し黙る。


 地下二十階には、息をすれば凍りつきそうなほどの空気が張り詰めていた。
 何かに見られている。それも、これは生半可なものではない。
「すごい殺気だな」
 レオンが厳しい顔つきで、枯レ森の奥を睨んでいる。
 殺気。これほどまでに人から向けられる殺気を、クルスは知らない。
 振り返ると、青ざめたアリルがノアに寄り添っていた。ノアはアリルの肩を抱きながら、鋭い目で辺りを窺っている。その隣に立つアイオーンも、緊張した面持ちだ。
 何も言えずに黙り込んでいると、静寂を割るように響いた声があった。
「また来たか。協定を破り、モリビトを殺す者どもが」
 幾度となく樹海の中で出会った、モリビトの少女がいつの間にか立っていた。
「―――貴様らの目的は一体何だ。ヒトの中には貴様らの死を願う者もいる。だのに何故、樹海の奥を目指し進もうとする?」
「死を願う……だと?」
 不穏な言葉に、レオンが表情を曇らせる。
 だが、それを問い返す間はなかった。
 土壁や木々で隠された枯レ森が揺れる。雄叫びのような悲鳴のような叫びが、モリビトの少女の背後から響いたのだ。
 モリビトの少女は嗤った。
「来るがよい、我々と貴様ら、モリビトとヒトの最後の決着をつけよう!」
 揺れる背後の森を指差して、少女は叫んだ。
「―――モリビトの精鋭と守護鳥を退けることができれば、貴様らの勝利だ!!」
 そして彼女は駆け出していく。森が彼女を抱きこむように、彼女の姿は見えなくなってしまった。
「け、決着……」
「コユキを探しにきたはずが、大袈裟なことになってきたな」
 緊張を物ともせず、いつもの調子でレオンは言った。
「……先に進めば、戦いになるな」
 アイオーンの言葉にはっとして、アリルがノアから離れた。
「い、行きましょう」
「無理しないの。震えているじゃない」
「大丈夫、です。コユキさんを……見つけないと」
「あいつ、“また来たか”って言ったな」
 レオンは目を細める。
「―――コユキはこの先にいるのか?」
 そのとき、はっきりと声が聞こえた。
 怨嗟と殺意の叫びの中で、届いたそれは人間の気合の声。
「コユキさんでしょうか?」
「行ってみるか」
 クッククローは奥に向かって進み始めた。


 コユキはモリビトの精鋭と戦っていた。
 ただし、その構える刀は中程でへし折れている。もう、限界だった。
 いつでもひとりで。戦いは勿論、生きていくのもそれで十分だった。
 だがチヒロが死んだと聞かされたとき、コユキは何故か、とても孤独になったような気がしたのだ。
 チヒロはコユキと違って、いつでも誰かと一緒にいた。それが当然のように。そしてそれは、コユキにとって疎ましいものだったはずなのに―――
 チヒロが死んだと聞かされたとき、コユキはそれが許せないと思った。
 そして同時に、どちらにせよ戦って死ぬ運命なら、チヒロが死んだ場所、そこが己の死に場所であるのかもしれないとも、思ったのだ。
 一人でいることに疲れていたのかもしれない。耐えられなかったのかもしれない。
 半分になっていた刀が、横殴りを受けて吹っ飛んでいく。
 潮時か―――
 そう思ったときに、炎がモリビトを包んだ。


「どうだ?」
 レオンと共に、クルスはアリルを覗き込む。
 正確には、彼女が介抱している、気絶したコユキを、だ。
「疲労困憊ってところだけど……外傷はほとんどないわ」
「そうか、じゃ、その辺に転がしておくだけで大丈夫だな」
 肩を回しながらレオンが言う。その口振りに、クルスは眉を寄せた。
「助けにきたわりに淡白ですね」
「言ったろ、そこまで余裕ねーって」
「それは確かに、そうですが」
 クッククローの五人の周りを、ぐるりとモリビトの精鋭たちが取り囲んでいる。隙あらばいつでも戦闘に持ち込もうとしているかのようだ。クルスもレオンも、アリルを除いた後衛の二人も、戦いの構えを崩してはいない。
 緊迫した空気を、割ったのはレオンだった。
「おまえ、もういいのか」
「はい?」
 レオンの隣に立つのは自分だけだ。話しかけられたと気付き、クルスは視線だけをレオンに向ける。盾と剣は勿論、敵であるモリビトを向いている。
「なんだかんだとごねてたくせに、モリビト連中と戦うのには慣れたのか?」
 ケンカの事を思い出し、クルスは俯く。
 レオンの声は状況のわりに穏やかだった。
「そんなもんだよな、深く考えない方がいいのさ」
「僕は……」
「あー悪い、悪かった。今する話じゃなかった。だけどな、クルス。一個だけ言っとくぜ……俺たちは確かに人殺しかもしれないが、俺たちが戦うことで生き残る命もあるんだ。それだけ覚えとけ」
 クルスははっと、自分の背後を見た。
 後衛の、その向こう。治療を続けるアリルと、目を閉じぐったりとしているコユキがいる。
「……じゃ、行くか」
「はい」
 クルスが頷く。
 それと同時に、モリビトたちが襲い掛かってきた。

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第五階層

▼[B21F]一番下へ▼

B21F

「よっしゃ、やってやろうぜ!」
 威勢よくジョッキを突き上げたギルドマスターに続き、鬨の声が上がる。
 おずおずと、ワンテンポ遅れてそれに合わせた少年に、その親友である、同い年のソードマンの少年が組み付いた。
「何浮かねー顔してんだよ!」
「だって……」
 彼は顔を伏せた。
 明日はいよいよ、樹海の中でも前人未踏の奥地まで侵入するのだ。その記念すべきパーティメンバーに選ばれて、緊張しないわけがない。不安にならないわけがない。
「お前は心配性だな」
 呆れたような声が頭上から降ってくる。見上げると、ギルドマスターがはにかんでいた。
「胸を張れよ。お前は俺たちのギルドの、自慢のバードだ」
「うん……」
 その向こうにいたギルド員の女が、声を張り上げて言った。
「ほれ、あんたのいつもの歌、聴かせておくれよ。景気づけにさ!」
 親友を見ると、彼も頷いてきた。皆に促され、少年は微笑むと、メンバーの中心に歩を進める。
「いよっ! 待ってました!」
「いいぞー!」
 拍手と口笛と歓声が上がる。
 少年は手に持ったリュートを撫でると、その軽快な音色に合わせて歌い始めた。


 懐かしい夢を見た。
 イーシュは起き上がると、大きく伸びをした。それから、周りを見渡す。
 ここはクッククローが借りている宿部屋だ。東向きの窓から差し込む光で、朝であることを知る。クッククローのギルド名由来である鶏が鳴いている声が聞こえる。
 だが今、室内にいるのは随分変わった面子だった。ライが隣のベッドで寝ているのはいいとして、その上に圧し掛かるように横になっているのはカリンナだ。背中を向けているので、眠っているのかどうかは分からないが。そして彼ら以外、この部屋に人の気配はない。
 ぼんやりとイーシュは思い出す。そう、昨日は頭痛で動けなくなり、床までライに運んでもらったのだ。その直前、レオンたちは樹海に行くと言っていたような気がする……
「って、まだ帰ってきてないのか?」
 彼らが出発したのは昨日の夕方だ。半日は経過している計算になる。
―――まさか。
 そんなはずはない、そう思いながらもイーシュは部屋から飛び出していた。


 宿のフロントに尋ねても、やはりレオンたちは帰ってきていないらしい。
 ならば、と施薬院にイーシュは足を向けると決める。樹海へ続く小路に目をやって―――そこから歩いてくる人影に、彼は駆け寄った。
 コユキだ。足を引きずっている。肩を落として歩く様は、いつもと比較にならないほどに小さく見える。
「コユキちゃん!」
「あ……イーシュ、どの」
 ぺこりとコユキは頭を下げる。その両肩を掴み、イーシュは声を荒げた。
「大丈夫!? 一人で樹海に入ったって聞いて……」
「ああ……クッククローの方々に助けて頂いた」
 そう言って、コユキは目を逸らす。
 よく見ると、彼女の全身は包帯まみれだ。しかし綺麗に処置されたそれらは、恐らくアリルが施したものなのだろう。
「それじゃ……みんなは?」
「まだ、樹海におられる……拙者は、モリビトとの戦いが終わったと、執政院への言伝を預かって参った」
「戦いが終わった、って」
「モリビトは敗北を認め、我々の前から姿を消したということじゃ。もっとも……退けたのは、クッククローの方々じゃが。レオン殿たちは、次なる階層を一瞥したら帰ると―――」
「駄目だ!」
 イーシュはコユキを解放すると、樹海への道に走り出す。
「い、イーシュ殿!」
 慌てて、コユキが腕を掴んできた。
「ど、どうなされたのじゃ。心配はいらぬ、長い戦いで疲れてはおられたが、何かあればすぐ糸で―――」
「違うんだ、そうじゃ、な、なくて」
 イーシュは激しい頭痛に、その場で膝を突いた。コユキが息を呑む気配がする。
「しっかりなされよ! だ、誰か」
 おろおろと早朝の街外れを見渡す彼女に、イーシュは口をぱくぱくとさせた。
 違うんだ。
 説明しようとしても、言葉は上手く出てこない。
 何故なら、これを話すことは許されないからだ。
 かつて見た悪夢を、イーシュは再び思い出す。


「あ……」
 肉の潰れる嫌な音。
 重いものが地面に崩れ落ち、嫌な不協和音を奏でる。
 眼前の光景に、彼は尻餅をついたまま立ち上がれないでいた。
 もうピクリとも動かない、仲間達の屍。
 その向こう側に、冷たい目をした女と、無機質な目をした女が立っている。
「……君達は」
 冷たい目の女は、その刀を収めようともせずにぽつりと呟いた。
「―――君達は、近づきすぎた。この、樹海の秘密に……」
「レン」
 無機質な目の女が、彼女の注意を引く。
 たった一人生き残った少年に気付いたのだ。
 彼女らの視線が、少年を貫く。
「ひっ」
 レンと呼ばれた女が一歩踏み出した。
 と同時に立ち止まる。彼女が見下ろした先には、自身の捉えられた右足首があった。
 血塗れのソードマンが、息絶え絶えに、それでも凛とした意志をこめてレンを睨みつけていた。
「だめだ……」
 掠れたその声に、レンの目が細まる。
 震えていた少年は、死に向かっている親友に声をかけようとしたが、喉からは笛の音のような息しか出なかった。
 レンはその手を振り払うことなく前に進もうとするが、足は動かない。
「行か……せる、も、ん……か」
 微かな呟きが漏れた後、その手が力なく落ちた。
 今度こそ彼は親友の名を叫びながら、痛む体に鞭を売って、その元に駆け寄っていく。
 だが体を揺すっても、頬を叩いても、その目が開くことはなかった。
 二人の女は、感情の色が見えない目でそれを見つめていた―――否。
 レンが、僅かに哀しげに視線を緩める。
「ツスクル」
 彼女は相棒の名を呼び、何某かを呟くと、促した。
 ツスクルと呼ばれた小さな少女はそれに殊勝に頷くと、真っ直ぐ少年の元に近づいてくる。
 殺される。もう抵抗する力も、何も残っていない。
 だが、ツスクルは少年の額に冷たい指先を触れさせると、告げた。
「あなたはここで見た事、聞いた事、知った事―――起こった事を人に話してはいけない」
 その言葉が耳から脳内に入り込み、強く頭を縛り付ける。
 少年は唸って、前のめりに倒れこんだ。
 呪法だ。
「その禁を破れば、あなたは死ぬわ」
 彼女は耳元でそれを囁くと、立ち上がった。
 少年は揺らぐ視界の中、彼女達に手を伸ばす。
 痛みのせいではない涙が、頬を濡らしていた。

 許さない。

 唇でかたどった言葉は、彼女らに届いただろうか。



 次に目覚めたときには、エトリアの街に戻っていた。
 金鹿の酒場のサクヤによれば、レンとツスクルが自分を発見し、連れ戻してくれたらしい。
 他の仲間は全員、彼女らが見つけたときには既に、手遅れだったそうだ。
 嘘だ。
 そう言おうとする度に、頭の奥で酷い痛みが走る。脳髄が焼けそうな痛み。彼女らによる呪法の警告なのだと思い知ったが、周囲の人間はそれすらも知らない。ただ「辛かったね」という慰みを口にするだけ。
 真実を伝えることも出来ず、そしてそれ故に仲間の仇を討つことすらも出来ず。
 自分に一体何が残ったろう?
 あの時、親友が救ってくれた命は、理不尽な哀しみに打ちのめされるだけに費やされるのか。

 彼はそれきり考える事をやめ、どこのギルドにも属さず、ただ酒場で陽気に歌うだけの生活を送っていた。
 
 知らぬ間に月日は立ち、彼はある青年に出会う。
 奇しくも彼の日の親友と同じ職を持った、その赤髪の青年は、どこから来たのかもしれないが、不思議な雰囲気を持ち合わせていた。
 仲間を集め、当時の自分たちと同じように樹海を切り開いていく彼に、手を貸したのは気紛れからだった。
 だが青年のギルドを通して、あの女たちを見たとき、彼は残酷な希望を抱き始める。
 彼らなら勝てるかもしれない。
 あの憎い冒険者達に。


 そして事実、彼らは古代の遺産を手土産に凱旋した。
 「魔物に襲われ」満身創痍になった、レンとツスクルを背負って。


 表のお祭り騒ぎを密かに抜け出して、イーシュは奥の間に向かった。
 簡素な木の扉を開き、室内に侵入する。扉を閉めた音で、背後の気配が目を覚ましたのに気付いた。
 だが、その傷では起き上がれまい。
 イーシュは二つ並んだベッドの、右側から近づくと、そこに横たわる女を見下ろした。
「……君か」
 レンは彼に気付いていた。目を開いてはいるが、その視線は天井を向いている。
 その横に見えるツスクルは、悲壮な表情でこちらを見ていた。
 恐らく、あのときの自分は、こんな顔だったのだろう。
 イーシュはレンに視線を返した。
「―――我々は敗者だ。見ての通り」
「レン」
「もう何をする力も、残ってはいない」
「レン!」
 ツスクルが訴えるように叫んでいる。
 だがレンはイーシュを真っ直ぐ見据えると、言った。
「覚悟は出来ている。殺してくれてかまわない」
「やめて!」
 ツスクルが叫ぶ。
 彼女は起き上がろうとしているようだが、体が動かないようだ。
 レンはその声に耳を貸そうとせず、続ける。
「君にはその理由があるはずだ……」
「殊勝な心がけだね」
 冷たく応じると、ツスクルが息を呑む音が聞こえた。
「だけど……こんなことを言う資格がないのは分かっているが、それを承知で頼みがある」
 彼女はイーシュから目を逸らすことなく、続けた。
 まるで、彼の意識を自分だけに向けさせようとするように。
「彼女を……ツスクルを巻き込んだのは、私だ。だから彼女は助けてやって欲しい」
「レン! 何を言って―――」
 イーシュはレンの言葉を鼻で笑うと、言った。
「君一人の命で、何人の命を賄うつもり? それが出来ると思っているの?」
 レンは苦しげに表情を歪めた。
「……思わない。けれど……いや、ならせめて、私を先に殺してくれ」
「お願い、やめて」
 ツスクルは裏返った声で叫んだ。
「私が悪いの。私がレンを止めなかったから……あなたの仲間に、あなたに呪いをかけたのは、私だから、私を殺して!」
 ベッドから落ちそうな位置から、息も絶え絶えに彼女は叫ぶ。
 
 いかせるもんか。

 あのときの、親友の言葉が、不意に蘇る。
 
 苛立ちを感じて、イーシュは手に持っていたナイフを抜いた。
「やめて!!」
「うるさい!」
 イーシュはナイフを突き立てた。

 ツスクルの悲鳴。

 レンの首の横に、そのナイフは立っていた。
 彼女の長かった後ろ髪が、布団の綿に混じる。目を見開いてイーシュを見上げるレンに、イーシュは吐き捨てるように言った。
「うんざりだ。……茶番劇は他所でやってくれ」
 ナイフを抜き取り、鞘に収めると、腰の後ろにそれを戻す。
 呆然と彼を見上げる二人。その視線を振り払うように、イーシュは部屋を出た。
 後ろ手で乱暴に扉を閉め、大きく溜息を吐く。
「終わったか」
 そのすぐ横に立っていた影が、小さく言った。
 イーシュは自嘲気味に唇を吊り上げ、答える。
「僕も年をとったもんだね。あんな連中に絆されるなんてな」
 早口に、言葉を次々と紡ぐ。
「両方が殺せと言うもんだから参ったよ。ナイフは一本しかないしね。ゆっくり切り刻んでやろうかとも思ったけど」
「そうか」
 ぽつりとこぼされた言葉に、イーシュは激しく彼―――レオンを睨みつける。
「僕を止めに来たのか」
「どうかな」
 はぐらかされると、イーシュは皮肉げに嗤った。
「僕が奴らを殺したら、僕は君に見捨てられたかな」
 レオンは何も言わなかった。
 ただその目が、緩んだだけで。
 イーシュは虚空を見上げると、長い長い溜息を吐いた。
 呟く。
「……ギルドマスターはレンジャーでね。厳しかったけど、一緒にいると楽しかった」
 微かな笑みが、その顔に静かに浮かぶ。
「副リーダーはパラディンで、女の人なんだけど、本当のお姉さんみたいで優しかったな。メディックとは仲の良い双子でね。片方が寝込んだときは、もう片方が熱心に看病していたよ」
 イーシュはずるずると体を扉に伝わらせると、座り込んだ。
 言葉の奔流は収まらなかった。
「―――僕の親友はね、ソードマンだったんだ。君によく似ていた。どんくさい僕を、何度も助けてくれたよ。あのときも……」
 その後は言葉にならなかった。
 ずっと忘れていたはずの暖かなものが、頬を伝って流れる。
 誰にも話せない苦しみが、何年間も積もった哀しみが、涙に溶けて落ちていく。
 傍らのレオンは何も言わぬまま、しかし去ろうともせずに、ただ、そこに立っていた。


 モリビトとの戦いが終わったため、コユキは“本当に”エトリアを発つ、とクッククローの面々に知らせた。
「悪かったな」
 その見送りの日。広場と街の出口を繋ぐ大通りで、来ないと最後まで渋っていたレオン(結局クルスたちの尽力で現れた)が口にした一言に、コユキは目を丸くし、そして笑う。
「こちらこそ……レオン殿にはひどい迷惑をかけ申した。皆様方にも……」
 深々と礼をするコユキ。イーシュはウインク一つ、言った。
「可愛い女の子の笑顔のためなら、何だってしちゃうよ」
 その一言にコユキは真っ赤になるが、クッククローのメンバー達からは「お前が言うな」と言わんばかりの冷たい視線が刺さる。
「捜している人……見つかると、いいですね」
 アリルの控えめな言葉に、コユキはにこりと微笑んだ。
「……実のところ、ほとんど当てはないのじゃ。世界は広いしの。拙者らは故郷を失った身、レオン殿が言ったとおり、チヒロが死んだときには既に、拙者も死んでもいいかもしれんと思っておった」
 微笑はいつしか苦笑に変わっていた。独白のように、コユキは続ける。
「じゃがここに来て……チヒロの最期に会えたのも、何かの巡り会わせかもしれぬ」
「そうそう、どこかでひょっこり会えるかもしれねえしな」
 珍しく、レオンがそんなことを呟く。それに勇気付けられたように、アリルたちが口々に言った。
「そうです、きっと会えますよ!」
「僕たちも探しておきます」
「まー忘れるかもしんねえけど―――あだっ」
 レオンにどつかれ、ライが頭を押さえる。
「あにすんだっ!」
「お前が余計なこと言うからだろーが」
 そのやりとりにひとしきり笑った後、コユキは言った。
「それでは、みな、ご健勝で」
「コユキさんもお元気で!」
「またエトリアに立ち寄る機会があったら、絶対に顔を見せてくださいねー!」
 コユキの姿が見えなくなるまで、アリルたちは手を振り続けた。
 一度も振り返らずコユキが行ってしまうと、イーシュは呟く。
「コユキちゃんは……復讐をしたかった、わけじゃないんだね」
「あいつは死に場所を探してたんだよ。自分で言ってただろ」
 その独りごとを拾ったのはレオンだった。イーシュは広場に続く階段の上にいる彼を見上げる。
「……コユキちゃんとレオンって、似てるよね」
「そうか? そういや、コユキ本人にもンなこと言われたな」
 虚空を見上げるレオンに、イーシュは失笑する。
「大事なことは人に話さないで、自分で何とかしようとして……結局、もっとおおごとになっちゃうところとか」
「何だそりゃ。俺ァそんなことした覚えは―――」
「こないだから何回か探索後に真っ直ぐ宿に帰ってこなくなったことあったじゃない。アレ、色街に通ってたからってわけじゃないんでしょ」
 一瞬、レオンの顔が引き締まる。
 こういうところは分かりやすい。図星らしい。
「……僕はエトリアにいっぱい友達がいるって、何度言ったかな?」
「あーあーそうだな」
「大丈夫、僕以外は知らないから……多分」
 執政院―――いや現在行方不明という、長からの圧力。レンとツスクル。
 小さな街だ。いつもどおり“冒険者”を続けるにも街全体の協力が要る。クッククローが孤立することなく、そして誰一人欠けることなくここまで来れたのは。
「―――だいたい全部、レオンのおかげだもんね」
「……」
「それでだいたい後になって面倒くさいことになるのも、レオンのおかげ」
「うるせえ」
「普通引き返すでしょ……あせっちゃったよ、あいつらを返り討ちできたから良かったものの、そうでなきゃ今頃世界樹の養ぶ―――」
「黙れってんだ」
「いたっ!」
 存外容赦ない拳骨に、イーシュは涙目になる。
「あ、イーシュくんが殴られてるー」
 コユキを見送っていたアリルたちが帰ってくる。
「いらんことばっか言うからだ」
「リーダー、おれは暴力反対だぜ―――っあだ!」
 景気よく飛ぶ拳に、ノアが溜息をつく。
「これ以上馬鹿になったらどうするの」
「これ以上って何!」
「それは困りますね」
「クルスくーん!」
「ははは」
 賑やかなやり取りは、みんなが今ここにいるからこそ。
 かつての仲間が少し重なって見える。
「イーシュくん、助けてくれよ! もー、リーダーが殴ってくる!」
 さっとライがイーシュの背後に隠れる。イーシュは笑った。
「大丈夫だよ、アレはただの照れ隠しだから」
「照れ隠し?」
「イーシュ」
「ご、ごめんなさいっ」

 今ならはっきりと胸を張って言える。
 親友が守ってくれた命は、彼らに出会うこと、彼らと共にあることに結びついたのだ。

▲[B21F]一番上へ▲ ▼[B22F]一番下へ▼

B22F

 執政院の長ヴィズルが行方不明になった。
 彼の子飼いの冒険者、レンとツスクルの凶行。顕となった五番目の階層に沈んでいた、前時代の遺産。
 世界樹の迷宮の底は、近いのではないか―――エトリアの街ではそんな噂がまことしやかに囁かれている。
 渦中のギルドであるクッククローは順調に探索を進めている。彼らもまた、いや彼らが最も、冒険の終わりが近付いてきていることを感じていた。
「もし、世界樹の迷宮の底に辿り着いたら……」
 その日の探索を終え、帰ってきた宿部屋でのクルスの呟きを、レオンは苦い顔で迎え撃った。
「やめろやめろ、辛気臭い。死亡フラグ立てんな」
「茶化さないで下さい、真剣な話です。……もし迷宮の謎を全て解いてしまったら、レオンはどうするつもりですか?」
 ベッドに座り込み見上げてくるクルスに、レオンは返した。
「俺に訊く前に、おまえはどうなんだ? 確か、自力で名を立てるのが目標だったんだろ?」
「僕はとりあえず実家に帰ります」
 眉を下げて、クルスは続けた。
「その後どうするかは、まだ決めていませんが」
「ふーん……」
「それで、レオンはどうなんです」
 しつこく訊いてくるクルスに、レオンは腕を組み、唸った。
「決めてねえよ、ンなこと……まあ……そのとき考えるよ」
 はっきりしない答えにも関わらず、クルスは失笑した。
「レオンらしいですね」
「まあな。先のことを心配しても仕方ねーし」
「レオン」
「まだ何かあんのか?」
 部屋を出て行こうとしていたレオンを、クルスが呼び止めてくる。
 彼は少し躊躇ったが、やがて顔を上げて口を開いた。
「レオンはエトリアに来る以前は、何をしていたんですか?」
「……なんだよ、藪から棒に」
「別に……ただ、聞いてみたくて」
 いつもなら、適当にはぐらかしていたかもしれない。
 だが気紛れで、レオンは答えた。
「俺はな、クルス。傭兵だったんだ」
「傭兵」
 きょとんとしてオウム返しに言うクルスに、にやりと笑う。
「傭兵崩れの冒険者さ。そんなヤツ、珍しくもなんともないだろ」
「戦争が終わったから、冒険者になったんですか?」
 今度はレオンが目を丸くする番だった。
「何だ、妙に詮索してくるなあ」
「い、いえ、答えたくないならいいんです。すみません」
 クルスはぶんぶんとかぶりを振ると、詮索、といわれたことに居心地悪そうに付け加えた。
「―――ただ……こんな終わりになってなんですけど、僕たちみんなお互いのことをほとんど知らないなと思って」
「そんなもんだろ。俺だって、十年いた傭兵隊の連中の昔話すらほとんど知らねーよ」
「傭兵隊? 仲間がいたんですか」
「みんな死んだけどな」
 それ以上は会話を続ける気になれず、レオンはさっさとその場を後にした。


「これで全部?」
 驚き混じりに、ノアは言った。
 彼女の眼前のテーブルには積まれた銀貨と銅貨、そしてわずかばかりの金貨が鎮座している。その向こう側に見える褐色の少年は、ごまかすように笑った。
「そーだよ」
「本当に? いくらなんでも……領収書を見せて」
ライが差し出した羊皮紙と、硬貨の数を注意深く見比べ―――ノアは眉根を寄せる。
「銀貨が二枚、足りないわね」
「えっ?」
「ライ」
 ノアは樹海で見せる氷の目つきで少年を仰いだ。
「―――出しなさい」
 ライはちろりと舌を出すが、おとなしくポケットから銀貨を二枚差し出した。
 ノアはその額を指で弾いた。
「いてっ」
「治らないわね、その盗み癖。今度やったら、もっと怖い人に言いつけるわよ」
 悪びれないライの表情が、しゅんとしたものに変わった。
「リーダーには言わないで。ぜってえ殴られる」
「さあ? あなたの心掛け次第ね。それにしても……」
 ノアはもう一度羊皮紙に目をやった。
「―――少ないわね」
「も、もう盗ってねえよ」
「分かっているわよ。そうじゃなくて……あれだけの貴重な採集物が、この値段?」
 ライに頼んだおつかいは、五階層で採集した物品の売却だ。到達しているギルドが片手に足るほどの階層で見つかり、古代の遺産でもあるはずなのに、たったこれだけの報酬しか得られないとは。
「あ、それ、シリカちゃんも言ってたよ」
 生あくび混じりにライは続ける。
「街の取り決めで、それ以上は出せないんだってさ。“もっと高く買ってあげたいんだけど、ごめんね”って言ってた」
 冒険者の収益は、ほとんどが樹海での採集物によるものだ。物流をコントロールしているのは執政院だから、彼らの思惑によるものなのだろう。
 冒険者の利は最小限、街の利は最大限に。長が行方不明になった今も、その隠れた理念は一貫しているらしい。
「分かったわ。ありがとう、ライ」
「……それだけェ?」
 唇を尖らせるライに、ノアは苦笑する。
 銀貨を一枚だけ弾いてやると、受け止めた少年は破顔一笑した。
「やった!」
「買い物に行くなら、カリンナも連れて行ってあげて。奥の部屋にいるから」
「はいよー」
 現金なことだ。呆れながらも、部屋から飛び出していった少年を見送るノアの表情は柔らかい。
「子守も大変だな」
 かかった声に、ノアは机の斜め前に置かれた長椅子に座り本を読んでいる男を睨んだ。
「そう思っているなら手伝って頂戴」
「金策は君の仕事だろう?」
「そっちじゃなくて。ネズミ小僧の方よ」
「ああ」
 彼―――アイオーンは本から目を上げる。
「―――困っているわりに、楽しそうだったからな」
「そうかしら」
「……そんな顔も、できる」
「え?」
 アイオーンは無表情に、自分の頬を指した。
「優しい顔をしていた」
 図星を指されたように、ノアは黙り込んだ。
―――故郷に残してきた弟とライが重なっていた。
 それだけだ。
 気づけばアイオーンは立ち上がり、机を挟んでノアの正面に佇んでいた。紅の目が、静かにノアを見下ろしている。
「悩み事があるなら、酒場でゆっくり聞こうか?」
 ノアは紫瞳を細めた。
「そうしようかしら」
 懐かしい面影を振り払うように、ノアは立ち上がる。


 道具整理をしろ、と経理担当からお達しが出た。
 四階層に入ってからこっち、どたばたしていたせいで装備の点検を怠っていた。このままではライやカリンナといった新入りの装備も満足に整えられないため、使わない道具はいっそ売ってしまおうということになったのだ。
 宿部屋で道具袋をひっくり返し、レオンが唸る。
「相当溜まってんな、こりゃ……」
「全部整理するの、結構かかりそうだね」
 同じく、道具整理を仰せつかったアリルも呻く。レオンはベッドにどかりと座した。
「ああー、めんどくせえー」
「でも、やらないと。ライくんとカリンナちゃんのためだもの」
 一方の二人は、買い物のため街に繰り出している。彼らが必要な分は既に道具袋から撤去済みだ。
「―――早く終わったら、その分早くみんなに合流できるよ」
「こういうときに限ってクルスは捕まんねえし、イーシュは早々に逃げやがるし」
 ぶつくさ言いながらも、レオンは道具を物色し始める。
 主にレオンが武器や防具を、アリルはアクセサリや道具を担当して仕分けする。道具はあまり売ることはないが、古くなってきた薬などは廃棄する必要があるのだ。ネクタルやアムリタは使用頻度のわりに消費期限が短く高価なので、ギルドの財布を圧迫するもとになっている。
「あっ」
 道具袋から取り出したお守りに、アリルは小さく声を上げる。
「どうした?」
「う、ううん……何でもない」
 それは、第三階層で拾った貝殻を集めたお守りだ。探索中にいろいろと拾っていたものを、シリカ商店の彼女が加工してくれたものだった。物自体はクエストの礼にもらったものだが、アリルはこの貝殻の色が三階層の美しい青を思い起こさせるようで気に入っていた。
 眺めていると、アリに襲われ九死に一生を得た経験が、想い出のようになっていることに気づく。
 まだ迷宮を踏破したわけでもなく気を緩ませるのには早いのだが、いつしかこの冒険の日常も遠ざかり、懐かしい記憶になっていくのかと思うと少し、切なくなった。
 かたりとレオンが剣を立てかける音がしたので、アリルははっと我を取り戻す。そう、今の問題はそんなことではなく、このお守り―――海の守りを、売るか否か、だ。主にこれを持ち歩いていたのはアリルで、装備品としては他に代替できるものが多く、これ自体もそれなりに高値で売れるので、売却に回すべきだが―――アリルは躊躇う。
 これは、アリルの樹海での想い出を象徴しているようなものなのだ。
「おい」
 突然声がかかり、再び物思いに沈みかけていたアリルは飛び上がる。
 訝しげな顔をして、レオンがこちらを見ていた。
「こっち、終わったぞ。手伝うか?」
「う、うん。ごめん……」
「さっさと終わらせよーぜ。いい加減に飽きてきた」
 レオンが道具袋の前に座るためのスペースを空け、アリルはまだ手に持ったままだった海の守りに目を移した。
―――これもいわばギルドの公共物。みんなのためだ。
 アリルは意を決して、海の守りを売却物リストに加えた。


 結局道具整理が終わったのは、夕暮れに差し掛かった頃だった。赤く染まったベルダ広場で整理した物品の売却に行ったレオンを待ちながら、アリルは溜息をつく。
 途中でクルスが帰ってきて手伝ってくれたため何とか終わったが、今度はもう少し頻度を上げて整理をしようと、アリルは心に決める。
「お疲れ様でした。今日が道具整理の日とは、知らなくて……」
 いつものように執政院の情報室に居たのだというクルスは、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「ノアさんに言われたのはついさっきだから、気にしなくていいよ。レオンの思いつきを私が手伝っていたようなものだから」
 微笑んで返すと、つられたようにクルスは笑った。
 そこで、レオンがシリカ商店から出てくる。
「どうでしたか」
「さすがに今日中に鑑定するのは無理だってよ。明日の朝、探索前にでも寄ってくれとさ」
「そっか……高く引き取ってもらえるといいね」
「情報室のみなさんは、樹海産の物はもう少し値上がりするかもと仰っていましたよ」
 他のメンバーが待つ酒場に向かって歩き出しながら、クルスは続けた。
「執政院全体では、冒険者の業績の評価を上げようという動きになっているそうです。今まで実質的に冒険者関連の業務をコントロールしていた長が行方不明ですからね……今のうちに、ということで」
「じゃ、もうちょっと私たちも貧乏じゃなくなるのかな?」
「そうだといいですね」
「だったらそれまで、売却を待った方が良かったかもな」
 レオンの一言に、クルスは乾いた笑いを浮かべる。
「……獲らぬタヌキの皮算用ですか」
「いつかは獲れるタヌキだろうが」
 何だかんだと言いながら、到着した酒場に入っていく二人を追いかけながら、アリルはもう一度嘆息する。
 未練がましいが、海の守りのことがまだ頭から抜けない。自分で買い取りにいけるようになるまで、あとどれくらいかかるのか……。
 そこで、額を弾かれる。
「いたっ」
 顔を上げると、レオンがいた。
「ぼーっとしてんな。段差」
「へっ?」
 気づいていなかったが、アリルが踏み出そうとしていた左足は宙に浮いていた。このまま進むために体重をかけていれば、転倒していただろう。
「ご、ごめ―――」
「これ」
 レオンがぱっと投げたものを、アリルは慌てて捕まえる。
 てのひらに目をやって、息を呑む。それは海の守りだった。
「どうして、コレ……売りにいったんじゃなかったの」
「今後新人が入ったときに、また新しく色々買いなおすのも面倒くさいだろ。アクセサリなら残しておいてもかさばらないし」
「で、でも」
 それならわざわざこれでなくても、もっと性能のいいものがあったはずだ。そう言おうとしたが、アリルを残してレオンは店の奥に行ってしまった。
「おまえが管理しててくれ」
 小さく呟かれた一言に、アリルは理解した。
「ありがと」
 レオンは振り向かなかったが、アリルは顔が綻ぶのを抑え切れなかった。


「そんなことがあったの」
 酒場での場がお開きになってからの帰り道、ノア、アリル、カリンナの女三人で施薬院へ歩きながら、ノアはアリルの話に感心して呟いた。
 アリルは海の守りを大事そうに鞄にしまいこむ。
「ふふ……ちょっと見直しちゃいました」
「……そうね」
 彼がそんな気遣いを見せるなんて、ノアには意外だった。
 他人に無関心というか、無神経というか。元々そういう男なのだと諦めていたが、今頃になって実は違うらしい、とノアは思い始めた。本当にどうでもいいと思っているのなら、拾った悪童の面倒を見たり、自暴自棄になった人間を危険を顧みず助けに行ったりはしない。
 つまりあれはそういう“ポーズ”なのだ。意識的か否かは知らないが。
「―――変わっている人ね」
 口をついて出たノアの呟きに、アリルはふき出す。
「すごい今更ですよ」
「たしかにね」
 つられて口元に笑みを浮かべ―――それを打ち消した。
「―――けどやっぱり、あの手の男は苦手だわ」
「え?」
 ため息混じりに、ノアは続けた。
「傭兵って人種が嫌いなだけよ」
「へっ? それってレオンのことですか?」
 アリルの反応に、ノアは苦笑した。
「彼がエトリアに来るまで真面目に働いていたように見える?」
「そ、それは……って失礼ですよ。それに、傭兵って決まったわけじゃ……」
「何年もエトリアに住んでるのに、傭兵崩れとそれ以外の冒険者くらい見分けがつかないはずないでしょう……」
 それでも納得がいかない様子のアリルに、ノアは付け加えた。
「鼻が利くのよ。私も同類だからかしらね」
 アリルははっとノアを見上げてきた。
 思い出したのだろうか。
 かつてノアは、ひどい怪我を負った状態で施薬院の前に倒れていた。キタザキの尽力とアリルの介抱のおかげで今のノアがある。だが、何故施薬院前で倒れていたのか、そもそも怪我を負った原因すら、彼らに話したことはない。発見された当初は口もきけない状態だったのだから当然だが、それ以降もだ。
 そして彼らの勧めのまま施薬院で居候して、三年ほどになる。ずいぶん甘い人たちだと思うと同時に、己も甘えた根性だと自嘲する。
 何もかも捨てて優しい人たちと共にある、“現状”が何より愛おしい。
 だがそれも永遠に続くはずがない。
「ノア、か?」
 辿り着いた施薬院の正面で、かかった声。
 街灯のみの薄暗い闇の中で相手を見つけ、ノアは息を飲んだ。
「ノアさん、お知り合いですか?」
 歩み寄ってくる影。ノアは固い声でアリルとカリンナに告げた。
「先に入っていて頂戴」
「は、はい……行こう、カリンナちゃん」
 彼らが施薬院の中に入っていったのを見届けて、影は会話を再開する。
「まさか本当に生きていたなんて」
「……用件は?」
 尋ねながらも、ノアはきつく瞼を閉じた。
 永遠に続くはずがない。
 そう、逃げられるはずもなかったのだ―――

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B23F

 ノアの生地はエトリアのずっと北方にある。
 彼女は長らくそこで、王族に連なる高級貴族として生きていたが、あるとき母国が戦争に巻き込まれ、彼女も戦いに参加することになった。武勲を立てねば家を存続することは許されない国だったからだ。
 弓の技能を見込まれて、彼女は部隊長となった。だが彼女の部隊は、ある酷い裏切りに遭い、壊滅する。
 一人生き残った彼女は命からがら、戦争と無関係であったエトリアに逃げ延びた。
 そして今まで、世界の外に開いた目と耳を閉じて生きてきた―――
「ノアさん?」
 気遣わしげな声に、ノアははっと我を取り戻した。
 アリルの翡翠の目がノアを覗き込んでいる。ノアは慌てて、かぶりを振った。
「ごめんなさい、ぼんやりしていただけ」
「ぼさーっとしてたら命取りだぜ!」
 鬼の首を取ったように指摘するライを目で射抜くと、ノアはため息をついた。
「大体……どうしてこんな人員で第五階層に潜っているのかしらね」
 平たく無機質な石の壁にもたれかかる。
 ここは地下二十二階だ。メンバーはクルス、ライ、ノア、アリル、カリンナである。ライがどうしても第五階層を見たいと駄々を捏ねたため、ノアが引率で連れてきた形だ。ちなみにアイオーンとレオンは執政院に呼び出された件で留守にしており、ライとカリンナが樹海に来ていることは知らないはずである。
 何かあれば……ということで五人全員が脱出用の糸を持っているという異常な状態だ。それほどまでにこの階層は危険で、襲われれば逃げ切りようもない魔物もたくさんいるというのに……
「なーなー! あれ、何だろう!?」
 このはしゃぎっぷりである。
 塔と塔を繋ぐ細い通路から景色を眺めるライの服の裾をクルスが掴んでいる。
「あんまり身を乗り出すと、危ないですよ!」
「うっひょー、たっけえ! 地面か、アレ? 土が真っ黒だ!」
「ライ、いい加減にして。あなたが危険なことをすると、カリンナが真似をするのよ」
 ため息をつきながら、ノアは通路を渡りきった先にある扉を開いた。
 このあたりにいたf.o.eはすべて倒してある。通常良く遭遇する敵にさえ気をつければいいのだが……それもいかんせん、危険なものばかりだ。
 ふと、ノアはコユキのことを思い出した。彼女はエトリアでは尋ね人を探さずに、単身で樹海に潜ってばかりいた。
 樹海に潜る冒険者には二種類いる。コユキやノアのように行くあてを無くした人々。そして、ライのように樹海に純粋な興味を持った探検家志望。子供たちには願わくば、後者のままであってほしい。寝食を共にする、弟や妹のような彼らならなおさら、そう思う。
 だから心配なのだ。飽くなき探究心は危険と隣りあわせで、見守ってやらねばという気持ちにさせられる。
 ……かつて守りきれなかった部下たちのようには、させまいと。
「ノアさーん」
 再びかかる声に、ノアは顔を上げる。
 呆れたように、ライが大仰なため息をついていた。彼はやれやれとでも言いたげに首を振った。
「日がな散々、油断すんなっておれたちには言ってるくせに、ぼーっと―――」
「危ない!」
 ライの背後に見えた影に、ノアは叫びながら反射的に矢をつがえる。
 彼女が放った矢が打ったのは、魂の裁断者と呼ばれる大熊の魔物の爪だった。黒いそれが描いた放物線は矢によって歪み、ライの首筋に触れないギリギリを通過して床を打つ。ヒビの走った石の床を蹴って、ライはノアたちのいる方へ駆け出した。
「ひいいっ」
「生き残りがまだいたのね……」
「下がって!」
 ライと入れ替わりに前に走ったクルスの盾が、二撃目に振り下ろされた魔物の腕を受け止める。
「ぐっ」
 ぶつかりあう爪と盾の狭間で火花が散る。滑る爪の動きが止まり、クルスは歯を食いしばる。だが競り合いになってしまえば、まず人間に勝ち目はない。
 その一瞬に、ノアは魔物の顔面に向かって矢を放った。
 魔物は己の危機を悟り、巨体にそぐわぬ素早い動きで四本足の姿勢をとると、体当たりしてきた。ノアは傍に立っていたアリルの腰を抱きかかえ、横に飛ぶ。
「あっ……」
「カリンナ!」
 大熊の進路にはカリンナが立っていた。
「させるかっ!」
 ライの放った鞭が大熊の丸太のような右腕に絡みつく―――が、少年の体重で魔物の勢いは殺しきれず、ライは床に打ちつけられるように転倒した。
 ノアは矢を放ちながら叫んだ。
「ライ、鞭を手放しなさい!」
「か、らまって、て、無理」
 それでも幾分か勢いを削られ、立ち上がった大熊は、ライを引きずったままカリンナに向かう。
 その腕が振り下ろされる瞬間―――鐘の音が空間に響き渡った。
 魂の裁断者の動きが止まる。大熊の目を覗き込むように見上げ、カリンナは口を開いた。
「命ず、言動能ず」
 大熊は細いうなり声と共に腕をだらりと下げる。その拍子に解放されたライを、クルスとアリルが助けに走る。
 ノアは弓を構えながら、頭上に視線をやった。
「そろそろね……下がって!」
 歩けないらしいライをクルスとアリルが引きずりながら移動する。カリンナが大熊から数歩後ずさったところで、魔物の首を落ちてきた矢が貫いた。
 魂の裁断者は断末魔もなく、その場に崩れ落ちた。
 荒い息を整えていたクルスが、目をぱちくりとする。
「サジタリウスの矢ですか? いつの間に……」
「ライが時間稼ぎをしてくれたおかげよ」
「ライくん、しっかり!」
 アリルの声に目を向けると、ライは固い床に寝そべり、ぐったりとしていた。魔物に打ち据えられ、引きずられたダメージのせいだろう。
「大丈夫ですか?」
「骨は折ってないみたい……けど、肩や腕の挫傷が酷いわ」
「あいでっ」
 アリルが右肩に触れた途端、ライは涙目で体を跳ねさせた。
「ライ……」
 近づいてきたカリンナがしゃがみこみ、ライを見下ろす。表情の薄いはずの白い顔は、心なしか心配そうだ。
「へ、平気……ちょっと痛いけど」
 ライは青ざめた顔に、やせ我慢の笑みを作った。


 施薬院の診断から、ライは全治二週間ということだった。
「たいしたことがなくて良かったですね」
 その日の成果を報告するべくクッククローは金鹿の酒場に集まっている。
 クルスの言葉にも、ライは仏頂面だ。三角巾で吊られた右腕を指差して、不満げに言う。
「どこがだよ。こんな腕じゃしばらく探索どころか、特訓もできねーじゃん。飯食うのも大変だしよ」
「ま、まあ……命あっての物種と言うじゃないですか」
 クルスはちらりと、隣接した隣のテーブルに座る面々を見た。
「五階層のf.o.eに相対して、その程度で済んだ幸運に感謝しろよ」
 そのうちの一人であるレオンが素っ気無く言う。
 執政院から戻ってきて、事のあらましを知ったレオンは激高こそしなかったが、煮え切らない様子なのは明らかだった。その静かな怒りを読んで、クルスもライも黙り込む。
 代わりに、レオンの正面に座すノアがぽつりとつぶやいた。
「ごめんなさい」
 ノアはきつく目を閉じている。
「―――魔物に不意を突かれたのは私の怠慢だわ。本当にごめんなさい」
「別にあんただけのせいじゃないだろ。……あんたのせいでもあるがな」
 そして深いため息をつくと、レオンは続けた。
「個人の判断で探索に行くことを否定はしない。俺もやってるし。……だが、力量の足りないメンバーで最深部に挑むのはさすがにやめとけ」
「おれはちゃんと役に立ってたぜ! カリンナも!」
 机を叩いてライが反論する。レオンは彼を睨みつけた。
「おまえらはまだ二人で一人前レベルだ。……ヴァルハラは四人で挑み、そして負けた。どういう意味かは分かるだろ」
 ライは悔しげに顔を歪ませたが、言葉もない様子だった。
「―――ま、いい機会だと思うんだな。しばらく頭を冷やそうぜ。……他に何かあるか?」
 その後これからの本探索の打ち合わせを軽く行い、会議は終了となった。


 夕食も終え、仕方がないこととはいえ何となくしらけた場はまもなく解散となったが、そのときまでずっと黙り込んでいたアイオーンは、ノアに声をかけた。
「ノア」
「何?」
 素っ気無いのはいつものことだが、今日はそれ以上に覇気がない。
「何かあったのか?」
 そう尋ねると、ノアは切れ長の目をわずかに見開いた。
「……どうして、そんなことを?」
「いや……何となくだが、君は……何か、焦っているのか?」
「焦る?」
「普段の君なら、五階層に子供たちを連れて行ったとしても、磁軸のある辺りを探索する程度だろうと思ったんだ。……どうして、最深の到達階まで行った?」
 ノアは虚を突かれたように沈黙した。そんな表情をするのも珍しいことだ。
 分かっていながら、アイオーンは重ねて尋ねた。
「先を急ぐ理由でもあるのか? それなら皆に相談して、探索の速度を―――」
「いいえ」
 アイオーンの言葉を遮って、ぴしゃりとノアは言った。
「―――杞憂よ、アイオーン。焦っているつもりはなかったわ。今回のことは、私の不注意だっただけ」
「……そうか、それならいいのだが」
 会話をしながら二人はテーブル席を離れ、カウンターの隅の席に移動する。
 客入りはそこそこだが、宴会の客はいない。比較的静かな夜だ。
 ふと思い出して、アイオーンは懐から手紙を取り出した。
「それは?」
 ノアが反応する。
「俺の姉弟子からの手紙だ。執政院宛に届いていたらしいが……一月ほど放置していた」
「私が隣にいてもいいの?」
「かまわない。別に、そんな重要なものでもないさ」
 言いながら、アイオーンはさっと文面に目を滑らせた。相変わらず簡潔で、癖のない文章だ。案の上短く、すぐに読み終わる。
「……予想どおりだった」
「内容を伺いましょうか」
 ノアの口角に、久々とも言うべき微笑が浮かぶ。アイオーンはつられたように微笑んだ。
「旅先で懐かしい相手に再会したそうだ。レオンと共通の知人だから……彼にもよろしく伝えてくれと」
「あなた、レオンと旧知だったの?」
「俺は違う。姉……シェリーは師匠と折り合いが悪くて出奔していてね。その期間にレオンと知り合ったらしい」
「へえ……珍しい偶然ね」
 アイオーンは少し躊躇したが、こう続けた。
「シェリーは……戦略兵器の技術者なんだ。レオンとは数年前、同陣営で戦った仲だと聞いている」
 それは彼女が戦争に積極的に参加していたということを示す。何となく話題にしたいことではなかったので、アイオーンは話をそらした。
「―――手紙にはそれと、新しいアタノールの開発に着手したから、完成したら実戦で使ってみてくれと書いてあった」
「アタノールって、錬金術師の篭手のことよね」
 アイオーンは頷くと、自身の右手をテーブルに乗せた。彼は今日探索組ではなかったが、篭手は貴重品なので極力装備している。
「これもシェリーの作だ。以前エトリアで再会したときに……貰ったというか、押し付けられたというか」
 アイオーンは苦い顔をした。最初に使っていたものはアイオーンの自作だが、明らかにシェリー作の方が術式の威力が格段に高いのでこちらを使っている。そのため、心情は少々複雑だ。
「この紋章……」
 だが、ノアは篭手の側面に目立たないように刻まれた印を、食い入るように見つめている。
 弾かれたように顔を上げ、彼女は問うてきた。
「この紋章、シェリーさんが普段から用いているものなのかしら」
 その気迫に、アイオーンは訝しいものを感じながらも答える。
「ああ、これはシェリーが個人で使っているものだよ。錬金術師は普通師匠から紋を受け継ぐのだが、彼女は師匠を嫌っていたのもあって、創作したと聞いて……」
 そこまで続けて、アイオーンはノアの様子がおかしいことに気がついた。
 彼の篭手の紋章から目をそらさない。その瞳も見開かれ、戦慄いている。
「ノア? ……おい、どうした?」
「……ごめんなさい」
 青い顔色で、ノアはテーブルに手をついて立ち上がった。
「―――少し酔ったのかもしれないわ。今日は帰るわね」
「あ、ああ……送っていこう」
「ありがとう、でも結構よ……」
 ふらふらと出口に向かうノア。アイオーンはさらに声をかけようと立ち上がるが、突然後ろから組み付かれた。
「アイオーン! 前々から思ってたけど、いつもノアさんと二人きりで何話してるのさ~」
 イーシュだ。赤い顔をして、そうとう上機嫌になっている。そのあまりに酒臭い呼気に気をとられた一瞬に、ノアは店から出て行ってしまった。
「ノア!」
「ぉんやあ?」
 彼女が立ち去ってしまった扉を見つめて、イーシュは目をぱちくりとしていた。

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B24F

 閉じていた扉が、開いた。入ってきた光のまぶしさに、レオンは目を覆う。
「あっ見て!」
 小部屋から飛び出したアリルが、レオンの腕を引いた。
「―――やっぱりそう! ここ、さっき来たところだよ!」
「じゃあ、この小部屋は上下に移動してるってことか?」
 彼の腕を持ったまま、うんうんと頷くアリル。
「すごい仕組みですね」
「第三階層でも、湖の上を滑る花の仕掛けには驚いたが……これはそれ以上だな」
 続々と仲間たち―――クルス、アイオーン、そしてノアが小部屋から外に出る。外とは言ってもここは地下二十三階の迷宮、そして恐らく“建物”の中なのだ。
「ねえ」
 興奮冷めやらぬ笑顔でアリルが見上げてくる。
「いっそのこと、小部屋にあった全部のボタンを押して試してみようよ! まだ行ったことのないところに到着するかもしれないし……」
「扉が開いた瞬間、f.o.eがこんにちはー、なんてこともあり得るわけだ」
「う……またそうやって人の感動を台無しにする……」
 渋い顔になったアリルに、レオンはその頭をぽんぽんと叩いた。
「ま、地図から予想できる範囲になら止まっても大丈夫だろ。やってみるか」
「うん!」
 アリルは満面に笑みを咲かせた。
 と、クルスがこれみよがしに咳払いする。
「とりあえずは……一息つきませんか。かれこれ半日くらいは潜っていますから皆さん疲れてますし」
「この一つ下の階に、回復の泉があるな」
 地図を見ながらアイオーンが呟く。レオンは首肯した。
「じゃ、そこまで行って一休みするか。腹も減ったしな」
 見下ろすと、上機嫌のアリルも同意する。逆になぜか不機嫌なクルスや、無表情のアイオーンも特に異存がなさそうなので、レオンはノアに目をやった。
「ノア」
 彼女は横を―――離れたところにある窓を見つめていた。
「おい、ノア」
「……何?」
 ようやく呼びかけに気づいた様子で、彼女はレオンを見る。レオンは肩をすくめた。
「地下二十四階の回復の泉に移動して、そこで休憩だ。かまわないか?」
「ええ……」
「そうと決まれば、さっさと行きましょう」
 鼻息荒くずんずんと進んでいくクルスに、訝しそうにしながらアリル、やはり無表情のアイオーンが続く。
 やれやれと後を追おうとしていたレオンを、ノアが通り過ぎながらこう言った。
「泉に着いたら、二人きりで話があるわ」
 他の三人には聞こえないであろう小さな呟きに、レオンは眉を寄せた。


 宣言どおり泉に到着すると、ノアはレオンを手招いた。
 三人は訝しげながら、特にそれを尋ねてくることも追ってくることもなかった。リーダーとサブリーダーで、これからの進路を話し合うとでも思ったのだろう。
 だがレオンは、別の予感を―――もっと、もやもやとしたものを感じていた。
 そしてそれはまもなく的中する。
 三人の死角である部屋の柱の裏に入ると、会話は唐突に始まった。
「あなた、エトリアに来る前は傭兵だったそうね」
 単刀直入の一言に、レオンは不快に目を細める。
「……クルスか」
「いいえ。誰だっていいでしょう」
「まあな」
「質問に答えて」
 ノアは数歩近づくと、紋入り布を取り出した。
 どす黒く汚れていたが、レオンはそれが何であるか即座に見抜いた。同時に、血の気が引くのを感じる。
「あなたがいた傭兵隊の紋章、これ?」
「どこで、それを……」
 レオンの驚きに確信を得たように、ノアは自らの腰の後ろに手を回した。
 その後ろ手が何かを握っている。
 短剣の柄だ。
 はっと顔を上げると、目が合った。冷たい目には、感情の色が一切無い。
「私はかつてあなたたちに裏切られた部隊にいた兵士よ。あなたたちのために、何人もの同胞が辱められ死んでいったわ」
「……アレの……生き残りか……」
「あら、覚えているのね」
 レオンはひどく苦いものを味わいながらも、応じた。
「こんなとこで突然仲間割れして、死ぬつもりかよ」
「元よりそのつもりよ」
 じりじりと迫ってくるノアから、間合いを保つようにレオンは後退する。
 ノアの短剣は既に鞘から抜かれていた。
 早口に告げる。
「俺たち以外の三人も巻き込む気か、馬鹿な事はやめろ」
「命乞い?」
「違う。大体俺が、仇だからって大人しく殺られてやるようなタマに見えんのか」
「見えないわね」
 会話の一瞬の隙を突き、レオンは迷いなく、自分の銀の短剣を抜いた。
 威嚇するように眼前に構える。
 そのまましばらく、二人は睨みあっていた。まるで、互いを牽制しあうように。
 先に引いたのはノアだった。
「……どれだけ彼女たちが苦しんで死んだか知ってる?」
 短剣を収め、嘲けるように鼻で笑う彼女に、レオンは短剣を掲げたまま沈黙を保つ。
 ノアは初めて瞳に感情の色を浮かべると、吐き捨てた。
「あなたたちを許さない。いつか必ず殺してやる」
「……殺れるもんならな」
 ノアは背を向けると、震えを押し殺した声で言った。
「地図で……予測できる範囲をあの小部屋で回ったら、帰還しましょう」
 “話し合い”の口裏あわせだろう。レオンが乾いた喉で短く返答すると、彼女は柱の影から出て行った。
「あ、結局どうするんですか?」
「見てください、ノアさん! 私たちも地図を見ながら話してたんですけど……」
 明るい会話に戻っていくノアを見送り、レオンは重い溜め息をつくと、短剣を収めた。
 青緑のツタが密集した窓から光は差し込まない。その薄暗い壁に、レオンはもたれかかった。
 どんなことがあろうとも、行いは消せないものなのだ。
 それを、思い知る。当時、彼は少年だったため裏切りの計画の全貌を知っていたわけではない。だがそんなことを復讐者に告げても意味は無い。罪の重さを、報復の是非を測られるのは彼女だけなのだから。
 もう一度大きく息を吐き、固く目を閉じて、両目を開く。
 ……戻らなければ。彼女は、この場は引いた。つまり、少なくとも街までは、自分たちは“仲間”として戦わねばならない。それは無関係の三人を巻き込まぬためであり、互いのためでもある。
 頭を切り替え、レオンは柱の影から出て行った。
 切り替えが上手くいったかどうかは、その日生き残られたことが証明となる。


 これからどうすべきか。
 樹海から帰還し、探索メンバーが解散となった後も、ノアがレオンになんらかの接触をすることはなかった。レオンは一人、いつものとおり真っ直ぐ宿に戻り、土産をせがんでくるライを適当にあしらいながらベッドに身を投げる。
 どうすべきかなど決まっている。普通なら、すぐここを発つべきだ。相手が本気で己を殺しに来るのなら、その手が届かないところに逃げるのが一番いい。
 だが―――
「リーダー?」
 訝しげな―――というより思い切り顔をしかめて、ライが枕の傍から覗き込んでくる。
「……んだよ」
「リーダー、おれ、腹減った」
「……今日一日、宿に篭ってただけだろーがよ、お前は」
「やることがなくても腹は減るの。つか、片腕でも修行はやってるっつーの」
 レオンはちらと窓の外に目をやった。日は傾き始めているが、夕食の時間にしてはまだ早い。
 そう結論付けて、レオンはごろりと、ライがいるのとは反対側に顔を向けるように寝返りを打った。
「リ~ダ~」
 その背中を掴んで、ゆらゆらと揺らしてくる、ライ。
「……だーもー、うぜえなっ」
 がばりと起き上がると、レオンはがしがしと頭を掻いた。ぴっと指先を部屋の出入り口に向ける。
「―――先、酒場行ってろ。すぐ行くから」
「よっしゃ!」
 ガッツポーズを決めて、すぐ宿部屋を飛び出していったライを見送ると、レオンはため息をついた。
 開けっ放しにされたドアを閉じようとし―――普段から携帯している短剣を抜く。
「うわっ!」
 ドアの傍にあった気配にその切っ先を向けると、相手は素っ頓狂な声を上げた。
 イーシュだ。自分の鼻先にある、短剣の刃を引きつった顔で見つめている。
 レオンは即座に短剣を収めた。
「悪ィ」
「あーびっくりした。……何? 何かあったの? それとも僕、何かしちゃった?」
「いや、なんでもない」
 まさか奇襲を警戒しているとは言えない。それも見知らぬ相手ならとにかく、ノアは仲間のテリトリーに入っているため、レオンは他のメンバーの気配にも反応してしまうのだ。
「……何でもないって顔色じゃないよ?」
「大丈夫だっての。……欠食児童がメシメシうるさいから、酒場に行ってくるわ」
「あー……うん」
 イーシュの脇をすり抜けて、レオンは宿部屋を出て行く。
「レオン!」
「ん?」
 呼び止めてきたイーシュは、半笑いで言った。
「一人で考え込む習性、直したほうがお得だよ」
「習性、ときたか」
 同じく半笑いで応じ、レオンはその場を辞した。


 探索帰りの足で、ノアはアイオーンと共に依頼の品を届けに金鹿の酒場を訪れていた。
「このあと、君はどうする?」
 開店したばかりだが、既にちらほらと客数のある店内を見渡して、アイオーンが尋ねてくる。
 しかしノアには、彼が何か話しかけてきたことにしか気づけなかった。
「あ……ごめんなさい、アイオーン。何かしら」
「……ノア」
 アイオーンは渋面を隠そうともしない。
 ノアの肩に手を置いて、彼は続けた。
「どうしたんだ。最近、とみにぼんやりしていることが増えたと思うが……」
「……大丈夫よ」
「そうだとは思えない。……俺たちはまだ一年ぽっちの付き合いだが、共に何度も死線を乗り越えてきた仲だ。そろそろ、腹を割って話しても、良いと思うんだが」
 真剣に見つめてくる紅の瞳に、ノアは目をそらせなくなっていた。
 彼が本当に心配してくれているのが、痛いほどに伝わってくる。思わずノアはアイオーンの篭手に触れた。肩に置かれたその手は、篭手をつけていても彼の優しさがじんわりと染みてくるような暖かさだった。
 そしてそれが、固く閉ざしてきたノアの目と耳を、そして口を開かせる。
「……探索を……」
「うん」
「探索を、何度も、辞めようと思ったわ……」
 ぽつりぽつりと、言葉が湧き上がるように唇を割る。
「最初はアリルが傷つくのを見るのが嫌で……その心配がだんだんと、あなたや他のみんなにも広がっていったの。私は昔、自分のミスで、部下を……仲間を失ったことが、あって。それを反芻している気持ちになるみたい」
 独白は続く。
「でも、辞められなかった。私が辞めても、クッククローは存続し続ける……それなら余計に、私が戦うことであなたたちを守ろうと……思ったの」
「今でも、探索を辞めたい気持ちは変わらない?」
 アイオーンは静かな声で尋ねてくる。ノアは自然と俯いた。
「分からないわ。私一人のわがままに、みんなを振り回していいとは思わないもの。だけどそれ以上に……」
 部下の仇である男が、よりにもよって背中を、アリルたちを預けなければならないところにいるのだ。
 ノアはそれをひとまず振り払うように、かぶりを振った。
「世界樹の謎を解いたら……どのみち、私はエトリアを発つつもりよ」
「……そうか」
 アイオーンは少し寂しげに目を細めると、ノアの肩から手を離した。
 ノアは自分自身を抱きしめるように腕を組む。
「故郷に戻らなければならないの。ここよりずっと北の国」
 そしてぱっと、顔を上げてアイオーンを見た。苦笑するように表情を変える。
「―――あなたも来る?」
 冗談のつもりだった。
 アイオーンはきっと、謎よりもそれを解明する方が好きだ。だからきっとエトリアに残るに違いない―――
 だが、彼はこう答えた。
「君さえ構わないなら、俺はそうしたい」
 真摯で、固い声音だったが、確かに彼はそう言い切った。
 ノアは大きく息をのむ。
 もう、抑えていた感情が爆発しそうだった。
「……だめ」
「ノア?」
「ごめんなさい、冗談よ」
 アイオーンを見上げた視界が、ぼんやりと歪んでいた。
 ノアは数歩後ずさると、彼を見ないようにしながら告げた。
「私はあなたとは一緒に行けない……ごめんなさい」
 そして踵を返すと、酒場を飛び出していった。


「あ、来た来た」
 結局、なんだかんだ言いながらついてきたイーシュと共に金鹿の酒場に足を運んだレオンは、カウンター席に落ちる暗闇に眉をひそめた。隣に立つイーシュも同じような顔をしている。
「何だこれ。どうしたの?」
 そこにあったのは、困ったように頬に手を当てているサクヤ、不思議そうにしているライ、そしてカウンターテーブルに突っ伏しているアイオーンの姿だった。この通夜のような空気は、どうもこの長髪の黒い海をテーブルに発生させている男によるものらしい。
「珍しいこともあったもんだ」
 特になんとも思わないレオンは、そのままアイオーンの左隣に座した。サクヤが表情を曇らせる。
「事情ぐらい訊いてあげなさい」
「何で俺が」
「クッククローのリーダーでしょ?」
「メンバーの私情には口を挟まないようにしてるんだよ。プライベートは尊重すべきだろ?」
「それってただの無関心の言い訳じゃない?」
 サクヤに言い当てられ、レオンはぐうの音も出ない。
 アイオーンの右隣の席に陣取ったライが、頭の後ろで腕を組みながら呟いた。
「どーせ、女にでもふられたんだろ」
「ライ君、アイオーンだよ? 僕ならとにかく……」
「自分で言うなよ」
 レオンは自分の隣にいるイーシュにツッコミを入れるが、アイオーンはさらに茸すら生え出しそうに沈み込んだ。
「あれっ図星?」
 目を丸くするイーシュをレオンは小突く。ライが、アイオーンの黒い頭をぽんぽんと叩いた。
「まー元気出せよ。女なんて星の数ほどいるんだからさ!」
「ガキに言われてりゃ世話ねーな……」
 サクヤはレオンの呟きに苦笑すると、話題を変えてきた。
「ところで、探索の方はいかが?」
「順調に進んでるよ。そろそろ、地下二十五階に進もうかって話になってる」
「上階と下階を行き来できる小部屋があるんだって」
 先程歩きながらした話をイーシュが述べる。サクヤは頷いていたが、いまいち想像できない様子だ。
「それにしても……第五階層って不思議なところよね。太古の時代の建物がそのまま残っているところなんでしょ?」
「ああ。俺たちも、正直あそこまでとは思っていなかった」
 最下層に遺されたものがどれほど昔のものなのか分からないが、あの冷たく異質な“森”はかつてあった時代の姿そのものなのだ。そしてそれが地下深く、“世界樹”と呼ばれる大樹の根元に眠っていた―――ただの偶然だろうか?
「問題は、なんであんなふっかいところに遺跡があるかってことだよね。昔の人は地底に住んでいたとか?」
「どうなんだろうな」
 レオンは肩を竦めた。こういったことに頭を使うのは彼には向いていない。そして、得意な人間は彼の隣で今現在沈没している。考察は深めようがなかった。
「ま、何があろうとおれたちが先に進むのに変わりないってことだな!」
 胸を張るライに、イーシュは苦笑いする。
「レオンの十八番、とっちゃダメだよー」
「だってよー、イーシュくんはバードじゃんか。クッククローの活躍を語るとき、おれがカッコいい場面になったときキメ台詞が困るだろ。どのみち、これからどうするかなんて決まってんだからさ」
「えー……真剣に意味が分かんないんだけど……ねー、レオン」
 イーシュが同意を求めてきたところで、レオンは唸った。
「これからどうするか……か」
「えっ、そこ?」
「まさかリーダー、びびってんじゃねーだろうな?」
 ライが揶揄するように言い、身を乗り出してくる。
 レオンは口角を上げた。
「さーな」


 気づけば、ノアは施薬院に戻ってきていた。
 顔を上げると入り口の扉がそこにあったのだ。無意識にでもここに戻ってくる己を自嘲しながら、ノアは扉を押し開く。
「あっ、ノアさん!」
 ちょうど、扉に手をかけていたアリルに鉢合わせる。ノアは精一杯微笑んでみせた。
「どこかに出かけるの?」
「カリンナちゃんと待ち合わせて、酒場に行こうと……ノアさんは、もう戻ってきちゃったんですか?」
「少し……気分が優れなくて」
「えっ、大丈夫ですか?」
 そのまま自室へ向かおうとするノアに、アリルは追いすがる。
「―――寒気とか、気持ち悪いとか……身体の調子はいかがです? あの、先生は今忙しいみたいですから、あとで診てもらえるように言っておきましょうか」
 ここで探索を休むわけにはいかない。
 ノアは即座にかぶりを振った。
「平気よ、大事をとっただけだから。明日も探索でしょう」
「でも、調子が悪いなら無理はしない方がいいですよ。レオンだって……レオンだって、きっと無茶はさせてくれないと思います」
 アリルの口をついて出た名前に、ノアはきつく目を閉じた。
 それに気づかず、少女は続ける。
「レオンに言って、少しの間探索を休ませてもらったらどうですか? 最近ノアさん、疲れてるみたいで―――」
「そんなに……」
「え?」
「そんなに、あの男が好き?」
 つい零してしまった言葉に、アリルは瞠目する。
 ノアはそれを、冷めた目で見下ろした。
「流れ者に恋をするのはやめなさい。絶対に後悔するわよ」
「わ、わたし……」
「カリンナが来たわよ」
 鎖で繋がれた両の裸足を細かく動かしながら、カリンナが駆けてくる。
 アリルがそれに気を取られた隙に、ノアは彼女の脇をすり抜けていった。


「ノアさん……」
 遠ざかっていくノアの背中を呆然と見送ると、アリルは不思議そうに首を傾げているカリンナに笑顔を向けた。
「大丈夫、なんでもないよ」
「あのひと……」
 カリンナはノアが去った方向を見ていた。
「ノアさん……なにか、隠してる……」
「隠すって、何を?」
 カリンナはかぶりを振る。首に下げられた鐘が、低い音を奏でた。

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B25F

「来るならば覚悟せよ。 貴君らの命と引き換えに……この迷宮の本当の姿を教えよう」
 その男を吸い込んで、扉は再び固く閉ざされる。
 クルスはクッククローの面々を振り返った。
「どう、しますか……」
 最初に目があったレオンは、虚空を見上げて頭を掻いた。
「迷宮の真実……ね」
「ついにここまで来たかといったところだな」
 アイオーンが篭手を見つめる。その紅の瞳がアリルを捉えた。
「―――大丈夫か?」
「えっ……その、何がですか?」
 目をまん丸にする彼女に、腕を組んでいるノアが呟いた。
「落ち着かないみたいね」
「え……それは、その……」
 きょろきょろと四人を見渡すアリル。クルスは肩をすくめた。
「当然ですよ。僕だって、緊張しています」
 改めて背後の巨大な白い壁―――もとい、扉を見上げる。
「―――この扉の向こうに、いったい何が隠されているんでしょうね」
「それはこれから分かる」
「扉の向こうに行くのか?」
 アイオーンの問いかけに、レオンが応じる。
「鍵はレン達からもらっただろ」
「本当に……」
 意向を確かめるべく、ノアが口を開く―――いや。
 彼女はレオンを見据えていた。
「行くのね?」
 それはただの確認ではなく、“それでいいのか”という問いかけ。
 レオンもノアを真っ向から見返す。いつもなら即断しているところだろうが、彼にしては珍しく躊躇しているようだ。
「……行こう」
 間を置いて、レオンは言った。
「―――正念場ってやつだ。ま、生きて街に帰れたら、いいな」
「いいなじゃなくて、帰るのよ」
 ため息をつくノア。
 クルスはアリルと顔を見合わせ、微笑みあう。
「みんな待ってくれてるよ、きっと」
「そうです。真実をたずさえて、凱旋しましょう」
「真実……か」
 アイオーンはぽつりと言うと、四角い平らな“鍵”を取り出し、ドアノブの無い扉に差し込んだ。
 ピッと音が鳴り、扉が開く。
「―――そこに何があろうと、前に進むだけだな」
 光があふれるその先に、彼らは歩を踏み出した。


「どう?」
 すばやくアリルの傍に駆け寄ったノアは、しゃがむ彼女の足元を見た。
 ソックスをはいたふくらはぎが真っ赤に染まっている。自分の手当てをしていたアリルは気丈に笑みを返した。
「大丈夫、見た目ほど深い傷じゃありません。ノアさんはみんなの援護に―――」
「うおおっ」
 炸裂音の次に叫び声が響いて、煙幕の向こうから剣を背負ったレオンが駆けてくる。
 逃げる彼を追うように音が近づいてくるので、身を起こしたノアは眉をひそめた。
「ちょっと、こっちに来ないで!」
「無理言うな!」
 レオンはすばやく彼女ら二人の腕や腰を掴むと、壁に向かって身を投げた。
「きゃあああ!」
「っ」
 三人で壁に激突しながら振り返ると、寸前まで立っていたところを、木の根のような枝のような鞭のような何かが風を切って通過していった。固いはずのえぐれた床を見て、アリルは息をのむ。
「悪ィ」
「まだ来るわ!」
 レオンの背後を指してノアが叫ぶ。レオンはそれを振り返らず、アリルが足を負傷しているのを見つけると、彼女を片手で肩の上に抱き上げた。
「ちょ、っと!」
 腹が圧迫されて、アリルは目を剥いた。
「文句はあとで聞く」
「あなたはそっちに。クルスたちは?」
「今のところ五体満足で向こうにいるよ。とりあえずコレが止まったら、援護に行ってくる」
 広い部屋の中心にそびえる大樹を見上げ、レオンはアリルを抱えたままノアに手を振る。
「走るぞ、何か見えたら言ってくれ!」
 ノアとレオンはおのおの逆方向に向かって、壁際から駆け出す。敵の―――触手が追ってきたのは、こちら。
「れ、れれレオン!」
「何だ!」
「き、来てる! こっちに来てる!」
「頭守れ、投げるぞ!」
 叫ぶと同時にレオンはアリルを投げた。
 いつも思うが、人を物のように扱うのはやめてほしい。
 アリルは悲鳴を上げながら、土煙の中を突っ切って―――何かにぶつかって背中から落ちた。
「っ……大丈夫か」
「ア、イオーンさん」
 彼女もろともひっくり返ったのはアイオーンだった。埃まみれの頭を稼働中の篭手で払っている。アリルはあわてて彼の上から飛びのいた。
「す、すみません」
「丁度いい。診てやってくれ」
「え?」
 アイオーンが親指で示したのは、彼のすぐ背後でうずくまるクルスだった。アリルは足をひきずりながら彼に近づいていく。
「どこが痛い?」
「腕です……」
 すぐに立ち上がったクルスは、鎧のない間接部分、つまり肘の内側を指差した。覗き込むが出血は見られない。
「痛っ……」
「……折れてる」
 クルスは先ほども転倒した際、腹を負傷している。戦闘中に鎧を脱ぐわけにはいかないと言った彼の意思を尊重して、正確な診断はできていないが。
 応急処置をしながら見上げると、彼は脂汗を浮かべながらも無理矢理微笑んでいた。
「大丈夫……右はまだ、いけます」
 会話の矢先に、クルスはアリルを自分の背後に突き飛ばすと、盾を構えた。
「アイオーンさん!」
「くっ」
 篭手を構えていたアイオーンは、向かってくる触手の勢いに術式を放つのを諦め、後ろに跳んだ。だがその背後にも攻撃の手が迫る。
「アリル、壁際に!」
 クルスはアイオーンに向かって駆け出す。
 間に合わない。
―――そこに初めて、空間を裂くような絶叫が響いた。
 はっとしてアリルは見上げる。
 叫んだのは味方ではない。
 アイオーンに迫っていた触手は苦しみを体現するようにうねり、勢いを失っている。その上にのしかかっているのは剣を立てたレオン。彼は歯を食いしばって、長剣をレバーのように引いた。
 斬り落とされた触手が床に激突する。一緒に降ってきたレオンは着地に失敗した上に、残り半分の触手に払われて転倒した。
「レオン!」
「っつー……」
 クルスとアイオーンが彼を引きずって退避させる。
 痛いで済むのがレオンの悪運めいたところだ。
「さっきの悲鳴……」
「この、樹のバケモンか?」
 樹の中心には、“かつて執政院の長だった男”がいる。あれが弱点なのだろうか?
 煙幕から現れたノアが近づいてくる。足を引きずっていた。
「さっきのはあんたか」
「人間の部分が見えたから、射ったのよ……命中してよかったわ」
「あ、あれ!」
 クルスが指差した方向を全員が見上げる。
 先程レオンが落としたはずの触手が、芽が出るように回復していった。
「あれじゃキリがないな……」
「ノア、人間部分のダメージの程度は?」
 ノアは、一瞬しか見えなかったけれど、と言い置いて続ける。
「首か胸か……人体での急所には刺さったはずよ。出血も見られたし……血は赤くなかったけれど」
「じゃあそれに、総攻撃をかけるしかないですか」
「だな……他はてんで、食らっているように見えねえし」
「いや、ダメージは蓄積しているぞ」
 アイオーンは再生した触手を指した。
「―――再生速度が遅いし、先よりも短い」
「でもあれをひたすら斬ってくよりは、俺たちがダウンするほうが早いぜ」
 大樹は触手で己を抱きこむように身を守っている。この状態では大樹の周りに目に見えない壁が展開されているらしく、剣や矢での攻撃が通らないのは経験済みだ。
 レオンはアイオーンを見た。
「残り術式は何回だ?」
「もって二回……いや」
 アイオーンは眉をひそめ、かぶりを振った。
「一回だと思ってくれ。あらん限りを一度に放った方が、攻撃力は上がる」
「篭手とあんたはそれで大丈夫なのか?」
「試したことは無いが……酷くても、腕がちぎれる程度だ」
 シニカルな笑いを浮かべるアイオーンに、レオンは笑みを返した。
「クルス」
「はい?」
「行くぞ」
 クルスも笑うと、剣を手放した。からんという音が、床に転がる。
「……盾が痛むから、嫌なんですけどね」
「これ以上痛まねーから大丈夫だ」
「サジタリウスの矢はあと三十秒で落ちるわ」
 アリルの治療を受けていたノアは、三本の矢を番えながら言った。
 五人が見上げる大樹は触手をゆっくりと、花弁のように開いていく。内側から刹那に覗いたのは、かつてヴィズルと呼ばれていた男の姿。
 それが見えた瞬間、レオンとクルスは目配せもせず、同時に地を蹴った。
 爪状の触手が襲い来る。後衛の三人は触手が届かぬ位置まで下がり、前衛の二人はそれを掻い潜りながら、走る。
 ノアは矢を射った。前衛に迫る触手の何本かの動きを逸らせることには成功するが、それだけだ。
「―――!」
 大樹までたどり着いた二人は、ヴィズルを守る障壁を伝い、大樹を駆け上る。
「クルス!」
 クルスの背後から迫る爪に気づき、レオンは警告の声を上げる。だがクルスはそれに向かおうとはせず、逆にレオンに呼びかけた。
「行ってください!」
 クルスは頭上に掲げるようにして、盾を示した。岩のように強固な大樹の壁面にそれが刺さる。
「死ぬなよ」
「そっちこそ!」
 レオンは盾を足場に、跳ぶ。
 クルスは彼の体重が消えたのを確認して、自ら壁面を蹴り、落下した。
「らあああ!」
 ヴィズルにたどり着いたレオンは、渾身の力をこめて大剣を振り下ろす。
 しかし、刃は届かない。空中に浮いているような体勢で全体重を剣に預けているものの、不可視の壁はヴィズル本体の周囲にのみ未だ展開されていたのだ。
 ヴィズルの頭があがり、その目がレオンを向く。
「うわっ」
 剣ごとレオンは弾き飛ばされる―――しかし落下に入る直前、彼はヴィズルを睨みつけ、咄嗟に腰の後ろのホルダーから短剣を抜いた。
 投げる。
 届け―――!
 ヴィズルはおそらく、アイオーンの篭手に集中する、大きなエネルギーに気づいた瞬間だったのだろう。
 物理から術式攻撃に防御が切り替わる―――その一瞬の隙を生んだ。
 銀の光が、ヴィズルの喉を貫いた。
 レオンは叫ぶ。
「今だ、撃て!」
 落下していく彼の頭上を、熱量が行進していった。


「……い、おい」
 ぺしぺしと頬を叩く手に、レオンは目を開いた。
 アイオーンの顔が逆さまに映る。
「―――生きているな?」
「おかげさんでな……」
 レオンは痛みを堪えながら、起き上がった。
 彼が大の字に寝転んでいた空間は、何故だか浅い穴のような形状になっているようだった。そこから這い出してみて分かったのだが、穴だと思っていたのは倒れた大樹と折り重なった触手の隙間に彼がいたからで、つまりぺしゃんこにならずに済んだのはまったくの偶然だったのだ。
「あとの三人は?」
「みんな無事だ。……生きているという意味でな」
 そう言うアイオーンの右手を見て、レオンは呻いた。
「篭手どこいったんだ」
「外した。使い物にならなくなったし、治療の邪魔だったからな」
 彼の右手は包帯でぐるぐる巻きになっていた。腕はもげてはなさそうだったが、指がきちんとついているのかは今は判別がつかない。
 とりあえず、とレオンたちは大樹の残骸を乗り越え、仲間たちに合流する。疲れたように座り込む、鎧を外したクルスと、彼の治療をするアリル、そして一番軽傷そうに直立するノアが壁際にいた。
「良かった、レオン! 無事だったのね!」
「ああ。おまえらもよく生きてたな」
「おかげさまで……」
 各々に声をかけながらノアに視線をやると、ふいと逸らされてしまった。
 戦闘中はとにかく、終わるとこの切り替えの早さだ。レオンは乾いた笑いを浮かべつつも、クルスの隣にしゃがみこむ。
「あー……疲れたな」
「もう一歩も動きたくありません……」
「糸で帰ろうよ。たしかノアさんが持ってくれて―――あ、あれ?」
 アリルが振り返った先にノアはいなかった。大樹の残骸の周りを歩き回っている。まるでいつもの魔物を倒した後の、検分のようだ。クルスが苦笑する。
「それにしても……終わった、んですね」
 戦っている最中は無我夢中で気づかなかったが、この部屋の床は一面の花畑―――今は踏み荒らされてしまったが―――になっているのだ。天井は非常に高く、一部の壁には昇降機の起動装置に似ているが、より複雑な機構をしたものがついている。
 ここで彼は―――ヴィズルは、世界の再生を統括していたのだろうか。
「世界はどの程度、再生されていたのでしょうね」
「さあな。それも今となっては……知りようがない」
 肩をすくめるアイオーン。
 鎧を外しながら、レオンが笑う。
「ま、少なくとも新しい地上で俺たちが生きているってことは、今のところ問題ないんじゃねえか」
「どうだろうな」
「そう思うしかないですね……」
 最後に会話したヴィズルは正気ではなかった。世界樹と融合していると言っていたから、もしかすると彼自身の意識はもう既にほとんどなかったのかもしれない。
 世界樹は世界再生を行う“装置”だ。クッククローや真実に迫る他のギルドが、ヴィズル自身の思想と混同され、世界再生を阻む因子であると判断されていた可能性もある。
 だが。
「全ては終わったことだ。うだうだ言ってても始まんねえ」
 身軽になったレオンは立ち上がると、大樹の残骸を振り返った。歩き出す。
「レオン?」
「武器だけ回収してくる。さっき、それらしいものが落ちてるのを見かけた」
「ちょっと、先に治療!」
 アリルの非難めいた言葉にもかかわらず、レオンはひらひらと手を振るだけだった。 


 終わってしまった。
 ノアは溜息をつきながら、花畑に埋もれるヴィズルの亡骸を見下ろしていた。
 世界樹の迷宮の真実と、それに関する証拠の品を何か持ち帰れば、国の人々も納得するだろう。
 自分の不在で実家―――いや、弟にかけた迷惑を今から取り除くには不十分かもしれないが、いくらか事態の打開にはつながるはずだ。
 問題は、ギルドの面々に事情を話したら、納得してもらえるだろうかという点だ。
 ずっと、本当のことを話すのが怖かった。相手を信頼し、正直に事を明らかにしてしまって裏切られ、手痛い目に遭った経験はここにも響いている。
 ましてや、その中の一人に―――
 うつむいたとき、ノアは足元に光るものを見つけた。
 無意識に拾い上げ、ノアは呼吸を止める。
 レオンの短剣だ。
 そしてその鈍く光る刃に、持ち主の瞠目した様子が映っている。
 その目にあるのは、警戒心。
―――駄目だ。
 最初に裏切ったのは誰だったか?
 自分か、彼か。
 それでも―――ノアは衝動を抑え切れない。
 自分の身体で死角を作りながら身を翻す。
 そして、鎧を着ていないレオンの腹部を短剣が貫いた。


 アリルの悲鳴。
 クルスは反射的に立ち上がる。痛みは伴ったがそれは二の次だ。アイオーンも同様だったので、二人で彼女が向かった―――ノアとレオンが戻ってこないと様子を見に行った―――先に、走る。
 クルスは言葉を失った。
「な……」
 アイオーンも驚愕に目を見開いている。
 ノアだけが、そこに立っていた。
 血だまりが、彼女とクルスたちの間に広がっている。それに沈んでいるのはレオン。彼の頭を支えるようにして、跪くアリルが何か、叫んでいる。
「ノ……ア」
「ごめんなさいね」
 彼女は銀の短剣を投げ捨てると、至極落ち着いた声で続けた。
「世界樹の迷宮の真実と、その証。私の目当てはそれだったの」
「ど、うして」
「彼を見捨てるなら、あなたたちはどうにかして脱出できるでしょうね」
 その一言に、クルスは彼女が袋から取り出したものに気づいた。
 アリアドネの糸だ。
「ノアさん!」
 ノアの姿が掻き消える。
 クルスの悲痛な叫びが、室内に反響して、消える。そのあとに残ったのは、アリルが必死でレオンに呼びかける声だった。
「レオン、レオン……しっかりして……く、クルスくん!」
「は、はい」
「私のかばん、取ってきて早くお願いっ」
 クルスはこくこくと頷くと、弾かれたように駆け出した。折れた片腕は動かせないので、抱えるようにして鞄を持ち上げると、アリルの元に戻ってくる。
 改めて近づいて見たレオンは、目を閉じていた。顔色の青さと出血の量に、クルスは頭を殴られたときのような、違和感の中に叩き込まれる。
「れ、レオン」
「そっち、持って。支えて」
 アリルに指示され、クルスは慌ててそれに従う。彼女は冷静に鞄を探っていた。
「出血と……これ何、毒? 短剣に……元々の……」
「どう、して」
 どうしてこんなことに。
 そう続けそうになったクルスを、アリルが激しく睨みつける。
「言わないでっ! ここで私がパニックになったら、誰がレオンを助けるのっ!」
 アリルは見る見るうちに目に涙を溜めながら、そしてそれを拭いながら叫ぶ。
「応急処置しか出来ないの。早く施薬院に連れて行ってあげないと。ここから、出ないといけないわ」
 そうだ。
 ノアが裏切った理由などあとでいい。レオンを助けるのが最優先だ。
「糸は……」
 いつの間にか近づいてきていたアイオーンを見上げる。彼はかぶりを振った。
「篭手が半壊している。帰還の術式も使えない……」
 クルスの胸中に絶望感が広がる。
 ノアの言葉の意味が頭のうちに浸透し始めた。地下二十一階につながる昇降機にさえ辿り着ければ、樹海磁軸への道はそう遠くない。だが、負傷したレオンを連れて、疲労困憊の今の状態でそれを辿るのは、全滅の危険性の方が高いだろう。
「そんな、どうしたら」
 アイオーンはしばらく黙していたが、やがて固い早口で言葉を紡ぎだした。
「帰還の術式が使える程度まで、篭手を回復させるしかない。この場で修理しよう」
「そんなこと、出来るんですか」
「出来るかどうかじゃない。やるんだよ」
 アイオーンは立ち上がると、クルスを手招いた。
「―――部品を探すのを手伝ってくれ」
「で、でも」
 脇目も振らず処置を続けるアリルとレオンを一瞥したクルスに、アイオーンは言った。
「ここにいても君がやれることはない」
 立ち去る彼に、クルスはついていく。
「部品のあてはあるんですか」
「壁面にあった装置、あれの一部を拝借する……いや」
 大樹の残骸を乗り越えながら進み、二人は装置の前に辿り着く。
「―――ヴィズルは樹海磁軸を用いずに、街と第五階層を行き来していた……もしかするとこの装置自体に、転送機能があるのかもしれないぞ」
 アイオーンは白いテーブル―――ところどころが発光する窓のようになっている―――に手を添えると、指を滑らせた。
 正面の壁の一番大きな窓に、何かが映し出される。意味の読み取れない文字のような記号の羅列に、クルスは息を呑む。
 これも、おそらく旧時代の遺産なのだ。
「アイオーンさん……」
 クルスはアイオーンを見る。クルスにとっては、これらは理解の範疇をとうに超えている。
 アイオーンは額に脂汗を浮かべていた。
「解読……できない、わけではない」
「本当ですか!?」
「ただ……これではないようだ」
 装置の操り方が分からないらしい。制御を移し変えるから、と四苦八苦するアイオーンの指示を受け、クルスは彼の篭手を探しに走り出す。負傷した腹や腕が悲鳴を上げているのを感じるが、ほとんど“痛み”は分からなかった。
 ただ急ぐこと。早急に街に帰るために、すべきこと。
 今のクルスを突き動かすのはそれだけで、他の事を考えてはいられなかった。
―――考えてしまえば、その手がよどむ。
「クルスくん!」
 アリルたちの近くまで戻ったとき、呼びかけられてクルスは彼らに近づいた。付近の壁が崩落しかけており危険であるため、移動させて欲しいとのアリルの言葉に従い、彼女を手伝ってレオンを移動させる。
「……け」
 床に下ろす際、クルスが支えるレオンの肩が、動いた。
 焦点の覚束ない瞳が開いている。クルスは思わず呼びかけた。
「レオン! しっかりしてください!」
「い……け……脱出、し、ろ」
 浅い呼吸の合間に、レオンは言葉を紡ぐ。
「おまえら、だけ、なら……」
 何を言おうとしているか察して、クルスはゆっくりと彼を下ろしながら、その手を取った。
「いいえ。こんなところにあなただけを残して帰れませんよ」
「だか、ら……」
「いいですか。死に掛けているときくらい、大人しくして下さい」
 アリルを見やると、彼女も満面の作り笑いを浮かべて、頷いた。
 クルスはレオンの身体を下ろしきると、すぐにアイオーンの篭手を抱えて走り出した。彼の元に戻ると、アイオーンはすぐさま篭手と、装置から伸びた何本もの線をつなげ始める。
「な、何か手伝いましょうか」
「その白いコードを、こちらに」
 クルスが手伝えたのはその一本だけだった。アイオーンは手際よく全ての線をつなぎ終えると、篭手を起動させる。
 その目は壁の窓を見つめていた。
「動いてくれ……」
 祈るようなアイオーンの声に応じるかのように、記号の羅列が次々と移り変わっていく。
 それをぶつぶつと読み上げ、アイオーンはクルスを向いた。
「レオンたちをここへ!」
「は、はい!」
 どうやら上手くいったらしい。柄になく焦っていたようなアイオーンを置いて、クルスはアリルたちの元に再び戻る。
「アリル!」
「く、クルスくん……」
 今まで耐えてきた涙を、アリルは流していた。
 彼女の膝元に横たわるレオンは、刺された直後と同じようにぐったりと目を閉じていた。
「―――っ」
 クルスはレオンの胸に手を当てる。アリルがしゃくりあげながら言った。
「ま、だ、大丈っ夫っ」
「行きましょう。―――もうすぐ街に戻れますからね、レオン!」
 死なせるものか。
 クルスはレオンを肩に抱えると、歩き出した。
―――絶対に死なせるものか。

 死ぬなよと言ったのは貴方じゃないか。

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終章

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終章・前

 こんな悲しみを得るために、僕たちはここまで戦ってきたわけじゃない―――


 エトリアの街に帰還してからのことを、クルスははっきりと覚えていない。
 施薬院へ行って、それからずっと慌しいなか、いろいろな人が目の前を通り過ぎていって―――その中には街で留守番をしていた仲間達も、先の戦いで重傷を負っていたアクローネもいた気がする―――そして、気づいたら、彼は施薬院のベンチに腰掛けていたのだ。
 もしかしたらずっと、ここにいたのかもしれない。
 それすら、彼には分からなかった。それに気づいたのだって、イーシュが声をかけてきたからなのだ。
「宿に戻って、休んだほうがいいよ?」
 彼の声は掠れていた。だがそれ以上に、応えるクルスの声も掠れていた。
「イーシュさん……」
「キタザキ先生が言うには、五分五分、だそうだ」
 何が、とは訊かない。クルスは目を伏せてしまう。
 溜息一つクルスの隣に座ると、イーシュは力なく微笑んだ。
「……ノアさんのこと、聞きたい?」
 予想外に飛び出した名前に、クルスは目を見開く。
「知って―――」
「アイオーンに聞いた。そしてすぐ探した―――結論から言うと、行方不明だ。もうエトリアにはいないよ」
 施薬院にあった荷物もそのままだったから、とイーシュは続ける。
「アイオーンと僕の見解は、あの凶行はたぶん、突発的に取った行動だったんだろうってところだ。あらかじめ逃走の準備をしていたようでもないし……君たち全員を殺して一人での生還を装うつもりだったならとにかく、そのつもりもなかったみたいだし」
 クルスの組んだ手が震えていた。それにイーシュも気づいて、慌てたように取り繕う。
「ごめん、クルス君の気持ちを考えてなかった。突然話を振って―――」
「どうして、ノアさんは」
 クルスは唾液を飲み込むと、続けた。
「どうしてレオンを刺したんでしょう。どうして皆を裏切るようなことをしたんでしょう。踏破した証拠の何かが目的なら、そんなことをしなくても、皆譲ってくれたはずなのに……」
「一つは、僕たちを信じられなかったから」
 クルスははっと顔を上げる。
 イーシュは苦い顔をしていた。
「―――もう一つは……」
 彼が見据えた先には、レオンの眠る一室がある。


「もういや……」
 シーツに顔を伏せて、アリルは泣きじゃくっていた。
 ノアの裏切り、レオンの負傷―――迷宮を踏破した喜びなんてどこにもなかった。何も知らない街の人たちの中には、祝杯を上げている人もいるようだけれど。
 姉のように慕っていたノアは、心の奥底ではアリルを裏切っていた。どうして、という思いだけがぐるぐると回る。そしてそれに追い討ちをかけるように、レオンは死の淵に立っている。
 いくらでも認めよう、アリルは彼が好きだ。ノアがアリルの恋を否定した理由が、彼を殺意の対象に選んだ理由と一致するのかは分からない。ノアの心の深層を知らなかったように、アリルはレオンのほんの側面しか知らない。それでも、その一面をアリルは好きになってしまった。
 その彼が今、生死の境目にいる。
 大好きだったものを二つ同時に失ってしまったら、自分がどうなるかアリルには想像がつかない。そんなこと、経験したことがないのだから。
 だがもうアリルに出来ることは何もない。ただ、彼のいく先を見守るだけだ。
「やだ……」
 神様、どうかいらっしゃるのなら。
 私の一生分の運を使い果たしてもいい。どうか、このひとを助けてください。


 アイオーンから事の顛末を聞き、宿の裏庭に飛び出したライは激怒していた。
「何だよ、それ……!」
 行き場のない憤りを、宿の壁にぶつける。
―――ノアが、自分たちを裏切ったということ。
 そのショックと共に、もう一つライがどうしても許せないことがある。
「そんなことするくらいなら、ノアさんじゃなくて、おれが、代わりに行っていれば……!」
 ありもしない“もしも”。
 突きつけられるのは何度も思い知った現実。
 それが出来ないくらい、自分はまだ弱いということだ。
「くっそおおおおおおお!」
 暗い裏庭でライはひとり、叫ぶ。
 もっと、強くなりたい―――
「何を叫んでるの、うっさいねえ」
 降ってきた声に、ライは弾かれたように顔を上げる。
 立っていたのは長い金髪をなびかせた美女―――ライの鞭の師である、ビクトリアだ。
 だがいつもとは違和感がある。それに気づき、ライはうめいた。
「師匠、そのカッコ……」
「うふ、戦闘服よ。いっつも言ってるでしょ、型を覚えるにはまず形からって」
 黒く染められた露出の多い服装に、ライは目を瞬かせる。ライが樹海に入るときのあの皮ジャンパーも、師匠に言われて着ているものなのだ。
 だが、師匠がその戦闘服を着ているところを見るのは初めてだ。
「樹海に……行くのか?」
「違うわよ、行ってきたの。帰り。……あんたンとこのリーダー、えっと……赤い髪の男前。彼のために薬の材料を採りにね……まあ、もう一度あとで出るんだけど。ひとまずの休憩ってところね」
 正確には、その採集人の護衛だ。頬に傷のある男前だったわよと言われて、ライはそれがブルームであることを直感する。
「そいつも、俺のギルドだよ!」
「あら? ……ギルド員がほとんど怪我したり忙しかったりで手が回らないから手伝ってあげてって、金鹿の女将さんに言われたんだけど……」
 そこでにやりと笑うと、ビクトリアはライの頭をぐりぐりと手で押した。
「さてはあんた、サボってたでしょ」
「違う……」
 違う。
 おれはそんなこと言われていない。
―――おれが弱いからだ。
 自覚すると急に、今度は悲しくなってきた。
「ちょっと」
 男の子が泣くんじゃないわよ、と師匠がうろたえる声がする。
 ライは自分が情けなかった。泣きたくないと念じても、涙はそのせいで止まらない。
 すぐ背後で、くしゃみをする音が聞こえた。
「ライ……」
 振り返ると、立っていたのはカリンナだ。おさげ髪を下ろして、珍しくワンピースを着ている。
 近づいてくる彼女に、ライはごしごしと目じりをこすった。
「これ……」
 彼女が差し出したのは一枚の紙だった。何か書いてある―――が、難しい字が多くて、ライには読めない。
 辟易していると、師匠がそれを引っ手繰った。
「“至急施薬院に来られたし、輸血するための血液が足りない。きみの血を分けてもらえないだろうか?”……だって」
「ど、どういうこと?」
「あんたのところのリーダーが血が足りなくて死にそうなんでしょ。たぶん血液型が同じなんでしょうね、あんたの血を分けてってさ」
 ぼんやりと、以前負傷したときに、血液型を調べる同意書を書かされたことを思い出す。そのときはノアに代筆してもらったのだが、それが字を教えてもらうきっかけになったのだ。
「ライ、どこにもいないから……ブルームさんもライを探して施薬院にきたけど、キタザキ先生が……つれていかないで、ほしいって」
 しどろもどろでカリンナが言葉をつむぐ。
 ライは目を見開いた。
 その背を、ばんと師匠が叩く。
「行ってきな」
「お、おれ」
「行け! あんたが必要とされてる証拠でしょうが!!」
 その言葉に、ライはカリンナの手を取ると、弾かれたように施薬院へ駆け出す。
 そうだ。
 弱っちくても。
 そんなおれにしか出来ないことは、あるんだ。


 頭が潰れそうに痛む。
 それを中和するように、額を冷たい感触が拭った。
 ぼんやりと定まらない視界、重い瞼。朦朧とする意識の中、彼は誰かが側にいることを、感覚だけで察知していた。
 敵意も害意も何もない。優しい気配だ。とても懐かしい。
 傭兵に身を窶す前、彼にまだ許されていた安らぎが、そこにはあった。
「ね……さ……」
 呼びかけようとしても、声は掠れて出なかった。しかし気配は彼の変化に気付いた様子で、そっと手を頬に当ててくる。
「気が……ついたのね、良かった……」
 彼女は優しく頬を撫でると、囁くように言った。
「ゆっくり休んで……もう、大丈夫よ」
 その言葉に疑いを持つはずもなく、レオンは意識の闇に身を委ねた。


 そして次に目覚めたとき、真っ先に浮かんだ言葉はこれだった。
「死に……損なって……やんの」
 頭は重いが、意識は覚醒している。上手く動かない口を動かしているうちに近づいてきた金色頭は、言葉の内容に見る見る渋面になっていった。
「その言葉、アリルの前では絶対に口にしないでください。今度言ったら殴りますよ」
「すまん……」
 素直に謝ったレオンに、クルスは鼻白んだようだったが、ふっと目元を緩めた。
「気分はいかがですか?」
「悪い」
「ははっ」
 クルスは笑った。その表情は感じるが、実のところ視界はぼやけていて、クルスの顔のパーツまではっきりと見えているわけではない。
「みんなは……?」
 クルスの気配が少し強張った。しかし、声はやさしく応じる。
「みなさん、もちろん無事です。宿と施薬院を往復してますよ。僕も同じです。いてもたってもいられなくて」
「アイオーン……あいつ、手、どした」
 酷い怪我だったはずだ。問うと、クルスはやや固い声になった。
「……指が、何本か。でも、義手を作るから大丈夫だとか……詳しいことは、あとでゆっくり訊いてください。貴方ほど重傷の人は少なくともいません」
「ノアは?」
 核心をついたとき、クルスは黙り込んだ。
 レオンは軽く咳き込みながら尋ねる。
「生きては、いるだろ……逃げ、切った、か?」
「行方不明です」
 短くそれだけ言うと、クルスはレオンから離れた。飲めますか、と近づいてきたのは水差しだ。大人しく口で受ける。
「峠は越えましたが、熱があるそうです……先生を呼んできますから、ちゃんと寝ていて下さいよ」
 言われなくても、さすがに身体は動かない。
 部屋から出て行く気配を見送ると、レオンの頭は再びまどろみ始める。
 暗い意識の底で考えるのは、やはり、ノアのことだ。
―――彼女が捕まらないでいてくれてよかった、とレオンは思っていた。
 あのとき、あの短剣を、避けようと思えば避けられたはずだ。だが身体は動かなかった。
 刺されてやっていい、そう、頭のどこかで思っていたのだろう。
 結果として自分は助かったが、他の三人にはかなりの迷惑をかけた。精神的なショックも大きいだろう。ノアが裏切ったという形にしてしまったという点では、彼女の殺意を知りながら隠していたレオンも同罪だ。

 もう、ここにいてはいけない、と。
 ノアの仇が自分だと知ったときに、俺はいなくなるべきだった。
 だがそうしなかったのは、甘えだ。

 もう少しここにいたいと思ってしまったのが、駄目だったんだ。


 熱が下がった途端、ギルドの面々は次々と顔を見せた。
 それでも一応絶対安静の状態のため、おのおのと会話ができたのは数分程度だった。その日の最後に現れたのは意外にもイーシュで、彼は苦笑いしながらベッド脇の小さな椅子に腰掛ける。
「反省してる?」
「あん?」
「僕らだって馬鹿じゃない。君が僕らを見ているように、僕らだって君をある程度分かってる。それをないがしろにしたって言ってるのさ。その結果が、これだ」
 イーシュが指すのはレオンの刺された腹だ。
 彼にしては辛辣な物言いに、レオンは力なく笑う。
「勘弁してくれ……こっちだって弱ってんだ」
「反省してるなら、僕もこれ以上言わないよ。……言っとくけどね、僕は心配してるんだ。君のことが大事なんだよ、だから―――」
 イーシュが言葉を切る。
 扉が、勢いよく開いたからだ。
 そこに立っていたのは息を弾ませたアリルと、キタザキだった。キタザキの方とは診察のたび顔を合わせているが、はっきり意識があるときにアリルと会うのはこれが初めてだろう。入れ替わりのように看病疲れで彼女もしばらく寝込んだからである。
 彼女は真っ直ぐベッドに近づいてくると、膝から崩れ落ちた。
「お、おい」
「良かった……」
 アリルの声は、すぐに涙に潤む。顔はシーツの上にあるため、見えないが。
「よかった、本当に……生きていて……くれて、助かって……!」
 糸が切れたように泣きじゃくるアリル。
 “助かった”という感覚は、レオンにはなかった。
―――だが、今彼女は、レオンのために泣いてくれている。
「あー、もう」
 もらい泣きのせいか、イーシュも涙声になっていた。
「―――心配したんだよー、もう!」
「あっはは」
「笑い事じゃないよ。もー、いっつも他人事みたいな顔でさ……!」
 笑うと腹の傷に響いて痛いのだが、その痛みが生きているという実感を生む。
 肩を震わせて泣きつづけるアリルの頭をぽんぽんと軽く叩き、レオンは笑っていた。

 二つ、分かった。
 甘えであるとしても、自分はこれを捨てることは、到底できなかったということ。
 そして、ノアにこれを捨てさせてしまったということ。
 そちらには、一抹の罪悪感が拭えなかった。


 ノアに刺されるような心当たりは当然訊かれたが、レオンは答えなかった。
 心当たりはあるが、詳細は言えないと。
 詭弁だ。刺される理由は十二分にあるが、それをギルドの面々に言いたくはなかった。
 だが、それを聞いたクルスとアイオーンは顔を見合わせ、笑った。
「……何だよ?」
「いえ……あまりに予想していたとおりだったので」
「君が理由を言うことはないだろうと思っていたんだ。心当たりはあるが詳細は言えないと答えるだろうと……全くそのとおりだった」
 レオンは乾いた笑みを浮かべる。
「それで、どうするんだよ?」
「どうもしないさ。君に答えるつもりがないなら、ノアに直接訊くしかないな」
 目を丸くするレオンに、クルスが応じる。
「実は以前、ノアさんはアイオーンさんに“ここよりずっと北方にある故郷に帰る”と言っていたらしいんです」
「それを手がかりに、足取りを追ってみようと思ってな」
「その話、俺以外にはもう、したのか?」
 そこで、アイオーンは渋面を作った。
「そのせいで今、ライとカリンナが行方不明だ」
「どういうことだ?」
「ライはずっと、ノアさんに対して怒っていたんです。裏切られた想いが強かったんでしょうね……仲間としても、冒険者としても」
「俺が手がかりを漏らした次の日には、置手紙を残して消えてしまっていた」
 アイオーンが差し出したのは、汚い字で書かれた手紙。ライはノアやクルスに教えてもらった字で、これを書いたのだろう。
 “見つけたら。れんらくする、”と書いてあるが、果たして信用できるのかどうか。
「つかコレ、カリンナは誘拐じゃねーのか」
「ヨハンスさんは、“ライくんが一緒なら安心ですね”と仰っていましたよ」
「いいのかそれで……」
 問題は、とアイオーンが溜息をついた。
「見事にギルドの財布をちょろまかしていってくれたことだ」
「げっ……それ、宿代とか治療費とか大丈夫なのか」
「大丈夫じゃありませんよ。地下二十五階に置き去りにしていた装備は回収して、どうせしばらく探索なんて出来ませんから売りましたけど、それでも全然赤字です」
「施薬院の支払いは、キタザキ先生のはからいで待ってもらっているが……」
 アイオーンは右手を掲げた。
 彼の右腕は、一部が義手となっていた。元々戦争をする道具よりこういう用途のものを作ったりする方が得意らしいので、義手の動作は問題ないらしいが、これを造るのにかかった費用の方が問題だ。
「借金まみれだ。早いところ、再就職先を探さなくてはな」
 エトリアの樹海は踏破された。
 噂によればさらなる深い階層が見つかっているらしいが、そちらは復帰したキディーズが、着々と探索を進めているらしい。
「どうすんだよ?」
 悪巧みをしている悪党の気分で、レオンはにやりと笑うと、ベッドの上であぐらをかいた。意識が戻ってまだ一月。普通ならまだ絶対に動けない状態だが、回復の早さだけは折り紙つきだ。もちろん、樹海探索は出来ないけれども。
 アイオーンはこほんと咳払いした。
「……それは、君の身体が完治してからだ」
「ってことは“次”のあてがあるんだな?」
「あ、僕は一度実家に戻りますので、途中合流でお願いします」
 挙手するクルスに、レオンは渋面を作る。
「まだ先の話だろ?」
「レオンが治り次第、ということですから。しばらくはライとカリンナの捜索を最優先に、最終目的はノアさんを探すこと。そして、貴方が動けるようになったら“次”です」
 クルスはにっこり微笑むと、続けた。
「いいですよね?」
「俺にゃ、ノアを探す動機はないんだが……」
「借金を返す必要はあるだろう。引き続き、俺たちと一緒に行動したほうがいいとは思わないか?」
「うっ……」
「アリルも乗り気ですしね」
「アリルがか?」
 彼女の性格やキタザキのことを考えると、エトリアを離れることになる旅には承知しなさそうだが。
 クルスはかぶりを振った。
「ノアさんに会って、直接確かめたいそうです。……彼女、吹っ切れると強いですね」
「女は皆そうさ」
 珍しく、アイオーンがそんなことを言う。
 彼も、確かめたいのだろう。ノアを止められなかったことを悔いていると言っていたから、それも含めて。
 レオンは頭をがしがしと掻くと、応じた。
「……分かったよ。お前らに従うさ」
「そうこなくては」
「では、俺はイーシュに捜索についての相談の続きをしてこよう」
「僕も執政院の情報室から世界地図を借りてきます」
 アイオーンが出て行って、それに続こうとしたクルスが、病室に残されるレオンを見た。
 挑戦的な目つきに、レオンはいぶかしむ。
「何だよ?」
「アリルのこと」
「? おう」
「負けませんからね」
「は?」
 クルスはそのまま行ってしまった。

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終章・後

 ノアは行ってしまった。
 ライとカリンナも、彼女を追っていってしまった。
 アリルは遠く、エトリアから“外”へと続く道を、見つめている。
 夕焼けに沈む草原に真っ直ぐ伸びた一本の道、その先には山々と、林のような森が広がっている。その先にさらに続くはずの道こそ、アリルが進むと決めた道だった。
 樹海探索がきりがいいところまで行ったら、アリルは元々、施薬院付属の医学院にすすむつもりだった。
 だが、その安寧を捨てると告げたときも、キタザキは何も言わなかった。
 彼には分かっていたのかもしれない。
 キタザキは、血こそ繋がっていなくても、アリルにとっては大切な父親であり、目指す目標でもある。
 冒険者でもあった彼の辿った道を、もう一度アリルは歩いていく。
 いや―――アリルはかぶりを振った。
 誰に決められたわけでもない。
 私は、自分で決めた道を進むのだ。
 赤く染まる世界は、まだ触れられない一枚の絵のようだけれども。



 ここで、エトリアでの彼らの冒険は終わる。
 エトリアの世界樹を真に踏破したのは彼らではなかったが、冒険者依存の街を大きく変えたという意味では、彼らの働きは冒険者として類を見ないものであっただろう。
 彼らがエトリアの樹海で発見した真実は、緩やかに住民の耳に浸透していった。それはほとんどが夢物語の域を出ない噂話であったが、中には真実めいたものも確かにあった。だが、所詮はまがい物、正しい“真実”を知るものはそう多くはない。
 執政院の情報室長―――いや、新たなる長は言った。“これからは長に代わり、私がこの街を守っていきます”と。
 エトリアの街を守る―――真実を伝え守る使命はきっと、彼と住民たちに任せられるだろう。
 だから、冒険者であるクッククローの旅は、続く。

 新たなる地、ハイ・ラガードへと―――。 





【エトリア編・終わり】